没後80年記念「竹内栖鳳」・・・竹内栖鳳「班猫」村上華岳「裸婦図」
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』293回
八百屋の猫を見て竹内栖鳳は「徽宗皇帝の猫だ」と言った。華岳の師の一人、竹内栖鳳が、沼津の八百屋のおかみの飼い猫に一目惚れし、京都に連れ帰って描き上げた。竹内栖鳳「班猫」1924山種美術館
菱田春草(1874~1911)「白き猫」(1901飯田市美術博物館所蔵)、「黒き猫」(1910年永青文庫)と竹内栖鳳(1864~1942)「班猫」(1924年 山種美術館)があり、ともに徽宗の猫を古典として意識している。
北宋第八代皇帝、徽宗(1082~1135) 「猫図」
北宋第八代皇帝、徽宗(1082~1135在位1100~1125)、は藝術や奢侈遊興にうつつを抜かし道楽に耽った浪子、政治に無関心で軽佻な亡国皇帝。徽宗には画猫の伝称作品が複数あり、水戸徳川家伝来の伝徽宗筆「猫図」は精細な描写が群を抜く。斑猫一匹。猫の体躯は白色の短い細線による体毛によって覆われている。
村上華岳「裸婦図」1920年
村上華岳「裸婦図」は、表面的な美ではなく、精神の美を表現している。「霊と肉体が一致した美」であると思う。
観世音菩薩のようでアジャンタ石窟群、仏教美術の雰囲気が濃厚であるが、ルネサンス美術の匂いもする。日本画家、上村淳之が、京都市立藝術大で保管されていた下図を見て鳥の存在を見つけ、ギリシア神話「レダと白鳥」を意識したのではないかと指摘した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
竹内栖鳳「班猫」1924 山種美術館 (重要文化財)
八百屋の猫を見て栖鳳は「徽宗皇帝の猫だ」と言った。華岳の師の一人、竹内栖鳳が、沼津の八百屋のおかみの飼い猫に一目ぼれし、京都に連れ帰って描き上げた傑作。
村上華岳「裸婦図」1920年 山種美術館 重要文化財
上村 松篁 1902-2001 「白孔雀 」1973(昭和 48)年
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村上華岳は「久遠の女性」だといい、以下のように述べている。
私はその目に観音や観自在菩薩の清浄さを表そうと努めると同時に、その乳房のふくらみにも同じ清浄さをもたせたいと願ったのである。それは肉であると同時に霊でもあるものの美しさ、髪にも口にも、将た腕にも足にも、あらゆる諸徳を具えた調和の美しさを描こうとした。それが私の意味する「久遠の女性」である。
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「村上華岳-京都画壇の画家たち」山種美術館図録2015には、以下のようにある。
村上華岳(1888-1939)は、生涯を通じて求道的精神で制作に専念し、芸術と信仰がひとつとなる境地を目指して歩みを続けて画家でした。1903(明治38)年、15歳で京都市立美術学校(美校)へ入学、竹内栖鳳ら京都画壇の重鎮を師として画家への第一歩を踏み出します。在学中の1908年には「驢馬に夏草」が第2回文展に入選、20歳という若さで画壇デビューを果たしています。翌年、京都市立絵画専門学校(絵専)に入学、同期の土田麦僊や小野竹喬らと、ともに切磋琢磨しながら意欲的な作品を制作し、画壇の注目を集めます。
ところが、1917(大正6)年、文展での審査基準に疑問を抱いた竹喬や麦僊、華岳ら絵専同期の若手画家たちは文展を離れ、その翌年に「純真なる芸術を創作し公表する」場として「国画創作協会」を結成し、ここで華岳も「裸婦図」など話題作を発表しています。しかし、1921年以降は持病の喘息の悪化と画壇活動による束縛が華岳を苦しめるようになり、1926年の第5回国画創作協会展を最後に華岳は画壇を離れ、翌年に頭・花隈の養家に隠棲して以降は、急進的な創作と施策に沈潜していきました。
「村上華岳―京都画壇の画家たち」
2014年に山種美術館が所蔵する《裸婦図》が、村上華岳の作品としては2件目の重要文化財に指定されたことを記念し、その画業を振り返る特別展「村上華岳 ―京都画壇の画家たち」を開催いたします。
1888(明治21)年、大阪に生まれた華岳は、神戸で少年時代を過ごした後、京都市立美術工芸学校(美工)、京都市立絵画専門学校(絵専)に学びます。在学中に文展への入選を果たしたものの、やがてその審査の評価基準に疑問を抱くようになった華岳は、1918 (大正7)年には文展を離脱、絵専の同期でもあった土田麦僊、小野竹喬らと新団体「国画創作協会」を結成します。ここで華岳は新鋭の画家たちと切磋琢磨しながら意欲的な作品を発表し、官能性と崇高さが融合した独自の世界を確立していきました。一方、1921(大正10)年頃より持病の喘息が悪化し、同年に予定していた国画創作協会の仲間との渡欧を断念した華岳は、やがて画壇から距離を置くようになっていきます。晩年は制作と思索にふける隠棲の日々を送りながら、ひたすら求道的かつ孤高の制作活動へと向かいます。
本展では、華岳が画家として頭角を現した初期の試みから、理想とした「久遠の女性」を描いた《裸婦図》の完成、そして自己と向き合いながら孤高の境地を追求し続けるまでの作品を通して、その画業をたどります。中でも、盛んに作品を発表し続けた20代から30代半ばは、同時代の関西の画家たちが画壇に新風を吹き込もうと格闘し、優れた作品が生み出された時代でもありました。本展では、《裸婦図》を一つの到達点として華岳の画業の歩みをたどるとともに、美工・絵専時代の師である竹内栖鳳や、同窓生の麦僊や竹喬、国画創作協会でともに活動した岡本神草や甲斐庄楠音らの作品にも注目し、同時代の京都画壇の歩みをふり返ります。「山種美術館」ホームページ
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参考文献
竹内栖鳳展 近代日本画の巨人・・・哀愁のイタリア、『ベニスの月』
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「村上華岳-京都画壇の画家たち」山種美術館図録2015
板倉聖哲「画猫の系譜 ―徽宗・春草・栖鳳― | 「淡青」37号より
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上村松園と美人画の世界・・・肉体の美と叡智
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「竹内栖鳳《班猫》とアニマルパラダイス」・・・生きとし生けるもの、一切衆生悉有仏性
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動物を描けばその体臭までも表す
近代京都画壇の中心的存在として活躍した竹内栖鳳 (1864-1942)。栖鳳は、円山・四条派の伝統を引き継ぎながらも、さまざまな古典を学びました。1900(明治33)年にパリ万 博視察のため渡欧、現地の美術に大きな刺激を受けた栖鳳は、帰国後、西洋絵画の技法も取り入れ、水墨画など東洋画の伝統も加味して独自の画風を確立し、近代日本画に革新をもたらしました。栖鳳の弟子・橋本関雪(かんせつ)によれば、動物を描けばその体臭まで描けると栖鳳自身が語ったというその描写力は、高く評価され、今なお新鮮な魅力を放っています。また優れた教育者でもあった栖鳳は、多くの逸材を育て、近代日本画の発展に尽くしました。
没後80年を記念し、山種美術館では10年ぶりに竹内栖鳳の特別展を開催します。本展では、動物画の傑作にして栖鳳の代表作《班猫》【重要文化財】をはじめ、東京国立博物館所蔵の《松虎》(前期展示)、個人蔵の初公開作品を含む優品の数々とともに、その画業をたどります。さらに、京都画壇の先人たち、同時代に活躍した都路華香(つじかこう)や山元春挙(やまもとしゅんきょ)のほか、栖鳳の門下である西村五雲(ごうん)、土田麦僊(ばくせん)、小野竹喬(ちっきょう)らの作品もあわせて紹介します。また弟子の一人、村上華岳(かがく)による《裸婦図》【重要文化財】を特別に公開します。
近代日本画の最高峰といえる栖鳳の傑作の数々、そして京都画壇を代表する名だたる画家たちの名品をご堪能ください。
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没後80年記念「竹内栖鳳」、山種美術館、10月6日(木)~12月4日(日)
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