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2021年7月25日 (日)

聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第249回

灼熱の上野公園を歩いて、博物館に行く。斑鳩寺、飛鳥、白鳳美術に、心癒される。
【厩戸皇子、何を夢み何に苦悩したのか】厩戸皇子はなぜ「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」と言ったのか。厩戸皇子は、何を理想とし何に苦悩したのか。「法華義疏」を見ると微細な文字で書かれ、訂正と消字と貼り紙が施されている。神経質な性格が感じられる。606年に皇子が推古天皇に講義した草稿であるとされる。「花あれば必ず実あり。善あれば必ず成仏することを表せんと欲す」「法華義疏」
【血に塗れた飛鳥、厩戸皇子】587年、馬子と厩戸皇子、守屋を襲撃、物部氏一族滅亡。622年、厩戸王子、49歳で死す。生母、穴穂部間人皇女、妃の膳大郎女が死去、三人が死ぬ。643年、入鹿、斑鳩宮を襲撃山背大兄王自刃、一族滅亡。645年、中大兄皇子と中臣鎌足、入鹿を襲う、蘇我氏一族滅亡。649年、右大臣、蘇我倉山田石川麻呂、斬首。658年、有間皇子、絞首刑。中大兄皇子と鎌足が関与。
【天智と天武の死闘】672年、大海人皇子、大友皇子を襲撃、大友皇子、自刃。672年(天武1)天武天皇、飛鳥板葺宮で即位。686 年(朱鳥2)、器量才幹が抜群な大津皇子、謀反自害。689年、草壁皇子急逝。690年、持統、即位。持統は天武を神格化。
【謎の生涯、聖徳太子、厩戸皇子】754年誕生。585年、12歳の時、父、用明天皇、即位。587年、14歳の時、父、用明天皇、崩御。蘇我馬子、物部守屋を襲撃する、厩戸皇子、蘇我軍に加わり、守屋を殺害。592年19歳の時、崇峻天皇、馬子に暗殺される。593年20歳の時、推古天皇、即位。皇太子、摂政となる。四天王寺、建立。601年、斑鳩宮、造営。607年、小野妹子、第2回遣隋使として派遣。法隆寺を創建。620年馬子とともに『天皇記』『国記』編纂。622年、聖徳太子、斑鳩宮で死す。49歳。
【蘇我馬子、物部守屋を襲撃、物部氏一族滅亡】仏教の受容をめぐって蘇我馬子と物部守屋の戦いが起き、聖徳太子ら加わり、襲撃して物部氏を滅ぼす。
【丁未の乱】587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定した。馬子は厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ進軍した。物部守谷の子孫従類273人が四天王寺の奴婢にされた『四天王寺御手印縁起』。
【法隆寺木造四天王立像】日本書紀によれば、587年の蘇我馬子と物部守屋との戦いに加わるに際し、聖徳太子が「勝利した暁には四天王寺を建てる」と誓いを立て、593年、戦勝に感謝して建立したとされる。広目天、増長天、持国天、多聞天の順。法隆寺金堂所蔵。
【仏教公伝】聖徳太子の祖父、欽明天皇の時代、朝鮮半島の百済の聖明王から仏教が伝わる。
【厩戸皇子、聖徳太子、墓】聖徳太子は、三経義疏を著。法隆寺・四天王寺・中宮寺・橘寺・広隆寺・法起寺・妙安寺の7寺を建立した。墓は磯長(しなが)谷(大阪府太子町)の叡福寺の伽藍北側にあり,叡福寺北古墳ともよばれる。叡福寺は推古天皇が太子の墓を守護追福するため坊舎を営んだことに始まる。厩戸皇子の心の声、魂の言葉は何か。
「世間虚仮、唯仏是真」(せけんはこけなるも、ただほとけのみこれまことなり) 『天寿国繍帳』、「諸悪莫作、諸善奉行」(もろもろのあしきことをばなせそ。もろもろのよきわざをおこなへ) 『舒明即位前紀』。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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斑鳩寺、斑鳩宮、法隆寺、西院伽藍、東院伽藍、夢殿
【仏教公伝】『日本書紀』(720年成立)で、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や仏典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記される。この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされる。
【三経義疏】『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))、『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))、『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))。『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存している。梁の法雲(476年 - 529年)による注釈書『法華義記』と7割同文である。
【斑鳩寺、法隆寺】厩戸皇子は、自らが住む斑鳩宮に隣接して法隆寺を創建。『法隆寺資財帳』では推古天皇15年(607)、同年、小野妹子が遣隋使として中国大陸に派遣される。法隆寺の創建は冠位十二階制定(603年)以降の目覚ましい転換期。その名が意味する「仏法興隆」を推し進める中心地であった。
【法隆寺最初の伽藍、若草伽藍、天智天皇9年(670)に焼失『日本書紀』】再建された現在の西院伽藍。金堂は7世紀後半に建てられた世界最古の木造建築、創建以来変化なく伝えられた内陣は、奇跡の空間。五重塔は仏舎利を祀った建築で、内部には釈迦の生涯などを表した塔本塑像が安置されている。金堂と五重塔ゆかりの仏像を中心に、その荘厳な世界がある。
【東院伽藍】聖徳太子が住んだ斑鳩宮。天平11年(739)、その跡地に建立されたのが東院伽藍、行信が創建した上宮王院。中心をなす夢殿の本尊は太子等身の救世観音像であり、創建にあたって太子の遺品類も集められた。
【山背大兄王一族滅亡、斑鳩宮消失】皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)蘇我入鹿、山背大兄王を斑鳩宮に襲撃、自害させる。推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(田村皇子)と用明天皇系(山背大兄王)の対立があった。
夢殿後方の絵殿・舎利殿には「聖徳太子絵伝」と「南無仏舎利」が安置され、太子信仰の重要な拠点であった。聖徳太子の遺徳を称える聖霊会、10年に一度行われる大会式等、東院伽藍にまつわる華やかな法要がある。
天平13年(741)、国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされる。天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇、盧舎那大仏の造立を企図。天平勝宝四年(752)4月に「大仏開眼供養会」。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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聖徳太子信仰の変遷
【平安時代後期12世紀、聖徳太子を救世観音の生まれ変わりとみる信仰】太子も中心的な信仰の対象となった。その代表作が聖徳太子の500年遠忌に制作された法隆寺聖霊院の秘仏本尊「聖徳太子および侍者像」保安2年(1121)。
【鎌倉時代13世紀、孝養像】角髪(みずら)を結い、柄香炉を捧げ持ち、袈裟をつける童子形の聖徳太子像。孝養像と呼ばれるこの姿が作られる。太子16歳の折、父用明天皇の病気平癒を祈り、病床に侍って看病した際の様子を描く。
【金銅阿弥陀三尊像、光明皇后の母、橘夫人念持仏厨子】法隆寺蔵の厨子、7-8世紀。なかに橘夫人(橘三千代)の念持仏であった金銅阿弥陀三尊像を安置する。厨子、像ともに奈良時代の作。屋蓋の形式は法隆寺金堂内部の天蓋に似、龕身四方の扉と須弥座に描かれた絵は法隆寺金堂壁画の手法に近い。透彫の光背,流麗な浮彫で菩薩を表した後屏(こうへい)、三尊をささえる床に施した精緻な蓮池。
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聖徳太子の謎、だれが聖徳太子と呼んだのか
【厩戸王子、聖徳太子、死の謎】推古30(622)年、厩戸王子、49歳で死す。前年、生母、穴穂部間人皇女が死亡。太子の死の前日に妃の膳大郎女が死去。相次いで三人が死ぬ。3人は同じ墓に埋葬された。疫病説。暗殺あり。馬子が関与か。
【王陵の谷、古代の道、飛鳥と難波宮を結ぶ、竹内街道、推古天皇陵、聖徳太子の墓】推古天皇21(613)年に難波から飛鳥の都に至る「大道」が置かれた『日本書紀』。推古天皇15(607)年に遣隋使として派遣された小野妹子が、翌年帰京の際に裴世清という使者を連れてくる。難波津から飛鳥へ。斑鳩寺(法隆寺)は、厩戸皇子。飛鳥寺(法興寺は、蘇我馬子が創建。聖徳太子の墓、南河内郡太子町、叡福寺にある。
【中大兄と中臣鎌足、蘇我氏を滅ぼす。645年、乙巳の変】天皇家が仏法興隆の主導権を、蘇我氏から奪取すること。田村圓澄『仏教伝来と古代日本』。その後、王権神授説(『金光明経』)で天皇支持を明確にした仏教、天武朝以降は鎮護国家の国家仏教。第45代聖武が大仏造営。
【物欲、名誉欲、地位欲、腐敗した魂に蝕まれた国】持ち物を捨てれば捨てるほど、あなたの魂の表面から所有欲という曇りが消え、その魂は真実の輝きを取り戻す。『ガンディー 魂の言葉』)【動物は食欲と性欲と生存欲だけである。本能で動く。物欲があるのは人間だけである。池田清彦】
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
「法華義疏」天平19年(747)法隆寺伽藍縁起に、上宮聖徳法王の著とされている。
重要文化財 菩薩立像、飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵、釈迦三尊像の脇侍と同型
国宝 天寿国繡帳、飛鳥時代・推古天皇30年(622)頃 奈良・中宮寺蔵
「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」と書かれている。正しくは「王所告”世 間虚仮唯 仏是真玩」となり、この中の「世間虚仮 唯仏是真」だけを抜き出している。聖徳太子が亡くなった後、橘妃の願いを受け、推古天皇の命によって作られたという帷(とばり)の断片。太子が往生したという「天寿国」のありさまが緻密な刺繡によって表されており、飛鳥時代の仏教思想を知る上でも極めて重要な作品。
国宝 薬師如来坐像、飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵
金堂東の間の本尊。口もとに微笑みを浮かべた神秘的な顔立ち、文様的な裳懸座(もかけざ)などに飛鳥時代の様式美を示す名品である。光背背面の銘文によれば、丁卯(ひのとう)年(607)にこの薬師如来像を造立したとある。しかし、癸未(みずのとひつじ)年(623)に完成した、金堂中の間の釈迦三尊像に比べ、鋳造技術などに進歩がみられるため、制作年代は釈迦三尊像よりも後だと考えられている。飛鳥時代を代表する仏像の一つだが、謎も多い。
国宝「阿弥陀如来脇侍像(伝橘夫人念持仏)」厨子。光明子の母、橘夫人、橘三千代(県犬養三千代)、天平5年(732)に没した。阿弥陀浄土信仰をもっており、光明皇后が母の供養のため法隆寺金堂に奉納した。白鳳時代。法隆寺蔵
国宝「四天王像」広目天、多聞天、
国宝 行信僧都坐像 奈良時代・8世紀 奈良・法隆寺蔵
夢殿本尊救世観音像の左脇の厨子内に安置される。行信(生没年不詳)は、荒廃していた斑鳩宮の地に、東院伽藍を建立したと伝える。意志の強そうな風貌の威厳ある姿が、写実的に表現されている。奈良時代肖像彫刻の傑作のひとつ。
重要文化財 聖徳太子(孝養像)鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵【後期展示:8月11日(水)~9月5日(日)】
角髪(みずら)を結い、柄香炉を捧げ持ち、袈裟をつける童子形の聖徳太子像。孝養像と呼ばれるこの姿は太子16歳の折、父用明天皇の病気平癒を祈り、病床に侍って看病した際の様子を描く。太子の肖像のなかでも代表的な作例の一つである。
国宝 聖徳太子および侍者像のうち聖徳太子、平安時代・保安2年(1121)、奈良・法隆寺蔵
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参考文献
東野治之「聖徳太子、史実と信仰」
三田覚之「聖徳太子の美術」
図録「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館、2021年
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」、東京国立博物館、2020年
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
ウィルスと人類の戦い・・・感染爆発の歴史、アテネのペリクレス、ルネサンス、厩戸皇子、盧舎那仏
https://bit.ly/2z32Orl
瀧浪貞子『持統天皇』2019年
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 東京国立博物館、2004年
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX
――
奈良・斑鳩の地に悠久の歴史を刻む法隆寺は、推古天皇15年(607)、聖徳太子によって創建されたと伝えられます。太子は仏教の真理を深く追究し、また冠位十二階や憲法十七条などの制度を整えることで、後世に続くこの国の文化的な基盤を築き上げました。聖徳太子を敬う人々の心は、その没後に信仰として発展し、今日もなお日本人の間に連綿と受け継がれています。
令和3年(2021)は聖徳太子の1400年遠忌にあたり、これを記念して特別展「聖徳太子と法隆寺」を開催します。会場では、法隆寺において護り伝えられてきた寺宝を中心に、太子の肖像や遺品と伝わる宝物、また飛鳥時代以来の貴重な文化財を通じて、太子その人と太子信仰の世界に迫ります。特に金堂の薬師如来像は日本古代の仏像彫刻を代表する存在であり、飛鳥時代の仏教文化がいかに高度で華麗なものであったかを偲ばせてくれます。
本展覧会は1400年という遙かなる時をこえて、今を生きる私たちが聖徳太子に心を寄せることでその理想に思いを馳せ、歩むべき未来について考える絶好の機会となることでしょう。聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2097
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「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館
2021年7月13日(火) ~ 2021年9月5日(日)

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