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イタリア

2016年5月27日 (金)

ルネサンスの奇人変人、フィリッポ・リッピ、カトリーヌ・ド・メディシス

Ookubomasao06Ookubomasao07Ookubomasao08Ookubomasao09Ookubomasao10大久保正雄「地中海紀行」第4回
ルネサンスの奇人変人、フィリッポ・リッピ、カトリーヌ・ド・メディシス

フィレンツェ発祥の地、
フィエーゾレの丘。
丘の上の糸杉、黄金色に輝く大地。
美しいものもいつかすべて滅びる。
すべて死に屈服する他ない。
一茎の百合ほどの力もない美が、
いかにして時間の侵蝕に抵抗できようか。
夏の香り高い微風が、
時の流れの腐蝕に耐え得ようか。
美しく高貴な魂、亡き人の美しき精神に、
花束を捧げよ。

【地中海人列伝2 フィリッポ・リッピ】
フィリッポ・リッピ(1406*-1469)は、純粋無比、清純可憐な美しい聖母子像を数多く描いた画家として有名で、『聖母子と天使たち』『聖ステファヌスと洗礼者ヨハネの生涯』他、数々の傑作を残した。しかしまた欲望の赴くままに生きる放蕩無頼の破戒僧であった。ヴァザーリ『藝術家列伝』には、フィリッポ・リッピの愛すべき個性的な生涯が書かれている。
フィリッポ・リッピはフィレンツェに生まれるが、生まれた時に母が、二歳の時に父が死に、誰も育てる者がいないため八歳の時サンタ・マリア・デル・カルミネ教会修道院に預けられた。フィリッポはカルミネ教会ブランカッチ礼拝堂で『聖ペテロ伝』壁画制作(1425-27)を行っていたマザッチョ(1401-28)に影響を受けたと推定される。画家マザッチョは余りにも若くして二十六歳で亡くなったので、彼の才能を妬む者によって毒殺されたと言われる。フィリッポは、「マザッチョの手法を体得したので、マザッチョの霊がフィリッポの体内に憑り移ったという噂が立った。」
フィリッポは、大変な女好きで自分の好みの女を見つけると、その女を掌中に収めるために自分の所有物すべてを与えるような人であった。あらゆる手段を駆使して女を手に入れることができない時は、女の肖像を繪に描いた。それは繪を描くことによって己の恋の焔を消すためであった。1456年サンタ・マルゲリータ修道院礼拝堂付司祭として、修道院の祭壇画の制作に取りかかった。この時、19歳の優雅で美しい修道女ルクレツィア・ブーティを見出した。聖母のモデルとする許可を求め裁可されたが、制作中、ルクレツィアと恋に落ちた。彼女を唆して、二人で駆落ちするに到った。教会から破門されるが、画才を高く評価されたため、許され処罰を免れた。1456年、フィリッポ・リッピ50歳の時である。
フィリッポは、色欲に溺れること甚だしい男であり、「コジモ・デ・メディチはフィリッポに自分の屋敷で仕事をさせようと思い、外に出て時間を潰すことがないように、室内に閉じ込めた。フィリッポは、欲情に駆られて我慢できず、或る夕方、鋏でシーツを細く切り裂き、窓から伝って下に降り、何日間も放蕩に耽った。コジモがいつも口癖のように言う言葉に<類稀な傑出した天才は天上のものであり、車引きの驢馬とは違う>という定型句がある。」
フィリッポは、自分の仕事によって名誉ある悠々とした生活を送り、情事に膨大な出費を重ねた。生きている間は女性問題が絶えず、死ぬまで恋愛を樂しんだ。フィリッポが死んだ時、女に余りに執拗に言い寄ったため、彼は女の親族の手で毒殺されたという噂が立った、と記録されている。
フィリッポ・リッピは、美しい女性像で有名であり、美人画の系統が此処にある。フィリッポの弟子がボッティチェリであり、そしてボッティチェリの弟子がフィリッポの子フィリッピーノ・リッピである。フィリッピーノは尼僧ルクレツィアとフィリッポとの間に生まれた子である。ボッティチェリは1456年から67年までフィリッポ・リッピの助手を務め、線描と色彩の技法を継承した。ボッティチェリは古代神話の主題を画面に構築、流麗な描線によって女性美の頂点を極め、耽美的世界の極致に到る。フィレンツェの優美かつ装飾的な様式を深化、ルネサンス様式の一つの頂点に到達した。ボッティチェリは未知の才能を見いだす優れた能力をもつメディチ一族によって見出され庇護された。ボッティチェリ『春』(1478)『ヴィーナスの誕生』(1482)には、死の憂愁と死せる人への哀愁が湛えられている。フィリッピーノの最高傑作『聖ベルナルドゥスの幻視』(1486)には師ボッティチェリの面影がある。フィレンツェの優美・艶麗な装飾的様式には、恋の炎に身を焦がしたルネサンス人の愛と憂愁が漂っている。
恋に溺れ、女性の美に耽溺、滅びゆく女性の美を画布の上に永久に留めたフィリッポ・リッピ。青春時代、地中海を航海中、難破して海賊船に捕らえられ、画才を認められて解放された経験がある。フィリッポは、典型的なルネサンス人であり、地中海人である。

【地中海人列伝3 カトリーヌ・ド・メディシス】
美貌と権力によって悪逆非道の限りを尽くした女性、或いは、愛欲と悪徳によって身を滅ぼした女性は、悪女と呼ばれる。カトリーヌ・ド・メディシス(カタリーナ・デ・メディチ)は、世に名高い悪女の一人である。カトリーヌは、「毒を盛る女」「蛇太后」呼ばれた。
カトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589)は、フランス王家ヴァロワ朝に嫁ぎ、イタリアから随行し扈従する針子と料理人により、フィレンツェ伝來の洗練された衣裳とイタリア料理をフランスにもたらし、メディチ家で磨かれた教養と感性で學藝を庇護したことで有名である。しかしまた1572年8月23日-24日未明パリで起きた「聖バルテルミーの虐殺」の陰の首謀者と言われる。ユグノー派ナヴァール王アンリとカトリーヌの三女マルグリット(マルゴ王妃)の結婚式に集まったユグノー派貴族三千人を、カトリック派が殺害した惨劇である。
フィレンツェ貴族の冷酷な権謀術数に明け暮れた血に塗れた歴史の記憶がカトリーヌの血のなかに流れている。マキャベッリ『君主論』はカトリーヌの亡き父ウルビーノ公ロレンツォに捧げられた書である。
カトリーヌ・ド・メディシスは、ロレンツォ・イル・マニフィーコの孫ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチとフランソア1世の従妹マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドゥーヴェルニュの子として生まれる。誕生直後、両親を相次いで失い、唯一人、メディチ家兄系(コジモ・デ・メディチ=コジモ・イル・ヴェッキオの血統)の正当の血を受け継ぐ孤児となる。カトリーヌは、枢機卿ジュリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)の保護下に、フィレンツェで育つ。1529-1530年、フィレンツェ包囲戦の時、ムラーテ修道院に幽閉される。1530年11歳のカトリーヌはローマに移り、後見人教皇クレメンス7世の下に、五人の王侯貴族の求婚を受ける。この時、カトリーヌは枢機卿イッポリトと恋愛関係にあったが引き裂かれ、フィレンツェに戻り、叔母マリア・サルヴィアーティの保護下に置かれる。
1533年10月、クレメンス7世とフランソア1世の交渉が纏り、カトリーヌは14歳にして、フランス国王フランソア1世の第二子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロアに嫁ぐ。  1547年アンリは国王に即位、アンリ2世となり、カトリーヌはフランス王妃となる。1559年、アンリ2世は馬上槍試合の事故で急死。跡を継いだ長男フランソア2世は1年後に夭折、次男シャルル9世が十歳で国王に即位。王太后カトリーヌは摂政となり、以後30年に亙ってフランスに君臨する。
14歳にして、フランス王家に嫁いだカトリーヌは、フィレンツェ商人の娘と冷笑され、夫オルレアン公アンリ・ド・ヴァロアは十八歳年上の寵姫ディアーヌ・ド・ポワチエ(ヴァランチノワ公)を熱愛していて、アンリが王となり死ぬまで、二人の関係は33年間続いた。ディアーヌは絶世の美女であったと言われる。
2万冊の蔵書を駆使して著作に耽溺した澁澤龍彦が書いた『世界悪女物語』にカトリーヌが現れる。澁澤龍彦によると、カトリーヌは毒藥、魔術、占星術、霊藥に凝り、護符を膚身離さず持っていた。ノストラダムスら予言者、魔術師、妖術師が宮廷に蟲のごとく蝟集した。カトリーヌは「醜い女で、鼻が大きく、唇が薄く船酔いにかかった人のような締りのない口元をしていた」と言われ、明らかに美貌の持主ではなく、「醜い容貌をもち鼻が長く垂れ下がった唇」という特徴はコジモ・デ・メディチの血を引く者の証しであるが、「旺盛な好奇心と古典と藝術の教養をもち明晰な頭脳と魅力的な会話」もまた父祖から受け継いだものである。
カトリーヌはフィレンツェで育まれた毒藥の知識と陰謀の技術を駆使して、王太后の君臨は30年に及んだ。カトリーヌの周りには不慮の事故死を遂げたアンリ2世、早世したフランソア2世、他、非業の死を遂げたものが多い。死の影にはカトリーヌの深謀遠慮が働いていたことは言うまでもない。権力の頂点を極めたカトリーヌが、愛と欲望の果てに見出したものは何か。
カトリーヌが毒藥を手に入れたメディチ家御用達のフィレンツェの藥局(Officina profumo-farmaceutica di S.Maria Novella)は1221年創業、今もサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の裏手にある。

【フィエーゾレの丘】
フィレンツェ発祥の地は、フィエーゾレの山頂である。マキャベッリ『フィレンツェ史』第2巻によれば、フィレンツェはフィエーゾレ山頂の都市の市場として栄えた。フィエーゾレはアルノ渓谷の丘の上にある。紀元前7世紀創建のフィエーゾレは、エトルリア都市として生まれた。エトルリア人は、防衛、洪水、渓谷の低湿地から発生するマラリアを避けるために、丘の上に都市を建設した。フィエーゾレの丘も戦略的要衝である。エトルリア人は、トスカナ地方に12の都市国家を作った。イタリアに先行文化を築きあげたエトルリア人は都市建設の方法をローマ人に教え、ローマ建設を指導した。エトルリア人からローマ人に伝えられた遺産には、剣闘士競技、肝臓占い、鳥占い、半円アーチ、ヴォールト(穹隆)がある。エトルリアの微笑みは我々を魅惑して止まない。

【漂う魂】
地上の最も美しい場所を求めて、私は旅立った。夕暮の寺院。糸杉の林に埋もれる聖なる土地。森に囲まれた月光の庭。荒野に聳える黄昏の都。私の魂のオデュッセイアはこれからも続く。この世の果てまで。この世の最も美しいものを見るために。
オデュッセウスのように、遥かなる旅から故郷に帰還する時、復讐を成し遂げるのか。孤独な旅路の果てに眞の愛を見出すことができるのか。
2000年が昏れようとしている今、私のメッセージを愛読して頂いた読者のみなさまに、心から感謝をささげます。有難うございました。またこのページを訪れてください。
2001年早春『地中海紀行』は、哀愁の大地スペイン、アンダルシア地方に旅立つ予定です。愛をこめて。大久保正雄
                                                  
★参考文献
(1)ジョルジォ・ヴァザーリ平川祐弘・小谷年司・田中英道訳『ルネサンス画人伝』白水社1982
(2)アンドレ・シャステル高階秀爾訳『イタリア・ルネサンス1460-1500』(「人類の美術」)新潮社1968
(3)アンドレ・シャステル辻茂訳『イタリア・ルネサンスの大工房1460-1500』(「人類の美術」)新潮社1969
(4)森田義之『メディチ家』講談社現代新書1999
(5)澁澤龍彦『世界悪女物語』桃源社1964
(6)オルソラ・ネーミ、ヘンリー・ファースト千種堅訳『カトリーヌ・ド・メディシス』中央公論社1982
(7)ジャン・オリユー田中梓訳『カトリーヌ・ド・メディシス』上・下、河出書房新社1990
(8)マキャベェッリ『フィレンツェ史』「マキャベッリ全集」3筑摩書房1999
(9)D.P.ウォーカー田口清一訳『ルネサンスの魔術思想』平凡社1996
(10)若桑みどり『世界の都市の物語 フィレンツェ』文藝春秋1994
(11)塩野七生『ローマ人への20の質問』文春新書2000
★黄昏のフィレンツェ
★ポンテ・ヴェッキオ
★サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
★黄昏のフィレンツェとフィエーゾレの丘
★フィレンツェの街角
COPYRIGHT大久保正雄 2000.12.27

2016年5月26日 (木)

ルネサンスの奇人変人、メディチ家 コジモとロレンツォ

Ookubomasao03Ookubomasao04Ookubomasao05大久保正雄「地中海紀行」第3回
ルネサンスの奇人変人、メディチ家 コジモとロレンツォ
 
黄葉を見ると、トスカナ地方の黄金の秋を思い出す
愛のように甘く、死のように美しい黄昏刻
死せる人の面影が蘇る
魂の翼をもつ香りたかい精神が目覺める
美しい魂には、美しい魂の香りがある

【ルネサンス人】
人間は、地位と名譽と金銭と利益を追求して、行動する。いかに美しく装い、巧妙に人を欺いても、醜い魂の本質は変わらない。すべて人は利益のために生きる。人は、利害を超越して、眞理と美のためにのみ行動する時、奇人変人と呼ばれる。
ルネサンス人は、普遍人(uomo univerasale)と呼ばれる。例えば、レオナルドのように、ミケランジェロのように、多面的な才能を有する万能人であり、國境を越え時代を超えて、藝術と學問のみを自らの根拠として、天衣無縫、自由に生きた。ルネサンス人は、眞理と美のために生きた。名譽と私利私欲を求め組織に隷属し、体制の奴隷である者は眞の知識人ではない。隷属する者は、奴隷と呼ばれるべきである。
學者は、その所有する知識の量によって優劣が測られるのではなく、読破した書物の量によっても、頭のよさによっても価値を量ることはできない。藝術家の価値は、その作品の量と価格によって、優劣を測るべきではないことは言うまでもない。だが藝術と學問と人間性の価値を眞に決めるものは何か。人は、何を愛し、いかに戦い、いかに死ぬかによって、魂の美しさが現れる。現身の魂にとって、美は己の命と引きかえに手に入れるものである。そして眞理は己の命を生贄にして到達することができる。
「体の痛みに寝返りを打ち続ける町」(ダンテ)フィレンツェは、多様な政治形態を経験し変貌し続けた。ルネサンス人は、血に塗れた抗争に喘ぎながら、眞理と美のために行動した。

【ルネサンスの奇人変人】
『ルネサンス奇人変人列伝』という書物が存在するならば、多くのフィレンツェ人の奇行が書物の空間を埋め尽くして溢れ出ることになるだろう。コジモ・デ・メディチ、ロレンツォ・デ・メディチ、カトリーヌ・ド・メディシス、フィリッポ・リッピ、いずれ劣らぬ奇人揃いである。権力を巡ってメディチ家に敵対した貴族。トスカーナ地方の都市からフィレンツェに來た多彩な才人たち。才能を嫉妬し毒藥で藝術家を殺す藝術家。色欲に耽溺し美食を探求、権謀術数を駆使する貴族。生きながらにして腐臭を放つ官僚。偏奇と華美を嗜好するフィレンツェ人。獨立不羈の精神をもって彷徨する知識人。自己の美意識を守ることに対して最も執念深い者たち。「獅子のごとく獰猛に、狐のごとく狡猾に」生きるルネサンス人。愛するものに命を賭け、すべてを犠牲にして愛と藝術と己の美意識に殉じた、愛すべきルネサンス人たちの生きかたの形がある。
此処に書き始める『地中海人列伝』にもルネサンスの奇人変人が溢れることになる。我々は、マキャベッリ『フィレンツェ史』(*1520-1524頃執筆)ジョルジオ・ヴァザーリ『イタリアの至高なる画家、彫刻家、建築家の生涯』(初版1550、2版1568)を紐解くと、イタリア・ルネサンスの魅惑的な奇人たちに出逢うことができる。
古代地中海の魅力的な人々に出会うためには、プルタルコス『英雄列伝』を読むのが最善の方法であり、ギリシアの哲學者、知的英雄、奇人に出會うためにはディオゲネス・ラエルティオス『哲學者列伝』を紐解くべきである。人は、夕暮の闇の中で、古代の書物を開く時、深い沈黙のなかから、美しい魂の香りが立ち昇る。遺恨と怨念の果てに、扉を開くと、そこに地中海がある。

【地中海人列伝 ―黄金時代のメディチ家―】
■メディチ家の容貌
ウフィッツィ美術館(3階第1回廊18室)にヴァザーリ『ロレンツォ・デ・メディチ肖像』がある。これを見るとロレンツォの異様な容貌を知ることができる。ロレンツォの容貌は、祖父コジモの血統を受け継ぐもので、黄金時代のメディチ家の容貌は、佐久間象山のように容貌魁偉、また鼻が長かった。
メディチ銀行の創設は、1397年10月1日、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360-1429)によってである。ジョヴァンニ・ディ・ビッチの容貌は15世紀のブロンズィーノ作の肖像によれば、異様な容貌で意志的である。容貌の醜さは、子のコジモ・デ・メディチ(1389-1464)から曾孫ロレンツォ・イル・マニフィーコ(1449-1492) に受け継がれる家系の特質である。しかし妻ナンニーナ(ピッカルダ・ブエーリ)は「すべての女性の中で最も美しかった」と伝えられる。コジモ・デ・メディチには、ポントルモ及びヴァザーリが描いた肖像画があり、ロレンツォ・デ・メディチにはヴァザーリが描いた肖像画(ウフィッツィ美術館所蔵)がある。
ロレンツォ・デ・メディチは、長く高く拉げた鼻と大きな顎と異様に突出した分厚い下唇を持ち黒いオリーブ色の膚をした顔を持っている。黄金時代のメディチ家の人々は異様な容貌をもつが、深い教養をもち優れた知性と魅力的な人柄で人を魅きつけて放さなかった。

■コジモ・デ・メディチ
コジモは、1435年以降、メディチ銀行の絶頂期を築き上げた。コジモは、ラテン語に精通し、ロンドンからアヴィニョンに至るメディチ銀行の支店網を通じて稀覯本を探索、ギリシア・ローマの古典の冩本を蒐集した。コジモは、ニッコロ・ニッコリの蔵書を基礎として、1444年サン・マルコ圖書館を創設。またフィエーゾレのバディアに圖書館を創設した。コジモは常に皮肉と機知に溢れた警句を言い放っていたことは有名でヴァザーリ『藝術家列伝』にも記されている。コジモは祖国の父(pater patriae)と呼ばれ、フィレンツェの政治的頂点を築いた。
マキャヴェッリは『フィレンツェ史』に次のように書き録している。
「コジモは中背で、顔はオリーヴ色がかった褐色で長老的風格があった。博學ではなかったが、極めて雄弁で、自然に滲み出る賢明さに溢れ、従って友人に対しては礼儀正しく、貧しい人たちにも思いやりがあり、会話は的確であり、忠告は慎重で、実行は俊敏にして、彼の言葉と返答は機知に富み、かつ重々しかった。」

■ロレンツォ・デ・メディチ
ロレンツォは、あらゆる學藝に通暁する多藝多才な知識人であり、自ら藝術家であり、詩人であった。人文主義的教育を受け、文學、藝術、哲學に亙る多面的な教養を身につけ、ギリシア語、ラテン語に通じていた。
ロレンツォはコジモによって始められた冩本収集を拡大し、蔵書をさらに拡充した。コジモ同様に、メディチ銀行の支店網を駆使して情報を収集、探索、メディチ家蔵書を1千冊に増やした。また彩飾冩本を購入、サン・ロレンツォ教会付属ラウレンツィアーナ圖書館の基礎を築いた。サン・ロレンツォ教会に付属するメディチ家礼拝堂新聖具室とラウレンツィアーナ圖書館の工事を継続、完成させたのは、コジモ1世(1519-74)である。
ボッティチェッリは、ローマのシスティーナ礼拝堂壁画制作から帰郷後、三大神話画『プリマヴェラ』『ヴィーナスの誕生』『パラスとケンタウロス』を製作した。『プリマヴェラ』は、ロレンツォの注文により、パラッツォ・メディチの装飾のために製作されたものである。ボッティチェッリは、コジモが創設し、ロレンツォが継承した「アカデミア・プラトニカ」においてギリシア的教養を身につけ、艶麗な憂愁に満ちた古代の美を構築するに到った。
メディチ家黄金時代の學藝保護は、三代にわたって継承された。コジモ・デ・メディチは、フラ・アンジェリコとフィリッポ・リッピを支援し、仕事を紹介、庇護した。ピエロ・イル・ゴットーゾは、ゴッツォーリにパラッツォ・メディチを飾る繪画の製作を注文し、『東方三博士の行列』(1459-61)が製作された。ロレンツォ・イル・マニフィーコは、サンドロ・ボッティチェリ、フィリッピーノ・リッピに仕事を与え紹介し、生活を庇護した。
マキャヴェッリは『フィレンツェ史』の中で次のように書いている。
「ロレンツォは建築も音楽も詩も、驚くほどに愛した。彼自身詩作を行なったのみならず、自ら注解を加えて公表した。」
「ピサの町に學園を開設し、最高に優れた人々が招聘された。」
「ロレンツォは運命と神によって、この上なく愛された。彼の企画したことはすべて優れた成果を達成し、彼の敵はみな悲惨な最期を遂げた。」
「ロレンツォは、物事を論じる時には雄弁で才気に満ち、解決に際しては賢明で、実行においては迅速で勇敢であった。ロレンツォの場合、無数の美徳を汚す悪徳を挙げることは不可能である。だが彼は色事には驚くほど精通しており、冗談好きで毒舌の仲間と交わり、立派な大人に相応しくない程子供っぽい遊びに夢中になり過ぎた。」
「ロレンツォの場合、その快楽的な生活と重厚厳格な生活を見ると、彼の中では二つの異なる人格がほとんどありえない結びつき方で結びついているように見える。」
「その晩年には、信じ難いほどに彼を苦しめた病気が齎した苦痛に悩まされた。絶え間ない胃痛に悩まされた。苦痛の余り1492年、44歳で死去した。フィレンツェのみならず、イタリア全土においても、これほど思慮深いという名聲を得て、その死が祖國を悲しませた人はいなかった。」
オリーヴ色の膚は、コジモ、ピエロ、ロレンツォが共有する皮膚の色だが、これは美食家のメディチゆえ痛風によるものであると考えられる。コジモの子ピエロは、ピエロ・イル・ゴットーゾ(痛風病みのピエロ)と呼ばれる。また、ロレンツォは父親から相続して苦しめられた痛風のみならず烈しい胃痛に襲われた。
オリーヴ色の膚は、メディチ家始祖アヴェラルドの血統の中にアラブ系或いはアフリカ系の血が流れているとも考えられる。またロレンツォの高く長い鼻は生まれつき嗅覚を欠如していたと言われる。醜い容貌はコジモの血をひく最後の直系カトリーヌ・ド・メディシスにまで引き継がれる。
様々な記録から明らかなように、コジモ、ロレンツォは、容貌が醜いことが知られるが、魅力的な人格を有し、フィレンツェの人々の心を深く魅了していた。精神の美しさが、容貌の醜さを圧倒していたのである。精神の美は、肉体の美よりも美しい。

★参考文献
(1)cf.ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』第2章「人格の完成」柴田治三郎訳、中央公論社1966
(2)cf.清水純一『ルネサンスの偉大と頽廃』岩波新書1972
(3)cf.ジョルジォ・ヴァザーリ平川祐弘・小谷年司・田中英道訳『ルネサンス画人伝』白水社1982
(4)cf.高階秀爾「メディチ家の金脈と人脈」『ルネサンス夜話』平凡社1979
(5)cf.森田義之『メディチ家』講談社1999
(6)cf.マキャヴェッリ『フィレンツェ史』「マキャベッリ全集」3筑摩書房1999
(7)cf.若桑みどり『世界の都市の物語 フィレンツェ』文藝春秋1994
(8)cf.E.H.ゴンブリッチ 鈴木杜機子・大原まゆみ・遠山公一訳『シンボリック・イメージ』平凡社1991
★パラッツォ・メディチ中庭
★ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ(ミケランジェロ)
★ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ(ミケランジェロ)
★メディチ・ラウレンツィアーナ図書館入口
COPYRIGHT大久保正雄 2000.11.29 

2016年5月25日 (水)

メディチ家とプラトン・アカデミー 黄昏のフィレンツェ

Ookubomasao01Ookubomasao02大久保正雄「地中海紀行」第2回
メディチ家とプラトン・アカデミー 黄昏のフィレンツェ

炎上する都コンスタンティノープル。
海ゆかば帝國の兵士のみづく屍。
ビザンティン帝國から多島海と呼ばれる紫紺のエーゲ海を経て、
地中海を漂い航海する學者。彷徨える者。
哲學者の魂ただよえど沈まず。
アドリア海の岸辺、ヴェネツィアに辿りつき、さらに流離する。
旅路の果て、アルノ河のほとり、黄昏の町に流れつく。
帝國の都コンスタンティノープルの幻。
この河はビザンティオンにつながる。
ルネサンスの残照をあびる地。黄昏のフィレンツェ。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■黄昏のフィレンツェ
フィレンツェは遠い日の思い出が蘇る黄昏の町である。ロレンツォ豪華王と夭折した弟ジュリアーノが眠るメディチ家礼拝堂。パラッツォ・メディチの中庭。夕暮のポンテ・ヴェッキオ。トルナブオーニ通りを風に吹かれながら緋色の天鵞絨(びろうど)を翻してレオナルドが歩いて來る。
イタリアは深いノスタルジアを呼び覺ます不思議な國である。イタリアの地は異國であるにもかかわらず街を歩くと、懐かしいという感情が湧き起こる。イタリアの町はつねに懐かしい。イタリアはノスタルジアの國である。何故イタリアの町がノスタルジアの感情を呼び覚ますのか。心理學者の友人は「子供の時の記憶が蘇るのではなく、あなたは生まれる以前、前世でイタリアに住んでいたのではないか」と言う。イタリアの街を歩くと、前世の記憶と現身の意識とが溶け合い、夢の中を歩いているような感覺にとらわれる。ポンテ・ヴェッキオの橋の上を歩くと、霧の彼方から遠い過去の記憶が蘇り、何百年か前に愛した人が会いに來るような気がする。イタリアは遠い愛の記憶がよみがえる場所、前世と現世の境の地である。魂は輪廻転生の果てに、この地に旅に來たのかも知れない。
黄昏の光が満ちるとき、私は自らに問う。苦悩と絶望の果てに、彷徨える魂を救済するのは、何か。神か。藝術か。愛か。

■美を創造する不屈の意志
夕暮れ時、花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)ファサードの前に辿り着く。このドゥオモは西向きに建っている。黄昏が迫ると、ファサードは夕日をあびて燃え上がる。言うまでもなく祭壇はイエスが死んだ地イエルサレムを向いて、東の角にある。
フィレンツェ共和國は1296年から140年の歳月を経て、様々な困難を乗り越えてこの教会を建築した。ギベルティはサン・ジョヴァンニ洗礼堂の二枚の扉を製作するのに48年の歳月を要した。一枚はミケランジェロが『天國の門』と呼ぶ扉(東門扉)である。特に円蓋の建設は技術上の困難を極め、ブルネレスキによって16年の歳月をかけ1436年8月30日に完成した。15世紀において世界最大の教会である。この教会を作るためには世界最大の財力を必要としたが、それだけではこの美しい建築は完成しなかった。花の聖母教会は、フィレンツェ人百四十年の意志の形象である。此処に、美を創造する不屈の意志がある。
美しいファサードは、19世紀後半エミリオ・デ・ファブリスによって設計され1887年に完成された。ネオ・ゴシック様式のファサードに対する評価は賛否両極端に分かれるが、その精緻な美は藝術品の名に値する。バルセロナのサクラ・ダ・ファミリア(聖家族教会)は1892年着工され93年アントニオ・ガウディが聖堂建築家に就任してから約百年の時が流れたが、サンタ・マリア・デル・フィオーレの建築すべてが完成に到るまでには六百年の歳月が流れた。六百年の時の流れを超える不屈の意志である。
イタリア人は藝術性において世界最高の技術を持つ。一級品を作るものは一級の感性であり創造性である。創造性の源泉はエロティシズムである。人生には終わりがあり、死は避けられないことを知るがゆえに、人生を樂しむことに耽溺するイタリア人。五百年の時の流れを超えて、イタリア人は世界最高の一級品を作り續ける。イタリアは今も昔もアモーレ(愛)の國である。
夕暮れ時、迷路のような街の影が深くなり、彼方から落日の光が射す時、花の聖母教会のファサードは燃え上がる。
いつまでもそこに佇み、じっと眺めていたい風景がある。

■ポンテ・ヴェッキオの夕暮
夕闇迫るウフィッツィの窓から、黄昏のポンテ・ヴェッキオを眺めるとき、時は止まる。時は止まり、永遠に美しい。宝石店が建ちならぶ橋の上に秘密の通路、ヴァザーリの回廊(1565)がある。ウフィッツィ美術館三階、第十室-十四室、此処にはボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』『春』ほか、傑作が充ち満ちている。三階西側の窓からアルノ河に架かる数々の橋が見える。夕暮刻になると、西に沈む夕日を受けて、橋がシルエットとなって浮かび上がり、まるで影絵のようである。この世のものとは思えない美しい夢のような光景。フィレンツェの最も美しい瞬間。何百年もフィレンツェ人はこの風景を眺め、愛してきたのである。
いつまでもそこに佇み、じっと眺めていたい風景がある。

■藝術の都
フィレンツェは町自体が藝術品である。イタリア・ルネサンスの都市は「藝術作品としての國家」であり、傭兵隊長が率いたルネサンス期イタリア都市國家間に繰り広げられた戦争は「藝術作品としての戦争」である。1)生きる歓びを日々味わうことができる生活様式は美しい空間においてのみ可能である。文化とは、生きる形であり、生活様式であり、暮らしであり、生き方である。だが様式の根底には、思想があることを忘れてはならない。理想のために、戦う知識人の行動原理となり、矛盾に満ちた現世の苦しみと対峙する愛と知性がある時にのみ、學問は価値がある。人が、何を愛し、何と戦い、いかに生きるか、その形に人間の高貴さが現れる。
イタリアは、街全体が一つの劇場であり、空間が沈黙の交響樂を奏でている。2)狭い隘路の迷宮を歩いて行くと、突如視界がひらけ、壮麗な建築が姿をあらわす。黄昏の黄金の輝きが空間に満ちてくるとき、零りつもる時間の重層の上に深い憂愁が漂う。
美しい都市は、美のイデアの地上における顕現である。美のイデアは神々の愛でる都に降臨する。フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィア、グラナダ、コルドバ、トレド、イスタンブール、アテナイ。私は果てしない「美をめぐる旅」に出る。私は黄昏の旅人である。
1)cf.ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』第1章
2)cf. 飯田義國『彫刻家』岩波新書1991)

■メディチ家とプラトン・アカデミー
蘇るアカデミア・プラトニカ
1453年メフメット2世率いるオスマン・トルコ軍は、コンスタンティノープルを陥落、ビザンティン帝國(東ローマ帝國)は滅亡した。これによって、古代ギリシア文化を理解するギリシア人古典學者が多数亡命、イタリアに難を逃れた。エーゲ海、地中海を航海して、アドリア海の潟ヴェネツィアに到達したが、その地では受け容れられず、古典學者は各地を放浪、フィレンツェにやって來てギリシア文化を伝えた。
コンスタンティノープル陥落に先立つ、1439年7月6日フィレンツェ公会議が開かれ、ギリシア・ローマ両協会の統一が宣言された。この時コンスタンティノープルから、プラトン學者ベッサリオン、ゲミストス・プレトンが來訪、コジモはプレトンの示唆により「アカデミア・プラトニカ」(プラトン・アカデミー)を構想した。1462年コジモ・デ・メディチは、マルシリオ・フィチーノ(1433 - 1499)にプラトンの原典とカレッジの別荘を与え、プラトン全集の翻訳を命じ、コジモは1464年に死ぬが、フィチーノは1477年に完成した。
最晩年1464年コジモは、フィレンツェ郊外ヴィッラ・カレッジで、死の予感の中で、哲學的な隠遁の生活に浸り、蘇った哲學の古典に読み耽る。コジモはフィチーノにオルペウスの竪琴とラテン語訳プラトン『ピレボス』を持って來るように手紙を書いて命じた。1)フィチーノは、1475年『プラトン饗宴注解-愛について』、1482年『プラトン神學-魂の不滅について』、1484年『プラトン全集』ラテン語訳を出版、イタリアの地にプラトン哲學が蘇る。
1)cf.アンドレ・シャステル桂芳樹訳『ルネサンス精神の深層 フィチーノと藝術』平凡社1989

■古代アカデメイアの終焉
アカデミア・プラトニカは、古代のアカデメイアを復興することを夢想する。プラトンは、紀元前387年四十歳の時、アカデメイアの地に學園を設立した。プラトンの死後、アカデメイアは、古期アカデメイア派、中期アカデメイア派、新アカデメイア派を経て懐疑主義的傾向を深め、前1世紀ローマ帝國時代には折衷主義になりキケロ(BC106 - 43)を生み、時の流れの中で思想を変容しながら存在し続けた。プラトンの思想自身は中期プラトン派、新プラトン派へと継承された。中期プラトン派のプルタルコス(AD46 - 120以後)は『英雄列伝』を書き、新プラトン派が生み出した哲學者プロティノス(AD204 - 270)は『エネアデス』54編を書いた。529年東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、アテナイの新プラトン派のアカデメイアを閉鎖、財産を没収。アカデメイア916年の歴史が終焉した。ギリシアから追われた學者シンプリキオス、ダマスキオス、プリスキアノスは、ササン朝ペルシア冬の離宮の都ジュンディー・シャープールに漂着した。1)以後、プラトンの書物は歴史の波間に翻弄されて漂い、ビザンティン帝國の都コンスタンティノープルに保存される。我々は歴史を横切るだけだが、プラトン全集は歴史そのものである。 九百年の歳月を経て、プラトン哲學はイタリアの地に蘇った。プラトンの魂の深淵から生まれた対話編、美のイデアの哲學が、美に執念をもち耽溺するフィレンツェ人の不撓不屈の努力によってよみがえった。
1)cf.伊藤俊太郎『12世紀ルネサンス』岩波書店1993
★★★URL★★★
イタリア文化会館
http://www02.so-net.ne.jp/~italcult/
イタリアを知れ
http://www.async.co.jp/italia/link/01.html
イタリア・フィレンツェから愛をこめて
http://www.page.sannet.ne.jp/h-yamashita/

★黄昏のポンテ・ヴェッキオ
★サンタ・マリア・デル・フィオーレ
★花の聖母教会ファサード
★ジョットの鐘楼
★トルナブォーニ通り
★サルヴァトーレ・フェラガモ本社
COPYRIGHT大久保正雄 2000.10.25 

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