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日本美術史

2017年5月12日 (金)

桃山の孤高の巨匠、海北友松・・・孤高の絵師、運命との戦い

20170411kyotoKaihou_kashiwanisaru桃山の孤高の巨匠、海北友松・・・孤高の絵師、運命との戦い
『雲龍図』に刻まれれた、戦国武将の血の叫び、藝術家の沈思、運命と戦う人間の苦悩。
戦国時代、「親子は敵、兄弟は第一の敵」の時代。戦いに破れた武将は、新たな世界に向かって旅立つ。
戦略構築する武将、指南する家臣団、孤高の画家。絶叫する英雄、百家争鳴の論客、沈思する詩人。沈黙する画家。占夢官。妙心寺派の禅僧は、運命をどう占うのか。
戦国時代、武将は殺し合い、画家は殺し合う。狩野永徳は、安土城に障壁画を描き48歳で死ぬ。
―――
永遠を旅する哲学者、時を超え、黄昏の丘を超えて、美へ旅する。マエストロの究極の夢は何か。
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
―――
海北友松の生涯
海北友松は、天文2年、1533年、近江・湖北で誕生した。海北綱親の子。天文4年、友松3歳の時、海北綱親討ち死に。友松、東福寺に入門。
長谷川等伯、天文8年、1539年、生まれる。1610年没。71歳。
狩野永徳、天文12年1月13日(1543年)生まれる。1590年没。48歳
天正元年、1573年、7月12日、織田信長、二条城を焼却。足利義昭追放。室的幕府を滅ぼす。
8月27日、織田信長は浅井家を滅ぼす。浅井長政、自害。この時兄・大膳は戦死、41歳の友松の人生に大きな影響を与えた。
誤落藝家。「武家出身だった海北友松は間違って芸術家になった」。
友松は、初め狩野永徳に師事した。「菊恵童図屏風」は友松の狩野派時代の作品である。永徳の作品と比較すると岩の峻法などに類似点がある。
1574年、織田信長、狩野永徳『洛中洛外図屏風』を1574年上杉謙信に贈る。
狩野永徳、安土城に障壁画(1576年—1579年)を描き『安土城之図』(1581)を描いた。織田信長は、屏風をヴァリニャーノに与えた。
天正18年、狩野永徳、没。
1593年、長谷川久蔵(1568年生—1593年)没。26歳。
慶長2年、1597年、海北友松、建仁寺方丈に障壁画を描く。
友松は建仁寺方丈に多数の襖絵を描く以前に、建仁寺塔頭に襖絵を描いた。霊洞院「花鳥図襖」と禅居庵の松竹梅図襖」である。
時の権力者、豊臣秀吉は海北友松のことを知っていた。「1594年、上杉景勝が秀吉を自邸に招待した際に、秀吉から友松筆の「濃彩松鳥画屏風一双」を賜ったという記述が『歴代年譜 景勝公』に残る。
慶長20年、1615年、海北友松、83歳で死す。
*狩野永徳、天文12年1月13日(1543年2月16日)—天正18年9月14日(1590年10月12日)
*狩野山楽、永禄2年(1559年)—寛永12年8月19日(1635年9月30日)、浅井長政の家臣・木村永光の子光頼として近江国蒲生郡に生まれる。
*狩野山雪、天正18年(1590年)—慶安4年3月12日(1651年5月1日))、狩野派の絵師。京狩野の画人狩野山楽(光頼)の婿養子で後継者。
*海北 友松1533—1615(天文2年(1533年)—慶長20年6月2日(1615年6月27日))
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。海北派の始祖。83歳で死す。
―――
展示作品の一部
海北友松「雲龍図」(建仁寺)
海北友松「花卉図屏風」(妙心寺)
海北友松「雲龍図」(勧修寺)
海北友松『琴棋書画図』(建仁寺塔頭霊洞院)
海北友松『柏に猿』(サンフランシスコ・アジア美術館蔵)
海北友松『月下渓流図屏風』(ネルソン・アトキンス美術館蔵)
「雲龍図」(建仁寺)「花卉図屏風」(妙心寺)「月下渓流図屏風」に秘められた孤高の絵師の運命との戦い。
海北友松の到達点とされる『月下渓流図屏風』(ネルソン・アトキンス美術館蔵)、今回米国から「奇跡の帰還=約60年ぶりの里帰り」を果たした。
靄に煙る山深い渓谷に、雪解け水が流れ出す。蒲公英、土筆が描かれている。空には朧月が浮かび、光が渓流、松、白梅、椿、土筆、蒲公英を淡く照らし出す。
河合正朝氏は古今集の和歌を引用して説明した。「春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる」凡河内躬恒 春の夜、梅の花をよめる『古今集』巻1・春歌上・41
*「日曜美術館」
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参考文献
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
http://odyssey2000.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-9379.html
織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-d48d.html
海北友松 京都国立博物館プレスリリース
http://www.kyohaku.go.jp/jp/special/pdf/2017_yusho_press.pdf
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桃山孤高の巨匠 海北友松 「日曜美術館」
桃山文化、狩野派、長谷川派が画壇を席巻する中、独自の画境を開いた絵師・海北友松。武家に生まれた友松は刀を絵筆に持ちかえて活躍。雲間から妖しく現れる「雲龍図」、金ぺきに濃い色を施した豪華な「花卉図屏風」など独自の画風で、武家から朝廷まで魅了した。最晩年の作品「月下渓流図」は、“奇跡”の名画とも称される傑作。戦後アメリカに渡り、今回60年ぶりに里帰りするこの神秘的な絵の魅力に迫る。
桃山の巨匠・海北友松。大迫力の龍、豪華な牡丹(ぼたん)、独自の画風で武家から朝廷まで魅了。60年ぶりに帰還する最晩年の傑作「月下渓流図屏風」の神秘的な世界に迫る
http://www4.nhk.or.jp/nichibi/
桃山の孤高の絵師、海北友松
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開館120周年記念特別展 海北友松、京都国立博物館
2017年4月11日(火)~5月21日(日)

2017年4月20日 (木)

茶の湯、東京国立博物館・・・信長はなぜ本能寺で殺されたのか

20170411Seikadou_youhentenmoku茶の湯、東京国立博物館・・・曜変天目、漆黒の闇のなかに輝く瑠璃色の星
桜満開の森を歩いて、春爛漫の博物館に行く。曜変天目を再びみる。足利義政、織田信長、千利休、松平不昧、天下の武将や茶人たち。天下の名画、名碗は歴史の波瀾の波を流転した。
戦国の趣味人は、茶会に何を求めたのか。天下布武、安土城、茶の湯。本能寺茶会。織田信長は、新しい価値観を創造した。
信長はなぜ本能寺で殺されたのか。
曜変天目茶碗、幻想的な虹色の斑紋、瑠璃色の輝き、青と藍、漆黒の闇の宇宙。
曜変天目茶碗は、天下の名器天目茶碗のうち、最上級とされる。(『君台観左右帳記』)八代将軍、足利義政が愛した天目茶碗。足利義政が愛した「青磁輪花茶碗 銘 馬蝗絆」。
*曜変天目茶碗、建窯、12世紀、南宋時代(静嘉堂文庫蔵)は、三代将軍家光から稲葉家に下賜された。
織田信長が所持した天下の唐物肩衝茶入「初花」「新田」。「遠浦帰帆図」牧谿筆(南宋時代・13世紀)は、足利義満の鑑蔵印「道有」があり、のちに織田信長が所持した。
牧谿「観音猿鶴図」「遠浦帰帆図」、「廬山図」玉澗筆。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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永遠を旅する哲学者、時を超え黄昏の丘を超えて、美へ旅する。
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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信長はなぜ本能寺で殺されたのか
織田信長と茶会・・運命の本能寺
【織田信長と茶会】天下布武
1567年、信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国、周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになる。
岐阜城には、山のふもとに迎賓館を作り、山の上に茶室を作る。銀閣寺「漱蘚亭」にならった。*
1568年、10月2日、堺に矢銭を課した織田信長に抗戦しようとする町衆を今井宗久らが説得。この日、今井宗久は、織田信長に、松島茶壺、紹鴎茄子を献上。
1569年、織田信長、丹羽長秀、松井友閑らに命じて、洛中洛外の茶器の名物狩り。
1571年、元亀二年、織田信長、東福寺にて茶会を催す。茶頭は、今井宗久。この年、比叡山焼き討ち。
1574年天正二年、4月3日、織田信長、相国寺にて茶会を催す。蘭奢待を千利休、山田宗及に下賜する。
千利休は51歳の1573年、1574年(52歳)、1575年(53歳)に、織田信長主催の京都の茶会に参加。茶会は宴会。利休は、信長と48歳、1570年、出会う。
羽柴秀吉、柴田勝家、池田恒興、丹羽長秀などの織田家臣、茶の湯に励む。
1576年(天正4年) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始。1579年(天正7年)5月、完成した天主に信長が移り住む。
運命の本能寺茶会
織田信長は、肩衝茶入「天下の三肩衝」(さんかたつき)を集めるため、本能寺にて、茶会を催す。2つは織田信長が持っていた。*
*「天下の三肩衝」といわれる「楢柴」「初花」「新田」。
博多豪商の島井宗室が「楢柴」をもっていた。
信長の5軍団のうち、明智光秀軍以外の4軍団は京都にいない。信長は70人の供の者だけであった。
【織田信長 最期の茶会】1582年(天正十年)6月1日、本能寺にて信長が茶会を催す。
利休60歳。信長48歳。1582年6月1日、本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催される。この夜、信長は明智光秀の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散った。
【本能寺の変】天正十年、6月1日夜。明智光秀、謀反の原因。怨恨説、野心説、黒幕説。
怨恨はあり得ない。小和田哲男、谷口克広『集中講義』P.166
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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若き織田信長、苦闘の日々
病の織田信長を、弟信行が謀反を企て、信長は返り討ち
弘治三1557年、11月2日、病の織田信長を、弟信行が謀反を企て、清州城で返り討ちする。誅殺。家臣、池田氏。池田恒興らが殺害。信長24歳の時。
池田恒興の子、池田輝政が、姫路城大改修(1601—1609)。5層7階の連立式天守を完成。
1557年、生駒家宗の娘、芳野との間に嫡男、信忠、幼名、奇妙丸を得る。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』
戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
https://t.co/TtfGTKcUEL
織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術
https://t.co/57jbBNMOeG
織田信長の城 安土城、琵琶湖のほとりに聳える
https://t.co/M42reazRZU
若き織田信長、戦国武将、復讐、天下布武
http://bit.ly/2lbezTP
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曜変天目の再現に挑む陶芸家は、非業の死を遂げる。
なぜ陶芸家たちは、このあまりに高い壁に魅せられ、挑んでゆくのか。 京都の桶谷寧氏は「曜変は世界に残された神秘性の最後の砦」。制作方法は全くの謎、多くの日本の陶芸家が、妖しい宇宙に迫ろうと心血を注いでいる。林 恭助氏は曜変天目に挑み続けている。
*曜変天目茶碗、建窯、12世紀13世紀、南宋時代。東山文化、足利政義の時代から伝世。
★参考文献
曜変天目復元に挑む(2002/10/19日経新聞)
曜変天目誕生の謎に迫る(2004/11/13朝日新聞)
ひと 林 恭助さん(2007/3/16朝日新聞)
曜変の光に魅了され 謎の制作方法に挑む陶芸家たち(2007/6/17朝日新聞)
安藤 堅著『碗の中の宇宙』(2003年9月 新風書房)
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展示品の一部
油滴天目(大阪市立東洋陶磁美術館蔵)、国宝
大井戸茶碗 銘 喜左衛門(京都・孤篷庵蔵)、国宝。
志野茶碗 銘 卯花墻、国宝(三井記念美術館蔵)
天下の唐物肩衝茶入「初花」。「遅桜」
黄天目、珠光天目
白天目、竹茶杓
室町幕府8代将軍、足利義政が愛した「青磁輪花茶碗 銘 馬蝗絆」(ばこうはん)。
織田信長から贈られた柴田勝家所持の「青井戸茶碗 銘 柴田」。歴史上の著名人に所縁ある茶碗。
青磁輪花茶碗「銘 馬蝗絆」(東京国立博物館蔵)重要文化財 
青井戸茶碗「銘 柴田」(根津美術館蔵)重要文化財、織田信長から贈られた柴田勝家所持。
本阿弥光悦作「黒楽茶碗 銘 時雨」
赤楽茶碗「銘 無一物」(兵庫・頴川美術館蔵)重要文化財、楽焼の始祖、長次郎が作った。千利休好み。
黒楽茶碗「銘 時雨」長次郎(名古屋市博物館蔵)重要文化財 
「遠浦帰帆図」牧谿筆(南宋時代・13世紀)京都国立博物館蔵、重要文化財
本図を含む瀟湘八景図は、中国の洞庭湖に注ぎ込む瀟水と湘水一帯の景勝を描いたもの。足利義満の鑑蔵印「道有」があり、のちに織田信長が所持した。
「廬山図」玉澗筆、中国 南宋時代・13世紀、岡山県立美術館蔵(4月11日〜5月7日)重要文化財
牧谿にならぶ中国の著名な画家の一人、日本で高く評価されてきた禅僧画家、玉澗の名品。かつて佐久間将監が茶掛けに合うように裁断したというエピソードがある。
「紅白芙蓉図」李迪筆、南宋時代・慶元3年(1197)国宝、東京国立博物館蔵。南宋の画院画家、李迪による花の絵。1日で白から紅に色を変える酔芙蓉を瑞々しく繊細に描く。
―――――
流転の絵画、牧谿
牧谿「観音猿鶴図」大徳寺、国宝。長谷川等伯「枯木猿猴図」、数々の猿猴図に影響を与えた。牧谿「遠浦帰帆図」。
足利義満から織田信長まで、愛された画家、牧谿。宋末から元初の画僧。蜀 の人。
牧谿『瀟湘八景図』は、足利義満が切断した。『煙寺晩鐘図』は、13代将軍足利義輝を暗殺した松永久秀の手に渡り、続いて彼を降伏させた織田信長、徳川家康の元へ、権力の推移と伴に流転した。
―――――
茶の湯、東京国立博物館
2017年4月11日(火) ~ 2017年6月4日(日)
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1828

2016年9月 4日 (日)

伊藤若冲、千載具眼の徒をまつ、動植綵絵、彼方への旅

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第93回
伊藤若冲、千載具眼の徒をまつ、動植綵絵、彼方への旅

花吹雪、花も嵐も踏み越えて、緑深い森を歩いて、美術館に行く。牡丹、躑躅、紫の花咲く。春爛漫、花の匂い漂う森。永遠を旅する哲学者は、守護精霊の豹に導かれて、智慧の羅針盤の指す方向に、歩いていく。新緑の森を森の奥へ、白いドレスの女は森を彷徨い歩く。『老松鸚鵡図』の鸚鵡のように。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
瞬間の中に、永遠の今、生命の宇宙と個の宇宙の融一。戦国武将の競争世界を生きてきた、旅する哲学者。陥れる策略、謀反、嫉妬、詐欺、詭計、殺意うずまく階級社会、生き残りをかけて戦い敗れた日々。蘇る哲学者。
伊藤若冲は40歳の時、隠居して絵の道に専念する。40歳の時から『動植綵絵』を10年の歳月をかけて完成する。一族の永代供養のために。
愚者よ、外見で無用と決める愚かさに気づけ。「大盈若沖、其用不窮」『老子』。恨血千年土中碧、恨みの血は千年地中に凝結し碧玉となる。花ゆらゆら夕べに散る。森の残照。
見果てぬ夢を見る人は、どのように希望をつなぐのか。「千載具眼の徒を竢つ」(若冲)。千年の後、具眼の士が現われるのを待つ。と絵師はいう。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
―――――
■若冲は35歳の時、相国寺にて、僧、大典顕常(1719年—1801年)に出会う。売茶翁(1675年—1763年)とも出会う。若冲という名を得る。伊藤若冲は40歳の時から『動植綵絵』を10年の歳月をかけて完成する(宝暦7年頃1757年から明和3年1766年)。人知れず隠れて、寺院の秘密の部屋で超絶技巧を磨き貫き、技を駆使して、革新的技法、創造的芸術を探求した。裏彩色、色彩の魔術師。8万6千の方眼の中に描かれている極彩色の屏風、『鳥獣花木図屏風』。枡目描きは、西陣織物商、金田忠兵衛がいた。
若冲の超絶技巧の超細密画、微細な生きものの神秘な世界。マクロコスモスとミクロコスモスの調和、宇宙と小宇宙の融一を観照する。寺院の秘密の部屋。
―――――
■永遠を旅する哲学者は、千年後に具眼の士が現われるのを待つ。旅する哲学者は、瞬間の永遠、永遠の今のなかに、美と真理を探求する。美は真であり、真は美である。詩人の魂は、怨みにある。李白の美の源泉は、恨みである。
若冲が『動植綵絵』で追求したものは何か。作品を評価してくれる人が現れるまで千年待つ。天上の宇宙と心の中の宇宙。天上の宇宙と心の中の宇宙。若冲は、生きものの神秘と美に魅入られたのか。若冲の絵画『動植綵絵』の方法とは何か。「内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である」「いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、わが天上の星の輝きと我が心の内なる道徳律」。内なる宇宙は、何を志向したのか。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』より
―――――
■伊藤若冲、謎の生涯
伊藤源右衛門(若冲)(1716-1800)、京都の富裕な青物問屋に生まれ23歳で家業を継ぎながら、40歳で次弟に家督を譲り、異常に緻密な細密画に生涯没頭したのはなぜか。84歳まで、絵画を追求した若冲。相国寺、大典に出会い、人生が一変する。師なき領域で独創的藝術を探求した。
南蘋派の絵師、鶴亭に影響を受けて1000点に及ぶ中国絵画の臨写(模写)をするが、模写を止め独創性を追求する。「旭日鳳凰図」(1755)から始まる創造的藝術の探求。
若冲は10年の歳月をかけて『動植綵絵』『釈迦三尊像』『釈迦三尊像』を描き、京都、相国寺に寄進した。
*『動植綵絵』「群鶏図」「老松孔雀図」「老松鳳凰図」「牡丹小禽図」「雪中錦鶏図」「芍薬群蝶図」、鳥、植物、微細な生きものの輝く宇宙。
――――――
★主要作品
『動植綵絵』全30幅(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)、『釈迦三尊像』3幅、相国寺。(宝暦7年頃1757年から明和3年1766年)
伊藤若冲『象と鯨図屏風』紙本墨画 六曲一双 寛政9年(1797年)MIHO MUSEUM
大阪西福寺蔵『仙人掌群鶏図襖絵』(重要文化財)。金地の襖の上に描かれた鶏とサボテンの極彩色の美。「若冲の鶏」。
『菜蟲譜』(佐野市立吉澤記念美術館)。青物問屋の長男として生まれた若冲の動植物への愛情があふれ出ている作品。横10メートル以上に及ぶ作品の中に98種類の野菜、果物、そして56種類の昆虫が描かれている。若冲の画力とユーモア。
『百犬図』(個人蔵)、縦1.4メートルの大画面に、様々な表情と容姿の犬が描き込まれた。
重要文化財『葡萄小禽図襖絵』『松鶴図襖絵』(金閣鹿苑寺)、重要文化財『蓮池図』(西福寺)。
『鳥獣花木図屏風』(18世紀、プライス・コレクション) *日本美術史上、最も謎に満ちた作品*
―――――
★若冲屏風
★3点の若冲屏風に作者帰属問題がある。*『白象群獣図』( 1772-87年個人蔵)、*『樹花鳥獣図屏風』(18世紀、六曲一双・紙本著色、各137.5×355.6cm)静岡県立美術館
*佐藤康宏(東京大学教授)は「樹花鳥獣図屏風」を「工房作」、「鳥獣花木図屏風」を「作者不明の模倣作」と指摘した。若冲作とされる桝目描きの作品は、ほかに「白象群獣図」がある。白象は若冲作とした。
*(佐藤康宏「若冲・蕭白とそうでないもの」『美術史論叢』2010東京大学)
*「若冲屏風」は本人の作? 朝日新聞2010/05/01
―――――
★若冲展の歴史
*没後200年「若冲展」京都国立博物館、平成12年(2000)
*「若冲ワンダーワールド」、MIHO MUSEUM、2009年9月1日(火)~ 12月13日(日)
*プライスコレクション 若冲と江戸絵画、東京国立博物館、2006年7月4日(火) ~ 2006年8月27日(日)、
*愛知県美術館、2007年4月13日(金)~ 6月10日(日)
*伊藤若冲アナザーワールド、千葉市美術館、2010年5月22日(土) ~ 6月27日(日)
*「皇室の名宝 日本美の華」、若冲『動植綵絵』、東京国立博物館、2009年10月6日~11月3日
*「若冲展」、相国寺承天閣美術館、2007年5月13日-6月3日
*「Kawaii 日本美術」山種美術館、伊藤若冲《樹花鳥獣図屏風》(静岡県立美術館)、2014年2月4日(金)~3月2日(日)
*「若冲と蕪村」生誕三百年同い年の天才絵師、サントリー美術館、2015年3月18日(水)~5月10日(日)「象と鯨図屏風」伊藤若冲筆 六曲一双、右隻左隻寛政9年(1797) MIHO MUSEUM蔵、「白象群獣図」個人蔵
*わが名は鶴亭―若冲、大雅も憧れた花鳥画、神戸市美術館
「桐に鳳凰図」鶴亭筆 宝暦3年(1753年)個人蔵
2016年4月9日(土)~5月29日(日)
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/main.html
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★若冲展 生誕300年記念、東京都美術館
2016年4月22日(金)~5月24日(火)
http://www.tobikan.jp/
★参考文献
*狩野博幸『その絵師、若冲なり』2016
辻惟雄『奇想の系譜』1970
『若冲展 生誕300年記念』図録、東京都美術館2016
大久保正雄2016年9月4日

2016年5月23日 (月)

北斎への旅 『旅する哲学者 魂への旅』より

PhotoBoston_2006_12_2Phoenix北斎への旅 大久保正雄『旅する哲学者 魂への旅』より
不死鳥の画家、北斎
北斎、93回引越、30回画号を変える。73歳で代表作「神奈川沖浪裏」『富嶽三十六景』を生みだす。北斎は、67歳で脳卒中に襲われ、自分で治す。柚子を磨り潰して日本酒に溶かして飲む自家療法で治した。
北斎が追い求めていたのは唯一つ。画業を極めること。75歳で傑作『鳳凰図屏風』を画く。北斎 88歳ごろ『富士越龍図』(1849年)を画く。90歳、画狂老人卍として死ぬ。
*大久保正雄『不死鳥の画家、北斎 北斎は天翔ける。美の天に向かって』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
北斎『富嶽三十六景』1831年(天保2年)頃から1835年(同4年)71歳から75歳
北斎『鳳凰図屏風』1835 75歳
北斎「富士越龍図」1849年 88歳

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