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ハプスブルク

2016年9月16日 (金)

ハプスブルク帝国、ヴェラスケス、黄昏の光芒

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第98回
ハプスブルク帝国、ヴェラスケス、黄昏の光芒

はちみつ色の夕暮れ、黄昏の丘、黄昏の森を歩き、迷宮図書館に行く。糸杉の丘、知の神殿がある。美しい魂は、光輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

ヴェラスケスをめぐる人々。フェリペ4世、マリアナ王妃、ルーベンス、王女マルガリータ。イタリアの愛人。『鏡のヴィーナス』1551、ティツィアーノ『ウルビーノのヴィーナス』。
旅したイタリアは、ヴェラスケスを魅了し続ける。ヴェラスケスは、スペイン宮廷とイタリアの夢の国を揺れ動く。
『白衣の王女マルガリータ』『ラス・メニーナス』1556
画いて、4年後、61歳で死す。
沈みゆく太陽、ハプスブルク帝国、ヴェラスケス、栄光の光芒。朽ちていくスペイン。

【ディエゴ・ヴェラスケス】Diego Velázquez (1599-1660)
1623年、24歳の若さで国王フェリペ4世の王直属の画家。33年間の宮廷画家、官僚生活、嫌悪していた。61歳で死ぬ。心筋梗塞。
1629年、1648年、2回のイタリア旅行。

【フェリペ4世】Felipe IV, 1605 在位1621—65
【ルーベンス】Peter Paul Rubens 1577—1640 フランドルのバロック画家、外交官。
1628年、外交官ルーベンス、マドリッド訪問。美術愛好家フェリペ4世により、宮廷内にアトリエを与えられる。ヴェラスケス、ルーベンスに教えを受ける。
ヴェラスケス、1628年ルーベンスに「ヴェネツィア派ティツィアーノ」の偉大さを教えられる。
【スペイン・ハプスブルク家】フェリペ4世、絵画コレクション。ヴェラスケス、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ
【ハプスブルク家】ヴェラスケス、ハプスブルク家の醜い容貌を偽装する。「狩猟服姿のフェリペ4世」1634
【ハプスブルク家の異様な容貌】鷲鼻、顎が突出する醜悪な、下顎前突症Proganathism。ヴェラスケス、王家の容貌を偽装して粉飾。
1648年から1651年【イタリア旅行】ヴェラスケス、1648年から1651年までイタリア旅行。ローマ滞在、「ヴィラ・メディチの庭園」描く。
ヴェラスケス、イタリアの愛人をモデルに『ヴィーナスの化粧』(『鏡のヴィーナス』)(1647~1651年)を描く。
ティツィアーノ『ウルビーノのヴィーナス』の影響受ける。
【イタリア旅行】ヴェラスケス、2度目のイタリア旅行(1647~1651年)。不自由なスペインに帰国したくなかった。
【ハプスブルク家】ヴェラスケス、イタリア旅行から帰国。5歳の王女マルガリータを描く。最高傑作『ラス・メニーナス』1656
【ハプスブルク家】王女マルガリータ・テレサ・デスパーニャ1651—1673
Margarita Teresa D’Espagna, 1651—1673
王女マルガリータ、14歳で結婚、21歳で死ぬ。ヴェラスケスの死後13年、1673年、死去。

【ハプスブルク家】ヴェラスケス、イタリアの自由な文化を愛し、スペインの階級社会、宗教を嫌悪する。1651年帰国後、死ぬまで『王女マルガリータ』を描く。
ヴェラスケスは、『王女マルガリータ』を1653年から1660年まで描く。ウィーン美術史美術館に3枚存在する。
【ハプスブルク家】ヴェラスケス、宮廷画家の立場上、虚偽を造形する。ハプスブルク家の下顎前突症(Prognathism)を虚飾で粉飾する。
1652年に、ヴェラスケス、王宮の鍵をすべて預かる王宮配室長、重職に任用され官僚として頂点を極める。
1660年、ヴェラスケス、宮廷官僚として61歳で急死。最高傑作『ラス・メニーナス』制作後4年。
最高傑作『ラス・メニーナス』。原題『王の家族』
フェリぺ4世夫妻の目から見た、ヴェラスケス工房の王の家族と従者の光景。

『狩猟服姿のフェリペ4世』1634
『ヴィラ・メディチの庭園』1647年から1651年
『鏡のヴィーナス』(1647~1651年)
『白衣の王女マルガリータ』1556
『ラス・メニーナス』1556
―――――
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花
https://t.co/T2it2d8Zb1
―――――
★Diego Velázquez,Las Meninas,1556『ラス・メニーナス』
★Diego Velázquez, Margarita Teresa
★Diego Velázquez,
大久保正雄2016年9月16日

2016年8月24日 (水)

ハプスブルク家 皇妃エリザベート、バイエルンの薔薇

Elisabeth_of_austria大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第89回
ハプスブルク家 皇妃エリザベート、バイエルンの薔薇

エリザベート、反抗的な少女。避暑地の皇帝の一目惚れ。運命の悪戯。16歳で結婚。バイエルンの薔薇。オーストリア皇后、ハンガリー王妃。
自由人だった父の気質を受け継ぎ、オーストリア宮廷の厳格を嫌う。生涯に渡り、ウィーンから逃避し続ける。夢想王ルートヴィヒ2世。ともに逃避行をくりかえす夢想家。
旅する皇妃。1898年9月、旅行中、レマン湖のほとりで、60歳で刺殺される。
ヨーロッパ宮廷一の美貌、細い身体。
過ぎたる美貌は耐え難いものである。*
美しいがゆえの耐え難い苦しみ。

美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
はちみつ色の夕暮れ、黄昏の丘、黄昏の森を歩き、迷宮図書館に行く。糸杉の丘、知恵の神殿。美しい魂は、光輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【オーストリア・ハプスブルク家】
カール6世Karl VI , 1685年10月1日 - 1740年10月20日)
神聖ローマ皇帝(在位1711年 -1740年)
1740年、カール6世、死去。男子がいないため相続問題が発生。
1740年—1748年、オーストリア継承戦争。
【マリア・テレジア】Maria Theresia,
マリア・テレジア(1741-1780)、帝国を相続。
マリア・テレジア(1741-1780)は、黄金時代のハプスブルク帝国を指揮した。
16人の子を産み、政略結婚を展開した。
末娘のマリー・アントワネットは、フランス王ルイ16世に嫁がせた。
マリア・テレジアの子、ヨーゼフ2世は、ヴォルテールを尊敬していた。
18世紀、黄金時代のハプスブルク帝国はバロック文化が栄えた。
1762年秋、モーツアルトは、ウィーンに行き、マリア・テレジアに、シェーンブルン宮殿に招かれた。モーツアルトは、マリー・アントワネットに「僕のお嫁さんにしてあげる」と言った。
*神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同)、ベーメン女王(在位1743年 - 1780年)。
【マリー・アントワネット】Marie Antoinette,1755-1793
1770年、マリー・アントワネット、フランス王太子(ルイ16世)と、結婚。
1789年、フランス革命、勃発。
1793年、マリー・アントワネット処刑。

【ゾフィー大公妃】Sophie Friederike Dorothea Wilhelmine von Bayern,
1805年1月27日 ミュンヘン-1872年5月28日 ウィーン
フランツ・ヨーゼフ1世を産む。
フランツ・ヨーゼフ・カール(1830年—1916年)オーストリア皇帝

【エリザベート】Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach, 1837-1898
1837年12月24日 - 1898年9月10日
エリーザベトは、美貌で、皇后だが、悲劇的な人生を生きた。オーストリア最後の皇后。後期は、旅に明け旅に暮れ、地中海を放浪した。シシーと呼ばれ国民から愛された。
ヨーロッパ宮廷一といわれた美貌、身長172cm背が高く、ウエスト50センチ、体重50キロという容姿。驚異の体形の持ち主。
Franz Xaver Winterhalter (1805–1873),Elizsabeth,1865
ジャン・コクトー『双頭の鷲』に描かれた。
バイエルン貴族エリザベート、皇帝に一目惚れされる。
1853年8月16日、ティロルの山岳地帯で、フランツ・ヨーゼフ1世とヘレーネ、婚約のため、見合い。運命を変えた姉の見合い。
皇帝、エリザベートに一目惚れ。
1854年、フランツ・ヨーゼフ1世と、エリザベート、16歳で結婚。
★生涯に渡りさまざまな口実を見つけて、ウィーンから逃避し続ける。
1889年、フランツ・ヨーゼフの嫡男、ルドルフ、心中による死。
1898年9月10日、旅行中、ジュネーヴ・レマン湖のほとりで、60歳で刺殺される。

【ルートヴィヒ2世】(Ludwig II, 1845年8月25日 - 1886年6月13日)
第4代バイエルン王。ノイシュバンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)、リンダーホフ城、夢の城を次々と建築する。
バイエルン王ルートヴィッヒ2世は、ワグナーの音楽『ローエングリン』と建築を好む藝術家王であった。若い頃は美貌に恵まれ、多くの画家らによって描かれた。オーストリア皇后エリーザベトとバイエルン王ルートヴィッヒ2世は、夢みる二人であった。
1878年リンダーホフ城
1886年、ノイシュバンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)は、ワグナーの音楽『ローエングリン』を具体化した。
1886年、ルートヴィッヒ2世、41歳の時、シュタルンベルク湖で、謎の溺死を遂げた。
ヴィスコンティ『ルートヴィヒ 神々の黄昏』に美しく描かれる。

1916年、フランツ・ヨーゼフ1世、死去。
1918年、オーストリア皇帝カール1世、死す。ハプスブルク帝国、滅亡。
―――――
大久保正雄『地中海紀行』ハプスブルク帝国
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花
https://t.co/T2it2d8Zb1
ハプスブルク家 マリーアントワネット 革命に散る
https://t.co/LsGpsWXdsT
★Winterhalter,Elisabeth,1865
★Velasquez, Margarita白衣の王女マルガリータ,Velasquez, Las Meninas
★【参考文献】
ゲオルク・シュタット・ミュラー丹後杏一訳『ハプスブルク帝国史』1989
矢田俊隆『ハプスブルク帝国史研究―中欧多民族国家の解体過程――』岩波書店1977
カトリーヌ・クレマン『皇妃エリザベート ハプスブルクの美神』知の再発見65創元社1997
江村洋『ハプスブルク家の女たち』講談社現代新書
木村泰司『美女たちの西洋美術史 肖像画は語る』光文社新書2010年
ホセ・アントニオ・ウルビノ『プラド美術館』みすず書房、Scala1990
『ウィーン美術史美術館』みすず書房、Scala 
菊池良生『ハプスブルク家』
菊池良生『ハプスブルク家の光芒』ちくま文庫
菊池良生『傭兵の二千年史』講談社
加藤雅彦『図解 ハプスブルク帝国』河出書房新社
中丸明『ハプスブルク一千年』新潮社
桐生操『ハプスブルク家の悲劇』1995
国立新美術館『Theハプスブルク展図録』2009
中野京子『ハプスブルク家12の物語』2009
倉田稔『ハプスブルク歴史物語』日本放送出版協会1994
倉田稔『ハプスブルク文化紀行』日本放送出版協会2006
ヴィスコンティ『ルートヴィヒ 神々の黄昏』1972
Luchino Visconti, Ludwig 1972
大久保正雄2016年8月23日

2016年8月 6日 (土)

ハプスブルク家 マリー・アントワネット 革命に散る

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大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第73回
ハプスブルク家 マリー・アントワネット 革命に散る

黄昏の丘、森を歩いて、迷宮図書館に行く。時の迷宮の扉。砂漠の薔薇色の神殿。美しい女神が舞い降りる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

太陽の沈まぬ帝国、ハプスブルクは、富と権力で、ヨーロッパ最強の王国を構築した。
ハプスブルク家は、15世紀、マクシミリアン1世以来、政略結婚をくり広げヨーロッパ最大の権力を築いた。財産と地位と権力を恣にした。
ハプスブルク帝国の権勢の成功の陰で、散った儚い命。

マリー・アントワネットは、マリア・テレジアの第15子。
政略結婚で、14歳の時、フランス王ルイ16世に嫁がせられる。フランス王妃となる。しかし、フランス革命勃発。37歳で、断頭台の露と消える。
マリー・アントワネットは、本当に愛したのはだれか。
マリーの死を悲しんだのは、スウェーデン貴族フェルセン伯爵だけだった。

「私は生きています。それは奇跡なのです」マリー・アントワネット1792年
ヨーロッパ最大の権力、ハプスブルク帝国。最も豊かで、自由なき人々、ハプスブルク家。
愛と美を手に入れることができるのは、だれか。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【オーストリア・ハプスブルク家】
神聖ローマ皇帝
【カール6世】Karl 6
1740年、カール6世、死去。男子がいないため相続問題が発生。
1740年—1748年、オーストリア継承戦争。
【マリア・テレジア】Maria Theresia
1717-1780
マリア・テレジア(1741-1780)、帝国を相続。
マリア・テレジア(1741-1780)は、黄金時代のハプスブルク帝国を指揮した。
マリア・テレジア、16人の子を産み、政略結婚を展開した。
末娘のマリー・アントワネットは、フランス王ルイ16世に嫁がせた。
マリア・テレジアの子、ヨーゼフ2世は、ヴォルテールを尊敬していた。
18世紀、黄金時代のハプスブルク帝国はバロック文化が栄えた。
1762年秋、モーツアルトは、ウィーンに行き、マリア・テレジアに、シェーンブルン宮殿に招かれた。モーツアルトは、マリー・アントワネットに「僕のお嫁さんにしてあげる」と言った。
*神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同)、ベーメン女王(在位1743年 - 1780年)。

【マリー・アントワネット】Marie Antoinette
1755-1793
1555年、マリー・アントワネット、マリア・テレジアの15番目の子として誕生。
1770年、マリー・アントワネット、フランス王太子(ルイ16世)と、結婚。14歳。
1778年、マリー・アントワネット、スウェーデン貴族フェルセン伯爵と恋に落ちる。
1783年、ブレゲの顧客の一人であったフランス王妃マリー・アントワネットはブレゲに最高の時計を作るように注文した。マリー・アントワネットは処刑されたが、開発は続けられた。ブレゲの死後も弟子達がその仕事を受け継ぎ、1827年になってこの時計は完成した。ブレゲNo.160「マリー・アントワネット」Breguet(Marie Antoinette )金色の懐中時計。
1786年、【マリー・アントワネット、首飾り事件】
ジャンヌ・バロア・ド・ラモット伯爵夫人が首謀者となり企て王家をも巻き込んだ巨額詐欺事件。先王ルイ15世が愛人デュ・バリー夫人のために作らせたまま契約が立ち消えになっていた160万リーブルのダイヤモンド。宝石商によってマリー・アントワネットのもとに持ち込まれるが、あまりに高額を理由にマリーに断られた。
1785年1月、それを知ったジャンヌは、ロアンにマリー・アントワネットの要望として、この首飾りの代理購入を持ちかけた。ロアンは首飾りを代理購入。
1789年、フランス革命、勃発。
     7月、バスチーユ監獄襲撃。
     8月、人権宣言、採択。
1791年、6月、パリ脱出、ヴァレンヌで連れ戻される。
1792年、4月、フランスは、オーストリアに宣戦布告。王妃マリー・アントワネット、軍の情報を、オーストリアに通報。6月、民衆、チュイルリー宮殿、襲撃、占拠。
1793年、1月21日、ルイ16世、処刑。
    10月16日、マリー・アントワネット処刑。37歳。
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花
https://t.co/T2it2d8Zb1

★Maria Theresia 14歳のマリア・テレジア
★Marie Antoinette
★ソフィア・コッポラ映画『マリー・アントワネット』
Sophia Coppola, Marie Antoinette,2006

★参考文献
エヴリーヌ・ルヴェチ『王妃マリー・アントワネット』知の再発見双書
シュテファン・ツワイク『マリー・アントワネット』岩波文庫
芝生端和『図説フランス革命』河出書房新社
加藤雅彦『図説ハプスブルク家』河出書房新社
ゲオルク・シュタット・ミュラー丹後杏一訳『ハプスブルク帝国史』1989
矢田俊隆『ハプスブルク帝国史研究―中欧多民族国家の解体過程――』岩波書店1977
カトリーヌ・クレマン『皇妃エリザベート ハプスブルクの美神』知の再発見65創元社1997
江村洋『ハプスブルク家の女たち』講談社現代新書
国立新美術館『Theハプスブルク展図録』2009
中野京子『ハプスブルク家12の物語』2009
饗庭孝男『ヨーロッパとは何か』
大久保正雄2016年8月5日

2016年7月22日 (金)

ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花

Margarita_teresa_de_espaa_01Las_meninas_by_diego_velzquezVelzquez_venus大久保正雄『地中海紀行』58回ハプスブルク帝国
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花

太陽の沈まぬ帝国、ハプスブルクは、富と権力で、ヨーロッパ最強の王国を構築した。
だが、この世で最も美しいものは、金と地位と権力で手に入れることはできない。
金と権力で手に入れることはできないものとは何か。
この世で至高の価値とは何か。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

王女マルガリータ・テレサは、15歳で結婚し、22歳で死んだ。
ほんとうの幸いとはなにか。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より

灼熱の夏、ハプスブルク帝国の夢の跡を旅した。ハプスブルク帝国の3つの都。ウィーン、ブダペスト、プラハ。ベルリン、ポツダム、ドレスデン、ザルツカンマーグート。
早春のイベリア半島、スペイン、ハプスブルク家の夢の廃墟を辿る旅に出た。
ドイツ王ルドルフ1世ルドルフ・フォン・ハプスブルク(1218~1291)から、オーストリア皇帝カール1世(1916-18)まで、650年間、ヨーロッパ最強の一族。
マクシミリアン1世は、ヨーロッパ最強の富と権力を、結婚政策で構築する。
一族内の血族政策により、ハプスブルクの醜い容貌、病的資質、ハプスブルク一族に濃縮化する。
ハプスブルク家は、富と権力、領土と地位を、最優先し、権力の集中を図る。ヨーロッパ最強の権力の一つを構築した。

■戦いは他のものに任せよ、汝幸いなるオーストリアよ、結婚せよ。
マールスが他[のものに与えし国]は、ウェヌスによりて授けられん。
Bella gerant alii, tu felix Austria nube.
Nam quae Mars aliis, dat tibi diva Venus

■【ハプスブルク家発祥の地】
スイス、ハビヒツブルク(Habichtsburg 鷹の城)に古城が現存する。
【ルドルフ・フォン・ハプスブルク(1218~1291、在位73-81)】辺境伯。
ドイツ王ルドルフ1世(在位73-81)。ハプスブルク辺境伯ルドルフ1世、痩せた長身、大きな「鷲鼻」と突き出た顎と下唇。
【ハプスブルク家の醜悪な容貌】
顎が突出する異様な容貌。下顎前突症(mandibular prognathism、Prognathism)。
【神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(在位1493~1519)】の結婚政策により、領土拡大。ヨーロッパ最強の富と権力を、結婚政策で構築する。

■ハプスブルク帝国年代記
【スペイン・ハプスブルク家】
マクシミリアン1世の子フィリップ美公(1478-1506)、カスティーリア・アラゴン王女ファナ(1479-1555没)と結婚。
【カール5世=カルロス1世】
カール5世=カルロス1世(1500-88)、太陽の沈むことなき帝国
カール5世=カルロス1世。スペイン、シチリア、ネーデルランド、新大陸を領有。
カルロス1世、フェリペ2世(1506-98) にスペイン、弟フェルディナント1世(1503-64)にオーストリアを継承。
【フェリペ2世】
太陽の沈むことなき帝国
フェリペ2世、スペイン絶対王政の最盛期を築く。
1571年、レパントの海戦で勝利、ポルトガル併合。
カトリック政策で、オランダ独立を招く。
1588年、無敵艦隊がイギリスに敗れる。国力衰退。
フェリペ2世、絵画コレクション始める。ボッシュを蒐集。
イギリス女王メアリと結婚、支配を狙う。
★フェリペ2世、絵画コレクション。ボッシュ「快楽の園」1510「愚者の治療 いかさま師」1490「7つの大罪」1480「乾草の車」1500。スペインのフェリペ2世はボスの絵画の熱烈な愛好者であり、マドリードに傑作の多くがある(現在10点がプラド美術館蔵)。
★「地獄と怪奇生物の画家」ボッシュは、スペイン・ハプスブルク家のお気に入りだった。フィリップ美公、マルガレーテ女公(フィリップ美公の妹) 、フェリペ2世が多くの作品を所有する。
ボッシュは「地獄と怪物の画家」と形容される。彼の画風は独立して確立されたもので、いわゆる師匠に相当する人物を見つけることは出来ない。ハプスブルク家に見出され、ネーデルラント総督フィリップ美公、スペイン王フェリペ2世はボッシュの絵を好んだ。
『最後の審判』はネーデルラント総督フィリップ美公に、『聖アントニウスの試練』はネーデルラント総督マルガレーテ(マルグリット)女公(フィリップ美公の妹)が所有していた。スペイン王フェリペ2世が多くの作品を所有する。ボッシュ「聖アントニウスの誘惑」は、リスボンにある。

【フェリペ4世】フェリペ4世(1621-65)、太陽の沈むことなき帝国を没落させる。
フェリペ4世、ベラスケス(1599-1660)を宮廷画家に登用。
1623年、ヴェラスケス、24歳の若さで国王フェリペ4世の王直属の画家。
1648年から1651年まで、ヴェラスケス(1599-1660)、2度目のイタリア旅行。ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼを購入。
1648年から1651年、ヴェラスケス、「ヴィラ・メディチの庭園」「ヴィーナスの化粧」(「鏡のヴィーナス」) 「教皇インノケンティウス10世」を制作。
ヴェラスケス、イタリアの愛人をモデルに「ヴィーナスの化粧」(1648~1651年)を描く。
1656年『ラス・メニーナス』ヴェラスケス作。5歳の王女マルガリータ。
1660年、ヴェラスケス、61歳で急死。
フェリペ4世の娘、王女マルガリータ、レオポルト1世と結婚。
王女マルガリータ、14歳で結婚、21歳の若さで亡くなる。
*マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ(Margarita Teresa de España,1651年7月12日、マドリード - 1673年3月12日、ウィーン)
フェリペ4世妃マリアナの子、カルロス2世(1665-1700)、生まれた時から死に瀕する。38歳で死す。
1700【スペイン・ハプスブルク家滅亡】カルロス2世、38歳で死す。
1701年—1713年、スペイン継承戦争

【オーストリア・ハプスブルク家】
1740年、カール6世、死去。男子がいないため相続問題が発生。
1740年—1748年、オーストリア継承戦争。
【マリア・テレジア】
マリア・テレジア(1741-1780)、帝国を相続。
マリア・テレジア(1741-1780)は、黄金時代のハプスブルク帝国を指揮した。
16人の子を産み、政略結婚を展開した。
末娘のマリー・アントワネットは、フランス王ルイ16世に嫁がせた。
マリア・テレジアの子、ヨーゼフ2世は、ヴォルテールを尊敬していた。
18世紀、黄金時代のハプスブルク帝国はバロック文化が栄えた。
1762年秋、モーツアルトは、ウィーンに行き、マリア・テレジアに、シェーンブルン宮殿に招かれた。モーツアルトは、マリー・アントワネットに「僕のお嫁さんにしてあげる」と言った。
*神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同)、ベーメン女王(在位1743年 - 1780年)。
【マリー・アントワネット】1755-1793
1770年、マリー・アントワネット、フランス王太子(ルイ16世)と、結婚。
1789年、フランス革命、勃発。
1793年、マリー・アントワネット処刑。
【エリザベート】1837-1898
バイエルン貴族エリザベート、皇帝に一目惚れされる。
1854年、フランツ・ヨーゼフ1世と、エリザベート、結婚。
1889年、フランツ・ヨーゼフの嫡男、ルドルフ、心中による死。
1898年、エリザベート、暗殺されて死す。
1916年、フランツ・ヨーゼフ1世、死去。
【ルートヴィヒ2世】バイエルン王
ルートヴィヒ2世(Ludwig II, 1845年8月25日 - 1886年6月13日)
第4代バイエルン国王。ノイシュバンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)、リンダーホフ城、夢の城を次々と建築する。41歳の時、シュタルンベルク湖で、謎の溺死を遂げた。
オーストリア皇后エリーザベトとバイエルン王ルートヴィッヒ2世は、夢みる二人であった。
バイエルン王ルートヴィッヒ2世は、ワグナーの音楽『ローエングリン』と建築を好む藝術家王であった。
1918年、オーストリア皇帝カール1世、死す。ハプスブルク帝国、滅亡。
★Velasquez, Margarita白衣の王女マルガリータ
★Velasquez, Las Meninas
★Velasquez, Venus
★【参考文献】
ゲオルク・シュタット・ミュラー丹後杏一訳『ハプスブルク帝国史』1989
矢田俊隆『ハプスブルク帝国史研究―中欧多民族国家の解体過程――』岩波書店1977
カトリーヌ・クレマン『皇妃エリザベート ハプスブルクの美神』知の再発見65創元社1997
江村洋『ハプスブルク家の女たち』講談社現代新書
木村泰司『美女たちの西洋美術史 肖像画は語る』光文社新書2010年
ホセ・アントニオ・ウルビノ『プラド美術館』みすず書房、Scala1990
『ウィーン美術史美術館』みすず書房、Scala 
菊池良生『ハプスブルク家』
菊池良生『傭兵の二千年史』講談社
加藤雅彦『ハプスブルク帝国』河出書房新社
中丸明『ハプスブルク一千年』新潮社
桐生操『ハプスブルク家の悲劇』1995
国立新美術館『Theハプスブルク展図録』2009
中野京子『ハプスブルク家12の物語』2009
倉田稔『ハプスブルク歴史物語』日本放送出版協会1994
倉田稔『ハプスブルク文化紀行』日本放送出版協会2006
ヴィスコンティ『ルートヴィヒ 神々の黄昏』1972
Luchino Visconti, Ludwig 1972
大久保正雄Copyright 2016年7月21日

2016年6月 5日 (日)

スペイン・ハプスブルグ家、太陽の沈まぬ帝国、黄金の世紀

Las_meninas_by_diego_velzquez1656Las_meninas_by_diego_velzquezMargarita_teresa_de_espaa_01_2スペイン・ハプスブルグ家、太陽の沈まぬ帝国、黄金の世紀
大久保正雄『地中海紀行』第13回

天と地の間に、絶對の沈黙がある。
風が吹き静寂が支配する丘。荒涼たるスペインの大地。
輝く蒼空が果てしなくつづく、乾いた大地(La Mancha)に
対峙する、カスティーリアの荒野。
碧空にトレドの雲が咆哮する。愛と復讐の大地、カスティーリア。
荒野を旅する者は、方向を見失わず、生きる意志を持ちつづける精神力が必要である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より

【スペイン・ハプスブルグ家】
フィリップ美公フェリペ1世(カスティーリャ王、フアナと共同統治:1504年 - 1506年)
カルロス1世(=カール5世)(1516年 - 1556年)神聖ローマ皇帝(1519年 - 1556年)
フェリペ2世(1556年 - 1598年)ポルトガル王(1580年 - 1598年)
フェリペ3世(1598年 - 1621年)ポルトガル王
フェリペ4世(1621年 - 1665年)ポルトガル王(1621年 - 1640年)
カルロス2世(1665年 - 1700年)
*ゲオルク・シュタットミュラー『ハプスブルク帝国史』P22

太陽の沈まぬ帝国
マクシミリアン1世が1508年にローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始める。その後、婚姻関係からハプスブルク家は、ブルゴーニュ領ネーデルラント、ブルゴーニュ自由伯領(フランシュ=コンテ)、スペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを継承、皇帝カール5世(=カルロス1世)の下でヨーロッパの一大帝国を現出させた。1547年、カール5世の領土は「日の沈まぬ」大帝国となる。

狂女フアナ
フアナ(1479-1555)は、カトリック両王の三女である。1496年ブルゴーニュのフィリップ美公と結婚するためアントワープに赴く。フアナは、人生を謳歌し生きている瞬間を樂しむ享樂的なフランドルで、遊びに明け暮れ贅沢三昧の日々を送る、フィリップ美公の虜となったが、フィリップは妃が煩わしくなる。獨占欲が強いフアナは、夫の浮気に嫉妬し理性を失い狂気に陥り始めた。フアナは、長女エレオノーレ、ついで1500年に長男カルロスを生む。さらに次男フェルナンドをはじめ、6人の子を次々と出産する。
1504年カスティーリア女王イサベルが53歳で死去、三女の王女フアナにカスティーリアの王権が移る。王位継承者の一族が次々と死に、フアナだけが生き殘ったためである。フィリップはフアナを伴いスペインに渡るが、1506年9月ブルゴーニュ公は28歳でブルゴスにおいて不慮の死を遂げる。宮廷はフィリップの遺體を埋葬しようとするが、フアナは柩を渡すことを拒んだ。夜になると棺桶の蓋を開け、冷たい遺骸に話しかける。彼女はフィリップの遺體が入った棺を馬車に積み、スペインの町から町へ、山を越え谿を越え、カスティーリアの野をあてどなく彷徨い歩いた。
 フアナは26歳にして狂気に囚われ、父アラゴン王フェルナンド2世によって1509年以後トルデシーリャス城に幽閉され、城の中で死ぬ。だが1555年に75歳で息絶えるまで、城に閉じ籠められたまま46年間、カスティーリア・アラゴン女王として君臨し続けた。

カルロス1世(=カール5世) 太陽の沈まぬ帝國
 カルロス(1500-1558)は、ハプスブルク家のブルゴーニュ公フィリップと王女フアナの子としてフランドルの古都ガンで生まれ、ブルゴーニュの優雅な宮廷文化の中で育まれた。父が夭折し、母が発狂したため、カルロスは1516年16歳の時ブリュッセルでカスティーリア・アラゴン王に即位。1517年カルロス1世としてスペインに旅立つ。
 1519年、祖父の皇帝マクシミリアン1世の死後行なわれた皇帝選擧で、カルロスはフッガー家の資金援助の下、對立候補のフランス王フランソワ1世を破って皇帝に選ばれ、神聖ローマ皇帝カール5世となる。この時代、ドイツではルターの宗教改革運動が展開、カトリックの皇帝理念から激しい異端彈圧を圖る。パヴィアの戰い、イタリア戰爭、シュマルカンデン戰爭、ザクセンの反亂、戰いに明け戰いに暮れ、經済的破綻を遺す。戰爭と外交交渉のために、広大な支配領域を「旅する皇帝」であった。
 カルロス1世の時代、ハプスブルクは最大の領土を支配、ハプスブルク・スペイン帝國を築き上げる。カルロスは自らの國を「太陽の没することなき帝國」と呼んだ。
下顎前突症(Prognathism)
両親の血を引いて生まれつきアゴの筋力が弱く、下顎前突症*であり、また幼少期の病気により鼻腔が閉塞気味であった。多くの肖像画でも見られる通り、一見して非常に下あごが突出してる。
*ゲオルク・シュタットミュラー『ハプスブルク帝国史』P18

フェリペ2世 黄金の世紀 Felipe II de España
フェリペ2世(1527-98)は、神聖ローマ帝國皇帝をかねた父王カルロス1世から、スペイン、インディアス、ナポリ、シチリア、サルデーニァ、ミラノ、フランドルを継承。1581年母がポルトガル王家であることからポルトガルを継承、未曾有の領土を領有するに到る。
 スペインを中心とするハプスブルク帝國に反發するフランス、西地中海を脅かすオスマン・トルコ帝國、宗教改革による西欧の分裂。カルロス1世が遺した紛爭はフェリーペの時代に深刻の度を深め、また異端彈圧は暴虐を極める。カスティーリア王國の犠牲とインディアスから齎される銀を支えにフェリーペは帝國主義的な外交政策を展開する。スペイン絶對主義に對するネーデルランドの反亂に始まる80年戰爭(1568-1648)を戰い、レパントの海戰(Batalla naval de Lepanto)で不敗のオスマン・トルコ艦隊を破り、1588年無敵艦隊(Armada Invencible)によるイギリス侵攻を決意するがドーバー海峡の戰いで予期せぬ敗北を味わう。多彩な對外政策は多重債務を生む。
アメリカ大陸から齎された莫大な黄金と銀は、カディスの港で陸揚げされず、他の船に載せかえられて、そのままヨーロッパ各地に転送された。負債返済のためである。
フェリーペ2世はスペイン帝國の黄金世紀の頂点に立つ。だがその經済的基盤は初期からすでに破綻していた。即位の翌年から3度にわたり破産宣言を行ない、債務支払いを停止。1557年第1回破産宣言、1575年第2回破産宣言、1596年第3回破産宣言。父王から引き継いだ借財の5倍の負債を息子フェリーペ3世に殘す。  カルロス1世、フェリーペ2世の帝國政策とその負債は、カスティーリアの經済基盤を破壊し貧困を招き、殘忍な異端彈圧の果て、民衆の怨嗟の聲は国中に溢れた。
★参考文献
ゲオルク・シュタットミュラー『ハプスブルク帝国史』刀水書房1989
江村洋『ハプスブルク家』講談社現代新書1990
江村洋『ハプスブルク家の女たち』講談社現代新書1993
ユネスコ世界遺産センター編『ユネスコ世界遺産10 南ヨーロッパ』講談社1996
地中海学会編『地中海歴史散歩1スペイン』河出書房新社1997
川成洋『図説スペインの歴史』河出書房新社1993
池上岑夫・牛島信明・神吉敬三監修『スペイン・ポルトガルを知る事典』平凡社1992
★Diego Velazquez「Las Meninas」1656
★Diego Velazquez「Margalita Teresa」1656Wien
★「彷徨う狂女フアナ」1877、フランシスコ・プラディーリャ作、プラド美術館
★「フェリペ2世」ティツィアーノ
COPYRIGHT大久保正雄 2001.06.27
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