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2022年10月 4日 (火)

「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』291回

曜変天目は、織田信長の見果てぬ夢の残像。幻の曜変天目、もう一つあった。それはだれが所持したか。天王寺屋、津田宗及を経て曜変天目が、大徳寺龍光院に伝った。足利義政、東山殿御物は信長公へ伝へ、焼亡せしより。世に残らず。
織田信長【本能寺の変と三職推任問題】天正10年(1582年)4月25日、5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)。 4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。
【織田信長、三職推任問題】勧修寺晴豊『天正十年夏記』に記載、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」。5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた。正親町天皇の皇子誠仁親王、信長の返答の内容は不明である。織田信長は、階級社会の地位に拘泥せず。これが悲劇を招いた。
6月1日、本能寺の茶会。6月2日、払暁、明智光秀の本能寺の変が起こる。
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
参考文献*今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』1992小和田哲男『明智光秀』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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岩崎彌太郎《一行書「猛虎一声山月高」》と書いたが、どのような青雲の志を抱いたのか。三菱創業の初代岩崎彌太郎、岩崎小彌太は、優れた美術コレクターである。
国宝《曜変天目 (稲葉天目)》。完全な形で日本に現存するのは3点のみとされる。こちらは徳川将軍家より3代将軍家光の乳母・春日局の手を経て、淀藩主稲葉家に伝来した。家光が春日局に、服薬のために献じた。大小の斑文の周りを青色や虹色に輝く光彩が囲み、宇宙の星を覗き込むような心になる美しい茶碗。河野元昭(静嘉堂文庫美術館館長)は、「曜変天目 の美は言葉では語れない」と述べる。
華麗な光源氏の一行と船中の明石君とのすれ違う恋を描いた俵屋宗達の国宝《源氏物語関屋澪標図屏風》「澪標図」。
国宝《太刀 銘 泡永》、太刀の妖しいほどの輝き。
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★展示作品の一部
国宝《曜変天目 (稲葉天目)》建窯、南宋12-13世紀
重要文化財《油滴天目》建窯、南宋12-13世紀
国宝《太刀 銘 泡永》
唐物茄子茶入《付藻茄子》《松本(紹鷗)茄子》は、信長・秀吉・家康に伝来した大名物。これらは1615年大坂夏の陣で大破したが、その破片を集めて、塗師の名工である藤重藤元(ふじしげ とうげん)・藤巌(とうがん)父子によって漆繕いされて復元された。
国宝 伝 馬遠《風雨山水図》南宋時代・13世紀 静嘉堂文庫美術館蔵
[前期(10月1日(土)~11月6日(日))展示]
(国宝)《風雨山水図》馬遠筆の伝承を持つ
(重要文化財)画僧・牧谿の《羅漢図》
(重要文化財)酒井抱一《波図屏風》江戸時代・1815年(文化12)頃 静嘉堂文庫美術館蔵
[後期(11月10日(木)~12月18日(日))展示]
国宝 俵屋宗達《源氏物語関屋澪標図屏風》、17世紀
尾形光琳《住之江蒔絵硯箱》(重要文化財)、18世紀、酒井抱一《波図屏風》、
鈴木其一《雪月花三美人図》、19世紀
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【織田信長、中世的権力との戦い】「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。幸若舞」『敦盛 』、麒麟、岐阜城、天下布武、武の七徳、第六天魔王、天正、明晰透徹、安土城天主七層五階、安土宗論。千宗易、狩野永徳、本因坊算砂、天下一の達人を求める。五徳、仁義礼智信。
【曜変天目、建窯、南宋12-13世紀】稲葉天目、大徳寺龍光院、藤田美術館。天下に3碗あるとされるが、もう一つあった。幻の曜変天目。それはだれが所持したか。天王寺屋、津田宗及を経て曜変天目が、大徳寺龍光院に伝った。
【曜変天目、稲葉天目、建窯、南宋12-12世紀、3代将軍家光の乳母春日局旧蔵】曜變、稲葉丹州公にあり、東山殿御物は信長公へ伝へ、焼亡せしより、比類品世に屈指数無之なり、茶碗四寸五分位、高臺ちひさし、土味黒く、薬たち黒く、粒々と銀虫喰塗の如くなるうちに、四五分位丸みにて鼈甲紋有之、めぐりはかな気にて見事なり、星の輝くが如し。(名物目利聞書)
【織田信長と耀変天目茶碗】永禄11(1568)年、織田信長が上洛。天王寺屋、津田宗及の屋敷で、会合衆の集会。永禄12年(1569)百人余りが終日宴を張った。本能寺の茶会、天正10(1582)年6月2日、信長は足利義政所伝の耀変天目茶碗を所持していたが本能寺の変で焼失した。
【織田信長、本能寺の変、天正10年6月2日】
信長は、天正10年(1582)5月29日、僅かの供を連れただけで安土を出発、その日の内に京都の本能寺に入った。信長が京都における宿所としてよく使っていたのが本能寺と、法華宗寺院の妙覚寺で、この時、信長は本能寺を宿所とした。本能寺は、堀と土塁に囲まれ、城郭寺院。本能寺は自ら京都に城を持たなかった信長の定宿であった。
太田牛一『信長公記』によると、5月29日の信長一行は、「御小姓衆二、三十人召列れられ、御上洛」とある。御小姓衆が20~30人で、その他に警固の武士もいるので、少なくとも100人はいた。『当代記』には「百五十騎」とある。
【備中高松城水攻め、羽柴秀吉】信長は安土と京都を往き来している。このときの上洛の目的は何だったのか。ひとつは、備中への出陣のためである。備中高松城を水攻めしている羽柴秀吉からの要請を受け、明智光秀をその応援に向わせ、首尾を見届けるための形式的な出陣。
【三職推任】主目的と思われる朝廷からの「太政大臣か関白か征夷大将軍か、お好きな官に任命しよう」という、“三職推任”に対する返答をするためだった。
【天下三肩衝】信長のねらいは、信長が安土城から名物茶器として名高い九十九茄子・珠光小茄子・紹鷗白天目・小玉澗の絵・牧谿のくわいの絵など天下の逸品38種を運ばせていた。本能寺で大茶会を開くのが目的だった。茶会には、博多の豪商島井宗室のほか、近衛前久ら公家たちが招かれている。茶会の後酒宴になり、信長は本因坊算砂の囲碁の対局をみて床についた。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★参考文献
三菱の至宝展・・・幻の曜変天目
https://bit.ly/3yzJMSK
「桃山―天下人の100年」3・・・茶の湯、足利義政、織田信長、今井宗久、千宗易、豊臣秀吉、楽長次郎
https://bit.ly/35ZPK2F
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変
https://bit.ly/3UYWOpe
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★静嘉堂創設130周年・新美術館開館記念展I「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」
静嘉堂文庫美術館、2022年10月1日(土)から12月18日(日)まで
(静嘉堂@丸の内)住所:東京都千代田区丸の内2-1-1 明治生命館 1階
明治生命館(昭和9年〈1934〉竣工)
https://www.seikado.or.jp/

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