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2022年12月 3日 (土)

ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王

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Tutankhamun-mystery-2018
Tutankhamun-2022
Skhenaten-2021
【ツタンカーメンの謎】3300年の眠りから醒めたファラオツタンカーメン(Tut・ankh・amun)tut・ankh・amen, King Tut, 紀元前1341年頃 - 紀元前1323年頃)は、古代エジプト第18王朝の 9歳で即位し、19歳で亡くなった悲劇の少年王。ツタンカーメンの死因は何か。ツタンカーメンの黄金の短剣、隕石鉄の短剣はミタンニ王国から来たのか。アクエンアテン王のアマルナ改革は何故か。
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』300回
――
1 ツタンカーメン
【ツタンカーメン発掘100年】1922年11月26日、王家の谷(Valley of the Kings)にあるツタンカーメン(Tut・ankh・amun)の墓を小さな穴から覗き込んだ英国人考古学者ハワード・カーターは、黄金のマスクや夥しい数の財宝に息をのんだ。
古学者ハワード・カーターは、ツタンカーメン王墓発掘を夢み、カーナボン卿は資金提供。2人は妄想狂と呼ばれた。
【ツタンカーメン黄金のマスク】「輝かしい、壮麗なともいえるほどの、磨きあげられた黄金のマスク、あるいは王の肖像が、頭と肩を覆っており(中略)打ち出しの黄金のマスクは、古代における美しい、ユニークな肖像の傑作で、若くして死に奪い去られた青春をしのばせる、悲しい、しかし、しずかな表情をたたえている」ハワード・カーター『ツタンカーメン発掘記』(ちくま学芸文庫)
【ツタンカーメンの謎、黄金の短剣、隕石鉄の短剣】9歳で即位、19歳で死す。死因は謎である。暗殺、落馬事故、病死。アマルナ文書によれば、アメンホテプ3世の正妃ティイは、黄金の短剣、隕石鉄の短剣を持っていた。ツタンカーメンの母は、アメンホテプ3世の孫、ミタンニ系。アメンホテプ3世の正妃ティイ(Tiy)は妹で、兄妹ともにミタンニにルーツを持つ。ツタンカーメンの副葬品
【アンケセナーメン(Ankhesenamen)】ネフェルティティの娘、ツタンカーメンと婚姻。*ファラオ・アクエンアテンと正妃ネフェルティティの三女であり、ファラオ・ツタンカーメンの妻。ツタンカーメンの母はだれか。アメンホテプ3世の正妃ティイの娘。
ツタンカーメンとアンケセナーメン
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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2 アメンホテプ3世の正妃ティイ(Tiy)
ツタンカーメンの祖母【ティイ(Tiy)紀元前14世紀中葉)】は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオであったアメンホテプ3世の正妃である。アメンホテプ4世の母であり、王太后である。
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3 アクエンアテン=アメンホテプ4世、ツタンカーメンの父
【アクエンアテン=アメンホテプ4世(Akhenaten/ Amenhotep IV)】紀元前1362年? - 紀元前1333年?)、
【アメンホテプ4世(アクエンアテン)、ネフェルティティ、ツタンカーメン】王名表から削除された。
アテン宗教改革に関わった時代の王たちは存在そのものを消される。古代エジプト時代聖地とされたアビドスの神殿にある歴代の王の名「王名表」にツタンカーメンの名は無い。ツタンカーメンの名は彼の父らと共に歴史上から抹殺された。
――
【アメンヘテプ3世の王妃ティイ】王の死後、息子のアメンヘテプ4世とともにアマルナ王宮に移り住み。「アメンヘテプ3世の記念スカラベ(王妃ティイとの結婚)」によると、ティイの父親はイウヤ、母親はチュウヤ。太陽神アテンを唯一神とする宗教改革を断行したアメンヘテプ4世は、アメンヘテプ3世と王妃ティイの息子。ツタンカーメンは、ティイの孫。(新王国・第18王朝時代、アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)) ティイの毛髪がツタンカーメン墓から発見。
【アテン神信仰の始まり】アメンヘテプ3世が、人造湖の完成式典で「輝くアテン」という名の船に乗り、自らの王宮を「ネブマアトラーはアテンの輝き」と呼ぶ、アテン神を意識することで、アメン神官団を牽制している。アテン神は空に輝く日輪の神で、地上に降り注ぐ光はアテン神の手として描かれた。アメンヘテプ4世は、父王アメンヘテプ3世の治世30年を祝う祭礼に際して、カルナクにアテン神殿を建設。
【アマルナへ遷都】アメンヘテプ3世の跡を継いで即位したアメンヘテプ4世は、アクエンアテンと改名し、アテン神を唯一神とする宗教改革に乗り出した。治世5年頃には、宗教的な伝統やしがらみと決別するために、アマルナの地に新しい王都を建設。【アマルナ文書】アマルナの王宮址で発掘され「アマルナ文書」と呼ばれる文書。アマルナ文書の大部分は、アメンヘテプ3世の治世後半からアクエンアテン王の治世に、エジプトが諸外国と交わした外交文書。ミタンニ王は3代続けてエジプトの王室と婚姻関係を結んでおり、両国は親密な関係にありました。「トゥシュラッタ王の手紙」は、王の母としてアマルナで暮らしていた王妃ティイに宛てたもの。
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4 ネフェルティティ=アメンヘテプ4世(アクエンアテンと改名)の王妃
【ネフェルティティ】アメンヘテプ4世(アクエンアテンと改名)の王妃ネフェルトイティ(ネフェルティティ)。アメンヘテプ4世はアテン神を唯一神とする宗教改革を行い、アマルナに新都を建設した。名前もアメンヘテプ(アメン神は満足する)から、アクエンアテン(アテン神に有益な者)と改名。新王国・第18王朝時代アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
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5 ツタンカーメン王即位
【ツタンカーメン】ツタンカーメンは8歳から9歳の時に、「神の父(it netjer)」の称号を持つ宰相アイと将軍ホルエムヘブの下で王位に就いてファラオとなった。幼い王はその幼さゆえに、両者の圧力に強く影響された、治世3年か4年の時、両者の助言によってアメン信仰の再興に踏み切った。テーベの守護神であるアメン の伝統的な信仰を復活させ、「トゥトアンクア・メ・ン・」(「アメン神の生ける似姿」の意)と改名した。
古き信仰への回帰
ツタンカーメンは、アクエンアテンの時代には、唯一神アテン信仰が説かれていたため「トゥトアンクア・テ・ン・」と名乗っていたが、テーベの守護神であるアメン の伝統的な信仰を復活させ、「トゥトアンクア・メ・ン・」(「アメン神の生ける似姿」の意)と改名した。王妃アンクエスエンパーアテンもまた同様に「アンクエスエンアメン(アンケセナーメン)」へと改名した。さらに、首都をアケトアテン(テル・エル・アマルナ)からメンフィスに移した。彼は主神をアテンからアメンに変え、一神教から多神教に戻した。
彼のファラオとしての最初の行動は、アクエンアテンをアマルナから王家の谷に再埋葬することだった。エジプトでは葬儀を主催する者が次の統治者であるとい
う慣習があるため、この行動によりツタンカーメンの王権は強化された。また、最高の金属や石を使って神々の新しい像を作り、最高級のレバノンスギを使って新しい行列用の車を作り、金や銀で装飾した。神官とそれに付き添う踊り子、歌い手、侍者たちはその地位を回復し、将来を保証するために王室による保護令が出されたとされる。
ツタンカーメンの下で行われた政策を示している実証は、後にホルエムヘブに奪われ、カルナックで発見された「復古の碑(Stele of restoration)」
★★★
6 ハトシェプスト女王
【古代エジプトの王妃】【ハトシェプスト女王(トトメス2世王妃)】ハトシェプスト女王葬祭殿
7 ラムセス2世 ネフェルタリ
【ラムセス2世】生涯に8人の正妃、及び多くの側室を娶り、100人以上の子をもうけた。67年間王位につく。第19王朝。ネフェルタリ、ラムセス2世の第一王妃、8人の妃の中で最も美貌、若くして死す。在位、前1279-1213年。治世62年目、92歳薨去。絶対権力者が手に入れられない4つの秘宝がある。ラムセス2世の第一王妃、8人の妃の中で最も美貌、若くして死す。
【ネフェルタリ、ラムセス2世王妃】
ラムセス2世【カデシュの戦い】紀元前1286年頃、エジプト新王国ラムセス2世と、ヒッタイト王ムワタリとの間で戦われた戦争。シリア・パレスチナの領有権をめぐり、オロンテス川近くにある交易の要衝で戦った。ヒッタイトは鉄製武器を用いることによって、世界史上に頭角を現した軍事国家。紀元前1275年頃、ラムセス2世はカデシュに軍を進め、シリア・パレスティナ覇権を争う。
ラムセス2世【人類最初の平和条約】ラムセス2世の治世第21年に、ヒッタイト王ハットゥシリ2世との間で、シリア・パレスティナとそこを通る交易ルートの支配権を分割保有することに同意する公式の平和条約が締結された。ラムセス2世の武勲とともにカルナック神殿、ラムセス2世の葬祭殿(ラムセウム)にヒエログリフで刻まれている。
――
7 アテン神
【アテン神】アテン、アトン(Aten)は、エジプ トの太陽神の一つ。
起源
第12王朝時代に書かれた「シヌへの物語」、亡くなった王は天に上げられて神(日輪)と一体となった、と説明されている。シヌへの物語にあるように、日輪を神格化した神でテーベで祀られていた。中王国時代においてアテンは太陽神ラーの1つの側面として考えられていた。第18王朝の頃に太陽神に対する信仰が盛んになり、アメンホテプⅢ世の頃にはラーのように鷹の頭を持つ神された。アメンホテプⅣ世が唱えたアテン神の公式名は「アテンとして帰って来た父ラーの名によって、地平線で歓喜する地平線の支配者ラー」と、アマルナの境界線を示す多数の碑文に刻まれている
宗教改革の開始
第11王朝のテーベの支配者たちは、ハヤブサの頭を持つ戦いの神、メンチュウを国家神とした。第12王朝時代、アメンが台頭し広く信仰されるようになった。アメン信仰はアメンホテプ4世の治世中に全盛期を迎え、アメンを讃えていたエジプトの神官たち(アメン神団)はファラオをも凌ぐ権勢を誇った。
アメンホテプⅣ世は、即位から5年までの間に、アテン信仰の導入を始めた。伝統的な神々への崇拝を禁止しなかった。
即位5年目、自分の名前をアクエンアテンに改名、アメンの文字を削った。
即位7年目、首都をテーベからアマルナへ遷都。この新都には、「アテンの地平」を意味するアケト・アテンという名を与えた。
アテン神の変貌
先端が手の形状を取る太陽光線を何本も放ち、 光線の一つに生命の象徴アンクを握った太陽円盤の形で表現された。アマルナ改革によりアンクを持った手は、アクエンアテンに手渡されている。
アマルナ美術
太陽光線を崇める。美術においてもリアルな表現が行われ、アマルナ時代の美術様式は「アマルナ様式 」と呼ばれる。
宗教改革の失敗
この宗教改革は、急激だったために、アメン神団の抵抗が激しく失敗に終わった。アメンホテプ4世アクエンアテンは失意のうちに亡くなった。その息子であるツタンカーメン王の時代にエジプトはアメン信仰に戻った。アテン信仰は消滅した。
唯一神起源説
フロイトは、アクエンアテンの治世年と出エジプトの年と推定される年代がほぼ同じである事を根拠に、アテン神が同じ唯一神教であるユダヤ教の神ヤーウェの原形とする説を唱えた。
――
参考文献
近藤二郎「エジプト美術、世界一周 芸術新潮2009年9」
近藤二郎監修「国立ベルリン・エジプト博物館 古代エジプト展 天地創造の神話」図録2020
「クレオパトラとエジプトの王妃展」図録2015
A.J.スペンサー編(近藤二郎監訳・ 小林朋則訳)『大英博物館図説古代エジプト史』原書房、2009年
ジョージ・ハート著 (近藤二郎監訳・鈴木八司訳)『エジプトの神々』(大英博物館双書 古代の神と王の小事典) 學藝書林、2011年
近藤二郎『ヒエログリフを愉しむ 古代エジプト聖刻文字の世界』2004集英社新書
『古代オリエント集』 筑摩書房. (1999)
ジークムント・フロイト『モーセと一神教』ISBN 978-4480087935「唯一神教アマルナ起源説」。
イアン・ショー(近藤二郎・河合望共訳)『古代エジプト』岩波書店、2007年
河合望『ツタンカーメン 少年王の謎』 (集英社新書)
河合望『古代エジプト全史』雄山閣2021
ツタンカーメン、黄金の秘宝と少年王の真実・・・少年王
の愛と苦悩
クレオパトラとエジプトの王妃展・・・生と死の秘密、時の迷宮への旅
石浦章一「ツタンカーメンの謎に新説!正体不明のミイラが彼の母親だった!?、「王家のDNA」解析からわかったこと
ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」・・・絶世の美女ネフェルティティ王妃とアマルナ美術の謎
https://bit.ly/39mttQ1
ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王
https://bit.ly/3usmqyp


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