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象徴派

2023年1月29日 (日)

エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才・・・ウィーン世紀末、分離派、象徴派、退廃藝術

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第312回
ハプスブルク帝国の遺産を旅したのは20年前の灼熱の夏、東欧4カ国の世界遺産の旅。チェスキークルムロフ城をめぐり、ベルベデーレ宮殿でクリムト『接吻』を見た。
オーストラリア・ハンガリー帝国の支配下、自由なきウィーン。多民族国家ハプスブルク帝国、解放したのは皇帝ではない。ハプスブルク帝国解体、感染爆発、サラエボ事件、第1次大戦。
【19世紀ウィーンに言論の自由はなかった。シラーは官憲の弾圧を恐れて、『自由賛歌』(Án die Freiheit)を『歓喜の歌』(Án die Freude)に書き換えた。】
【自由賛歌】シラーはフランス革命の4年前、1785年26歳の時友人の依頼により『自由賛歌』(Án die Freiheit)を書いた。封建的な政治形態と専制主義的な君主制に苦労した、ここで人類愛と何百万人の人達の団結による、人間解放を理想として歌った。官憲の弾圧を恐れて、『自由賛歌』(Án die Freiheit)を『歓喜の歌』(Án die Freude)に書き換えた。
【自由賛歌】ベートーベンはフランス革命からわずか3年後の1792年22歳の時、シラーの詩“歓喜に寄せて”(自由に寄す)と出会い深く感動、いつかこの詩に曲をつけたいと心に秘め、約30年後の54歳の時に完成、自らの指揮で初演。1824年5月7日ウィーン

【分離派、装飾藝術、象徴派、表現主義、1898年】19世紀末、ウィーン、自由の始まり
1897年、グスタフ・クリムト率いるオーストリア造形芸術家組合(ウィーン分離派)を結成。1903年ウィーン工房設立。ウィーン分離派やウィーン工房の重要なパトロンはユダヤ人富裕層。芸術家たちの実験的な精神や妥協のない創作が、この時代の傑作の数々を生み出した。
【1898年、第1回、分離派展】フェルナン・クノップフ、女性像展示。6つ年下の妹マルグリット・クノップフを描いた。【ベルギー象徴派フェルナン・クノップフ】フェルナン・クノップフ(Fernand Khnopff 1858年-1921年)は、フランス象徴派のモローに傾倒し、ラファエル前派のバーン=ジョーンズと親交を結び、ウィーン分離派のクリムトに影響を与えた。6つ年下の妹マルグリット・クノップフを多数描いた。
【世紀末の藝術家と女たち】
グスタフ・クリムトとエミーリエ・フレーゲ、フェルナン・クノップフと妹マルグリット、エゴン・シーレとエーディト
【エゴン・シーレ、クリムトと出会い】1907年、シーレ17歳、クリムトと出会い、その才能を認められた。
【1915年シーレ25歳、エーディト・ハームスと結婚、第一次大戦】エゴン・シーレ(1890-1918)、表現主義的絵画、次第に画壇で成功し始めた。アトリエの建物の向かいに住んでいた裕福なハームス家の姉妹と親しくなる。長年の恋人ワリーと別れ、25歳で妹のエーディトと結婚した。
アトリエの向かいにあるハームス姉妹の住んでいた家。シーレは結婚後すぐに第一次大戦に招集されるが、前線に送られることは免れた。
【1918年、エゴン・シーレ、28歳で死す】戦争から戻り、第49回分離派展に出品、成功をつかみかけたシーレ。しかし1918年10月31日、世界的に流行したスペイン風邪に罹り、シーレの子供を身籠ったまま妻エーディトは病に罹患し帰らぬ人となり、後を追うようにシーレも28歳の若さでこの家で亡くなった。28歳。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【エゴン・シーレの生涯と藝術(1890-1918)】
16歳で学年最年少の特別扱いでウィーン美術アカデミーに入学。
1907、17歳クリムトと出会い、17才にしてその才能を認められた。
シーレ「僕には才能がありますか」クリムト「才能がある?それどころかありすぎる」
【クリムトから離別】
クリムトや表現主義の影響を受けながら、20歳の若さで独自の画風を確立し、自画像や人物画をときには裸体で赤裸々に描き出した。
「僕はクリムトを知り尽くした。それはこの3月までのことで、いまの僕はその頃とまったく違っていると思う。」
【クルマウ(チェスキークルムロフ)】21歳
モルダウ湖畔の町クルマウ(現在のチェスキークルムロフ)へ移住するも、ヌードモデルが出入りする生活が住民に受け入れられず、3か月で町を去る。
「僕は早くウィーンから離れたい。この醜悪な町。(中略)僕は1人になりたい。ボヘミアに行きたい。」
【ノイレングバッハ、禁錮3日間の有罪】21歳
クルマウを去ったウィーン郊外のノイレングバッハに家を見つけました。静かな環境ながら、汽車を使えばウィーンまで1時間もかかりません。意外に便利です。
21歳の貧しいシーレは平屋の一戸建ての半分だけを借りました。暖房もトイレもな休暇小屋のような家で、シーレは一冬を過ごし、多くの作品を描きました。
ある日14歳の家出少女がシーレを訪れます。彼女をかくまったシーレは、誘拐などの疑いで訴えられてしまいます。シーレは留置所に20日以上も拘束されました。
最終的には「わいせつ画の掲示」の罪のみで禁錮3日間の有罪になったシーレ。ノイレングバッハ にはシーレが収監された留置所の部屋が今でも遺されている。
人々の目につく場所にわいせつ画を掲示したとして有罪となり、3日間収監される。
「偉大な世界観を獲得するためには、ナイーヴで純粋な目で世界を観察し、経験する必要がある。」
判決の際には「わいせつ画」として素描が燃やされる。シーレは傷つき、創作意欲を失いますが、恋人のワリーが留置所に通い、シーレを支えた。
22歳のシーレはウィーンに戻り、なんとか13区にアトリエを見つけた。後ろ盾だった クリムト のアトリエは目と鼻の先。最上階がシーレのアトリエ。
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展示作品の一部
エゴン・シーレ《自分を見つめる人Ⅱ(死と男)》1911年 油彩/カンヴァス レオポルド美術館蔵 Leopold Museum, Vienna
エゴン・シーレ《頭を下げてひざまずく女》1915年 鉛筆、グワッシュ/紙 レオポルド美術館蔵 Leopold Museum, Vienna
エゴン・シーレ《自画像》1912年レオポルド美術館蔵
グスタフ・クリムト《シェーンブルン庭園風景》1916レオポルド美術館蔵
エゴン・シーレ
ハームス姉妹の住んでいた家
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参考資料
フェルナン・クノップフ《愛撫》1986
フェルナン・クノップフ《マルグリット・クノップフの肖像画》(1887年)
エゴン・シーレ《スカートを上げた黒髪の少女》1911年、レオポルド美術館所蔵
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参考文献
ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道、国立新美術館・・・装飾に覆われた運命の女、黄金様式と象徴派
「クリムト展 ウィーンと日本 1900」東京都美術館・・・黄金の甲冑で武装した騎士、詩の女神に出会う、純粋な愛と理想
クリムト『ベートーベン・フリーズ』・・・理念を目ざす藝術家の戦い。黄金の甲冑で武装した騎士、詩の女神に出会う
「ユリイカ」(青土社)2023年2月号 特集=エゴン・シーレ ―戦争と疫禍の時代に―
「芸術新潮」2023年2月号100年前のパンデミックで逝ったあの男が、いま甦る!エゴン・シーレ特集
ロマン主義の愛と苦悩・・・ロマン派から象徴派、美は乱調にあり
フェルナン・クノップフ☆謎多き巨匠|madameFIGARO.jp(フィガロジャポン)
エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才・・・ウィーン世紀末、分離派、象徴派、退廃藝術
ウィーン史【ウィーン1740から1916】
1 啓蒙主義時代のウィーン 女帝マリア・テレジア、皇帝ヨーゼフ2世
女帝マリア・テレジアとその息子、皇帝ヨーゼフ2世が統治した1740年代から90年代のハプスブルク帝国の首都ウィーンでは、啓蒙主義に基づいた社会の変革が行われました。理性や合理主義に基づき、社会の革新を目指す啓蒙主義の思想がウィーンに入ってきたのは、他のヨーロッパ諸国に比べ早くはありませんでしたが、この思想の熱烈な支持者であったヨーゼフ2世は、宗教の容認、死刑や農奴制の廃止、病院や孤児院の建設など、行政や法律、経済、教育においてさまざまな改革を実行しました。
2 ビーダーマイアー時代のウィーン 1814ウィーン会議
ナポレオン戦争終結後の1814年には、各国の指導者たちが集まったウィーン会議が開催され、ヨーロッパの地図が再編されます。以降、1848年に革命が勃発するまでの期間は、「ビーダーマイアー」と呼ばれます。
3 リング通りとウィーン 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1848年-1916年)
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の治世(1848年-1916年)に、ウィーンは帝国の近代的首都へと変貌を遂げます。人口は、150万人から220万人にまで増加しました。
近代的な大都市への変貌は、1857年に皇帝が都市を取り囲む城壁の取り壊しを命じ、新しいウィーンの大動脈となる、「リング通り(リングシュトラーセ)」を開通させたことに始まります。沿道には帝国の要となる建築物が次々と建設されました。
4 1900年―世紀末のウィーン 建築家オットー・ヴァーグナー(1897年-1910年)
カール・ルエーガーがウィーン市長として活躍した時代(1897年-1910年)には、さらに都市の機能が充実します。路面電車や地下鉄など公共交通機関も発展し、建築家オットー・ヴァーグナーがウィーンの都市デザイン・プロジェクトを数多く提案しました。計画のみに終わったものもありますが、今日のウィーンの街並みは、実現されたヴァーグナーの建築によって印象付けられています。
絵画の分野では、1897年にグスタフ・クリムトに率いられた若い画家たちのグループが、オーストリア造形芸術家組合(ウィーン分離派)を結成しました。1903年には、工芸美術学校出身の芸術家たちを主要メンバーとして、ウィーン工房が設立されました。
ウィーン分離派やウィーン工房の重要なパトロンはユダヤ人富裕層でした。芸術家たちの実験的な精神や妥協のない創作が、この時代の傑作の数々を生み出したのです。
参考文献
日本・オーストリア外交樹立150周年記念、ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道
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エゴン・シーレ(1890-1918)は、世紀末を経て芸術の熟期を迎えたウィーンに生き、28年という短い生涯を駆け抜けました。シーレは最年少でウィーンの美術学校に入学するも、保守的な教育に満足せず退学し、若い仲間たちと新たな芸術集団を立ち上げます。しかし、その当時の常識にとらわれない創作活動により逮捕されるなど、生涯は波乱に満ちたものでした。
孤独と苦悩を抱えた画家は、ナイーヴな感受性をもって自己を深く洞察し、ときに暴力的なまでの表現で人間の内面や性を生々しく描き出しました。表現性豊かな線描と不安定なフォルム、鮮烈な色彩は、自分は何者かを問い続けた画家の葛藤にも重なります。
本展は、エゴン・シーレ作品の世界有数のコレクションで知られるウィーンのレオポルド美術館の所蔵作品を中心に、シーレの油彩画、ドローイング40点以上を通して、画家の生涯と作品を振り返ります。加えて、クリムト、ココシュカ、ゲルストルをはじめとする同時代作家たちの作品もあわせた約120点の作品を紹介します。夭折の天才エゴン・シーレをめぐるウィーン世紀末美術を展観する大規模展です。
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レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才、東京都美術館、1月26日(木)~4月9日(日)

2019年5月18日 (土)

ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道・・・装飾に覆われた運命の女、黄金様式と象徴派

Wien2019
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第182回
装飾に覆われた魔性の女、叶わぬ恋に懊悩する藝術家、無垢の少女の美。クリムトは、ヌード、妊娠、官能的なテーマを黄金様式で作品化、甘美で妖艶なエロスと死の香りは象徴派へと展開する。クリムト最期の言葉は「エミーリエを呼んでくれ」。世紀末の藝術家は、何を追求したのか。19世紀の階級社会と産業資本主義の抑圧が重くのしかかる世界。世紀末の藝術家はエロスとファッション、装飾と神秘に耽溺する。ラファエル前派は、ロイヤル・アカデミーに反旗を翻し、分離派のクリムトはウィーン大学天井画事件で体制に反旗を翻した。1860年代から始まる印象派に背を向け、象徴派の藝術家たちは、運命の女を追求した。世紀末の藝術家の生きる根拠は何か。藝術家たちは、19世紀の女性のファッションに革命をもたらした。
【クリムトとエミーリエ・フレーゲ】クリムトは1891年、生涯の恋人、エミーリエ・フレーゲと出会い、フレーゲ三姉妹を通じて、ウィーン貴族と上流階級との交流が始まる。クリムトは生涯結婚せず。彼女は、クリムト(Gustav Klimt 1862-1918)の死後、78歳まで、34年生きる。
クリムトは、エミーリエ・フレーゲの肖像画を2枚描いている。「17歳のエミーリエ・フレーゲ」と「27歳のエミーリエ・フレーゲ」である。
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【エミーリエ・フレーゲ】自分の意志で行動する聡明な女性。エミーリエ・フレーゲ(Emilie Louise Flöge 1874-1952)は、服飾デザイナーで、1904年、30歳の時にファッション・サロン「フレーゲ姉妹」を三姉妹で共同経営した。ウィーンのファッション界をリードした。1938年、閉店。
【ラファエル前派とアーティスティック・ドレス】1865年、モリスは、妻ジェーンのためにドレスをデザインしている。モリス、ミレイ、ロセッティ、ラファエル前派の画家たちは、モデルたちの装いがタイムレスで、後世に残る不朽の名作となるため、初期ルネサンス風のドレスを制作し、モデルたちに着せた。
【ジョルジュ・スーラ『ポーズする女たち』1888】『グランドジャッド島の日曜日の午後』の前で【コルセットを脱ぐ女たち】が描かれている。スーラは、19世紀の女性の人工的モードを批判している。(Georges Seurat Les poseuses1886-1888)
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【世紀末の藝術家、美女を求めて】
ロセッティ、ギュスターヴ・モロー、象徴派の美女の探求は、ベルギー象徴派へと展開する。【ベルギー象徴派】フェルナン・クノップフ(Fernand Khnopff) (1858-1921)『スフィンクスの愛撫』両性具有的な人物とスフィンクスの両方のモデルが画家の最愛の妹マルグリット。(1898年に開催された第1回ウィーン分離派展出品作)。彼のモデルとなっているのは殆ど6つ下の妹マルグリット・クノップフ。ジャン・デルヴィル(Jean Delville) (1867-1953)『オルフェウスの死』(1898)『レテ河の水を飲むダンテ』(1919)。デルヴィルは、70歳までブリュッセル美術アカデミーの教授をする。
【アール・ヌーボー、ミュシャの運命の女】
アール・ヌーボーの画家、アルフォンス・ミュシャ、素描《少女と鳩》1899年。早世した初恋のひと、ユリエ・フィアロヴァー(ユリンカ)の面影を描きつづけた。ミュシャ(1860-1939)、『舞踏 連作、四藝術』1898年。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より 
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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グスタフ・クリムト《エミーリエ・フレーゲの肖像》1902年 油彩/カンヴァス 178 x 80 cm ウィーン・ミュージアム蔵 ©Wien Museum
グスタフ・クリムト《パラス・アテナ》1898年 油彩/カンヴァス 75 x 75 cm ウィーン・ミュージアム蔵
グスタフ・クリムト《愛》(「アレゴリー:新連作」のための原画 No.46)1895年 油彩/カンヴァス 62.5 x 46.5cm ウィーン・ミュージアム蔵 ©Wien Museum /
エゴン・シーレ《自画像》1911年 油彩/板 27.5 x 34 cm ウィーン・ミュージアム蔵 
エゴン・シーレ《ひまわり》1909-10年 油彩/カンヴァス 149.5 x 30 cm ウィーン・ミュージアム蔵
マルティン・ファン・メイテンス《幼いヨーゼフ2世を伴ったマリア・テレジア》
1744年 油彩/カンヴァス 216.2 x 162.5 cm ウィーン・ミュージアム蔵
――
★参考文献
「クリムト展 ウィーンと日本 1900」東京都美術館・・・黄金の甲冑で武装した騎士、詩の女神に出会う、純粋な愛と理想
https://bit.ly/2ZM5pyR
「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」・・・夢を集める藝術家、パリの館の神秘家。幻の美女を求めて
https://bit.ly/2v5uxlY
「ラファエル前派の軌跡展」三菱一号館美術館・・・ロセッティ、ヴィーナスの魅惑と強烈な芳香
https://bit.ly/2Coy0jB
――
本橋弥生「エミーリエのドレスとクリムトのスモックはファッションだったのか」
福元崇志「表現することの逆説」『ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道』図録
「フェルナン・クノップフ☆謎多き巨匠」パリ市立プティ・ パレ美術館(Petit Palais)2019
https://madamefigaro.jp/paris/blog/keico/post-990.html
――
ベルギー象徴派
フェルナン・クノップス、ジャン・デルヴィル
『ベルギー、奇想の系譜』・・・怪奇と幻想うごめくフランドル
https://bit.ly/2u6J1nr
ベルギー幻想美術館 クノップフからデルヴォー、マグリットまで・・・金木犀の香る夜
https://bit.ly/2MvYgQd
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19世紀末から20世紀初頭にかけて、ウィーンでは、絵画や建築、工芸、デザイン、ファッションなど、それぞれの領域を超えて、新しい芸術を求める動きが盛んになり、ウィーン独自の装飾的で煌きらびやかな文化が開花しました。今日では「世紀末芸術」と呼ばれるこの時代に、画家グスタフ・クリムト(1862-1918)やエゴン・シーレ(1890-1918)、建築家オットー・ヴァーグナー(1841-1918)、ヨーゼフ・ホフマン(1876-1958)、アドルフ・ロース(1870-1933)など各界を代表する芸術家たちが登場し、ウィーンの文化は黄金期を迎えます。それは美術の分野のみならず、音楽や精神医学など多岐にわたるものでした。本展は、ウィーンの世紀末文化を「近代化モダニズムへの過程」という視点から紐解く新しい試みの展覧会です。18世紀の女帝マリア・テレジアの時代の啓蒙思想がビーダーマイアー時代に発展し、ウィーンのモダニズム文化の萌芽となって19世紀末の豪華絢爛な芸術運動へとつながっていった軌跡をたどる本展は、ウィーンの豊穣な文化を知る展覧会の決定版と言えます。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2019/wienmodern2019/
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日本・オーストリア外交樹立150周年記念
ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道
国立新美術館2019年4月24日(水)~8月5日(月)
国立国際美術館2019年8月27日(火)~12月8日(日)

2019年5月 6日 (月)

クリムト『ベートーベン・フリーズ』・・・理念を目ざす藝術家の戦い。黄金の甲冑で武装した騎士、詩の女神に出会う

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第181回
春爛漫、花の匂い漂う森を歩いて、美術館に行く。紫の躑躅と牡丹と八重桜の咲き匂う森から、秘書は駆け寄ってきた。彼女と八重櫻、園里黄桜が咲く道を歩いて行く。
灼熱のウィーンの夏の日の思い出が蘇る。ベルヴェデーレ宮殿の庭を歩いていくと、ハーピストが向こうから歩いてきた。ハプスブルク帝国、東欧の世界遺産の美をめぐる旅。あの夏、ベルヴェデーレ宮殿でクリムト『接吻』(1907-8)をみた。稲光の光る嵐の夜のドナウ川クルーズ、チェスキー・クルムロフ城を思い出す。
【理念を目ざす藝術家の戦い】クリムト『ベートーヴェン・フリーズ』は、黄金の甲冑で武装した騎士が、敵対する力と戦い、竪琴をもつ詩の女神に出会い、純粋な幸福と愛に辿りつく旅路。楽園の天使の合唱、シラーの詩「麗しき神々の火花よ」「この接吻を世界に」。*
夕暮れに、竪琴をもつ美の女神、美の楽園の天使が、美しい魂に舞い降りる。
【グスタフ・クリムト「接吻」ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館】恋人たち二人の足下の花園は断崖、かろうじて女性の両足が支える。男はグスタフ、女はエミーリエ。1891年、生涯の恋人、エミーリエ・フレーゲ(Emilie Louise Flöge 1874-1952)と出会い、フレーゲ三姉妹を通じて、ウィーン貴族と上流階級との交流が始まる。クリムトは生涯結婚せず。彼女は、クリムト(Gustav Klimt 1862-1918)の死後、34年生きる。
【理念を目ざす思想家の戦い】詩の霊感、藝術の魔力は、至高体験(Peak Experience)へと人を導く。天人には天人の喜びがあり、天から舞い降りた天の童子は、この世で修羅の道を歩み、この世の果てに美をめざす。理念を目ざす思想家は、密教真言の呪力で敵と戦い、怨敵調伏する。至高の美を探求する哲学者の旅。
【美女を探求する藝術家】ロセッティ『プロセルピナ』『祝福されし乙女』、ギュスターヴ・モロー『出現』『サロメ』『一角獣』、カラバッジョ『ホロフェルネスの首を斬るユディト』、レオナルド『レダ』。ロセッティの運命の女、ジェーン・バーデン。ギュスターヴ・モローの見つめ合う男女『オルフェウスの首を抱くトラキアの娘』『オイディプスとスフィンクス』『ヨハネとサロメ』。グスタフ・クリムト『接吻』の二人は何を意味するのか。断崖で口づけする二人。
クリムトは、エロスと装飾絵画の藝術家である。象徴的な絵画を200点、描いた。新しい運動の理念を象徴する絵画、「パラス・アテナ」「ヌーダ・ヴェリタス」。女性の神秘を追求した絵画、「ユディトⅠ」「サロメ」「ダナエ」。理念を目ざす藝術家の戦い、『ベートーヴェン・フリーズ』1902、「人生は戦いなり(黄金の騎士)」、「接吻」。生殖から死までの生命の円環、「女の三世代」。愛と性欲の神秘、対立と争い、老いと死を迎える人間の衰退、これらを絵画の中で象徴的に描いた。(Cf.マークス・フェリンガー)
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
*大久保正雄『藝術家と運命との戦い』
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美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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クリムト『ベートーヴェン・フリーズ』Gustav Klimt The Beethoven Frieze 1902
1:幸福への憧れ 上空に精霊たちが連なって浮遊する。これを辿ると「幸福への憧れ」。人生の苦悩を象徴する裸の男女は、「完全武装の勇者」(黄金の鎧の騎士)に助けを請い、騎士は人類を代表して、幸福を探求する。勇者を包み込むように寄り添う二人の女「同情」と「功名心」。
2:敵対する力 人類に敵対する力、危険や誘惑、世の中に潜在する敵に立ち向かう。ゴリラのような獣は、怪物テュフォン。獣が大きく広げた羽の中に蹲る痩身の女「心を蝕む悲しみ」。テュフォンの左側に立つテュフォンの娘、ゴルゴン三姉妹。「病気・狂気・死」。テュフォンの右側に佇む三人の女「肉欲・淫蕩・不節制」。
3:詩 浮遊する精霊たちに導かれる。竪琴を手にした女、詩の女神。人類の幸福への憧れが詩に癒される。
4:この接吻を全世界に、純粋な喜び、純粋な幸福、純粋な愛 藝術の女たちの祝福を受け、楽園の天使たちが合唱する。抱擁し接吻する男女。「この接吻を全世界に」。Diesen Kuss der ganzen Welt
――
参考文献
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
「クリムト展 ウィーンと日本 1900」東京都美術館・・・黄金の甲冑で武装した騎士、詩の女神に出会う、純粋な愛と理想
https://bit.ly/2ZM5pyR
「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」・・・夢を集める藝術家、パリの館の神秘家。幻の美女を求めて
https://bit.ly/2v5uxlY
「ラファエル前派の軌跡展」三菱一号館美術館・・・ロセッティ、ヴィーナスの魅惑と強烈な芳香
https://bit.ly/2Coy0jB
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「祝福されし乙女」・・・藝術家と運命との戦い、ロセッティ最後の絵画
https://bit.ly/2UoqUWz
――
マークス・フェリンガー「生命の円環― クリムト自身を映す象徴主義」『クリムト展 ウィーンと日本1900』図録
マークス・フェリンガー「クリムトにとって絵画は、肖像画も風景画も装飾品。」
福元崇志「表現することの逆説」『ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道』図録
【グスタフ・クリムト《接吻》(ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵)】1890、生涯の恋人となるエミーリエ・フレーゲ(1874-1952)と出会い、ウィーンの貴族や上流階級との交流が始まった。二人の足下にある花園は断崖で、かろうじてかかった女性の両足が、転落の予感と背中合わせという二人の瀬戸際の運命的な愛を暗示。1907年《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ》や《接吻》(1907-8)を制作、クリムトの黄金様式が頂点を迎えた。
千足伸行「グスタフ・クリムト《接吻》 溶け落ちる永遠」.
https://artscape.jp/study/art-achive/10152843_1982.html
革新とエロス、多彩な油彩画 「クリムト展 ウィーンと日本1900」
https://www.asahi.com/event/DA3S13984987.html
ライジンガー真樹 クリムトが捧げるベートーベンへのオマージュ 1
https://tokuhain.arukikata.co.jp/vienna/2010/11/post_238.html
――
Gustav Klimt The Beethoven Frieze 1902
Gustav Klimt The Kiss 1907-08
Gustav Klimt Emilie Flöge (aged 17)1891
――
19世紀末ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムト(1862-1918)。華やかな装飾性と世紀末的な官能性をあわせもつその作品は、いまなお圧倒的な人気を誇ります。没後100年を記念する本展覧会では、初期の自然主義的な作品から、分離派結成後の黄金様式の時代の代表作、甘美な女性像や数多く手掛けた風景画まで、日本では過去最多となる25点以上の油彩画を紹介します。ウィーンの分離派会館を飾る壁画の精巧な複製による再現展示のほか、同時代のウィーンで活動した画家たちの作品や、クリムトが影響を受けた日本の美術品などもあわせ、ウィーン世紀末美術の精華をご覧ください。東京都美術館
https://www.tobikan.jp/exhibition/index.html
――
★クリムト展 ウィーンと日本 1900、東京都美術館、4月23日(火)~7月10日(水)
豊田市美術館、7月23日(火)~10月14日(月・祝)

2019年5月 1日 (水)

「クリムト展 ウィーンと日本 1900」・・・黄金の甲冑で武装した騎士、詩の女神に出会う、純粋な愛と理想

Klimt2019
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第180回
ベルヴェデーレ宮殿の庭を歩いていくと、ハーピストが向こうから歩いてきた。灼熱のウィーンの夏の日の思い出。ハプスブルク帝国、東欧の世界遺産をめぐる旅。あの夏、ベルヴェデーレ宮殿でクリムト『接吻』(1907-8)をみた。ベルヴェデーレの裏庭のスフィンクスからシュテファン寺院と市街を眺める。ベルリン博物館島、マイセン、ドレスデン、ウィーン、ザルツカンマーグート、ヴォルフガング湖、白馬亭、ザルツブルク、プラハ、カレル橋、チェスキークルムロフ城、ドナウの薔薇ブダペスト。稲光が光り雷鳴が鳴る、嵐の夜のドナウ川クルーズ、ブダペストからチューリッヒへ飛行、蘇る青春の日の旅。
春爛漫、花の匂い漂う森を歩いて、美術館に行く。紫の躑躅と牡丹と八重桜の咲き匂う森から、秘書は駆けよってきた。彼女と八重櫻、園里黄桜が咲く道を歩く。
クリムト『ベートーヴェン・フリーズ』は、黄金の甲冑で武装した騎士が、敵対する力と戦い、竪琴をもつ詩の女神に出会い、純粋な幸福と愛に辿りつく旅路。楽園の天使の合唱、「麗しき神の火花よ」「この接吻を世界に」。竪琴をもつ美の女神、美の楽園の天使は、夕暮れ、美しい魂に舞い降りる。
【グスタフ・クリムト「接吻」ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館】二人の足下にある花が咲き乱れる花園は断崖で、かろうじて支える女性の両足。1891年、生涯の恋人となるエミーリエ・フレーゲ(1874-1952)と出会い、ウィーンの貴族や上流階級との交流が始まる。彼女は、クリムト(1862-1918)の死後、34年生きる。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より 
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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クリムト、人生と藝術・・・華やかな装飾絵画と女たち
大久保正雄『藝術家の運命との戦い』より
1、【新古典主義様式】クリムトは1883年、弟エルンストと画家仲間のフランツ・マッチュと、室内装飾を手がけるアトリエ「芸術家カンパニー」を共同経営。ウィーンの市街地が再開発された時代。今も残る、美術史美術館やブルク劇場の壁画。
黄金様式の作風は、この時代には生まれなかった。1888年ブルク劇場オープと同時に完成した天井画「タオルミーナの劇場」。
【クリムト、エミリエ・フレーゲとの出会い】
1890年初め、クリムトはエミリエ・フレーゲと出会い、彼女と生涯行動をともにする。クリムトの代表作『接吻』(1908)のモデルはエミリエ。フレーゲ3姉妹との出会いによって、オーストリア貴族と富裕層とのつきあいが始まる。エミリエとの出会いが、分離派、黄金様式、装飾藝術を生みだす。
【クリムト30歳、父と弟の死】
1892年、父が脳卒中で死す。弟エルンスト・クリムト、心膜炎で急死。生と死のテーマが胚胎する。
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2、【世紀末のクリムト1898】
19世紀末のクリムトの様式の特徴は、『ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)』でみられる象徴主義的な人物造形。『古代ギリシャとエジプト』『アテナ』1898。『ヌーダ・ヴェリタス』でクリムトは、ハプスブルグ家の政治と社会の両方を批判。苦しみを忘れるように女性の裸体を描く。
【ウィーン大学大講堂天井画事件1900】1894年クリムトはウィーン大学の大講堂の壁画の天井装飾画の3作品の依頼を受ける。19世紀内の完成は間に合わず《医学》《哲学》《法学》の3作品。理性を権威とする大学の意向と反対のポルノグラフィ。論争となる。クリムトの表現は性的で、当局と大衆の反撥を受ける。
3、【クリムト、1897年、ウィーン分離派、黄金様式】
【クリムト、1897年、ウィーン分離派創設、初代会長】クリムト『ヌーダ・ヴェリタス』(1899)は「確立された価値観を覆す」ことを宣言した。クリムトは第14回ウィーン分離派展示会『ベートーベン・フリーズ』(1902年)を発表。
4、【クリムト「黄金様式」】1901年から始まる。『ユディト』1901、『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』1907年『接吻』1908、黄金時代に制作した金箔絵画。
【グスタフ・クリムト『ユディト』1901】敵の将軍、ホロフェルネスの首を刎ね、手に持つヘブライ人の女ユディトの姿。 クリムトは切断されたホロフェルネスの首を手に持つユディトが恍惚の瞬間の表情を描く。
【クリムト『接吻』愛のテーマ】クリムト『接吻』1907-8。花が咲き乱れる花園の断崖の上に立つ二人。女の両足が断崖に踏みとどまる。女はエミリエ・フレーゲ、男はクリムト自身。『ベートーヴェン・フリーズ』1902『生命の木』1905、から展開した。
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5、【クリムト、女たち、装飾絵画】愛と死
【苦悩するクリムト、36歳】1899年、7月、9月、2人の女が非嫡出子を生み、クリムトは窮地に陥る。誘惑する女と残酷な現実に苦悩する。《亡き息子オットー・ツィンマーマンの肖像》1902、3番目の子が死亡する。
【クリムト、55歳で死す】1911年作品『死と生』が、1911年、ローマ国際芸術展で最優秀賞を受賞。1915年に母アンナが死去。3年後の1918年2月6日にクリムトは当時世界的に流行していたスペイン風邪で死去。ウィーン、ヒーツィングにあるヒエットジンガー墓地に埋葬された。55歳。
【クリムト、女たち、装飾絵画】毎日のようにクリムトの家の扉をたたく富裕層のパトロンで溢れかえり、騒がしい日々。富裕層の夫人、令嬢、モデルの女性がいつもクリムトの家にやってきて、みずから服を脱ぎ、ヌードになる。
クリムトは、生涯結婚しなかったが、多くのモデルと愛人関係にあり、非嫡出子の存在が14人確認されている。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
グスタフ・クリムト《ユディトⅠ》 1901年 油彩、カンヴァス 84 x 42 cm ウィーン、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館© Belvedere, Vienna, Photo: Johannes Stoll
グスタフ・クリムト《女の三世代》1905年ローマ国立近代美術館Galleria Nazionale d’Arte Moderna e Contemporanea, Roma
《女の三世代》1905は、眠る幼子と幼子を抱く若い母とうなだれる老女、三世代の生命の円環。
グスタフ・クリムト《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》1899年 油彩、カンヴァス 244×56.5cmオーストリア演劇博物館© KHM-Museumsverband, Theatermuseum Vienna
グスタフ・クリムト《ベートーヴェン・フリーズ》正面の壁「敵意に満ちた力」
《ベートーヴェン・フリーズ》第3の壁1984年(原寸大複製/オリジナルは1901-1902年、216×3438cm)ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館 © Belvedere, Vienna
グスタフ・クリムト《17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像》1891年 パステル、厚紙67×41.5cm 個人蔵
グスタフ・クリムト《ヘレーネ・クリムトの肖像》1898年 油彩、厚紙 59.7×49.9 cm
個人蔵(ベルン美術館寄託)Kunstmuseum Bern, loan from private collection
グスタフ・クリムト《亡き息子オットー・ツィンマーマンの肖像》1902年 チョーク、紙
グスタフ・クリムト《アッター湖畔のカンマー城III》1909/10年 油彩、カンヴァス
グスタフ・クリムト《オイゲニア・プリマフェージの肖像》1913/14年 油彩、カンヴァス
フランツ・マッチュ「女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ」1889油彩、カンヴァス
エルンスト・クリムト「フランチェスカ・ダ・リミニ」1890油彩、カンヴァス
フランツ・マッチュ「ソフォクレス『アンティゴネ』上演中のアテネのディオニュソス劇場(ブルク劇場天井画のための下絵)」1886年 油彩、カンヴァス
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参考文献
マークス・フェリンガー「生命の円環― クリムト自身を映す象徴主義」『クリムト展 ウィーンと日本1900』図録
マークス・フェリンガー「クリムトにとって、絵画は肖像画も風景画も装飾品である。」
福元崇志「表現することの逆説」『ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道』図録
【グスタフ・クリムト《接吻》(ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵)】1890、生涯の恋人となるエミーリエ・フレーゲ(1874-1952)と出会い、ウィーンの貴族や上流階級との交流が始まった。二人の足下にある花園は断崖で、かろうじてかかった女性の両足が、転落の予感と背中合わせという二人の瀬戸際の運命的な愛を暗示。1907年《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ》や《接吻》(1907-8)を制作、クリムトの黄金様式が頂点を迎えた。
千足伸行「グスタフ・クリムト《接吻》 溶け落ちる永遠」.
https://artscape.jp/study/art-achive/10152843_1982.html
革新とエロス、多彩な油彩画 「クリムト展 ウィーンと日本1900」
https://www.asahi.com/event/DA3S13984987.html
ライジンガー真樹 クリムトが捧げるベートーベンへのオマージュ 1
https://tokuhain.arukikata.co.jp/vienna/2010/11/post_238.html
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クリムト展 ウィーンと日本 1900、東京都美術館、4月23日(火)~7月10日(水)
豊田市美術館、7月23日(火)~10月14日(月・祝)
https://www.tobikan.jp/exhibition/index.html

2019年4月16日 (火)

「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」・・・夢を集める藝術家、パリの館の神秘家。幻の美女を求めて

Moreau2019
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第179回
花吹雪、桜の花びら舞う道を歩いて、美術館に行く。夢を集める藝術家、パリの館に閉じ籠もる神秘家。ギュスターブ・モローは、ボードレール『悪の華』を愛読し、ギリシア神話、古代史を愛好した。幻の美女たちを求め、画きつづけた。生涯独身だったモローは、母親ポーリーヌと58年間共に暮らした。母親を描いた素描は40点。アレクサンドリーヌは、81歳で死す。10歳年下の女、穏やかで高潔な精神をもった女性アレクサンドリーヌとの親交は31年続いた。アレクサンドリーヌは、54歳で死す。愛する人の死、友人たちの死、ギュスターブ・モローは、自らの運命を意識し、72歳で死ぬまで絵画制作に没頭する。
【愛する人の死とギュスターブ・モロー美術館】
モローは、15歳と31歳の時、イタリアを旅する。「オイディプスとスフィンクス」(1861-64)を始めとして、ギリシア神話の主題を描く。恋人が1890年に死去。「エウリュディケの墓の上のオルフェウス(Orphée sur la tombe d'Eurydice)」(1890) )を制作。友人の死、愛する女性の死をへて、自らの運命を意識し、72歳で死ぬまで、自らの館を美術館にすることに努力する。ジャヤバルマン7世が自らの死を意識してバイヨン寺院を建設したように、ギュスターブ・モローは美術館をつくった。*
【藝術と魔術】藝術は悲しみと苦しみから生まれる。絵を描くのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、一種の魔術なのだ。敵との闘争における武器なのだ。いかなる創造活動も、はじめは破壊活動だ。夢は現実を超え、現実を変革する。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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ギュスターヴ・モロー、ロセッティ(1828-82)、クリムト(1862-1918)、19世紀の画家たちは、なぜ運命の女を追求したのか。ルネサンス、バロックの藝術家は、ギリシア神話、古代史をイメージ化した。レオナルド・ダ・ヴィンチ『レダと白鳥』、ミケランジェロ『レダ』、カラバッジョ『ホロフェルネスの首を斬るユディト』。
【愛する人の死】ギュスターブ・モローは、2人の女性を愛した。「世界で一番大切な存在」母、ポーリーヌ・モロー(1884没)。最愛の恋人アレクサンドリーヌ・デュルー(1836-1890没)。悲しみに暮れたモローは「エウリュディケの墓の上のオルフェウス(Orphée sur la tombe d'Eurydice)」1890を制作。『パルカと死の天使』1890。
【運命の女(ファムファタール) 】ギュスターブ・モローは、魅力的な女を描きつづけた。男を狂わせる運命の女(ファムファタール)。1、男を破滅に導く女、セイレーン。レダ、ヘレネ、クレオパトラ。トラキアの乙女。2、欲望を求める女、皇妃メッサリーナ。3、無垢な美しさが人を狂わせる女の誘惑、エウロペ、一角獣を抱く貴婦人。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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ギュスターヴ・モロー(1826-1898)
父、ルイ・モローは、建築家。
1841年、15歳 1回目のイタリア旅行。フィレンツェ、ピサを旅する。
1852年 モローの両親がギュスターブのために、ラ・ロシュフーコー通り14番に、土地と家を購入。
1856年 友人、テオドール・シャセリオーが37歳で死去。
1857年-58年、31歳から32歳。1857年10月から1859年まで、2回目のイタリア滞在。
偉大な芸術家たち(ミケランジェロ、ヴェロネーゼ、ラファエロ、コレッジョ等)の作品を模写する。ローマに滞在した後、モローはフィレンツェ、ミラノ、ベネチアを訪れ、そこでカルパッチョを知る。若いエドガー・ドガと親交を結ぶ。両親とナポリに滞在した後、
1859年9月パリに戻る。デッサンのモデルとなったアレクサンドリーヌ・デュルーに出会う。モロー33歳、アレクサンドリーヌ23歳。彼女は1890年に54歳で他界するまで、モローの「最高でたった一人の女友達」となる。
1862年 父、ルイ・モロー72歳で死去。「私は己の死と、私の作品の行く末を案じている」ギュスターブ・モロー
1864年『オイディプスとスフィンクス(Oedipe et le Sphinx)』1864
1865年『オルフェウス Orpheus』1865 オルフェウスはギリシアの吟遊詩人。最愛の妻エウリュディケが亡くなり、冥界まで行って連れ帰ろうとしたが、失敗した。トラキアの乙女たちがオルフェウスの気を引こうとしたが、彼は拒んだ。ディオニュソスの祭の最中、娘は槍を掴むとオルフェウスに投げつけ、他の娘たちも加わり、彼は八つ裂きにされた。頭と竪琴は河に投げ込まれ河をさまよい、ニンフたちに発見された。
1884年、母、ポーリーヌ・モロー、81歳で死去。
1890年、64歳 恋人アレクサンドリーヌ・デュルー、54歳で死去。
1892年、66歳、国立美術学校(エコール・デ・ボザール)、教授となる。
1895年、69歳、自邸を美術館にするため、建築家アルベール・ラフォンに依頼する。改築を開始。
1898年、ギュスターブ・モロー、72歳で死去。
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参考文献
「ギュスターヴ・モロー ギュスターヴ・モロー美術館所蔵」図録Bunkamura、2005
「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」図録2019
貴婦人と一角獣展・・・タピスリーの謎、五感と「我が唯一の望み」
https://bit.ly/2pwbOwY
運命の女
「ラファエル前派の軌跡展」三菱一号館美術館・・・ロセッティ、ヴィーナスの魅惑と強烈な芳香
https://bit.ly/2Coy0jB
ラファエル前派展 英国ヴィクトリア朝絵画の夢・・・愛と美の深淵
https://bit.ly/2MGcs9l
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「祝福されし乙女」・・・藝術家と運命との戦い、ロセッティ最後の絵画
https://bit.ly/2UoqUWz
ベルギー、奇想の系譜、Bunkamura・・・怪奇と幻想うごめくフランドル
https://bit.ly/2u6J1nr
高階秀爾、中山公男『象徴派の絵画』朝日新聞社1992
【三島由紀夫『癩王のテラス』】肉体の崩壊と共に、大伽藍が完成してゆくといふ、そのおそろしい対照が、あたかも自分の全存在を芸術作品に移譲して滅びてゆく芸術家の人生の比喩のやうに思はれたのである。生がすべて滅び、バイヨンのやうな無上の奇怪な芸術作品が、圧倒的な太陽の下に、静寂をきはめて存続してゐるアンコール・トムを訪れたとき、人は芸術作品といふものの、或る超人的な永生のいやらしさを思はずにはゐられない。壮麗であり又不気味であり、きはめて崇高であるが、同時に、嘔吐を催されるやうなものがそこにあつた。三島由紀夫
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展示作品の一部
ギュスターヴ・モロー「出現」(L'Apparition)1876頃 キャンバスに油彩 142×103cm ギュスターヴ・モロー美術館蔵 Photo ©RMN-Grand Palais / René-Gabriel Ojéda / distributed by AMF。
ヘロデ王の前で踊るサロメの目の前に出現したヨハネの首の幻影。聖なるものの出現。神秘の出現。
モロー「エウロペの誘拐」(L'enlèvement d'Europe)(1868)
モロー「一角獣」1885年頃 油彩/カンヴァス 115×90cm ギュスターヴ・ モロ一美術館蔵 Photo ©RMN-Grand Palais / René-Gabriel Ojéda / distributed by AMFギュスターヴ・ モロ一美術館蔵
モローが1883年にパリのクリュニー中世美術館で6枚のタピスリー《貴婦人と一角獣》を見たことから生み出された作品、モロー芸術の傑作。
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象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モロー(1826-1898)は、神話や聖書をテーマにした作品で知られています。産業の発展とともに、現実主義的、物質主義的な潮流にあった19世紀後半のフランスにおいて彼は、幻想的な内面世界を描くことで、真実を見いだそうとしました。本展は、そのようなモローが描いた女性像に焦点をあてた展覧会です。出品作品は、パリのギュスターヴ・モロー美術館が所蔵する、洗礼者ヨハネの首の幻影を見るサロメを描いた名作《出現》や、貞節の象徴とされた幻獣を描いた《一角獣》を含む油彩・水彩・素描など約70点によって構成されます。神話や聖書に登場する、男性を死へと導くファム・ファタル(宿命の女)としての女性、誘惑され破滅へと導かれる危うい存在としての女性、そしてモローが実生活において愛した母や恋人。展覧会では、彼女たちそれぞれの物語やモローとの関係を紐解いていき、新たな切り口でモロー芸術の創造の原点に迫ります。
https://panasonic.co.jp/ls/museum/
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「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」
パナソニック汐留ミュージアム、4月6日~6月23日
あべのハルカス美術館. 7月13日(土)~9月23日(月・祝)