「桃山―天下人の100年」3・・・茶の湯、足利義政、織田信長、今井宗久、千宗易、豊臣秀吉、楽長次郎
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』228回
【失われた美】織田信長は、足利義政が所持した耀変天目茶碗(『君台観左右帖記』記載)を手に入れていたが、本能寺の変で消失した。天正10(1582)年6月2日。耀変天目茶碗は、天下に3碗伝わるのみ。
【織田信長と千宗易(利休)】永禄11(1568)年、織田信長が上洛、茶の湯に対して異常なほどの興味を示して名物狩りをくりかえした。松永久秀から九十九茄子茶壺が献上される。信長の茶頭として津田宗及、今井宗久と共にとりたてられ、天下一の茶頭の地位を築く。
【織田信長と耀変天目茶碗】永禄11(1568)年、織田信長が上洛。天王寺屋、津田宗及の屋敷で、会合衆の集まり。永禄12年(1569)信長の家臣・柴田勝家と佐久間信盛など百人余りが終日宴を張った。本能寺の茶会、天正10(1582)年6月2日、信長は足利義政所伝の耀変天目茶碗を所持していたが本能寺の変で焼失した。
【織田信長と津田宗及】天正元年(1573)11月23日、妙覚寺の信長の茶会、津田宗及、塩屋宗悦、松江隆仙の3人の商人が招かれ、信長から手厚いもてなしを受ける(宗及『他会記』)。天正2年(1574)2月3日、信長岐阜城の茶会に宗及一人出席、大歓待を受ける(宗及『他会記』)。
【織田信長と蘭奢待、津田宗及】天正2年(1574)4月3日、信長の相國寺茶会、梅雪の手前のあと正倉院から切り取った蘭奢待を扇子にのせて楽しみ、津田宗及と利休に分け与えた。これについて宗及は自慢げに書き遺している(宗及『他会記』)。
【大徳寺龍光院、耀変天目茶碗、津田宗及】龍光院秘蔵の「耀変天目茶碗」は津田宗及所蔵の茶道具の名品の一つ、慶長17年(1612)、堺の天王寺屋が断絶したため宗及の次男で龍光院の開祖・江月宗玩に渡った。以来400年の眠りについた。
参考文献 (『なにわ大阪を作った100人』中村修也『戦国茶の湯倶楽部』大修館書店、永島福太郎編『天王寺屋会記』影印本 淡交社)
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【東山文化、わび・さび・幽玄】室町時代中期、8代将軍足利義政(在位1443~73)の時代に義政が営んだ東山山荘(慈照寺銀閣)を中心にして生み出された文化。書院造り、茶の湯・華道・水墨画・能・連歌など新しい芸術が興り、わび・さび・幽玄の境地が重んじられた。連歌に飯尾宗祇が出た。水墨画が禅僧の間に行われ、相阿弥、雪舟によって完成の域に達し、また大和絵(土佐光信)に漢画の技法をとり入れた狩野派、狩野正信が生まれた。金工では後藤祐乗、蒔絵では幸阿弥が有名。建築には唐(から)様と和様をあわせた新和様も発達,住宅に書院造が作られた。公家文化と武家文化の融合、後世の日本文化の源流となる。
【能阿弥著『君台観左右帖記』秘伝書】書名の君台は将軍の御座所で、その飾り方についての左右の侍者の帳記(記録)という意味。原本はなく写本として残る。能阿弥本系には数種あり、文明8年(1476)3月12日の日付があり、大内左京大夫にあてて書かれたとする『群書類従』巻361に所収された。内容は1.六朝~明の中国画家を上中下に品等別して画題,画体,姓氏号等を注記した部分、2.座敷飾の方法を図入りで説明(いわゆる御飾記)、3.茶器・諸道具の種類・性質を解説。足利義政の同朋衆、能阿弥の著と伝えられる。
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千利休と豊臣秀吉の確執
【千宗易(利休)】本名は田中与四郎、号は宗易。1522年大阪堺の魚問屋、田中与兵衛の子に生まれた。父は堺で高名な商人、宗易は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に、16歳で茶の道に入る。18歳の時に当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎の門を叩き23歳で最初の茶会を開いた。
【堺、地下の茶】今井宗久、千宗易、16世紀。【侘茶の完成、楽焼、美濃焼、高麗茶碗】千宗易、楽長次郎、古田織部
【正親町天皇】天正13(1585)年(63歳)秀吉が関白就任の返礼で正親町天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、天皇から「利休」の号を勅賜される。(それまで宗易)。
その名は天下一の茶人として全国に知れ渡る。
【山上宗二、処刑】天正18 (1590)年利休(68歳)、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際、利休の愛弟子・山上宗二が、秀吉への口の利き方が悪いとされ、その日のうちに処刑。
【黒楽茶碗】天正19(1591)年1月13日の茶会で、派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながら、「黒は古き心なり」と平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。(69歳)2月23日、利休は突然秀吉から「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ」と命令を受ける。利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際、門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われる。
天正19(1591)年2月28日、(69歳)秀吉から切腹を命じられる。
天正19(1591)年、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、
【利休切腹】天正19(1591)年京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年69。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図るおそれがあり、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだ。死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形で晒された。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
志野茶碗、卯花墻「国宝」16-17世紀、三井記念美術館
安土桃山時代に美濃で焼かれた茶碗。国宝指定された茶碗の内、国内産は2碗、その1つ。志野釉と呼ばれる、意外にも人工的に金属を使用しない(原料は長石という天然石のみ)釉薬を使った白色が特徴。
志野茶碗 銘 振袖 美濃 安土桃山~江戸時代・16-17世紀、東京国立博物館蔵
白色の釉薬を掛けた志野の茶碗。白肌を透かしてすすきの文様が見え隠れ。美濃(岐阜県)では、16世紀後半、白い釉薬の下に鉄絵具で日本初の下絵付けを行う志野を作り出した。
重要文化財「油滴天目」南宋、12-13世紀、九州国立博物館
古田織部 が所持したと伝わる。黒い釉に浮かぶ銀色の粒子状の模様が幻想的、油滴天目のなかでも名椀。
重要文化財「泰西王侯騎馬図」神戸市美術館、17世紀に描かれた洋風画、神聖ローマ皇帝、トルコ皇帝、モスクワ大公、タタール王が描かれている。
花鳥蒔絵螺鈿聖龕、16-17世紀、九州国立博物館
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参考文献
「桃山―天下人の100年」東京国立博物館・・・室町幕府崩壊、戦国武将、愛と復讐の壮大なドラマ
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「桃山―天下人の100年」2・・・金碧障壁画、織田信長と狩野永徳、秀吉と長谷川等伯
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織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
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織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
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織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
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特別展「桃山―天下人の100年」東京国立博物館 平成館 特別展示室
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2020年10月6日(火) ~ 2020年11月29日
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