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トルコ

2016年6月14日 (火)

イスタンブール 時を超える旅 3つの帝国の都

Ookubomasao66Ookubomasao62大久保正雄『地中海紀行』第21回1
イスタンブール 時を超える旅 3つの帝国の都

ローマ帝国、ビザンティン帝国、オスマン帝国の都。イスタンブール

オリエントの香り高い、妖艶な舞い。
美しい眸、細い腰、綺羅びやかな薄絹を翻す、
艶麗な美女、黄金の膚。
宮廷の美しい奴隷、エジプト王宮の舞姫、砂漠の舞い。
禁斷の後宮、幽閉された美しい姫。
失われた時の輝き。

失われた古代の圖書館。燃え上がり灰燼に帰した万巻の書物。
アレクサンドリア、ペルガモン、エフェソス、アテナイ。
燃え尽き、二度と歸らぬ時間。
大理石の礎石すら残らぬ、アレクサンドリア圖書館。

生贄を獻げる、至聖所、足を踏み入れてはならぬ地。
生まれ變り、いのちを賭けて、燃えあがる、
不滅の愛。地の果て、至上の時。
糸杉に囲まれた至高の地、
海を見下ろすアクロポリスの丘。砂塵舞う大地の彼方、
光る海の彼方、時の彼方。

旅立とう、幻の都を求めて、
時を超える旅に。
愛する人の面影を探して、時を超えて、生と死を超えて、
愛は蘇る。幻の聖域。アクロポリスの丘。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

イスタンブール史
『地中海都市 時を超える旅』
地中海と黒海を結ぶ、ボスポラス海峡に突き出た岬の丘の上。アクロポリスの丘にギリシア人が築いたポリス。海に囲まれ、古代ギリシアの城砦に囲まれたビュザンティオン。
ビュザンティオンは、歴史の運命の波間に翻弄され、浮沈し、また權力をもつ者の運命を操った。4つの時代を生きた都市イスタンブールは、二千年の歴史の激流を生きた、比類なき都である。
【古代ギリシア時代】
黎明期、紀元前7世紀(BC.667.660.657)、ギリシア人が築いた都市ビュザンティオンは、メガラの植民都市であった。メガラ人はデルフォイの神託に「最もよい植民地はどこか」と尋ねた。神託は「盲者の都市の對岸に都市を建てよ」と應答した。探索の末、メガラ人は、この地を選び丘の上に城砦を築いた。古代ギリシア人は、美しい地を選んで、丘の上に、神殿と劇場とポリスを建てた。ギリシア人の選択能力が高いことは、タオルミナ、セジェスタ、シュラクサイ、多くの例によって立証される。(cf. N.M.ペンザー『トプカプ宮殿の光と影』)
この都は、戰略上の拠点、東西南北、海陸の交通の要衝にあり、後に「黄金の角」(豊饒の角Golden Horn)と呼ばれる港をもち、豊かな地にあった。このため、絶えず侵略者の心を惹きつけた。
紀元前6世紀アケメネス朝ペルシア、ダレイオス1世(BC.521-486)治下総督オタネスが征服、支配した。紀元前479年プラタイアイの戰いの後、紀元前478年スパルタ王パウサニアスは、ペルシアから奪還する。紀元前408年アテナイ、ビュザンティオンを奪回。紀元前5世紀ビュザンティオンは動揺期に入る。アテナイとスパルタが天然の良港をもつこの地の領有をめぐり爭い、またロドスが支配した。アテナイ、スパルタ、ロドス、ギリシア都市の權力の狭間で翻弄される。
紀元前340年マケドニア王フィリッポス2世は、ビュザンティオンを海上から包囲する。しかしアテナイ軍がマケドニアに宣戦布告、救援に來る。339年フィリッポスは、アテナイとビュザンティオンで戰い破れ、攻囲を解く。紀元前334年マケドニアから東方遠征の旅に出た、アレクサンドロス3世(BC.356-323.在位BC.336-323)は、22歳の時ヘレスポントス海峡(ダーダネルス海峡)を渡り、その4年後、ダレイオス3世と戰いアケメネス朝ペルシア帝國を滅亡させる。紀元前333年ビュザンティオンは、アレクサンドロス帝國の支配下に入る。アレクサンドロス死後、帝國のディアドコイ(後継者)戰爭を經て、紀元前4世紀以後、スキタイ人、ガリア人、ロドス人、ビテュニア人が侵寇、破壊を蒙る。

【ローマ帝國時代】
ローマ帝國時代、帝國の支配下に置かれた後、ビュザンティオンは獨立する。だが、ローマ皇帝セプティミウス・セヴェルス(193-211)とスペケンニウス・ニゲルとの戰いで、ビュザンティオンは皇帝の敵を支援する。193年皇帝セヴェルスに抵抗、皇帝が包囲を開始する。196年ビュザンティオンは3年間籠城した末、セヴェルス軍により占領され、徹底的に破壊される。セヴェルスは、この地に宮殿、劇場、浴場、競馬場(ヒッポドローム)を建て、セヴェルスの城壁を築く。
322-3年、コンスタンティヌス帝はリキニウス帝との戰いの時、この地を軍事拠点にした。324年11月4日コンスタンティヌス帝は、ビュザンティオンをコンスタンティノポリス(コンスタンティヌスの都)と名づけ、ローマ帝國の首都とする。330年5月11日、コンスタンティヌス帝は、街を聖母マリアに捧げ、献都式を擧行する。ローマからこの地に帝都を遷す。コンスタンティヌス帝は、セヴェルス帝の城壁の外側に大城壁を築き、宮殿、広場(forum)、元老院、神殿を建てた。378年ヴァレンス帝(在位364-378)は水道橋を築く。390年テオドシウス1世は、凱旋門「黄金の門」を建てる。競馬場(ヒッポドローム)の中央分離帯にエジプトから運ばれたオベリスクが置かれた。テオドシウスのオベリスクは、エジプト最大の版圖を築いたトトメス3世がカルナック、アメン神殿に建てたものである。
395年テオドシウス1世は、帝國を2分して2人の息子に継がせた。ローマ帝國は東西に分裂した。コンスタンティノポリスを帝都とする東ローマ帝國を統治したのはアルカディウス帝(在位395-408)である。その子テオドシウス2世はコンスタンティヌスの城壁の外側に城壁「テオドシウスの城壁」を築き、ビュザンティオンは、難攻不落の城塞都市へと変貌を遂げる。コンスタンティノポリスは、ローマ帝國分裂後、ビザンティン帝國の帝都、地中海世界の中心として榮える。

【ビザンティン帝國時代】
ビザンティン帝國とは、後世の歴史家による名称である。中世ギリシア人による、ローマ帝國を継承する國家であり、キリスト教を奉じた。自らをローマ人(Rum,Romeioi)と名のり、正式國名をローマ帝國と呼んだ。最盛期は、ローマ皇帝ユスティニアヌスの時代である。
ビザンティン帝國の始まりをいつとするか、諸説がある。一、330年5月11日、コンスタンティヌス帝がコンスタンティノポリスを帝都とした時。二、395年1月17日テオドシウス1世の死によりローマ帝國東西に分裂した時。三、476年9月4日西ローマ帝國が滅亡した時。四、ローマ皇帝ユスティニアヌス(483-565在位527-565)死後、ギリシア語が公用語とされた7世紀。
7世紀以後ギリシア語が公用語とされ、支配階級はギリシア人でギリシア語を話したが、支配階級は僅かであり、ビザンティン帝國は多民族、多言語國家である。
教皇インノケンティウス3世が第4回十字軍(1202-04)派遣を勅命し、ヴェネツィア総督ダンドロは、艦隊を率いてコンスタンティノポリスを占領、ラテン帝國(1204-61)を建國した。リュシッポス作の青銅の馬は、ヴェネツィアに持ち去られ、今もなおサンマルコ聖堂玄関にある。ミカエル8世パライオロゴスがコンスタンティノポリスを奪還するまで、57年の歳月を要した。だが帝國の榮光は再び蘇ることはなかった。
最後の皇帝コンスタンティノス11世パライオロゴスは、コンスタンティノポリス陥落の時、戰亂の中、消息を絶った。

【オスマン帝國時代】
1453年5月29日、オスマン・トルコ帝國のスルタン、メフメト2世がコンスタンティノポリスを征服。この地はイスタンブールと呼ばれる。1922年トルコ共和國が誕生するまで、この地をオスマン・トルコ帝國が支配する。スレイマン1世(1494-1566)の時、オスマン帝國史の頂点に到達する。16世紀ヨーロッパは、オスマン帝國とハプスブルク帝國の對決の時代である。16世紀、地中海はスレイマンの海と呼ばれる。
スレイマン1世の寵愛する妃ロクセラーナはハーレムに移住し、以後メフメト4世の母タルハンが死ぬまで150年間、ハーレムが帝國を支配する。晩年のスレイマン1世、セリム2世、ムラト3世(1574-95)、メフメト4世は、寵妃に翻弄される。ムラト3世(1574-95)の第一皇妃、ベネツィア人の美女サフィーは、美貌と知性で、ムラトの心を奪い一人の女性もスルタンの寝室に近づけさせなかった。1595年、策を講じてメフメト3世の弟19人を殺させて、人々を震撼させた。彼女は太后の地位を手中にした。帝國の統治はサフィーの掌中に委ねられた。或る日、サフィーは寝台の上で首を締められて死んだ。ハーレムは帝國を操る女たちの策謀と嫉妬が渦巻く。
トプカプ宮殿、王子の幽閉所(鳥籠)で育った、異常なスルタンたちが生まれた。イブラヒム1世は二歳から幽閉され、オスマン3世(在位1754-57)は50年間、スレイマン2世(在位1687-91)は39年間幽閉された。例えば、イブラヒム1世(1640-48)は帝國の統治者であるにもかかわらず、邪悪、我儘、殘忍、貪欲にして、臆病な人間であり、殘虐行為を行うに至り、帝國は袋小路に迷いこむ。

【海峡をめぐる戰い】
斜陽のオスマン帝國は、1853年クリミア戰爭、1876年露土戰爭で、ロシアと戰いこれを破る。ダーダネルス海峡、ボスポラス海峡の支配をめぐる戰いである。海峡は、黒海と地中海を結ぶ通商路として海上の要衝であるためロシアが狙ったのである。1912年第1次バルカン戰爭でトルコはバルカンと戰って敗れ、イスタンブールを除くヨーロッパ領とクレタ島を失う。
1914年10月29日トルコ第1次世界大戰に参戰。1915年3月18日英仏連合艦隊、イスタンブール占領を目ざしダーダネルス海峡に侵入。1916年1月英仏連合艦隊、ダーダネルス海峡を撤退。この海峡防衛の戰いを指揮したのがケマル・パシャである。ケマルは「首都の救い主」と呼ばれ英雄となる。だが1916年6月アラビアのロレンス率いる砂漠の反亂が始まる。1918年10月30日トルコ降伏。1922年オスマン・トルコ帝國滅亡。民族の危機を救ったケマルはトルコ共和國を建國する。「第一次世界大戦の敗北はトルコ帝國の永遠の日没だと世界の人々は思った。だがそれはトルコの新たな夜明けであった。」(cf.大島直政『トルコ歴史紀行 文明の十字路4000年のドラマ』)
ギリシアは1821年オスマン・トルコ帝國に對して獨立戰爭を開始、11年にわたり戰い、1832年獨立。ギリシアにおけるオスマン帝國支配四百年の暗黒時代の終焉である。1913年クレタ島がギリシアに復歸する。ドデカニサ諸島、ロドス島が、イタリア支配を經て、ギリシアに歸属するのは、1948年である。
イスタンブールは、ヨーロッパとアジアの十字路にあり、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡を支配する要衝であるゆえに、榮華を極め、そして權力をもつ者を惑わせ續けるであろう。

【ビザンティン帝國時代】
ビザンティン帝國とは、後世の歴史家による名称である。中世ギリシア人による、ローマ帝國を継承する國家であり、キリスト教を奉じた。自らをローマ人(Rum,Romeioi)と名のり、正式國名をローマ帝國と呼んだ。最盛期は、ローマ皇帝ユスティニアヌスの時代である。
ビザンティン帝國の始まりをいつとするか、諸説がある。一、330年5月11日、コンスタンティヌス帝がコンスタンティノポリスを帝都とした時。二、395年1月17日テオドシウス1世の死によりローマ帝國東西に分裂した時。三、476年9月4日西ローマ帝國が滅亡した時。四、ローマ皇帝ユスティニアヌス(483-565在位527-565)死後、ギリシア語が公用語とされた7世紀。
7世紀以後ギリシア語が公用語とされ、支配階級はギリシア人でギリシア語を話したが、支配階級は僅かであり、ビザンティン帝國は多民族、多言語國家である。
教皇インノケンティウス3世が第4回十字軍(1202-04)派遣を勅命し、ヴェネツィア総督ダンドロは、艦隊を率いてコンスタンティノポリスを占領、ラテン帝國(1204-61)を建國した。リュシッポス作の青銅の馬は、ヴェネツィアに持ち去られ、今もなおサンマルコ聖堂玄関にある。ミカエル8世パライオロゴスがコンスタンティノポリスを奪還するまで、57年の歳月を要した。だが帝國の榮光は再び蘇ることはなかった。
最後の皇帝コンスタンティノス11世パライオロゴスは、コンスタンティノポリス陥落の時、戰亂の中、消息を絶った。
★参考文献
渡辺金一『コンスタンティノープル千年 革命劇場』岩波新書1985
井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書1990
鈴木薫『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書1992
鈴木薫『図説イスタンブル歴史散歩』河出書房新社1993
澁澤幸子、池澤夏樹『イスタンブール歴史散歩』新潮社1994
坂本勉『トルコ民族主義』講談社現代新書1996
陳舜臣『世界の都市の物語イスタンブール』文藝春秋1992
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
日高健一郎、谷水潤『建築巡礼17 イスタンブール』丸善株式会社1990
大島直政『トルコ歴史紀行 文明の十字路4000年のドラマ』自由国民社1986
N.M.ペンザー岩永博訳『トプカプ宮殿の光と影』法政大学出版局1992
クリス・スカー著、青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社1998
C.M.ウッドハウス西村六郎訳『近代ギリシア史』みすず書房1997
鈴木八司『王と神とナイル 沈黙の世界史2』新潮社1970
大久保正雄COPYRIGHT2001.11.28
★カッパドキア
★Suleymaniye Mosque

2016年6月13日 (月)

地中海はスレイマンの海 スレイマン1世、皇妃ヒュッレム

Ookubomasao61_2Ookubomasao58大久保正雄『地中海紀行』第20回2
地中海はスレイマンの海 スレイマン1世、皇妃ヒュッレム

詩を作り美術を愛したスレイマン、繊細な王
晩年、猜疑心の虜となり、皇妃ヒュッレムに翻弄され、2人の皇子を失う。
地中海の覇権を賭けて対決する、
オスマン帝國とハプスブルク帝國。海を舞台に繰り広げられる戰い。
スレイマンとフランソワ1世は共闘
スレイマン1世とカール5世は、東の果てと西の果てに對峙、
抗爭、地中海はスレイマンの海となる。
詩を作り、藝術を愛し、花を愛でる、光輝ある王スレイマン。
爛熟は頽廃に至り、榮光はその頂点において腐敗する。
絢爛たる美女たち、
黒髪の乙女、金髪の乙女、亜麻色の髪の乙女。
研を競い、ハーレムに花咲く皇妃たち。
宮廷に渦巻く、美しい妃の陰謀。
美しさは皮膚の深さにすぎず、心は醜いのか。
愛は愛を生み、憎悪は憎悪を生み、死は死を招き
帝國は滅亡への道を歩み始める。
魚は頭から腐り、権力は頂点から腐る。
だが、文明は爛熟し腐敗する時が最も美味である。
腐りかけた美しい果實のように。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

スレイマン1世 地中海はスレイマンの海
【地中海人列伝-11】
スレイマン1世(1494-1566在位1520-1566)は、セリム1世の皇子。征服王メフメト2世の曾孫。第10代スルタン。セリム1世死後、イスタンブールに到着、群臣の臣従の誓いを受けて、26歳にしてスルタンとなる。1521年シリアの反亂を鎮圧した後、自ら第1回遠征軍を起し、ベオグラードに侵攻する。1523年聖ヨハネ騎士団が占拠するロードス島を攻略。イスラーム法に基づき「抗戰するか退却するか」選択を提示、聖ヨハネ騎士団を退去させる。ロードス島は、黒海、イスタンブール、地中海を結ぶ海上交易路、また地中海戰略上の拠点である。1529年第1次ウィーン包囲、攻撃を遂行する。
スレイマンは、神聖ローマ皇帝カール5世と對決。16世紀ヨーロッパは、オスマン帝國とハプスブルク帝國の對決の時代である。スレイマンは、フランス國王フランソワ1世と手を組み、カール5世に對峙し、ヨーロッパの政局を操る。
最高司令官バルバロスが指揮する不敗のオスマン艦隊は、1534年チュニス占領。1538年プレヴェザでキリスト教連合艦隊を撃破。1543年神聖ローマ皇帝に与するニースを攻略。1546年バルバロス・ハイレッティンは没した。1565年ヨハネ騎士団攻撃のためマルタ島に遠征したが、攻略に失敗した。スレイマン大帝は、地中海の制海権を掌握。地中海は「スレイマンの海」となる。46年間の治世の間、西欧とアジアに、自身で遠征する。1566年ハンガリー遠征の途上、72歳の時、陣中で死去する。スレイマン大帝は、オスマン帝國史の頂点を築き上げた。
詩を作り美術を愛したスレイマンは、繊細な人柄であったが、晩年、猜疑心の虜となり、寵愛する皇妃ヒュッレムに翻弄され、2人の皇子を失う。スレイマン大帝は、立法者、壮麗王と呼ばれ、オスマン帝國史630年の頂点を築く。(cf.鈴木薫『オスマン帝国』)

■寵妃ヒュッレム 2人の寵妃 暗闘する後宮
セリム1世以後、異教徒、異民族出身の女奴隷のみが後宮に採用された。スレイマン1世の母ハフサ・ハフンはその例である。
スレイマン1世には、2人の寵妃がいた。一人はマヒデヴラン(ギュルバハル)、スレイマンの長男ムスタファの母である。しかしヒュッレム(ロクセラーナ=ロシア女)が後宮に入ると、二人はスレイマンの寵愛を激しく爭った。1534年マヒデヴランは後宮を追われた。寵妃ヒュッレムは、自らの子をスルタンの後継者にしようと陰謀が渦巻く。
スレイマンに寵愛された皇妃ヒュッレムは、マヒデヴランの子・王子ムスタファを陥れて処刑させ、我が子バヤズィットを後継者にすべく苦闘するが、1558年に没する。二人の子バヤズィットとセリムの間に對立が生じ、優秀なバヤズィットが敗れ処刑され、母さえ皇位継承を望まなかったセリムが生き殘った。

■アフメト3世 チューリップ時代
アフメト3世(在位1703-1730)は、耽美的な人で、花鳥、歌舞、美酒、美女を愛した。アフメト3世の治世は、チューリップを愛したのでチューリップ時代と呼ばれる。フランス趣味に傾倒、チューリップの庭園で園遊会が開かれた。オスマン・トルコ帝國屈指の詩人アフメト・ネディムはこの時代の人である。
上層階級の爛熟と贅澤三昧は、下層階級の苦しみにより成り立っていた。1730年9月28日イエニチェリ副將軍パトロナ・ハリルが反亂を起こし、大宰相の処刑を要求。アフメトは退位した。

■魚は頭から腐る
戰場に自ら赴くことを忘れた最高権力者、地位に溺れる高級官僚、世襲化された貴族により、優秀な人材が活躍する場を閉ざされた時、組織は衰退の道を辿り始める。
「魚は頭から腐る」というトルコの諺がある。組織の帝國を誇るオスマン帝國は、官僚制の肥大、権力者の怯懦と高官の腐敗により滅亡の道を辿る。
★参考文献
鈴木薫『オスマン帝国』講談社現代新書1992
鈴木薫『食はイスタンブルにあり 君府名物考』NTT出版、気球の本1995
鈴木薫『図説イスタンブル歴史散歩』河出書房新社1993
澁澤幸子、池澤夏樹『イスタンブール歴史散歩』新潮社1994
坂本勉『トルコ民族主義』講談社現代新書1996
陳舜臣『世界の都市の物語イスタンブール』文藝春秋1992
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
日高健一郎、谷水潤『建築巡礼17 イスタンブール』丸善株式会社1990
澁澤幸子『寵妃ロクセラーナ』集英社1998
細川直子『トルコ 旅と暮らしと音楽と』晶文社1996
大久保正雄COPYRIGHT2001.10.31
★ベリー・ダンス イスタンブールにて
★トプカプ宮殿 ハーレム

2016年6月12日 (日)

コンスタンティノープル陥落、メフメト2世、オスマン帝国の都

Ookubomasao56Ookubomasao62Ookubomasao57_2大久保正雄『地中海紀行』第20回1
イスタンブール オスマン帝国の都1
コンスタンティノープル陥落、メフメト2世、オスマン帝国の都

奇策、オスマン艦隊の陸越え。
1453年、メフメト2世、コンスタンティノープル陥落。
地中海の覇権を賭けて對決する。
コンスタンティノープルは、3重の城壁と海で囲まれた難攻不落の城塞。
包囲戰の時、オスマン艦隊を、ボスフォラス海峡からガラタ地区の後方の丘を越えて、梃子ところを使って金角灣に陸から送り込む。
メフメト2世、兄弟殺しの法 皇位継承争いの芽を摘む。
メフメト3世、鳥籠制、鳥籠に幽閉された皇子。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【トルコ民族】
トルコ族の容貌をいかにして識別することができるのか。
原テュルク(Turk)族は、蒙古高原を原郷とする蒙古人種である。しかしユーラシア大陸に広がり民族拡散の末、イラン語派、スラヴ語派、ギリシア語派、ウラル語派、アラブ族、他と混血し、多様な肉体的特徴を形成するに至る。
トルコ語は、アルタイ語族に属する言語であり、モンゴル語、ツングース語と兄弟関係にあり、ウラル語族と親縁関係をもつ。印欧語でなく、セム・ハム語族でもなく、東洋系言語である。トルコ語派には、アゼルバイジャン語、ウイグル語、などが属する。
オスマン時代、支配階級はテュルク族であるが少数であり、多民族、多宗教、多言語の「共存の原理」の上に、オスマン帝國は成立した。

■オスマン帝國
オスマン・トルコ帝國(1299-1922)は、中央アジア、蒙古高原から移住したテュルク族によって建國された。正式名称はアーリ・オスマン(Ali Osman=オスマンの家)。公用語はオスマン・トルコ語。表記はオスマン時代においてはアラビア文字である。アッバース朝、ビザンティン帝國の系統を引く官僚組織による中央集権制、被支配民族の宗教的・社会的自由を容認する柔軟な統治、門閥を許さない能力主義が15、16世紀最盛期における統治システムの特徴をなす。「柔らかい専制」「種族を超える能力主義」が、オスマン帝國統治の特質である。
1354年ビザンティン帝國の内紛に乘じ、バルカン半島に侵略。61年アドリアノポリスを征服、バルカン半島征服への拠り所とし、1389年コソボの戰い、1396年ニコポリスの戰い、1444年バルナの戰いにより、バルカン半島の諸民族を撃破、ブルガリア、北部ギリシア、セルビアを掌中に収める。1453年コンスタンティノープルを陥落、ビザンティン帝國を滅亡させる。15世紀末、ボスニア・ヘルツェゴビナ、アルバニア、ルーマニア、ギリシアを帝國に吸収する。1517年エジプトを征服、アラビア半島のメッカとメディナの2大聖都を支配下に収める。オスマン帝國は、シーア派を除く、全世界のイスラーム教徒の盟主となり、支配者スルタンは同時にカリフとしての属性を獲得する。1521年ベオグラード征服。1526年モハーチの戰いでハンガリーを撃破、領有。1529年、ウィーンを包囲、攻撃。ヨーロッパを震撼させる。だが1571年レパントの海戰で敗れ、ヨーロッパの反撃の前にオスマン帝國の進撃は止まる。
オスマン帝國の統治は中央集権制であるが、中核をなす高級官僚はデウシルメ制を通じて徴用されたギリシア人、セルビア人、ボスニア人、クロアチア人、アルバニア人等、異教徒・異民族出身の宮廷奴隷によって占められた。

■メフメト2世
ムラト2世の王子メフメトは、1451年2月18日、オスマン朝第7代スルタンとして即位。メフメト2世(1432-81.在位1444-1445.1445-1446.1453-1481)となる。メフメト21歳の時である。征服者(ファーティヒ)と呼ばれる。宮廷奴隷とトルコ貴族の派閥抗爭のなか、コンスタンティノープルの陥落を遂行する。以後、スルタン直属の宮廷奴隷出身の大宰相を登用し、専制君主を戴く官僚制國家を作り上げる。
コンスタンティノープル征服後、ザガノス・パシャが大宰相に起用され、以後、異教徒異民族出身、奴隷として宮廷で養育されたスルタンの側近によって占められる。バヤズィット1世が兄弟殺しを始めた頃から、オスマン家一族による支配から、君主個人の意思により支配される専制国家へと変質した。君主一身に専属的に隷属する奴隷たちが重用された。
1465年メフメト2世はトプカプ宮殿建設を開始し、1478年に完成した。
オスマン帝國は、1456年フィレンツェ人が支配していたアテネを征服。1462年ワラキア君候國の暴虐な君候・串刺し候ヴラド・ツェペシュ(ドラクール・オウル)が没落し、同國を支配。バルカン半島を支配下に置く。
メフメト2世は、ペロポネソス半島の大部分を占領、アドリア海の支配権をめぐりヴェネツィアと戰った。
激しい気性、合理的精神に裏づけられた決斷力、學問・藝術に對する深い理解、異質の文明に對する理解において比類ないスルタンである。ヴェネツィアの画家ベッリーニはメフメト2世に招かれ、宮廷で16ヶ月滞在した。(cf.鈴木薫『オスマン帝国』) 
メフメト2世は、遠征の途上、1481年5月3日49歳で没する。一説によれば宿敵ヴェネツィアにより毒殺された。

■コンスタンティノープル陥落 メフメト2世
1452年末、メフメト2世は、エディルネにおいてコンスタンティノープル征服の準備を着々と進めた。コンスタンティノープルの地圖を広げ、街の防衛体制を点検した。攻城の術に秀でた者たちに、大砲と塹壕をどこに配置すべきか、攻城用の梯子をどこにかけるべきか、逐一指示した。攻撃の最大の障害と目されたのは、外敵の攻撃に耐えてきた三重の大城壁であった。城壁の攻撃のために、ハンガリー人ウルバンを巨額の報酬で待遇し、巨砲を作らせた。ウルバンは、ビザンティン帝國に巨砲製作を売り込み、斷られた技術者である。
1453年4月5日、メフメト2世はコンスタンティノープルに到着。4月6日、包囲を始めた。オスマン帝國軍は12万、その主力部隊は7万の騎兵軍であった。
コンスタンティノープルは、3重の城壁と海で囲まれた難攻不落の城塞である。金角湾の入り江は、鎖で鎖されていた。
メフメト2世は、包囲戰續行の時、オスマン艦隊の一部を、ボスフォラス海峡からガラタ地区の後方の丘を越えて、梃子ところを使って金角灣に陸から送り込むという奇策を用いた。有名な「オスマン艦隊の陸越え」である。金角灣西のオスマン艦隊は、陸のオスマン軍の砲撃と呼應して、ビザンツ艦隊を攻撃した。
5月23日オスマン帝國は、ビザンティン皇帝の下に最後の使者を送り、コンスタンティノープルの引渡しを求め、退去の自由を申し入れた。がこの最後の提案も拒否された。  5月26日ハンガリーの使者がオスマン帝國軍に到着し、包囲を中止しなければ攻撃すると申し入れた。5月28日夕刻メフメト2世は最後の攻撃を命じる。5月29日朝、イェニチェリが中心になり西の城壁を突破、市内に突入した。戰利品として異教徒の捕虜は、奴隷として捕獲者の所有に帰した。メフメト2世は、略奪の3日間の後、自ら高官たちを率いて聖ロマノス門から入城した。

■兄弟殺しの法 メフメト2世、皇位継承争いの芽を摘む
メフメト2世は最後の即位に際し、生き殘っていた唯一の弟アフメトを処刑、皇位継承爭いの芽を摘む。メフメトは、イスラーム法學者から「世界の秩序が亂れるより、殺人の方が望ましい」という法學意見書を得た。
「群臣の臣従の誓い」を受けて新たなスルタンが即位すると、その他の兄弟はすべて殺害される。「オスマン王家の兄弟殺し」の慣習は、メフメト2世が創始したのではない。メフメト2世の曽祖父バヤズィット1世の時代に成立した。父の遺産の平等の相続権を持つ兄弟間で、皇位継承爭いが起きるのを防ぐために成立したものである。
メフメト3世即位の時、19人の弟が絹の紐で絞め殺された。その後、皇位継承権をもつ者はスルタン決定後殺されず、ハーレム内の鳥籠(カフエス)に幽閉されるようになる。これを鳥籠制という。22年間鳥籠に幽閉された皇子イブラヒムは、権力の座につくと凶暴な性格を露わし、狂人イブラヒムと呼ばれた。

■共存の原理 ミレット制
イスラームには共存の原理がある。
メフメト2世は、ギリシア正教徒、アルメニア教会派、ユダヤ教徒たちも帝都に集めた。メフメト2世は様々な宗教を共存させた。この3つの異教に對する政策を、後世の歴史家は「ミレット制」と呼ぶ。
オスマン帝國のムスリムと非ムスリムの共存のシステムは、オスマン國家の非ムスリムに対する基本政策による。「コーランか、貢納か、剣か」三つの選択の余地が与えられる、啓典の民に対して保護(ズィンマ)が与えられる「ズィンミー制」が起源である。 (cf.鈴木薫『オスマン帝国』)
15世紀末、イベリア半島におけるスペイン・カトリックの迫害に耐えかねたスフラワルド(ユダヤ人)は、安住の地オスマン・トルコ帝國領内に移住した。かれらはまたギリシア北部テッサロニキに移住した。
多宗教、多民族、多言語社会の基盤は、メフメト2世によって作られ、オスマン帝國の能力主義の前提条件が生み出された。異教徒・異民族出身の宮廷奴隷が、トルコ貴族を斥けて登用され、帝國を動かして行く。これがオスマン帝國の榮光を築き上げる。異質の者、異文化を受け容れる帝國は榮える。
★参考文献
鈴木薫『オスマン帝国』講談社現代新書1992
鈴木薫『食はイスタンブルにあり 君府名物考』NTT出版、気球の本1995
鈴木薫『図説イスタンブル歴史散歩』河出書房新社1993
澁澤幸子、池澤夏樹『イスタンブール歴史散歩』新潮社1994
坂本勉『トルコ民族主義』講談社現代新書1996
陳舜臣『世界の都市の物語イスタンブール』文藝春秋1992
細川直子『トルコ 旅と暮らしと音楽と』晶文社1996
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
日高健一郎、谷水潤『建築巡礼17 イスタンブール』丸善株式会社1990
澁澤幸子『寵妃ロクセラーナ』集英社1998
大久保正雄COPYRIGHT2001.10.31
★スレイマニエ・モスク
★スレイマニエ・モスクと金角灣
★トプカプ宮殿穹窿

2016年6月 6日 (月)

イスタンブール 二千年の都

Ookubomasao42Ookubomasao43大久保正雄『地中海紀行』第14回
イスタンブール 二千年の都

岬の上、糸杉に囲まれたアクロポリスの丘。
海に囲まれ、ギリシアの城砦に囲まれた、
難攻不落の城塞都市。
この丘の上に、皇帝コンスタンティヌスが宮殿を建て、
メフメト2世がトプカプ宮殿を建てた。

剣のように鋭い、三日月が輝く、紺青の空。
イスラーム寺院の尖塔が聳える丘の上。
砂漠より來たる者に水を与え、海原より來たる者に眠りを与える。
苦惱する者に愛を蘇らせ、英雄の偉大なる死を刻む都。
英雄の香りを漂わせる都の埃。海の都、ビュザンティオン。
アレクサンドロスの父フィリッポスが包囲した海。
日が沈む、靄のなか、黄昏の海に。
ここより飛び立つ者に、帰還の翼を与えよ。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【香水の匂い】
眼下に、黄昏の海が見える。春の夕暮刻、トルコ航空機は、イスタンブール空港に着陸する。靄のなかに海は夕焼けで紅く染まっていた。夕焼けのマルマラ海。イスタンブールは金色の太陽が沈む春の靄のなかである。
トルコ航空は、スチュワーデスが身につける香水が強烈な匂いを放つ。オリエンタル・ノートの甘く濃艶な香り。麝香、霊猫香、龍涎香。動物的な濃厚な匂い。強い殘香。そのなかに混じり合う熱帯の密林の樹木の香りが闇を縫って漂う。オリエントの艶麗な匂いがする。イスラーム寺院に立ち籠める神秘的な薫香の匂いである。香水の匂いのなかにイスラーム神秘主義とトルコの官能が妖しく立ち昇る。スレイマン大帝の寵妃ヒュッレムの膚に纏う香水も麝香の香りである。妖艶な香りの中にオリエントの舞い、生と死の秘密を探求するイスラーム哲學の匂いがする。古都コンヤにおけるメヴラーナの旋舞のように、陶酔と忘我の匂いのなかに、死と再生の秘儀がある。

【二千年の都 イスタンブール】
■アポロン・アクロポリスの丘
紀元前7世紀、地中海のほとりから来た、ギリシア人が築いた植民都市ビュザンティオン。この地は、330年コンスタンティヌス帝によってローマ帝國の帝都となりコンスタンティノポリスと名づけられ、ビザンティン帝國の都として榮華と頽廃を極める。1453年メフメト2世のオスマン・トルコ帝國がこの地を征服した後、イスタンブールと呼ばれる。
 イスタンブールは、ローマと同じく、七つの丘からなる。坂道が多い迷路のような町である。三方を海に囲まれ、三重の城壁に囲まれた、難攻不落の城塞都市である。

■すべての道はコンスタンティノープルに通じる
イスタンブールとは、イス・ティン・ポリン(is tin polin)が語源であり、中世ギリシア語で「あの町へ」を意味する。すべての道はコンスタンティノープルに通じる。
 この地は、古代から海上交通路の要衝、東西文明の狭間、シルクロードの西の果てアンティオキアにつながる、東洋と西洋が出会う所である。地中海、エジプト、西欧、中國から豊饒な富が集積された。

■三つの帝國の都
ローマ帝國、ビザンティン帝國、オスマン帝國、三つの帝國の帝都であり續けた歴史上比類ない都市である。ビザンティン帝國は、「キリスト教化された、ギリシア人による、ローマ帝國」であり、中世ギリシア人の帝國である。帝國を構成する文化の3要素は、キリスト教、ギリシアの古典文化、ローマ帝國である。(cf.井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』)
支配する民族が変わり、支配階級の言語が変わり、国家の形が変わり、変貌を遂げるが、都であることは変わらない。ビュザンティオン千年、コンスタンティノポリス千年、イスタンブール五百年。二千五百年の都である。
 永遠の都、ローマは、ルネサンス時代には荒廃し昔日の都の面影はなかったが、バロックの時代、灰燼の中から蘇った。コンスタンティノポリスは、オスマン帝國の攻撃により1453年、滅亡する。それは虚榮の都コンスタンティノポリスに下された天の配剤であるのかも知れない。滅亡すべくして滅亡した官僚制の帝國、ビザンティン帝國。
 イタリアでルネサンスの花が咲き誇る15世紀、16世紀。この世紀は、オスマン・トルコ帝國の最盛期である。その時代、イスタンブールはオスマン帝國の下、帝都であり續けた。

■文明の絨毯
歴史が重く堆積する都。ローマとならぶ永遠の都。第二のローマ、イスタンブール。
 古代ギリシア人、ローマ人、中世ギリシア人、トルコ人、アラブ人、多様な文化が堆積する。イスタンブールは文明が重層する多重文化空間である。
 ビザンティン帝國、オスマン・トルコ帝國は多民族、多文化、多宗教、多言語空間であり、このような地は、スペインのアンダルシア地方、シチリア島、マルタ島がある。
 重々しい歴史の絨毯の上に、アクロポリスを築いたギリシア人と、ローマ皇帝と、スルタンと、東西の旅人が行き交った。多くの藝術家、作家がこの地に魅せられ幾たびも旅し訪れた。だが心ある者はこの地に永く止まることはない。
 志ある者は、旅人としてこの永遠の都を通り過ぎよ。この地は文明の橋である。決してこの地に止まってはならない。この地は、東西文明の十字路。虚榮の都に榮華を極め留まる者の魂は腐敗する。「富める者が神の國に入るよりは、駱駝が針の穴を通るほうが、はるかにたやすい。」醜い魂には醜い魂の香りがあり、美しい魂には美しい魂の香りがある。旅人の心を深く魅了し、此処から旅立つことを決意させる地、イスタンブール。
★参考文献
鈴木薫『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書1992
益田朋幸・赤松章『ビザンティン美術への旅』平凡社1995
井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書1990
井上浩一『ビザンツ帝国』岩波書店1982
井上浩一『ビザンツ皇妃列伝』筑摩書房1996
★ブルー・モスク
★祈り図(Deisis) 1261 アギア・ソフィア寺院
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