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江戸時代

2023年11月23日 (木)

激動の時代 幕末明治の絵師たち・・・狩野一信、歌川国芳、歌川芳艶、芳年、小林清規

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第350回
【徳川の階級社会、瓦解】天保の改革(1841天保12)、安政の大地震(1855安政2年)、開国(1858日米修好通商条約)、(1866)家茂没、徳川慶喜将軍となる【孝明天皇、毒殺】大政奉還(1867徳川慶喜1868鳥羽伏見の戦い)、江戸幕府瓦解、戊辰戦争(1868-69)、明治政府成立。嘉永6年(1853)の黒船来航以降、めまぐるしく時代は変化した。慶応4年(1868)江戸が東京と改称され、年号は明治に改元。廃仏毀釈。1869。
明治維新は、薩長テロリスト下級武士による権力の簒奪であり、正義はない。
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狩野一信(1816~63)は、伝統的な仏画の画題に洋風の陰影法を用いて、強烈な迫力をもつ極彩色の「五百羅漢図」(大本山増上寺)を制作。47歳で没。
歌川国芳(1797~1861)【歌川国芳、夢と冒険とロマンの世界】物語の夢と冒険とロマンの世界。江戸、神田の染物屋、柳屋吉右衛門の子として生まれる。幼少期から絵を学び、12歳の時に描いた絵が幕末の浮世絵界で隆盛を誇る歌川派の初代、歌川豊国の目にとまり15歳で歌川派に入門。武者絵を展開、夢と冒険とロマンの世界を構築。「源為朝弓勢之図」「水滸伝」。63歳で没。
歌川国芳「相馬の古内裏」江戸時代/弘化2-3年(1845-46)、大判錦絵3枚続
《相馬の古内裏》。平将門の乱の後日談で、将門の遺児・滝夜叉姫(たきやしゃひめ)と、藤原道長に仕えた源頼信の家臣・大宅太郎光国(おおやのたろうみつくに)が対決するシーン。
歌川国芳「宮本武蔵の鯨退治」江戸時代/弘化4年(1847)、大判錦絵3枚続
歌川国芳「讃岐院眷属をして為朝を救ふ図」 1851
血みどろ絵【歌川国芳の門下、血みどろ絵、歌川芳艶、歌川芳年、落合芳幾】
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【天狗になる人】地位に溺れる、カネに溺れる、一時的な名声に溺れる芸術家、権力の奴隷、カネの亡者【金持ちが天国に行くのは駱駝が針の穴を通るより難しい。マタイによる福音書19:23-30】【奢れる者久しからず】【自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる。マタイによる福音書23章12節】
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【神の代理人、虎の威を借る狐、権威を装う詐欺師】教会の権威復活のために十字軍結成に心血を注いだ知識人法王ピオ2世。過激な改革を説き、民衆の熱狂的な支持を集めるサヴォナローラと対峙したアレッサンドロ6世。教会領再復のため、自ら軍隊を組織し陣頭に立ったジュリオ2世。芸術と豪奢を愛し、法王庁の資産を食いつぶしたメディチ家出身のレオーネ10世。ナチスのユダヤ人虐殺を黙認したローマ教皇ピウス12世。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
狩野一信「五百羅漢図 第二十一・二十二幅」、嘉永7~文久3年(1854~63)、大本山増上寺
狩野一信「五百羅漢図 第四十五・四十六幅、嘉永7~文久3年(1854~63)、大本山増上寺
河鍋暁斎「龍虎図屏風」2曲1隻、明治12-22,1879∸89
小林清親「隅田川夜」明治14、1881
服部雪斎「花鳥」1871、東京国立博物館、
歌川国芳「相馬の古内裏」江戸時代/弘化2-3年(1845-46)、大判錦絵3枚続
《相馬の古内裏》。平将門の乱の後日談で、将門の遺児・滝夜叉姫(たきやしゃひめ)と、藤原道長に仕えた源頼信の家臣・大宅太郎光国(おおやのたろうみつくに)が対決するシーン。
歌川国芳「宮本武蔵の鯨退治」江戸時代/弘化4年(1847)、大判錦絵3枚続
歌川国芳「讃岐院眷属をして為朝を救ふ図」 1851
歌川芳艶「両賊深山妖術競之図」、大判錦絵三枚続 万延元年(1860)、千葉市美術館
歌川芳艶「鳥獣合戦」版下絵、19世紀、奈良県立美術館
落合芳幾、仁木直則、本作は血みどろ絵の代表的なシリーズで、生々しい血のりのを表現するため、膠を用いて光沢を出したものも。本図は歌舞伎「伊達競阿国戯場」などに登場する極悪人・仁木直則を描いており、直則の刀や着物の血が鮮烈。
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「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
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「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」東京都美術館・・・世に背を向け道を探求する、孤高の藝術家
芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル・・・世紀末の浮世絵、歌川国芳、落合芳幾、月岡芳年、残虐の世界
大江戸の華、江戸東京博物館・・・老獪な策士、徳川家康。緻密な戦略、徳川慶喜
激動の時代 幕末明治の絵師たち・・・狩野一信、歌川国芳、歌川芳艶、芳年、小林清規
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-8f11b0.html
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第1章 幕末の江戸画壇
19世紀の江戸では、浮世絵をはじめ、狩野派や南蘋派、文人画など多彩な作品が生まれ、まさに百花繚乱の様相。
江戸時代に画壇の覇者として君臨していた狩野派では、単に伝統を墨守するだけではなく、やまと絵や浮世絵、琳派、西洋画法なども取り入れています。その門下からは従来の狩野派とは異なる独創的な作品を描く絵師も現れました。四条派や土佐派などを学んだ後に狩野派へ入門したとされる狩野一信(1816~63)は、伝統的な仏画の画題に洋風の陰影法を用いて、強烈な迫力をもつ極彩色の「五百羅漢図」(大本山増上寺)を制作しています。
また、多種多様な絵画を学び江戸画壇に大きな影響力をもった谷文晁(1763~1840)の一門からは、流派にとらわれず新たな表現へ挑戦した絵師が輩出されました。文晁一門の系譜は明治以降も続き、その表現は近代日本画へも受け継がれています。
19世紀の江戸において二大流派であった狩野派と文晁一門を中心に、数多くの絵師たちが腕を競った幕末の江戸画壇の一端を紹介。
第2章 幕末の洋風画
江戸時代中期には蘭学が盛んになり、司馬江漢(1747~1818)や亜欧堂田善(1748~1822)によって西洋画法を取り入れた洋風画が描かれています。江戸時代後半には、舶載の銅版画や洋書が多く流入し、陰影法や遠近法を用いた様々な洋風画が制作されました。
その後、幕末の江戸で活躍した洋風画家が安田雷洲(?~1859)です。はじめ葛飾北斎(1760~1849)に学んだ雷洲は、緻密な銅版画を得意とし、独特の洋風表現をもつ肉筆画を描きました。
第3章 幕末浮世絵の世界
役者絵や美人画が中心であった浮世絵は、19世紀になると新たなジャンルが発展します。葛飾北斎や歌川広重(1797~1858)の登場により名所絵や花鳥画が流行し、人気を博しました。幕末には武者絵で名をあげた歌川国芳(1797~1861)が、風刺のきいた戯画や、三枚続を活かした斬新な構図などで新機軸を打ち出しています。北斎、広重、国芳といった巨匠からは多くの弟子が輩出され、特に歌川派は幕末浮世絵界の一大勢力となりました。
また、ジャーナリスティックに同時代の世相を写し出す浮世絵は、黒船来航や横浜開港といった幕末の時事的な画題も取り上げています。横浜浮世絵と呼ばれる、開港した横浜の西洋風俗などを主題にした作品が、歌川派の絵師によって多数描かれました。
本章では、歌川国芳や歌川派の絵師たちに注目し、幕末の浮世絵の豊饒な世界を紹介します。
第4章 激動期の絵師
この社会的な転換を区切りとして、かつては明治元年以前と以後の美術を切り離して語ることが通例でしたが、近年では江戸と明治の連続性に重点を置くようになり、幕末明治期の絵師たちの再評価が進んでいます。
本章では、近代歴史画の祖・菊池容斎(1788~1878)や、血みどろ絵で知られる月岡芳年(1839~92)、あらゆる画題に挑み画鬼と称された河鍋暁斎(1831~89)、光線画で一世を風靡した小林清親(1847~1915)といった、江戸の地に生き、東京で活躍した絵師たちを取り上げ、江戸絵画の伝統を引き継ぎながら、新時代の感覚をあわせ持った作品を特集します。
また、文明開化の波が押し寄せ、近代日本の中心となった東京を描いた開化錦絵を展観します。
プレスリリースより
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激動の時代 幕末明治の絵師たち・・・狩野一信、歌川国芳、歌川芳艶、芳年、小林清規
サントリー美術館、2023年10月11日(水)~12月3日(日)

2021年7月15日 (木)

大江戸の華・・・老獪な策士、徳川家康。緻密な戦略、徳川慶喜

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第248回
老獪な策士、徳川家康、薬草を集め長寿を求めた。家康は、織田信長、明智光秀、細川藤孝、豊臣秀吉、戦国武将と競争、詐欺手法を駆使、生き残り戦略、関ヶ原の戦いで豊臣秀頼を破り、1603年征夷大将軍に任命される。72歳で死す。1867年15代将軍、徳川慶喜まで、江戸幕府は260年間。

関ヶ原の戦い(1600年9月15日)で石田三成を破る。1614年二条城にて70歳の家康は19歳の秀頼と会見、豊臣滅亡を思い立つ。豊臣秀頼を、大阪冬の陣(1614年10月1日)で大阪城外堀内堀を埋め、夏の陣(1615年5月5-7日) 豊臣秀頼軍を破り、豊臣家滅亡、大阪城炎上。1615年、家康72歳で死す。
【人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし】急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。徳川家康の遺訓
心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。
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王家への婚礼行列、
皇女、和宮、将軍家への婚礼行列
慶喜に、白羽の矢を立てられた和宮は、当初強くこれを拒んだが、兄・孝明天皇の強い意向によってついに将軍徳川家茂への降嫁を承諾した。文久元年(1861年)10月20日、16歳の花嫁・内親王和宮の行列が京の都を出発。江戸に向かう和宮様の豪華で50㎞とてつもない長さの花嫁行列。享年32。明治10(1877)。
【マリー・アントワネット、フランス王家への婚礼行列、ドナウ河、泣きながら嫁ぐ】14歳でフランスへ嫁いだアントワネット、婚礼の旅、ドナウ河を航行、宿泊したドナウ川のヴァッハウ渓谷ほとりに聳えるメルク修道院にて観劇。国境の街ストラスブールで、花嫁引き渡しの奇妙な儀式、フランスの衣装に着替え、1770年5月16日ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂で執り行われたフランス王太子とオーストリア皇女マリー・アントワネットの結婚。ウィーンの母マリア・テレジアは、遊び呆ける娘のアントワネットを厳しく叱り続けていた。のびのび育った故郷ウィーンの宮殿とは大違い、起床から就寝まで衆目にさらされ、夫婦のベッドインも貴族に見られるという奇習。敷地内の小さな離宮プチトリアノンを自分好みに作り替える。莫大な国費を使って、最高の職人による家具を揃え、当時最先端の動く壁まで。この浪費を知ったウィーンの母マリア・テレジアは手紙で厳しく娘を叱り「あなたはこの上ない不幸に陥る」と予言。
【カトリーヌ・ド・メディチ、フランス王家への政略結婚】
メディチ家出身のカトリーヌとフランス王族との結婚は不釣り合いと見られた。反対意見もあったが、フランソワ1世はイタリア対策を重視してこれを押し切った。1533年10月28日、フランス王の第二子、アンリ2世と結婚。2人は共に14歳。カトリーヌは莫大な持参金と千人の従者を従え、イタリアから嫁いできた。夫の寵姫ディアーヌ・ド・ポワティエに悩まされた。
【カトリーヌ・ド・メディチ、フランソワ1世、波乱の人生】
1533年、ローマ教皇クレメンス7世とフランス王フランソワ1世の間で縁組交渉がまとまり、フランスの第2王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後のアンリ2世)と結婚する。10人の子を産むが、アンリ2世の寵愛は愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエに独占された。1559年に馬上槍試合での事故でアンリ2世が死去し、長男フランソワ2世の短い治世の後に幼いシャルル9世が即位すると摂政として政治を担う。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【徳川慶喜、名君か暗君か、緻密な戦略】幕府第15代将軍の徳川慶喜、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、聡明さから、みなの期待を一身に背負って育った。将軍になどなりたくなかった慶喜。第二次長州征伐で、幕府は長州藩に敗北、家茂は病死第15代将軍職を引き受けた慶喜は、最大の後ろ盾だった孝明天皇を亡くすが、4カ国の公使を相手に外交手腕を見せて開国へと舵を切る。
【徳川慶喜、名君か暗君か、大政奉還、緻密な戦略】慶喜が二条城の二の丸御殿に、老中などを集めて政権返還について演説した、慶応3(1867)年10月12日。翌13日に在京諸藩の重臣に通告し、さらにその翌日、14日、慶喜は大政奉還の上表文を朝廷に提出。その翌日の15日に受理される。薩摩長州に先手を打つ。
【偽勅】慶喜が大政奉還の上表文を朝廷に提出した10月14日に、薩摩藩の大久保利通と長州藩の広沢兵助らは、公卿の正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)から、徳川慶喜追討の詔書を授る。これは岩倉具視の策略、朝議も経ていなければ、天皇も認めていない偽勅、それを承知のうえで、薩摩と長州は受け取った。
【薩摩藩の小松帯刀】慶喜は「小松はこの間の消息に通ぜるをもって、ただ今直ちに奉還を奏聞せよと勧めたるものなるべし」と、内戦を避けたいと考えた薩摩藩の小松帯刀から、密かにリークがあった。
【王政復古】慶応3年12月9日、大久保と西郷らが中心となり、薩摩・土佐・尾張・越前・安芸の5藩が協力して、「王政復古の大号令」と呼ばれるクーデタが決行される。5藩の兵が御所を軍事的に制圧。天皇の名前で幕府と摂政関白を廃止し、新政府の発足を高らかに宣言。
【徳川幕府崩壊】徳川軍と新政府軍は、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月3日)で、激突。将軍慶喜、離脱。戊辰戦争(1868年―1869年)へ
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
色々威し丸胴具足、徳川家康が用意、秀忠がイギリス王ジョージ1世に贈った。
 イギリス王立武具博物館、ロンドン塔ホワイトタワーDiplomatic Gift
徳川慶喜、白羅紗葵紋付陣羽織、江戸時代末期
徳川慶喜、黒塗り銀立湧紗葵紋付散し陣笠、江戸時代末期、江戸東京博物館所蔵
「楽宮さざのみや 下向絵巻」(部分)青木正忠/画 文化元年(1804)
梨子地葵紋付散松菱梅花唐草文様蒔絵女乗り物、元禄11年1898、江戸東京博物館所蔵
 徳川家が関わる乗物には源氏物語が描かれ、それ以外は花鳥画。
銀小札変わり袖白糸威し丸胴具足、江戸時代、江戸東京博物館所蔵
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参考文献
大江戸の華・・・老獪な策士、徳川家康。緻密な戦略、徳川慶喜
https://bit.ly/3xCUAQ9
特別展「江戸の街道をゆく~将軍と姫君の旅路~」
2019年04月27日(土)~06月16日(日)
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/past/
千代田の大奥 御遊山」楊洲周延/画 明治27~29年(1894~1896) 東京都江戸東京博物館蔵. 江戸時代、幕府によって整備され、多くの往来で活気にあふれていた街道。なかでも、将軍や姫君たちの行列は目を見張る華やかさ

徳川将軍家の婚礼 - 江戸東京博物館
2017年01月02日(月)~02月19日(日)
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/past/
徳川将軍家の婚礼は、姫君が嫁ぎ先へ豪華な婚礼道具や衣裳を携え、行列を整えて入輿しました。将軍家の正室(御台所)は、3代家光以降、宮家や五摂家から迎えるのが慣例で、京都から江戸に行列を組み婚礼道具を携え、化粧道具は毎日の身嗜みのほか、女性の通過儀礼などに用いられ、大切な役割を果たしました。

大政奉還は緻密な戦略だった!倒幕に動く薩長が手を焼いた「徳川慶喜」
https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/20210620-00434971-toyo-column2021/06/20
徳川慶喜は二条城で重臣たちに大政奉還を告げた(写真:近現代PL/アフロ). 「名君」か「暗 ... 慶喜が二条城の二の丸御殿に、老中などを集めて政権返還 について演説したのは、慶応3(1867)年10月12日。翌13日に在京諸藩
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「大江戸の華―武家の儀礼と商家の祭―」江戸東京博物館、7月10日~9月20日
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/#anc01