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2025年8月の記事

2025年8月27日 (水)

「没後50年 髙島野十郎展」・・・空海の密教思想への傾倒

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第404回

高島野十郎、田中一村、孤高の人は何を求めたのか。
水産学を究めることを嘱望されたが辞退。独学で念願の絵の道に入り、孤高の人生を歩き、85歳で、千葉にて死す。写実を追求した画家の謎。
【高島野十郎(1890-1975)】最も美しい作品は何か。
《蝋燭》大正期、福岡県立美術館蔵、《絡子をかけたる自画像》大正9(1920)年、福岡県立美術館蔵、《からすうり》昭和10(1935)年、福岡県立美術館蔵、《すいれんの池》昭和24(1949)年以降、福岡県立美術館蔵、《満月》昭和38(1963)年頃、東京大学医科学研究所蔵、《月》昭和37(1962)年、福岡県立美術館蔵
【高島野十郎】1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年)9月17日)本名は彌壽、字は光雄。東京帝国大学水産学科を首席卒業、恩賜の銀時計拝受を辞退。水産学を究めることを嘱望されたが辞退。独学で念願の絵の道に入り、画壇との付き合いを避け、独身を貫く。透徹した精神性でひたすら写実を追求、隠者のような孤高の人生を送った。貧困と孤独を極め、85歳で死す。生前はほぼ無名、1986年に福岡県立美術館が初の回顧展が開かれた。『傷を負った自画像』1916。
学生時代から親交がある川崎狭『過激なる隠遁 高島野十郎評伝』は「画家は本来の人生を生きるために人生を捨てたのである」と言う。自身の天職と生活の方法とが矛盾することは、公輝ある者の運命か。
参考文献
「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」・・・孤高の画家、人生の光芒、彼岸への旅

http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/09/post-236a16.html
「没後50年 髙島野十郎展」・・・空海の密教思想への傾倒
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-fc2837.html
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より

大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
青年時代からの空海の密教思想への傾倒を読み解き
髙島野十郎と密教思想を読み解いた人はいない。
空海の密教思想を読み解くためには、『秘密曼荼羅十住心論』(830)、『即身成仏義』819-820、【五智如来】を解明しなければならない。
【空海『聾瞽指帰』(797)】兎角公の屋敷で兎角公の甥蛭牙公子・放蕩青年を翻意、亀毛先生は儒教学問を学び立身出世することを教え、虚亡隠子は道教の不老長寿を教え、空海の化身である仮名乞児は仏教の諸行無常と慈悲を教える。空海が大学寮明経科退学、官僚の立身出世を諦めた理由。
【空海『秘密曼荼羅十住心論』(830) 】
淳和天皇の詔勅(天長6)による。日本には諸宗派があり、各の宗派がどのように違い、どのように優れているのか、論じるようにという詔勅である。空海は『大日経』の住心品を中心にして『十住心論』を書いた。
第九住心 極無自性心
 「水は自性なし、風に遇うてすなわち波たつ。法界は極にあらず、警を蒙って忽ちに進む。」華厳宗では四種法界を説く。その四種の一つが事法界、普通の物事がそのままあり。それが平等だというのが理法界。事と理が一緒になったのが事理無礙法界で、最後は事事無礙法界。
事法界、理法界、両者を止揚した、無自性・空界と現象が共存する理事無礙法界、事物が融通無碍に共存する事々無礙法界に到達する。毘盧遮那仏と一体になる融通無碍の境地。
『華厳経』の蓮華蔵世界である。
第十住心 秘密荘厳心
 「顕薬塵を払い、真言、庫を開く。秘宝忽ちに陳じて、万徳すなわち証す。」顕薬は塵を払うが、真言は秘密の宝の庫を開く。大日如来、真言密教の境地。秘密荘厳心では、智法身と理法身、知性(ノエーシス)と思惟対象(ノエーマ)、金剛界と胎藏界が一体融合して、
【空海『即身成仏義』819-820】六大無碍にして常に瑜伽なり(体)四種曼荼各離れず(相)三密加持すれば速疾に顕はる(用)重重帝網なるを即身と名づく(瑜伽)法然に薩般若を具足して、心数・心王、刹塵に過ぎたり、各五智・無際智を具す、円鏡力の故に実覚智なり(成仏)
【空海『秘蔵宝鑰』序830】
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に、死んで死の終わりに冥し」
悠々たり悠々たり太(はなは)だ悠々たり、内外の縑緗(けんしょう) 千万(せんまん)の軸(じく)あり。杳杳たり杳杳たり 甚だ杳杳たり。
空海【五智如来】
大日如来を中心に、阿閦・宝生・無量寿(阿弥陀)・不空成就(釈迦)が東西南北囲む配。大日如来:法界体性智(大日如来の絶対的な知恵)阿摩羅識=第9識。阿閦如来:大円鏡智:阿頼耶識=第8識。宝生如来:平等性智:末那識=第7識。
空海【五智如来】大日如来を中心に、阿閦・宝生・無量寿(阿弥陀)・不空成就(釈迦)が東西南北囲む配。大日如来:法界体性智(大日如来の絶対的な知恵)阿摩羅識=第9識。阿閦如来:大円鏡智:阿頼耶識=第8識。宝生如来:平等性智:末那識=第7識。無量寿如来:妙観察智(よく観察して見極める知恵)意識 第6識。不空成就如来:成所作智(すべきことを成就させる知恵)前5識(眼識、耳識鼻識、舌識、身識)、五感(眼、耳、鼻、舌、身)による感覚作用。
【瑜伽行唯識学派、世親】「唯識三十頌」「唯識二十論」。「唯識三十頌」では八識説を唱え、種子は前五識から6識・意識、7識・末那識を通過して、8識・阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識である種子生現行。阿頼耶識縁起
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
心に火を灯すロウソク。浄土へと導く月明かり。無名のまま世を去り、近年、人気が高まる #髙島野十郎 。「写実の極致は慈悲」謎めいた言葉を残し、唯一無二の写実を追求した画家の生涯に迫る。
――
千葉県立美術館、没後50年 髙島野十郎展 プレスリリースより
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/exhibition/events/event-7689/
髙島野十郎(1890-1975)は、福岡県久留米市出身で主に東京で活動し、晩年千葉県柏市に移り住んだ洋画家で、「蝋燭(ろうそく) 」や「月」などの主題を、細部までこだわった筆致で描きました。没後50年の節目を機に開催する本展は、これまでに開催されてきた髙 島野十郎展を超える最大規模の回顧展です。代表作はもちろんのこと、 彼の芸術が形成されたルーツを遡り、生涯にわたって自身のよりどころとしてきた仏教的思想を読み解きつつ、青年期や滞欧期の作品など、従来の展覧会では大きく取り上げられることがなかった部分にもスポットを当てます。さらに、野十郎や関係者による書簡や日記、メモ等の資料をもとに、彼がひとりの人間としてどのように生き、 周囲とどのような関係を築いて絵かきとしての歩みを進めたかという部分にも注目し、野十郎の人間像にも改めて迫ります。野十郎は、71歳の時に当時まだ田畑が広がる静かな田園地帯であった柏市増尾に移り住み、晴耕雨読ならぬ晴耕雨描の生活を送りました。彼は訪ねてきた姪に「ここは俺のパラダイスだ」と語ったといいます。千葉の海もまた、絵の題材として彼の心を掴みました。野十郎終焉の地であり、月や海など彼を魅了した豊かな自然のある千葉 で、野十郎の絵画世界に思う存分浸っていただけるまたとない機会です。
千葉県立美術館、
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/exhibition/events/event-7689/
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没後50年 髙島野十郎展
――
展示作品の一部
《空》昭和23(1948)年以降、個人蔵
《満月》昭和38(1963)年頃、東京大学医科学研究所蔵
みどころ①過去最大規模、初公開作品も含めた約150点を公開!
代表作の多くを含む過去最大規模で、初公開作品も含めた約150点を展示します。没後50年の節目に開催する本展は、過去に幾度となく開催されてきた髙島野十郎展を超える過去最大規模の回顧展です。野十郎の作品のほか、青木繁や坂本繁二郎など同時代の野十郎と関係深い作家の作品も展示します。
《ティーポットのある静物》昭和23(1948)年以降、福岡県立美術館蔵
みどころ②作品における仏教的思想や、青年期・滞欧期などの画業初期に注目
野十郎の芸術を象徴し、多くの方に人気を博している「蝋燭」や「月」の作品はもちろんのこと、彼の芸術が形成されたルーツを遡り、野十郎が生涯、自身のよりどころとしてきた空海の密教思想を読み解きつつ、青年期や滞欧期の作品など、従来の展覧会ではそれほど大きく取り上げられることがなかった部分にもスポットを当てます。
《からすうり》昭和10(1935)年、福岡県立美術館蔵
《月》昭和37(1962)年、福岡県立美術館蔵
みどころ③「孤高の画家」像を解体し、野十郎の素朴な人間像に迫る
福岡県立美術館が所蔵している書簡や日記、メモ等の関連資料を読み解き、関係者の証言を集めることで、彼がひとりの人間としてどのように生き、周囲とどのような関係を築き、絵かきとしての歩みを進めたかという部分にも注目し、野十郎の人間像にも改めて迫ります。
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展示構成
プロローグ 野十郎とは誰か
髙島野十郎の画業が世に初めて知られたのは、彼の死後約10年を経た昭和61(1986)年でした。以来、いくつかの展覧会や書籍で紹介されたとはいえ、多くの人の目に触れてきたわけではありません。そこでこの章では、髙島野十郎の人と作品についての全体像を概観します。
《絡子をかけたる自画像》大正9(1920)年、福岡県立美術館蔵
《ノートルダムとモンターニュ通Ⅱ》昭和7(1932)年頃、福岡県立美術館蔵
《蝋燭》大正期、福岡県立美術館蔵
第1章 時代とともに
青木繁や坂本繁二郎、古賀春江など、交流のあった作家や同時代の画風を共有した作家の作品も紹介しながら、野十郎が写実の画風を確立させていく道程を同時代の美術の中で捉え、従来の「孤高の画家」像を解体します。
第2章 人とともに
野十郎と、東京帝国大学からの友人や画家仲間、文化人、著名人との関係やエピソードを作品や資料で紹介し、彼の人間関係や人となり、人生観に迫ります。
《筑後川遠望》昭和24 (1949)年頃、福岡県立美術館蔵
第3章 風とともに
ヨーロッパ留学中の風景画や日本全国を旅して描いた四季の風景画を展示し、制作や構図の一貫性を提示するとともに、最新の調査結果を紹介します。
第4章 仏の心とともに
野十郎が生涯よりどころとしていた仏教に注目し、寺社仏閣をダイレクトに描いたもののほか、青年時代からの空海の密教思想への傾倒を読み解き、霊場巡りへの関心のなかで訪れた場所を描いた風景画、さらには一見すると普通の静物画や風景画に込められた仏教的な考え方を紹介します。
《割れた皿》昭和23(1948)年以降、福岡県立美術館蔵
エピローグ 野十郎とともに
本展全体を振り返りながら、もう一度野十郎の作品と世界観に浸っていただく章とします。展覧会を通して揺らぎ、あるいは膨らんだ野十郎像を、ふたたび見つめなおし、身近に野十郎を体感してみてはいかがでしょうか。
《秋陽》昭和42(1967)年、福岡県立美術館蔵
その他の主要な展示作品
《すいれんの池》昭和24(1949)年以降、福岡県立美術館蔵
《睡蓮》昭和50(1975)年、福岡県立美術館蔵
《こぶしとリンゴ》昭和41(1966)年頃、福岡県立美術館蔵
《さくらんぼ》昭和31(1956)年頃、福岡県立美術館蔵
《犬吠埼》昭和10年代、福岡県立美術館蔵
本展は、没後50周年を記念した過去最大規模の記念碑的な回顧展。初公開となる作品を含めて、約150点が披露されます。さらに書簡や日記、メモ等の関連資料を読み解き、特にこれまであまり焦点が当たってこなかった青年期や滞欧期など画業初期の活動もクローズアップ。従来の「孤高の画家」というイメージだけでは捉えきれない、画家の知られざる一面に光をあてた意欲的な展示内容。
――
没後50年 髙島野十郎展
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/exhibition/events/event-7689/
千葉県立美術館 第1・2・3・8展示室(千葉市中央区中央港1-10-1)
2025年7月18日(金)~9月28日(日)
アクセス:JR京葉線または千葉都市モノレール「千葉みなと」駅から徒歩約10分

2025年8月20日 (水)

ツタンカーメンの生涯と謎・・・秘められた古代エジプトの宗教的意味

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第404回
ツタンカーメンの生涯と謎に、秘められた古代エジプトの宗教的意味を考える。
ツタンカーメンの生涯と謎
ネフェルティティの生涯と謎
アクエンアテン王の生涯と謎
ツタンカーメンの生涯は謎に満ちている。ツタンカーメンの心臓が発見されないのは何故か。大神官アイに暗殺されたのか。ネフェルティティの墓はどこにあるのか。アクエンアテン王の異形の容貌は、長頭族か、アマルナ革命はなぜ行ったのか。アテン神とは何か。
ネ第18王朝の王たちの苦難に満ちた人生は、自身の天職と運命とが矛盾する人間に知恵と神秘と力を与える。真言陀羅尼、呪文を唱え、運命を拓く。
ツタンカーメン(在位:紀元前1332〜1323年頃)は、8〜9歳で即位した若きファラオ。19歳で死す。彼の父であるアクエンアテン(アメンホテプⅣ世)は、唯一神アテン(太陽神)を崇拝する急進的な宗教改革を行い、従来の多神教信仰を廃止するという劇的な政策転換を行った。
しかしこの改革は民衆に受け入れられず、アクエンアテンの死後、幼いツタンカーメンは即位とともに伝統的な多神教を復活させた。彼は自身の名前は本来の「ツタンカーテン(アテンに生ける像)」から「ツタンカーメン(アメンに生ける像)」へと改め、かつての国家神アモン(アメン)をはじめとする神々の崇拝を復興させた。宗教的功績こそが、短い治世におけるツタンカーメンの最大の業績。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
1、ツタンカーメンの生涯と謎
【ツタンカーメン】Tutankhamen, King Tut, 紀元前1335 ? - 紀元前1327年頃)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(在位: 紀元前1336年頃 - 紀元前1327年頃。
【ツタンカーメンの墓の謎】
ツタンカーメンの墓は、ネフェルティティの墓がツタンカーメンの墓に転用された。彼が急死したため。【ツタンカーメンの死因】大神官アイ(宰相)による暗殺。戦車からの転落による骨折。諸説あり。
【ツタンカーメンの秘宝】5000点。黄金のマスク。黄金の三重の棺。アンケセナーメンとの休憩の図像の椅子。アヌビス神憎。黄金の厨子。アラバスター製カノポス容器。黄金の胸飾り。隕石の短剣。黄金の短剣。
【ツタンカーメンの心臓が発見されない】
カノポス容器に心臓が含まれていないのは重要な点である。古代エジプト人は心臓を魂の宿る場所と信じていたため、心臓だけは遺体の中に残された。ツタンカーメンの心臓は遺体の中からも発見されず。後述する「心臓の秤量」の審判で必要となるためでもあり。
カノポス・チェストを納めた精巧なカノポス・シュライン(厨子)。金箔で覆われた木製の廟堂の形をしており、台座にはスレッジ(橇)が付いています。屋根部分にはコブラと太陽円盤の装飾が施され、柱にはツタンカーメンの名前と称号を記す聖刻文字が刻まれています。
写真の手前に見える女神像はセルケトで、頭に持つサソリが女神の象徴です。セルケトをはじめとする4女神が四方でこの厨子を囲み、王の内臓が納められた石膏の箱を魔除けの力で守護していた。 他の副葬品も宗教的意味に満ちている。墓から発見されたシャブティ(ウシャブティ)像と呼ばれる小さな人形たちは、死後の王に代わって農作業などの労役を行う従者として作られました。ツタンカーメンの墓には100体以上のシャブティが納められており、彼らを魔法で“働かせる”ための呪文(「シャブティの呪文」)も用意されていました。
『エジプト死者の書』の第6章に相当するその呪文は、葬儀の際に唱えられるかミイラと共に埋葬され、冥界で像に命を吹き込むと信じられていたのです。その他、棺を守護する黒いジャッカルの姿をしたアヌビス神の像、魔除けや再生を象徴するスカラベ(聖甲虫)の護符、永遠の生命を表すアンク(生命の鍵)形の装飾品、日常生活に必要な家具・衣服・楽器・玩具までもが副葬品として納められていました。これらすべてが「現世同様の生活を来世でも送れるように」との願いと、数々の神々の加護を得てツタンカーメンが安らかに冥界を旅できるようにとの祈りを反映している。
【埋葬品に込められた象徴 — 副葬品とカノポス容器】
ツタンカーメンの墓からは5,000点を超える副葬品が出土した。それら一つ一つが、古代エジプト人の死後の世界への備えと信仰を物語っています。注目すべきは、ミイラと共に埋葬されたカノポス容器と呼ばれる内臓収納用の壺や箱です。ツタンカーメンの場合、石膏で装飾された大きな木製の厨子(カノポス・シュライン)の内部に、美しい石膏(アラバスター)製の四角い棺桶状の箱(カノポス・チェスト)が収められていた。
箱の中は四つの区画に仕切られ、それぞれに少年王の顔をかたどった小さな金の棺(ミニチュアのカノプス棺)が納められており、肝臓・肺・胃・腸の四つの内臓が保管されていた。
箱の蓋の上部にはコブラ(ウラエウス)の飾りがずらりと並び、箱の四隅と側面には女神イシス、ネフティス、ネイト、セルケトの4柱の女神像が腕を広げて立っている。彼女らはそれぞれ四方を守護し、内部の王の臓器を守る役割を担っている。
【黄金のマスク】ツタンカーメンの顔そのものを理想化して表現黄金製の覆面です。マスクにはネメス頭巾、その額にはコブラ(下エジプト女神ワジェト)とハゲワシ(上エジプト女神ネクベト)。王が上下二つの国を統べる存在であることと同時に、二柱の女神に守られている。
【黄金の中棺の蓋部分】木製棺に金箔やガラスが細工され、ファラオの顔が精巧に再現されている。瞳は黒曜石と水晶で象られ、生きているかのような表情。額には守護神であるコブラ(ウラエウス)とハゲワシの飾りあり、上下エジプトの統一王であることを示しています。胸元には青い石(ラピスラズリ)などで彩られた首飾りが描かれ、手に握る曲がり杖とムチが王の権威とオシリス神の再生力を表しています。黄金のマスクもこの中棺と同様の意匠で作られており、まるで生前の王が神々しい姿で眠っているかのような印象を与えます。
――
2、ネフェルティティの生涯と謎
【ネフェルティティ】紀元前1370年-紀元前1330年BC1371-1331。15歳で、アメンホテプⅣ世と結婚。6人の娘を生む。2人は王妃となる。男子は生まず。彼女はツタンカーメンの義母となる
【ネフェルティティの謎】ネフェルティティの両親が誰かは不明。2つの説があり、1つは、後にファラオとなる大神官アイと、その妻テイ(Tey)のあいだの娘とする説、もう1つは、ミタンニ王女タドゥキパ(Tadukhipa)を彼女に比定する説。ネフェルティティの墓はどこにあるのか。
【ネフェルティティの記録の消失】在位12年(紀元前1338年)と推定される碑文が、彼女の娘メケトアテンについて言及する最後の記録である。この日付の後、少ししてメケタトンは死去した。アマルナの王家の谷にあるアクエンアテンの墓の浮き彫りは、彼女の葬儀の様を表している。アクエンアテンの在位14年(紀元前1336年)、ネフェルティティ自身に関する歴史的記述が一切消える。アクエンアテン王の死後、3年間統治する。女王にはならず、圧倒的影響力もつ。ネフェルティティ像、ベルリン博物館。アマルナ移転前。
紀元前1331年、40歳で死す。ネフェルティティの死はミステリー。名前、消され、墓、消滅。【ネフェルティティがネフェルネフェルウアテン(Neferneferuaten)の名で女性ファラオとなった】と主張「エイダン・ドドソン」だが3年で退位らしい。
【ネフェルティティ、子女】メリトアテン( ネフェルティティの長女)。スメンクカーラーの妃。メケトアテン(ネフェルティティの次女)。アンケセンパーテン (三女)。のちのアンケセナーメン、 ネフェルネフェルウアテン・タシェリト、 メリトアテン、 ネフェルネフェルウラー、 セテプエンラー、 メケトアテン【アンケセナーメン】ツタンカーメン王妃
――
3、アクエンアテン王の生涯と謎
父はアメンホテプ3世、母は正妃ティイ。
【アクエンアテン王の謎】異形の容貌は、長頭族か、アマルナ様式の孤蝶表現か。アマルナ革命はなぜ行ったのか。アテン神とは何か。アメン神=ラーとはどう違うのか。
【アクエンアテン王のミイラと棺】王家の谷のKV55 、2010年、ザヒ・ハワスらの調査により、DNA鑑定でツタンカーメンのミイラと比較した結果、このミイラはほぼ間違いなくアクエンアテンであることが発表された。それと共に、母ティイとツタンカーメンの母のミイラ(共にアメンホテプ2世王墓(KV35)で発見)も身元が特定され、ツタンカーメンの母はアクエンアテンの同父同母の姉妹であることが明らかになった
【アメンホテプⅣ世=アクエンアテン王】紀元前1362年? - 紀元前1333年、29歳
【アマルナ革命】
治世5年目(前1367年ごろ)アテン神を崇敬。アク・エン・アテン(「アテン神に有益なる者」)に改名した。アマルナ(テル・エル・アマルナ)として知られる新都アケトアテン(「アテンの地平」の意)の建設開始。アマルナ様式。
在位7年(紀元前1343年)、王国の首都はテーベより、アケトアテンへと遷都された。新都の建設はなお進行中であり、更に2年を要して紀元前1341年頃に都市としての体裁を整えたと考えられる。
【アマルナ革命、失敗】
在位中はアメン神とその妻ムト女神の名前を神殿から削り取る、神像を破壊する等して迫害。他の神にも及んだ。アテン神に傾倒するあまり国民の支持を失い、またトトメス3世より維持してきたアジア植民地に注意を払わず、治世末期にはエジプトは大きく領土を減らした。アクエンアテン自身も後継者と定めたスメンクカーラーの死去後数年で亡くなり、
【アメン神への信仰復興】次王ツタンカーメン(トゥトアンクアメン)の治世ではアテン神信仰からアメン神への信仰復興が行われた
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参考文献
ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王
https://bit.ly/3usmqyp
ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」・・・絶世の美女ネフェルティティ王妃とアマルナ美術の謎
https://bit.ly/39mttQ1
ツタンカーメン、黄金の秘宝と少年王の真実・・・少年王の愛と苦悩
https://bit.ly/2zLyazA
クレオパトラとエジプトの王妃展・・・生と死の秘密、時の迷宮への旅
https://bit.ly/2Uve73e
石浦章一「ツタンカーメンの謎に新説!正体不明のミイラが彼の母親だった!?、「王家のDNA」解析からわかったこと
ラムセス大王・・・カデシュの戦い、平和条約。王妃ネフェルタリ、94歳で死す
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/07/post-fae6b5.html
ツタンカーメンの生涯と謎・・・秘められた古代エジプトの宗教的意味
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-207710.html

2025年8月11日 (月)

相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第403回
「老子」第45章。梅荘顕常、伊藤若冲、織田信長。
 若冲の才能をいち早く見出し、絵の世界へ導き若冲の名を与えたのが相国寺第113世住持の梅荘顕常である。梅荘顕常は若冲という号を与えた。
「大盈(大きく盈ちる)は冲(むな)しきが若く」大成は欠くるが若く、其の用は敝きず。大盈は冲(むな)しきが若く、其の用は窮(きわ)まらず。大直は屈するが若く、大巧は拙なきが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。燥は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静は天下の正たり。「老子」第45章。
大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章。
織田信長が、天正の元号を命名したのは、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章。
梅荘は若冲に中国絵画を模写する機会を与え、さらに「若冲」という画号を授けた。近世の相国寺の文化に殷賑を極める、独特の絵画表現を完成する。
「千年、具眼の士を待つ」「理解する士が現れるまで 千年のときを待つ」と言った伊藤若冲)。若冲と親交深く画家としての活動を支えたのが、詩僧として名を馳せた相国寺の僧、梅荘顕常、梅荘の弟子であった維名周奎(いめいしゅうけい)は若冲に画を学び、画僧として活躍した。若冲作品と同時に、その魅力を開花させた背景は何か。
伊藤若冲「乗興舟」「動植綵絵」を完成させた直後の明和4年(1767)春、親友である相国寺の禅僧・大典と共に京の伏見から大坂の天満橋まで川下りをした時の風景を描写した 長大な画巻。拓版画と呼ばれる、ネガフィルムのように白と黒が反転した技法。漆黒の空に記される白抜きの詩文と巻末の跋文は、大典の筆跡。若冲は下絵を制作した後、そこに記す文を大典に依頼した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、伊藤若冲「旭日鳳凰図」(1755)
「旭日鳳凰図」(1755)、原型はどこにあるのか。
伊藤若冲の鳥の目と顔は不気味。その原型はどこにあるのか。「旭日鳳凰図」(1755)から始まる鳥の探求。『動植綵絵』30幅 宝暦7年(1757年)頃?明和3年(1766年)頃、若冲41歳から、50歳に、不気味な鳥の目が描かれている。
『鳳凰石竹図』林良筆に原型がある。
『鳳凰石竹図』林良筆、明時代、16世紀
林良(りんりょう、15-16世紀、生没年不詳)は、精彩な着色の花鳥画を得意とし、鳥や樹石の水墨画では、力強く素早い筆致が「草書の如き」と評された。水墨による《鳳凰石竹図》では、鳳凰の尾羽や土坡にその草書的筆致が見られ、素早い筆致ながら精緻さをも保つ。羽を逆立てた首の表情は、まるで樹木の葉のようでもあり、その首自体の細さも相まって、異様な造形を成している。雪舟をはじめその後の日本画家に影響を与えた筆致や特異な造形表現には、伊藤若冲が描いた奇想の原点をみる。
『百鳥図』伝辺文進筆 中国・明時代 15世紀 鹿苑寺
壮大な吉祥図。中央に描かれている鳳凰は百鳥の王とされ、鳳凰が飛べば群鳥たち皆これに従うと言われてきた。金閣寺の屋根から相国寺文化圏の隆盛を長らく見守ってきたのも鳳凰である。花鳥画には、吉祥の意味が込められている。鳳凰は、中国の伝説上の鳥で百鳥の中の王とされ、その表情は愛らしく、手塚治虫の「火の鳥」を連想させる。
伊藤若冲「乗興舟」楽しかった大坂への旅「動植綵絵」を完成させた直後の明和4年(1767)春、親友である相国寺の禅僧・大典と共に京の伏見から大坂の天満橋まで川下りをした時の風景を描写した 長大な画巻。拓版画と呼ばれる、ネガフィルムのように白と黒が反転した技法。漆黒の空に記される白抜きの詩文と巻末の跋文は、大典の筆跡。若冲は下絵を制作した後、そこに記す文を大典に依頼した。
【伊藤若冲『動植綵絵』30幅 宝暦7年(1757年)頃∸明和3年(1766年)頃】
若冲41歳から、50歳まで10年間描く。
生誕300年、若冲展、東京都美術館・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
2、円山応挙『牡丹孔雀図』1771
円山応挙は、なぜ、『牡丹孔雀図』を描いたのか。
円山応挙『牡丹孔雀図』1771。牡丹は花の王、仏法を守る孔雀。孔雀明王神咒経、孔雀は毒を食う。三毒、貪瞋痴、むさぼること、いかること、愚痴、愚かなこと、毒を喰う、仏法を守る孔雀。【孔雀明王、快慶】金剛峰寺、正治二年(1200年)。
【孔雀明王像、快慶、正治二年(1200) 金剛峯寺】後鳥羽法皇の御願で1200年に造立。孔雀の背に乗る絵画的な姿を表現。孔雀明王は人間の天敵・コブラを食べその害から守ってくれるところから無病息災の信仰を集め明王ながら菩薩の尊顔で表現される。
【伊藤若冲と円山応挙は、同時代人】自身の天職と一家の方針とが矛盾する。
若冲と応挙の合作、『竹鶏・梅鯉図屛風』18世紀、個人蔵が、2024年発見された。
【伊藤若冲と円山応挙】江戸時代、階級社会の厳格な世で、封建制度の身分を捨て、絵師の道を選ぶことができたのは、なぜか。
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3、空海、宮沢賢治 自身の天職と一家の方針とが矛盾する
【空海の苦悩】父は佐伯直田公、母は阿刀家の阿古屋【大学寮入学】延暦10年(791)18歳で大学寮明経科に入学【大学寮中退】延暦11年(792)空海19歳。官僚の出世を諦め山林修行【19歳から31歳まで謎の12年】私度僧から遣唐使へ(797)二十四歳『聾瞽指帰』
【空海と阿刀大足】母方の阿刀[あと]氏は帰化系民族で、外舅[がいきゅう]の【阿刀大足】は桓武天皇の皇子、伊予親王の侍講として従五位にあたる。空海は十二歳から十五歳まで国学(大学の一種)大足に論語、孝経、史伝、文学などを学ぶ。
【最澄と空海】延暦23年(804)第16次遣唐使。遣唐使船の第二船に、38歳の還学生・最澄、第一船に、31歳の留学生20年の長期留学生の空海が乗船。最澄はエリート官僚、桓武天皇の官度僧、還学僧。雲泥の差、私度僧。空海、なぜ、留学僧に選ばれたか不明〈伯父の阿刀大足
【空海と不空】不空は、空海(774~835)の師、恵果の師、不空金剛(705~774)『理趣釈経』の著者。空海は不空金剛の生まれ変わりという伝説がある。不空訳『理趣釈』を最澄が借覧を願い出たが、空海は借覧拒否。「叡山ノ澄法師理趣釈経ヲ求ムルニ答スル書」814
【宮澤賢治、妹トシの苦悩】日本女子大卒業論文と一生の仕事について、妹トシ(21歳)は賢治(22歳)に相談した「理想を申し上ぐるならば兄上様ご自身の天職と一家の方針とが一致する事が何よりも望まれ候」『妹トシの手紙、大正7年11月24日』大正11年1922、11月27日午後8時半、肺結核で死去。宮澤賢治、昭和8年死去。
「妹トシから宮沢賢治への手紙は1通だけ存在する』『年表 作家読本 宮沢賢治』山内修、1989
1924(大正13)年『心象スケッチ 春と修羅』序より「春と修羅」、「無声同国」
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参考文献
相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』
生誕300年、若冲展・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
https://bit.ly/2FWbP7L
「円山応挙から近代京都画壇へ」・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺
https://bit.ly/2KEGwyj
禅-心とかたち、東京国立博物館・・・不立文字
https://bit.ly/3IVCj7B
「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人
https://bit.ly/2OAhnsz
妙心寺展・・・禅の空間 、近世障屏画の輝き
https://bit.ly/2OACxXq
相国寺展―金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・無の宗教と雪舟、若冲、円山応挙
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/04/post-57cb8d.html
相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-b12f39.html

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