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現代美術

2023年3月 3日 (金)

マリー・ローランサンとモード・・・ココ・シャネル、1920狂乱のパリ、カール・ラガーフェルド


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第316回
事業家として成功する藝術家、ファッション・デザイナー。事業家、欲望を管理するデザイナー。成功の秘訣は何か。
【マリー・ローランサン、パブロ・ピカソの紹介で詩人ギヨーム・アポリネールと出会い恋人となる(1907年~1912年)。集合アトリエ洗濯船に出入りする。キュビスムとアンリ・ルソーに傾倒する。『ギヨーム・アポリネールと友人たち』。1914年にドイツ人男爵と結婚、ドイツ国籍、第一次世界大戦がはじまるとフランス国外への亡命、パリに戻ってくる、1921年の個展で成功を収め、1956年73歳で死す。
【19世紀末】アール・ヌーヴォー、エミール・ガレとドーム兄弟1889~1900年。1892年、ヴォーグ創刊、アメリカ。1883年、ガブリエル・シャネル、生まれる。
【20世紀】第1次大戦(1914年7月~1918年11月)、1918年スペイン風邪感染爆発(1918年(大正7年)~1920年)、1925年アールデコ博覧会、1929年世界大恐慌。1930年代、ファシズム抬頭。スペイン風邪死亡者数は、世界全体で2,000万人から4,500万人
【ココ・シャネル、帽子デザイナー】1909年にパリのマルゼルブ大通り160番地で帽子を売り始め、過剰な装飾を取り払ったデザインで評判を呼びました。1910年にパリのカンポン通り21番地に「シャネル・モード」を開店。1920年代、ココ・シャネルのリトル・ブラック・ドレス。1921年、シャネルNo5、発売。1926年、シャネル「リトル・ブラック・ドレス」。1971年88歳で死す。
【事業家、シャネル、マリー・ローランサン】事業家として成功。画家、流行を作る。成功するファッション・デザイナー。成功の秘訣は何か。
【群れない人】自分が何を欲しいかが分かっている。他人にどう思われようが気にしない。他人にない強みを持っている。世間に流されない。自分の価値観と同じ人とだけつき合う。心を許す人とだけつき合う。レヴェル高い友人が何人いるか。事実、事例は言葉より強い。【自走できるチーム】モチベーション、やりたい意欲。ルーティン、仕事の習慣。業務の流れ。能力。ツール。方法論をもって問題解決。【烏合の衆】群れる。付和雷同。価値なし。世間に流される。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
マリー・ローランサン「ニコル・グルーと二人の娘」1922
マリー・ローランサン「わたしの肖像」1924
マリー・ローランサン「マドモアゼル・シャネルの肖像」1923
マン・レイ「ココ・シャネル」1955
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参考文献
「マリー・ローランサンとモード」図録2023
ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道、国立新美術館・・・装飾に覆われた運命の女、黄金様式と象徴派
「クリムト展 ウィーンと日本 1900」・・・黄金の甲冑で武装した騎士、詩の女神に出会う、純粋な愛と理想
マリー・ローランサンとモード・・・ココ・シャネル、狂乱のパリ1920、カール・ラガーフェルド
https://bit.ly/3YirToj
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ココ・シャネル(Coco Chanel)(1883年~1971)とフランスの画家 マリー・ローランサン(Marie Laurencin)(1883年~1956)
二人に焦点を当てた展覧会。作品を通して女性的な美を追求したローランサンと、男性服の素材やスポーツウェアを女性服に取り入れたシャネルの2人にフォーカス。美術とファッションの垣根を超えて活動した両氏と、ファッション・デザイナーのポール・ポワレ(Paul Poiret)やマドレーヌ・ヴィオネ(Madeleine Vionnet)、芸術家のジャン・コクトー(Jean Cocteau)、画家のマン・レイ(Man Ray)といった人々との関係に触れながら、モダンとクラシックが融合した20世紀前半のパリの芸術を振り返る。
ともに1883年に生まれ、生誕140年を迎える両氏の展覧会として、パリのオランジュリー美術館や、長野県蓼科高原や東京のホテルニューオータニ内に構えていたマリー・ローランサン美術館などの国内外のコレクションから約90点の作品をラインナップする。
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モダンガールの変遷
1920年代、新しい女性たち、“モダンガール”が登場します。第一次世界大戦を契機とした女性の社会進出、都市に花開いた大衆文化、消費文化を背景に、短髪のヘアスタイル、ストレートなシルエットのドレスをまとった女性が街を闊歩しました。彼女たちは欧米各国に出没し、アジアまでも波及し世界的な現象となります。 こうした身体の解放や服飾の簡素化は、すでに世紀末やアール・ヌーヴォーの時代から進行していました。特に1910年代にはポール・ポワレが、コルセットから解放されたエキゾチックなスタイルを提案し、賛否両論を巻き起こします。やがて1920年代に入ると、ポワレの優雅なドレスよりもより活動的、実用的な服装が打ち出され、中でもココ・シャネルのリトル・ブラック・ドレスは時代を代表するスタイルに。さらにマドレーヌ・ヴィオネがバイアスカットを駆使したドレスで注目されるなど、他のデザイナーたちも競ってモダン・ファッションに取り組み、女性服を大きく変革しました。
世界恐慌やファシズム台頭による不安な情勢から、1930年代には復古調のロングドレスや装飾が復活します。パリ・モード界でも、シュルレアリスムに影響された装飾デザインのエルザ・スキャパレッリが時代の寵児となり、ファッション雑誌はマン・レイなど気鋭の写真家を起用して斬新な表現や躍動感ある女性像を提示しました。モダンガールもまた時代の息吹を吸って、どんどん変化していったのです。
1910年代
ポワレのファッション
ポール・ポワレは1906年に発表したハイ・ウェストのドレスによってコルセットから女性を解放したことでモードの改革者と位置づけられます。ヘレニズム(古代ギリシャ)、オリエント(中近東、日本、中国など)から影響を受けたエキゾチックな彼のファッションは、版画技法を駆使したポショワール画※が見事に表現しています。こうした革新的な手法によるイメージ戦略も相まって、ポワレは瞬く間にパリのモード界を席巻しました。
1910-1920年代
帽子ファッションの流行
ココ・シャネルは帽子デザイナーとしてそのキャリアをスタートしました。1909年にパリのマルゼルブ大通り160番地で帽子を売り始め、過剰な装飾を取り払ったデザインで評判を呼びました。続いて1910年にパリのカンポン通り21番地に「シャネル・モード」を開店すると、ホテル・リッツの裕福な客層がシャネルの帽子店を訪れるようになります。ローランサンの絵画に描かれているように、帽子は重要なファッションアイテムでした。
1920年代
モダンガールの登場
「ポワレが去り、シャネルが来る」、これはジャン・コクトーの言葉です。複雑で東洋的、演劇的な要素の多いポワレのドレスよりも、人々は短いドレスを夢見るようになります。1926年、アメリカのファッション雑誌ヴォーグで発表されたシャネル「リトル・ブラック・ドレス」はまさに新しい時代の到来を告げるものでした。ユニフォームのようなニュートラルなドレスに、ジュエリー、スカーフなど、それぞれの女性が好きなように装飾を与えることができる、まさに「新しいエレガンスの方程式」を打ち出したのです。
1930年代フェミニンへの回帰
1930年になると、復古調のロングドレスや装飾が復活します。シンプルなファッションよりも女性らしさが求められ、スカート丈は長く、女性的な曲線が好まれ、花柄などのモチーフも多く見られるようになります。ファッションの動向に呼応するように、1920年代末頃からローランサンの作品には、鮮やかな色彩が見られ、真珠や花のモチーフが多用されるように。30年代にはそれまであまり用いられなかった黄色や赤に挑戦し、色彩の幅を一層広げていきました。
https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/23_laurencin/commentary.html
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「マリー・ローランサンとモード」、Bunkamura ザ・ミュージアム、2月14日から4月9日

2023年2月19日 (日)

諏訪敦「眼窩裏の火事」・・・亡き人の魂の召喚、生と死の狭間の対話

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諏訪敦「眼窩裏の火事」・・・亡き人の魂の召喚、生と死の狭間の対話
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第315回
諏訪敦氏と名刺交換したのは、2010年1月、佐藤美術館である。新進気鋭の写実画家として活躍していた。その時は、今のような方向に展開するとは想像できなかった。生と死の狭間を生きる、亡き人の召喚、亡き人の記憶を写実絵画に描く。写実絵画は、リアリズムの絵画だが、それを超える試みである。宮澤賢治、プラトン哲学、空海の密教のような試みである。
亡き人の魂の召喚 亡き人の魂との対話
宮澤賢治『銀河鉄道の夜』『雁の童子』『インドラの網』は亡き人の魂の物語、亡き人の魂の召喚である。プラトン『パイドン』『饗宴』『国家』『パイドロス』は、亡き人の魂との対話である。プラトン哲学は生と死を超える知恵の探求であり、密教真言はこの世を超える法身、魔訶毘盧遮那仏への祈りである。
――
旅する哲学者、美への旅。海を超え、砂漠を越えて、美しい人と歩く黄昏の地中海。この世の最も美しいものは何か。
在りし日の己を愛するために思い出は美しくある。遠い過去よりまだ見ぬ人生は夢を実現するためにある。運命の扉を開けるのはあなた。鍵は手のひらの上にある。
黄昏の密教寺院、大日如来、愛染明王、密教真言を唱える。
美しい夕暮れ。美しい魂に、幸運の女神が舞い降りる。美しい守護精霊が天人を救う。美しい魂は、輝く天の仕事を成し遂げる。
運命の美女が現れる。諦めずに鍛えてきたことが、次の舞台へ、運命の扉を開く。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
1,
『father』1996年は、父が死にゆく病院の姿である。父の脳裏には戦争末期、異国に残してきた祖母の姿が生きている。
『HARBIN1945WINTER』1995-96年は、父がハルビンに50年前残してきた、雪原に祖母が朽ち果てていく姿である。
『依代』2016-17年は、朽ち果てた祖母のありし日の蘇った姿である。
亡き人の召喚 亡き人の記憶を体験する
緻密な描写は写真と見紛うほど精細、生と死の狭間を行き交うイメージ、精緻に描き出された美しい女性や老齢の男女たち、この世ならぬ現実離れした印象である。
諏訪敦氏は、日本の写実絵画界の第一人者とされる画家である。写実絵画は、いかに描く対象に従順、忠実に写し出すかが使命である。諏訪敦氏が取り組んできたのは「写実性からの脱却」。絵画を制作するうえでの認識の質を追求し、写実主義の限界を越える取り組みを続けている。「基本的に美術は視覚がつかさどり、絵画は特に視覚に偏重したメディアです。ですが、誰が観ても同じと思われているものは、果たして本当に同じでしょうか?」。
2、
「眼窩裏(がんかうら)の火事」2020
18世紀に作られたワイングラスと、現代に作られたグラスとを描き分けたこの絵画には白濁した閃光が描かれている。画家が長年悩まされてきた、閃輝暗点(せんきあんてん)の症状を絵画に取り込んで描いたもの。実際には存在しない光だが、作者には見える現実が描かれている。
3、
「Mimesis」2022 亡き舞踏家の召喚 
舞踏家大野一雄は2010年に亡くなるが、パフォーマー川口隆夫の協力を得て、亡き舞踏家の召喚を試みる。
満州で病死した祖母をはじめとする家族の歴史を描いた第1章『棄民』、第2章『静物画について』、第3章『わたしたちはふたたびであう』で描かれた舞踏家・大野一雄氏の作品群のプロジェクトは、膨大な調査を要する取材過程を経て、写実絵画として制作されている。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
諏訪敦『HARBIN1945WINTER』1995-96年、広島市現代美術館蔵
『目の中の火事』2020年 白亜地パネルに油彩 27.3 × 45.5cm、東屋蔵
『Mimesis』2022年 キャンバス、パネルに油彩 259.0×162.0cm、作家蔵
『Solalis』2017年、作家蔵
『大野一雄立像』 1999 / 2022年 綿布、パネルに油彩 145.5×112cm、作家蔵
《大野一雄》2007。1200 × 1939 mm。Oil on Canvas、作家蔵
『father』1996年 パネルに油彩、テンペラ 122.6×200.0cm、佐藤美術館寄託
『依代』2016-17年 紙、パネルにミクストメディア 86.1×195.8cm、個人蔵
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参考文献
諏訪敦「眼窩裏の火事」、府中市美術館HP
「諏訪敦、複眼リアリスト」佐藤美術館 2008
『諏訪敦作品集 Blue』2017
「芸術新潮」2023年2月号100年前のパンデミックで逝ったあの男が、いま甦る!エゴン・シーレ特集
諏訪敦さん「『画家の眼』で認識を問い直す」:KKH-BRIDGE.com-KKH-BRIDGE 文化の枠を越えるメディア
諏訪敦「眼窩裏の火事」・・・亡き人の魂の召喚、生と死の狭間の対話
https://bit.ly/3I6MRjM
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諏訪敦「眼窩裏の火事」、府中市美術館
《依代》2016-17年 紙、パネルにミクストメディア 86.1×195.8cm 個人蔵
緻密で再現性の高い画風で知られる諏訪敦は、しばしば写実絵画のトップランナーと目されてきました。
しかしその作品を紐解いていくと彼は、「実在する対象を、目に映るとおりに写す」という膠着した写実のジャンル性から脱却し、認識の質を問い直す意欲的な取り組みをしていることが解ります。
諏訪は、亡き人の肖像や過去の歴史的な出来事など、不在の対象を描いた経験値が高い画家です。丹念な調査の実践と過剰ともいえる取材量が特徴で、画家としては珍しい制作スタイルといえるでしょう。彼は眼では捉えきれない題材に肉薄し、新たな視覚像として提示しています。
今回の展覧会では、終戦直後の満州で病死した祖母をテーマにしたプロジェクト《棄民》、コロナ禍のなかで取り組んだ静物画の探究、そして絵画制作を通した像主との関係の永続性を示す作品群を紹介します。
それらの作品からは、「視ること、そして現すこと」を問い続け、絵画制作における認識の意味を拡張しようとする画家の姿が立ち上がってきます。
展示構成
第1章 棄民
死を悟った父が残した手記を手がかりに、幾人もの協力者を得ながら現地取材にのぞみ、諏訪はかつて明かされてこなかった家族の歴史を知り、絵画化していきます。
敗戦直後、旧満州の日本人難民収容所で母と弟を失った、少年時代の父が見たものとは。
《father》1996年 パネルに油彩、テンペラ 122.6×200.0cm 佐藤美術館寄託
《HARBIN 1945 WINTER》 2015-16年 キャンバス、パネルに油彩 145.5×227.3cm 広島市現代美術館蔵
第2章 静物画について
《不在》2015年 キャンバス、パネルに油彩 32.5×45.3cm 個人蔵
《まるさんかくしかく》2020-22年 キャンバスに油彩 50.0×72.7cm 作家蔵
コロナ禍のさなか諏訪は、猿山修と森岡督行の3人で「藝術探検隊(仮)」というユニットを結成し、『芸術新潮』(2020年6月~8月号)誌上で静物画をテーマにした集中連載に取り組みました。静物画にまつわる歴史を遡行し制作された作品の数々。そこには、写実絵画の歴史を俯瞰した考察が込められています。
第3章 わたしたちはふたたびであう
《Solaris》 2017-21年 白亜地パネルに油彩 91.0×60.7cm 作家蔵
人間を描くとは如何なることか?絵画にできることは何か?
途切れることのない肖像画の依頼、着手を待つ制作途中の作品たち。ときには像主を死によって失うなど、忘れがたい人たちとの協働を繰り返してきた諏訪がたどり着いたのは「描き続ける限り、その人が立ち去ることはない」という確信にも似た感覚でした。
1999年から描き続けていた舞踏家・大野一雄は2010年に亡くなってしまいます。しかし、諏訪はさらに、気鋭のパフォーマー・川口隆夫の協力を得て亡き舞踏家の召喚を試み、異なる時間軸を生きた対象を写し描くことの意味を再検討します。
《Mimesis》2022年 キャンバス、パネルに油彩 259.0×162.0cm 作家蔵
展覧会タイトル「眼窩裏の火事」について
《目の中の火事》2020年 白亜地パネルに油彩 27.3×45.5cm 東屋蔵
ときに視野の中心が溶解する現象や、辺縁で脈打つ強烈な光に悩まされることが諏訪にはある。それは閃輝暗点という脳の血流に関係する症状で、一般的には光輪やギザギザした光り輝く歯車のようなものが視野にあらわれるという。したがってここに描かれているガラス器を歪め覆う靄のような光は現実には存在しない。しかしそれは画家が体験したビジョンに他ならない。
諏訪敦(すわあつし)画家
1967年北海道生まれ。
1994年に文化庁派遣芸術家在外研修員としてスペイン・マドリードに滞在。帰国後、舞踏家の大野一雄・慶人親子を描いたシリーズ作品を制作。制作にあたり、緻密なリサーチを行った上で対象を描くスタイルで、祖父母一家の満州引き揚げの足跡を辿った《棄民》シリーズなどを展開している。成山画廊、Kwai Fung Hin Art Gallery(香港)など、内外で発表を続けている。
2011年NHK『日曜美術館 記憶に辿り着く絵画〜亡き人を描く画家〜』で単独特集、2016年NHKETV特集『忘れられた人々の肖像〜画家・諏訪敦“満州難民”を描く〜』が放送された。2018年 武蔵野美術大学造形学部油絵学科教授に就任。画集に『どうせなにもみえない』『Blue』など。
(2020年11月16日大野一雄舞踏研究所にて川口隆夫を描く諏訪敦 撮影:野村佐紀子)
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諏訪敦「眼窩裏の火事」、府中市美術館、12月17日(土)〜2月26日(日)

2022年12月18日 (日)

祈り・藤原新也・・・旅の始まりには、いつも犬の遠吠えが聞こえる


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Fujiwara-inori-1-2022
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大久保正雄『旅する哲学者、美への旅』第303回
秋の夕暮れ、紅葉の森を歩いて美術館に取材に行く。『地中海紀行 旅する哲学者 美への旅』の旅を思い出す。藤原新也の記者発表を聞く。
藤原新也78歳。50年の旅。メメント・モリ、メメント・ヴィータ、壮大な旅。
旅の始まりには、いつも犬の遠吠えが聞こえる。イスタンブール
「太陽があれば国家は不要。死体の灰には階級制度がない。ひとはみなあまねく照らされている。」「死人と女には花が似合います。この世はあの世である。天国がある。地獄がある。」笑って死ぬのは最高の生き方だ。「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。歩みつづけると、女は子供を孕むことがあります。歩みつづけると、男は自分の名前を忘れることがあります。極楽とは、苦と苦の間に一瞬垣間見えるもの。」
藤原新也の言葉には宗教書の響きがある。16歳まで門司、裕福な旅館の少年。ある日、破産、急に貧乏になった。1969年24歳、大学を中退、インド放浪。50年の壮大な旅。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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母の愛犬、トイプードル、朝夕、吠えた。愛犬、病気になって咳をした。愛犬を抱いて病院に連れて行った。愛犬15年生きて私を守った。時がめぐり、愛犬、守護精霊となって帰ってきた。学問僧を守護するために。
流れ行く春の日も 流れ行く女も 寂光の菫に濡れて 流れ去る命の ただひと時(西脇順三郎『近代の寓話』「プロサラミヨン」)
明日は恋なきものに恋あれ、明日は恋あるものにも恋あれ。(Ambarvalia「ヴィーナス祭の前晩」)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
藤原新也『祈り』2022
藤原新也『メメント・モリ』
藤原新也の旅、死を想(おも)え、生を想(おも)え。日曜美術館12月11日
祈り・藤原新也・・・旅の始まりには、いつも犬の遠吠えが聞こえる
https://bit.ly/3V19RVO
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帝釈天騎象像、七頭の獅子に坐る大日如来・・・守護精霊は降臨する
理念を探求する精神・・・ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、美と復讐
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1944年に福岡県門司市(現 北九州市)に生まれた藤原新也。東京藝術大学在学中に旅したインドを皮切りに、アジア各地を旅し、写真とエッセイによる『インド放浪』、『西蔵(チベット)放浪』、『逍遥游記(しょうようゆうき)』を発表します。1983年に出版された単行本『東京漂流』はベストセラーとなり、社会に衝撃を与えます。また同年に発表された『メメント・モリ』は、若者たちのバイブルとなりました。1989年には、アメリカを起点に西欧へと足をのばし、帰国後は自身の少年時代を過ごした門司港で撮影した『少年の港』をはじめ、日本にカメラを向けます。そして旅のはじまりから50年後、現代の殺伐を伝えるニュースを背に、大震災直後の東北を歩き、コロナで無人となった街に立って、これまでの道程と根幹に流れる人への思いを「祈り」というタイトルに込めます。そして藤原の見た、人が生き、やがて死へと向かうさまは、現在形の〈メメント・モリ(死を想え)〉へと昇華され、新たな姿でわたしたちの「いま」を照らします。
藤原の表現活動で特筆すべきは、写真、文筆、絵画、書とあらゆるメディアを縦横無尽に横断し、それぞれの領域において秀でた表現を獲得していることにあります。
本展は、祈りをキーワードに、初期作から最新作までの作品を一堂に展示して、藤原新也の多彩な仕事を立体的に展開します。
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祈り・藤原新也 | 世田谷美術館 SETAGAYA ART MUSEUM
2022年11月26日(土)–2023年1月29日(日)

2022年12月15日 (木)

岡本太郎・・・傷ましき腕、夜、太陽の塔、明日の神話

Okamototaro-2022
Okamototaro-itamasihiki-ude-1936-2022
Okamototaro-yoru-1947-2022
大久保正雄『旅する哲学者、美への旅』第302回
闇の中、刃をもって立つ少女、何に立ち向かうのか。何に反抗するのか。
岡本太郎、自己破壊の藝術家、自由奔放、破天荒、革命児。生きかたの根底にある源泉は何か。何と戦ったのか。赤い大きなリボンの女、刃を持って闇の中に立つ少女。シュールレアリスム、対極主義、呪術的縄文、太陽の塔。岡本太郎の活動資金はどう作られたのか。巧みなマスコミ戦略。「真剣に、命がけで遊べ」。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、芸術家・岡本太郎の誕生
岡本太郎1911年(明治44年)2月26日 - 1996年(平成8年)1月7日)
太郎は、川崎市、大貫病院で、岡本一平、岡本かのこ、藝術家夫婦の子として生まれた。
岡本太郎は、19歳の冬、家族ともにとヨーロッパに渡った。1930年から10年間パリに滞在。最先端の藝術家、思想に触れ、「アブストラクト・クレアシオン」の運動に参加。
ピカソの作品『ゲルニカ』に衝撃を受け、前衛芸術家や思想家たちと交わり、自身も最先端の芸術運動に邁進する。パリ大学で哲学、民族学を学び、ジョルジュ・バタイユらと親交を深める。自身の基礎となる思想を深めた。1940年、帰国、兵役、復員。
岡本太郎《傷ましき腕》 1936/49年 川崎市岡本太郎美術館蔵
2、前衛美術芸術運動1947
岡本太郎は、東郷青児と二科会を牽引する。だが、太郎と東郷青児はやがて、軋み、別離する。日本美術界の変革を目指し、岡本太郎は花田清輝と「夜の会」1947を結成。抽象と具象など対立要素が生み出す「対極主義」を掲げ前衛運動を展開する。著書『今日の芸術』1954がベストセラーとなり文化人としても活躍する。
岡本太郎の活動資金はどう作られたのか。岡本太郎の広報戦略は巧みだった。
3、大衆の芸術、「芸術は大衆のもの」
太郎は、「芸術は大衆のもの」という信念のもと。芸術とは生活の中にあり、金持ちやエリートのものでなく、民衆のもの、社会のものだと考える。岡本太郎は、絵画を売らない主義で、生涯を貫いた。
「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」
彼の格言の通り、作品から発散する不気味な熱。すべてを生命体として描く彼の表現は、彼自身の猛烈な生き様を表現する。
3、魅了される呪術的世界観、縄文土器1951
岡本太郎は、前衛芸術を推進する一方、日本文化に目を向けた。1951年に出会った縄文式土器、日本各地に残る神事など現地調査を実施し考察。民族学から日本文化の新しい価値を提唱する。この知識と見聞が《太陽の塔》へと繋がってゆく。
岡本太郎《イザイホー》 (沖縄県久高島) 1966年12月26‐27日撮影 川崎市岡本太郎美術館蔵
岡本太郎《縄文土器》 1956年3月5日撮影 (東京国立博物館) 川崎市岡本太郎美術館蔵
4、二つの太陽 太陽の塔1970《明日の神話》1968
1970年の大阪万博。そのテーマ館として太郎が手掛けた《太陽の塔》は、生命の根源的エネルギーの象徴。これと並行して描かれた作品、現在渋谷駅に設置されている巨大壁画《明日の神話》。太郎が残したドローイングと資料が示す世界観。
生命の根源としての太陽の塔。原子爆弾の破壊力とそれを超える人類の希望。
5、岡本太郎、病と戦い、84歳で死す
パーキンソン病と戦い、手の震えと闘いながらも最後の最後まで絵を描いた。パーキンソン病。パーキンソン病は、脳内のドーパミンという物質が作られなくなる病気。それにより、体に不具合が発症。主な症状は小刻み歩行や指先のふるえ、症状が進んでいく。
1996年(平成8年)1月7日、慶應義塾大学病院にて死去。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「展覧会 岡本太郎」図録2022
「世田谷時代1946-1954の岡本太郎、戦後復興期の再出発と同時代人たちとの交流」世田谷美術館、2007
岡本太郎・・・傷ましき腕、夜、太陽の塔、明日の神話
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展示作品の一部
岡本太郎《森の掟》1950年 川崎市岡本太郎美術館蔵、岡本太郎《夜》1947年 川崎市岡本太郎美術館蔵《光る彫刻》 1967年 川崎市岡本太郎美術館蔵、《犬の植木鉢》 1955年 川崎市岡本太郎美術館蔵岡本太郎《太陽の塔》 1970年 (万博記念公園) 、岡本太郎《明日の神話》 1968年 川崎市岡本太郎美術館蔵、
著書『今日の芸術』、岡本太郎《イザイホー》 (沖縄県久高島) 1966年12月26‐27日撮影 川崎市岡本太郎美術館蔵、岡本太郎《縄文土器》 1956年3月5日撮影 (東京国立博物館) 川崎市岡本太郎美術館蔵
岡本太郎《太陽の塔》 1970年 (万博記念公園)
岡本太郎《明日の神話》 1968年 川崎市岡本太郎美術館蔵
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絵画、立体、パブリックアートから生活用品まで、強烈なインパクトのある作品を次々と生み出し、日本万国博覧会(大阪万博)の核となる「太陽の塔」をプロデュースし、晩年は「芸術は爆発だ!」の流行語とともにお茶の間の人気者にもなった岡本太郎。彼は、戦後日本の芸術家としてもっとも高い人気と知名度を誇るひとりでありながら、あまりに多岐にわたる仕事ぶりから、その全貌を捉えることが難しい存在でもありました。「何が本職なのか?」と聞かれ、彼はこう答えます。「人間――全存在として猛烈に生きる人間」。18歳で渡ったパリの青春時代から、戦後、前衛芸術運動をけん引した壮年期の作品群、民族学的視点から失われつつある土着的な風景を求めた足跡や、大衆に向けた芸術精神の発信の数々、さらにアトリエで人知れず描き進めた晩年の絵画群まで――。本展は、常に未知なるものに向かって果敢に挑み続けた岡本太郎の人生の全貌を紹介する、過去最大規模の回顧展です。
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展覧会 岡本太郎、 東京都美術館
10月18日(火)~12月28日 (水)

2022年12月 9日 (金)

鉄道と美術の150年・・・世界の果てへの旅

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』301回
【人生の舞台、16の性格】外交官グループ、提唱者、仲介者、主唱者、広報運動家。番人グループ、管理者、擁護者、幹部、領事官。探検家グループ、巨匠、冒険家、起業家、エンターテイナー。分析家グループ、建築家、論理学者、指揮官、討論者。自分の必殺技どう披露するか。
19世紀後半、ニーチェは、鉄道で旅した。教職を退き、旅行者として生き抜いた日々、転地療養、温泉旅行、サン=モリッツ、ジェノヴァ、ニース、シルス・マリア、永劫回帰の思想を思いついた地。ニーチェ(1844-1900)は、1881年、病気療養に訪れたスイスのシルス・マリア。シルヴァプラナ湖畔を散策中に巨大な尖った三角岩のほとりで「永劫回帰」の思想が、突然襲来した。永劫回帰ewig wiederkehrenの思想は、『ツァラトゥストラ、かく語りき』(1883-85)においてはじめて提唱された。「時間は無限であり、物質は有限である」「無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界である」、過去に在ったことは、未来に存在する。永劫に回帰する世界。
マルクス最後の旅。マルクス(1818-1883)は、パリからマルセイユまで鉄道の旅、アルジェまで船旅。若い女性との邂逅。夢のなかで去来するさまざまな過去の記憶。亡くなった妻の事。モンテカルロでは賭博に明け暮れる富豪たち。『資本論』続編。
グランドツアーで、ヨーロッパ人は、イタリア、ギリシア、地中海、エジプトへと旅した。異郷の地の思い出をロマン主義の夢で表現する。
リルケ(1875-1926)は、アドリア海に臨む孤城ドゥイノの館に滞在し、イタリア、エジプト、スペインを旅し『ドゥイノの悲歌』(1923)『オルフォイスへのソネット』(1923)を書いた。
マルクス『資本論』第三巻。労働者を搾取して、彼らが生み出した価値の一部をかすめ取る。利益率を上げようとすれば、搾取率を上げる。マルクスは『資本論』第三巻で、金融(信用)制度の発展は「資本主義的生産の動力ばね」であると同時に、「他人の労働の搾取による致富を、もっとも純粋かつ巨大な賭博とペテンの制度にまで発展させる。金融には「両刃の剣」としての性格があるからこそ、金融の発展が暴走しないように、公正なルールと規制が絶対に必要になる。「マルクス信用論、恐慌論の出番」2008年11月7日(金)「しんぶん赤旗」
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
孤高の画家、フリードリヒ、ロマン主義、生涯と藝術
孤高の画家、フリードリヒ、精神の旅、地の果て、崇高な自然と精神
ロマン主義の愛と苦悩・・・ロマン派から象徴派、美は乱調にあり
ツァラトゥストラ、シルヴァプラナ湖、永劫回帰の思想
ニーチェの旅 永劫回帰 美への旅
大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第71回ニーチェの旅P8-11
地中海 四千年のものがたり・・・藝術家たちの地中海への旅
岡村民夫『旅するニーチェ―リゾートの哲学』白水社、2004
サン=モリッツ、ジェノヴァ、ニース。ニーチェが旅行者として生き、もっとも多産に著作した十年間。アフォリズム・スタイルを生んだ「歩行する思想」のノマディスムを解明する。教職を退き、当時生まれつつあったリゾート地を経巡り、ひたすら旅行者として生き抜いた日々は、ニーチェの著作活動の中で、もっとも多産な10年間だった。以後、舞踏のようなアフォリズムのスタイルを生んだ「移動し歩行する思想」のノマディスムを本書は解明する。
目次
第1章 ドイツ帝国からの逃走(ニーチェはドイツ人か;治療としての亡命 ほか)
第2章 リゾートのノマド(リゾートへの列車;リゾートの身体 ほか)
第3章 足の思想(マイナー文学;足で書く ほか)
第4章 ニーチェを探して(ジェノヴァ;ヴェネツィア ほか)
第5章 新しい健康へ(大いなる健康;病者の光学 ほか)
ハンス・ユルゲン・クリスマンスキ 『マルクス最後の旅』2016
エンゲルスが闇に葬った『資本論』の核心とは。『資本論』の続巻を構想しつつ最後の旅に赴いたマルクス。残された膨大なメモや記録、史実の中からマルクスの旅を再現し、ドイツの社会学の泰斗が描く、大胆な仮説。著者はマルクスの足跡を順次、マルクス自身の手紙をもとに丹念に追っていく。パリからマルセイユまでの鉄道の旅、アルジェまでの船旅。その途上での若い女性との邂逅。夢のなかで去来するさまざまな過去の記憶。亡くなった妻のこと。モンテカルロでは賭博に明け暮れる富豪たちを目の当たりにし、誘われるがままにカードゲームにも参加。その体験の分析から、やがてカジノ資本主義の対処法の考察へと移って行く。マルクスが己の死を予感しながらもその視線の先に見据えていたものに思いを馳せてみてはいかがだろう。(「訳者あとがき」より抜粋)
鉄道と美術の150年・・・世界の果てへの旅
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展示作品の一部
河鍋暁斎『地獄極楽めぐり図』より「極楽行きの汽車」1872年、静嘉堂文庫美術館
不染鉄『山海図絵(伊豆の追憶)』1925、木下美術館
長谷川利行『汽罐車庫』1928、鉄道博物館
木村荘八『新宿駅』1938
稗田一穂『時雨海岸』1982愛知県美術館
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鉄道150年の歴史を、美術とともにたどる旅。
今年150周年を迎える日本の鉄道は、明治5(1872)年に新橋―横浜間で開業しました。奇しくも「美術」という語が初めて登場したのも明治5年のことです。(*)鉄道と美術は、日本の近代化の流れに寄り添い、また時にはそのうねりに翻弄されながら、150年の時を歩み続けてきました。
この展覧会では、鉄道と美術150年の様相を、鉄道史や美術史はもちろんのこと、政治、社会、戦争、風俗など、さまざまな視点から読み解き、両者の関係を明らかにしていきます。
日本全国約40カ所から集めた、「鉄道美術」の名作、話題作、問題作約150件が一堂にそろう、東京ステーションギャラリー渾身の展覧会です。(*)それまでは「書画」などと呼ばれていました。北澤憲昭『眼の神殿』(美術出版社、1989年
【東京ステーションギャラリー】
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鉄道と美術の150年、東京ステーションギャラリー、年10月8日(土) - 2023年1月9日(月・祝)

2022年10月19日 (水)

ピカソとその時代・・・藝術の探検家、7人の恋人、7つの時代

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』294回
青春の日、スペインの灼熱の大地の旅を思い出す。ソフィア王妃芸術センターで「ゲルニカ」1937、プラド美術館でヒエロニムス・ボス『快楽の園』、ベラスケス「ラス・メニーナス」、ティッセンボルネミサ美術館でエル・グレコ展、トレドで「オルガス伯の埋葬」。
パプロ・ピカソ、1881年 - 1973年)92歳で死す。7人の恋人、7つの時代。類稀な才能を開花、4万5千点の作品を残す。藝術の探検隊である。才能によってこの世に成功することは極めて困難であるが、ピカソは才能によって成功を遂げた稀有な例である。
【トマ・ピケティ『21世紀の資本』】「資本主義の富の不均衡は放置しておいても解決できず、格差は広がる。格差の解消のために、なんらかの干渉を必要とする」。その根拠が「r>g」という不等式。「r」は資本収益率を示し「g」は経済成長率を示す。富の蓄積は労働成果より大きい。
【人生の舞台、探検隊】16の性格、外交官グループ、提唱者、仲介者、主唱者、広報運動家。番人グループ、管理者、擁護者、幹部、領事官。探検隊グループ、巨匠、冒険家、起業家、エンターテイナー。分析家グループ、建築家、論理学者、指揮官、討論者。人生という舞台、自分の必殺技をどう披露するか。特性、強み弱み、どう発揮するか。織田信長は、明晰透徹な指揮官、武の七徳を探求する。
【無能が支配する国、腐敗の帝国】組織における地位は能力を表さない。何も生み出さない、知恵もない、ただの番人が管理階級、搾取階級として君臨する。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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■ピカソ、生涯と藝術、7人の女。7つの時代
(Pablo Ruiz Picasso, 1881年10月25日 - 1973年4月8日)92歳で死す。
スペイン・マラガで生まれた。
1881年 ピカソ誕生。ピカソの母は言う「言葉を覚えるより先に絵を描いていた」。「石膏トルソの習作」(1892)
1900年、19歳のピカソはパリへ 向かう
 しかし芸術の都は甘くなく、思うように絵は売れなかった。ある日、ともにパリにきた友人が自殺。絶望の淵で、それでも筆を握り続けたピカソは苦難の果てにあの色にたどり着く。「自画像」(1901)
ばら色の時代
絵画の革新者の誕生。描く対象をバラバラに分解し、その存在感が引き立つように組み合わせた。「キュビスム」の時代。「アヴィニョンの娘たち」(1907)
新古典主義の時代。40代ギリシア彫刻などに出会い、伸びやかな命があふれる作風が開花する。
第1次世界対戦後 束の間の平穏な時代を反映するかのような光景
同じ画家とは思えないほど極端なまでに変貌を遂げるピカソ
「私は一枚の絵を描く。それからそれを破壊する。一枚の絵は破壊の集積である しかし何も失われはしないんだ」
1937年 ゲルニカへの無差別爆撃。スペイン北部の町ゲルニカをナチスドイツが無差別爆撃。ナチスと手を結んだフランコがドイツ軍に要請した。
1,【 青の時代 】 (1901-1904年)ジャウメ・サバルテスの肖像 (1904)
2,【 ばら色の時代 】(1904-1906年) 座る道化師 (1905)
3,【 アフリカ彫刻の時代 】 (1907-1909年)裸婦 ≪アヴィニョンの娘たち≫の習作 (1907)ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907)
4,【 キュビスムの時代 】 (1909-1912年)ピアノの上の静物 (1911-12)
5,【 新古典主義の時代 】 1917年2月-1925年、ピカソはイタリアを初めて旅行。足を拭く座る裸婦 (1921)
6,【 シュルレアリスムの時代 】1925〜1937年、 黄色いセーター (1939)
1925年にアンドレ・ブルトンは、シュルレアリスム機関誌『シュルレアリスム革命』においてピカソをシュルレアリストとする記事を書き、また《アヴィニョンの娘たち》がヨーロッパで初めて同じ号に掲載された。
【《ゲルニカ》】「ゲルニカ」(1937)第5の恋人ドラ・マールと「泣く女」(1937)
ピカソ【第6の恋人、フランソワーズ・ジロ】1944年、パリが解放されたときピカソは63歳で、若い女子美大生フランソワーズ・ジローと恋愛関係に入る。彼女はピカソよりも40歳年下。パロマを出産後、体調を壊したフランソワーズに対してピカソは「女は子供を産むと魅力を増すものなのに、なんたるざまだ」「怒るか泣くかしてみろ」「私に発見された恩を返せ」「私のような男を捨てる女はいない」ピカソは、激怒した。
7,【ピカソの晩年、ヴォヴナルグ城】1958-1973
【最晩年】1953年、ピカソの虐待に耐え切れなくなったジロは子どもを連れてパリに帰り、画家として自立への道を歩み始める。2年後、彼女が画家のリュック・シモンと結婚。
1953年から【第7の恋人、ジャクリーヌ・ロック】
【ピカソの死】パブロ・ピカソは1973年4月8日、フランスのムージャンで死去。92歳。エクス・アン・プロヴァンス近郊のヴォヴナルグ城に埋葬された。
ヴォヴナルグ城は1958にピカソが購入して、59年からジャクリーヌ・ロックと一時的に住んでいた城。ピカソの膨大な作品がここに保管された。何百のピカソ作品と蔵書などがこの城に移され、城はさながらピカソの個人美術館のようなていをなした。
ジャクリーヌ・ロックはピカソの子どものクロードやパロマの葬儀への出席を断った。ピカソの死後、ジャクリーヌ・ロックは、精神的な荒廃と孤独に蝕まれ、1986年に59歳のとき銃で自殺した。
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展示作品の一部
パブロ・ピカソ≪アヴィニョンの娘たち≫の習作 (1907)
パブロ・ピカソ 《緑色のマニキュアをつけたドラ・マール》、1936 年 油彩、カンヴァス 65 x 54 cm、ベルリン国立ベルクグリューン美術館
パブロ・ピカソ《座るアルルカン》日本初公開1905年 水彩・黒インク、厚紙 57.2 x 41.2cmベルリン国立ベルクグリューン美術館
パブロ・ピカソ《窓辺の静物、サン=ラファエル》日本初公開1919 年 グアッシュ・鉛筆、紙 35.5 x 25cmベルリン国立ベルクグリューン美術館
パブロ・ピカソ《丘の上の集落(オルタ・デ・エブロ)》1909年 油彩、カンヴァス 65.1 x 81.3cm
パウル・クレー《中国の磁器》日本初公開1923年 水彩・グアッシュ・ペン・インク、石膏ボード、合板の額 28.6 x 36.8cm ベルリン国立ベルクグリューン美術館
アンリ・マティス《雑誌『ヴェルヴ』第4巻13号の表紙図案》日本初公開、1943年 切り紙、カンヴァスに貼り付け 38.1 x 56.8cm ベルリン国立ベルクグリューン美術館、ベルクグリューン家より寄託
アルベルト・ジャコメッティ《広場Ⅱ》日本初公開1948-49年 ブロンズ 23 x 63.5 x 43.5cm ベルリン国立ベルクグリューン美術館
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■ピカソが愛した7人の女、作品に与え続けた影響
現代美術の大きな柱であるピカソは女性からインスピレーションを得たせいか、彼の作品数は4万5000点、絵画1885点、彫刻1228点、陶器2280点、スケッチ4659点と 3万点に及ぶ版画作品などを手がけた。
第1の恋
人、フェルナンドゥオリヴィエ Fernande Olivier
第2の恋人、エヴァ・グエルEva Gouel
第3の恋人、オルガ・クルロバOlga Kokhlov
第4の恋人、マリー・テレーズ・ヴァルターMarie Therese Walter
第5の恋人、ドラ・マールDora Maar
 1936年(55歳)ピカソが「ファシズムの狂気との戦いの時代」 彼女はピカソの「ゲルニカ」の時代を一緒にしており、この作品の制作過程全体を写真で記録した。 憂鬱な2次世界大戦の時期を一緒にした乾燥したピカソの作品で主に「泣く女」に登場する。
第6の恋人、フランソワーズ・ジロFrançoiseGilot
 第二次世界大戦中に出会った彼女は非常に若くて美しい女流画家である。ピカソが六十三歳の時、1945年から一緒に暮らすが、このとき、彼女は二十歳。完璧主義者であり、独占浴が強かったフランソワーズは、息子クロードと娘パロマを生む。ピカソは自分の子供を素材にして魅惑的で躍動感あふれる肖像画を残した。
第7の恋人、1953年、72歳で出会ったジャクリーヌ・ロックJacqueline Roque
 ピカソの末期の作品は、外在的にも暗黙的に性愛が目立つ。このときピカソが陶芸と「古典的な作家の再解釈」に傾倒した時期。ピカソが作品に専念できるように内助してくれた最後の女性ジャクリーヌ・ロックは、ピカソが72歳になった年に会った女性。彼女は前の夫との間に娘がいる離婚女性、ピカソと8年間同棲した後、結婚した。
これまで無私なピカソの複雑な財産の問題を処理した。1986年10月15日ピカソの生誕105年を十日前に彼女はピカソの墓の前で自ら命を絶った。
参考文献*
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★参考文献
「ピカソ展−からだとエロス 変貌の時代 1925〜1937年」東京都現代美術館、2004
新古典主義に続く1925年から第二次世界大戦前夜の1937年までの作品160点で構成。シュルレアリストと交流した時代の様々な身体表現を、パリ・国立ピカソ美術館が所蔵する作品を中心に紹介。数多くの女性を愛したピカソの、奔放で力強い作品の数々を十二分に堪能できるまたとない機会といえます。
「巨匠ピカソ 魂のポートレート」展、サントリー美術館、2008
「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」展、国立新美術館、2008
「ルートヴィヒ美術館展」ドイツ表現主義からロシア・アヴァンギャルド、抽象絵画まで。国立新美術館2022
「イスラエル博物館所蔵ピカソ ― ひらめきの原点 ―」パナソニック汐留美術館、2022
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女・・・デ・キリコ、ダリ、ポール・デルヴォー
ピカソとその時代・・・藝術の探検家、7人の恋人、7つの時代
https://bit.ly/3D8mYir
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パブロ・ピカソが愛した7人の女性、作品に与え続けた大きな影響
ピカソが最も恐れた画家「ジョルジョ・デ・キリコ」の不思議な絵
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ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン・コレクション美術館展、国立西洋美術館、10月8日(土)~2023年1月22日(日)

2022年8月20日 (土)

ゲルハルト・リヒター展・・・ビルケナウ、ゾンダーコマンドの苦しみ

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』287回

ゲルハルト・リヒターは、ホロコーストを主題に、1960年代から、ホロコーストを主題に取り組もうとしたが、2014年に「ビルケナウ」を完成させた。
ナチス・ドイツ(1933-1945)は、ファシズム国家、カルト集団に率いられたカルト国家である。ここに描かれたのは、ホロコーストの絶望的な光景なのか。ゾンダーコマンド(ユダヤ人特殊部隊)には、死刑囚が死刑囚を管理する苦しみがある。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【ホロコースト、絶滅刑務所1941-45】ナチス政権下にあったドイツ、1941年から1945年5月まで、第三帝国において、ユダヤ人虐殺が行われた。ナチズムは右翼全体主義の代表である。ヒトラーは「ユダヤ人こそ我々の敵だ、不幸の原因だ」と叫び、人々の憎しみをあおった。イエス・キリストは救世主。それを認めないユダヤ人は、「キリストを十字架にかけて殺した罪びと」のレッテルを貼られた。ユダヤ人がヨーロッパ社会に同化すれば「優れた人種」であるアーリア人の血が汚される、という極端に歪んだ思想。ヨーロッパに深く根ざしていた反ユダヤ主義を、ヒトラーは政治的に利用した。殺人を目的としたアウシュヴィッツ収容所がナチ占領下のポーランドに作られた。ここで、1941年ヴァンゼー会議の4カ月前にすでに最初の毒ガスでの殺害が行われた。他にも、5カ所の絶滅収容所がポーランドに建設され、ヨーロッパ全土から貨車に詰め込まれたユダヤ人が次々と送りこまれた。命の選別、労働に「利用できるもの」と「利用できないもの」が選別された。絶滅刑務所に、ゾンダーコマンド(ユダヤ人特殊部隊)が働いていた。
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リヒターは、1960年代から、ホロコーストを主題に取り組もうとしたが、2014年にこの作品を完成させた。ビルケナウ、「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」。ゾンダーコマンド(ユダヤ人特殊部隊)によって撮影された写真に基づく作品。
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入口を入って左の展示室。この部屋が一つのインスタレーションになっている。
64~67 ビルケナウ
68 ビルケナウ(写真バージョン)
大型の抽象絵画4点1組が向かい合わせで壁にかけてある。
113 グレイの鏡
もう一面の壁に巨大なグレイの鏡のアート、
残る一面の壁に
69 1944年、アウシュヴィッツ強制収容所でゾンダーコマンド(特別労務班)によって撮影された写真、4点のモノクロ写真。
ナチス・ドイツのホロコーストを題材としている。ゾンダーコマンドは収容所内で虐殺された死体を処理する作業に従事した人々。彼らが密かに撮影し隠していた写真が戦後、発見された。沢山、死体を火にかけている光景。
ペインティングの作品はこの写真の絵の上に描いた抽象絵画。
次に抽象絵画の向かいにある原寸大の写真。
グレイの鏡。
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「ビルケナウ」シリーズ2014は、1944年8月、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で囚人が隠し撮りしたとされる写真を元に描かれた4点の抽象画である。幅2メートル、高さ2,6メートルの大きな絵で、反対側の壁に4枚の灰色の鏡が向かい合うように設置されている。そして、四隅には小さな白黒写真が。この絵のもととなった4枚の写真だ。
見上げるような角度で捉えられた、木々のシルエット。あわててシャッターを押したような、ブレた写真だ。そして、大きな窓の向こうに立ち上る白煙と何か作業をしている人の影。よく見ると、その足元にあるのは、白い死体の山。河内秀子
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参考文献
河内秀子「ホロコーストを描くことは可能か?――ドイツ人画家、ゲルハルト・リヒターが自作をベルリンのナショナルギャラリーに永久貸与した理由」
【ゾンダーコマンド】NHKスペシャル
ユダヤ人でありながらナチスの大量虐殺に加担させられた「ゾンダーコマンド」と呼ばれた人たち。同胞をガス室へ誘導する役割や死体処理などを担ったユダヤ人特殊部隊「ゾンダーコマンド」のメンバー
NHKスペシャル アウシュビッツ 死者たちの告白 | NHK放送史
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009051338_00000
ゲルハルト・リヒター展・・・ビルケナウ、ゾンダーコマンドの苦しみ
https://bit.ly/3c7XDu8
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ドイツ・ドレスデン出身の現代アートの巨匠、ゲルハルト・リヒター(1932-)。リヒターは初期のフォト・ペインティングからカラーチャート、グレイ・ペインティング、アブストラクト・ペインティング、オイル・オン・フォト、そして最新作のドローイングまで、油彩画、写真、デジタルプリント、ガラス、鏡など多岐にわたる素材を用い、具象表現と抽象表現を行き来しながら、人がものを見て認識するという原理に、一貫して取り組み続けてきました。
画家が90歳を迎えた今年2022年、本展では画家が手元に置いてきた初期作から最新のドローイングまでを含む約120点によって、一貫しつつも多岐にわたる60年の画業を紐解きます。
日本では16年ぶり、東京では初となる美術館での個展です。
近年の大作《ビルケナウ》、日本初公開
幅2メートル、高さ2.6メートルの作品4点で構成される巨大な抽象画《ビルケナウ》は、ホロコーストを主題としており、近年の重要作品とみなされています。出品作品のなかでも最大級の絵画作品である本作が、この度、日本で初めて公開されます。
ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter)
1932年、ドイツ東部、ドレスデン生まれ。ベルリンの壁が作られる直前、1961年に西ドイツへ移住し、デュッセルドルフ芸術アカデミーで学ぶ。コンラート・フィッシャーやジグマー・ポルケらと「資本主義リアリズム」と呼ばれる運動を展開し、そのなかで独自の表現を発表し、徐々にその名が知られるように。
その後、イメージの成立条件を問い直す、多岐にわたる作品を通じて、ドイツ国内のみならず、世界で評価されるようになる。
ポンピドゥー・センター(パリ、1977年)、テート・ギャラリー(ロンドン、1991年)、ニューヨーク近代美術館(2002年)、テート・モダン(ロンドン、2011年)、メトロポリタン美術館(ニューヨーク、2020年)など、世界の名だたる美術館で個展を開催。現代で最も重要な画家としての地位を不動のものとしている。
https://www.momat.go.jp/am/exhibition/gerhardrichter/
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ゲルハルト・リヒター展、東京国立近代美術館、6月7日~10月2日 

2022年5月 5日 (木)

牧歌礼讃/楽園憧憬 アンドレ・ボーシャン+藤田龍児・・・遠い記憶を呼び覚ます風景

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』279回

百花繚乱、花の匂い漂う紫躑躅咲く道を歩いて美術館に行く。春愁のかぎりを躑躅燃えにけり。
過酷な運命を乗り越えた画家。遠い記憶を呼び覚ます風景。
藤田龍児の絵は、広い野原、山の見える郊外、古い街並み、田舎町。電信柱、工場の煙突、鉄道、バス停。白い犬とエノコログサ、蛇行する道は人生の苦難の象徴。白い犬は、画家自身の分身、藝術家を守る守護精霊である。
過酷な運命を乗り越えた画家。啓蟄。羽音を立て、エノコログサが穂を天に伸ばす。画家の蘇りの光景か、春の兆しの神秘的な光景。白い犬を連れた人物が歩いている。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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戦争による事業破産と半身不随、二人の運命
藤田龍児は、48歳の時、脳血栓で倒れ、53歳で再起する。アンドレ・ボーシャンは、出征、戦争で破産、妻は精神病、園芸業から画家となる。
――
【藤田龍児、48歳の時、脳血栓、画家を断念、53歳で再起、74歳で死す】
藤田龍児は、昭和3年1928年に京都で生まれ、同志社中学校卒業、同志社工業専門学校中退。大阪市立美術館の附属施設であった市立美術研究所にて石膏デッサンや油彩を学び、1959年、美術文化展に初入選。同協会の会員になり、毎年出品を続けた。1959年、大阪大学医学部附属石橋分院で作業療法指導員となる。1969年、退職。初期の作品は不定形な形象が混じり合う抽象画、シュルレアリスムの影響がある。1976年、48歳の時、脳血栓にて倒れる。翌年再発、手術で一命をとりとめるが、右半身付随。利き腕が使えなくなったことに失望、画家として生きることを断念、絵の大半を処分した。絵筆を左手に持ち替え、再び絵画を描くようになる。再起後の最初の個展を開いた時、53歳となる。
白い犬とエノコログサ、蛇行する道など絵画に何度も登場するモチーフで、犬に藤田自身を、そして蛇行する道には彼の苦難の人生を感じさせる。病気を乗り越えた藤田にとって、何度踏まれても逞しく伸びていくエノコログサは、強い生命力の象徴である。白い犬は土佐犬、画家自身、
【アンドレ・ボーシャン、出征、戦争で破産、妻は精神病、園芸業から画家へ、1958年85歳で死す】
アンドレ・ボーシャンは、1873年フランス中部のシャトー=ルノーに生まれた。苗木職人として園芸業を営む。1914年、第一次世界大戦が勃発、歩兵連隊に徴集され、軍隊で学んだ事が、測量したデータをもとに、地形を正確に記録する測地術である。そして大戦が終結して46歳にて除隊するが、農園は荒れ果て破産、妻は精神に異常をきたす。ボーシャンは地元の森の中で新居を構え、妻の世話をしながら自給自足生活を送る。
ボーシャンが絵を初めた契機は、軍隊時代に学んだ測地術の技法にあった。山や川などの故郷の風景、咲き誇る花々といった苗木職人として身近に接した植物などを描く。1921年、サロン・ドートンヌに入選。当時の同賞の審査は比較的厳しくなかった、50歳を前に画家の道を歩みはじめる。建築家となりル・コルビジェに認められる。1928年、セルゲイ・ディアギレフからロシアバレエ団の舞台美術を依頼される。
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展示作品の一部
藤田龍児『於能碁呂草』1966年 星野画廊
藤田龍児『啓蟄』1986年 星野画廊
藤田龍児『静かなる町』1997年 松岡真智子氏
藤田龍児『オーイ、野良犬ヤーイ』1984年 個人蔵
藤田龍児『特急列車』1988年 平澤久男氏
藤田龍児『老木は残った』1985年 北川洋氏
アンドレ・ボーシャン『ラトゥイル親爺の店』1926年 個人蔵
アンドレ・ボーシャン『大木とアルゴ船乗組員』1928年 個人蔵
アンドレ・ボーシャン『ラヴァルダン城とスイカズラ』1929年 個人蔵 
アンドレ・ボーシャン『婚約者の紹介』1929年 個人蔵
アンドレ・ボーシャン『花瓶の花』 1928年 個人蔵
アンドレ・ボーシャン『窓』 1944年 個人蔵 
アンドレ・ボーシャン『川辺の花瓶の花』1946年 個人蔵
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参考文献
プレスリリース東京ステーションギャラリー、冨田章氏
「牧歌礼讃/楽園憧憬 アンドレ・ボーシャン+藤田龍児」東京美術2022

牧歌礼讃/楽園憧憬 アンドレ・ボーシャン+藤田龍児・・・遠い記憶を呼び覚ます風景

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アンドレ・ボーシャン(1873-1958)と藤田龍児(1928-2002)は、ヨーロッパと日本、20世紀前半と後半、というように活躍した地域も時代も異なりますが、共に牧歌的で楽園のような風景を、自然への愛情を込めて描き出しました。人と自然が調和して暮らす世界への憧憬に満ちた彼らの作品は、色や形を愛で、描かれた世界に浸るという、絵を見ることの喜びを思い起こさせてくれます。両者の代表作を含む計116点を展示します。
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition.html
2人の画家アンドレ・ボーシャンと藤田龍児は、活動した国も時代も異なりますが、いくつかの興味深い共通点をもっています。
ともに50歳頃に新たな画家の道に踏み出したこと、精妙な輝きを秘めた色彩を用いて故郷の山河など牧歌的で楽園を思わせる風景を好んで描いたこと、そしてそれらが彼らの決して安逸ではなかった困難な生活の中で生み出されたこと。
そんな彼らの作品が、じわじわ効いてきて、しみじみ沁みる。「見る」ことの喜びを感じさせてくれる展覧会です。
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牧歌礼讃/楽園憧憬 アンドレ・ボーシャン+藤田龍児
2022年4月16日(土) - 7月10日(日)

2021年12月25日 (土)

「ユージーン・スタジオ 新しい海」・・・善悪の荒野、善悪の彼岸

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』264回

【善悪の荒野】この作品を見ると哲学書を思い出す。古代ギリシアの哲学者の詩編。真言密教の書。
『善悪の彼岸』を思い出す。善悪の彼岸にあるのは、何か。善悪の彼岸にあるのは愛である。生命を生み出すものは根源的な愛である。
【愛と憎しみの彼方】憎しみの彼方にあるのは何か。永劫回帰の彼方にあるのは何か。生成消滅の宇宙円環、魂の宇宙円環の彼方にあるのは何か。永劫回帰の彼方にあるものは何か。智慧である。エンペドクレス『自然』『浄化』。
【不滅の愛】不滅の愛は何か。滅びない愛とは何か。永く続く愛は何か。最も長く続く愛は、報われない愛である。美への憧れ、エロスである。運命の人にめぐり会う。プラトン『饗宴』
【美の彼方】美の海原の彼方にあるのは何か。魂の美である。【美の階梯を登る方法】美の階梯がある。美の階梯は、どう昇るのか。魂の美の階梯。プラトン『饗宴』
【生死の彼岸】菩薩、菩提心をもつ者は、生死を超えて修行僧となり、智慧に到達する。生死の彼岸、智慧に到達するものは如来である。【人智を超えた存在】大日如来に到達する道は、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅に描かれている。
【愛染明王真言】大愛染尊よ 金剛仏頂尊よ 金剛薩埵よ 衆生を四種に摂取したまえ)oM ma hA raga vajro SHI Sa va jra satva jaH+jaH hUM vaM hoH
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【善悪の彼岸】愛からなされることは、いつも善悪の彼岸でおこる。『善悪の彼岸』第4章「箴言と間奏曲」153。
怪物と戦う者は、自ら怪物にならぬよう用心したほうがいい。あなたが長く深淵を覗いていると、深淵もまたあなたを覗き込む。『善悪の彼岸』146
大海のなかで渇き死にするというのは、恐るべきことだ。ところでお前らも、真理がもはや決して――渇きを癒すことがないほどに、お前らの真理を塩辛くしようとするのか?『善悪の彼岸』
「善と悪は無い。考えがそれを作るのだ」There is nothing either good or bad, but thinking makes it so.『ハムレット』第2幕第2場
「人生のさかりには、無理と思われるものもすべて叶い、覚束(おぼつか)なく見えるものもすべて成るのだよ。」三島由紀夫
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
《善悪の荒野》(2017)
《善悪の荒野》(2017)はガラス張りで仕切られた空間に、風化し、破壊され朽ち果てた家具が並ぶ作品。スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』(1968)に触発された本作は、映画終盤のシーンに現れる、人智を超えた存在であるモノリスに主人公が導かれる部屋を原寸大で再現、破壊、焼失させたオブジェで構成されたインスタレーション。
「廃墟や遺産もまた、どこかに存在し続ける」。作家は現代社会において地続きのものとしての「どこか」である未来について想起させること意図している。
映画の終盤に現れる部屋を原寸大で再現し、破壊・消失させたオブジェで構成したインスタレーション。寒川は2017年当時、人類誕生以前と未来を描いた映画の物語を破壊することで、人々の未来を再度想起させるきっかけを与えようとしたという。
《ゴールドレイン》(2019)
暗がりのなか、金箔と銀箔の粒子が上から降り注ぐ《ゴールドレイン》(2019)は、鑑賞者に重力や時間についての思考をうながす作品。連綿と可変し続けるその運動は、より壮大な時間を見るものを想起させる。
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ユージーン・スタジオ《善悪の荒野》(2017)
ユージーン・スタジオ《ゴールドレイン》(2019)
ユージーン・スタジオ 《海庭》(2021)
ユージーン・スタジオ《あるスポーツ史家の部屋と夢 #連弾》(2014)
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参考文献
『ユージーン・スタジオ 新しい海 EUGENE STUDIO After the rainbow』東京都現代美術館、2021
プレスリリース
理念を探求する精神、エンペドクレス・・・古代ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義は、なぜ失われたのか
https://bit.ly/3sIf3RW

「ユージーン・スタジオ 新しい海」・・・善悪の荒野、善悪の彼岸
https://bit.ly/3suGTmE
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EUGENE STUDIO(ユージーン・スタジオ)は寒川裕人(1989年アメリカ生まれ)による日本を拠点とするアーティストスタジオで、平成生まれの作家としては当館初となる個展です。
「89+」展(2014年、サーペンタイン・ギャラリー、ロンドン)における作品提供や、個展「THE EUGENE Studio 1/2 Century later.」(2017年、資生堂ギャラリー)、「資生堂ギャラリー100周年記念展」(2018-2019年)や「de-sport」展(2020年、金沢21世紀美術館)への参加など、国内外の作品発表において高い評価を得ています。さらに、アメリカを代表する現代SF小説家ケン・リュウとの共同制作、完全な暗闇で能のインスタレーション「漆黒能」(2019年、国立新美術館)、2021年にはアメリカで発表した短編映画がパンアフリカン映画祭などのアカデミー賞公認の国際映画祭のオフィシャルセレクションに選出されるなど、自由な発想の幅広い活躍に国際的な注目が集まっています。
本展覧会は、平面作品から大型インスタレーション、映像作品、彫刻作品等で構成され、代表作〈ホワイトペインティング〉シリーズ(2017年-)や《善悪の荒野》(2017年)から最新作までを一堂に会し、ユージーン・スタジオの多岐にわたる活動に通底する視点や発想、哲学を紐解くものです。個人的な関心から美術史、過去の事象や文明などの主題を並列に昇華させた作品群は、単なる二次元的なヴィジョンではなく、社会の環境や循環の中で生きる私達の存在を起ち上がらせます。歴史の転換点ともいうべき現在、批判や皮肉から立脚する表現ではなく、現実を見据えて未来へと漕ぎ出すための叡智を喚起させる作品群をぜひご高覧ください。
東京都現代美術館
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/the-eugene-studio
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ユージーン・スタジオ 新しい海 EUGENE STUDIO After the rainbow
会期:2021年11月20日~2022年2月23日
会場:東京都現代美術館 企画展示室地下2階

2020年12月21日 (月)

石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか・・・果てしなき創造の旅

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』230回

藝術家は、果てしない創造の旅に出る。藝術家は創造力を磨き、新世界を創る。創造の秘密は何か。理念を失った世界で判断基準は何か。美の基準は何か。哲学者は、知恵と愛と美を磨き、魂の美を探求する。
石岡瑛子は「時のない、独創性、革命的、神秘、出会い」。Tameless,Originality,Revolutinally、この言葉をマントラのごとく唱える。Mystery。Collaboration、石岡瑛子の創造と行動の指針である。ターセム・シン監督『落下の王国』は、壮大な愛と復讐の叙事詩が華麗に展開する。石岡瑛子が到達した最高の作品である。フェデリコ・フェリーニFederico Fellini:Satylicon,Amarcorcoが到達した至高の境地である。
藝術家は、創造力を磨き、新世界を創る。哲学者は、知恵と愛と美を磨き、魂の美を探求する。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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石岡瑛子 代表作、デザイン、衣装デザイン
石岡瑛子(1938-2012)。東京藝術大学卒業後、資生堂に入社。1966年に前田美波里を起用した「BEAUTY CAKE」のポスターで一躍注目を集め活躍を始める。
ポスター『西洋は東洋を着こなせるか』(パルコ、1979年)アートディレクション
映画『ミシマ―ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ』(ポール・シュレイダー監督、1985年)プロダクションデザイン Mishima コピーライトZoetrope Corp. 2000. All Rights Reserved. / コピーライトSukita
フランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスが総指揮を執った三島由紀夫をモチーフにした作品『ミシマ─ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ』(コッポラ作品は「地獄の黙示録」の日本版ポスター)でカンヌ国際映画祭芸術貢献賞を受賞する。
映画『ドラキュラ』(フランシス・F・コッポラ監督、1992年)衣装デザイン。コピーライトDavid Seidner / International Center of Photography
フランシス・F・コッポラ監督『ドラキュラ』1992の衣装デザインで、石岡はアカデミー賞に輝く。
『石岡瑛子 風姿花伝 EIKO by EIKO』初版1983年。この本を愛読するターセム・シン監督が、石岡瑛子に衣装デザインを依頼する。『ザ・セル』The Cell (2000)
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愛と復讐の叙事詩
映画『落下の王国』(ターセム・シン監督、2006年)衣装デザイン。コピーライト2006 Googly Films, LLC. All Rights Reserved.
Tarsem Singh,The fall.2006
左腕を骨折して入院中の5歳の少女アレクサンドリアは、脚を骨折してベッドに横たわる青年ロイと出会う。彼は彼女にアレキサンダー大王の物語を聞かせ、翌日も病室に来るようささやく。再びアレクサンドリアがロイのもとを訪れると、彼は総督と6人の男たちが織り成す壮大な叙事詩を語り始める。世界各地の世界遺産で撮影、構想24年撮影4年、CGを一切使わない映像美を追求、世界的CMディレクター、ターセム・シン監督、映画『落下の王国』に遺憾なく表現されている。
『落下の王国』は、オレンジの木から落下した少女と自殺志願のスタントマンが病院で出会い語る、アレクサンドロス大王の冒険と総督と戦う6人の勇者の物語。壮大な愛と復讐の叙事詩が、美しく華麗な世界で、華やかに展開する。
映画『白雪姫と鏡の女王』(ターセム・シン監督、2012年)衣装デザイン、コピーライト2012-2020 UV RML NL Assets LLC. All Rights Reserved.
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私の夢が叶いますように 長い創造の旅を続けている感覚
高校生の頃に制作された絵本には、「えこ」という女の子が世界に羽ばたいていく物語が描かれている。──世界中を旅して、美味しいものを食べて。私の夢が叶いますように!」
石岡瑛子は亡くなる前年のインタビューにて「仕事をしているというよりは、ずっと長い創造の旅を続けている感覚」と答えている。
【石岡瑛子】Tameless,Originality,Revolutinally。マントラのごとく唱える。Mystery。Collaborationもキーワード。石岡瑛子は、鏡であり、Mystery。自己と他が一体化する傾向がある。河尻亨一。
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参考文献
河尻亨一×藪前知子、対談、東京都現代美術館
河尻亨一『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』(朝日新聞出版)2020

石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか・・・果てしなき創造の旅

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石岡瑛子 1983年/ポートレート 撮影:ロバート・メイプルソープ
Eiko Ishioka Photo by Robert Mapplethorpe, 1983 コピーライトRobert Mapplethorpe Foundation
Tarsem Singh,The fall.2006 コピーライト2006 Googly Films, LLC. All Rights Reserved.
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★石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか、東京都現代美術館(企画展示室1F、B1F)
2020年11月14日(土)~2021年2月14日(日)
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/eiko-ishioka/