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ビザンティン帝国

2016年6月 9日 (木)

ビザンティン帝国の皇帝たち 哲学を愛した皇帝、ユリアヌス

Ravenna_san_vitalejpgByzantine_empire_emperor_justinianHagia_sophia大久保正雄『地中海紀行』第17回
ビザンティン帝国の皇帝たち 哲学を愛した皇帝、ユリアヌス

コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトス
コンスタンティノス11世パライオロゴス
皇帝一族の兄弟殺し
パライオロゴス朝ルネサンス

生きながら死せる者、死にながら生きる者。
死臭を放ち、腐敗したまま生き殘る、ビザンツ人の帝國。
虚榮の都、コンスタンティノポリス。
ユスティニアヌス帝によって、多神教は封殺された。
哲学者の古典の死體を解剖し、一字一句、穿鑿、一語を巡り、
論爭にあけくれ、眞理よりも、善よりも、自己の名譽が最も尊い人々。
生ける屍のごとき御用學者のみ存在する。
崇高な理想は死に絶え、人間の尊厳は尊ばれない。
理想なき国にはソクラテスは生まれず、プラトンは蘇らず。
哲学を愛した皇帝、ユリアヌス。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■パライオロゴス朝ルネサンス
マケドニア朝ルネサンス
7世紀以後、ビザンティン帝國はギリシア化してギリシア語が公用語とされた。しかしホメロス、プラトンなどの古典を讀みうる者は稀有であった。ホメロスの書は朽ち果て、文章は単語に区切られず書写された寫本は闇に埋もれていた。
10世紀ビザンティン帝國において、ギリシア古典文化の復興が行なわれる。皇帝コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスによって古典の収集と編纂が行なわれ、マケドニア朝ルネサンスと呼ばれる。だが、榮えた學問は、訓詁注釈、原典校訂、宮廷儀礼研究など個性を殺した學であり、創造的な學問の名に値しない。イコンをかいた繪師の名前は知られず、個の尊厳は黙殺された。人間の尊厳は尊ばれず、創造的な學問は生まれない。

■コンスタンティノス7世 ポルフュロゲネトス、緋色の室に生まれた皇帝
コンスタンティノス7世(906在位913-959)は、ポルフュロゲネトス(緋色の室に生まれた)と呼ばれ、宮殿内、緋色の大理石で作られた皇后の産室で産声を上げた。マケドニア朝第3代の皇子であるが、6歳の時、父レオン6世が死に、叔父アレクサンドロス帝が統治1年で死んだため、913年7歳の時、ビザンツ帝國の正帝の地位につく。母ゾエを中心とした摂政府が設けられ、33年間政務に携わらず、長い休暇の間、自らの趣味でもある研究に没頭、『帝國の統治について』『宮廷儀式の書』を著した。

■皇帝一族の兄弟殺し
宮廷において、王族、皇帝の一族の間で、兄弟殺しが行なわれることは、古來、枚擧にいとまがない。権力の分散を阻止し、王土の分割を避けるためである。
権力を手に握る者は、力の集中を圖り、目的の達成をめざす。だが権力の維持のために権力の集中を目ざす、権力のための権力である時、それは暴虐な王者の私利私欲の追求に過ぎない。ビザンティン帝國皇帝一族、オスマン帝國スルタンにおいても同じである。
皇帝ヘラクレイオス(在位610-641)は、コンスタンティノス3世とヘラクロナスに帝位を継承すると遺言した。ヘラクロナスとその母マルティナは、舌を切られ、鼻を削がれて宮殿を追われた。コンスタンティノス3世の子コンスタンス2世は、弟テオドシオスを殺害。我が子コンスタンティノス4世に帝位継承権を確保するためである。さらにコンスタンティノス4世は、共同皇帝である2人の弟の鼻を削いだ。我が子の帝位継承権を獲得するためである。身体に損傷がある者は皇帝になれないと考えられたからである。

■ラテン帝国
ヴェネツィアが率いる第4回十字軍は、制海権を掌握するためコンスタンティノポリスを占領、ラテン帝國(1204-61)を樹立した。海洋國家ヴェネツィアが地中海貿易を独占することが目的である。
アギア・ソフィア寺院の『祈り図』(deisis)は、「聖母と洗礼者ヨハネがキリストに人類の救済を要請する」構圖である。1261年ミハイル8世パライオロゴス(在位1259-1282)が、ラテン帝國の支配からコンスタンティノポリスを奪還した。これを記念して制作したと推定される。

【虚榮の都 コンスタンティノポリス】
コンスタンティノス11世パライオロゴス
官僚主義の帝國。腐臭を放つ官僚制國家、ビザンティン帝國。権力者に媚び諂い、自ら「皇帝の奴隷」と呼ぶ官僚。強者に阿諛追従し、弱者に強圧的に振る舞う、面従腹背の奴隷道徳が支配する。繁文縟礼、儀式に明け暮れる日々。ハプスブルク帝國の帝都、美しき屍 (schone Leiche) ウィーンのごとき瑣末主義、権力の奴隷。だが傲慢な奴隷である。
 官僚の行動様式は、次のような特色がある。権威に盲従し、弱者に圧制を敷く。前例を崇拝し、上意を下達する。己の利益のみ考慮して、國益をかえりみず。血脈とコネと賄賂を重んじる。亡國の官僚。20世紀日本の官僚制と酷似するのは偶然ではない。すべて官僚制はがん細胞のように自己増殖する。邪悪なる者が蔓延するように。そして永續する権力は必ず腐敗する。ビザンティン帝國は滅びるべくして滅んだ國である。だがビザンティン帝國でさえ市民は反乱した。
皇帝の人格、能力如何に関わらず、官僚組織が存續する限り、帝國は存在し續ける。『宮廷儀式の書』『官職表』『宮廷席次表』に従い、ローマ法典に則り、組織に隷属する。創造性を欠如した所に、千年の帝國は存在した。ビザンツ人は、あらゆる独創性の敵、生ける精神の敵である。千年の歳月を生み出した官僚制と軍隊は、帝國を蝕み、滅亡させた。
1453年メフメト2世はオスマン帝國の艦隊をペラ地区に陸越えさせて、5月28日、攻撃、29日コンスタンティノポリスを征服した。最後の皇帝コンスタンティノス11世パライオロゴスは戦乱の炎の中に消えた。

■ユリアヌス帝 哲学を愛した皇帝
32歳にして死す
【地中海人列伝10】
ユリアヌス(331-363在位360-363)は、首都コンスタンティノポリスで生まれる。生後、母と死別。皇帝コンスタンティヌスの異母兄弟ユリウス・コンスタンティウスの息子である。ユリアヌスは短命で、数奇な悲劇的生涯を送った。著作、演説11、書簡80余が殘存する。
337年5月22日コンスタンティヌス大帝が死ぬ。9月9日、殘された3人の子、コンスタンティヌス2世、コンスタンス、コンスタンティウス2世は正帝(Augustus)に即位。帝國は3人の子に3分割される。
338年従兄コンスタンティウス2世は宮廷革命を起し、ユリアヌスは父と一族を失う。異母兄ガルスとユリアヌスだけが助命される。孤獨不遇な青少年期に、古典的教養を身につけ、新プラトン主義に傾倒。ミトラス教の密儀を學び、エペソスの祕儀に魅せられた。
340年春コンスタンティヌス2世はコンスタンス帝に己の権力を思い知らせようと邪心を抱きイタリアを侵略したが、アクィレイアにて敗死する。だが350年コンスタンス帝は宮廷内の陰謀により殺害され、軍人マグネンティウスがその地位を奪う、が353年コンスタンティウス2世はリヨンの戰いでこれを討つ。コンスタンティウス2世は「虚榮心の強い愚者である」と歴史書に書かれた。
354年コンスタンティウス2世は猜疑心が強く副帝ガルスを謀反の疑いで処刑する。この時、ユリアヌスは疑われるが、アテナイに留學する。
コンスタンティウス2世は單獨統治の欠陥に気づき、政権を共有する相手を捜す。又従弟フラウヴィウス・クラウディウス・ユリアヌスである。355年ユリアヌスをアテネ留學からミラノに召還。副帝に任命、ガリア、ライン河國境の警備に任じる。ユリアヌスは軍事のみならず税制改革、減税に才能を発揮し、軍隊と市民に絶大な人気を博した。このためコンスタンティウス2世は脅威を感じて警戒心を起し、降格させる。だが軍隊は360年2月ルテティア・パリシオールム(パリ)において、ユリアヌスを對立皇帝(Augustus)に擁立、推戴する。コンスタンティウス2世は討伐に立ち上がるが、途上、361年11月死亡。ユリアヌスは361年12月首都コンスタンティノポリスに無血入城する。
時流に逆らい、キリスト教ではなく、ローマの伝統宗教の復活を試み、古代の學藝を愛した。行政改革、減税に取り組み、優れた統治を行なった。後世、背教者(Apostata)ユリアヌスと呼ばれるのは誤解による。
ユリアヌスの最期は、362年アンティオキアに行き、翌年3月ペルシア征伐に赴き、メソポタミアに遠征。遠征軍がペルシア人を冬の都クテシフォン城外で戰勝したが占領せず、後續部隊と合流するため退却した。363年6月27日、旅の途中、戰闘で致命傷を負い、深夜、死去する。ユリアヌス帝は「ヘリオス(太陽神)よ。汝は我を見捨て給うた」と言い殘して、32歳にして死ぬ。
ユリアヌス帝の死がコンスタンティヌス朝の終焉である。ユリアヌス帝死後、コンスタンティノポリスにおいて帝國の文官と武官は秘密会議を開き、パンノニア人の指揮官ヴァレンティニアヌス1世を皇帝に指名。364年3月弟ヴァレンスを共治帝に任命した。しかしヴァレンティニアヌス家は次々と非業の死を遂げ、392年5月ヴァレンティニアヌス2世の死によって斷絶する。
*フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(Flavius Claudius Julianus フラーウィウス・クラウディウス・ユーリアーヌス、331/332年 - 363年6月26日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:361年11月3日 - 363年6月26日)。コンスタンティヌス朝の皇帝の一人、コンスタンティヌス1世(大帝)の甥。最後の「異教徒皇帝」として知られる。多神教復興を掲げキリスト教への優遇を改め、「背教者(Apostata)」とも呼ばれる。
★参考文献
井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書1990
井上浩一『ビザンツ帝国』岩波書店1982
井上浩一『ビザンツ皇妃列伝』筑摩書房1996
井上浩一・栗生沢猛夫『ビザンツとスラブ 世界の歴史11』中央公論社1998
渡辺金一『コンスタンティノープル千年 革命劇場』岩波新書1985
渡辺金一『中世ローマ帝国 世界史を見直す』岩波新書1980
クリス・スカー著 青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社
和田廣『ビザンツ帝国 東ローマ1千年の歴史』教育社1981
ベック渡辺金一編訳『ビザンツ世界の思考構造』岩波書店
鈴木薫『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書1992
益田朋幸・赤松章『ビザンティン美術への旅』平凡社1995
陳舜臣『世界の都市の物語イスタンブール』文藝春秋1992
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
ゲオルク・オストロゴルスキー和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社2001
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
★サン・ヴィターレ教会、ラヴェンナRavenna San Vitake
★ユスティニアス帝Byzantine Emperor Justinian
★アヤ・ソフィア寺院Aya Sophia
大久保正雄COPYRIGHT 2001.8.29

2016年6月 8日 (水)

幻影の帝国ビザンティン 地位崇拝の階級主義

Ookubomasao46Ookubomasao49Ookubomasao50大久保正雄『地中海紀行』第16回
幻影の帝国ビザンティン 地位崇拝の階級主義

星の瞬く夜。地中海に到る、
ボスポリオンの港に波が打ち寄せる。
三重の城壁に囲まれた丘の上。
哲學を愛した皇帝、ユリアヌスが生まれた地。
幻影の都、コンスタンティノポリス。

宮殿の奥深く聳える、皇帝の眞珠宮殿。
神の聖なる智慧に献げられた寺院。戰車競技場に決起、
對立皇帝を立て、コンスタンティノポリス市民は反亂する。
皇帝を生み出したものは、皇帝を死に至らしめる。
千年の歳月を生み出した官僚制は、帝國を蝕み滅亡させる。
眠れるごとき一千年の歳月。
帝國は滅び、いま幻影のみが蘇る。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【幻影の帝國】
糸杉の丘の向こうに、海が見える。
この海は地中海に至る海である。海峡の彼方にペラ地区が見える。かつてジェノヴァの商館が立ち並んだ坂の町。金角湾(Golden Horn)の入り江に、林立する船影が見える。
アクロポリスの丘を歩くと、幻影の帝國、ビザンティンの面影が蘇る。緋色の帝衣を翻して、皇帝が歩く。幻の眞珠宮殿、戰車競技場、回廊と列柱、皇帝の墓所。すべては灰となり、この世から消えた。ギリシアとローマとキリスト教が融合した不思議の國。幻影の帝國、ビザンティン。
セヴェルス、コンスタンティヌス、テオドシウス2世、三人の皇帝によって、強固な城壁が築かれた。コンスタンティノポリスは、三重の城壁と海で囲まれた難攻不落の城塞である。眠れるごとき千年の歳月。帝國の都は地上から消え、大地が残った。
何故、ビザンティン帝國は、一千年の月日を生き残ることができたのか。

【ビザンティン 一千年の帝國】
ビザンティン帝國(395-1453)は、テオドシウス帝の子アルカディウス帝(395-408)に始まる。コンスタンティノポリスを首都とする。正式名称はローマ帝國、臣民はロメイオイ(ローマ人) と自ら呼ぶ。ローマ皇帝の後継者を任じる皇帝によって統治されたギリシア人のキリスト教國家である。ギリシア人を中心とする多民族國家。ローマ帝國の後継國家として、東ローマ帝國、中世ローマ帝國と呼ばれる。

■皇帝専制国家
ビザンティン帝國は、皇帝の下に富と権力を集中させた皇帝専制國家、官僚制と軍隊の帝國である。歴史の主要舞台は、開かれた空間、戰車競走場から、宮殿の奥の閉ざされた闇へと移る。宮殿の奥深く繰り広げられる儀式。「皇帝は神の代理人」、皇帝が教会を支配下に置き、聖俗両界を掌握する。高級官僚は「皇帝の奴隷」である。官僚と軍隊は税金を食い潰す魔物である。
皇帝を頂点とするビザンティン帝國の社会は、三つの階層に分かれ、頂点に立つ少数の上層階層と多数の底辺の下層階層からなる。上層階層(皇帝、貴族、高級官僚)、中層階層(商人、職人)、下層階層(農奴、奴隷、貧困層)である。自らの労働に基づかず、他人を搾取することによって成立する支配階層の繁榮が退廃を生む。

■官僚制の帝国
ビザンティン帝國は、官僚制の帝國である。皇帝を生み出した者は、皇帝を死に至らしめる。89代の皇帝の43人が反亂と陰謀で倒れた。例えば、7世紀、軍と元老院と市民は自らの監視の下にフォカス帝(602-10)を退位させた。だが、皇帝個人の人格、能力如何に関わりなく、絶え間なく行政に携わる官僚組織が存續する限り、帝國は存在し續ける。
 皇帝は神の代理人。高級官僚は皇帝の奴隷。官僚は、國家の富を食い潰す魔物である。面従腹背の官僚は不滅である。コネと賄賂を重んじる。皇帝役人によって統治される、官僚制の帝國、組織の帝國、ビザンティン。それは惡の帝國である。皇帝は死に、反亂する市民は虐殺され、元老院が破壊され、勇敢な武士が戰場に倒れ、國が滅びても、官僚制は生き殘る。ビザンティン帝國一千年の歴史を作り上げた要因は、官僚支配の体制である。

■ビザンツ人
中世ギリシア人、ビザンツ人の特質は、1、利己主義の亡者。2、権威・権力に阿る、卑屈な精神。批判精神の欠如。「皇帝の奴隷」である。3、瑣末なことに拘泥し、崇高な究極目的を無視する。
近代ヨーロッパ語においてByzantineという言葉は、「阿諛追従する、曲學阿世の徒」「複雑で分りにくい」「瑣末なことを重んじる」「地位崇拝の権威主義」を意味する。ビザンティン帝國の官僚機構から生まれた言葉である。
ビザンティン帝國の官僚は、指導的階層であるが、自ら皇帝の奴隷と卑下する。だが皇帝を裏切ることはやぶさかでなく、つねに新たな権力者に媚び諂う。自己の地位を守るためである。腐敗し、創造性を失った「組織の帝國」の構造は、20世紀日本と酷似している。
★参考文献
井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書1990
井上浩一『ビザンツ帝国』岩波書店1982
井上浩一『ビザンツ皇妃列伝』筑摩書房1996
井上浩一・栗生沢猛夫『ビザンツとスラブ 世界の歴史11』中央公論社1998
渡辺金一『コンスタンティノープル千年 革命劇場』岩波新書1985
渡辺金一『中世ローマ帝国 世界史を見直す』岩波新書1980
和田廣『ビザンツ帝国 東ローマ1千年の歴史』教育社1981
ベック渡辺金一編訳『ビザンツ世界の思考構造』岩波書店
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
ゲオルク・オストロゴルスキー和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社2001
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
クリス・スカー著 青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社
益田朋幸・赤松章『ビザンティン美術への旅』平凡社1995
★ブルー・モスク
★ジャンニ・ヴェルサーチのデザイン によるホテル Inter-continental Istanbul
★ジャンニ・ヴェルサーチのデザイン によるホテル Inter-continental Istanbul
大久保正雄COPYRIGHT 2001.8.29

2016年6月 7日 (火)

ビザンティン帝国の都 コンスタンティヌス帝、ユスティニアヌス帝

Ookubomasao42Ookubomasao44ビザンティン帝国の都 コンスタンティヌス帝、ユスティニアヌス帝
大久保正雄『地中海紀行』第15回

ビザンティン帝国の都 コンスタンティノープル
地中海と黒海を結ぶ、ボスポラス海峡に、春風が吹き渡る。
コンスタンティヌスのポリス。ヨーロッパの東の果て、
文明の十字路。ヨーロッパとアジアが出会う海峡。
コンスタンティヌスはこの要塞を鎧のように駆使、
帝国の礎を不朽にした。

オスマン艦隊が陸を越えた奇襲の地。
英雄の幻影、英霊たちの聲が、霧深い春の海峡に谺する。
窓から、ボスポラス海峡が見える。夜霧に煙る海峡。
海の向こうに、輝ける時が燦く。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■コンスタンティヌス帝 戰略の名人
【地中海人列伝8】
コンスタンティヌス帝(274-337在位312-337)。305年ディオクレティアヌス退位後、帝國は権力闘爭が始まる。306年セヴェルス(306-7)が西方正帝(Augustus)に、コンスタンティヌスは副帝(Caesar)になる。307年コンスタンティヌスは、皇帝マクシミアヌスの娘ファウスタと結婚。312年マクセンティウス帝と對決、ローマを流れるティベル河のミルヴィウス橋を挾んで對峙する。この時、勝利を祈り夕空に十字架の幻を見る(cf.『コンスタンティヌス伝』)。敵を虐殺、ローマを占領、帝國西方を制覇、正帝に即位する。313年コンスタンティヌス帝は、リキニウス帝とミラノでキリスト教を公認。「ミラノ勅令」発布の眞の意圖は、對抗勢力がキリスト教迫害を行なっていたため、帝國の覇権を確立するためにキリスト教徒を保護するという戰略にある。後にコンスタンティヌスと對立するリキニウスはキリスト教徒を彈圧する。324年コンスタンティヌス帝はリキニウス帝とハドリアノポリスで對決、リキニウスを破りテッサロニキにて謀殺する。326年我が子副帝クリスプスと皇后ファウスタを不義密通の罪で死刑に処す。冤罪であることは言うまでもない。
 330年5月11日、コンスタンティヌス帝は、ビュザンティオンの街を聖母マリアに捧げ、献都式を擧行。自ら神の代理人となる。この地はローマ帝國の都となりコンスタンティノポリス、コンスタンティヌスの都と名づけられる。たび重なる迫害でも屈服しないキリスト教徒を敵に回すことの不利を知り、キリスト教を帝國支配の道具・イデオロギーとして用いた。コンスタンティヌス帝は、セプティミウス・セヴェルス帝(193-211)の城壁の外側に大城壁を築く。ディオクレティアヌス帝の専制体制を完成、官僚制を基盤とする階級社会を構築、皇帝直属の官僚によって獨裁制を確立する。332年「コロヌスの土地緊縛令」発布。身分と職業を固定化する。ディオクレティアヌス帝以降、帝政は「選ばれた第一人者制(principatus)」から「専制君主制(dominatus)」へと移行する。官僚主義と宮廷儀礼が蔓延するビザンティン帝國の原形が生まれる。
337年コンスタンティヌス1世は、ペルシア遠征の途上ニコメディアで病死する。殘された帝國は3人の子に3分割される。
コンスタンティヌス1世は、地中海世界を駆けめぐり、権力を手に入れるためには手段を選ばず、冷徹で計算高い策士、戰闘と謀略に明け暮れた武人。名君の名に値しない暴力皇帝である。

ユスティニアヌス帝 「われらが海、地中海」、アカデメイアを閉鎖
【地中海人列伝9】
ビザンティン皇帝ユスティニアヌス(483-565 在位527-565)は、失われた旧ローマ帝國領を回復するため533-555年まで21年間、遠征軍を派遣する。534年將軍ベルサリオスは、地中海に闘いを繰り広げる。カルタゴのヴァンダル王國を滅ぼし、北アフリカに領土を拡大。マルタ島を占領。535年ゴート戰爭を開始。552年東ゴート王國を征服し滅亡させ、イタリアを回復する。554年イベリア半島の西ゴート王國を征服。帝國領とする。地中海は、ふたたびローマ帝國の「われらが海」(mare nostrum)となる。
529年、異端の牙城とされたアテナイのアカデメイアを閉鎖。プラトン以來、九百年の歴史が終焉する。首都コンスタンティノポリスで第5回公會議を開き、東方3派を彈圧する。
ユスティニアヌス帝は、遠征軍派遣のための莫大な戰費を得るため、緻密かつ厳格にして過酷な税制を施行した。重税にあえぐ民衆の不満は皇帝に對する反亂に発展、ニカ(勝利)の亂である。亂が頂点に達した時、退位を迫られた皇帝は亡命することを心に決め港に船が用意された。しかし皇妃テオドラは「皇帝の緋色の衣は最も美しい棺である」と皇帝に諫言する。皇帝は將軍ベルサリオスを競技場に派遣し、反亂する市民3万人を虐殺、亂は終結した。以後、安定政権を維持し、ビザンティン文藝史の黄金時代を築く。偽ディオニュシオス文書、他、歴史的な書物が書かれる。
ユスティニアヌス帝は、法學者トリボリアヌスに編纂を命じ、534年『ローマ法大全』を集大成する(534『勅法集』533『學説集』『法學概論』)。532年ニカの亂によって焼失したアギア・ソフィア再建に着手、537年12月27日アギア・ソフィア寺院を建立する。アギア・ソフィアは、「聖なる神の叡智」(Agia Sophia)にささげられた聖堂である。ユスティニアヌスは、「皇帝が、自身を法に縛られたものとして認めることは、支配者としての尊厳にふさわしい。」(『勅法集』1-14-4.429)と宣言、「法に縛られるものとしての皇帝」を確立する。(cf.渡辺金一『中世ローマ帝國』)
ユスティニアヌスは、財政破綻を再建、増収するため534年シルクロード經由で蚕卵を入手、絹織物生産を開始する。
ユスティニアヌス1世は、帝國の最大の版圖を掌中に収め、全盛期を迎えるが長期の戰爭のため財政は破綻する。宿敵ペルシアとの爭いは一進一退、和平条約を二度結ぶ(532.562)。死後、西方領土を失い、帝國は極微な世界に閉じ籠められて行く。

【ローマ帝国の落日】西ローマ帝國滅亡
395年1月17日テオドシウス1世は、ミラノで病死。帝國は2分され2人の息子に継承される。ローマ帝國は東西に分裂する。ローマを帝都とする西ローマ帝國を統治したのはホノリウス帝(在位395-423)であり、コンスタンティノポリスを帝都とする東ローマ帝國(ビザンティン帝國)を統治したのはアルカディウス帝(在位395-408)である。
西ローマ帝國は、476年9月4日ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが反亂、皇帝ロムルス・アウグストゥルス(在位475-476)を廃位。ビザンティン皇帝ゼノンは、オドアケルをパトリキウスとして承認。西ローマ帝國は滅亡する。ローマ帝國分裂後、ビザンティン帝國の帝都コンスタンティノポリスは、千年に亙り、地中海世界の中心として榮える。
★参考文献
鈴木薫『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書1992
益田朋幸・赤松章『ビザンティン美術への旅』平凡社1995
井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書1990
井上浩一『ビザンツ帝国』岩波書店1982
井上浩一『ビザンツ皇妃列伝』筑摩書房1996
井上浩一・栗生沢猛夫『ビザンツとスラブ 世界の歴史11』中央公論社1998
クリス・スカー著 青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社1998
アリアノス大牟田章訳『アレクサンドロス大王東征伝 付インド誌』上下、岩波文庫2001
渡辺金一『コンスタンティノープル千年 革命劇場』岩波新書1985
渡辺金一『中世ローマ帝国 世界史を見直す』岩波新書1980
和田廣『ビザンツ帝国 東ローマ1千年の歴史』教育社1981
ベック渡辺金一編訳『ビザンツ世界の思考構造』岩波書店
桜井万里子・本村凌二『ギリシアとローマ 世界の歴史5』中央公論社1997
鈴木薫『食はイスタンブルにあり 君府名物考』NTT出版1995
鈴木薫『図説イスタンブル歴史散歩』河出書房新社1993
坂本勉『トルコ民族主義』講談社現代新書1996
陳舜臣『世界の都市の物語イスタンブール』文藝春秋1992
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
ユネスコ世界遺産センター編『ユネスコ世界遺産3 西アジア』講談社1998
ゲオルク・オストロゴルスキー和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社2001
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
★ブルー・モスク
★ジャンニ・ヴェルサーチのデザイン によるホテル Inter-continental Istanbul
★ジャンニ・ヴェルサーチのデザイン によるホテル Inter-continental Istanbul
COPYRIGHT大久保正雄 2001.7.25

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