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仏教

2025年4月29日 (火)

仏教美術の源流 ガンダーラ 1世紀から5世紀のガンダーラ美術、アレクサンドロス大王

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第397回

【仏教伝来】西暦538年、飛鳥時代に百済の斉明王より仏教が伝えられた。飛鳥寺、斑鳩寺(法隆寺)、四天王寺、などの寺院が造られ、仏像の制作が始まった。この仏像の微笑みはギリシア彫刻のアルカイックスマイルとされる。飛鳥時代の仏像の顔にギリシア彫刻の影響がある。法隆寺金堂釈迦三尊像。法隆寺救世観音像、遡ること千年。
【仏陀誕生BC463-383】紀元前5世紀、ゴータマ・シッダールタ Gotama Siddhārtha BC463-383年。仏滅後、仏教徒はブッダの遺骨(仏舎利)を仏塔(ストゥーパ)に納め、礼拝した。このストゥーパの装飾(レリーフ)が仏教美術の始まり。
【原始仏教】【根本分裂】仏滅後100年、大衆部と上座部【枝葉分裂】西暦1世紀【部派仏教、精緻な理論の体系化】説一切有部。部派仏教は高踏派。【大乗仏教】部派仏教に対して、大乗(Maha-Yana)仏教が興起。二大潮流、中観派(龍樹)(2c-3c)と唯識派・瑜伽行派(弥勒・無著・世親) (4c-5c)、興起。竹村牧男『空海の哲学』P54-68。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
ブッダの死後はブッタの姿を表現することは禁じられていたが、1世紀末になると、現在のパキスタン北西部ペシャーワル周辺のガンダーラでは仏像・菩薩像が造られた。
【ガンダーラ美術】古代の国ガンダーラGandhāraを中心に、東のタキシラ地方、北のスワート地方,西のアフガニスタンの一部をも含む地域で1~5世紀に展開した仏教中心の美術。クシャーナ朝時代に初めて仏陀の姿を表現してその図像を定型化したことは特筆に値する。
インド、中央アジア、中国の仏教美術に多大の影響を及ぼした。インド、中央アジア、中国の仏教美術に多大の影響を及ぼした。ガンダーラではギリシア、ヘレニズム・ローマ文化の影響を受けてインド・ペルシア西方的な色彩の濃い仏教美術が行われ、3世紀までは灰青色の片岩または千枚岩による石彫が,4~5世紀には塑造彫刻が主体であった。一方,この王朝の東方の拠点都市マトゥラーではインド古来の伝統に基づいた赤色砂岩による仏教およびジャイナ教彫刻が栄えた。★肥塚 隆「改訂新版 世界大百科事典」
【バクトリア王国】紀元前3世紀半ばに古代ギリシア人が国家を建て、この地には古代ギリシア(ヘレニズム文化)が栄えた。この地は東西からインド人、ペルシャ人、ギリシア人多くの民族による文化の交流が行われて。仏像はインド文化を元に古代ギリシア(ヘレニズム文化)の影響を受けている。ギリシア彫刻のような彫りの深い顔立ち、波状の頭髪は束ねられ、体格もよくギリシア風のドレープ(衣文)のある衣服を着ている。
ガンダーラ仏。1~2世紀。高さ約1メートル。東京国立博物館、東洋館。
ガンダーラ レリーフ 東京国立博物館、東洋館。
ガンダーラ 小塔。2~3世紀。平山郁夫シルクロード美術館 東京国立博物館、東洋館。
【クシャーナ朝の美術】王朝の繁栄を背景にガンダーラ地方とマトゥラーとを2大中心地として仏教徒主導の美術が展開した。ガンダーラ地方では5世紀中期のキダーラ朝の滅亡までを範囲とする。その仏教美術が以後のインド,中央アジア,中国のそれに及ぼした影 響力の強さは他に類を見ない。
【マトゥラー美術】古都マトゥラーMathurāを中心として,古代、ことにクシャーナ朝時代とグプタ朝時代に最も隆盛であった石彫主体の美術で、インドで最も重要な流派の一つ。【カニシカ王の即位】(144ころ。異説多い)からほぼ1世紀間が第1のピークで、遠くカウシャーンビー,サールナート、サーンチーからもマトゥラー彫刻が出土している。★肥塚 隆「改訂新版 世界大百科事典」
【クシャーナ朝】クシャン朝ともいい,また貴霜朝。1世紀半ばから3世紀中葉まで,現在のアフガニスタンおよび北インドを中心に栄えた王朝。大月氏支配下のクシャーナKusana族の族長【カドフィセース1世】がバクトリアに興起し,その子【カドフィセース2世】がインドに侵入して王朝の基礎をつくった。次いで2世紀中葉【カニシカ王】が出て大帝国を確立し最盛期を迎えた。その後3世紀後半から衰退し,ササン朝に滅ぼされた。東西交通の要衝を占め,ローマとの交流が盛んで,ガンダーラ美術の形成,大乗仏教の興起など特色ある文化を生んだ。★肥塚 隆「改訂新版 世界大百科事典」
参考文献
「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 -ガンダーラから日本へ-」
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/09/post-21b8bc.html
仏教2500年の旅 仏陀入滅、アレクサンドロス大王、瑜伽行唯識学派、密教
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-d241f1.html
『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』・・・中観派と唯識派の対立
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/08/post-27a785.html
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アレクサンドロス大王の東方遠征とヘレニズム文化
【アレクサンドロス大王、東方遠征(紀元前334年~紀元前323年)】マケドニア軍3万8000の兵士を引き連れ、【グラニコス川の戦い(紀元前334年)】にてペルシアの小アジアの防衛軍を撃破。この勝利により、小アジア全域を征服する足がかり。【紀元前333年、イッソスの戦い】ペルシアの王ダレイオス3世と対峙。ダレイオス3世は10万の大軍を率いて対抗、アレクサンドロスは天才的な戦術によって勝利を収めた。ダレイオスは逃亡。ティルスやガザなどが反抗し、この地域を征服、エジプトに進出。エジプトではペルシア支配に対する不満が高まり、無血でエジプトを征服、アレクサンドロスはエジプト人に歓迎され、エジプトのファラオ(王)として即位。西方のシワ・オアシス、エジプト神話の太陽神であるアメン神を祀る神殿で、自らをアメンの子とする神託を受けた。マケドニア軍は、現在のイラク北部へと侵攻。世界遺産アルベラ(エルビール)の近くで、【ガウガメラの戦い(紀元前331年)】ダレイオス3世率いるペルシア帝国の主力軍20~30万と激突。アレクサンドロスは再びペルシア軍を破り、ダレイオス3世を完全に敗北。ペルシア帝国滅亡。ダレイオス3世は部下に暗殺。アケメネスの中心である、バビロン、スーサ、ペルセポリスなどを次々と占領。【紀元前329年から紀元前327年まで、バクトリア】バクトリア(現在のアフガニスタン)やソグディアナ(現在のウズベキスタン)を制圧。バクトリアの王女ロクサネと結婚。インドへの遠征を開始。アレクサンドロスはパンジャーブ(現在のパキスタン北東部・インド北西部)へ侵攻、【ヒュダスペス川の戦い(紀元前326年)】パウラヴァ族の王ポロスと戦い、勝利。ポロスの勇敢さを称賛したアレクサンドロスは、彼に領地を与えて統治を任せた。インド遠征の途中、兵士たちが疲労、部下たちが遠征を拒否、アレクサンドロスはガンジス川を渡る計画を断念、スーサへ引き返した。【紀元前323年にスーサ、バビロンに戻る】戻り、マケドニア軍の将校たちが、ペルシア 貴族や王族の女性たちと結婚する「合同結婚式」。遠征(アラビア半島征服)を計画、バビロンにて突然の病に侵され、32歳の若さで亡くなる。ディアドコイ(後継者)戦争、起こり、ヘレニズム文化(BC3ⅽ-AD5ⅽ)広がる。プトレマイオス朝、セレウコス朝、アンティゴノス朝、カッサンドロス朝
参考文献
森谷公俊『アレッサンドロ 征服と神話』2007
大久保正雄『地中海紀行』53回アレクサンドロス大王1P45
フィリッポスは、アレクサンドロスの妹の結婚式で、暗殺された。
マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した戦略家
https://t.co/xcCI2H0le5
大久保正雄『地中海紀行』54回アレクサンドロス大王2P52
アレクサンドロス帝国の遺産はどこに残されたのか
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎
https://t.co/GqhV2l84wK
仏教美術の源流 ガンダーラ 1世紀から5世紀のガンダーラ美術、アレクサンドロス大王
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/04/post-388540.html

2025年2月 8日 (土)

「魂を込めた円空仏」飛騨・千光寺を中心にして・・・清水真澄館長、記者発表会


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第390回
「魂を込めた円空仏」記者発表会、清水真澄(三井記念美術館館長)の説明を聞いた。2025年1月31日。
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円空は、材となる「樹木」に神仏を観想し、「樹神」の姿を求めて彫刻した。円空は、樹木を「削る」こと自体に仏教儀礼の意味をもたせ、「削り痕」をそのまま残した。
一削りごとに、魂を込め、呪文、名号、真言陀羅尼を唱え、平安時代からの「仏教儀礼、如法の仏」にならった作法とされる。
山林修行僧、円空の生涯円空(1632-1695)
『近世奇人伝』以外に、伝記は少ない。
円空は1632(寛永9)年、美濃国(現在の岐阜県)に生まれた。64歳で5000体の像を作り終えると、即身仏入定した。山林修行僧としてのみ、理解されてきた。
前衛的な木彫像が現れ、江戸時代の円空像が注目された。
1959年、東京国立近代美術館、「近代木彫の流れ」展
1960年、鎌倉近代美術館、「円空上人彫刻」展
1963年、鎌倉近代美術館、「その後の円空上人彫刻」展
歌僧円空、学問僧円空、真言陀羅尼を唱える円空の側面があり、山林修行僧だけではない。日本の彫刻史において平安時代の樹神信仰すなわち「立木仏」に源を求めることができる。清水真澄(三井記念美術館館長)は結論した。
千光寺の「両面宿儺像」について
両面宿儺は、『日本書紀』に「一つの胴体に二つの顔」「左右の手に剣を、四つの手は弓矢」「天皇の姪に従わず、成敗された」と記載される。
千光寺の両面宿儺坐像(りょうめんすくなざぞう)は、慈悲と忿怒の相を併せ持つ像。円空の両面宿儺は、弓矢の代わりに斧をもつ。斧が樹を伐り、削り跡を残す。両面宿儺像は、円空自身の姿である。
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プレスリリースより
江戸時代の山林修行僧・円空は、愛知、岐阜を中心に関東、北陸、さらに北海道までを巡り、各地に木彫の神仏像いわゆる「円空仏」を多数のこしました。現存するその数は約5000余体ともいわれます。円空は、材となる「樹木」に神仏を観想し、「樹神」の姿を求めて彫刻しました。それは現在ものこる生木に直接鉈を下ろした像高2メートルを越す飛騨・千光寺の金剛力士立像で明らかにされ、日本の彫刻史では平安時代の樹神信仰すなわち「立木仏たちきぶつ」に源を求めることができます。
また円空は、樹木を「削る」こと自体に仏教儀礼の意味をもたせ、「削り痕」をそのままのこしています。それが「円空仏」として今日まで伝えられ、現代彫刻にも通じる造形の魅力にもなっています。
円空が樹木に「樹神」を観 、魂を込めて「削った」神仏像は、奈良時代から伝えられる「飛騨の匠」の伝統を継承する岐阜県の飛騨が最もふさわしい舞台といえます。
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展示構成と主な出品作品
1展示室 樹神とノミの削り痕
円空は、樹木の生木に神仏の「樹神」を観て像を彫刻しました。それは平安時代の「立木仏」に遡り、現在も円空が造立した千光寺の金剛力士立像に見ることが出来ます。「樹神」は、生木を斧で「伐きり」、鉈で「割り」、ノミで「削り」、材となってもそこに留まります。円空は、樹木を「伐り」「割り」「削る」行為と、像の表面に削った「ノミ痕」を露わにすることに、仏教の本質があるとしたに違いありません。
愛染明王坐像 霊泉寺 画像提供:東京国立博物館 Image:TNM Image Archives

2展示室 柿本人麻呂
柿本人麻呂(664~724)は、7世紀後半の歌人、「万葉集」第一の歌人として知られています。また三十六歌仙の一人で、『古今和歌集』冒頭の紀貫之が記した仮名序文より、「歌の聖」とされています。平安時代末期からは、柿本人麻呂の肖像画を掲げ、和歌を献じて供養する「人丸影供(ひとまるえいぐ)」の歌会が催され、柿本人麻呂は「神格化」されるようになりました。
千光寺に遺されている円空の歌集『袈裟山百首』は、『古今和歌集』からの本歌取が九十首に及ぶとされ、円空にとって、柿本人麻呂は「歌聖」であり「歌の神」でありました。さらに、「人丸影供」の柿本人麻呂像は観音菩薩の応現神であるとされるので、円空が造立した柿本人麻呂像は神像であり観音菩薩であるともいえます。
柿本人麻呂坐像 東山神明神社 画像提供:東京国立博物館 Image:TNM Image Archives
3展示室 護法神
千光寺(高山市)と飯山寺(高山市)には、総高2メートルを超える同様の構造・像容の作例が現存します。いずれも半裁した丸太を、さらに半分に割り、木心側を像の正面として各部を彫出しています。
護法神立像 千光寺 画像提供:東京国立博物館 Image:TNM Image Archives

4展示室 慈悲と忿怒の相
仏教は多神教であり、多くの仏が存在します。それらを経典や図像集から身分や役割によって分類すると「如来」「菩薩」「明王」「天」に分けられるのが一般的です。また顔の表情は、「天」の女性神や童子形の像は別にして、「如来」「菩薩」が慈悲相、「明王」「天」が忿怒相に分けられます。しかしながら、円空の像は忿怒相の中にも慈悲がにじみ出てくる像があり、千光寺の両面宿儺坐像(りょうめんすくなざぞう)は、まさに慈悲と忿怒の相を併せ持つ像といえるでしょう。
両面宿儺坐像 千光寺 画像提供:東京国立博物館 Image:TNM Image Archives
如意輪観音菩薩坐像 東山白山神社 画像提供:東京国立博物館 Image:TNM Image Archives
不動明王立像及び矜羯羅童子立像・制吒迦童子立像 千光寺 画像提供:東京国立博物館 Image:TNM Image Archives
不動明王立像 素玄寺 画像提供:東京国立博物館 Image:TNM Image Archives

4展示室2、観音信仰
観音菩薩は慈悲と救済の菩薩です。『法華経』(『妙法蓮華経』の略称)観世音菩薩普門品第二十五は『観音経』として流布し、中国・日本では観音信仰の典拠となりました。三十三観音信仰は、同経に説かれる観音の三十三応現身の数にあわせて、三十三の観音を集めて総称したものです。
また観音菩薩は、インドのヒンドゥー教の神に倣い、中国で隋・唐時代に多面、多眼、多臂像が造られるようになり、日本では奈良時代に十一面観音、千手観音などの観音菩薩像が造立されました。しかし円空にとって、横に張り出す多臂の像は一木の樹木の制限があるため、多臂の観音像の作例は非常に少ないです。
十一面観音菩薩立像 村上神社

7展示室、龍神と宝珠 法華経』序品第一、第十二提婆達多品
インドの神話の蛇神が仏教に取り入れられると、蛇神が中国で龍になり、龍王、龍神が経典に説話として登場するようになります。また仏伝にも、雨を降らせる、洪水から護るなど水、雨、河などに関わる話が多くあります。
特に『法華経』序品第一の冒頭には、ある時釈迦が王舎城の霊鷲山で『法華経』を説いた時に、会衆として多くの菩薩、十大弟子などとともに八大龍王も参列していることが説かれています。また『法華経』第十二提婆達多品は、八歳の龍女すなわち女人が成仏する話で、宝珠が重要な役を果たしていることが知られています。さらに観音菩薩が宝珠を持つのも、宝珠が菩薩行の象徴ともみなされ、龍と宝珠と観音菩薩の関係が認められます。
なお、円空が描いた『大般若経』見返し絵の中には、龍と宝珠の図が多数登場しており、円空の『法華経』第十二提婆達多品に対する想いもうかがうことができます。
7展示室、宝珠を持つ像
宝珠は、不可思議な功力をそなえた珠、宝石類の総称である摩尼を冠して「摩尼宝珠」といい、「如意宝珠」とも称されます。インドから中国、韓国、日本に伝わり、日本の古代寺院でも塔に安置されました。一方、釈迦の遺骨として篤く信仰されてきた舎利しゃりは、あらゆる願いをかなえる不思議な珠、如意宝珠とみなされるようになりました。
特に密教では舎利と宝珠を同体視するようになり、持物として表すことにより、尊像の効用を象徴する存在になりました。円空像に宝珠を持つ像が多いのは、円空がその意味を十分に理解して、自作の像に宝珠を付したためと思われます。
弁財天立像 飛騨国分寺 画像提供:東京国立博物館 Image:TNM Image Archives
1・4展示室 白山神と日本の神々
円空は『弥勒寺文書』の『妙法蓮華経』第四帖紙背(自筆)に諸神唱礼文として、「伊勢両太神宮」「八幡大菩薩」「春日大明神」の日本の代表的な三明神のほか、各地の山岳神二十四神の名を記しており、円空の山岳神への篤い信仰が見られます。また円空は、樹木に宿る「樹神」が日本の神祇神じんぎしんだけでなく遠望する山岳の神、さらには民間信仰の神に及ぶとしています。特に円空が生まれ、多くの作例を遺す美濃からは、美濃(岐阜)、加賀(石川)、越前(新潟)にまたがり、古くから霊山として信仰されている白山の姿を拝することができ、多くの白山神像を遺しています。
白山妙理大権現坐像 小川神明神社
5・7展示室 ほとけの世界
仏像の種類は、如来・菩薩・明王・天部など種類も多いですが、円空仏の場合、樹木という材の制限から、手足の多い密教系の像などは少ないことが分かります。現存する円空のほとんどの作例は、銘文などが無いので、尊像名は尊像の特徴である手、足、顔、目などの数や持物、着衣、装身具などから判断して所蔵者、研究者、信仰者が後につけていると思われます。
薬師如来立像 薬師堂
像の表面に削り痕をそのまま残した円空仏は、素朴な力強さのなかに、仏教の慈悲の心を体現したような温かみを感じさせてくれます。本展では、円空が遺した約5000体以上のなかから、傑作として知られる岐阜県千光寺の「両面宿儺像」が日本橋に初登場します。(プレスリリース三井記念美術館)
――
参考文献
智慧と慈悲と忿怒と戦闘【東寺、講堂、立体曼荼羅】五智如来、金剛五菩薩、五大明王、四天王、二天【東寺、講堂、立体曼荼羅、21体】五智如来、大日、宝生、阿弥陀、不空成就、阿閦。五菩薩、金剛波羅密、金剛宝、金剛法、金剛業、金剛薩埵。五大明王、不動明王、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉。四天王、持国天、増長天、広目天、多聞天。二天、梵天、帝釈天。
【五大明王】「教令輪身」は、仏法に従わない者を忿怒の姿で仏法に敵対する事を力で止めさせる。不動明王 - 大日如来の教令輪身、東 - 降三世明王 - 阿閦如来の教令輪身、南 - 軍荼利明王 - 宝生如来の教令輪身、西方- 大威徳明王 - 阿弥陀如来の教令輪身、北 - 金剛夜叉明王 - 不空成就如来の教令輪身。東寺講堂が創建された承和6年(839年)
【三輪身】密教では三輪身として、一つの「仏陀」が「自性輪身」、「正法輪身」、「教令輪身」(きょうりょうりんじん)という3つの姿で現れる。「自性輪身」(如来)は、宇宙の真理、悟りの境地そのものを体現した姿を指し、「正法輪身」(菩薩)は、宇宙の真理、悟りの境地をそのまま平易に説く姿を指す。これらに対し「教令輪身」は、仏法に従わない者を憤怒姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する事を力で止めさせる、外道に進もうとする者はとらえて内道に戻す。
【金剛界曼荼羅の基本となる成身会】金剛界五仏、十六大菩薩、四波羅蜜菩薩、内外の四供養菩薩、四摂菩薩の以上37尊より構成され、これを四大神と賢劫千仏と二十天が囲む。(智拳印)一仏のみで表す他は、中心となる成身会
参考文献
「旧嵯峨御所大覚寺―百花繚乱 御所ゆかりの絵画」・・・嵯峨天皇と空海、運命の美女
「旧嵯峨御所大覚寺―百花繚乱 御所ゆかりの絵画」・・・嵯峨天皇と空海、運命の美女
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/01/post-075dfa.html
学問僧、空海 ・・・空海の生涯と思想
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-964d84.html
「魂を込めた円空仏」飛騨・千光寺を中心にして-・・・清水真澄館長、記者発表会
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/02/post-ac69ef.html
――
「魂を込めた円空仏」-飛騨・千光寺を中心にして-
三井記念美術館、東京都中央区日本橋室町2-1-1三井本館7階)
会期:2025年2月1日(土)~3月30日(日)
https://www.mitsui-museum.jp/

2024年9月18日 (水)

「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 -ガンダーラから日本へ-」

Bamiyan-mitsui-2024
Bamiyan-miroku-gandhala-23c-ryukokui-202
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第377回
灼熱の秋、三井記念美術館に行く。ヒンドゥークシュ山脈、バーミヤン、ガンダーラ美術、ガンダーラの瑜伽行唯識学派(4~5世紀)に思いを馳せる。
バーミヤンはアフガニスタンの仏教遺跡。3~7世紀のクシャーナ朝時代のガンダーラ様式(2~3世紀)の系統にある岩肌を彫り抜いて巨大な仏像がかつて見られた。この地は唐の玄奘が訪れ、その著作『大唐西域記』に梵衍那国として記されている。断崖に造られた高さ55mと38mの二基の磨崖仏。ガンダーラの思想家、アサンガ(無着)『摂大乗論』、ヴァスヴァンド(世親)『唯識三十頌』、瑜伽行唯識学派(4~5世紀)の思い出。
【玄奘三蔵 (602〜664)】『西遊記』の三蔵法師のモデルとしてよく知られる唐の仏教僧。玄奘は、20年近くにわたり中央アジアからインドへ旅したが、インドに経典の原典を求めて旅する途中、630年頃にバーミヤンに滞在し、大仏の姿も実際に目撃した。玄奘の旅行記である『大唐西域記』には、二体の大仏を含めバーミヤンの信仰の様子が書かれている。玄奘『大唐西域記』にてバーミヤン東大仏を「釈迦仏」と明言している。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展覧会の趣旨
【バーミヤン遺跡】アフガニスタンの中央部を東西に走るヒンドゥークシュ山脈の中にあります。この地域は、古くからユーラシア各地の文化が行き交う「文明の十字路」とも呼ばれています。渓谷の崖に多くの石窟が掘られ、【東西二体の大仏】が聳えていた。大仏の周囲壁面には「太陽神」と「弥勒」の姿が描かれていた。
バーミヤン遺跡の石窟に造営された、東西2体の大仏を原点とする、【「未来仏」である弥勒菩薩】信仰の流れを、インド・ガンダーラの彫刻と日本の法隆寺など奈良の古寺をはじめ各所に伝わる仏像、仏画等の名品でたどる。なお2001年にイスラム原理主義組織・タリバンによって破壊された大仏の壁画を、調査時のスケッチと写真から作成した再現図を初公開する。
【「弥勒菩薩」】現在兜率天に住まい、釈迦入滅後の56億7千万年後にこの世に下生する、未来の救世主である。弥勒は2〜3世紀頃のガンダーラ地域において既に信仰され、その後バーミヤンを含む中央アジア、中国・朝鮮半島へと広がり。弥勒信仰の源流とアジアへの広がりがある。
『弥勒六部経』弥勒の上生・下生信仰を説いた、『法華経』類には弥勒が住む兜率天への往生と、阿弥陀如来が住む阿弥陀浄土への往生が説かれている。
バーミヤンの大仏と壁画は、2001年3月にイスラム原理主義組織・タリバンによって破壊されてしまいましたが、破壊以前に行われた調査時のスケッチと写真によって、このたび壁画の描き起こし図が新たに完成しましたので、東京にて初公開する。
バーミヤン遺跡とは
バーミヤン遺跡は、アフガニスタンの首都・カーブルから西北西に約120km、標高2500mの高地にあります。約1.3kmにわたる崖には、東西に高さ38mの「東大仏」と高さ55mの「西大仏」がそびえ立ち、800近い石窟群が掘られていました。
また、バーミヤンの地は、6世紀頃から交通の要所となり、多様な人々や文化が行き交い独自の文化が生まれ、「文明の十字路」とも称されている。
【バーミヤン遺跡の東西大仏】周囲には、壁画が描かれていた。東大仏の頭上には、ゾロアスター教の太陽神・ミスラの姿、一方西大仏の周囲には、弥勒が住まう兜率天の様子が描かれていたと考えられています。壁画は大仏とともに破壊されてしまいましたが、破壊前に行われた調査での写真・スケッチをもとに、新たに10分の1縮尺の描き起こし図が完成しました。本展覧会では、それら描き起こし図を東京にて初公開いたします。
【東大仏の頭上に描かれていた】のは、ゾロアスター教の太陽神・ミスラであるという説が有力視されている。インド地域においても、ミスラと同じ語源を持つミトラ神が古くから存在していましたが、紀元前2世紀頃にギリシアの太陽神・ヘリオスの図像がインドに伝わってからは、スーリヤが太陽神として後世まで信仰された。
【西大仏】玄奘が『大唐西域記』にてバーミヤン東大仏を「釈迦仏」と明言しているのに対し、西大仏の尊名については触れられておらず不明でしたが、壁画の内容から「弥勒仏」であった可能性が明らかとなった。
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大乗仏教を代表するもう一つの学派は、【唯識派】『華厳経』十地品にみられる「あらゆる現象世界(三界)はただ心のみ」という唯心思想を継承、発展させた。4~5世紀のアサンガ(無着)、ヴァスバンドゥ(世親)の兄弟がその代表的な思想家である。出典)
【唯識学派】切は心から現れるもの(識)のみであるという主張による。このような考えは、最古の経典『ダンマパダ』は「ものごとみな 心を先とし 心を主とし 心より成る」(藤田宏達訳)。
【唯識派の特徴】心とは何かを問い、その構造を追究した。この派は、瞑想(瑜伽すなわちヨーガ)を重んじ、その中で心の本質を追究した。そのため瑜伽行派と呼ばれる。
アビダルマ哲学によれば、われわれの存在は刹那毎に生滅をくりかえす心の連続(心相続)である。唯識派は心相続の背後にはたらくアラヤ識(阿頼耶識)を立てた。
アラヤ識は、表面に現れる心の連続の深層にあって、その流れに影響をあたえる過去の業の潜在的な形成力を「たくわえる場所(貯蔵庫)」(ālaya)である。
これは瞑想の中で発見された深層の意識であるが、教理の整合性をたもつ上で重要な役割を果たした。すなわち、無我説と業の因果応報説の調和という難問がこれによって解決された。
無我説は、自己に恒常不変の主体を認めない。自己は、刻々と縁起して移り変わっていく存在であるという。すると、過去と現在の自己が同一であるということは、なぜいえるのであろうか。無我説では、縁起する心以外に何か常に存在する実体は認められない。はたして自業自得ということが成り立つのか。あるいは、過去の行為の責任を現在問うことができるのか。これは難問であった。
解答がなかったわけではない。後に生ずる心が先の心によって条件づけられているということが、自己同一性の根拠とされた。いいかえれば因果の連鎖のうちに自己同一性の根拠が求められた。
しかし、業の果報はただちに現れるとはかぎらず時間をおいて現れることがある。業が果報を結ぶ力はどのようにして伝えられるのか。先の解答はこの点について、十分に答えていない。
深層の意識としてのアラヤ識は、この難問を解消した。心はすべて何らかの印象を残す。ちょうど香りが衣に染みこむように、それらの印象はアラヤ識の中で潜在余力となり、後の心の形成にかかわる。アラヤ識が個々人の過去の業を種子として保ち、果報が熟すとき表面にあらわれる心の流れを形成する。
これによって、「アートマン(自我)がなくて、なぜ業の因果応報や輪廻が成立つのか」という問題に対する最終的な解答が与えられた。
アラヤ識自身も刻々と更新され変化する。アートマン(自我)のような恒常不変の実体ではない。しかし、ひとはこれを自我と誤認し執着する。この誤認も心のはたらきである。これは、通常の心の対象ではなく、アラヤ識を対象とする。また、無我説に反する心のはたらきである。そこで、この自我意識(manas末那識)は特別視され、独立のものとみなされた。
こうして【唯識派】「十八界」において立てられた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識に加えて、第七の自我意識(manas末那識)、第八のアラヤ(ālaya)識vijñanaが立てられ、心は層からなる統体とみなされ、層構造をもつ心から生まれ出る表象(vijñapti)として一切の現象は説明された。一切は表象としてのみある(vijñaptimātratā)。
しかし、ひとは表象を心とは別の実在とみなす。こうして、みるものとみられるものに分解される。このようにみざるをえない認識構造をもつ心は誤っている(虚妄分別、こもうふんべつ)。
虚妄分別によってみられる世界は仮に実体があるかのように構想されたものでしかない(遍計所執性、へんげしょしゅうしょう)。
そして誤った表象をうみだす虚妄分別は、根源的な無知あるいは過去の業の力によって形成されたものである。すなわち他のものによって縁起したものである(依他起性、えたきしょう)。
こうして依他起なる心、アラヤ識のうえに迷いの世界が現出する。しかし、経典に説かれる法を知り、修行を積み、アラヤ識が虚妄分別としてはたらかなくなるとき、みるものとみられるものの対立は現れなくなり、アラヤ識は別の状態に移り、「完全な真実の性質」をあらわす(円成実性)。
「遍計所執性」「依他起性」「円成実性」は、あわせて「三性(さんしょう)」といわれる。迷いの世界がいかにして成り立ち、そこからどのようにすれば解脱しうるかを説く唯識の根本教義である。日本において、唯識思想は倶舎論とともに仏教の基礎学として尊重されてきた。
服部正明・上山春平『認識と超越<唯識>』(「仏教の思想」第 4巻、角川書店、1970年)
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■展示構成と作品
東京初公開!!
展示室4東西二体の大仏と壁画の描き起こし図
展示室4玄奘三蔵と『大唐西域記』
展示室1・3太陽神の信仰
本展覧会では、こうした太陽神の様々な姿や太陽神と仏教の関わりについてご紹介します。
展示室4・5アジアの弥勒信仰
示室2・7日本の弥勒信仰
ガンダーラ・中央アジアで発展した弥勒信仰は、中国・朝鮮を経て日本にも伝わりました。6世紀の仏教伝来当初より弥勒の存在が重視されていたことが知られ、特に奈良時代に発展した法相宗の寺院では弥勒信仰が盛んとなった。
また、平安時代後期以降も未来仏である弥勒信仰は一層の高まりを見せ、上生・下生信仰のほか、密教や阿弥陀信仰とも関連を持ちながら独自の展開を遂げた。本展覧会では、こうした日本の弥勒信仰を背景に生み出された仏像や絵画などを通して、様々な弥勒の姿をご覧いただきます。
展示室5弥勒に関する経典と図像
【弥勒】経典。『弥勒六部経』弥勒の上生・下生信仰を説いた、『法華経』類には弥勒が住む兜率天への往生と、阿弥陀如来が住む阿弥陀浄土への往生が説かれている。本展覧会では、弥勒の信仰・造像に影響を与えた経典や、様々な弥勒の像容を収めた図像などをご覧いただきます。
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参考文献
無我説と輪廻転生、仏教の根本的矛盾・・・識體の転変、種子薫習。名言種子、我執種子、有支種子
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、仏陀への旅
転識得智、種子薫習
「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 −ガンダーラから日本へ−」
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/09/post-21b8bc.html
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「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 -ガンダーラから日本へ-」
三井記念美術館、9月14日(土)〜11月12日(火)
10:00〜17:00(入館は16:30まで)

2024年4月17日 (水)

「法然と極楽浄土」・・・称名念仏、南無阿弥陀仏、極楽浄土の幻覚

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第364回
平安時代、空也、源信は、念仏を唱え西方極楽に往生、来迎、浄土教思想を広め、鎌倉時代、法然は、称名念仏・専修念仏、他力、総本山知恩院、浄土宗の開祖。鎌倉仏教の第一歩。親鸞は、阿弥陀仏の慈悲に報恩感謝の念仏、絶対他力、自然法爾、悪人正機、浄土真宗を開宗。室町時代、蓮如は、浄土真宗本願寺派第八世、山科の石山本願寺を建て、本願寺教団を組織化。
法然(法然房源空、1133~1212)。観想の念仏に対して称名念仏を唱え、南無阿弥陀仏と専修念仏すれば、阿弥陀如来の極楽浄土に往生できる。末法の時代には、自力聖建門の教えは困難であり、他力易行の浄土門である。「極楽に往生するためには、南無阿弥陀仏と口で唱えれば疑いなく往生する」『一枚起請文』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【法然(法然房源空、1133~1212)】長承2(1133)年、美作国(岡山県)久米南条稲岡荘の押領使の漆間時国の子として生まれた。9歳の時に、父は預所の明石定明によって夜襲で殺された。幼名は勢至丸。叔父の観覚に従って剃髪。1147(久安3)年 15歳で比叡山に登り源光、皇円に師事。天台を学んだが、18歳1150年教学などに対する疑問を生じ、西塔黒谷の叡空のもとに隠棲、法然房源空と称した。以後20年間修学、叡空は,念仏は『観無量寿経』が説く観想の念仏に対して、法然は善導『観無量寿経疏』によって称名念仏に専修する悟りに達した。安元1(1175)年、43歳にして山を降り、東山の吉水に草庵を結び、老若貴賤を問わず教化した。1186年天台の学匠顕真と専修念仏について議論(大原問答)し、建久9(1198)年関白九条兼実の依頼によって念仏の肝要を述べた『選択本願念仏集』。その思想は《選択本願念仏集》に最もよく表現され、至誠心(しじょうしん),深心(じんしん),回向発願心(えこうほつがんしん)の三心によって,老若貴賤,修行の多寡など問題なく、阿弥陀仏によって救われるとした。1201年(建仁1)に親鸞も弟子となった。女官の出家を契機として南都北嶺の迫害を受け、1207年讃岐に配流された。建暦1(1211)年許されて京に帰ったが翌、建暦2(1212) 年80歳の生涯を閉じた。門下に聖光、源智、証空、親鸞などを出し、日本浄土教の発展の基礎となった。
【『無量寿経』】浄土教の根拠は『仏説無量寿経』である。だが、ゴータマ・ブッダが説いたものではないことは言うまでもない。1世紀に仏典作者が創作した。『仏説無量寿経』。説法の舞台は王舎城(ラージャグリハ)耆闍崛山(ぎじゃくっせん)、ある国の王が世自在王仏の説法を聞いて、王位を捨てて出家し、法蔵菩薩となり、五劫という長い間思惟して、無量の寿、無量の光をもつ阿弥陀浄土に生まれたいと願い、この第十八願を「本願」、すべての人びとを信心と念仏によって救う本願こそ、浄土教の教えの根本。法蔵菩薩は願いを実現するために、兆載永劫果てしなく長い間修行を重ね、阿弥陀如来となった。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
重要文化財「選択本願念仏集(廬山寺本)(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)鎌倉時代・12~13世紀 京都・廬山寺蔵
重要文化財「法然上人坐像」鎌倉時代・14世紀 奈良・當麻寺奥院蔵
国宝「法然上人絵伝、鎌倉時代・14世紀 京都・知恩院蔵
国宝「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(早来迎)、鎌倉時代・14世紀 京都・知恩院蔵
国宝 「綴織當麻曼陀羅」 中国・唐または奈良時代・8世紀、奈良・當麻寺蔵 画像提供:奈良国立博物館
「仏涅槃群像」香川・法然寺、「さぬきの寝釈迦」を81体の菩薩や動物たちが囲む。
狩野一信「五百羅漢図」増上寺、江戸時代、19世紀
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参考文献
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ
https://bit.ly/3B53Xvn
特別展、東福寺・・・円爾、九条道家、吉山明兆、無準師範
https://bit.ly/3JmEdye
「中尊寺金色堂」・・・魔界の入口、中尊寺金色堂の謎
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/01/post-cf7488.html
「法然と親鸞 ゆかりの名宝」東京国立博物館・・・宗教は麻薬
https://bit.ly/3HFXOt8
「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏
https://bit.ly/3C7OKJG
「法然と極楽浄土」・・・称名念仏、南無阿弥陀仏、極楽浄土の幻覚
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/04/post-ce2b9b.html
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第1章 法然とその時代
相次ぐ戦乱、頻発する天災や疫病、逃れられない貧困など、平安時代末期の人々は苦悩に満ちた「末法」の世に生きていました。この時代に生を享けた法然は、比叡山で天台僧としての修行を積みますが、43歳の承安5年(1175)、唐の善導の著作によって専修念仏の道を選びました。「南無阿弥陀仏」と称えれば救われるという教えは幅広い階層の信者を得ます。しかし、既存の仏教界からは念仏を止めることが強く求められ、ついに法然は75歳のとき讃岐国(香川県)へ配流されるに至りました。やがて帰京し、80歳で往生を遂げます。本章では、浄土宗の歴史のはじまりである、祖師・法然の事績や思想をたどります。
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2章 阿弥陀仏の世界
法然は、本尊である阿弥陀如来の名号をひたすらに称える称名念仏をなにより重んじました。貴賎による格差が生まれる造寺造仏などの善事をすることには否定的で、法然自身は阿弥陀の造像に積極的ではありませんでした。
しかし、それを必要とする門弟や帰依者らには認めました。彼らは阿弥陀の彫像や来迎する様を描いた絵画を拝し、日ごろ念仏を称え、あるいは臨終を迎える際の心の拠りどころとしたのです。多くの人々の願いが込められた阿弥陀の造形の数々は、困難の多い時代、庶民にまで広がった浄土宗の信仰の高まりを今に伝えています。
3章 法然の弟子たちと法脈
法然のもとには彼を慕う門弟が集い、浄土宗が開かれました。法然没後、彼らは称名念仏の教えを広めようと、それぞれ精力的に活動をおこないます。九州(鎮西)を拠点に教えを広めていった聖光の一派である鎮西派は、その弟子良忠が鎌倉を拠点として宗勢を拡大しました。また、証空を祖とする一派である西山派は、京都を拠点に活動を展開し、『観無量寿経』を図示した當麻曼陀羅を見出しその流布に大きな業績を残しました。
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平安時代末期、繰り返される内乱や災害・疫病の頻発によって世は乱れ、人々は疲弊していました。比叡山で学び、中国唐代の阿弥陀仏信仰者である善導(ぜんどう、613~681)の教えに接した法然(法然房源空、ほうねんぼうげんくう、1133~1212)は、承安5年(1175)、阿弥陀仏の名号を称えることによって誰もが等しく阿弥陀仏に救われ、極楽浄土に往生することを説き、浄土宗を開きました。その教えは貴族から庶民に至るまで多くの人々に支持され、現代に至るまで連綿と受け継がれています。
本展は、令和6年(2024)に浄土宗開宗850年を迎えることを機に、法然による浄土宗の立教開宗から、弟子たちによる諸派の創設と教義の確立、徳川将軍家の帰依(きえ)によって大きく発展を遂げるまでの、浄土宗850年におよぶ歴史を、全国の浄土宗諸寺院等が所蔵する国宝、重要文化財を含む貴重な名宝によってたどるものです。困難な時代に分け隔てなく万人の救済を目指した法然と門弟たちの生き方や、大切に守り伝えられてきた文化財にふれていただく貴重な機会です。
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「法然と極楽浄土」東京国立博物館、2024年4月16日(火)~6月9日(日)
京都国立博物館 平成知新館
会期:2024年10月8日(火)〜12月1日(日)
住所:京都府京都市東山区栄屋町527
九州国立博物館
会期:2025年10月7日(火)〜11月30日(日)
住所:福岡県太宰府市石坂4-7-2

2024年1月28日 (日)

「中尊寺金色堂」・・・魔界の入口、中尊寺金色堂の謎

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第356回
美術探訪、美への巡礼。特別展「中尊寺金色堂」大久保正雄
金色堂の須弥壇に、阿弥陀三尊像(阿弥陀如来、脇侍に観音・勢至菩薩)、更に六体の地蔵菩薩、そして持国天、増長天が祀られている。この像容は、他に例が無く珍しい配置。吾妻鏡9巻(1189年)にこの像容の記載がある。国宝11体展示される。
魔界の入口【中尊寺金色堂の謎】藤原清衡は金色堂にどのような祈りをこめたのか。どのような一族の運命を願ったのか。中尊寺金色堂の原型は何か。藤原頼通は、平等院鳳凰堂に地上の極楽浄土を願った。なぜ今も千年前の姿をとどめるのか。宇治殿別荘、源融、藤原道長、紫式部は宇治に何を夢見たのか。紫式部は夢の果てに何を見出したのか。阿弥陀如来の極楽浄土の根拠はどこにあるのか。『仏説無量寿経』の根拠は何か。
【奥州藤原氏の悲劇】清衡は、一族繁栄、極楽浄土を願ったが、泰衡は源頼朝の罠にかかり一族滅亡。藤原清衡、基衡、秀衡、泰衡。三代秀衡(∸1187)は毛越寺を復興、社堂坊舎を増築し、堂搭四十余宇、僧坊五百余宇「吾妻鏡」。文治3(1187)年、頼朝の弟である義経が追放されて奥州へ落ち延び、秀衡のもとに身を寄せる。秀衡は息子たちに「義経を大将軍として仕え、奥州を守れ」と告げ、兄弟が争わないように取り計らうが亡くなる。だが側室から生まれた国衡と泰衡は対立。文治4(1188)年、義経の奥州潜伏が発覚、頼朝は泰衡たちへ義経討伐の命を何度も要請。泰衡は義経一行を攻め、自害に追いつめる。それにもかかわらず頼朝は全国の武士へ奥州攻め、泰衡は殺され、権勢を誇った奥州藤原氏四代は滅亡。
【藤原清衡、中尊寺金色堂】奥州藤原氏初代藤原清衡が天治元年(1124年)に建立、平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例。「金色堂 上下四壁は皆金色なり」『吾妻鏡』【阿弥陀三尊像】中央壇、右壇、左壇共に阿弥陀三尊像(阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像)を中心に、左右に3躯ずつ計6躯の地蔵菩薩立像(六地蔵)、手前に二天像(持国天、増長天)を配し、以上11躯の仏像から構成される群像を安置。中央壇の阿弥陀如来像は丸顔で典型的な定朝様であり、定朝から3代目の円勢などの円派仏師の作風に通ずる12世紀前半の制作。
【平等院鳳凰堂】平安後期1052年、最大権力者であった関白・藤原頼通が父・藤原道長から継いだ別荘を仏寺に改めた『平等院』。そして翌1053年、当時最高技術を誇る仏師・定朝が造り上げた『阿弥陀如来坐像』を堂内に安置した『鳳凰堂』(阿弥陀堂)が完成した。国宝『鳳凰堂』は、摂関時代(平安中期)の建築を知ることができる藝術、堂内には金色の『阿弥陀如来坐像』が安置され、壁に『九品来迎図』や『極楽浄土図』が描かれ、建物内に優美な世界観が広がる。末法思想が貴族や僧侶らの間で広まり、1052年から末法になると信じられていた。死後に極楽往生を願う浄土信仰が広く浸透、南無阿弥陀仏を唱え阿弥陀如来を信仰すれば極楽浄土に行けると信じ、各地に阿弥陀堂が造られた。
【宇治別邸、源融】宇治の地は859年(貞観元年)第52代・嵯峨天皇の皇子である左大臣・源融が造営した別荘の地。第59代・宇多天皇、宇多天皇の孫、藤原頼通の父、藤原道長が源重信の婦人から譲り受け別荘「宇治殿」を創った。【紫式部『源氏物語』宇治十帖】光源氏のモデルは、源融と藤原道長。紫式部は、源融に憧れ、藤原道長の召人、中宮彰子の家庭教師。1001年(長保3)夏に宣孝が死に、1001年の秋ごろから『源氏物語』を書き始めた。1005年(寛弘2)ごろ年末に一条天皇の中宮彰子のもとに出仕。はじめ〈藤式部〉やがて〈紫式部〉と呼ばれる。紫式部の二百年後、『新古今和歌集』春の夜の夢の浮橋の歌がある。
【春の夜の夢の浮橋】「春の夜の夢の浮橋と絶えして嶺に別るる横雲の空」藤原定家、三十七歳の作である(建久八年(1197)12月5日、仁和寺守覚法親王五十首歌会)。春の夜の夢、たなびく曇が別れる空、実らぬ愛、魂の夢の浮橋。夢の浮橋とは『源氏物語』五十四帖の最終巻の巻名。見果てぬ夢のごとく、愛し合った男女、薫と浮舟が別れたまま終わる。【見果てぬ愛は、永遠に美しい】実らない愛は永遠に輝いている。定家は式子内親王と禁断の恋をし、逢ひて逢はぬ恋になる。「玉の緒よ絶えなば絶えね、ながらへば忍ぶることのよわりもぞする」式子内親王。わたしの命よ。絶えてしまうというなら絶えてしまえ。生きつづけていたならば、恋心を秘めておくことができないから。
【浄土教、大乗仏教はファンタジー】浄土教の根拠は『仏説無量寿経』である。だが、ゴータマ・ブッダが説いたものではないことは言うまでもない。1世紀に仏典作者が創作した。『仏説無量寿経』。説法の舞台は王舎城(ラージャグリハ)耆闍崛山(ぎじゃくっせん)、ある国の王が世自在王仏の説法を聞いて、王位を捨てて出家し、法蔵菩薩となり、五劫という長い間思惟して、無量の寿、無量の光をもつ阿弥陀浄土に生まれたいと願い、この第十八願を「本願」、すべての人びとを信心と念仏によって救う本願こそ、浄土教の教えの根本。法蔵菩薩は願いを実現するために、兆載永劫果てしなく長い間修行を重ね、阿弥陀如来となった。
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著者 大久保正雄 プラトン哲学、美学、密教の比較宗教学、宗教図像学。著書『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社。上智大学大学院、北海道大学大学院博士後期課程修了。
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「建立900年 特別展 中尊寺金色堂」
会場:東京国立博物館 本館特別5室 会期: 2024年1月23日(火)~4月14日(日)
開館時間:午前9時30分~午後5時 ※入館は閉館の30分前まで
休館日 :月曜日、2月13日(火)※ただし、2月12日(月・休)、3月25日(月)は開館
問い合わせ先 050-5541-8600(ハローダイヤル)
詳しくは東京国立博物館公式サイト https://www.tnm.jp/
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参考文献
末木文美土『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』新潮社1992
末木文美土『仏典を読む 死から始まる仏教史』新潮社2009
「法然と親鸞 ゆかりの名宝」東京国立博物館・・・宗教は麻薬
「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・西方浄土、阿弥陀如来の本願、『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ
「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」・・・源氏物語の謎
「中尊寺金色堂」・・・魔界の入口、中尊寺金色堂の謎
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/01/post-cf7488.html

2023年8月26日 (土)

仏教2500年の旅 仏陀入滅、アレクサンドロス大王、瑜伽行唯識学派、密教

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第340回

【仏教2500年の旅】仏陀入滅80歳(BC485年383年)、アレクサンドロス大王バクトリア征服(BC328)、ガンダーラ美術(1世紀-3世紀)、マトゥラー『仏陀立像』クシャーン朝・2~3世紀)、ヴァスバンドゥ(世親320-400年) 『唯識三十頌』『仏性論』『倶舎論』、アジャンタ石窟寺院(グプタ朝時代5世紀)、鳩摩羅什(4世紀)、サールナート『初転法輪の仏陀』(グプタ朝時代5世紀)、魏晋南北朝(司馬炎-589年まで)
【原始仏教】ゴータマ・ブッダ、釈迦族に生まれる。前463頃、カピラバストゥ、ルンビニに生まれ、前383頃、クシナガラにて死す。仏教の開祖。釈迦牟尼Śākya muni。シャカ族の国王浄飯王を父とし、摩耶夫人を母とし、姓をゴータマ Gotama (瞿曇) 、名をシッダールタ Siddhārtha (悉達,悉陀) という。生後まもなく母を失い、叔母の手で養育された。 16歳で結婚,息子ラーフラをもうけたが、
【四門遊観】迦毘羅城の東西南北の四つの門から郊外に出遊、東門を出て杖に縋る老人を見、生あれば老あるを悟り、西門を出て病人に会い、生あれば病あるを知り、南門を出て死人に会い、生あれば死あるを知り、北門を出て高徳の沙門に会い、苦諦に目を開き、出家を決意した『大辞泉』。
29歳のとき意を決して出家。修行の末、35歳頃ブッダガヤーの菩提樹の下で悟りを開き、ブッダ buddha (仏陀 ) 、すなわち覚者となった。ワーラーナシの郊外サールナートの鹿野苑で最初の説法【初転法輪】を行い、以後 80歳で没するまで,ガンジス川流域の中インド各地を周遊して人々を教化した。四諦、八正道。五蘊皆空、十二因縁、六入、涅槃。
【四苦八苦】生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦。仏教は四苦八苦から生きものを救うことから始まる。業を起因する輪廻転生を真理の証悟によって解脱する教え。五蘊は認識作用の対象。
【五蘊皆空】「五蘊」は人間を形成する五つの要素。色(肉体)、受(感覚)、想(想像)、行(意志)、識(判断)の対象は、実体ではない。『般若心経』
【五蘊】五陰ともいう。「蘊」は集まりの意味で、サンスクリット語のスカンダskandhaの訳。仏教では、一切の存在を五つのものの集まりと解釈し、その五つも、やはりそれぞれ集まりからなる、とする。五つとは、色(しき)蘊(対象を構成している感覚的・物質的なものの総称)、以下は主体の意識において、受蘊(なんらかの印象を受け入れること)、想蘊(イメージをつくる表象作用)、行蘊(ぎょううん)(能動性をいい、潜在的にあり働く)、識蘊(具体的に対象をそれぞれ区別して認識する働き)をいう。このように、一切を、色―客観的なもの、受・想・行・識―主観的なものに分類する考え方は、仏教の最初期から一貫する優れた伝統とされる。[三枝充悳]
【仏教の矛盾】無我(anātman)説と輪廻転生(saṃsāra)は、根本的に矛盾する。この矛盾をどのように解決するのか。この問題は、婆羅門教のアートマンと仏教の無我説の対立に根源がある。仏教2千5百年、多彩な仏教の学派には、この問題を解く学派がある。
【ガンダーラの思想家】瑜伽行唯識Yogācāra学派。無著(Asaṅga)は、4世紀後半から5世紀前半に活躍した乾陀羅の仏教学者。瑜伽唯識思想の大成者。ガンダーラのプルシャプラのバラモンの家柄に生まれ、部派仏教の一派(説一切有部とも化地部)で出家。代表作『摂大乗論』。兄弟3人のうちの長男。次男には説一切有部から唯識派に転向して大成した世親(Vasubandhu、400-480)。『倶舎論』のほかに『弁中辺論』『唯識三十頌』『摂大乗論釈』などがある。7世紀ころより有相唯識派と無相唯識派に分かれる。
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【仏身論、三身論】trikāya。法身(永遠不滅の真理で釈迦の本身)、報身(単に永遠の真理でも無常の人格でもなく、真理を悟った力をもつ人格的仏)、応身(衆生救済のため,真理により現世に姿を現した仏)。
瑜伽行唯識学派で完成された三身説では、三身を順次に自性身、受用身、変化身という名でよぶ。長尾雅人「仏身論をめぐりて」1971、
https://repository.kulib.kyoto-.ac.jp/dspace/bitstream/2433/273454/1/jps_45_03_179.pdf
【仏身論、三身説】仏身に関する思索が深まり、瑜伽行派の弥勒、無著、世親らの論師たちによって最終的に3種の仏身をたてる〈三身説〉が成立した。三身とは(1)法身(ダルマ・カーヤdharma‐kāya)、(2)報身(サンボーガ・カーヤsambhoga‐kāya)、(3)応身(化身、ニルマーナ・カーヤnirmāṇa‐kaya)の3種、あるいは(1)自性身(スババーバ・カーヤsvabhāva‐kāya)、(2)受用身(サンボーガ・カーヤsambhoga‐kāya)、(3)変化身(ニルマーナ・カーヤnirmāṇa‐kāya)の3種をいう。これら三つは論師あるいは宗派によって異なる。
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蓑輪 顕量「中世における仏身論の展開」仏教文化研究論集2020
密教が成立すると,独自の視点から更に新しい捉え方が登場した.それが四種法身説である。四種法身説とは自性身,受用身,変化身,等流身を言う。
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「無著、世親」運慶の晩年に制作された興福寺北円堂諸像の中の二体。運慶の指導の下、無著は六男の運助、世親は五男の運賀が担当した。無著像は老人の顔で右下を見、世親像は壮年の顔で左を向き遠くを見る。天平彫刻の写実、弘仁彫刻の繊細が融合。運慶『無着像』は西行がモデル。田中英道。
【中観派】2、3世紀、龍樹(Nāgārjuna)『中論』などを基本的な典籍とする。龍樹は般若経典を背景として、「すべては、人間が想定しがちな不変で固定的な本質をもつものではない」という空の思想を、論理性の高い表現によって、日常的なことばや思考のもつ矛盾を暴露することを通じて明らかにした。その後、提婆(3世紀)は龍樹の考えを体系化しようと努力、5、6世紀には仏護が『中論』の忠実な注釈を試み、清弁は空の思想を論理学的な推論式で積極的に論証する方法を確立、7世紀には月称が清弁を批判して、相手の論法に沿った形でその論法の不合理性を明らかにする帰謬論証のほうがより有効であるとした。後代、中観派が清弁側の独立論証派と月称側の帰謬論証派に分裂する。[江島惠教]
【唯識論と中観派の対立】弥勒、無着、世親の仏教は瑜伽行派と呼ばれ、龍樹、提婆の中観派とともにインド大乗仏教の二大主流となって、鋭く対立した。中国や日本に広く流伝した。
【三蔵法師、玄奘、太宗皇帝】玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)、唐帝国に出国許可を求めたが得られず国禁を犯して密出国。西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越えて天山北路へとルートを辿って
【三蔵法師、玄奘、太宗皇帝】密出国から16年を経た貞観19年1月(645年)、657部の経典を長安に持ち帰った。皇帝太宗も玄奘の業績を高く評価した、16年前の密出国の件について玄奘が罪を問われなかった。太宗のために『大唐西域記』を執筆。仏教と経典の保護を高宗
【玄奘、三蔵法師】26歳の時、法律を破って一人、インドへ旅立つ。40歳まで学問を深め、中国に仏教を伝えたいと帰ることを決意。インドのサンスクリット語で書かれた経典を22頭の馬に積んで旅する。43歳のとき帰国。経の翻訳に人生を捧げる。『解深密経』『大般若経』『般若心経』『倶舎論』『唯識三十頌』『唯識二十論』『瑜伽師地論』。弟子の窺基(きき)が法相宗を開いたので、玄奘は後に唯識に基づく法相宗の開祖といわれる。602年~664年。
【螺鈿紫檀五絃琵琶、正倉院756年】沙漠を超えて、千二百年前からきた旅人。駱駝に乗って琵琶を演奏する波斯人。裏面に散り乱れる宝相華文。琵琶を奏でる、千二百年の旅人。天平の音色が漂う。56歳で亡くなった聖武、五絃琵琶を光明皇后が東大寺盧遮那仏に献じた。
【密教】8世紀、密教が伝来する。善無畏と一行訳『大毘盧遮那成仏神変加持経』(725)。【不空金剛】(Amoghavajra,705-774)は、唐の開元8 (720) 年洛陽に来て金剛智の弟子となり、師の没後,同 29年セイロンに渡り,密教経典を集め、天宝5 (746) 年再び長安に入った。以後 30年間、玄宗、粛宗、代宗の3皇帝の優遇を受け、『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』以下 80部以上の密教経典を訳した。
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飛鳥、白鳳彫刻、天平、弘仁貞観
【飛鳥文化、推古天皇】法隆寺金堂の釈迦三尊像が光背裏の銘文から,推古 31 (623) 年3月,その前年に亡くなった聖徳太子のために止利仏師 (鞍作止利) が造立した。六朝時代末、北魏様式の影響を受ける。『日本書紀』の天智天皇9 (670) 年4月の条の法隆寺炎上の記事をめぐって再建非再建の論争。白鳳期の美術であり、推古期の建築は現存しない。
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【密教の起源】750年8世紀初めから半ば、唐に善無畏、金剛智が順次に来唐し、善無畏が『大日経』を、金剛智が『金剛頂経』を翻訳して中国に組織的な密教経典が備わる。不空はセイロン(スリランカ)に渡って密教を学び、帰国して80余部の密教経典をはじめ数多くの経典を訳して密教を大成、唐の玄宗、粛宗、代宗の厚い信任を受けた。不空の弟子のうち恵果は真言密教の秘奥を究め、晩年、日本から入唐した空海にその奥義を伝えた。[勝又俊教]【密教】秘密仏教。インド大乗仏教の末期(7世紀後半)に興起した一流派。
【空海、波瀾の遣唐船漂流、謎の生涯】24歳で『聾瞽指帰』を書く。57歳で『秘蔵宝鑰』を書く。大学入学18歳から31歳、遣唐使留学僧、入唐まで、大学寮明経科中退、山林修行、私度僧。東大寺にて得度、遣唐使留学層派遣、謎の12年間。宝亀5年(774)6月15日生まれる。承和2年(835) 4月22日入定、62才。
【空海の書】空海は日本書道界の祖、嵯峨天皇とともに二聖と呼ばれ、また橘逸勢を加えて三筆とも呼ばれる。世に空海筆と称されるものは数多いが、確実に彼の筆と認められるのは《風信帖》《灌頂歴名》《真言七祖像賛》《聾瞽指帰》《金剛般若経開題》《大日経開題》《三十帖策子》
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智慧と慈悲
【智慧】梵語: prajñāの訳語である場合。この場合の智慧は、 prajñā の音写語である般若と同等の意味合いで用いられる。六波羅蜜および三学の一つ。
智がジュニャーナ(梵語: jñāna)の訳語として用いられ、慧が梵語: prajñāの訳語として用いられる場合。この場合は、智が慧と区別されて用いられる。
【慈悲】「慈」はサンスクリット語のmaitrī(友情)にあたり、深い慈しみの心をさし、「悲」はkarunā(同情)にあたり、深い憐(あわれ)みの心をさす。仏典では、生きとし生ける者に幸福を与える(与楽)のが慈であり、不幸を抜き去る(抜苦)のが悲である。藤田宏達、「慈悲」 『日本大百科全書』
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七支刀
学生時代、友人と3人で、早春、山の辺の道、大神神社、石上神宮、を歩いた。石上神宮にて、七支刀について質問した。回答が得られたのは数十年後、東京国立博物館、研究員に質問したところ、回答を得た。
出雲と大和展、七支刀
https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/category/108/
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参考文献
無我説と輪廻転生、仏教の根本的矛盾・・・識體の転変、種子薫習。名言種子、我執種子、有支種子
https://bit.ly/2U9rO6s
法隆寺と聖徳太子・・・美術史の謎、飛鳥、白鳳、天平
https://bit.ly/2XE6s7q
「密教彫刻の世界」・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
https://bit.ly/2WNIoNt
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」東京国立博物館・・・空海、理念と象徴
https://bit.ly/3fyOaYF
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、転識得智、仏陀への旅
https://t.co/MIXigqe3xH
東寺『金剛界曼荼羅』『胎蔵界曼荼羅』西院本・・・知恵と無明の戦い、生命の根源
https://bit.ly/315UPn8
密教経典『理趣経』・・・空海と金剛界曼荼羅
https://bit.ly/2H2diKc
東寺『金剛界曼荼羅』『胎蔵界曼荼羅』西院本・・・知恵と無明の戦い、生命の根源
https://bit.ly/315UPn8
仏教2500年の旅 仏陀入滅、アレクサンドロス大王、瑜伽行唯識学派、密教
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-d241f1.html

2023年5月 7日 (日)

親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第327回
春爛漫、躑躅、咲く。桜満開の京都を思い出す。「法然と親鸞」(東京国立博物館2011年)。
親鸞の最も著名なことばである。「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(唯円『歎異抄』第三条)、悪人正機。悪人とは、法律、道徳を基準による悪人ではなく、仏教を基準にした悪人。仏教は、智慧と慈悲の獲得を目ざし実践する教えである。浄土仏教は、智慧を身につけさとるより、阿弥陀如来の慈悲による救いを他力本願すること。私を救わずにおかない阿弥陀如来の願いのままに、阿弥陀如来の智慧と慈悲に導かれて生きる生き方が他力本願。専修念仏を親鸞は説く。「親鸞は弟子一人ももたず候」(唯円『歎異抄』第六条)
【承元の法難】1204年、比叡山の衆徒から法然教団に対して専修念仏を禁止すべきという声が上がる。1205年、興福寺から朝廷に法然教団には9ヶ条の過失「興福寺奏上」提出。1206年、建永元年、後鳥羽上皇の女官が法然教団の法会に参加、外泊。承元元年1207年、後鳥羽上皇と興福寺とが一致して専修念仏を弾圧。専修念仏を禁止。法然は土佐国、親鸞は越後国、流罪。法然は75歳、親鸞は35歳。
親鸞「南無阿弥陀仏と念仏すれば、往生浄土、西方浄土に往生できる」と布教、多くの信徒を獲得、強大な浄土真宗教団を作る。九条兼実の娘と三善為教の娘と結婚、7人の子をなした。
【蓮如】本願寺派第8世宗主・蓮如(1415-1499)は、「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(『歎異抄』)、「自らの力で迷いを離れることができない人。煩悩具足の凡夫にこそ阿弥陀仏の救いは向けられる」悪人正機、布教し、教団を再興。5度婚姻、27人の子を生じた精力家。
【石山戦争】本願寺派第11世宗主・顕如(1543-1592)は、摂津加賀の戦国大名と化した石山本願寺、教団を率いて、10年間、元亀元年~天正8年(1570~80)、織田信長と戦い、敗北、正親町天皇の勅命講和により、石山本願寺より退去。
「飢えた子どもは餓鬼となる。飢えた人は悪をなす。念仏で飢えた人を救うことができるのか。飢えた人の飢えを満たすのは親子丼、天丼、かつ丼である」「本願寺教団は軍事組織となり、百姓の国は飢餓を救うことができたのか。教団は新たな搾取階級となり、本願寺教祖階級は、どこまでも続くのか。」
【親鸞、2人の妻、7人の子。親鸞教団、王朝の始まり】親鸞(1173~1262)。『日野一流系図』に記される九条兼実の娘である玉日姫、『恵信尼文書』で知られる三善為教の娘である恵信尼、六角堂の夢告で親鸞が恵信尼を観音菩薩の化身と考え『恵信尼文書』において恵信尼も親鸞を観音菩薩の化身と考えていたと書かれる。互いを阿弥陀如来の慈悲のあらわれと思った。長男は玉日姫との間に生まれたとされる範意、第二子以降は恵信尼との間に生まれる小黒女房、慈信房善鸞、信蓮房明信、益方大夫人道有房、高野禅尼、覚信尼の計7人である『日野家一流系図』。
親鸞(1173~1262)、蓮如(1415-1499)、顕如(1543-1592)、親鸞の教団は、民衆を救ったのか。専修念仏、南無阿弥陀仏、他力本願の浄土仏教は、阿弥陀如来の浄土へ往生浄土させることができるのか。
民衆に極楽往生の門を開いた法然。悪人女人救済の仏道を説いた親鸞。踊り念仏・遊行を勧めた一遍。念仏を唱えれば阿弥陀浄土に往生すると布教する浄土仏教、真実は何か。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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2023年は浄土真宗を開いた親鸞聖人(1173~1262)の生誕850年にあたります。1173年、親鸞は京都に生まれ、9歳で出家して比叡山で修行に励みますが、29歳で山を下り、法然上人の弟子となります。そこですべての人が平等に救われるという阿弥陀仏の本願念仏の教えに出遇うも、法然教団は弾圧を受け、親鸞も罪人として還俗させられ越後に流罪となります。その後、罪が赦された親鸞は、関東へ赴き長く布教に励み、やがて京都へと戻り、晩年まで主著『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)や「和讃」など多くの著作の執筆や推敲を重ねました。1262年没す。その90年の生涯と教えは、今も多くの人を魅了して止みません。京都国立博物館
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「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(『歎異抄』第三条)
「親鸞、唯円『歎異抄』の思想を通じて近代の知識人は、宗教を考えてきた。西田幾多郎、司馬遼太郎、丹羽文雄、遠藤周作、五木寛之、吉本隆明、梅原猛、子安宣邦。「人は、生まれながら罪を背負っているという「原罪」の思想が浸透している。」釈徹宗
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蓮如(1415-1499)、顕如(1543-1592)
大坂本願寺 大坂の始まり
【妖怪、本願寺蓮如、5度婚姻、27人の子を生じた精力家。85歳】妻の死別を4回に渡り経験、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人。1488年蓮綱(三男)・蓮誓(四男)・蓮悟(七男)率いる【加賀一向一揆】は国人衆と共に守護富樫政親を討ち滅ぼして加賀一国を制圧、以後90年続く「百姓の持ちたる国」を現出。浄土真宗大谷派、1496年晩年、大坂本願寺、建設。3月25日(1499年)、山科本願寺において85歳で没【曾孫顕如の代に摂津・加賀の戦国大名へ繁栄、顕如、織田信長に降伏】
【石山本願寺戦争 本願寺顕如、摂津・加賀の戦国大名、織田信長に降伏】本願寺証如 と顕能尼の子。諱は光佐。天文23(1554)年12歳で継職。本願寺11世、教団を経営。1570年(元亀1)9月、浅井朝倉と呼応して織田信長と対立、諸国の門徒に挙兵を促し、以来、1580年(天正8)まで信長と戦う(石山戦争)。天正8年4月9日、正親町天皇の勅命によって講和し石山本願寺を退出。豊臣秀吉から天正19(1591)年3月京都西六条の地を寄進され、同年8月顕如・教如父子はこれに移る。現在の西本願寺の地である。文禄1 (1592)年50歳で没す。
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親鸞の思想
1、他力本願
阿弥陀仏がすべての人を救う。自らの力でさとりをひらくことができないものが歩む仏道。阿弥陀仏がすべての人を救う願いの力。『仏説無量寿経』浄土に往生するためには信心と念仏が必要。と親鸞は説いた。
2、悪人正機
悪人とは、法律、道徳を基準による悪人ではなく、仏教を基準にした悪人。自力本願できない、自らの力で迷いを離れることができない人。煩悩具足の凡夫にこそ阿弥陀如来の救いはある。「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」『歎異抄』第三条。
3、往生浄土と南無阿弥陀仏
往生とは、阿弥陀仏の浄土に往き生まれること。浄土仏教において、仏の世界に往き生まれること。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏を敬いよりどころとする称名念仏。
4、法然の教え 親鸞の師「専修念仏」『選択本願念仏集』
長承2(1133)年4月7日 美作-建暦2(1212) 年1月25日 京都、没。79歳。
法然(1133-1212)浄土宗の開祖。諱は源空で,法然房と号した。幼名は勢至丸。9歳で父を失い,叔父の観覚に従って剃髪。15歳で比叡山に登り源光,皇円に師事。18歳黒谷の叡空に学び,24歳京都,奈良で各宗の奥義を研究,のち黒谷に帰って大蔵経を閲読。承安5 (1175) 年3月善導著『観無量寿経疏』の「散善義」を読んで浄土教に帰し洛東吉水に庵居して念仏を称えた。文治2 (86) 年勝林院で浄土の法義を談論 (大原問答 ) 。建永2 (1207) 年、帰依する者がふえると既成仏教教団の反感をまねき、念仏は禁止。諸宗の嫉視により土佐に配流。のち許されて建暦1 (11) 年吉水の禅房に帰り,翌年没す。80歳。
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展示作品の一部
国宝 三十六人家集 西本願寺 12世紀
国宝 親鸞聖人影像(安城御影副本)(賛・裏書)蓮如筆 室町時代(15世紀)京都 西本願寺 奈良国立博物館(3月25日~4月2日展示)
刺繡阿弥陀如来像 室町時代(15世紀)福井 誠照寺(3月25日~4月23日展示)
国宝 観無量寿経註 親鸞筆 鎌倉時代(13世紀)京都 西本願寺(3月25日~4月30日展示〈巻替あり〉)
重要文化財 本願寺聖人伝絵(康永本)上巻 本(詞書)覚如筆 (絵)康楽寺円寂筆 南北朝時代 康永2年(1343)京都 東本願寺(5月2日~5月21日展示)
重要文化財 歎異抄 巻下 蓮如筆 室町時代(15世紀)京都 西本願寺(3月25日~4月9日展示)
重要文化財 善鸞義絶状(部分)顕智筆 鎌倉時代 嘉元3年(1305)三重 専修寺
覚信尼絵像 室町~桃山時代(16世紀)新潟 福因寺
重要文化財 顕智坐像 鎌倉時代 延慶3年(1310)栃木 専修寺
重要文化財「恵信尼書状類」のうち(第3通)(部分) 恵信尼筆 鎌倉時代(13世紀)京都 西本願寺(5月2日~5月21日展示)
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参考文献
釈徹宗『仏にわが身をゆだねよ』NHK出版
釈徹宗、佐々木隆晃「『歎異抄』に出会う」2023
梅原猛『地獄の思想』
末木文美土『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』新潮社1992
末木文美土『仏典を読む 死から始まる仏教史』新潮社2009
「法然と親鸞 ゆかりの名宝」東京国立博物館・・・宗教は麻薬
「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ
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親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝、京都国立博物館、3月25日(土)~5月21日(日)

2023年3月19日 (日)

特別展、東福寺・・・円爾、九条道家、吉山明兆、無準師範

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第318回
東福寺に桜満開の森と方丈の重森三玲作の八相の庭(1939)を訪れたのは、2011年春、仁和寺に滞在した時である。
【寺院の奥に秘蔵された非公開の秘宝】東福寺の桜の森と八相の枯山水を見た時、その存在も知らなかった。吉山明兆筆「五百羅漢図」南北朝時代・至徳3年(1386)、吉山明兆筆「白衣観音図」、「三十三観音図」、吉山明兆筆「仏涅槃図」室町時代1408、「寒山拾得図」。門外不出の秘宝が展示されている。
空海、明恵、最澄と比べると、円爾、無準師範、虎関師錬、禅宗祖師の個性は不明である。東福寺は、臨済宗東福寺派、建仁寺派、大徳寺派と同じく、中国仏教であり、中国仏教の本質は道教である。道教の教理の本質は、道、無為自然、玄徳、柔弱謙下、大道廃れて仁義あり、上善は水のごとし。
「不立文字、教外別伝、直指人心、見性証成仏」仏の真理は言葉によらず体験によって心に直接に悟られ、経典の教えのほかに以心伝心で伝えられ、坐禅によって自己の心を直接とらえ、心の本性を見ることが真理と一体となり仏となることである。(栄西『興禅護国論』)
延暦寺、興福寺、等、巨大寺院は、内部の不正、暴力事件を隠蔽、封印した。延暦寺は、僧兵が狂暴化、白河法皇は天下三不如意に激怒、足利義教は延暦寺を2度包囲4人の僧の首を刎ね、細川政元は延暦寺焼き討ち、抗争を繰り広げた。【閉鎖社会で、無能な管理職に報復するにはどのような方法があるか】
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【無能な管理職に復讐する方法】無能が支配する管理社会。なぜ日本組織は未だに大日本帝国、上意下達、忖度官僚だらけ。カネで魂を売る大衆は烏合の衆【織田信長、正親町天皇による勅命講和】1570生涯最大の窮地、志賀の陣、金が埼の退き口、秀吉、家康、光秀、結集
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
戦国時代、織田信長は、妙心寺派の僧、沢彦宗恩の教えを受け、他化自在天、麒麟、五徳、天下布武、天正、清静は天下を正と為す。儒教、道教、仏教の理念を学んだ。
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
織田信長、比叡山焼き討ち元亀2年9月12日(1571年9月30日)朝倉義景・浅井長政との戦い。当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕。『信長公記』「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」。『信長公記』、ルイス・フロイス書簡、『言継卿記』。
【織田信長、正親町天皇、勅命講和】信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現。元亀元年(1570年)朝倉義景・浅井長政との戦い、天正元年(1573年)足利義昭との戦い、天正8年(1580年)石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命による
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
禅-心とかたち、東京国立博物館・・・不立文字
「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人
妙心寺展・・・禅の空間 、近世障屏画の輝き
島薗進×大久保正雄『死生学 ファンタジーと魂の物語』
今谷明 『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』1992年
特別展、東福寺・・・円爾、九条道家、吉山明兆、無準師範
https://bit.ly/3JmEdye
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展示作品の一部
国宝 無準師範像、自賛 中国 南宋時代・嘉熙2年(1238)、京都・東福寺蔵
重要文化財「癡兀大慧像」鎌倉時代・正安3年(1301)京都・願成寺蔵
癡兀大慧(ちこつだいえ、1229~1312)は、もと天台僧。円爾に法論を挑んだが、その徳に圧倒されて弟子となった。本像は73歳の折の肖像画で、目も見開きにらむ顔が迫力満点である。中世の肖像表現の白眉であり、畏怖にみちた禅風をしのばせる。
重要文化財「五百羅漢図」吉山明兆筆 南北朝時代・至徳3年(1386)京都・東福寺蔵
水墨と極彩色とが見事に調和した、若き明兆の代表作。1幅に10人の羅漢を表わし50幅本として描かれた作で、東福寺に45幅、東京・根津美術館に2幅が現存する。東福寺の伽藍再興運動のなか、至徳3年(1386)に完成したことが記録により判明する基準作としてもきわめて貴重である。14年に渡る修理事業後、本展で初めて全幅が公開される。
南宋禅宗界きっての高僧で、円爾の参禅の師である無準師範の肖像。無準が自ら賛を書いて円爾へと付与した作で、中国から日本へと禅の法脈が受け継がれたことを象徴する。迫真的な面貌表現は南宋肖像画の高い水準を示す。
重要文化財「白衣観音図」吉山明兆筆 室町時代・15世紀 京都・東福寺蔵
明兆は巨幅や連幅を数多く描いたが、そのなかでも本作の巨大さは圧倒的である。もとは法堂の壁面に貼られていたとも考えられる作で、筆勢あふれるダイナミックな描写には明兆の非凡な画力が遺憾なく発揮されている。
高さは326.1センチメートル。
国宝 太平御覧、李昉(りぼう)等編 中国 南宋時代・12~13世紀 京都・東福寺蔵
重要文化財「東福寺伽藍図」了庵桂悟賛 室町時代・永正2年(1505) 京都・東福寺蔵
国宝 禅院額字幷牌字、張即之筆 中国 南宋時代・13世紀 京都・東福寺蔵
重要文化財 迦葉・阿難立像、鎌倉時代・13世紀 京都・東福寺蔵
「寒山拾得図」吉山明兆筆、室町時代15世紀
吉山明兆筆「仏涅槃図」室町時代1408、展示なし。
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特別展「東福寺」
第1章 東福寺の創建と円爾
嘉禎元年(1235)、円爾(1202~80)は海を渡り、南宋禅宗界の重鎮である無準師範(1177~1249)に師事します。帰国後は博多に承天寺(じょうてんじ)を建立。その後九条道家の知遇を得て京都に巨刹、東福寺を開きました。以来、寺は災厄に耐えて古文書や書跡、典籍、肖像画など無準や円爾ゆかりの数多の宝物を守り継いできました。それらは13世紀の東アジアの禅宗と日中交流の実情を窺わせる、質量ともに類をみない文物群で、今日、東福寺を中世禅宗文化最大の殿堂たらしめています。
第2章 聖一派の形成と展開
円爾の法を伝える後継者たちを聖一派(しょういちは)と呼びます。円爾は禅のみならず天台密教にも精通し、初期の聖一派の僧たちも密教をよく学んでいました。また彼らはしばしば中国に渡り、大陸の禅風や膨大な知識、文物を持ち帰りました。東福寺周辺には彼らの書や、面影を伝える肖像画や彫刻、袈裟などの所用品が多数現存し、いずれも禅宗美術の優品ぞろいです。聖一派は国際性豊かで好学の気風が強く、名僧を多く輩出し、禅宗界で重きをなしました。
第3章 伝説の絵仏師・明兆
吉山明兆(きっさんみんちょう、1352~1431)は、東福寺を拠点に活躍した絵仏師です。 江戸時代までは雪舟とも並び称されるほどに高名な画人でした。寺内で仏殿の荘厳などを行う殿司(でんす)職を務めたことから、「兆殿司(ちょうでんす)」とも通称されます。中国将来の仏画作品に学びながらも、冴えわたる水墨の技と鮮やかな極彩色とにより平明な画風を築き上げ、巨大な伽藍にふさわしい巨幅や連幅を数多く手掛けました。 本章では、東福寺および塔頭に伝蔵される明兆の代表作をご覧いただきます。
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特別展「東福寺」東京国立博物館、3月7日(火)~5月7日(日)
京都国立博物館 平成知新館、2023年10月7日(土)~12月3日(日)

2022年3月 3日 (木)

「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』273回

亡き人を想う、生死の境
空也は、伝染病の流行で亡くなった人を想い、念仏を唱え、浄土教を流布、天禄3(972)年、70歳で死す。六波羅蜜寺は、六道の辻にある。六道珍皇寺の井戸を通って小野篁(802~52)は冥界と往還を果たした。
300年後、慶派仏師、康勝は亡くなった空也を想い、空也の像を刻んだ。
平家一族滅亡後、慶派は僧形平清盛像を製作した。湛慶は、運慶像を刻んだ。
この時代、新古今歌人は、生と死の境を歌った。藤原定家は、亡き母の歌を沢山詠んだ。定家の父、俊成に教えを受けた西行は「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と歌い、涅槃会に亡くなった。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【藤原定家、亡き母を歌う】
玉ゆらの 露もなみだも とどまらず なき人恋ふる 宿の秋風、藤原定家(『新古今和歌集』哀傷・七八八)
亡き母上がお住まいになっていたこの家。今はもうお目にかかれないと思うと涙が止まらない。この家に吹く秋風よ、せめて一目逢いたいという私の願いをかなえてくれないか。
藤原定家(1162-1241)は、母美福門院加賀が亡くなった(建久四年1193年2月13日)時のことを詠む。亡き母の歌を沢山詠んだ。「百首歌」(1200年、後鳥羽院主催)で献上した歌。
梅の花にほひをうつす袖の上に軒漏(のきも)る月の影ぞあらそふ『新古今和歌集』巻第一・春歌上、四十四
軒近く咲く梅の花がにおいを移し、懐旧の涙で濡れている袖の上に、荒れた軒を漏れる月の光が、梅の匂いと争うように映っている。
「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ」『明月記』。19歳の藤原定家(1162-1241)の藝術至上主義宣言だが、政治的混乱に書き込まれていく。建久7年の政変、藤原定家の好敵手、後鳥羽上皇は、北条義時に反乱を起こす。
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【空也】遊行僧、浄土教、念仏「南無阿弥陀仏」、踊念仏、天禄3(972)年、70歳で死す。西光寺、建立。
六道の辻
衆生が生前に業因により生死を繰り返す六つの迷いの世界。すなわち、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上をいう。六道の辻は、六道へ通じる道。六道珍皇寺の井戸ゆかりの小野篁(802~52)が冥界と往還を果たしたという伝説から、六道の辻と称された。この地西福寺は、空海(774~835)が鳥辺野の無常所の入口にあたる地に地蔵堂を建て、自作の土仏地蔵尊を祀ったという伝説がある。
六波羅蜜寺とゆかりの人々、平清盛(1118~1181)は六波羅に一族の屋敷を建てた。
運慶一族と六波羅蜜寺
運慶(生年不詳⁻貞応2年12月11日(1224年1月3日)は、なぜ、地蔵菩薩坐像、など六波羅蜜寺の仏像を製作したのか。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【空也】遊行僧、浄土教、念仏「南無阿弥陀仏」、踊念仏、天禄3(972)年、70歳で死す。西光寺、建立。
938年(天慶1)京都に入ったが、町中を遊行して乞食(こつじき)し、布施(ふせ)を得れば貧者や病人に施したと伝える。948年(天暦2)比叡山に上り、天台座主延昌(880-964)について得度。光勝という僧名をもらったが、自らは空也の沙弥名を名のり、庶民信仰の念仏を勧める聖(ひじり)であった。平安時代以降、貴賤老若男女が念仏を唱えるようになったのは、空也のおかげであるといわれ、また東北地方を遊行して仏教を広めた功績は、この辺境の人々に長く記憶された。空也は生存時から市聖(いちのひじり)ともよばれたが、これは人の集まりやすい京都の東市、西市の市門に立って人々に念仏と浄土信仰を勧めたからである。その市門には「極楽ははるけきほどと聞きしかど、つとめて(瞬時に)いたる所なりけり」と書きつけて、速疾往生(そくしつおうじょう)を説いた。そして念仏を広める運動として踊念仏をしたので、後世、一遍と時衆の踊念仏も空也を祖とする。浄土往生の念仏を勧める。賀茂川の東に西光寺(後の六波羅蜜寺)を建て、『大般若経』の書写供養を行うなど多角的な仏教を広めた。天禄3(972)年9月11日入滅。享年70歳。[五来重 2017年6月20日]
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平清盛、六波羅
【平治の乱1159年】藤原信頼と源義朝が、藤原信西にクーデタ。平清盛、熊野詣から京都へ戻り、後白河上皇、二条天皇を六波羅の清盛邸に救出。天皇と上皇を女装させて牛車に乗せる。源義朝、敗北。後継者、源頼朝、13歳、伊豆国に流される。【後白河上皇、天下一の大天狗】
【源平争乱、壇ノ浦の戦い】1180年から1185年に平氏が壇の浦で滅亡するまでの源氏平氏の争い、治承・寿永の乱。寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、源平争乱の終局、壇ノ浦の戦いがあり、平家方の総司令官である平知盛が入水自殺。範頼軍は3万余騎(『源平盛衰記』)をもって陸地に布陣して平氏の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に出る。
【承久の乱1221後鳥羽上皇、北条義時】後鳥羽上皇、北条義時に反乱。1219源実朝、公暁による暗殺、将軍後継者争い勃発。後鳥羽上皇、地頭任命権を返還要求。義時、後鳥羽上皇に抵抗。三浦義村、義時につく。【御家人制、御恩奉公。地頭の権利】北条政子「頼朝の恩は、山よりも高く、海よりも深い」
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展示作品の一部
重要文化財 空也上人立像、康勝作 鎌倉時代・13世紀  京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 四天王立像のうち持国天立像、平安時代・10世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 薬師如来坐像、平安時代・10世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 伝平清盛坐像、鎌倉時代・13世紀  京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 地蔵菩薩立像、定朝作、平安時代・11世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 閻魔王坐像、鎌倉時代・13世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 運慶坐像、湛慶作、鎌倉時代・13世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
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参考文献
「国宝 聖林寺十一面観音」#東京国立博物館
https://bit.ly/3d1h6Kh 
「最澄と天台宗のすべて」1・・・比叡山延暦寺、最澄と空海
https://bit.ly/2XDvTGt
六観音菩薩「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」東京国立博物館、・・・純粋な美しい魂に舞い降りる
https://bit.ly/2C0ZL2f
「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏
https://bit.ly/3C7OKJG
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2022年は空也上人没後1050年に当たります。空也上人が十一面観音立像を本尊として京都東山の地に創建した六波羅蜜寺(創建時は西光寺と称した)には、現存最古となる上人の像が伝えられています。念仏を唱え歩いた姿を目の当たりにするような写実的な像は、仏師運慶の息子である康勝がつくりました。同寺は運慶一門にゆかりの深い寺でもあり、運慶作の地蔵菩薩坐像などが残されています。
本展覧会では、東京では半世紀ぶりの公開となる空也上人立像をはじめ、六波羅蜜寺の創建時につくられた四天王立像、定朝作と伝えられる地蔵菩薩立像など、平安から鎌倉時代の彫刻の名品が一堂に集います。
六波羅蜜寺の創建は、今からおよそ1000年前の平安時代半ばにさかのぼります。 天暦5年(951)、京都に流行り病が蔓延したため、空也上人は、疫病がおさまり世の中が穏やかになるように祈り十一面観音菩薩立像を造像し、西光寺を創建しました。これが現在の六波羅蜜寺にあたります。
本章では、市井の人々から絶大な信仰を得た空也上人の足跡をたどりながら、六波羅蜜寺創建時の像をご覧いただき、人々に親しまれてきた六波羅蜜寺の歴史をたどります。
■空也上人 平安時代中期の僧侶。
南無阿弥陀仏と唱えて極楽往生を願う阿弥陀信仰をいちはやく広めた。山林で修行をしながら各地を遍歴し、橋梁や道路等の整備や行倒れた人を弔うなど社会事業を行い、庶民から有力者まで幅広い信仰を集めた。10世紀半ばには、京都東山の地に十一面観音像を本尊とした六波羅蜜寺の前身となる西光寺を開き、天禄3年(972)、70歳にてその生涯を閉じた。
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2129
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特別展「空也上人と六波羅蜜寺」東京国立博物館、本館特別5室(上野公園)、3月1日~5月8日

2021年12月19日 (日)

「聖徳太子 日出づる処の天子」・・・四天王寺『聖徳太子絵伝』、聖徳太子伝説の虚構

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』263回

聖徳太子は、思想家か、指揮官か、番人か、官僚か、探検隊か、聖人か、権力者であるか。河内国渋川郡の物部守屋の館襲撃、斑鳩宮山背大兄王殺害、飛鳥板葺宮にて蘇我入鹿殺害、近江宮大友王子を、美濃国不破関にて破る。乱の歴史が蘇る。
【丁未の乱から壬申の乱】丁未の乱、乙巳の変、山背大兄王一族殺害、壬申の乱、殺人が権力の源泉である。仏教は権力の神聖化の手段として利用された。暴力を仏教で神聖化し糊塗した。天皇制の本質は、殺人暴力と階級社会である。聖徳太子は権力者であり、最澄は官度僧、官僚である。空海は沙門、私度僧、思想家であり、指揮官である。
【理念を追求する精神】理念を探求する人は、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
理念を探求する精神は、邪知暴虐と対峙し、悪鬼と戦う。価値あることを為すには、犠牲と苦労と忍耐が必要である。
【理念を追求する精神】空海は理念を探求して旅した。空海の24歳の苦悩は『聾瞽指帰』に刻まれている。空海、ロレンツォ・デ・メディチ、プラトン、玄奘三蔵、李白、王羲之、嵯峨天皇、ソクラテス、理念に向かって、旅した人。理念を追求する人は、この世の闇の彼方に美を求める。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
【思考と言葉と運命】心は思考となり、思考は言葉となり、言葉は思想となり、思想は行動となり、行動は習慣となり、習慣は性格となり、性格は運命となる。人生の目的は、人格を磨くことである。
【ルネサンス復讐悲劇】復讐悲劇の先駆、ストア派哲学者セネカ『テュエステス』が起源である。復讐悲劇を定義。1、人に知られない殺人、通常、悪人が善人の統治者を殺す。2、犠牲者の亡霊が若い親類、主に息子のところに訪れる。3、殺人者と復讐者が互いに対し偽装と策略。4、復讐者または支援者が本当のあるいは偽りの狂気に陥る。5、最後にバイオレンスの爆発。ルネサンス期は嘘の仮面劇や祭で起こる。6、復讐者を含め登場人物の多くが死ぬカタストロフ。
【人生は舞台。人はみな大根役者】慢心は人間最大の敵だ。運命をはねつけ、死を嘲り、野望のみを抱き、知恵も恩恵も恐怖も忘れてしまう。シェイクスピア『マクベス』
人生は舞台。人はみな大根役者。消えろ、消えろ、つかのまの燭火、人生は歩いている影にすぎぬ。人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ。『マクベス』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【『聖徳太子絵伝』四天王寺】母妃、夢に黄金の僧を見て懐妊。母妃、厩前で産気に気づき太子を出産する。2歳太子、東に向かって合掌し「南無仏」と唱える。11歳子供たちと遊び、超人的能力を発揮する。12歳、百済より帰国した高僧・日羅が大使を救世観音と見抜き、礼拝する。16歳、蘇我馬子、物部守屋と戦い蘇我軍として参戦、四天王像を彫って戦勝を祈願する。16歳、蘇我軍を大勝に導く。19歳、天皇の前で戴冠し、群臣が称賛する。22歳、四天王寺創建する。27歳、甲斐の国から太子の愛馬となる黒駒を献上される。27歳、黒駒に乗り富士山に登る。34歳、仏師鞍作登利に仏像を作らせる。35歳、推古天皇の求めに応じて『勝鬘満経』を講義すると蓮華が降る。36歳、太子は遣隋使として派遣される小野妹子に前世で所持していた経典を持ち帰るように命じる。37歳、妹子が持ち帰った経典は違うものだった、太子は夢殿に籠り瞑想する。37歳、夢殿から魂を青龍車に乗せ自ら隋の衡山へ経典を取りに行く。40歳、狩猟を楽しむ推古天皇に殺生を戒める。41歳、百済の未摩子が伎楽を伝える。48歳、人形が献上され禍の前兆と考えられる。49歳、天に赤気が現れ百済僧が太子の一族・上宮王家滅亡を予言する。50歳、太子薨去する。薨去の年、河内の磯長廟へ葬送される。『聖徳太子絵伝』には66のエピソードが描かれている。
【聖徳太子伝説】『日本書紀』
養老4年(720)に成立した『日本書紀』によれば「母が宮中の厩の戸にあたった時に安産で生まれた。生まれながら言葉を話すことができ、聖人の智を持っていた。耳がよく、成人後は十人の訴えを聞き分けた。未来のことを予言できた。父の用明天皇に寵愛され、幼少期は特別に上宮とよばれる宮殿に住まわされた。」
『日本書紀』よりも8年前に成った『古事記』には超人伝説はみられない。
【聖徳太子の正式な名前、上宮厩戸豊聡耳太子】
「上宮」とは、太子が壮年以降に営んだ斑鳩宮であり、これが太子のむすこの山背大兄王に相続された後に上宮とよばれるようになった。斑鳩宮は実際には太子の父・用明の没後に造営された。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
重要文化財『聖徳太子絵伝』 第1幅~6幅、遠江法橋筆 鎌倉時代、元亨3年(1323)大阪・四天王寺
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参考文献
聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX
聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館・・・法隆寺の謎、厩戸皇子の謎
https://bit.ly/3yCIpDo
聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館・・・美術史の謎、飛鳥、白鳳、天平
https://bit.ly/2XE6s7q
理念を探求する精神、エンペドクレス・・・古代ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義は、なぜ失われたのか
https://bit.ly/3sIf3RW

「聖徳太子 日出づる処の天子」・・・四天王寺『聖徳太子絵伝』、聖徳太子伝説の虚構
https://bit.ly/3sit9Lv
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令和4年(2022)、聖徳太子(574~622)が没して1400年を迎えます。聖徳太子ゆかりの寺院では、聖霊会をはじめ太子の偉業を偲ぶ大規模な法会が催されます。このような100年に一度の節目にあわせて、太子の生涯をたどり、没後の太子信仰の広がりを紹介する展覧会です。
用明天皇の皇子として生まれた聖徳太子は、推古天皇の摂政として十七条憲法の制定や遣隋使の派遣など国家体制の確立に大きく貢献したことで知られます。さらに、大阪・四天王寺や奈良・法隆寺の創建に代表されるように仏教を篤く信奉し、現在まで続く日本仏教の礎を築きました。
現在でも、その名を知らない人がいない聖徳太子ですが、最澄や親鸞をはじめとする日本仏教諸宗の名だたる開祖・祖師は、なぜ太子を篤く尊んだのでしょうか。太子ゆかりの寺院は、なぜ1400年もの長きにわたり参詣が絶えないのでしょうか。
本展覧会では、こうした聖徳太子にまつわる問いを解くべく、太子信仰の中核を担ってきた大阪・四天王寺の所蔵品を中心に、太子にかかわる美術の全貌を紹介します。
千四百年御聖忌記念特別展「聖徳太子 日出づる処の天子」サントリー美術館
【「聖徳太子絵伝」で読み解く太子の生涯】
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2021_4/index.html
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サントリー美術館 開館60周年記念展「千四百年御聖忌記念特別展 聖徳太子 日出づる処の天子」、サントリー美術館、2121年11月17日~2022年1月10日