大久保正雄『地中海紀行』第49回変人皇帝たちの宴1
変人皇帝たちの宴 陰鬱帝ティベリウス
地位と財産は人を狂わせる。嫉妬により処刑命令を下す者たち。
初代皇帝アウグストゥス、妃リウィアに無花果に毒を盛られて死ぬ。復讐である。*1
紺碧の海、カプリ島の断崖に屹立するヴィラ、叙事詩の研究に没頭しながら、処刑命令を下す、ティベリウス。富裕層の阿諛追従を嫌悪。*2
愛欲に溺れ、貴婦人たちを弄ぶ、カリギュラ。*3
丘の上、宮殿に閉じ籠もる、クラウディウス、殺戮を意好む学者皇帝。妃に殺害される。*4
黄金宮殿を築き、ギリシア彫刻にかこまれ、詩を書いた詩人皇帝ネロ。*5
地中海を旅する皇帝ハドリアヌス。第14代皇帝。思い出を封じ込める、ヴィラ・アドリアーナ。*
薔薇の饗宴。孔雀の舌、駱駝の踵、雉の頭。第23代、皇帝ヘリオガバルスの宴。*
嫉妬により処刑命令を下す皇帝たち。愛に耽溺した、変人皇帝たち。
愛する人の面影は、時の彼方に、虹のごとく、愛は血を流して、死に絶える。
ギリシアを愛した皇帝たち。秘められた愛。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
■変人皇帝たちの宴
ローマ皇帝たちは偏奇な才人に満ちあふれている。陰鬱帝ティベリウス、狂帝カリギュラ、愚昧帝クラウディウス、詩人皇帝ネロ。欲望の赴くままに、愛欲を追求し、美に溺れた変人皇帝たち。己の意志を妨げる者は虐殺する、最高権力者の止まることを知らぬ欲望。
フィレンツェ人、ルネサンス人は、偏奇と華美を探求したが、その飽くことなき美の追求の精神の根底には、変人皇帝たちの宴が生きている。美酒と美食と美女を愛する、イタリア人の精神の源泉は、惡虐な皇帝たちの生活様式にある。
皇帝たちは、宴にあけ暮れ、美酒と美食を飽きるまで貪り、美女たちを弄び、猟色をくりひろげた。美食を追求し、飽食すると、医師に命じて鳥の羽で嘔吐して「食べるために吐き、吐くために食べる」。建築に狂い、皇帝財庫、国庫を蕩尽し、破綻した財政を再建するため、富める者たち、貴族たちを、国家反逆罪で告発し、有罪判決を下して処刑、財産を没収するのが常套手段であった。元老院議員たちは自らの地位を守るため、皇帝に阿諛追従した。
皇帝アウグストゥス 皇妃リウィアに無花果に毒を盛られて死ぬ。リウィアの復讐である。
皇帝アウグストゥスは、「十二神の饗宴」と呼ばれる宴会を催し、アポロンの如く着飾ったと、アントニウスは書き嘲笑した。アウグストゥスは青いいちじくを好んで食べた。アウグストゥスは、皇妃リウィアに無花果に毒を盛られて死んだ。皇妃リウィアは、ティベリウスに皇位を継がせるために毒を盛った。
狂帝カリギュラ
剣闘士競技と戰車競技と雄弁術を磨き、饗宴に溺れた皇帝カリギュラ。カリギュラは眞珠を酢に溶かして飲み、賓客に黄金のパンと菜食を供した。カリギュラが手を出さなかった上流の貴婦人は一人もいなかった。貴婦人を晩餐に招き、自分の足先を通る女を眺め、奴隷商人のごとく品定めした。美人を別室に呼びつけ再び食卓に戻ると、女の体と閨房の振舞いの美点と欠点を一つ一つあげ、譽めたり貶したりした。近親相姦、人妻との情事、同性愛、皇帝は、あらゆる愛欲の追求を行った。
愚昧帝クラウディウス
クラウディウスは茸(きのこ)を好み、皇妃アグリッピナに好物の茸に毒を盛られたが、嘔吐したので、皇妃は鳥の羽に毒を塗らせ、喉を衝いて死に至らしめた。
詩人皇帝ネロ
戦車競技と竪琴に溺れた詩人皇帝ネロ。ネロは、弟ブリタニクス、母アグリッピナを殺し、妃オクタウィアを殺した。オトの妻、美貌の貴婦人ポッパエアと結婚したが、妊娠中に踵で蹴り殺した。ポッパエア死後、クラウディウスの娘アントニアは、ネロとの結婚を拒否すると、国家反逆罪で、殺害される。夫を執政官在任中に殺害して、スタティリア・メッサリナと結婚する稀代の建築狂であり、広大な黄金宮殿を建て、ネロポリス建設を夢みて、国庫を蕩尽する。破綻した国庫を、富裕な貴族を国家反逆罪で有罪にして死刑に処し、財産を没収した。皇帝一族のうちネロの犯行で破滅しなかった者は一人もいない。
皇帝ヘリオガバルス
シリア人皇帝ヘリオガバルス(エラガバルス)は、孔雀の舌、鶯の舌、駱駝の踵、雉の頭を食卓に用意させた。Cf.アントナン・アルトー『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』。
皇帝ティベリウス 貴族たちの阿諛追従を嫌惡
ティベリウスは、カプリ島に閉じ籠ったが、権謀術数うずまくローマから逃避するためであった。ティベリウスは、貴族たちの阿諛追従を嫌惡し、皇太后リウィアの支配を厭い、十年間ナポリ湾にのぞむカプリ島の別荘に籠り、淫靡な遊びに耽りながら、処刑命令を下した。
(cf.スエトニウス『皇帝伝』第1-5巻『アウグストゥス伝』『ティベリウス伝』『カリギュラ伝』『クラウディウス伝』『ネロ伝』)
■パラティヌスの丘 皇帝宮殿
内乱の時代、紀元前1世紀、カエサル、ポンペイウスは、パラティヌスの丘に住み、館を建てた。ポンペイウスの死後、アントニウスは、ポンペイウスの家を購入した。カエサルの家は、アウグストゥスが相続し、以後、皇帝家に受け継がれる。アントニウスの家は二人の姉妹アントニアに受け継がれ、アントニアの孫カリギュラは、父ゲルマニクスが死んだ後、三人の妹たちとこの丘に住んだ。アントニアの家に、エジプト人や、ユダヤ王ヘロデス・アグリッパスが訪れた。ティベリウス帝は、この丘にドムス・ティベリアーナ(ティベリウス宮殿)を建てたが、カプリ島の別荘に隠遁し、死ぬまで島に留まる。
ネロ帝は、首都が炎上した後、エスクィリアエの丘に広大な黄金宮殿(ドムス・アウレア)を建て、巨大な池を作った。残虐な皇帝ドミティアヌスは、この丘に、皇帝宮殿(ドムス・アウグスターナ)を建て、セプテミウス・セヴェルス帝は、パラティヌスの丘の下に、三層の列柱廊と巨大な壁龕からなるセプティヅォニウムを建て、ヘリオガバルス帝は、神殿エラガバリウムを建てる。かくして、パラティヌスの丘は、広大な皇帝宮殿の複合建築を構成した。
トラヤヌス帝時代、ローマには11の水道橋があり、1300の噴水があふれていた。コンスタンティヌス帝時代、コンスタンティノポリス遷都後、ローマは、世界の首都ではなくなったが、テヴェレ川に8つの橋がかかり、19の水道橋が城壁の彼方の田園につらなり、無限の水路が重層するアーチの上を流れていた。
異民族の侵入により水道橋が破壊され丘の上に水が供給されなくなり、パラティヌスの丘の皇帝宮殿は廃墟となり、再び蘇ることはなかった。
■皇妃リウィア 仮面の美貌
皇妃リウィア、皇帝アウグストゥスに無花果に毒を盛って殺害。
皇帝アウグストゥス
オクタウィアヌスは、紀元前38年1月リウィア・ドルシラを、ティベリウス・クラウディウス・ネロの妻であったが、リウィアが2人目の子を身籠っていたにもかかわらず、屋敷に連れ込み、結婚した。略奪婚であった。リウィアは気に染まなかった。
リウィア・ドルシラは、淫蕩なオクタウィアヌス(アウグストゥス)の多情多淫に寛大で、広い心の持主といわれた。だが彼女は暗い影に彩られ、殺人と陰謀の疑惑がある。我が子ティベリウスを帝位につけるため、マルケルス、ガイウス・カエサル、ルキウス・カエサルを死に至らしめたと囁かれた。アウグストゥスの孫ガイウスとルキウスが夭折したため、ユリウス家の血は絶えた。皇后リウィアは、夫アウグストゥス帝が極秘に最後の孫アグリッパ・ポストゥムスをプラナシア諸島に訪問した時、アグリッパ・ポストゥムスが帝位を継承するのを恐れた。アウグストゥス帝は無花果を好み、樹の枝からとって食べるのを知っていたので、リウィアは、無花果に毒を塗って毒殺した。リウィアは、皇帝に復讐を遂げたのである。
ティベリウスとリウィアは、二人とも怨んでいたアグリッパ・ポストゥムスを急遽、暗殺した。百人隊長が、「命令どおり実行しました」と報告すると、ティベリウスは、「予は命じた覚えはない」と応えた。リウィアは、アウグストゥス帝死後、15年生き、紀元29年、86歳で死んだ。
■陰鬱帝ティベリウス 後継者争いを避け、ロドス島とカプリ島に隠遁
「死すべき者は、すべて儚い。人間は地位が高くなるほど、足元が滑りやすくなる」ティベリウス
ティベリウスは、パラティウムの丘に、ティベリウス・クラウディウス・ネロとリウィア・ドルシラとの間に生れた。4歳の時、リウィア・ドルシラはオクタウィアヌスと結婚する。
ティベリウスは、ウィプサニア・アグリッピナと結婚し心から愛していたが、アウグストゥスに娘ユリアと結婚することを強要され、泣きながら離婚した。紀元前6年、36歳の時、ユリアに倦み、後継者争いの暗闘を避け、ロドス島に隠遁した。皇帝の娘ユリアは淫乱で、常に愛欲を貪っていた。ティベリウスは、隠遁してから8年目、紀元2年帰国した。エスクィリアエの丘のマエケナスの庭園に移り、閑雅な暮らしに没頭した。アウグストゥスは、ティベリウスを皇位継承者に指名するが、ティベリウスが残忍な性格であることを知っていた。自らの名声が後世に高まるように、残忍なティベリウスを皇位継承者にした。
ティベリウスは、紀元14年即位した。国父(パテル・パトリアエ)という称号を民衆から何度も歓呼されたが、これを拒絶した。「死すべき者は、すべて儚い。人間は地位が高くなるほど、足元が滑りやすくなる」だがティベリウスは、市民の心からの信頼を得られなかった。なぜなら反逆罪(lex majestatis)を復活させたからである。
カエサルとアウグストゥスは、都市ローマを再建するために建設事業に国庫を浪費したため、ティベリウスが皇帝位についた時、国家財政は破綻していたが、ティベリウスは、それを知らなかった。
19年、將軍ゲルマニクスは東方遠征中、急死する。ゲルマニクスの死は、シリア総督グナエウス・ピソを通じてティベリウスが仕掛けた殺害である。ゲルマニクスの名聲にティベリウスが嫉妬したためである。
23年ティベリウスの子、ドルススが死ぬ。ウィプサニアとの間に生れた愛しき子である。27年ティベリウスは、カプリ島に隠遁する。阿諛迎合する貴族たちを嫌い、母リウィアの支配を嫌ったためである。隠遁するとティベリウスは人目を欺いてきた悪徳を開花させた。28年、親衛隊長官セイヤヌスの奸策により、アグリッピナ(ゲルマニクスの妻)とその子ネロを追放する。翌年、ゲルマニクスの子ドルススをパラティウムの最奥の部屋に幽閉、死に至らしめる。29年ティベリウスの母、皇太后リウィアが死ぬ。31年ティベリウスは、アントニアの手紙によって、セイヤヌスの反逆を知り、セイヤヌスを処刑する。セイヤヌスの妻アピタカの遺書によって、皇帝の子ドルススの死が、親衛隊長官セイヤヌスとドルススの妻による毒殺であることが発覚した。セイヤヌスの友人たちを虐殺、粛清した。ティベリウスは猜疑心に取り憑かれ、皇帝に対する反逆を大逆罪として、告発された人々を処刑、財産を没収する。財産没収に熱意を燃やし、ティベリウスを遺産相続人にするよう強要し、富豪たちは裁判で有罪に処された。大逆罪裁判が頻発、告発屋(デラートル)が跳梁跋扈する。ローマは恐怖政治に戰慄する。
ティベリウスは、ギリシアとローマの教養を熱心に身につけ、研鑚を積み、ギリシア語を流暢に話し、ギリシア語で詩を作った。ティベリウスの文体は、彫心鏤骨、晦渋に陥った。神話学の知識を誇り、文献学者に質問して学識を試した。「ヘカベの母は誰か」「アキレウスは乙女たちとともに暮らしていた時は何という名か」など難問を問うた。ティベリウスは、愛玩用の蛇を一匹飼って樂しんでいた。餌を与えようとしていた時、蟻が蛇を食い尽くしたのを見つけ、大衆の力を警戒することを覚った。
カリギュラは、拘禁され、ティベリウスの隠棲地カプリ島で、奴隷のような忍従の日々を送り、己を殺して生きていたが、親衛隊長マクロの援助で、ティベリウスを毒殺する。あるいは枕で息ができぬように命じた。老帝ティベリウスは、カリギュラが、自分を殺し、世界を破滅させることを予知していた。
ティベリウスは、カプリ島に隠遁し10年間島に閉じ籠もり、島の別荘イオから処刑命令を下した。晩年、虐殺者と化した陰鬱な隠遁者ティベリウスは、37年3月16日、ナポリ湾のルクルスの別荘で死ぬ。78歳である。ローマ市民は、陰鬱な老帝の死を歓喜し、「ティベリウスをティベリス河に投げ棄てろ」と叫んだ。
(cf.スエトニウス『皇帝伝』第2巻、タキトゥス『年代記』第1巻-第6巻)
★パラティーノの丘からみるフォロ・ロマーノ
★Caesar Augustus 皇帝アウグストゥス
★参考文献、次ページ参照。
大久保正雄Copyright 2003.02.26
大久保正雄『地中海紀行』41回幻のローマ帝国1
壮麗の都ローマ フォルム・ロマヌム、皇帝広場、コロッセウム
七つの丘の都、かって深い沼であった広場、皇帝広場。
大地に風が吹き、焔が燃え熾り、
黄金宮殿は、破壊され、彫刻は地に眠った。
大地の上を、情熱と愛と憎しみが吹きすさび、
そして、廃墟が殘った。
黎明の子、明けの明星。堕ちたる支配者よ。
王のなかの王。地中海の覇者。汝は、何故、玉座より落ちたのか。
諸々の国を倒した者よ。汝は切斷され、地に倒れた。
月の輝く美しい夜、クレオパトラは、ナイル河を遡り、
武力によって立つ者は、武力によって滅び、
黄昏の旅人は、時の階を遡る。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
■幻の帝国への旅
カプリ島の断崖の上、樹木に包まれ、紺碧の海の上に屹立するヴィラに、隠遁したティベリウス。ネミ湖に船を浮かべ宴に遊蕩したカリギュラ。書斎に閉じ籠もりギリシア語で歴史書を書いたクラウディウス。炎上し灰燼に帰したローマに壮大な黄金宮殿を築いたネロ。皇帝在任中12年間、帝国を遊歴したハドリアヌスは、ヴィラ・アドリアーナに壮麗な離宮を築いた。己の愛好するものに耽溺した変人皇帝たち。戰爭にあけ暮れた賢人皇帝たち。
時の流れのなかで、永遠ならざるものは腐蝕し消えうせ、不変なるもののみが残る。榮華を極めた帝国の面影。林立する皇帝の神殿、輝く都の中央広場フォルム・ロマヌム、皇帝広場、パラティヌスの丘に聳えた皇帝たちの宮殿(ドムス・アウグスターナ)。すべては、瓦礫の堆積に変り、廃墟となり果てた。わずかに殘る列柱、コンクリート工法の崩れた穹窿に帝国の殘り香がただよう。
人の世の姿は、
木々の葉の移り変わりに似ている。
吹く風が地に散らす葉もある。
だが森はふたたび茂り、新たな葉をもたらす。
めぐり来る春の季節。
(『イリアス』)
時の腐蝕の果てに、歴史の風雪に耐えた不朽のものは、アウグストゥス様式の建築ではなく、プルタルコス『英雄伝』、タキトゥス『年代記』、スエトニウス『ローマ皇帝伝』、『ヒストリア・アウグスタ』である。これらの書物は、狂える皇帝たちの緻密な記録であり、退廃を極めたローマ帝国の世界が封じ込められている。欲望の赴くままに行動する皇帝たち、驕慢、虚榮、欺瞞、冷酷、残虐、淫蕩、猜疑。時の腐蝕に耐えて残ったものが腐り果てた精神の記録だというのは皮肉だが、名著の誉れ高いタキトゥス『年代記』を愛読したナポレオンは、これは皇帝の歴史ではなく犯罪の歴史である、と言ったのは核心を衝いている。「我が書は、残酷な命令、終わりなき告発、偽りの友情、高潔な人の破滅、必ず断罪に至る裁判を絶え間なく見せる。」(『年代記』第4巻)だが倒錯した精神をもつ皇帝を見るタキトゥスの眼は高貴であり、死せる書物の中にローマ帝国の血に塗れた空間が生きいきとえがかれていて感動を呼び起こす。プルタルコス『英雄伝』は伝記文学の最高傑作であり、この書にはローマの組織社会の閉塞と欺瞞を超えて、ギリシアの崇高な理想が人類史の彼方に屹立している。
幻のローマ帝国へ旅するためには、シリア砂漠のパルミュラ、スペインの西の果てメリダ、アフリカのレプティス・マグナを歩く時、失われた空間が蘇る。だがネルウァ帝時代の執政官タキトゥス、トラヤヌス帝時代の皇帝秘書官スエトニウス、トラヤヌス帝時代のプルタルコスの書物は、ローマ市街の隘路、皇帝の宴、跳梁跋扈する皇妃、実権を握る皇帝奴隷、暗闘する親衛隊をえがいて、これらの書を読む者の心に、見えざる帝国が蘇る。『皇帝伝』は、時間の階を溯り、幻のローマ帝国に辿りつくただ一つの道である。
■幻のローマ帝国 ヒスパニアからシリア砂漠まで
ローマは「七つの丘の都」と呼ばれる。ローマ中心部の丘と丘の低地に中央広場(フォルム・ロマヌム)があり、聖なる道(ウィア・サクラ)が南東から北西に通っている。「いま広場があるところ、深い沼があった」(オウィディウス『祭暦』6)と詩人が歌ったフォルム・ロマヌム。パラティヌスの丘とカピトリヌスの丘の狭間、この中央広場がローマの中心であり、ここからすべてが始まった。
カピトリヌスの丘の上からウァティカヌスの丘を眺めると、この土地に刻まれた愛と憎しみと怨みが立ち昇り、競争と管理と血に塗れた歴史の追憶が呼び覚まされる。『ローマ皇帝伝』の暗澹たる世界を思い出す。
ローマには、アテナイのパルテノン神殿のように古代から屹立する大理石の白亞の神殿の雄姿は一つも存在しない。フォルム・ロマヌム(ローマ広場)、フォーリ・インペリアーリ(皇帝広場)は、廃墟であり、古代の神殿、列柱回廊は何処にもない。
ローマ帝国は、2世紀、トラヤヌス帝時代、最大の版図に達し、西の涯てヒスパニアから東の涯てシリア砂漠のパルミュラ、ティグリス河まで、北はブリタニアから南はエジプトまで、夷荻蛮族を征服し地中海帝国を築いた。帝国の隅々まで道路網を築き、すべての道はローマに通じた。ヒスパニアからシリア砂漠まで、地中海世界に、華麗なヘレニズム様式の建築に彩られたローマ都市を築いた。
沙漠や荒野を越えて、帝国の都市に辿りつくと、完結した都市の小宇宙がある。水が溢れ、広場がある。ローマ人は、ギリシア文化から周柱式神殿、広場、劇場、図書館、列柱回廊、彫刻、絵画、悲劇、哲學を継承し、エトルリア文化から戦車競技、剣闘士闘技、半円アーチ、鳥占、肝臓占、丘の上に都市を建設する技術を受け継いだ。ローマ人が独自に築き上げたのは、道路網、水道橋、噴水、浴場、分割統治のシステムである。ローマ人は、いのちを刻む彫刻、哲學を作りだすことは、遂にできず、それらはすべてギリシアから略奪したものである。15世紀フィレンツェにルネサンスが起って古代藝術が蘇り、1499年ローマでミケランジェロがピエタを作り、1506年ネロの黄金宮殿の廃墟から、ロドス島の彫刻家たちによって刻まれたラオコーンが闇の中から掘り起こされた時、封じ込められた時がよみがえった。
■廃墟の都ローマ
16世紀末、1580年11月30日夕方、モンテーニュはローマに着き、1581年4月19日まで滞在した。モンテーニュが、ローマを旅した時、古代都市ローマは廃墟であり、旅人は古代中世から重層する建築の瓦礫の上を歩いた。かつての榮光のローマの面影はそこになかった。モンテーニュは、二年間旅して『イタリア旅日記』を書いた。モンテーニュは、プルタルコス『英雄伝』『モラリア』、プラトンの対話編、ディオゲネス・ラエルティオス、ヘロドトスなど古典を読み、『エセー』を書いた。『エセー』は、古典の引用で埋められ、古代の崇高な生きかたを考え、人間のあるべき姿を探求する思考の試み(エセー)の書である。プルタルコスの引用が最も多くを占め数百箇所に及んでいる。
14世紀、ペトラルカは、古代ローマの詩人たちが生きたローマに憧れ、ローマを訪れることを夢みた。1337年、夢が実現した時、ローマは昔日の面影はなく、帝国の首都は悲哀に満ちた幻影であり、瓦礫の都であった。1341年再びローマに旅して、カピトリヌスの丘で桂冠を受け桂冠詩人となった時、パリは学問の中心だが、ローマは廃墟であった。バロックの時代、ローマは灰燼の上に、激情の都が築かれた。
■コロッセウムが滅びる時
コロッセウムは、72年ウェスパシアヌス帝(69-79)が建築を開始し、その子ティトゥス帝(79-81)が完成した。フラウィウス朝によって建てられたのでフラウィウスの円形闘技場(アンピテアトロ)と呼ばれた。1階列柱はドーリア式、2階列柱はイオニア式、3階4階列柱はコロントス式、地上部分は四層構造である。2階3階エクセドラのアーチの下には彫刻が置かれていた。5万人を収容、76カ所の入口、160の通路があり、番号により観客は迷うことなく入場し、天候によりスタンドには天幕が張られ、昇降機で剣闘士や野獣が登場した。野獣は地下空間の檻に入れられていた。血を吸うアレーナ(砂場)の前の1階には貴賓席(ポディウム)テラスに皇帝席、そして元老院議員席があり、2階から3層の大理石の階段席があり、2階は騎士階級席、3階には一般市民、奴隷席があり、4階木製の桟敷席は女性席、下層民席があった。剣闘士(グラディアートル)の試合や野獣との格闘が、最盛期マルクス・アウレリウス帝時代には1年間に135日行われた。剣闘士試合(グラディアトゥーラ)は5世紀(404年)に廃止された。8世紀、修道僧ベーダは「コロッセウムが存在する限り、ローマが存在する。コロッセウムが倒れる時、ローマが滅びる。ローマが滅びる時、世界が滅びる。」と歌った。コロッセウムは、破壊され傷つきながら二千年に亙って聳えつづけるローマの象徴である。
コロッセウムは、ローマ社会の縮図である。古代ローマは、階級社会であり、上層の名譽ある者たち、下層の卑しい者たち、二つの階層からなる。出身家門、先代の職業、身分によって、それぞれの階級に属した。共和政時代は、元老院と民会によって意思決定がなされた。ローマの主権は「ローマの元老院と市民」(Senatus Populus Que Romanus)にあるとされた。だが共和政末期、元老院は元老院議員(セナートル)のうち特権階級たるオプティマーテス(最善なる者たち)と呼ばれる、祖先が高位高官についた人々によって支配された。一部の有力家系に支配される寡頭政治(オリガルキア、少数の者の支配)である。ローマのケントゥリア民会では貧富の差によって一票の価値に格差があった。名譽ある者たちは、皇帝、元老院議員階級、騎士階級、都市参事会員身分、皇帝の奴隷からなる。皇帝の奴隷、解放奴隷、裕福な奴隷は、一般市民より経済的地位は上であった。卑しい者たちは、都市市民、農民、奴隷からなる。上層の「名譽ある者たち」は、5000万人のローマ帝国の総人口の1%に満たなかった。共和政、帝政時代を通じて、少数の者による少数の者のための支配が行われた。
パンとサーカス
ローマ市民は、穀物(小麦)の無償配給と競技場で催される剣闘士闘技を国家によって提供された。また劇場で演劇が上演され、専門の俳優が存在した。カエサル、アウグストゥス時代には、ラテン語、ギリシア語はじめ各国語で上演された。これが民衆を籠絡するために権力者が用いた「パンとサーカス」である。剣闘士闘技は、カエサル、アウグストゥス時代にはすでに盛んに催されていた。剣闘士闘技の起源は、エトルリア人の王タルクィニウス・プリスクス(BC 616-579)が、大競技場(キルクス・マクシムス)を建設し、エトルリアから剣闘士と馬を連れてきたことに始まる。皇帝アウグストゥスは、「穀物の無償配給の制度を永久に廃止したい衝動を覚えた。しかしこの衝動を持続できなかった。民衆の好意を得るために復活されることは間違いないと確信したからである。」(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』第2巻)
2世紀初、風刺詩人ユウェナリスはローマ人の堕落を悲嘆する。「かつて命令権、裁判権、軍団指揮権、すべての権力を与えていた者たちが、今は自らを自制し、ただ二つのことのみを憂い求めている。パンとサーカスを。」(cf.ユウェナリス『風刺詩』)しかし、「穀物の無償配給」は、市民の命を守る最低限のセイフティーネット(安全網)であり、市民の反乱を防止するための装置である。紀元前62年、カトーは貧民階級が革命を起こすのを恐れて、食糧を分配するように元老院を説得し、毎年750万ドラクメーが支出された。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)ローマは、帝国領内、エジプト、シチリアから穀物を輸入した。エジプトは、地中海世界最大の穀物産地であり、ローマ帝国の食糧庫であった。飢えたる人々の反乱を防ぐために、エジプトからの穀物輸入を確保することが、ローマ帝国の支配体制が腐心する至上命題であった。
虐げられた人々の支配体制への反逆の意志は、貧富の格差が隔絶する程、強くなる。平和の鍵を握るのは、貧しき者である。眠れるローマの平和の時代においても、ローマ人は、反逆の意志をもっている。コロッセウムが倒れる時、それは市民を幻惑する幻覚剤、麻藥としての闘争競技が消える時ではなく、セイフティーネットである食糧の無料配給がなくなる時である。
貧しき人々、弱き人々への救済がなくなる時、世界は滅びる。
★黄昏のコロッセウム
★ウェスタ神殿(ヘラクレス・ウィクトル神殿)と真実の口広場
★参考文献 次ページ参照。
大久保正雄Copyright2003.02.05
大久保正雄『地中海紀行』第40回地中海のほとり 美と知恵を求めて3
旅する皇帝、ギリシアを愛した皇帝たち ネロ、ハドリアヌス
ハドリアヌスは、ギリシアを愛し、生涯にアテナイに4度滞在した。ハドリアヌスは、21年間の皇帝在任中、12年間、視察旅行に出た。ヴィッラ・アドリアーナの庭園にギリシア、エジプトの旅の思い出を鏤めた。
ネロは都が燃え盛っているさなか館の舞台に立ち炎上するのをまのあたりに見て竪琴を弾きながら「トロイア陥落」の歌を吟じた
劇場都市ローマの華麗な舞台装置、トレヴィの泉、スペイン階段、ナヴォーナ広場。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
■ギリシアを愛した皇帝たち ネロ、ハドリアヌス
ローマ皇帝ネロ、ハドリアヌスは、ギリシア文化を愛した。
ネロ
ネロは、クラウディウス帝が毒殺された後、17歳で第5代皇帝に即位した。ネロはギリシア文化を愛好し、竪琴、詩、競技に熱中した。66年ギリシアに旅し、第211回オリュンピア競技会に自ら戰車競技に優勝した。64年ローマが大火で燃えローマの二分の一が灰燼に帰した。この時、ネロは都が燃え盛っているさなか館の舞台に立ち炎上するのをまのあたりに見て竪琴を弾きながら「トロイア陥落」の歌を吟じた。パラティヌスの丘からマエナケスの庭園までに及ぶ、ネロの壮大な宮殿「ドムス・トランシトリア」は燃え、廃墟の跡に黄金宮殿(ドムス・アウレア)を建設した。(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』、タキトゥス『年代記』)
ハドリアヌス
ハドリアヌスは、トラヤヌス帝の皇后プロティナの寵愛を受け、皇帝の死後、41歳の時アンティオキアで即位する。ギリシアを愛し、生涯にアテナイに4度滞在した。ハドリアヌスは、21年間の皇帝在任中、12年間、視察旅行に出た。戰爭目的の旅ではなかった。ハドリアヌスは旅する皇帝であった。ハドリアヌスはギリシア文化を愛し、詩人であり、また優れた建築家であった。ハドリアヌス時代はローマ建築史の絶頂期であり、皇帝廟、パンテオン、ヴィッラ・アドリアーナが建設された。ヴィッラ・アドリアーナの庭園にギリシア、エジプトの旅の思い出を鏤めた。ヴィッラ・アドリアーナ図書館には、ラテン語図書館、ギリシア語図書館があった。
ハドリアヌスのアテネ
ハドリアヌスは、スッラの軍隊によって破壊されたアテナイを灰のなかから蘇らせ、百柱の図書館を建て、ゼウス・オリュンピエイオス神殿壁面を完成させた。ゼウス・オリュンピエイオス神殿は、紀元前6世紀、僭主ヒッピアスの時代、基壇(ステュロバテス)のみが作られ、紀元前2世紀、セレウコス朝アンティオコス4世によって築かれた104本のコリントス式列柱が立つ未完の神殿であったが、650年の歳月を経てハドリアヌスによって完成された。現在、8本の列柱が殘るのみである。
ローマ皇帝とギリシアの弁論術
ローマ人の支配階層は弁論術の奥義をギリシア人に師事して身につけた。アウグストゥスは、ギリシア語の弁論術教師ペルガモンのアポロドロスに師事して、弁論術の領域においても秀でた。ユリウス・カエサルは、ロドス島に航海し弁論術を学び卓越した雄弁を発揮し帝国を築き、またティベリウスは権力抗爭を避けてロドス島に隠退し弁論術を学んだ。
ローマ藝術は、ギリシア藝術の複製であり、独創性を築き得なかった。例えば、ローマ彫刻のほとんどは、ギリシア彫刻の複製であり、皇帝像とハドリアヌスの愛した青年アンティノウス像以外は、すべてギリシア彫刻の複製である。アンティノウス像はローマ人が作った唯一の個性的彫刻であるといわれる。またローマ人はギリシアの命の籠った彩色壁画に到達することもできなかった。ローマが誇る技術は建築でありコンクリート工法により巨大建築を作り壮大な都市を築いたが、これに対しギリシア建築はまぐさ工法であり、切石を組み立てて大理石の周柱式神殿を作った。ギリシア建築は柱の建築であり、ローマ建築は壁面の建築である。イタリア人が生命漲る彫刻と絵画を作るには15世紀フィレンツェにおけるルネサンスを待たねばならなかった。ルネサンスは古代藝術の蘇りであることはいうまでもない。
■バロックの劇場都市 スペイン階段
ローマはバロックの劇場空間である。この町を歩くとき、人生の舞台を歩く激情を感じる劇場都市である。そこに生きる人が、観客でありかつ舞台の主役である舞台装置が満ち溢れている。トレヴィの泉、スペイン階段、ナヴォーナ広場は、劇場都市ローマの華麗な舞台装置である。
狭隘な迷路のような路地をたどると、トレヴィの泉広場がある。ここに至る道は5つあるがどの道を辿っても狭い道から急に視界が開ける。
トレヴィの泉
トレヴィの泉は、18世紀のバロック藝術の傑作である。1762年、建築家ニコラ・サルディが、紀元前19年アグリッパが作らせた乙女の泉(Aqua Vergine)の跡に復興した泉である。乙女の泉の記憶が、バロック空間の根底に息づいている。パラッツォ・ポーリの壁面に、勝利のアーチ、ネプテューヌス、左右に二頭の馬と操る御者トリトーネの彫刻が劇的に組み立てられて、建築と彫刻と水が劇的に調和している。
スペイン階段
スペイン階段は、1723年から建築家フランチェスコ・デ・サンクティスによって作られた。トリニタ・デイ・モンティ階段とも呼ばれ、丘の上のトリニタ・デイ・モンティ教会広場とコンドッティ通りをつなげるために作られた。かつて丘は、断崖の上にあり昇ることができなかった。トリニタ・デイ・モンティ教会(丘の三位一体教会)は、1502年にルイ12世の命によって建設が始められ100年後ボッロミーニの師、カルロ・マデルノによって建築された。 階段のバルコニーからコンドッティ通りとローマの町を眺めると、重層する時の流れが見える。スペイン広場のバルカッチャ(破船)の噴水は、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの父ピエトロによって設計された。
ナヴォーナ広場
ナヴォーナ広場は、ドミティアヌスの円形競馬場(ヒッポドロムス)の遺跡にある。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニのデザインにより、四大河の噴水、ムーア人の噴水、が作られ、19世紀、ネプテューヌスの噴水の彫刻が作られた。ベルニーニは、四大河の噴水で教皇インノケンティウス10世によって、認められ以後贔屓される。ナヴォーナ広場中央にあるサンタニェゼ・イン・アゴーネ教会は1652年インノケンティウス10世が発案し、ボッロミーニによって設計された。四大河の噴水のオベリスクは皇帝マクセンティウスの競技場から運ばれたものである。
ベルニーニ、ボッロミーニ
ナヴォーナ広場は、バロック藝術の盛期に活躍したベルニーニ、ボッロミーニによって構築された空間の傑作であり、トレヴィの泉、スペイン階段は、バロック藝術の終焉期を飾る傑作である。バロックの画家カラヴァッジオは、劇的な絵画をえがき、自ら劇的な数奇な生涯を生き、38歳で死んだ。自らの絵のような劇的な生涯である。バロック藝術の巨匠たちによって作られた空間は、この広場を歩く人を、人生の舞台の主人公にする。美しい町に生きる時、人生は美しい劇場である。地中海ほとり、いつまでもそこに佇み、眺めていたい風景がある。
■酔生夢死
酔うように生き、夢のように死んでいく人生。地位と名譽と富のためでなく、愛することに没頭して、夢を追求して、夢中に生きる人生。地中海的生活様式は眞の幸いを追求する。貧困層のために法律を詩で書いた賢者ソロン。名譽と榮光のためでなく、美と愛に耽溺する人生を生きた藝術家、フィリッポ・リッピ。止まることなき知的好奇心に駆られ多岐にわたる知的荒野を彷徨い、知的探求のみを求め、イタリアを彷徨い、終焉の地アンボワーズに辿り着いたレオナルド。美に溺れ愛に溺れたラファエロ。激情に溺れ破滅したカラヴァッジオ。地中海には、奇人変人がみち溢れる。地中海のほとり、人は美を追求する。美しい生が、地中海のほとりにある。
地中海的生活様式の根源に、己の理想に殉じて命をささげたソクラテスの生きかたが生きている。「ただ生きるのではなく、善く生きること、美しく生きること、正しく生きることが、人間にとって大切である。」プラトン『ソクラテスの弁明』魂は不死不滅であり、輪廻転生する。人は魂を大切にしなければならない。人は、知恵を愛し求め、美しく善い生きかたをしなければならない。人のゆくてには、生きかたの選択、愛の岐路がある。人は、何を愛するかによって、生きかたの形が現れる。人は、何を愛し、いかに生き、いかに死ぬかによって、精神の美が現れる。何故ならば、魂は不滅だからである。
★Villa Adriana,
Hadrian's Villa - The Maritime Theatre
★スペイン広場 Scalinata di Piazza di Spagna
★ 【参考文献】
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』岩波文庫1956
スエトニウス國原吉之助訳『ローマ皇帝伝』岩波文庫1986
タキトゥス國原吉之助訳『年代記』岩波文庫
國原吉之助訳『タキトゥス』世界古典文学全集22、筑摩書房1965
ディオゲネス・ラエルティオス加来彰俊訳『哲学者列伝』岩波文庫1984-1994
塚本虎二訳『新約聖書福音書』岩波文庫1963
南川高志『ローマ五賢帝―「輝ける世紀」の虚像と実像』講談社現代新書1998
青柳正規『古代都市ローマ』中央公論美術出版1990
青柳正規『皇帝たちの都ローマ』中公新書1992
森谷公俊『アレクサンドロスとオリュンピアス―大王の母、光輝と波乱の生涯』ちくま学芸文庫) 2012
プラトン『クリトン』
ソポクレス『コロノスのオイディプス』『ピロクテーテース』
エウリピデス『アンドロマケ』『オレステス』
大久保正雄Copyright 2002.10.30
大久保正雄『地中海紀行』第21回2
神々の黄昏 皇帝テオドシウス、ユスティニアヌス ローマ帝国滅亡
ローマ帝国は、皇帝アウグストゥスから、皇帝ロムルス・アウグストゥルスまで80人。
476年、西ローマ帝国滅亡。1453年、東ローマ帝国滅亡。
神々の黄昏
テオドシウス1世、392年異教祭儀を禁止。
529年、皇帝ユスティニアヌス1世、アテナイのアカデメイア閉鎖を命令。
テオドシウス1世は、395年死ぬ前に、帝國を二つに分割。2人の息子に継がせた。自らの息子、互いに反目しあう二つの宮廷に殘した。アルカディウスとホノリウス。ローマ帝國は東西に分裂した。
コンスタンティノポリスを帝都とする東ローマ帝國を統治したのはアルカディウス帝(在位395-408)である。その子テオドシウス2世はコンスタンティヌスの城壁の外側に城壁「テオドシウスの城壁」を築き、ビュザンティオンは、難攻不落の城塞都市へと変貌を遂げる。
コンスタンティノポリスは、ローマ帝國分裂後、ビザンティン帝國の帝都、地中海世界の中心として榮える。
皇帝テオドシウス 神々の黄昏
■【テオドシウス1世】『地中海人列伝』12
テオドシウス1世(346*-395.ローマ皇帝379-395)は、スペインで生まれ、軍人として活躍する。378年ヴァレンス帝が死ぬと、グラティアヌス帝(在位375-383)に召還され379年1月19日帝の要請により東方正帝(Augustus)に就く。辺境のゴート族討伐を試みるが失敗、382年10月協定を結ぶ。グラティアヌス帝が殺害された後、反亂した親族マクシムスを殺し、394年エウゲニウスを殺害、帝國を再統一する。東方皇帝につくや否や正統派キリスト教の洗礼を受け、キリスト教を國教とし、異教を彈圧する。381年コンスタンティノポリスで公会議を召集、ニカイア信条に基づき三位一体論を確認する。390年テオドシウスは、ギリシア・マケドニア地方、テッサロニケの反亂を圧殺、市民7000人の虐殺を命じる。これを責められ、大司教アンブロシウスに破門される。391年メディオラヌム(ミラノ)でアンブロシウスに示唆され、392年異教祭儀を禁止する。395年1月17日メディオラヌムで死ぬ。正統キリスト教信仰の信者であり、少数派及び異教を迫害したがゆえに大帝と呼ばれる。
テオドシウスは、死ぬ前に、帝國を二つに分割し、自らの息子、互いに反目しあう二つの宮廷に殘された。アルカディウス(395-408)とホノリウス(395-423)である。永遠に、ローマ帝國は分裂した。
【テオドシウスのオベリスク】
今、イスタンブール、ヒッポドローム広場にはテオドシウスのオベリスクがある。390年テオドシウスはコンスタンティノポリスにトトメス3世のオベリスクを運ばせ、ヒッポドローム(競馬場)に建てさせた。このオベリスクは、コンスタンティヌス1世が、アレクサンドリアに運ばせ、ユリアヌス帝(331-363在位360-363)が船に乘せて出航したが、地中海において嵐に遭い、アテナイ近郊に漂流し、此処に放置したものである。
このオベリスクは、エジプト新王國第18王朝第5代、トトメス3世(BC.1504-1450)が、カルナックのアメン神殿正面塔門、聖なる通路に一對、建立したものである。オベリスクは、古代エジプト、ヘリオポリスの太陽神崇拝の象徴である。
【神々の滅亡】テオドシウス1世
392年テオドシウス1世は、異教禁止令を発布、異教の供犠と祭式を彈圧する。426年テオドシウス2世(401-450.在位408-450)は、異教神殿破壊令を発布する。これ以後、偉大な古代ギリシアの聖域は、破壊され砂塵の中に埋もれ、19世紀まで1500年の眠りを眠ることになる。
例えば、394年オリュンピア祭典は禁止され393年の祭典が最後となり、デルポイの神託は4世紀以後行なわれなくなる。古代ギリシアの密儀、デイオニュソス、エレウシス、オルフェウスの秘儀がこの地上から姿を消し、再び蘇ることはなかった。
■皇帝ユスティニアヌス1世、アテナイのアカデメイア閉鎖
529年、皇帝ユスティニアヌス1世(483-565)は、アテナイのアカデメイア閉鎖を命令。プラトンがBC387年に開いて以來、アカデメイア9百年の歴史が息の根を止められる。
かつて4世紀までローマ帝國の下で迫害されたキリスト教は、4世紀以後、異教を彈圧、迫害する。キリスト教による迫害によって、多彩なギリシア文化やオリエントの宗教が歴史の舞臺から姿を消す。偉大なギリシアの文化遺産とギリシアの生ける知の体系が滅ぼされたことは、人類史にとって悲劇であると言わねばならない。
大久保正雄COPYRIGHT2001.11.28
★Folum Romanum
★Triumphal arch of Constantine
大久保正雄「地中海紀行」第6回—2
狂人皇帝たちの宴 ローマ帝国
狂帝、愚帝、無能皇帝、凡庸なる者たちの支配する国、狂人皇帝たちの宴。
最低な人間が最高の地位につく。無能な人間が地位につき、知性ある人が下の地位に立つ。ローマ皇帝カリギュラ、クラウディウス、ネロ、いつの時代でも、古今東西、枚擧に遑がない。邪悪な支配階級に対する反乱は為されるべし。
いかさま師が皇帝になる。天の怒り、天誅、下るべし。
美し魂は、美のために戦う。哲学は、哲学者のいのちによって、現成しなければならない。
魂に刻まれたことばのみが、不滅の生命をもつ。大久保正雄
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
http://t.co/Pxwev5SMbW
*大久保正雄『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社
http://t.co/XGI0R3tqFX
■ローマ帝国、狂人皇帝たちの宴
狂帝カリギュラ
三十歳の時、セネカはエジプトからローマに歸り、財務官の地位を得て元老院に入り、元老院及び法廷で卓越した弁論術によって名聲を獲得した。しかし紀元37年、ガイウス帝(狂帝カリギュラAD12-41)が即位すると、名聲が身の危険を招いた。卓越した弁論の勲功が、皇帝カリギュラの嫉妬を招き、逆鱗に觸れ、処刑寸前、皇帝の愛人の取り成しによって、危うく死を免れた。この時期37-41年に書かれた書物に『道徳論集』と「初期対話編」がある。「皇帝カリギュラは、傲慢と殘忍に勝るとも劣らぬ嫉妬心と悪意で、あらゆる時代の人を攻撃した。」(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』第4巻)
愚昧帝クラウディウス
41年、カリギュラは、暗殺者の剣によって突き刺され29歳で死んだ。クラウディウス帝(BC10-54)が即位した。クラウディウス即位の年、セネカはカリギュラの妹ユゥリア・リヴィラとの姦通罪の罪に問われ、判決を受け、コルシカ島に追放された。これはクラウディウス帝の皇后メッサリナと共犯者との陰謀によるものであり、セネカは冤罪の犠牲であった。この時、流刑地コルシカ島で母ヘルヴィアのために『慰めについて』を執筆した。クラウディウス帝は、母親が「人間の姿をした怪物」と呼び憎むほど、肉體も精神も虚弱で、笑うと下品になり怒ると口から泡を飛ばし鼻水を垂らした。生まれつき殘忍で血を好んだ。しかし學問を好み、ギリシア語で歴史書『エトルリア史』20巻、『カルタゴ史』8巻を書いた。(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』第5巻)
狂帝ネロ
48年皇后メッサリナが不義密通によって処刑され、アグリッピナがクラウディウス帝の新しい后になる。49年アグリッピナは流刑8年のセネカをコルシカ島から呼び戻し、息子ネロ(12歳)の教育を委ねた。54年クラウディウス帝死す。アグリッピナが、我が子ネロ(37-68)を帝位に就かせようと企み、皇帝の好物の茸に毒を盛り毒殺したのである。(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』第5巻)56年セネカは執政官補佐官となった。その後、アグリッピナはクラウディウスの子ゲルマニクスを帝位に就けようとしたという陰謀の嫌疑を受けたが、ゲルマニクスが毒殺され難を逃れた。ネロは次第に凶暴性を露わにして來た。59年ネロは、母アグリッピナを溺死に偽裝して殺そうとしたが、殺害に失敗。アグリッピナは一人の海軍士官によって殺害された。62年ネロは美貌の貴婦人ポッパエアと結婚するため、妻オクタヴィアに冤罪を着せ幽閉し殺害。しかし65年夏、ネロは妊娠中のポッパエアを蹴り殺す。62年セネカの盟友ブルス親衛隊長が自殺して死ぬと、元老院議員の嫉妬により攻撃の的となっていたセネカは孤立した。セネカは隠退を願い出て、莫大な財産を皇帝に譲渡することを申し出た。願い出は拒否されたが、隠退は暗黙の内に了解された。セネカは公的生活を退き、殘りの歳月を哲學の研究と友との親交とのうちに暮らす。 62-65年、最晩年の隠遁期、『道徳書簡』20巻を執筆した。
【地中海人列伝5 セネカ】コルドバ生まれの哲学者、ローマで死ぬ
哲学は、哲学者の戦いによって、贖われなければならない。
血によって、魂に刻まれたことばのみが、不滅の生命をもつ。大久保正雄
紀元1-2世紀ローマ帝國時代、多彩なストア派哲學者が生まれた。エピクテトス、ヒエロクレス、セネカ、マルクス・アウレリウスである。ストア派の哲學は「理性に従って生きる」こと、普遍的な宇宙のロゴスの存在を教える。ストア派の哲學がローマ法の精神となって結実、ローマ帝國は地球上の基準(global standard)を構築した。
セネカ(BC4-AD65)は、コルドバに生まれ、幼年期、父とともにローマに來て、修辞學と哲學を學んだ。
■セネカの死
「最低の人間が最高の地位に就く」という現実は、カリギュラ、クラウディウス、ネロ、いつの時代でも古今東西、枚擧に遑がない。邪悪な皇帝に対する反乱は為されるべきである。65年ガイウス・ピソがネロに対する反逆の陰謀を企て、失敗した。ネロによる血の粛清が始まり、19人を死刑、13人を流刑に処した。セネカは反亂に荷担した疑いを受ける。ネロは自殺を命じ、百人隊を送った。ローマ郊外の別荘で、セネカは自殺を遂げる。セネカの死の場面は、タキトゥス『年代記』第15巻に次のように書かれている。
「セネカは妻パウリーナに死を思い止まるように言ったが、パウリーナはこれに對して「私も死ぬ覚悟でいます。」と誓って、血管を切る執刀医の手を請うた。セネカは妻の凛々しい覺悟に不賛成ではない。のみならず、愛する妻をただ一人殘して危険な目に遭わすには彼の愛情は余りにも強かった。
「お前は生きるよりも、名譽ある死を選んだ。立派な手本を示そうとするお前の決心を妨げる気はない。二人とも同じように毅然たる最期を遂げるなら、お前の終焉はいっそう照り映えるだろう。」
それから二人は同時に、短刀で腕の血管を切り開いて、血を流した。セネカは相当老いており、痩せてもいたので血の出方が悪かった。そこでさらに足首と膝の血管も切る。 激しい苦痛に、精魂も次第に盡き果てる。セネカは自分が悶え苦しむので、妻の意志が次第に挫けるのではないかと恐れ、一方自分も妻の喘ぐさまを見て、今にも自制心を失いそうになり、妻を説得して別室に引き取らせた。最後の瞬間に臨んでも、語りたい思想が滾滾と湧いてくる。ネロは、パウリーナに個人的な恨みを少しも持っていなかった。そして皇帝の残虐を呪う聲が広がるのを恐れ、彼女の死を阻むよう命じた。派遣された兵は、奴隷をせきたてて、彼女の腕を縛り血を止めさせた。彼女はそれから数年生き永らえたが、夫の遺影に對する貞節は賞賛に値する。セネカは死が手間取ってなかなか訪れないのを知ると、予て依頼してあった毒藥を与えてくれるように頼んだ。ソクラテスが飲み乾した毒人参である。すでに毒もきかないほど手足は冷え切って、五體の感覺が失われていた。彼は最後に熱湯の風呂に入り、発汗室に運ばれて、その熱気によって息を絶った。(cf.タキトゥス『年代記』第15巻63-64)
スペインの情熱は、受難の劇から生まれる。藝術と學問は受難の華である。苦難のなかで、自己の哲學と生き方を追求したセネカの人生は、ヒスパニア人の名に値する。
セネカは「人間の人間たる根拠は理性である」「魂は神の息であり、魂は不滅である」と書いた。血によって書かれた哲學のみが、哲學の名に値する。
★参考文献
(1)タキトゥス国原吉之助訳『年代記』世界古典文学全集22筑摩書房1965
(2)スエトニウス国原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上・下 岩波書店1986
(3)セネカ 茂手木元蔵訳『人生の短さについて』岩波文庫1980
(4)クリス・スカー著 青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社1998
★Foro Romano
★Fellini ,Satyricon
COPYRIGHT大久保正雄 2001.2.28
2016年5月30日
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