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ギリシア

2016年9月25日 (日)

蘇るアクロポリスの少女、アルカイックの微笑み、二千年の眠り

Kore_of_acropolis_2Ookubomasao110大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第100回アクロポリスの少女
蘇るアクロポリスの少女、アルカイックの微笑み、二千年の眠り

美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
はちみつ色の夕暮れ、黄昏の丘、黄昏の森を歩き、迷宮図書館に行く。糸杉の丘、知の神殿。美しい魂は、光輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

蘇るアクロポリスのコレー
古アテナ神殿、ヘカトンペドンは、紀元前480年、アケメネス朝ペルシアがアテナイを占拠し、アクロポリス全体とともに完全に破壊される (ヘロドトス『歴史』8.53)。アクロポリスのコレーは神殿に捧げられていたが、ペルシア戦争(BC480)の後、アクロポリスの岩盤に埋められた。19世紀末、ドイツ考古学隊によって発見されるまで、土の中に眠っていた。
【ペルシア戦争】
第1次ペルシア戦争、BC492年、ペルシア軍遠征、アトス岬でギリシアを破る。
第2次ペルシア戦争、BC490—88年、ペルシア軍遠征、マラトンの戦いでアテネに破れる。
第3次ペルシア戦争、BC480年、ペルシア軍遠征、クセルクセス王が襲来する。ペルシアによって、アクロポリスが破壊される。テルモピュライの戦いでレオニダス王を破る。サラミスの海戦で、アテナイ海軍に敗れる。
BC479年、プラタイアイの海戦で、アテナイは、ペルシア帝国を破る。ペルシア軍、退却する。
【天才的戦略家、テミストクレス】
BC482年、ラウレイオン銀山の鉱脈が発見された時、ペルシア戦争の勃発を予知したテミストクレスは、アテナイ艦隊の三段櫂船200隻の建造を提案した。全市民を撤退させることを計画した。トロイゼン、サラミス他の都市に市民を避難させる。二千年後、1959年、トロイゼンで大理石に刻まれたテミストクレスの決議碑文が、発見された。テミストクレスは、天才的戦略家、雄大な構想をもつ指揮官である。サラミスの海戦でテミストクレスの予見は、実現した。
パルテノン神殿が、アクロポリスの丘に建設され、エレクテイオン神殿が建設され、ギリシア美術は、古典様式、厳格な様式、艶麗な様式、ヘレニズム様式へ変容した。
BC387プラトンがアカデメイアを創設。紀元前336年、フィリッポスは、アレクサンドロスの妹の結婚式で、王妃オリュンピアスと王子アレクサンドロスに、謀殺され47歳で死んだ。BC334アレクサンドロス大王がペルシア遠征に向かい、BC330ペルシア帝国を滅亡、BC323アレクサンドロスの帝国が滅び、AD529東ローマ帝国ユスティニアヌス皇帝、プラトンのアカデメイアを閉鎖。AD476西ローマ帝国が滅び、AD1453ビザンティン帝国が滅び、AD1918ハプスブルク帝国カール1世が滅びた。
19世紀末、エレクテイオン神殿の土中から「アクロポリスのコレー」発見される。
二千四百年の時が流れ、地中からアルカイックの微笑みが蘇る。

■アクロポリスのコレー
アテナ古神殿、ヘカトンペドン (「百尺の間」)神殿に、ドーリア式ペプロス、イオニア式ヒュマティオンを纏ったコレーが奉納された。
■ヘカトンペドン(アテナ古神殿) Hekatompedon
紀元前6世紀、ペイシストラトスの時代、アテナイオン神殿ヘカトンペドン(アテナ古神殿)が、アクロポリスの丘、アテナの聖域に、創建された(BC570—550年建立)。BC 570年建立。アルカイック様式。BC 520年ペイシストラトスの息子らが立て直した。
アテナイオン神殿は、アルカイックの微笑みを湛えた彫刻、「仔牛を荷う人(モスコフォロス)」Moscophoros,BC560年、「アクロポリスのコレー(少女)」Kore of acropolis,BC530年が神殿に奉納され、アテナ女神像が破風彫刻に置かれた。アルカイック様式の微笑みに満ちた神殿である。
アルカイックの微笑みを湛えた彫刻は「ヴォロマンドラのクーロス」Kouros of Voromandra,BC560がある。青年の墓標として建てられた。
■アルカイックの微笑み
古代ギリシアのアルカイック様式の彫刻は、純粋な微笑みを湛えている。不思議な純粋な美がある。ヘレニズム時代の『ミロのヴィーナス』には、憂いがある。
ギリシアのアルカイック様式の彫刻は、純粋な美である。ローマ彫刻、皇帝アウグストゥス像の容姿と比べれば一目瞭然である。ローマ皇帝の狡猾な容姿は醜悪である。
醜悪なハプスブルク家の皇帝たちは、金と地位で貧乏人の女を買う富裕層の目つきである。
飛鳥白鳳時代の彫刻には、アルカイックの微笑みがある。中宮寺『半跏思惟像』、法隆寺『救世観音』『夢違い観音』(7世紀飛鳥時代)を思い浮かべる。ルネサンス時代、レオナルド派『レダ』(1505—10)、『若いモナリザ』(1503—06)に、アルカイックの微笑みを観るのは、詩人と哲学者だけではない。アルカイックの微笑みの本質は何か。解かれるべき謎である。
ヒエロニムス・ボッシュ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『いかさま師』の目つきは、教皇、現代人の政府高官、官僚、学者、言論人の容貌である。
■パルテノン神殿Parthenon、アクロポリスの建築家たちBC448年
パルテノン神殿は、ペリクレス時代、フェイディアスを総監督として、建設された。アクロポリスの丘の建築は、紀元前448年パルテノン神殿の起工から、ペロポネソス戰爭の最中も継続され、BC 407年エレクテイオン神殿の完成まで、40年に亙って行われた。
■カリアティデス(女人柱) BC407
エレクテイオン神殿は、紀元前421年に起工し、407年完成した。カリアティデス(6体の女人柱)は、このとき建設された。
建築家イクティノスは、バッサイのアポロン・エピクリオス神殿(紀元前440-420年)を設計、エレウシスの聖域にテレステリオン(秘儀堂)を設計した。アテナイと外港ペイライエウスを結ぶ長壁は、ペリクレスによって提案され、カリクラテスによって建設された。さらにペリクレスは、オデイオン(音樂堂)の建設を推進した。
■Parthenon
ドイツ考古学研究所 (German Archaeological Institute) は、1885年から1890年にパルテノン神殿を調査した。この時、エレクテイオンから、コレーが発見された。
Panagiotis Kavvadias of 1885–90. The findings of this dig allowed Wilhelm Dörpfeld, then director of the German Archaeological Institute
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https://en.wikipedia.org/wiki/Parthenon
https://en.wikipedia.org/wiki/Hekatompedon_temple
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ギリシア文明年代記 蘇るアクロポリスの少女
https://t.co/FkPE97ItOd
大久保正雄『地中海紀行』60回P25
ペイシストラトス家とアルクマイオニダイ家の戦い アクロポリスの戦い
ヴォロマンドラのクーロス 死者に献げる供物 子牛を担う人 BC560年
https://t.co/aO3Ia9hN2F
ペロポネソス戰爭 落日の帝国 アクロポリスの建築家たち
https://t.co/izBaPk6g8r
至高の戦略家、テミストクレス ギリシア人の知恵
テミストクレスの決議文、トロイゼンの大理石碑文
https://t.co/T9feAYy0rz
テミストクレスとペルシア帝国の戦争 ギリシアの偉大と退廃
https://t.co/I5UyvXOH2A
紀元前336年、フィリッポスは、アレクサンドロスの妹の結婚式で、王妃オリュンピアスと王子アレクサンドロスに、謀殺された。王位継承問題のため。
マケドニア王国 フィリッポス2世の死
https://t.co/xcCI2H0le5
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎
https://t.co/GqhV2l84wK
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画像
★「ヴォロマンドラのクーロス」Kouros of Voromandra,BC560
★「仔牛を荷う人(モスコフォロス)」Moscophoros,BC560年
★「アクロポリスのコレー(少女)」Kore of acropolis,BC530年
★Parthenon,acropolis athens
★Hekatompedon,acropolis athens
★中宮寺『半跏思惟像』飛鳥時代7世紀、法隆寺『救世観音』『夢違い観音』飛鳥時代7世紀
★レオナルド派『レダ』(1505—10)、『若いモナリザ』(1503—06)
★参考文献
馬場恵二『サラミスの海戦』人物往来社1968
馬場恵二『ギリシア・ローマの榮光』講談社1985
桜井万里子・本村凌二『ギリシアとローマ』中央公論社1997
ダイアナ・バウダー編『古代ギリシア人名事典』原書房1994
トゥキュディデス久保正彰訳『戦史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-72
アリストテレス村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』「アリストテレス全集」第15巻、岩波書店1973
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻、岩波文庫1952-1956
馬場恵二訳プルタルコス「テミストクレス伝」
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
プルタルコス『対比列伝』「テミストクレス伝」「ペリクレス伝」「アルキビアデス伝」「デモステネス伝」
プルタルコス河野与一訳『プルタルコス英雄伝』岩波文庫1956
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
アッリアノス『アレクサンドロス大王東征伝』『インド誌』岩波文庫2001
大牟田章『アレクサンドロス大王』清水書院1976
森谷公俊『アレクサンドロス大王 世界征服者の虚像と実像』講談社選書メチエ2000
森谷公俊『王妃オリュンピアス アレクサンドロス大王の母』筑摩書房1998
森谷公俊『王宮炎上 アレクサンドロス大王とペルセポリス』吉川弘文館2000
ポンペイウス・トログス/クイントゥス・ユスティヌス合阪學訳『地中海世界史』京都大学学術出版会1998
森谷公俊『興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話』講談社2007
本村凌二『興亡の世界史 地中海世界とローマ帝国』講談社2007
ピエール・ブリアン桜井万里子監修『アレクサンダー大王』創元社1991知の再発見双書
エディット・フラマリオン『クレオパトラ』創元社知の再発見双書
トゥキュディデス 久保正彰訳『戰史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-72
クセノポン佐々木理訳『ソクラテスの思い出』1-18岩波文庫1953
アリストテレス村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』「アリストテレス全集」第15巻、岩波書店1973
村田數之亮『ギリシア美術』新潮社1974
村田數之亮『ギリシア』河出書房新社1968
澤柳大五郎『アッティカの墓碑』グラフ社1989年
太田秀通『ポリスの市民生活』生活の世界歴史〈3〉河出文庫)
大久保正雄2016年9月25日

2016年7月 1日 (金)

アルキビアデス 波瀾の生涯 美しい容貌と邪惡な精神

Gabin_hamilton_rouvreAthena_thinking大久保正雄『地中海紀行』37回アテネ 黄昏の帝国2
アルキビアデス 波瀾の生涯 美しい容貌と邪惡な精神

アルキビアデスは、天性、様々な激しい感情を持っていた。
そのなかで競爭心と優越心が最も強かった。
若い頃、アルキビアデスはソクラテスの弟子となり傾倒した。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

アルキビアデス 美しい肉体と邪惡な精神
『地中海人列伝』16
■類い稀なる美貌と才能
アルキビアデス(紀元前450-404)は、アテナイの富裕な貴族エウモルポス家の出身である。軍人、政治家としてペロポネス戰爭末期に活躍した。父クレイニアスは、アルキビアデスの息子、BC480年アルテミシオンの戰いで武勲を立てた。(cf.ヘロドトス『歴史』第7巻17) 母はアルクマイオン家の一族、メガクレスの娘ディノマケーから生まれている。
 父クレイニアスがBC447~6年コロネイアの戰いでボイオティア軍と戰って死に、早世したため、クサンティッポスの子ペリクレスを後見人として成長した。アルキビアデスはペリクレスの甥である。
アルキビアデスは、類い稀なる美貌と才能にめぐまれた。プルタルコスは『対比列伝』に書いた。「アルキビアデスの肉体の美しさについては言うまでもない。肉体の美しさが、少年、青年、壮年あらゆる時期を通じて、人の心に快感をもたらし愛慕の心を起させた。エウリピデスのいうように、すべて美しきものは、その晩秋も美しい、とは限らないが、アルキビアデスや僅かな人たちについてだけ、この言葉は当て嵌る。」(プルタルコス)アルキビアデスは、天性、様々な激しい感情を持っていた。そのなかで競爭心と優越心が最も強かった。
若い頃、アルキビアデスはソクラテスの弟子となり傾倒した。ソクラテスは、アルキビアデスのなかに、容貌の美しさならぬ、精神の美質を見出していた。だが、多くの人々がアルキビアデスの輝く美しさに賛嘆し機嫌をとり、アルキビアデスの精神の美質は滅びつつあった。ソクラテスはアルキビアデスが虚栄に耽っているのを見つけ、目覚めさせた。プラトンの対話編『饗宴』、美をめぐる対話の宴のなかで、アルキビアデスは、ソクラテスの魂の美を醜いシレノス像の中に隠された純金の像に喩える(『饗宴』216d-e)。美貌のアルキビアデスが、貧しく醜いソクラテスの魂の美を賛えるのである。アルキビアデスは、ポテイダイア攻略(BC432-431年)に進撃し、ソクラテスと同じ陣営に宿り戦闘したが傷ついて倒れたので、ソクラテスが救った。またデーリオンの戰爭が行われアテナイ軍が敗走した時、アルキビアデスは騎馬で敵を殺し、徒歩で退却するソクラテスを守った。
 ペロポネソス戰爭の最中に政界に入る。甘美な弁舌によって、多くの民衆煽動家を圧倒した。弁舌の力を持っていることは喜劇詩人も認めた。紀元前421年ニキアスの尽力によって、アテナイとスパルタの間に和約が成立した。ニキアスの和約と呼ばれたのを忌々しく思い、嫉妬心から講和条約を破ろうと図った。反戰派のニキアスに対立する。アルキビアデスは、アルゴスの人々がスパルタに対する憎悪と恐怖から離反しようとしていることを知って、アテナイと同盟を結ぶよう吹き込む。ペロポネソス同盟の分裂を画策する。
 紀元前420年アルキビアデスは、スパルタの和平交渉の使節を追い返し、將軍に任命される。スパルタと敵対関係にある都市、アルゴス、エリス、マンティネイアとアテナイの同盟を結ばせることに成功する。再び戰爭を起こすように策略した。紀元前418年、マンティネイアの周囲に多数の盾を並べてスパルタに対抗させ、アルゴスの民主派が勝利を占めたところで、アルキビアデスが到着して民主派の勝利を確保し、城壁を築いて町と海を結び、アテナイ勢力に依存させた。アルキビアデスは、政策と弁論と計画と優れた手腕を顕示した。だが、宴会と愛欲に耽り、アゴラでは赤い衣裳を引き摺り、贅沢な浪費を恣にした。アルキビアデスは、祖先の名声、弁舌の冴え、艶麗な容姿、肉体の気力、戰爭の経験と武勲、などすべてがアテナイの人々を寛容にさせ、様々な欠点に目を瞑らせた。
 紀元前417年、ヒュペルボロスが廃止されていた陶片追放を導入することによりアルキビアデスを排除しようとしたが、逆にアルキビアデスは政敵と共謀してヒュペルボロスを陶片追放した。紀元前416年、オリュンピア競技に7台の戦車を参加させ、1、2、4位を獲得した。悲劇詩人エウリピデスは、アルキビアデスに詩を作って贈った。
 紀元前416年、アテナイは、メロス島討伐軍を派遣した。メロス島はアルキダモス戰爭中(BC431-421年)スパルタを援助したため、アテナイの指弾を受けた。アルキビアデスはメロスの壯年の男たちを虐殺し、婦女子を奴隷にしたことで非難をあび裁判にかけられた。
 紀元前416年、アルキビアデスは、セリヌスに敵対するセゲスタを援助するためアテナイのシチリア遠征軍を派遣することを唱え、シケリア島(シチリア島)に大艦隊を編成して航海し、シュラクサイを攻撃して屈服させるように説いた。ソクラテスはこの遠征がアテナイのためにならぬと考えた。いつものダイモーンが現れて警告を発したのである。ニキアスは反対したがこれを抑え、紀元前415年遠征を決議させる。アルキビアデスは、ニキアス、ラマコスとともに、シケリア遠征軍の將軍として選ばれた。
 しかし、民衆煽動家アンドロクレスが煽動し、キモーンの子テッサロスが、アルキビアデスをエレウシスの女神に対する冒涜の罪で告発した。アルキビアデスは、誹謗者たちをそのままにして航海できないといったが、人々は出航を命じた。140隻の三段橈船と5100人の重裝歩兵、1300人の弓兵、投石兵、軽裝歩兵、が武裝して出発した。
 アルキビアデスは、美貌、雄弁、戦略、あらゆる才能にめぐまれ、名門の誉れと富をもち、唯一の欠点は快楽に溺れる性格にあった。だが、アルキビアデスは破綻なき人生を生きていた。アルキビアデスの人生が狂い始めるのは、シケリア遠征からである。この時からアテナイの運命も狂い始める。

■アルキビアデス 波瀾の生涯
シケリア到着するや否や、ヘルメス像破壊(ヘルモコピダイ)、涜神行為の告発で召還される。これは反対派の策謀であり、冤罪であった。アルキビアデスは出航するとすぐに、紀元前415年9月メッセネーの町を奪い、イタリアのトゥリオイで本国に送還されるアテナイ船から脱出し身を隠した。欠席裁判の結果、有罪と決し、アッティカの財産は没収された。アルキビアデスは、判決が行われている時アルゴスに滞在していた。政敵により殺されることを恐れ、スパルタに使者を送り、敵国スパルタに亡命する。スパルタ人に指揮官ギュリッポスをシチリアに派遣しアテナイ軍を粉砕すること、アッティカの城砦デケレイアを占領すること、という策を授ける。アルキビアデスは、変わり身が早く、スパルタではスパルタ風の生活を身につけ世人を欺いた。人心収攬術を身につけ、習慣、生活に同調する心得があり、カメレオンよりも鋭敏に変貌した。
アルキビアデスは、スパルタ王アギスが戰爭に出た留守に、妃を誘惑して自分の子を宿させたが、妃は男子を産み、密かに子供の名をアルキビアデスと呼ぶほど、熱い愛慕が妃の心を支配していた。アルキビアデスは、自分の子をスパルタ王にするために王妃の子を作ったといったが、多くの人々がアギスに言い付けた。紀元前413年スパルタ王アギスはデケレイアを占領。アテナイは、ラウレイオン銀山を閉鎖せざるをえなくなり、重要財源を失い、没落の路を辿り始める。
紀元前414年アテナイは、シュラクサイを攻撃するが陥落せず。スパルタから救援軍がアテナイの包囲を破ってシュラクサイに到着する。紀元前413年7月アテナイ軍は敗北。8月27日夜、月蝕が起り、ニキアスは退却を1か月延期する。シュラクサイ軍は報復を開始する。アテナイ軍はシケリア島を這って退却を重ねる。名將デモステネスが救援に駆けつける。アテナイは餓えと渇きに悩まされシュラクサイで降伏する。指揮官ニキアスとデモステネスは死刑。捕虜となったアテナイ兵士7000人は、石切場に閉じ込められ、餓えと渇きと病いのため折重なって死ぬ。17世紀にカラヴァッジオが天国の石切場と呼んだ地である。
紀元前413年9月、アテナイ艦隊はシチリア島で全滅する。アテナイの威信は失墜した。スパルタには、キオス、レスボス、キュディコスからアテナイに離反し、スパルタ側につく使節が到着した。紀元前412年、アルキビアデスは、ラケダイモン艦隊を率いて、イオニアに渡り、イオニアのアテナイ同盟都市をほとんど離反させる。しかしスパルタ王アギス2世は、妃との事でアルキビアデスに敵意を持っていたが、さらに彼の名声に嫉妬心を抱いた。スパルタ人の最有力な最も名譽欲の強い人々が嫉妬からアルキビアデスを憎んでいた。アルキビアデスは、スパルタ人によって、死刑判決を受け、殺されそうになり、ペルシアの総督ティッサフェルネスの下に逃れ身の安全を図った。
 アテナイ艦隊はすべてサモス島に集結していた。アルキビアデスは、サモス島の寡頭政主義の將軍たちに使いを送り、アテナイを寡頭派によって占拠するならばペルシア総督ティッサフェルネスの支援を取りつけると言いくるめ煽動した。アテナイが寡頭派によって占拠されたならば、民主政を回復するため自らアテナイに進撃することを策謀した。サモスの寡頭派はペイサンドロスをアテナイに遣わし、5千人の市民が勢力を占め、紀元前411年6月寡頭派400人党が政権を手に入れた。アテナイで400人党に反抗した者は殺害された。だが同年9月アルキビアデスの仲間が、民主政のために協力し、400人党を潰滅させた。アルキビアデスは、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)のアビュドスでスパルタ艦隊とアテナイ艦隊が海戦を繰り広げている所へ、18隻の三段橈船で到着した。アルキビアデスは、敵兵を300人捕え、味方を救い勝利の標柱を立てた。
 紀元前411年アルキビアデスは、サモス島のアテナイ艦隊の指揮官に任じられ、秋、キュディコスでミンダロス麾下のスパルタ軍を壊滅、アテナイ軍は勝利する。(cf.トゥキュディデス『戰史』第8巻107) 紀元前409-408年冬、アルキビアデスは離反したビュザンティオンに向かい、この町を包囲した。激しい戦闘の後、アテナイ軍は勝利した。
紀元前408/407年初夏アルキビアデスは、アテナイに帰還した。8年に及ぶ放浪の末の帰国である。召還の決議は、紀元前411年秋通過した。カルライスクロスの子クリティアスが提案した。民衆が議会に集まってからアルキビアデスは姿を現し、様々な苦難を嘆き悲しみ、すべてを自分の不幸な運命と邪悪な守護靈の責任に帰し、市民を激励し、黄金の冠を授けられ、陸海両軍の総指揮官に選ばれた。
 紀元前407年春、スパルタの提督リュサンドロスは、ペルシア王アルタクセルクセス2世の弟キュロスから資金援助を受け、エーゲ海の制海権を掌握する。紀元前407/6年アテナイ艦隊の副官アンティオコスが、アルキビアデスの命令に従わずノティオンの海戰でスパルタと戰い敗北した。トラシュブーロスは、民会で民衆を煽動しアルキビアデスを告発、宴と快楽に溺れ指揮しなかったと誣告した。アルキビアデスは、責任を転嫁され將軍職を解かれ、アテナイ軍を去り、トラキアに逃れる。
 紀元前405年秋、アテナイ艦隊はアイゴスポタモイの海戰で撃破される。アテナイは、陸と海を封鎖され食糧補給路を絶たれ、飢餓に陥り、餓死する人々が現れる。紀元前404年、アテナイは無条件降伏する。8月アテナイに三十人僭主、独裁政権が成立する。アテナイの人々は、最も有力にして最も戰爭に優れた將軍アルキビアデスを追放したことを羞ずかしいことだと考えた。
独裁政権のクリティアスは、民主派のアルキビアデスが政権を奪還することを恐れ、スパルタの將軍リュサンドロスに、アルキビアデスを殺害するように忠告する。スパルタのリュサンドロスは、ファルナバゾスに遣いを送り、殺害を依頼した。アルキビアデスは、プリュギアのファルナバゾスの下に逃れるが、ファルナバゾスの手の者に暗殺される。ペルシア人たちに家の周囲を包囲され、遠くから槍と矢を放たれ、アルキビアデスは斃れた。
美貌の將軍アルキビアデスは、陰謀の名人で、策士、戦略の天才であったが、唯一の欠点は官能と快楽に溺れる点にあった。国家への忠誠はなく、敵国スパルタに戦略を指南し、蜥蜴のごとく変身をとげる。シケリア遠征とペロポネソス戰爭末期、二度にわたって、陰謀によって陥れられた。名聲を嫉妬し、私利私欲のために、陰謀を企む者の策謀である。名將アルキビアデスを欠いたことがアテナイの滅亡を招いた。その天才を発揮させることなく、敵国にアルキビアデスの才能は用いられた。爛熟と腐敗と内部分裂、煽動家による陰謀が、国家を滅ぼした。だが、アルキビアデスは、官僚制国家の官僚のように国民を犠牲にして私利私欲を追求するのではなく、残虐な独裁者のように暴力に溺れ猜疑心に駆られ暗殺に明け暮れることはなかった。才能に溺れ美に溺れた、ギリシア的な才人、英雄である。皇帝ハドリアヌスは、アテナイにアルキビアデスの彫像を立て英雄の死を刻んだ。
(cf.プルタルコス『対比列伝』「アルキビアデス伝」、トゥキュディデス『戰史』、プラトン『饗宴』)

悲劇の時代 メロス島の虐殺
■メロス島の虐殺
メロス島は、アテナイ人によって虐殺が行なわれた地である。ルーヴル美術館にあるミロのヴィーナス(メロス島のアプロディーテ)が発見されたのはこの島である。
紀元前416年夏、アテナイは「強者が弱者を支配するのは当然である」といい、ペロポネソス戰爭に中立を守るメロス島に支配下に入るように要求、メロス島はこれを拒否した。アテナイは、艦隊を派遣して包囲、アテナイの重裝歩兵はメロスの港から上陸して、攻撃、メロス人を攻めて追い詰め、大量虐殺を行なった。「成年男子すべてを殺戮し、婦女子を奴隷とする。」(cf.トゥキュディデス『戰史』第5巻84-116)メロス島虐殺事件は、將軍アルキビアデスが関与したとされ、アテナイで告発され裁判にかけられた。(cf.プルタルコス『対比列伝』「アルキビアデス伝」)
紀元前415年春、エウリピデス『トロイアの女たち』が上演された。『トロイアの女たち』は、トロイ戰爭後、敗北したトロイアの女たち、プリアモスの王妃ヘカベ、王女カッサンドラ、ヘクトルの妃アンドロマケの悲惨な末路を描く。ヘクトルの妃アンドロマケは、我が子を城壁から突き落とされ、婢女とされ、敵將の妻として、敵国ギリシアに連れて行かれる。トロイアの女たちは、絶望に打ちひしがれ悲嘆に暮れる。怨恨は果てしなく、怨嗟の聲は、劇中に響き、心を痛ましめる。この悲劇は、前年に起きたメロス島虐殺事件を想定して書かれたと思われる。殘虐を極めた、メロス島虐殺事件に対する詩人の悲憤のあらわれである。
■悲劇の時代
アイスキュロス『ペルシア人』(BC472)からソフォクレス『コロノスのオイディプス』(BC401)まで、現存する悲劇作品の時代は71年間である。ペルシア戰爭からペロポネソス戰爭終結まで、88年間に、アテナイの文化の黄金時代が築かれた。この時代にトゥキュディデスが生き、ソクラテスが生きた。
権謀術策、欺瞞、陰謀が渦巻く乱世。乱世に咲く花のように、英雄の死を刻む悲劇、エウリピデスの陰謀劇が生まれた。蜜のように甘く、毒のように劇しく、美貌の將軍アルキビアデスは、黄昏の国を生き、エーゲ海の波間に波瀾の人生を終えた。
★【参考文献】 プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻、岩波文庫1952-1956
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
トゥキュディデス久保正彰訳『戰史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-72
クセノポン根本英世訳『ギリシア史』1-2京都大学学術出版会1998、1999
村田数之亮、衣笠茂『ギリシア』世界の歴史第4巻 河出書房1968
大久保正雄『魂の美學 プラトンの対話編における美の探究』「上智大学哲学論集」第22号、上智大学1993
プラトン『饗宴』
プルタルコス『対比列伝』「アルキビアデス伝」
Alcibiades https://en.wikipedia.org/wiki/Alcibiades
★Gavin Hamilton,Vénus présentant Hélène à Pâris, 1777-80,Louvre
★Athena thinking mourning, acropolis museum
★沈思のアテナBC470 アクロポリス博物館
大久保正雄Copyright2002.07.31

2016年6月30日 (木)

アテネ 黄昏の帝国 メロス島攻撃、シケリア遠征

Ookubomasao107Ookubomasao105大久保正雄『地中海紀行』第36回アテネ 黄昏の帝国1
アテネ 黄昏の帝国 メロス島侵攻、シケリア遠征

アルキビアデスが策謀にあけくれ策に溺れ、
エウリピデスは陰謀劇を書いた。
メロス島侵攻、シケリア島遠征。
海が血に染まる時、苦悩と痛みが大地に染み、
流された血は、復讐を呼ぶ。

蜜のように甘く、毒のように劇しく、
藝術の花咲き乱れ、爛熟する、黄昏の帝国。
驕れる強者に、復讐せよ。
英雄の苦難と自己犠牲は、復讐の遂行によって輝く。

人は、愛しき人のために戰い、復讐する。
国は滅び、愛する者は死に、愛のみが藝術となって残り、
烈しい光が降り、空は深く、エーゲ海は輝く。
愛する人の面影のように。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■アルキビアデス 蜜のように甘く、毒のように劇しく
陰謀、裏切り、誣告、暗殺。何でもありのポリス。血は血を招き、眞実は闇に覆われる。国家利益を考慮せず、私利私欲を貪り、虚偽によって人を陥れる、アテナイ人の虚妄の正義。藝術が花開き、爛熟する、昏迷の帝国アテナイ。権力をもつ者は力に溺れ、弱者を虐げる。倨傲に至り、栄光は迷妄に変わり果てる。
惡は権威の裝いをもって現れ、善は貧しい衣裳をまとい地位低い者に存在する。優れた能力と惡巧み、欺瞞と眞実、美と醜、善意と惡意、相反するあらゆるものが共存する、魂の闇。心という名の混沌、深い淵。権力者が高い地位と美しい衣裳を身に纏い、惡虐な行爲を行い、正しき人を陥れる時、大地に血は染み、勇者の血は復讐を招く。大地が吸った血は、消えず、凝固し、復讐を呼ぶ。虐げられた勇者の復讐がはじまる。
権謀術策、陰謀のための欺瞞、権力欲。国家利益を犠牲にして私利私欲を貪り、正義の名の下に不正がなされる、帝国の黄昏時。藝術は花開き、善美なる人は滅びる。美貌の將軍アルキビアデスが策謀にあけくれ策に溺れ、エウリピデスは陰謀劇を書いた。

■美しい精神と美しい肉体
眞に美しいものは、美しい姿で現れるとは限らない。醜惡な人間が高い地位と美しい衣裳を身に纏って現れ、心が美しい人が容貌美しからず低い地位と貧しい衣裳で現れるということがある。人は権力と地位と富を持つと醜惡な魂を持つようになる。時に、美しい肉体に醜い精神が住み、美しからぬ肉体に美しい精神が住む。見かけの美しさは、内容の美しさと一致しない。美しい魂と美しい容姿は時に対立する。
アルキビアデスは、美しい肉体を纏い、醜い魂をもつ。ソクラテスは、美しからざる肉体を纏い、美しい魂をもつ。美しい者は醜く、醜い者は美しい。美しい容貌と邪惡な魂。顔貌は美しからず貧しいが純粋で美しい魂。
魂の美しさを見るのは、肉体の美しさを見るほど容易ではない。魂は見えない。魂は、魂から生まれた行動と言葉によってのみ見ることができる。だが、邪惡な魂も、美しい肉体や家柄や富で覆われて、人間の眼を欺いている。魂は見ることができない。だから邪惡な人間が人を欺くことができる。惡が善を駆逐し、善が惡に虐げられる世界。正義が実現するためには、復讐が為されねばならない。

■黄昏の帝国 アテナイ敗北
アケメネス朝ペルシア帝国と戦ったアテナイ。アテナイは、自ら権力を誇示し、エーゲ海に君臨する帝国となる。権力に抵抗する勇者から、権力に溺れる覇者となる。驕れる強国は、久しからず。権力に溺れ、弱者を虐げる者は、復讐の女神(エリニュエス)の復讐を受ける。
 同盟国に対する彈圧がナクソス島攻撃から始まる。アテナイは、エーゲ海の島々を彈圧する。紀元前468~7年、ナクソス島が、同盟から離叛したため、アテナイは攻撃し、属国とした。(cf.トゥキュディデス『戰史』第1巻98) デロス同盟から離叛した国に対する最初の攻撃である。アテナイの帝国化はこのとき始まる。アテナイは、国々に民主制を強要、アテナイの度量衡、通貨使用を強制した。紀元前463~2年、タソス島反亂軍が降伏する。紀元前467~6年、アイギナ島、降伏。紀元前466年、エウボイア島反亂軍、降伏。
 紀元前427年、レスボス島、ミュティレネの反亂軍が降伏する。アテナイの民会(エクレシア)は、全市民を処刑、婦女子を奴隷として売却することを決定、その夜、処刑令状を携える三段橈船が出帆する。しかし翌日、反乱者に対する処罰が過酷であることを後悔し激しい議論の末、撤回を決定、赦免を伝える三段橈船が出発する(cf.『戰史』第3巻36-49)。
 紀元前425年8月、交戰派の煽動家クレオンがスパクテリア島を陥落(cf.『戰史』第4巻26-41)。冬、クレオンは枯渇した国庫に軍資金を満たすため、デロス同盟の納賦金を1460タラントンに引き上げた(「年賦金増額碑文」Tod,Nr.66,BC425)。喜劇詩人アリストパネスは『バビュロニア人』『アカルナイの人々』『騎士』を書いてデロス同盟を批判した(426-424)。
 紀元前416年、アテナイ軍はメロス島に侵攻、冬、婦女子を奴隷として売却、全市民を虐殺する。紀元前415年、アテナイはシケリア島に遠征軍を派遣する。紀元前413年9月アテナイ海軍がシケリア島シュラクサイで全滅する。捕虜となったアテナイ兵士7000人が、餓えと渇きと病気のため折重なって死ぬ。紀元前412年、エーゲ海の島々、キオス、レスボス、ミレトス、ロドス、アテナイから離反する。ラケダイモン側につく。エーゲ海の軍事拠点はサモス島のみとなる。紀元前411年、サモス島のアテナイ海軍がロドスを海上から攻撃する(cf.『戰史』第8巻55)。シケリア島遠征以降、アテナイの滅亡が始まる。紀元前405年秋、アテナイ艦隊はアイゴスポタモイの海戰で撃破され、陸海を封鎖され食糧補給路を絶たれ、餓死する者が溢れ、紀元前404年アテナイは無条件降伏する。アテナイ人は自らが行ったように虐殺され復讐されることを恐れた。権力者の私利私欲の追求が、国家を滅亡させたのである。
★【参考文献】次ページ参照
★アンティキュテラの青年 Lysippos BC350-320 アテネ考古学博物館
★黄昏のロドス島
★カリアティデス(女人柱) アクロポリスの丘
大久保正雄Copyright2002.07.31

2016年6月29日 (水)

ペロポネソス戦争 落日の帝国 アクロポリスの建築家たち

Partenon_0120130420大久保正雄『地中海紀行』第35回
蜜のように甘く、毒のように劇しく2
ペロポネソス戰爭 落日の帝国アテナイ アクロポリスの建築家たち

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

ペロポネソス戰爭 落日のアテナイ
■ペロポネソス戰爭 落日の帝国アテナイ
アテナイは、デロス同盟結成により、エーゲ海の島々、イオニア都市を配下に置き、エーゲ海に君臨する帝国となった。帝国主義政策の下、急激に覇権を誇るアテナイとペロポネソス同盟の強国スパルタとの間の軋轢がたかまる。商業都市コリントスはアテナイに圧迫され、アテナイに敵意をいだき、スパルタに開戰を決議させる。紀元前431年3月、テーバイ軍がアテナイの同盟国プラタイアを攻撃。ペロポネソス戦争(BC431-404年)が始まる。紀元前431年5月、スパルタが陸軍を派遣し、ペロポネソス同盟軍がアッティカに侵入、アテナイの農地を蹂躙する。(トゥキュディデス『戰史』第2巻47)
これに対しアテナイは、ペリクレスの指揮の下、周辺の村々から住民を集め、城壁の内に立て籠もり、海上で敵を攻撃するという作戰を取る。紀元前431/430年冬、ペリクレスは葬礼演説を行う。紀元前430年6月、アテナイで疫病が流行。ペリクレスの籠城作戦が裏目に出る。人口が密集した城壁の内に伝染病が蔓延する。城壁内は死屍累々、死體は腐臭を放ち、悲惨を極める状況が現出した。死者は死者を招き、累積する死體がさらなる犠牲者を招いた。全人口の3分の1、約10万人が死亡した。紀元前429年、ペリクレスも疫病で死ぬ。だがペリクレスの作戰は成功し、紀元前425年スパルタは講和条約を提案するが、クレオンは強硬策を主張し拒否する。
紀元前423年、歴史家トゥキュディデスが陶片追放される。スパルタの名將ブラシダスがアンフィポリスを攻略し、和平への機運が高まりクレオンとブラシダスの死後、紀元前421年ニキアスの和約が成立する。だがアルキビアデスがスパルタに対抗する活動を展開、アルキビアデスの提案によりシチリア遠征(紀元前415-413年)を遂行する。シチリア遠征は失敗し、アテナイ海軍は全滅する。紀元前413年以降、スパルタがアッティカの交通の要衝にあるデケレイアを占領、食糧を外国に依存するアテナイは、食糧の輸入が困難になり困窮する。デロス同盟の同盟都市は離反する。ペルシアはスパルタに海軍の軍資金を提供しアテナイを圧迫する。これに対してアテナイは海軍を再建、エーゲ海東海域で戰い、將軍アルキビアデスが活躍し、勝利を重ねる。スパルタのリュサンドロスは、ペルシアから得た軍資金により海軍を装備するが、紀元前406年アテナイはアルギヌウサイの海戰で勝利する。スパルタは講和条約を提案するが、アテナイは再び拒否。だが、紀元前405年アテナイ艦隊はアイゴスポタモイの海戰で撃破される。海上封鎖され食糧補給路を絶たれ、飢餓に陥り、翌年、アテナイは降伏。デロス同盟は解散。12隻を殘して、艦隊はすべてスパルタに没収され、ペイライエウスの城壁は破壊される。この戰爭以後、アテナイは衰亡する。だが、アテナイのみならず、全ギリシアは衰退の一途を辿る。

■アクロポリスの建築家たち
アクロポリスの丘の建築は、紀元前448年パルテノン神殿の起工から、ペロポネソス戰爭の最中も継続され、407年エレクテイオン神殿の完成まで、40年に亙って行われた。  パルテノン神殿は、彫刻家フェイディアスの総監督のもとに紀元前448年に起工、建築家イクティノスが設計し、建築家カリクラテスが施工した。破風彫刻が432年に完成され、パルテノン神殿が完成した。
プロピュライア(前門)は、ムネシクレスが設計し、紀元前438年起工、431年に未完ながら竣工された。アテナ・ニケ神殿は、紀元前448年建築家カリクラテスが設計、完成したのは421年である。カリクラテスは、ニケ神殿とよく似たイオニア式神殿をイリソスのほとりに建てた。
■カリアティデス(6体の女人柱) BC407 
エレクテイオン神殿は、紀元前421年に起工し、407年完成した。
建築家イクティノスは、バッサイのアポロン・エピクリオス神殿(紀元前440-420年)を設計、エレウシスの聖域にテレステリオン(秘儀堂)を設計した。アテナイと外港ペイライエウスを結ぶ長壁は、ペリクレスによって提案され、カリクラテスによって建設された。さらにペリクレスは、オデイオン(音樂堂)の建設を推進した。
フェイディアスは、ペリクレスとの友情により、パルテノン神殿の監督を行い、黄金の女神像を作ったが、これが人々の嫉妬と惡意を招いた。このため、フェイディアスは、牢獄に投じられ病気のため死んだ。或いはペリクレスに非難を浴びせるために敵の一派が毒藥を盛った。(cf.プルタルコス「ペリクレス伝」31)
五賢帝時代、プルタルコスは、パルテノン神殿は「美しさに於いては古風、鮮やかさに於いては今に到るまで生々しく出來たて、新しさが輝き、時間の手に汚されない、作品が、常に放つ香氣と、老いぬ魂を持つ」(cf.プルタルコス「ペリクレス伝」13) と書いた。
世にも類い稀な美しい建築を生みだした藝術家フェイディアスは、人間の嫉妬心によって命を絶たれた。黄金時代のアテナイを動かしていたのは、蜜のように甘く、毒のように劇しい、死すべき人間の有限なる精神であった。

★Parthenon アクロポリスの丘 パルテノン神殿 
★Cariatides Erecteion, カリアティデス(6体の女人柱) BC470
★【参考文献】
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻、岩波文庫1952-1956
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
トゥキュディデス久保正彰訳『戰史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-72
アリストテレス村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』「アリストテレス全集」第15巻1973
プルタルコス『対比列伝』「ペリクレス伝」「アルキビアデス伝」「ディオン伝」
大久保正雄Copyrigh2002.07.03

2016年6月28日 (火)

ペリクレス 蜜のように甘く、毒のように劇しく

Acropolis_cariatides_0大久保正雄『地中海紀行』第34回蜜のように甘く、毒のように劇しく1
ペリクレス、輝ける精神 蜜のように甘く、毒のように劇しく

破壊されたアクロポリス、
死の灰の中から蘇る、美しいポリス。
自由のために戰い、いのちを生贄にしたアテナイ人。
彫刻に溢れた都。
黄金時代、血と涙と苦悩の中から、
生まれる、不朽の藝術。
輝ける精神の結晶、パルテノン。

燦めく星のごとく、輝く魂が生まれた、
輝ける都、アテナイ。
蜜のように甘美に、毒のように劇しく、
偉大な都は、頽廃を極める。
血と苦悩の中から、眞の智慧が生まれ、
智慧の梟は、黄昏に飛び立つ。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■蜜のように甘く、毒のように劇しく
アテナイは、人類史上類まれな優れた人々を生み出したが、また邪惡なる人々を生みだした。ペリクレス、ソクラテス、プラトンを生み出したのは、アテナイであるが、またシケリアのシュラクサイの独裁制と闘ったディオンを裏切り殺害したのはアテナイ人であった。「アテナイの土地が最も甘い蜜とともに最も劇しい毒人參を生ずるように、アテナイの町は最も徳性の優れた人々とともに最も邪惡の甚だしい人を生ずる」(プルタルコス)
 美しい容貌に邪惡な魂がすむ。そして容貌は美しからず貧しい者が純粋で美しい魂をもつということがある。ソクラテスを生みだしたアテナイは、またアルキビアデスを生みだした。人間の内には、善と惡が絡み合い、善惡いずれとも判断しがたい。だが、能力は優秀であるが、意志が邪惡である時、それは惡というべきである。能力の優秀さは、時として、根源的な惡と結びつくことがある。惡と戰う時、眞実が現われる。
イタリアは、ルネサンス、バロック時代、優れた藝術家を生みだした。レオナルド、ミケランジェロ、ベルニーニ。藝術家たちは、神技の如き、作品を生み出したが、彼らが優れているのは、優秀な技術をもち、人にまさる作品を生み出したからではない。藝術家たちが偉大であるのは、苦悩の果てに、美を生み出したからである。藝術は、たとえ束の間の美であっても、苦悩する人の心を癒す。
紀元前5世紀、アテナイは、ルネサンス時代のフィレンツェのように、バロック時代のローマのように、彫刻に溢れた都であった。藝術に溢れ、美に溢れた都であった。トゥキュディデスは、アテナイは彫刻に溢れた都であると書いた。美に溢れた都は、また邪惡な人間の魂によって動かされた国家であった。藝術が尊く価値をもつのは、苦悩する人の心にやすらぎを齎すからである。眞理は、偽りと戰い、苦痛に喘ぐものを救う時にのみ、価値がある。苦しみ惱む者に、救いの手を差し伸べることが、人間の根拠である。地中海のほとりには、人間の尊厳を追求し、美を愛する、精神の空間がある。

■アクロポリスの黄昏
昏刻、パルテノン神殿は、夕日を浴びる。殘照に照らされた丘は、最も深い陰翳 を湛える。アテナイの偉大と悲惨を思い出し、瞑想するように、佇むパルテノン。パ ルテノン神殿、西正面は、夕暮時に燃え上がる。
偉大な建築は、世界の何処にあろうとも、薔薇色の曙から黄金の日没にいたるまで、太陽の光の変化が最大の影響を生みだすように、建築家によって計算されている。
ペルシア帝国により破壊されたアクロポリス。死の灰の中から蘇るように、パルテノン神殿は建築された。パルテノン神殿の純粋な美しさと高貴は、ギリシア精神の結晶である。

■ペリクレス 輝ける精神 
『地中海人列伝』15
ペリクレス(紀元前495-429)は、アテナイの貴族の生まれである。父は民主派の政治家クサンティッポス、母はクレイステネスの姪アガリステである。母はアルクマイオニダイ家の血を引いている。民主派である。
音樂をダモーン、論駁術をエレアのゼノン、自然学をクラゾメナイのアナクサゴラスから學んだ。ペリクレスの性格の品位を高めたのは、アナクサゴラスの哲学である。
ペリクレスは、広い額、大きな瞳、口もとに、深い知性を湛えた美しい容貌をもつことが、紀元前五世紀のクレシラスの彫刻によって、伝えられている。頭が長すぎて玉葱(スキノス)頭と喜劇詩人によって呼ばれた頭は、かぶとによって隠されている。(cf.ペリクレス像 ヴァティカン博物館)
ペリクレスの雄弁術は完璧であった。高貴な態度、流れる瀧のように淀みない流麗な話しかた、崇高なことばの配置、毅然たる姿勢、一糸乱れぬ衣服の着こなし、すべてに亙って聴くものを魅了せずにはおかなかった。演説は、アナクサゴラスの思想に根拠づけられていた。
紀元前462年、エフィアルテスと協力して、アレイオスパゴスの審議会から決議権を奪った。キモーンを民衆の敵として紀元前461年陶片追放したが、紀元前457年スパルタがタナグラ地方に侵入し、紀元前456年アテナイ人がアッティカ国境で敗北し、キモーンに対する愛慕の念が民衆に起きたので民衆の意を迎えて呼び戻した。
紀元前461年、民主派の領袖エフィアルテスが暗殺される。ペリクレスは、民主派の指導者になる。ペリクレスは、紀元前429年、病死するまで、三十二年の長い期間に亙ってアテナイの政治に第一人者として君臨することになる。紀元前457年、全騎士級(ヒッペウス)がアルコン職、他役職に就任できるようになる。紀元前450年、貴族派の指導者キモンが、キュプロス島で急死。民主派を率いるペリクレスは、アテナイの指導者の地歩を固めた。紀元前449年、アテナイ艦隊は、キプロス島のサラミスでペルシア軍を破る。カリアスの和約が結ばれ、ペルシアは、イオニア諸都市の独立を承認する。ペルシア戰爭、最終的に終結する。紀元前447年ペリクレスは、民会の議決を経て、パルテノン神殿起工を指揮する。
紀元前443年、ペリクレス一派は、將軍トゥキュディデスを陶片追放する。ペリクレスが將軍となる。以後、死まで毎年、將軍となる。ペリクレス時代が始まる。紀元前440 年サモス島遠征の時、ペリクレスはソフォクレスとともに將軍として赴いた。438年、パルテノン神殿の黄金象牙のアテナ像が完成。432年、パルテノン神殿浮彫が完成、パルテノン神殿は完成する。432年フェイディアスは獄中で死ぬ。紀元前437年アンフィポリスをトラキアに建設。アテナイは、海上支配権を確立する。
ペリクレスは、將軍として、アテナイ軍を率い優れた指揮官であった。ペロポンネソス周航(紀元前453)、デルフォイの聖域をめぐるフォキオンとスパルタの神聖戰爭(紀元前448)、ケルソネソス遠征(紀元前447)、サモス島遠征(紀元前440)、ポントス(_海)遠征(紀元前436)。数々の戰いで戰い、アテナイ軍を勝利に導いた。
紀元前431年スパルタが陸軍を派遣し、アッティカに侵入。ペロポネソス戰爭(BC431-404年)が始まる。ペロポネソスとボイオティアの重裝歩兵6万人が、第1回侵攻を行ったが、これに対して戰うことを止めさせた。「樹木は伐り倒されてもすぐに生えて來るが、人間は殺されると再び得ることは容易でない」と言った。ペリクレスはアテナイの町を固く閉ざしあらゆる所に番兵を置いた。人命を尊重し、陸上での戰闘を回避したのである。ペリクレスは、百隻のアテナイ艦隊を派遣しペロポンネソスを周航した。
紀元前430年6月、疫病が蔓延する。憤激したアテナイの人々は、スパルタとの陸上での衝突を避けたペリクレスを非難した。ペリクレスに反対する票を投じ、絶対多数を獲得、軍隊の指揮権を剥奪し罰金を課した。疫病が蔓延するなか、紀元前429年春ソフォクレス『オイディプス王』が上演される。
だが、紀元前429年、アテナイ人たちはペリクレスに匹敵する統帥官がいないことがわかったので、民衆はペリクレスに対する忘恩を謝し、再び將軍に選んだ。だがペリクレス自身、疫病に罹り、死に臨んだ。
紀元前429年冬ペリクレスは、戰爭のさなか疫病で、志なかばで死ぬ。パルテノン神殿の完成と時を同じくして、フェイディアスは死に、翌年ペロポネソス戰爭が起き、その2年後ペリクレスは死ぬ。ペリクレスが將軍として敵を破り、アテナイのために建てた勝利の標柱は9つあった。
歴史家トゥキュディデスは、「ペリクレスは、優れた見識を備え、金銭の潔白さは疑いなかった。民衆を自由に制御し、民衆に引き擦られるよりも、彼らを導いた。」(トゥキュディデス『戰史』第2巻65)という。戰いにおいて人命を尊重した決断、優れた思想と高潔な人柄は、ギリシア史に燦然と輝いている。
 (cf.プルタルコス『対比列伝』「ペリクレス伝」)

■ペリクレス演説
ペリクレスは、431/430年冬、ペロポネソス戰爭の最初の戰没者に対する国葬が行われ、有名な追悼演説を行った。
「われわれの政体は他国の政体を追随するものではない。他の人の理想を追うのではなく、ひとをしてわれわれの模範を習わしめるのである。少数者の独占を排除し、多数者の公平を守ることを旨として、その名は民主政(デーモクラティア)と呼ばれる。わがポリスにおいては、個人の間に紛爭が生じれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。」「われわれはまた、いかなる苦しみをも癒す安らぎの場に心を浸すことができる。一年の四季を通じて我々は競技や祭典を催し、市民の家々の美しい佇まいは、日々歓びを新たにし、苦しみを解きほぐすのだ。」(cf.トゥキュディデス『戰史』第2巻35-46)
 ペリクレスは、アテナイの民主政が歴史上、比類ないものであることを自覚していた。
★Acropolis,Cariatides
★乙女のテラス エレクテイオン神殿
★Pericles ,British museum
★ペリクレス
★参考文献 次ページ参照。
大久保正雄Copyrigh2002.07.03
Periclesmuseobritnico

2016年6月27日 (月)

至高の戦略家、テミストクレス ギリシア人の知恵

Ookubomasao110Ookubomasao101大久保正雄『地中海紀行』第33回
ギリシアの偉大と退廃2 策謀の極致
至高の戦略家、テミストクレス ギリシア人の知恵

苦悩する魂のみが、眞の叡智に到達する。
最後まで希望をすてぬ者が、眞の勇者であり智者である。
テミストクレス、アテナイ人をトロイゼンに疎開を決議。海に浮かべるアクロポリス。
テミストクレス決議碑文に刻まれた、ギリシア人の知恵の結晶。
風が吹くとき、地中海のほとりに、旅立とう。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
★ヴォロマンドラのクーロス

至高の戦略家、テミストクレス
『地中海人列伝』14
テミストクレス(BC524-459?)は、リュコメデス家の出身である。テミストクレスは、紀元前493/2年、筆頭アルコンにつく。この年、テミストクレスの政策により、アテナイはペイライエウス港建設工事を始める。ペイライエウスは477年に完成し、エーゲ海貿易の中心として榮える。アテナイの黄金時代の経済的基盤を築く。
紀元前487年、民主的な改革が実現され、陶片追放が実行され、アルコンの任命が籤引になる。紀元前487年の改革は、テミストクレス時代になされた。
紀元前483/2年、ラウレイオン銀山で新鉱脈が発見される。市民1人当り10ドラクマずつ分配する案があった。テミストクレスは民会において軍船を建造することを提案し決定。二百隻の三段橈船(トリエレス)を建造させることに成功した。アイギナ海軍と戰うという名目で民会を説得した。
アテナイ海軍はアイギナ軍と海戰していた(紀元前506-481)。アイギナはギリシア随一の艦隊を誇っていた。後にペリクレスは「アイギナ島はペイライエウス(アテナイの港)の目脂だから、拭き取ってしまえ。」と言った。
「ラウレイオン銀山から上がる収益は、アテナイの市民たちの間で分配する習慣であったが、民会に出かけて行き、孤立無援ながら大胆不敵にも、分配は差し控えてそれを資金にアイギナ人に対する戰爭に備えて三段橈船を建造すべきであるという動議を出した。アイギナ島の人たちは船の多数を頼んで海上を制していた。アイギナ人に対するアテナイ市民の怒りと敵愾心を利用したのだ。百隻の三段橈船が建造されたのであるが、クセルクセスに海戰を挑んだのはこの艦船によったのだ。」(cf.プルタルコス「テミストクレス伝」)ペルシア戰爭におけるギリシア人の救済が海戰から起り、灰燼に帰したアテナイ人の町を再興させたのは三段橈船であった。
アテナイ海軍の軍船は七十隻から二百隻に増える。三段橈船(トリエレス)一隻に必要な乗員は2百名であり、4万人の要員を必要とした。
テミストクレスは、スパルタとの同盟を締結、トロイゼンへの疎開、全市民のアテナイ都市撤退を立案し、指揮する。テッサリアのテンペ、アルテミシオンで、アテナイ部隊を率いる。
紀元前480年、第2次ペルシア戰爭が起きる。テルモピュライの戦いでレオニダス王率いるギリシア軍が敗北し殲滅された。
テミストクレスが作戰を立案し、海軍と陸軍を投入する戰略を提案する。アルテミシオンの戰い、サラミスの海戰の戰略を構築。ギリシア軍は、サラミスの海戰において、ペルシア軍を敗る。この時、テミストクレスの提案*により、婦女子をトロイゼンに疎開*させ、アテナイを敵の攻撃にさらした。アクロポリスは、ペルシア軍により破壊され炎上した。
*cf.「テミストクレス決議碑文」
1959年トロイゼンで発見された大理石板に刻まれた碑文、現在アテネの碑文博物館所蔵。前480年サラミスの海戦の前にテミストクレスの発議で評議会と民会で決議された、対ペルシア軍作戦計画を内容とする。
*「すべてのアテナイ人、アテナイに住まい. する[外国]人は[女子供]らを国土開祖の[・・・20・・・]. トロイゼン[に]疎開させるべし。[老人と]資産はサラミスに. 疎開[させるべきこと]。[財務官と]神官はアクロポリス[に留. まり]神々の[(資産を)守るべきこと]。」
150年後、紀元前331年、アレクサンドロス軍がペルシア王宮を陥落した時、武将プトレマイオスの愛妾タイスは、ペルシス(ペルセポリス)において、アテナイ焼討ちの仇を討ちクセルクセスの王宮を焼き討ちすることを唆し、実行された。
紀元前479年、プラタイアの戰いでギリシア軍が勝利する。ペルシア戰爭が終結。  プラタイアイの戰いの後、テミストクレスは、アテナイの町の再建と城壁の構築に着手した。テミストクレスが、城壁再建に反対するスパルタに赴き言辞を弄し眩惑、時間稼ぎをしてスパルタを欺き、その間にアテナイは城壁を再構築する。これが「テミストクレスの城壁」と呼ばれる。またペイライエウス防壁構築を強く主張、長城を建設した。天然の良港であることに着目し、アテナイをペイライエウスに結びつけた。
だが紀元前470年、テミストクレスは、陶片追放される。ペルシアとの講和条約を画策した疑いである。アテナイは、その後、テミストクレスに、売国の罪で死刑宣告。テミストクレスは、ギリシアを放浪した後、エーゲ海を彷徨う。紀元前467年、將軍キモン麾下、ナクソス島を包囲したアテナイ軍に逮捕される寸前、間一髪で難を逃れる。
紀元前465年、敵国ペルシアに赴く。アルタクセルクセス1世(マクロケイル腕長王)に謁見し、ペルシア帝国の治下、マグネシア長官(サトラペス)に任じられる。紀元前462年、エジプトがアテナイ軍の支援を得てペルシア帝国に離反、ギリシアの三段橈船がキュプロスの海域に達し、キモンが海上を制する事態になり、ペルシア帝国はギリシアに反撃することになり、テミストクレスにもギリシアに攻撃するよう命令が下された。
テミストクレスは「自分の生涯にそれにふさわしい最後をもたらすことこそ最上である」と考えた。神々に犠牲を捧げ、友人たちを集めて握手を交わしてから、毒を仰いだ。テミストクレスは、マグネシアの地で波瀾に満ちた生涯を終える。
(cf.プルタルコス『対比列伝』「テミストクレス伝」「ペリクレス伝」、ヘロドトス『歴史』第7巻、第8巻、トゥキュディデス『戦史』第1巻)

■アテナイ帝国 デロス同盟
アテナイは、紀元前477年、デロス同盟を結成、アテナイの帝国主義時代がはじまる。デロス島に、アポロン神殿が起工され、デロス同盟の金庫がアポロン神殿に置かれる。対ペルシア、海上攻守のための軍事同盟である。加盟国は、艦船を派遣するか、資金提供の義務があった。清廉無比のアリステイデスがヘラス財務官として監督に赴く。紀元前454年、デロス同盟の金庫がアテナイに移される。アテナイは財源を掌握する。
紀元前468/7年、ナクソス島が、同盟から離叛したため、アテナイは攻撃し、隷属国とした。同盟から離叛した国に対する最初の攻撃である。アテナイ帝国の暴虐はこのとき始まる。アテナイは、国々に民主制を強制し属国とした。自ら政治形態を選択し、通貨発行、度量衡制定する権利を奪った。反亂するポリスを降伏させ制圧する。タソス島、アイギナ島、エウボイア、レスボス島、メロス島。メロス島の虐殺は悲惨を極めた。
最盛期、加盟国はエーゲ海のほとり200カ国に達する。紀元前449年ペルシアとカリアスの和約を結ぶが、その後もアテナイは年賦金を要求、反亂する国に艦隊を派遣して武力で制圧。アテナイは、殘虐な帝国と化し、反亂する同盟国を隷属させ、エーゲ海の制海権を維持する。だがアテナイの帝国主義を恐れたスパルタが宣戰。紀元前404年ペロポネソス戰爭の敗北により、デロス同盟は解体する。 (cf.トゥキュディデス『戦史』第1巻、第3巻、第5巻)

■アテナイの黄金時代
アテナイをして、ギリシアの榮光と退廃の中心たらしめたのは二つの戦爭、ペルシア戦爭とペロポネソス戦爭である。
二つの戦争の狭間、紀元前480年から431年まで、50年間がアテナイの黄金時代である。ヘロドトスはペルシア戦爭を『歴史』に記録し、トゥキュディデスはペロポネソス戰爭を『戰史』に記録した。だがこの二つの戰爭の狭間を記録した書物は存在せず、黄金の50年間は謎が多い。
この50年間に、三大悲劇詩人が活躍し、パルテノン神殿が建設され、彫刻家フェイディアスが作品を作り、ペリクレスが勝利の標柱を9度立てた。
アイスキュロスはペルシア戰爭の七年後『ペルシア人』を書き、ペロポネソス戰爭開始二年後、疫病の死屍累々たるアテナイにおいて、ソフォクレス『オイディプス王』が上演された。エウリピデスはペロポネソス戰爭開戰の春『メデイア』を上演、ペロポネソス戰爭終了の二年前『バッカイ』を書いてマケドニアで死んだ。悲劇詩人の時代はこの二つの戰爭の間であった。
★【参考文献】
馬場恵二『サラミスの海戦』人物往来社1968
馬場恵二『ギリシア・ローマの榮光』講談社1985
桜井万里子・本村凌二『ギリシアとローマ』中央公論社1997
ダイアナ・バウダー編『古代ギリシア人名事典』原書房1994
トゥキュディデス久保正彰訳『戦史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-72
アリストテレス村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』「アリストテレス全集」第15巻、岩波書店1973
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻、岩波文庫1952-1956
馬場恵二訳プルタルコス「テミストクレス伝」
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
プルタルコス『対比列伝』「テミストクレス伝」「ペリクレス伝」「アルキビアデス伝」「デモステネス伝」
★ヴォロマンドラのクーロスKouros of Volomandra
★エギナ島
★デルフォイ アテナ・プロナイアの聖域 トロス
大久保正雄Copyright2002.05.22
Ookubomasao108

2016年6月26日 (日)

テミストクレスとペルシア帝国の戦争 ギリシアの偉大と退廃

Ookubomasao97_2Ookubomasao99大久保正雄『地中海紀行』第32回ギリシアの偉大と退廃1
テミストクレスとペルシア帝国の戦争 ギリシアの偉大と退廃
イオニアの華、ミレトス イオニアの反乱

紺碧のエーゲ海が、輝く時、
オデュッセウスのように、
知恵と戦略に優れた、卓越した指揮官、テミストクレス。
ギリシアの自由を賭けて、帝国ペルシアに対決、
アテナイ人は国土を犠牲にして、サラミスの海に決戰する。
スパルタの裏切りを越えて。
汝、命を賭けて守るべきものはあるか。

大地と光があるかぎり、
生と死の岐路に立ち、己の意志によって、選択する、
人間の偉大と悲惨。
いのちの価値を超えて、光芒を放つ。
悠久の時のながれを超えて。
破壊されたアクロポリス、
死の灰の中から蘇る、不屈の精神。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■ギリシアの偉大と退廃
テミストクレスは、潮時を予見し、卓越した戰略を構築した。奇策縦横、世にも類い稀なる天才的戰略家である。ペルシアの襲來を予見、200隻の艦隊を建造、宿敵スパルタと同盟を組む。全市民を退去、国土放棄、シキンノスの計略、多彩な戰術を駆使して、テミストクレスは、サラミスの海戰を指揮、ギリシアの不滅の榮光を築いた。
美しい藝術、不朽の建築パルテノンを生みだした彫刻家フェイディアス。魂の内なる聲を聞き、善と美を探求した、ソクラテス。燦めく星のように、優れた魂、美しい魂を生みだしたアテナイ。
だが、テミストクレスは、追放され、遠い異郷の地で、自害し、波瀾にみちた生涯を終える。フェイディアスは、追放され、或いは獄中で、非業の死を遂げる。ソクラテスは、ソクラテス裁判に敗れ、居合わせた弟子たちに、魂の不死不滅を説きながら、毒人参の盃を仰いで死んだ。
偉大な魂を生みだしたアテナイは、またこれらの魂を追放し、死に至らしめた。民衆の自由のなかから衆に優れた、偉大な魂が生まれた。そして、民衆の嫉妬心から、優れた人、心美しい人が命を失った。
ペリクレスのような高貴な精神が生まれたが、また美しい容貌と邪惡な精神をもつアルキビアデスが生まれた。黄金時代のアテナイは、偉大と退廃の都である。
美しい魂が、美しきがゆえに、非業の死を遂げる時、これを悲劇と呼ぶ。黄金時代のギリシアは、悲劇的な時代である。

■海洋都市
ギリシアのポリスは海洋都市である。地中海都市の美しさの根拠は、海洋都市の自由な空間にあり、地に束縛されない者、旅する自由をもつ者、心に翼をもつ者の空間である。海はギリシア人の自由の源であった。海は民主政の母である。
独裁僭主は、農民を地に縛りつけ、己の支配体制を固めた。テミストクレスは、二百隻の三段橈船(トリエレス)を擁するアテナイ艦隊を築き、下層階層の自由人の地位を向上させた。マラトンの戰いを勝利に導いたのは槍と盾で武装する重装歩兵(ホプリテス)であったが、サラミスの海戰で櫂を漕いだ兵士は、第四の階層であった。専制国家ペルシアとの戰いを通して、ギリシア人は自己を見いだす。ペルシア戰爭は、自由のための戰いであった。
テミストクレスは、アテナイの町の再建と城壁の構築とペイライエウス港建設を行い、アテナイを海に結びつけた。貴族に対する民衆の力を増大させた。「海上支配は民主政の母胎であるが、これに対し農民は寡頭政支配に服従する。」(cf.プルタルコス「テミストクレス伝」)  さすらう者のごとく、旅と自由を愛する人よ。美しきものを求めて、旅に出よう。海は異境へと開かれている。美と智慧を探す旅に出よう。旅と自由は、人間的に生きるために不可欠のものである。丘を越えて、海のほとりをさすらい、都市から都市へ、海から海へ、藝術作品のように美しい地中海都市、空間に刻まれた智慧を求めて、流離の旅に出よう。

■イオニアの華、ミレトス
イオニア地方には、イオニア系ギリシア人が住み、ミレトス、エフェソス、エーゲ海の島々、サモス島、レスボス島、他、ギリシア都市が繁榮した。紀元前6世紀、イオニア地方は、ギリシア本土に先駆けて文化の華が咲き誇った。
ミレトスは、イオニアの華と呼ばれ、三人の哲人、タレス、アナクシメネス、アナクシマンドロスが生まれ、建築家ヒッポダモスが生まれた。ヒッポダモスは、滅ぼされたミレトスに人工的都市を設計した。幾何学的な都市が構築された。
イオニアの地は、紺碧の海が輝き、海を見下ろす丘の上に、白亞の神殿の列柱が輝いている。イオニアの地は、時がゆるやかに流れ、薊の棘がするどく、紅い花が咲き、列柱に蔦が絡まり、緑の野に花が咲き亂れている。イオニアの大地と光の中で、學問の花が開いた。

■イオニアの反乱
エーゲ海の沿岸、イオニア地方のギリシア都市は、ペルシア帝国の支配下に下り、僭主独裁政を強制される。紀元前499年、ペルシア帝国に対して、ミレトスを中心に反亂する。
ミレトスの僭主アリスタゴラスは、ナクソス島包囲に失敗して困窮している時、スサに勾留されているヒスティアイオスから頭に刺青をした奴隷が派遣されて来た。頭髪を剃ると、大王に対する謀叛を指令する言葉が出てきた。アリスタゴラスは、ダレイオス王に対抗する策略を回らし、ペルシア帝国に対して、叛旗を翻した。ミレトスの独裁制を廃し、民主制を敷き、イオニア諸都市の独裁者を捕え追放し独裁制を廃止、民衆の蜂起を促し、將軍を任命した。
 アリスタゴラスは、スパルタに赴きクレオメネス王に会い、「イオニアの同胞が自由を奪われ、隷従の状態にあることは、われわれイオニア人にとって、この上ない恥辱であり苦痛であるのみならず、ギリシア人にとっても同様である。同胞たるイオニア人を隷属の桎梏から救って欲しい」と言ったが、スパルタの協力を得られず、スパルタを追われた。アリスタゴラスは、アテナイに行き、民会に出席して「ミレトスはアテナイの植民都市である。強大なアテナイがミレトスを保護するのは当然である」と説き、アテナイ人を説得することに成功した。アリスタゴラスがスパルタ王クレオメネス一人を騙すことができなかったのに、三万人のアテナイ人を相手に成功したことを思うと、一人を欺くよりも多数の人間を騙すほうが容易である。と、ヘロドトスは書いている。
 反亂は紀元前494年、ペルシア帝国によって制圧される。この時、アテナイとエレトリアが反亂を支援したことが、ダレイオス1世の逆鱗に触れる。これが、ペルシア戰爭を引き起こす原因となる。(cf.ヘロドトス『歴史』第5巻、第6巻)

【戦いの絵巻】
■ペルシア戦争 アテナイの光輝
イオニア地方のギリシア都市は、紀元前6世紀半ば、ペルシア帝国の支配下に下り、貿易活動を抑止され、民主制を禁じられ、僭主独裁政を強制される。紀元前499年、ペルシア帝国に對して、ミレトスを中心に反亂、アテナイ艦隊とエレトリアの艦船がエペソスに上陸、サルディスの町を攻略した。しかし紀元前494年、反亂は制圧される。この時、アテナイとエレトリアが反亂を支援したことが、ダレイオス1世の逆鱗に触れた。ダレイオス1世は、ギリシア遠征軍をはるかペルシアから派遣する。
紀元前492年、ペルシアの第1次ギリシア侵攻が起きる。ダレイオスの婿マルドニオス指揮するペルシア軍がトラキア海岸を制圧するが、ペルシア海軍がアトス岬で暴風に遭い帰国する。
紀元前490年、第1次ペルシア戰爭が起きる。ダレイオス王は、アテナイとエレトリア討伐の名目で遠征軍を派遣する。ナクソス島、デロス島を征服、エウボイア島に上陸エレトリアを破壊。ペルシア軍は、マラトンに上陸するが、マラトンの戰いでミルティアデス率いるアテナイの重層歩兵長槍密集隊により撃退される。海上からアテナイを攻撃することを企てるが、ミルティアデスが迎撃するため守備していたので断念する。ダレイオス王は、ギリシア遠征を期して、戰いを前に王位後継者を指名しクセルクセスに決定した。しかし遠征準備中に果たせず死ぬ。ギリシア攻撃は、クセルクセスに継承される。
ペルシアは、ギリシアに水と土を献じて恭順の意を表すように使節を派遣するが、アテナイとスパルタは使節を殺害する。
紀元前481年夏、ペルシア王クセルクセスがスーサを発ちサルディスに向かったという知らせがギリシアに届く。初秋、ギリシア国家相互間の戰爭の即時停止、対ペルシア連合の結成が成し遂げられた。
アテナイを率いたテミストクレスは、婦女子をトロイゼン、サラミスに退避させ、市民を艦隊に乗せ、全市民をアテナイから撤退させた。
紀元前480年夏、ペルシア帝国軍がギリシアに侵攻、第2次ペルシア戰爭始まる。テルモピュライの戦いで、スパルタのレオニダス王率いるギリシア軍は、ペルシア軍により挟撃され、矢を雨のように浴び、玉砕。全員討ち死にした。ギリシア軍は、陸の防衛線が破られたため、アルテミシオンの海の防衛線を撤収、サラミスに戻る。紀元前480年秋、クセルクセス王が指揮するペルシア軍は、アテナイを襲撃、蹂躙した。アレスの丘に布陣、城攻めを行った。アクロポリスを包囲、陥落。守りについていた財務官、神官、巫女は抵抗したが、アクロポリスの神殿は炎上、破壊された。
テミストクレスがギリシア軍の作戰を立案、狭い海域にペルシア艦隊を追いつめ、サラミスの海戰でギリシア連合軍を勝利に導いた。ギリシア艦隊は380隻、そのうち200隻がアテナイ艦隊であった。丘の上から戦況を見ていたクセルクセス王は撤退を決意する。マルドニオス指揮するペルシアの不死隊(アタナトイ)はテッサリアで越冬する。
紀元前479年、ペルシアの第4次侵攻が起きる。マルドニオス指揮するペルシア陸軍がアッティカに侵攻、再度アテナイを占領するがアテナイ人の姿はなかった。ボイオティアに侵入するが、プラタイアの戰いで、ペルシア軍は敗北、退却する。この頃、時を同じくしてペルシア軍はイオニアのミュカレ岬の戰いで滅ぼされ、イオニア諸都市は独立を回復する。かくしてペルシア戰爭は一たび、終結する。他方、西方シケリアで展開しているギリシア軍は、僭主ゲロンの下で、カルタゴ軍を撃破する。
戰いの後、アテナイは、反対するスパルタを欺き、テミストクレスの城壁を、構築する。テミストクレスは、ペイライエウス湾建設工事を始める。
だが、テミストクレスは、陶片追放される。紀元前449年、アテナイ艦隊は、キプロス島のサラミスでペルシア軍を撃破。カリアスの和約が成り、ペルシアは、イオニア諸都市の独立を承認する。ペルシア戰爭は、最終的に終結する。以後、ペルシアの脅威は止む。
(cf.ヘロドトス『歴史』第7巻、第8巻、第9巻、プルタルコス『対比列伝』「テミストクレス伝」)

■デルポイの神託 サラミスの海戰
ペルシア軍侵攻の前、アテナイの託宣使たちは、デルポイ(デルフォイ)に行き神託を求めたが、「聳え立つ頂きも捨てて、地の果てに逃れよ。アテナイは滅亡する。心ゆくまで悲嘆にくれよ。」という神託を受けた。衝撃を受けた託宣使たちは、再度、嘆願者のオリーヴの小枝を持って、巫女に尋ねると「木の砦は滅びざるべし」という神託を受けた。この神託をめぐって、二つに分かれ、議論が沸騰した。木の砦は、アクロポリスを意味すると考える人々と、船を意味すると考える人々があった。
テミストクレスは、木の砦は船を意味するとして、民会を制して、決議案を提出して、「国土はアテナイを守護するアテナ女神に委ね、壮年の者は全員三段橈船に乗り組み、各人は妻子と奴隷の安全を計るべきである」とした。この決議案が承認され、アテナイ市民は婦女子をトロイゼンに疎開させた。トロイゼンの人々は疎開民を国費によって扶養することを決議した。
スパルタの指揮官エウリュビアデスは、サラミスで決戦することを避け、イストモスに退避しようとした。この時、テミストクレスは、反対を唱えた。ある者が、「国土のない者が祖国のある者たちにそれを見捨てて立ち去れというのは筋が通らない」と言ったので、テミストクレスは、「われわれは家屋や城壁を置き去りにしてきた。だがそれは、そのような魂のないもののために奴隷となるのを潔しとしなかったからだ。われわれにはギリシア中で最も偉大なポリスがある。2百隻の三段橈船である。君たちの援軍たらんとして待機している。だがわれわれを再度裏切って立ち去るならば、アテナイは放棄したものに劣らない自由な町と国土を獲得することになるだろう。」エウリュビアデスは、アテナイ人は自分たちを置き去りにして去ってしまうのではないかと、不安を覚えた。(cf.プルタルコス)
サラミスの海戰において、輝かしい海原の偉業が達成され、その名が天下に轟き渡る勝利を獲得し得たのは、「テミストクレスの判断と絶妙の手腕によるのだ。」(cf.プルタルコス)(cf.ヘロドトス『歴史』第7巻、プルタルコス『対比列伝』「テミストクレス伝」)
★アルテミシオンのゼウスBC460 雷霆を投げるゼウス ポセイドン(アテネ考古学博物館)
★デルフォイ アポロンの聖域
★アクロポリスの丘 ムーセイオンの丘から
★【参考文献表】次ページ参照
大久保正雄Copyright2002.05.22
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2016年6月25日 (土)

ペイシストラトス家とアルクマイオニダイ家の戦い アクロポリスの戦い

Ookubomasao94Ookubomasao96大久保正雄『地中海紀行』第31回アクロポリスをめぐる戦い2
ペイシストラトス家とアルクマイオニダイ家の戦い アクロポリスの戦い
アクロポリスをめぐる攻防 アテネ史
ヴォロマンドラのクーロス 死者に献げる供物

怒りを歌え、女神よ。
美しく高貴なる魂。傲慢なる強者に追われたる者、
旅路の果ての地に、たどり着き、
復讐を遂げる。彷徨える高貴なる魂。
大地と闇の娘たちよ。
怒りもて、彷徨える魂に、復讐を為さしめよ。
アクロポリスの丘を包囲して、傲慢なる独裁者を滅ぼすべし。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■アクロポリスをめぐる攻防 アテネ史
紀元前632年、アテナイで、キュロンの反亂が起こる。キュロンが僭主になろうとしてアクロポリスを占拠、アテナイ人たちはアクロポリスを包囲、反亂を鎮圧した。記録されているアテナイ最古の歴史的事件である。
紀元前561年、ペイシストラトスは、アクロポリスを占領して、アテナイの僭主となる。二度追放されたが、死ぬまで独裁僭主であった。
紀元前510年、アテナイは、ペイシストラトス家に対して、アルクマイオン家を中心とする反対勢力が、スパルタのクレオメネス1世の援助を得て、アクロポリスを包囲、僭主政を打倒する。僭主ヒッピアスは、ペルシア帝国ダレイオス1世のもとに逃亡した。マラトンの戰いの時、ヒッピアスは、ペルシア帝国軍を先導した。
僭主政治が倒れて、その後、寡頭派のイサゴラスとクレイステネスが対立、クレイステネスは亡命した。紀元前508年、スパルタ王クレオメネスとイサゴラスの仲間が、アクロポリスに逃げ込み、民衆はこれに対峙して二日間包囲を続けた。三日目に条約を結び、クレオメネスの仲間を撤退させ、クレイステネスを呼び戻した。
紀元前527年ペイシストラトスは病死し、死後、子のヒッピアスとヒッパルコスが父の後を継いだ。ヒッピアスは、紀元前514年ヒッパルコスが暗殺された後、猜疑心が強くなり、圧制的暴君となった。
(cf.アリストテレス『アテナイ人の国制』、ヘロドトス『歴史』第5巻、プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」「ペリクレス伝」)
■クレイステネス 民主的改革 紀元前508/7年
クレイステネス(BC565-500)は、アルクマイオニダイ家の頭首である。父はメガクレス、母はシキュオンの僭主クレイステネスの娘アガリステ。ペイシストラトス家の僭主時代、亡命していたアルクマイオン家は、長い間、僭主政打倒に努力していた。
クレイステネスは、何度も僭主政打倒に失敗した後、デルフォイのピュティア(巫女)を買収して、スパルタにアテナイを解放するよう神託を下し、僭主支配を打倒する。
紀元前510年、アテナイは、ペイシストラトス家に対して、アルクマイオン家を中心とする反対勢力が、スパルタのクレオメネス1世の援助を得て、アクロポリスを包囲、僭主政打倒に成功する。僭主ヒッピアスは、ペルシア帝国ダレイオス1世のもとに逃亡した。マラトンの戰いの時、ヒッピアスは、ペルシア帝国軍を先導した。
その後、寡頭派のイサゴラスとクレイステネスが政権を爭い対立、アルクマイオニダイ家の血の穢れを理由に、クレイステネスは追放される。
紀元前508/7年、民衆がイサゴラスに反対して立ち、スパルタ王クレオメネスとイサゴラスの仲間がアクロポリスに逃げ込み、民衆はこれに対峙して二日間包囲を続けた。三日目に条約を結び、クレオメネスの仲間を撤退させ、クレイステネスを呼び戻した。
紀元前508/7年、クレイステネスが政権を握る。クレイステネスは、民主的改革を行ない、アテナイの民主政が成立する。クレイステネスの改革によって、10部族制と五百人評議会が設置され、陶片追放が制定された。(cf.アリストテレス『アテナイ人の国制』、ヘロドトス『歴史』第5巻)

■アテナイオン神殿、ヘカトンペドン(アテナ古神殿)
ペイシストラトスは、武力によって僭主(独裁者)の地位を獲得したが、藝術の保護に努め、神殿を建てた。アテナイは祝祭都市となり、悲劇が誕生した。
紀元前6世紀、ペイシストラトスの時代、アテナイオン神殿ヘカトンペドン(アテナ古神殿)が、アクロポリスの丘、アテナの聖域に、創建された。
アテナイオン神殿は、アルカイックの微笑みを湛えた彫刻、仔牛を荷う人(モスコフォロス)、アクロポリスのコレー(少女)が神殿に奉納され、アテナ女神像が破風彫刻に置かれた。アルカイック様式の微笑みに満ちた神殿であった。
ペイシストラトスの時代には、紀元前566年に創始されたパンアテナイア祭が国の祭儀として体育や音樂の競技会が行なわれるようになった。また、紀元前534年大ディオニュシア祭が国の祭儀として導入され、ディオニュソス劇場がアゴラに木で作られ、悲劇が誕生した。

■アルクマイオニダイ家
アルクマイオニダイ(アルクマイオン)家は、アテナイの有力な貴族である。紀元前632年、キュロンの反亂が起り、キュロンが僭主になろうとしてアクロポリスを占拠、アテナイ人たちはアクロポリスを包囲、反亂を鎮圧。メガクレスたちは、女神の祭壇に逃れた僭主一味を殺害。アテナイ人たちは、神に対する冒_の罪を犯したとしてメガクレスたちを追放した。以後、アルクマイオニダイ家には血の穢れがあるといわれた。
紀元前6世紀、アルクマイオンは、第1次神聖戰爭(BC590)でアテナイ軍を指揮、リュディア王から与えられた黄金で財源を築いた。アルクマイオンの子メガクレスは、海岸派(パラリオイ)を指揮、ペイシストラトスを追放したが、ペイシストラトス家の僭主支配時代に亡命した。
紀元前530年、アルクマイオニダイ一族は、デルフォイに紀元前548年に焼失したアポロン神殿(BC530-20)を再建し奉献する。アポロン神殿は、石灰岩で建造されたが、東前面にパロス産大理石を用いて作られ、神室内に託宣所(アデュトン)が組み込まれた。
メガクレスの子クレイステネスは、デルフォイのピュティア(巫女)の協力で、スパルタを引き入れ、僭主支配を打倒する。アルクマイオニダイ家は、改革者クレイステネスを生みだした。ペリクレスの母は、クレイステネスの姪である。
アルクマイオニダイ家の使命、至上命題は、独裁支配の打倒であり、紀元前632年以降、百年以上にわたって、僭主独裁と戰いながら、亡命の痛みに耐えた。(cf.アリストテレス『アテナイ人の国制』、ヘロドトス『歴史』第1巻.第5巻.第6巻)

■陶片追放、独裁制阻止
陶片追放(オストラキスモス)は、紀元前508/7年以降、クレイステネスの時代に成立した。陶片追放は、秘密投票による追放制度であり、独裁僭主が出現することを防止するために創設された。クレイステネスは、僭主ペイシストラトス家によって、数十年にわたって亡命を余儀なくされたため、独裁者の専制を阻止したのである。
市民は、アゴラで国家を害する恐れがあり追放の必要があると判断された人の名を、陶片(オストラコン)に刻み投票、アルコンは書記官立会いの下に集計し、6千票を超えた者は国外に追放された。10年間国外追放、市民権は剥奪されず、財産の没収は行なわれず、10年後帰国することが出来た。ポリスが必要とする時、追放された有為の人材が呼び戻された。例えば、アリステイデスはサラミスの海戦の時、テミストクレスによって召還された。
紀元前487年、アテナイで初めて陶片追放が実行され、ヒッパルコスが追放された。また、この年、アルコン(執政官)の選出が抽籤となる。
アテナイ最盛期には、民衆の嫉妬をあびた者は、陶片追放されることが多かった。このため優れた人々が追放された。テミストクレス、アリステイデス、キモン、クサンティッポス(ペリクレスの父)も、追放された。(cf.アリストテレス『アテナイ人の国制』22)政治的抗争の道具に用いられることが多くなり、廃止される。

■死者に献げる供物 クーロスと墓碑
ヴォロマンドラのクーロス 死者に献げる供物
アルカイク期の彫刻は微笑みを湛えている。ヴォロマンドラのクーロス(BC560-550)は、パロス島産の大理石で作られた、裸体の青年像である。アッティカ地方、ヴォロマンドラの墓地で発見された。理想的な形に形作られ肉体と容貌をもち、アルカイクの微笑みを湛え輝いている。
アルカイク期の彫刻、若き青年のクーロスは、若くして死せるわが子を悼み墓地に建てた、墓標であり、副葬品である。愛する者を失い、再び会うことができない、愛惜の念。夭折した死者に對する悲しみが愛する者の彫刻を作らせた。死者に献げる供物として、愛する者の像を刻ませたのだ。
古典期アッティカの墓碑浮彫り
古典期アッティカの墓碑浮彫りには、「死せる者と別れを惜しみ生ける者が握手する場面」「死者を見つめる生者」が、刻まれている。
愛する者は死に、その死を悲しむ者も死に、悲しみを癒すために作られた彫刻のみが、二千年の時を超えて残った。愛する者は死に、死を悲しむ生者も死に、悲しみのみが残った。

■自由のための戦い
独裁者を倒すことから、アテナイの榮光の歴史が始まった。アテナイの歴史は、強者に対する弱者の戰いの歴史である。権力者の傲慢、富める者の傲慢と戰うアテナイ人。
「かくてアテナイは強大となったが、自由平等(イセゴリア)が、一つの点のみならずあらゆる点において、いかに重要なものであるかということを実証した。アテナイが独裁下にあったときは、近隣のどの国も戰力で凌ぐことができなかったが、独裁者から解放されるや、断然他を圧して最強国となった。」(ヘロドトス『歴史』第5巻)
独裁政を倒してから、アテナイのエーゲ海の覇者たる歴史が始まる。強者の横暴と戰い、復讐を遂げたとき、アテナイの榮光が始まる。優れた人が、善を目ざして、一部の者の利益のためでなく全ての人の利益のために、支配を行うとき、眞に優れた統治が成立する。あらゆる技術、研究、あらゆる実践、選択は、善を目ざさねばならない。人を支配する技術、政治學は、善を究極目的としなければならない。善を目的としない支配は滅亡する。
独裁者と戰い、自由のために戰ったアテナイは、イオニアの反乱を支援し、ペルシア戰爭に向かい、エーゲ海の王者となる。
★ヴォロマンドラのクーロスBC560 アテネ考古学博物館
ヴォロマンドラのクーロス,Kouros of Volomandra
★仔牛を荷う人(モスコフォロス)BC560 アクロポリス博物館
Moskophoros
★アクロポリスの丘 ムーセイオンの丘から
★【参考文献】
馬場恵二『サラミスの海戦』人物往来社1968
馬場恵二『ギリシア・ローマの榮光』講談社1985
桜井万里子・本村凌二『ギリシアとローマ』中央公論社1997
ダイアナ・バウダー編『古代ギリシア人名事典』原書房1994
トゥキュディデス 久保正彰訳『戰史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-72
クセノポン佐々木理訳『ソクラテスの思い出』1-18岩波文庫1953
アリストテレス村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』「アリストテレス全集」第15巻、岩波書店1973
村田數之亮『ギリシア美術』新潮社1974
*澤柳大五郎『アッティカの墓碑』グラフ社1989年
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻、岩波文庫1952-1956
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」「テミストクレス伝」「ペリクレス伝」「アルキビアデス伝」「ディオン伝」「アレクサンドロス伝」
大久保正雄COPYRIGHT 2002.04.24
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2016年6月24日 (金)

アクロポリスをめぐる戦い 賢者ソロン、弱者のために戦う

Ookubomasao98大久保正雄『地中海紀行』第30回
アクロポリスをめぐる戦い 賢者ソロン、弱者のために戦う

エーゲ海のように美しい、紺碧の瞳。
イオニアの少女は、エーゲ海の島で生まれた、
大理石の彫刻となり、永遠に微笑む。
永遠に刻まれた、死せる少女の美しい微笑み。

藝術に溢れた都、
夜空に燦めく星のごとく、優れた魂、
高貴な魂が、生まれた都、
輝く都市、アテナイ。
アクロポリスの丘に、独裁者と対峙、
自由のために戰ったアテナイ人。
戰う高貴な魂のみが、眞の叡知に到達する。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■ギリシアの時間
八重櫻、牡丹櫻が咲き亂れ、木蓮の花薫る日、花吹雪が舞い、夕暮になると、様々な花の香りが漂う。春の黄昏刻、紫の光が闇を覆い、樹木の香りが風に融け、心が風に溶けるとき、ギリシアの渇いた空気、輝ける海、時空から解き放たれた、ギリシアの優美な時間の燦めきを思い出す。
風に花びらが舞うように、友人から手紙が届いた。『アクロポリスの光と影』を読んだ友は、「ギリシアのたゆたうようなゆっくりとした時間を思い出し、叙情性が流れている時間を感じる」と書いた。枝を広げた樹陰で木の実を拾い、葡萄の樹木の葉陰でクレタ島のラキを飲む昼下がり、ギリシアの時間が流れる。木洩れ日の下で、生きる樂しみを愛でる古代人の輝く瞳を思い出す。終焉と始原が一致する、永遠に回帰するギリシアの時間。死が生に還帰する。円環的時間が時の岸辺に打ち寄せる。エーゲ海の潮のように、波のように。

■偉大な人間の時代 
ソロン、クレイステネス、テミストクレス
アテナイには、夜空に燦めく星のごとく、眞に偉大な人間、優れた人物が、現れた。貧しい人のために、尽力したソロン。ソロンは、貧しい人を救済するために、法を作り、詩を作った。不屈の精神を以って、独裁僭主と戦ったクレイステネス。智謀と機略に優れ、未來を予見し、ギリシアを危機から救ったテミストクレス。戰略に優れ、高貴な人柄を有したペリクレス。この世に美しきものを殘した藝術家フェイディアス。マラトンの戰いで戰い、美しい復讐劇を書いたアイスキュロス。眞実を探求する魂、内なる霊の聲を聞いたソクラテス。人類史に殘る、美しい対話編を書いたプラトン。貴族が高貴な義務を果たした時代。夜空に輝く星のごとく、優れた魂、美しい魂が、生まれた都、アテネ。
 地上には惡しき国が存在する。私利私欲を追求する者が支配階層を占める国。私利私欲のためにのみ行動する人物、名譽欲を追求する者が、社会の枢要を占める国。偉大な人間を一人も持たない国は悲惨を極める。私利私欲のために行動する者が支配する国は、必ず滅亡する。

■将軍(ストラテゴス)の義務
貴族が高貴な義務を果たした時代。ヨーロッパには、貴族の義務(noblesse oblige)の思想があった。貴族は、身分が高いがゆえに戰いの時には、己の命を賭けて戰う義務がある。
ギリシアにおいて、將軍(ストラテゴス)は、国家を守るために、軍を率いて兵士の命を死の危険に曝すため、戰爭に対して責任を負う義務がある。指揮官が率いた作戰に失敗があったときは、ストラテゴスはその結果に対して責任を負った。
紀元前487年の改革によってアテナイにおいてアルコン(執政官)の選出は抽籤となったが、將軍の選出は選挙によった。戰爭で軍を率いる將軍の責務は重いからである。
紀元前406年レスボス島の南、アルギヌーサイの海戰において、アテナイ海軍は敗れ、艦隊を編成し救援に向かった。スパルタ海軍を打ち破り、スパルタは難船したが、嵐のため、アテナイ艦隊の兵も海に溺れた。アテナイ軍はこのアテナイ人を救う事が出来なかったため、アテナイ市民は怒った。帰還した七人の將軍は一人を除き、弾劾され、人民会議で審議し、財産没収の上、死刑を要求した。6人の將軍は処刑された。そのなかにペリクレスの子ペリクレスがいた。この時、人民会議議長はソクラテスであった。通常の裁判の手続きによらず違法であり、ソクラテスはこの一括審議に断乎反対したが、民会の決議は、採決を要求、処刑は執行された。(cf.クセノポン『ソクラテスの思い出』)
また、紀元前489年、將軍ミルティアデスは、パロス島遠征に失敗し、巨額の罰金を科され、この年没する。
指揮官が指揮した責任をとらず、部下に責任を転嫁し、兵士を犠牲にして、自らは富と安寧を貪る国。惡が榮え、高慢な富者が支配する国は、必ず滅びる。

■ソロン 貧しい人のために力を尽くした賢者
ソロン(BC640-559)は、アテナイの立法者、アテナイ最古の詩人。ギリシア七賢人の一人である。ソロンは法律を詩で作ろうとした。
アッティカは、凶作に襲われた。アテナイは貧富の差が拡大、富者と貧者の不均衡は頂点に達した。負債のために所有地を失い奴隷に売られるものが多かった。多くの人々が少数の者に隷属していた。貧者は、6分の1の地代を納めるので6分の1(ヘクテモリオイ)と呼ばれた。富める者は貪欲かつ傲慢で不正を恣にした。富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しく、貧富の差は、激しくなるばかりであった。富者と貧者の抗爭が激化した。民衆は貴族に対して、反抗し決起した。
ソロンは詩を作った。「惡人が富み榮え、善人で貧しい者が多い。」(プルタルコス『対比列伝』)ソロンは、富める者の貪欲と傲慢から抗争が生まれた、と考えた。ソロンは市民によって、富者と貧者の抗爭の調停者として選ばれた。
紀元前594-3年、ソロンは、アテナイのアルコンになる。危機克服のために、改革を行う。個人の債務帳消し(セイサクテイア=重荷下し)を行い、身体を抵当とする金貸しを禁じた。かくしてアテナイ市民が奴隷に零落するのを防いだ。
市民を財産評価(土地所有)により、5百メディムノス(ペンタコシオメディムノス)級、騎士(ヒッペウス)級、農民(ゼウギテス)、労働者(テテス)、の4階級に区分した。官職につきうるのは上位3階級とし、最下級のテテスには、民会(エクレシア)と法廷(ディカステーリア)に参与する権利を与えた。官職には、9人のアルコン、財務官、契約官、11人、コラクレタイがあった。アレイオスパゴス会議をそのまま、存続させたが、旧来の4部族制に基づく400人評議会を新設した。殺人に関する法を除いて、ドラコン法を廃止、新しい法を立てた。ソロンの法は、以後、アテナイ法の基礎をなす。ソロンの改革には富者も貧者も不満だったので、10年間、法を変更しないことを誓わせて、エジプト、キュプロス、イオニア地方を旅した。
帰国後、抗爭が激しく、紀元前561年、ペイシストラトスが僭主(テュランノス)となる。ソロンは、僭主政を弾劾しアゴラで演説したが耳を傾ける者はなく、終始反対して没した。
アリストテレスはソロンを、「ソロンは、他人を抑えて国家の独裁者になることも出来たが、独裁者にならず、双方の側から憎まれても、自己の利益よりも美徳と国家の安全を重んじたほどに節制であり、公平であった。」と、評価する。(cf.プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」、アリストテレス『アテナイ人の国制』)

■法律は蜘蛛の網である
ソロンは、スキタイ人の賢者アナカルシスがソロンの家に滞在した時、国政に携り、法律を編纂していた。アナカルシスは、ソロンの仕事を知ってそれを嘲笑った。「ソロンが市民たちの不正と貪欲を抑止しようと考えているのは蜘蛛の網のようなものである。蜘蛛の網のように架かった者のうち非力で弱い者は捉えておけるが、力ある者や富者によって破られる。ギリシア人の間では演説するのは賢人たちだが、決定するのが無知な人々なので驚いた。」(プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」)
ソロンは反論したが、賢者アナカルシスの言葉は不朽の眞実である。法は強者に仕える。法律を作り、施行するのは強者だからである。ソロンのように、貧者のために行動する賢者が支配者となるとは限らない。不正は、非合法になされるとは限らない。合法的に不正がなされる国がある。例えば、強者たる官僚による、官僚のための、官僚独裁の国。官僚が惡を行なう時、法律を作りながら例外を作り、これを裁くのは、官僚自身である。盗人に、給料を与え、裁判官に任じるようなものである。法律は人間の幸福のために作られた道具にすぎず、法律のために人間が仕えるのは愚かである。
★アクロポリスの丘 ムーセイオンの丘から
★アクロポリスの丘 プロピュライア
★ヴォロマンドラのクーロス(アテネ考古学博物館)
大久保正雄COPYRIGHT 2002.04.24

2016年6月23日 (木)

パルテノン神殿 彫刻家フェイディアス アクロポリスのコレー

Ookubomasao91Ookubomasa93大久保正雄『地中海紀行』第29回
パルテノン神殿 彫刻家フェイディアス アクロポリスのコレー

アクロポリスのコレー 二千年の時を超えて蘇る少女

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

パルテノン 調和的比例と曲線美
ギリシア建築の美しさは、柱の美しさである。ギリシア建築は、柱の建築である。列柱の回廊は、限りなく美しい。列柱の回廊(ペリスタシス)の間を歩く時、大樹の樹林を歩く感覺を感じる。エンタシスの膨らみは、樹木の幹の膨らみである。神殿が木で作られた時代の記憶である。宮殿や神殿は糸杉や松で作られていた。例えば、クノッソス宮殿は糸杉(キパリッソス)で作られていた。
ギリシア人は、美を数的比例(シュンメトリア)に還元して考える。パルテノンは、柱の基部直径と柱間の比が4対9であり、この比例が建築の各部にくり返されている。
パルテノンには、眞の水平線、垂直線はない、曲線によって構成された建築である。床面(ステュロバテス)は水平面ではなく中央で隆起している。周囲の柱(ペリステュロス)は対角線の内側に傾いている。美的な目的のため規則性が破られ、また視覚補正のため曲線が用いられた。いきいきとした美しさを実現するという意図から生まれた。パルテノン神殿は、「歌う建築」と呼ばれ、曲線美によって構成された建築のリズムと生命、個性は、高度な技術と優れた叡智が生みだした。パルテノンは、調和的比例と規則性を超えた曲線美に溢れている。

■アクロポリスのコレー 二千年の時を超えて蘇る少女
アクロポリスのコレー(少女)は、彩色された衣で肉体を包む少女である。純粋な微笑みと豊麗な美しさは譬えようもない。

アクロポリスのコレー、ドーリア式とイオニア式 
アクロポリスのコレーは、ぺプロフォロス、ペプロスのコレーと呼ばれ、ぺプロス、ドーリア式上衣を纏った少女である。ぺプロスの下にはドーリア式キトンを身に纏っている。口もとにはアルカイク・スマイルを湛え、永遠に輝いている。(cf.アクロポリスのコレーNo.679)
イオニア式コレーは、イオニア式ヒュマティオン(ショール)にイオニア式キトンを身に纏っている。イオニア地方で作られた彫刻であると思われる。誇り高く成熟した美しさを身につけている。
アクロポリスのコレーは、アテナ古神殿に奉納されていた。紀元前480年ペルシア軍によってアクロポリスが攻撃され破壊された時、土中に埋もれ、二千四百年の歳月が流れ、1886年、発掘され再び蘇った。二千四百年の時の流れを超えて、蘇ったアクロポリスのコレー。蘇った古代の微笑み。アテナ古神殿は、アルカイク・スマイルを湛えた神殿であった。これに対し、パルテノン神殿は、洗練を極め、古典的な美を湛えた、完璧の美學であった。
アルカイク・スマイル
飛鳥白鳳彫刻、ガンダーラ彫刻、クメール彫刻、レオナルドの洗礼者ヨハネの微笑み。これらの像はアルカイク・スマイルを湛えている。アルカイク・スマイルは、文明が爛熟する前夜に現れる純粋な輝きである。アルカイク・スマイルは、死の微笑である。苦悩する人間を生と死の彼方に誘う。

■彫刻家フェイディアス
フェイディアス(BC490-432.432年没)は、第85オリュンピアード(448-5)に最盛期であった。アテナイのカルミデスの子。画家から出発して彫刻家になった。ペリクレスが紀元前448年にアクロポリス再建に着手すると、親友であるフェイディアスは、総監督(パントン・エピスコポス)に任命される。パルテノン神殿は、437年にフェイディアス作の黄金象牙(クリュセレファンティノス)のアテナ・パルテノス像が完成して、パンアテナイア祭に落慶式が行なわれた。フェイディアスとその弟子の手により432年パルテノン浮彫が完成され、パルテノンが完成するが、この時フェイディアスは獄中か他国にいて、完成を目にすることはなかった。
黄金象牙のアテナ・パルテノスは、フェイディアスの代表作で、自ら製作、高さ11mであった。ドーリア式ペプロスにアイギス(胸当て)、装飾された冑、右手を差し出して勝利の女神ニケを載せたコリントス様式円柱を持ち、左手で楯と槍を支えて立つ、武装したアテナ像である。楯の表面にはアマゾン族との戰いの浮彫が彫られ、楯の傍らに蛇が首を擡げとぐろを巻いていた。紀元後429年キリスト教徒によりコンスタンティノープルに持ち去られこの世から姿を消した。ハドリアヌス時代の模刻ヴァルヴァキオンのアテナが殘っている。
フェイディアスは、430年代に始められたペリクレスとその一派に対する攻撃の最初の標的となった。楯に彫られたアマゾン族との戰いの浮彫の二人のギリシア人がペリクレスとフェイディアスであるとされ、アテナ・パルテノス像に使用される黄金を横領したと告発された。しかしペリクレスの勧めによって、黄金を予め重さを量っておき記録していたので、裁判に勝つことができた。この後、アテナイから追放、或いは逃亡してオリュンピアに行き、その地で工房を作り、黄金象牙のゼウス坐像を制作した。紀元前432年、横領罪或いは他の罪状により、無実の罪で、アテナイ或いはオリュンピアの牢獄で処刑され、或いは毒藥を盛られ、非業の死を遂げる。(cf.プルタルコス『対比列伝』「ペリクレス伝」)
フェイディアスは、アテナイに有名な二人の弟子、アゴラクリトスとアルカメネスを殘した。アゴラクリトスとアルカメネスは好敵手となった。古代ギリシアで最も有名な彫刻家であるが、彫像作品は一つも殘っていない。だが幻のパルテノンは滅びない。
美しく善き人は死に、藝術家は死ぬ。だが、藝術家の魂は滅びない。

■アゴラ 幻影のポリス
アクロポリスの丘の麓に、古代アゴラがある。古代の人々が、集まり、物を買い、議論し、ポリスを動かした場所である。ここからアクロポリスの丘、パルテノン神殿が見える。アテナ・パルテノスに見守られながら、古代人は国家意志を決定し、民族の運命を決定する行動を選択し、正邪を裁いた。
アッタロス2世のストア(柱廊)があり、ヘファイステイオン神殿がある。かつて、ここに、ブーレウテリオン(評議会場)、トロス(円堂)、アグリッパのオデイオン(音樂堂)、ヘリアイアの裁判所、アレイオスパゴスの丘の裁判所があった。古代人がポリスを動かしたアゴラは、今は幻である。幻影のアゴラは、ポリスを動かす心臓であり、国家は見える形であった。この広場で人々が、言葉を交わし合い、樂しみ、議論し、会議場で最高意思を決定した。
アッタロスのストアは、紀元前2世紀ペルガモン王によって作られた柱廊であるが、20世紀に復元された。かつて、アゴラにはストア・ポイキレー(彩色柱廊)があった。列柱の回廊には、ポリュグノトスの彩色された壁画があり、紀元前3世紀、哲人ゼノンがここで往きつ戻りつしながら議論していた。ゼノンとその弟子はストア派と呼ばれた。(cf.ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』)

■劇場国家アテナイ 雄弁家が誘導し、煽動家が民衆の心を操る
紀元前508年クレイステネスの改革から、前322年クランノンの戰いでマケドニア軍に敗北しアテナイの民主政が終焉するまで、アテナイの民主主義は史上稀にみる進化を遂げ、186年間榮えた。
雄弁家が民会を誘導し、煽動家(デーマゴーゴス)が民衆の心を右往左往させる。煽動家が眞実を見ることができない民衆の心を操る。民衆は、嫉妬心を掻き立てられ、優れた人物も、陶片追放によって、国外へ追放された。アテナイもまた、不条理の国である。
第二次ペルシア戰爭の作戰を指揮した、勲功あるテミストクレスは、紀元前470年、不当に陶片追放され、ギリシアを放浪した後、敵国ペルシアに辿りつく。アルタクセルクセス王に謁見し、ペルシア帝国の治下、マグネシア長官(サトラペス)に任じられ、マグネシアの地で波瀾に満ちた生涯を終える。
民衆は、雄弁家、煽動家の弁舌に翻弄され、また頻発する民衆法廷への告訴によって、多くの優れた人々が、命を落とし、追放された。
国家は劇場と化し、観衆の目にさらされ、演戯する者の舞台となる。劇場において、名譽心ある者の言論と、打算的な煽動と、民衆の心にひそむ嫉妬心に火がつけられ、国家意思は右往左往する。黄金時代のアテナイにおいて、国家意思は、正義と嫉妬と虚偽と眞実の間をさまよう。紀元前399年に処刑されたソクラテスも、不当な判決を受けた者の一人である。

■ペリクレス時代
ペリクレス時代は、美術史上パルテノン時代であり、アテナイの黄金時代である。
紀元前450年、貴族派の指導者キモンが、キュプロス島で急死。民主派を率いるペリクレスが、アテナイの指導者となる。カリアスの和約が成り、ペルシアは、イオニア諸都市の独立を承認する。紀元前447年ペリクレスは、民会の議決を得て、パルテノン神殿起工を指揮する。
紀元前443年、將軍トゥキュディデスが陶片追放され、ペリクレスが將軍となる。ペリクレス時代が始まる。438年、パルテノン神殿、黄金象牙のアテナ像が完成。432年、パルテノン神殿浮彫が完成、パルテノン神殿は完成する。432年フェイディアスは獄中で死ぬ。
紀元前431年スパルタが陸軍を派遣し、アッティカに侵入。ペロポネソス戰爭が始まる。430年からアテナイで疫病が蔓延。紀元前429年ペリクレスは、戰爭のさなか疫病で、志なかばで死ぬ。
パルテノン神殿の完成と時を同じくして、フェイディアスは死に、翌年ペロポネソス戰爭が起き、その2年後ペリクレスは死ぬ。ペロポネソス戰爭はアテナイが没落する原因となる。藝術家は死に、国家は滅亡する。しかし、ギリシアの美は不滅である。
★【参考文献】
プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」「テミストクレス伝」「アリステイデス伝」「ペリクレス伝」「アルキビアデス伝」「ディオン伝」「デモステネス伝」「アレクサンドロス伝」
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻岩波文庫1952-1956
トゥキュディデス久保正彰訳『戦史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-1972
桜井万里子、本村凌二『ギリシアとローマ』世界の歴史5 中央公論社 1997
ダイアナ・バウダー編『古代ギリシア人名事典』原書房1994
マキシム・コリニョン冨永惣一訳『パルテノン』岩波書店1978
中尾是正『図説 パルテノン』グラフ社1980
リース・カーペンター松島道也訳『パルテノンの建築家たち』鹿島出版会1977
澤柳大五郎『アクロポリス』里文出版1996
磯崎新、篠山紀信『透明な秩序―アクロポリス』六耀社1984
ナイジェル・スパイヴィ福部信敏訳『ギリシア美術』岩波書店2000
村田潔編『ギリシア美術 体系世界の美術5』学研1980
澤柳大五郎『ギリシアの美術』岩波新書1964
村田數之亮『ギリシア美術』新潮社1974
★エレクテイオン神殿 乙女のテラス
★アクロポリスのコレー679 アクロポリス博物館
★イオニア式コレー アクロポリス博物館
大久保正雄COPYRIGHT 2002.03.27
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