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日本美術史

2025年12月20日 (土)

「国宝 熊野御幸記と藤原定家の書―茶道具・かるた・歌仙絵とともに―」・・・御子左家の戦い、孤高の詩人、俊成・定家

Mitsui-2025
Mitsui-2-2025 
Mitsui-1-2025
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第413回
 幻想の美、達磨歌(禅問答のような難解な歌)を詠う、藤原定家でさえ、母、美福門加賀を偲ぶ哀傷歌には、真情が溢れている。玉響(たまゆら)の露も涙もとどまらず亡き人恋ふる宿の秋風(新古今788)哀傷歌。*一一九三年7月二日亡母を偲び詠歌。二月十三日定家母没。
新古今歌人は、鹿を歌った。本阿弥光悦、俵屋宗達『鹿下絵新古今和歌巻』17世紀を思い出す。奥村土牛《鹿》、上村松篁《白孔雀》をみると、亡き母の愛犬、トイプードル、緑紅のダルマインコを思い出す。
藤原定家39歳と後鳥羽上皇20歳の出会い。
藤原俊成、人生の黄金時代の頂点に死す、80から90歳。
後鳥羽上皇(1180-1239)、隠岐の島にて、59歳で死す。
藤原定家、『新古今和歌集』49首、『近代秀歌』『明月記』、80歳で死す。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【六条藤家と御子左家との戦い】【御子左家】藤原道長の六男、藤原家長を祖とする家系。俊成・定家により対立していた六条藤家を圧倒し、歌壇の中心となった。
【六条藤家】平安末期から鎌倉初期にかけて栄えた和歌の家系。京都六条烏丸に住んだ藤原顕季あきすえを祖とし、顕輔あきすけ・清輔・顕昭けんしょうなどすぐれた歌人・歌学者を出した。趣向を重んじる歌風で、藤原俊成・定家の御子左みこひだり家と対立したが、南北朝時代に断絶。
藤原定家(1162-1241)、苦節の前半生、80歳で死す。
定家は、下級官人の家柄に生まれだが、上級貴族の末席にまで辿りついた。父は大歌人、藤原俊成(1162-241)だが、県知事にあたる「国司」を歴任する地位にとどまり、国司は金持ちだが、地方職なので高い位階は得られない。一度国司に任官すると、地方暮らしが続き、中央で要職に就ける可能性がなくなる。宮中の栄達を望んだ定家は、父親とは違い、都にとどまり、当時、藤原北家の頂点であった九条家に仕え、辛抱強く昇進の機会をうかがい、晩年に「参議」という官職を得て、上級貴族への仲間入りを果たす。朝廷内で成功。
定家が若かった頃、源平の戦いが勃発したが、その際に彼は『明月記』日記に、「紅旗征戎、吾が事に非ず」という言葉を残した。
【『明月記』、「紅旗征戎、吾が事に非ず」18歳から73歳】
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【後鳥羽上皇と藤原定家】
【後鳥羽天皇(1180-1239)、安徳天皇入水、宝剣を失った天皇】
後鳥羽天皇(1180-1239)は、建久9年(1198)譲位して院政を敷いた。上皇は、和歌に興味を持ち始め、正治2年(1200)8月、『初度百首』を催し、定家は作者の一人に呼ばれた。定家は建仁元年(1201)6月『千五百人歌合』に百首歌を詠進、7月、和歌所寄人を拝命した。10月、上皇の「熊野行幸」を拝命。定家は「面目過分」と名誉としながらも、「虚弱体質」呼吸器疾患に苦しみ悩んだが、建仁元年(1201)10月5日、上皇に随行した定家の旅日記「熊野御幸記」を書く。
【後鳥羽上皇、院政(1198-1221)】
1201和歌所を設置。1205『新古今和歌集』竟宴。第八勅撰和歌集。以後も切り継ぎ。「隠岐本」。九条兼実らの親幕派と対抗。幕府討伐を目指す。北条義時に挙兵1221年、承久の乱、挙兵して敗北。隠岐に配流される。
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【藤原俊成と藤原定家】
藤原定家(1162-1241)は、藤原俊成(1162-241)の長男、歌道の後継者と期待される。安元3年(1177年)定家は疱瘡にかかって二度目の大病を経験し、以降しばしば呼吸器疾患に苦しむ肉体的に虚弱な体質となるとともに、神経質で感情に激する傾向が現れる。
文治元年(1185年)11月末に新嘗祭の最中に殿上で少将・源雅行に嘲笑されたことに激怒し、脂燭を持って雅行の顔を殴ったため、勅勘を受けて除籍処分を受ける事件を勃発。これに対して、翌文治2年(1186年)3月に俊成が後白河法皇の側近である左少弁・藤原定長に取りなしを依頼したところ、法皇から赦免の返歌があった。俊成の赦免嘆願の書状は現存しており、重要文化財に指定されている(香雪美術館所蔵。1201年、後鳥羽上皇の和歌所寄人を勤め、新古今和歌集選者に選ばれる。
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【藤原俊成(1114-1204)】人生の黄金時代の頂点に死す、90歳。
【六条藤家と御子左家との戦い】
永久2年(1114年)⁻元久元年11月30日(1204年12月22日)。10歳で父と死別し、鳥羽院近臣であった義兄 藤原顕頼の後見を得て国司を歴任したが、位階は18年間従五位下のまま停滞した。天承・長承期(1131~35年)、岳父藤原為忠が主催する2度の「為忠家百首」へ出詠するなど詠作を本格的に始め、保延4年(1138年)藤原基俊に師事。
崇徳天皇の知遇を得る一方、美福門院の乳母子である美福門院加賀[定家の母]と再婚し、久安元年(1145年)以降、美福門院の御給により昇叙されるようになる。
安元3年(1177年)に藤原清輔が没し、治承2年(1178年)九条兼実と初めて会談、九条家歌壇に師として迎えられ「右大臣家百首」などを詠進する。寿永2年(1183年)後白河院の院宣を受け、文治4年(1188年)第七勅撰集『千載和歌集』を撰進、名実ともに歌壇の第一人者となった。文治5・6年(1189・90年)には皇大神宮・春日・賀茂・住吉・日吉の5社に百首歌を奉納(「五社百首」)。建久4・5年(1193・94年)頃成立した「六百番歌合」(九条良経主催、俊成加判)で、六条藤家と御子左家の歌人たちがその威信をかけて激突。
正治2年(1200年)以降歌壇を形成した後鳥羽院の命により「正治初度百首」「千五百番歌合百首」等を詠進。建仁元年(1201年)和歌所寄人、建仁2年(1202年)「千五百番歌合」の春歌第三・四巻の判者を務める。建仁3年(1203年)後鳥羽院より九十賀宴を賜り、鳩杖・法服等を贈られる。元久元年(1204年)秋「祇園社百首」、11月10日「春日社歌合」と最後まで詠作を続け、同年11月30日91歳で生涯を閉じた。
藤原定家「明月記」全巻展示、五島美術館で見たのは20年前。
【承久の乱、後鳥羽上皇、北条義時】承久の乱1221、北条義時追討の院宣。三浦義村は、三浦胤義の手紙を義時に提出、弟の反逆には同心しない。後鳥羽上皇挙兵の報に動揺する御家人に対して北条政子は「故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い」演説『吾妻鏡』
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後鳥羽上皇と鎌倉幕府との戦い
【承久の乱、天皇家に武家が勝つ、原因】3上皇追放。承久3(1221)年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の最高権力者、北条義時の追討を命じた。承久の乱以後、約650年続く武士の世ができあがる。御家人たちの忠誠の対象は自分たちの利益を守ってくれる頼朝であって朝廷ではない。後鳥羽上皇、19年、島流し、59歳
上皇方が尾張河で幕府軍に敗れると、後鳥羽・土御門(つちみかど)・順徳の3上皇、仲恭 ... 京都では,親幕派の九条兼実一派が宮廷から追放され,古代権力回復を画策する。
【鎌倉幕府、『吾妻鑑』、粛清の嵐、13人の運命】後白河法皇、平清盛、安徳天皇入水、源義朝、源頼朝、源義経、藤原秀衡、藤原泰衡、梶原景時、比企能員、上総広常、源頼家、北条時政、北条義時、実朝「八幡宮大階段」、公暁、北条泰時、後鳥羽上皇「承久の乱」、義時暗殺伊賀氏の変、三浦義村
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【藤原道長1027年62歳で死去】晩年1027年、後一条天皇に嫁いだ娘の中宮威子が懐妊する慶事(威子は皇女を出産)。同年、三条天皇の皇后・娘の藤原妍子、嘱望されながらも若くして出家した三男の藤原顕信が次次亡くなる
【藤原道長、三后、独占】1018年10月16日。藤原道長は、三女・藤原威子の立后(後一条天皇に入内)の日に「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」との有名な歌を詠み、道長が三后(皇后・皇太后・太皇太后)をすべて自分の娘で占める【紫式部41歳で死す】式部の娘、賢子83歳で死す。2位、位人臣を極める。
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展示作品の一部
藤原定家筆「国宝 熊野御幸記」1201年。自ら悪筆と言う【定家様】
藤原定家筆「大嘗会巻」、藤原道長(966~1027)の時代に活躍した藤原実資さねすけ(957~1046)の藤原定家筆日記『小右記しょうゆうき』から長和元年(1012)の大嘗会の記録を定家が筆写したもの、初公開。また、定家の歌切や消息、3幅の藤原定家画像も今回が初公開。【なぜ、定家は、藤原実資『小右記』大嘗会巻を筆写したのか】藤原実資(957-1046)のように、宮廷で立身出世したかった。
以上の作品については、蔵品図録『国宝 熊野御幸記と藤原定家の書』
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参考文献
「国宝 熊野御幸記と藤原定家の書―茶道具・かるた・歌仙絵とともに―」・・・御子左家の戦い、孤高の詩人、俊成・定家
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/12/post-f78257.html
新古今歌人、乱世に咲く花 美への旅  - 大久保正雄『地中海紀行 旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第70回 新古今歌人P32—37
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藤原定家筆「国宝 熊野御幸記くまのごこうき 」が久方ぶりに全巻披露されます。合わせて館蔵品の中から藤原定家の書を選んで展示されます。なかでも「大嘗会巻だいじょうえかん」は、三井記念美術館では初公開になります。また、定家の歌切うたぎれや消息しょうそく、3幅の藤原定家画像も今回が初公開のものです。年末年始にふさわしく、茶道具やかるた・歌仙絵とともに和歌の世界にも遊べる展示内容となっています。
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国宝 熊野御幸記と藤原定家の書―茶道具・かるた・歌仙絵とともに―
三井記念美術館(東京都中央区日本橋室町2-1-1 三井本館7階)
会期:12月6日(土)〜2026年2月1日(日)まで開催中

2025年8月27日 (水)

「没後50年 髙島野十郎展」・・・空海の密教思想への傾倒

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第404回

高島野十郎、田中一村、孤高の人は何を求めたのか。
水産学を究めることを嘱望されたが辞退。独学で念願の絵の道に入り、孤高の人生を歩き、85歳で、千葉にて死す。写実を追求した画家の謎。
【高島野十郎(1890-1975)】最も美しい作品は何か。
《蝋燭》大正期、福岡県立美術館蔵、《絡子をかけたる自画像》大正9(1920)年、福岡県立美術館蔵、《からすうり》昭和10(1935)年、福岡県立美術館蔵、《すいれんの池》昭和24(1949)年以降、福岡県立美術館蔵、《満月》昭和38(1963)年頃、東京大学医科学研究所蔵、《月》昭和37(1962)年、福岡県立美術館蔵
【高島野十郎】1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年)9月17日)本名は彌壽、字は光雄。東京帝国大学水産学科を首席卒業、恩賜の銀時計拝受を辞退。水産学を究めることを嘱望されたが辞退。独学で念願の絵の道に入り、画壇との付き合いを避け、独身を貫く。透徹した精神性でひたすら写実を追求、隠者のような孤高の人生を送った。貧困と孤独を極め、85歳で死す。生前はほぼ無名、1986年に福岡県立美術館が初の回顧展が開かれた。『傷を負った自画像』1916。
学生時代から親交がある川崎狭『過激なる隠遁 高島野十郎評伝』は「画家は本来の人生を生きるために人生を捨てたのである」と言う。自身の天職と生活の方法とが矛盾することは、公輝ある者の運命か。
参考文献
「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」・・・孤高の画家、人生の光芒、彼岸への旅

http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/09/post-236a16.html
「没後50年 髙島野十郎展」・・・空海の密教思想への傾倒
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-fc2837.html
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より

大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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青年時代からの空海の密教思想への傾倒を読み解き
髙島野十郎と密教思想を読み解いた人はいない。
空海の密教思想を読み解くためには、『秘密曼荼羅十住心論』(830)、『即身成仏義』819-820、【五智如来】を解明しなければならない。
【空海『聾瞽指帰』(797)】兎角公の屋敷で兎角公の甥蛭牙公子・放蕩青年を翻意、亀毛先生は儒教学問を学び立身出世することを教え、虚亡隠子は道教の不老長寿を教え、空海の化身である仮名乞児は仏教の諸行無常と慈悲を教える。空海が大学寮明経科退学、官僚の立身出世を諦めた理由。
【空海『秘密曼荼羅十住心論』(830) 】
淳和天皇の詔勅(天長6)による。日本には諸宗派があり、各の宗派がどのように違い、どのように優れているのか、論じるようにという詔勅である。空海は『大日経』の住心品を中心にして『十住心論』を書いた。
第九住心 極無自性心
 「水は自性なし、風に遇うてすなわち波たつ。法界は極にあらず、警を蒙って忽ちに進む。」華厳宗では四種法界を説く。その四種の一つが事法界、普通の物事がそのままあり。それが平等だというのが理法界。事と理が一緒になったのが事理無礙法界で、最後は事事無礙法界。
事法界、理法界、両者を止揚した、無自性・空界と現象が共存する理事無礙法界、事物が融通無碍に共存する事々無礙法界に到達する。毘盧遮那仏と一体になる融通無碍の境地。
『華厳経』の蓮華蔵世界である。
第十住心 秘密荘厳心
 「顕薬塵を払い、真言、庫を開く。秘宝忽ちに陳じて、万徳すなわち証す。」顕薬は塵を払うが、真言は秘密の宝の庫を開く。大日如来、真言密教の境地。秘密荘厳心では、智法身と理法身、知性(ノエーシス)と思惟対象(ノエーマ)、金剛界と胎藏界が一体融合して、
【空海『即身成仏義』819-820】六大無碍にして常に瑜伽なり(体)四種曼荼各離れず(相)三密加持すれば速疾に顕はる(用)重重帝網なるを即身と名づく(瑜伽)法然に薩般若を具足して、心数・心王、刹塵に過ぎたり、各五智・無際智を具す、円鏡力の故に実覚智なり(成仏)
【空海『秘蔵宝鑰』序830】
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に、死んで死の終わりに冥し」
悠々たり悠々たり太(はなは)だ悠々たり、内外の縑緗(けんしょう) 千万(せんまん)の軸(じく)あり。杳杳たり杳杳たり 甚だ杳杳たり。
空海【五智如来】
大日如来を中心に、阿閦・宝生・無量寿(阿弥陀)・不空成就(釈迦)が東西南北囲む配。大日如来:法界体性智(大日如来の絶対的な知恵)阿摩羅識=第9識。阿閦如来:大円鏡智:阿頼耶識=第8識。宝生如来:平等性智:末那識=第7識。
空海【五智如来】大日如来を中心に、阿閦・宝生・無量寿(阿弥陀)・不空成就(釈迦)が東西南北囲む配。大日如来:法界体性智(大日如来の絶対的な知恵)阿摩羅識=第9識。阿閦如来:大円鏡智:阿頼耶識=第8識。宝生如来:平等性智:末那識=第7識。無量寿如来:妙観察智(よく観察して見極める知恵)意識 第6識。不空成就如来:成所作智(すべきことを成就させる知恵)前5識(眼識、耳識鼻識、舌識、身識)、五感(眼、耳、鼻、舌、身)による感覚作用。
【瑜伽行唯識学派、世親】「唯識三十頌」「唯識二十論」。「唯識三十頌」では八識説を唱え、種子は前五識から6識・意識、7識・末那識を通過して、8識・阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識である種子生現行。阿頼耶識縁起
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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心に火を灯すロウソク。浄土へと導く月明かり。無名のまま世を去り、近年、人気が高まる #髙島野十郎 。「写実の極致は慈悲」謎めいた言葉を残し、唯一無二の写実を追求した画家の生涯に迫る。
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千葉県立美術館、没後50年 髙島野十郎展 プレスリリースより
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/exhibition/events/event-7689/
髙島野十郎(1890-1975)は、福岡県久留米市出身で主に東京で活動し、晩年千葉県柏市に移り住んだ洋画家で、「蝋燭(ろうそく) 」や「月」などの主題を、細部までこだわった筆致で描きました。没後50年の節目を機に開催する本展は、これまでに開催されてきた髙 島野十郎展を超える最大規模の回顧展です。代表作はもちろんのこと、 彼の芸術が形成されたルーツを遡り、生涯にわたって自身のよりどころとしてきた仏教的思想を読み解きつつ、青年期や滞欧期の作品など、従来の展覧会では大きく取り上げられることがなかった部分にもスポットを当てます。さらに、野十郎や関係者による書簡や日記、メモ等の資料をもとに、彼がひとりの人間としてどのように生き、 周囲とどのような関係を築いて絵かきとしての歩みを進めたかという部分にも注目し、野十郎の人間像にも改めて迫ります。野十郎は、71歳の時に当時まだ田畑が広がる静かな田園地帯であった柏市増尾に移り住み、晴耕雨読ならぬ晴耕雨描の生活を送りました。彼は訪ねてきた姪に「ここは俺のパラダイスだ」と語ったといいます。千葉の海もまた、絵の題材として彼の心を掴みました。野十郎終焉の地であり、月や海など彼を魅了した豊かな自然のある千葉 で、野十郎の絵画世界に思う存分浸っていただけるまたとない機会です。
千葉県立美術館、
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/exhibition/events/event-7689/
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没後50年 髙島野十郎展
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展示作品の一部
《空》昭和23(1948)年以降、個人蔵
《満月》昭和38(1963)年頃、東京大学医科学研究所蔵
みどころ①過去最大規模、初公開作品も含めた約150点を公開!
代表作の多くを含む過去最大規模で、初公開作品も含めた約150点を展示します。没後50年の節目に開催する本展は、過去に幾度となく開催されてきた髙島野十郎展を超える過去最大規模の回顧展です。野十郎の作品のほか、青木繁や坂本繁二郎など同時代の野十郎と関係深い作家の作品も展示します。
《ティーポットのある静物》昭和23(1948)年以降、福岡県立美術館蔵
みどころ②作品における仏教的思想や、青年期・滞欧期などの画業初期に注目
野十郎の芸術を象徴し、多くの方に人気を博している「蝋燭」や「月」の作品はもちろんのこと、彼の芸術が形成されたルーツを遡り、野十郎が生涯、自身のよりどころとしてきた空海の密教思想を読み解きつつ、青年期や滞欧期の作品など、従来の展覧会ではそれほど大きく取り上げられることがなかった部分にもスポットを当てます。
《からすうり》昭和10(1935)年、福岡県立美術館蔵
《月》昭和37(1962)年、福岡県立美術館蔵
みどころ③「孤高の画家」像を解体し、野十郎の素朴な人間像に迫る
福岡県立美術館が所蔵している書簡や日記、メモ等の関連資料を読み解き、関係者の証言を集めることで、彼がひとりの人間としてどのように生き、周囲とどのような関係を築き、絵かきとしての歩みを進めたかという部分にも注目し、野十郎の人間像にも改めて迫ります。
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展示構成
プロローグ 野十郎とは誰か
髙島野十郎の画業が世に初めて知られたのは、彼の死後約10年を経た昭和61(1986)年でした。以来、いくつかの展覧会や書籍で紹介されたとはいえ、多くの人の目に触れてきたわけではありません。そこでこの章では、髙島野十郎の人と作品についての全体像を概観します。
《絡子をかけたる自画像》大正9(1920)年、福岡県立美術館蔵
《ノートルダムとモンターニュ通Ⅱ》昭和7(1932)年頃、福岡県立美術館蔵
《蝋燭》大正期、福岡県立美術館蔵
第1章 時代とともに
青木繁や坂本繁二郎、古賀春江など、交流のあった作家や同時代の画風を共有した作家の作品も紹介しながら、野十郎が写実の画風を確立させていく道程を同時代の美術の中で捉え、従来の「孤高の画家」像を解体します。
第2章 人とともに
野十郎と、東京帝国大学からの友人や画家仲間、文化人、著名人との関係やエピソードを作品や資料で紹介し、彼の人間関係や人となり、人生観に迫ります。
《筑後川遠望》昭和24 (1949)年頃、福岡県立美術館蔵
第3章 風とともに
ヨーロッパ留学中の風景画や日本全国を旅して描いた四季の風景画を展示し、制作や構図の一貫性を提示するとともに、最新の調査結果を紹介します。
第4章 仏の心とともに
野十郎が生涯よりどころとしていた仏教に注目し、寺社仏閣をダイレクトに描いたもののほか、青年時代からの空海の密教思想への傾倒を読み解き、霊場巡りへの関心のなかで訪れた場所を描いた風景画、さらには一見すると普通の静物画や風景画に込められた仏教的な考え方を紹介します。
《割れた皿》昭和23(1948)年以降、福岡県立美術館蔵
エピローグ 野十郎とともに
本展全体を振り返りながら、もう一度野十郎の作品と世界観に浸っていただく章とします。展覧会を通して揺らぎ、あるいは膨らんだ野十郎像を、ふたたび見つめなおし、身近に野十郎を体感してみてはいかがでしょうか。
《秋陽》昭和42(1967)年、福岡県立美術館蔵
その他の主要な展示作品
《すいれんの池》昭和24(1949)年以降、福岡県立美術館蔵
《睡蓮》昭和50(1975)年、福岡県立美術館蔵
《こぶしとリンゴ》昭和41(1966)年頃、福岡県立美術館蔵
《さくらんぼ》昭和31(1956)年頃、福岡県立美術館蔵
《犬吠埼》昭和10年代、福岡県立美術館蔵
本展は、没後50周年を記念した過去最大規模の記念碑的な回顧展。初公開となる作品を含めて、約150点が披露されます。さらに書簡や日記、メモ等の関連資料を読み解き、特にこれまであまり焦点が当たってこなかった青年期や滞欧期など画業初期の活動もクローズアップ。従来の「孤高の画家」というイメージだけでは捉えきれない、画家の知られざる一面に光をあてた意欲的な展示内容。
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没後50年 髙島野十郎展
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/exhibition/events/event-7689/
千葉県立美術館 第1・2・3・8展示室(千葉市中央区中央港1-10-1)
2025年7月18日(金)~9月28日(日)
アクセス:JR京葉線または千葉都市モノレール「千葉みなと」駅から徒歩約10分

2025年8月11日 (月)

相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第403回
「老子」第45章。梅荘顕常、伊藤若冲、織田信長。
 若冲の才能をいち早く見出し、絵の世界へ導き若冲の名を与えたのが相国寺第113世住持の梅荘顕常である。梅荘顕常は若冲という号を与えた。
「大盈(大きく盈ちる)は冲(むな)しきが若く」大成は欠くるが若く、其の用は敝きず。大盈は冲(むな)しきが若く、其の用は窮(きわ)まらず。大直は屈するが若く、大巧は拙なきが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。燥は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静は天下の正たり。「老子」第45章。
大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章。
織田信長が、天正の元号を命名したのは、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章。
梅荘は若冲に中国絵画を模写する機会を与え、さらに「若冲」という画号を授けた。近世の相国寺の文化に殷賑を極める、独特の絵画表現を完成する。
「千年、具眼の士を待つ」「理解する士が現れるまで 千年のときを待つ」と言った伊藤若冲)。若冲と親交深く画家としての活動を支えたのが、詩僧として名を馳せた相国寺の僧、梅荘顕常、梅荘の弟子であった維名周奎(いめいしゅうけい)は若冲に画を学び、画僧として活躍した。若冲作品と同時に、その魅力を開花させた背景は何か。
伊藤若冲「乗興舟」「動植綵絵」を完成させた直後の明和4年(1767)春、親友である相国寺の禅僧・大典と共に京の伏見から大坂の天満橋まで川下りをした時の風景を描写した 長大な画巻。拓版画と呼ばれる、ネガフィルムのように白と黒が反転した技法。漆黒の空に記される白抜きの詩文と巻末の跋文は、大典の筆跡。若冲は下絵を制作した後、そこに記す文を大典に依頼した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、伊藤若冲「旭日鳳凰図」(1755)
「旭日鳳凰図」(1755)、原型はどこにあるのか。
伊藤若冲の鳥の目と顔は不気味。その原型はどこにあるのか。「旭日鳳凰図」(1755)から始まる鳥の探求。『動植綵絵』30幅 宝暦7年(1757年)頃?明和3年(1766年)頃、若冲41歳から、50歳に、不気味な鳥の目が描かれている。
『鳳凰石竹図』林良筆に原型がある。
『鳳凰石竹図』林良筆、明時代、16世紀
林良(りんりょう、15-16世紀、生没年不詳)は、精彩な着色の花鳥画を得意とし、鳥や樹石の水墨画では、力強く素早い筆致が「草書の如き」と評された。水墨による《鳳凰石竹図》では、鳳凰の尾羽や土坡にその草書的筆致が見られ、素早い筆致ながら精緻さをも保つ。羽を逆立てた首の表情は、まるで樹木の葉のようでもあり、その首自体の細さも相まって、異様な造形を成している。雪舟をはじめその後の日本画家に影響を与えた筆致や特異な造形表現には、伊藤若冲が描いた奇想の原点をみる。
『百鳥図』伝辺文進筆 中国・明時代 15世紀 鹿苑寺
壮大な吉祥図。中央に描かれている鳳凰は百鳥の王とされ、鳳凰が飛べば群鳥たち皆これに従うと言われてきた。金閣寺の屋根から相国寺文化圏の隆盛を長らく見守ってきたのも鳳凰である。花鳥画には、吉祥の意味が込められている。鳳凰は、中国の伝説上の鳥で百鳥の中の王とされ、その表情は愛らしく、手塚治虫の「火の鳥」を連想させる。
伊藤若冲「乗興舟」楽しかった大坂への旅「動植綵絵」を完成させた直後の明和4年(1767)春、親友である相国寺の禅僧・大典と共に京の伏見から大坂の天満橋まで川下りをした時の風景を描写した 長大な画巻。拓版画と呼ばれる、ネガフィルムのように白と黒が反転した技法。漆黒の空に記される白抜きの詩文と巻末の跋文は、大典の筆跡。若冲は下絵を制作した後、そこに記す文を大典に依頼した。
【伊藤若冲『動植綵絵』30幅 宝暦7年(1757年)頃∸明和3年(1766年)頃】
若冲41歳から、50歳まで10年間描く。
生誕300年、若冲展、東京都美術館・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
2、円山応挙『牡丹孔雀図』1771
円山応挙は、なぜ、『牡丹孔雀図』を描いたのか。
円山応挙『牡丹孔雀図』1771。牡丹は花の王、仏法を守る孔雀。孔雀明王神咒経、孔雀は毒を食う。三毒、貪瞋痴、むさぼること、いかること、愚痴、愚かなこと、毒を喰う、仏法を守る孔雀。【孔雀明王、快慶】金剛峰寺、正治二年(1200年)。
【孔雀明王像、快慶、正治二年(1200) 金剛峯寺】後鳥羽法皇の御願で1200年に造立。孔雀の背に乗る絵画的な姿を表現。孔雀明王は人間の天敵・コブラを食べその害から守ってくれるところから無病息災の信仰を集め明王ながら菩薩の尊顔で表現される。
【伊藤若冲と円山応挙は、同時代人】自身の天職と一家の方針とが矛盾する。
若冲と応挙の合作、『竹鶏・梅鯉図屛風』18世紀、個人蔵が、2024年発見された。
【伊藤若冲と円山応挙】江戸時代、階級社会の厳格な世で、封建制度の身分を捨て、絵師の道を選ぶことができたのは、なぜか。
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3、空海、宮沢賢治 自身の天職と一家の方針とが矛盾する
【空海の苦悩】父は佐伯直田公、母は阿刀家の阿古屋【大学寮入学】延暦10年(791)18歳で大学寮明経科に入学【大学寮中退】延暦11年(792)空海19歳。官僚の出世を諦め山林修行【19歳から31歳まで謎の12年】私度僧から遣唐使へ(797)二十四歳『聾瞽指帰』
【空海と阿刀大足】母方の阿刀[あと]氏は帰化系民族で、外舅[がいきゅう]の【阿刀大足】は桓武天皇の皇子、伊予親王の侍講として従五位にあたる。空海は十二歳から十五歳まで国学(大学の一種)大足に論語、孝経、史伝、文学などを学ぶ。
【最澄と空海】延暦23年(804)第16次遣唐使。遣唐使船の第二船に、38歳の還学生・最澄、第一船に、31歳の留学生20年の長期留学生の空海が乗船。最澄はエリート官僚、桓武天皇の官度僧、還学僧。雲泥の差、私度僧。空海、なぜ、留学僧に選ばれたか不明〈伯父の阿刀大足
【空海と不空】不空は、空海(774~835)の師、恵果の師、不空金剛(705~774)『理趣釈経』の著者。空海は不空金剛の生まれ変わりという伝説がある。不空訳『理趣釈』を最澄が借覧を願い出たが、空海は借覧拒否。「叡山ノ澄法師理趣釈経ヲ求ムルニ答スル書」814
【宮澤賢治、妹トシの苦悩】日本女子大卒業論文と一生の仕事について、妹トシ(21歳)は賢治(22歳)に相談した「理想を申し上ぐるならば兄上様ご自身の天職と一家の方針とが一致する事が何よりも望まれ候」『妹トシの手紙、大正7年11月24日』大正11年1922、11月27日午後8時半、肺結核で死去。宮澤賢治、昭和8年死去。
「妹トシから宮沢賢治への手紙は1通だけ存在する』『年表 作家読本 宮沢賢治』山内修、1989
1924(大正13)年『心象スケッチ 春と修羅』序より「春と修羅」、「無声同国」
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参考文献
相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』
生誕300年、若冲展・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
https://bit.ly/2FWbP7L
「円山応挙から近代京都画壇へ」・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺
https://bit.ly/2KEGwyj
禅-心とかたち、東京国立博物館・・・不立文字
https://bit.ly/3IVCj7B
「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人
https://bit.ly/2OAhnsz
妙心寺展・・・禅の空間 、近世障屏画の輝き
https://bit.ly/2OACxXq
相国寺展―金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・無の宗教と雪舟、若冲、円山応挙
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/04/post-57cb8d.html
相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-b12f39.html

2025年5月 5日 (月)

国宝の名刀と甲冑・武者絵 三井家の五月人形・・・刀剣の美、曲線美、直刃と乱刃、沸と匂

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第399回
刀剣の美、曲線美、刃文の美、直刃と乱刃、沸と匂
刀剣の美は、曲線美である。波紋の美しさは、直刃と乱刃。乱刃には流派の特徴あり。小乱、丁子乱、互の目、湾れ。小乱は、平安・鎌倉時代初期、丁子乱は鎌倉時代中期、互の目は鎌倉時代末期以来、各流派、室町時代に流行する。刃文の美、沸は砂のように粒子状、匂は粒子が細かく霞に見える。三井記念美術館。
刀剣を作る巨匠は、人を切る武器を作る職人ではない。権力者が愛する刀剣は、王から王者へと、権力者から権力者へと伝えられる。
織田信長は、名刀・義元左文字を所持。足利義政伝来の曜変天目茶碗を所持したが、本能寺の変で焼亡した。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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「国宝 日向正宗」正宗作 鎌倉時代・14 世紀 刀剣乱舞の刀。
豊臣秀吉から石田三成に下賜、関ケ原役で水野日向守勝成が入手した
「日向正宗」は、石田三成が妹婿福原直高に与え、関ケ原役で水野日向守勝成が手に入れたことによる。元は秀吉が所持し、その後石田三成に下賜された。正宗短刀の筆頭にあげられる名刀。相州伝の二人の傑作が2つの展示室で見られる。

「国宝 徳善院 貞宗」貞宗作 鎌倉~南北朝時代・14 世紀 
貞宗は、正宗の実子とも養子とも伝えられますが、豊臣秀吉が所持し、五奉行の一人前田徳善院玄以が拝領したところから、「徳善院 貞宗」と呼ばれました。その後徳川家康、紀州徳川家、西条松平家へと伝わり、おそらく近代になってから三井家に伝わりました。
【正宗】正応~嘉暦年間の相模の刀工。岡崎五郎入道正宗、岡崎正宗、岡崎五郎入道。日本刀剣史上もっとも著名な刀工の一人。「相州伝」と称される作風を完成し、多くの弟子を育成した。「長谷川忠右衛門刀工系図」や「古刀銘尽大全」では文永元年(1264年)生まれ、康永2年(1343年)81歳で没。
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権力者には、分析家指揮官型・織田信長。番人型・徳川家康。日本は官僚型。建築家・アクエンアテン王、建築家・ラメセス2世は、分析家グループ。冒険家クレオパトラ7世は、探検家グループ。
【人生の舞台、16の性格】外交官グループ、提唱者、仲介者、主唱者、広報運動家。番人グループ、管理者、擁護者、幹部、領事官。探検家グループ、巨匠、冒険家、起業家、エンターテイナー。分析家グループ、建築家、論理学者、指揮官、討論者。人生の舞台、自分の必殺技をどう披露
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これまで見た刀剣
【ラムセス大王展、古代エジプト中王国時代の王女の墓で見つかった短剣】3900年ほど前のエジプト王女の墓から見つかった短剣。柄の部分が美しい、ラピスラズリ 有村元春
ラメセス2世の糸杉で作られた木棺
【大覚寺展】鬼切丸、髭切丸
清和源氏に代々受け継がれてきた「兄弟刀」として伝えられる重要文化財、大覚寺所蔵の「太刀 銘 □忠(名物 薄緑<膝丸>)」と、北野天満宮所蔵の「太刀 銘 安綱(名物 鬼切丸<髭切>)」が、京都以外では初めてそろって展示。
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「太刀 銘 □忠(名物 薄緑<膝丸 >)」と「太刀 銘 安綱(名物 鬼切丸<髭切>)」は、平安時代中期(10世紀)、清和源氏の祖・源経基の嫡男である源満仲が、勅宣により天下守護の太刀を求め、異国からきた刀工が八幡神の加護を受けてつくりあげたと伝えられている。その後は、そのときどきに起きた霊異譚(れいいたん)によって名を変えながら、所持者を勝利に導く存在として源氏に代々受け継がれてきた。
重要文化財「太刀 銘 □忠(名物 薄緑<膝丸>)」
源満仲、頼光、義経などの清和源氏に代々受け継がれてきた「薄緑」および「膝丸」という伝承の太刀。源満仲は平安時代中期の武士であり、藤原摂関家と密接に結びつき、清和源氏の発展の基礎を築いた。太刀は長大で力強い刀身を持ち、細やかに乱れた刃文が焼き入れられており、鎌倉時代初期の備前刀の作風が認められる。
重要文化財「太刀 銘 安綱(名物 鬼切丸<髭切>)」
源満仲から頼朝にいたるまでの源氏の重宝「鬼切丸」および「髭切」の伝承を持つ太刀。鎌倉幕府が滅亡した際、新田義貞がこれを手に入れ、その後、義貞を討った斯波高経の手に渡り、その子孫である最上家に受け継がれたと伝えられている。刀身は身幅やや狭く中反りの優美な太刀姿を示し、平安時代末期から鎌倉時代にかけての特徴を備えている。
★開創1150年記念特別展「旧嵯峨御所 大覚寺-百花繚乱 御所ゆかりの絵画-」
【七支刀、石上神宮】4世紀
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参考文献
国宝の名刀と甲冑・武者絵 三井家の五月人形・・・刀剣の美、曲線美、直刃と乱刃、沸と匂
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/05/post-30d565.html
「出雲と大和」東京国立博物館、日本書紀成立1300年
「出雲と大和」東京国立博物館・・・大海人皇子、大王から天皇へ
https://bit.ly/2ReO0wz 
美への旅 旧嵯峨御所 大覚寺百花繚乱御所ゆかりの絵画 質疑応答篇
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/02/post-fe0b54.html
「旧嵯峨御所大覚寺―百花繚乱 御所ゆかりの絵画」・・・嵯峨天皇と空海、運命の美女
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/01/post-075dfa.html
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国宝の名刀と甲冑・武者絵 三井家の五月人形、三井記念美術館、2025年4月12日から6月15日
https://www.mitsui-museum.jp/exhibition/index.html

2025年4月12日 (土)

相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・無の宗教と雪舟、若冲、円山応挙

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第395回
11歳で就任した3代将軍・足利義満は、相国寺を創建、夢窓派の祖・夢窓疎石、高弟の春屋妙葩を迎える。鹿苑寺金閣を開き、北山文化を生み、孫の足利義政は、慈照寺銀閣を作り、東山文化、東山御物を残した。
夢窓疎石、春屋妙葩、絶海中津、大典顕常(1719年-1801年)は、雪舟、若冲、如拙と周文、円山応挙に影響を与える。
――
臨済宗、禅宗は、中国仏教であり、老荘思想であり、ニヒリズムであり、無の宗教である。無、無為自然、無用の用、玄徳、道(万物の根源)は無、混沌、大道廃れて仁義あり、『老子』。万物斉同、逍遥遊、邯鄲の夢『荘子』。
「大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章」。★
【明代初期の花鳥画家、文正『鳴鶴図』1376年】6世、絶海中津、中国から帰朝する時に、招来した。この絵画を雪舟、伊藤若冲、狩野探幽が学んだ。
【狩野永徳『洛中洛外図屏風』】足利義輝が発注、1566永徳が制作、1574織田信長が上杉謙信に贈呈。どこから見た洛中洛外図か。
【相国寺七重塔。1339年三代将軍・足利義満が建立(11歳で将軍就任)】1470年、猿物により炎上(『相国寺七重塔炎上之事』応仁記)。
【伊藤若冲「乗興舟」】1767年頃、若冲が交流の深い相国寺の禅僧、梅荘顕常(大典)と淀川下りをした感興を表した。季節は春、京都・伏見から大坂・天満橋まで6時間ほどの船旅を、幅約29センチ、長さ約11.5メートル。漆黒の空に白い松並木や遠くの家並み、淡い灰色の川
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、足利義満の時代、相国寺創建 夢窓疎石 春屋妙葩
【足利義満】[1358~1408]室町幕府第3代将軍。在職1369~1395。義詮(よしあきら)の子。南北朝合一を果たし、明と勘合貿易を開いて室町幕府の最盛期を現出した。能楽の保護、金閣の建立などこの時代の文化を北山文化とよぶ。北山殿義満。
第一章 開山の祖、夢窓疎石、相国寺に関わる高僧の墨蹟。
相国寺は、11歳で将軍職についた室町幕府三代将軍・足利義満が永徳 2 年(1382)に発願し、開山・創建された禅宗の古刹。夢窓派の祖・夢窓疎石(むそうそせき)を勧請開山に迎え、高弟の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を実質的な創建開山とした。京都の地、御所の北側の広い敷地に伽藍を構える大寺で、金閣寺、銀閣寺の通称で名高い鹿苑寺、慈照寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山。
相国寺は美術の発展にも尽力。640年以上の歴史の中で数々の芸術家を育て上げ、名作の誕生を導いてきた。1984年には相国寺をはじめ、鹿苑寺、慈照寺などに伝わる文化財の保存修理、展示公開、禅文化の普及を目的に相国寺承天閣美術館を創設。現在、国宝5点、重要文化財145点を含む優れた作品を収蔵する。寺に伝わる什物(じゅうもつ=代々伝わってきた宝)は美的価値だけでなく歴史的価値も高いものが揃っている。明から伝来した名品を見ることができる。相国寺は創建当初から中国との文化的交流の中心地であった。
展示作品
《鳳凰》室町時代 15世紀 鹿苑寺 応永五年(1398)の創建当初から金閣の頂上にあった。
重要文化財《鳴鶴図》 文正筆 中国・元-明時代 14-15世紀 相国寺 絵の前から立ち去り難い端正さを持つ。

2、雪舟の時代 室町幕府の御用絵師・如拙と周文を師とする
第二章「中世相国寺文化圏 ―雪舟がみた風景」雪舟が目にした文化的風景を偲ぶ
開山から間もない15世紀の相国寺には、相国寺文化圏と称するべき美の営みがあった。室町幕府の御用絵師であった相国寺の画僧・如拙と周文は室町水墨画の様式を確立、さらに二人を師と仰いだと書き残している雪舟は、若き日を相国寺にて過ごした。室町水墨画の巨匠・雪舟が目にしたと想像される文化的風景が展開される。
展示作品
重要文化財 雪舟《毘沙門天》 室町時代 15世紀 相国寺蔵
林良筆《鳳凰石竹図》明、16世紀、雪舟から若冲にまで影響を与えた。重要文化財
周文筆《十牛図巻》より 右から「尋牛」「見跡」「見牛」 伝 周文筆 室町時代 15世紀 相国寺
相国寺の画僧・周文が描いた《十牛図巻》では、禅や悟りを人と牛との関係にたとえ、十の過程で示した。牛の姿は「真の自己」を表し、真の自己を求める自己は牧人として描かれている。
《花鳥図》伝呂紀筆 :《花鳥図》兪増筆 いずれも中国・明時代 16世紀 相国寺
雪舟は相国寺を出たのち、明に渡って約3年を過ごし、その間、多くの中国絵画を目にした。室町時代には数々の明代絵画が相国寺にもたらされ、日本の絵師に影響を与えた。

3、92世住持・西笑承兌
第三章「『隔蓂記』の時代 ―復興の世の文化」
室町時代に文化的興隆を見せた相国寺、1467年に応仁の乱が勃発し、続いて戦国の世になると荒廃した。戦国時代以降の相国寺を復興したのは 92世住持・西笑承兌(せいしょうじょうたい)。天下人秀吉、家康のブレーンとなり外交僧として活躍、相国寺中興の祖となった。続いて1600年代、復興の相国寺に登場するのが鳳林承章(ほうりんじょうしょう)。西笑承兌の法嗣(はっす=師から仏法の奥義を伝えられた弟子)で鹿苑寺の住持を務め、75歳で亡くなるまで34年間にわたって日記『隔蓂記(かくめいき)』を書き残した。鳳林承章をめぐる風雅の時と場を再現する。
狩野派とのかかわり
『隔蓂記』の時代は江戸時代前期と重なり当時、文化の中心にいたのが文芸復興に尽くしたことで知られる後水尾(ごみずのお)天皇である。鳳林承章とは親戚関係にあり、相国寺には後水尾天皇からの寄進による作品が残されている。当時もっとも勢いのあった狩野派の作品も含まれている。京都に滞在していた探幽に鳳林自身が画絹を持参し、制作を依頼したと『隔蓂記』に記されている。
展示作品
西笑承兌墨蹟「檀忌香偈(だんきこうげ)」 西笑承兌筆 桃山時代 天正13年(1585) 相国寺
《西笑承兌像》 江戸時代 17世紀 豊光寺 ※いずれも前期展示
『隔蓂記』鳳林承章筆 江戸時代 寛永12-寛文8年(1635-1668)鹿苑寺
狩野探幽《観音猿猴図》狩野探幽・狩野尚信・狩野安信筆 江戸時代 正保2年(1645)相国寺 両側の猿がユーモラスな本作は「後水尾天皇寄進状」に記載のある作品。

4、奇想の画家・若冲を開花 第113世住持・梅荘顕常 維名周奎
第四章「新奇歓迎!古画礼讃! ―若冲が生きた時代」
若冲は京都・錦市場の青物問屋「枡屋」の長男として生まれ、絵を描くことが好きだったものの、40歳まで枡屋当主として家業に励んだ。
★★★
 若冲の才能をいち早く見出し、絵の世界へ導き若冲の名を与えたのが相国寺第113世住持の梅荘顕常である。
「老子」第45章。大成は欠くるが若く、其の用は敝きず。大盈は冲(むな)しきが若く、其の用は窮(きわ)まらず。大直は屈するが若く、大巧は拙なきが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。燥は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静は天下の正たり。
大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章。
愚者よ、外見で無用と決める愚かさに気づけ。
梅荘は若冲に中国絵画を模写する機会を与え、さらに「若冲」という画号を授けた。近世の相国寺の文化に殷賑を極める、独特の絵画表現を完成。若冲は梅荘の尽力によって、鹿苑寺大書院を飾る襖絵50面を描くという大プロジェクトを任される。当時、若冲は44歳の無名絵師。梅荘の存在がなければ、これほどの大仕事を得られることはなかった。
★★★
「千年、具眼の士を待つ」「理解する士が現れるまで 千年のときを待つ」と言った伊藤若冲)。若冲と親交深く画家としての活動を支えたのが、詩僧として名を馳せた相国寺の僧、梅荘顕常、梅荘の弟子であった維名周奎(いめいしゅうけい)は若冲に画を学び、画僧として活躍した。若冲作品と同時に、その魅力を開花させた文化的背景を探る。
展示作品
《竹虎図》絵:伊藤若冲筆 賛:梅荘顕常筆 江戸時代 18世紀 鹿苑寺
伝李公麟「猛虎図」(朝鮮・朝鮮時代)に依拠して描かれており、虎のユーモラスな表情、猫のように拳を舐める仕草、体躯の力強い表現。虎の背後には風に揺れる竹の葉が筆勢の強い墨線で表現。梅荘顕常の賛は「いずこの竹林、長く嘯く声の中。突如もの寂しげな夕刻の風が巻き起こる」と詠む。虎嘯風生(こしょうふうしょう)の故事「虎の遠吠えが風を生む」、「英雄が出現すると天下に風雲が巻き起こる」という喩えである。若冲と梅荘は、虎が巻き起こす風をそれぞれの手法で表現した。
重要文化財《鹿苑寺大書院障壁画 一之間襖絵 葡萄小禽図》伊藤若冲筆 江戸時代 宝暦9年(1759)鹿苑寺蔵

5、近世・近代 俵屋宗達 円山応挙
第五章「未来へと育む相国寺の文化 ―”永存せよ”」
相国寺の什物は中世より伝来するものもあれば、近世や近代の寄進などの新規受入により加わったものもある。今回の展覧会では、什物の経歴や履歴という視点も重視した。現在、相国寺に集まった数々の什物は、今後も相国寺で活かされ、価値を見いだされ、永く伝えられてゆくことが期待されている。そのような近代に収集された作品群。
長谷川等伯《萩芒図屏風》(前期3/29~4/27展示)は金地着色画の大作。花を咲かせた萩が風になびく右隻、芒の茂みに野菊が顔を覗かせる左隻。シンプルで明快な構図ながら、繊細な情緒にあふれている。
円山応挙筆《七難七福図巻》より「福寿巻」江戸時代 明和5年(1768) 相国寺 ※前期・後期で場面替えあり
応挙初期の作品。天災を描く上巻、人災を描く中巻、そして福寿を描く下巻からなる大作、応挙は制作に3年を費やし、三巻の全長は39メートルに及ぶ。人の世の苦難と寿福とを絵解きするために制作された絵巻。人々が天災や大蛇から逃げまどう様子などがリアルに、時にユーモラスに描かれている。
重要文化財《蔦の細道図屏風》伝 俵屋宗達筆 烏丸光広賛 江戸時代 17世紀 相国寺 ※後期展示
『伊勢物語』より宇津の山の場面を表し、大胆な構成、金箔の地に緑青という鮮やかな色使いが目を引く。
《百鳥図》伝辺文進筆 中国・明時代 15世紀 鹿苑寺
壮大な吉祥図。中央に描かれている鳳凰は百鳥の王とされ、鳳凰が飛べば群鳥たち皆これに従うと言われてきた。金閣寺の屋根から相国寺文化圏の隆盛を長らく見守ってきたのも鳳凰である。
【孔雀明王、快慶】金剛峰寺、正治二年(1200年)。孔雀は毒を食う。三毒、貪瞋痴、むさぼること、いかること、愚痴、愚かなこと、毒を喰う、仏法を守る孔雀。円山応挙『牡丹孔雀図』1771。牡丹は花の王、仏法を守る孔雀。孔雀明王神咒経
【孔雀明王像、快慶、正治二年(1200) 金剛峯寺】後鳥羽法皇の御願で1200年に造立。孔雀の背に乗る絵画的な姿を表現。孔雀明王は人間の天敵・コブラを食べその害から守ってくれるところから無病息災の信仰を集め明王ながら菩薩の尊顔で表現される。
――
参考文献
生誕300年、若冲展・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
https://bit.ly/2FWbP7L
「円山応挙から近代京都画壇へ」・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺
https://bit.ly/2KEGwyj
禅-心とかたち、東京国立博物館・・・不立文字
https://bit.ly/3IVCj7B
「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人
https://bit.ly/2OAhnsz
妙心寺展・・・禅の空間 、近世障屏画の輝き
https://bit.ly/2OACxXq
相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・無の宗教と雪舟、若冲、円山応挙
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/04/post-57cb8d.html
相国寺承天閣美術館開館40周年記念 相国寺展―金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史
東京藝術大学美術館、3月29日~4月27日、 後期(4/29~5/25)

2024年11月26日 (火)

特別展「はにわ 挂甲の武人」・・・見返り鹿のひとみ

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第383回
 
美術探訪、美への旅、「はにわ 挂甲の武人」ひとみの謎・・・見返り鹿。大久保正雄
はにわの最高傑作「埴輪 挂甲の武人」が国宝に指定されてから50周年を迎える2024年秋、東京国立博物館で特別展「はにわ」が開催される。本展では、全国各地から東京国立博物館に約120件もの選りすぐりの至宝が空前の規模で集結。素朴で本質的な人物、愛らしい動物から、精巧な武具、家に至るまで、埴輪の魅力が満載な展覧会。
とくに注目すべきは、ひとみである。素朴な人物、挂甲の武人、踊る人々、愛すべき動物、犬、馬、穴が開いた眼、ひとみは、不思議な表現である。シュメール美術、ガンダーラ彫刻、エジプト彫刻、ギリシア彫刻、アルカイック・スマイル彫刻、どの美術と比べても、比類なく、シンプルで、引き込まれる。穴の開いた空間が心を表現している。ひとみの謎である。
現代彫刻、コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)《眠れるミューズ》(1910–11年)のひとみを思い起こさせる。ブランクーシ彫刻は、概念ではなく、本質を表している。概念ではなく、本質である。概念は、言葉があって、はじめて存在する。
犬型埴輪をみると、母の愛犬、トイプードルを思い出す。愛犬は、ときどき家の門に佇み、門番をしていた。県犬養三千代家は、天皇の門番をしていたのか。犬のひとみも謎である。
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プロローグ 埴輪の世界、古墳時代3世紀から6世紀
埴輪が作られたのは、古墳時代の3世紀から6世紀にかけて。日本列島で独自に出現、発達した埴輪は、服や顔、しぐさなどを簡略化し、丸みをもつという特徴があり、世界的にもその珍しい造形と評価されている。プロローグでは東京国立博物館の代表的な所蔵品の一つ「埴輪 踊る人々」を紹介。
この埴輪は、東京国立博物館が創立150周年を機に国立文化財活用センターとクラウドファンディングなどで寄附をつのり、2022年10月から解体修理を行いました。2024年3月末に修理が完了し、本展が修理後初のお披露目となります。
第1章 王の登場 古墳時代前期(3~4世紀)司祭者、中期(5世紀)武人、後期(6世紀)官僚的
埴輪は王(権力者)の墓である古墳に立てられ、古墳から副葬品が出土する。副葬品は、王の役割の変化と連動するように、移り変わる。古墳時代前期(3~4世紀)の王は司祭者的な役割で、宝器を所有し、中期(5世紀)の王は武人的な役割であり、武器・武具を所有した。後期(6世紀)は官僚的な役割を持つ王に、金色に輝く馬具や装飾付大刀が大王から配布された。
各時期において、中国大陸や朝鮮半島と関係を示す国際色豊かな副葬品も出土する。ここでは国宝のみで古墳時代を概説。埴輪が作られた時代と背景を顧みる。
第2章 大王の埴輪 倭の五王の陵、百舌鳥・古市古墳群、体大王の陵今城塚古墳
ヤマト王権を統治していた大王の墓に立てられた埴輪は、大きさや量、技術で他を圧倒する。天皇の系譜に連なる大王の古墳は、時期によって築造場所が変わります。古墳時代前期は奈良盆地に築造され、中期に入ると大阪平野で作られるようになる。
倭の五王の陵としても名高い、大阪府の百舌鳥・古市(もず・ふるいち)古墳群は世界文化遺産に登録されている。そして後期には、継体大王の陵とされる今城塚(いましろづか)古墳が淀川流域に築造された。本章では、古墳時代のトップ水準でつくられた埴輪を、その出現から消滅にかけて時期別に見ることで、埴輪の変遷をたどる。
第3章 埴輪の造形
埴輪が出土した北限は岩手県、南限は鹿児島県。日本列島の幅広い地域で、埴輪は作られた。それらの埴輪は、当時の地域ごとの習俗の差、技術者の習熟度、また大王との関係性の強弱によって、表現方法に違いが生まれた。
各地域には大王墓の埴輪と遜色ない精巧な埴輪が作られる一方で、地域色あふれる個性的な埴輪も作られた。第3章では各地域の高い水準で作られた埴輪や、独特な造形の埴輪を紹介する。
第4章 国宝 挂甲の武人とその仲間5体
埴輪で初めて国宝となった「埴輪 挂甲の武人」は頭から足まで完全武装しており、古墳時代の武人の様子を眼前に見せる。考古学的価値のみならず、その造形美から美術的にも高い評価を得ている。バンク・オブ・アメリカから支援を受け、2017年3月から2019年6月まで、およそ28か月間にわたり解体修理を実施した。第4章では、修理を経て得られた最新の研究成果や知見を紹介する。
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展示作品の一部
国宝 埴輪 挂甲の武人 群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
埴輪 踊る人々 埼玉県熊谷市 野原古墳出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
国宝 金製耳飾 熊本県和水町 江田船山古墳出土 古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵
国宝 金銅製沓 熊本県和水町 江田船山古墳出土 古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵
家形埴輪 大阪府高槻市 今城塚古墳出土 古墳時代・6世紀 大阪・高槻市立今城塚古代歴史館蔵
馬形埴輪 三重県鈴鹿市 石薬師東古墳群63号墳出土 古墳時代・5世紀 三重県蔵(三重県埋蔵文化財センター保管)
重要文化財
埴輪 天冠をつけた男子 福島県いわき市 神谷作101号墳出土 古墳時代・6世紀
福島県蔵(磐城高等学校保管) いわき市教育委員会
犬型埴輪 古墳時代・6世紀群馬県伊勢崎市 剛志天神山古墳出土
見返り鹿《鹿形埴輪》静岡県浜松市 辺田平1号墳出土 古墳時代・5世紀 静岡・浜松市市民ミュージアム浜北
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挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」
会場:東京国立博物館 平成館
会期:2024年10月16日(水)~12月8日(日)
休館日:月曜日、ただし11月4日(月)は開館、11月5日(火)は本展のみ開館
お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2660

巡回情報:九州国立博物館 2025年1月21日(火)~5月11日(日)
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著者 大久保正雄 プラトン哲学、美学、密教の比較宗教学、宗教図像学。著書『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社。
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土偶と埴輪
土偶は、今から約1万3千年前~約2千400年前の縄文時代に作られた。縄文時代の後に弥生時代、その次の古墳時代、3世紀後半~6世紀ころに埴輪が作られた。
土偶は、基本的には女性を表す。妊娠した姿も多く、安産や豊穣を祈った。精霊の姿。意図的に壊されたものも多い。祈りと祭祀に用いられた。
埴輪は古墳の副葬品、権力者の墓の周りに立てられた。功績を表している。河野正訓(東京国立博物館主任研究員)
参考文献
「縄文-1万年の美の鼓動」東京国立博物館・・・狩猟人の行動様式
https://bit.ly/2mG25my
特別展「はにわ 挂甲の武人」・・・見返り鹿のひとみ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-72d881.html

2023年11月10日 (金)

「やまと絵−受け継がれる王朝の美−」・・・源氏物語絵巻の闇、日月四季山水図屏風、神護寺三像、平家納経

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第349回
金木犀の香りがする森を歩いて、博物館に行く。やまと絵、平安時代12世紀から室町時代15世紀の壮大な歴史。
【やまと絵とは何か】やまと絵は、唐絵に対して12世紀平安時代に始まる。中国の風景を描く唐絵対して、日本の王朝の宮廷を描くやまと絵は、飛鳥、奈良時代には描かれなかった。雪舟『四季花鳥図屏風』(室町時代15世紀)は、日本人によって描かれた中国の風景画であり漢画と呼ばれる。4大絵巻、源氏物語絵巻は、貴族のみならず武家に愛好され展開した。源氏物語絵巻、華麗なる王朝の美は、なぜ貴族と武家を惹きつけたのか。紫式部と源氏物語の始まりに遡ってその源泉を探る。
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王朝の美の闇にひそむ魔界【源氏物語絵巻、源氏物語作品群】400年にわたって展開した。源氏物語絵巻(平安時代12世紀、徳川美術館)、紫式部日記絵巻断簡(鎌倉殿時代13世紀、東京国立博物館)、源氏物語図扇面張交屏風(室町時代16世紀、浄土寺)。源氏物語絵巻のみならず、紫式部日記絵巻まで、作られ続いているのは驚異である。
「源氏物語図扇面貼交屏風」は、俵屋宗達「扇面貼交屏風」「扇面散し屏風」の先駆形である。扇は折れ目があり使用した形跡がある。
【光源氏の謎】光源氏のモデルは源融(嵯峨天皇の皇子)か藤原道長である。源融(822-895)は天皇の皇子だが、天皇になれなかった美貌の貴公子。源融は左大臣になり、天皇候補となったが、藤原基経に反対された。藤原道長(966-1028)は中宮彰子の父。紫式部の召人(愛人)。【予言の書『源氏物語』天下人の晩年の精神的没落】光源氏40歳で身分も地位も財産も高みに登りつめるが、個人的な運命は急降下。正妻女三の宮に裏切られ、愛妻紫の上に先立たれる。「高い身分に生まれながら、心の満たされぬ人生」「幻」巻。息子の夕霧に会えず引き籠る。
【紫式部の謎、源氏物語と紫式部と中宮彰子】1001年(長保3)夏に宣孝が死に、1001年の秋ごろから『源氏物語』を書き始めた。05年(寛弘2)ごろ年末に一条天皇の中宮彰子のもとに出仕。はじめ〈藤式部〉やがて〈紫式部〉と呼ばれる。〈紫〉は『源氏物語』の女主人公紫の上にちなみ、〈式部〉は父為時の官職式部丞による。
【六条河原院の謎、なぜ六条御息所は幽霊となるのか】源融は左大臣になり、天皇候補となったが、藤原基経に反対された。基経は源定省を宇多天皇として即位させる。怒った源融は宇治の棲霞観、六条河原院の別邸に隠棲。宇多上皇の河原院に源融の幽霊が出る『今昔物語集』巻27第二、世阿弥『融』【六条河原院】源融の嫡男・昇に相続され、昇により宇多上皇に献上され、仙洞御所となる。源氏物語の六条御息所、上村松園『焔』1918は『謡曲「葵の上」の六条御息所の幽霊を描いている。【光源氏の栄華と衰亡】光源氏の人生に仮託された源融と藤原道長の運命に王朝の階級制の閉鎖社会のピラミッド上昇の困難と個の苦悩と葛藤を、貴族と武家たちはどう見つめたのだろうか。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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国宝「日月四季山水図屏風」金剛寺、室町時代15世紀、11/7~12/3
やまと絵で描かれた六曲一双(6扇の屏風が2つで1組)の屏風で、四季の山水と日月が描かれ、密教の灌頂の儀式に用いられた。右隻には春から夏への景色に金の太陽、左隻には秋から冬への景色に銀の月を配する。山並みはうねり、躍動感に満ちた絵画。天野山金剛寺
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国宝 神護寺三像。「伝源頼朝像」、「伝平重盛 像」「伝藤原光能」として伝わる鎌倉時代(13世紀)の肖像絵画は、等身大のスケールに圧倒。近寄ると漆黒の装束の黒い文様も見える。日本肖像画の最高峰。
伝源賴朝・平重盛・藤原光能像 (神護寺三像)3点共、作者は藤原隆信と伝わる。隆信は、歌人として有名な藤原定家の異父兄で、画業では似絵(にせえ)を得意とした。
空海は、唐に渡って密教を学び、帰国後は神護寺を本拠に真言密教を広めた。空海のあとの真済によって寺勢は隆盛し、壮大な伽藍が建てられたが、2度の火災で沈滞、荒廃した。
荒廃した神護寺を再建したのは、文覚上人。【文覚は神護寺再興を後白河法皇に強訴】したが、法皇の怒りを買い、伊豆に流罪。同じ伊豆の流人の境遇の頼朝と会見し、平家打倒に決起せよと説得。やがて流罪を解かれ、京に戻った文覚は法皇に神護寺復興を願って許された。平家を倒し幕府を立てた【頼朝の援助もあって、神護寺は復興した】
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国宝「平家納経 薬王菩薩本事品 第二十三」「平家納経 分別功徳品 第十七」「平家納経 平清盛願文」平安時代 長寛2年(1164)厳島神社蔵 
三大装飾経、国宝「平家納経」(平安時代1164年)「久能寺経」「慈光寺経」。
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展示作品の一部
「年中行事絵巻」模本は、展示されるのが1974年の絵巻展(東京国立博物館)以来。
源氏の名場面を四季に再編成して60面揃えた室町時代の「源氏物語図扇面貼交屛風」、国宝「源氏物語絵巻」、「紫式部日記絵巻」など華やかな作品が続々と登場。
「山水屛風」京都国立博物館、「山水屛風」神護寺、国宝「蒔絵筝」春日大社、
国宝「地獄草紙」「餓鬼草紙」、「辟邪絵」「病草紙」重文「百鬼夜行絵巻」
「源氏物語図扇面貼交屛風」室町時代 16世紀 広島・浄土寺(展示期間:10/11~11/5)
国宝「蒔絵箏(本宮御料古神宝類のうち)」奈良・春日大社蔵(11/5まで展示)
神に捧げるために作られた楽器。王朝貴族の美意識が結実した工芸品。蒔絵(まきえ)で表わされた美しい山岳図。
国宝「源氏物語絵巻」12世紀、徳川美術館、「伴大納言絵巻」12世紀、出光美術館蔵)、国宝「鳥獣戯画」平安~鎌倉時代12~13世紀 高山寺、国宝「信貴山縁起絵巻」平安時代12世紀 朝護孫子寺、国宝「平治物語絵巻」六波羅行幸巻、鎌倉時代13世紀、重文「紫式部日記絵巻」鎌倉時代13世紀
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【手に入らない愛は、永遠に美しい】実らない恋は永遠に輝いている【上智と下愚とは移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても堕落せず、最下の愚者は、どんなによい境遇にあっても向上しない。『「論語」陽貨』【どんなに地位、名誉、職業が高くても、智慧と慈悲がなければ生きる価値がない】最下の愚者は、向上しない。【千里の馬は常にあれども伯楽は常には非ず】
【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質である】【先生を選ぶ】師が優れているか否かが最も重要な要素である【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている地図の大きさ】【先生が持つ基礎認知力、先生が持っている体系】空海は、大学寮明経科に入学したが退学、山林修行の旅に出る『聾瞽指帰』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変
https://bit.ly/3UYWOpe
鈴木其一・夏秋渓流図屏風・・・樹林を流れる群青色の渓流、百合の花と蝉、桜の紅葉
https://bit.ly/2ZCzN3x
「大琳派展―継承と変奏」東京国立博物館・・・絢爛たる装飾藝術、16世紀から18世紀
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-c300.html
「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」・・・源氏物語の謎
https://bit.ly/3hIroVg
大塚ひかり『嫉妬と階級の『源氏物語』』新潮社
「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」・・・源氏物語絵巻の闇、日月四季山水図屏風、神護寺三像、平家納経
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-1388ed.html
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日本絵巻史上最高傑作と言われる「四大絵巻」が揃い踏み(10/11~10月22日まで)。

四大絵巻「源氏物語絵巻」「鳥獣戯画」「信貴山縁起絵巻」「伴大納言絵巻」が30年ぶりに集結する。壮観。
神護寺三像「伝源頼朝像」(鎌倉時代13世紀)「伝平重盛像」「伝藤原光能像」、が集結する。横幅1m等身大の大作。仙洞院に「後白河法皇像」「平業房像」とともに5幅掛けられていた。10月24日(火)~11月5日(日)
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国宝53件、総件数270件、絢爛豪華な展覧会。
国宝53件、総件数270件のうち、7割超が国宝・重要文化財、絢爛豪華展な展覧会。
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国宝「源氏物語絵巻」徳川美術館、「伴大納言絵巻」(出光美術館蔵)は10月22日まで
国宝「鳥獣戯画」平安~鎌倉時代 12~13世紀 高山寺 展示期間:甲巻10/11~10/22 乙巻10/24~11/5 丙巻11/7~11/19 丁巻11/21~12/3
国宝「信貴山縁起絵巻」平安時代 12世紀 朝護孫子寺 展示期間:飛倉巻10/11~11/5 延喜加持巻11/7~11/19 尼公巻11/21~12/3
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国宝「平治物語絵巻」六波羅行幸巻 鎌倉時代13世紀、東京国立博物館、
重要文化財「紫式部日記絵巻」鎌倉時代13世紀、東京国立博物館
国宝「日月四季山水図屏風」室町時代15世紀、金剛寺
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特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」東京国立博物館、2023年10月11日~12月3日

2023年9月15日 (金)

楽しい隠遁生活・・・山水に遊ぶ、桃源郷、李白「望廬山観瀑」、北斎「李白観瀑図」

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第341回

隠者は、竹林の七賢人、王義之、陶淵明、蘇東坡、李白、抵抗する知識人の精神史である。
竹林の七賢人は、権力に抵抗し、難を避け、隠遁した者、老荘思想に基づいて、桃源郷に遊び、詩書、無弦琴を愛でる。王羲之『蘭亭序』、陶淵明『桃花源記』、蘇東坡『赤壁の賦』、李白『望廬山観瀑』『山中問答』、遊山慕仙の世界は、嵯峨天皇と空海の生きかたに反映している。嵯峨天皇は、流水濫觴の宴を催し、嵯峨院に隠退、空海は、天長8年、大僧都を辞するが、許可されず。
九十老人卍筆、北斎「李白観瀑図」(1849)ボストン美術館、北斎(1760~1849)90歳の作品。北斎「詩歌写真鏡・李白」千葉市美術館、天保4-5、1833-34
河鍋暁斎「李白観瀑図」が存在したが、今は行方不明。
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【中国の隠者】竹林の七賢人、3世紀中国三国魏末に、清談を行なったり交遊した七人、陰惨な状況で奔放な言動は死の危険があり、俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨、憤りと、その意図の韜晦。阮籍、嵆康、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎。
【中国の隠者、山水に遊ぶ、桃源郷】王義之(303~361)東晋の官僚、書家、『蘭亭序』を書き隠退58歳で死す、陶淵明(365~427)魏晋南北朝の詩人62歳で死す、李白(701-762)諸国を放浪の後玄宗に仕えたが、安史の乱で入獄。762年に61歳で死す。
【竹林の七賢、王戎(234-305)】琅邪の王氏。王導、王羲之(303-361)、王献之を生む一族。
東晋の王羲之は、書の名人。権謀術数の官界を嫌い会稽県に赴任、永和九年(353)三月三日に会稽山の山陰の蘭亭にて曲水流觴の宴をひらき、『蘭亭序』を書き、上司王述を避け355年、49歳で官界を引退した。自由の身となり書を書き59歳で死す。*
【王羲之『蘭亭序』】【唐の太宗皇帝が王羲之の書を愛し】その殆ど全てを集めたが、蘭亭序だけは手に入らず、最後には家臣に命じて、王羲之の子孫にあたる僧の智永の弟子弁才の手から騙し取らせ、自らの陵墓である昭陵に副葬させた。唐の何延之『蘭亭記』。
旅する詩人
【李白、旅する詩人(701-762)】李白がはじめて長安にのぼったのは742年。42歳の時。長安で李白は賀知章(659-744)の知遇を得る。賀知章は玄宗皇帝に仕え、詩壇の長老。賀知章は李白の仙人的な人柄を気に入る。「お前の才能はこの世のものではない。まるで天から流されてきた仙人のようだ(謫仙人)」。742年、李白は賀知章の推挙を受けて翰林供奉となる。
【李白、旅する詩人】玄宗皇帝の側近、宦官の高力士と対立。李白が詩で楊貴妃の美しさを前漢の美人、趙飛燕になぞらえる。趙飛燕は前漢の成帝に愛され皇后になるが成帝の崩御後、庶民にまで落ち自殺した。李白は失脚、長安を追われる。744年、李白44歳。宮廷詩人として活躍したのは僅か3年間。長安を去り李白は再び遍歴生活に戻る。*『清平調詞』二
【李白 黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る】古くからの友人(孟浩然)は、西にある黄鶴楼に別れを告げ、花が咲き春の霞が立つ三月、揚州へと長江を下っていった。遠くに見える一そうの舟の帆も青空に消えて、ただ、長江が天の果てまで流れていくのを見るばかりである。
【李白「山中問答」】余に問う何の意ありてか碧山に棲むと。笑って答えず心自ら閑な り。桃花流水杳然として去る。別に天地の人間(じんかん)に非ざる有り。
私に問いかける人がいる。なぜ山深い所に住んでいるのか。笑って答えず、心は静かである。満開の桃の花がひとひら、川面に散り、彼方まで流れ去る。ここは俗世間とは隔絶した場所
【李白「望廬山観瀑」】日は香炉を照らして紫煙を生ず。遥かに看る瀑布の長川(ちょうせん)を掛くるを。飛流直下三千尺。疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと。
香炉峰にたなびく美しい霧、そこを流れ落ちる滝、川の流れが縦に落下する、この雄大な絶景は銀河、宇宙に内包される、美しい「起承転結」の世界。
【廬山】長江の南にある仏教や道教の霊山。白楽天の詩で有名な香炉峰などがあり。雨や霧が多く、雲海の上に山が聳え立つ様子を見ることができる。ここは周代から道士や隠棲者とかかわりが深く、陶淵明もこの山のふもとに隠居した。
【旅する詩人、孟浩然】(689-740)。湖北省襄陽市の人。青年時代は故郷の鹿門山に隠棲。40歳ごろ長安に出て科挙を受験するが落第。郷里に戻る。一時張九齢の招きで任官するがすぐに官職を辞す。江南地方を放浪して一生を終える。生涯、出世には縁が無かったが、その詩才は高く評価される。王維・李白・張九齢らと交流があり。自然を歌った詩に名作が多い。王維と並んで「王孟」と並び称され、中唐の韋応物、柳宗元と並び王孟韋柳とも称される。『春暁』『洛陽にて袁拾遺を訪ふて遇はず』
【北斎「李白観瀑図」】「九十老人卍筆」、北斎「李白観瀑図」1849は90歳で亡くなる年に描かれている「ボストン美術館肉筆浮世絵展」。若い頃、北斎【北斎「詩歌写真鏡・李白」】千葉市美術館、天保4-5、1833-34、に描いている。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
石濤「廬山観瀑図」、
田能村竹田「梅渓閑居図」
伝 仇英《山水人物図(陶淵明図)》(部分) 中国・明時代 泉屋博古館
橋本雅邦《許由図》明治33年(1900) 泉屋博古館東京
重要美術品 伝周文《山水図》室町時代(15-16世紀)  泉屋博古館
長吉《観瀑図》(部分) 室町時代(16世紀) 泉屋博古館
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陶淵明『桃花源記』南北朝時代(4~5世紀)
中野美代子『中国の隠者』
中野美代子『酒池肉林』
「上兵は謀を討つ。最高の戦略は、敵の陰謀を討つことである」『孫子』謀攻篇
権力と戦う知識人の精神史 春秋戦国奇譚
https://bit.ly/2P3rfID
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
https://bit.ly/2zsD05T
感染爆発、帝国と都市国家の戦い。この世の果てを超えて、旅する詩人・・・「時の関節が外れた」シェイクスピア
https://bit.ly/2XoaNcd
「大英博物館 北斎─国内の肉筆画の名品とともに─」・・・北斎、最後の旅
https://bit.ly/3rGjzkF
楽しい隠遁生活・・・山水に遊ぶ、桃源郷、李白「望廬山観瀑」、北斎「李白観瀑図」
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/09/post-e3a559.html
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展示構成
1. 自由へのあこがれ「隠遁思想と隠者たち」
隠遁の根底にあるのは「脱俗」の考えです。人の心を惑わす富貴や栄華などの世俗的な欲望を絶ち、自然の中でその摂理に身をゆだねて生活することが、隠遁の理想とされてきました。その背景には、現実への絶望感が見てとれます。高い理想を持っていても、現実世界において理想を実現することはしばしば困難を伴うからです。自己を滅し世間に妥協して生きるよりも、理想を堅持しながら自然の中で暮らす道を選び生きたのが、隠遁者たちです。
彼らは知識階級に属しながら政治の世界を俗として仕官せず、世間から隠れて高潔に生きる人々で、隠者や隠逸、高士などともよばれています。
聖天子の尭に招かれても、これをけがらわしいとした「許由」など古代中国の著名な隠者や三国時代末(3世紀)の「竹林の七賢」、南北朝時代(4~5世紀)の「陶淵明」などは、後世まで絵画工芸の主題となっています。また、そうした隠者たちの静閑の暮らしは日本の文人たちの規範として享受もされています。平安・鎌倉時代の「西行」や、江戸時代の「芭蕉」らも俗世を離れた草庵暮らしを積極的に求めた隠者といえます。
https://www.artpr.jp/senoku-tokyo/joifulseclusion2023
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楽しい隠遁生活 文人たちのマインドフルネス、泉屋博古館東京
2023年9月2日(土)~2023年10月15日(日)

2022年12月21日 (水)

「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」・・・源氏物語の謎

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大久保正雄『旅する哲学者、美への旅』第304回
「源氏見ざる歌よみは遺恨の事なり」藤原俊成『六百番歌合』という程、基準となる。俊成『千載和歌集』の美の基準である。
【『源氏物語』の謎】
【光源氏の謎】光源氏のモデルは源融(嵯峨天皇の皇子)か藤原道長か。源融(822-895)は天皇の皇子だが、天皇になれなかった美貌の貴公子。源融は左大臣になり、天皇候補となったが、藤原基経に反対された。藤原道長(966-1028)は中宮彰子の父であり、紫式部は藤原道長の召人(愛人)。藤原道長は右大臣として君臨、栄華を極める『御堂関白記』、関白になった記録はない。
【源氏物語の時代背景】源氏物語の時代背景は、醍醐天皇(885生まれ、897-930)の時代、紫式部の曽祖父、藤原兼輔である。
【光源氏の生涯最愛の女】ヒロインは若紫(紫の上)。光源氏の生涯最愛の女は若紫(紫の上)、光源氏22歳のとき若紫14歳に出会った。若紫は走っていた。『若紫』、光源氏は14歳の幼女若紫を誘惑した、他の多数の女たちはどんな意味があるのか。若紫(紫の上)は死顔も美しい。
【紫式部の謎】父、藤原為時、花山天皇の退位(986年6月)とともに職を失い蟄居する父の傍らで娘盛りを迎えた式部。999年(長保1)初春に藤原宣孝と結婚、1001年4月、宣孝が他界、式部は若き寡婦としてほうり出された。『源氏物語』は現実の絶望を乗り越える手段として紡ぎ出された。紫式部はなぜ清少納言に反感を抱いたのか。『紫式部日記』1010。
曽祖父、藤原兼輔は、有力貴族。紫式部の歌や文章に、家の荒廃を嘆き、身の程の口惜しさを思うものが目だつ。その家は兼輔が建て『大和物語』などにその風流ぶりをうたわれた、賀茂川べりの堤第であった公算が強い。京都市上京区の廬山寺あたりがその跡地。
1006年(寛弘3)暮れ(5年説も)、一条天皇中宮彰子(藤原道長娘)のもとに出仕した。
【紫式部】973年(天延1)生まれ、1014年(長和3)春ごろに没したらしい(1019年以降説もある)伊藤博。これによると紫式部は41歳で没した。
【『桐壺』】桐壺の更衣への虐めはなぜエスカレートするのか。父のない最下位の妃の更衣を熱愛するミカド、皇子を産む桐壺。桐壺天皇の皇子が光源氏。
【六条河原院『夕顔』】源融の幽霊はなぜ六条邸に出るのか。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【感染爆発と平安文学】
【一条天皇は31歳で死す。中宮定子は24歳で死。中宮彰子88歳まで生きる】一条天皇は2人の皇后を持った(一帝二后)、一人の后でが中宮彰子(988-1074)、彼女に仕えたのが清少納言のライバル、紫式部(970頃-1019頃以降)。
中宮彰子は、藤原道隆の弟でのちに位人身を極める藤原道長(966-1028)の娘として生まれ、後一条天皇、後朱雀天皇の2人の帝を産み「国母」と称され、系図上では現在の明仁・徳仁天皇の祖先。
【インフルエンザ肺炎、中宮定子、中宮彰子、一条天皇】彰子の夫である一条天皇は《980-1011》31歳で亡くなり、死因は「咳逆=しわぶき」、インフルエンザ肺炎と伝えられる。清少納言が仕えた「年上の后」中宮定子は《977-1001》24歳で産褥のため亡くなる。
【中宮彰子と藤原道長】
大酒のみの父道隆が995年糖尿病のために42歳で死んだ後、にわかに権力を掌握した道長によって、12歳で「皇后」となっていた彰子は後一条天皇(1008-1036)と後朱雀天皇(1009-1045)を生んだ後、半世紀以上も生きながらえ、米寿まで存命する。
皇后彰子は20-21歳にかけての1008-1009年には、28-29歳だった一条天皇と同衾して子供を作っているが、1011年、一条天皇がインフルエンザに罹患した後は、その感染を免れ、その後63年間生き続ける。
めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かげ『紫式部集』
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参考文献
大塚ひかり『源氏物語 平安王朝のロマンと時代背景の謎』2001
大塚ひかり『男は美人の嘘が好き ひかりと影の平家物語』
大塚ひかり『ブス論で読む源氏物語』講談社+α文庫
角田文衛『紫式部とその時代』(1966・角川書店)
前田 雅之「藤原俊成の古典意識」2012
「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」・・・源氏物語の謎
https://bit.ly/3hIroVg
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主な展示作品
鷹野理芳《垣間見 玉鬘「蛍の巻」より》2022年 作家蔵
高木厚人《ふぢつぼのゆめ》2012年 作家蔵
玉田恭子《紫之にき》2019年 作家蔵
青木寿恵《源氏物語》1976年頃 寿恵更紗ミュージアム蔵
石踊達哉《真木柱》1997年 講談社蔵
守屋多々志《澪標「住吉詣」》1991年 個人蔵
渡邊裕公《千年之恋~源氏物語~》2016年 作家蔵
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「上野アーティストプロジェクト」は、「公募展のふるさと」とも称される東京都美術館の歴史の継承と未来への発展を図るために、2017年より開始したシリーズです。その第6弾となる本展は、「源氏物語」がテーマです。
平安時代に紫式部が執筆した源氏物語には、四季折々の美しい情景とともに、多数の登場人物が魅力的に描かれています。主人公の光源氏を中心に紡がれる人間模様は、現代の私たちにも通じるものがあります。読者は登場人物と自分とを重ね合わせ、物語に感情移入することができるからこそ、約1000年の間、変わらず読み継がれてきたのではないでしょうか。そして、長い間広く親しまれてきたことにより、美術工芸や芸能など他のジャンルにも影響を与え、源氏物語は時代や文化を超えて人びとを魅了してきました。
本展では、絵画・書・染色・ガラス工芸という多彩なジャンルの作家をご紹介します。人との出会いはもちろん、美術館で作品とめぐり逢うことも、ひとつの「えに(縁)」と言えます。人や社会とのつながり方が変化しているコロナ禍において、本展が私たちの生活を見つめ直す機会となれば幸いです。
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「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」、東京都美術館、11月19日(土)~2023年1月6日(金)

2022年11月13日 (日)

板谷波山の陶芸、その麗しき作品と生涯・・・葆光釉磁の輝き

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』295回
板谷波山(1872年~1963年)  貧困の果てに 前人未到の境地
1889年、東京美術学校彫刻科に入学。1898年、石川県工業学校に奉職。19世紀末1900年アール・ヌーヴォーの意匠を研究。1903年、石川県工業学校を辞職し、31歳、陶芸家として歩み始めた波山は、高火度焼成の窯を田端に構える。陶芸家として華々しいデビュー、しかし貧困との果てしない戦いが始まる。磁器焼成に挑み釉薬や顔料の調合も吟味した。完全主義で、作品を厳選し、膨大な作品を気に入らず破棄した。大正4(1915)年頃、43歳、マグネサイトを使った「葆光釉」に到達。70歳代まで貧困に苦しんだが、前人未到の境地に到達した。
「私は家を建て、翌年窯を作ると、一厘の余裕もなく、貧乏であった」板谷波山1931年
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至高の美を求めて 葆光彩磁の輝き
波山は、理想の作品づくりのために一切の妥協を許さず、端正で格調高い作品を追求した。大正4(1915)年頃、43歳、「葆光釉」に到達。
「葆光」とは『荘子』「斉物論篇」、荘子は「葆光」を「無尽蔵な天の庫」に喩え幽遠な美の境地である。
荒川正明氏の記者発表会を聞く。「波山は東洋と西洋の美を融合、器の形はギリシアのアンフォラ、波山は新古典主義様式の最後の騎士である」
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
《彩磁金魚文花瓶》1911(明治44)年頃 筑西市(神林コレクション)蔵
重要文化財《葆光彩磁珍果文花瓶》1917(大正6)年 泉屋博古館東京蔵
《彩磁草花文花瓶》大正後期 廣澤美術館蔵
《天目茶碗》1944(昭和19)年 筑西市(神林コレクション)蔵
《葆光彩磁珍果文花瓶》(重文)など約130点の名品を展示。陶芸を芸術の域に広げた板谷波山(1872年~1963年)の美の世界
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参考文献
『生誕150年 板谷波山の陶芸』展覧会図録、2022
『生誕150年 板谷波山の陶芸』プレスリリース
(荒川正明「板谷波山の陶芸―すべては美しく、やきものを生むために―」『没後50年 板谷波山展』展覧会図録、毎日新聞社、2013年)
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展覧会概要
近代陶芸の巨匠 板谷波山(本名・板谷嘉七)は、令和4(2022)年3月3日、生誕150年を迎えました。明治5(1872)年、茨城県下館町(現・筑西市)に生まれた波山は、明治22年東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科に入学、岡倉天心や高村光雲に師事しました。明治36年には東京・田端の地に移り、陶芸家「波山」として数々の名作を生みだします。昭和9(1934)年、帝室技芸員に任命され、昭和28年には陶芸家初の文化勲章を受章しました。
波山は、理想の作品づくりのためには一切の妥協を許さず、端正で格調高い作品を数多く手がけました。代表作の一つ、重要文化財 《葆光彩磁珍果文花瓶(ほこうさいじちんかもんかびん)》は、大正6(1917)年、波山芸術を愛した住友春翠によって購入され、泉屋博古館東京に継承されています。
この記念すべき年に、選りすぐりの名作と共に、波山が愛した故郷への思いや人となりを示す貴重な資料、試行錯誤の末に破却された陶片の数々を通して、「陶聖」波山の様々な姿を紹介いたします。波山の作品に表現された美と祈りの世界に癒され、彼の優しさとユーモアにあふれた人生に触れるひと時をお楽しみください。
展示構成
序章:ようこそ、波山芸術の世界へ
板谷波山が東京美術学校時代に薫陶を受けた恩師・岡倉天心は、自身が創刊した雑誌『国華』創刊の辞の一節に、「夫レ美ハ國ノ精華ナリ」と記しています。その意は、美しいものを愛おしみ、それを育んでいく精神にこそ、その国家の真髄があるということでしょう。
その恩師の言葉を糧に、波山は全身全霊で陶芸の世界に対峙した人物でした。波山の陶芸は、東洋の古陶磁がもつ鋭く洗練された造形を骨格として、そこに19世紀末の欧米のアール・ヌーヴォースタイル、つまり優雅で官能的な装飾性を加えた、いわば東西の工芸様式を見事に融合させたところに特徴があります。序章では、波山の代表作をご覧ください。

第Ⅰ章 「波山」へのみちのり
郷里・茨城県下館の街は、全国有数の木綿の産地であり、江戸時代後期には商都として町人文化が栄えていました。生家は下館藩の御用商人も務める富裕町人で、父・増太郎は文人趣味、茶道の嗜みもありました。この父親の美を愛する心は波山にも受け継がれ、生来の器用さもあり、幼い頃、すでにやきものへの関心も抱いていたと想像されます。
明治22年、開校して間もない東京美術学校に入学、古典の学習、写生や模写、工芸技術など一連の研鑽を経て、芸術家としての基礎を築きました。その後、工芸の街・金沢の石川県工業学校(県工)へ奉職、本格的に陶芸の世界に接近していき、デザインや窯業材料の研究、ロクロ成形や窯焼成など、土にまみれる7年間を過ごしました。
波山はこのように、岡倉天心のもと東京美術学校で芸術家としての魂を注入される一方、県工の同僚である北村弥一郎(ワグネルに連なる東工大窯業科系の俊英)などから、最新の窯業化学をも直に学びます。つまり、近代日本の「美術」と「工業」の両分野の最高峰に連なる環境で鍛えられ、次世代陶芸界の牽引者としての歩を進めていくこととなります。
Ⅰ-1 故郷・下館 —文人文化の街
Ⅰ-2 芸術家を志して —東京美術学校と石川県工業学校
第Ⅱ章 ジャパニーズ・アール・ヌーヴォー
19世紀後期、ジャポニスムブームに陰りが見え、日本の陶磁器輸出は斜陽期に突入します。素地を移入し「上絵付け」主体の東京や横浜の輸出業者は、次々と倒産に追い込まれていきました。この逆境の下、果敢に陶芸家として歩み始めた波山は、大きな賭けに出ます。それまでの陶工の常識を破り、個人で本格的な高火度焼成の窯(平野耕輔設計:三方焚口倒焔式レンガ丸窯、当時の日本では最新型)を東京・田端に構え、磁器焼成に挑みました。絵付けだけではなく、素地も自らつくり、釉薬や顔料の調合も吟味しました。
この頃、波山が熱心に取り組んだ課題は、西欧で流行したアール・ヌーヴォースタイルの意匠研究と、西欧渡来の釉や顔料の実用化です。日本陶芸界のアヴァンギャルドとして、造形や意匠の革新者として、波山は次第に注目を集める存在となっていきます。しかし、薪窯による焼成のリスクは大きく、製品の歩留りも悪い状況でした。陶芸家としての華々しいデビュー、しかしそこには貧困との果てしない戦いが待っていました。
Ⅱ-1 陶芸革新 —アヴァンギャルド波山
Ⅱ-2 アール・ヌーヴォー―いのちの輝き
第Ⅲ章 至高の美を求めて
天性のカラリストといっても過言ではないほど、鋭敏な感性の持ち主であった波山。彼の色彩の世界は、釉の下に絵付けする「釉下彩」(下絵)で表現されています。波山はこの「彩磁」から、さらに「葆光彩」へと表現の幅を広げていきました。「葆光彩」は今や波山の代名詞となっていますが、薄絹を被せたようマット釉は、作品に侵しがたい気品を加えることとなります。
「葆光」とは中国・春秋時代の思想家・荘子による『荘子』「斉物論篇」に記されており、荘子は「葆光」を「無尽蔵な天の庫」にたとえています。波山が老荘思想に興味をもった背景は明らかではありませんが、恩師・岡倉天心からの示唆があった可能性も。ともかく、波山の「葆光彩」の完成は、日本の磁器表現に広がりと深み、そして幽遠な美の境地をもたらしました。
Ⅲ-1 葆光彩磁の輝き
Ⅲ-2 色彩の妙、陶技の極み
Ⅲ-3 侘びの味わい —茶の湯のうつわ
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板谷波山の陶芸、その麗しき作品と生涯・・・葆光釉磁の輝き
https://bit.ly/3GbpXs1
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「板谷波山の陶芸―近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯」泉屋博古館東京
2022年11月3日(木・祝)〜12月18日(日)

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