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仏教

2020年4月 3日 (金)

「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第211回
桜の森を歩いて、博物館に行く。圧倒する嵐、いかなる危機にあっても、私は運命と戦う。理念を追求して、運命と戦い、邪知暴虐な敵と戦い、聖なる目的を成し遂げる。人は運命と戦うために生まれた。「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」。
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【法隆寺の謎、血に塗れた歴史】再建法隆寺はいつ建てられたのか。再建法隆寺はだれによって建てられたのか。天智天皇9年(670)4月「災法隆寺一屋無余」法隆寺が全焼した『日本書紀』。なぜ、斑鳩寺は全焼したのか。壬申の乱(671年)天武は、法隆寺再建とどうかかわるのか。夢殿の扉は、なぜ1000年以上、閉ざされたのか。なぜ、厩戸皇子は48歳で暗殺されだのか。なぜ、山背大兄皇子一族は自害させられたのか。なぜ、厩戸皇子は天武によって「聖徳太子」神聖化されたのか。金堂壁画は、いつ描かれたのか、何を描くのか。
この世の生存競争、利害名利を求める者、邪知暴虐の人が栄える時、天罰下る。邪知暴虐の人が栄え、知ある者が滅びるとき、天誅下るべし。
【上智と下愚は移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても堕落せず、最下の愚者はどんなによい境遇にあっても向上しない。美しいものを美しいと感じる心が美しい。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
【権力闘争史】石上神社物部氏と蘇我氏の争い、出雲と大和の権力抗争が根源。物部と蘇我の崇仏論争、物部御輿と蘇我稲目との争い、蘇我馬子、物部守屋を討つ。蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺。厩戸皇子暗殺の謎、蘇我蝦夷と厩戸皇子の争い。皇極天皇2年(643年)蘇我入鹿、山背大兄皇子一族を自害に追いつめる。乙巳の変、蘇我入鹿と中大兄皇子の争い。壬申の乱、中大兄皇子の子大友皇子と大海人皇子の争い。天智系と天武系の殺し合いが始まる。
――
【斑鳩寺607年、若草伽藍、法隆寺693年739年、西院伽藍693年、東院伽藍738年】
1、斑鳩寺の歴史 607年
法隆寺の起源【斑鳩寺】金堂薬師如来像光背銘によれば、斑鳩寺は用明天皇が自らの病気平癒のため建立を発願したが、志を遂げずに崩御したため、遺志を継いだ推古天皇と厩戸皇子が推古天皇15年(607年)に寺と薬師像を造った。
【607年、斑鳩寺、厩戸皇子】創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古天皇15年(607年)とされる。若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡、この伽藍が推古朝の建立であった。発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説。
【法隆寺再建・非再建論争】『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したとの記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は厩戸皇子の時代のものか、天智天皇9年(670年)以降の再建かについて長い論争があったが【法隆寺再建・非再建論争】若草伽藍の発掘調査により、厩戸皇子時代の伽藍は一度焼失し、現存の西院伽藍は7世紀末頃の再建であることが定説である。「夢殿」を中心とする東院伽藍は太子の営んだ斑鳩宮の旧地に建てられている。

2、厩戸皇子の死と山背大兄皇子一族滅亡
【厩戸皇子、斑鳩寺】厩戸皇子(574年2月7日〈敏達天皇3年1月1日〉-622年4月8日〈推古天皇30年2月22日〉)、厩戸皇子、48歳で死す。 なぜ、厩戸皇子は死んだのか。疫病による病死、膳大郎女との自殺、暗殺。議論を呼ぶ暗殺説には、蘇我氏、唐からの暗殺者、中大兄皇子と中臣鎌足、等がある。
【643年、山背大兄皇子一族滅亡、斑鳩宮炎上】皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った。この時、斑鳩宮は焼失した。斑鳩寺はこの時は無事だったと考えられる。八角堂、夢殿を中心とする東院伽藍は、天平10年(738年)頃、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立した。

3、法隆寺の歴史 693年、739年
【法隆寺の謎、再建法隆寺はいつ建てられたのか】
金堂の天井板の材の伐採年667年、668年。五重塔の材673年、中門の材699年。壬申の乱(671年)の前後。武澤『法隆寺の謎を解く』P19。五重塔の心柱の材は594年。塔の二層軒下の材は673年。『法隆寺の謎を解く』P33。
【法隆寺の謎、再建法隆寺はだれによって建てられたのか】
壬申の乱(671年)の後。天武天皇と天武妃、持統天皇が、厩戸皇子を神聖化、聖徳太子として命名、再生、利用した。持統天皇7年(693年)法隆寺で仁王会(『法隆寺資財帳』)。
【670年、法隆寺、全焼】『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事があり、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建された。焼失した寺院は、斑鳩寺、推古天皇15年(607年)創建。若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡、この伽藍が推古朝の建立。発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説。
【671年、壬申の乱】671年12月、天智が亡くなると大海人皇子は挙兵を決意する。大友皇子の即位を阻止する。壬申の乱で大海人皇子、大友皇子を死に追いつめ自害させた。
【693年、西院伽藍】金堂、五重塔を中心とする。金堂「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。
【693年、西院伽藍】現存の西院伽藍は、持統天皇7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)。少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成。同『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成、この頃までに五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していた。
【739年、東院伽藍】天平11年(739年)に行基菩薩、僧行信によって夢殿を中心として建てられた聖徳太子を祀る寺院。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。
――
救世観音像の謎
救世観世音菩薩像、東院伽藍、夢殿に秘蔵された。救世は「人々を世の苦しみから救うこと」であり、救世だけで観音の別名。名称の由来は「法華経」観世音菩薩普門品の中の「観音妙智力 能救世間苦」の表現にあると推測される。聖徳太子の等身の御影と伝わる。止利様式。鞍作止利は、渡来系の司馬達等の孫で、鞍部多須奈の子。 7世紀の仏師、謎の人。
【夢殿解扉】1886
1886(明治19)年、法隆寺に、外国人フェノロサを代表とする調査使節(岡倉覚三、九鬼隆一)が現れ、明治政府の身分証明書を提示し、夢殿の厨子を開扉するよう要求した。救世観音像を発見。法隆寺650体の仏像の中で、最も謎に満ちた仏、東院伽藍の夢殿に祀られている救世観音像。【岡倉天心1863-1913】美術評論家、思想家。
百済観音の謎
謎の様式、謎の伝来。法隆寺西院、金堂本尊の釈迦三尊像、東院夢殿の救世観音像のような止利式の仏像とは様式を異にする。止利式の仏像は正面観照性が強く、側面感がほとんど考慮されていない。法隆寺の根本史料である天平19年(747年)の『法隆寺資財帳』には百済観音に相当する仏像についての記載はない。本像がいつ、どこで、誰によって造られ、どこの寺に安置されていたものか、正確なことは全く不明。法隆寺幡の模様と同一の腕飾り、山背大兄皇子を追悼するために作られたものか。
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法隆寺の仏像
【法隆寺、救世観音】東院伽藍、夢殿。739年。
【法隆寺、薬師如来】西院伽藍。金堂「東の間」本尊。光背に丁卯年(607年)、用明天皇のために作った旨の造像銘があり、
【法隆寺、釈迦三尊像】西院693年、金堂「中の間」本尊。推古31年(623年)止利仏師作の銘を有する銅造釈迦三尊像。
【法隆寺、夢違観音】大法蔵院所蔵。「夢違」は江戸時代に書かれた『古今一陽集』に「悪い夢を見たとき、この観音像に祈るとよい夢に変えてくれる」とあることに由来する。白鳳時代の金銅像。薄い裳や三面宝冠はこの像が白鳳時代の作の根拠である。金堂薬師如来は推古15年(607)造顕の銘を持ち、古拙な表現であるが、金堂完成後の擬古作説もあり、その銘の信憑性が疑われている。白鳳時代を代表する仏像は、夢違観音の名で親しまれる聖観音像、橘夫人念持仏と伝える阿弥陀三尊像がある。
【法隆寺、西院。金堂】西院伽藍の中心的な建物である金堂の内陣には「中の間本尊」の釈迦三尊像、「東の間本尊」の薬師如来像、「西の間本尊」の阿弥陀三尊像の3組の本尊が安置されている(以上の仏像はいずれも銅造)。なお、「中の間」「東の間」「西の間」は相互に壁などで明確に仕切られているわけではなく、柱の位置と、天井に吊るされた3つの箱形天蓋とによってゆるやかに区切られているにすぎない。3組の本尊のうち「中の間」の釈迦三尊像の光背裏面には推古31年(623年)造立、「東の間」の薬師如来像の光背裏面には推古15年(607年)造立の銘文がある。
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参考文献
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」東京国立博物館2020
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
「正倉院の世界」東京国立博物館・・・螺鈿紫檀五絃琵琶、天平文化の香り
https://bit.ly/33VYRiy
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
「国宝 阿修羅展」・・・阿修羅像の謎、光明皇后、天平文化の香り
https://bit.ly/2zKYquU
「出雲と大和」東京国立博物館・・・大海人皇子、大王から天皇へ
https://bit.ly/2ReO0wz
国宝 興福寺仏頭展・・・白鳳文化の香り
https://bit.ly/2T7N50o
坂本勝『図説 古事記と日本書紀』2009
坂本勝『図説 万葉集』2009
聖徳太子のいまだ解けざる三つの謎、『暗黒の日本史 闇に消えた歴史の真相』青春出版社、2015
――
特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」東京国立博物館
2020年、公開日未定 ~ 2020年5月10日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1984

2020年3月22日 (日)

「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第210回 
桜開花の午後、北風が吹く中、森を歩いて博物館に行く。東京国立博物館は、コロナウィルス感染防止のため2月27日から休館中である。
天平時代、首都、平城京でも大量に感染した。735年から737年6月には疫病、天然痘の蔓延によって朝廷が停止される事態となり、政権を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死。原因は遣唐使、遣新羅使である。千年に一度の感染症拡大、資本主義史上最大の感染爆発、ヨーロッパ都市封鎖、イタリア医療崩壊の危機。救世観音に生命と運命の守護を祈る。
――
法隆寺は謎に満ちている。なぜ、斑鳩寺は全焼したのか。救済観音は厩戸皇子の姿形なのか。救世観音、等、法隆寺の仏像は、止利様式であるが、百済観音はなぜ止利様式でないのか。百済観音は、いつどこで、誰によって造られ、どこの寺に安置されたのか。
創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古天皇15年(607年)。厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古天皇9年(601)、飛鳥から斑鳩の地に移ることを決意し、斑鳩宮建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだ。斑鳩宮に接して建立された斑鳩寺『日本書紀』。
【法隆寺の謎、血に塗れた歴史】再建法隆寺はいつ建てられたのか。再建法隆寺はだれによって建てられたのか。天智天皇9年(670)4月「災法隆寺一屋無余」法隆寺が全焼した『日本書紀』。なぜ、斑鳩寺は全焼したのか。壬申の乱(671年)天武は、法隆寺再建とどうかかわるのか。夢殿の扉は、なぜ1000年以上、閉ざされたのか。なぜ、厩戸皇子は48歳で暗殺されだのか。なぜ、山背大兄皇子一族は自害させられたのか。なぜ、厩戸皇子は天武によって「聖徳太子」神聖化されたのか。金堂壁画は、いつ描かれたのか、何を描くのか。
この世の生存競争、利害名利を求める者、邪知暴虐の人が栄える時、天罰下る。邪知暴虐の人が栄え、知ある者が滅びるとき、天誅下るべし。
【上智と下愚は移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても堕落せず、最下の愚者はどんなによい境遇にあっても向上しない。美しいものを美しいと感じる心が美しい。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【権力闘争史】石上神社物部氏と蘇我氏の争い、出雲と大和の権力抗争が根源。物部と蘇我の崇仏論争、物部御輿と蘇我稲目との争い、蘇我馬子、物部守屋を討つ。蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺。厩戸皇子暗殺の謎、蘇我蝦夷と厩戸皇子の争い。皇極天皇2年(643年)蘇我入鹿、山背大兄皇子一族を自害に追いつめる。乙巳の変、蘇我入鹿と中大兄皇子の争い。壬申の乱、中大兄皇子の子大友皇子と大海人皇子の争い。天智系と天武系の殺し合いが始まる。
天智系桓武天皇、平城天皇が継ぎ、嵯峨天皇に譲位。保元の乱、清和源氏と桓武平氏との殺し合い。平氏と源氏の戦い。平治の乱、平清盛軍、源義朝軍に勝利。1185年、壇ノ浦の戦い、平氏滅亡。源氏、征夷大将軍となる。三代、源実朝で滅亡。源氏と北条の戦い。
【1221年、承久の乱】後鳥羽上皇と北条義時の戦い、義時、後鳥羽を討つ。室町幕府と織田信長の戦い。信長は義昭を追放。階級社会に挑む天下布武の信長。織田信長を討つ明智光秀。明智を討つ豊臣。豊臣を討つ徳川。徳川は源氏を名乗り、征夷大将軍となる。
【後白河天皇、日本第一の大天狗】天狗は人を魔道に落とす魔物。後白河法皇と関わった人々は追い落とされる。保元の乱において、兄・崇徳院と対立し配流、平氏と源氏を身内同士で争わせる。平治の乱で、平氏と源氏を争わせ源氏は棟梁を失う。平氏政権は法皇と対立、壇ノ浦で滅亡。
【夢殿解扉1886】夢殿、救世観音、厨子を開扉。フェノロサ『東亜美術史綱』「二百年間用ひざりし鍵が錆びたる鎖鑰内に鳴りたるときの余の快感は今に於いて忘れ難し。厨子の内には木綿を以て鄭重に巻きたる高き物顕はれ、其の上に幾世の塵埃堆積したり。木綿を取り除くこと容易に非ず。飛散する塵埃に窒息する危険を冒しつつ、凡そ500ヤードの木綿を取り除きたりと思ふとき、最終の包皮落下し、此の驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり」
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
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展示作品の一部
【法隆寺金堂壁画】釈迦浄土図や阿弥陀浄土図など仏の群像を描いた大壁(高さ約3.1メートル、幅約2.6メートル)4面と、諸菩薩を単独で描いた小壁(高さ同、幅約1.5メートル)8面の計12面から成る巨大な壁画群です。そのしなやかで力強い描線と緻密な色彩によって、インドのアジャンター石窟群や中国の敦煌莫高窟と並ぶ世界的な傑作。昭和24年(1949)に火災に焼損。
法隆寺金堂壁画(模本)第6号壁 阿弥陀浄土図、桜井香雲模 明治17年(1884)頃  東京国立博物館蔵
法隆寺金堂壁画(模本) 第1号壁 釈迦浄土図
桜井香雲模 明治17年(1884)頃 東京国立博物館蔵 【前期展示】金堂内東南大壁の第1号壁は、釈迦三尊と十大弟子が土坡の上に並ぶ、釈迦浄土図
法隆寺金堂壁画(模本) 第10号壁 薬師浄土図
鈴木空如模 大正11年(1922)  秋田・大仙市蔵 【前期展示】
法隆寺金堂壁画(再現壁画) 第12号壁 十一面観音菩薩像
前田青邨ほか筆 昭和43年(1968)  法隆寺蔵 【後期展示】写真:便利堂
国宝 観音菩薩立像(百済観音)飛鳥時代・7世紀
国宝 毘沙門天立像、平安時代・承暦2年(1078)法隆寺蔵 【通期展示】
国宝 吉祥天立像、平安時代・承暦2年(1078)、法隆寺蔵
【法隆寺、釈迦三尊像】スーパークローン文化財、東京藝術大学COI拠点、2017
【百済観音】
蓮華座の上にすらりと立ち、左手は下げて水瓶を軽くつまみ、右手を前方に差し伸べた観音菩薩。両腕と天衣を除く本体は頭頂から台座蓮肉までクスノキの一木造りで、顔や胸、両肩や腰の膨らみには乾漆が盛り上げられています。頭部が小さく長身の姿は飛鳥彫刻のなかでは特異で、風をはらんだように前方に巻き上がる天衣の流麗な曲線も魅力的。宝冠や胸飾り、腕の飾りには、唐草文様を彫り透かした金銅製の金具が用いられており、特に宝冠正面には阿弥陀如来の姿が表わされています。宝珠形をした光背は竹を模した柱に支えられ、その根本には山岳文様が表わされています。広大無辺な大きさであるという観音菩薩の姿を、山岳との対比によって表現したものでしょう。本像は法隆寺金堂に安置されていたことが『元禄諸堂仏体数量記』(1698年)によって知られ、同記録にある「百済国より渡来」との伝承から、大正時代以降は「百済観音」の名で親しまれています。
【百済観音】「百済観音」と呼ばれるようになったのは明治時代以降。史料の中に出てきたのは『和州法隆寺堂社霊験幷仏菩薩像数量等』江戸時代元禄11年(1698)に奉行所に提出された書類が初出。それまで1000年近く、百済観音に関する明確な記録は発見されていない。
第6号壁の阿弥陀浄土図
【和辻哲郎と法隆寺金堂壁画】哲学者の和辻哲郎(1889-1960)は奈良付近の古寺を巡り歩いた旅の印象記『古寺巡礼』の中で、法隆寺金堂壁画のとくに第6号壁の阿弥陀浄土図について「この画こそは東洋絵画の絶頂である」と絶賛。
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1984
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参考文献
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」東京国立博物館2020
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「正倉院の世界」東京国立博物館・・・螺鈿紫檀五絃琵琶、天平文化の香り
https://bit.ly/33VYRiy
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
「国宝 阿修羅展」・・・阿修羅像の謎、光明皇后、天平文化の香り
https://bit.ly/2zKYquU
「出雲と大和」東京国立博物館・・・大海人皇子、大王から天皇へ
https://bit.ly/2ReO0wz
国宝 興福寺仏頭展・・・白鳳文化の香り
https://bit.ly/2T7N50o
薬師寺の歴史680年
薬師寺は、天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して天武天皇9年(680)藤原京の地で建立を発願したのが草創である。造営の経過については『日本書紀』に記録がみえず不明だが、持統天皇2年(688)に法会、同11年(697)には仏像の開眼供養の記載があり、7世紀末には完成したことが知られる。ところがそれからまもない和銅3年(710)に都が平城京に遷されると、薬師寺も移転した。
興福寺の歴史734年
光明皇后は、母の橘三千代が天平5年(733)に亡くなると、一周忌の供養のため興福寺に西金堂を建立し、釈迦如来、釈迦の十大弟子、四天王、八部衆像などの28体の像、また菩提樹や金鼓(こんく)などの荘厳具を安置した。釈迦の浄土を立体的に表した。
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特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」東京国立博物館
2020年3月17日(火) ~ 2020年5月10日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1984

2019年10月22日 (火)

「正倉院の世界」・・・螺鈿紫檀五絃琵琶、天平文化の香り

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』195回
大風が吹き荒れた嵐の秋の午後、多摩川を渡って、銀杏の実が落下して散り敷いた広場にて友人と会い、黄葉の森を歩いて博物館の西門に行く。
【螺鈿紫檀五絃琵琶、千二百年前からきた旅人】沙漠を超えて、千二百年前からきた旅人。琵琶に刻まれた、駱駝に乗って琵琶を演奏する人。裏面に散り乱れる宝相華文。琵琶を奏でる、千二百年の旅人。天平の音色が漂う。56歳で亡くなった聖武天皇の遺愛の品、五絃琵琶を光明皇后が東大寺盧遮那仏に献じた。苦悩から生まれた盧遮那仏の蓮華蔵世界。天平文化の偉大と頽廃。
【蘭奢待】天正二(1574)年3月27日、織田信長は正親町天皇の勅許をえて切らせ、四月三日畫相國寺にて蘭奢待を千宗易に下賜した(『天王寺屋会記』)。寛正6(1465)年、足利義政が蘭奢待を截り取り。天下の名香、天平の香りが立ち昇る。天平勝宝8(756)年、光明皇后が盧遮那仏に献じた黄熟香。『国家珍宝帳』記載。
【天平文化の偉大と頽廃】聖武朝は、長屋王の変、藤原四子の死、藤原広嗣の乱を経験、740恭仁京、742紫香楽宮、745難波京、3回にわたり遷都、天平17(745)年、平城京に戻り、盧遮那仏を造立、天平勝宝4(752)年開眼。天皇は56歳で死に、光明子は60歳で死す。王の栄光と苦悩。苦悩を癒すため、華厳経の教主、盧遮那仏に祈った。光明子の偉大と頽廃。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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【天平時代 血に塗れた天平時代(729-749年) 】
729年、長屋王の変。737年、藤原四子の死(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)藤原四子が姉妹の光明子を聖武天皇と政略結婚させようとしたが、長屋王が反対した。そこで彼らは長屋王を謀殺。長屋王の変である。ところが新羅からやって来た天然痘で藤原四子は次から次へと死亡。聖武天皇は崇りを恐れた。その後、740年、藤原広嗣の乱が起り、聖武天皇の恐れは増大。天平勝宝元(749)年、孝謙天皇に譲位。 重祚した称徳天皇は道鏡に太政大臣禅師と法王の位を与えた。 
【天平文化】東大寺、盧遮那仏、天平勝宝4年(752年)開眼供養。東大寺を建立し、金光明最勝王経と妙法蓮華経を崇拝し配置、東大寺盧遮那仏、東大寺法華堂、転害門、薬師寺東塔、法隆寺東院夢殿が建立された。天平文化は、周(武周)の武則天や唐の玄宗皇帝の文化、爛熟した盛唐の文化の影響を受けた仏教文化である。
【阿修羅像】阿修羅像は、三面六臂、734年(天平六年)、脱活乾漆造。天平彫刻の最高傑作。憂いを秘めた顔貌。聖武天皇の后、光明皇后が母、県犬養橘三千代の冥福を祈って、天平六年に建立された西金堂に造立安置された八部衆のうちの一躯。
【阿修羅像の謎】女性か男性か、モデルはだれか。実在のモデルが存在する。光明子の娘、15才の少女、阿倍内親王(孝謙天皇)であるとする説あり。阿修羅像の三面、中央は、憂い、左は怒り、右は困惑を表す。749年孝謙天皇、即位。
【絶世の美女、美しき王妃】聖武天皇后、光明子。嵯峨天皇皇后、橘嘉智子。織田信長の愛妻、生駒吉乃、信長の娘、徳姫。信長の妹、お市の方、お市の娘、浅井三姉妹、茶々、初、江。*嵯峨天皇の后、橘嘉智子(檀林皇后嘉智子)は「法華寺十一面観音立像」(9世紀)のモデル。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
―――
【正倉院】756年に営まれた聖武天皇の七七忌(四十九日)に、光明皇后が大仏にささげた天皇の遺愛品六百数十点が起源。東大寺の正倉院宝庫に納められたが、薬物が治療用に使われたり、大量の武器が藤原仲麻呂(恵美押硝の乱(764年)で持ち出された。庫内に現存する宝物は約9千点。
【光明皇后】(701-760)。光り輝く美しさから光明子という。大宝元年生まれ。藤原不比等と県犬養美千代の娘。孝謙天皇の母。長屋王の変の後、天平元年(729)臣下からはじめて皇后となり、藤原氏の勢力拡大に寄与。仏教に帰依し、国分寺の建立、東大寺大仏の造営をすすめ、施薬院、悲田院をもうけて病人や孤児をたすけた。天平勝宝6年、聖武、孝謙と共に大仏殿前で唐僧鑑真より受戒。天平宝字4年6月7日死去。60歳。名は安宿媛(あすかべひめ)光明子。王羲之の書「楽毅論」を臨書した巻物は名筆として著名。
【盧舎那仏像】東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像。聖武天皇の発願で天平17年(745年)紫香楽宮にて制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会。
【聖武天皇】701-756。在位724-749。大宝元年生まれ。文武天皇の皇子。母は藤原不比等の娘宮子。元正天皇の譲位をうけ即位。蝦夷の反乱、長屋王の変、天然痘の大流行、藤原広嗣の乱、政情・世情が安定せず、たびたび都を遷した。仏教に帰依して諸国に国分寺、国分尼寺、,東大寺の大仏造立。天平勝宝(756)8年5月2日死去。56歳。
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【聖武と天平文化】遣唐使を2回送って唐の文化をとり入れ、その治世に天平文化が頂点に達した。仏教に深く帰依。国分寺・国分尼寺、東大寺を建て、東大寺の盧遮那仏を造立。その造営事業は740恭仁京、742紫香楽宮、745難波京と3回にわたる遷都とともに膨大な費用を要し、国家財政は乱れた。749年孝謙天皇に譲位。
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★展示作品の一部
『国家珍宝帳』東大寺献物帳、奈良時代・天平勝宝8歳(756)正倉院宝物[前期展示]
「宝物はみな聖武天皇の御遺愛品などです。昔のことを思い出し、目を触れるたび悲しみでくずれそうになります。謹んで盧遮那仏に奉納します」光明皇后は天皇が早く盧遮那仏の世界「花蔵の宝刹」に安住されることを願って、東大寺の盧遮那仏に天皇ご遺愛の品々をはじめとする、六百数十点の宝物を献納。
平螺鈿背八角鏡、中国 唐時代・8世紀 正倉院宝物[後期展示]
黄熟香、東南アジア 正倉院宝物[通期展示]
【「蘭奢待」】天下の名香。この雅名の中には「東」「大」「寺」の三文字が組み込まれている。足利義政や織田信長らがこの香木を得たいと熱望し、一部を切り取った出来事は有名、近代になっても明治天皇が行幸した折に切り取られている。沈丁花科のジンコウ属植物に樹脂が沈着することで出来た沈香(じんこう)であり、いまだに高い香りを放っている。『国家珍宝帳』記載
螺鈿紫檀五絃琵琶、中国 唐時代・8世紀 正倉院宝物 [前期展示]
【螺鈿紫檀五絃琵琶】古代インドに起源を持つ五絃琵琶。その唯一の作例として著名な本作は、紫檀を刳り抜いた本体に別材の腹板をあて、全体に玳瑁(たいまい、ウミガメの甲羅)と螺鈿で装飾を施している。背面に表わされた宝相華文は圧巻の造形美。撥を受ける部分にはラクダに乗って琵琶を演奏する人物が表され、シルクロードを通じて遠い異国の音楽が伝えられたことを象徴する。『国家珍宝帳』記載の品、古代東洋の工芸史上、最高の傑作と言うべき至宝。
紫檀木画槽琵琶したんもくがのそうのびわ中国 唐または奈良時代・8世紀 正倉院宝物 [後期展示]
伎楽面 酔胡王、奈良時代・8世紀 正倉院宝物 [前期展示]
漆胡瓶、中国 唐または奈良時代・8世紀 正倉院宝物 [後期展示]
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★参考文献
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
東大寺大仏-天平の至宝・・・蓮華蔵世界、蓮の花弁に香る天平文化.
https://bit.ly/2xC6IE4
「国宝 阿修羅展」・・・阿修羅像の謎、光明皇后、天平文化の香り
https://bit.ly/2zKYquU
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2CQlxoY
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
林陸朗著『光明皇后』1961
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
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★「正倉院の世界-皇室がまもり伝えた美-」東京国立博物館、10月14日(月)~ 11月24日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1968

2018年12月 3日 (月)

無我説と輪廻転生、仏教の根本的矛盾。識體の転変、種子薫習。名言種子、我執種子、有支種子

Buddha_on_first_sermon大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第165回
森林の樹下に瞑想する仏陀は月影に何を思うのか。
無我(anātman)説と輪廻転生(saṃsāra)は、根本的に矛盾する。この矛盾をどのように解決するのか。この問題は、婆羅門教のアートマンと仏教の無我説の対立に根源がある。仏教2千5百年、多彩な仏教の学派には、この問題を解く学派がある。この問題について、島薗進先生に質問したことがある。島薗先生の解答は、十二縁起説(dvādaśāṅgika-

pratītyasamutpāda)により輪廻転生が説明されるという回答である。
六観音菩薩の思想は、六道輪廻の思想に基づいている(*天台智顗『摩訶止観』)。十一面観音菩薩、怒りと争いの修羅道を救う。准胝観音菩薩(不空羂索観音菩薩)、四苦八苦の人道を救う。如意輪観音菩薩、神通力をもつ天人を救う。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【識體の転変、第八識】識は転変する(転識得智)。前五識は、五感(眼、耳、鼻、舌、身)による感覚作用であり、これが成所作智、不空成就如来の智恵になる。第8識、阿頼耶識(大円鏡智)が転じて、有が生じ、輪廻転生が起きる。
*注 十二縁起。無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死→(無明に繋がる)。
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【識體の転変、種子薫習】阿頼耶識に薫じられて迷界を顕現する種子は3つある。名言種子、我執種子、有支種子。『摂大乗論』。
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第六識、第七識、第八識、第九識
第六識は五感の感覚的情報に基づいて行動や判断する意識であり、妙観察智、阿弥陀如来の智恵に転じる。転識得智
第七識は第6識の意識下にある無意識、末那識で自我を形成する。これが平等性智、宝生如来の智恵に転じる。
第八識は意識されない潜在意識、阿騾頼耶識(ālaya-vijñāna)で、生死輪廻する業の主体である。これが大円鏡智、阿閦如来の智恵に転じる。
第九識、阿摩羅識(amala-vijñāna)唯識思想(法相宗)では、八識を説く。 すべては阿頼耶識より縁起するとし、主に迷いの世界であるが悟りも阿頼耶識より生じるとする。 一方、心は本来清浄であるとする如来蔵思想がある。 これらの思想を止揚するため、天台宗や華厳宗などの法性宗は、この阿摩羅識を加えて新たに九識を立てた。天台宗では、阿摩羅識をけがれが無い無垢識・清浄識、また真如である真我、如来蔵、心王であるとし、すべての現象はこの阿摩羅識から生れるとした。
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■金剛界曼荼羅
中央に中心となる「成身会」があり、その下に「三昧耶会」、その左に「微細会」、その上に「供養会」、その上に「四印会」、その右に「一印会」、その右に「理趣会」、その下に「降三世会」、その下に「降三世三昧耶会」。成身会から下るのを向下門。降三世三昧耶会から上るのを向上門。金剛界曼荼羅を成身会へいかにして上るのか。
「成身会」「三昧耶会」「微細会」「供養会」「四印会」「一印会」「理趣会」『金剛頂経』金剛界品に、「降三世会」「降三世三昧耶会」が降三世品に拠る。
■金剛界曼荼羅、理趣会
即身成仏の思想が図示されている。
『理趣経』17段【深秘の法門 】五種秘密三摩地の章【五秘密尊】金剛薩埵の周りに、金剛欲明妃、金剛蝕明妃、金剛愛明妃、金剛慢明妃、4の明妃が囲む。
『理趣経』第一段、第一七段に理趣経の核心、密教の思想が集約されている。
『理趣経』1段、【大楽の法門】金剛薩埵の章、十七清浄句
『理趣経』17段、【深秘の法門】五種秘密三摩地の章【五秘密菩薩】
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『金剛界曼荼羅』理趣会。五秘密菩薩。
金剛薩埵は、若くて美しい女、欲・触・愛・ 槾 、美しい菩薩によって囲まれている。欲金剛女菩薩、触金剛女菩薩、愛金剛女菩薩、槾金剛女菩薩。松長有慶『理趣経』P265
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★参考文献
無着『摂大乗論』
世親『唯識三十頌』
松長有慶『理趣経』
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金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、仏陀への旅
転識得智、種子薫習
https://t.co/MIXigqe3xH
五知如来の智慧
https://bit.ly/2O8YtbU
【質疑応答】島薗進×大久保正雄『死生学』
https://bit.ly/2AeU3Hv 
空海の旅 旅する思想家、美への旅
https://t.co/HPPpp3e5iL
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
https://bit.ly/2zsD05T
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「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」東京国立博物館、・・・純粋な美しい魂に舞い降りる
https://bit.ly/2C0ZL2f
「京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-」・・・醍醐寺三宝院、織田信長のために祈祷する
https://bit.ly/2NHbWso 
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★初転法輪の仏陀、Sarnath Buddha

2018年10月 7日 (日)

「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」・・・純粋な美しい魂に舞い降りる

Kaikeijoukei2018大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第158回
金木犀の香る森を歩いて、博物館に行く。夕暮れの森、夕暮れの諧調、夕暮れの寺院、観音菩薩は、純粋な美しい魂に舞い降りる。
【六観音菩薩】聖観音菩薩は、地獄道の者を救う。千手観音菩薩、飢えと渇きの餓鬼道の者を救う。馬頭観音菩薩、動物の弱肉強食の畜生道の者を救う。十一面観音菩薩、怒りと争いの修羅道を救う。准胝観音菩薩(不空羂索観音菩薩)、四苦八苦の人道を救う。如意輪観音菩薩、神通力をもつ天人を救う。
この世は、競争社会である。弱肉強食の畜生、怒りと争いの修羅。神通力をもつ天人を救うのは、如意輪観音である。
競争社会のフランスを逃れて、ポルトガルに移住するフランス人。金権社会のイギリスを逃れて、イタリアに移住するイギリス人。階級社会の日本を忌避して、天下布武、既存の階級社会、価値観を拒否し、戦いと茶会を展開した織田信長。天の道を求めた織田信長。
【信長の弟信行、病いの織田信長を殺しにやってくる】信行、弘治3 (1557)年11月2日、二度目の謀反を企て、清洲城へ信長の見舞いにきた。清洲城北櫓天主、次の間で信長の命を受けた河尻秀隆ら、あるいは池田恒興らによって返り討ち。復讐する信長24歳。
【織田信長、天下布武、茶会】織田信長は、1567(永禄10年) 天下布武から、戦いと茶会を展開する。1568(永禄11年)9月26日、信長、入京。1571年(元亀二年)、織田信長、東福寺にて茶会。
*大久保 正雄『戦う知識人の精神史』
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【六観音菩薩】聖観音菩薩、千手観音菩薩、馬頭観音菩薩、十一面観音菩薩、准胝観音菩薩(不空羂索観音菩薩)、如意輪観音菩薩
六観音菩薩は、聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音。*六観音菩薩は、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道。六道から生きものを救う。(天台智顗『摩訶止観』)
衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(境涯)、六趣、六界。
【六道輪廻】天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道、
【死生学】【六道輪廻】責め苦の地獄道、飢えと渇きの餓鬼道、弱肉強食の畜生道、争い殺し合う修羅道、四苦八苦の人間道、天人は神通力が使えるが苦に悩む天道。六道輪廻から生きものを救う観音菩薩。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
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天台僧の義空(1172~1241)は、釈迦は永久にこの世に存在し法を説くという『法華経』の教えにもとづいて、1220(承久2年)大報恩寺を創建した。快慶作の十大弟子立像と、快慶の弟子、行快作の釈迦如来坐像は、法華経の世界を表現する。
運慶一門の慶派仏師、定慶作の六観音菩薩像が伝来する。貞応三年(1224)に、定慶が造ったと准胝観音の像内墨書銘にある。運慶の長男である湛慶より十歳ほど若い定慶は、運慶の弟子。
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展示作品の一部
運慶の晩年の弟子、定慶が41歳の時に制作した「六観音菩薩像」。大報恩寺の秘仏本尊、快慶の弟子、行快作「釈迦如来坐像」、快慶作「十大弟子立像」、運慶の弟子、行快とほぼ同じ世代である肥後定慶作「六観音菩薩像」。
行快作「釈迦如来坐像」、鎌倉時代・13世紀 京都・大報恩寺蔵
快慶作「十大弟子立像」、鎌倉時代・13世紀 京都・大報恩寺蔵
阿難陀(あなんだ)、羅睺羅(らごら)、優婆離(うぱり)、阿那律(あなりつ)、迦旋延(かせんえん)、富楼那(ふるな)、須菩提(すぼだい)、大迦葉(だいかしょう)、目犍連(もくけんれん)、舎利弗(しゃりほつ)
肥後定慶作「六観音菩薩像」、聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音 鎌倉時代・貞応3年(1224)京都・大報恩寺蔵
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★参考文献
法華寺「十一面観音」の美・・・純粋な魂に舞い降りる
https://bit.ly/2NKS5IP
「国宝 阿修羅展」・・・阿修羅像の謎、光明皇后、天平文化の香り
https://bit.ly/2zKYquU
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人
https://bit.ly/2OAhnsz
妙心寺展・・・禅の空間、近世障屏画の輝き
https://bit.ly/2OACxXq
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京都市上京区に所在する大報恩寺は、鎌倉時代初期に開創された古刹です。釈迦如来坐像をご本尊とし、千本釈迦堂の通称で親しまれています。本展では、大報恩寺の秘仏本尊で、快慶の弟子、行快作の釈迦如来坐像、快慶作の十大弟子立像、運慶の弟子で、行快とほぼ同じ世代である肥後定慶作の六観音菩薩像など、大報恩寺に伝わる鎌倉彫刻の名品の数々を展示いたします。
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特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」、東京国立博物館
2018年10月2日(火) ~12月9日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1914

2017年9月29日 (金)

「運慶」 東京国立博物館・・・魂の深淵

Unkei2017大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第126回
秋の午後、銀杏の森を歩いて博物館に行く。運慶の全作品31点のうち22点が勢揃いする。
運慶の魂の深淵にあるものは、何か。魂は何に葛藤したのか。20代の運慶が作った「大日如来」と、40代の運慶が作った「大日如来」との間にある時間は何を意味するのか。
「金剛力士像 阿吽、東大寺南大門」制作に挑む運慶は、怪物に挑む者のようだ。
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが深淵を覗くならば、深淵もまたおまえを見返すのだ。(『善悪の彼岸』146節)
「大日如来坐像」(光得寺)、光背の太陽光線、雲に乗る菩薩、蓮華座の4頭の獅子、蓮弁の水の滴り。運慶「大日如来」(光得寺)、鑁阿寺より伝来。1196年(建久7年)。足利義兼が制作依頼した像で、義兼が自ら背負って諸国を歩いたとされる。
運慶は、建久八年(1197)、東寺講堂(839)の立体曼荼羅の二十一体を修復した。このとき、三百年前の奈良仏師の息づかいに触れ、弘仁貞観の密教仏から学んだ。東寺の立体曼荼羅は、雲に乗る36躯体の菩薩、蓮華座の8頭の獅子、中心に大日如来、「金剛界曼荼羅」成身会を表している。
「毘沙門天立像」(願成就院蔵)鎌倉時代・文治2年(1186)を作ったころから、運慶の作風は研ぎ澄まされたようだ。
南都焼討1181、興福寺が全焼、東大寺は主要伽藍が焼け落ちる。平家滅亡1185、承久の変1221、北条義時が後鳥羽上皇を破る。激動の嵐のなかで、運慶は何を考えたのか。
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美しい夕暮れ。美しい魂に、幸運の女神が舞い降りる。美しい守護霊が救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなす。
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』
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アレクサンドロス大王の東征によって、ガンダーラ彫刻が生まれ、南北朝の北魏様式、飛鳥白鳳の彫刻に辿りついた。
飛鳥文化、白鳳文化、天平文化、弘仁貞観文化、国風文化、彫刻史を顧みると、思い出す。
法隆寺夢殿救世観音菩薩像、薬師寺金堂薬師三尊像、東大寺法華堂、不空検索観音、日光月光菩薩像、東寺講堂立体曼荼羅、仁王経曼荼羅の二十一体の仏像。平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像。
――
運慶(生年不詳 1150- 貞応2年12月11日(1224年1月3日))73歳で亡くなる。
定朝の流派は、3つに分かれる。院派、円派、奈良仏師。慶派は、定朝の孫弟子、頼助から始まる奈良仏師の流派である。慶派の祖、康慶の子、運慶。
運慶の父・康慶、運慶の実子・湛慶、康弁ら親子3代が慶派の盛期である。
運慶・快慶「東大寺南大門、金剛力士像 阿吽」1203、湛慶「蓮華王院、千眼千手菩薩像」、慶派の頂点である。
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展示作品の一部
国宝 大日如来坐像、 運慶作、平安時代・安元2年(1176)、円成寺蔵
重要文化財 仏頭、運慶作、鎌倉時代・文治2年(1186)、興福寺蔵
国宝 運慶願経(法華経巻第八)、平安時代・寿永2年(1183)
国宝 毘沙門天立像、運慶作、鎌倉時代・文治2年(1186)、静岡・願成就院蔵
国宝 八大童子立像のうち恵光童子・制多伽童子、運慶作、鎌倉時代・建久8年(1197)頃、和歌山・金剛峯寺蔵
重要文化財 阿弥陀如来坐像および両脇侍立像、重要文化財 不動明王立像、重要文化財 毘沙門天立像、運慶作、鎌倉時代・文治5年(1189)、神奈川・浄楽寺蔵
国宝 無著菩薩立像・世親菩薩立像、運慶作、鎌倉時代・建暦2年(1212)頃、興福寺蔵
重要文化財 聖観音菩薩立像、運慶・湛慶作、鎌倉時代・正治3年(1201)頃、愛知・瀧山寺蔵
重要文化財 十二神将立像、京都・浄瑠璃寺伝来、鎌倉時代・13世紀
静嘉堂文庫美術館蔵(子神・丑神・寅神・卯神・午神・酉神・亥神)
東京国立博物館蔵(辰神・巳神・未神・申神・戌神)
国宝 天燈鬼立像・龍燈鬼立像、康弁作(龍燈鬼立像)、鎌倉時代・建保3年(1215)、興福寺蔵
大日如来坐像  1軀 鎌倉時代・12~13世紀 栃木・光得寺
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★ 特別展「運慶」 東京国立博物館、 平成館 特別展示室
2017年9月26日(火) ~ 2017年11月26日(日)
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運慶の生年は不明ですが、息子・湛慶が承安3年(1173)生まれであること、処女作と見られる円成寺の大日如来坐像(国宝)を安元元年(1175)に着手していることから、おおよそ1150年頃と考えられます。平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像(国宝、天喜元年(1053))の作者である大仏師・定朝から仏師集団は三つの系統に分かれましたが、運慶の父・康慶は興福寺周辺を拠点にした奈良仏師に属していました。院派、円派の保守的な作風に対して、奈良仏師は新たな造形を開発しようとする気概があったようです。ここでは、運慶の父あるいはその師匠の造った像と、若き運慶の作品を展示し、運慶独自の造形がどのように生まれたのか、その源流をたどる。東京国立博物館
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1861

2017年7月18日 (火)

「タイ、仏の国の輝き」東京国立博物館・・・暁の寺、唯識の幻

20170704大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
緑の森を歩いて、博物館に行く。ナーガ上の仏陀坐像、熱帯の森の沈黙。バンコクの暁の寺(Wat Arun)の幻想が蘇る。
永遠を旅する哲学者は、時を超え、黄昏の丘を超えて、美へ旅する。
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
―――
高校時代の読書、三島由紀夫『暁の寺』(1970)を思い出す。第一部の時代は1941年(昭和16年)から終戦の1945年(昭和20年)まで。本多繁邦は、バンコクで7歳の王女・月光姫と出会う。月光姫は主人公を見ると懐かしがる。黙って死んだお詫びがしたいと言う。仏教の輪廻転生、唯識の世界に足を踏み入れ、戦争中、宗教書を読みあさり研究に没頭する主人公の憂愁。
―――
ナーガ上の仏陀坐像、火焔飾りの黄金の仏陀像、仏陀遊行像をみると詩を思い出す。
思想は一つの意匠であるか 鬱蒼としげつた森林の樹木のかげで. ひとつの思想を歩ませながら. 佛は蒼明の自然を感じた. どんな瞑想をもいきいきとさせ. どんな涅槃(ねはん)にも溶け入るやうな. そんな美しい月夜をみた。「思想は一つの意匠であるか」佛は月影を踏み行きながら かれのやさしい心にたづねた。*萩原朔太郎「思想は一つの意匠であるか」
上座部仏教(Theravada Buddhism)の国タイ。タイ族前史の古代国家、タイ黎明期のスコータイ朝、国際交易国家アユタヤー朝、現王朝のラタナコーシン朝における仏教美術の名品。
仏教の原始教団は、多くの部派に分裂し、部派仏教がうまれた。その中で、最も厳格に戒律を守り、伝統を継承しようとした保守派を上座部という。上座(thera)とは教団内の指導的な長老を意味する。
―――
展示作品の一部
「ナーガ上の仏陀坐像」スラートターニー県チャイヤー郡ワット・ウィアン伝来
シュリーヴィジャヤ様式 12世紀末~13世紀、バンコク国立博物館蔵
「法輪」スパンブリー県ウートーン遺跡第11号仏塔跡出土、ドヴァーラヴァティー時代 7世紀、ウートーン国立博物館蔵
「仏陀坐像」スコータイ県シーサッチャナーライ郡ワット・サワンカラーム伝来、スコータイ時代 15世紀、サワンウォーラナーヨック国立博物館蔵
「仏陀遊行像」スコータイ県シーサッチャナーライ郡ワット・サワンカラーム伝来
スコータイ時代 14 ~15世紀、サワンウォーラナーヨック国立博物館蔵
―――
識体の転変
第八識、阿頼耶識は、大円鏡智に転じる。
第七識、末那識は、平等性智に転じる。
★転識得智 9識は、金剛頂経の説く瞑想法(五相成身観)によって各々五智に転じる。
大日如来の知恵 五智如来の知恵
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-0e2c.html
―――
★タイ、仏の国の輝き、東京国立博物館
2017年7月4日(火) ~ 8月27日(日)
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1848