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日本画

2026年3月22日 (日)

下村観山展・・・狩野派、やまと絵、ルネサンス絵画、琳派の技巧と美の使徒、美の鬼、歌聖、藤原定家

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第424回

美の使徒、美の鬼、歌聖、藤原定家【下村観山『小倉山』屏風】私は藤原定家をイメージする。藤原定家は74歳、小倉山の麓の「小倉山荘」で『小倉百人一首』百首の和歌を撰んだ。
――
下村観山『小倉山』屏風は、秋の奥山に鹿が鳴く余情妖艶を感じる。古今集の歌を思い出す。「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」(『猿丸大夫集』、詠み人しらず『古今集』秋上215)。
観山は、狩野派、やまと絵、ルネサンス絵画、東西の画技を極めてこの絵を描いた。奥深い優美な世界を構築している。日本美術院100年展(東京国立博物館1998)で見たとき、この絵に感動した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』

――
下村観山『小倉山』は、『小倉百人一首』に収められている藤原忠平の和歌をテーマに描いた。小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ 「藤原忠平」(880〜949年元慶4年〜天暦3年)。小倉山の峰の紅葉よ、もしお前に心があるならば、もう一度天皇がおいでになるまで散らずに待っていてくれないだろうか。26番歌 藤原忠平(貞信公)。この和歌は、「拾遺和歌集」に収録されている歌。拾遺和歌集の詞書には、宇多天皇が大堰川(おおいがわ:京都府)から小倉山(おぐらやま:京都市右京区)の紅葉を見て、「子の醍醐天皇にも見せてやりたい」と言ったのを聞いた藤原忠平が詠んだ歌だと書かれている。小倉山は紅葉の名所。小倉山にある山荘の襖を飾るために藤原定家が選んだ和歌100首が、小倉百人一首の名の由来。このエピソードは、平安時代に成立した歌物語「大和物語」、鎌倉時代の説話集「古今著聞集」にも記された。
だが、私は藤原定家をイメージする。藤原定家は、小倉山の麓の「小倉山荘」で『小倉百人一首』百首の和歌を撰んだ。嵯峨山荘、時雨亭とも呼ばれる。常寂光寺、二尊院、厭離庵は定家の山荘址と伝わっている。
下村観山(1873–1930)は、狩野芳崖、橋本雅邦の弟子、江戸末期の日本絵画の残滓である。横山大観、菱田春草に次ぐ第3の男とされる(板倉聖哲)。25歳の時「美校事件」で辞任した岡倉天心に殉じて、教授を辞任。文部省から派遣され、30歳から32歳(1903-05)の時、ロンドンに留学し、イタリア・ルネサンス美術に深く魅了された。(1914–1931 日本美術院再興。
*注 1898年、岡倉天心は九鬼隆一に抗議して帝国博物館美術部長・東京美術学校校長を辞任した。天心に殉じて学校教授を辞任する者、橋本雅邦、下村観山、寺崎広業、横山大観、菱田春草など17名に及んだ。天心は自分に殉じて辞職した者を中心に「日本美術院」創設した。天心36歳の時である。
下村観山『小倉山』明治42年(1909)、観山36歳の時の作品、絹本着色、六曲一双屏風、各157.0×333.5㎝、横浜美術館蔵
《弱法師(よろぼし)》(1915年、東京国立博物館)、夕日を拝み極楽浄土を願う「日想観(じっそうかん)」にふける盲目の俊徳丸の姿が、梅とともに描かれている。日想観は現在でも四天王寺で行われており、彼岸の中日である3月20日、夕日への観想が予定されている。
★★★★★
美の使徒【藤原定家 1162年(応保2年)-1241年(仁治2年8月20日9月26日)】
父、藤原俊成は、寿永2年(1183年)後白河院の院宣を受け、文治4年(1188年)第七勅撰集『千載和歌集』を撰進。
養和元年(1181年)『初学百首』を詠むと、翌寿永元年(1182年)俊成の命令により、『堀河院題百首』を作っている。これに対して、父・俊成、母・美福門院加賀の他、藤原隆信・藤原定長(寂蓮)・俊恵ら諸歌人からも賞賛を受け、さらには右大臣・九条兼実からも賛辞の手紙を送られた。またこの間に俊成の和歌の弟子である藤原季能の娘と結婚し、 寿永3年(1184年)に長男の光家を儲ける、治承4年(1180年)従五位上、寿永2年(1183年)正五位下に昇叙。
【九条家へ出仕】文治元年(1185年)11月末に新嘗祭の最中に殿上で少将・源雅行に嘲笑されたことに激怒し、脂燭を持って雅行の顔を殴ったため、勅勘を受けて除籍処分を受ける事件を行こす。これに対して、翌文治2年(1186年)3月に俊成が後白河法皇の側近である左少弁・藤原定長に取りなしを依頼したところ、法皇から赦免の返歌があった。なお、俊成の赦免嘆願の書状は現存しており、重要文化財に指定。
【後鳥羽院政期】
建久7年(1196年)反幕府派の内大臣・源通親による建久七年の政変が起こると、九条兼実が関白を罷免され、太政大臣・藤原兼房と天台座主・慈円も要職を辞任した[15]。さらに、定家の義兄弟である蔵人頭・西園寺公経や左馬頭・藤原隆保も出仕を止められるなど、通親の圧迫は定家の近辺にまで及んだ。
【後鳥羽上皇の和歌に対する興味が俄に表面化】正治元年(1199年)頃より後鳥羽上皇の和歌に対する興味が俄に表面化、【正治2年(1200年)院初度御百首】企画される。藤原季経ら六条家の策謀を受けて、源通親は定家を敢えて参加者から外したが、義弟・西園寺公経や父・俊成らの運動あり、定家は参加を許される。翌【建仁元年(1201年)千五百番歌合】定家は参加して詠進、後鳥羽上皇から好みにあったとの評価を受ける。また同年には勅撰和歌集の編纂を行うことになり、定家は源通具らとともに院宣を受けて撰者。【元久元年(1204年)勅撰集『新古今和歌集』】名称として『新古今和歌集』を上申、歌集は完成し、定家の和歌作品は41首が入集。歌集に対して追加の切り継ぎが行われ、最終的に47首が採録。
【建保2年(1214年)参議に任ぜられ、父・俊成が得られなかった議政官】兼子(後鳥羽天皇の乳母)に対する猟官運動が奏功、建保2年(1214年)参議に任ぜられ、父・俊成が得られなかった議政官への任官を果たす、建保4年(1216年)正三位に昇叙され、承久2年(1220年)播磨権守を兼ねる。
【承久3年(1221年)承久の乱】承久3年(1221年)承久の乱が起こると、後鳥羽上皇は配流され藤原兼子は失脚する一方、権勢は定家の義兄弟である西園寺公経に移り、定家の主家である九条家も勢いを盛り返す、定家にとって非常に幸運な時代となる。承久4年(1222年)参議を辞して従二位に叙せられると、嘉禄3年(1227年)には正二位に至った。寛喜4年(1232年)正月に【71歳で権中納言】に任ぜられる。
【寛喜4年(1232年)6月定家は後堀河天皇から『新勅撰和歌集』編纂】の下命を受けて単独で撰出を開始。同年12月に権中納言を辞した後は撰歌に専念する。天福2年(1234年)6月に後堀河上皇の希望で1498首の草稿本を清書し奏覧(仮奏覧)
74歳【小倉山荘の障子色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ揮毫】嘉禎元年(1235年)宇都宮頼綱から嵯峨野(京都市右京区嵯峨)に建てた別業(小倉山荘)の障子色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ揮毫して欲しいと要望を受けて、定家は天智天皇から順徳院に至るまでの100人の歌人の和歌を1首ずつ選んで頼綱に対して書き送る。定家の好みの和歌を自由に選んだため、部類分けの内では、恋(46)、秋(15)。
仁治2年(1241年) 8月20日薨去。享年80。
――
展覧会概要 東京国立近代美術館
日本画家・下村観山は紀伊徳川家に代々仕えた能楽師の家に生まれ、橋本雅邦に学んだのち、東京美術学校に第一期生として入学しました。卒業後は同校で教鞭を執りましたが、校長の岡倉天心とともに辞職、日本美術院の設立に参加しました。
出品作品点数約150件、関東では13年ぶりの開催となる今回の回顧展では、狩野派、やまと絵の筆法を習得して若くから頭角を現した観山が、2年間のイギリス留学を通して世界をまたにかけた幅広い視野を身につけ、画壇を牽引する存在へと成長する軌跡を示します。そこからは、盟友の横山大観、菱田春草らとともに明治という新時代にふさわしい絵画を切り拓こうとした観山のひたむきな姿が浮かび上がってきます。
さらに、日本の古画や中国絵画の研究の成果、本人のルーツでもある能を主題とした絵画制作、時の政財界人とのサロンのようなネットワークにもスポットを当て、様々な角度から観山芸術の魅力に迫ります。これにより、明治から大正へと時代が移り変わる中で絵画のあり方に改めて向き合った観山が、自己表現のための芸術とはまた別の、作品を手に取る個人ひいては社会とともに生きる絵画を追い求めていったことが明らかになるでしょう。
――
※会期中、一部の作品の展示替えを行います。
前期展示:3月17日(火)〜4月12日(日)
後期展示:①4月14日(火)〜5月10日(日)
下村観山(1873 – 1930)
見どころ
1. 誰もが圧倒される“超絶筆技”を味わう
狩野派、大和絵、琳派、中国絵画そして西洋絵画まで、東西の伝統的な絵画表現を徹底的に学び、自由自在に筆を操った観山。今もなお、その繊細な筆技は他の追随を許さないほどです。
2. 観山芸術の意義を再検証−作品の意味を読み解き、成り立ちを探る―
よく見ると和洋折衷の不可思議な表現、ミステリアスなモチーフなど、観山の作品には気になる部分がたくさんあることが分かります。そこには技法の他に、その作品を描くことになった経緯(作品の成り立ち)も関係しています。これらをひとつひとつ解きほぐすことで作品の示す意図を明らかにし、それを通じて観山芸術の意義を再検証します。
3. 大英博物館蔵、英国留学時の観山作品が里帰り
新しい日本の絵画には色彩の研究が必要だと考え、日本画家初の文部省留学生としてイギリスへ留学した観山。現地で親交を深めた小説家で東洋美術研究家のアーサー・モリソンに贈った自作(大英博物館蔵)が里帰り!
作品からは、海外経験を通じ観山が考えた「日本画のあり方」をも感じていただけます。
――
■主な展示作品
《春日野》(1900)観山が27歳で描いた。春日大社の神鹿を描いたと思われる本作には、当時大観・春草らと試みていた「朦朧体」が用いられる。
下村観山『小倉山』明治42年(1909)、絹本着色、六曲一双屏風、各157.0×333.5㎝、横浜美術館蔵
《木の間の秋》1907(明治40)年 東京国立近代美術館蔵(通期展示)
《ディオゲネス》1903-05(明治36-38)年 大英博物館蔵 コピーライトThe Trustees of the British Museum(通期展示)
《魚籃観音》1928(昭和3)年 西中山 妙福寺蔵(通期展示)
《毘沙門天 弁財天》1911(明治44)年 徳島県立近代美術館蔵(後期展示①)
《獅子図屏風》1918(大正7)年 水野美術館蔵(後期展示①)
《大原御幸》(部分)1908(明治41)年 東京国立近代美術館(半期で巻替え)
《楓》1925(大正14)年 南湖神社蔵 画像提供:白河市歴史民俗資料館(前期展示)
https://www.momat.go.jp/exhibitions/567
――
★参考文献
下村観山展・・・狩野派、やまと絵、ルネサンス絵画、琳派の技巧と美の使徒、美の鬼、歌聖、藤原定家
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-91272f.html
大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第91回新古今歌人P12-16
新古今歌人、悲恋の花、式子内親王、西行、美への旅
https://t.co/2TYuF5tpEw
下村観山展、横浜美術館・・・紅葉舞う奥山
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-c0d6.html
「国宝 熊野御幸記と藤原定家の書―茶道具・かるた・歌仙絵とともに―」・・・御子左家の戦い、孤高の詩人、俊成・定家
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/12/post-f78257.html
新古今歌人、乱世に咲く花 美への旅  - 大久保正雄『地中海紀行 旅する哲学者 美への旅』
https://t.co/RxDxsJ0F0P
大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第70回 新古今歌人P32—37
――
下村観山展 図録 刊行日:2026年3月17日 発行:日本経済新聞社
目次
「伝統」の発見と行き先、絵画のあり方―観山芸術再考  中村麗子
観山さん、おかえり―生誕地、和歌山から紐解く画家への軌跡  宮本久宣
図版
第1部 画業をたどる――生涯と芸術
第1章 若き日の観山(1873–1902 誕生・上京〜修業時代〜日本美術院への参加)
第2章 西洋を識る(1903–1905 イギリス留学)
第3章 飛躍の時代(1906–1913 帰国〜日本美術院再興前夜)
第4章 画壇の牽引者として(1914–1931 日本美術院再興〜死没)
第2部 制作を紐解く――時代と社会
第1章 何をどう描いたか―不易流行
第2章 なぜこれを描いたか―日本近代と文化的アイデンティティ
第3章 作品の生きる場所、作品がつなぐもの
論考・資料
観山の古画理解―中国絵画を中心に  板倉聖哲
下村観山と能  小林健二
主要作品解説
年譜
文献目録
出品目録
――
■下村観山展
会場:東京国立近代美術館(東京都千代田区北の丸公園3-1)
会期:2026年3月17日(火)〜5月10日(日)

2026年3月 5日 (木)

花・flower・華 2026 ・・・苦節を超えて花開く、運命の出会い、逆境を超えて、天人天衣無縫

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第422回

近藤弘明「清夜」(1970山種美術館)を見る。近藤弘明「黄泉の華園」。常寂光浄土に落葉敷きつめて(高浜虚子)を思い出す。
ーー
【常寂光土、地平線に太陽が沈む、花の葬列】
あの世に咲く花、遠くの地平線に太陽が沈む。あの世に咲く美しい花、永遠に続く花の葬列。
どんな運命があなたを襲ったのか。この世の復讐、愛憎、敗北と曳航、果ての死。曲学阿世、虎の威を借る狐との戦い。親は敵、兄弟は第一の敵、カネの亡者と教育と藝術を愛する者の戦い、木を伐る者と木を育てる者の戦い、あなたを亡き者にするものとの戦い。
どんな運命が襲っても、命ある限り、善を成し遂げ、美を生み、生の証、学問の証、愛の証を残しているか。
あの世に咲く花、遠くの地平線に太陽が沈む。あの世に咲く美しい花、永遠に続く花の葬列。王の死、美しい王妃の遺体、若き皇子の死。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
*近藤弘明「黄泉の華園」(1974年)小田原市郷土文化館
――
*近藤弘明(1924-2015)仏教的世界観に彩られた幻想的絵画。小田原にアトリエを構え、創作活動を行った。小田原市郷土文化館、平成28年度に受贈した作品のうち代表作。
1924年、東京下谷の飛不動正宝院という天台宗三井寺派の寺に生まれる。49年、東京美術学校日本画科を卒業。50年、創造美術第3回展に初入選。54年、新制作協会展で新作家賞受賞。以後、受賞を重ね同協会会員となる。65年、日本国際美術展でブリヂストン美術館賞受賞。71年、第1回山種美術館賞展で優秀賞受賞。74年、創画会の結成に参加。75年、第7回日本芸術大賞受賞「ひとつの神秘的空間を示す画業に対して」。77年、NHKの番組「美をさぐる」に出演。78年、国際交流基金によるヨーロッパ巡回の現代日本画展に加山又造、横山操らと出品。87年、創画会を退会、以降は個展を中心に作品を発表する。『画論 華と祈り』岩波書店2007より
――
嵯峨天皇の花の宴の詩を思い出す。『神泉苑花宴賦落花篇』
【神泉苑花宴賦落花篇】 嵯峨天皇「凌雲集」より
過半青春何所催    和風數重百花開
芳菲歇盡無由駐    爰唱文雄賞宴來
見取花光林表出    造化寧假丹青筆
紅英落處鶯亂鳴    紫蕚散時蝶群驚
借問濃香何獨飛    飛來滿坐堪襲衣
春園遙望佳人在    亂雜繁花相映輝
過半の青春 何の催ほす所ぞ 和風数(しばしば)重(しき)りて 百花 開く。
芳菲(ほうひ)歇盡(けつじん)するに駐むるに由し無し 爰(ここ)に文雄を唱(よば)ひて 賞宴に来たる。
見取す 花光 林表に出づることを、造化寧(なに)ぞ仮らん丹靑(たんせい)の筆。
紅英(こうえい)落つる処 鶯(うぐいす)乱れて鳴き、紫萼(しがく)散る時、蝶 群れて驚く。
借問す 濃香 いづこより独り飛ぶかと、飛び来たりて坐に満ち 衣に襲(つ)くことに堪へたり。
春園遥かに望めば、佳人あり。乱雑繁花、相映じて輝き、
【嵯峨天皇の花の宴、神泉苑にて】花(桜)を賞翫しながら漢詩を作って遊ぶ典雅な催し、その始まりが嵯峨天皇の神泉苑の詩宴。神泉苑の詩宴は『日本後紀』弘仁三年(812)二月一二日の記事「神泉苑に幸(いでま)す。花樹を覧(みそな)はし文人に命じて詩を賦せしむ」
【大伴家持 春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女】春の園の紅色に咲く桃の花、その下に輝いている道に佇む乙女よ。『万葉集』巻十九、4139 大伴家持、天平勝宝二(750)年三月一日(4月15日)の暮(ゆふべ)に、春の苑の桃李の花を眺矚めて作る二首
【春夜桃李園に宴するの序 李白】それ天地は萬物の逆旅にして 光陰は百代の過客なり 而して浮生は夢の若し 歡を爲すこと幾何ぞ 古人燭を秉りて夜遊ぶ まことに以(ゆえ)
【ツタンカーメンの墓、壁右の裏に空間があり、ネフェルティティ王妃の墓がある】考古学者ニコラス・リーヴスの予想。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
参考文献
花・flower・華 2026 ・・・苦節を超えて花開く、運命の出会い、逆境を超えて、天人天衣無縫
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-547c9a.html
「桜 さくら SAKURA 2020 ―美術館でお花見 ! ―」山種美術館・・・花の宴
https://bit.ly/2UUizJw
ツタンカーメンの生涯と謎・・・秘められた古代エジプトの宗教的意味
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-207710.html
近藤弘明「幻華」「黄泉の華園」(1974年)小田原市郷土文化館
https://komeikondo.setenv.net/
――
美しく咲く花々は、古くから人々の心を魅了してきました。季節ごとに多彩な表情をみせる花は、四季を象徴するモティーフとして愛され、絵画の主題としても描き継がれています。この春、山種美術館では、花を描いた作品で館内を彩る華やかな展覧会を開催します。
本展では、朝日に輝く山桜を描いた横山大観《春朝》、雨上がりの陽光の中で咲く紫陽花をみずみずしく表した山口蓬春《梅雨晴》、色鮮やかな菊花が目を楽しませる酒井抱一《菊小禽図》、紅梅の咲く古木と白梅の咲く若木とが対照的な速水御舟《紅梅・白梅》など、春夏秋冬それぞれの季節を感じさせる花の名画が一堂に会します。また、田能村直入《百花》では四季の草花 100 種が植物図鑑のように忠実に描かれ、季節を越えた絢爛な世界が広がります。さらに、花と器をとり合わせた中川一政《薔薇》、桃の花咲く桃源郷を題材とした山本梅逸《桃花源図》など、花を描く際のさまざまなアプローチにも注目し、花の絵画の魅力をご紹介します。描かれた花により満開となった美術館で、百花繚乱の世界をどうぞご堪能ください。
田能村直入 《百花》 (部分) 1869 年 山種美術館 [画像請求 No. ①]
荒木十畝 《四季花鳥》1917 年 山種美術館 [画像請求 No. ②]
速水御舟 《紅梅・白梅》1929 年 山種美術館 [画像請求 No. ⑧]
田能村直入 《百花》 (部分) 1869 年 山種美術館 [画像請求 No. ①]
荒木十畝 《四季花鳥》1917 年 山種美術館 [画像請求 No. ②]
速水御舟 《紅梅・白梅》1929 年 山種美術館 [画像請求 No. ⑧]
本展のみどころ
1、
咲き誇る花の絵画で四季の美を堪能 !酒井抱一、横山大観、菱田春草、川端龍子、梅原龍三郎、速水御舟をはじめとした名だたる画家たちによる花の絵画を通じて、季節ごとに咲く多種多様な花々をお楽しみください。酒井抱一 《菊小禽図》 19 世紀[画像請求 No. ⑦]
横山大観 《春朝》 1939 年頃[画像請求 No. ③]
山口蓬春 《梅雨晴》 1966 年[画像請求 No. ⑥]
すべて山種美術館蔵
2.
花の表現に画家の個性が光ります!花の描き方は十人十色!淡い色彩でふっくらと花
びらを表した川端龍子《牡丹》、色鮮やかな四季の花々を画面いっぱいに描く荒木十畝《四季花鳥》など、個性豊かな花の名画をご紹介します。川端龍子《八ツ橋》、福田平八郎《花菖蒲》、速水御舟《椿ノ花》、杉山寧《朝顔図》、梅原龍三郎《薔薇と蜜柑》 ほか
3、
幻想的な花の世界にも注目!古くから花の美しさは人を魅了し、時に清らかさ、神聖さの象徴として扱われます。伝説に登場する花や、画家の思い描く空想上の花など、人々の心に宿る幻想的な花の作品を展示します。山本梅逸 《桃花源図》 1844-48 年頃山種美術館 [画像請求 No. ⑨]
――
■展覧会名:【特別展】 花・flower・華 2026 -横山大観の桜・川端龍子の牡丹・速水御舟の梅-
■会 期:2026年2月28日(土)~5月10日(日) ■開館時間:午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
■主 催:山種美術館、朝日新聞社 ■協 賛:エレコム株式会社
■会 場:山種美術館(〒150-0012東京都渋谷区広尾3-12-36) ■問い合せ:050-5541-8600(ハローダイヤル 電話受付時間:9:00-20:00)
■公 式 H P:https://www.yamatane-museum.jp/
※ 出品作品および展示期間は都合により変更される場合があります。
――
★★★★
【オリンピック競技の3形態】【ゲーム競技】敵の弱点を突く。虐め競技。盲点を突く。【記録競技】史上最速。【採点競技】自分の美技を磨く。芸術競技。自分との闘い。
【7年前「雷が落ちた」りくりゅうの運命の出会い】三浦「龍一くんと出会えたのは奇跡」木原「感謝しかない」三浦は「本当にたくさんの方々に『龍一くんと巡り会えたのは奇跡なんだよ』と言っていただける。本当に全てのモーメント、全ての人々に感謝している」。木原は三浦に対して「感謝しかない。辞めようと思っていた時に声をかけてくれたので。この出会いがなかったら、またこうして(北京から)2大会五輪に出ることができなかった。もう感謝しかない」と涙を流した。19年7月、木原が三浦を真上に投げ、三浦が身体を回転させる技、ツイストリフト。投げた瞬間に、木原は「雷が落ちた」と本能的に感じとった。「ここまで相性が合うんだ」と木原が思えば、三浦も「感じたことのない高さ。『空中時間って、こんなに長いんだ』と」。今でも「りくりゅう」最大の武器でもあるスピードは「2人とも大好き」。木原は「化学変化、そういったものがカップル競技に存在するんだな、と三浦さんと滑ってみて思いました」と、今につながる原点を語っていた。報知新聞社2025年2月17日
★★★★★
『戦わずして勝つことが善の善なり』『孫子』謀攻編16。15~17。
是の故に百戦百勝は、善の善なる者に非(あら)ざるなり。戦かわずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。『孫子』謀攻編16。15~17。
用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ。軍を全うするを上と為し、『相手をできるだけ傷つけずに勝利することが上策』軍を破るは之に次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之に次つぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之に次つぐ。『孫子』謀攻編15
『最上の勝ち方は、相手の謀を謀のうちに破る』故に上兵は謀を伐つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む。城を攻むるの法は、已むを得ざるが為なり。『孫子』謀攻編17。
2026年2月18日

2025年12月15日 (月)

LOVE いとおしい…っ!―鏑木清方の恋もよう、奥村土牛のどうぶつ愛―・・・亡き人恋ふる

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第412回
狂言綺語、達磨歌(禅問答のような難解な歌)を歌う、藤原定家でさえ、母、美福門加賀を偲ぶ哀傷歌には、真情が溢れている。
玉響(たまゆら)の露も涙もとどまらず亡き人恋ふる宿の秋風(新古今788)哀傷歌。
 *一一九三年7月二日亡母を偲び詠歌。二月十三日定家母没。
新古今歌人は、鹿を歌った。本阿弥光悦、俵屋宗達『鹿下絵新古今和歌巻』17世紀を思い出す。奥村土牛《鹿》、上村松篁《白孔雀》をみると、亡き母の愛犬、トイプードル、緑紅のダルマインコを思い出す。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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私たちの身の回りには、さまざまな愛の形があります。恋人同士の燃え上がるような愛、親子や夫婦など家族への愛、生まれ育った故郷への愛、身近な動物への慈しみの愛。また、最近よく耳にする「推し活」も、一つの愛の形といえるでしょう。この冬、山種美術館ではLOVEをテーマにした日本の近代・現代絵画を中心に取り上げ、ご紹介する特別展を開催します。
愛といえば、一番に思い浮かぶのが恋愛です。
鏑木清方は近松門左衛門作の浄瑠璃本『冥土の飛脚』に取材し、名品《薄雪》(福富太郎コレクション資料室)で、悲恋の物語を格調高く表しました。
北野恒富《道行》、池田輝方《お夏狂乱》。いずれも悲しいラブストーリーに基づく福富太郎コレクション屈指の名品。(福富太郎コレクション資料室)
家族愛の視点では、愛娘の初節句を祝い描かれた速水御舟《桃花》をはじめ、親子の愛情にあふれる優品が注目されます。
郷土愛の感じられる作品では、川﨑小虎が故郷を夢見る子どもの姿を《ふるさとの夢》に表しました。さらに、「目が楽しいから生きものを描くのが好き」と述べた奥村土牛の《兎》など、画家ならではの動物愛が表現された作品も数多くご紹介します。
冬はクリスマスやお正月、バレンタインデーなどで、親しい人、大切な存在に接する機会もあることでしょう。一年で最も愛が身近となるこの季節に、画家たちが多彩に描いたLOVEの名品をお楽しみください。
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本展のみどころ
みどころ①
「いとおしい…っ!」があふれた近代・現代の画家たちの作品を一挙公開!
恋愛、家族愛、故郷への愛、動物への愛、さらには信仰に基づく愛など、画家たちがさまざまな愛の形を描いた作品を一挙公開します!
奥村土牛《兎》 山種美術館 速水御舟《桃花》 山種美術館
みどころ②
福富太郎コレクション屈指の名品をご紹介!
みどころ③
小林古径の代表作《清姫》の連作全8点を展示!
能や歌舞伎の題材にもなった、道成寺にまつわる安珍清姫の伝説。それに取材した品格あふれる連作で、古径の代表作《清姫》を一堂に展示します!
小林古径《清姫》のうち「寝所」 小林古径《清姫》のうち「日高川」
*上記文中のうち、所蔵先表記のない作品はすべて山種美術館所蔵です。
■展示予定作品
鏑木清方《薄雪》 福富太郎コレクション資料室、 北野恒富《道行》 福富太郎コレクション資料室、 池田輝方《お夏狂乱》 福富太郎コレクション資料室 小林古径《清姫》、 小茂田青樹《愛児座像》、速水御舟《桃花》、川合玉堂《観世大士》、 小山硬《天草(洗礼)》、 奥村土牛《浄心》、 小倉遊亀《憶昔》、川合玉堂《鵜飼》、川﨑小虎《ふるさとの夢》、 横山操《越路十景》、奥村土牛《兎》。上村松篁《白孔雀》、小針あすか《珊瑚の風》他
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参考文献
LOVE いとおしい…っ!―鏑木清方の恋もよう、奥村土牛のどうぶつ愛―・・・亡き人恋ふる
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/12/post-e98dd4.html

没後80年記念「竹内栖鳳」・・・竹内栖鳳「班猫」村上華岳「裸婦図」
https://bit.ly/3TkPJ0z
どうぶつ百景 江戸東京博物館コレクションより・・・歌川広重「名所江戸百景」1857
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-f7b3b4.html
犬派?猫派? 俵屋宗達、竹内栖鳳、藤田嗣治から山口晃まで・・・遣唐使船で経典を守る猫
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-03c2db.html

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LOVE いとおしい…っ!―鏑木清方の恋もよう、奥村土牛のどうぶつ愛―
https://www.yamatane-museum.jp/exh/2025/love.html

2024年9月24日 (火)

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」・・・孤高の画家、熱帯の光芒

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第378回

孤高の画家【燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや、田中一村】10代にして与謝蕪村の南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」。17歳で東京美術学校日本画科に入学するが2か月で退学。東山魁夷と同期。40代以降、日展、院展、へ出展するが、落選。1958年50歳で奄美大島移住。15点の傑作。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1976。69歳で死す。
【田中一村(1908-1977)】17歳で東京美術学校日本画科に入学するが2か月で退学。南画家として出発。細密画にも挑む。30歳の時、父母と弟、死亡。千葉へ移住、農業しながら画家として活動。1947年39歳、『白い花』青龍展、入選。1958年50歳で奄美大島移住。大島紬の染色工として働き、漁港で魚を拾って生計を立てる。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1976。1977年9月11日76歳で死す。
【不屈の画家、田中一村】一村は30歳の時、千葉へ移住。40代以降、日展、院展、展覧会へ出展するが、落選を繰り返す。公募展に入選した唯一の作品《白い花》青龍社展1947年39歳。中央画壇への絶望を深め、奄美行きを決意、家を売る。1958年50歳で12月13日朝、奄美大島の名瀬港に到着。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1976を描き、69歳で死す。日曜美術館「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」1984年2月16日、放送された。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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田中一村(1908-1977) 17歳で東京美術学校日本画科に入学するが2か月で退学。南画家として出発。細密画にも挑む。30歳の時、父母と弟、死亡。千葉へ移住、農業しながら画家として活動。1947年39歳、『白い花』青龍展、入選。1958年50歳で奄美大島移住。大島紬の染色工として働き、漁港で魚を拾って生計を立てる。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1976
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【田中一村の同時代人】高島野十郎、斉藤真一、東山魁夷、杉山寧
【高島野十郎】1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年)9月17日)本名は彌壽、字は光雄。東京帝国大学水産学科を首席卒業した後に独学で絵の道に入り、画壇との付き合いを避け、独身を貫いた。透徹した精神性でひたすら写実を追求し、隠者のような孤高の人生を送った。生前はほぼ無名だったが、1986年に福岡県立美術館が初の回顧展が開かれた。『傷を負った自画像』1916
【斉藤真一】1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、岡山県倉敷市出身の洋画家、作家。映画「吉原炎上」の原作者。
【杉山寧】杉山 寧(1909年10月20日 - 1993年10月20日)は、日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。三島由紀夫の岳父。
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参考文献
【変貌する速水御舟】速水御舟(1883-1923)は、歴史画から出発、中国・宋代(11~13 世紀)の院体花鳥画、「折枝画」の様式、細密画、写実・象徴性・装飾性を融合、琳派の構図と装飾性へ到達する。

特別展 日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ―
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-cc9c4e.html
「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」・・・孤高の画家、熱帯の光芒
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/09/post-236a16.html
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田中一村(1902-1977)は、生涯にわたって個展などのかたちで作品を発表することなく、画壇の活躍に絶望、絵を描き続けた日本画家。明治41年(1908年)栃木に生まれ、50代の時に奄美大島へと移住した一村は、亜熱帯の花鳥や風土を題材に、澄んだ光に満ちた独特の絵画を数多く残した。
特別展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」、過去最大規模となる一村の回顧展。奄美で描いた代表作《不喰芋と蘇鐵》や《アダンの海辺》を筆頭に、神童と称された幼少期の絵画から、未完の大作、そして近年発見された初公開作品まで、250件超の作品を通して一村の全貌を紹介する。
第1章 東京時代:若き南画家として
一村の東京時代。栃木に生まれ、5歳の時に東京に移った一村は、彫刻師の父から絵画を学び、幼くして卓越した画才を示した。南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」。17歳で、東京美術学校(東京藝術大学)日本画科に入学するが、2か月後にで退学。「家事都合」。同期に東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾らがいる。一村は、当時人気を集めていた近代中国の文人画家による吉祥的画題の書画に倣い、若き南画家として身を立てた。
その後、弟と両親を立て続けに亡くした20代の一村は、転居を繰り返し、自らの方向性を模索。この時期一村は空白期とされていた。それまでの南画的な作風から離れ、《椿図屏風》等、力作を生みだすなど、新境地へと歩みを進めた。数え8歳の《菊図》、南画家時代の《蘭竹図/富貴図衝立》、画風転換期に手がけられた《椿図屏風》がある。
第2章 千葉時代:長い模索期
一村の千葉時代。20代で相次いで家族を失った一村は、昭和13年(1938年)、30歳の時、親戚を頼って千葉に移った。周囲との繋がりや支えを得た一村は、身近な小景画や仏画、季節の掛物など、目にみえる相手に向けて丁寧に作品を手がける。
20年にわたる千葉時代の一村は、屋敷の障壁画一式を任されるような大きな仕事を受け、その過程で花鳥画に新境地を見出し、九州・四国・紀南を巡る旅ののち、開放感に溢れた色紙絵を描いた。
一村は40代半ば以降、日展、院展、展覧会へ出展するが、落選を繰り返した。公募展に入選した唯一の作品《白い花》、《千葉寺 春》千葉の風景画、千葉時代という長い模索期に手がけられた作品は無数にある。
第3章 奄美時代:豊かな自然を題材に
一村の晩年、奄美時代を紹介。昭和33年(1958年)、50歳の一村は、単身で奄美大島に移った。一度は千葉に帰るものの、覚悟を決めて再び奄美に戻り、紡工場で染色工として働きつつ、奄美の自然を主題とした作品を制作。最晩年には工場を辞めて制作に注力し、《アダンの海辺》をはじめとする主要な作品を数多く描いたとされる。本展では、《不喰芋と蘇鐵》や《アダンの海辺》、《奄美の海に蘇鐵とアダン》など、奄美時代の作品の数々を展示する。
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展示作品の一部
田中一村 《不喰芋と蘇鐵》 昭和48年(1973年)以前 絹本着色 個人蔵
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田中一村 《アダンの海辺》 昭和44年(1969年) 絹本着色 個人蔵
コピーライト2024 Hiroshi Niiyama
田中一村 《奄美の海に蘇鐵とアダン》 昭和36年(1961年)1月 紙本墨画着色 田中一村記念美術館蔵
コピーライト2024 Hiroshi Niiyama
田中一村 《椿図屏風》 昭和6年(1931年) 絹本金地着色 2曲1双 千葉市美術館蔵
コピーライト2024 Hiroshi Niiyama
田中一村 《白い花》 昭和22年(1947年)9月 紙本金砂子地着色 2曲1隻 田中一村記念美術館蔵
田中一村 《ずしの花》 昭和30年(1955年) 絹本着色 田中一村記念美術館蔵
コピーライト2024 Hiroshi Niiyama
https://www.tobikan.jp/index.html
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特別展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」東京都美術館
会期:2024年9月19日(木)~12月1日(日)

2024年6月12日 (水)

犬派?猫派? 俵屋宗達、竹内栖鳳、藤田嗣治から山口晃まで・・・遣唐使船で経典を守る猫

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第371回

母の愛犬、トイプードル、守護精霊となって帰ってきた。学問僧を守るために。
【犬と藝術】縄文時代から猟犬として飼われて。弥生時代、番犬として飼われ、古墳時代、犬の埴輪も作られた。室町時代幕府による明との勘合貿易、ポルトガルとの南蛮貿易で唐犬、南蛮犬が珍重された。江戸時代、犬は放し飼いが一般的だったが、狆は愛玩犬として身分の高い女性や遊女に室内で飼われていた。喜多川歌麿『美人五面相 犬を抱く女』【愛犬家】円山応挙『雪中狗子図』1784長澤芦雪『菊花子犬図』18c、守屋多々志『慶長使節支倉常長』1981、川端龍子『立秋』
【日本の猫】奈良時代、遣唐使船で仏教経典を守るため、鼠を捕る猫を載せて渡来。弥生時代には人と猫が暮らしていた痕跡あり。平安時代、猫は貴族のペットとして紐で繋がれていた。道長の正妻・源倫子は猫を紐で繋いだ。源倫子は90歳まで生きた。『源氏物語』女三ノ宮の柏木が出会う場面に猫が出る。江戸時代、放し飼いされ鼠除けとして重宝される。猫好きの絵師・歌川国芳は猫を何匹も飼っている。近代の愛猫家・藤田嗣治はサインの代わりに猫を描いた。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【菱田春草『黒き猫』永青文庫】1910第四回文展に出展された作品。しかし、最初は美人画を出品する予定だった。大きく曲がった柏の木の幹に1匹の黒猫がうずくまり、じっとこちらを見つめている。輪郭のぼかしによる、柔らかな毛並みの表現が見事である。思わず触れてみたくなる。一方、柏の樹や葉は平面的に表されているが、黒猫と調和している。猫の黒と柏の葉の金色の対比も鮮やか。写実と装飾が見事に一致した傑作と、発表当時から高い評価を得た。菱田春草は36歳の若さで早世したが、4点の作品が重要文化財に指定されており、近代の美術家として最多である。伝統的な美意識と、西洋絵画の色彩表現や空間表現とをいかに融合させていくか、一作ごとに新たな表現を開拓していった結果である。
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「動物に対して残酷な人間は、人間との取り引きにおいても厳しい存在になる。動物への扱いで人間の心を判断することができる。」カントの言葉
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展示作品の一部
長沢芦雪 《菊花子犬図》18世紀(江戸時代) 個人蔵
円山応挙《雪中狗子図》(1784年、個人蔵)
歌川国芳《猫飼好き五十三疋》1848
伊藤若冲 狗子図 18世紀(江戸時代) 紙本・墨画 個人蔵
竹内栖鳳 《班猫》 1924年 山種美術館蔵 【重要文化財】
川端龍子 立秋 1932(昭和7) 絹本・彩色 大田区立龍子記念館
速水御舟 《翠苔緑芝》 1928年 山種美術館蔵
藤田嗣治《Y 夫人の肖像》(株式会社三井住友銀行)1935は、女性と4匹の猫を描いた
古屋多々志「慶長使節支倉常長」1981
解説の山下裕二先生は、俄然猫派
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没後80年記念「竹内栖鳳」・・・竹内栖鳳「班猫」村上華岳「裸婦図」
https://bit.ly/3TkPJ0z
どうぶつ百景 江戸東京博物館コレクションより・・・歌川広重「名所江戸百景」1857
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-f7b3b4.html
犬派?猫派? 俵屋宗達、竹内栖鳳、藤田嗣治から山口晃まで・・・遣唐使船で経典を守る猫
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-03c2db.html
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特別展:犬派?猫派? ―俵屋宗達、竹内栖鳳、藤田嗣治から山口晃まで―
会期:2024年5月12日~7月7日(前期:5月12日~6月9日、後期:6月11日~7月7日 
会場:山種美術館
住所:東京都渋谷区広尾3-12-36
開館時間:10:00~17:00 ※入館は閉館30分前まで
https://www.yamatane-museum.jp/access/

2023年10月26日 (木)

「日本画聖地巡礼 ―東山魁夷の京都、奥村土牛の鳴門―」・・・速水御舟 『名樹散椿』、美の根拠はどこに

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第346回
速水御舟、東山魁夷、奥村土牛、日本画家の名作には詩情がある。東山魁夷「京洛四季」(新潮社)を購入したのは、1960年代末だった。今、京都には詩情があるだろうか。
ドラマや映画、アニメ、小説、漫画などにゆかりの地を、作者や作品への思い入れを込めながら訪れることを「聖地巡礼」という。「絵画」でいえば、「風景画」に描かれている景勝の地、「歴史画」に描かれている古戦場などが「聖地」になるのだろうか。日本画専門の美術館である山種美術館の今回の特別展は、「日本画」の「聖地」がテーマ。展示作品と、それにゆかりの土地の情報を並べ、美術館にいながら「聖地巡礼」の旅を辿る。
【速水御舟 『名樹散椿』1929年】御舟が描いた五色八重散椿は、加藤清正が朝鮮から持ち帰り、豊臣秀吉により寺に寄進されたという逸話の名木。花の首から落ちる椿を、武士たちは忌み嫌ったとされるが、この椿は、花弁がひとひらずつ散るため珍重された。御舟の描いた樹齢約400年の椿は残念ながら枯れて、その遺伝子を受け継いだ二世の木が椿寺地蔵院の玄関脇に植えられている。(山崎妙子館長) 速水御舟の《名樹散椿》は、京都・椿寺地蔵院の名木「五色八重散椿」をモチーフにした。写真の樹木に比べると御舟が純粋なその姿を造形し、花を強調して描いている。
東山魁夷が京都の四季を描いた連作「京洛四季」(《春静》《緑潤う》《秋彩》《年暮る》の4作)。連作「京洛四季」20数点は、作家・川端康成の「京都は今描いといていただかないとなくなります、京都のあるうちに描いておいてください」という言葉をきっかけにして生まれた。
奥村土牛『鳴門』。鳴門海峡の渦潮を前に写生を繰り返した。「雄大で神秘的な渦潮を見ていると、描きたいという意欲が抑え難く湧き上がってきた」奥村土牛
動物画家・山口華楊『木精』。描かれるのは北野天満宮の境内にある欅の根。まるで精霊の触手のように生命力があふれている。動物画家・山口華楊は戦前、自庭の小屋に雉や白鷺、ミミズク、鳶などの鳥類のほか、猿、兎、犬などを飼い、観察し、常日ごろから写生した。北野天満宮にある樹齢600年と伝わる大欅「東風」を描いた作品。豊臣秀吉がこの地に御土居(おどい=城壁)を築いた時代には、すでに現在と同じ場所にあった。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【美の根拠はどこにあるのか】思想が美しいということは、美の根拠である。
【美しい詩の根拠】①内容が深い、②映像が鮮烈、③連想イメージの豊饒、④余韻が深い、⑤思想が高い、高い知性、⑥物語が深い、⑦容姿が美しい。ウィリアム・ブレイク『毒のある木』、宮澤賢治『インドラの網』、藤原定家「夢の浮橋」、プラトン『饗宴』、空海『三教指帰』序文
藤原定家『定家十体』藤原定家著と伝えられる。1213年以前に成立か。和歌を幽玄様・有心様などの一〇体に分類し、例歌を示す。幽玄様 長高様 有心様 事可然様 麗様 見様 面白様 濃様 有一節様 拉鬼様。
『毎月抄』藤原定家、承久元年(1219)中心は、和歌を十体(じってい)に分けて説き、その中心として「有心体(うしんてい)」をたてた点であるが、それは十体の一つであるとともに十体のすべてにもわたるとする。「有心」として説くのは作歌にあたっての観想の深さで、それが表現上に表れていることである。理想的な完成態は「秀逸体」として十体とは別に説かれる。藤平春男。そのほか心詞・花実の論,秀逸体論,本歌取りの技巧,題詠の方法,歌病,詠歌態度などについて説く。
【無心の境地】思想の中に、藝術の中に、美を発見するとき、学問僧は無心の境地になる。思想の書を書き、洗練していくことに没頭するとき、無心の境地に至ることができる。密教の三密、身密、口密、意蜜、の修行に没頭するとき、無心の境地に至る。大谷翔平の技を支える業は、修行僧のようである。秘密の身・口・意の三業。すなわち、仏の身体と言語と心によってなされる不思議なはたらき。また、密教の行者が手に契印を結ぶ身密、口に真言を唱える口密、心に大日如来を観ずる意密。三密加持すれば速疾に顕わる『即身成仏義』(823-824頃)
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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東山魁夷『年暮る』1968年 山種美術館蔵
東山魁夷『春静』1968(昭和 43)年 紙本・彩色 京都鷹峯
東山魁夷『秋彩』1986(昭和 61)年 紙本・彩色
奥山土牛 『鳴門』 1959年 山種美術館蔵
山口華楊『木精』 1976年 山種美術館蔵
速水御舟『名樹散椿』(重要文化財) 1929年 山種美術館蔵
奥田元宋『奥入瀬(秋)』1983(昭和58)年 紙本・彩色
米谷清和『暮れてゆく街』1985山種美術館
五色八重散椿第二世(写真:京都・椿寺地蔵院)
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参考文献
速水御舟『炎舞』『粧蛾舞戯』『名樹散椿』、山種美術館・・・舞う生命と炎と闇
細川家の至宝、珠玉の永青文庫コレクション・・・織田信長「天下布武」と菱田春草「黒き猫」
「日本画聖地巡礼 ―東山魁夷の京都、奥村土牛の鳴門―」図録2023
「日本画聖地巡礼 ―東山魁夷の京都、奥村土牛の鳴門―」・・・速水御舟 『名樹散椿』、美の根拠はどこに
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-3c178f.html
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「日本画聖地巡礼 ―東山魁夷の京都、奥村土牛の鳴門―」
会場:山種美術館(東京都渋谷区広尾3-12-36)
会期:2023年9月30日(土)~11月26日(日)
休館日:月曜休館、10月9日は開館、10日が休館
山種美術館(https://www.yamatane-museum.jp/

2023年8月20日 (日)

日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ―

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第339回

師、岡倉天心が辞任し、弟子たちは殉教する。【東京美術学校事件】明治31年1898年、岡倉天心の東京美術学校辞職で学校に反旗を翻す、急進派として懲戒免職。横山大観ら14人は辞職する。1898年、岡倉天心は日本美術院を設立。岡倉天心のもとで、横山大観(1868~1958)、菱田春草、下村観山らとともに日本画の革新を目指し、東洋の精神に西洋画の手法を取り込み、新しい表現様式を追求した。輪郭線を使わず、色彩の面的な広がりにより空気を描く技法を用いて、「朦朧体」と誹謗中傷された。【朦朧派】大観、春草、らは、朦朧体を用い、朦朧派と呼ばれ、貧苦に喘ぐ。横山大観は『流燈』1909で女性像を描き、新境地を拓くまで苦労した。『流燈』は、明治36年(1903)1月~7月に菱田春草とともに派遣されたインド旅行の体験を踏まえ、日本美術院の五浦研究所において完成した。
【院展】創設されたばかりの日本美術院(院展)で、横山大観や菱田春草たちは、輪郭線を使わない技法「朦朧体」で空気を表現することに努める、実験的な試みを行い、日本画に新たな局面を切り開いた。
政府主導の官展や画壇の中心にいた院展に対抗する画家が、青龍社(東京)、国画創作協会(京都)など美術団体を立ち上げ、画壇に大きな旋風を巻起こした。
【国画創作協会】土田麦僊、村上華岳、甲斐荘楠音。村上華岳、甲斐荘楠音は、アジャンタ石窟、レオナルド『モナリザ』『岩窟の聖母子』から学んだ妖艶な女性像を生み出した。
【青龍社】川端龍子(1886-1966)は、修行のためにアメリカに渡り、帰国後日本画に転向、独学で日本画を学んだ龍子は院展の同人になる。独創的な発想と斬新な色使いで構成された巨大な作品を好んだ。院展を脱退。自らが主催する青龍社を立ち上げ、以後亡くなるまで青龍展で作品を発表し続けた。「昭和の狩野永徳」と呼ばれた。青龍社の第一回展《鳴門》1929は、希少な岩絵具の群青を多用、大胆な構図を構想した。川端龍子は「健剛なる芸術」の創造を唱え、大衆に訴える作品を描き続けた、従来の「床の間芸術」に対抗し、広い展示場での展示に耐える、「会場芸術」を追及した。
【千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず】一日に千里も走ることのできる名馬は常に存在するが、それを見いだす伯楽は常に存在しない。世の中に有能な人はたくさんいるが、その才能を見いだせる人物は少ない。いつの時代でも有能な人材はいるが、才能を見抜く名人はいない。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
横山大観「波上群鶴」明治30年代、個人蔵
菱田春草《雨後》1907(明治40)年頃 絹本・彩色 山種美術館
土田麦僊《大原女》1915(大正4)年 紗本金地・彩色 山種美術館
川端龍子《鳴門》1929(昭和4)年 絹本・彩色 山種美術館
上村松園《牡丹雪》1944(昭和19)年 絹本・彩色 山種美術館
速水御舟《白芙蓉》1934(昭和9)年 紙本・墨画彩色 山種美術館
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参考文献
没後80年記念「竹内栖鳳」・・・竹内栖鳳「班猫」村上華岳「裸婦図」
https://bit.ly/3TkPJ0z
甲斐荘楠音の全貌・・・退廃の美薫る、謎多き画家、東映京都の時代考証家、趣味人、レオナルドの面影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-6cb36a.html
速水御舟『炎舞』『粧蛾舞戯』『名樹散椿』、山種美術館・・・舞う生命と炎と闇
https://bit.ly/2KCbOrW
「没後50年 横山大観」国立新美術館・・・天心と憂愁の詩人、『屈原』悲愴美
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/50_9647.html
細川家の至宝、珠玉の永青文庫コレクション・・・織田信長「天下布武」と菱田春草「黒き猫」
https://bit.ly/2Pjv8Kx
特別展 日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ―
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-cc9c4e.html
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明治時代に入り、西洋文化を取り入れつつ社会の近代化が進む中、画家たちは西洋画に匹敵、あるいは凌駕する日本の絵画を生み出そうと努めました。創設された日本美術院(院展)では、実験的な表現に取り組む画家たちがいました。大正・昭和時代を迎えると、政府主導の官展や画壇の中心にいた院展に対抗する画家が、青龍社(東京)、国画創作協会(京都)など美術団体を立ち上げ、画壇に大きな旋風を巻起こしました。
本展では、輪郭線を使わない技法「朦朧体」で空気の表現を試みた横山大観の《波上群鶴》(個人蔵)、菱田春草の《雨後》、女性が画家として生きる道を切り開いた上村松園の《牡丹雪》、希少な岩絵具の群青を大量に用いて記念すべき展覧会(第1回青龍展)へ出品した川端龍子の《鳴門》、10代で「日本画滅亡論」に直面するも後に日本を代表する画家となった松尾敏男の《翔》(山種美術館賞受賞作)などをご紹介いたします。明治時代から現代にいたる多彩な作品を通し、新たな日本画の創造に挑んだ精鋭たちの軌跡をご覧ください。
https://www.yamatane-museum.jp/exh/2023/elites.html
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特別展 日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ、山種美術館、2023年7月29日(土)~2023年9月24日(日)

2023年7月29日 (土)

虫めづる日本の人々・・・喜多川歌麿「夏姿美人図」鳴かぬ蛍が身を焦がす

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第335回
『源氏物語』『伊勢物語』において、鈴虫、松虫などの鳴く虫や蛍、鳴く虫や蛍を愛でる文化、虫撰は宮中で始まった。元時代12世紀、草虫図は、立身出世、子孫繁栄などの吉祥を表す。
江戸時代、蛍狩りが流行した。恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす。喜多川歌麿「夏姿美人図」、恋人と一緒に蛍狩りに行く女が化粧し身を整えている。鳥文斎栄之「蛍狩り美人図」、松本交山「百蝶図」谷文晁と酒井抱一と交友した画人。伊藤若冲「菜蟲譜」(1790)には、博物学者の眼がある。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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嵯峨天皇『舞蝶』『文華秀麗集』
嵯峨天皇は、蝶が舞う姿を詩に書いた。「数群の胡蝶空に飛び乱れ、無心にして処々春風に舞う、本より弦管の響に因らず、雑色粉々なり花樹の中、数群の胡蝶空に飛び乱れ」嵯峨天皇と空海
嵯峨天皇(786-842)と空海(774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は知的交友があった。仏教は智慧と慈悲によって生けるものの魂の苦を救う教えである。
平安初期。嵯峨天皇時代『文華秀麗集』に蝶の漢詩が出てくる。蝶の群舞を漢詩にした。音楽の響きなしに自ずから舞っている、現実の蝶が野原に舞っている姿を詠んだ。舞楽の「胡蝶」の光景から作られたものではない。
嵯峨天皇『舞蝶』『文華秀麗集』
数群胡蝶飛乱空(数群の胡蝶空に飛び乱れ)雑色紛紛花樹中(雑色粉々なり花樹の中)
本自還元不因響(本自弦管の響の因らず)無心処々舞春風(無心にして処々春風に舞う)
仏教は智慧と慈悲によって生けるものの魂の苦を救う教えであり、儒教は学問によって立身出世と子孫繁栄を成就する吉祥を祈る教えである。
【空海『聾瞽指帰』(797)】兎角公の屋敷で兎角公の甥蛭牙公子に放蕩青年を翻意、亀毛先生は儒教学問を学び立身出世することを教え、虚亡隠子は道教の不老長寿を教え、空海の化身である仮名乞児は仏教の智慧と慈悲を教える。空海は大学寮明経科退学、官僚の立身出世の道を辞めた理由。
「詩を学ぶことで鳥、獣、草木の名前を多く知ることは【立身出世、子孫繁栄】などの吉祥を表す」子曰く、小子、何んぞ夫の詩を學ぶこと莫きや。詩は以て興す可く、以て觀る可く、以て群す可く、以て怨む可く。これを邇くして父に事え、これを遠くして君に事え。多く鳥獸草木之名を識る。(『論語』陽貨・第17-9)
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【『万葉集』の和歌には蝶の歌はない】漢詩には表れる。夜あかりに集まる蛾のほうは、「ひひる」「火取り虫」として記録されている。『万葉集』には無かった蝶。
【八代集(古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞花集、千載集、新古今集にも「蝶」は登場しない)
『古今集』にわずかに「蝶」が詠まれている。思い惑う魂の象徴としての蝶、恋しい人に見せてはいけないものとしての蝶。
「散りぬれば後はあくたになる花を 思い知らずもまどう蝶かな」僧正遍照
「こてふ(胡蝶)にも似たるものかな花薄 恋しき人に見すべかりけり」紀貫之 
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草虫図は中国で成立した画題。画中には多種多様な草花と虫が描かれており、それが立身出世、子孫繁栄などの吉祥を表す。また、『論語』の中に孔子が弟子・陽貨に詩を学ぶ意義について説いた一節があり「詩を学ぶことで鳥、獣、草木の名前を多く知ることが出来る」(『論語』陽貨・第17-9)。
『歴代名画記』によれば、中国の六朝時代(3~6世紀)には虫が絵の主題として取り上げられ、唐時代(7~10世紀)には草虫を描く者があらわれた。
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展示作品の一部
きりぎりす絵巻(部分) 住吉如慶 二巻のうち 江戸時代 17世紀 細見美術館
白綸子地梅に熨斗蝶模様打掛 一領 江戸時代 19世紀 サントリー美術館 【展示期間:8/23~9/18】、
画本虫撰、喜多川歌麿 二冊のうち下 天明8年(1788) 千葉市美術館 【全期間展示】
夏姿美人図 喜多川歌麿 一幅 寛政6~7年(1794~95)頃 遠山記念館【展示期間:7/22~8/21】、
重要文化財 草虫図 双幅 元時代 14世紀 東京国立博物館 Image: TNM Image Archives 【展示期間:8/23~9/18】
重要文化財「菜蟲譜」伊藤若冲 一巻 寛政2年(1790)頃 佐野市立吉澤記念美術館 【展示期間:8/9~9/18】
鳥文斎栄之「蛍狩り美人図」18世紀
甜瓜図 土田麦僊 一幅 昭和6年(1931)埼玉県立近代美術館
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参考文献
「虫めづる日本の人々」サントリー美術館2023
東寺『金剛界曼荼羅』『胎蔵界曼荼羅』西院本・・・知恵と無明の戦い、生命の根源
速水御舟『炎舞』『粧蛾舞戯』『名樹散椿』、山種美術館・・・舞う生命と炎と闇
虫めづる日本の人々・・・喜多川歌麿「夏姿美人図」鳴かぬ蛍が身を焦がす
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-6032f9.html
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第一章:虫めづる国にようこそ
現代でも多くの人々が知る『源氏物語』『伊勢物語』において、鈴虫、松虫などの鳴く虫や蛍は、登場人物の心情を表すといった重要な役割を果たしています。また、嵯峨野周辺を散策して鳴く虫を捕まえ、宮中に献上する虫撰も行われるようになりました。宮廷を中心に鳴く虫や蛍を愛でる文化は発展し、虫聴と蛍狩が日本の歳時記となる礎が築かれました。
第二章:生活の道具を彩る虫たち
酒器、染織品、簪などの身近な道具には、蝶、蜻蛉、鈴虫、蜘蛛など様々な虫たちがあしらわれてきました。
2匹の蝶が仲睦まじく飛ぶ様子が夫婦円満を意味する文様となるなど、虫の行動と当時の人々の願いが結びつくこともありました。
第三章:草と虫の楽園―草虫図の受容について―
草虫図は中国で成立した画題。画中には多種多様な草花と虫が描かれており、それぞれが立身出世、子孫繁栄などの吉祥を表す。また、『論語』の中に孔子が弟子・陽貨に詩を学ぶ意義について説いた一節があり、そこでは「詩を学ぶことで鳥、獣、草木の名前を多く知ることが出来る」(『論語』陽貨・第17)。
中国最初の本格的な画史書である『歴代名画記』によれば、中国の六朝時代(3~6世紀)には虫が絵の主題として取り上げられ、唐時代(7~10世紀)には草虫を描く者があらわれたようです。北宋時代末頃には草虫図が画題として確立し、南宋時代(12~13世紀頃)は毘陵(現:江蘇省常州市)でより盛んに描かれるようになり、草虫図はこの地域の名産品となりました。以降、清時代に至るまで描き継がれており、草虫図という画題が非常に人気を集めた様子がうかがわれます。
また、中国で制作された草虫図は海を渡って、日本へと伝来し、将軍や大名など時の権力者たちに愛蔵されました。そして、日本の絵師たちも草虫図を学び、影響を受けました。草虫図が中国で画題として確立し、日本で愛好された様子をご紹介します。
第四章:虫と暮らす江戸の人々
江戸時代中頃に入ると野山へと出かけ虫の音に耳を澄ませる虫聴、夕暮れ時に蛍を追う蛍狩は、市井の人々に親しまれる風雅な娯楽となりました。江戸の道灌山や根岸が虫聴や蛍狩の名所として知られ、老若男女がこぞって出かけ、思い思いに楽しんでいる様子が当時の浮世絵や版本に表されています。また、市中には籠に蛍や鳴く虫を入れて売り歩く虫売りがあらわれ、夏の風物詩となりました。当時は、お盆の頃に捕らえた生き物を放し供養する放生会のために購入されることもあったようです。虫を入れる籠には趣向が凝らされており、虫の音を楽しみ愛玩していた様子を感じることができます。
本章では、蛍狩、虫聴が娯楽として広まり、やがて江戸の年中行事として息づいていく様子をご紹介します。
第五章:展開する江戸時代の草虫図―見つめる、知る、喜び―
江戸時代は本草学や、書物に登場する動植物の名前を同定する名物学が進展し、西洋の科学技術が流入した。
18世紀以降には、飛躍的な進歩がみられます。第八代将軍徳川吉宗が洋書の輸入制限を緩和し、全国的な動植物の調査を行いました。この政策の影響もあり、大名、旗本が中心となり、優れた博物図譜が制作されました。
『論語』に由来する「多くの生き物を知ることを奨励する」思想は受け継がれ、より多くの虫たちが画中に登場するようになりました。
喜多川歌麿『画本虫撰』のように優れた狂歌絵本を生み出しました。
中国から伝来した草虫図も尊重され、研究が続けられました。西洋の技術の流入、本草学などの学問の発展、古画学習、文芸などが影響しあい、草虫図という枠組みを越えた多彩な虫の絵が江戸時代に制作されました。伊藤若冲、酒井抱一、喜多川歌麿、葛飾北斎などこの時代を代表する絵師たちが虫をモチーフとして取り上げ、活況を呈した江戸時代の草虫図をご覧ください。
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虫めづる日本の人々、サントリー美術館、7/22(土)~9/18(月・祝)

2023年7月 6日 (木)

甲斐荘楠音の全貌・・・退廃の美薫る、謎多き画家、東映京都の時代考証家、趣味人、レオナルドの面影

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第334回
謎の美の本質は何か【デカダンス薫る謎多き「あやしい画家」、東映京都撮影所の時代考証家、趣味人、83歳で死す】甲斐荘楠音(1894-1978)京都市立絵画専門学校にて頭角を現す、竹内栖鳳、菊池契月、に評価される。24歳の時、甲斐荘楠音を高く評価する先輩、村上華岳(1888-1939)に招かれ、「国画創作協会」1918年(大正7)、第1回展に入選、「横櫛」(1916)、岡本神草「口紅」1918とともに、人気を博す。「幻覚 踊る女」(1920)は狂気の舞い。
【女人像、退廃美薫る、謎の美の本質】甲斐荘楠音は14歳の時、レオナルド「モナリザ」に感動した。甲斐荘楠音「横櫛」(1916)「女人像」(1920)、村上華岳「裸婦図」(1920)、の妖しさは、レオナルド「モナリザ」(1503-05)「聖アンナと聖母子」(1510) 下絵 (1405-158)のような両性具有(アンドロギュノス)的な美である。
甲斐荘楠音「春」(1929)は妖艶な美の到達点である。ボッティチェリ『春』1478を意識している。
【東映京都撮影所の時代考証家、趣味人、83歳で死す】1940年、画壇を去る。先輩、村上華岳は、1939死去。太秦の東映京都撮影所にて衣装の時代考証家として活躍、名優・市川右太衛門と甲斐荘楠音がともに作り上げた「旗本退屈男」シリーズの豪華衣裳、『雨月物語』(溝口健二監督・1953年)のために考案。演劇人、茶人、趣味人として生きる。先輩、村上華岳(1888-1939)を越えて83歳まで生きる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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*【甲斐庄楠音《横櫛》1916】3作ある。
「横櫛1」1915年、楠音21歳のとき、東京の長兄楠香を訪ね、兄嫁彦子らと本郷座で四代目沢村源之助が切られお富を演じる河竹黙阿弥作「処女翫浮名横櫛(むすめごのみうきなのよこぐし)」を観たが、その数ヵ月後に彦子が他界した。直後、兄嫁とともに見た芝居が、京都でも上演される。その翌年に、楠音は彦子をイメージしながら「横櫛」を一週間で描き上げた。顔の色は悪く、死相が現れているようにもみえる。襦袢の衿には天女が、地には炎と竜。死を暗示しているようにも思える。これが京都国立近代美術館所蔵。
「横櫛2」1917年、23歳の楠音は丸岡比呂史のアトリエを訪ねて一緒に制作するようになり、比呂史の妹トクと親しくなって婚約。しかし、許嫁であったトクが甲斐庄を捨てて年長の男と結婚するという事件が起こった。「横櫛1」の背景に「切られのお富」の絵をはめ込んだ。これは、「切られの与三郎」が出てくる「与話情浮名横櫛」を河竹黙阿弥が書換えた狂言「書換処女翫浮名横櫛に出てくる毒婦である。1918年、村上華岳の勧めにより、第1回国画創作協会展にこの「横櫛2」を出品し、入選。(広島県立美術館所蔵)Art & Bell by Tora cardiac.exblog.jp
【甲斐荘楠香、楠音の兄】高砂香料創業者、1880(明治13)年5月生まれ、京都の第三高等学校を経て、楠香は1901(明治34)年に京都帝国大学理工科大学純正化学科に入学、1906(明治39)年には久原躬弦教授のもと助教授になり1910(明治43)年9月、ヨーロッパへ旅立つ。
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【上智と下愚とは移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても堕落せず、最下の愚者は、どんなによい境遇にあっても向上しない。《「論語」陽貨》【どんなに地位、名誉、職業が高くても、教養がなければ生きる価値がない】最下の愚者は、向上しない。【最高権力者が最下愚の国】最上の知者は悪い境遇にあっても戦う。
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参考文献
『甲斐荘楠音の全貌、絵画、演劇、映画を越境する個性』図録、日本経済新聞社、2023
池田祐子「さまざまに越境し混交する個性」
梶岡秀一「肌香を聞く」
没後80年記念「竹内栖鳳」・・・竹内栖鳳「班猫」村上華岳「裸婦図」
「あやしい絵展」・・・退廃的、妖艶、エロティック、表面的な「美」への抵抗
「あやしい絵展」図録、毎日新聞社、2021
創業者 甲斐荘楠香物語 - 高砂香料工業株式会社
栗田 勇『女人讃歌―甲斐庄楠音の生涯』新潮社
甲斐荘楠音の全貌・・・退廃の美薫る、謎多き画家、東映京都の時代考証家、趣味人、レオナルドの面影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-6cb36a.html
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展示作品の一部
《幻覚(踊る女)》1920年頃、京都国立近代美術館
《女人像》1920年頃、個人蔵
《横櫛》1916年頃、京都国立近代美術館
《畜生塚》1915年頃、京都国立近代美術館
《春宵(花びら)》1921年頃、京都国立近代美術館
『旗本退屈男 謎の南蛮太鼓』衣裳、東映京都撮影所 ©東映(映画公開:1959年、監督:佐々木康、製作・配給元:東映株式会社、衣裳着用者:市川右太衛門)
『旗本退屈男 謎の幽霊島』衣裳、東映京都撮影所 ©東映(映画公開:1960年、監督:佐々木康、製作・配給元:東映株式会社、衣裳着用者:市川右太衛門)
『旗本退屈男 謎の暗殺隊』衣裳、東映京都撮影所 ©東映(映画公開:1960年、監督:松田定次、製作・配給元:東映株式会社、衣裳着用者:市川右太衛門)
『旗本退屈男 謎の大文字』衣裳、東映京都撮影所 ©東映(映画公開:1959年、監督:佐々木康、製作・配給元:東映株式会社、衣裳着用者:市川右太衛門)
《春》1929年、メトロポリタン美術館、ニューヨーク
「国画創作協会」解散後、甲斐荘が新たな活動の場とした絵画団体「新樹社」。その記念すべき第1回に出品された甲斐荘の意欲作《春》
Purchase, Brooke Russell Astor Bequest and Mary Livingston Griggs and Mary Griggs Burke Foundation Fund, 2019 / 2019.366
《虹のかけ橋(七妍)》1915-76年、京都国立近代美術館
《畜生塚》の前でポーズする楠音、1915年頃、京都国立近代美術館
太夫に扮する楠音、京都国立近代美術館
甲斐荘が『雨月物語』(溝口健二監督・1953年)のために考案し、アカデミー賞衣裳デザイン賞にノミネートされた衣裳もパリのシネマテーク・フランセーズから海を越えて来日
――
あやしさを超えて、誰も見たことのない甲斐荘楠音の全貌にせまる
甲斐荘楠音(1894-1978/かいのしょうただおと)は、大正期から昭和初期にかけて日本画家として活動し、革新的な日本画表現を世に問うた「国画創作協会」の一員として意欲的な作品を次々と発表しました。しかし、戦前の画壇で高い評価を受けるも1940年頃に画業を中断し映画業界に転身。長らくその仕事の全貌が顧みられることはありませんでした。本展は1997年以降26年ぶり、東京の美術館では初となる本格的な甲斐荘の回顧展です。これまで知られてきた妖艶な絵画作品はもとよりスクラップブック・写真・写生帖・映像・映画衣裳・ポスターなど、甲斐荘に関する作品や資料のすべてを等しく展示します。画家として、映画人として、演劇に通じた趣味人として――さまざまな芸術を越境する「複雑かつ多面的な個性をもった表現者」として甲斐荘を再定義します。
甲斐荘楠音が携わった時代劇映画
甲斐荘楠音は衣裳・風俗考証家として、日本の時代劇映画の黄金期を支えました。本展に展示される映画衣裳の制作には甲斐荘が携わっています。映画監督・溝口健二をして「甲斐荘君が手伝ってくれると品がよくなる」と言わしめた考証家としての手腕は、伊藤大輔や松田定次ら時代劇映画の名監督たちから厚い信頼を得ていました。本展には、東映京都撮影所に保管されていた往年の映画衣裳の数々が展示されます。名優・市川右太衛門が袖を通した絢爛豪華な衣裳をはじめ、数々の映画資料が甲斐荘の見識や感性を物語ってくれます。
――
甲斐荘楠音の全貌、絵画、演劇、映画を越境する個性、東京ステーションギャラリー
2023年7月1日(土)〜2023年8月27日(日)

2023年6月11日 (日)

「小林古径と速水御舟 ─画壇を揺るがした二人の天才─」・・・生涯の友

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第330回
小林古径と速水御舟は、11歳の年齢の差があるが互いに切磋琢磨する仲間であり、生涯の友である。
【変貌する速水御舟】速水御舟(1883-1923)は、歴史画から出発、中国・宋代(11~13 世紀)の院体花鳥画、「折枝画」の様式、細密画、写実・象徴性・装飾性を融合、琳派の構図と装飾性へ到達する。
1883年(明治16年)生まれの小林古径と1894年(明治27年)生まれの速水御舟は、11歳の年齢の差があるが互いに切磋琢磨する仲間であり、生涯の友である。
小林古径 《速水御舟(デスマスク)》 1935(昭和 10)年
速水御舟は画業に邁進するため、たびたび自宅を離れて制作活動を行っていた。没年の昭和 10 年、伊豆にしばらく隠棲して制作に没頭しようという計画を立てていたが、3 月 20 日、腸チフスという突然の病でこの世を去る。本作はその臨終に駆け付けた古径が描いたデスマスクで、元となったスケッチには「昭和十年三月二十日 前七時十五分」と記されている。古径はその死を悼み、追悼の言葉を数多く残した。
――
社畜の滅亡【人を滅ぼす方法はその人を忙しくする事】人を滅ぼすには朝から夕方まで彼を忙しくさせること。暇になると人は考える。どこに問題があるか。【奴隷の喜び】忙しいと満足感が生まれ、全ては正当化される。考える力がなくなる。考える時間が永遠になくなる。社畜の快楽は思考停止。
【優雅な生活は最高の復讐である】【指揮官、経営者の仕事は考えること。君子豹変】【考えることを止めた蛇は滅びる】【学問はスコレーから生まれる】真の学問は豊饒な時間(スコレー)からから生まれる。考えることを止めた蛇は脱皮できない。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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山下裕二先生の解説
第 1 章 歴史人物画からの出発、写実・古典への挑戦
小林古径は 1899(明治 32)年、16 歳のときに上京して梶田半古の画塾に入門、速水御舟は 1908(同 41)年、14 歳で松本楓湖の安雅堂画塾に入門しました。半古、楓湖共に歴史人物画を得意とした画家であり、古径と御舟も、師と同様に歴史人物画から画業をスタートさせました。二人は 1911(同 44)年、若手画家の研究会・紅児会で知り合います。
二人の親しい交流は、御舟が 1935(昭和 10)年に 40 歳で早逝するまで続きました。
1914(大正 3)年に日本美術院が再興されると、二人は院展で活躍しました。古径は第 1 回展で、御舟は第 4 回展で共に同人に推挙されています。大正時代半ば以降、御舟は、洋画家・岸田劉生や、中国・宋代の院体花鳥画(11~13世紀)から影響を受け、細密描写による徹底した写実へと作風を変化させました。古径もそれに感化され、一時期、細密描写による写実表現を手がけ、油彩による《静物》(No.13)も残しています。
また、二人は実業家・原三溪の援を受け、一緒に三溪の研究会や茶会に参加していました。
御舟は、それまでの徹底した写実に、象徴性、装飾性を融合させ、代表作《炎舞》(No.18 第 2 展示室)を完成させました。そして、昭和初期には《翠苔緑芝》(No.21)のように、琳派の構図と装飾性を意識した作品へと、挑戦を続けます。古径も《秌采》(No.34)や《唐蜀黍》(No.52 東京国立近代美術館 後期展示)など、琳派を意識した作品を制作しました。
(No. 13) 小林古径 《静物》 1922(大正 11)年 山種美術館
大正時代半ば頃、古径も御舟や他の日本画家たちと同様に、洋画家・岸田劉生や中国・宋代(11~13 世紀)の院体花鳥画に触発され、細密描写により対象の質感を徹底的に追求した静物画、花鳥画を制作している。日本画の画材にこだわった御舟と異なり、本作品が油絵具で描かれていることは注目に値する。北宋時代の徽宗皇帝の書体である「痩金体」風の落款も用いられている。
(No. 14) 速水御舟 《桃花》 1923(大正 12)年 山種美術館
御舟の長女・彌生の初節句のために描かれた作品。中国・宋代(11~13 世紀)の院体花鳥画を意識し、枝の一部をクローズアップして小画面に描く「折枝画」の様式に倣って描かれている。御舟は折枝画特有の構図に油彩画的な質感表現を加え、さらに院体花鳥画にはみられない金地の無背景に枝先のみを描き、小品ながらきわめて結晶度の高い作品に仕上げている。落款は、徽宗皇帝の書体である「痩金体」を意識している。
(No. 18) 速水御舟 《炎舞》【重要文化財】 1925(大正 14)年 山種美術館
大正 14 年の夏、軽井沢に滞在した御舟は、毎晩のように焚き火をし、炎と群がる蛾を観察した。蛾を正面向きに描きながらも、翅の周囲を暈すことで動きを感じさせる。炎は平安から鎌倉時代の仏画や絵巻の表現を踏襲するが、先端の渦を巻くような描写には画家の観察が活かされている。「もう一度描けといわれても、二度とは出せない色」と自ら語った背景の深い闇は、試行錯誤の末に到達した絶妙な色合いである。この作品は御舟にとって、古典の様式美と現実への観察眼を高い次元で融合させるという、大正期の先鋭的な問題意識を総括するものだった。15 年、初の個展に出品された本作品を実見した同時代の洋画家・岸田劉生は、御舟の「近業の中にても意義ある作品」であり、「その技術は実に見事なものであった」と記している。
(No. 21) 速水御舟 《翠苔緑芝》 1928(昭和 3)年 山種美術館
琳派の作品にみられる構図を意識的に取り入れた金地屛風。大胆な色面による構成を意図し、モティーフは平面的な形態に単純化され、装飾的効果を強調する。紫陽花の花のひび割れ、芝生や苔は人工顔料の花緑青の上に緑青を重ねて発色を良くした点など、随所に御舟の独創的な技法が活かされている。「もし、無名の作家が残ったとして、この絵だけは面白い絵だと後世いってくれるだろう」と自ら語った自信作。
第 2 章 渡欧体験を経て
1922(大正 11)年、古径は 39 歳のときに日本美術院の留学生として前田青邨とともに渡欧します。一方、御舟は1930(昭和 5)年、36 歳のときにローマで開催された日本美術展覧会に《名樹散椿》を出品し、その際、美術使節として横山大観らとともに渡欧します。
御舟は、ヨーロッパやエジプト滞在時の印象をもとに制作した《オリンピアス神殿遺址》(No.37)や《埃及土人ノ灌漑》(No.38)を、帰国の翌年、「速水御舟氏遊欧小作品展覧会」で発表しました。西洋の人物画の鑑賞体験を経て、それまでほとんど制作することのなかった人物画に挑戦します。一方で、《牡丹花(墨牡丹)》(No.43)や《秋茄子》(No.44)のように、水墨を基調とした花鳥画へ新境地を拓きました。
(No. 59) 小林古径 《猫》 1946(昭和 21)年 山種美術館
真正面を見据えた猫の姿には、愛らしさより仏画のような荘厳さ、気高さが漂う。本作品のためとみられるスケッチが複数残されており、構図の決定までに古径が試行錯誤を重ねたことが分かる。また、大正後期の滞欧時の写生には、エジプトのバステト神と思われる猫の図像も含まれ、ぴんと立った耳、四肢をそろえて鎮座する姿などが、本作品の猫とも共通する。
プレスリリースより
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参考文献
速水御舟『炎舞』『粧蛾舞戯』『名樹散椿』、山種美術館・・・舞う生命と炎と闇
「小林古径と速水御舟 ─画壇を揺るがした二人の天才─」・・・生涯の友
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/06/post-faf95f.html
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展示作品の一部
重要文化財 速水御舟 《炎舞》 1925年(大正14年) 絹本・彩色 山種美術館
速水御舟《翠苔緑芝》
小林古径 《極楽井》 1912年(大正元年) 絹本・彩色 東京国立近代美術館[前期展示(5月20日(土)〜6月18日(日))]
速水御舟 《牡丹花(墨牡丹)》 1934年(昭和9年) 紙本・墨画彩色 山種美術館
小林古径 《清姫》「鐘巻」 1930年(昭和5年) 紙本・彩色 山種美術館、《清姫》は、会期を通して全8面を5年ぶりに一挙公開。
小林古径 《猫》 1946(昭和 21)年 山種美術館
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「小林古径 生誕140年記念 小林古径と速水御舟 ─画壇を揺るがした二人の天才─」、山種美術館、2023年5月20日(土)から7月17日(月・祝)まで