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印象派

2026年5月18日 (月)

大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬

Gogh-ueno-2026
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第435回

【ゴッホ《星月夜》《糸杉のある麦畑》(1889)《糸杉と星の見える道》(1890)】ゴッホ『糸杉』はすべて、サン・レミ・ド・プロヴァンス1889で描かれた。
1853年、オランダ南部のズンデルト村で牧師一家の長男として生まれたファン・ゴッホは、画廊勤務や伝道師の仕事を経て、27歳の頃に画家になる決心をする。ついに天職を見つけた。1883年、両親の住むニューネンに移る。《白い帽子をかぶった女の頭部》や初期の代表作《じゃがいもを食べる人々》。ハーグ派のヨーゼフ・イスラエルスとバルビゾン派のミレーの影響を受ける。1886年2月、パリで画商として活躍していた弟テオの勧めで、パリへやってきたファン・ゴッホは、ピサロ、トゥールーズ=ロートレック、ベルナールら同時代の画家たちと密接な関係をもつ。モネの色彩感覚、ルノワールの色鮮やかな陰影に最も刺激を受ける。
1888年2月、アルルに向かう。陽光にあふれた南仏に憧れを抱いたファン・ゴッホ。色彩を駆使する芸術家。15か月足らずで約200点の油彩と100点以上の素描・水彩を残した。
1888年12月、(35歳)「耳切り事件」、ゴーガンは2か月でアルルを去る。
1890年7月29日。ゴッホが亡くなった、その2日前のピストル自殺未遂が死因とされている。
【終焉の地、オーヴェール・シュル・オワーズ】70日間、1890年5月20日から7月29日までの間に彼は油彩73点、デッサン33点を残した。
【ゴッホ、5つの時代】
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)。画家としての活動は10年。1、オランダ時代、バルビゾン派、ハーグ派1880-1885、2、パリ時代 1986-1987、3,アルル時代 1988、4、サン・レミ・ド・プロヴァンス1889、5、オーヴェール・シュル・オワーズ1890。
【ゴッホ、糸杉】
【ゴッホ《星月夜》《糸杉のある麦畑》(1889)《糸杉と星の見える道》(1890)】ゴッホ『糸杉』はすべて、サン・レミ・ド・プロヴァンス1889で描かれた。
【宮澤賢治とゴッホ】
【宮澤賢治『春と修羅』序(1924】
宮澤賢治は、なぜ、ZYPRESSEN「春と修羅」と書いたのか。詩「春と修羅(mental sketch modified)」(1922年4月8日)、『春と修羅』序(1924年1月20日)。阿修羅は仏教に帰依し、他の諸天とともに仏教を守護する眷属となった。興福寺、国宝「阿修羅像」。
大正八年八月(1919)の歌稿に『ゴオホサイプレスの歌』二首がある。
サイプレス/忿(いか)りは燃えて/天雲のうづ巻をさへ灼(や)かんとすなり
天雲の/わめきの中に湧きいでて/いらだち燃ゆる/サイプレスかも
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
参考文献
大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-92436b.html
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-21672e.html
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
https://bit.ly/2W3o6RF
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展示作品の一部
ヨーゼフ・イスラエルス《ユダヤ人の写本筆記者》1902年/クレラー=ミュラー美術館
イスラエルス(1824-1911)
ピエール=オーギュスト・ルノワール《カフェにて》1877年頃、油彩/カンヴァス、35.7×27.5cm クレラー=ミュラー美術館
カミーユ・ピサロ《虹、ポントワーズ》1877年、油彩/カンヴァス、52.9×81.5cm クレラー=ミュラー美術館
クロード・モネ《モネのアトリエ舟》1874年、油彩/カンヴァス
フィンセント・ファン・ゴッホ/ジャガイモを食べる人たち/1885年/クレラー=ミュラー美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ《夕暮時の刈り込まれた柳》1888年3月、油彩/厚紙に貼ったカンヴァス、31.6×34.3cm クレラー=ミュラー美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェテラス》1888年9月、油彩クレラー=ミュラー美術館
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プレスリリースより
世界中で愛される画家、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)。画家としての活動はわずか10年ほどでしたが、彼が残した多くの作品と手紙から、苦悩に満ちた人生に立ち向かい、芸術へと昇華させる姿を見て取ることができます。
生前ほとんど評価されなかったファン・ゴッホにいち早く注目し、作品の収集に取り組んだのが、オランダのクレラー=ミュラー美術館の創設者、ヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869-1939)でした。2回にわたり開催する「大ゴッホ展」は、すべて同館の所蔵作品で構成されます。このたびの第1期では、バルビゾン派やハーグ派の影響を受けた草創期のオランダ時代に始まり、印象派を中心とする画家たちと交流したパリ時代を経て、南仏アルルで傑作《夜のカフェテラス(フォルム広場)》を描くに至るまでの、ファン・ゴッホの前半生に焦点を当てます。
――
展覧会構成
第1章 バルビゾン派、ハーグ派1880-1885
初期のフィンセント・ファン・ゴッホに強い影響を与えたふたつの画派として、オランダのハーグ派、そしてバルビゾン派があります。ハーグ派とは、19世紀後半のオランダ・ハーグを中心に展開した自然主義的傾向の画派で、風景画や農民の生活を題材とした風俗画で知られています。バルビゾン派は、19世紀前半から中頃にフランスのパリ郊外にあるバルビゾン村周辺を拠点に広まったグループで、自然主義的・写実的な風景画、風俗画により、絵画芸術の新たな時代を作りました。
特にファン・ゴッホは、バルビゾン派の芸術が持つ宗教的精神性に惹かれていました。そして、バルビゾン派への関心からフランス美術、そしてフランス自体にも惹かれていくようになります。
本章では、ハーグ派のヨーゼフ・イスラエルスとバルビゾン派のミレーという両派を代表する画家の作品を紹介しながら、画家ファン・ゴッホの原点に迫ります。
ミレー(1814-1875)はフランスのバルビゾン派を代表する画家です。農民が黙々と働く姿をクローズアップして、彼らの実直で信仰心の篤い生活を農村の風景とともに描きました。本作ではたくましい体格の農婦が全身を使って今まさに竈にパンを入れようとしています。農民画家ミレーにファン・ゴッホは強く共感し、初期から晩年まで繰り返しその作品に倣い、モティーフを参照しました。
ヨーゼフ・イスラエルス《ユダヤ人の写本筆記者》1902年/クレラー=ミュラー美術館
イスラエルス(1824-1911)はオランダのハーグ派の中心的な存在で、ファン・ゴッホが画業の最初期に特に手本とした画家です。漁師や農民などの風俗的な主題のほか、ユダヤ教を背景とした宗教主題も多く描き、その画風には17世紀のレンブラント・ファン・レインの影響が色濃く表れています。本作のユダヤ人の書記の姿は、イスラエルスがモロッコのタンジールで目にした光景が出発点と言われています。
第2章 オランダ時代 1880-1885
1853年、オランダ南部のズンデルト村で牧師一家の長男として生まれたファン・ゴッホ。画廊勤務や伝道師の仕事を経て、27歳の頃に画家になる決心をします。決して早いスタートではありませんでしたが、ついに天職を見つけたのでした。教則本の模写から始め、ハーグに移住してからは従姉の夫で画家のマウフェからも指導を受けます。1883年、両親の住むニューネンに移ると、現地の風景や風俗、労働者の姿を描くことに没頭していきました。《白い帽子をかぶった女の頭部》や初期の代表作《じゃがいもを食べる人々》のリトグラフなどを通じて、画家として歩み始めたファン・ゴッホの姿を追います。
この作品にはファン・ゴッホが自宅の裏手を窓から眺めた光景が描かれています。1882年3月半ばから彼は叔父より風景画の注文を相次いで受けました。芸術家の道を歩み出してまだ1年半の彼は、この好機に光明を見つつも、注文主の期待に応えようと苦心しました。この時期に描かれた本作には、線遠近法を用いた構図で画面に臨場感が与えられ、画家の工夫が見受けれます。
フィンセント・ファン・ゴッホ/ジャガイモを食べる人たち/1885年/クレラー=ミュラー美術館
1885年4月頃、ファン・ゴッホはそれまでの集大成となる油彩画《じゃがいもを食べる人々》(ファン・ゴッホ美術館蔵)の制作に取りかかりました。本作はその習作の後に作られたリトグラフで、自信作のイメージを親しい人たちに伝えようと作られました。不慣れな版画制作を試みたものの、周囲の評価は「効果が不鮮明」「表面的」と厳しいものでした。高い技術力が求められる版画制作を経験し、画家は芸術において技巧よりも抒情性の表現を追求していくようになります。
ファン・ゴッホはニューネンの女性たちが日常的に被っていた白い帽子に興味をもち、帽子とその影になる顔の部分が「まさに明暗技法のような上質な色調をもたらしている」と手紙に書いています。この地に暮らした1883年12月から1885年11月までに、彼は農民の頭部を多数描くことで、明暗技法を研究していました。当時、闇の中に存在する光にこそ美があると考えていた彼は、モデルの顔や衣服の色調を整えてから背景の明暗を調整することで、暗い色調の中に表れる光の効果や奥行を表現しました。
第3章 パリの画家とファン・ゴッホ
1886年2月、パリで画商として活躍していた弟テオの勧めもあり、新たな刺激を求めてパリへやってきたファン・ゴッホは、ピサロ、トゥールーズ=ロートレック、ベルナールら同時代の画家たちと密接なコミュニケーションをする機会を得ます。彼らを通じてファン・ゴッホも印象派の表現から様々な影響を受けていきました。彼は特にモネの色彩感覚、ルノワールの色鮮やかな陰影とタッチ、セザンヌの構図や色彩表現の大胆な手法に関心を寄せました。ここでは、マネ、モネ、ルノワール、セザンヌといった、印象派やその前後をつなぐ巨匠たちの絵画作品を紹介します。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《カフェにて》1877年頃、油彩/カンヴァス、35.7×27.5cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
印象派の画家ルノワール(1841-1919)はパリや郊外で余暇を楽しむ若い男女の光景を描いて好評を博し、グループの中でも早くから評価された一人です。本作の中央には、テーブルに手をつき何かを熱心に見入るふたりの若い女性が描かれ、彼女らを背後から見つめるシルクハットを被った若い男性の姿もあります。常連モデルがポーズをとり、ルノワールは人物の表情や仕草を丁寧に描き出しています。後景は瞬間をとらえるような素早い筆致でまとめられ、カフェの活況が効果的に表現されています。
クロード・モネ《モネのアトリエ舟》1874年、油彩/カンヴァス、50.2×65.5cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
本作が制作された1874年、モネ(1840-1926)は仲間とともに印象派の第1回展を開催し、一瞬の光をとらえた絵画を発表していきました。本作は当時モネが拠点としていたアルジャントゥイユで描かれました。画面中央でセーヌ川に浮かぶ舟は、モネが小屋を乗せて水上の制作場所として使用していたアトリエ舟です。水面に反射する光の効果やそれまでにない視点を得られる舟上での制作をモネは気に入っていたようです。
カミーユ・ピサロ《虹、ポントワーズ》1877年、油彩/カンヴァス、52.9×81.5cm クレラー=ミュラー美術館
コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
親しみやすい人柄でファン・ゴッホとも親交のあったピサロ(1830-1903)。彼はイギリス滞在時に受けたターナーやコンスタブルの影響から、明るい色彩の田園風景を多く手がけました。本作が描かれたパリ郊外のポントワーズには1872年に居を構えました。前景の高台から見下ろされる中景部には、緑や茶色に整然と区切られた畑が広がります。はるか遠景に連なる丘陵は、空気遠近法的な景観の広がりを醸し出しています。初夏を思わせる湧雲の前に、鮮やかな虹がかかっています。本作は1877年の第3回印象派展に出品されました。
第4章 パリ時代 1986-1987
パリ時代のファン・ゴッホの絵画はたった2年の間に色調だけでなく筆触までも大きく発展しました。この変化はパリに移って数か月後、静物画に取り組んだ頃から顕著になりました。なかでも多彩な花々を集めた花束はさながら色彩表現の実験台でした。花の静物画を通じてファン・ゴッホは、鮮やかで強い色彩と彫刻的とも言える厚塗りの筆触を特徴とするモンティセリから深く影響を受けました。
この章ではファン・ゴッホがパリの前衛的な表現に触発されて明るい色彩と闊達な筆致を駆使するに至る過程を、風景画や静物画、自画像をとおして見ていきます。
ファン・ゴッホはパリ時代、人物画を描きたかったもののモデル代の捻出が難しく、代わりに自画像を多数描きました。その数はどの時期よりも多い25点にのぼりました。淡い色彩でまとめられた本作では、頭部は茶系にアクセントとして白や赤を用いて、短く細い筆致の連続で描き出されています。背景の緑と青の多様な筆致は、空間に奥行きを与えるとともに、画面全体を活気づけています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《モンマルトルの丘》1886年4-5月、油彩/カンヴァス、38.1× 61.1cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
3台の風車と細長い農場の建物の下に農園が広がっています。のどかな光景が残るモンマルトルの丘で、ファン・ゴッホはテオと暮らしていました。風車というモティーフは、敬愛するコローや友人ポール・シニャックも描きましたが、直接的には雑誌の図版から着想を得たようです。画面の大半を大まかで素早い筆致が占める中、柵や旗などは繊細に描かれています。色彩と光の印象にも注意が向けられ、ファン・ゴッホの風景表現における変化が表れています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《レストランの室内》1887年夏、油彩/カンヴァス、45.5×56cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
本作はファン・ゴッホが新印象派の手法を最も鮮明にした作品の一つです。点描の筆遣いに加えて、コントラストを生む補色、すなわち壁の赤と緑、床の黄色とくすんだ紫、椅子のオレンジ色とテーブルクロスの青みが効果的に用いられています。ブルジョワジー向きのレストランに、当時彼らが好んだ黒いシルクハットも添えられ、モティーフの点でも印象主義が意識されています。
第5章 アルル時代 1988
「色彩豊かで陽光にあふれた南仏」に憧れを抱いたファン・ゴッホは、ついに1888年2月、アルルに向かいます。その素朴な風景や共同体的な生活は、彼が激しく憧れていた日本の浮世絵や近代以前の農村社会を思わせる「理想の場所」だったのです。
この地でファン・ゴッホは精力的に制作を行い、15か月足らずで約200点の油彩と100点以上の素描・水彩を残します。アルル時代の鮮やかな色彩の対比を活かした油彩表現は、ファン・ゴッホ独自のスタイルとして花開きました。《夜のカフェテラス(フォルム広場)》に象徴されるように、色彩を駆使する芸術家としての進路を自覚したファン・ゴッホ。新しい表現に目覚めた喜びが満ちるアルル時代の傑作で、本展の最後を締めくくります。
フィンセント・ファン・ゴッホ《夕暮時の刈り込まれた柳》1888年3月、油彩/厚紙に貼ったカンヴァス、31.6×34.3cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
黄色、オレンジ、赤、青といった鮮やかな色彩とさまざまな筆致を駆使して、柳の木々が夕陽に照らされる光景が描かれています。柳は葦などが生える草地に立ち並び、遠方の青色の層は山脈または運河と思われます。大きな夕陽が秋の情景を思わせることから、本作は1888年10月に制作されたものと長く考えられてきましたが、柳には新芽が芽吹き、葦の描写には同年3月の作品との類似が認められています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェテラス》1888年9月、油彩クレラー=ミュラー美術館
本作の構図は同時代画家による街頭風景や日本の浮世絵などからヒントを得た可能性があります。またそれ以上に制作動機として重要なのは、ファン・ゴッホの星空への憧憬です。彼は愛読したモーパッサンの小説『ベラミ』に現われる星空、あるいは1888年6月初めに地中海の浜辺で見た色彩豊かな星空に刺激を受けてその絵画化に取り組みました。同年9月中旬、彼はアルルのフォルム広場で夜中に本作を描きました。カフェテラスのガス灯の明かりは、鮮やかなコバルトブルーを背景に、輝く星々の美しさを際立たせています。
――
大ゴッホ展 夜のカフェテラス、、上野の森美術館。5月29日(金)~8月12日(水)
上野の森美術館(東京都台東区上野公園1-2)
2026年5月29日(金)~8月12日(水)

2026年2月21日 (土)

モネ没後100年 クロード・モネ —風景への問いかけ・・・ル・アーヴルからの旅立ち

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第419回
クロード・モネ —、ル・アーヴルからの旅立ち、パリ、アルジャントゥイユ、ヴェトゥイユ、ジヴェルニー、終焉の地。

クロード・モネ(1840–1926)は、86年の生涯にわたって旅を続けた。【セーヌ川の旅】ル・アーヴルからの旅立ち、パリ、アルジャントゥイユ、ヴェトゥイユ、ジヴェルニーの庭へ。『アルジャントゥイユのレガッタ』1872。『睡蓮の池、緑のハーモニー』1899.ル・アーヴルで、風景画家ウジェーヌ・ヴ―ダンと出会い、海と空を描くことを学んだ。34歳で友人たちと「印象派展」と後に呼ばれる会を作った。モネ『印象、日の出』1872マルモッタン美術館。
【海辺の旅】エトルタ、『かささぎ』1868-69、ベリール島、『嵐、ベリールの海岸』1886。【ヨーロッパの旅】『オランダのチューリップ畑』1886、『ルーアン大聖堂、扉口とサン・ロマン塔、陽光』1893、『ウォータールー橋、ロンドン』1902『ロンドン国会議事堂』1904、『黄昏、ヴェネツィア』1908、モーパッサン「(モネは)画家というより狩人」。至る所へ旅して主題を探した。
クロード・モネ(1840–1926)86年の旅で求めたものは何か。亡き妻カミーユとジャンの失われた愛、絵画の革命家マネとの友情だろうか。【失われた愛】を求めて【ジヴェルニーの庭】に43年間、愛を注いだ。最悪の人カミーユ。
クロード・モネ『散歩、日傘をさす女』1875年。1875年、モネが34歳の時に描いた。描かれているのはモネの最初の妻カミーユとその長男ジャン。ジャンは当時5歳。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【ジヴェルニーの庭】1879年、カミーユ32歳で死す。1883年春、42歳のモネ、フランス北部ノルマンディー地方セーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。43歳から、1926年86歳で死ぬまで、43年間、ジヴェルニーの庭を描き続ける。
【モネの謎】【モネ1840-1926】1884年以後、人物画を描かなくなったのは何故か。印象派展、止めたのは何故か。晩年の画風が抽象絵画なのは何故か。
【ゴッホ1823-1890】ひまわりを沢山描いたのは何故か。耳切事件1888は何故か。糸杉1889、描いたのは何故か。ピストル事件は何故か。『種まく人』『アルルの跳ね橋』『夜のカフェテラス』『ひまわり』『収穫』『夕日を背に種まく人』1888アルル、『星月夜』『糸杉』サンレミ1889、『夜のプロヴァンスの糸杉と田舎道』『烏の群れ飛ぶ麦畑』オーヴェール=シュル=オワーズ1890。
【モネの謎 カミーユ】クロード・モネ(1840年11月14日 – 1926年12月5日)86歳で死す。1879年、カミーユは32歳で死去。モネ《死の床のカミーユ》1879年 オルセー美術館蔵。最悪の人カミーユ、その人柄を知ることができないのは何故か。
『クロード・モネ —風景への問いかけ』』図録、p122。『印象、日の出」1872、「散歩、日傘」1879、すべてカミーユの生きている時代である。
【マネとモネ】【1863年エドゥアール・マネ「草上の昼食」事件」】
エドゥアール・マネ『水浴(のちに『草上の昼食』に改題)』、モネ「草上の昼食」1865-66、により、改題。1863年にナポレオンの指揮で開催された「落選者展」で起きた。エドゥアール・マネ⦅草上の昼食⦆1863年 オルセー美術館蔵、中産階級の男二人と裸体の娼婦がピクニックをしている。ジョルジョーネ「テンペスト」「草上の合奏」の影響がある。ここで事件が起きた原因は「現実世界の女性の裸体を描いたから」。当時はこれがタブー中のタブー。女性の裸体を描いていいのは「宗教画・寓意画(ギリシャ神話など)」に限られていた。「古典主義に一石を投じた」【1865年モネ、サロンで入選】モネは、サロンで見事に入選を果たす。1865年『オンフルールのセーヌ河口』、1866年『緑衣の女』で入選。マネ1865年『オランピア』でサロンに入選。1869年、1870年は2年連続で落選。特に1870年に出品したモネ『ラ・グルヌイエール』。当時、水面に反射する太陽光の表現を極め続けていた。【1870年モデルのカミーユと結婚】1873年小さなボートを買って、アトリエ舟として使うようになった。マネはモネとカミーユの一枚を描いている。エドゥアール・マネ⦅アトリエ舟で描くクロード・モネ⦆1874年。
モネ 睡蓮のとき2・・・絶望を超えて、朦朧派
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-952362.html
モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-fcbd04.html
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プレスリリース
印象派の巨匠クロード・モネ(1840–1926)は、自然光の移ろいに魅せられ、その美しさをカンヴァスにとどめようと生涯をかけて探求しました。
オルセー美術館がモネの没後100年という国際的な記念の年の幕開けを飾る展覧会と位置づける本展では、ル・アーヴル、アルジャントゥイユ、ヴェトゥイユ、ジヴェルニーなど、モネの創作を語る上で重要な場所と時代から、その画業の発展を丹念にたどります。
また、同時代の絵画や写真、浮世絵、アール・ヌーヴォーの工芸作品などの表現との関わりから、モネの創作の背景や動機を読み解き、現代の映像作家アンジュ・レッチアによるモネへのオマージュとして制作された没入型の映像作品も展示します。様々なジャンルの視覚表現を交錯させることで、モネの創作活動に新たな光を当てる、全く新しいモネの展覧会です。
モネの作品41点を含む、オルセー美術館所蔵の約90点に、国内の美術館や個人所蔵作品を加えた合計約140点で、風景画家としてのモネの魅力に迫ります。
近代化が進み、風景が大きく変わる時代に生きたモネは、変わりゆく風景とどう向き合い、それをどう作品に表現したのでしょうか。自然環境が変動する今、モネのまなざしを通して「自然とどのように向き合うのか」という普遍的な問いを、現代を生きる私たちに投げかけます。
1. モネの画業を年代順に追い、風景画をどう革新したかに迫る
モネの画業を年代順に追い、風景画をどう革新したかに迫るクロード・モネはその生涯を通じてさまざまな場所を訪れ、さまざまな方法で制作を行っています。モネの画業を年代順に追い、晩年の「睡蓮」の連作へと繋がっていくテーマや技法を順を追って提示し、モネの風景画の革新性に迫ります。
2. 同時代の画家たちの絵画や写真、浮世絵、アール・ヌーヴォーの美術工芸など、様々なジャンルの視覚表現と交錯させる、前例のない全く新しいモネの展覧会
モネの風景画制作は、穏やかな情景や、時に雪、風、雨といった猛威を振るう自然に向き合い、それをありのままに画布に留めた、と説明されがちです。しかしモネの風景画は、実は画家のたゆまざる探求による幅広い視覚的・芸術的教養から育まれたものだったのです。自然との対時を起点としながらも、モネは過去の、あるいは同時代の画家たちの影響に留まらず、写真や浮世絵など新しい表現にも注目し、そうした変化の中で画家としての自分の立ち位置を明確にしたのです。
3. オルセー美術館が誇るモネ・コレクションから選りすぐりの作品が来日
オルセー美術館が所蔵するモネの絵画作品は73点。世界で最も重要かつ網羅的なコレクションのひとつです。これはモネの画家仲間ギュスターヴ・カイユボットをはじめ、多くの人たちの寄贈により形成されたもので、このコレクションを通じて、印象派を一人で要約しているかのようなモネの画業を辿ることができるのです。今回はその中から日本初公開作品を含む選りすぐりの41点が来日します。
https://www.artpr.jp/artizon/monet2026
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★展示作品の一部
クロード・モネ《戸外の人物習作-日傘を持つ右向きの女》1886年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée d’Orsay) / Stéphane Maréchalle / distributed by AMF
【日本初公開】クロード・モネ《トルーヴィル、ロシュ・ノワールのホテル》1870年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵
クロード・モネ《かささぎ》1868-69年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵
クロード・モネ《パリ、モントルグイユ街、1878年6月30日の祝日》1878年、オルセー美術館蔵 
クロード・モネ《死の床のカミーユ》1879年 オルセー美術館蔵
クロード・モネ《アルジャントゥイユのレガッタ》1872年頃、オルセー美術館蔵
【日本初公開】クロード・モネ《昼食》1873年頃、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵 
クロード・モネ《サン=ラザール駅》 1877年、油彩・カンヴァス 、オルセー美術館蔵F
クロード・モネ《ロンドン国会議事堂、霧の中に差す陽光》1904年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵 
クロード・モネ《ジヴェルニーのモネの庭》1900年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵 
【日本初公開】ピーター・ヘンリー・エマーソン《睡蓮の採取》1886年、プラチナ・プリント、ガラス乾板より、オルセー美術館蔵
クロード・モネ《ノルウェー型の舟で》1887年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵 
クロード・モネ《睡蓮の池》1907年、油彩・カンヴァス、石橋財団アーティゾン美術館蔵
クロード・モネ《睡蓮の池、緑のハーモニー》1899年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵
エミール・ガレ《静淵》1889-90年、多層吹きガラス、オルセー美術館蔵
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参考文献
モネ没後100年 「クロード・モネ —風景への問いかけ」・・・ル・アーヴルからの旅立ち
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/02/post-8cc859.html
『クロード・モネ —風景への問いかけ』』図録、アーティゾン美術館、2026。p122。
「大回顧展 モネ 印象派の巨匠 その遺産」図録、国立新美術館、2007
印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-21e84b.html
モネ 連作の情景・・・人生の光と影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-220389.html
憧憬の地 ブルターニュ・・・最果ての地と画家たち2023
https://bit.ly/3ZkZsX8
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-2d7c.html
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-62f4.html
モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-fcbd04.html
モネ 睡蓮のとき2・・・絶望を超えて、朦朧派
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-952362.html
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第382回
国立新美術館で「オルセー美術館展 印象派の誕生 ―描くことの自由―」国立新美術館、2014年7月9日(水)~10月20日(月)モネの『草上の昼食』が日本初公開! 「印象派の殿堂」オルセー美術館から珠玉の絵画84点が来日。
――
★モネ没後100年 クロード・モネ —風景への問いかけ、アーティゾン美術館
2026年2月7日[土] - 5月24日[日]
https://www.artizon.museum/exhibition/detail/47

2025年11月16日 (日)

オルセー美術館所蔵 印象派―室内をめぐる物語・・・ブルジョワーの家族の肖像、マネ、ドガ、ルノワール

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第411回

エドガー・ドガ《家族の肖像》(1858-1859)をみると、ルキノ・ヴィスコンティ《家族の肖像》Conversation Pieceを思い出す。ブルジョワの家族の冷酷な人間関係の肖像。ピエール=オーギュスト・ルノワール《ピアノを弾く少女たち》1892は、ブルジョワの家族の会話風景である。
【マネとモネ】
【1863年エドゥアール・マネ「草上の昼食」事件」】
エドゥアール・マネ『水浴(のちに『草上の昼食』に改題)』。1863年にナポレオンの指揮で開催された「落選者展」で起きた。エドゥアール・マネ⦅草上の昼食⦆1863年 オルセー美術館蔵、中産階級の男二人と裸体の娼婦がピクニックをしている。ここで事件が起きた原因は「現実世界の女性の裸体を描いたから」。当時はこれがタブー中のタブー。女性の裸体を描いていいのは「宗教画・寓意画(ギリシャ神話など)」に限られていた。「古典主義に一石を投じた」【1865年モネ、サロンで入選】モネは、サロンで見事に入選を果たす。1865年『オンフルールのセーヌ河口』、1866年『緑衣の女』で入選。マネ1865年『オランピア』でサロンに入選。1869年、1870年は2年連続で落選。特に1870年に出品したモネ『ラ・グルヌイエール』。当時、水面に反射する太陽光の表現を極め続けていた。【1870年モデルのカミーユと結婚】1873年小さなボートを買って、アトリエ舟として使うようになった。マネはモネとカミーユの一枚を描いている。エドゥアール・マネ⦅アトリエ舟で描くクロード・モネ⦆1874年。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より

大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』

モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-fcbd04.html
モネ 睡蓮のとき2・・・絶望を超えて、朦朧派
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-952362.html
【マネ(1832-1883)】《草上の昼食》(1863年)、マネの着想源となったジョルジョーネの《テンペスタ》(1508)にも、着衣の男性と赤ん坊を抱く半裸の女性が描かれている。1865年のサロンで発表され、それまでの作品以上の激しいバッシングを受けた。
【クロード・モネ「草上の昼食」1866年】
クロード・モネが26歳の頃、1866年に描いた「草上の昼食」。パリ近郊のフォンテーヌブローでピクニックを楽しむ若者たち。モネが敬愛したエドゥアール・マネ「草上の昼食」(1862年頃オルセー美術館所蔵)に触発されて描いた。モデルの女性は、当時モネと出会ったばかりの恋人、後に妻となるカミーユ。紳士はモネの友人で画家だったフレデリック・バジール。カミーユは32歳で死ぬ。
「プーシキン美術館展 旅するフランス風景画」東京都美術館・・・藝術家と運命との戦い
https://bit.ly/2vCJ6As
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オルセー美術館所蔵 印象派―室内をめぐる物語
展示構成
第1章 室内の肖像 ドガ《家族の肖像(ベレッリ家)》など
第2章 日常の情景  ルノワール《ピアノを弾く少女たち》など
第3章 室内の外光と自然 セザンヌ《大きなデルフト陶器に生けられたダリア》など
第4章 印象派の装飾 モネ《睡蓮》
展示作品の一部
エドゥアール・マネ《エミール・ゾラ》1868年 油彩/カンヴァス 146×114cm オルセー美術館、パリコピーライト GrandPalaisRmn (musée d’Orsay) / Adrien Didierjean / distributed by AMF
エドガー・ドガ《家族の肖像(ベレッリ家)》1858-1869年 油彩/カンヴァス 201×249.5cm オルセー美術館、パリ コピーライト photo:C2RMF / Thomas Clot
エドゥアール・マネ《ピアノを弾くマネ夫人》1868年 油彩/カンヴァス 38.5×46.5cm オルセー美術館、パリコピーライト GrandPalaisRmn (musée d’Orsay)
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ピアノを弾く少女たち》1892年 油彩/カンヴァス 116×90cm オルセー美術館、パリ コピーライト GrandPalaisRmn (musée d’Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF
ピエール=オーギュスト・ルノワール《読書する少女》1874-1876年 油彩/カンヴァス
46.5×38.5cm オルセー美術館、パリ コピーライト GrandPalaisRmn (musée d’Orsay)
ピエール=オーギュスト・ルノワール《大きな裸婦》1907年 油彩/カンヴァス 71×156cm オルセー美術館、
アルベール・バルトロメ《温室の中で》1881年頃 油彩/カンヴァス 235×145cm オルセー美術館、パリ コピーライト GrandPalaisRmn (musée d’Orsay)
第1章 室内の肖像 ドガ《家族の肖像(ベレッリ家)》など
第2章 日常の情景  ルノワール《ピアノを弾く少女たち》など
第3章 室内の外光と自然 セザンヌ《大きなデルフト陶器に生けられたダリア》など
第4章 印象派の装飾 モネ《睡蓮》など
第1章 室内の肖像
19世紀のサロン(官展)や美術市場を席巻した肖像画は、印象派にとっても重要な表現手段となります。彼らにとってこの絵画ジャンルは、人物を日常的な環境のなかに描き出し、その人となりや社会的な属性を表す試みでもありました。
アトリエを筆頭に、画家や文筆家の創作の場を舞台とする仲間内の肖像画では、交友関係や芸術理念を示唆する道具立てが随所にみとめられます。一方、より公的な肖像画の場合、当世風の衣装や上質な家具調度品の巧みな描写によって、室内はモデルの「良き趣味」や社会的ステータスの表明にうってつけの空間となります。
さらに家族を描いた集団肖像画に目を向けるなら、家庭を満たす親愛の情だけでなく、心理的なドラマまで垣間見ることができるでしょう。それらには子どもを中心にすえる近代的な家族観も表れています。ときに風俗画との境を曖昧にしながら、同時代の人々を生活空間のうちに描くこうした肖像画は、印象派が志向する現代性のテーマに深く関わる絵画ジャンルだったので
す。
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マネ(1832-1883)写実主義の革新
マネ(1832-1883)は、王家の血を引く母と司法省の高級官僚である父のもと、パリの裕福な家庭に生まれた。幼い頃からアートに強い関心を示していたマネを、彼の叔父は頻繁にルーブル美術館へ連れて行った。13歳になる頃にはデッサン教室に通うようになっていたが、父親は息子が芸術家を志すのを快く思っていなかった。
【《草上の昼食》(1863年)】マネの着想源となったジョルジョーネ《テンペスタ》(1508)に、着衣の男性と赤ん坊を抱く半裸の女性が描かれている。
【マネ(1832-1883)。《草上の昼食》(1863年)、《オランピア》(1863年)】《草上の昼食》と同じ年に描かれた《オランピア》は、1865年のサロンで発表され、それまでの作品以上の激しいバッシングを受けた。ティツィアーノ《ウルビーノのヴィーナス》(1534年頃)を参照しており、ティツィアーノの絵と同じく、横たわる裸婦が手で陰部を隠している。
【マネ(1832-1883)】エドゥアール・ マネは、周密精到な写実主義画家だが、1853年【ヴェネツィア、フィレンツェへ旅】し、ヴェネツィア派やスペインの巨匠の作品を研究した。「草上の昼食」(1862–1863)「オランピア」(1865)によって、伝統的な絵画の約束事を破る、絵画界にスキャンダルを巻き起こした。ティツィアーノ『田園の合奏』1511『ウルビーノのヴィーナス』1538を研究、摸写した成果であった。モデルの女性は、ヴィクトリーヌ・ムーランである。
マネは『オランピア』への批判に意気消沈、ブリュッセルにいたボードレールに宛て手紙を書いた。8月から【スペインへ旅】をした。プラド美術館に行きベラスケスを研究した。
印象派グループ展への参加を拒絶したが、モネとの交流は続いた。1880年から病苦と戦い、「フォリー=ベルジェールのバー」1882を描き、翌年、左足を切断したが、死亡した。
【「フォリー=ベルジェールのバー」1882】エドゥアール・ マネ(1832-1883)、50歳、最晩年の作品。ベラスケス『ラス・メニーナス』を参照している。この作品を完成した翌年にマネは死去した。
コートールド美術館展、魅惑の印象派・・・「フォリー=ベルジェールのバー」、鏡の中の世界
https://bit.ly/2migKHP
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参考文献
オルセー美術館所蔵 印象派―室内をめぐる物語・・・ブルジョワジーの家族の肖像、マネ、ドガ、ルノワール
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/11/post-445e82.html

エドガー・ドガ『エトワール』、一瞬の中にある永遠の美・・・孤独な藝術家
https://bit.ly/2QZZS3s
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
「プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光」・・・フェリペ4世と宮廷画家ベラスケス
http://bit.ly/2Ho8bR0 
モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-fcbd04.html
モネ 睡蓮のとき2・・・絶望を超えて、朦朧派
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-952362.html
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■オルセー美術館所蔵 印象派ー室内をめぐる物語
会場:国立西洋美術館(東京・上野公園)
会期:2025年10月25日(土)~2026年2月15日(日)
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/current.html

2025年10月 1日 (水)

「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第408回
ゴッホは、絶望を超えて立ち上がる。孤独で不屈な藝術家。彼の遺志を継ぐ人々。100年の物語
「音楽のように人を慰める何かを僕は絵画で伝えたい」「100年後を生きる人々にも自分の絵を観てもらいたい」ゴッホは1880年、27歳で画家になる決意をした。フィンセントは美術商ビーグル商会に16歳で働き、弟テオは15歳で働く。1888年35歳でアルルに住む。
【ゴッホ1853-1890、37歳で死す】弟テオ(1857-1891)、画商としてフィンセントを経済支援。ゴッホ死後4ヶ月テオ病死。テオの妻ヨー、ゴッホ作品を200点保管、展示。ゴッホのテオ宛手紙を出版。【テオとヨーの息子フィンセント・ウィレム】(1890年1月31日 - 1978年1月28日)、1966年ゴッホ財団設立、1973年ゴッホ美術館設立。
【ゴッホと宮澤賢治】宮澤賢治は、ゴッホ『糸杉』1989を愛好した。『春と修羅』1924自費出版。妹トシ、弟清六2001、賢治を理解し支援。友人の及川四郎『注文の多い料理店』の出版を熱望。ゴッホは、人間関係を構築できず苦悩。画商の弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム1978だけが理解支援した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【ゴッホの人と藝術】1853-1890
【ゴッホ、絶望の旅立ち】フィンセント・ヴァン・ゴッホは、1853年3月30日、フロート・ズンデルト村に生まれた。祖父と父は牧師。男3人、女3人の6人兄弟の事実上の長男。1869年(16歳)美術商グーピル商会に就職するが解雇。1876年(23歳)新聞広告で知った英国の小学校教師の職を得て、仏語、独語を教える。ロンドン近郊の貧民街の様子に衝撃を受ける。1878年(25歳)ブリュッセルの伝道師養成学校に入る。79年、半年間の期限付き、伝道師になるが解任。1885年(32歳)3月、父が脳卒中で急死。父子は最後まで理解し合えず。父は死んだ。
1880年から1890年まで。ゴッホ、画家活動10年、27歳から37歳、
【ゴッホ、ハーグ派、灰色派】ハーグ時代、ハーグ派、灰色派、第二のレンブラント、ヨゼフ・イスラエルス「貧しい人々の暮らし」、バルビゾン派、ミレイ「種をまく人」(1850)を尊敬、影響を受ける。ゴッホの師、アントン・マウフェ「雪の中の羊飼いと羊の群れ」。ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」1885。
【パリ】1886年、パリに行く。パリ以後、「自画像」を40枚描く。「パリの屋根」1886。印象派の父、カミーユ・ピサロに会う。浮世絵の国日本に憧れアルルへ旅立つ。
【ゴッホ、アルルへ】1888(35歳)、ゴッホ、35歳でアルルに移住する。10月、「黄色い家」でのゴーガンとの共同生活が始まる。1888年12月、(35歳)「耳切り事件」、ゴーガンは2か月でアルルを去る。ゴッホ「麦畑」アルル1888。「種をまく人」(1888)3枚(クレラー・ミュラー、ファン・ゴッホ美術館、「日没を背に種をまく人」ビュールレ・コレクション)。「ひまわり」(1888)7枚。描く。「ローヌ川の星月夜」1888。「アルルの跳ね橋」1988。
【ゴッホ、サン・レミ時代】独自の境地に到達する。ゴッホ《星月夜》(1889 MoMA)サン・レミ1889年6月《糸杉のある麦畑》(1889 MET)。ゴッホ「薔薇」サン・レミ。
【オーベール時代】ゴッホ最後の2か月。ゴッホ「カラスの群れ飛ぶ麦畑」オーベール・シュル・オワーズ1890。ゴッホオーベール・シュル・オワーズ。
【ゴッホ、最後の境地】ゴッホ「薔薇」サン・レミ。オーベール・シュル・オワーズ時代、ゴッホ最後の2か月。ゴッホ「カラスの群れ飛ぶ麦畑」オーベール・シュル・オワーズ1890。「糸杉と星のある道」1890、オーベール・シュル・オワーズ。ピストル事件、フィンセントは7月29日に死亡した。
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
【ゴッホ、孤独な人生】
ゴッホは、人間関係を構築できない、孤立を極めた。家族と社会との軋轢に苦悩した。友人も愛もない。画商の弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、だけが理解した。
1870、27歳、画家になる決意をするが作品は売れず、弟テオだけが彼を援助した。売れた絵は生涯1枚だけ。1888、ゴッホは、ゴーガンに剃刀をもって襲いかかる。アルルにて耳切り事件、1989サンレミにて、病院入院。糸杉を描く。1890オーベール・シュル・オワーズにて拳銃事件、2日後37歳で死す。油絵約850点を残す。4か月後、弟テオ、死す。
【画家生活10年】ゴッホは、10年間で、2000枚のデッサン、850枚の絵画を描いた。ゴッホが描かなかった絵画がある、それは何故か。
【ゴッホの謎】何故、ゴッホは、画廊勤務、伝道師を辞めたのか。何故、ゴッホは、ゴーガンに剃刀をもって襲いかかり、アルルにて耳切り事件、拳銃自殺したのか。
【藝術家、思想家と運命との戦い】思想と藝術を生みだすのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、魔術である。敵との闘争における武器である。思想家は人生の戦いにどう挑み、逆襲するのか。美のイデアのための戦いである。思想と藝術は悩める人の魂を癒す音楽である。醜悪な敵との正義の戦い。思想は悲しみと苦しみから生まれる。
【レオナルドが描いて、ゴッホが描かなかったテーマ】ゴッホが描かなかったテーマは何か。レオナルド、ボッティチェリ、ラファエロ、ティツィアーノ、ジョルジョーネ、ミケランジェロ、ブロンズィーノ、巨匠はヴィーナスを描いた。ルノワールは、こればかり描いた。
【印象派画家たち、絶望的人生】印象派の画家は、ほとんどゴッホのように絶望的人生を生きた。画家として成功した富豪画家がいる。
【魂の叫び】美しい心は美しい言葉となる。心は言葉になり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は性格となり、性格は運命となる。運命に歯向かい、逆境と戦う、美麗な王妃は、残虐王に幽閉され、美を探求する王子は、残虐な王に虐待される。
【運命との戦い、美の女神】藝術家、思想家は、運命と戦う。邪知暴虐と戦い、この世の闇の彼方に美を求める。虚無の神殿にて、美の女神へ供物を捧げる。美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。美しい夕暮れ。美しい魂に、美の女神が舞い降りる。美しい守護霊が救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなす。
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
【テオとヨーの息子フィンセント・ウィレム】(Vincent Willem van Gogh, 1890年1月31日 - 1978年1月28日)、1966年ゴッホ財団設立、1973年ゴッホ美術館設立。1925年、母ヨーが亡くなり、フィンセントの絵、素描、手紙などを相続した。ヨーはフィンセントの絵画作品だけでなく、その手紙を世に広めることを志し、1914年にテオ宛の書簡集を発行していたが、フィンセント・ウィレムはその使命も引き継いだ。1932年、テオからゴッホに宛てた手紙をまとめた書簡集を出版。テオ宛の書簡だけでなく、エミール・ベルナール、アントン・ファン・ラッパルトなどその他の人物との手紙のやり取りもまとめた完全版書簡集の出版を計画し、ゴッホ生誕100年に合わせて、1952年から1954年までの間に、オランダで全4巻の書簡集を出版した。
――
1891年1月25日、1歳の誕生日を迎えるわずか6日前に父テオが病死。母ヨーは、幼いフィンセント・ウィレムと義兄の遺作約200点を抱えてオランダに移り、その年の春からアムステルダム近郊の村バッセムに住み始めた。1901年、ヨーが画家ヨハン・コーヘン・ホッスハルクと再婚し、一家は1903年にアムステルダムに移った。
1907年、デルフト工科大学に入学して機械工学を学び、1914年、卒業した。その後、フランス、アメリカ合衆国、日本などでエンジニアとして働いた。1920年初頭、オランダに戻り、学生時代からの友人Ernest Hijmansとともに、オランダで初めての経営コンサルタント会社を設立。名前が同じ画家ゴッホとの混同を避けるため、甥であるフィンセント・ウィレムのことを「エンジニア(技師)」と呼んで区別する。
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■「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」展示作品の一部
「画家としての自画像」(1988〜87年)
「種まく人」(1888年)
「羊毛を刈る人」(1889年)
「アブサンが置かれたカフェテーブル」(1887年)
「夕暮れの農家」1985
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【ゴッホ、1853-1890】最も魅力的な作品は何か。
「ジャガイモを食べる人々」「夕暮れの農家」(1885)、「種まく人」「夜のカフェテラス」「アルルの跳ね橋」「日没を背に種まく人」1888年、《糸杉のある麦畑》(1889 MET)渦巻く夜空と大きくそびえる糸杉を描いた《星月夜》(1889 MoMA)、「烏の飛ぶ麦畑」(1889)
ゴッホ家が受け継いできたファミリーコレクションに焦点を当て、ファン・ゴッホ美術館の作品を中心に、ゴッホ作品30点超とその他の巨匠たちの作品を紹介します。ヨーが生前の印象とそっくりだと語った「家宝」の自画像。
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【宮澤賢治1896-1933】100年の物語
宮澤賢治、37歳で死す。弟、宮澤清六(1904年~2001年)97歳まで生きる。宮澤賢治の遺稿を出版。妹トシ(1898~1922年)24歳で死す。『永訣の朝』『無声慟哭』【詩集『春と修羅』1924】
【宮澤賢治1896-1933】妹トシの手紙「兄上様の天職と一家の方針とが一致する事が何よりも望まれ候」妹トシ(1898~1922年)、日本女子大卒論と将来について兄に相談。大正7年11月24日付。父政次郎との確執を妹トシは認識。
【弟、宮澤清六(1904年~2001年)】賢治の遺稿を託される。岩手県立盛岡中学校(現在の岩手県立盛岡第一高等学校)卒業、家業を手伝う。1926年、花巻で宮澤商会を開業。金物・建材・電導材・自動車部品を扱い、1942年まで営業。光原社の設立は、賢治の盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)時代の同級生が契機である。同級であった及川四郎(1886年~1974年)が、賢治の『注文の多い料理店』の原稿を読み、その出版を熱望した。「光原社」という社名自体も、宮沢賢治自身が命名した。
――
参考文献
ゴッホ・・・ハーグ派、灰色派から印象派、糸杉への道
https://bit.ly/3hySZ7S
「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」東京都美術館
http://bit.ly/2zluV3g
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
ルノワール『イレーヌ』・・・非情な運命が襲いかかる、波瀾に立ち向かう
https://bit.ly/2ZlgdIp
印象派を超えて―点描の画家たち ゴッホ、スーラからモンドリアンまで・・・枯葉舞う秋の夕暮れ
https://bit.ly/2Mwg63Z
孤高の思想家と藝術家の苦悩、孫崎享×大久保正雄『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84
「没後120年 ゴッホ展 こうして私はゴッホになった」国立新美術館2010
https://bit.ly/3Cf9rCk
「ゴッホ展 孤高の画家の原風景」東京国立近代美術館2005年3月23日~5月22日
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
https://bit.ly/2W3o6RF
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語
――
ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢
東京都美術館(東京都台東区上野公園8-36)
2025年9月12日(金)~12月21日(日)
愛知県美術館 2026年1月3日(土)~3月23日(月)

2024年11月11日 (月)

モネ 睡蓮のとき2・・・絶望を超えて、朦朧派

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第382回
1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。1926年86歳で死ぬまで、ジヴェルニーの庭を描き続ける。
【モネ1840-1926】人物画を描かなくなったのは何故か。印象派展、止めたのは何故か。晩年の画風が抽象絵画なのは何故か。
【ゴッホ1823-1890】ひまわりを沢山描いたのは何故か。耳切事件1888は何故か。糸杉1889、描いたのは何故か。ピストル事件は何故か。
クロード・モネ(1840年11月14日 – 1926年12月5日)86歳で死す。
【モネの謎】
【マネとモネ】
【1863年エドゥアール・マネ「草上の昼食」事件」】
エドゥアール・マネ『水浴(のちに『草上の昼食』に改題)』。1863年にナポレオンの指揮で開催された「落選者展」で起きた。エドゥアール・マネ⦅草上の昼食⦆1863年 オルセー美術館蔵、中産階級の男二人と裸体の娼婦がピクニックをしている。ここで事件が起きた原因は「現実世界の女性の裸体を描いたから」。当時はこれがタブー中のタブー。女性の裸体を描いていいのは「宗教画・寓意画(ギリシャ神話など)」に限られていた。「古典主義に一石を投じた」【1865年モネ、サロンで入選】モネは、サロンで見事に入選を果たす。1865年『オンフルールのセーヌ河口』、1866年『緑衣の女』で入選。マネ1865年『オランピア』でサロンに入選。1869年、1870年は2年連続で落選。特に1870年に出品したモネ『ラ・グルヌイエール』。当時、水面に反射する太陽光の表現を極め続けていた。【1870年パートナーのカミーユと結婚】1873年小さなボートを買って、アトリエ舟として使うようになった。マネはモネとカミーユの一枚を描いている。エドゥアール・マネ⦅アトリエ舟で描くクロード・モネ⦆1874年。
印象派1984へ
――
【1874年「第一回印象派展」開催】⦅印象・日の出⦆1872年。「頭の中で再構築した絵を描く」古典主義に反発。「見たままの風景を描く」印象派を目指す。経済的な成功もしなかった、モネの生活はだんだん苦しくなる。しかしモネはマネから資金援助をしてもらいながら、1886年まで合計8回の印象派展を開催する。1876年、第2回印象派展で妻のカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品。モネ自身は気に入ってなかったが、高値で売れた。モネの浮世絵好きは有名、モネは喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重などの作品を200点以上持っていた。1877年の第3回印象派展で『サン=ラザール駅』の連作を出品。しかし印象派展の売れ行きは伸びず、モネの生活は困窮した。カミーユの体調が悪くなり、パトロン・オシュデが破産、モネは追いつめられた。【1879年、第4回印象派展】カミーユが死去。モネは『死の床のカミーユ』を制作。モネ「日傘の女」1866オルセー美術館のモデルはカミーユと長男ジャン。【1879年9月5日カミーユ32歳で死す】これ以後、人物画は少なくなる。
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【モネ、絶望を超えて】1879年9月5日カミーユ32歳で死す。このときモネ39歳。1926年86歳まで生きる。【ジヴェルニー】1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。〈積みわら〉の15点の連作を始める。【1980】モネは借りていた家と土地を購入。敷地を拡げて「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備する。「水の庭」では、睡蓮を栽培し、【1895、太鼓橋、完成】池に日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植える。1897-99年から300点の〈睡蓮〉に取り組む。【1909、睡蓮連作、個展】
【1899年からロンドンを訪れ】〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を3年かけて描く。ホテルに長期滞在、6つのカンバスに同時制作【1891年にエルネスト・オシュデが死去すると、1892年にモネとアリス・オシュデは正式に結婚した。モネは51歳、アリスは48歳】【1908年頃から、視覚障害】に悩まされるようになった。筆致は粗く、対象の輪郭は曖昧になり、色と光の抽象的なハーモニーが画面を占める。【モネは1912年白内障と診断】「ベートーヴェンが耳が聞こえないのに音楽を作曲したように、私は見えないのに絵を描く」と述べていた。【1914.74歳、カミーユとの子・長男ジャン、死す。】【1923、手術】【1926年86歳で死す】
【モネとカミーユの出会い】カミーユはモネのお気に入りのモデルだった。初めは家族に内緒で交際していた二人。家柄の違いから家族に交際を反対され、正式に結婚できたのは出会いから約5年後の1870年。モネは結婚後も、愛妻をモデルとした絵を何枚か描いた。【1879年9月5日カミーユ32歳で死す。このときモネ39歳】1926年86歳まで生きる。【1879年以後、人物像を描かなくなる】モネ『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になる。1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』等を出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(アルジャントゥイユ(1870年代))。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(ヴェトゥイユ(1878年-1881年))。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
クロード・モネ《睡蓮》1916-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《ジヴェルニー近くのセーヌ河支流、日の出》1897年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ(エフリュシ・ド・ロチルド邸、サン=ジャン=キャップ=フェラより寄託) © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
画像説明
クロード・モネ《睡蓮、夕暮れの効果》1897年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
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参考文献
「大回顧展 モネ 印象派の巨匠 その遺産」国立新美術館、2007
印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-21e84b.html
モネ 連作の情景・・・人生の光と影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-220389.html
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-2d7c.html
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-62f4.html
モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-fcbd04.html
モネ 睡蓮のとき2・・・絶望を超えて、朦朧派
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-952362.html
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展覧会概要
印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネ(1840-1926)は、一瞬の光をとらえる鋭敏な眼によって、自然の移ろいを画布にとどめました。しかし後年になるにつれ、その芸術はより抽象的かつ内的なイメージへと変容してゆきます。
モネの晩年は、最愛の家族の死や自身の眼の病、第一次世界大戦といった多くの困難に直面した時代でもありました。そのような中で彼の最たる創造の源となったのが、ジヴェルニーの自邸の庭に造られた睡蓮の池に、周囲の木々や空、光が一体となって映し出されるその水面でした。そして、この主題を描いた巨大なカンヴァスによって部屋の壁面を覆いつくす“ 大装飾画” の構想が、最期のときにいたるまでモネの心を占めることになります。本展の中心となるのは、この試行錯誤の過程で生み出された、大画面の〈睡蓮〉の数々です。
本展は、パリのマルモッタン・モネ美術館より、日本初公開となる重要作を多数含むおよそ50点が来日。さらに日本各地に所蔵される作品も加え、モネ晩年の芸術の極致を紹介します。日本では過去最大規模の〈睡蓮〉が集う貴重な機会となります。
みどころ
1.モネ最後の挑戦 —— “光の画家 " 集大成となる、 晩年の制作に焦点をあてた究極のモネ展
2.世界最大級のモネ・コレクションを誇るマルモッタン・モネ美術館より、 日本初公開作品7点を含む、厳選されたおよそ50点が来日
さらに、日本国内に所蔵される名画も加えた、 国内外のモネの名作が一堂に集結する充実のラインアップ
3.モネ晩年の最重要テーマ、〈睡蓮〉の作品20点以上が展示
https://www.nmwa.go.jp/jp/
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「モネ 睡蓮のとき」国立西洋美術館、2024年10月5日(土)~2025年2月11日(火・祝)
【京都展】京都市京セラ美術館、2025年3月7日[金]-6月8日[日]
【豊田展】豊田市美術館、2025年6月21日[土]-9月15日[月・祝]

2024年10月23日 (水)

モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第380回
1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。1926年86歳で死ぬまで、ジヴェルニーの庭を描き続ける。
クロード・モネ(1840年11月14日 – 1926年12月5日)86歳で死す。
【ル・アーブル】クロード・モネは1840年にパリの食料品店の次男として誕生。4歳のときにノルマンディー地域の港町ル・アーブルに引っ越し、18歳までここで暮らす。ル・アーブルという町はセーヌ川河口の大西洋岸に面した港町。モネは10代から地元で人気の似顔絵画家になる。似顔絵を偶然見つけた、ウジェーヌ・ブーダン。35歳のブーダンは18歳のモネに「君の似顔絵は本当に上手い。でも、もっと目を鍛えたほうがいい」クロード・モネ⦅ルエルの眺め⦆1858年。【パリ1858年】モネが画家になるためにパリに行くことに父親は猛反対する。アカデミー・シュイス入学。革新的な画家を多く輩出。カリカチュアのオノレ・ドーミエもシュイス卒。近代画家の父、ポール・セザンヌも卒業生。翌年に徴兵でアルジェリアに行く。チフスのためル・アーヴルに戻り、叔母が納付金を払ったため実質1年で徴兵は終わった。アーブルでヨンキントとブーダンと交流した後、【パリ1862年】22歳でパリに戻り、シャルル・グレールのアトリエへ。モネはここでルノワール、シスレー、バジルなどの画家と出会う。ルノワール、シスレー、バジルは「見たままを感覚的に描いた作品をつくろう」
【マネとモネ】
【1863年エドゥアール・マネ「草上の昼食」事件」】
エドゥアール・マネ『水浴(のちに『草上の昼食』に改題)』。1863年にナポレオンの指揮で開催された「落選者展」で起きた。エドゥアール・マネ⦅草上の昼食⦆1863年 オルセー美術館蔵、中産階級の男二人と裸体の娼婦がピクニックをしている。ここで事件が起きた原因は「現実世界の女性の裸体を描いたから」。当時はこれがタブー中のタブー。女性の裸体を描いていいのは「宗教画・寓意画(ギリシャ神話など)」に限られていた。「古典主義に一石を投じた」【1865年モネ、サロンで入選】モネは、サロンで見事に入選を果たす。1865年『オンフルールのセーヌ河口』、1866年『緑衣の女』で入選。マネ1865年『オランピア』でサロンに入選。1869年、1870年は2年連続で落選。特に1870年に出品したモネ『ラ・グルヌイエール』。当時、水面に反射する太陽光の表現を極め続けていた。【1870年パートナーのカミーユと結婚】1873年小さなボートを買って、アトリエ舟として使うようになった。マネはモネとカミーユの一枚を描いている。エドゥアール・マネ⦅アトリエ舟で描くクロード・モネ⦆1874年。
印象派1984へ
【1874年「第一回印象派展」開催】⦅印象・日の出⦆1872年。「頭の中で再構築した絵を描く」古典主義に反発。「見たままの風景を描く」印象派を目指す。経済的な成功もしなかった、モネの生活はだんだん苦しくなる。しかしモネはマネから資金援助をしてもらいながら、1886年まで合計8回の印象派展を開催する。1876年、第2回印象派展で妻のカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品。モネ自身は気に入ってなかったが、高値で売れた。モネの浮世絵好きは有名、モネは喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重などの作品を200点以上持っていた。1877年の第3回印象派展で『サン=ラザール駅』の連作を出品。しかし印象派展の売れ行きは伸びず、モネの生活は困窮した。カミーユの体調が悪くなり、パトロン・オシュデが破産、モネは追いつめられた。【1879年、第4回印象派展】カミーユが死去。モネは『死の床のカミーユ』を制作。モネ「日傘の女」1866オルセー美術館のモデルはカミーユと長男ジャン。【1879年9月5日カミーユ32歳で死す】これ以後、人物画は少なくなる。
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【モネ、絶望を超えて】1879年9月5日カミーユ32歳で死す。このときモネ39歳。1926年86歳まで生きる。
【ジヴェルニー】1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。〈積みわら〉の15点の連作を始める。【1980】モネは借りていた家と土地を購入。敷地を拡げて「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備する。「水の庭」では、睡蓮を栽培し、【1895、太鼓橋、完成】池に日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植える。1897-99年から300点の〈睡蓮〉に取り組む。【1909、睡蓮連作、個展】
【1899年からロンドンを訪れ】〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を3年かけて描く。ホテルに長期滞在、6つのカンバスに同時制作【1891年にエルネスト・オシュデが死去すると、1892年にモネとアリス・オシュデは正式に結婚した。モネは51歳、アリスは48歳】【1908年頃から、視覚障害】に悩まされるようになった。筆致は粗く、対象の輪郭は曖昧になり、色と光の抽象的なハーモニーが画面を占める。【モネは1912年白内障と診断】「ベートーヴェンが耳が聞こえないのに音楽を作曲したように、私は見えないのに絵を描く」と述べていた。【1914.74歳、カミーユとの子・長男ジャン、死す。】【1923、手術】【1926年86歳で死す】
【モネとカミーユの出会い】カミーユはモネのお気に入りのモデルだった。初めは家族に内緒で交際していた二人。家柄の違いから家族に交際を反対され、正式に結婚できたのは出会いから約5年後の1870年。モネは結婚後も、愛妻をモデルとした絵を何枚か描いた。【1879年9月5日カミーユ32歳で死す。このときモネ39歳】1926年86歳まで生きる。【1879年以後、人物像を描かなくなる】モネ『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になる。1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』等を出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(アルジャントゥイユ(1870年代))。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(ヴェトゥイユ(1878年-1881年))。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「大回顧展 モネ 印象派の巨匠 その遺産」国立新美術館、2007
印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-21e84b.html
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-2d7c.html
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-62f4.html
モネ 連作の情景・・・人生の光と影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-220389.html
モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-fcbd04.html
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「モネ 睡蓮のとき」マルモッタン・モネ美術館より、 モネ最後の挑戦 —— “光の画家 " 集大成となる、 晩年の制作に焦点をあてた 。モネ晩年の最重要テーマ、〈睡蓮〉の作品20点以上が展示
https://www.nmwa.go.jp/jp/
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「モネ 睡蓮のとき」国立西洋美術館、2024年10月5日(土)~2025年2月11日(火・祝)
【京都展】京都市京セラ美術館、2025年3月7日[金]-6月8日[日]
【豊田展】豊田市美術館、2025年6月21日[土]-9月15日[月・祝]

2024年2月26日 (月)

印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第358回

アルノ河の水辺の樹々に夢をみる、枯れ木に夕日が射すと希望を予感する、荒野にアーモンドの花が咲くと春を感じ、林檎の花が咲くと蘇りを感じ、子供を抱く母親に新生を見る。印象派の画家は陽光に輝く世界を表現した。クロード・モネ(1840-1926) 『印象・日の出』(1872)から印象派は始まる。印象派は、リアリズムの一派である。20世紀、海を超えて、メアリー・カサット、チャイルド・ハッサム、ジョゼフ・グリーンウッド、トマス・コールに影響を及ぼした。トマス・コール『アルノの眺望』に、フィレンツェのみずみずしい樹木と川の調和が描かれている。モネは、絶望をどう超えたのか。
【モネ、絶望を超えて】1879年9月5日カミーユ32歳で死す。この通りモネ39歳。1926年86歳まで生きる。【ジヴェルニー】1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。〈積みわら〉の15点の連作を始める。モネは借りていた家と土地を購入。敷地を拡げて「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備する。「水の庭」では、睡蓮を栽培し、池に日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植える。1890年代後半からは300点の〈睡蓮〉に取り組む。
1899年からロンドンを訪れ、〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を数年かけて描く。【1891年にエルネスト・オシュデが死去すると、1892年にモネとアリス・オシュデは正式に結婚した。モネは51歳、アリスは48歳】1908年頃から、視覚障害に悩まされるようになった。筆致は粗く、対象の輪郭は曖昧になり、色と光の抽象的なハーモニーが画面を占める。
【モネとカミーユの出会い】カミーユはモネのお気に入りのモデルだった。初めは家族に内緒で交際していた二人。家柄の違いから家族に交際を反対され、正式に結婚できたのは出会いから約5年後の1870年。モネは結婚後も、愛妻をモデルとした絵を何枚か描いた。1879年9月5日カミーユ32歳で死す。この通りモネ39歳。1926年86歳まで生きる。
モネ『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になる。1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』等を出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(アルジャントゥイユ(1870年代))。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(ヴェトゥイユ(1878年-1881年))。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【世紀末の旅人】リアリズムからアンチリアリズムへ【アンチリアリズム、象徴派、ラファエロ前派、幻想派、フォービスム、形而上絵画、シュルレアリスム】
【20世紀、アンチリアリズムの世紀】19世紀ヨーロッパ文学はリアリズムを追求したが、20世紀はアンチリアリズムの世紀。18世紀小説、ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』に夏目漱石は、深い影響を受けた。これを実験したのが『草枕』(1906)。
【ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』】アンチリアリズムの実験をした夏目漱石『草枕』。(*未完の小説。全9巻1759年の末から1767年)。この18世紀小説に、20世紀文学、アンチリアリズム文学は深い影響を受けた。アンドレ・ジイド、カフカ、ジェイムズ・ジョイズ『フィネガンズ・ヴェイク』、ヴァージニア・ウルフ、マルセル・プルースト。他方、日本の明治文学は、1900年以降、やっとリアリズム文学に辿りつく。花袋『布団』藤村『破戒』。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー《ヴィル = ダヴレーの牧歌的な場所ー池畔の釣り人》 (1865-70) ウスター美術館蔵
メアリー・カサット《裸の赤ん坊を抱くレーヌ・ルフェーヴル(母と子)》(1902-03) ウスター美術館蔵
トマス・コール 《アルノ川の眺望、フィレンツェ近郊》(1837) ウスター美術館蔵
ウィンスロー・ホーマー《冬の海岸》(1892) ウスター美術館蔵
クロード・モネ《税関吏の小屋・荒れた海》(1882) 日本テレビ放送網株式会社蔵
チャイルド・ハッサム《花摘み、フランス式庭園にて》(1888) ウスター美術館蔵
クロード・モネ《睡蓮》(1908)ウスター美術館蔵
チャイルド・ハッサム《シルフズ・ロック、アップルドア島》(1907)、チャイルド・ハッサム《コロンバス大通り、雨の日》(1885)ウスター美術館蔵
ジョゼフ・H・グリーンウッド《リンゴ園》(1903) ウスター美術館蔵
エドマンド・チャールズ・ターベル《ヴェネツィアン・ブラインド》(1898) ウスター美術館蔵
ポール・シニャック《ゴルフ・ジュアン》(1896) ウスター美術館蔵
デウィット・パーシャル《ハーミット・クリーク・キャニオン》(1910-16)ウスター美術館蔵
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参考文献
モネ 連作の情景・・・人生の光と影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-220389.html
キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ・・・美の根拠はどこにある
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-8e9885.html
マティス展・・・南仏の光《豪奢、静寂、逸楽》、色彩と線への旅
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-c2781f.html
佐伯祐三 自画像としての風景・・・世紀末の旅人
https://bit.ly/3wx4tQw
印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-21e84b.html

――
印象派 モネからアメリカへ 海を超えて花開いた印象派 ウスター美術館所蔵
第1回印象派展から150周年を迎える2024年、印象派がヨーロッパやアメリカへもたらした衝撃と影響をたどる展覧会を開催します。19世紀後半、大都市パリには国外からも多くの画家が集いました。パリで印象派に触れ、学んだ画家たちは、新しい絵画の表現手法を自国へ持ち帰ります。本展は、西洋美術の伝統を覆した印象派の革新性とその広がり、とりわけアメリカ各地で展開した印象派の諸相に注目します。
アメリカ・ボストン近郊に位置するウスター美術館は、1898年の開館当初から印象派の作品を積極的に収集してきました。このたび、ほとんどが初来日となる同館の印象派コレクションを中心に、日本でもよく知られるモネ、ルノワールなどフランスの印象派にくわえ、ドイツや北欧の作家、国際的に活動したサージェント、さらにはアメリカの印象派を代表するハッサムらの作品が一堂に会します。これまで日本で紹介される機会の少なかった、知られざるアメリカ印象派の魅力に触れていただく貴重な機会となります。
https://www.tobikan.jp/exhibition/2023_worcester.html
――
印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館所蔵
東京都美術館、1月27日~4月7日
福島県の郡山市立美術館(4月20日~6月23日)、東京・八王子市の東京冨士美術館(7月6日~9月29日)、大阪市のあべのハルカス美術館(10月12日~2025年1月5日)

2023年11月 2日 (木)

モネ 連作の情景・・・人生の光と影

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第347回
モネが生涯探求したものは何か。
【モネの謎】モネの師はだれか。モネは1875年以後、人物画を描かなくなったのは何故か。モネは1900年以後、抽象的風景画を描くようになったのは何故か。モネが生涯探求したものは何か。
【連作】モネには連作シリーズがある。モネが探求したものは何か。〈積みわら〉〈ポプラ並木〉〈ルーアン大聖堂〉〈セーヌ川の朝〉〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉〈睡蓮〉
【モネ、生涯と作品】カミーユ32歳で死ぬ。
1840年パリで生まれたモネは、5歳から18歳までフランス北西部のル・アーヴルで過ごす。17歳で風景画家ウジェーヌ・ブーダンと出会ったことが人生の転機となる。画家を志したモネは18歳でパリへ向かう。1865年、画家にとって唯一の登竜門であったサロンで、2点の海景画で初入選。1866年、後に妻となるカミーユをモデルにした《カミーユ(緑衣の女性)》と風景画が入選する。
【1866年、恋人カミーユ・ドンシューを描く。『カミーユ、緑衣の女』1866,サロンに出展、絶賛される。1867年、カミーユ、未婚のままモネとの間に長男を出産、1870年にようやく結婚。】
1870年7月、普仏戦争が勃発すると、モネは妻子とロンドンへと避難。翌年に休戦すると、オランダ滞在を経てパリに戻る。
【モネは、『印象、日の出』1872を描く】
1874年、モネと仲間たちはサロン落選の経験から新たなグループ展を構想、1874年春、パリで第1回印象派展を開催。
モネは、1870年代から80年代、セーヌ川流域を拠点に各地を訪れた。「アトリエ舟」で自在に移動し、戸外で制作した。ノルマンディー地方の海岸を旅した。
【クロード・モネ『日傘を差す女、 カミーユとジャン・モネ』1875年。
1875年7月、カミーユは当時不治の病だった結核にかかり、
1879年、カミーユ(1847-79旧姓カミーユ・ドンシュー)は32歳の若さで死ぬ。モネ、39歳。以後、人物画を描くことはまれになった。モネはその後1892年にアリスと再婚。】
【1879年、ヴェトゥイユでカミーユ・モネは32歳の若さで夭折。1914年、モネとカミーユの子ジャンは46歳の若さで亡くなる。モネの血を引く正式な子孫は、カミーユとの間にできた長男ジャンと次男ミシェルの二人】
1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。〈積みわら〉の15点の連作を始める。モネは借りていた家と土地を購入。敷地を拡げて「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備する。「水の庭」では、睡蓮を栽培し、池に日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植える。1890年代後半からは300点の〈睡蓮〉に取り組む。
1899年からロンドンを訪れ、〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を数年かけて描く。
【1891年にエルネスト・オシュデが死去すると、1892年にモネとアリス・オシュデは正式に結婚した。モネは51歳、アリスは48歳。】
1908年頃から、視覚障害に悩まされるようになった。筆致は粗く、対象の輪郭は曖昧になり、色と光の抽象的なハーモニーが画面を占める。1926年モネ86歳で死す。
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【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質である】【先生を選ぶ】師が優れているか否かが最も重要な要素である【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている地図の大きさ】【先生が持つ基礎認知力、先生が持っている体系】空海は、大学寮明経科に入学したが退学、山林修行の旅に出る『聾瞽指帰』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
《睡蓮の池》1918年頃 油彩、カンヴァス 131.0×197.0cm ハッソ・プラットナー・コレクション © Hasso Plattner Collection
《昼食》1868-69年 油彩、カンヴァス 231.5×151.5cm シュテーデル美術館 © Städel Museum, Frankfurt am Main
《ルーヴル河岸》1867年頃 油彩、カンヴァス 65.1×92.6cm デン・ハーグ美術館 © Kunstmuseum Den Haag – bequest Mr. and Mrs. G.L.F. Philips-van der Willigen, 1942
《ヴェトゥイユの教会》1880年 油彩、カンヴァス 50.5×61.0cm サウサンプトン市立美術館 © Southampton City Art Gallery
《モネのアトリエ舟》1874年 油彩、カンヴァス 50.2×65.5 cm クレラー=ミュラー美術館 © Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands, photo by Rik Klein Gotink
《ヴェンティミーリアの眺め》1884年 油彩、カンヴァス 65.1×91.7cm ケルヴィングローヴ美術館・博物館 © CSG CIC Glasgow Museums Collection. Presented by the Trustees of the Hamilton Bequest, 1943
《ラ・マンヌポルト(エトルタ)》1883年 油彩、カンヴァス 65.4×81.3cm メトロポリタン美術館 Image copyright ©The Metropolitan Museum of Art. Image source: Art Resource, NY. Bequest of William Church Osborn, 1951 (51.30.5)
《エトルタのラ・マンヌポルト》1886年 油彩、カンヴァス 81.3×65.4cm メトロポリタン美術館 Image copyright © The Metropolitan Museum of Art. Image source: Art Resource, NY. Bequest of Lillie P. Bliss, 1931 (31.67.11)
《積みわら、雪の効果》1891年 油彩、カンヴァス 65.0×92.0cm スコットランド・ナショナル・ギャラリー ©National Galleries of Scotland. Bequest of Sir Alexander Maitland 1965
また、1899年からはロンドンを訪れ、〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を数年かけて描いた。
《ウォータールー橋、曇り》1900年 油彩、カンヴァス65.0×100.0cm ヒュー・レイン・ギャラリー Collection & image © Hugh Lane Gallery, Dublin
《ウォータールー橋、ロンドン、夕暮れ》1904年 油彩、カンヴァス 65.7×101.6cm ワシントン・ナショナル・ギャラリー © National Gallery of Art, Washington, Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon. 1983.1.27
《ウォータールー橋、ロンドン、日没》1904年 油彩、カンヴァス 65.5×92.7cm ワシントン・ナショナル・ギャラリー © National Gallery of Art, Washington, Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon. 1983.1.28
《睡蓮》1897-98年頃 油彩、カンヴァス 66.0×104.1cm ロサンゼルス・カウンティ美術館 Los Angeles County Museum of Art, Mrs. Fred Hathaway Bixby Bequest, M.62.8.13 photo © Museum Associates/LACMA
《睡蓮の池》1918年頃 油彩、カンヴァス 131.0×197.0cm ハッソ・プラットナー・コレクション © Hasso Plattner Collection
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参考文献
藝術と運命との戦い、藝術家と運命の女 印象派編
http://bit.ly/2vfh8dP
モネと運命の女、カミーユ
モネは、『印象、日の出』1872を描き、印象派impressionismeの祖と曲解される。
1879年、ヴェトゥイユでカミーユ・モネは32歳の若さで夭折。妻カミーユの死後、富裕な人生を歩む。ジョルジュ・スーラを呪い殺した後、スーラの技法を用いて、画家として成功した。富裕になり贅沢な生活を送った。晩年、若死にしたスーラの呪縛で悩まされたが、富裕な後半生を生きた。グランド・ジャット島の日曜日の午後 (1884-86)(シカゴ美術館)アニエールの水浴 (1883-84)(ロンドン、ナショナルギャラリー)
ハーヨ・デュヒティング『ジョルジュ・スーラ-1859—1891 点に要約された絵画- 』タッシェン・ジャパン2000
パスカル・ボナフー『ゴッホ―燃え上がる色彩』知の再発見双書
「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」・・・藝術家と運命の戦い
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/cat22457171/index.html
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-2d7c.html
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-62f4.html
モネ 連作の情景・・・人生の光と影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-220389.html
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展覧会概要
印象派を代表する画家のひとり、クロード・モネ(1840-1926)は、自然の光と色彩に対する並外れた感覚を持ち、柔らかい色使いとあたたかい光の表現を得意とし、自然の息遣いが感じられる作品を数多く残しました。同じ場所やテーマに注目し、異なる天候、異なる時間、異なる季節を通して一瞬の表情や風の動き、時の移り変わりをカンヴァスに写し取った「連作」は、巨匠モネの画業から切り離して語ることはできません。移ろいゆく景色と、その全ての表情を描き留めようとしたモネの時と光に対する探究心が感じられる「連作」は、モネの画家としての芸術的精神を色濃く映し出していると言えるのかもしれません。
1874年に第1回印象派展が開催されてから150年の節目を迎えることを記念し、東京と大阪を会場に国内外のモネの代表作60点以上※が一堂に会す本展では、モネの代名詞として日本でも広く親しまれている〈積みわら〉〈睡蓮〉などをモティーフとした「連作」に焦点を当てながら、時間や光とのたゆまぬ対話を続けた画家の生涯を辿ります。また、サロン(官展)を離れ、印象派の旗手として活動を始めるきっかけとなった、日本初公開となる人物画の大作《昼食》を中心に、「印象派以前」の作品もご紹介し、モネの革新的 な表現手法の一つである「連作」に至る過程を追います。展示作品のすべてがモネ作品となる、壮大なモネ芸術の世界をご堪能ください。
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Claude Monet(クロード・モネ)(1840-1926)
印象派を代表する画家。1840年11月14日、パリ9区に生まれる。家族の転居に伴い5歳頃からル・アーヴルで暮らす。18歳の頃、風景画家ウジェーヌ・ブーダンの助言により戸外で風景画を描き始め、パリに出て絵を学ぶようになる。1862年には画塾でルノワールら仲間と出会う。1865年、サロンに初入選し、尊敬するマネに「水のラファエロ」と呼ばれる。その後はサロン落選が続き、経済的に困窮する。普仏戦争を機に妻子を連れてイギリスとオランダに滞在。1874年、第1回印象派展を仲間とともに開催。国内外を旅して各地で風景画を精力的に描く。1883年よりセーヌ川流域のジヴェルニーに定住。1880年代後半から自宅付近の〈積みわら〉を「連作」として描き始め、この頃から旅先での制作も「連作」の兆しを見せる。1891年、デュラン=リュエル画廊で〈積みわら〉の 連作15点を公開。この個展が評判を呼び、フランスを代表する画家として国内外で名声を築く。1899年ロンドンに行く。連作はその後〈ポプラ並木〉〈ルーアン大聖堂〉〈セーヌ川の朝〉、ロンドンやヴェネツィアの風景、〈睡蓮〉などのテーマに及ぶ。晩年の制作は〈睡蓮〉が大半となり、眼を患いながら最晩年まで描き続けた。1926年12月5日、ジヴェルニーの自宅で86歳にて死去。ライフワークだった〈睡蓮〉の大型装飾壁画はフランス国家に遺贈される。後半生の作品はカンディンスキーや抽象表現主義の画家たちに影響を与え、モネの再評価につながった。「モネはひとつの眼にすぎない。しかし何という眼なのだろう!」というセザンヌの言葉が有名。
プレスリリースより
https://www.artpr.jp/prs/monet2023
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モネ 連作の情景、上野の森美術館
2023年10月20日(金)~2024年1月28日(日)

2023年3月25日 (土)

憧憬の地 ブルターニュ・・・最果ての地と画家たち

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第319回
最果ての地フィニステールと画家たち
最果ての地、ブルターニュ
フランスの北西端、大西洋に突き出た半島ブルターニュ地方は、モン・サン・ミシェル、カンカル、サン・マロ、レンヌ、ブレスト、カンペール、ナント、深緑の海、険しい断崖の海岸線、平原と深い森、内奥部にロクマリアケールの巨石遺跡がある。フランソワ1世の時代、1532年、フランス王国とブルターニュ公国は統一、アンヌ女公の娘クロード王女を王妃とするフランソワ1世は、ブルターニュに、塩税の免除などいくつかの特権を授けた。15世紀から18世紀、ブルターニュは経済的な黄金時代を迎えた。ブルターニュ公国が法的に廃止されたのはフランス革命中の1789年である。
世紀末の旅人たち
クロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926)
クロード・モネは、1886年、ブルターニュのベリール島に降り立った。《嵐のベリール》1886年は、46歳の作品である。妻カミーユを79年に亡くした後、どのような想いでブルターニュに旅立ったのか。
モネは『印象 -日の出(Impression, soleil levant)』1872年。1874年、第1回、印象派展に展示。クロード・モネ『日傘を差す女、 カミーユとジャン・モネ』1875年。1875年7月、カミーユは当時不治の病だった結核にかかり、1879年、32歳の若さで死ぬ。*カミーユ(1847-79旧姓カミーユ・ドンシュー)。
ポール・ゴーガン(Paul Gauguin, 1848-1903)
ゴーガンは、1886年、フェリクス・シュベ・デュバルの勧めで初めてブルターニュ地方を訪れ、ポン・タヴェンに滞在する。1888年1月、ゴーガンはポン・タヴェンを再訪し、秋にゴッホの待つアルルに発つまでここに滞在する。1888年10月、「黄色い家」でのゴッホとゴーガンの共同生活が始まる。1888年12月「耳切り事件」、ゴーガンは2か月でアルルを去る。アルルのゴッホとの共同生活の後、1889年から1890年まで、ブルターニュに制作の地を移す。
1891年4月、ゴーガンは文明社会を逃れるため、パリを離れ、タヒチに向かう。ゴーギャンは、首都パペーテからマタイエアに移り住む。マタイエアで出会う人々と暮らし、鮮烈な色彩で幻想あふれる作品を数多く生みだした。1893年8月、パリに帰国する。1895年9月、再びタヒチに戻る。1901年9月、ヒヴァ・オワ島に移り住み、最晩年の時を過ごす。ポリネシアの黄金の色調に魅了された。ヒヴァ・オワ島にて54歳で死す。
20世紀の旅人
藤田嗣治(1886-1968)
藤田嗣治は、1913年、渡仏、パリのモンパルナスに住む。エコール・ド・パリの画家たちと交友する。シャガール、モディリアーニ、ジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイーズ・キスリング。第一次大戦1914-18。戦時下のパリで、絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖をとる。
【乳白色の肌の裸婦 藝術家の運命】1917年3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚。初めて絵が売れる。7フラン。シェロン画廊で最初の個展。絵も高値で売れるようになる。1918年、第1次大戦終戦。面相筆による線描を生かした技法による、透きとおる画風を、このとき確立。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙される。急速に藤田の名声は高まる。1917年7月、妻フェルナンデスと共に、ブルターニュに滞在する。
岡鹿之助(1889-1973)
岡鹿之助は、1924年、渡仏、渡仏後、藤田嗣治の指導を受ける。1926年6月から3か月、トレガステルに滞在する。同地で描いた《信号台》 1926年、等4点が、1926年サロン・ドートンヌで入選。ブルターニュでの制作は、それまで学んだアカデミックな作風を変え、新しい作風の契機となる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
ウィリアム・ターナー《ナント》 1829年 水彩/紙 ブルターニュ大公城、ナント歴史博物館
ポール・シニャック《ポルトリュー、グールヴロGourvelo, Portrieux》1888年、ひろしま美術館、
クロード・モネ 《嵐のベリール》 1886年 油彩/カンヴァス オルセー美術館(パリ)
クロード・モネ《ポール=ドモワの洞窟》1886 年 油彩/カンヴァス、茨城県近代美術館
ポール・ゴーガン、《海辺に立つブルターニュの少女たち》、1889年 油彩/カンヴァス
国立西洋美術館 松方コレクション
ポール・ゴーガン 《ブルターニュの農婦たち》 1894年 油彩/カンヴァス オルセー美術館(パリ)
アルフォンス・ミュシャ 《岸壁のエリカの花》 1902年 カラー・リトグラフ OGATAコレクション
シャルル・コッテ《悲嘆、海の犠牲者》、1908-09年 油彩/カンヴァス、国立西洋美術館 松方コレクション
シャルル・コッテ《行列》、1913年 油彩/カルトン、国立西洋美術館 松方コレクション
モーリス・ドニ 《花飾りの船》 1921年 油彩/カンヴァス 愛知県美術館
ポール・セリュジエ 《ブルターニュのアンヌ女公への礼賛》 1922年 油彩/カンヴァス ヤマザキマザック美術館 [3月18日(土)〜5月7日(日)展示]
黒田清輝《ブレハの少女》、1891 年 油彩/カンヴァス、石橋財団アーティゾン美術館
藤田嗣治《十字架の見える風景》 1920年、岐阜県美術館
岡鹿之助《信号台》 1926年、目黒区美術館
岡鹿之助《ブルターニュ》 1926年、茨城県近代美術館
岡鹿之助《信号台》 1926年、茨城県近代美術館
山本鼎 《ブルトンヌ》 1920年 多色木版 東京国立近代美術館[3月18日(土)〜5月7日(日)展示]
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参考文献
『憧憬の地 ブルターニュ ―モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷』図録2023
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」・・・光の画家たちの光と影
「没後50年 藤田嗣治展」・・・乳白色の肌、苦難の道を歩いた画家
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
憧憬の地 ブルターニュ・・・最果ての地と画家たち
フランスの最北西端、大西洋に突き出た半島を核とするブルターニュ地方は、芸術家と縁の深い土地です。ケルト人を祖にもち、16世紀前半まで独立国であったこの最果ての地フィニステールは、隣国のイギリスとフランスに翻弄されながらも独自の歴史と文化を紡ぎ、フランスの一部となったのちも固有の言語「ブルトン(ブレイス)語」を守りつづけました。またこの地には断崖の連なる海岸線や岩で覆われた荒野、深い森などの豊かな自然とともに、古代の巨石遺構や中近世の宗教遺物が各地に残されています。人々の篤い信仰心や地域色に富む素朴な生活様式も長らく保たれてきました。このように特徴的な自然と歴史文化を擁するフランスの内なる「異郷」は、19世紀以降、新たな画題を求める画家たちを惹きつけてやみませんでした。
本展では、とりわけ多くの画家や版画家たちがブルターニュを目指した19世紀後半から20世紀はじめに着目し、この地の自然や史跡、風俗、歴史などをモティーフとした作品を展覧することで、それぞれの作家がこの「異郷」に何を求め、見出したのかを探ります。また、明治後期から大正期にかけて渡仏し、この地に足を延ばした日本の画家たちの作品と足跡にも光をあてる、これまでにない試みとなります。
国内およそ30か所の所蔵先と海外2館から集められた約160点の作品にくわえ、関連資料もあわせて展示されるこの機会に、皆さんも画家のまなざしを借りてブルターニュの各地をめぐり、芸術を育むその奥深い風土を体感していただければ幸いです。
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憧憬の地 ブルターニュ ―モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷、国立西洋美術館、3月18日(土)〜6月11日(日)

2022年6月 8日 (水)

自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで・・・彼方への旅

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』281回

紫陽花咲く、丘を歩いて、美術館に行く。国立西洋美術館、2年間の休館を経て再開した。初夏の匂いが森に満ちている。
【藝術家と運命の戦い】印象派の画家は、光り輝く絵画を描いた。しかし、壮絶な人生を生きた。藝術家と運命の戦い。光陰の中から、運命の女神があらわれ、藝術家を救う。
ロマン主義の画家、フリードリヒは、家族の死、貧困、病気に苦悩した。フリードリヒは、見える世界の彼方に、見えない理想を探求した。月光、夕日、海、浜辺、雪景色、教会の墓地、荒野、森の急流、渓谷、古代の神殿、樫の森の修道院、雪の中の墓地、夕闇の門、その彼方にあるものは何か。
【リアリズムの世紀、アンチリアリズムの世紀】
19世紀はリアリズムの世紀であり、20世紀はアンチリアリズムの世紀である。アンチリアリズムの潮流は、ロマン主義、象徴派として展開する。ラファエル前派はロマン主義の潮流である。「自然と人のダイアローグ」は、19世紀から始まる、風景画の歴史を辿る。第Ⅱ章「彼方」への旅は、アンチリアリズムの淵源、展開を思い出すことができる。
19世紀、古典主義への反抗からロマン主義が生まれ、風景画への志向から写実主義と印象派が生まれ、印象派への反抗から象徴派が生まれる。
【彼方への旅】
彼方への旅は、この世の果て、幻想の世界への旅、古代への旅、心の闇への旅、幻の美女への旅、である。フリードリヒは、アンチリアリズムの世紀の源泉の一つである。
フリードリヒは、象徴的な風景を描いた。月光、夕日、海、浜辺、雪景色、教会の墓地、荒野、森の急流、渓谷、古代の神殿、樫の森の修道院、雪の中の墓地、夕闇の門、その風景は宗教的象徴を秘めている。神秘への入り口である。彼方にあるものは、美と崇高である。
【花吹雪】家の庭に、母が植えた木の花が咲き、風に吹かれて、花吹雪となって、庭に舞う。母の愛犬、トイプードル、高校時代から大学院まで、私を守ってくれたのを思い出す。「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とする」。私は何を残すことができるのか。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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カスパー・ダヴィッド・フリードリヒ、夕日の前に立つ女性、1818年
カール・フリードリヒ・シンケル、ビヘルスビルダー近郊の風景、1814年
ヨハン・クリスチャン・クラウゼン・ダール、ピルニッツ城の眺め、1823年
カール・グスタフ・カールス、高き山々、1824年
ギュスターヴ・ドレ、松の樹々、1850年
ギュスターヴ・クールベ、波、1870年
テオドール・シャセリオー、アクタイオンに驚くディアナ、1840年
アルノルト・ベックリン、海辺の城、城の中の殺人、1859年
ギュスターヴ・モロー、聖なる象、1882年
オディロン・ルドン、聖アントワーヌの誘惑、1888年
ポール・ゴーガン、『ノアノア』マナオ・トゥパパウ、死霊が見ている、1893-94年
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展示作品の一部
ウジェーヌ・ブーダン《トルーヴィルの浜》1867年 油彩・カンヴァス 国立西洋美術館
 ウジェーヌ・ブーダンは、ノルマンディーの港町で生まれ、ルアーブルで海辺の風景を描いた。印象派の先駆と呼ばれる。若きクロード・モネ、クールベ、らに影響を与えた。
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《夕日の前に立つ女性》1818年頃 油彩・カンヴァス フォルクヴァング美術館コピーライト Museum Folkwang, Essen
ヨハン・クリスティアン・クラウゼン・ダール《ピルニッツ城の眺め》1823年 油彩・カンヴァス フォルクヴァング美術館
コピーライト Museum Folkwang, Essen
ポール・セザンヌ《ベルヴュの館と鳩小屋》1890-1892年頃 油彩・カンヴァス フォルクヴァング美術館コピーライト Museum Folkwang, Essen
フィンセント・ファン・ゴッホ《刈り入れ(刈り入れをする人のいるサン゠ポール病院裏の麦畑)》1889年 油彩・カンヴァス フォルクヴァング美術館コピーライト Museum Folkwang, Essen
ポール・ゴーガン《扇を持つ娘》1902年、油彩・カンヴァス フォルクヴァング美術館コピーライト Museum Folkwang, Essen
フェルディナント・ホドラー《モンタナ湖から眺めたヴァイスホルン》1915年 油彩・カンヴァス フォルクヴァング美術館コピーライト Museum Folkwang, Essen
クロード・モネ《舟遊び》1870、国立西洋美術館
ゲルハルト・リヒター《雲》1970年 油彩・カンヴァス フォルクヴァング美術館コピーライト Gerhard Richter 2022 (13012022) コピーライト Museum Folkwang, Essen
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参考文献
「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」パナソニック汐留美術館・・・夢を集める藝術家、パリの館の神秘家。幻の美女を求めて
https://bit.ly/2v5uxlY
「1894 Visions ルドン、ロートレック展」・・・世紀末の印象派と象徴派、ロマン主義の苦悶
https://bit.ly/3pw5x2g
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント、東京都美術館
https://bit.ly/2W3o6RF
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
「テート美術館所蔵 コンスタブル展」三菱一号館美術館
https://bit.ly/37TI8ke
自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで・・・彼方への旅
https://bit.ly/3mv4SOc
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Ⅰ章 空を流れる時間
Ⅱ章 「彼方」への旅
Ⅲ章 光の建築
Ⅳ章 天と地のあいだ、循環する時間
――
フォルクヴァング美術館と国立西洋美術館は、同時代を生きたカール・エルンスト・オストハウス(1874-1921)と松方幸次郎(1866-1950)の個人コレクションをもとにそれぞれ設立された美術館です。
本展では開館から現在にいたるまでの両館のコレクションから、印象派とポスト印象派を軸にドイツ・ロマン主義から20世紀絵画までの100点を超える絵画や素描、版画、写真を通じ、近代における自然に対する感性と芸術表現の展開を展観します。産業や社会、科学など多くの分野で急速な近代化が進んだ19世紀から20世紀にかけて、芸術家たちも新たな知識とまなざしをもって自然と向き合い、この豊かな霊感源から多彩な作品を生み出していきます。
足元の草花から広大な宇宙まで、そして人間自身を内包する「自然」の無限の広がりから、2つの美術館のコレクションという枠で切り出したさまざまな風景の響き合いをお楽しみください。自然と人の関係が問い直されている今日、見る側それぞれの心のなかで作品との対話を通じて自然をめぐる新たな風景を生み出していただければ幸いです。
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/upcoming.html
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「自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで」、国立西洋美術館、6月4日(土)~9月11日(日)
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ『朝日の中の婦人』1818-1820、