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日本美術史

2020年11月 3日 (火)

「桃山―天下人の100年」3・・・茶の湯、足利義政、織田信長、今井宗久、千宗易、豊臣秀吉、楽長次郎

Momoyama-2020-2
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』228回
【失われた美】織田信長は、足利義政が所持した耀変天目茶碗(『君台観左右帖記』記載)を手に入れていたが、本能寺の変で消失した。天正10(1582)年6月2日。耀変天目茶碗は、天下に3碗伝わるのみ。

【織田信長と千宗易(利休)】永禄11(1568)年、織田信長が上洛、茶の湯に対して異常なほどの興味を示して名物狩りをくりかえした。松永久秀から九十九茄子茶壺が献上される。信長の茶頭として津田宗及、今井宗久と共にとりたてられ、天下一の茶頭の地位を築く。
【織田信長と耀変天目茶碗】永禄11(1568)年、織田信長が上洛。天王寺屋、津田宗及の屋敷で、会合衆の集まり。永禄12年(1569)信長の家臣・柴田勝家と佐久間信盛など百人余りが終日宴を張った。本能寺の茶会、天正10(1582)年6月2日、信長は足利義政所伝の耀変天目茶碗を所持していたが本能寺の変で焼失した。
【織田信長と津田宗及】天正元年(1573)11月23日、妙覚寺の信長の茶会、津田宗及、塩屋宗悦、松江隆仙の3人の商人が招かれ、信長から手厚いもてなしを受ける(宗及『他会記』)。天正2年(1574)2月3日、信長岐阜城の茶会に宗及一人出席、大歓待を受ける(宗及『他会記』)。
【織田信長と蘭奢待、津田宗及】天正2年(1574)4月3日、信長の相國寺茶会、梅雪の手前のあと正倉院から切り取った蘭奢待を扇子にのせて楽しみ、津田宗及と利休に分け与えた。これについて宗及は自慢げに書き遺している(宗及『他会記』)。
【大徳寺龍光院、耀変天目茶碗、津田宗及】龍光院秘蔵の「耀変天目茶碗」は津田宗及所蔵の茶道具の名品の一つ、慶長17年(1612)、堺の天王寺屋が断絶したため宗及の次男で龍光院の開祖・江月宗玩に渡った。以来400年の眠りについた。
参考文献 (『なにわ大阪を作った100人』中村修也『戦国茶の湯倶楽部』大修館書店、永島福太郎編『天王寺屋会記』影印本 淡交社)
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【東山文化、わび・さび・幽玄】室町時代中期、8代将軍足利義政(在位1443~73)の時代に義政が営んだ東山山荘(慈照寺銀閣)を中心にして生み出された文化。書院造り、茶の湯・華道・水墨画・能・連歌など新しい芸術が興り、わび・さび・幽玄の境地が重んじられた。連歌に飯尾宗祇が出た。水墨画が禅僧の間に行われ、相阿弥、雪舟によって完成の域に達し、また大和絵(土佐光信)に漢画の技法をとり入れた狩野派、狩野正信が生まれた。金工では後藤祐乗、蒔絵では幸阿弥が有名。建築には唐(から)様と和様をあわせた新和様も発達,住宅に書院造が作られた。公家文化と武家文化の融合、後世の日本文化の源流となる。
【能阿弥著『君台観左右帖記』秘伝書】書名の君台は将軍の御座所で、その飾り方についての左右の侍者の帳記(記録)という意味。原本はなく写本として残る。能阿弥本系には数種あり、文明8年(1476)3月12日の日付があり、大内左京大夫にあてて書かれたとする『群書類従』巻361に所収された。内容は1.六朝~明の中国画家を上中下に品等別して画題,画体,姓氏号等を注記した部分、2.座敷飾の方法を図入りで説明(いわゆる御飾記)、3.茶器・諸道具の種類・性質を解説。足利義政の同朋衆、能阿弥の著と伝えられる。
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千利休と豊臣秀吉の確執
【千宗易(利休)】本名は田中与四郎、号は宗易。1522年大阪堺の魚問屋、田中与兵衛の子に生まれた。父は堺で高名な商人、宗易は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に、16歳で茶の道に入る。18歳の時に当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎の門を叩き23歳で最初の茶会を開いた。
【堺、地下の茶】今井宗久、千宗易、16世紀。【侘茶の完成、楽焼、美濃焼、高麗茶碗】千宗易、楽長次郎、古田織部
【正親町天皇】天正13(1585)年(63歳)秀吉が関白就任の返礼で正親町天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、天皇から「利休」の号を勅賜される。(それまで宗易)。
その名は天下一の茶人として全国に知れ渡る。
【山上宗二、処刑】天正18 (1590)年利休(68歳)、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際、利休の愛弟子・山上宗二が、秀吉への口の利き方が悪いとされ、その日のうちに処刑。
【黒楽茶碗】天正19(1591)年1月13日の茶会で、派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながら、「黒は古き心なり」と平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。(69歳)2月23日、利休は突然秀吉から「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ」と命令を受ける。利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際、門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われる。
天正19(1591)年2月28日、(69歳)秀吉から切腹を命じられる。
天正19(1591)年、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、
【利休切腹】天正19(1591)年京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年69。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図るおそれがあり、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだ。死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形で晒された。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
志野茶碗、卯花墻「国宝」16-17世紀、三井記念美術館
 安土桃山時代に美濃で焼かれた茶碗。国宝指定された茶碗の内、国内産は2碗、その1つ。志野釉と呼ばれる、意外にも人工的に金属を使用しない(原料は長石という天然石のみ)釉薬を使った白色が特徴。
志野茶碗 銘 振袖 美濃 安土桃山~江戸時代・16-17世紀、東京国立博物館蔵
 白色の釉薬を掛けた志野の茶碗。白肌を透かしてすすきの文様が見え隠れ。美濃(岐阜県)では、16世紀後半、白い釉薬の下に鉄絵具で日本初の下絵付けを行う志野を作り出した。
重要文化財「油滴天目」南宋、12-13世紀、九州国立博物館
古田織部 が所持したと伝わる。黒い釉に浮かぶ銀色の粒子状の模様が幻想的、油滴天目のなかでも名椀。
重要文化財「泰西王侯騎馬図」神戸市美術館、17世紀に描かれた洋風画、神聖ローマ皇帝、トルコ皇帝、モスクワ大公、タタール王が描かれている。
花鳥蒔絵螺鈿聖龕、16-17世紀、九州国立博物館
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参考文献
「桃山―天下人の100年」東京国立博物館・・・室町幕府崩壊、戦国武将、愛と復讐の壮大なドラマ
https://bit.ly/3lDIoIq
「桃山―天下人の100年」2・・・金碧障壁画、織田信長と狩野永徳、秀吉と長谷川等伯
https://bit.ly/31DlCc0

「桃山―天下人の100年」3・・・茶の湯、足利義政、織田信長、今井宗久、千宗易、秀吉、楽長次郎

織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
https://bit.ly/39FAMQc
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/3gqTr5n
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特別展「桃山―天下人の100年」東京国立博物館 平成館 特別展示室
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2043
2020年10月6日(火) ~ 2020年11月29日

2020年10月25日 (日)

「桃山―天下人の100年」2・・・金碧障壁画、織田信長と狩野永徳、秀吉と長谷川等伯

Kanou-eitoku
Momoyama-2020
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』227回

織田信長の築いた城、麒麟の城 小牧山城。天下布武の城、岐阜城。第六天魔王、幻の安土城。「理想に近づこうと努力すればするほど、理想は遠ざかっていくものだ。しかし、理想の実現よりも、はるかに価値あることは、熱い思いをもって前に進み続けることである」(ガンジー『魂の言葉』)
【天下一の優れた才能を集める織田信長、鸞翔鳳集】信長のもとに集まった才能。千宗易、狩野永徳、軍師、沢彦宗恩、祐筆、武井夕庵、野面積み、穴太衆、本因坊算砂、清玉上人、弓衆、太田牛一。【天下布武】武の七徳を備えたものが天下を治める。七徳は、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする。
織田信長の弓衆、太田牛一が信長の上洛(1568)から本能寺の変(1582)までを記録した。
【安土城】『信長公記』巻九「安土山御天主の次第」天正4(1576)年
「上七重め、三間四方、御座敷の内、皆金なり。そとがは、是れ又、金なり。四方の内柱には、上り龍、下り龍、天井には天人御影向の所、御座敷の内には、三皇、五帝、孔門十哲、商山四皓、七賢などをかかせられ、ひうち、ほうちゃく、数十二つかせられ、狭間戸鉄なり。数六十余あり、皆、黒漆なり。御座敷の内外柱、惣々、漆にて、布を着せさせられ、その上、皆黒漆なり」
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【狩野永徳、金碧障壁画】狩野永徳(1543‐1590(天文12‐天正18)が金碧濃彩、金箔の上に描いた金碧障壁画はほとんど消滅した。琵琶湖湖畔に構築した安土城天主閣、天正4(1576)年竣工、天正10(1582)年本能寺の変の10日後、焼失。安土城と聚楽第は、1582年本能寺の変、1595年秀次自刃で灰燼に帰す。狩野永徳は、悲劇の絵師である。
狩野永徳は、現存する作品は約10点。「洛中洛外図屏風」「唐獅子図屛風」「檜図屛風」「花鳥図襖」(聚光院)、「許由巣父図」(東京国立博物館蔵)「伯夷叔斉図」。
【狩野永徳、怪々奇々】狩野永徳は1543(天文12)年、狩野派三代目棟梁・狩野松栄の長男源四郎として生まれる。幼少時から画才を発揮し、天文21(1552)年10歳のとき祖父・元信に伴われ、将軍・足利義輝に謁見(『言継卿記』)。20代前半で《洛中洛外図屏風 上杉本》(1565)、父松栄とともに三好長慶の菩提を弔って永禄9(1566)年に創建された「四季花鳥図」大徳寺聚光院の「花鳥図襖」を制作した。34歳(天正4、1576)のとき織田信長の絵師となる。秀吉の聚楽第、大阪城に携わる。京狩野二代目・狩野山雪とその子・永納『本朝画史』(1693)は、永徳を「恠恠奇奇(怪々奇々)、自ずから前輩不伝の妙を得て、もって一時に独歩す」と評し、国宝「檜図屏風」はこの一節を象徴する永徳最晩年の作と考えられている。天正18 (1590) 年歿、48才。
【長谷川等伯と秀吉】長谷川等伯は、大徳寺「山水図襖」(天正17(1569)年)を描き、秀吉の命で、秀吉の子鶴松が3歳にして亡くなった菩提寺、祥雲寺「楓図壁貼付」文禄元年(1592)を描く。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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<参考文献>「朝日日本歴史人物事典」『障壁画全集 大徳寺真珠庵・聚光院』、土居次義『永徳と山楽』、武田恒夫『日本の美術94号 狩野永徳』(至文堂)
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展示作品の一部、狩野永徳、長谷川等伯
狩野永徳 国宝「檜図屏風」安土桃山時代・天正18年(1590)東京国立博物館蔵
狩野宗秀「織田信長像」天正11年(1583) 愛知・長興寺 重要文化財 11月3日
 信長の一周忌に信長の家臣、与語久三郎正勝が狩野永徳の弟、狩野宗秀に描かせたもの。
長谷川等伯 国宝「楓図壁貼付」安土桃山時代・文禄元年(1592)頃 京都・智積院蔵
長谷川等伯 国宝「松林図屏風」安土桃山時代。六曲一双 16世紀 東京国立博物館蔵
草稿ともいわれる。靄に包まれて見え隠れする松林のなにげない風情を、粗速の筆で大胆に描きながら、観る者にとって禅の境地とも、わびの境地とも受けとれる閑静で奥深い表現をなし得た。等伯(1539-1610)の画技には測り知れないものがある。彼が私淑した南宋時代の画僧牧谿の、自然に忠実たろうとする態度が、日本において反映された希有の例であり、近世水墨画の最高傑作。東京国立博物館
狩野山雪 重要文化財「籬に草花図襖」江戸時代(1631)京都・天球院蔵
紺糸威五枚胴具足 安土桃山~江戸時代・16~17世紀 宮城・仙台市博物館蔵
曽我直庵筆「龍虎図屛風」安土桃山~江戸時代・16~17世紀 東京国立博物館蔵
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重要文化財「泰西王侯騎馬図」神戸市美術館、17世紀に描かれた洋風画、
神聖ローマ皇帝、トルコ皇帝、モスクワ大公、タタール王が描かれている。
重要文化財 鶴下絵三十六歌仙和歌巻、(書)本阿弥光悦筆、(絵)俵屋宗達筆、江戸時代・17世紀 京都国立博物館蔵
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狩野永徳の作品
松に叭々鳥・柳に白鷺図屏風 六曲一双 紙本墨画 - 九州国立博物館蔵
瀟湘八景図 一幅 紙本墨画 - 個人蔵(九州国立博物館寄託、黒田侯爵家旧蔵
現存しない作品
安土城障壁画 - 天正4年(1576年)
大坂城障壁画 - 天正13年(1585年)
聚楽第障壁画 - 天正15年(1587年)
天瑞寺障壁画 - 天正16年(1588年)天瑞寺は大徳寺内に秀吉が創建したものだが明治7年(1874年)、廃寺になった際、建物とともに障壁画も失われたとされる。
所在不明の作品
安土城之図 - 天正9年(1581年)以前
天正9年(1581年)、織田信長が安土を訪れた宣教師・ヴァリニャーノに贈った安土城之図屏風は、「日本で最も優れた職人」「画筆を動かすのに最も巧なる画工」といた史料の記述から永徳筆と考えられている
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参考文献
「桃山―天下人の100年」2・・・金碧障壁画、織田信長と狩野永徳、秀吉と長谷川等伯
https://bit.ly/31DlCc0

「桃山―天下人の100年」東京国立博物館・・・室町幕府崩壊、戦国武将、愛と復讐の壮大なドラマ
https://bit.ly/3lDIoIq
織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
https://bit.ly/39FAMQc
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/3gqTr5n
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
林進「宗達を検証する」(10)風神雷神図屏風と伊勢物語図色紙の成立
http://atelierrusses.jugem.jp/?cid=22
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特別展「桃山―天下人の100年」東京国立博物館 平成館 特別展示室
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2043
2020年10月6日(火) ~ 2020年11月29日

2020年10月14日 (水)

「桃山―天下人の100年」東京国立博物館・・・室町幕府崩壊、戦国武将、愛と復讐の壮大なドラマ

Momoyama-2020-1
Kanou-eitoku-1565
Hasegawa-touhaku-kaedezu-1592
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』226回

金木犀の香り漂う森を歩いて博物館に行く。戦国時代は、愛と復讐の壮大なドラマが展開した。エリザベス朝悲劇と同時代である。
【戦国武将の死】将軍足利義輝、三好三人衆が暗殺(永禄の変)、足利義昭、遺志を継ぐ。元亀4年(1573)、幕府滅亡。戦国最強の武将、上杉謙信は川中島の戦いで武田信玄に勝つ。武田信玄は人望あり「人は石垣、人は城」、52歳で病死。1578年、上杉謙信は49歳で飲酒死。明晰透徹な織田信長は、1579年、藝術の極致、安土城建築、1582年、光秀の謀反で、49歳で死ぬ。
【藝術を愛好した信長】織田信長は、千宗易を登用、狩野永徳を重用し、茶の湯の天下の名器を集め、穴太衆を採用、天下の名人を発掘、名城安土城を築き、志半ばで世を去る。正親町天皇は、戦乱をくぐりぬけ天正14年69歳まで生きる。
【バロックと戦国】織田信長は、揚羽蝶模様の陣羽織を纏って指揮。信長は西洋甲冑を着て、世界制覇を狙うイエズス会士フランシスコ・カブラルと対峙。宣教師から武器調達、タイ製弾丸で長篠の戦いに勝つ。
1563年ルイス・フロイス来日、1571年レパントの海戦、1575年長篠の戦、石山本願寺戦争1570-80、「宣教師の征服計画」秀吉、グネツキ・オルガンティノ、高山右近説得(聖イグナシオ洞窟教会)、国友火縄銃、石山戦争終結。「われは神である」信長、1582年6月2日、本能寺の変で自刃。
1598年9月13日、ハプスブルグ帝国フェリペ2世の死後、5日後に、秀吉は61歳で死ぬ。
【織田信長、安土城、狩野派】この世から消滅した狩野派絵画、安土城。天主、7層5階。地上5階地下2階。7階、信長の部屋、6階は儒教、「孔門十哲」「三皇五帝」、5階は仏教、「釈迦十大弟子」「釈迦説法」、3階は花鳥図、「岩の間」「竹の間」「松の間」。2階は道教、「呂洞賓図」「西王母」。天正四~七年、安土城天主完成。天正十年6月2日、本能寺の変の8日後、炎上する。太田牛一『安土日記』『信長公記』
【利休切腹】天正19(1591)年京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年69。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図るおそれがあり、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだ。死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形で晒された。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
織田信長像、狩野宗秀、天正11年、1583、愛知、長興寺、重文
唐獅子図屛風、狩野永徳筆 安土桃山時代・16世紀 宮内庁三の丸尚蔵館蔵
国宝 洛中洛外図屛風(上杉家本)狩野永徳筆 室町時代・永禄8年(1565)山形・米沢市上杉博物館蔵
織田信長が、上杉謙信に贈った。京の都を描いた屛風。狩野永徳が23歳で描いた。天を突くように聳える相国寺の七重の搭、金雲の間に見え隠れする色鮮やかな景物が、都の雰囲気を伝える。
国宝 檜図屛風 狩野永徳筆 安土桃山時代・天正18年(1590) 東京国立博物館蔵
天正18年(1590)、秀吉の命により建てられた八条宮(後の桂宮家)邸を飾った襖絵。信長、秀吉に好まれ桃山画壇を牽引した狩野永徳の力強い描写が辺りを威圧する生命感。
国宝 楓図壁貼付、長谷川等伯筆 安土桃山時代・文禄元年(1592)頃 京都・智積院蔵
秀吉が、3歳で夭折した長男鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲寺(現在の智積院)の襖絵。狩野永徳の大画様式にもとづきながら叙情性が加えられている。
重要文化財 四季花鳥図屛風、狩野元信筆 室町時代・天文19年(1550)兵庫・白鶴美術館蔵
狩野派による金屛風のうち、制作年が明らかな最古例の一つ。画中に作者の狩野元信(1477~1559)自身による生年入りの落款があり。
重要文化財  豊国祭礼図屛風、岩佐又兵衛筆、江戸時代・17世紀 愛知・徳川美術館蔵
慶長9年(1604)8月に行われた秀吉7回忌の臨時祭礼の情景を描いたもの。豊国神社と方広寺大仏殿を背景として、秀吉を追慕し、祭りを楽しみ熱狂する人々の様子が描かれる。
重要文化財 鶴下絵三十六歌仙和歌巻、(書)本阿弥光悦筆、(絵)俵屋宗達筆、江戸時代・17世紀 京都国立博物館蔵
大胆に描かれた鶴の群れ。そこに和歌を配置するの、光悦の腕の見せどころ。桃山美術の到達点を示す、光悦と宗達の合作。
重要文化財 銀伊予札白糸威胴丸具足、安土桃山時代・16世紀 宮城・仙台市博物館蔵
伊達政宗が豊臣秀吉より拝領した甲冑で、全身の防具を揃いの仕立てに誂える「当世具足」の形式が整いつつあったころの名品。
重要文化財 紺糸威南蛮胴具足、安土桃山~江戸時代・16~17世紀 東京国立博物館蔵
関ヶ原の合戦の直前、徳川四天王のひとり榊原康政(さかきばらやすまさ)が家康から拝領した甲冑です。兜と胴はヨーロッパの甲冑を参考にしたもの。
本庄正宗、長船長光、徳川将軍家ゆかりの名刀を収めた刀装「黒漆打刀」2口が初公開。伝家の宝刀 #本庄正宗 と、家康から紀州徳川家・頼宣に伝わった太刀 #長船長光 の刀装で、残念ながら刀身は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に供出され、行方不明
重要文化財 聖フランシスコ・ザビエル像、神戸市立博物館
国宝 檜図屏風 狩野永徳筆、東京国立博物館
国宝 松林図屏風 長谷川等伯筆、東京国立博物館
重要文化財 花鳥蒔絵螺鈿聖龕、九州国立博物館
重要文化財 泰西王侯騎馬図屏風、神戸市立博物館
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参考文献
織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
https://bit.ly/39FAMQc
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/3gqTr5n
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
織田信長の苦悩、信長と道三、復讐の嵐。連動する美濃と尾張、帰蝶と絶世の美女、生駒吉乃
https://bit.ly/2ZvHEwX
「京都―洛中洛外図と障壁画の美」・・・幻の花の都
https://bit.ly/2GDWgUp
長谷川等伯展・・・荒寥たる自然と生命の美
https://bit.ly/3mZhoEI

「桃山―天下人の100年」東京国立博物館・・・室町幕府崩壊、戦国武将、愛と復讐の壮大なドラマ

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政治史における安土桃山時代は、1573年の室町幕府の滅亡から1603年の江戸幕府開府までの30年間をさします。この30年間に花開いた、日本美術史上もっとも豪壮で華麗な「桃山美術」を中心に、室町時代末期から江戸時代初期にかけて移り変わる日本人の美意識を数々の名品によってご紹介します。
戦国の幕開けを象徴する鉄砲伝来が1543年、島原の乱鎮圧の翌年、ポルトガル船の入国を禁止し、鎖国が行われたのが1639年。豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし天下統一を果たした1590年が、その100年間のほぼ中間地点といえます。安土桃山時代を中心として、日本は中世から近世へ、戦国武将が争う下剋上の時代から、江戸幕府による平和な治世へと移り変わります。本展は、室町時代末期から江戸時代初期にかけての激動の時代に生まれた美術を概観し、美術史上「桃山時代」として語られるその美術の特質を、約230件の優品によってご覧いただこうというものです。
激動の時代に、「日本人」がどう生き、どのように文化が形作られていったのか、約100年間の美術作品を一堂に集め概観することで、日本美術史のなかでも特筆される変革の時代の「心と形」を考える展覧会です。
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2043
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特別展「桃山―天下人の100年」 東京国立博物館 平成館 特別展示室
2020年10月6日(火) ~ 2020年11月29日

2020年9月26日 (土)

「工藝2020-自然と美のかたち-」東京国立博物館・・・道を極める名人の世界

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』224回
奥田小由女「海から天へ」は、海から天に上る母と子、霊たちを人形の形にしている。作者83歳の作品。85歳である現在まで、作品を作り続けることは奇跡である。千年を超える漆藝の歴史を踏まえ蒔絵と螺鈿の技法を駆使する漆藝家、室瀬和美「柏葉蒔絵螺鈿六角合子」。志野焼、萩焼。楽焼、友禅染、久留米絣、更紗、人形、漆工、陶磁、名人たち82人の作品、崇敬に値する作品を見て驚嘆する。80歳90歳くらいの名人たち。師に出会い、若いころ学んで、90歳まで続けること、技術を洗練する、若い純粋な精神を持ち続けることは至難の業である。

哲学青年は「哲学は社会を生きるのに必要ない。役立たずの学問だ」といわれた。哲学青年は理念を探求して、現実の試練を受け、運命と戦う。理念と現実との調和は藝術において実現する。
純文学作家は10年続けることが困難だといわれる。「《純文学だけで生きられるか》純文学作家の「生きる糧」 芥川賞作家も副業は当たり前 「専業」はわずか1桁?」(毎日新聞2016年8月29日 東京夕刊)
【道を極める名人の世界】
人生で、よい師と出逢うことは、重要なことだ。しかし、よき師に出逢うことは困難である。求めて出逢うことは、まれである。師に出会い、技術を洗練する、若い純粋な精神を持ち続けることは至難の業である。
【創造的研究】研究には2種類ある。創造的研究と研究のための研究。高度に普遍的な学問はいくら究めても上には上がある。普遍的な学問は、他との競争に勝っても後世優秀な人に克服される。創造的学問は、他に類がないので究極的秘儀に立ち入る。ある建築家の教え。『旅する思想家』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
三輪休雪、雪嶺、花器、2019
楽直入、十五代吉左エ門、焼貫黒楽茶碗、2001、
奥田小由女、海から天へ、2018、人形、個人蔵
林駒夫、呉女、人形、2015、個人蔵
中村信喬、遥かな道、2014、人形
室瀬和美、柏葉蒔絵螺鈿六角合子、漆工、2014、個人蔵
月岡裕二、截金砂子彩箔「凛」、截金、2015、個人蔵
今泉今右衛門、色絵雪花薄墨墨はじき雪松文蓋付瓶、陶磁、2019、個人蔵
伊藤祐司、赤富士、漆工、2015
村山明 欅緋拭漆舟形盛器 平成29年(2017) 個人蔵
鈴木蔵、志野茶碗、陶磁、2016
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参考文献
「工藝2020-自然と美のかたち-」青幻社、2020
読売新聞2020年9月6日、自然とともに 工芸の巨匠たち
「工藝2020-自然と美のかたち-」東京国立博物館・・・道を極める名人の世界
https://bit.ly/3i6wTHe

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工芸と日本人の自然観
本展は、日本の生活の器を造形する作家や芸術を創造する現代工芸作家を幅広い世代から集めて紹介する展覧会です。それとともに日本博の総合テーマである「日本人の自然観」について工芸を通して紹介していきます。日本の文化や工芸には、人間と自然は一つの生命であるという世界観を持ち、自然を美として調和として捉える芸術思想があります。それは時代と国境を越えた普遍性と融和性があります。これらの点を展示を通して感じていただくとともに、建築家・伊東豊雄氏の「自然と生命の輝き」をコンセプトとしたデザイン性の高い空間で展示することで、工芸のもつ魅力と可能性を国内外へ発信いたします。
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2042
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特別展「工藝2020-自然と美のかたち-」東京国立博物館、表慶館、9月21日(月)~11月15日(日)

2020年7月 3日 (金)

特別展「きもの KIMONO」・・・織田信長の陣羽織「黒鳥毛揚羽蝶模様」、戦国一の美女と落城

Kimono2020
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第218回
深緑の森を歩いて、博物館に行く。「人間、衣裳を剥ぎとれば、おまえのように、あわれな裸の二本足の動物にすぎぬ」『リア王』。時の関節が外れた、価値体系の崩壊した混沌の時代、王は王の衣装を身につけ、貴族は官僚の衣装を身につけ、武人は甲冑を身につけ、詐欺師の司祭は僧衣を身につけた。衣装は階級社会の象徴である。
16世紀、安土桃山時代、武将たちは、旗幟鮮明にし、権謀術数を尽くして都市と都市が戦う、階級闘争、下剋上の時代。エリザベス朝演劇のように、復讐が繰り広げられた。正義を奪う者に対する復讐、『ハムレット』『テンペスト』、復讐劇に彩られた世界。織田信長の弟、信勝は、なぜ、信長を2度、殺しにきたのか。
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【バロックと戦国】織田信長は、戦場で揚羽模様の陣羽織を纏って指揮した。信長は、西洋甲冑を着て、世界制覇を狙うイエズス会士フランシスコ・カブラルと対峙。宣教師から武器調達、タイ製弾丸。1563年ルイス・フロイス来日、1571年レパントの海戦、1575年長篠の戦、石山本願寺戦争1570-80、「宣教師の征服計画」秀吉、グネツキ・オルガンティノ、高山右近説得(聖イグナシオ洞窟教会)、国友の火縄銃、石山戦争終結。「われは神である」信長、1582年本能寺の変。
1598年9月13日、ハプスブルグ帝国フェリペ2世の死後、5日後に、秀吉は死ぬ。
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【思想家のことば 孔雀のプライド】孔雀は、人前でその美しい尾羽根を隠す。これは、孔雀の矜持と呼ばれる。孔雀のような動物でもそうなのだから、わたしたちは人間として、一層の慎みと矜持を持つべきである。『善悪の彼岸』
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戦国の美しい姫は、政略結婚の道具に過ぎない、天下人に嫁ぎ、戦乱の狭間に散る、城とともに死す。
【織田信長、絶世の美女、生駒吉乃】信長の嫡男、信忠、五徳、信雄を生む。信忠、本能寺の変で二条城にて自刃。徳姫、家康の嫡男、松平信康に嫁ぐ、信康死に、76歳まで生きる。織田信雄は徳川家康とともに豊臣秀吉と戦う。信雄72歳で死す、信長の血を残す。
【信長の妹、戦国一の美貌、お市】美女の娘は美女、浅井三姉妹、茶々(淀)、初、江。豊臣秀吉の寵愛を受けた淀、京極高次の正室・初、徳川秀忠の正室・江。大坂夏の陣1615年(慶長20年)で、淀君と豊臣秀頼は、大阪城炎上とともに死ぬ。
【千姫、家康の孫、政略結婚】秀忠の正室・江の娘。千姫は、家康の命で、7歳で豊臣秀頼に嫁入り。夏の陣で、祖父、家康の命令で救出される。
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【千姫、本多忠刻に2度目の嫁入り】江戸に送り届けられる途中、七里の渡し船中で、桑名城主本多忠刻に一目惚れ、家康が千姫の気持ちを汲んで本多忠刻と結婚。翌年、元和3年(1617)本多忠政が姫路城主となり、千姫には10万石の化粧料が与えられ、 姫路城西の丸御殿で幸福な日々を過ごす。長男の幸千代はわずか3歳で病没、さらに夫の忠刻もその数年後病で世を去り、千姫の二度目の結婚生活わずか11年。この時、千姫は30歳。江戸に戻った千姫は、仏門に入って天樹院と称し、寛文6年(1666)2月、70歳の生涯を終えた。
【姫路城】池田輝政、信長の家臣、池田恒興の二男。織田、豊臣、徳川に仕える。
慶長5年(1600)天下分け目の関ケ原の合戦で軍功をあげ、家康の娘婿でもある池田輝政が播磨一国52万石の大大名となって姫路城主となって築城。池田輝政は大坂城と豊臣恩顧の西国大名に備えるため、家康の支援の下、慶長6年(1601)から姫路城の大改築に着工、慶長14年(1609) 完成。姫路城は城郭建築の技術の粋を結集、五層七階の大天守と三層の小天守が連結した本丸、二の丸、大規模で防備と造形美を兼備した名城。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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展示作品の一部
陣羽織 黒鳥毛揚羽蝶模様 織田信長所用  安土桃山時代・16世紀 東京国立博物館蔵
腰から上の部分をすべて山鳥の毛で覆った陣羽織。信長の家紋といわれる揚羽蝶の模様には、山鳥の白い羽毛を一本一本刺しこんだ上で、カッティングを施しています。衿や裾には 南蛮風の襞(ひだ)が施され、外国趣味だった信長の趣向がうかがえます。戦国武将たちは、珍しい素材で突飛な技術を用いて比類ない衣装を誂え、その勇姿を誇示しました。
陣羽織淡茶地獅子模様唐織豊臣秀吉所用 安土桃山時代・16世紀 東京国立博物館蔵
獅子が駆ける姿をいきいきと織り出した唐織で仕立てた陣羽織。衿には戦国武将が好んだヨーロッパ産の猩々緋の羅紗が用いられています。華やかで豪壮な意匠を好んだ秀吉にふさわしい1領です。
重要文化財
縫箔 白練緯地四季草花四替模様 安土桃山時代・16世紀 京都国立博物館蔵
全身を4つに区切った大胆な構成は「四替(よつがわり)」と称され、安土桃山時代を象徴する流行デザインの1つでした。梅模様が春、藤の花房が夏、紅葉が秋、雪持笹が冬を表わします。地を埋め尽くすように、黄緑や紅といった明るい色調の絹糸で刺繡しています。
重要文化財
小袖 黒綸子地波鴛鴦模様 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵
腰部分を空けて弧を描くような躍動的なデザインが、町方の経済力を背景に寛文期(1661-1673)に流行しました。大胆に孤を描く網干(あぼし)模様は、波のようにデフォルメされ、また筍のようにも見える、遊び心を感じさせるデザインです。
重要文化財
振袖 紅紋縮緬地束熨斗模様 江戸時代・18世紀 京都・友禅史会蔵
熨斗模様(のしもよう)そのものも豪華ですが、熨斗の一筋一筋に施された友禅染の繊細な色挿しは、江戸時代中期における最高の友禅染の技術を駆使しています。
前期展示 4月14日(火)~5月10日(日) 京都・友禅史会蔵
重要文化財 小袖 白綾地秋草模様 尾形光琳筆 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵
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参考文献
特別展「きもの KIMONO」・・・織田信長の陣羽織「黒鳥毛揚羽蝶模様」、戦国一の美女と落城
https://bit.ly/2NRghXr
織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
https://bit.ly/39FAMQc
織田信長、元亀の争乱。武田信玄の死。絶世の美女、生駒吉乃
https://bit.ly/2oacbQH
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/3gqTr5n
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日本の美意識を色と模様に表わした「きもの」。その原型である小袖(こそで)は、室町時代後期より、染や刺繡、金銀の摺箔(すりはく)などで模様を表わし、表着(おもてぎ)として花開きました。きものは、現代に至るまで多様に展開しながら成長し続ける日本独自の美の世界を体現しています。
本展では、信長・秀吉・家康・篤姫など歴史上の著名人が着用したきものや、尾形光琳直筆の小袖に加え、狩野秀頼「観楓図屏風」「婦女遊楽図屏風(松浦屏風)」きものが描かれた国宝の絵画作品、 さらに現代デザイナーによるきものなど約300件の作品を一堂に展示。800年以上を生き抜き、今なお新たなファッション・シーンを繰り広げる「きもの」を、現代を生きる日本文化の象徴として展覧し、その過去・現在・未来を見つめる機会とします。
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1987
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特別展「きもの KIMONO」、東京国立博物館 平成館にて、2020年6月30日(火)から8月23日(日)まで

2020年1月21日 (火)

「出雲と大和」東京国立博物館・・・大海人皇子、大王から天皇へ

Izumo2020
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第205回
出雲の大国主から大和王権へ国譲りは何を意味するのか。七支刀は、一言でいうと、何なのか。泰和4年369年、百済王から倭王への贈物。その形は何を意味するのか。銅鐸、銅鏡は王権を意味するのか。7世紀、天武はなぜ天皇を名のったのか。残虐王、武列天皇の死、皇統断絶は何を意味するのか。
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7世紀、壬申の乱以前には天皇は存在しない。天武(大海人皇子)が初めて、大王から天皇へ称号を変え自称。大海人皇子は、天智天皇が定めた近江大津宮から飛鳥浄御原宮に遷都し天武天皇として即位する。飛鳥池工房遺跡から天皇号を記す木簡が発見され「大王」ではなく初めて「大皇」を名乗る。
【天武、史書編纂を命じる】天武10年(681)、天武の命を受けた川島皇子、皇親6名と中臣大嶋ら官人6名、計12人よって編纂が着手され、養老4年(720)舎人親王が元正天皇に奏上した。元正天皇の父は天武天皇の皇子草壁皇子、母はその妃阿閇皇女。坂本勝『図説 古事記と日本書紀』p16. 210
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【蘇我と物部の権力闘争】敏達14(585)年、蘇我馬子、仏塔建立。物部守屋、仏塔、仏殿を焼く。
【天皇制、階級制、中央集権国家の起源】推古11(608)年、厩戸皇子、冠位十二階。推古30(622)年、厩戸王子、死す。蘇我入鹿、山背大兄王を斑鳩宮に襲撃、自害させる。
【乙巳の変】乙巳の変(645.6)、中大兄皇子、蘇我入鹿を殺害、蝦夷を自殺に追いつめる。氏姓制度を廃止。豪族から天皇家に権力を集中。天智天皇の弟、大海人皇子は大友皇子を殺害。天武天皇として即位。『日本書紀』は、勝者の史書、天武朝の史書、壬申の乱を精確に記せず。
【壬申の乱】671年12月、天智が亡くなると大海人皇子は挙兵を決意する。大友皇子の即位を阻止する。壬申の乱で大友皇子を死に追いつめ自害させた大海人皇子。
【壬申の乱】天武天皇元年6月24日—7月23日(672年7 月24日—8月21日)に起こった古代日本最大の内乱。 乱の経過。660 年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇。671年、大友皇子を太政大臣にする。(『日本書紀』には大海人皇子「皇太弟」。研究者は、大海人皇子の立太子そのものを『日本書紀』の創作とする)
【『日本書紀』壬申紀】「壬申の乱」を知るには、『日本書紀』壬申紀に依存せざるを得ないが、これは「勝者の歴史書」であり必ずしも真実ではない。「壬申の乱は、天武元年六月、大海人皇子が挙兵を決意してから、わずか二ヶ月で、奇跡的に勝利した戦い。
【天智と大海人皇子と額田王の三角関係】額田王は、はじめ大海人皇子の妻として十市皇女を生んだが、後に天智の後宮に入った。紫の匂(にほ)へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも 『万葉集』巻1、20、21 坂本勝『図説 万葉集』p44
【大和王権の成立、4世紀、古墳時代】【国譲り】出雲から大和へ権力の移行。出雲の大国主は、国譲り、幽事に専念する。大和の天孫は、顕露事を司る。『日本書紀』第2巻
【石上神宮、物部氏の神社】*下記参照。
【邪馬台国の卑弥呼、日本史上最大の謎】倭の女王は、238年、中国の魏に貢物と親書を携えた使者を遣わす。『三国志』魏志倭人伝。
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展示作品の一部
重要文化財 赤糸威肩白鎧、室町時代・15~16世紀 島根・出雲大社蔵 [前期展示]
重要文化財 宇豆柱うづばしら島根県出雲市 出雲大社境内遺跡出土、鎌倉時代・宝治2年(1248) 島根・出雲大社蔵
国宝 銅鐸、島根県雲南市 加茂岩倉遺跡出土 弥生時代・前2~前1世紀、文化庁蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)
国宝 銅剣・銅鐸・銅矛島根県出雲市 荒神谷遺跡出土 弥生時代・前2~前1世紀、文化庁蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)
円筒埴輪、奈良県桜井市 メスリ山古墳出土 古墳時代・4世紀
国宝 七支刀、古墳時代・4世紀 奈良・石上神宮蔵
重要文化財 画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡、奈良県天理市 黒塚古墳出土 古墳時代・3世紀、文化庁蔵(奈良県立橿原考古学研究所保管)
重要文化財 持国天立像、飛鳥時代・7世紀 奈良・當麻寺蔵
重要文化財 浮彫伝薬師三尊像飛鳥~奈良時代・7~8世紀 奈良・石位寺蔵
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【「七支刀」石上神宮・・・謎の刀。百済からの贈物。類例がなく意味不明。】
国宝「七支刀」(泰和4年369年、古墳時代・4世紀 奈良・石上神宮蔵 全長74.8㎝)
七支刀は、鹿の角のような形状が有名である。謎の刀。
刀身の両面に金象嵌された61文字の銘文がある。泰□四年□月十六日丙午正陽造百錬鋼七支刀□辟百兵宜供供候王□□□□作 (表)
先世以来未有此刀百済□世□奇生聖音故為倭王旨造□□□世 (裏)
中国の東晋の年号である「太和」「泰和」、西暦369年説が有力。銘文の意味は、
泰和4年丙午正陽、百錬の鋼の七支刀を作った。百兵を避けることができる。先世以来このような刀は未だ存在しない。百済王の太子が倭王のためにこの七支刀を作った。
石上神宮
石上神宮の国宝七支刀と物部氏の布留遺跡
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★参考文献
「国宝 大神社展」・・・謎の七支刀
https://bit.ly/2sxqYrc
図録「出雲と大和」2020
坂本勝『図説 古事記と日本書紀』2009
坂本勝『図説 万葉集』2009
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令和2年(2020)は、我が国最古の正史『日本書紀』が編纂された養老4年(720)から1300年という記念すべき年です。その冒頭に記された国譲り神話によると、出雲大社に鎮座するオオクニヌシは「幽」、すなわち人間の能力を超えた世界、いわば神々や祭祀の世界を司るとされています。一方で、天皇は大和の地において「顕」、すなわち目に見える現実世界、政治の世界を司るとされています。つまり、古代において出雲と大和はそれぞれ「幽」と「顕」を象徴する場所として、重要な役割を担っていたのです。
「幽」と「顕」を象徴する地、島根県と奈良県が当館と共同で展覧会を開催し、出雲と大和の名品を一堂に集めて、古代日本の成立やその特質に迫ります
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1971
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日本書紀成立1300年「出雲と大和」東京国立博物館1月15日(水)~3月8日(日)

2019年8月11日 (日)

「円山応挙から近代京都画壇へ」・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺

Oukyokindai2019
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』189回
真夏の灼熱の森を歩いて藝大美術館に行く。真夏の森の中、大乗寺の黄金の襖絵の空間にて瞑想すると、事事無礙法界、『因陀羅網』の境地(『即身成仏義』)に到るのか。高野山真言宗、大乗寺の黄金襖は圧巻である。
【大乗寺襖絵】円山応挙(1733-95)が一門十三人を率いて制作した兵庫香美町の大乗寺襖絵は、各室の空間全体を構成した傑作。165面。黄金襖は圧巻。「松に孔雀図」(1795)は、金屏風に墨一色で描かれた異彩を放つ屏風絵である。与謝蕪村の高弟だった呉春が担当した「群山露頂」は蕪村風の叙情性が色濃いが、8年後の「四季耕作図」には応挙の影響が強い。円山応挙、最晩年の境地に見たものは何か。
【円山応挙の謎】円山応挙は、なぜ、階級社会の中で、亀岡の農民の子から一級の絵師になることができたのか。円山応挙は、なぜ、死の年、一門十三人を率いて、大乗寺襖絵を描いたのか。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』  
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【農家の子から尾張屋】亀岡の農家に生まれた応挙は、京都に丁稚奉公に出て暮らす。15歳の時に玩具屋の尾張屋勘兵衛の世話になる。ビードロや覗き眼鏡を扱っていた尾張屋の元で、応挙は覗き眼鏡に使われる遠近が効いた眼鏡絵を描いた。
【狩野派から円山派】円山応挙は、狩野派の石田幽汀に学んだ、一方、西洋由来の遠近法の眼鏡絵、中国絵画の影響も受け、後に綿密な写生と伝統的な装飾性をあわせた独自の様式を確立した。応挙の元では息子の応瑞や山口素絢、長沢芦雪ら多くの絵師が育った。虎の絵を得意とする岩派、竹内栖鳳、上村松園に受け継がれていく。応挙の画風に南画の情趣を融合させて四条派を確立した呉春。円山・四条派の全容に迫る展覧会。
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展示作品の一部
円山応挙、重要文化財「松に孔雀図」(全16面のうち4面)寛政7年(1795)兵庫・大乗寺蔵 東京展のみ・通期展示
円山応挙、重要文化財「牡丹孔雀図」明和8年(1771)京都・相国寺蔵 京都展のみ・半期展示
円山応挙、重要文化財「写生図巻(甲巻)」(部分)明和8年~安永元年 (1771-72)株式会社 千總蔵 東京展:後期展示 京都展:半期展示
長沢芦雪、「薔薇蝶狗子図」寛政後期頃 (c.1794-99)愛知県美術館蔵(木村定三コレクション) 東京展:前期展示 京都展:半期展示
岸竹堂、「猛虎図」(右隻)明治23年(1890) 株式会社 千總蔵 東京展:前期展示 京都展:半期展示
円山応挙、重要文化財「保津川図」(右隻)寛政7年(1795) 株式会社 千總蔵 東京展:後期展示 京都展:半期展示
円山応挙、「狗子図」安永7年(1778) 敦賀市立博物館蔵 東京展:後期展示 京都展:半期展示
円山応挙、重要文化財「松に孔雀図」(全16面のうち4面)寛政7年(1795) 兵庫・大乗寺蔵 京都展のみ・通期展示
円山応挙、重要文化財「郭子儀図」(全8面のうち4面)兵庫・大乗寺蔵 京都展のみ・通期展示
円山応挙、重要美術品「江口君図」寛政6年(1794) 静嘉堂文庫美術館蔵 東京展のみ・前期展示
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参考文献
「円山応挙から近代京都画壇へ」求龍堂
時代が愛したリアリズム 「円山応挙から近代京都画壇へ」:朝日新聞
http://www.asahi.com/event/DA3S14119151.html
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18世紀、江戸時代中期から後期にかけて、京都で活躍した絵師・円山応挙。写生画による親しみやすい表現は京都で多大な影響力を持ち、「円山派」を確立した。応挙からはじまり、近世から近代にかけて引き継がれてきた画家たちの系譜をたどる。
与謝蕪村に学んだのち、応挙に師事した呉春によって「四条派」が誕生すると、その後ふたつの流派を融合した「円山・四条派」が京都で主流となり、日本美術史の中で重要な位置を示すようになる。
亀岡の農家に生まれた応挙は、京都に丁稚奉公に出て暮らす。15歳の時に玩具屋の尾張屋勘兵衛の世話になる。ビードロや覗き眼鏡を扱っていた尾張屋の元で、応挙は覗き眼鏡に使われる遠近が効いた眼鏡絵を描いた。
応挙は「ものを見て描くこと」、写生をはじめる。実際に自分が見たものを、見えた通りに絵に表現していく方法は、京都画壇に新たな風を吹き込み、瞬く間に大きな影響を持つようになる。その後も写生を重んじる伝統は、近代になっても円山・四条派の重要な特性として受け継がれた。「応門十哲」の中には奇想の系譜で有名になった長沢芦雪も含まれた。
江戸時代、京都では、伝統的な流派である京狩野、土佐派をはじめとして、池大雅や与謝蕪村などの文人画、近年一大ブームを巻き起こした伊藤若冲や曽我蕭白、岸駒を祖とする岸派や原在中の原派、大坂でも活躍した森派など、様々な画家や流派が群雄割拠のごとく特色のある画風を確立していました。しかし、明治維新以降、京都画壇の主流派となったのは円山・四条派でした。円山・四条派とは、文字通り円山派と四条派を融合した流派。
円山派の祖である円山応挙が現れたことで京都画壇の様相は一変しました。応挙が得意とした写生画は画題の解釈を必要とせず、見るだけで楽しめる精密な筆致が多くの人に受け入れられ、爆発的な人気を博しました。京都の画家たちはこぞって写生画を描くようになり、応挙のもとには多くの門下生が集まって、円山派という一流派を形成しました。
四条派の祖である呉春は、初め与謝蕪村に学び、蕪村没後は応挙の画風を学んだことで、応挙の写生画に蕪村の瀟洒な情趣を加味した画風を確立しました。呉春の住まいが四条にあったため四条派と呼ばれたこの画風は、弟の松村景文や岡本豊彦などの弟子たちに受け継がれ、京都の主流派となりました。呉春が応挙の画風を学んでいる上、幸野楳嶺のように円山派の中島来章と四条派の塩川文麟の両者に師事した画家も現れたこともあり、いつの頃からか円山派と四条派を合わせて円山・四条派と呼ぶようになりました。
応挙・呉春を源泉とする円山・四条派の流れは、鈴木百年、岸竹堂、幸野楳嶺等へと受け継がれ、それぞれの門下から、近代京都画壇を牽引した竹内栖鳳、山元春挙、今尾景年、上村松園等を輩出しました。彼らは博覧会や、日本で初めての公設美術展覧会である文部省美術展覧会で活躍し、全国に円山・四条派の名を広めました。一方で、栖鳳たちは、自身の塾や、教鞭を執った京都府画学校や京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校で多くの近代京画壇の発展に資する後進たちを育てています。
東京藝術大学大学美術館
https://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2019/maruyama-shijo/maruyama-shijo_ja.htm
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★「円山応挙から近代京都画壇へ」
東京藝術大学大学美術館、8月3日(土)~9月29日(日)
京都国立近代美術館11月2日(土)~12月15日(日)

2019年2月21日 (木)

「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」・・・世に背を向け道を探求する、孤高の藝術家

Kisou2019大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第173回
孤高の道を歩きつづければ、一つの道となる。道は金剛界を生み出す。世に背を向けて道を探求する、孤高の藝術家。媚びず、妥協せず、諦めず、絶望を超えて、理想を求めて歩きつづける。思想家が、孤高の道を歩きつづければ、一つの道となる。道は金剛界を生み出す。名誉、利益、地位を求めず、独自の道を歩く孤高の藝術家。運命の永劫回帰を超える藝術家の精神。
「古の人は道の為に道を求め、今の人は名利の為に求む。名の為に求むるは、道を求むる志にあらず。道を求むる志は、己を忘るる道法なり。」「「また秘蔵の奥旨は、文を得ることを貴ばず。ただ心を以って心に伝うるなり。文はこれ糟粕、文はこれ瓦礫、糟粕と瓦礫を受くれば、則ち粋実と至実とを失う。真を棄てて偽を拾うは、愚人の法なり。」 空海『答叡山澄法師求理趣釈経書』『弘法大師 空海全集』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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世に埋もれ歴史の闇に隠れた藝術家たち。闇の中に輝く光。闇は闇で追い払うことはできない。闇を追い払うのは光である。
【精緻な生命界の画家、伊藤若冲】
若冲(1716—1800)は、35歳の時、相国寺にて、僧、大典顕常(1719年—1801年)に出会う。京都の青物問屋の長男として生まれ、23歳で家業を継ぎ、40歳で家督を弟に譲り画業に専念する。40代前半から『動植綵絵』を10年の歳月をかけて完成する(宝暦7年頃1757年から明和3年1766年)。「千載具眼の徒を竢つ」(伊藤若冲)。千年の後、具眼の士が現われるのを待つ。
若冲の名の由来は、「大盈若冲、其用不窮」『老子』45章。大きく盈ちるは欠けるがごとく、その用は窮まらず。
伊藤若冲は、1000点以上、宋元画を臨写(模写)する。文正「鳴鶴図」、陳伯沖「松上双鶴図」を研究して「白鶴図」を描いた。
【陽明学左派の画家、曾我蕭白】
曽我蕭白(1730—1781)は、十七歳の時、天涯孤独になり、筆一本で生きるべく絵師を志した。蕭白は、京都の陽明学左派の思想に影響を受け、異端。史上類をみない独創的、創造的藝術を生みだした。卓越した技術をもちながら奇想の極致、『群仙図屏風』を創出した。
『群仙図屏風』1764年、曽我蕭白35歳の作。『群仙図屏風』は日本美術史上類をみない奇想天外な絵画。右隻から、袋に薬草の枝を入れた医師董奉(扁鵲)、簫を吹く簫史、八仙の一人李鉄拐と呂洞賓。左隻に、不気味な子供を連れた林和靖、水盤から魚を取り出す左慈、美人に耳垢を取らせる蝦蟇仙人、彼らを虚ろな表情で眺めている西王母。仙人、唐子、鶴や鯉など不老長寿を願う象徴が散りばめられている。
【滅ぼされた戦国武将の子、岩佐又兵衛】運命の永劫回帰を超える精神の絵巻
織田信長に謀反し滅ぼされた戦国武将・荒木村重の子。美貌の母は、磔に処される。岩佐又兵衛(1578—1650)、一族滅亡後、母方姓「岩佐」を名乗り、京都で絵師として修業する。北庄(福井)に移住し、20余年を過ごした。寛永14年(1637)、三代将軍徳川家光の娘千代姫の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移住、そこで波乱に満ちた生涯を終える。大和絵と漢画双方の高度な技術を完璧に修得、どの流派にも属さない個性的な感覚、後の絵師に大きな影響を与えた。
『山中常盤物語絵巻』は、義経の母、常盤御前が盗賊に殺され、母の仇討を果たす義経の物語。自分の母と義経の母、常盤御前の執念のドラマ。『洛中洛外図屏風』の人間模様は、浮世絵の祖と言われる。運命の永劫回帰を超える精神の絵巻。
【痙攣する老梅の枝、狩野派の異端児、狩野山雪】
狩野山雪(1589-1651)。16歳で狩野山楽の門人となり、その娘と結婚し養子となった。山楽没によって後を嗣ぎ、京狩野派の第二代となる。探幽ら江戸狩野派の繁栄で狩野派内で孤立化した。疑いを着せられ投獄されて、その2年後に没した。蛇足軒・桃源子の号をもつ。絵画は、大胆な構図、形象の追求、意匠性の強い造形、極めて特異な様相をしめしている。
山雪『老梅図襖』は山雪『群仙図襖』と表裏をなしていた。『老梅図』の構図は、山雪が生みだした曲線と直線の織りなす空間美である。梅の古木は、生命力と運命が戦いをくり広げているようで、うねるような、渦巻くような枝ぶりが美しい。
山雪の草稿を子の永納が完成させた、狩野永納『本朝画史』は日本のヴァザーリ『藝術家列伝』である。
【琳派の彼方へ、鈴木其一】
鈴木其一(1796—1858)。18歳で酒井抱一に弟子入り、尾形光琳に私淑した江戸琳派の祖、酒井抱一の忠実な弟子として代作もつとめた。師の没後は個性的な作風を探求した。自然の景物を人工的に再構成する画風は、師抱一の瀟洒な描写とは一線を画す。群青と緑の美しい『夏秋渓流図屏風』、白銀の『風神雷神図襖』は、19世紀琳派の域を超えて、現代美術のデザインに到達する。
【円山派の異端、長沢芦雪】
長沢芦雪(1754—1799) 。京都・篠山の下級武士の子として生まれ、円山応挙に師事。応挙が創った写生画法を忠実にたどる弟子がほとんどだが、大胆な構図と才気あふれる奔放な筆法で独自の画境を追求。
【幕末浮世絵、海に暴れる源為朝、歌川国芳】
歌川国芳(1797—1861)。江戸本銀町生れ。文政末期「通俗水滸伝豪傑百八人之壷個」シリーズで人気。役者絵の国貞、風景画の広重と並び、武者絵の国芳として第一人者となる。戯画、美人画、洋風風景画にも発想の豊かな近代感覚を取り込む。役者絵や風刺画を得意とする。『讃岐院眷属をして為朝を救う図―鰐鮫』『宮本武蔵の鯨退治』、大胆な構図が得意技である。
【白隠慧鶴】
白隠慧鶴(1685—1768) 。臨済宗中興の祖と呼ばれる禅僧。駿州原宿(現在の沼津市)に生まれ、15歳のときに出家。「不立文字(言葉に頼るな)」といわれる禅宗において、白隠は夥おびただしい数の禅画や墨跡を遺している。仏の教えを伝える手段として描かれたユーモラスで軽妙、かつ大胆な書画は、蕭白、芦雪、若冲など18世紀京都画壇・奇想の画家たちの起爆剤となった。(「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」図録)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
伊藤若冲『象と鯨図屏風』寛政7年、1795年 紙本墨画 六曲一双
伊藤若冲《旭日鳳凰図》宝暦5年(1755)、宮内庁三の丸尚蔵館、【展示期間:2/9~3/10】
曽我蕭白《雪山童子図》明和元年(1764)頃、三重・継松寺蔵
曽我蕭白《群仙図屏風》重要文化財、明和元年(1764) 文化庁、【展示期間:3/12~4/7】
曽我蕭白 重要文化財『唐獅子図』明和元年(1764)頃 三重・朝田寺
狩野山雪『梅花遊禽図襖』寛永8年(1631)京都・天球院
岩佐又兵衛 重要文化財『山中常盤物語絵巻 第四巻』静岡・MOA美術館
鈴木其一『百鳥百獣図』天保14年(1843年)米国・キャサリン&トーマス・エドソンコレクション
鈴木其一『夏秋渓流図屏風』六曲一双、19世紀、根津美術館
歌川国芳『讃岐院眷属をして為朝を救う図―鰐鮫』『宮本武蔵の鯨退治』
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参考文献
若冲展、東京都美術館・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
https://bit.ly/2FWbP7L
蕭白ショック!!曾我蕭白と京の画家たち・・・狂狷の画家、蕭白
https://bit.ly/2NhRBFv
伊藤若冲、アナザーワールド・・・若冲の水墨画
https://bit.ly/2LPQEmr
「若冲と蕪村」・・・黄昏の美術館
https://bit.ly/2RN7FRm
「名作誕生、つながる日本美術」東京国立博物館・・・美の系図、創造のドラマ
https://bit.ly/2ri7dz5
妙心寺展・・・禅の空間、近世障屏画の輝き
https://bit.ly/2OACxXq
「大琳派展―継承と変奏」東京国立博物館・・・絢爛たる装飾藝術、16世紀から18世紀
https://bit.ly/2oRTDSh
ボストン美術館 日本美術の至宝、東京国立博物館・・・美の宴
https://bit.ly/2C5NsU6
辻惟雄『奇想の系譜』1970『奇想の図譜』1989
「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」図録
「生誕300年記念、若冲展」図録
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美術史家・辻惟雄氏(1932-)が、今から約半世紀前の1970年に著した『奇想の系譜』。本展はその著作に基づいた、江戸時代の「奇想の絵画」展の決定版です。『奇想の系譜』で採り上げられたのは、それまで書籍や展覧会でまとまって紹介されたことがなかった、因襲の殻を打ち破った、非日常的な世界に誘われるような絵画の数々でした。
本展では、同書で紹介された、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳に、白隠慧鶴、鈴木其一を加えた8人の作品を厳選したラインナップになっています。
近年の「若冲ブーム」、「江戸絵画ブーム」、ひいては「日本美術ブーム」の実相をご存知の方も、またこの展覧会ではじめて魅力的な作品に出会うことになる方にも、満足いただける内容を目指しました。奇想天外な発想にみちた作品の数々を紹介し、現代の目を通した新たな「奇想の系譜」を発信する本展において、江戸絵画の斬新な魅力をご堪能ください。
幻想の博物誌:伊藤若冲(1716-1800)
醒めたグロテスク:曽我蕭白(1730-1781)
京のエンターテイナー:長沢芦雪(1754-1799)
執拗なドラマ:岩佐又兵衛(1578-1650)
狩野派きっての知性派:狩野山雪(1590-1651)
奇想の起爆剤:白隠慧鶴(1685-1768)
江戸琳派の鬼才:鈴木其一(1796-1858)
幕末浮世絵七変化:歌川国芳(1797-1861)
https://www.tobikan.jp/exhibition/2018_kisounokeifu.html
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★「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」、東京都美術館、2月9日(土)~4月7日(日)
https://www.tobikan.jp/exhibition/2018_kisounokeifu.html

2018年7月24日 (火)

「縄文-1万年の美の鼓動」・・・狩猟人の行動様式

Jomon_2018大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第152回
1万3000年前から紀元前1000年まで、1万年間つづいた縄文文化。縄文人は狩猟人、獲物を求めて旅した。縄文人は、弓矢と陥し穴仕掛けで狩猟した。陥し穴は獲物をしとめる仕掛け装置、縄文草創期まで遡る。陥し穴は獣の道に沿って予め計画的に配置した。
縄文土器(Cord marked Pottery)は世界的にも類例がなく独創的。
火焰型土器の4つの角、鶏冠隆起は何を意味するのか。焼町土器のうねる波紋は何を意味するのか。遮光器土偶の目は何を意味するのか。縄文のヴィーナス、縄文の女神、仮面の女神。縄文人はなぜ女性像を作ったのか。ギリシア、エーゲ海を旅した日々を思い出す。エーゲ海文明最古級の「キュクラデス文明の竪琴奏者」はBC2700年である。縄文人は、狩猟採集し移動した。狩猟の成功を祈って儀式、呪術を行ったのか。現代の狩猟人、シュールリアリスムの藝術家の女性像を思い出す。*ポール・デルヴォー「眠れるヴィーナス」Paul Delvaux, Venere dormiente,1944
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
国宝「火焰型土器」新潟県十日町市 笹山遺跡出土 縄文時代(中期)・前3000~前2000年 新潟・十日町市蔵(十日町市博物館保管)
重要文化財「遮光器土偶」 青森県つがる市木造亀ヶ岡出土 縄文時代(晩期)・前1000~前400年 東京国立博物館蔵
土偶「縄文のビーナス」(縄文時代中期(前3000〜前2000年)、長野県茅野市棚畑遺跡出土、茅野市蔵、尖石縄文考古館保管)
土偶「縄文の女神」(縄文時代中期(前3000〜前2000年)、山形県舟形町西ノ前遺跡出土、山形県蔵、山形県立博物館保管)
土偶「仮面の女神」(縄文時代後期(前2000〜前1000年)、長野県茅野市中ッ原遺跡出土、茅野市蔵、尖石縄文考古館保管)
土偶「合掌土偶」(縄文時代後期(前2000年〜1000年)、青森県八戸市風張1遺跡出土、八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館蔵)
土偶「中空土偶」(縄文時代後期(前2000〜前1000年)、北海道函館市著保内野遺跡出土、函館市蔵、函館市縄文文化交流センター保管)
「焼町土器」(国重要文化財)縄文中期(前3000〜前2000年)、御代田町
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土偶の目的は、1狩りの成功、2安産、3死者の再生復活。祈りであると考えられる。
「縄文のビーナス」(縄文時代後期、棚畑遺跡出)。棚橋遺跡は、当時交易の中心地だった。
矢じり、黒曜石は、長野県産。棚畑遺跡出「翡翠」は「新潟産」。「琥珀」は「千葉県銚子産」。「瀬戸内海周辺で作られた土器」も棚橋遺跡で出土している。(『縄文時代の美 日曜美術館』2018年7月22日)
*「ヴィレンドルフのヴィーナス:Venus of Willendorf」は2万4000年~2万2000年前頃旧石器時代につくられた。スティアトパイグス型(steatopygous臀部突出)の女性像。
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縄文人、弥生人
縄文人は、鋭い矢で動物を射る。弥生人は、農耕し定住し、殺人を行う。弥生時代になると貧富の差が生じ「戦争」概念が入る。縄文時代は弥生時代に比べて殺傷人骨例が圧倒的に少ない。縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期まで6期に分けられる。
縄文人はホモ・サピエンス人の遺伝子をもつ。「新人(ホモ・サピエンス)が15万年前にアフリカ大陸に生まれ、その後世界各地に散らばって行ったことも証明された。人類の祖は大きく3つのグループに分かれてアフリカを旅立ったが、その3つの遺伝子すべてが、日本列島にやってきた。日本人の先祖はロシアのバイカル湖から南下してきた」松本秀雄『日本人は何処から来たか』NHKブックス
「バイカル湖畔から南下し華北に暮らしていたD系統だが、漢民族の圧迫から逃れるためにさらに南下し日本列島にやってきて、縄文人の中核を形成した。弥生時代に渡来した人々は長江流域で水稲栽培をしていたO系統。やはり、漢民族に滅ぼされて逃れてきた」。崎谷満『新日本人の起源 神話からDNA科学へ』勉誠出版
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参考文献
「古代ギリシア、時空を超える旅」東京国立博物館・・・永遠を旅する哲学者
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-30a1.html
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-62f4.html
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縄文時代が始まったとされる約1万3000年前。狩猟や漁撈、採集を行っていた縄文時代の人びとが、日々の暮らしのなかで工夫を重ねて作り出したさまざまな道具は、力強さと神秘的な魅力にあふれています。東京国立博物館
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★「特別展 縄文」東京国立博物館 7月3日-9月2日

2018年5月 3日 (木)

「名作誕生、つながる日本美術」東京国立博物館・・・美の系図、創造のドラマ

20180413大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第145回
春爛漫、百花繚乱、紫の躑躅咲く森を歩いて、花の匂い漂う、夕暮れの博物館に行く。煌めく宗達筆「扇面散屏風」、雪舟筆「四季花鳥図屛風」、超絶技巧と色彩の魔術の若冲筆「雪梅雄鶏図」、等伯筆「山水松林架橋図襖」。藝術家の至高の美の空間が蘇る。
奈良時代の一木彫像から、雪舟、宗達、若冲、等伯、光琳、顔輝、岸田劉生まで。
絢爛豪華な美の系図。空前絶後、前代未聞の比較展示。卓越した巨匠の空間。中国、日本の美の変奏と系譜。「夫レ美術ハ国ノ精華ナリ」。
藝術はなぜ、創造されるのか。なぜ生み出されたのか。死に至るまでつづけられる創作の秘密。藝術家の格闘のドラマ。巨匠たちの、剽窃、模倣、継承、変形、兆戦、創造への果てしない格闘。
雪舟の部屋、宗達の部屋、若冲の部屋。充溢した濃密な巨匠の空間に佇む。異界の空間。藝術は、異界への扉。創作の秘密を解き明かす、巨匠と巨匠の美の系図。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より

若冲展示室で佐藤康宏氏に会う。「若冲は、努力家、天才ではない。文正、陳伯沖を研究した」「名作はたんに天才によって創造されるのではない。巨匠の傑作は天才によって構築されるのではない」
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雪舟等楊は、玉㵎を学び「破墨山水図」を描き、呂紀を学び「四季花鳥図」を描く。狩野元信は雪舟等楊筆と呂紀を学び「四季花鳥図」を描く。
俵屋宗達は「平治物語絵巻」六波羅合戦巻断簡を複製、再構成して「扇面散屏風」を制作した。
伊藤若冲筆は、文正「鳴鶴図」、陳伯沖「松上双鶴図」を研究して「白鶴図」を描いた。
長谷川等伯は、能阿弥筆「三保松原図」、自作「山水松林架橋図襖」をへて、「松林図屛風」に到達する。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
大久保正雄『藝術家と運命との戦い、運命の女』
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【雪舟、47歳の時、遣明船で明に渡る】雪舟(等楊)は備中国に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防国に移る。山口に初めて来たのはまだ拙宗を号としていた1455年頃、28代大内教弘の時代。雪舟47歳の時、1467年、大内氏の遣明船に乗り、念願の明に渡る。明で画の勉強を終えた雪舟は、1469年に帰国し日本各地を転々とした。1483年再び山口に戻り、雲谷庵に定住。創作活動にすべてを注ぎ、1486年、最高傑作「山水長巻」を山口で完成。1506年87歳でこの世を去る。画風は、弟子達に受け継がれ、「雲谷派」と呼ばれる。【雪舟】(応永27年( 1420年)—永正3年8月8日( 1506年))岡山県総社市の宝福寺での小僧時代、涙で鼠を描いた逸話が有名である。*狩野永納『本朝画史』(1693年)。雪舟は、玉㵎を模倣して「破墨山水図」(室町時代1495)を描く。「破墨山水図」は、雪舟が1495年、76歳に制作し弟子の如水宗淵に与えた山水画。東京国立博物館所蔵。雪舟自身の長文の自題がある。自題の中に「破墨の法」を明で学んだと述べているのでこの名があるが技法的には「溌墨山水」。「破墨山水図」自序の中で、雪舟は、かつて中国へ渡り、李在と長有声に画を学んだ、日本では如拙、周文の画を受け継ぐことなどを述べ、如水宗淵のために画学の系譜を明らかにする。
【俵屋宗達、扇絵】17世紀は俵屋宗達とその工房の活躍期。仮名草子「竹斎」元和年間(1615~24)に記された俵屋は、扇絵制作を得意とする絵屋であり、宗達自身 による扇面画も複数残る。宗達や俵屋工房による扇面画、特に扇面屏風類の現存遺例、醍醐寺『扇面貼交屏風』二曲一双が有名である。
【本阿弥光悦と宗達】俵屋宗達は、本阿弥光悦と同時代人。*光悦(永禄元年(1558年)生まれ、寛永14年(1637年)2月3日没)。1602年(光悦44歳)、光悦は厳島神社の寺宝『平家納経』の修理にあたって宗達をチームに加える。50代になった光悦は俵屋宗達との「合作」に取り組み始める。才能と才能の共同制作、『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』。光悦は時の将軍徳川家光に「天下の重宝」と言わしめた書の達人。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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★展示作品の一部
国宝「普賢菩薩騎象像」平安時代・12世紀 大倉集古館蔵
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雪舟等楊筆「倣玉㵎山水図」室町時代・15世紀 岡山県立美術館蔵
雪舟等楊筆「倣夏珪山水図」室町時代・15世紀 山口県立美術館蔵
雪舟等楊筆 国宝「破墨山水図」室町時代・15世紀、東京国立博物館蔵
雪舟等楊筆「四季花鳥図屛風」室町時代・15世紀、京都国立博物館蔵
呂紀筆「四季花鳥図」明時代、15-16世紀
狩野元信「四季花鳥図」室町時代・16世紀
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「平治物語絵巻」六波羅合戦巻断簡 1幅、13世紀、東京国立博物館蔵
俵屋宗達筆「扇面散屏風」17世紀 三の丸尚蔵館
伝俵屋宗達筆「扇面貼交屛風」江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵
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文正「鳴鶴図」元明時代、14世紀、相国寺
陳伯沖「松上双鶴図」明時代、16世紀、大雪院
狩野探幽「波濤飛鶴図」江戸時代・17世紀1654年、 京都国立博物館蔵
伊藤若冲筆「白鶴図」江戸時代・18世紀
伊藤若冲筆「雪梅雄鶏図」江戸時代・18世紀 京都・両足院蔵
伊藤若冲筆「仙人掌群鶏図襖」江戸時代・18世紀 大阪・西福寺蔵
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能阿弥筆「三保松原図」室町時代・15—16世紀、
長谷川等伯筆「山水松林架橋図襖」4面、安土桃山時代・天正17年1589年 樂美術館蔵
長谷川等伯筆 国宝「松林図屛風」安土桃山時代・16世紀 東京国立博物館蔵
菱川師宣筆「見返り美人図」17世紀東京国立博物館蔵
顔輝「寒山拾得図」元時代14世紀
岸田劉生「野童女」1922
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参考文献
若冲展、東京都美術館・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-2b1d.html
「若冲と蕪村」・・・黄昏の美術館
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-7705.html
「京都―洛中洛外図と障壁画の美」・・・幻の花の都
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-97ee.html
長谷川等伯展・・・荒寥たる自然と生命の美
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-33b2.html
「大琳派展―継承と変奏」東京国立博物館・・・絢爛たる装飾藝術
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-c300.html
『没後500年特別展「雪舟」』(図録、東京国立博物館2002年)
「大琳派展―継承と変奏」東京国立博物館2008
「京都―洛中洛外図と障壁画の美」東京国立博物館2013
「長谷川等伯展」東京国立博物館2010
生誕300年記念「若冲展」東京都美術館2016
「ボストン美術館 日本美術の至宝」東京国立博物館2012
ボストン美術館肉筆浮世絵展「江戸の誘惑」江戸東京博物館、2006年
「北斎展」東京国立博物館、2005年10月25日(火)~12月4日(日)
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=476
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★創刊記念『國華』130周年・朝日新聞140周年「名作誕生、つながる日本美術」
東京国立博物館4月13日-5月27日
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1889
http://meisaku2018.jp/index.html