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マケドニア

2017年2月16日 (木)

偉大なる王家、骨肉の争い クレオパトラ、アレクサンドロス 

Olympias_mother_of_alexanderAlexander_the_great_mosaic_0大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
偉大なる王家、骨肉の争い クレオパトラ、アレクサンドロス 
王族の家は、権力に狂った驕慢なる者、金の亡者、骨肉の抗争、殺し合いが起こる。
聖なる弑逆、父殺しから、アレクサンドロスが生まれた。弟殺しから、織田信長が生まれた。
藝術家の家においても、親族の抗争、殺し合いがある。苦悩の果てに美が生まれる。
アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、カエサル。
レオナルド・ダ・ヴィンチ。安土桃山、江戸時代、富裕な商家に生まれた画家たち。狩野永徳、尾形光琳、伊藤若冲。錦絵の熾烈な競争、浮世絵師、北斎。
タンタロス王、ペロプス王、アトレウス王、アガメムノン王、オイディプス王。悲劇は重層する。

陰謀、裏切り、だまし討ち、下剋上、何でもありの乱世。
敵の陰謀を見破り、敵を滅ぼす最高の指揮官。
理念を追求する人は、天のために戦う。
美しい魂は、生死をのり超えて、美しい理念を探求する。美の化身となる。
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
永遠を旅する哲学者は、時を超えて、理念を追求する不滅の魂の神殿に旅する。美のイデアへの旅。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
―――――
■アレクサンドロス大王
アレクサンドロスは、オリュンピアスとともに、父王を謀殺。
アレクサンドロス3世は、妹クレオパトラの結婚式で、父フィリポス2世を謀殺。実行したのは貴族パウサニアスである。父王が、弟に王位を相続させると言ったため、母オリュンピアスと謀殺した。
アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王。BC336-BC323)
■クレオパトラ7世
クレオパトラは、3人の姉妹と敵対、孤立した。
クレオパトラは、姉ベレニケ、妹アルシノエ、弟プトレマイオスと対立した。皇位継承をめぐって、抗争が起こり、ローマのユリウス・カエサルの力を背景にして、王位を奪還する。クレオパトラ(在位BC51-BC30)とカエサリオンはしばらくの間ローマに滞在したが、BC44年にカエサルは暗殺され(カエサル暗殺。BC44.3.15)。カエサリオンがプトレマイオス15世としてクレオパトラと共同統治した(在位BC44-BC30)。
クレオパトラ7世(Cleopatra VII Philopator, 紀元前69年 - 紀元前30年8月12日) (在位BC51-BC30)
父はプトレマイオス12世(アウレテス)、母はクレオパトラ5世であり、兄弟はベレニケ4世(姉)、アルシノエ4世(妹)、プトレマイオス13世(弟)、プトレマイオス14世(弟)がいる。クレオパトラ7世は、カエサルとの間に、カエサリオンを産む。
―――――
★参考文献
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『地中海紀行』第45回クレオパトラの死1
アントニウスとクレオパトラ 愛と死
https://t.co/1hdgZYVOMT
大久保正雄『地中海紀行』第46回クレオパトラの死2
アレクサンドロ大王 世界の果てへの旅
https://t.co/RCwJNrJirZ
フィリッポスは、アレクサンドロスの妹の結婚式で、暗殺された。
マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した戦略家
https://t.co/xcCI2H0le5
大久保正雄『地中海紀行』54回アレクサンドロス大王2P52
アレクサンドロス帝国の遺産はどこに残されたのか
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎
https://t.co/GqhV2l84wK
大久保正雄『地中海紀行』55回アレクサンドロス大王3
クレオパトラの死 プトレマイオス王朝最後の華
https://t.co/dcAKahB4fI
―――――
★アレクサンドロス3世 Alexanderthe great
★オリュンピアス Alexanderthe great , Olympias
★クレオパトラ7世 Cleopatra,7
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
2017年2月16日

2016年7月20日 (水)

美しい謎 「ディオニュソスとアリアドネの結婚」

Museum_thessalonikiThe_derveni_krater_late_4th_century大久保正雄『地中海紀行』第56回世界の果てでみつけた美しい謎
デルヴェニのクラテル 「ディオニュソスとアリアドネの結婚」

旅したギリシア、旅路の果てで、時の止まった町、
美しい不思議な器をみつけた。
ギリシアを旅して、デルフィ、メテオラを経て、テッサロニキに行き、マケドニアパレス・ホテルに宿泊した。入り江に臨む海がみえるホテルで、アレクサンドロス大王の夢を想う。夕暮れ時、ホテルの窓から、夕映えの海がみえる。
「ディオニュソスとアリアドネの結婚」が刻まれていて、この世のものとは思われぬ美しさである。世界の果ての美術館でみつけた美しい謎である。
ナクソス島で、ディオニュソスは、アリアドネに恋し、結婚した。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■デルヴェニのクラテル「ディオニュソスとアリアドネの結婚」
911事件直後、旅したギリシア、旅路の果てで、時の止まった町で美しい不思議な器をみつけ驚愕した。
テッサロニキ考古学博物館で、古代マケドニアの黄金の遺物、アレクサンドロス大王像が展示されている。デルヴェニの遺跡、墓から発見された美しい酒器に心を奪われた。
「デルヴェニのクラテル、ディオニュソスとアリアドネ」(テッサロニキ考古学博物館) 。
The Derveni krater, late 4th century B.C, Dionysus and Ariadne, Archaeological Museum, Thessaloniki, Greece
「フィリッポス2世(在位BC359-336)の墓」とされる大墳墓の発見により、ヴェルギナ(Vergina)がマケドニアの旧都アイガイ(Aigai)であることが実証された。デルヴェニ(Derveni)の墓群は前4世紀末と推定されている。古代都市レテの遺跡である。

■ディオニュソスとアリアドネの結婚
アリアドネは、テセウスを迷宮から救った。ナクソス島に、ディオニュソスがやってきて、アリアドネに恋し、結婚した。
■ミノス王の迷宮
クレタ王ミノスは、ポセイドンとの約束を破り、ポセイドンはミノス王に呪いをかけた。
「ミノス王妃パシパエが牡牛に欲情する」。彼女は、牡牛に恋しダイダロスの援助で牝牛に化け、交わった。その結果、牛頭人身の怪獣ミノタウロスが生まれた。ミノタウロスは、迷宮ラビュリントスに閉じ込められ、生贄を食べていた。
■アテナイ王子テセウスのミノタウロス退治
ミノス王は、子のアンドロゲオスの死の復讐として、アテナイを攻めた。アテナイは、疫病のため、ミノス王との戦いに降伏。9年ごとに7人の少年と7人の少女をミノタウロスの生贄に捧げることを約束した。アテナイ王子テセウスがミノタウロス退治を志願した。テセウスは生贄の一人としてクレタへ向かった。
アリアドネは、テセウスの美しさに一目惚れした。ミノタウロスの首を絞めて殺害したテセウスに、アリアドネは、ラビュリントスの作者名工ダイダロスから聞き出した迷宮からの脱出方法を教えた。糸玉を入口に結びつけ糸を辿って脱出する。しかし、アリアドネは、迷宮から救ったテセウスに、ナクソス島に置き去りにされた。
■ディオニュソス
Διόνυσος
ディオニュソスは、ゼウスとテーバイ王女セメレの子である。セメレはディオニュソスを身籠っている時、ヘラの嫉妬をうけ命を落とす。ゼウスは、ディオニュソスを救い出し、自らの太腿に縫い込んで誕生させる。ヘラの嫉妬を避けるため、ニュサのニンフに預けて養育させた。成長したディオニュソスは、葡萄の栽培と葡萄から酒を醸造する技術を発見し広める。
ディオニュソス(バッコス)は、葡萄の房の髪とワインの盃、足下にサテュロスを従える図像で表現される。ディオニュソスは、茴香の杖をもち、豹の毛皮を身につけ、豹を抱いている図像もある。ディオニュソスは、若い女性信者たちを引き連れて、祭儀を行う。マイナデス(女性信者)は腰を蛇で巻く。(エウリピデス『バッカイ』)
ディオニュソスの秘儀に、マケドニア王子フィリッポス2世とオリュンピアスが参加して、恋して結ばれた。(cf.プルタルコス『英雄伝』「アレクサンドロス伝」)
ニーチェ『悲劇の誕生』で、ディオニュソスは酒神、劇場の神、陶酔的激情的藝術。アポロンは、知性の神として対比されるが、その解釈は正確ではない。
★The Derveni krater, late 4th century B.C., side A, Dionysus and Ariadne, Archaeological Museum, Thessaloniki, Greece
★ミケランジェロ「バッコス」
★参考文献
エウリピデス『バッカイ』『ギリシア悲劇全集』岩波書店
プルタルコス『英雄伝』「アレクサンドロス伝」岩波文庫、『世界古典文学全集』筑摩書房
ヘシオドス『神統記』岩波文庫
オウィディウス『変身物語』岩波文庫
アポロドロス『ビブリオテーケー』岩波文庫
松平千秋、久保正彰、岡道男編『ギリシア悲劇全集』全14巻、岩波書店1990-1992
高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』岩波書店1960
高津春繁『古代ギリシア文学史』岩波書店
桜井万里子「オルフェウスの秘儀と古典期のアテナイ : デルヴェニ・パピルス文書を手掛かりに」西洋古典学研究2010
松尾登史子「ヴェルギナにおける墳墓の埋葬形態に関する考察」2013
大久保正雄Copyright 2016年7月19日

2016年7月19日 (火)

王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎

Olympias_mother_of_alexanderOlympias_mother_of_alexander_1大久保正雄『地中海紀行』55回アレクサンドロス大王3
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎

サモトラケ島で、紀元前360年、オリュンピアスは、ディオニュソスの密儀で、マケドニアの王子フィリッポス2世と出会った。
妹クレオパトラの結婚式で側近貴族がフィリッポス暗殺。王妃オリュンピアスとその子アレクサンドロスが蔭で糸を引いて、殺害を使嗾。エウリピデス『メデイア』の詩を引用。
アレクサンドロス帝国の謎。アレクサンドロスの遺体は、何処にあるのか。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■王妃オリュンピアス
Ὀλυμπιάς, c. 375–316 BC
アレクサンドロスの母、ポリュクセナは、ミュルタレ、オリュンピアス、ストラストニケ、と呼ばれた。(cf.プルタルコス『アレクサンドロス伝』)
オリュンピアスは、エペイロス人の一部族、モロッソイ王国の王族ネオプトレモスの娘である。モロッソイ王家は、英雄アキレウスとトロイア王家の血を受け継いでいると、伝承されている。モロッシアの地は、トロイア王家のアンドロマケがトロイア滅亡後、ネオプトレモスに伴われて流離した地である。ネオプトレモスはアキレウスの子である。(cf.エウリピデス『アンドロマケ』)オリュンピアスの父ネオプトレモス王が亡くなり、叔父アリュッバスが単独で王となり、オリュンピアスの後見人となる。
■サモトラケ島、ディオニュソスの秘儀
エーゲ海に浮かぶ、サモトラケ島で、紀元前360年、オリュンピアスは、ディオニュソスの密儀に入信し、ここで、マケドニアの王子フィリッポス2世と出会った。オリュンピアス十五歳である。フィリッポスは、恋してすぐ婚約した。エペイロス地方の女たちは、昔からオルペウス教とディオニュソスの密儀に入信しており、トラキアの女たちと同じ密儀を行なっていた。オリュンピアスは、他の女たちより一層烈しく神懸りになり、一層烈しく霊感に取り憑かれ、祭りをしている人々の間に、大きな蛇を何匹も取り出し、蔦や密儀の籠から這い出して女たちの杖や花環に巻きついた。ある夜、フィリッポスは、王妃オリュンピアスが寝室で寝ている傍らに大きな蛇が長くなっているのを見た。以後フィリッポスは、オリュンピアスの傍に行くことはなかった。
アレクサンドロス出生の秘密
フィリッポスは、神が蛇の形になって、王妃と添い寝しているのを窺い見た。オリュンピアスは、アレクサンドロスを遠征に送り出す時に、彼にのみその出生の秘密を明かし、生れにふさわしい心を持つように命じた。だが二人は再び生きてまみえることはなかった。(cf.プルタルコス『アレクサンドロス伝』)

★アレクサンドロスの妹クレオパトラの結婚式
側近護衛官パウサニアスに暗殺される
紀元前336年、夏、旧都アイガイで、アレクサンドロスの妹クレオパトラとエペイロス王アレクサンドロスが結婚式を挙げる。この結婚は、エペイロス王国とマケドニア王国の関係を修復するために、フィリッポス2世が画策したものである。クレオパトラはオリュンピアスの娘で、アレクサンドロスはオリュンピアスの弟であるから、2人は叔父と姪の関係であり、互いに幼なじみであった。クレオパトラは19歳、アレクサンドロスは25歳であった。政略結婚であるが良縁であった。結婚の祝宴で、フィリッポス2世が、貴族パウサニアスに劇場で、暗殺される。側近護衛官パウサニアスは、アッタロスに侮辱されたことに怨恨を抱き、それを罰しないフィリッポス殺害を実行した。
★フィリッポス暗殺事件
フィリッポス暗殺事件は、王妃オリュンピアスとその子アレクサンドロスが蔭で糸を引いた暗殺である。アレクサンドロスは、パウサニアスに、エウリピデスの悲劇の詩を引用して、「聞けば、汝、嫁の親と婿と嫁とを、脅しているという」(『メデイア』)と言って殺害を使嗾(しそう)した。アッタロスとフィリッポスとクレオパトラが、クレオンとイアソンとグラウケに対応するのであり、フィリッポスを殺すべしと指示したのである。メデイアが復讐したように、オリュンピアスは復讐を果たしたのである。フィリッポスは、47歳で死んだ。かくして、アレクサンドロスがマケドニアの王に即位した。★

■アレクサンドロス帝国の謎 黄金の指輪
αλεξανδροσ
ペルディッカスが、死の床のアレクサンドロスから受けた黄金の指輪は、ナイル河渡河作戦で失敗し殺害された時、何処に消えたのか。古代の書物に「アレクサンドロスの遺産は、アレクサンドロスが最も愛した美しいエーゲ海のロドス島に隠された」と書かれたが、アレクサンドロスの遺産はどうなったのか。プトレマイオスが奪還し、エジプトのアレクサンドリアに葬られた、アレクサンドロスの遺体は、何処にあるのか。アレクサンドロスの霊廟は、どうなったのか。アレクサンドロス帝国は謎を残した。(cf.プルタルコス『アレクサンドロス伝』)
偉大な国家を建設するためには、旧制度の破壊と征服が為されねばならない。革命家の後に、偉大な統治者が現れる時、偉大な国家が生れる。そして、軍人が現れ、組織を構築する者が現れ、管理する者が現れ、官僚が統治する時、国家は死に絶える。アレクサンドロスにおいては、王国も軍隊も、彼自身の不滅の榮光を達成するための道具であり、手段に過ぎなかった。自己を中心に、ただ己自身の目的をめざして、他のすべてを顧みない、強烈な自我の光芒が、アレクサンドロスの行動の軌跡であった。王国の統治は、生涯アレクサンドロスの真剣な考慮の対象とならなかった。アレクサンドロスは、征服者であり探検家であった。アレクサンドロス帝国は、統治者のいない王国である。アレクサンドロスは、治者ではなかった。統治行為という日常を無視し、非日常を探求する者。世界の涯を旅する者である。たとえ未完に終ろうとも、その戦いの軌跡だけが、人間がこの世に生きた証しである。アレクサンドロスは、永遠に旅を続ける。
■地中海の美と知恵を求めて
『地中海紀行』は、崇高な理想を追求する人間の美しさを求めて、旅を続けて行きます。御愛読ありがとうございます。
『地中海紀行』がツアーになりました。『地中海紀行』の旅は、「英雄と芸術家の夢」「地中海の美と知恵」を探求する旅です。第1回イタリア13日間「ルネサンス都市とトスカーナの丘」は、例えば、ヴォルテッラに彫刻「夕日の影」を見に行く、ユニークな旅です。
「ギリシアの美とエーゲ海」、「地中海の樂園 シチリアとマルタ」、「エジプト・ファラオ紀行 地中海と神秘の国」、「スペイン・アンダルシアと地中海 パラドールの旅」他、独創的な旅を企画しています。著者による企画、主催旅行会社は、阪神電鉄(株)航空営業部です。☆詳細はここをクリックして下さい
【ルネサンス都市とトスカーナの丘】━13日間━
http://homepage3.nifty.com/odyssey/27c8c003.html
★Olympias mother of Alexander
★Oliver Stone' Alexander (2004)
★テッサロニキ考古学博物館カタログ
Thessaloniki, Archaeological Museum Catalogue
★アレクサンドロス ギリシア共和国ドラクマ硬貨
★【参考文献】
プルタルコス河野与一訳『プルタルコス英雄伝』岩波文庫1956★
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
アッリアノス『アレクサンドロス大王東征伝』『インド誌』岩波文庫2001★
大牟田章『アレクサンドロス大王』清水書院1976★
森谷公俊『アレクサンドロス大王 世界征服者の虚像と実像』講談社選書メチエ2000
森谷公俊『王妃オリュンピアス アレクサンドロス大王の母』筑摩書房1998★
森谷公俊『王宮炎上 アレクサンドロス大王とペルセポリス』吉川弘文館2000
ポンペイウス・トログス/クイントゥス・ユスティヌス合阪學訳『地中海世界史』京都大学学術出版会1998
森谷公俊『興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話』講談社2007
本村凌二『興亡の世界史 地中海世界とローマ帝国』講談社2007★
知の再発見双書ピエール・ブリアン桜井万里子監修『アレクサンダー大王』創元社1991★
知の再発見双書エディット・フラマリオン『クレオパトラ』創元社★
大久保正雄Copyright 2002.12.25

2016年7月18日 (月)

マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した戦略家

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大久保正雄『地中海紀行』54回アレクサンドロス大王2
マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した外交戦略家

独眼竜、フィリッポス2世、優れた武将、卓越した外交戦略家、
テーバイで騎馬隊戦術を学ぶ。
サモトラケ島で、紀元前360年、オリュンピアスは、ディオニュソスの密儀で、マケドニアの王子フィリッポス2世と出会った。
妹クレオパトラの結婚式で側近貴族がフィリッポス暗殺。王妃オリュンピアスとその子アレクサンドロスが裏で糸を引いて、殺害を使嗾。エウリピデス『メデイア』の詩を引用。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■フィリッポス2世
優れた武将、卓越した外交戦略家、教養人、テーバイで騎馬隊戦術を学ぶ。
フィリッポス2世は、優れた武将であるとともに、卓越した外交戦略家、ギリシア文化の知識を身につけた教養人であった。フィリッポスのように傑出した人物は、地中海世界において、空前であった。
■テーバイで、騎馬隊戦術、外交戦略
フィリッポスは、テーバイに人質として、15歳から18歳まで3年間滞在した。紀元前371年テーバイのエパメイノンダスらが、レウクトラの決戰で、スパルタを打倒した3年後、フィリッポスは、テーバイに行った。エパメイノンダスの下で、騎馬隊戦術、外交戦略、ギリシア文化、など、多くのことを学んだ。
■ピュタゴラス派のリュシス
ピュタゴラス派のリュシスが、イタリアのクロトンから僭主独裁政を逃れて、テーバイで子弟を教えていた。フィリッポスは、テーバイで騎兵戦術を学んだ。フィリッポスの兄ペルディッカスは、哲学者プラトンと相談した結果、エウフライオスを招聘した。その勧告に従って、ペルディッカスは、フィリッポスに所領を与えた。
■王位継承をめぐる争い 七人の妻
フィリッポス2世は、七人の妻を娶った。マケドニアは一夫多妻制であり、王位継承をめぐる争いが起った。兄弟間の抗爭があり、「兄弟殺しの法」があるオスマン・トルコ帝国のように、王位を継承した者は対抗者を殺害しなければならない。紀元前337年、フィリッポス2世は、恋して、クレオパトラと結婚する。フィリッポス7回目の結婚である。結婚の席で、アレクサンドロスは、クレオパトラの叔父アッタロスに侮辱を受け、盃を投げつける。フィリッポス2世、アレクサンドロスに対して剣を抜く。アレクサンドロス、母とともに、国外退去。母はエペイロスに、アレクサンドロス、イリュリアに行く。
■アレクサンドロスの妹クレオパトラの結婚式
側近護衛官パウサニアスに暗殺される
紀元前336年、夏、旧都アイガイで、アレクサンドロスの妹クレオパトラとエペイロス王アレクサンドロスが結婚式を挙げる。この結婚は、エペイロス王国とマケドニア王国の関係を修復するために、フィリッポス2世が画策したものである。クレオパトラはオリュンピアスの娘で、アレクサンドロスはオリュンピアスの弟であるから、2人は叔父と姪の関係であり、互いに幼なじみであった。クレオパトラは19歳、アレクサンドロスは25歳であった。政略結婚であるが良縁であった。結婚の祝宴で、フィリッポス2世が、貴族パウサニアスに劇場で、暗殺される。側近護衛官パウサニアスは、アッタロスに侮辱されたことに怨恨を抱き、それを罰しないフィリッポス殺害を実行した。
■フィリッポス暗殺事件
フィリッポス暗殺事件は、王妃オリュンピアスとその子アレクサンドロスが蔭で糸を引いた暗殺である。アレクサンドロスは、パウサニアスに、エウリピデスの悲劇の詩を引用して、「聞けば、汝、嫁の親と婿と嫁とを、脅しているという」(『メデイア』)と言って殺害を使嗾(しそう)した。アッタロスとフィリッポスとクレオパトラが、クレオンとイアソンとグラウケに対応するのであり、フィリッポスを殺すべしと指示したのである。メデイアが復讐したように、オリュンピアスは復讐を果たしたのである。フィリッポスは、47歳で死んだ。かくして、アレクサンドロスがマケドニアの王に即位した。
■アレクサンドロス誕生
アレクサンドロス3世
アレクサンドロスは、マケドニア暦ローオス月、アッティカ暦ヘカトンバイオン月6日、マケドニアの首都ペラの王宮で生れた。ポテイダイアを占領していたフィリッポスのもとに、同日、三つの報告が到着した。イリュリア軍が將軍パルメニオンにより激戦の末、敗れたこと。オリュンピア祭典の競馬で優勝したこと。アレクサンドロスの誕生である。アレクサンドロスが生れた時、フィリッポスは、予言者に「生れた子は不敗の將軍になる」と言われた。
アレクサンドロスは、小さい時から、節制の徳が現れ、肉体的な快楽には容易に動かされず、名譽心のために彼の精神は年齢に比べて重厚で気位が高かった。快楽も富も欲せず、勇気と名譽を求めていた。アレクサンドロスは、皮膚からよい匂いが出ていて、その芳香が口ばかりでなく全身を包んでいたために、香りが着衣に染みていた、とアリストクセノスの『回想録』に書かれた。アレクサンドロスの姿を最もよく表わした彫像は彫刻家リュシッポスの作品であり、アレクサンドロスはリュシッポスにだけ彫刻を作らせるのがよいと考えた。頸を軽く左に傾ける癖と目に潤いがあるという特徴があり、藝術家リュシッポスがこれを正確に捉えていた。首が左傾していたのは帝王切開により生れたのが原因である。アレクサンドロスの宮廷彫刻家リュシッポスは、この時代最高の青銅彫刻家であり、生けるがごとき写実的作風により有名で肖像彫刻に秀でた。アレクサンドロスの宮廷画家アペレスは、『アプロディーテ・アナディオメネ』『誹謗』で有名である。1800年の歳月を経て、ルネサンス時代、ボッティチェリは『海から上がるヴィーナス』を描く。
フィリッポスは、アレクサンドロスの天性が動かされ難く、強制には反抗し、理には服して、為すべきことに向かうのを見て、命令よりは説得することを試みた。
■哲学者アリストテレスを招き、緑深いミエザのニュンフの聖域
哲学者アリストテレスを招き、立派な報酬を払った。学問所として、緑深いミエザのニュンフの聖域を指定した。アレクサンドロスは、倫理学、政治学のみならず、哲学者たちが口伝(アクロアティカ)、秘伝(エポプティカ)と呼ぶ秘密の深奥の教えも受けた。アレクサンドロスはアリストテレスから医学、自然学を最も多く学んだ。天性、學問、読書を好んでいた。ナルテコス(茴香) の小筺の『イリアス』と呼ばれるアリストテレスの校訂本を携えて、つねに短剣と一緒に枕の下に置いていた。(cf.プルタルコス『アレクサンドロス伝』)
アレクサンドロスは、遠征中、ペルシア帝国では手に入らない、エウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスの悲劇、哲学書、ディオニュソス讃歌の詩を、マケドニアから贈らせた。アリストテレスをはじめは讃嘆していたが、後に疑いを抱き、敵意を感じるに至った。アリストテレスの哲学は、自然界を、四つの原因、形相、質料、始動、目的によって分析したが、人間の行為を自然界の現象と同じように分析するアリストテレスの學問からは、事実の解明しか生れず、事実には何の価値もないと、考えるに至った。アレクサンドロスの知恵の渇望を、アリストテレスの学問は、満たすことはできなかった。(cf.プルタルコス『アレクサンドロス伝』)
★PhilipposⅡ、Macedinia,フィリッポス2世 テッサロニキにて
★参考文献、次ページ参照。
大久保正雄Copyright 2002.12.25

2016年7月17日 (日)

アレクサンドロ大王 世界の果てへの旅

Alexander_the_great_mosaic_0大久保正雄『地中海紀行』第53回アレクサンドロ大王1
アレクサンドロ大王 世界の果てへの旅

砂塵きらめく果て、世界の果てを旅する。マケドニアの若き獅子、アレクサンドロス。
海峡をわたり、荒野を疾駆し、沙漠を歩み、ペルシア帝国の五つの都を占領する。
残された最後の計画。最後の航海。アラビア周航、西の涯、黄昏の国を目ざして、
アレクサンドロスは、夢のなかで、永遠に旅を続ける。
彗星のごとくあらわれ、疾風のごとく、大地を駆けぬけた、アレクサンドロスの光芒。
波光きらめく果て、地中海の岸辺、海鳴りがなる王宮の塔の中で、
プトレマイオスは、思い出す。輝ける日々。

アレクサンドロスは、皮膚からよい匂いが出ていて、その芳香が全身を包んでいた。
アレクサンドロスの宮廷彫刻家リュシッポスは、この最高の青銅彫刻家で生けるがごとき肖像彫刻に秀でた。アレクサンドロスの宮廷画家アペレスは、『アプロディーテ・アナディオメネ』『誹謗』で有名である。
アレクサンドロス大王の軍が遠征した時は、彫刻家リュシッポス、画家アペレス、歴史家、遊女、音樂家、料理人、將軍の友人たち、家族も同行し、国が移動するようであった。(プルタルコス『アントニウス伝』)

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■アレクサンドロス大王の旅 世界の果てへの旅
20歳で王位につき、32歳で死す。
紀元前334年春、アレクサンドロス3世は、三万五千人の兵を率いて、東方遠征に旅立った。それから11年後、エジプト、ペルシア、インドに至る広大な領域を征服し、再びマケドニアに還ることなく、バビロンで死んだ。
ヘレスポントス海峡をわたり、グラニコス河の戦い、イッソスの戦いに勝利して、諸々の都市は無血で開城した。エジプトにアレクサンドリアを築き、ガウガメラの戰いで、勝利する。ペルシア帝国の五つの都、バビロン、スサ、ペルセポリス、パサルガダイ、エクバタナ、を征服した。ダレイオス大王を誅殺した側近ベッソスを追撃して、白銀のヒンドゥークシュ山脈を越え、バクトリアの灼熱の砂漠を進撃し、ベッソスを処刑した。ヤクサルテス河で進軍を止め、最果てのアレクサンドリアを築く。インダス河を下り、パサルガダイ、ペルセポリスに帰還する。
アレクサンドロスは、マケドニア艦隊艦長ネアルコスとともに、最後の計画を構想する。アラビア半島探検航海、西地中海の航海、ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)、ヘスペリス(黄昏の国)への航海を計画して出帆を待っている間に、倒れ、死んだ。バビロンの宮殿の、黄金の天蓋に包まれた、死の床で、世界の果てへの旅を夢想し、生死の境をさまよい、32歳で他界した。英雄の見果てぬ夢は、バビロンの王宮で眠ったまま残された。
【登場人物】
フィリッポス2世:マケドニア王 傑出した戰略家 アレクサンドロスの父
オリュンピアス:フィリッポス2世の妃 アレクサンドロスの母
エペイロス王アレクサンドロス:オリュンピアスの弟 クレオパトラと結婚
クレオパトラ:エペイロス王の妻 オリュンピアスの娘、アレクサンドロスの妹
クレオパトラ:フィリッポス2世の7番目の妻 將軍アッタロスの姪
プトレマイオス:アレクサンドロスの幼少時代からの友、側近護衛官、プトレマイオス朝エジプト王国を創始
アンティパトロス:東方遠征後マケドニアを代理統治、皇太后オリュンピアスと敵対
カッサンドロス:アンティパトロスの子、アレクサンドロスと対立

■プトレマイオスの回想
プトレマイオスは、きらめく地中海を眺めながら、塔に閉じ籠もり、アレクサンドロスの思い出を書く。地中海のほとり、列柱回廊と緑の庭園の都、海鳴りが聞こえる王宮の部屋で、波瀾の人生を思い出す。紺碧の海、列柱の影が長い午後、時間は止まる。
マケドニアからペルシア、ヒンドゥークシュ山脈を越え、バビロンに帰還した長い旅。若き日々、アレクサンドロスの美しい容姿。
プトレマイオスは、ミエザの森蔭で、エウリピデスを愛読しホメロスを暗誦した日々を思い出す。あの若葉のように萌え出る季節、薔薇が咲き乱れ、緑陰緑想に耽った美しい日々。
アレクサンドロスは、フィリッポスとクレオパトラとの結婚の宴で、アッタロスが酒に酔ってマケドニア人たちに「この王国の正統な後嗣が生れるように神々に祈れ」と言ったのを聞き、激怒して「貴様は余が庶出だと言うのか」と言い、アッタロスに盃を投げつけ、フィリッポスは剣を抜いた。アレクサンドロスとオリュンピアスは国外に退去した。この時、フィリッポスとアレクサンドロスの関係は致命的になったのだ。この後、我々は、フィリッポスに追放され、アレクサンドロスとともに、イリュリアの地に赴いたのだ。
アテナイには、一度しか行ったことがない。あの時も、アレクサンドロスと一緒だった。カイロネイアの戰いの後、アレクサンドロスが、アンティパトロスとともに、使節としてアテナイに降伏条件を伝えに行った時である。エウリピデスを読んで憧れたあの都。「知恵と光輝、調和と學藝、馨しき風の息吹。甘く香る薔薇、愛が導く知恵と徳の都」アテナイ。エウリピデス『メデイア』に書かれた美しい都。わが青春のすべての記憶は、アレクサンドロスと一緒だった。
アレクサンドロスは、夢告げによって、詩を聞き、美しい入り江を選び、この地にアレクサンドリアを建設した。
「波が絶えずとどろく海原のなかに、一つの島がナイル河の河口の前にあり、人々はパロスと呼ぶ」(『オデュッセイア』第4巻)

■ペルシアに対する報復
コリントス地峡にギリシア人が集まり、会議でペルシアに対する報復のためギリシア・マケドニア同盟軍が派遣されることが決定され、アレクサンドロスが全軍の最高指揮官(ストラテゴス・アウトラクトル)になった。東方遠征は、150年前、第2次ペルシア戦争で、アテナイのアクロポリスが破壊されたことに対する報復が目的である。遠征軍の目的であるペルシア報復が、ペルセポリス征服、ダレイオス王暗殺によって達成されると、マケドニア軍に、大王暗殺の陰謀が起きた。ペルシア帝国征服後、東方融合政策をめぐり、アレクサンドロスとマケドニア人との間で対立が起り、將軍たちとマケドニア人の処刑が行われた。フィロタス、パルメニオン、クレイトス、カッリステネスらが、陰謀を使嗾した容疑で、宮廷儀礼に異議を差し挟み、跪拝礼を拒否したために、アレクサンドロスの命で処刑された。
■ペルセポリス炎上
ペルセポリスは、ダレイオス1世によって築かれたペルシア帝国最大の都であり、壮麗な美しい都であった。百五十年前から壮大な宮殿が築かれていた。正面大階段、ペルシア門(万国の門)、謁見宮殿(アパダナ)、会議の間、百柱の間、ダレイオスの宮殿、クセルクセスの宮殿、中央宮殿、クセルクセスの後宮、宝蔵庫九十九柱の間、宝蔵庫小百柱の間、宝蔵庫、玉座の間、未完の大門、三十二柱の間、兵舎、があった。
アレクサンドロスの軍は、冬、紀元前330年1月、ペルセポリスを無抵抗で征服、略奪し、占領した。黄金12万タラントン(3000トン)を、驢馬2万頭、駱駝5千頭で、スサに運んだ。アレクサンドロスは、昴の星が日没と同時に地平線に沈む頃、千人の騎兵と軽裝部隊を率いて、パサルガダイに侵攻した。遠征隊が帰還したのは30日後であった。
晩春五月、花の宵、ペルセポリスの都でアレクサンドロスの友人たちの酒宴と遊樂があり、恋人たちも来ていた。プトレマイオスの愛妾、舞姫タイスは、アテナイの生れであったが、宴が酣になった時、アテナイ風の弁舌を以って、言った。「アテナイを焼き払ったクセルクセスの王宮を、宴の後に焼き、大王の前で、私が火を放ち、ペルシア人に復讐を果たしたと、後世に語り伝えられるならば、一層、嬉しい。」これと同時に拍手と喝采が起り、炬火を手にして、歌い騒ぎ、王宮を取り巻き、マケドニア人たちも駆け集まった。かくて王宮に火が放たれた。アレクサンドロスはすぐに後悔し「消せ」と命じた。

■バビロンのアレクサンドロス
アレクサンドロスは、バビロンの予言者ピュタゴラスに犠牲の結果を聞くと「犠牲の肝臓に胚葉がなく、凶兆が現れている」といった。アレクサンドロスは、友人たちに疑念を懐き、とくにアンティパトロスとその息子たちを恐れた。その一人イオラスは酌童長であり、カッサンドロスはアンティパトロスに対する誹謗を弁解するために、マケドニアからやって来た。
宮廷日誌によると、マケドニア暦ダイシオス月18日、アレクサンドロスは、発熱した。病に倒れ、熱が高く、まどろみ、十一日間、生死の境を彷徨った。
アレクサンドロスの死の床に、友人である、多くの側近、武将たちが集まり、アレクサンドロスに尋ねた。
 「大王の後継者は、誰か。」
 アレクサンドロスは答えた。「最も優れた者に。私を讃美する葬儀の儀式は、友人たちの血によって塗れるであろう。」と予言し、その通りになった。
叙事詩『キュプリア』に書かれた、神々の饗宴のなかで、爭いの女神エリスによって「最も美しい人に」と書かれた黄金の林檎が、投げ込まれ、女神たちによって果てしない爭いが繰り広げられたように、アレクサンドロスは、後継者の指名を行なわなかったため、大王の友人である將軍たちによって、後継者(ディアドコイ)戦争が起った。
 マケドニア暦ダイシオス月28日(紀元前323年ユリウス暦6月10日)、夕刻、アレクサンドロス大王はバビロンで死ぬ。
■アレクサンドロスの死
アレクサンドロス大王毒殺の疑いは、死後すぐには誰も懐かなかったが、6年後(紀元前317年)、密告があって発覚した。だが、我々側近護衛官は、アレクサンドロスの死の直後、犯人を知っていた。七人の側近の一人が、報復するため海を渡った。かくて、アリストテレスに毒が盛られた。
アンティパトロスは、10年に及ぶ、アレクサンドロスの母オリュンピアスとマケドニア統治をめぐる対立のため、解任されるべく、バビロンに召喚を命じられた。これを不服として、アンティパトロスの子カッサンドロスがマケドニアからやって来て、アレクサンドロスに、「父に対する誹謗中傷を行なう者は、証拠から遠く離れた所まで来るということが偽りの誹謗の兆候だ。」というと、アレクサンドロスは「それはアリストテレスの徒が使う両刀論法の詭弁だ。」といって、カッサンドロスの髪の毛を掴み、頭を壁に打ちつけた。カッサンドロスは恐怖に震え、以後アレクサンドロスに極度に恐れを抱くようになった。
將軍アンティパトロスの依頼を受けて、哲學者アリストテレスが毒藥を取り計らったのである。アンティパトロスは「ディオニュソスの魔女、オリュンピアスの言動は、我らがマケドニアにとって禍である。」といい、これに対し、
アリストテレスは、「私はアレクサンドロスに書簡をおくり、ギリシア人には友人として振舞い、異国人には敵として振舞い、家畜や獣のように扱うよう教えたのだが、それに従わなかった。アレクサンドロスは、ペルシアの宮廷儀礼に染まり、独裁者となり果てた。強大な帝国は、人の心を腐敗させる。跪拝礼(プロスキュネシス)を強要し、我が甥カッリステネスを殺害した。もはや、ギリシア人ではない。殺害しなければならぬ。」と言って、毒藥を、リュケイオンで調合させた。アンティパトロスの使者は、アリストテレスが用意した毒藥を携えて、アテナイから航海し、バビロンに向かった。アンティパトロス解任が実行される前にアレクサンドロスは死んだ。マケドニア担当將軍を解任され、バビロンに召喚され、処刑されることを恐れ、大王に先制攻撃をかけたのである。
アンティパトロスの子イオラスは、宴会担当官で、大王の宮廷で、機会を窺い、一年の間、好機を狙った。大王の側近護衛官七人の目を眩まし、宴の席で、葡萄酒に混ぜ、大王の觴(さかずき)に毒を盛った。近衛隊指揮官ヘファイステイオン殺害の時に行なったように。
 我々、七人の側近は警戒していたのだが、警戒の目をくぐり、毒が盛られたのだ。  かくして、この世の常としてあることだが、「偉大な魂は、偉大でない魂によって、殺された」のである。
■帝国の分割
アレクサンドロス大王の死後、バビロンの王宮、大王の黄金の棺の前で、部将たちが集まり、帝国の支配権(ヘゲモニア)をめぐって、会議が開かれた。
アレクサンドロスの死の時、バビロンにいた將軍たちは、第2代千人隊長(キリアルコス)ペルディッカス、側近プトレマイオス、レオンナトス、リュシマコス、精鋭近衛隊指揮官セレウコス、カッサンドロス、アンティゴノス・モノプタルモスであった。
ペルディッカスが、アレクサンドロスの死の床で、印璽の黄金の指輪を受け、後継者として、將軍たちの会議を主宰した。
王位継承者、推戴をめぐって、マケドニア軍が分裂した。騎兵部隊と側近指揮官は王妃ロクサネが妊娠してまだ生れざる子を推戴し、歩兵部隊は大王の異母弟アッリダイオスを王位に就けることを要求して対立した。ペルディッカスは「王妃ロクサネが産む子が男子ならば、王位を継ぐべきである」と提案する。王妃ロクサネは、妊娠8か月であった。歩兵部隊の反乱を恐れて、ロクサネの子アレクサンドロス4世と亡き王の異母弟アッリダイオス(フィリッポス3世)が王位に並立されることになり、ペルディッカスが摂政になった。
武將たちは、帝国を分割、統治することを決定する。アンティパトロスはマケドニア、プトレマイオスはエジプト、セレウコスはシリア、リュシマコスはトラキアを、管轄することに決した。かくて、アレクサンドロス帝国の武將たちによって、後継者(ディアドコイ)戦争が起きる。
■アレクサンドロスの遺体
バビロンの王宮で、將軍たちが、王国の継承をめぐって、議論している間、アレクサンドロス大王の遺体は放置されていた。あらゆる死者への義務である埋葬の礼すら行なわれなかった。アレクサンドロスの葬儀について誰も考えぬまま、30日間が過ぎた。予言者アリスタンドロスが、「生ける時も死せる後も、王のなかで最も幸福であったのはアレクサンドロスである。その魂の宿っていた肉体を、受け入れる土地は幸福であり、決して敵に滅ぼされることはない」と予言した。
プトレマイオスは、アレクサンドロス大王の遺体を、祖国マケドニアに埋葬しようとするペルディッカスと爭った。プトレマイオスは、「リビア砂漠のオアシスにあるシウァの神殿に埋葬すべきである」と主張したのである。アレクサンドロスの遺体は、ペルディッカスによって、古都アイガイに運ぶべく送られたが、途中、プトレマイオスが奪還し、秘密の道を通って、エジプトのアレクサンドリアに運ばれ、葬られた。プトレマイオスは、アレクサンドリアに、アレクサンドロスの遺体を埋める霊廟を作った。霊廟はソーマ(肉体)と名づけられた。
■アレクサンドロス3世
アレクサンドロスは、マケドニア暦ローオス月、アッティカ暦ヘカトンバイオン月6日、マケドニアの首都ペラの王宮で生れた。ポテイダイアを占領していたフィリッポスのもとに、同日、三つの報告が到着した。イリュリア軍が將軍パルメニオンにより激戦の末、敗れたこと。オリュンピア祭典の競馬で優勝したこと。アレクサンドロスの誕生である。アレクサンドロスが生れた時、フィリッポスは、予言者に「生れた子は不敗の將軍になる」と言われた。
アレクサンドロスは、小さい時から、節制の徳が現れ、肉体的な快楽には容易に動かされず、名譽心のために彼の精神は年齢に比べて重厚で気位が高かった。快樂も富みも欲せず、勇気と名譽を求めていた。アレクサンドロスは、皮膚からよい匂いが出ていて、その芳香が口ばかりでなく全身を包んでいたために、香りが着衣に染みていた、とアリストクセノスの『回想録』に書かれた。アレクサンドロスの姿を最もよく表わした彫像は彫刻家リュシッポスの作品であり、アレクサンドロスはリュシッポスにだけ彫刻を作らせるのがよいと考えた。頸を軽く左に傾ける癖と目に潤いがあるという特徴があり、藝術家リュシッポスがこれを正確に捉えていた。首が左傾していたのは帝王切開により生れたのが原因である。アレクサンドロスの宮廷彫刻家リュシッポスは、この時代最高の青銅彫刻家であり、生けるがごとき写実的作風により有名で肖像彫刻に秀でた。アレクサンドロスの宮廷画家アペレスは、『アプロディーテ・アナディオメネ』『誹謗』で有名である。1800年の歳月を経て、ルネサンス時代、ボッティチェリは『海から上がるヴィーナス』を描く。
フィリッポスは、アレクサンドロスの天性が動かされ難く、強制には反抗し、理には服して、爲すべきことに向かうのを見て、命令よりは説得することを試みた。哲学者アリストテレスを招き、立派な報酬を払った。学問所として、緑深いミエザのニュンフの聖域を指定した。アレクサンドロスは、倫理学、政治学のみならず、哲学者たちが口伝(アクロアティカ)、秘伝(エポプティカ)と呼ぶ秘密の深奥の教えも受けた。アレクサンドロスはアリストテレスから医学、自然学を最も多く学んだ。天性、學問、読書を好んでいた。ナルテコス(茴香) の小筺の『イリアス』と呼ばれるアリストテレスの校訂本を携えて、つねに短剣と一緒に枕の下に置いていた。
アレクサンドロスは、遠征中、ペルシア帝国では手に入らない、エウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスの悲劇、哲学書、ディオニュソス讃歌の詩を、マケドニアから贈らせた。アリストテレスをはじめは讃嘆していたが、後に疑いを抱き、敵意を感じるに至った。アリストテレスの哲学は、自然界を、四つの原因、形相、質料、始動、目的によって分析したが、人間の行為を自然界の現象と同じように分析するアリストテレスの學問からは、事実の解明しか生れず、事実には何の価値もないと、考えるに至った。アレクサンドロスの知恵の渇望を、アリストテレスの学問は、満たすことはできなかった。
この世の果ての知恵の泉、生命の泉
この世の果てに眠る、知恵の泉、生命の泉。その泉を飲む者は、真の愛を見いだすことができる。そして、不滅の魂が目覚め、真の智慧に到達する、という書かれざる秘儀の教えがある。生命と智慧と愛がこの世の至上の価値である。アレクサンドロスは、知恵の泉、生命の泉を求めて、果てしない旅に出た。
★Alexander Mosaique
★アレクサンドロス(テッサロニキ考古学博物館) Alexander The Great,Thessalonike
★アレクサンドロス (テッサロニキ考古学博物館)
★参考文献、次ページ参照。
大久保正雄Copyright 2002.12.25