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ハプスブルク

2019年12月24日 (火)

ブダペスト—ヨーロッパとハンガリーの美術400年・・・シニェイ・メルシェ・パール『紫のドレスの女』

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Szinyei-merse-pal-1874
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第201回
ハンガリー絵画を見ると思い出す。ハプスブルグ帝国の旅、ドナウの薔薇、ブダペストの思い出。夏の嵐の夜のドナウ河クルーズ。ブダペストで、ドナウ河クルーズした。夏の嵐の日、雷鳴の鳴る夜。今は、美しい思い出。
ブダの丘とペストの町、鎖橋、ブダの丘から眺める、ドナウ河と国会議事堂、マーチャーシュ教会、イシュトヴァーン大聖堂。金髪のハンガリー美女が案内してくれた。ハプスブルグ帝国を旅した青春の日々。夏の離宮、シェーンブルン宮殿。
――
150年前、オーストリア=ハンガリー二重帝国と外交関係が結ばれた。1869年(明治2年)10月18日、日墺洪修好通商航海条約に調印、外交関係を樹立してから150周年。
開会式テープカットで、ハンガリー特命全権大使、パラノビチ・ノルバート氏が、ハンガリーのモナリザと呼ぶ、「紫のドレスの婦人」子供のころから家でこの絵を見ていたと語る。
シニェイ・メルシェ・パール『紫のドレスの女』1874
――
【ヨーロッパの果ての絵画】ハンガリー画家、ハンガリー秘蔵の絵画。
シニェイ・メルシェ・パール(Szinyei Merse Pál)「ひばり」1882、
シニェイ・メルシェ・パール「気球」1878
ロツ・カーロイ(Lotz Karoly)「春 リッピヒ・イロナの肖像」1894
ギュスターヴ・ドレ(Gustave Dore )「白いドレスの若い女性」1883
チョントヴァーリ・コストカ・ティヴァダル(Csontváry Kosztka Tivadar)「アテネの新月の夜、馬車での散策」1904
ベルナート・アウレール「リヴィエラ」1927
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
★展示作品の一部
ティツィアーノ《聖母子と聖パウロ》1540年頃、油彩/カンヴァス、ブダペスト国立西洋美術館
チョントヴァーリ・コストカ・ティヴァダル《アテネの新月の夜、馬車での散策》1904年、油彩/カンヴァス、ブダペスト、ハンガリー・ナショナル・ギャラリー
ヴァサリ・ヤーノシュ《黄金時代》1898年、油彩/カンヴァス、ブダペスト、ハンガリー・ナショナル・ギャラリー
シニェイ・メルシェ・パール《紫のドレスの婦人》1874年、油彩/カンヴァス、ブダペスト、ハンガリー・ナショナル・ギャラリー
©Museum of Fine Arts, Budapest-Hungarian National Gallery, 2019
シニェイ・メルシェ・パールは、19世紀後半から20世紀初頭のハンガリー近代絵画の展開に先駆的な役割を果たし。ミュンヘンの美術アカデミーで絵画を学び、パリを訪れたことはなかったが、印象派と類似する絵画表現を独自に追求した。初期の代表作である《紫のドレスの婦人》、結婚したばかりの妻ジョーフィアをモデルとして描かれたこの絵画、「今日ハンガリーで最も魅力的な名画として愛されている」とハンガリー大使は紹介した。
制作当時は、「草木の黄緑色とドレスの紫色の強い対比」ゴッホのような補色関係が不評を招いた。斬新な表現は理解されなかった。
1870年代、パリの印象派の画家たちは、着飾った都会の男女が野外で余暇を楽しむ近代生活の様相を新たな主題として開拓した。シニェイ・メルシェ・パールは独自に同じ試みに取り組んだと解説される。
不釣り合いなカップル 老人と若い女
ルカス・クラーナハ(父)《不釣り合いなカップル 老人と若い女》1522年、油彩/ブナ材、ブダペスト国立西洋美術館
©Museum of Fine Arts, Budapest-Hungarian National Gallery, 2019
ルカス・クラーナハ(父)《不釣り合いなカップル 老人と若い男》1520-22頃
ルカス・クラーナハ(父)、ザクセン選帝侯の宮廷画家として名声を博し、大工房を率いた。クラーナハが描いた年齢差のある男女の組合せ―「不釣り合いなカップル」は、16世紀の北方ヨーロッパの風刺文学や絵画で愛好された主題。年老いた男は、着飾った美しい娘の体に嬉しそうに手を回しているが、女が自分の財布に手を入れていることには気づいておらず、女の誘惑の力を強調する。「老女と若い男」を描いた。2点の《不釣り合いなカップル》。
エル・グレコ《聖小ヤコブ(男性の頭部の習作)》
1600年頃、油彩/カンヴァス、ブダペスト国立西洋美術館
©Museum of Fine Arts, Budapest-Hungarian National Gallery, 2019
エーゲ海のクレタ島出身、スペインのトレドで活動したエル・グレコは、神秘的な宗教画のほか、肖像画でも名声を博した。この作品は、尖った耳や窪んだ目元、顔立ちの細部が刻銘に描写されている、画家の自画像とみなされたこともあった。
クロード・モネ《トゥルーヴィルの防波堤、干潮》
1870年、油彩/カンヴァス、ブダペスト国立西洋美術館
©Museum of Fine Arts, Budapest-Hungarian National Gallery, 2019
《トゥルーヴィルの防波堤、干潮》は、印象派の描き方を模索し始めた頃のモネの様式をよく伝える重要な作品です。1870年6月にカミーユ・ドンシューと結婚したモネは、ハネムーンで訪れたノルマンディーの海岸の街トゥルーヴィルで夏の数か月を過ごし、浜辺の風景を数多く描いた。
フランツ・リストの肖像
ムンカーチ・ミハーイ《フランツ・リストの肖像》1886年、油彩/カンヴァス、ブダペスト、ハンガリー・ナショナル・ギャラリー
©Museum of Fine Arts, Budapest-Hungarian National Gallery, 2019
ハンガリー近代絵画の巨匠ムンカーチ、1872年からパリで活躍し、大成功を収めた。当初は冷徹なレアリスムの風俗画を描いていたが、1874年に貴族階級の女性と結婚して後、華麗な社交生活を送り、富裕なブルジョワ婦人の生活情景や肖像画も描く。ムンカーチ夫妻は政治家や芸術家を自邸に招き、社交を楽しむのを常とした。客人には、ハンガリー出身の高名な作曲家、ピアニストのフランツ・リストも含まれていた。リストは1886年3月にパリに滞在した際、ムンカーチ邸で開かれた歓迎の祝宴でピアノを演奏した。この4カ月後、リストは74歳でその生涯を閉じた。
リップル=ローナイ・ヨージェフ《赤ワインを飲む私の父とピアチェク伯父さん》
1907年、油彩/厚紙、ブダペスト、ハンガリー・ナショナル・ギャラリー
©Museum of Fine Arts, Budapest-Hungarian National Gallery, 2019
国立新美術館
https://www.nact.jp/exhibition_special/2019/budapest2019/
――
参考文献
ハプスブルク家、600年にわたる帝国・・・旅する皇帝と憂愁の王妃
https://bit.ly/2Q14xnz
ハプスブルク家、600年にわたる帝国コレクションの歴史・・・黄昏の帝国
https://bit.ly/2C7rE7K
クラーナハ展、500年後の誘惑・・・透明なヴェールの女、女の策略
https://bit.ly/38PptVl
THEハプスブルク 華麗なる王家と美の巨匠たち・・・黄昏のウィーンの思い出
https://bit.ly/2obtPA4
『ブダペスト—ヨーロッパとハンガリーの美術400年』図録2019
――
日本・ハンガリー外交関係開設150周年記念、ブダペスト国立西洋美術館 & ハンガリー・ナショナル・ギャラリー所蔵
ブダペスト—ヨーロッパとハンガリーの美術400年、国立新美術館、12月4日(水)~2020年3月16日(月)

2019年11月10日 (日)

ハプスブルク家、600年にわたる帝国・・・旅する皇帝と憂愁の王妃

Margarita-teresa-in-white-dress-1656-5 
Habsburg2019-2
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第198回
【ハプスブルク帝国の旅】ベラスケス『白いドレスの王女マルガリータ』(1656)をみると、哀愁のヨーロッパ、ハプスブルク帝国の旅を思い出す。ドナウの薔薇ブダペスト、嵐のドナウ川クルーズ。ハンガリーの黄金の髪の美女。帝国を旅した青春の日々。初夏の東欧、ウィーン、ザンクトヴォルフガング湖、プラハ城、ブルタヴァ川の中のチェスキー・クルムロフ城、ブダの丘とペストの迷路。早春の南欧、リスボン、ケルーシュ宮殿、黄金海岸、アルハンブラ宮殿、タホ川に聳えるトレド、マドリッド、バルセロナ、モンセラート。ベラスケスは、王女マルガリータを3歳の時から5枚以上描いた。ベラスケス『薔薇色のドレスの王女マルガリータ』『白いドレスの王女マルガリータ』『青いドレスの王女マルガリータ』が、ウィーン美術史美術館に並べられている。
【旅する思想家】旅する思想家は、美と真実を求めて、大帝国の都市から都市へ、路から路へ、修行僧のように、彷徨い歩く。旅する思想家は、美しい魂と真の言葉と智恵を求めて、果てしない旅をつづける。現象の表層ではなく本質の美を探求する。
【心は思考となり、思考は言葉となり】詩は志のゆくところなり。魂は心を震わせる、心は思考となり、思考は言葉となり、言葉は行動となり、行動は愛を生み、あるときは敵と対峙し、敵対は戦いとなる。愛と戦いの廃墟に残る墓標と彫像。遺恨の血となり、土中の宝庫となる。恨血千年、土中の碧。上智と下愚は移らず。知性ある天人、修羅は、餓鬼と戦う。
【フプスブルク、憂愁の王妃】ハプスブルク家は、政略結婚による領土拡大、富と権力を集中、美術蒐集で名高い。夭折した美しき王妃マリー・ド・ブルゴーニュ25歳で死す、カスティーリャ女王イサベル1世の娘、75歳まで籠城したカスティーリャ女王狂女フアナ、非業の死を遂げた王妃、王女たち、変死した皇妃。ハプスブルク家に秘められた真実は何か。
【ハプスブルグ家の美術蒐集家】デューラーを庇護したマクシミリアン1世、フィリップ美公はヒエロニムス・ボスを愛好、ティツィアーノを召し抱えたカール5世とフェリペ2世、フェリペ2世はヒエロニムス・ボスを愛好蒐集。フェリペ4世は、ベラスケスを宮廷画家、宮廷配室長。ルーベンスを庇護した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
1【【ハプスブルク家、憂愁の王妃】】
【王妃マリー・ド・ブルゴーニュ、美しき姫】ブルゴーニュ公女、美しき姫君、文化と藝術を愛する知性をもつ、25歳で死す。
【フェリペ4世の娘、王女マルガリータ・テレサ】14歳でレオポルト1世に嫁ぎ、21歳で死去する。マルガリータは5人の子を産んだが、一人を除いて次々と死んだ。長女マリア・アントニアのみが成人した。
【カスティーリア女王フアナ】フィリップ美公(Belle Philippe)端麗王と結婚。フィリップ美公28歳で死去の後、75歳まで生きる。
【マリア・テレジア、多産な女帝】1740年父カール6世、死去。男子がいないため相続問題が発生。1740年—1748年オーストリア継承戦争。マリア・テレジアは、16人の子を産み、その6人が亡くなった。その第15子が、マリー・アントワネットである。
【マリー・アントワネット、断頭台に死す】政略結婚のため、泣きながライン河を航行、ストラスブールで引き渡し式、14歳でフランス王家のオーギュスト皇子に嫁ぎ、ルイ16世王妃となる。1778年スウェーデン貴族フェルセン伯爵と恋に落ちる。1789年フランス革命。1793年1月21日ルイ16世、処刑。10月16日マリー・アントワネット処刑。37歳。
【皇妃エリーザベト、レマン湖で変死】17歳で1854年フランツ・ヨーゼフ1世と結婚。嫡男、皇太子ルドルフ心中による死。ジュネーヴ・レマン湖のほとりで、暗殺されて死す。60歳。
【バイエルン王国、ヴィッテルスバッハ家】尊大、傲慢、狭量かつ権威主義的、浪費を好む。エリーザベト、皇后としての莫大な資産によって旅する。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
2【【ハプスブルク家の容貌】】
【神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世】マリー・ド・ブルゴーニュと結婚、ハプスブルク帝国繁栄の基礎を築いた。子、フィリップ美公が、カスティーリア王女と結婚。ハプスブルク家の政略結婚が始まる。
【カール5世=カルロス1世、世界最大の帝国、旅する皇帝、借金王】神聖ローマ皇帝、借金王、ハプスブルク帝国最大の版図、絶頂期、スペインとオーストリアを支配。
【フェリペ1世、フィリップ美公 (Belle Philippe) 、端麗王】カスティーリャ女王フアナと結婚。フィリップ美公は、28歳で死す。フアナは狂女となり、75歳まで生きる。
【フェリペ2世、書類王、スペイン黄金世紀】カール5世の借金を受け継ぐ。スペイン王、最盛期に君臨した偉大なる王、絶対主義の代表的君主。地中海の覇権を巡って争うオスマン帝国を破る。若き日の旅、王になったらスペインを出ず、書類王。エルエスコリアル宮殿に閉じ籠る。フェリペ2世が作り上げた官僚主義的な書類決裁システムは、ヨーロッパで先進。レパントの海戦、「太陽の沈まぬ帝国」と無敵艦隊の敗北。1557年に最初の破産宣告(国庫支払い停止宣言=バンカロータ)。ティツィアーノを召し抱える。
フェリペ2世、1556年1月16日、父の退位により、ハプスブルク家は、スペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分化。
4人の妃と結婚、フェリペ2世が妻エリザベートと息子ドン・カルロスを毒殺したとして非難されている。家庭的には不幸であった。フェリペ二世はサンバルテルミの虐殺の報告を受けた時に生まれて初めて笑った(その後一生笑うことは無かった)。
【スペイン王フェリペ3世、怠惰王】オーストリア・ハプスブルク家との間の3親等クラスの近親婚(叔姪婚)による出生、この王から始まる。
【スペイン王フェリペ4世、無能王】ヨーロッパ最高の美術コレクションを築く。近親婚が蜿蜒と繰り返されていくハプスブルク家。外交官ルーベンスが訪れ、ベラスケスが37年間、宮廷画家として仕える。フェリペ4世の子女は14人がいるが、殆ど死ぬ。60歳で死す。
【5代目カルロス2世、血の呪い】フェリペ4世の皇子。先端巨大症のため、咀嚼に影響があり、常によだれを垂れ流した。スペイン・ハプスブルク家、5代で断絶。血の呪い。200年、近親婚による遺伝性疾患が原因で断絶した。38歳で死す。1661—1700。
【神聖ローマ皇帝ルドルフ2世、奇人皇帝】反宗教改革政策を推し進め、新旧両派諸侯の対立を激化させ三十年戦争の禍根を作る。31歳で都をプラハに移す。ルドルフ2世はプラハ城、南翼と北翼をつなぐ廊下にクンストカンマー設立。学者を庇護して、プラハをマニエリスムの一大拠点となす。59歳で死す。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
参考文献
THEハプスブルク 華麗なる王家と美の巨匠たち・・・黄昏のウィーンの思い出
https://bit.ly/2obtPA4
「プラド美術館 ベラスケスと絵画の栄光」・・・フェリペ4世と宮廷画家ベラスケス
http://bit.ly/2Ho8bR0 
美しき女相続人、マリー、ベルギー、奇想の系譜・・・怪奇と幻想うごめくフランドル
https://bit.ly/349ffME
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花
https://t.co/T2it2d8Zb1
ハプスブルク帝国、ヴェラスケス、黄昏の光芒
http://bit.ly/2zGK4N2
スペイン・ハプスブルグ家、太陽の沈まぬ帝国、黄金の世紀
https://bit.ly/31UvEmm
ハプスブルク家 皇妃エリザベート、バイエルンの薔薇
https://bit.ly/2PqaVUV
ハプスブルク家 マリー・アントワネット 革命に散る
https://bit.ly/2opYnlB
「神聖ローマ帝国皇帝 ルドルフ2世の驚異の世界」・・・ハプスブルグ家の悪趣味の館
https://bit.ly/2JtpinR
――
ハプスブルク家、600年にわたる帝国コレクションの歴史・・・黄昏の帝国、旅の思い出
https://bit.ly/2C7rE7K
マクシミリアン1世(1459-1519)からオーストリア・ハンガリー二重帝国「最後の皇帝」フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)まで
――
★日本・オーストリア友好150周年記念 ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史
10月19日(土)~2020年1月26日(日)国立西洋美術館
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2019haus_habsburg.

2019年11月 4日 (月)

ハプスブルク家、600年にわたる帝国コレクションの歴史・・・黄昏の帝国、旅の思い出

Habsburg2019-1
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第197回
ベラスケス『白いドレスの王女マルガリータ』をみると、ハプスブルク帝国の旅を思い出す。哀愁のヨーロッパ、スペインの大地。嵐のドナウ川クルーズ。ハンガリーの黄金の髪の美女。
【旅する思想家】旅する思想家は、美と真実を求めて、大帝国の都市から都市へ、路から路へ、修行僧のように、彷徨い歩く。現象の表層ではなく本質の美を探求する。旅する思想家は、美しい魂と真の言葉と智恵を求めて、果てしない旅をつづける。ハプスブルグ帝国、美しいものは死に、魂醜いものは復讐される。
帝国を旅した青春の日々。黄昏のトレド、黄昏のウィーン。初夏の東欧、ウィーン、ザルツカンマーグート、プラハ、チェスキー・クルムロフ、ブダペスト。早春の南欧、リスボン、ケルーシュ、太陽海岸、グラナダ、トレド、マドリッド、バルセロナ、モンセラート。ウィーン美術史美術館、プラド美術館、ブダペスト国立西洋美術館。
――
【権力至上のハプスブルグ帝国、青い血の血族結婚】旅する皇帝、借金王、書類王、奇怪な王、憂愁の王妃、美しく若くして死んだ王妃、薄倖な王妃、長命の狂女王。16人の子を産んだ王女帝、奇人王、病弱な王。
【ハプスブルグ家の偉大な美術蒐集家】ハプスブルグ家には、偉大な美術蒐集がいる。デューラーを庇護したマクシミリアン1世、フィリップ美公(Belle Philippe)端麗王はヒエロニムス・ボスを愛好、ティツィアーノを召し抱えたカール5世とフェリペ2世、スペイン王フェリペ2世はヒエロニムス・ボスを愛好蒐集。フェリペ4世は、ベラスケスを宮廷画家、宮廷配室長にした。女帝マリア・テレジアの嫡男ヨーゼフ2世はコレクション公開。神聖ローマ皇帝ルドルフ2世は、プラハ城の廊下にクンストカンマーを作りアルチンボルド、ヤン・ブリューゲルを蒐集。
ティツィアーノは、1550年から死去する1576年まで16年間、肖像画家としてフェリペ2世と交流。ティツィアーノ『鎧を着けたフェリペ二世の肖像』1550-51年プラド美術館。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
参考文献
THEハプスブルク 華麗なる王家と美の巨匠たち・・・黄昏のウィーンの思い出
https://bit.ly/2obtPA4
「プラド美術館 ベラスケスと絵画の栄光」・・・フェリペ4世と宮廷画家ベラスケス
http://bit.ly/2Ho8bR0 
美しき女相続人、マリー、ベルギー、奇想の系譜・・・怪奇と幻想うごめくフランドル
https://bit.ly/349ffME
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花
https://t.co/T2it2d8Zb1
ハプスブルク帝国、ヴェラスケス、黄昏の光芒
http://bit.ly/2zGK4N2
スペイン・ハプスブルグ家、太陽の沈まぬ帝国、黄金の世紀
https://bit.ly/31UvEmm
ハプスブルク家 皇妃エリザベート、バイエルンの薔薇
https://bit.ly/2PqaVUV
ハプスブルク家 マリー・アントワネット 革命に散る
https://bit.ly/2opYnlB
「神聖ローマ帝国皇帝 ルドルフ2世の驚異の世界」・・・ハプスブルグ家の悪趣味の館
https://bit.ly/2JtpinR
――
ハプスブルク展、600年にわたる帝国コレクションの歴史 展示作品の一部
ディエゴ・ベラスケス《青いドレスの王女マルガリータ・テレサ》1659年、油彩/カンヴァス ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum, Wien
ディエゴ・ベラスケス《スペイン国王フェリペ4世の肖像》1631-1632年 油彩/カンヴァス ウィーン美術史美術館
ディエゴ・ベラスケス 《スペイン王妃イサベルの肖像》 1631-32年 油彩/カンヴァス ウィーン美術史美術館
ディエゴ・ベラスケス《宿屋のふたりの男と少女》 1618-19年頃 油彩/カンヴァス ブダペスト国立西洋美術館 Szépművészeti Múzeum/ Museum of FineArts, Budapest
ベルンハルト・シュトリーゲルとその工房、あるいは工房作《ローマ王としてのマクシミリアン1世》1507/08年頃 油彩/板 ウィーン美術史美術館
マリー・ルイーズ・エリザベト・ヴィジェ=ルブラン《フランス王妃マリー・アントワネットの肖像》 1778年、油彩/カンヴァス ウィーン美術史美術館
ヨーゼフ・ハインツ(父)《神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の肖像》1592年頃 油彩/銅板 ウィーン美術史美術館
ヤン・ファン・デン・フーケ 《甲冑をつけたオーストリア大公レオポルト・ヴィルヘルム》 1642年頃 油彩/カンヴァス ウィーン美術史美術館
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《ベネデット・ヴァルキの肖像》 1540年頃 油彩/カンヴァス ウィーン美術史美術館
ヴェロネーゼ《ホロフェルネスの首を持つユディト》 1580年頃 油彩/カンヴァス ウィーン美術史美術館
ヤン・ブリューゲル(父)《堕罪の場面のある楽園の風景》 1612-13年頃 油彩/板 ブダペスト国立西洋美術館 Szépművészeti Múzeum/ Museum of FineArts, Budapest
ヴィクトール・シュタウファー《オーストリア・ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の肖像》 1916年頃 油彩/カンヴァス ウィーン美術史美術館
――
13世紀末にオーストリアへ進出後、同地を拠点に勢力を拡大し、広大な帝国を築き上げたハプスブルク家。15世紀以降、神聖ローマ皇帝の位を世襲し、ナポレオン戦争を引き金に同帝国が解体したのちは、後継のオーストリア帝国(1867年にオーストリア・ハンガリーニ重帝国に改組)を統治しました。数世紀にわたって広い領土と多様な民族を支配し、ヨーロッパの中心に君臨し続けた同家は、まさに欧州随一の名門と言えるでしょう。
ハプスブルク家の人々はまた、豊かな財とネットワークを生かして、質量ともに世界屈指のコレクションを築いたことでも知られています。そのうちオーストリアを拠点とし続けた同家本流による蒐集品の主要部分は、今日のウィーン美術史美術館における収蔵品の核となっています。
オーストリアと日本の国交樹立150周年を記念する本展では、同館の協力のもと、絵画、版画、工芸 品、タペストリー、武具など約100点、5章7セクショソから、そのコレクションの歴史をみていきます。ハプスブルク家のコレクションの礎を築いた神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(1459-1519)から、美術史美術館の建設者でもあるオーストリア・ハンガリー二重帝国「最後の皇帝」ことフランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)まで、同家の人々の紹介も兼ねつつ、時代ごとに蒐集の特色やコレクションに向けられたまなざしを浮き彫りにしていきます。
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2019haus_habsburg.html
――
★日本・オーストリア友好150周年記念 ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史
10月19日(土)~2020年1月26日(日)国立西洋美術館

2018年1月19日 (金)

「神聖ローマ帝国皇帝 ルドルフ2世の驚異の世界展」・・・ハプスブルグ家の悪趣味の館

Rudolf2_2018大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第134回
ハプスブルグ帝国の都、ウィーン、プラハ、ブダペスト、チェスキークルムロフ、東欧の国々を旅した灼熱の夏を思い出す。美しき青春の日。
ハプスブルグ家の偉大な美術蒐集たち
ハプスブルグ家には、偉大な美術蒐集がいる。デューラーを庇護したマクシミリアン1世、ティツィアーノを召し抱えたカール5世、スペイン王フェリペ2世は、ヒエロニムス・ボスを愛好した。フェリペ4世は、ベラスケスを宮廷画家、官僚にした。女帝マリア・テレジアの嫡男ヨーゼフ2世はコレクションを公開。スペイン王フェリペ2世、フェリペ4世、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世。
神聖ローマ皇帝ルドルフ2世 Rudolf II
ルドルフ2世(1552-1612)は、ウィーンに生まれ、24歳で神聖ローマ帝国皇帝に即位。
1583年、31歳で、都をプラハに移す。1612年、59歳で死す。多くの身分の低い側室の女との子を多数つくるが、世継ぎはない。
クンストカンマー、悪趣味の極み
17世紀バロックのドイツ諸侯が作ったクンストカンマーは、悪趣味の極みである。
1583年、31歳で、都をプラハに移す。ルドルフ2世はプラハ城、南翼と北翼をつなぐ廊下にクンストカンマー(Kunstkammer)、ブンダーカンマー(Wunderkammer)を作り、美術品だけでなく、珍しい貝殻、珊瑚、宝石、科学器械などを集めた。ティコ・プラーエ、ヨハネス・ケプラーを宮廷に呼ぶ。
【憎み合う兄弟、ルドルフ2世とマティアス】ルドルフ2世の才能に嫉妬する弟
弟は宗教問題などに無策だったルドルフ2世を憎むが、ルドルフ2世の才能に劣等感を抱いていた。決定的対立は1577年、スペイン領ネーデルラントにマティアスが調整役として赴いて失敗した。ルドルフはマティアスのウィーン帰還を許さず。マティアスは謀反、1611年プラハに侵攻、兄を帝位から引き摺り下ろす。
ルドルフ2世の死
1612年、59歳で死す。弟マチアスが帝位を継ぐ。マチアスにも子がなく、フェルディナント2世が帝位を継承。ハプスブルグ家は、カトリックとプロテスタント最大の宗教戦争、30年戦争(1618-48)に突入する。ドイツは荒廃し、ハプスブルグ家はブルボン家に敗れ、フランスの覇権が確立する。
神聖ローマ帝国、虚構の帝国
神聖ローマ帝国(西暦962~1806年)。神聖ローマ帝国は、首都の存在しないドイツ民族諸侯連合体。「神聖ローマ帝国」の名称は 1254年以降用いられる。古代ローマ再興を目指して作られた虚構、神聖でなくローマでもなく帝国でもない。フランス皇帝ナポレオンが欧州大陸を席巻すると、神聖ローマ帝国(962~1806年)崩壊。神聖ローマ帝国は烏合の衆である事が歴然とする。菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
大久保正雄『藝術と運命の戦い 藝術家と運命の女』
――
展示作品の一部
ハンス・フォン・アーヘン作のコピー「ハプスブルク家、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の肖像」1600年頃、油彩・キャンヴァス、スコークロステル城、スウェーデン
ルーラント・サーフェリー「動物に音楽を奏でるオルフェウス」1625年、油彩・キャンヴァス、プラハ国立美術館、チェコ共和国
ヤン・ブリューゲル(父)「陶製の花瓶に生けられた小さな花束」1607年頃、油彩・板、ウィーン美術史美術館
ヨーリス・フーフナーヘル「生の短さの寓意(花と昆虫のいる二連画」 1591年、グアッシュ、水彩・ヴェラム、リール美術館
ジュゼッペ・アルチンボルド「ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ2世像」1591年、油彩・板、スコークロステル城、スウェーデン
ディルク・ド・クワード・ファン・ラーフェステイン「ルドルフ2世の治世の寓意」1603年、油彩・キャンヴァス、プレモントレ修道会ストラホフ修道院、プラハ、チェコ共和国
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参考文献
「アルチンボルド展」・・・ハプスブルク家の皇帝の奇妙な趣味
http://bit.ly/2vterEw
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花
https://t.co/T2it2d8Zb1
ハプスブルク帝国、ヴェラスケス、黄昏の光芒
http://bit.ly/2zGK4N2
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プラハに宮廷を構え、神聖ローマ帝国皇帝として君臨したハプスブルク家のルドルフ2世(1552-1612)は、稀代の収集家として、また芸術の庇護者として知られています。16世紀末から17世紀初頭、彼の宮廷には世界各地から優れた人物たちが集結し、芸術作品、あるいは科学機器などのあらゆる優れた創作物、更には新たに発見された珍奇な自然物などが集められ、文字通り「驚異の部屋」とでも呼ぶべき膨大なコレクションが形成され、当時のヨーロッパの芸術文化の一大拠点ともなりました。本展ではジュゼッペ・アルチンボルドを始め、ルドルフ2世が愛好した芸術家たちの作品を中心に、占星術や錬金術にも強い関心を示した皇帝の、時に魔術的な魅力に満ちた芸術と科学の世界をご紹介します。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/
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★Hans von Aachen - Portrait of Emperor Rudolf II
★「神聖ローマ帝国皇帝 ルドルフ2世の驚異の世界展」Bunkamura ザ・ミュージアム、2018年1月6日—3月11日

2016年9月16日 (金)

ハプスブルク帝国、ヴェラスケス、黄昏の光芒

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第98回
ハプスブルク帝国、ヴェラスケス、黄昏の光芒

はちみつ色の夕暮れ、黄昏の丘、黄昏の森を歩き、迷宮図書館に行く。糸杉の丘、知の神殿がある。美しい魂は、光輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

ヴェラスケスをめぐる人々。フェリペ4世、マリアナ王妃、ルーベンス、王女マルガリータ。イタリアの愛人。『鏡のヴィーナス』1551、ティツィアーノ『ウルビーノのヴィーナス』。
旅したイタリアは、ヴェラスケスを魅了し続ける。ヴェラスケスは、スペイン宮廷とイタリアの夢の国を揺れ動く。
『白衣の王女マルガリータ』『ラス・メニーナス』1556
画いて、4年後、61歳で死す。
沈みゆく太陽、ハプスブルク帝国、ヴェラスケス、栄光の光芒。朽ちていくスペイン。

【ディエゴ・ヴェラスケス】Diego Velázquez (1599-1660)
1623年、24歳の若さで国王フェリペ4世の王直属の画家。33年間の宮廷画家、官僚生活、嫌悪していた。61歳で死ぬ。心筋梗塞。
1629年、1648年、2回のイタリア旅行。

【フェリペ4世】Felipe IV, 1605 在位1621—65
【ルーベンス】Peter Paul Rubens 1577—1640 フランドルのバロック画家、外交官。
1628年、外交官ルーベンス、マドリッド訪問。美術愛好家フェリペ4世により、宮廷内にアトリエを与えられる。ヴェラスケス、ルーベンスに教えを受ける。
ヴェラスケス、1628年ルーベンスに「ヴェネツィア派ティツィアーノ」の偉大さを教えられる。
【スペイン・ハプスブルク家】フェリペ4世、絵画コレクション。ヴェラスケス、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ
【ハプスブルク家】ヴェラスケス、ハプスブルク家の醜い容貌を偽装する。「狩猟服姿のフェリペ4世」1634
【ハプスブルク家の異様な容貌】鷲鼻、顎が突出する醜悪な、下顎前突症Proganathism。ヴェラスケス、王家の容貌を偽装して粉飾。
1648年から1651年【イタリア旅行】ヴェラスケス、1648年から1651年までイタリア旅行。ローマ滞在、「ヴィラ・メディチの庭園」描く。
ヴェラスケス、イタリアの愛人をモデルに『ヴィーナスの化粧』(『鏡のヴィーナス』)(1647~1651年)を描く。
ティツィアーノ『ウルビーノのヴィーナス』の影響受ける。
【イタリア旅行】ヴェラスケス、2度目のイタリア旅行(1647~1651年)。不自由なスペインに帰国したくなかった。
【ハプスブルク家】ヴェラスケス、イタリア旅行から帰国。5歳の王女マルガリータを描く。最高傑作『ラス・メニーナス』1656
【ハプスブルク家】王女マルガリータ・テレサ・デスパーニャ1651—1673
Margarita Teresa D’Espagna, 1651—1673
王女マルガリータ、14歳で結婚、21歳で死ぬ。ヴェラスケスの死後13年、1673年、死去。

【ハプスブルク家】ヴェラスケス、イタリアの自由な文化を愛し、スペインの階級社会、宗教を嫌悪する。1651年帰国後、死ぬまで『王女マルガリータ』を描く。
ヴェラスケスは、『王女マルガリータ』を1653年から1660年まで描く。ウィーン美術史美術館に3枚存在する。
【ハプスブルク家】ヴェラスケス、宮廷画家の立場上、虚偽を造形する。ハプスブルク家の下顎前突症(Prognathism)を虚飾で粉飾する。
1652年に、ヴェラスケス、王宮の鍵をすべて預かる王宮配室長、重職に任用され官僚として頂点を極める。
1660年、ヴェラスケス、宮廷官僚として61歳で急死。最高傑作『ラス・メニーナス』制作後4年。
最高傑作『ラス・メニーナス』。原題『王の家族』
フェリぺ4世夫妻の目から見た、ヴェラスケス工房の王の家族と従者の光景。

『狩猟服姿のフェリペ4世』1634
『ヴィラ・メディチの庭園』1647年から1651年
『鏡のヴィーナス』(1647~1651年)
『白衣の王女マルガリータ』1556
『ラス・メニーナス』1556
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ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花
https://t.co/T2it2d8Zb1
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★Diego Velázquez,Las Meninas,1556『ラス・メニーナス』
★Diego Velázquez, Margarita Teresa
★Diego Velázquez,
大久保正雄2016年9月16日

2016年8月24日 (水)

ハプスブルク家 皇妃エリザベート、バイエルンの薔薇

Elisabeth_of_austria大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第89回
ハプスブルク家 皇妃エリザベート、バイエルンの薔薇

エリザベート、反抗的な少女。避暑地の皇帝の一目惚れ。運命の悪戯。16歳で結婚。バイエルンの薔薇。オーストリア皇后、ハンガリー王妃。
自由人だった父の気質を受け継ぎ、オーストリア宮廷の厳格を嫌う。生涯に渡り、ウィーンから逃避し続ける。夢想王ルートヴィヒ2世。ともに逃避行をくりかえす夢想家。
旅する皇妃。1898年9月、旅行中、レマン湖のほとりで、60歳で刺殺される。
ヨーロッパ宮廷一の美貌、細い身体。
過ぎたる美貌は耐え難いものである。*
美しいがゆえの耐え難い苦しみ。

美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
はちみつ色の夕暮れ、黄昏の丘、黄昏の森を歩き、迷宮図書館に行く。糸杉の丘、知恵の神殿。美しい魂は、光輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【オーストリア・ハプスブルク家】
カール6世Karl VI , 1685年10月1日 - 1740年10月20日)
神聖ローマ皇帝(在位1711年 -1740年)
1740年、カール6世、死去。男子がいないため相続問題が発生。
1740年—1748年、オーストリア継承戦争。
【マリア・テレジア】Maria Theresia,
マリア・テレジア(1741-1780)、帝国を相続。
マリア・テレジア(1741-1780)は、黄金時代のハプスブルク帝国を指揮した。
16人の子を産み、政略結婚を展開した。
末娘のマリー・アントワネットは、フランス王ルイ16世に嫁がせた。
マリア・テレジアの子、ヨーゼフ2世は、ヴォルテールを尊敬していた。
18世紀、黄金時代のハプスブルク帝国はバロック文化が栄えた。
1762年秋、モーツアルトは、ウィーンに行き、マリア・テレジアに、シェーンブルン宮殿に招かれた。モーツアルトは、マリー・アントワネットに「僕のお嫁さんにしてあげる」と言った。
*神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同)、ベーメン女王(在位1743年 - 1780年)。
【マリー・アントワネット】Marie Antoinette,1755-1793
1770年、マリー・アントワネット、フランス王太子(ルイ16世)と、結婚。
1789年、フランス革命、勃発。
1793年、マリー・アントワネット処刑。

【ゾフィー大公妃】Sophie Friederike Dorothea Wilhelmine von Bayern,
1805年1月27日 ミュンヘン-1872年5月28日 ウィーン
フランツ・ヨーゼフ1世を産む。
フランツ・ヨーゼフ・カール(1830年—1916年)オーストリア皇帝

【エリザベート】Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach, 1837-1898
1837年12月24日 - 1898年9月10日
エリーザベトは、美貌で、皇后だが、悲劇的な人生を生きた。オーストリア最後の皇后。後期は、旅に明け旅に暮れ、地中海を放浪した。シシーと呼ばれ国民から愛された。
ヨーロッパ宮廷一といわれた美貌、身長172cm背が高く、ウエスト50センチ、体重50キロという容姿。驚異の体形の持ち主。
Franz Xaver Winterhalter (1805–1873),Elizsabeth,1865
ジャン・コクトー『双頭の鷲』に描かれた。
バイエルン貴族エリザベート、皇帝に一目惚れされる。
1853年8月16日、ティロルの山岳地帯で、フランツ・ヨーゼフ1世とヘレーネ、婚約のため、見合い。運命を変えた姉の見合い。
皇帝、エリザベートに一目惚れ。
1854年、フランツ・ヨーゼフ1世と、エリザベート、16歳で結婚。
★生涯に渡りさまざまな口実を見つけて、ウィーンから逃避し続ける。
1889年、フランツ・ヨーゼフの嫡男、ルドルフ、心中による死。
1898年9月10日、旅行中、ジュネーヴ・レマン湖のほとりで、60歳で刺殺される。

【ルートヴィヒ2世】(Ludwig II, 1845年8月25日 - 1886年6月13日)
第4代バイエルン王。ノイシュバンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)、リンダーホフ城、夢の城を次々と建築する。
バイエルン王ルートヴィッヒ2世は、ワグナーの音楽『ローエングリン』と建築を好む藝術家王であった。若い頃は美貌に恵まれ、多くの画家らによって描かれた。オーストリア皇后エリーザベトとバイエルン王ルートヴィッヒ2世は、夢みる二人であった。
1878年リンダーホフ城
1886年、ノイシュバンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)は、ワグナーの音楽『ローエングリン』を具体化した。
1886年、ルートヴィッヒ2世、41歳の時、シュタルンベルク湖で、謎の溺死を遂げた。
ヴィスコンティ『ルートヴィヒ 神々の黄昏』に美しく描かれる。

1916年、フランツ・ヨーゼフ1世、死去。
1918年、オーストリア皇帝カール1世、死す。ハプスブルク帝国、滅亡。
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大久保正雄『地中海紀行』ハプスブルク帝国
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花
https://t.co/T2it2d8Zb1
ハプスブルク家 マリーアントワネット 革命に散る
https://t.co/LsGpsWXdsT
★Winterhalter,Elisabeth,1865
★Velasquez, Margarita白衣の王女マルガリータ,Velasquez, Las Meninas
★【参考文献】
ゲオルク・シュタット・ミュラー丹後杏一訳『ハプスブルク帝国史』1989
矢田俊隆『ハプスブルク帝国史研究―中欧多民族国家の解体過程――』岩波書店1977
カトリーヌ・クレマン『皇妃エリザベート ハプスブルクの美神』知の再発見65創元社1997
江村洋『ハプスブルク家の女たち』講談社現代新書
木村泰司『美女たちの西洋美術史 肖像画は語る』光文社新書2010年
ホセ・アントニオ・ウルビノ『プラド美術館』みすず書房、Scala1990
『ウィーン美術史美術館』みすず書房、Scala 
菊池良生『ハプスブルク家』
菊池良生『ハプスブルク家の光芒』ちくま文庫
菊池良生『傭兵の二千年史』講談社
加藤雅彦『図解 ハプスブルク帝国』河出書房新社
中丸明『ハプスブルク一千年』新潮社
桐生操『ハプスブルク家の悲劇』1995
国立新美術館『Theハプスブルク展図録』2009
中野京子『ハプスブルク家12の物語』2009
倉田稔『ハプスブルク歴史物語』日本放送出版協会1994
倉田稔『ハプスブルク文化紀行』日本放送出版協会2006
ヴィスコンティ『ルートヴィヒ 神々の黄昏』1972
Luchino Visconti, Ludwig 1972
大久保正雄2016年8月23日

2016年8月 6日 (土)

ハプスブルク家 マリー・アントワネット 革命に散る

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大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第73回
ハプスブルク家 マリー・アントワネット 革命に散る

黄昏の丘、森を歩いて、迷宮図書館に行く。時の迷宮の扉。砂漠の薔薇色の神殿。美しい女神が舞い降りる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

太陽の沈まぬ帝国、ハプスブルクは、富と権力で、ヨーロッパ最強の王国を構築した。
ハプスブルク家は、15世紀、マクシミリアン1世以来、政略結婚をくり広げヨーロッパ最大の権力を築いた。財産と地位と権力を恣にした。
ハプスブルク帝国の権勢の成功の陰で、散った儚い命。

マリー・アントワネットは、マリア・テレジアの第15子。
政略結婚で、14歳の時、フランス王ルイ16世に嫁がせられる。フランス王妃となる。しかし、フランス革命勃発。37歳で、断頭台の露と消える。
マリー・アントワネットは、本当に愛したのはだれか。
マリーの死を悲しんだのは、スウェーデン貴族フェルセン伯爵だけだった。

「私は生きています。それは奇跡なのです」マリー・アントワネット1792年
ヨーロッパ最大の権力、ハプスブルク帝国。最も豊かで、自由なき人々、ハプスブルク家。
愛と美を手に入れることができるのは、だれか。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【オーストリア・ハプスブルク家】
神聖ローマ皇帝
【カール6世】Karl 6
1740年、カール6世、死去。男子がいないため相続問題が発生。
1740年—1748年、オーストリア継承戦争。
【マリア・テレジア】Maria Theresia
1717-1780
マリア・テレジア(1741-1780)、帝国を相続。
マリア・テレジア(1741-1780)は、黄金時代のハプスブルク帝国を指揮した。
マリア・テレジア、16人の子を産み、政略結婚を展開した。
末娘のマリー・アントワネットは、フランス王ルイ16世に嫁がせた。
マリア・テレジアの子、ヨーゼフ2世は、ヴォルテールを尊敬していた。
18世紀、黄金時代のハプスブルク帝国はバロック文化が栄えた。
1762年秋、モーツアルトは、ウィーンに行き、マリア・テレジアに、シェーンブルン宮殿に招かれた。モーツアルトは、マリー・アントワネットに「僕のお嫁さんにしてあげる」と言った。
*神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同)、ベーメン女王(在位1743年 - 1780年)。

【マリー・アントワネット】Marie Antoinette
1755-1793
1555年、マリー・アントワネット、マリア・テレジアの15番目の子として誕生。
1770年、マリー・アントワネット、フランス王太子(ルイ16世)と、結婚。14歳。
1778年、マリー・アントワネット、スウェーデン貴族フェルセン伯爵と恋に落ちる。
1783年、ブレゲの顧客の一人であったフランス王妃マリー・アントワネットはブレゲに最高の時計を作るように注文した。マリー・アントワネットは処刑されたが、開発は続けられた。ブレゲの死後も弟子達がその仕事を受け継ぎ、1827年になってこの時計は完成した。ブレゲNo.160「マリー・アントワネット」Breguet(Marie Antoinette )金色の懐中時計。
1786年、【マリー・アントワネット、首飾り事件】
ジャンヌ・バロア・ド・ラモット伯爵夫人が首謀者となり企て王家をも巻き込んだ巨額詐欺事件。先王ルイ15世が愛人デュ・バリー夫人のために作らせたまま契約が立ち消えになっていた160万リーブルのダイヤモンド。宝石商によってマリー・アントワネットのもとに持ち込まれるが、あまりに高額を理由にマリーに断られた。
1785年1月、それを知ったジャンヌは、ロアンにマリー・アントワネットの要望として、この首飾りの代理購入を持ちかけた。ロアンは首飾りを代理購入。
1789年、フランス革命、勃発。
     7月、バスチーユ監獄襲撃。
     8月、人権宣言、採択。
1791年、6月、パリ脱出、ヴァレンヌで連れ戻される。
1792年、4月、フランスは、オーストリアに宣戦布告。王妃マリー・アントワネット、軍の情報を、オーストリアに通報。6月、民衆、チュイルリー宮殿、襲撃、占拠。
1793年、1月21日、ルイ16世、処刑。
    10月16日、マリー・アントワネット処刑。37歳。
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花
https://t.co/T2it2d8Zb1

★Maria Theresia 14歳のマリア・テレジア
★Marie Antoinette
★ソフィア・コッポラ映画『マリー・アントワネット』
Sophia Coppola, Marie Antoinette,2006

★参考文献
エヴリーヌ・ルヴェチ『王妃マリー・アントワネット』知の再発見双書
シュテファン・ツワイク『マリー・アントワネット』岩波文庫
芝生端和『図説フランス革命』河出書房新社
加藤雅彦『図説ハプスブルク家』河出書房新社
ゲオルク・シュタット・ミュラー丹後杏一訳『ハプスブルク帝国史』1989
矢田俊隆『ハプスブルク帝国史研究―中欧多民族国家の解体過程――』岩波書店1977
カトリーヌ・クレマン『皇妃エリザベート ハプスブルクの美神』知の再発見65創元社1997
江村洋『ハプスブルク家の女たち』講談社現代新書
国立新美術館『Theハプスブルク展図録』2009
中野京子『ハプスブルク家12の物語』2009
饗庭孝男『ヨーロッパとは何か』
大久保正雄2016年8月5日

2016年7月22日 (金)

ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花

Margarita_teresa_de_espaa_01Las_meninas_by_diego_velzquezVelzquez_venus大久保正雄『地中海紀行』58回ハプスブルク帝国
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花

太陽の沈まぬ帝国、ハプスブルクは、富と権力で、ヨーロッパ最強の王国を構築した。
だが、この世で最も美しいものは、金と地位と権力で手に入れることはできない。
金と権力で手に入れることはできないものとは何か。
この世で至高の価値とは何か。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

王女マルガリータ・テレサは、15歳で結婚し、22歳で死んだ。
ほんとうの幸いとはなにか。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より

灼熱の夏、ハプスブルク帝国の夢の跡を旅した。ハプスブルク帝国の3つの都。ウィーン、ブダペスト、プラハ。ベルリン、ポツダム、ドレスデン、ザルツカンマーグート。
早春のイベリア半島、スペイン、ハプスブルク家の夢の廃墟を辿る旅に出た。
ドイツ王ルドルフ1世ルドルフ・フォン・ハプスブルク(1218~1291)から、オーストリア皇帝カール1世(1916-18)まで、650年間、ヨーロッパ最強の一族。
マクシミリアン1世は、ヨーロッパ最強の富と権力を、結婚政策で構築する。
一族内の血族政策により、ハプスブルクの醜い容貌、病的資質、ハプスブルク一族に濃縮化する。
ハプスブルク家は、富と権力、領土と地位を、最優先し、権力の集中を図る。ヨーロッパ最強の権力の一つを構築した。

■戦いは他のものに任せよ、汝幸いなるオーストリアよ、結婚せよ。
マールスが他[のものに与えし国]は、ウェヌスによりて授けられん。
Bella gerant alii, tu felix Austria nube.
Nam quae Mars aliis, dat tibi diva Venus

■【ハプスブルク家発祥の地】
スイス、ハビヒツブルク(Habichtsburg 鷹の城)に古城が現存する。
【ルドルフ・フォン・ハプスブルク(1218~1291、在位73-81)】辺境伯。
ドイツ王ルドルフ1世(在位73-81)。ハプスブルク辺境伯ルドルフ1世、痩せた長身、大きな「鷲鼻」と突き出た顎と下唇。
【ハプスブルク家の醜悪な容貌】
顎が突出する異様な容貌。下顎前突症(mandibular prognathism、Prognathism)。
【神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(在位1493~1519)】の結婚政策により、領土拡大。ヨーロッパ最強の富と権力を、結婚政策で構築する。

■ハプスブルク帝国年代記
【スペイン・ハプスブルク家】
マクシミリアン1世の子フィリップ美公(1478-1506)、カスティーリア・アラゴン王女ファナ(1479-1555没)と結婚。
【カール5世=カルロス1世】
カール5世=カルロス1世(1500-88)、太陽の沈むことなき帝国
カール5世=カルロス1世。スペイン、シチリア、ネーデルランド、新大陸を領有。
カルロス1世、フェリペ2世(1506-98) にスペイン、弟フェルディナント1世(1503-64)にオーストリアを継承。
【フェリペ2世】
太陽の沈むことなき帝国
フェリペ2世、スペイン絶対王政の最盛期を築く。
1571年、レパントの海戦で勝利、ポルトガル併合。
カトリック政策で、オランダ独立を招く。
1588年、無敵艦隊がイギリスに敗れる。国力衰退。
フェリペ2世、絵画コレクション始める。ボッシュを蒐集。
イギリス女王メアリと結婚、支配を狙う。
★フェリペ2世、絵画コレクション。ボッシュ「快楽の園」1510「愚者の治療 いかさま師」1490「7つの大罪」1480「乾草の車」1500。スペインのフェリペ2世はボスの絵画の熱烈な愛好者であり、マドリードに傑作の多くがある(現在10点がプラド美術館蔵)。
★「地獄と怪奇生物の画家」ボッシュは、スペイン・ハプスブルク家のお気に入りだった。フィリップ美公、マルガレーテ女公(フィリップ美公の妹) 、フェリペ2世が多くの作品を所有する。
ボッシュは「地獄と怪物の画家」と形容される。彼の画風は独立して確立されたもので、いわゆる師匠に相当する人物を見つけることは出来ない。ハプスブルク家に見出され、ネーデルラント総督フィリップ美公、スペイン王フェリペ2世はボッシュの絵を好んだ。
『最後の審判』はネーデルラント総督フィリップ美公に、『聖アントニウスの試練』はネーデルラント総督マルガレーテ(マルグリット)女公(フィリップ美公の妹)が所有していた。スペイン王フェリペ2世が多くの作品を所有する。ボッシュ「聖アントニウスの誘惑」は、リスボンにある。

【フェリペ4世】フェリペ4世(1621-65)、太陽の沈むことなき帝国を没落させる。
フェリペ4世、ベラスケス(1599-1660)を宮廷画家に登用。
1623年、ヴェラスケス、24歳の若さで国王フェリペ4世の王直属の画家。
1648年から1651年まで、ヴェラスケス(1599-1660)、2度目のイタリア旅行。ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼを購入。
1648年から1651年、ヴェラスケス、「ヴィラ・メディチの庭園」「ヴィーナスの化粧」(「鏡のヴィーナス」) 「教皇インノケンティウス10世」を制作。
ヴェラスケス、イタリアの愛人をモデルに「ヴィーナスの化粧」(1648~1651年)を描く。
1656年『ラス・メニーナス』ヴェラスケス作。5歳の王女マルガリータ。
1660年、ヴェラスケス、61歳で急死。
フェリペ4世の娘、王女マルガリータ、レオポルト1世と結婚。
王女マルガリータ、14歳で結婚、21歳の若さで亡くなる。
*マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ(Margarita Teresa de España,1651年7月12日、マドリード - 1673年3月12日、ウィーン)
フェリペ4世妃マリアナの子、カルロス2世(1665-1700)、生まれた時から死に瀕する。38歳で死す。
1700【スペイン・ハプスブルク家滅亡】カルロス2世、38歳で死す。
1701年—1713年、スペイン継承戦争

【オーストリア・ハプスブルク家】
1740年、カール6世、死去。男子がいないため相続問題が発生。
1740年—1748年、オーストリア継承戦争。
【マリア・テレジア】
マリア・テレジア(1741-1780)、帝国を相続。
マリア・テレジア(1741-1780)は、黄金時代のハプスブルク帝国を指揮した。
16人の子を産み、政略結婚を展開した。
末娘のマリー・アントワネットは、フランス王ルイ16世に嫁がせた。
マリア・テレジアの子、ヨーゼフ2世は、ヴォルテールを尊敬していた。
18世紀、黄金時代のハプスブルク帝国はバロック文化が栄えた。
1762年秋、モーツアルトは、ウィーンに行き、マリア・テレジアに、シェーンブルン宮殿に招かれた。モーツアルトは、マリー・アントワネットに「僕のお嫁さんにしてあげる」と言った。
*神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同)、ベーメン女王(在位1743年 - 1780年)。
【マリー・アントワネット】1755-1793
1770年、マリー・アントワネット、フランス王太子(ルイ16世)と、結婚。
1789年、フランス革命、勃発。
1793年、マリー・アントワネット処刑。
【エリザベート】1837-1898
バイエルン貴族エリザベート、皇帝に一目惚れされる。
1854年、フランツ・ヨーゼフ1世と、エリザベート、結婚。
1889年、フランツ・ヨーゼフの嫡男、ルドルフ、心中による死。
1898年、エリザベート、暗殺されて死す。
1916年、フランツ・ヨーゼフ1世、死去。
【ルートヴィヒ2世】バイエルン王
ルートヴィヒ2世(Ludwig II, 1845年8月25日 - 1886年6月13日)
第4代バイエルン国王。ノイシュバンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)、リンダーホフ城、夢の城を次々と建築する。41歳の時、シュタルンベルク湖で、謎の溺死を遂げた。
オーストリア皇后エリーザベトとバイエルン王ルートヴィッヒ2世は、夢みる二人であった。
バイエルン王ルートヴィッヒ2世は、ワグナーの音楽『ローエングリン』と建築を好む藝術家王であった。
1918年、オーストリア皇帝カール1世、死す。ハプスブルク帝国、滅亡。
★Velasquez, Margarita白衣の王女マルガリータ
★Velasquez, Las Meninas
★Velasquez, Venus
★【参考文献】
ゲオルク・シュタット・ミュラー丹後杏一訳『ハプスブルク帝国史』1989
矢田俊隆『ハプスブルク帝国史研究―中欧多民族国家の解体過程――』岩波書店1977
カトリーヌ・クレマン『皇妃エリザベート ハプスブルクの美神』知の再発見65創元社1997
江村洋『ハプスブルク家の女たち』講談社現代新書
木村泰司『美女たちの西洋美術史 肖像画は語る』光文社新書2010年
ホセ・アントニオ・ウルビノ『プラド美術館』みすず書房、Scala1990
『ウィーン美術史美術館』みすず書房、Scala 
菊池良生『ハプスブルク家』
菊池良生『傭兵の二千年史』講談社
加藤雅彦『ハプスブルク帝国』河出書房新社
中丸明『ハプスブルク一千年』新潮社
桐生操『ハプスブルク家の悲劇』1995
国立新美術館『Theハプスブルク展図録』2009
中野京子『ハプスブルク家12の物語』2009
倉田稔『ハプスブルク歴史物語』日本放送出版協会1994
倉田稔『ハプスブルク文化紀行』日本放送出版協会2006
ヴィスコンティ『ルートヴィヒ 神々の黄昏』1972
Luchino Visconti, Ludwig 1972
大久保正雄Copyright 2016年7月21日

2016年6月 5日 (日)

スペイン・ハプスブルグ家、太陽の沈まぬ帝国、黄金の世紀

Las_meninas_by_diego_velzquez1656Las_meninas_by_diego_velzquezMargarita_teresa_de_espaa_01_2スペイン・ハプスブルグ家、太陽の沈まぬ帝国、黄金の世紀
大久保正雄『地中海紀行』第13回

天と地の間に、絶對の沈黙がある。
風が吹き静寂が支配する丘。荒涼たるスペインの大地。
輝く蒼空が果てしなくつづく、乾いた大地(La Mancha)に
対峙する、カスティーリアの荒野。
碧空にトレドの雲が咆哮する。愛と復讐の大地、カスティーリア。
荒野を旅する者は、方向を見失わず、生きる意志を持ちつづける精神力が必要である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より

【スペイン・ハプスブルグ家】
フィリップ美公フェリペ1世(カスティーリャ王、フアナと共同統治:1504年 - 1506年)
カルロス1世(=カール5世)(1516年 - 1556年)神聖ローマ皇帝(1519年 - 1556年)
フェリペ2世(1556年 - 1598年)ポルトガル王(1580年 - 1598年)
フェリペ3世(1598年 - 1621年)ポルトガル王
フェリペ4世(1621年 - 1665年)ポルトガル王(1621年 - 1640年)
カルロス2世(1665年 - 1700年)
*ゲオルク・シュタットミュラー『ハプスブルク帝国史』P22

太陽の沈まぬ帝国
マクシミリアン1世が1508年にローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始める。その後、婚姻関係からハプスブルク家は、ブルゴーニュ領ネーデルラント、ブルゴーニュ自由伯領(フランシュ=コンテ)、スペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを継承、皇帝カール5世(=カルロス1世)の下でヨーロッパの一大帝国を現出させた。1547年、カール5世の領土は「日の沈まぬ」大帝国となる。

狂女フアナ
フアナ(1479-1555)は、カトリック両王の三女である。1496年ブルゴーニュのフィリップ美公と結婚するためアントワープに赴く。フアナは、人生を謳歌し生きている瞬間を樂しむ享樂的なフランドルで、遊びに明け暮れ贅沢三昧の日々を送る、フィリップ美公の虜となったが、フィリップは妃が煩わしくなる。獨占欲が強いフアナは、夫の浮気に嫉妬し理性を失い狂気に陥り始めた。フアナは、長女エレオノーレ、ついで1500年に長男カルロスを生む。さらに次男フェルナンドをはじめ、6人の子を次々と出産する。
1504年カスティーリア女王イサベルが53歳で死去、三女の王女フアナにカスティーリアの王権が移る。王位継承者の一族が次々と死に、フアナだけが生き殘ったためである。フィリップはフアナを伴いスペインに渡るが、1506年9月ブルゴーニュ公は28歳でブルゴスにおいて不慮の死を遂げる。宮廷はフィリップの遺體を埋葬しようとするが、フアナは柩を渡すことを拒んだ。夜になると棺桶の蓋を開け、冷たい遺骸に話しかける。彼女はフィリップの遺體が入った棺を馬車に積み、スペインの町から町へ、山を越え谿を越え、カスティーリアの野をあてどなく彷徨い歩いた。
 フアナは26歳にして狂気に囚われ、父アラゴン王フェルナンド2世によって1509年以後トルデシーリャス城に幽閉され、城の中で死ぬ。だが1555年に75歳で息絶えるまで、城に閉じ籠められたまま46年間、カスティーリア・アラゴン女王として君臨し続けた。

カルロス1世(=カール5世) 太陽の沈まぬ帝國
 カルロス(1500-1558)は、ハプスブルク家のブルゴーニュ公フィリップと王女フアナの子としてフランドルの古都ガンで生まれ、ブルゴーニュの優雅な宮廷文化の中で育まれた。父が夭折し、母が発狂したため、カルロスは1516年16歳の時ブリュッセルでカスティーリア・アラゴン王に即位。1517年カルロス1世としてスペインに旅立つ。
 1519年、祖父の皇帝マクシミリアン1世の死後行なわれた皇帝選擧で、カルロスはフッガー家の資金援助の下、對立候補のフランス王フランソワ1世を破って皇帝に選ばれ、神聖ローマ皇帝カール5世となる。この時代、ドイツではルターの宗教改革運動が展開、カトリックの皇帝理念から激しい異端彈圧を圖る。パヴィアの戰い、イタリア戰爭、シュマルカンデン戰爭、ザクセンの反亂、戰いに明け戰いに暮れ、經済的破綻を遺す。戰爭と外交交渉のために、広大な支配領域を「旅する皇帝」であった。
 カルロス1世の時代、ハプスブルクは最大の領土を支配、ハプスブルク・スペイン帝國を築き上げる。カルロスは自らの國を「太陽の没することなき帝國」と呼んだ。
下顎前突症(Prognathism)
両親の血を引いて生まれつきアゴの筋力が弱く、下顎前突症*であり、また幼少期の病気により鼻腔が閉塞気味であった。多くの肖像画でも見られる通り、一見して非常に下あごが突出してる。
*ゲオルク・シュタットミュラー『ハプスブルク帝国史』P18

フェリペ2世 黄金の世紀 Felipe II de España
フェリペ2世(1527-98)は、神聖ローマ帝國皇帝をかねた父王カルロス1世から、スペイン、インディアス、ナポリ、シチリア、サルデーニァ、ミラノ、フランドルを継承。1581年母がポルトガル王家であることからポルトガルを継承、未曾有の領土を領有するに到る。
 スペインを中心とするハプスブルク帝國に反發するフランス、西地中海を脅かすオスマン・トルコ帝國、宗教改革による西欧の分裂。カルロス1世が遺した紛爭はフェリーペの時代に深刻の度を深め、また異端彈圧は暴虐を極める。カスティーリア王國の犠牲とインディアスから齎される銀を支えにフェリーペは帝國主義的な外交政策を展開する。スペイン絶對主義に對するネーデルランドの反亂に始まる80年戰爭(1568-1648)を戰い、レパントの海戰(Batalla naval de Lepanto)で不敗のオスマン・トルコ艦隊を破り、1588年無敵艦隊(Armada Invencible)によるイギリス侵攻を決意するがドーバー海峡の戰いで予期せぬ敗北を味わう。多彩な對外政策は多重債務を生む。
アメリカ大陸から齎された莫大な黄金と銀は、カディスの港で陸揚げされず、他の船に載せかえられて、そのままヨーロッパ各地に転送された。負債返済のためである。
フェリーペ2世はスペイン帝國の黄金世紀の頂点に立つ。だがその經済的基盤は初期からすでに破綻していた。即位の翌年から3度にわたり破産宣言を行ない、債務支払いを停止。1557年第1回破産宣言、1575年第2回破産宣言、1596年第3回破産宣言。父王から引き継いだ借財の5倍の負債を息子フェリーペ3世に殘す。  カルロス1世、フェリーペ2世の帝國政策とその負債は、カスティーリアの經済基盤を破壊し貧困を招き、殘忍な異端彈圧の果て、民衆の怨嗟の聲は国中に溢れた。
★参考文献
ゲオルク・シュタットミュラー『ハプスブルク帝国史』刀水書房1989
江村洋『ハプスブルク家』講談社現代新書1990
江村洋『ハプスブルク家の女たち』講談社現代新書1993
ユネスコ世界遺産センター編『ユネスコ世界遺産10 南ヨーロッパ』講談社1996
地中海学会編『地中海歴史散歩1スペイン』河出書房新社1997
川成洋『図説スペインの歴史』河出書房新社1993
池上岑夫・牛島信明・神吉敬三監修『スペイン・ポルトガルを知る事典』平凡社1992
★Diego Velazquez「Las Meninas」1656
★Diego Velazquez「Margalita Teresa」1656Wien
★「彷徨う狂女フアナ」1877、フランシスコ・プラディーリャ作、プラド美術館
★「フェリペ2世」ティツィアーノ
COPYRIGHT大久保正雄 2001.06.27
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