ビザンティン帝国の皇帝たち 哲学を愛した皇帝、ユリアヌス
大久保正雄『地中海紀行』第17回
ビザンティン帝国の皇帝たち 哲学を愛した皇帝、ユリアヌス
コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトス
コンスタンティノス11世パライオロゴス
皇帝一族の兄弟殺し
パライオロゴス朝ルネサンス
生きながら死せる者、死にながら生きる者。
死臭を放ち、腐敗したまま生き殘る、ビザンツ人の帝國。
虚榮の都、コンスタンティノポリス。
ユスティニアヌス帝によって、多神教は封殺された。
哲学者の古典の死體を解剖し、一字一句、穿鑿、一語を巡り、
論爭にあけくれ、眞理よりも、善よりも、自己の名譽が最も尊い人々。
生ける屍のごとき御用學者のみ存在する。
崇高な理想は死に絶え、人間の尊厳は尊ばれない。
理想なき国にはソクラテスは生まれず、プラトンは蘇らず。
哲学を愛した皇帝、ユリアヌス。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
■パライオロゴス朝ルネサンス
マケドニア朝ルネサンス
7世紀以後、ビザンティン帝國はギリシア化してギリシア語が公用語とされた。しかしホメロス、プラトンなどの古典を讀みうる者は稀有であった。ホメロスの書は朽ち果て、文章は単語に区切られず書写された寫本は闇に埋もれていた。
10世紀ビザンティン帝國において、ギリシア古典文化の復興が行なわれる。皇帝コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスによって古典の収集と編纂が行なわれ、マケドニア朝ルネサンスと呼ばれる。だが、榮えた學問は、訓詁注釈、原典校訂、宮廷儀礼研究など個性を殺した學であり、創造的な學問の名に値しない。イコンをかいた繪師の名前は知られず、個の尊厳は黙殺された。人間の尊厳は尊ばれず、創造的な學問は生まれない。
■コンスタンティノス7世 ポルフュロゲネトス、緋色の室に生まれた皇帝
コンスタンティノス7世(906在位913-959)は、ポルフュロゲネトス(緋色の室に生まれた)と呼ばれ、宮殿内、緋色の大理石で作られた皇后の産室で産声を上げた。マケドニア朝第3代の皇子であるが、6歳の時、父レオン6世が死に、叔父アレクサンドロス帝が統治1年で死んだため、913年7歳の時、ビザンツ帝國の正帝の地位につく。母ゾエを中心とした摂政府が設けられ、33年間政務に携わらず、長い休暇の間、自らの趣味でもある研究に没頭、『帝國の統治について』『宮廷儀式の書』を著した。
■皇帝一族の兄弟殺し
宮廷において、王族、皇帝の一族の間で、兄弟殺しが行なわれることは、古來、枚擧にいとまがない。権力の分散を阻止し、王土の分割を避けるためである。
権力を手に握る者は、力の集中を圖り、目的の達成をめざす。だが権力の維持のために権力の集中を目ざす、権力のための権力である時、それは暴虐な王者の私利私欲の追求に過ぎない。ビザンティン帝國皇帝一族、オスマン帝國スルタンにおいても同じである。
皇帝ヘラクレイオス(在位610-641)は、コンスタンティノス3世とヘラクロナスに帝位を継承すると遺言した。ヘラクロナスとその母マルティナは、舌を切られ、鼻を削がれて宮殿を追われた。コンスタンティノス3世の子コンスタンス2世は、弟テオドシオスを殺害。我が子コンスタンティノス4世に帝位継承権を確保するためである。さらにコンスタンティノス4世は、共同皇帝である2人の弟の鼻を削いだ。我が子の帝位継承権を獲得するためである。身体に損傷がある者は皇帝になれないと考えられたからである。
■ラテン帝国
ヴェネツィアが率いる第4回十字軍は、制海権を掌握するためコンスタンティノポリスを占領、ラテン帝國(1204-61)を樹立した。海洋國家ヴェネツィアが地中海貿易を独占することが目的である。
アギア・ソフィア寺院の『祈り図』(deisis)は、「聖母と洗礼者ヨハネがキリストに人類の救済を要請する」構圖である。1261年ミハイル8世パライオロゴス(在位1259-1282)が、ラテン帝國の支配からコンスタンティノポリスを奪還した。これを記念して制作したと推定される。
【虚榮の都 コンスタンティノポリス】
コンスタンティノス11世パライオロゴス
官僚主義の帝國。腐臭を放つ官僚制國家、ビザンティン帝國。権力者に媚び諂い、自ら「皇帝の奴隷」と呼ぶ官僚。強者に阿諛追従し、弱者に強圧的に振る舞う、面従腹背の奴隷道徳が支配する。繁文縟礼、儀式に明け暮れる日々。ハプスブルク帝國の帝都、美しき屍 (schone Leiche) ウィーンのごとき瑣末主義、権力の奴隷。だが傲慢な奴隷である。
官僚の行動様式は、次のような特色がある。権威に盲従し、弱者に圧制を敷く。前例を崇拝し、上意を下達する。己の利益のみ考慮して、國益をかえりみず。血脈とコネと賄賂を重んじる。亡國の官僚。20世紀日本の官僚制と酷似するのは偶然ではない。すべて官僚制はがん細胞のように自己増殖する。邪悪なる者が蔓延するように。そして永續する権力は必ず腐敗する。ビザンティン帝國は滅びるべくして滅んだ國である。だがビザンティン帝國でさえ市民は反乱した。
皇帝の人格、能力如何に関わらず、官僚組織が存續する限り、帝國は存在し續ける。『宮廷儀式の書』『官職表』『宮廷席次表』に従い、ローマ法典に則り、組織に隷属する。創造性を欠如した所に、千年の帝國は存在した。ビザンツ人は、あらゆる独創性の敵、生ける精神の敵である。千年の歳月を生み出した官僚制と軍隊は、帝國を蝕み、滅亡させた。
1453年メフメト2世はオスマン帝國の艦隊をペラ地区に陸越えさせて、5月28日、攻撃、29日コンスタンティノポリスを征服した。最後の皇帝コンスタンティノス11世パライオロゴスは戦乱の炎の中に消えた。
■ユリアヌス帝 哲学を愛した皇帝
32歳にして死す
【地中海人列伝10】
ユリアヌス(331-363在位360-363)は、首都コンスタンティノポリスで生まれる。生後、母と死別。皇帝コンスタンティヌスの異母兄弟ユリウス・コンスタンティウスの息子である。ユリアヌスは短命で、数奇な悲劇的生涯を送った。著作、演説11、書簡80余が殘存する。
337年5月22日コンスタンティヌス大帝が死ぬ。9月9日、殘された3人の子、コンスタンティヌス2世、コンスタンス、コンスタンティウス2世は正帝(Augustus)に即位。帝國は3人の子に3分割される。
338年従兄コンスタンティウス2世は宮廷革命を起し、ユリアヌスは父と一族を失う。異母兄ガルスとユリアヌスだけが助命される。孤獨不遇な青少年期に、古典的教養を身につけ、新プラトン主義に傾倒。ミトラス教の密儀を學び、エペソスの祕儀に魅せられた。
340年春コンスタンティヌス2世はコンスタンス帝に己の権力を思い知らせようと邪心を抱きイタリアを侵略したが、アクィレイアにて敗死する。だが350年コンスタンス帝は宮廷内の陰謀により殺害され、軍人マグネンティウスがその地位を奪う、が353年コンスタンティウス2世はリヨンの戰いでこれを討つ。コンスタンティウス2世は「虚榮心の強い愚者である」と歴史書に書かれた。
354年コンスタンティウス2世は猜疑心が強く副帝ガルスを謀反の疑いで処刑する。この時、ユリアヌスは疑われるが、アテナイに留學する。
コンスタンティウス2世は單獨統治の欠陥に気づき、政権を共有する相手を捜す。又従弟フラウヴィウス・クラウディウス・ユリアヌスである。355年ユリアヌスをアテネ留學からミラノに召還。副帝に任命、ガリア、ライン河國境の警備に任じる。ユリアヌスは軍事のみならず税制改革、減税に才能を発揮し、軍隊と市民に絶大な人気を博した。このためコンスタンティウス2世は脅威を感じて警戒心を起し、降格させる。だが軍隊は360年2月ルテティア・パリシオールム(パリ)において、ユリアヌスを對立皇帝(Augustus)に擁立、推戴する。コンスタンティウス2世は討伐に立ち上がるが、途上、361年11月死亡。ユリアヌスは361年12月首都コンスタンティノポリスに無血入城する。
時流に逆らい、キリスト教ではなく、ローマの伝統宗教の復活を試み、古代の學藝を愛した。行政改革、減税に取り組み、優れた統治を行なった。後世、背教者(Apostata)ユリアヌスと呼ばれるのは誤解による。
ユリアヌスの最期は、362年アンティオキアに行き、翌年3月ペルシア征伐に赴き、メソポタミアに遠征。遠征軍がペルシア人を冬の都クテシフォン城外で戰勝したが占領せず、後續部隊と合流するため退却した。363年6月27日、旅の途中、戰闘で致命傷を負い、深夜、死去する。ユリアヌス帝は「ヘリオス(太陽神)よ。汝は我を見捨て給うた」と言い殘して、32歳にして死ぬ。
ユリアヌス帝の死がコンスタンティヌス朝の終焉である。ユリアヌス帝死後、コンスタンティノポリスにおいて帝國の文官と武官は秘密会議を開き、パンノニア人の指揮官ヴァレンティニアヌス1世を皇帝に指名。364年3月弟ヴァレンスを共治帝に任命した。しかしヴァレンティニアヌス家は次々と非業の死を遂げ、392年5月ヴァレンティニアヌス2世の死によって斷絶する。
*フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(Flavius Claudius Julianus フラーウィウス・クラウディウス・ユーリアーヌス、331/332年 - 363年6月26日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:361年11月3日 - 363年6月26日)。コンスタンティヌス朝の皇帝の一人、コンスタンティヌス1世(大帝)の甥。最後の「異教徒皇帝」として知られる。多神教復興を掲げキリスト教への優遇を改め、「背教者(Apostata)」とも呼ばれる。
★参考文献
井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書1990
井上浩一『ビザンツ帝国』岩波書店1982
井上浩一『ビザンツ皇妃列伝』筑摩書房1996
井上浩一・栗生沢猛夫『ビザンツとスラブ 世界の歴史11』中央公論社1998
渡辺金一『コンスタンティノープル千年 革命劇場』岩波新書1985
渡辺金一『中世ローマ帝国 世界史を見直す』岩波新書1980
クリス・スカー著 青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社
和田廣『ビザンツ帝国 東ローマ1千年の歴史』教育社1981
ベック渡辺金一編訳『ビザンツ世界の思考構造』岩波書店
鈴木薫『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書1992
益田朋幸・赤松章『ビザンティン美術への旅』平凡社1995
陳舜臣『世界の都市の物語イスタンブール』文藝春秋1992
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
ゲオルク・オストロゴルスキー和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社2001
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
★サン・ヴィターレ教会、ラヴェンナRavenna San Vitake
★ユスティニアス帝Byzantine Emperor Justinian
★アヤ・ソフィア寺院Aya Sophia
大久保正雄COPYRIGHT 2001.8.29
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