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2016年8月 6日 (土)

ハプスブルク家 マリー・アントワネット 革命に散る

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大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第73回
ハプスブルク家 マリー・アントワネット 革命に散る

黄昏の丘、森を歩いて、迷宮図書館に行く。時の迷宮の扉。砂漠の薔薇色の神殿。美しい女神が舞い降りる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

太陽の沈まぬ帝国、ハプスブルクは、富と権力で、ヨーロッパ最強の王国を構築した。
ハプスブルク家は、15世紀、マクシミリアン1世以来、政略結婚をくり広げヨーロッパ最大の権力を築いた。財産と地位と権力を恣にした。
ハプスブルク帝国の権勢の成功の陰で、散った儚い命。

マリー・アントワネットは、マリア・テレジアの第15子。
政略結婚で、14歳の時、フランス王ルイ16世に嫁がせられる。フランス王妃となる。しかし、フランス革命勃発。37歳で、断頭台の露と消える。
マリー・アントワネットは、本当に愛したのはだれか。
マリーの死を悲しんだのは、スウェーデン貴族フェルセン伯爵だけだった。

「私は生きています。それは奇跡なのです」マリー・アントワネット1792年
ヨーロッパ最大の権力、ハプスブルク帝国。最も豊かで、自由なき人々、ハプスブルク家。
愛と美を手に入れることができるのは、だれか。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【オーストリア・ハプスブルク家】
神聖ローマ皇帝
【カール6世】Karl 6
1740年、カール6世、死去。男子がいないため相続問題が発生。
1740年—1748年、オーストリア継承戦争。
【マリア・テレジア】Maria Theresia
1717-1780
マリア・テレジア(1741-1780)、帝国を相続。
マリア・テレジア(1741-1780)は、黄金時代のハプスブルク帝国を指揮した。
マリア・テレジア、16人の子を産み、政略結婚を展開した。
末娘のマリー・アントワネットは、フランス王ルイ16世に嫁がせた。
マリア・テレジアの子、ヨーゼフ2世は、ヴォルテールを尊敬していた。
18世紀、黄金時代のハプスブルク帝国はバロック文化が栄えた。
1762年秋、モーツアルトは、ウィーンに行き、マリア・テレジアに、シェーンブルン宮殿に招かれた。モーツアルトは、マリー・アントワネットに「僕のお嫁さんにしてあげる」と言った。
*神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同)、ベーメン女王(在位1743年 - 1780年)。

【マリー・アントワネット】Marie Antoinette
1755-1793
1555年、マリー・アントワネット、マリア・テレジアの15番目の子として誕生。
1770年、マリー・アントワネット、フランス王太子(ルイ16世)と、結婚。14歳。
1778年、マリー・アントワネット、スウェーデン貴族フェルセン伯爵と恋に落ちる。
1783年、ブレゲの顧客の一人であったフランス王妃マリー・アントワネットはブレゲに最高の時計を作るように注文した。マリー・アントワネットは処刑されたが、開発は続けられた。ブレゲの死後も弟子達がその仕事を受け継ぎ、1827年になってこの時計は完成した。ブレゲNo.160「マリー・アントワネット」Breguet(Marie Antoinette )金色の懐中時計。
1786年、【マリー・アントワネット、首飾り事件】
ジャンヌ・バロア・ド・ラモット伯爵夫人が首謀者となり企て王家をも巻き込んだ巨額詐欺事件。先王ルイ15世が愛人デュ・バリー夫人のために作らせたまま契約が立ち消えになっていた160万リーブルのダイヤモンド。宝石商によってマリー・アントワネットのもとに持ち込まれるが、あまりに高額を理由にマリーに断られた。
1785年1月、それを知ったジャンヌは、ロアンにマリー・アントワネットの要望として、この首飾りの代理購入を持ちかけた。ロアンは首飾りを代理購入。
1789年、フランス革命、勃発。
     7月、バスチーユ監獄襲撃。
     8月、人権宣言、採択。
1791年、6月、パリ脱出、ヴァレンヌで連れ戻される。
1792年、4月、フランスは、オーストリアに宣戦布告。王妃マリー・アントワネット、軍の情報を、オーストリアに通報。6月、民衆、チュイルリー宮殿、襲撃、占拠。
1793年、1月21日、ルイ16世、処刑。
    10月16日、マリー・アントワネット処刑。37歳。
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花
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★Maria Theresia 14歳のマリア・テレジア
★Marie Antoinette
★ソフィア・コッポラ映画『マリー・アントワネット』
Sophia Coppola, Marie Antoinette,2006

★参考文献
エヴリーヌ・ルヴェチ『王妃マリー・アントワネット』知の再発見双書
シュテファン・ツワイク『マリー・アントワネット』岩波文庫
芝生端和『図説フランス革命』河出書房新社
加藤雅彦『図説ハプスブルク家』河出書房新社
ゲオルク・シュタット・ミュラー丹後杏一訳『ハプスブルク帝国史』1989
矢田俊隆『ハプスブルク帝国史研究―中欧多民族国家の解体過程――』岩波書店1977
カトリーヌ・クレマン『皇妃エリザベート ハプスブルクの美神』知の再発見65創元社1997
江村洋『ハプスブルク家の女たち』講談社現代新書
国立新美術館『Theハプスブルク展図録』2009
中野京子『ハプスブルク家12の物語』2009
饗庭孝男『ヨーロッパとは何か』
大久保正雄2016年8月5日

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