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2019年7月の記事

2019年7月20日 (土)

「みんなのミュシャ展」・・・ミュシャ様式、線の魔術、運命の扉、波うつ長い髪の女

Mucha-2019
Mucha-1898
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』187回
初夏の雨の午後、美術館に行く。ミュシャは、運命の女を追求した。運命の女と呼ばれる理由は何か。運命の女(Femme fatale)の源泉は、トロイの王子パリスが選択したヘレンである。*
【藝術家と運命の戦い、運命の扉】アルフォンス・ミュシャ、27歳で、挿絵画家になる。34歳の時、サラ・ベルナールのポスターを描く。パリで、ミュシャ様式、アール・ヌーヴォーが隆盛する。1900年、アール・ヌーヴォーが終息する。1910年、50歳の時『スラヴ叙事詩』に着手。プラハにて78歳で死す。
――
デッサン、イラストレーター、ポスター藝術、ミュシャ様式の頂点へ上り詰めた画家。1860年、アルフォンス・ミュシャ、ハプスブルク帝国下のモラヴィア、イヴァンチッツェに生まれる。アルフォンス・ミュシャは、1887年、27歳でパリ、アカデミー・ジュリアン入学。この年、日本の浮世絵、ジャポニスムが流行した。経済的困窮で、挿絵画家になる。
【運命の扉、サラ・ベルナールとの出会い、『ジスモンダ』】
世紀末のパリに出たが、鳴かず飛ばずだったミュシャが一夜にしてアール・ヌーヴォーの寵児に躍り出るきっかけとなった作品。当時すでに生きた伝説の大女優サラ・ベルナールのポスターがなぜ無名のミュシャに発注されたのか。印刷工場で働いていたミュシャが版画を制作した。
1895年のサラの正月公演のため、1894年のクリスマスの夜、一夜にして作られた。『ジスモンダ』はサラの戯作者ヴィクトリアン・サルドゥーの中世を舞台とする宗教劇。ジスモンダが手にしたシュロの枝は「シュロの日曜日」というキリスト教の祭日に因む。当時ポスター作家として人気を博していたロートレックにもシェレにもないビザンティン風のエキゾティックな衣裳、サラの印象的なポーズ、モザイクを模したレタリングなどが人気の秘密であった。
――
【ミュシャ様式、アール・ヌーヴォー】
1895年元旦、アルフォンス・ミュシャ『ジスモンダ』のポスターでパリのアート・シーンの注目を集め始める。アール・ヌーヴォー様式の発信源の一つとなるジークフリード・ビングの画廊、メゾン・ド・ラール・ヌーヴォーがオープン。
ミュシャのデザインは「ミュシャ様式」というニックネームで大衆に親しまれ、「アール・ヌーヴォー」と同義語になる。優美な女性と、繊細な線、大胆な構図、曲線と円形、花の装飾。
1898年、ウィーン分離派展に参加。フリーメイソン、パリ支部の会員。
1900年、アール・ヌーヴォー、終息。ミュシャ様式、忘れ去られる。
1906年、アルフォンス・ミュシャ、マルシュカとプラハの聖ロフ教会で結婚。
1910年、アルフォンス・ミュシャ、故郷に戻り、スピロフ城を借りて、アトリエにする。50歳の時、『スラヴ叙事詩』に着手。1910—1928年まで。
1939年、アルフォンス・ミュシャ、プラハにて死去。78歳。
1960-70年代、グラフィック・アートとして、復活する。
【美人画の歴史、運命の女】ロマン主義、ラファエロ前派、ロセッティ、ギュスターヴ・モロー、象徴派、ミュシャ様式。19世紀は、美人画の歴史であった。ヨーロッパの美女の歴史の根源は、ギリシア神話、パリスの審判、アフロディーテ、アテナ、ヘラ、三女神の争い。パリスは、アフロディーテの差し出す美女、ヘレンを選び、トロイ滅亡を招く。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【偉大な王と運命の戦い】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、フリードリッヒ大王。偉大な王たちは、運命と戦う。絶対権力者が手に入れられない4つの秘宝がある。偉大な王たちが手に入れられない4つの自由。偉大な王たちが超えられない運命がある。
【思想家、藝術家と運命の戦い】思想と藝術は、苦悩と悲しみから生まれる。思想家、藝術家は運命と戦う。藝術家は運命に苦悩する。運命との戦いから思想と藝術は生まれる。
藝術家は、運命の女神と出会う。美しい女神が、舞い降りる。美を探求する、藝術家を救う。運命の愛から、藝術は生まれる。
*大久保正雄『藝術家と運命との戦い、女神との出会い』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
―――
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい夕暮れ。美しい魂に、美しい女神が舞い降りる。美しい守護霊が救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなす。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』
――
展示作品の一部
アルフォンス・ミュシャ『ジスモンダ』1894年 カラーリトグラフ 216 x 74.2 cm©Mucha Trust 2019
アルフォンス・ミュシャ『舞踏―連作〈四芸術〉より』1898  カラーリトグラフ ミュシャ財団蔵 ©Mucha Trust 2019
アルフォンス・ミュシャ『黄道十二宮』1896 カラーリトグラフ ミュシャ財団蔵  ©MuchaTrust2019
アルフォンス・ミュシャ『ジョブ』1896  カラーリトグラフ ミュシャ財団蔵  ©MuchaTrust2019
――
参考文献
大久保 正雄『藝術家と運命との戦い、運命の女』
「みんなのミュシャ展」Bunkamuraザ・ミュージアム、2019
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
https://bit.ly/2uUs3pu
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女・・・デ・キリコ、ダリ、ポール・デルヴォー
https://bit.ly/2vikIlL
ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道、国立新美術館・・・装飾に覆われた運命の女、黄金様式と象徴派
https://bit.ly/2QbsUwT
「ミュシャ展 パリの夢、モラヴィアの祈り」2013
http://www.ntv.co.jp/mucha/
「ミュシャ展 『スラヴ叙事詩』」国立新美術館2017
http://www.nact.jp/exhibition_special/2016/alfons-mucha/
――
アール・ヌーヴォーを代表する芸術家、アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)。「線の魔術」ともいえる繊細で華やかな作品は「ミュシャ様式」と呼ばれ、後世のアーティストに影響を与えてきたとともに、没後80年経ったいまなお、世界中の人々を魅了し続けている。
世紀末のパリでグラフィック・アーティストとして成功し、美術史上最初のグローバルな芸術運動アール・ヌーヴォーの旗手となったミュシャ。そのミュシャがプラハで逝去してからちょうど80年という節目に当たる2019年、「みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ ―― 線の魔術」を開催する。
250点以上の作品を通じて、時代を超えて愛される画家の秘密を紐解く、これまでにない画期的なミュシャ展となる。 2019年7月13日(土)Bunkamura ザ・ミュージアム(渋谷)東京展を皮切りに、京都、札幌、名古屋、静岡、松本で2019〜2020年にかけて開催する。
https://www.ntv.co.jp/topics/articles/19ng2236py6fa3auji.html
――
★京都展:2019年 10月12日(土)〜2020年1月13日(月・祝)京都文化博物館
札幌展:2020年1月25日(土)〜4月12日(日)札幌芸術の森美術館
名古屋展:2020年4月25日(土)〜6月28日(日)名古屋市美術館
静岡展:2020 年7月11日(土)〜9月6日(日)静岡県立美術館
松本展:2020 年9月19日(土)〜11月29日(日)松本市美術館
――
★「みんなのミュシャ展」Bunkamuraザ・ミュージアム、7月13日~9月29日

2019年7月14日 (日)

「三国志」東京国立博物館・・・曹操、劉備、孫権。虚構の英雄たち

Sangokushi2019
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』186回
初夏の森、緑陰の道を歩いて、博物館に行く。魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権。関羽、張飛、周瑜、諸葛孔明、すべて滅び、司馬炎が建てた西晋に征服される。桃園の誓い、赤壁の戦い、名場面の真実は何か。
虚構の英雄たち、『三国志演義』と『正史三国志』の挟間。赤壁の戦いの敗因は「火攻め」ではなく「病気の蔓延」である。「疫病が流行して、官吏士卒の多数が死亡したため撤退した」陳寿『正史三国志』。
【三国時代】三国時代は、220年、曹操が没して息子の曹丕(文帝)が後漢から皇位を奪った時から、280年、司馬炎が建てた西晋王朝が呉を滅ぼし天下統一するまでである。
魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権。魏に対して、蜀と呉は、対立し互いに殲滅し合う。
263年、魏、蜀を滅ぼす。280年、晋、呉を滅ぼす。「晋、呉を平らげ、天下太平」。
――
『三国志演義』
【黄巾の乱】「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」。184年、太平道の教祖張角を指導者とする信者が各地で起こした反乱。【宦官派と反宦官派、清流派知識人の戦い】曹操は、清流派知識人に乱世向きの人材と注目される。「治世の能臣、乱世の姦雄」と評価される。
【桃園の誓い】桃の花が咲き乱れる庭園で、劉備、関羽、張飛の三人が義兄弟の契りを交わした。生まれた月日は違えど、死ぬ時は同年同月同日を願わん。
【赤壁の戦い】208年、2万の孫権軍は、80万の曹操軍と、赤壁において揚子江を挟んで対峙する。周瑜は火攻めを画策し、老将黄蓋とともに苦肉の計で敵を欺き、連環の計で曹操軍の船団を鎖でつなぎ合わさせる。最後に、諸葛孔明が七星壇を築いて祈祷し、冬の最中に東南の風を吹かせ、投降を装って近づいた黄蓋の一団が一斉に火を放つ。逃げ場のない曹操軍は炎に包まれ、孫権軍の大勝利である。
【天下三分の計】たまたま劉表を頼って荆州に来た劉備は、その評判を聞くと、207年(建安12)に孔明の庵を訪れ、3度目にやっと会見できた。【三顧の礼】にこたえた孔明は、劉備のために〈天下三分の計〉を説き、華北を制圧した曹操に対抗して漢室を復興するためには、江南に割拠する孫権と連合、みずから荆州と益州(四川省)を確保して独立すべきことを勧めた。劉備はこの計略を喜び、孔明を不可欠な人物としてその関係を【水魚の交わり】に喩えた。
――
【三国戦史】184年、黄巾の乱。200年、官途の戦い。208年、赤壁の戦い。219年、定軍山の戦い。樊城の戦い。222年、夷陵の戦い。228年、石亭の戦い。234年、五丈原の戦い。諸葛亮、死亡。
『三国志演義』の内容は、三国時代以前から始まる。
1・黄巾の乱 2・桃園の誓い 3・董卓の専横 4・連合軍を結成
5・曹操の台頭 6・官途の戦い 7・孫策の死 8・三顧の礼
9・赤壁の戦い 10・天下三分の計 11・定軍山の戦い 12・関羽の死
13・曹操の死 14・夷陵の戦い 15・諸葛亮の「第一次北伐」 16・孫権の帝位
17・諸葛亮の死 18・蜀の滅亡 19・魏、滅亡。晋へ 魏の晋王・司馬炎(司馬昭の長子)が第5代皇帝・曹奐から帝位を簒奪し晋を建国。 20・三国統一 呉の第4代皇帝・孫皓が晋に降伏。呉、滅びる
――
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい夕暮れ。美しい魂に、幸運の女神が舞い降りる。美しい守護精霊があなたを救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
展示作品の一部
関羽像、明時代、15~16世紀
蝉文冠飾、西晋時代、3世紀
「晋平呉天下太平」碑、西晋時代・280年
――
参考文献
井波律子『奇人と異才の中国史』岩波新書
井波律子『故事成句でたどる中国史』岩波新書
『旅する哲学者 美への旅』より
権力と戦う知識人の精神史 春秋戦国奇譚
https://bit.ly/2P3rfID
孤高の思想家と藝術家の苦悩『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84   
――
第1章 曹操・劉備・孫権
魏の基盤をつくった曹操は、父祖伝来の勢力基盤を引き継ぎつつ漢王朝の中枢で実権を握り、動乱の時代に覇をとなえた。蜀の劉備は漢皇室の血統を自認し、漢王朝の復興を掲げた。呉の孫権は海洋ネットワークを駆使して勢力を伸ばす、独自の路線を歩んだ。
第2章 漢王朝の光と影
2世紀末には王朝内部の政争が表面化し、皇帝は求心力を失っていった。黄巾の乱がおこり、漢の都では董卓が横暴のかぎりを尽くすなど、社会全体が混迷を深めていった。
第3章 魏・蜀・呉―三国の鼎立
魏・蜀・呉の鼎立は、後漢時代の末期に形づくられ、境界で争いはとくに熾烈を極めた。220年、曹操が没して息子の曹丕(文帝)が後漢から皇位を奪うと、蜀の劉備と呉の孫権はこれに反発し、おのおの正統性を主張し相次いで建国を宣言した。
第4章 三国歴訪
魏は漢王朝の中心地であった黄河流域に勢力を張り、蜀は自然の恵み豊かな長江(揚子江)上流の平原をおさえ、呉は長江中・下流の平野部と沿岸域に割拠した。
第5章 悲惨な貧しい時代。
後漢時代の末期から三国時代になると、支配者たちは墓づくりに対してこれまでとは異なる路線を歩み出した。豪華さを競うのではなく、質素倹約を貴ぶようになった
エピローグ三国の終焉―天下は誰の手に
三国時代。最後に天下をおさめたのは魏でも蜀でもなければ呉でもなかった。280年、武将として力を強めていった司馬氏一族であり、司馬炎が建てた西晋王朝であった。
特別展「三国志」東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1953
――
「特別展「三国志」」東京国立博物館、7月9日(火)~9月16日(月・祝)

「三国志」東京国立博物館・・・曹操、劉備、孫権。虚構の英雄たち

Sangokushi2019
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』186回
初夏の森、森の木陰を歩いて、博物館に行く。魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権。関羽、張飛、周瑜、諸葛孔明、すべて滅び、司馬炎が建てた西晋に征服される。桃園の誓い、赤壁の戦い、名場面の真実は何か。
虚構の英雄たち、『三国志演義』と『正史三国志』の挟間。赤壁の戦いの敗因は「火攻め」ではなく「病気の蔓延」である。「疫病が流行して、官吏士卒の多数が死亡したため撤退した」陳寿『正史三国志』。
【三国時代】三国時代は、220年、曹操が没して息子の曹丕(文帝)が後漢から皇位を奪った時から、280年、司馬炎が建てた西晋王朝が呉を滅ぼし天下統一するまでである。
魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権。魏に対して、蜀と呉は、対立し互いに殲滅し合う。
263年、魏、蜀を滅ぼす。280年、晋、呉を滅ぼす。「晋、呉を平らげ、天下太平」。
『三国志演義』
【黄巾の乱】「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」。184年、太平道の教祖張角を指導者とする信者が各地で起こした反乱。【宦官派と反宦官派、清流派知識人の戦い】曹操は、清流派知識人に乱世向きの人材と注目される。「治世の能臣、乱世の姦雄」と評価される。
【桃園の誓い】桃の花が咲き乱れる庭園で、劉備、関羽、張飛の三人が義兄弟の契りを交わした。生まれた月日は違えど、死ぬ時は同年同月同日を願わん。
【赤壁の戦い】208年、2万の孫権軍は、80万の曹操軍と、赤壁において揚子江を挟んで対峙する。周瑜は火攻めを画策し、老将黄蓋とともに苦肉の計で敵を欺き、連環の計で曹操軍の船団を鎖でつなぎ合わさせる。最後に、諸葛孔明が七星壇を築いて祈祷し、冬の最中に東南の風を吹かせ、投降を装って近づいた黄蓋の一団が一斉に火を放つ。逃げ場のない曹操軍は炎に包まれ、孫権軍の大勝利である。
【天下三分の計】たまたま劉表を頼って荆州に来た劉備は、その評判を聞くと、207年(建安12)に孔明の庵を訪れ、3度目にやっと会見できた。【三顧の礼】にこたえた孔明は、劉備のために〈天下三分の計〉を説き、華北を制圧した曹操に対抗して漢室を復興するためには、江南に割拠する孫権と連合、みずから荆州と益州(四川省)を確保して独立すべきことを勧めた。劉備はこの計略を喜び、孔明を不可欠な人物としてその関係を【水魚の交わり】に喩えた。
【三国戦史】184年、黄巾の乱。200年、官途の戦い。208年、赤壁の戦い。219年、定軍山の戦い。樊城の戦い。222年、夷陵の戦い。228年、石亭の戦い。234年、五丈原の戦い。諸葛亮、死亡。
『三国志演義』の内容は、三国時代以前から始まる。
1・黄巾の乱 2・桃園の誓い 3・董卓の専横 4・連合軍を結成
5・曹操の台頭 6・官途の戦い 7・孫策の死 8・三顧の礼
9・赤壁の戦い 10・天下三分の計 11・定軍山の戦い 12・関羽の死
13・曹操の死 14・夷陵の戦い 15・諸葛亮の「第一次北伐」 16・孫権の帝位
17・諸葛亮の死 18・蜀の滅亡 19・魏、滅亡。晋へ 魏の晋王・司馬炎(司馬昭の長子)が第5代皇帝・曹奐から帝位を簒奪し晋を建国。 20・三国統一 呉の第4代皇帝・孫皓が晋に降伏。呉、滅びる
――
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい夕暮れ。美しい魂に、幸運の女神が舞い降りる。美しい守護精霊があなたを救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
展示作品の一部
関羽像、明時代、15~16世紀
蝉文冠飾、西晋時代、3世紀
「晋平呉天下太平」碑
――
参考文献
井波律子『奇人と異才の中国史』岩波新書
井波律子『故事成句でたどる中国史』岩波新書
『旅する哲学者 美への旅』より
権力と戦う知識人の精神史 春秋戦国奇譚
https://bit.ly/2P3rfID
孤高の思想家と藝術家の苦悩『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84   
――
第1章 曹操・劉備・孫権
魏の基盤をつくった曹操は、父祖伝来の勢力基盤を引き継ぎつつ漢王朝の中枢で実権を握り、動乱の時代に覇をとなえた。蜀の劉備は漢皇室の血統を自認し、漢王朝の復興を掲げた。呉の孫権は海洋ネットワークを駆使して勢力を伸ばす、独自の路線を歩んだ。
第2章 漢王朝の光と影
2世紀末には王朝内部の政争が表面化し、皇帝は求心力を失っていった。黄巾の乱がおこり、漢の都では董卓が横暴のかぎりを尽くすなど、社会全体が混迷を深めていった。
第3章 魏・蜀・呉―三国の鼎立
魏・蜀・呉の鼎立は、後漢時代の末期に形づくられ、境界で争いはとくに熾烈を極めた。220年、曹操が没して息子の曹丕(文帝)が後漢から皇位を奪うと、蜀の劉備と呉の孫権はこれに反発し、おのおの正統性を主張し相次いで建国を宣言した。
第4章 三国歴訪
魏は漢王朝の中心地であった黄河流域に勢力を張り、蜀は自然の恵み豊かな長江(揚子江)上流の平原をおさえ、呉は長江中・下流の平野部と沿岸域に割拠した。
第5章 悲惨な貧しい時代。
後漢時代の末期から三国時代になると、支配者たちは墓づくりに対してこれまでとは異なる路線を歩み出した。豪華さを競うのではなく、質素倹約を貴ぶようになった
エピローグ三国の終焉―天下は誰の手に
三国時代。最後に天下をおさめたのは魏でも蜀でもなければ呉でもなかった。280年、武将として力を強めていった司馬氏一族であり、司馬炎が建てた西晋王朝であった。
特別展「三国志」東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1953
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「特別展「三国志」」東京国立博物館、7月9日(火)~9月16日(月・祝)

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