「国宝 熊野御幸記と藤原定家の書―茶道具・かるた・歌仙絵とともに―」・・・御子左家の戦い、孤高の詩人、俊成・定家
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第413回
幻想の美、達磨歌(禅問答のような難解な歌)を詠う、藤原定家でさえ、母、美福門加賀を偲ぶ哀傷歌には、真情が溢れている。玉響(たまゆら)の露も涙もとどまらず亡き人恋ふる宿の秋風(新古今788)哀傷歌。*一一九三年7月二日亡母を偲び詠歌。二月十三日定家母没。
新古今歌人は、鹿を歌った。本阿弥光悦、俵屋宗達『鹿下絵新古今和歌巻』17世紀を思い出す。奥村土牛《鹿》、上村松篁《白孔雀》をみると、亡き母の愛犬、トイプードル、緑紅のダルマインコを思い出す。
藤原定家39歳と後鳥羽上皇20歳の出会い。
藤原俊成、人生の黄金時代の頂点に死す、80から90歳。
後鳥羽上皇(1180-1239)、隠岐の島にて、59歳で死す。
藤原定家、『新古今和歌集』49首、『近代秀歌』『明月記』、80歳で死す。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【六条藤家と御子左家との戦い】【御子左家】藤原道長の六男、藤原家長を祖とする家系。俊成・定家により対立していた六条藤家を圧倒し、歌壇の中心となった。
【六条藤家】平安末期から鎌倉初期にかけて栄えた和歌の家系。京都六条烏丸に住んだ藤原顕季あきすえを祖とし、顕輔あきすけ・清輔・顕昭けんしょうなどすぐれた歌人・歌学者を出した。趣向を重んじる歌風で、藤原俊成・定家の御子左みこひだり家と対立したが、南北朝時代に断絶。
藤原定家(1162-1241)、苦節の前半生、80歳で死す。
定家は、下級官人の家柄に生まれだが、上級貴族の末席にまで辿りついた。父は大歌人、藤原俊成(1162-241)だが、県知事にあたる「国司」を歴任する地位にとどまり、国司は金持ちだが、地方職なので高い位階は得られない。一度国司に任官すると、地方暮らしが続き、中央で要職に就ける可能性がなくなる。宮中の栄達を望んだ定家は、父親とは違い、都にとどまり、当時、藤原北家の頂点であった九条家に仕え、辛抱強く昇進の機会をうかがい、晩年に「参議」という官職を得て、上級貴族への仲間入りを果たす。朝廷内で成功。
定家が若かった頃、源平の戦いが勃発したが、その際に彼は『明月記』日記に、「紅旗征戎、吾が事に非ず」という言葉を残した。
【『明月記』、「紅旗征戎、吾が事に非ず」18歳から73歳】
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【後鳥羽上皇と藤原定家】
【後鳥羽天皇(1180-1239)、安徳天皇入水、宝剣を失った天皇】
後鳥羽天皇(1180-1239)は、建久9年(1198)譲位して院政を敷いた。上皇は、和歌に興味を持ち始め、正治2年(1200)8月、『初度百首』を催し、定家は作者の一人に呼ばれた。定家は建仁元年(1201)6月『千五百人歌合』に百首歌を詠進、7月、和歌所寄人を拝命した。10月、上皇の「熊野行幸」を拝命。定家は「面目過分」と名誉としながらも、「虚弱体質」呼吸器疾患に苦しみ悩んだが、建仁元年(1201)10月5日、上皇に随行した定家の旅日記「熊野御幸記」を書く。
【後鳥羽上皇、院政(1198-1221)】
1201和歌所を設置。1205『新古今和歌集』竟宴。第八勅撰和歌集。以後も切り継ぎ。「隠岐本」。九条兼実らの親幕派と対抗。幕府討伐を目指す。北条義時に挙兵1221年、承久の乱、挙兵して敗北。隠岐に配流される。
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【藤原俊成と藤原定家】
藤原定家(1162-1241)は、藤原俊成(1162-241)の長男、歌道の後継者と期待される。安元3年(1177年)定家は疱瘡にかかって二度目の大病を経験し、以降しばしば呼吸器疾患に苦しむ肉体的に虚弱な体質となるとともに、神経質で感情に激する傾向が現れる。
文治元年(1185年)11月末に新嘗祭の最中に殿上で少将・源雅行に嘲笑されたことに激怒し、脂燭を持って雅行の顔を殴ったため、勅勘を受けて除籍処分を受ける事件を勃発。これに対して、翌文治2年(1186年)3月に俊成が後白河法皇の側近である左少弁・藤原定長に取りなしを依頼したところ、法皇から赦免の返歌があった。俊成の赦免嘆願の書状は現存しており、重要文化財に指定されている(香雪美術館所蔵。1201年、後鳥羽上皇の和歌所寄人を勤め、新古今和歌集選者に選ばれる。
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【藤原俊成(1114-1204)】人生の黄金時代の頂点に死す、90歳。
【六条藤家と御子左家との戦い】
永久2年(1114年)⁻元久元年11月30日(1204年12月22日)。10歳で父と死別し、鳥羽院近臣であった義兄 藤原顕頼の後見を得て国司を歴任したが、位階は18年間従五位下のまま停滞した。天承・長承期(1131~35年)、岳父藤原為忠が主催する2度の「為忠家百首」へ出詠するなど詠作を本格的に始め、保延4年(1138年)藤原基俊に師事。
崇徳天皇の知遇を得る一方、美福門院の乳母子である美福門院加賀[定家の母]と再婚し、久安元年(1145年)以降、美福門院の御給により昇叙されるようになる。
安元3年(1177年)に藤原清輔が没し、治承2年(1178年)九条兼実と初めて会談、九条家歌壇に師として迎えられ「右大臣家百首」などを詠進する。寿永2年(1183年)後白河院の院宣を受け、文治4年(1188年)第七勅撰集『千載和歌集』を撰進、名実ともに歌壇の第一人者となった。文治5・6年(1189・90年)には皇大神宮・春日・賀茂・住吉・日吉の5社に百首歌を奉納(「五社百首」)。建久4・5年(1193・94年)頃成立した「六百番歌合」(九条良経主催、俊成加判)で、六条藤家と御子左家の歌人たちがその威信をかけて激突。
正治2年(1200年)以降歌壇を形成した後鳥羽院の命により「正治初度百首」「千五百番歌合百首」等を詠進。建仁元年(1201年)和歌所寄人、建仁2年(1202年)「千五百番歌合」の春歌第三・四巻の判者を務める。建仁3年(1203年)後鳥羽院より九十賀宴を賜り、鳩杖・法服等を贈られる。元久元年(1204年)秋「祇園社百首」、11月10日「春日社歌合」と最後まで詠作を続け、同年11月30日91歳で生涯を閉じた。
藤原定家「明月記」全巻展示、五島美術館で見たのは20年前。
【承久の乱、後鳥羽上皇、北条義時】承久の乱1221、北条義時追討の院宣。三浦義村は、三浦胤義の手紙を義時に提出、弟の反逆には同心しない。後鳥羽上皇挙兵の報に動揺する御家人に対して北条政子は「故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い」演説『吾妻鏡』
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後鳥羽上皇と鎌倉幕府との戦い
【承久の乱、天皇家に武家が勝つ、原因】3上皇追放。承久3(1221)年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の最高権力者、北条義時の追討を命じた。承久の乱以後、約650年続く武士の世ができあがる。御家人たちの忠誠の対象は自分たちの利益を守ってくれる頼朝であって朝廷ではない。後鳥羽上皇、19年、島流し、59歳
上皇方が尾張河で幕府軍に敗れると、後鳥羽・土御門(つちみかど)・順徳の3上皇、仲恭 ... 京都では,親幕派の九条兼実一派が宮廷から追放され,古代権力回復を画策する。
【鎌倉幕府、『吾妻鑑』、粛清の嵐、13人の運命】後白河法皇、平清盛、安徳天皇入水、源義朝、源頼朝、源義経、藤原秀衡、藤原泰衡、梶原景時、比企能員、上総広常、源頼家、北条時政、北条義時、実朝「八幡宮大階段」、公暁、北条泰時、後鳥羽上皇「承久の乱」、義時暗殺伊賀氏の変、三浦義村
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【藤原道長1027年62歳で死去】晩年1027年、後一条天皇に嫁いだ娘の中宮威子が懐妊する慶事(威子は皇女を出産)。同年、三条天皇の皇后・娘の藤原妍子、嘱望されながらも若くして出家した三男の藤原顕信が次次亡くなる
【藤原道長、三后、独占】1018年10月16日。藤原道長は、三女・藤原威子の立后(後一条天皇に入内)の日に「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」との有名な歌を詠み、道長が三后(皇后・皇太后・太皇太后)をすべて自分の娘で占める【紫式部41歳で死す】式部の娘、賢子83歳で死す。2位、位人臣を極める。
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展示作品の一部
藤原定家筆「国宝 熊野御幸記」1201年。自ら悪筆と言う【定家様】
藤原定家筆「大嘗会巻」、藤原道長(966~1027)の時代に活躍した藤原実資さねすけ(957~1046)の藤原定家筆日記『小右記しょうゆうき』から長和元年(1012)の大嘗会の記録を定家が筆写したもの、初公開。また、定家の歌切や消息、3幅の藤原定家画像も今回が初公開。【なぜ、定家は、藤原実資『小右記』大嘗会巻を筆写したのか】藤原実資(957-1046)のように、宮廷で立身出世したかった。
以上の作品については、蔵品図録『国宝 熊野御幸記と藤原定家の書』
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参考文献
「国宝 熊野御幸記と藤原定家の書―茶道具・かるた・歌仙絵とともに―」・・・御子左家の戦い、孤高の詩人、俊成・定家
http:// mediter ranean. cocolog -nifty. com/blo g/2025/ 12/post -f78257 .html
http://
新古今歌人、乱世に咲く花 美への旅 - 大久保正雄『地中海紀行 旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第70回 新古今歌人P32—37
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藤原定家筆「国宝 熊野御幸記くまのごこうき 」が久方ぶりに全巻披露されます。合わせて館蔵品の中から藤原定家の書を選んで展示されます。なかでも「大嘗会巻だいじょうえかん」は、三井記念美術館では初公開になります。また、定家の歌切うたぎれや消息しょうそく、3幅の藤原定家画像も今回が初公開のものです。年末年始にふさわしく、茶道具やかるた・歌仙絵とともに和歌の世界にも遊べる展示内容となっています。
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国宝 熊野御幸記と藤原定家の書―茶道具・かるた・歌仙絵とともに―
三井記念美術館(東京都中央区日本橋室町2-1-1 三井本館7階)
会期:12月6日(土)〜2026年2月1日(日)まで開催中
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