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2023年3月の記事

2023年3月31日 (金)

新古典主義、ダヴィッドとダヴィッドの弟子たち・・・「ソクラテスの死」「アモルとプシュケ」

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第320回
【ルネサンスと革命とナポレオン】ルネサンスの藝術家、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロは古代ギリシアの藝術に憧憬、古代藝術を再生した。18世紀、新古典主義の藝術家たちは、ルネサンス美術に憧れイタリアを愛し、新古典主義美術を生み出した。メディチ家のプラトン・アカデミーの精華である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David1748−1825)「毒杯を仰ぐソクラテスLa Mort de Socrate」1787、メトロポリタン美術館
【ソクラテスの死】紀元前399年、ソクラテスは、ギリシアの哲学者の最も偉大な思想家の一人、エンペドクレス、プラトンとならび、高邁な有徳の士、高貴な人格。ソクラテスは、その思想で若者たちを堕落させたという罪状で死刑宣告を受ける。死を免れるのは可能だったが、クリトンのすすめを退け、裁判で下された裁定に従って、評決に甘んじて死ぬ道を選ぶ。プラトン『パイドン』は偉大な思想家の死を描く。ソクラテスは魂の不死不滅を論証する。ソクラテスの牢獄の最後の日の対話を指嗾のドラマにする。彼は感情あらわに嘆き悲しむ弟子たちを戒め、毒杯をあおって威厳ある死を遂げた。自己犠牲による死を主題にした。
国家に正義があるか、疑義がある。疑惑の正義を分析するのは『国家』第2巻で展開する正義の分析であり、魂の正義の分析である。見えざる魂を見える国家の形で分析することが『国家』第9巻で展開する堕落した国家の諸形態の分析である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【ダヴィッド、イタリアと革命とナポレオン】ロココ絵画の巨匠フランソワ・ブーシェ(1703-1770*『ヴィーナスの化粧』1751)はダヴィッドの親戚であった。ダヴィッドは画家ジョゼフ=マリー・ヴィアンに師事する。1774年《アンティオコスとストラトニケ》で、若手画家の登竜門ローマ賞受賞。ダヴィッドは1775年から1780年まで約5年間、イタリアで、プッサン、カラヴァッジョ、カラッチ、古典絵画の研究に没頭する。イタリアでの研究を契機に作風は18世紀フランスを一世風靡したロココから、新古典主義的な画風へと変貌する。37歳の時、ルイ16世注文の《ホラティウス兄弟の誓い》(1784年から1785年)、この作品によってサロンで評価される。
1789年、フランス革命勃発、ダヴィッドは、ジャコバン党員として政治にも関与。《球戯場の誓い》を描く他、バスティーユ牢獄襲撃事件に参加、1792年、国民議会議員。1793年、革命家マラーの死を描いた《マラーの死》を制作。1794年、ロベスピエールに協力、最高存在の祭典の演出を担当。
ナポレオンと同じようにローマ愛が強く意気投合する。段々と地位が上がり、最後は芸術長官に任命される。1804年、ナポレオンの首席画家に任命される。6×9メートルの大作《ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠》1806年から1807年に描く。1808年「帝国における騎士ダヴィッド」の爵位を与えられた。ナポレオンの失脚後、ダヴィッドも失脚し、1816年にブリュッセルへ亡命、9年後の1825年に時代に翻弄された77年の生涯を終える。
フランソワ・ジェラール【アモルとプシュケ】プシュケはあまりの美貌ゆえに求婚するものが現れず、ヴィーナスが嫉妬により遣わした息子アモルによって天上の宮殿に略奪された。プシュケはある王国の三女であったが神託により人身御供に捧げられた。アモルを見ることを禁じられたプシュケは、アモルの姿をある夜、見てしまい、アモルを探し求めて世界中を彷徨う。ヴィーナスに4つの苦難を与えられたプシュケ。
【最後の難題は、冥界の女王ペルセポネから、美の函を地獄から持ち帰ること】プシュケはほとんど地上まで持ち帰るが、好奇心に勝てず、開けてしまう。しかしその函には、美のかわりに深い眠りが入っていて、プシュケは深い眠りにつく。プシュケは第4の苦難を解き、他方、アモルはプシュケを探している。眠っているプシュケを見つけ、その矢でついて目覚めさせる。プシュケは、アモルと天上界で結ばれる。
出典は、アプレイウス『黄金の驢馬』、ラ・フォンテーヌ『プシュケとアモルの恋』の終幕、苦難を経て天上で結ばれるアモルとプシュケの場面である。プラトン『パイドロス』の「人間の魂と神の愛の結合」、ラ・フォンテーヌ「永遠の愛を意味する再会」である。新古典主義における新プラトン主義の思想の表現である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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最も優秀な弟子、3人のG
フランソワ・ジェラール(Francois Gerard 1770−1837)「アモルとプシュケ」1798、ルーヴル美術館
ジロデ=トリオソン(Anne-Louis Girodet de Roussy-Trioson 1767−1824)、「エンデュミオン」1792、ルーヴル美術館
ジャン・アントワーヌ・グロ(Antoine-Jean Gros1771−1835)「アルコレ橋上のボナパルト将軍」1796、ルーヴル美術館
ともにダヴィッドの最も優秀な弟子の一人。3人のGと呼ばれる。
――
ダヴィッドの弟子、フランソワ=エドゥアール・ピコ(1786-1868)「アモルとプシュケ」1817、ルーヴル美術館
ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル(1780-1867)「スピンクスの謎を解くオイディプス」1808、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ「プシュケとアモル」(1787-1793)、ルーヴル美術館
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参考文献
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド 革命の表現者から皇帝の首席画家へ』晶文社1991
ケネス・クラーク(高階秀爾訳)『ロマン主義の反逆 : ダヴィッドからロダンまで13人の芸術家』小学館1988
「ルーヴル美術館展 19世紀フランス絵画 新古典主義からロマン主義へ」2005
「ルーヴル美術館展 18世紀フランス絵画のきらめき」1997
「ルーヴル美術館展 ―地中海 四千年のものがたり」2013
「ルーヴル美術館展、愛を描く」2023
ルーヴル美術館展 ―地中海 四千年のものがたり・・・ギリシア文化の輝き
地中海 四千年のものがたり・・・藝術家たちの地中海への旅
https://bit.ly/2ELRoci
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
アモールとプシューケー エロースと絶世の美女プシューケー
大久保正雄『地中海紀行』第57回P12
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
新古典主義、ダヴィッドとダヴィッドの弟子たち・・・「ソクラテスの死」「アモルとプシュケ」
https://bit.ly/40uIiI2

2023年3月25日 (土)

憧憬の地 ブルターニュ・・・最果ての地と画家たち

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第319回
最果ての地フィニステールと画家たち
最果ての地、ブルターニュ
フランスの北西端、大西洋に突き出た半島ブルターニュ地方は、モン・サン・ミシェル、カンカル、サン・マロ、レンヌ、ブレスト、カンペール、ナント、深緑の海、険しい断崖の海岸線、平原と深い森、内奥部にロクマリアケールの巨石遺跡がある。フランソワ1世の時代、1532年、フランス王国とブルターニュ公国は統一、アンヌ女公の娘クロード王女を王妃とするフランソワ1世は、ブルターニュに、塩税の免除などいくつかの特権を授けた。15世紀から18世紀、ブルターニュは経済的な黄金時代を迎えた。ブルターニュ公国が法的に廃止されたのはフランス革命中の1789年である。
世紀末の旅人たち
クロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926)
クロード・モネは、1886年、ブルターニュのベリール島に降り立った。《嵐のベリール》1886年は、46歳の作品である。妻カミーユを79年に亡くした後、どのような想いでブルターニュに旅立ったのか。
モネは『印象 -日の出(Impression, soleil levant)』1872年。1874年、第1回、印象派展に展示。クロード・モネ『日傘を差す女、 カミーユとジャン・モネ』1875年。1875年7月、カミーユは当時不治の病だった結核にかかり、1879年、32歳の若さで死ぬ。*カミーユ(1847-79旧姓カミーユ・ドンシュー)。
ポール・ゴーガン(Paul Gauguin, 1848-1903)
ゴーガンは、1886年、フェリクス・シュベ・デュバルの勧めで初めてブルターニュ地方を訪れ、ポン・タヴェンに滞在する。1888年1月、ゴーガンはポン・タヴェンを再訪し、秋にゴッホの待つアルルに発つまでここに滞在する。1888年10月、「黄色い家」でのゴッホとゴーガンの共同生活が始まる。1888年12月「耳切り事件」、ゴーガンは2か月でアルルを去る。アルルのゴッホとの共同生活の後、1889年から1890年まで、ブルターニュに制作の地を移す。
1891年4月、ゴーガンは文明社会を逃れるため、パリを離れ、タヒチに向かう。ゴーギャンは、首都パペーテからマタイエアに移り住む。マタイエアで出会う人々と暮らし、鮮烈な色彩で幻想あふれる作品を数多く生みだした。1893年8月、パリに帰国する。1895年9月、再びタヒチに戻る。1901年9月、ヒヴァ・オワ島に移り住み、最晩年の時を過ごす。ポリネシアの黄金の色調に魅了された。ヒヴァ・オワ島にて54歳で死す。
20世紀の旅人
藤田嗣治(1886-1968)
藤田嗣治は、1913年、渡仏、パリのモンパルナスに住む。エコール・ド・パリの画家たちと交友する。シャガール、モディリアーニ、ジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイーズ・キスリング。第一次大戦1914-18。戦時下のパリで、絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖をとる。
【乳白色の肌の裸婦 藝術家の運命】1917年3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚。初めて絵が売れる。7フラン。シェロン画廊で最初の個展。絵も高値で売れるようになる。1918年、第1次大戦終戦。面相筆による線描を生かした技法による、透きとおる画風を、このとき確立。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙される。急速に藤田の名声は高まる。1917年7月、妻フェルナンデスと共に、ブルターニュに滞在する。
岡鹿之助(1889-1973)
岡鹿之助は、1924年、渡仏、渡仏後、藤田嗣治の指導を受ける。1926年6月から3か月、トレガステルに滞在する。同地で描いた《信号台》 1926年、等4点が、1926年サロン・ドートンヌで入選。ブルターニュでの制作は、それまで学んだアカデミックな作風を変え、新しい作風の契機となる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
ウィリアム・ターナー《ナント》 1829年 水彩/紙 ブルターニュ大公城、ナント歴史博物館
ポール・シニャック《ポルトリュー、グールヴロGourvelo, Portrieux》1888年、ひろしま美術館、
クロード・モネ 《嵐のベリール》 1886年 油彩/カンヴァス オルセー美術館(パリ)
クロード・モネ《ポール=ドモワの洞窟》1886 年 油彩/カンヴァス、茨城県近代美術館
ポール・ゴーガン、《海辺に立つブルターニュの少女たち》、1889年 油彩/カンヴァス
国立西洋美術館 松方コレクション
ポール・ゴーガン 《ブルターニュの農婦たち》 1894年 油彩/カンヴァス オルセー美術館(パリ)
アルフォンス・ミュシャ 《岸壁のエリカの花》 1902年 カラー・リトグラフ OGATAコレクション
シャルル・コッテ《悲嘆、海の犠牲者》、1908-09年 油彩/カンヴァス、国立西洋美術館 松方コレクション
シャルル・コッテ《行列》、1913年 油彩/カルトン、国立西洋美術館 松方コレクション
モーリス・ドニ 《花飾りの船》 1921年 油彩/カンヴァス 愛知県美術館
ポール・セリュジエ 《ブルターニュのアンヌ女公への礼賛》 1922年 油彩/カンヴァス ヤマザキマザック美術館 [3月18日(土)〜5月7日(日)展示]
黒田清輝《ブレハの少女》、1891 年 油彩/カンヴァス、石橋財団アーティゾン美術館
藤田嗣治《十字架の見える風景》 1920年、岐阜県美術館
岡鹿之助《信号台》 1926年、目黒区美術館
岡鹿之助《ブルターニュ》 1926年、茨城県近代美術館
岡鹿之助《信号台》 1926年、茨城県近代美術館
山本鼎 《ブルトンヌ》 1920年 多色木版 東京国立近代美術館[3月18日(土)〜5月7日(日)展示]
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参考文献
『憧憬の地 ブルターニュ ―モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷』図録2023
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」・・・光の画家たちの光と影
「没後50年 藤田嗣治展」・・・乳白色の肌、苦難の道を歩いた画家
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
憧憬の地 ブルターニュ・・・最果ての地と画家たち
フランスの最北西端、大西洋に突き出た半島を核とするブルターニュ地方は、芸術家と縁の深い土地です。ケルト人を祖にもち、16世紀前半まで独立国であったこの最果ての地フィニステールは、隣国のイギリスとフランスに翻弄されながらも独自の歴史と文化を紡ぎ、フランスの一部となったのちも固有の言語「ブルトン(ブレイス)語」を守りつづけました。またこの地には断崖の連なる海岸線や岩で覆われた荒野、深い森などの豊かな自然とともに、古代の巨石遺構や中近世の宗教遺物が各地に残されています。人々の篤い信仰心や地域色に富む素朴な生活様式も長らく保たれてきました。このように特徴的な自然と歴史文化を擁するフランスの内なる「異郷」は、19世紀以降、新たな画題を求める画家たちを惹きつけてやみませんでした。
本展では、とりわけ多くの画家や版画家たちがブルターニュを目指した19世紀後半から20世紀はじめに着目し、この地の自然や史跡、風俗、歴史などをモティーフとした作品を展覧することで、それぞれの作家がこの「異郷」に何を求め、見出したのかを探ります。また、明治後期から大正期にかけて渡仏し、この地に足を延ばした日本の画家たちの作品と足跡にも光をあてる、これまでにない試みとなります。
国内およそ30か所の所蔵先と海外2館から集められた約160点の作品にくわえ、関連資料もあわせて展示されるこの機会に、皆さんも画家のまなざしを借りてブルターニュの各地をめぐり、芸術を育むその奥深い風土を体感していただければ幸いです。
――
憧憬の地 ブルターニュ ―モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷、国立西洋美術館、3月18日(土)〜6月11日(日)

2023年3月19日 (日)

特別展、東福寺・・・円爾、九条道家、吉山明兆、無準師範

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第318回
東福寺に桜満開の森と方丈の重森三玲作の八相の庭(1939)を訪れたのは、2011年春、仁和寺に滞在した時である。
【寺院の奥に秘蔵された非公開の秘宝】東福寺の桜の森と八相の枯山水を見た時、その存在も知らなかった。吉山明兆筆「五百羅漢図」南北朝時代・至徳3年(1386)、吉山明兆筆「白衣観音図」、「三十三観音図」、吉山明兆筆「仏涅槃図」室町時代1408、「寒山拾得図」。門外不出の秘宝が展示されている。
空海、明恵、最澄と比べると、円爾、無準師範、虎関師錬、禅宗祖師の個性は不明である。東福寺は、臨済宗東福寺派、建仁寺派、大徳寺派と同じく、中国仏教であり、中国仏教の本質は道教である。道教の教理の本質は、道、無為自然、玄徳、柔弱謙下、大道廃れて仁義あり、上善は水のごとし。
「不立文字、教外別伝、直指人心、見性証成仏」仏の真理は言葉によらず体験によって心に直接に悟られ、経典の教えのほかに以心伝心で伝えられ、坐禅によって自己の心を直接とらえ、心の本性を見ることが真理と一体となり仏となることである。(栄西『興禅護国論』)
延暦寺、興福寺、等、巨大寺院は、内部の不正、暴力事件を隠蔽、封印した。延暦寺は、僧兵が狂暴化、白河法皇は天下三不如意に激怒、足利義教は延暦寺を2度包囲4人の僧の首を刎ね、細川政元は延暦寺焼き討ち、抗争を繰り広げた。【閉鎖社会で、無能な管理職に報復するにはどのような方法があるか】
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【無能な管理職に復讐する方法】無能が支配する管理社会。なぜ日本組織は未だに大日本帝国、上意下達、忖度官僚だらけ。カネで魂を売る大衆は烏合の衆【織田信長、正親町天皇による勅命講和】1570生涯最大の窮地、志賀の陣、金が埼の退き口、秀吉、家康、光秀、結集
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
戦国時代、織田信長は、妙心寺派の僧、沢彦宗恩の教えを受け、他化自在天、麒麟、五徳、天下布武、天正、清静は天下を正と為す。儒教、道教、仏教の理念を学んだ。
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
織田信長、比叡山焼き討ち元亀2年9月12日(1571年9月30日)朝倉義景・浅井長政との戦い。当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕。『信長公記』「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」。『信長公記』、ルイス・フロイス書簡、『言継卿記』。
【織田信長、正親町天皇、勅命講和】信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現。元亀元年(1570年)朝倉義景・浅井長政との戦い、天正元年(1573年)足利義昭との戦い、天正8年(1580年)石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命による
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
禅-心とかたち、東京国立博物館・・・不立文字
「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人
妙心寺展・・・禅の空間 、近世障屏画の輝き
島薗進×大久保正雄『死生学 ファンタジーと魂の物語』
今谷明 『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』1992年
特別展、東福寺・・・円爾、九条道家、吉山明兆、無準師範
https://bit.ly/3JmEdye
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展示作品の一部
国宝 無準師範像、自賛 中国 南宋時代・嘉熙2年(1238)、京都・東福寺蔵
重要文化財「癡兀大慧像」鎌倉時代・正安3年(1301)京都・願成寺蔵
癡兀大慧(ちこつだいえ、1229~1312)は、もと天台僧。円爾に法論を挑んだが、その徳に圧倒されて弟子となった。本像は73歳の折の肖像画で、目も見開きにらむ顔が迫力満点である。中世の肖像表現の白眉であり、畏怖にみちた禅風をしのばせる。
重要文化財「五百羅漢図」吉山明兆筆 南北朝時代・至徳3年(1386)京都・東福寺蔵
水墨と極彩色とが見事に調和した、若き明兆の代表作。1幅に10人の羅漢を表わし50幅本として描かれた作で、東福寺に45幅、東京・根津美術館に2幅が現存する。東福寺の伽藍再興運動のなか、至徳3年(1386)に完成したことが記録により判明する基準作としてもきわめて貴重である。14年に渡る修理事業後、本展で初めて全幅が公開される。
南宋禅宗界きっての高僧で、円爾の参禅の師である無準師範の肖像。無準が自ら賛を書いて円爾へと付与した作で、中国から日本へと禅の法脈が受け継がれたことを象徴する。迫真的な面貌表現は南宋肖像画の高い水準を示す。
重要文化財「白衣観音図」吉山明兆筆 室町時代・15世紀 京都・東福寺蔵
明兆は巨幅や連幅を数多く描いたが、そのなかでも本作の巨大さは圧倒的である。もとは法堂の壁面に貼られていたとも考えられる作で、筆勢あふれるダイナミックな描写には明兆の非凡な画力が遺憾なく発揮されている。
高さは326.1センチメートル。
国宝 太平御覧、李昉(りぼう)等編 中国 南宋時代・12~13世紀 京都・東福寺蔵
重要文化財「東福寺伽藍図」了庵桂悟賛 室町時代・永正2年(1505) 京都・東福寺蔵
国宝 禅院額字幷牌字、張即之筆 中国 南宋時代・13世紀 京都・東福寺蔵
重要文化財 迦葉・阿難立像、鎌倉時代・13世紀 京都・東福寺蔵
「寒山拾得図」吉山明兆筆、室町時代15世紀
吉山明兆筆「仏涅槃図」室町時代1408、展示なし。
――
特別展「東福寺」
第1章 東福寺の創建と円爾
嘉禎元年(1235)、円爾(1202~80)は海を渡り、南宋禅宗界の重鎮である無準師範(1177~1249)に師事します。帰国後は博多に承天寺(じょうてんじ)を建立。その後九条道家の知遇を得て京都に巨刹、東福寺を開きました。以来、寺は災厄に耐えて古文書や書跡、典籍、肖像画など無準や円爾ゆかりの数多の宝物を守り継いできました。それらは13世紀の東アジアの禅宗と日中交流の実情を窺わせる、質量ともに類をみない文物群で、今日、東福寺を中世禅宗文化最大の殿堂たらしめています。
第2章 聖一派の形成と展開
円爾の法を伝える後継者たちを聖一派(しょういちは)と呼びます。円爾は禅のみならず天台密教にも精通し、初期の聖一派の僧たちも密教をよく学んでいました。また彼らはしばしば中国に渡り、大陸の禅風や膨大な知識、文物を持ち帰りました。東福寺周辺には彼らの書や、面影を伝える肖像画や彫刻、袈裟などの所用品が多数現存し、いずれも禅宗美術の優品ぞろいです。聖一派は国際性豊かで好学の気風が強く、名僧を多く輩出し、禅宗界で重きをなしました。
第3章 伝説の絵仏師・明兆
吉山明兆(きっさんみんちょう、1352~1431)は、東福寺を拠点に活躍した絵仏師です。 江戸時代までは雪舟とも並び称されるほどに高名な画人でした。寺内で仏殿の荘厳などを行う殿司(でんす)職を務めたことから、「兆殿司(ちょうでんす)」とも通称されます。中国将来の仏画作品に学びながらも、冴えわたる水墨の技と鮮やかな極彩色とにより平明な画風を築き上げ、巨大な伽藍にふさわしい巨幅や連幅を数多く手掛けました。 本章では、東福寺および塔頭に伝蔵される明兆の代表作をご覧いただきます。
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特別展「東福寺」東京国立博物館、3月7日(火)~5月7日(日)
京都国立博物館 平成知新館、2023年10月7日(土)~12月3日(日)

2023年3月10日 (金)

芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル・・・世紀末の浮世絵、歌川国芳、落合芳幾、月岡芳年、残虐の世界

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第317回
殺戮のテロ国家、明治政府。言論と思想は常に弾圧。
【徳川慶喜、大政奉還、緻密な戦略】慶喜が二条城の二の丸御殿に、老中などを集めて政権返還について演説した、慶応3(1867)年10月12日。翌13日に在京諸藩の重臣に通告し、さらにその翌日、14日、慶喜は大政奉還の上表文を朝廷に提出。その翌日の15日に受理される。薩摩長州に先手を打つ。名君か暗君か。
【孝明天皇、毒殺事件】孝明天皇(1831年-1866年)、妹和宮を降嫁。尊攘派を抑える。第2次長州征伐検討中に暗殺される。薩摩の大久保利通が主犯か。実行部隊は薩長テロリスト。
【王政復古】慶応3(1867)年12月9日、大久保と西郷らが中心となり、薩摩・土佐・尾張・越前・安芸の5藩が協力して「王政復古の大号令」と呼ばれるクーデタが決行される。5藩の兵が御所を軍事的に制圧。天皇の名前で幕府と摂政関白を廃止。
【徳川幕府崩壊】徳川軍と新政府軍は、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月3日)で、激突。将軍慶喜、離脱。
【明治維新、慶応4(1868)年】【戊辰戦争(1868年-1869年)】佐幕派と討幕派の戦い【西南戦争、明治10(1877)年】不平士族の反乱。
【自由民権運動】(1874年-1889年)
【言論と思想は常に弾圧されてきた(1875年-1952年)】1875新聞紙条例、讒謗律、1880集会条例、1887保安条例、1900治安警察法、1925治安維持法、1952破壊活動防止法。
【大日本帝国憲法1889年2月11日】民権派を封じる。伊藤博文、枢密院に憲法草案を提出。天皇は、統治権の総攬者、軍隊の統帥権、内閣の任命権を有する。
【日清1894・日露戦争、1904】軍国主義国家、大日本帝国。
【第1次世界大戦(1914年-1918年)】漁夫の利【スペイン風邪(1918年-1920年)】
【世界大恐慌1929年ウオール街から世界】【ファシズム国家、ナチスドイツの独裁1933年】【第2次世界大戦】【大戦の導火線に火、それを消すどころか武器を送り更にエスカレートさせようとする者。戦争屋、武器産業、多くの民の命を奪い世界を破滅に向かわせる地獄の悪魔、富裕層。日本政府は和平の仲介に入るべき。NATOと一緒にロシアを責めている】
【岡倉天心1863-1913】美術評論家、思想家【夢殿解扉】1886(明治19)年【1898東京美術学校辞職、日本美術院創設】岡倉天心(1904-1913)ボストン美術館顧問。
【ウォーナー・リスト】ボストン美術館顧問の岡倉天心(1904-1913)の助手を務めた、ラングドン・ウォーナーがロバーツ委員会の日本部主任を務めていた、日本における美術歴史遺跡の保護のためのリスト作成。ボストン美術館東洋部長・冨田幸次郎、コロンビア大学講師・角田柳作に協力を要請。リストは米軍に送られた。
【日本本土空襲1945】アラバマ・マックスウェル空軍基地にある日本空爆計画に関する機密文書の閲覧許可が下りた。空爆予定地として、それらの緯度・経度も記載されていた。この文書の中にカラーの地図があり、その緑色の部分は空爆を行わない場所となっていた。これには東京では皇居・東京駅・靖国神社・上野公園・東京大学・浅草公園が、奈良では興福寺や法隆寺が含まれていた。
国家の波に飲まれる浮世絵師
【幕末浮世絵、海に暴れる源為朝、歌川国芳】
歌川国芳(1797-1861)。江戸本銀町生れ。文政末期「通俗水滸伝豪傑百八人之壷個」シリーズで人気。役者絵の国貞、風景画の広重と並び、武者絵の国芳として第一人者となる。戯画、美人画、洋風風景画にも発想の豊かな近代感覚を取り込む。役者絵や風刺画を得意とする。『讃岐院眷属をして為朝を救う図―鰐鮫』『宮本武蔵の鯨退治』『相馬の古内裏』『其のまま地口猫飼好五十三疋』、大胆な構図が得意技である。
最後の浮世絵師たち。月岡芳年、落合芳幾、河鍋暁斎は歌川国芳の弟子である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
歌川国芳《太平記英勇伝 登喜十郎左門光隣》嘉永頃 浅井コレクション
歌川国芳《源頼光公舘土蜘作妖怪図》天保14(1843)年 浅井コレクション
歌川国芳《八犬伝之内芳流閣》天保11(1840)年 浅井コレクション
落合芳幾《太平記英勇伝 明智日向守光秀》慶応3(1867)年 浅井コレクション
月岡芳年「藤原保昌月下弄笛図」明治16年(1883)
月岡芳年《芳年武者旡類 源牛若丸 熊坂長範》明治16(1883)年頃 浅井コレクション
落合芳幾『くまなき影』(部分)慶応3(1867)年、毎日新聞社新屋文庫
月岡芳年、金木年景《大蘇芳年像》明治25(1892)年 西井コレクション
落合芳幾《英名二十八衆句 鳥井又助》慶応3(1867)年 西井コレクション
月岡芳年《英名二十八衆句 高倉屋助七》慶応3(1867)年 西井コレクション
月岡芳年《ま組火消しの図》明治12(1879)年 赤坂氷川神社 肉筆画
落合芳幾《五節句図》東京国立博物館 Image : TNM Image Archives 肉筆画
落合芳幾《東京日々新聞百十一号》明治7(1874)年 毎日新聞社新屋文庫
月岡芳年《月百姿 雨後の山月 時致》明治20(1887)年 浅井コレクション
月岡芳年《つき百姿 千代能》明治22(1889)年 浅井コレクション
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参考文献
大江戸の華、江戸東京博物館・・・老獪な策士、徳川家康。緻密な戦略、徳川慶喜
「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」・・・世に背を向け道を探求する、孤高の藝術家
マリー・ローランサンとモード・・・ココ・シャネル、1920狂乱のパリ、カール・ラガーフェルド
「芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル」図録、三菱一号館美術館
「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」江戸東京博物館・・・謎の絵師写楽、画狂老人卍
芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル・・・世紀末の浮世絵、歌川国芳、落合芳幾、月岡芳年、残虐の世界
https://bit.ly/3ZX1r4Q
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「芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル」、三菱一号館美術館プレスリリースより
■歌川国芳(1797-1861)
寛政9(1797)年、日本橋の染物屋の家に生まれる。幼少時から絵を好み、文化5(1808)年12歳で初代歌川豊国に入門。一勇斎、朝桜楼などと称す。発表を始めてから人気が出るのは遅かった。豊国没後の文政10(1827)年頃、『水滸伝』に取材した《通俗水滸伝豪傑百八人之一個》シリーズが評判となる。
奇抜な発想の風刺画、ダイナミックな武者絵などを大判3枚続きの画面に展開して人気を博す。西欧の銅版画に学ぶとともに、名所絵、美人画、役者絵や戯画と幅広く手掛けた。猫を描いた戯画も多く知られる。文久元(1861)年没。彼が育てた数多くの弟子が明治6(1873)年、国芳13回忌に建立した顕彰碑が三囲神社にある。
国芳《源頼光公舘土蜘作妖怪図》天保14(1843)年 浅井コレクション
■落合芳幾(1833-1904)
天保4(1833)年、吉原日本堤下の編笠茶屋に生まれる。幼少から国芳門下の芳兼の仕事を見て育ち、質屋の奉公に出されるが、嘉永2(1849)年頃、17-18歳で国芳に入門した。一蕙斎、朝霞楼と称す。安政2(1855)年に江戸を襲った大地震の惨状を写した錦絵で名声を得る。国芳が没した際には弟子を代表して死絵を担当した。戯作者や好事家との交流が多く、明治以降はこうした仲間との事業に携わる。明治5(1872)年、「東京日日新聞」の創刊に参画して記事を錦絵にしたり、明治8(1875)年創刊の「平仮名絵入新聞」に挿絵を描いたりして転身を図った。明治37(1904)年没。
落合芳幾『くまなき影』(部分)慶応3(1867)年、毎日新聞社新屋文庫
■月岡芳年(1839-1892)
天保10(1839)年生まれ。本名は吉岡(後に月岡)米次郎。嘉永3(1850)年、12歳で国芳に入門。玉桜楼、一魁斎などと称す。国芳を踏襲して武者絵を多く描くが、スランプに陥り神経を病んだ。恢復を機に明治6(1873)年「大蘇」を名乗り、時事的な作品など精力的に手掛ける。菊池容斎の歴史人物画や西洋画に学んで新機軸をもたらした武者絵や歴史画には、明治政府による皇国史観の反映もみられる。芳幾に対抗して「郵便報知新聞」の新聞錦絵にも携わった。晩年には《風俗三十二相》など美人画の代表作を描き、また《月百姿》などの静謐な作風で江戸回帰を志向するが、病を再発し明治25(1892)年に没した。
月岡芳年、金木年景《大蘇芳年像》明治25(1892)年 西井コレクション
■国芳への入門
芳幾が国芳に入門したのは嘉永2(1849)年頃、17-18歳の頃でした。芳年はその翌年、12歳で入門しています。そのとき国芳は50歳代前半。この頃、彼の弾圧を目論んだ老中水野忠邦は既に失脚していましたが、国芳はなおも幕府批判の疑いで奉行所から睨まれる存在でした。しかしそうした規制をかいくぐって風刺を続ける国芳に江戸の庶民は喝采を送っていたのです。親子ほどにも年齢の離れた師弟でしたが、こうした師の姿に二人は頼もしさを感じていたのではないでしょうか。その指導の許で彼らは頭角を現すことになります。
江戸後期から幕末にかけての浮世絵界は歌川派が隆盛を誇っており、その黄金期を築いた国芳には多くの門人がいましたが、その筆頭と目されるようになったのは芳幾と芳年でした。当時の人気番付をみると、国芳の弟子の中で二人ともに上位にランキングされているのが分かります。彼らは国芳の教えやその作風をよく受け継ぎ、それぞれのやり方で新しい時代を切り拓いていったのです。
歌川国芳《八犬伝之内芳流閣》天保11(1840)年 浅井コレクション
■武者絵対決
国芳の出世作となり、その最も得意としたのは武者絵でした。芳幾の武者絵を見ると、モデルを正面から捉え、その余白に物語を記述する点で師の作風を忠実に受け継いでいることが分かります。その一方で芳年は背景を無地としてモデルが浮かびあがるように、さらに見上げるような大胆な視点で描くことでダイナミックな効果をあげています。器用だが覇気のない芳幾と、覇気はあるが不器用な芳年。師によるなんとも辛辣な評価です。しかしその眼は鋭く、この評言は彼らの後の生き様まで見通しているようです。
作風をみると芳幾は国芳の正統な継承者でした。しかし彼は浮世絵に見切りをつけ新聞錦絵という新事業へと進みます。芳年は浮世絵にこだわり続け、結果として新しい歴史画の境地を開きました。本展を通して、二人が師から何を吸収し展開していったのかを考えます。
歌川国芳《太平記英勇伝 登喜十郎左門光隣》嘉永頃 浅井コレクション
落合芳幾《太平記英勇伝 明智日向守光秀》慶応3(1867)年 浅井コレクション
月岡芳年《芳年武者旡類 源牛若丸 熊坂長範》明治16(1883)年頃 浅井コレクション
■ライバル対決の行方
若き日の二人
国芳の葬儀の際、芳幾は人混みに座る芳年をじゃまだと足蹴にしたそうです。兄貴風を吹かせたかったのでしょうか。その5年後には二人で《英名二十八衆句》を共作しており、決して仲が悪いということではなかったようです。明治7(1874)年に芳幾が「東京日日新聞」の錦絵を手掛けるようになると、翌年から刊行された「郵便報知新聞」では芳年が起用されます。これは周囲もまた彼らをライバルと目していたということでしょう。しかし晩年に至ると、芳幾は自分の作風にこだわらず、芳年の図を焼き直して流用していたそうです。これを知った芳年は「昔日の恥辱始めて晴るゝ感が深い」と言って笑ったそう。足蹴にされた恨みでしょうか、とはいえ師の没後20年は経っています。芳年恐るべし……。
英名二十八衆句
歌舞伎などに現れる凄惨な場面を、芳幾と芳年で14図づつ分担して描きました。いわゆる血みどろ絵(無惨絵)を代表する浮世絵として有名ですが、これらは江戸から明治に至る不穏な世相を反映したものとも考えられています。下の二図ともそれぞれ国芳の影響が指摘されていますが、独自な画面とするための創意が見られます。芳幾は一見涼やかな、しかしよくみるとショッキングな水中として描き、芳年は強い色彩によって明快な画面に組み立てています。
落合芳幾《英名二十八衆句 鳥井又助》慶応3(1867)年 西井コレクション
月岡芳年《英名二十八衆句 高倉屋助七》慶応3(1867)年 西井コレクション
■肉筆画
月岡芳年《ま組火消しの図》明治12(1879)年 赤坂氷川神社
落合芳幾《五節句図》東京国立博物館 Image : TNM Image Archives
■新聞錦絵
東京日々新聞は明治5(1872)年に発刊された東京で初めての日刊新聞です。現在の毎日新聞の源流にあたります。親しい間柄であった落合芳幾、條野採菊(鏑木清方の父)、西田伝助により創刊されました。翌年には岸田吟香(岸田劉生の父)が入社します。その翌年に大蔵省の役人であった福地桜痴が入社すると社説欄が設けられ、政府の御用新聞の色彩を強めました。芳幾は明治7(1874)年、東京日々新聞からゴシップ的な記事を取り上げて描いた新聞錦絵を始めて、絶大な人気を博しました。
落合芳幾《東京日々新聞百十一号》明治7(1874)年 毎日新聞社新屋文庫
■月岡芳年の到達点
師の得意とした武者絵を継承した芳年ですが、変動する時代の趨勢のなかで彼自身の作画を突き詰めていきます。写生を重視することは国芳の指導でしたが、芳年はさらに西洋画法や、歴史肖像の手本となった菊池容斎『前賢故実』に学び、全く新しいタイプの武者絵を生み出しました。カメラアングルのような視点の意識は、それまでの浮世絵には見られなかったものです。それによって現代の私たちが観ているアニメーションの画面のような、動きのある劇的な効果が生じています。芳年はこうした成果を生かして、武者絵のみならず歴史的な人物や逸話についての作品も数多く残しました。芳年晩年の《月百姿》は100枚からなる大規模なシリーズですが、月にちなんだ歴史上の人物の物語が取り上げられており、江戸時代回顧の気分が偲ばれるとともに、彼が到達した静かな境地をも示しています。
月岡芳年《月百姿 雨後の山月 時致》明治20(1887)年 浅井コレクション
月岡芳年《つき百姿 千代能》明治22(1889)年 浅井コレクション
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「芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル」三菱一号館美術館、2月25日(土) 〜 4月9日(日)

2023年3月 3日 (金)

マリー・ローランサンとモード・・・ココ・シャネル、1920狂乱のパリ、カール・ラガーフェルド


Marie-laurencin-bunka-2023
Marie-laurencin-1924-bunka-2023
Marie-laurencin-man-ray-cocochanel-1955
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第316回
事業家として成功する藝術家、ファッション・デザイナー。事業家、欲望を管理するデザイナー。成功の秘訣は何か。
【マリー・ローランサン、パブロ・ピカソの紹介で詩人ギヨーム・アポリネールと出会い恋人となる(1907年~1912年)。集合アトリエ洗濯船に出入りする。キュビスムとアンリ・ルソーに傾倒する。『ギヨーム・アポリネールと友人たち』。1914年にドイツ人男爵と結婚、ドイツ国籍、第一次世界大戦がはじまるとフランス国外への亡命、パリに戻ってくる、1921年の個展で成功を収め、1956年73歳で死す。
【19世紀末】アール・ヌーヴォー、エミール・ガレとドーム兄弟1889~1900年。1892年、ヴォーグ創刊、アメリカ。1883年、ガブリエル・シャネル、生まれる。
【20世紀】第1次大戦(1914年7月~1918年11月)、1918年スペイン風邪感染爆発(1918年(大正7年)~1920年)、1925年アールデコ博覧会、1929年世界大恐慌。1930年代、ファシズム抬頭。スペイン風邪死亡者数は、世界全体で2,000万人から4,500万人
【ココ・シャネル、帽子デザイナー】1909年にパリのマルゼルブ大通り160番地で帽子を売り始め、過剰な装飾を取り払ったデザインで評判を呼びました。1910年にパリのカンポン通り21番地に「シャネル・モード」を開店。1920年代、ココ・シャネルのリトル・ブラック・ドレス。1921年、シャネルNo5、発売。1926年、シャネル「リトル・ブラック・ドレス」。1971年88歳で死す。
【事業家、シャネル、マリー・ローランサン】事業家として成功。画家、流行を作る。成功するファッション・デザイナー。成功の秘訣は何か。
【群れない人】自分が何を欲しいかが分かっている。他人にどう思われようが気にしない。他人にない強みを持っている。世間に流されない。自分の価値観と同じ人とだけつき合う。心を許す人とだけつき合う。レヴェル高い友人が何人いるか。事実、事例は言葉より強い。【自走できるチーム】モチベーション、やりたい意欲。ルーティン、仕事の習慣。業務の流れ。能力。ツール。方法論をもって問題解決。【烏合の衆】群れる。付和雷同。価値なし。世間に流される。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
マリー・ローランサン「ニコル・グルーと二人の娘」1922
マリー・ローランサン「わたしの肖像」1924
マリー・ローランサン「マドモアゼル・シャネルの肖像」1923
マン・レイ「ココ・シャネル」1955
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参考文献
「マリー・ローランサンとモード」図録2023
ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道、国立新美術館・・・装飾に覆われた運命の女、黄金様式と象徴派
「クリムト展 ウィーンと日本 1900」・・・黄金の甲冑で武装した騎士、詩の女神に出会う、純粋な愛と理想
マリー・ローランサンとモード・・・ココ・シャネル、狂乱のパリ1920、カール・ラガーフェルド
https://bit.ly/3YirToj
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ココ・シャネル(Coco Chanel)(1883年~1971)とフランスの画家 マリー・ローランサン(Marie Laurencin)(1883年~1956)
二人に焦点を当てた展覧会。作品を通して女性的な美を追求したローランサンと、男性服の素材やスポーツウェアを女性服に取り入れたシャネルの2人にフォーカス。美術とファッションの垣根を超えて活動した両氏と、ファッション・デザイナーのポール・ポワレ(Paul Poiret)やマドレーヌ・ヴィオネ(Madeleine Vionnet)、芸術家のジャン・コクトー(Jean Cocteau)、画家のマン・レイ(Man Ray)といった人々との関係に触れながら、モダンとクラシックが融合した20世紀前半のパリの芸術を振り返る。
ともに1883年に生まれ、生誕140年を迎える両氏の展覧会として、パリのオランジュリー美術館や、長野県蓼科高原や東京のホテルニューオータニ内に構えていたマリー・ローランサン美術館などの国内外のコレクションから約90点の作品をラインナップする。
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モダンガールの変遷
1920年代、新しい女性たち、“モダンガール”が登場します。第一次世界大戦を契機とした女性の社会進出、都市に花開いた大衆文化、消費文化を背景に、短髪のヘアスタイル、ストレートなシルエットのドレスをまとった女性が街を闊歩しました。彼女たちは欧米各国に出没し、アジアまでも波及し世界的な現象となります。 こうした身体の解放や服飾の簡素化は、すでに世紀末やアール・ヌーヴォーの時代から進行していました。特に1910年代にはポール・ポワレが、コルセットから解放されたエキゾチックなスタイルを提案し、賛否両論を巻き起こします。やがて1920年代に入ると、ポワレの優雅なドレスよりもより活動的、実用的な服装が打ち出され、中でもココ・シャネルのリトル・ブラック・ドレスは時代を代表するスタイルに。さらにマドレーヌ・ヴィオネがバイアスカットを駆使したドレスで注目されるなど、他のデザイナーたちも競ってモダン・ファッションに取り組み、女性服を大きく変革しました。
世界恐慌やファシズム台頭による不安な情勢から、1930年代には復古調のロングドレスや装飾が復活します。パリ・モード界でも、シュルレアリスムに影響された装飾デザインのエルザ・スキャパレッリが時代の寵児となり、ファッション雑誌はマン・レイなど気鋭の写真家を起用して斬新な表現や躍動感ある女性像を提示しました。モダンガールもまた時代の息吹を吸って、どんどん変化していったのです。
1910年代
ポワレのファッション
ポール・ポワレは1906年に発表したハイ・ウェストのドレスによってコルセットから女性を解放したことでモードの改革者と位置づけられます。ヘレニズム(古代ギリシャ)、オリエント(中近東、日本、中国など)から影響を受けたエキゾチックな彼のファッションは、版画技法を駆使したポショワール画※が見事に表現しています。こうした革新的な手法によるイメージ戦略も相まって、ポワレは瞬く間にパリのモード界を席巻しました。
1910-1920年代
帽子ファッションの流行
ココ・シャネルは帽子デザイナーとしてそのキャリアをスタートしました。1909年にパリのマルゼルブ大通り160番地で帽子を売り始め、過剰な装飾を取り払ったデザインで評判を呼びました。続いて1910年にパリのカンポン通り21番地に「シャネル・モード」を開店すると、ホテル・リッツの裕福な客層がシャネルの帽子店を訪れるようになります。ローランサンの絵画に描かれているように、帽子は重要なファッションアイテムでした。
1920年代
モダンガールの登場
「ポワレが去り、シャネルが来る」、これはジャン・コクトーの言葉です。複雑で東洋的、演劇的な要素の多いポワレのドレスよりも、人々は短いドレスを夢見るようになります。1926年、アメリカのファッション雑誌ヴォーグで発表されたシャネル「リトル・ブラック・ドレス」はまさに新しい時代の到来を告げるものでした。ユニフォームのようなニュートラルなドレスに、ジュエリー、スカーフなど、それぞれの女性が好きなように装飾を与えることができる、まさに「新しいエレガンスの方程式」を打ち出したのです。
1930年代フェミニンへの回帰
1930年になると、復古調のロングドレスや装飾が復活します。シンプルなファッションよりも女性らしさが求められ、スカート丈は長く、女性的な曲線が好まれ、花柄などのモチーフも多く見られるようになります。ファッションの動向に呼応するように、1920年代末頃からローランサンの作品には、鮮やかな色彩が見られ、真珠や花のモチーフが多用されるように。30年代にはそれまであまり用いられなかった黄色や赤に挑戦し、色彩の幅を一層広げていきました。
https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/23_laurencin/commentary.html
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「マリー・ローランサンとモード」、Bunkamura ザ・ミュージアム、2月14日から4月9日

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