2024年4月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

« 2023年4月 | トップページ | 2023年6月 »

2023年5月の記事

2023年5月10日 (水)

大阪の日本画・・・北野恒富、妖艶、退廃的、悪魔派、白耀社

Oosaka-pict-tsg-2023
Oosaka-kitano-tsunetomi-1931-2023
Oosaka-hirai-chokusui-1904-2023
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第328回
北野恒富《宝恵籠》、島成園《祭りのよそおい》、生田花朝《天神祭》、大坂の画家たちの美的感覚は、鏑木清方、上野公園、横山大観、下村観山、速水御舟とどこが違うのか。
大坂の富裕層は、カネを数える実業屋、酒に溺れる飲んだくれ、自慢に溺れる自惚れ屋の印象である。*だが、大坂の富裕層は、東京、京都の権力主義、階級主義、権威主義に対して、富によって、自由主義を謳歌しようとしたのかもしれない。大坂の富裕層の美的判断の基準はどこにあるのか。藝術は、西方浄土、阿弥陀如来の本願か。
――
平安京の王侯貴族、学問僧、嵯峨天皇、沙門空海の美的判断の基準は、無位無号にして山水に逍遥することにあった。
【嵯峨天皇の遺詔】余昔し不徳を以て久しく帝位を忝うす。夙夜兢兢として黎庶を済はんことを思ふ。然れども天下なる者は聖人の大宝なり。あに但に愚憃微身の有のみならんや。故に万機の務を以て、賢明に委ぬ。一林の風、素より心の愛する所。無位無号にして山水に詣りて逍遥し、無事無為にして琴書を翫び以て澹泊ならんと思欲す。「続日後本紀」承和九年条
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【星の王子さま6つの星めぐり】命令する王様、探検家の報告を利用するだけの地理学者、カネを数える実業屋、酒に溺れる飲んだくれ、自慢に溺れる自惚れ屋、日常業務に従事する点燈夫。偏奇な星の主たち。
――
展示作品の一部
北野恒富《宝恵籠》1931年頃、大阪府立中之島図書館
北野恒富《五月雨》1938年、大阪中之島美術館[展示期間:5/16~6/11]
河邊青蘭《武陵桃源図》1908年、大阪中之島美術館
菅楯彦《阪都四つ橋》1946年、鳥取県立博物館
矢野橋村《不動窟》1951年、矢野一郎氏(愛媛県美術館寄託)[展示期間:5/16~6/11]
中村貞以《朝》1932年、京都国立近代美術館[展示期間:4/15~5/14]
中村貞以《失題》1921年、大阪中之島美術館
生田花朝《天神祭》1935年頃、大阪府立中之島図書館
平井直水《梅花孔雀図》1904年、大阪中之島美術館
島成園《祭りのよそおい》1913年、大阪中之島美術館
――
1、ひとを描く―北野恒富とその門下
大阪の「人物画」は、明治時代後半から昭和初期、北野恒富とその弟子、樋口富麻呂や中村貞以、女性画家の島成園や木谷千種らの活躍によって花開いた。当時「悪魔派」と揶揄された、妖艶かつ頽廃的な雰囲気をもつ恒富の人物表現など、多彩な人物画表現が大阪で生み出された。
2、文化を描く―菅楯彦、生田花朝
古き良き大阪庶民の生活を温かく表現した「浪速風俗画」を確立した菅楯彦は、四条派と文人画を融合させたスタイルは、江戸時代より続く大阪人独特の洗練された感性に響くものとして広く愛されました。
弟子の生田花朝は楯彦の作風を受け継ぎながら、同時代の風俗を積極的に描きました。活気に満ちた浜辺をパノラマで色彩豊かに表現した「泉州脇の浜」など、軽やかでユーモラスな作品を多く残しました。
3、新たなる山水を描く―矢野橋村と新南画
日本の風土に基づく日本南画をつくることを目指した矢野橋村は、江戸時代より続く伝統的な文人画に近代的感覚を取り入れた革新的な「新南画」を積極的に推し進めます。
4、文人画―街に息づく中国趣味
江戸時代、京都への玄関口の大阪では、煎茶をはじめとする中国趣味が栄え、文人画が流行した。大阪では漢詩や漢文の教養を身に付けた市民が多かった、文人画人気は明治以降も続き、各地から文人画家が集まり、優れた作品が生まれた。
5、船場派―商家の床の間を飾る画
大阪で広く市民に受け入れられた、四条派の流れをくむ絵画「船場派」。セントルイス万国博覧会に出品、銀メダルを獲得した平井直水の「梅花孔雀図」、京都生まれの「四条派」を淡麗に描くのが大阪「船場派」の作風である。
6、新しい表現の探究と女性画家の飛躍
明治時代以降、新聞社や出版社が集積した大阪には、挿絵画家などとして全国から多くの画家が集まった。大阪では江戸時代から女性画家が活躍。加えて、富裕層を中心に教養として子女に絵画を習わせた、上村松園、池田蕉園とともに「三園」と称された島成園、島成園に学び、のち中村貞以に師事した吉岡美枝など優れた女性画家たちが大阪で登場した。大阪に集まった人々や女性画家たちの新しい感性は、魅力的な表現を生み出した。
――
大坂本願寺 大坂の始まり
【妖怪、本願寺蓮如、5度婚姻、27人の子を生じた精力家。85歳】妻の死別を4回に渡り経験、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人。1488年蓮綱(三男)・蓮誓(四男)・蓮悟(七男)率いる【加賀一向一揆】は国人衆と共に守護富樫政親を討ち滅ぼして加賀一国を制圧、以後90年続く「百姓の持ちたる国」を現出。浄土真宗大谷派、1496年晩年、大坂本願寺、建設。3月25日(1499年)、山科本願寺において85歳で没【曾孫顕如の代に摂津・加賀の戦国大名へ繁栄、顕如、織田信長に降伏】
【石山本願寺戦争 本願寺顕如、摂津・加賀の戦国大名、織田信長に降伏】本願寺証如 と顕能尼の子。諱は光佐。天文23(1554)年12歳で継職。本願寺11世、教団を経営。1570年(元亀1)9月、浅井朝倉と呼応して織田信長と対立、諸国の門徒に挙兵を促し、以来、1580年(天正8)まで信長と戦う(石山戦争)。天正8年4月9日、正親町天皇の勅命によって講和し石山本願寺を退出。豊臣秀吉から天正19(1591)年3月京都西六条の地を寄進され、同年8月顕如・教如父子はこれに移る。現在の西本願寺の地である。文禄1 (1592)年50歳で没す。
【親鸞、2人の妻、7人の子。親鸞王朝の始まり】『日野一流系図』に記される九条兼実の娘である玉日姫、『恵信尼文書』で知られる三善為教の娘である恵信尼、六角堂の夢告で親鸞が恵信尼を観音菩薩の化身と考え『恵信尼文書』『日野家一流系図』。
――
参考文献
東西美人画の名作《序の舞》への系譜・・・夢みる若い女、樹下美人
「没後50年 鏑木清方展」 ・・・春園遥かに望めば、佳人あり
上村松園と美人画の世界・・・肉体の美と叡智
東洋陶磁、安宅コレクション名品選101・・・狂気と礼節のコレクター、美的な価値の基準はどこにあるのか
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ
大阪の日本画・・・北野恒富、妖艶、退廃的、悪魔派、白耀社
https://bit.ly/3NYlPzD
――
大阪の日本画、東京ステーションギャラリー
2023年4月15日(土)~2023年6月11日(日)

2023年5月 7日 (日)

親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ

Shinran-850-knm-2023
Shinran-tannisho-15c-2023
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第327回
春爛漫、躑躅、咲く。桜満開の京都を思い出す。「法然と親鸞」(東京国立博物館2011年)。
親鸞の最も著名なことばである。「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(唯円『歎異抄』第三条)、悪人正機。悪人とは、法律、道徳を基準による悪人ではなく、仏教を基準にした悪人。仏教は、智慧と慈悲の獲得を目ざし実践する教えである。浄土仏教は、智慧を身につけさとるより、阿弥陀如来の慈悲による救いを他力本願すること。私を救わずにおかない阿弥陀如来の願いのままに、阿弥陀如来の智慧と慈悲に導かれて生きる生き方が他力本願。専修念仏を親鸞は説く。「親鸞は弟子一人ももたず候」(唯円『歎異抄』第六条)
【承元の法難】1204年、比叡山の衆徒から法然教団に対して専修念仏を禁止すべきという声が上がる。1205年、興福寺から朝廷に法然教団には9ヶ条の過失「興福寺奏上」提出。1206年、建永元年、後鳥羽上皇の女官が法然教団の法会に参加、外泊。承元元年1207年、後鳥羽上皇と興福寺とが一致して専修念仏を弾圧。専修念仏を禁止。法然は土佐国、親鸞は越後国、流罪。法然は75歳、親鸞は35歳。
親鸞「南無阿弥陀仏と念仏すれば、往生浄土、西方浄土に往生できる」と布教、多くの信徒を獲得、強大な浄土真宗教団を作る。九条兼実の娘と三善為教の娘と結婚、7人の子をなした。
【蓮如】本願寺派第8世宗主・蓮如(1415-1499)は、「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(『歎異抄』)、「自らの力で迷いを離れることができない人。煩悩具足の凡夫にこそ阿弥陀仏の救いは向けられる」悪人正機、布教し、教団を再興。5度婚姻、27人の子を生じた精力家。
【石山戦争】本願寺派第11世宗主・顕如(1543-1592)は、摂津加賀の戦国大名と化した石山本願寺、教団を率いて、10年間、元亀元年~天正8年(1570~80)、織田信長と戦い、敗北、正親町天皇の勅命講和により、石山本願寺より退去。
「飢えた子どもは餓鬼となる。飢えた人は悪をなす。念仏で飢えた人を救うことができるのか。飢えた人の飢えを満たすのは親子丼、天丼、かつ丼である」「本願寺教団は軍事組織となり、百姓の国は飢餓を救うことができたのか。教団は新たな搾取階級となり、本願寺教祖階級は、どこまでも続くのか。」
【親鸞、2人の妻、7人の子。親鸞教団、王朝の始まり】親鸞(1173~1262)。『日野一流系図』に記される九条兼実の娘である玉日姫、『恵信尼文書』で知られる三善為教の娘である恵信尼、六角堂の夢告で親鸞が恵信尼を観音菩薩の化身と考え『恵信尼文書』において恵信尼も親鸞を観音菩薩の化身と考えていたと書かれる。互いを阿弥陀如来の慈悲のあらわれと思った。長男は玉日姫との間に生まれたとされる範意、第二子以降は恵信尼との間に生まれる小黒女房、慈信房善鸞、信蓮房明信、益方大夫人道有房、高野禅尼、覚信尼の計7人である『日野家一流系図』。
親鸞(1173~1262)、蓮如(1415-1499)、顕如(1543-1592)、親鸞の教団は、民衆を救ったのか。専修念仏、南無阿弥陀仏、他力本願の浄土仏教は、阿弥陀如来の浄土へ往生浄土させることができるのか。
民衆に極楽往生の門を開いた法然。悪人女人救済の仏道を説いた親鸞。踊り念仏・遊行を勧めた一遍。念仏を唱えれば阿弥陀浄土に往生すると布教する浄土仏教、真実は何か。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
2023年は浄土真宗を開いた親鸞聖人(1173~1262)の生誕850年にあたります。1173年、親鸞は京都に生まれ、9歳で出家して比叡山で修行に励みますが、29歳で山を下り、法然上人の弟子となります。そこですべての人が平等に救われるという阿弥陀仏の本願念仏の教えに出遇うも、法然教団は弾圧を受け、親鸞も罪人として還俗させられ越後に流罪となります。その後、罪が赦された親鸞は、関東へ赴き長く布教に励み、やがて京都へと戻り、晩年まで主著『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)や「和讃」など多くの著作の執筆や推敲を重ねました。1262年没す。その90年の生涯と教えは、今も多くの人を魅了して止みません。京都国立博物館
――
「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(『歎異抄』第三条)
「親鸞、唯円『歎異抄』の思想を通じて近代の知識人は、宗教を考えてきた。西田幾多郎、司馬遼太郎、丹羽文雄、遠藤周作、五木寛之、吉本隆明、梅原猛、子安宣邦。「人は、生まれながら罪を背負っているという「原罪」の思想が浸透している。」釈徹宗
――
蓮如(1415-1499)、顕如(1543-1592)
大坂本願寺 大坂の始まり
【妖怪、本願寺蓮如、5度婚姻、27人の子を生じた精力家。85歳】妻の死別を4回に渡り経験、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人。1488年蓮綱(三男)・蓮誓(四男)・蓮悟(七男)率いる【加賀一向一揆】は国人衆と共に守護富樫政親を討ち滅ぼして加賀一国を制圧、以後90年続く「百姓の持ちたる国」を現出。浄土真宗大谷派、1496年晩年、大坂本願寺、建設。3月25日(1499年)、山科本願寺において85歳で没【曾孫顕如の代に摂津・加賀の戦国大名へ繁栄、顕如、織田信長に降伏】
【石山本願寺戦争 本願寺顕如、摂津・加賀の戦国大名、織田信長に降伏】本願寺証如 と顕能尼の子。諱は光佐。天文23(1554)年12歳で継職。本願寺11世、教団を経営。1570年(元亀1)9月、浅井朝倉と呼応して織田信長と対立、諸国の門徒に挙兵を促し、以来、1580年(天正8)まで信長と戦う(石山戦争)。天正8年4月9日、正親町天皇の勅命によって講和し石山本願寺を退出。豊臣秀吉から天正19(1591)年3月京都西六条の地を寄進され、同年8月顕如・教如父子はこれに移る。現在の西本願寺の地である。文禄1 (1592)年50歳で没す。
――
親鸞の思想
1、他力本願
阿弥陀仏がすべての人を救う。自らの力でさとりをひらくことができないものが歩む仏道。阿弥陀仏がすべての人を救う願いの力。『仏説無量寿経』浄土に往生するためには信心と念仏が必要。と親鸞は説いた。
2、悪人正機
悪人とは、法律、道徳を基準による悪人ではなく、仏教を基準にした悪人。自力本願できない、自らの力で迷いを離れることができない人。煩悩具足の凡夫にこそ阿弥陀如来の救いはある。「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」『歎異抄』第三条。
3、往生浄土と南無阿弥陀仏
往生とは、阿弥陀仏の浄土に往き生まれること。浄土仏教において、仏の世界に往き生まれること。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏を敬いよりどころとする称名念仏。
4、法然の教え 親鸞の師「専修念仏」『選択本願念仏集』
長承2(1133)年4月7日 美作-建暦2(1212) 年1月25日 京都、没。79歳。
法然(1133-1212)浄土宗の開祖。諱は源空で,法然房と号した。幼名は勢至丸。9歳で父を失い,叔父の観覚に従って剃髪。15歳で比叡山に登り源光,皇円に師事。18歳黒谷の叡空に学び,24歳京都,奈良で各宗の奥義を研究,のち黒谷に帰って大蔵経を閲読。承安5 (1175) 年3月善導著『観無量寿経疏』の「散善義」を読んで浄土教に帰し洛東吉水に庵居して念仏を称えた。文治2 (86) 年勝林院で浄土の法義を談論 (大原問答 ) 。建永2 (1207) 年、帰依する者がふえると既成仏教教団の反感をまねき、念仏は禁止。諸宗の嫉視により土佐に配流。のち許されて建暦1 (11) 年吉水の禅房に帰り,翌年没す。80歳。
――
展示作品の一部
国宝 三十六人家集 西本願寺 12世紀
国宝 親鸞聖人影像(安城御影副本)(賛・裏書)蓮如筆 室町時代(15世紀)京都 西本願寺 奈良国立博物館(3月25日~4月2日展示)
刺繡阿弥陀如来像 室町時代(15世紀)福井 誠照寺(3月25日~4月23日展示)
国宝 観無量寿経註 親鸞筆 鎌倉時代(13世紀)京都 西本願寺(3月25日~4月30日展示〈巻替あり〉)
重要文化財 本願寺聖人伝絵(康永本)上巻 本(詞書)覚如筆 (絵)康楽寺円寂筆 南北朝時代 康永2年(1343)京都 東本願寺(5月2日~5月21日展示)
重要文化財 歎異抄 巻下 蓮如筆 室町時代(15世紀)京都 西本願寺(3月25日~4月9日展示)
重要文化財 善鸞義絶状(部分)顕智筆 鎌倉時代 嘉元3年(1305)三重 専修寺
覚信尼絵像 室町~桃山時代(16世紀)新潟 福因寺
重要文化財 顕智坐像 鎌倉時代 延慶3年(1310)栃木 専修寺
重要文化財「恵信尼書状類」のうち(第3通)(部分) 恵信尼筆 鎌倉時代(13世紀)京都 西本願寺(5月2日~5月21日展示)
――
参考文献
釈徹宗『仏にわが身をゆだねよ』NHK出版
釈徹宗、佐々木隆晃「『歎異抄』に出会う」2023
梅原猛『地獄の思想』
末木文美土『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』新潮社1992
末木文美土『仏典を読む 死から始まる仏教史』新潮社2009
「法然と親鸞 ゆかりの名宝」東京国立博物館・・・宗教は麻薬
「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ
――
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝、京都国立博物館、3月25日(土)~5月21日(日)

2023年5月 1日 (月)

どうする家康・・・織田信長、運命の美女、信長の葬儀、天を追求する一族

Ieyasu-mitsui-2023
Sengoku-saneiketsu-2022
Oihi-kouyasan-toujiin
Akechi-mitsuhide-1613
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第326回
運命の美女、織田家の天下一の美女たち。
織田信長、生駒吉乃、五徳、お市の方、浅井三姉妹、信雄、信忠、華麗なる一族。江と秀忠の娘・千姫。
小谷城陥落、北ノ庄城陥落、安土城炎上、大坂城陥落
【運命の美女、信長の妹、お市の方】天正元年(1573年)小谷城陥落、浅井長政が小谷城で自らの命を絶つ、お市とその娘たち(茶々、初、江)の行方、尾張国守山城主信長の叔父織田信次、天正2年、岐阜城に預けられる【北ノ庄城】天正11年4月24日、柴田勝家、秀吉によって北ノ庄城を包囲、お市の方とともに自害。市の3人の女子、城を出る。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』「この世は舞台、人はみな役者だ」『お気に召すまま』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【武田信玄の死、死を秘匿、勝頼の死、武田氏滅亡】元亀3年(1572)武田信玄は大軍を率いて西上の途につき、三方ヶ原の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍を撃破。これにより窮地。信玄、度々喀血を呈する。ところが、翌年4月12日、信玄は信濃伊那郡駒場(下伊那郡阿智村)で病没。享年53。第1次信長包囲網瓦解。遺言、死を三年秘匿。天正3年(1575年)4月12日、信玄三周忌『甲陽軍鑑』菩提寺は恵林寺。
天正10年(1582)3月、勝頼は織田信忠によって滅ぼされる。
【信長の小袖】『甲陽軍鑑』によると、信長から小袖が贈られた際、梱包に漆箱が使われていた。ふと思い立った信玄が箱を割るなどして調べると、それは漆が何度も重ね塗りされた最高級であった。信玄は信長の、梱包にすら高価な漆箱を用いるその丁寧さから「これは織田家の誠意の表れであり、武田家に対する気持ちが本物だ」と周囲に語ったという。
【第六天魔王、信長】比叡山焼き討ちにより甲斐国に亡命してきた「天台座主の覚恕法親王の沙門(保護者)武田信玄」に対して、信長は「第六天魔王、信長」と返した。フロイス1573年4月20日(元亀4年)付け書簡(『日本耶蘇会年報』所収)。
――
【織田信長、正親町天皇、勅命講和】
【本能寺の変と三職推任問題】天正10年(1582年)4月25日、5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)。 4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。
【織田信長、三職推任問題】勧修寺晴豊『天正十年夏記』(1582年)4月25日、5月4日に記載、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずる。 5月、朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた。正親町天皇の皇子誠仁親王、信長の返答の内容は不明である。織田信長は、階級社会の地位に拘泥せず。これが悲劇を招いた。
6月1日、本能寺の茶会。6月2日、払暁、明智光秀の本能寺の変が起こる。
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
参考文献 今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』1992小和田哲男『明智光秀』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
織田信長の葬儀
【織田信長の法名「天徳院殿」】『言経卿記』の同年9月2日条から見える、外部の者にも知られた法名。同月11日の柴田勝家の妻お市による百日忌、それより前、8月18日の信長乳母(養徳院)による法事の時の記録によると、信長の法名全体は「天徳院殿二品前右相府龍巌雲公大居士」。阿弥陀寺の信長の墓に「百日弔」にあたって正親町天皇・誠仁親王、山科言経ら知識人の公家たちもお参り
【織田信長の法名、総見院殿贈大相国一品泰巌大居士】10月15日、秀吉が喪主になり、京都大徳寺において信長の葬儀を大々的に行ってみせた。遺骸はないので、棺の中には沈香を用いた信長の像が納められていた。この後の信長の法名は、「相国」は太政大臣、「一品」は一位。「巌」は織田弾正忠家の法名の通字
【お市の方、36歳で死す】天文16年(1547年)の生まれ、信長が天文3年(1534年)生まれ、実は13歳も歳の離れた兄妹。天正10年6月2日、本能寺の変、清洲会議(6月27日)承諾を得て、柴田勝家と再婚。9月、妙心寺で、織田信長の百日忌。喪主。天正11(1583年)年4月24日、柴田勝家、秀吉によって北ノ庄城落城、お市の方、自害。
――
織田信長、明晰透徹、信長の人間性 『回想の織田信長』ルイス・フロイス『日本史』
【織田信長、戦を好み、名誉心に富み、正義において厳格】「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。
織田信長【貪欲でなく、決断を秘め、戦術に極めて老練】彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同から極めて畏敬されていた。
【酒を飲まず、食を節し、王侯を軽蔑し】酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。
【善き理性と明晰な判断力】彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者
――
【富は、苦労してかいた汗からではなく、深い思考から生まれる】人生に最も重要なのは俯瞰と設計。人生の方向性を考えること。設計図を持たない人、人生を飛躍させるためには、些細な事に時間を浪費してはいけない【壮大な計画を考えよ。人生の究極目的は魂を磨くことである】
【利益重視の女はどんなにきれいでも嫁にしてはいけない。カマキリの雌は交尾後、雄を食べる。ハリガネムシとなって寄生する】アル中の向上心のない男と結婚する女はクズ。騙そうとする人は心地よい、体に悪いものは美味い、酒は万病の元。ガン、脳梗塞、痴呆症の原因は飲酒癖
秘密を風に教えてはいけない、森全体に伝わる。お金には敏感になれ、一気に与えると腐る、棘がある良い人になれ。騙そうとする人は心地よい、体に悪いものは美味い、酒は毒薬。見栄張りの人の心は小さい、真相バラされると憎しみ付きまとう。不公平は当たり前。行きたくない会合は、喜んで行くか、断れ。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
参考文献
本多隆成『徳川家康の決断』2023
本多隆成『定本 徳川家康』2010
太田牛一、中川太古訳『信長公記』新人物文庫
ルイス・フロイス『回想の織田信長』ルイス・フロイス『日本史』12巻
今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』講談社現代新書2022
今谷明『日本史の論点』中公新書
岡田正人『織田信長総合辞典』雄山閣出版、1999
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』中公新書、2018
和田裕弘『織田信忠―天下人の嫡男』中公新書2019
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中公新書
ルイス・フロイス『回想の織田信長、日本史』中公文庫
『NHK大河ドラマ どうする家康』図録、三井記念美術館2023
【織田信長、麒麟、小牧山城、足利義輝あて書状】麒麟の「麟」の字を用いたと言われる織田信長の花押。この花押の文字、どうも同時代から何の文字が書かれているのか全く不明で、おそらく麒麟の「麟」だろうと比定されたのは、戦後の事
織田信長【西狩獲麟】孔子は、衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかと失望から、自分が整理を続けてきた魯の歴史書の最後にこの記事を書いて打ち切った。『春秋』「哀公十有四年春、西に狩して麟を獲たり」
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変、三職推任
どうする家康、三井記念美術館・・・孤独な少年、竹千代、家康10の決断
どうする家康・・・織田信長、運命の美女、信長の葬儀、天を追求する一族
https://bit.ly/3njDXJm
――
特別展、どうする家康、三井記念美術館、4月15日~6月11日
【岡崎展】2023年7月1日(土)~8月20日(日)
会場:岡崎市美術博物館
主催:岡崎市美術博物館、NHK名古屋放送局、NHKエンタープライズ中部
【静岡展】2023年11月3日(金・祝)~12月13日(水)
会場:静岡市美術館

« 2023年4月 | トップページ | 2023年6月 »