ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王
【ツタンカーメンの謎】3300年の眠りから醒めたファラオツタンカーメン(Tut・ankh・amun)tut・ankh・amen, King Tut, 紀元前1341年頃 - 紀元前1323年頃)は、古代エジプト第18王朝の 9歳で即位し、19歳で亡くなった悲劇の少年王。ツタンカーメンの死因は何か。ツタンカーメンの黄金の短剣、隕石鉄の短剣はミタンニ王国から来たのか。アクエンアテン王のアマルナ改革は何故か。
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』230回
東欧の世界遺産をめぐる旅に行った時、ベルリン博物館を訪れた夏の日を思い出す。
近藤二郎先生の案内で、エジプト博物館の作品をみる。エジプトの謎が蘇る。なぜハトシェプスト (トトメス2世王妃) は、ひげをつけ男装して女王となったのか。【アマルナ美術の謎】アクエンアテン王の異様な容貌と姿は何故か。ネフェルティティ王妃はどこからきたのか。ツタンカーメンの母はだれか。ツタンカーメンはなぜ18歳で死んだのか。なぜアメンホテプ4世はアテン神を導入したのか。アメン神もアテン神も太陽神、どう違うのか。『死者の書』30章の呪文はどう導くのか。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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エジプトの宗教センターは、4か所、ヘリオポリス、メンフィス、ヘルモポリス、テーベ。ヘルモポリスとヘルモポリスは2大宗教都市。
【神々の系譜 9柱神】ヘリオポリスの創生神話
混沌ヌンから創造神アトゥムが生まれ、アトゥムから大気神シュウと湿気女神テフヌウトが生まれ、シュウとテフヌウトから大地ゲブと天空女神ヌフトが生まれ、ゲブとヌフトからオシリスとイシスとセトとネフティスが生まれ、オシリスとイシスからホルスが生まれ、オシリスとネフティスからアヌビスが生まれた。冥界王オシリスと母なる女神イシスから生まれたホルスはファラオとなる。
【冥界王オシリス神】オシリスは、弟セトに殺されバラバラにされるが、妻イシスの呪力によって復活を果たす。息子ホルスがセトに勝利し、地上の王として君臨する。
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【エジプト王朝、3大美女】ネフェルティティ、アメンホテプ4世の王妃。第18王朝。「美しき者来りぬ」。ネフェルタリ、ラムセス2世の第一王妃、8人の妃の中で最も美貌、若くして死す。第19王朝。クレオパトラ7世39歳。紀元前30年。権力者が手に入れられない4つの秘宝がある。
【エジプトの謎、ネフェルティティ(NeFeRTiTi)】【アマルナ革命、アメンからアテンへ】アクエンアテン(aKH-eN-aToN)王=アメンホテプ4世。王妃ネフェルティティ、アケトアテン(エル・テル・アマルナ)へ遷都。アメン神官、官僚たちが反撥。革命挫折。ツタンカーメン=トゥト・アンク・アメン(Tut-ankh-amen) (アメン神の生きた似姿)、再びテーベへ復帰。
【ツタンカーメン(Tut-ankh-amen)】紀元前1356年頃、生まれ1324年死す。古代エジプト文明、最盛期といわれる第18王朝、第11代の王。9才にして王となったが18才の若さにして亡くなった。ネフェルテイティ王妃が自身の3女をツタンカーメンと結婚させたのは、ツタンカーメンが王アクエンアテンの血を引く息子だからである。ネフェルティティ は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオであったアクエンアテンの正妃であり、ファラオ、トゥト・アンク・アメン(Tut-ankh-amen)の義母。
【ネフェルティティの娘、アンケセナーメン(Ankhesenamen)】ツタンカーメンと婚姻。*ファラオ・アクエンアテンと正妃ネフェルティティの三女であり、ファラオ・ツタンカーメンの妻。ツタンカーメンの母はだれか。
【ラムセス2世】生涯に8人の正妃、及び多くの側室を娶り、100人以上の子をもうけた。67年間王位につく。第19王朝。ネフェルタリ、ラムセス2世の第一王妃、8人の妃の中で最も美貌、若くして死す。在位、前1279-1213年。治世62年目、92歳薨去。絶対権力者が手に入れられない4つの秘宝がある。
【古代エジプトの4大美女】ハトシェプスト女王(トトメス2世王妃)、ネフェルティティ(アクエンアテン王妃)、ネフェルタリ(ラムセス2世王妃)、クレオパトラ7世(プトレマイオス15世、カエサリオン母)。エジプト文化の最高の瞬間に立つ。
【ハトシャプスト女王、夫はトトメス2世】ハトシェプストの意味は「最も高貴なる女性」。ハトシェプスト女王(トトメス2世王妃)は、二重統治、禁じ手の女王となった。付け髭をつけて男装。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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アマルナ改革
【アメンホテプ4世(Amenhotep IV、紀元前1362年? - 紀元前1333年?) 】彼の行った改革は、アマルナ改革として有名である。アテン神(Aten)を崇拝し、治世5年目(前1367年ごろ)にアテン信仰の導入を始めたが、まだ伝統的な神々への崇拝を禁止しなかった。
即位5年目に名前をアクエンアテン(Akhenaten)に改名、即位7年目に首都をテーベから、アトン神へ捧げる首都アケトアテン(Achetaten)(アマルナ)を建設。王朝発祥の地テーベ(Θῆβαι, Thēbai)を放棄し、遷都した。
即位9年目に入ると、アメンホテプⅣ世は旧来のエジプトの神々を排斥し、アテンが唯一の神であると宗教改革を推し進めた。アメン・ラーの力に対抗する王の試みの一つであった。
アメン(Amen、アモン(Ammon)、アムン(Amun)(テーベの町の守護神)を祭る神官勢力が王を抑えるほどの強い勢力になったことをアメンホテプ4世が嫌い、宗教的権力を王権と一本化することを狙った。アメンホテプ4世自身がアトンを称える詩を執筆している。
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展示作品の一部
「ネフェルティティ王妃」ベルリン博物館、BC1351‐1334
「アクエンアテン王頭部、レリーフ断片」ベルリン博物館、BC1351‐1334
「アクエンアテン王とネフェルティティ王妃、ステラ断片」ベルリン博物館、BC1351‐1334
「ハトシェプスト女王(トトメス2世王妃)のスフィンクス像」ベルリン博物館、BC1479‐1458
「ホルス神に授乳する女神イシス」BC664‐525
「セクメト女神座像」BC1388‐1351
「タレメチェンバステトの『死者の書』」BC332‐246
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ベルリン国立博物館群のエジプト博物館
ベルリン国立博物館群は、ドイツの首都・ベルリンに流れるシュプレー川に浮かぶ「博物館島」にある5つの博物館を中核とする総合博物館群です。プロイセン王国歴代のコレクションを礎とし、先史時代から現代にいたるまで、世界的な規模と質を誇るコレクションを擁しています。
さらに、第二次世界大戦や東西ドイツ分裂の時期を経て、1999年には「博物館島」全体がユネスコの世界文化遺産に登録され、2000年代からは各博物館の改築やコレクションの整理が急ピッチで進められています。
エジプト博物館は、「博物館島」にある5つの博物館のうち、2009年に改修を終えた「新博物館」内にあり、世界で最も有名な女性像の一つとして知られる「ネフェルトイティ(ネフェルティティ)の胸像」を所蔵している博物館として有名です。
紀元前3000年頃の動物の彫像から、古代エジプトに終焉を告げたローマ皇帝の肖像まで、壮大なエジプト史を網羅する同館のコレクションは、17世紀のブランデンブルク選帝侯の所蔵品を発端とし、その後のプロイセン王が主導した発掘や購入により、世界有数のエジプトコレクションとなりました。とりわけ、宗教改革によって個性的な芸術が生まれたアマルナ時代の充実した所蔵品と6万点にものぼるパピルス・コレクションは必見です。
展示構成
第1章 天地創造と神々の世界
「天地創造と終焉の物語」世界の始まりは混沌とした原初の海「ヌン」であった。
その海から、すべてのものが生まれ、育まれた。しかし、世界の終わりがやってくると、すべてのものは再び原初の海へ飲み込まれていく。
古代エジプト社会においては、全知全能の神々の力によって、空や雲、砂漠、風などの自然や、人間や獣、昆虫などの生物、太陽や月、星ぼしに至るまで、この世の全てが創造されたと考えられていました。原初の海「ヌン」と呼ばれる暗闇が支配する混沌とした状態から神々の意思により秩序ある世界が創造されたのです。古代エジプト人は、この秩序をマアトと呼びました。この章では、神々の姿や、神々が創った森羅万象を見ていきます。
第2章 ファラオと宇宙の秩序
宇宙の全体を支配する秩序・摂理(マアト)は、絶対であり、個々の人間が遵守すべき最も重要な規範・道徳としても考えられていました。人間社会のリーダーであるファラオは、社会の中でマアトを守り、実行する最高責任者でした。異民族の侵入やファラオに対する謀反といったようなマアトを揺るがす大きな事件に対しては、「善き神」であるファラオ自身が、強いリーダーシップをもってマアトを実践していくことが必要とされていたのです。
第3章 死後の審判
死者は、墓地の守護神でミイラ作りの神でもあるジャッカルの頭をしたアヌビスにより、「二つのマアト(正義)の広間」に導かれます。ここで死者の審判が行われ、死者の心臓は天秤ばかりにかけられ、マアトを象徴する羽根と釣り合うか計られます。古代エジプト人は考えたり思ったりする器官は脳ではなく心臓だと考えていました。 江戸東京博物館
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参考文献
近藤二郎「エジプト美術、世界一周 芸術新潮2009年9」
「国立ベルリン・エジプト博物館 古代エジプト展 天地創造の神話」図録
ツタンカーメン、黄金の秘宝と少年王の真実・・・少年王の愛と苦悩
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クレオパトラとエジプトの王妃展・・・生と死の秘密、時の迷宮への旅
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石浦章一「ツタンカーメンの謎に新説!正体不明のミイラが彼の母親だった!?、「王家のDNA」解析からわかったこと
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「国立ベルリン・エジプト博物館所蔵 古代エジプト展 天地創造の神話」、江戸東京博物館、2020年11月21日(土) ~2021年4月4日(日)
京都市京セラ美術館(2021年4月17日[土]~6月27日[日])、静岡市の静岡県立美術館(7月10日[土]~9月5日[日])、東京・八王子市の東京富士美術館(秋開幕予定)へ巡回
大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第74回古代エジプト 死と再生の秘密
古代エジプト帝国3000年 死と再生 美への旅
黄昏の森を歩いて、迷宮図書館に行く。時の迷宮の扉をあけると、エジプトの大列柱室、至聖所につながる。光降る森。美しい守護精霊が舞い降りる。
地中海の旅は、美への旅、知恵の旅、時空の果てへの旅、魂への旅。
旅する哲学者は、至高の美へ旅する。美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
■古代エジプトの謎。
地上最大の権力、3000年の統一国家。
古代エジプトは、紀元前3000年に統一された統一国家が紀元前後まで続いたのはなぜか。
「エジプトはナイルの賜物」ヘロドトス
世界最長の大河ナイル川は、年2回収穫できる。地中海に臨むデルタを砂漠が取り囲み、難攻不落。
ラムセス2世は、紀元前13世紀、第19王朝。エジプト史上最長、66年10か月治世。10人以上の妻を娶り、100人以上の子をもうけた。
ラムセス2世が、最も愛したのはネフェルタリ(ネフェルトイリ)。
王妃ネフェルティティは、ツタンカーメンの父王、アクエンアテン王の王妃。王の宗教改革を遂行。ツタンカーメンの継母。紀元前14世紀、新王国第18王朝時代のファラオ・アメンホテプ4世の妻、ツタンカーメンの義母。
アクエンアテン王は、紀元前14世紀、新王国第18王朝時代のファラオ。アメンホテプ4世=アクエンアテン王。アメン神からアテン神、宗教改革を決行。エル・テル・アマルナへ遷都。
ツタンカーメンは、アマルナ最後の王として、9歳で即位。20歳で死去。死因は謎。
王妃アンケセナーメンの矢車菊の花束が、棺に捧げられていた。20世紀、カーターが発見した。
■
【古代エジプトの4大美女】
ハトシェプスト女王、ネフェルティティ、ネフェルタリ、クレオパトラ。
ネフェルティティとは、「アテン(神様の名前)の美女」美女来たり」という意味。
ネフェルタリは「最高の美女、美しき友」女神ムトに愛されし美女」という意味。
★ハトシェプスト女王は女性ながらに王位についた「もっとも高貴な」という名の女王。トトメス2世の王妃。後、ひげをつけ男装して女王となる。トトメス3世と共同統治。ハトシェプスト女王の葬祭殿を建立する。ハトシェプスト女王、権力の2重構造、トトメス3世を操る。紀元前16世紀。葬祭殿、建築
古代エジプトの三大美女は、クレオパトラ7世、紀元前1世紀、プトレマイオス王朝の女王。
★ネフェルティティ。ネフェルティティはツタンカーメンの父王、アクエンアテン王の王妃。王の宗教改革を遂行。ツタンカーメンの継母。紀元前14世紀、新王国第18王朝時代のファラオ・アメンホテプ4世の妻、ツタンカーメンの義母。
★ネフェルタリ、紀元前13世紀、第19王朝の大王ラムセス2世の正妃。
【古代エジプトのファラオたち】
★トトメス1世、植民地政策。
★ハトシェプスト、幼少のトトメス3世の摂政となる。ハトシェプスト、ファラオとなり実権を掌握する。ハトシェプスト女王葬祭殿を造営する。
★トトメス3世、【エジプトのナポレオン】。単独王となりアジアとヌビアに多数の軍事遠征を実施、【エジプトの領土最大】になる。
★アクエンアテン(アメンヘテプ4世)、アテン神を唯一神とする宗教改革を断行する。紀元前14世紀、新王国第18王朝時代のファラオ。
★絶世の美女ネフェルティティ(Nefertiti) アクエンアテン(アメンホテプ4世)の妃。ネフェルティティ、美しき者きたりぬ。テーベからアマルナに遷都する。ツタンカーメンの義母。
★ツタンカーメン、少年王。アメン神信仰に復帰する。アマルナからメンフィスに遷都する
★ラムセス2世 第19王朝。エジプト史上最長、66年10か月治世。10人以上の妻を娶り、100人以上の子をもうけた。最も愛したのはネフェルタリ(ネフェルトイリ)。
建築王。カルナック大神殿などの巨大建造物の造営や軍事遠征を実施。末期にはアメン大司祭がテーベの実権を掌握する。
★アレクサンドロス大王
アレクサンドロスは、父王の遺志を継いで、ペルシア帝国滅亡の戦いに旅立つ。ペルシア帝国滅亡後、ディアドコイ戦争がはじまり、将軍プトレマイオスがエジプトを統治する。
★プトレマイオス1世
★クレオパトラ7世
【地中海文明の興亡 地中海の戦い】
トロイ戦争BC1200
アガメムノン王率いるギリシア連合軍、トロイを滅ぼす。
カデシュの戦いBC1280
ラメス2世、カデシュ王と世界最古の平和条約。
アマルナ遷都BC14C
アクエンアテン王(アメンホテプ4世)は、エル・テル・アマルナに遷都、アテン神に宗教改革。
サラミスの海戦BC480
ペルシア帝国は、ミレトスの反乱を鎮圧。ギリシア遠征を企て、マラトン上陸。アテネの将軍ミルティアデス率いるファランクスに撃退される。BC490
アテネ、ペルシア帝国を破る。アテネの将軍テミストクレス率いる艦隊、クセルクセス1世率いるペルシア帝国を破る。
イッソスの戦いBC333
アレクサンドロス3世率いるギリシア連合軍、ダレイオス3世世率いるペルシア帝国を破る。アレクサンドロス、エジプト、ペルシア、インドにまたがる大帝国を築く。ヘレニズム文化が地中海世界に拡散。インドにガンダーラ美術生まれる。
アクティウムの海戦BC30
クレオパトラとアントニウス率いるエジプト艦隊、オクタヴィアヌス率いるローマ艦隊に破れる。ローマは、エジプトを属国化し、帝国となる。
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古代エジプト年代記
初期王朝時代 第1王朝から第2王朝 紀元前3000年―2686年
古王国時代 第3王朝から第8王朝 紀元前2686年―2160年
第1中間期 第9王朝から第11王朝前半 紀元前2160年―2055年
中王国時代 第11王朝後半から第14王朝 紀元前2055年―1650年
第2中間期 第15王朝から第17王朝 紀元前1650年―1550年
新王国時代 第18王朝から第20王朝 紀元前1550年―1069年
第3中間期 第21王朝から第25王朝 紀元前1069年―669年
末期王朝時代 第26王朝から第31王朝 紀元前664年―322年
プトレマイオス王朝時代 紀元前332年―30年
ローマ支配時代 紀元前30年―後323年
ビザンティン帝国支配時代 323年―642年
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新王国時代 第18王朝
イアフメス 紀元前1550年―1525年
アメンヘテプ1世 紀元前1525年―1504年
トトメス1世 紀元前1504年―1492年
トトメス2世 紀元前1492年―1479年
トトメス3世 紀元前1479年―1425年
ハトシャプスト女王 紀元前1473年―1458年
アメンヘテプ2世
トトメス4世
アメンヘテプ4世 紀元前1352年―1335年
【第18王朝消された一族】
アクエンアテン
ネフェルティティ 紀元前1335年―1333年
ツタンカーメン 紀元前1333年―1323年
アイ
■アメン神殿
2000年間、第12王朝時代以降、歴代の王により、アメン神に捧げられた神殿
カルナク・アメン大神殿Amun Temple、至聖所(Sanctuary of Amun)、アメン大神殿の大列柱室、大列柱室(Processional colonnade)、トトメス1世とハトシェプストのオベリスク。
ルクソール神殿、至聖所(誕生の間 Birth room)、列柱室 (Hypostyl hall)、大列柱室(Processional colonnade)。
神殿は、神が生命創造の儀式を行う場所、混沌の水から生命が誕生し再生する。至聖所(Sanctuary of Amun)は、創造の神が生まれた原初の丘。天井の星は、生命創造の小宇宙。
アメン神殿列柱は、パピルス柱、ロータス柱があり、それぞれパピルスとロータスをモチーフにしており開花式、閉花式がある。オシリス柱と呼ばれる腕を交差した王がオシリスの姿をした柱、柱頭がハトホル女神を表したハトホル柱もある。
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クレオパトラの死 プトレマイオス王朝最後の華
https://t.co/dcAKahB4fI
大久保正雄『地中海紀行』第45回クレオパトラの死1
アントニウスとクレオパトラ 愛と死
https://t.co/1hdgZYVOMT
大久保正雄『地中海紀行』第46回クレオパトラの死2
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★ネフェルティティ王妃胸像、ベルリン博物館、紀元前14世紀
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★参考文献
鈴木八司『王と神とナイル エジプト』沈黙の世界史〈第2〉1970年
吉村作治『古代エジプト講義録』講談社1994
★河合望『ツタンカーメン 少年王の謎』集英社新書2012
★河合望『ツタンカーメンと古代エジプト王朝』実業の日本社新書2012
P・クレイトン著『ファラオ歴代誌』創元社
吉村作治監修『古代エジプト なるほど事典』2001
アルベルト・シリオッティ(著)矢島文夫(訳)『王家の谷 テーベの神殿とネクロポリス』1998
リーブス『図説 王家の谷百科』
イアン・ショー&ポール・ニコルソン『大英博物館 古代エジプト百科事典』原書房、1997
『芸術新潮』2009年9月号717号 特集 エジプト美術世界一周
P・マティザック『ローマ皇帝歴代誌』創元社
J・ロジャーソン『旧約聖書の王歴代誌』創元社
ジョイス・ティルディスレイ『古代エジプ女王 王妃歴代誌』創元社
ジャン・ベルクテール『古代エジプト探検史』知の再発見双書1990
エディット・フラマリオン『クレオパトラ』知の再発見双書1994
東京国立博物館「クレオパトラとエジプトの王妃展」2015
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-e2a7.html
大久保正雄2016年8月5日
大久保正雄『地中海紀行』第46回クレオパトラの死2
アントニウスとクレオパトラ 愛と死
クレオパトラは、キュノドス河を遡り航行する。黄金の艫の船に乗り、紫の帆を張り、立ち昇る薫香の妙なる香りが、河の岸辺に満ちて漂った。
アレクサンドロス大王の軍が遠征した時は、彫刻家リュシッポス、画家アペレス、歴史家、遊女、音樂家、料理人、將軍の友人たち、家族も同行し、国が移動するようであった。(プルタルコス)
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
■アントニウスとクレオパトラ
アントニウスは、戰場では狂えるごとく武勇を発揮したが、平時は宴と美女に耽溺した。生涯の重要事件は宴会の舞台で起っている。出遊する時、凱旋行進のように、黄金の盃を持ち歩き、贅沢な食事に濫費を蕩尽した。寵愛する美女をつれて歩き、臥輿(ふこし)に乗せていた。アントニウスは、恋愛か戰爭か睡眠の時以外は、宴会から宴会へ渡り歩いていた。アントニウスが率いる軍隊は、料理人、遊女、音樂家など、扈従する人々が多く、町が移動するようであった。アレクサンドロス大王の軍が遠征した時は、彫刻家リュシッポス、画家アペレス、歴史家、遊女、音樂家、料理人、將軍の友人たち、家族も同行し、国が移動するようであった。
アントニウスにとって決定的にわざわいとなったのはクレオパトラとの恋である。クレオパトラ7世はプトレマイオス12世アウレテース(笛吹き王)の次女である。アントニウスは、紀元前41年パルティア戰爭に着手した時、クレオパトラに使節デルリウスを送り、「カッシウスに多額の軍資金を与えた」という非難に対する弁明を求めて、キリキアのタルソスで会見するために招いた。アントニウスと面会する時、クレオパトラは28歳、女の美しさが最も花々しく咲き誇り、才知輝く年齢になっていた。アントニウスは、この時42歳であった。クレオパトラは、華やかに着飾って、アレクサンドリアから地中海を航海した。
「クレオパトラは、アントニウスと友人から招きの手紙を澤山貰い、軽蔑し嘲笑した。
クレオパトラは、キリキア地方のキュノドス河を遡り航行する。黄金の艫の船に乗り、紫の帆を張り、操舵手は、笙と竪琴(キタラ)と笛(アウロス)の音に合わせて、銀の櫂を漕ぎ、クレオパトラは、黄金の刺繍を施した天蓋の下に、絵の中のアプロディーテーのように着飾って坐り、エロースの神のような子供たちが扇を煽ぎ、美しい侍女が海の精ネーレイスや美の女神カリスの衣裳を身にまとい、舵の所に立ち帆柱に立った。立ち昇る薫香の妙なる香りが、キュノドス河の岸辺に満ちて漂った。
人々は河岸からこれに随って町から眺めにやって来た。アゴラの群集も散り去り、壇上に坐っていたアントニウスだけが独り取り残された。アプロディーテーがアシアの幸福のためにディオニュソスの処へ饗宴をするためにきた、という噂が四方に広まった。
アントニウスは、クレオパトラを食事に招く招待状を使いにもたせると、相手は「そちらから出向いて頂きたい」と申し出てきた。アントニウスは、好意的な態度を示そうと思って、請われるままに出掛けた。言語を絶する用意を目にしたが、驚嘆したのは無数の光の渦であった。膨大な数の燈火が設けられてあらゆる方向から輝き光り瞬き、四角や円を象作って、一つ一つが美しく巧妙に配置されていた。」(cf.プルタルコス『アントニウス伝』)
クレオパトラの美しさは、容貌の美しさではなく、言語の巧みさ、知性の魅力で圧倒した。美貌と聡明さにおいては、オクタウィアの方が優れていたと言われる。
「クレオパトラの美しさはそれだけでは比較を絶するものではなく、見る者を驚かす程のものではなかったが、応対に相手を逃さない魅力があり、容姿が会話の説得力と、その場の人々に、誘惑するような性格を兼備し、刺激的に心を魅了した。口を開くと、聲音に歓樂が漂い、多弦の樂器のように弁舌を、話題に合わせて揮い、非ギリシア人にも通訳を介さずに、エティオピア人、ヘブライ人、アラビア人、シリア人、ペルシア人、パルティア人にも自ら応答した。クレオパトラ以前の王たちはエジプト語すら習得せず、マケドニア語を忘れた者もいた。」(cf.プルタルコス『アントニウス伝』)
アントニウスはクレオパトラに心を魅了され、ローマのフルウィアの武裝蜂起、メソポタミアの変事を忘れた。アントニウスはクレオパトラの言うままにアレクサンドレイアに行き、催しや遊戯に耽って「最も贅沢な浪費、時」(アンティポン断片77)を空しく快樂に使った。二人で「眞似のできない生活(アミーメートビオイ)の会」を作り、毎日、互いに饗宴を催して信じ難いほど過度な浪費を行なった。
クレオパトラは、阿諛を、プラトンが『ゴルギアス』(464c)で言うように四通りでなく、幾通りにも分けて用い、アントニウスが眞剣な時も戯れている時も、絶えず新しい歓樂と媚態を演じて、昼も夜もアントニウスを離さず、意のままに思うままに操った。アントニウスが平民の家で話をして嘲る時、クレオパトラは召使の着物を着て一緒に歩き回った。
アレクサンドレイアで宴に酔いしれているアントニウスのもとに、妻フルウィアがオクタウィアヌスに兵を率いて蜂起したという知らせと、パルティア軍が侵略したという知らせが届いた。フルウィアが悲痛な手紙を送ってきたので、アントニウスは200隻の船を率いてイタリアに向かった。フルウィアがギリシアのシキュオンで死んだので、オクタウィアヌス・カエサルと和解が可能になった。フルウィアの死後、アントニウスは、オクタウィアヌスと会見し、支配権を分割、イオニア海を境界として、東はアントニウス、西はオクタウィアヌス、レピドゥスにはアフリカを委ねる取決めを行った。
ローマ人たちは、アントニウスとオクタウィアヌスの姉オクタウィアとが結婚すれば、2人があらゆる事柄に協力一致するという希望をいだいた。2人は、ローマに行き、アントニウスとオクタウィアとの結婚式を擧げた。
アントニウスはオクタウィアを連れて、ギリシアに行き、アテナイで冬を過ごし、ギリシア人たちと饗宴を行い、ギュムナシアルコスに就き競技会を開いた。アントニウス軍の將軍ソシウス、將軍カニディウスは、武勲を立てアントニウスの名声を高めた。
アントニウスは、オクタウィアヌスの誹謗中傷に怒り、300隻の艦隊を率いてイタリアに航行し、ブルンディシウムに行き、タレントゥムの港に入った。オクタウィアの願いを聞き入れ、弟の所に遣った。タレントゥムの和約を結んだ。
アントニウスは、突如アンティオキアに赴く。プルタルコスは、プラトン『パイドロス』の比喩を用い「善惡二頭の馬に曳かれた御者が惡の馬に従う」と説明する。シリアの地に足を踏み入れた瞬間、忘れえぬ魅力の虜となる。アントニウスは、アンティオキアにクレオパトラを呼び寄せた。クレオパトラに対する恋が燃え上がった。二人は、目の眩む祝祭と饗宴を、繰り返した。
アントニウスは、クレオパトラに、シリア、キュプロス、キリキア、アラビアのナバタイオイ族の領土を与えた。これがローマのオクタウィアヌスに攻撃の口実を与えた。アントニウスは、オクタウィアと離婚し、オクタウィアヌスは、クレオパトラに宣戦布告する。アントニウスは、クレオパトラを連れて、エフェソスに行き、サモス島に行き、宴を開き、歓樂に耽り、ディオニュソスの犠牲式を行った。さらにアントニウスとクレオパトラはアテナイに航行した。重大な決定は女の気まぐれに左右された。アントニウスは、クレオパトラのために20万巻のペルガモン図書館の蔵書をアレクサンドリアに移させた。 アクティウムの海戰で、アントニウスとクレオパトラの連合軍は敗れた。アントニウスとクレオパトラ、二人の恋人は、「眞似のできない暮らしをする人々の会」を解散し、「死をともにする人々(シュンアポタヌーメノイ)の会」を結成した。二人のみならず、友人たちは、時が來たら一緒に死ぬことを約束した。だが、その時までは、宴を催し、美味なる料理に舌鼓を打ち、樂しく時を過ごした。
クレオパトラは、致命的な毒薬を集めて、その一つ一つを苦痛がないことを試すために、死刑囚に飲ませて試みた。アスピスという毒蛇が噛んだ時は、痙攣も呻吟を起こさず、眠くなり感覚が容易に麻痺して熟睡している人のように呼び起こして目覚めさせることができないことを発見した。 (cf.プルタルコス『アントニウス伝』9-71)
■アクティウムの海戦
オクタウィアヌス軍は、歩兵7万、騎兵1万2千、名將アグリッパが4百隻の艦隊を指揮した。アントニウス軍は、歩兵10万、騎兵1万2千、5百隻の艦隊を率いた。貨物船300隻が物資を輸送した。クレオパトラは、アントニア号に乗り、60隻の艦隊を指揮した。ギリシアのアンブラキア湾に、両艦隊は集結した。
アントニウスがアクティウムに陣を張ると、オクタウィアヌスは対岸に陣を張った。両者は、睨みあい、冬が過ぎた。オクタウィアヌス軍はメトネを襲撃し、エジプトからの補給路を断った。春になると、島々を占領し、アンブラキア湾を包囲した。味方からは、トラキア王らが離反した。陸上戰に持ち込んでも、勝ち目はなかった。生き残る道は一つ、敵の包囲網を突破して、脱出することであった。アントニウスは、軍船を焼き払い、クレオパトラの船に軍資金を移した。アントニウスは、「帆を持って行くように」と命じた。戰時には陸に置いて行く帆をもって行くのは、脱出するためであった。
4日間、嵐で海が波立って戰いを妨げた後、5日目、紀元前31年9月2日、風が止み、海は凪いだ。両軍は、出撃し、アントニウス軍は、停泊地を離れた。敵の包囲網を突破するためである。アグリッパが左翼を展開したので、プブリコラはこれに対抗するために追撃した。両軍、入り乱れ海戰は伯仲した。突然、クレオパトラの艦隊60隻が敵の包囲網を破り、沖に脱出した。アントニウスは五段櫂船に移り、他の艦隊があとに続いた。100隻の船が脱出した。プルタルコスは、「アントニウスは、自分のために戰っている人々を裏切り、置き去りにした。自分を破滅させ、その破滅を甚だしいものにした女を追いかけた」と書く。が、敵の包囲網を突破するためには唯一の方法であった。アントニウスは、敵の裏をかき、窮地を脱して、捕虜にならず、財宝を持ち帰り、生きのびて、再起を期した。
アントニウスは、リビュアに到着し、クレオパトラをエジプトに送り、人との交渉を絶って、二人の友人と逍遥を樂しんだ。ギリシアの弁論家アリストクラテス、ローマ人ルキリウスである。ルキリウスは、フィリッピの戰いでブルートゥスを逃がすために自分がブルートゥスであると言って敵に降伏したが、アントニウスに助けられて、アントニウス最期の時まで、忠誠を尽くした。リビュアのアントニウス軍の將軍も離反したので、アントニウスは、生涯を終えようとした。二人の友人が妨げて、アレクサンドリアに連れて行った。アレクサンドリアに行き、パロスの海岸に住いを作り、人々から離れて亡命者として住んだ。忘恩に傷つけられ、あらゆる人間が信用できなくなり、嫌悪を感じていた。 アントニウスとクレオパトラの二人は、アシアにいるオクタウィアヌスに使者を送り「クレオパトラはエジプトの統治権を要求し、アントニウスはエジプトかアテナイで隠遁して暮らしたい」と申し出た。オクタウィアヌスは使者テュルソスを遣わし、クレオパトラに「アントニウスを殺せば、報酬を出す」と言ったが、クレオパトラは拒否した。
紀元前30年8月1日、アレクサンドリアで、最後の戰いが行われ、アントニウスの艦隊が、敵に寝返ったため、敗北した。 (cf.プルタルコス『アントニウス伝』64-76)
■アプロディーテーとディオニュソス
プルタルコス『アントニウス伝』によると、アントニウスはディオニュソスに自らを喩え、クレオパトラは自らをアプロディーテー(ウェヌス)であると考えていた。これに対し、オクタウィアヌスは自らをアポロに喩え、パラティーノの丘にアポロ神殿を建てた。(cf.スエトニウス『アウグストゥス伝』) アントニウス対オクタウィアヌスの対決は、ディオニュソス対アポロンの対決として、オクタウィアヌスは、宣伝戰を展開した。
紀元前46年夏、クレオパトラは、カエサルの「4つの勝利を祝う凱旋式」に出席するため、カエサリオンをつれて、ローマに行き、テヴェレ河の向こう岸、ヤニクルムの丘にあるカエサルの別荘に住んだ。
カエサルは、紀元前46年9月26日、フォルム・ロマヌム、カエサル広場に、ウェヌス・ゲネトリクス神殿を建てた。ウェヌス神殿は、カエサル一族の神殿として、凱旋式の時に建立された。ウェヌスは、カエサル氏族の守護神であった。クレオパトラは、ウェヌスであると考えられていた。カエサルは、カエサル一族のウェヌス神殿、ウェヌス女神彫像の傍らに、クレオパトラの黄金像を納めさせた。ウェヌス・ゲネトリクス女神像は、透き通った衣を纏う像で、ギリシア人彫刻家アルケシラオスの作品である。この年、カエサルはアレクサンドリア暦を導入した。ユリウス暦は、クレオパトラに随行して来ていた天文学者ソシゲネスの計算によるものである。紀元前44年、カエサルの死後、クレオパトラは、テヴェレ河を降り、オスティアから出帆して、エジプトに帰った。
今、カピトリーノ博物館に「カピトリーノのヴィーナス」がある。
カピトリーノのヴィーナスは、エーゲ海のパロス島産の大理石で作られている。古典時代後期、プラクシテレス「クニドスのアプロディーテー」の模刻である。恥らいのウェヌス、「アプロディーテー・アナデュオメーネ」を表現している。ローマにはまた、エスクィリーノのヴィーナスがあり、清純な美しさを湛えている。
■アントニウスの末裔 皇帝の血
アントニウスは、3人の妻との間に六人の子が生れた。フルウィアとの間には、男子アンテュルスが生れ、オクタウィアとの間には、2人の姉妹、アントニアが生れた。
アントニウスとクレオパトラの間には、3人の子が生れた。双子、アレクサンドロス・ヘリオス(太陽)、クレオパトラ・セレネ(月)である。そしてプトレマイオス・フィラデルフォスである。紀元前30年、アレクサンドロス、プトレマイオス・フィラデルフォスは、行方不明になる。この時、アンテュルスは、殺された。クレオパトラは、カエサルの子、プトレマイオス15世カエサリオンを生んでいた。オクタウィアヌスは、カエサリオンを、クレオパトラの死後、沙漠で殺した。オクタウィアヌスは「カエサルが何人もいるのはよくない」といった。
生き残ったアントニウスの遺児、2人の姉妹アントニア、クレオパトラ・セレネはオクタウィアによって、育てられた。オクタウィアは、亡き夫アントニウスの思い出に忠節を尽した。
姉アントニアは、ドミティウス・アエノバルブスと結婚した。妹アントニアは、皇妃リウィアの子ドルススと結婚した。妹アントニアからクラウディウスとゲルマニクスが生まれ、ゲルマニクスからガイウス(カリギュラ)が生まれた。ティベリウスの死後、カリギュラは第3代皇帝となり、クラウディウスは第4代皇帝となった。
姉アントニアの子、ドミティウス・アエノバルブスは、ユリア・アグリッピーナと結婚した。アグリッピーナから、ネロが生まれ、第5代皇帝となった。
アントニウスは、エジプトで非業の死を遂げたが、その末裔は、皇帝となり、ギリシア文化を愛し、比類なき生を繰りひろげた。
■愛と死の果てに
権力の頂点を極めたが、恋に耽溺したアントニウスは、美に溺れ、ギリシアとエジプトを愛した。ギリシアとエジプトの退廃を愛する魂は、地上の名譽より、逸樂を求めた。アントニウスとクレオパトラは、死に追いつめられ、アレクサンドリアで果てる。戰いに破れ没落したアントニウスは、地中海の落日を眺め、海辺に佇んだ。
アントニウスは、ギリシア、エジプトに隠遁することを夢見たが、宿敵によって、それは許されなかった。アントニウスとクレオパトラの物語は、愛と死の秘密を語る。美はいのちを犠牲にして手に入れるものであり、知恵は地上における価値を超える。愛の極みは死である。愛の存在は死によって立証される。人生の光の路は、生と死の彼方に辿りつく。
★Claude Lorrain, Cleopatra at Tarsos, 1643
★Alexandria
★参考文献
プルタルコス河野與一訳『英雄伝』12巻、岩波文庫1956
プルタルコス河野與一訳『アントニウス伝』『カエサル伝』
スエトニウス國原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上下、岩波文庫1986
エディット・フラマリオン『クレオパトラ 古代エジプト最後の女王』創元社1998
シェイクスピア小田島雄志訳『アントニーとクレオパトラ』
小田島雄志『小田島雄志のシェイクスピア遊学』白水社1982
小田島雄志『シェイクスピアの人間学』2007
エウジェニア・リコッティ武谷なおみ訳『古代ローマの饗宴』平凡社1991
青柳正規『皇帝たちの都ローマ』中公新書1992
プリニウス中野定雄・中野里美訳『プリニウスの博物誌』雄山閣1986
大久保正雄Copyright2003.03.26
大久保正雄『地中海紀行』第42回幻のローマ帝国2
カエサルとクレオパトラ 「ルビコンを渡る」
カエサルは、軍事的天才、豪放磊落な性格は人の心を捕えて放さなかった。將兵は、カエサルに心酔した。
絨毯の中から薄絹を身に纏ったクレオパトラが現れた。クレオパトラはこの時21歳、蠱惑的な眼差しで、匂い立つような魅力を放っていた。
カエサルは、クレオパトラの術策に陥り、魅力的な応接の虜となった。
カエサルの言葉 「賽は投げられた。ルビコンを渡る」BC49年
「来た、見た、勝った」BC47年8月2日「ブルータス、お前もか」BC44年3月15日
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
■カエサルの死
23箇所、剣で刺され、56歳で死す。
『地中海人列伝19』
ユリウス・カエサルは、紀元前44年3月14日時刻は午前11時、元老院を召集した。場所はポンペイウス劇場裏の回廊。かつて自分が死に追いつめた者を記念する劇場の回廊である。カエサル派の執政官アントニウスは、強靭な腕力をもつため、足止めされている。
クニドス生れのギリシア人アルテミドロスが陰謀計画の概要を知り、密告しようと思って、書面に記してカエサルのもとに持って来た。カエサルはそれを読もうとしたが、面会者が多いため妨げられて、この書状を持ったまま会議場に行った。カエサル暗殺の共謀者は60名を越えた。首謀者はガイウス・カッシウス、マルクス・ブルートゥスである。
共謀者たちは、黄金の椅子に坐っているカエサルを取りまいて立つ。魁のキンベル・ティリウスが請願することを裝い、カエサルに近寄った。カエサルがこれを制止した瞬間、両肩をトガ(上衣)の上から抑えた。「余に暴力をふるうのか。」
一人がカエサルの喉下を切る。カエサルがペン先を突き刺す。
カエサルはトガで頭を覆い、下半身をも包み込む。かくして二十三箇所を剣で刺され、ただ一度だけ呻いた。襲撃したブルートゥスに「お前もか。我が子よ。」と聲を出し、息絶えた。カエサルは、56歳で死んだ。
カエサルの遺言状が、パラティヌスの丘のアントニウス邸で開封され朗読された。姉の孫ガイウス・オクタウィウスが4分の3の遺産相続人に指名され、カエサル家の養子として名前も継がせた。(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』)
ガイウス・ユリウス・カエサルは、紀元前100年、内乱の時代、革命の時代と呼ばれる時代に生れた。門閥派(オプティマーテス)と民衆派(ポプラーレス)とが激しく抗爭する時代である。カエサルは、ユリウス家出身の貴族であるが、16歳の時、民衆派の首魁マリウスの寡婦ユリアの仲介によって民衆派の領袖キンナの娘コルネリアと結婚した。ユリアは叔母であった。キンナは執政官の地位にあった。東方から帰還した門閥派のスッラはキンナを殺害、ローマを制圧し、民衆派を徹底的に弾圧した。カエサルは、財産を没収され、放浪の身となり追われたが、スッラに許しを請い、赦免を得ることに成功する。スッラは紀元前78年に死去した。紀元前71年、クラッススが南イタリアの奴隷反乱(スパルタクスの乱)を粉砕し、スッラの部下ポンペイウスが鎮圧、ローマにおける権力を掌握した。
紀元前61年カエサルは、法務官の任期を終えると、ヒスパニア属州総督として赴任しようとするが、債権者が非難したので、クラッススに縋りつき、クラッススが債権者を引き受け830タラントンの保証をした。紀元前60年カエサルは対立していた將軍ポンペイウスと富豪クラッススを和解させ、密約を交わし、二人はカエサルを支援して59年執政官に当選させた。カエサルは、娘ユリアをポンペイウスに結婚させ、ポンペイウスは元老院を説得してカエサルに全ガリアを統治する権限を与えた。紀元前59年ガリア総督となり、赴任する。50年まで九年間ガリア戦争を指揮し、数々の戰いで勝利を収め武勲を立てる。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)
紀元前50年カエサルのガリア総督任期満了に伴い、執政官立候補をめぐる問題がローマで激化する。元老院は、ガリア総督の職を辞して軍裝を解いてローマに帰還するように要求する。カエサルは、武装解除してローマに帰還すると、在任中の不正を告発され処刑される恐れがあるため、軍団指揮権を持ったままローマに帰還することを要求する。
紀元前49年1月10日カエサルは、元老院の警告を無視して、武装したまま、「賽は投げられた。」と言って、ルビコン河を渡河して、ガリアとイタリアの境界を越えた。ローマに進撃、元老院及びローマに対して反乱する。二人の執政官と將軍ポンペイウス、貴族たちは、ローマを棄て東方に逃走する。12月、カエサルは独裁官に就任する。
カエサルとクレオパトラ
紀元前48年8月9日カエサルは、ファルサロスの戰いでポンペイウス軍を破る。ポンペイウスは、アレクサンドリアに逃れるが、アレクサンドリアの海辺で王の宦官ポテイノスに欺かれ暗殺される。9月カエサルは、アレクサンドリアに上陸する。テオドトスがポンペイウスの首と指環を持って来たが、涙を流して指環を受け取った。エジプト宮廷は、弟王プトレマイオス13世と姉クレオパトラが対立し、宦官ポテイノスはクレオパトラを追放していた。ポテイノスはカエサルに対して陰謀を企み、侮辱的な態度で振舞い、カエサルは自らの身を護るため酒宴を催し、眠らず警戒した。亡き王プトレマイオス12世がカエサルから1千万ドラクメーを借金していたが、この負債の返却を求めると、宦官ポテイノスは「後日返済する。この場はこの地から去るように」と言った。カエサルは、ひそかに追放されていた地方からクレオパトラを呼び寄せるように、部下に命じた。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)
クレオパトラは、腹心の側近シチリア人のアポロドロス一人を伴って小舟に乗り、夕暮時、暗くなったころ、王宮に舟をつけた。人目を避ける手段がなかったので、絨毯に身を包み身体を長くのばして、アポロドロスが革紐で縛り、扉からカエサルのもとに運び入れた。カエサルが紐をとくと、絨毯の中から薄絹を身に纏ったクレオパトラが現れた。クレオパトラはこの時21歳、蠱惑的な眼差しで、匂い立つような魅力を放っていた。
カエサルは、クレオパトラの術策に陥り、魅力的な応接の虜となった。クレオパトラと弟の王とを和解させ共同統治させた。だが祝宴の饗宴を催して、カエサルの奴隷が聞き耳を立て穿鑿していると、將軍アラキスと宦官ポテイノスがカエサルに対して陰謀をめぐらしていることを耳に挟んだ。カエサルは、証拠を突き止め、宴会場に護衛兵を配置して、ポテイノスを殺害した。エジプトの將軍アラキスは、陣営に逃れ、王宮を包囲して攻撃した。カエサルは、少数の兵力によって防戦したが、水路を断たれ、窮地に立たされた。ローマ艦隊との連絡を断たれるに至ったので止むを得ず火を放つと、火が造船所からアレクサンドリア図書館に燃え移り図書館は灰燼に帰した。パロス島沖の戦闘でカエサルは突堤から小舟に乗り移り味方を助けに行こうとしたが、エジプト軍の船に集中攻撃を受け、海に飛込んで危機を逃れた。王が敵に走ったので、これを攻撃して勝利を収めたが、王は行方不明となった。紀元前47年3月27日アレクサンドリア戦爭は終結した。カエサルは、クレオパトラをエジプトの女王の地位につけた。カエサルは、クレオパトラとともに、ナイル河を溯り、エティオピアに巡歴する。6月エジプトを去りシリアに軍を進める。クレオパトラとの間にカエサリオンが生れる。ミトリダテス王の子ファルナケスは部将ドミティウスを敗り、ポントス、ビテュニア、カッパドキアを掌中に収めたという報告を受けて、
「来た、見た、勝った」
カエサルは、シリアから、三個師団を率いてファルナケスを攻撃し、8月2日、ゼラの町で激戦を展開し、ポントスから潰走させ、殲滅した。ローマの友人マティウスに手紙を書き「来た、見た、勝った」の三語を書き送った。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)
カエサルの死
死の前年、カエサルは、第4回コンスルに就任、暦法を改正してユリウス暦を採用、セルウィウスの城壁を壊し市域を広げた。紀元前44年、第5回コンスルに就任。1月26日、終身独裁官に就任。2月15日公式に終身独裁官の称号を用い、アントニウスはカエサルに王冠を呈した。3月14日カエサルは、暗殺される。(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』)
プルタルコスは記した。「全生涯を通じて、数多くの危険を冒して求めつづけ、ようやく成し遂げた覇権と支配だが、それによって手に入れたのは、ただ空しき名と、市民の嫉妬を招くことになった榮譽だけであった。」
カエサルは、軍事的天才であり、豪放磊落な性格は人の心を捕えて放さなかった。カエサル軍に従軍した將兵は、カエサルに心酔した。民衆を法廷弁論、剣闘士競技や、経済的支援によって救援したが、独裁権力を構築する基盤であった。財力、武力、知力を駆使して、民衆、元老院議員を買収、ヒスパニア、ガリアでの属州支配を通じて、財力、武力を蓄積して、ローマを支配する元老院勢力、ポンペイウスに反旗を翻し、反対勢力をイタリアから駆逐して、独裁権力を確立した。ポンペイウス、その殘党を殺害して、内乱の時代を終息させた。独裁者による支配を嫌うローマ人は、カエサルを殺害したが、カエサル派のアントニウス、カエサルの甥オクタウィアヌスは、反カエサル派を攻撃、殺害した。
■雄弁術の時代
カエサルは、紀元前75年、モロンの子アポロニオスの下で雄弁術を学ぶために、エーゲ海の美しい島、ロドス島に航海した。執政官級の人ドラベラを告発したが、敗訴したためその復讐を逃れるためであった。アポロニオスは、キケロもその講義を聞いたことがある優れた雄弁術(レートリケー)の師匠で、人柄も立派だという評判の人物であった。カエサルは、政治的演説に優れた才能をもち、その才能に磨きをかけ、雄弁家として文句なく第2位を占めた。
共和制末期ローマで最も雄弁術に優れたのはキケロである。キケロは、カエサルの政治的企み、政策の下に、独裁者たろうとする意図を見ぬき、笑みを湛える海の面のような政策、優しい外見のうちに隠されている独裁者の性格を読み取った。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)
カエサル、キケロたちは、雄弁術を駆使して、元老院議会、裁判の場で、議論を戦わせ、元老院議員の意思、大衆の心を捉え、動かした。
ギリシア人は民会(エクレシア)において、雄弁術を駆使し、民衆の心を動かし、国家の意思決定を左右した。テミストクレス、ペリクレス、など優れた將軍は、華麗な雄弁術を駆使して、優れた国家意思決定に導いた。デモステネスは『フィリッポス弾劾』はじめ反マケドニアの言論を生涯にわたって展開した。雄弁術の時代は、国家の意思が、一人の優れた人間の言論によって動かされる時代であり、国家が容易に一個人によって、導かれる世界である。アウグストゥス以後の官僚組織化された国家は、制度と法による拘束が強くなるが、共和制末期のローマは、内乱期であり、言論と財力、金による買収と武力による脅迫によって、民衆を動かすことが可能な時代であった。
■ハドリアヌス時代、100万人 ペリクレス時代、30万人
ローマの人口は、アウグストゥス時代、ハドリアヌス時代、100万人、コンスタンティヌス時代、80万人と推定される。アテナイの人口はペリクレス時代、30万人、フィレンツェの人口はロレンツォ・デ・メディチ時代、30万人と推定される。
人間的な空間が顕現するのは、都市空間の規模がコンパクトな世界においてである。
プルタルコスの『英雄伝』の世界は、人間が雄弁術を駆使して国家を動かすことができる世界。それは或る意味で無政府状態(アナルキア)の社会である。人間が言論によって人と国家を動かすことができるのは、このように組織が硬直化する以前の社会である。
雄弁術の時代は、知恵と武力、個人の力が威力を発揮することができる人間的な社会である。人が生きいきと生きることができる空間は、人が個の能力によって生きられる空間であり、言論によって正義を実現することができる国家である。
★Cleopatra and Caesar by Jean-Leon-Gerome 1866
クレオパトラとシーザー、ジェロ-ム
★ローマ水道橋(メリダ、スペイン)
★ローマ橋(メリダ、スペイン)
★【参考文献】
プルタルコス河野與一訳『英雄伝』12巻、岩波文庫1956
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
タキトゥス國原吉之助訳『年代記』岩波文庫1981
國原吉之助編『タキトゥス』世界古典文学全集22、筑摩書房1965
タキトゥス國原吉之助訳『同時代史』筑摩書房1996
スエトニウス國原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上下、岩波文庫1986
カエサル國原吉之助訳『ガリア戦記』講談社学術文庫1994
カエサル國原吉之助訳『内乱記』講談社学術文庫1996
クリストファー・ヒッバート『ローマ ある都市の伝記』朝日新聞社、朝日選書 1991
クリス・スカー矢羽野薫訳『ローマ帝国 地図で読む世界の歴史』河出書房新社199
クリス・スカー月村澄枝訳『ローマ皇帝歴代誌』大阪創元社1998
青柳正規『古代都市ローマ』中央公論美術出版1990
青柳正規『皇帝たちの都ローマ』中公新書1992
島田誠『コロッセウムから見たローマ帝国』講談社1999
新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』講談社2000
南川高志『ローマ五賢帝―「輝ける世紀」の虚像と実像』講談社現代新書1998
J.J.クールトン伊藤重剛訳『古代ギリシアの建築家 設計と構造の技術』中央公論美術出版1991
樺山紘一『ローマは一日にしてならず』岩波ジュニア新書1985
大久保正雄Copyright2003.02.05
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