2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

« 梵寿綱、生命の賛歌 輝き溢れる芸術建築 | トップページ | 謹賀新年・・・蘇る春、蘇る不滅の魂 »

2016年12月31日 (土)

旅する思想家、孔子、王羲之、空海・・・『戦う知識人の精神史』 

KouboudaisiDainichinyorai_kongoubuji大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
旅する思想家、孔子、王羲之、空海 ・・・『戦う知識人の精神史』 
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
はちみつ色の夕暮れ、黄昏の丘、黄昏の森を歩き、迷宮図書館に行く。糸杉の丘、知の神殿が聳える。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
―――
孔子、流浪の旅
孔子は、下剋上の嵐を抑止するため、魯の君主に抜擢され大司寇に任命されるが、魯国の繁栄を恐れた隣国の斉は美女歌舞団八十人を魯国に贈った。季桓は受納し三日政庁に現れず。紀元前497年孔子、魯国を去る。孔子56歳『微子、四』。流浪の旅に出る。「喪家の狗」と呼ばれる『史記、孔子世家』。69歳の時、孔子は祖国魯に帰ってきた。十三年間、流浪の旅である。子の鯉(伯魚)が50歳で死ぬ。孔子71歳の時、顔回が30歳で死ぬ。『先進、九』。
孔子(紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)、74歳で死す。15歳の時、学に志し、30歳の時、学校を開いた。56歳の時、流浪の旅に出て、十数人の弟子が従った。30歳から全生涯にわたって、教え続けた。
周王朝初期は、一千八百余国。春秋時代、支配階級は王、君主、官僚からなり、被支配階級は人民である。官僚とは、卿、大夫、士。官僚は、君子と小人からなる。君子は教養人、小人は知識人。「君子もとより窮す。小人窮すればすなわち濫る」『衛霊公、三』。
加地伸行『中国の古典 論語』2004、白川靜『孔子伝』中央公論社、加地伸行『論語全訳注』講談社学術文庫。
―――
王羲之、至高の書家、詩人
王羲之、蘭亭にて曲水流觴の宴
東晋の貴族、王羲之は、権謀術数を弄する首都建康に倦み、永和九年(353)三月三日に会稽山の山陰の蘭亭にて曲水流觴の宴を開き『蘭亭序』を書いた。貴族41人が集まり37首の詩が詠まれた。王羲之(303年 ―361年) 。不仲であった上司王述を避け、355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。
仰視碧天際。仰いで碧天の際を視
俯瞰清水濱。俯して清水の濱を瞰る
寥闃無涯觀。寥闃として涯觀なく
寓目理自陳。目を寓すれば理自ら陳ぶ 「蘭亭集詩二首之一」
唐の太宗皇帝は王羲之の書を愛し、その殆ど全てを集めたが、蘭亭序は手に入らず、家臣に命じて、王羲之の子孫、僧智永の弟子弁才の手から騙し取らせ、自らの陵墓昭陵に他の作品とともに副葬させた。(何延之『蘭亭記』)
*『蘭亭序』神龍半印本、八柱第三本。
―――
空海、大日如来への航海
空海(774—835)は、十八歳から三十一歳まで山林修行、謎の十三年間。三十一歳の時、遣唐使船で出港。三十二歳の時、青龍寺の恵果阿闍梨に面会する。「われ先より、汝の来れるを知り、相待つこと久し。今日、相見ゆること大いに好し。」空海『請来目録』。805年、6月。12月15日、恵果阿闍梨、入滅。59歳。この時、空海31歳。
嵯峨天皇(786—842)、八〇九年即位。嵯峨帝の勅命により、和泉の槇尾山寺より高雄山寺に入京。最澄、空海に密教経典十二部の借覧を乞う。813年、空海40歳。最澄の『理趣釈経』借覧を拒否。823年、空海50歳。嵯峨天皇より東寺を賜る。嵯峨天皇、退位。嵯峨の郊外に、嵯峨院を築いた。嵯峨院は、空海と会い、香茶を飲んだ。
与海公飲茶送帰山一首 嵯峨天皇。『経国集』巻十
海公〔空海〕とともに茶を飲み、山に帰するを送る一首
道俗(どうぞく)相分かれて数年を経たり 今秋晤語(ごご)するも亦(また)良縁なり。
香茶酌み罷(やす)みて日云(ここ)に暮れる 稽首(けいしゅ)して離(わか)れを傷み雲煙を望む。
道俗相分経数年  今秋晤語亦良縁
香茶酌罷日云暮  稽首傷離望雲煙
―――
嵯峨天皇、曲水流觴の宴
嵯峨天皇(786—842在位809—823)には、ロレンツォ・デ・メディチ「青春は速やかに過ぎ行く」に似た詩がある。
嵯峨天皇は、曲水流觴の宴を催した。
「神泉苑花宴賦落花篇」嵯峨天皇
青春が半ばを過ぎた頃、何がせき立てるのか、柔らかな風がしきりに吹いて、花がせかされるように咲く。芳しい花の香りは失せようとして、止めることはできない。
わたしは、文雄に呼びかけて、詩人は花を愛でるこの宴にやって来た。
「神泉苑花宴賦落花篇」嵯峨天皇(神泉苑の花宴にして「落花篇」を賦す)
過半靑春何處催 和風數重百花開 芳菲歇盡無由駐 爰唱文雄賞宴來 見取花光林表出 造化寧假丹靑筆 紅英落處鶯亂鳴 紫萼散時蝶群驚 借問濃香何獨飛 飛來滿坐堪襲衣
詩宴は、『日本後紀』弘仁三年(812)二月一二日「神泉苑に幸(いでま)す。花樹を覧(みそな)はし、文人に命じて詩を賦せしむ」の時か、弘仁四年(813)五月二日の「花の宴」か。
「天下なる者は聖人の大宝なり」
嵯峨天皇遺詔。
余昔し不徳を以て久しく帝位を忝うす。夙夜兢兢として黎庶を済はんことを思ふ。然れども天下なる者は聖人の大宝なり。豈に但に愚憃微の有のみならんや。故に万機の務を以て、賢明に委ぬ。「続日後本紀」承和九年条。
嵯峨天皇勅撰『文華秀麗集』『経国集』『凌雲集』
参考文献
宮坂有勝『生命の海<空海>』、宮崎忍勝『私度僧空海』、松長有慶『秘密の庫を開く 理趣経』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
*大久保正雄『地中海紀行』第105回
大久保正雄 2016年12月31日

« 梵寿綱、生命の賛歌 輝き溢れる芸術建築 | トップページ | 謹賀新年・・・蘇る春、蘇る不滅の魂 »

哲学」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 梵寿綱、生命の賛歌 輝き溢れる芸術建築 | トップページ | 謹賀新年・・・蘇る春、蘇る不滅の魂 »