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2016年7月10日 (日)

アントニウスとクレオパトラ 愛と死

Claude_lorrain_cleopatra_at_tarsus_大久保正雄『地中海紀行』第46回クレオパトラの死2
アントニウスとクレオパトラ 愛と死

クレオパトラは、キュノドス河を遡り航行する。黄金の艫の船に乗り、紫の帆を張り、立ち昇る薫香の妙なる香りが、河の岸辺に満ちて漂った。

アレクサンドロス大王の軍が遠征した時は、彫刻家リュシッポス、画家アペレス、歴史家、遊女、音樂家、料理人、將軍の友人たち、家族も同行し、国が移動するようであった。(プルタルコス)

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■アントニウスとクレオパトラ
アントニウスは、戰場では狂えるごとく武勇を発揮したが、平時は宴と美女に耽溺した。生涯の重要事件は宴会の舞台で起っている。出遊する時、凱旋行進のように、黄金の盃を持ち歩き、贅沢な食事に濫費を蕩尽した。寵愛する美女をつれて歩き、臥輿(ふこし)に乗せていた。アントニウスは、恋愛か戰爭か睡眠の時以外は、宴会から宴会へ渡り歩いていた。アントニウスが率いる軍隊は、料理人、遊女、音樂家など、扈従する人々が多く、町が移動するようであった。アレクサンドロス大王の軍が遠征した時は、彫刻家リュシッポス、画家アペレス、歴史家、遊女、音樂家、料理人、將軍の友人たち、家族も同行し、国が移動するようであった。
アントニウスにとって決定的にわざわいとなったのはクレオパトラとの恋である。クレオパトラ7世はプトレマイオス12世アウレテース(笛吹き王)の次女である。アントニウスは、紀元前41年パルティア戰爭に着手した時、クレオパトラに使節デルリウスを送り、「カッシウスに多額の軍資金を与えた」という非難に対する弁明を求めて、キリキアのタルソスで会見するために招いた。アントニウスと面会する時、クレオパトラは28歳、女の美しさが最も花々しく咲き誇り、才知輝く年齢になっていた。アントニウスは、この時42歳であった。クレオパトラは、華やかに着飾って、アレクサンドリアから地中海を航海した。
「クレオパトラは、アントニウスと友人から招きの手紙を澤山貰い、軽蔑し嘲笑した。
クレオパトラは、キリキア地方のキュノドス河を遡り航行する。黄金の艫の船に乗り、紫の帆を張り、操舵手は、笙と竪琴(キタラ)と笛(アウロス)の音に合わせて、銀の櫂を漕ぎ、クレオパトラは、黄金の刺繍を施した天蓋の下に、絵の中のアプロディーテーのように着飾って坐り、エロースの神のような子供たちが扇を煽ぎ、美しい侍女が海の精ネーレイスや美の女神カリスの衣裳を身にまとい、舵の所に立ち帆柱に立った。立ち昇る薫香の妙なる香りが、キュノドス河の岸辺に満ちて漂った。
人々は河岸からこれに随って町から眺めにやって来た。アゴラの群集も散り去り、壇上に坐っていたアントニウスだけが独り取り残された。アプロディーテーがアシアの幸福のためにディオニュソスの処へ饗宴をするためにきた、という噂が四方に広まった。
アントニウスは、クレオパトラを食事に招く招待状を使いにもたせると、相手は「そちらから出向いて頂きたい」と申し出てきた。アントニウスは、好意的な態度を示そうと思って、請われるままに出掛けた。言語を絶する用意を目にしたが、驚嘆したのは無数の光の渦であった。膨大な数の燈火が設けられてあらゆる方向から輝き光り瞬き、四角や円を象作って、一つ一つが美しく巧妙に配置されていた。」(cf.プルタルコス『アントニウス伝』)
クレオパトラの美しさは、容貌の美しさではなく、言語の巧みさ、知性の魅力で圧倒した。美貌と聡明さにおいては、オクタウィアの方が優れていたと言われる。
「クレオパトラの美しさはそれだけでは比較を絶するものではなく、見る者を驚かす程のものではなかったが、応対に相手を逃さない魅力があり、容姿が会話の説得力と、その場の人々に、誘惑するような性格を兼備し、刺激的に心を魅了した。口を開くと、聲音に歓樂が漂い、多弦の樂器のように弁舌を、話題に合わせて揮い、非ギリシア人にも通訳を介さずに、エティオピア人、ヘブライ人、アラビア人、シリア人、ペルシア人、パルティア人にも自ら応答した。クレオパトラ以前の王たちはエジプト語すら習得せず、マケドニア語を忘れた者もいた。」(cf.プルタルコス『アントニウス伝』)
アントニウスはクレオパトラに心を魅了され、ローマのフルウィアの武裝蜂起、メソポタミアの変事を忘れた。アントニウスはクレオパトラの言うままにアレクサンドレイアに行き、催しや遊戯に耽って「最も贅沢な浪費、時」(アンティポン断片77)を空しく快樂に使った。二人で「眞似のできない生活(アミーメートビオイ)の会」を作り、毎日、互いに饗宴を催して信じ難いほど過度な浪費を行なった。
クレオパトラは、阿諛を、プラトンが『ゴルギアス』(464c)で言うように四通りでなく、幾通りにも分けて用い、アントニウスが眞剣な時も戯れている時も、絶えず新しい歓樂と媚態を演じて、昼も夜もアントニウスを離さず、意のままに思うままに操った。アントニウスが平民の家で話をして嘲る時、クレオパトラは召使の着物を着て一緒に歩き回った。
 アレクサンドレイアで宴に酔いしれているアントニウスのもとに、妻フルウィアがオクタウィアヌスに兵を率いて蜂起したという知らせと、パルティア軍が侵略したという知らせが届いた。フルウィアが悲痛な手紙を送ってきたので、アントニウスは200隻の船を率いてイタリアに向かった。フルウィアがギリシアのシキュオンで死んだので、オクタウィアヌス・カエサルと和解が可能になった。フルウィアの死後、アントニウスは、オクタウィアヌスと会見し、支配権を分割、イオニア海を境界として、東はアントニウス、西はオクタウィアヌス、レピドゥスにはアフリカを委ねる取決めを行った。
 ローマ人たちは、アントニウスとオクタウィアヌスの姉オクタウィアとが結婚すれば、2人があらゆる事柄に協力一致するという希望をいだいた。2人は、ローマに行き、アントニウスとオクタウィアとの結婚式を擧げた。
 アントニウスはオクタウィアを連れて、ギリシアに行き、アテナイで冬を過ごし、ギリシア人たちと饗宴を行い、ギュムナシアルコスに就き競技会を開いた。アントニウス軍の將軍ソシウス、將軍カニディウスは、武勲を立てアントニウスの名声を高めた。
 アントニウスは、オクタウィアヌスの誹謗中傷に怒り、300隻の艦隊を率いてイタリアに航行し、ブルンディシウムに行き、タレントゥムの港に入った。オクタウィアの願いを聞き入れ、弟の所に遣った。タレントゥムの和約を結んだ。
 アントニウスは、突如アンティオキアに赴く。プルタルコスは、プラトン『パイドロス』の比喩を用い「善惡二頭の馬に曳かれた御者が惡の馬に従う」と説明する。シリアの地に足を踏み入れた瞬間、忘れえぬ魅力の虜となる。アントニウスは、アンティオキアにクレオパトラを呼び寄せた。クレオパトラに対する恋が燃え上がった。二人は、目の眩む祝祭と饗宴を、繰り返した。
 アントニウスは、クレオパトラに、シリア、キュプロス、キリキア、アラビアのナバタイオイ族の領土を与えた。これがローマのオクタウィアヌスに攻撃の口実を与えた。アントニウスは、オクタウィアと離婚し、オクタウィアヌスは、クレオパトラに宣戦布告する。アントニウスは、クレオパトラを連れて、エフェソスに行き、サモス島に行き、宴を開き、歓樂に耽り、ディオニュソスの犠牲式を行った。さらにアントニウスとクレオパトラはアテナイに航行した。重大な決定は女の気まぐれに左右された。アントニウスは、クレオパトラのために20万巻のペルガモン図書館の蔵書をアレクサンドリアに移させた。  アクティウムの海戰で、アントニウスとクレオパトラの連合軍は敗れた。アントニウスとクレオパトラ、二人の恋人は、「眞似のできない暮らしをする人々の会」を解散し、「死をともにする人々(シュンアポタヌーメノイ)の会」を結成した。二人のみならず、友人たちは、時が來たら一緒に死ぬことを約束した。だが、その時までは、宴を催し、美味なる料理に舌鼓を打ち、樂しく時を過ごした。
クレオパトラは、致命的な毒薬を集めて、その一つ一つを苦痛がないことを試すために、死刑囚に飲ませて試みた。アスピスという毒蛇が噛んだ時は、痙攣も呻吟を起こさず、眠くなり感覚が容易に麻痺して熟睡している人のように呼び起こして目覚めさせることができないことを発見した。 (cf.プルタルコス『アントニウス伝』9-71)

■アクティウムの海戦
オクタウィアヌス軍は、歩兵7万、騎兵1万2千、名將アグリッパが4百隻の艦隊を指揮した。アントニウス軍は、歩兵10万、騎兵1万2千、5百隻の艦隊を率いた。貨物船300隻が物資を輸送した。クレオパトラは、アントニア号に乗り、60隻の艦隊を指揮した。ギリシアのアンブラキア湾に、両艦隊は集結した。
アントニウスがアクティウムに陣を張ると、オクタウィアヌスは対岸に陣を張った。両者は、睨みあい、冬が過ぎた。オクタウィアヌス軍はメトネを襲撃し、エジプトからの補給路を断った。春になると、島々を占領し、アンブラキア湾を包囲した。味方からは、トラキア王らが離反した。陸上戰に持ち込んでも、勝ち目はなかった。生き残る道は一つ、敵の包囲網を突破して、脱出することであった。アントニウスは、軍船を焼き払い、クレオパトラの船に軍資金を移した。アントニウスは、「帆を持って行くように」と命じた。戰時には陸に置いて行く帆をもって行くのは、脱出するためであった。
 4日間、嵐で海が波立って戰いを妨げた後、5日目、紀元前31年9月2日、風が止み、海は凪いだ。両軍は、出撃し、アントニウス軍は、停泊地を離れた。敵の包囲網を突破するためである。アグリッパが左翼を展開したので、プブリコラはこれに対抗するために追撃した。両軍、入り乱れ海戰は伯仲した。突然、クレオパトラの艦隊60隻が敵の包囲網を破り、沖に脱出した。アントニウスは五段櫂船に移り、他の艦隊があとに続いた。100隻の船が脱出した。プルタルコスは、「アントニウスは、自分のために戰っている人々を裏切り、置き去りにした。自分を破滅させ、その破滅を甚だしいものにした女を追いかけた」と書く。が、敵の包囲網を突破するためには唯一の方法であった。アントニウスは、敵の裏をかき、窮地を脱して、捕虜にならず、財宝を持ち帰り、生きのびて、再起を期した。
 アントニウスは、リビュアに到着し、クレオパトラをエジプトに送り、人との交渉を絶って、二人の友人と逍遥を樂しんだ。ギリシアの弁論家アリストクラテス、ローマ人ルキリウスである。ルキリウスは、フィリッピの戰いでブルートゥスを逃がすために自分がブルートゥスであると言って敵に降伏したが、アントニウスに助けられて、アントニウス最期の時まで、忠誠を尽くした。リビュアのアントニウス軍の將軍も離反したので、アントニウスは、生涯を終えようとした。二人の友人が妨げて、アレクサンドリアに連れて行った。アレクサンドリアに行き、パロスの海岸に住いを作り、人々から離れて亡命者として住んだ。忘恩に傷つけられ、あらゆる人間が信用できなくなり、嫌悪を感じていた。  アントニウスとクレオパトラの二人は、アシアにいるオクタウィアヌスに使者を送り「クレオパトラはエジプトの統治権を要求し、アントニウスはエジプトかアテナイで隠遁して暮らしたい」と申し出た。オクタウィアヌスは使者テュルソスを遣わし、クレオパトラに「アントニウスを殺せば、報酬を出す」と言ったが、クレオパトラは拒否した。
 紀元前30年8月1日、アレクサンドリアで、最後の戰いが行われ、アントニウスの艦隊が、敵に寝返ったため、敗北した。 (cf.プルタルコス『アントニウス伝』64-76)

■アプロディーテーとディオニュソス
プルタルコス『アントニウス伝』によると、アントニウスはディオニュソスに自らを喩え、クレオパトラは自らをアプロディーテー(ウェヌス)であると考えていた。これに対し、オクタウィアヌスは自らをアポロに喩え、パラティーノの丘にアポロ神殿を建てた。(cf.スエトニウス『アウグストゥス伝』) アントニウス対オクタウィアヌスの対決は、ディオニュソス対アポロンの対決として、オクタウィアヌスは、宣伝戰を展開した。
紀元前46年夏、クレオパトラは、カエサルの「4つの勝利を祝う凱旋式」に出席するため、カエサリオンをつれて、ローマに行き、テヴェレ河の向こう岸、ヤニクルムの丘にあるカエサルの別荘に住んだ。
カエサルは、紀元前46年9月26日、フォルム・ロマヌム、カエサル広場に、ウェヌス・ゲネトリクス神殿を建てた。ウェヌス神殿は、カエサル一族の神殿として、凱旋式の時に建立された。ウェヌスは、カエサル氏族の守護神であった。クレオパトラは、ウェヌスであると考えられていた。カエサルは、カエサル一族のウェヌス神殿、ウェヌス女神彫像の傍らに、クレオパトラの黄金像を納めさせた。ウェヌス・ゲネトリクス女神像は、透き通った衣を纏う像で、ギリシア人彫刻家アルケシラオスの作品である。この年、カエサルはアレクサンドリア暦を導入した。ユリウス暦は、クレオパトラに随行して来ていた天文学者ソシゲネスの計算によるものである。紀元前44年、カエサルの死後、クレオパトラは、テヴェレ河を降り、オスティアから出帆して、エジプトに帰った。
今、カピトリーノ博物館に「カピトリーノのヴィーナス」がある。
カピトリーノのヴィーナスは、エーゲ海のパロス島産の大理石で作られている。古典時代後期、プラクシテレス「クニドスのアプロディーテー」の模刻である。恥らいのウェヌス、「アプロディーテー・アナデュオメーネ」を表現している。ローマにはまた、エスクィリーノのヴィーナスがあり、清純な美しさを湛えている。

■アントニウスの末裔 皇帝の血
アントニウスは、3人の妻との間に六人の子が生れた。フルウィアとの間には、男子アンテュルスが生れ、オクタウィアとの間には、2人の姉妹、アントニアが生れた。
 アントニウスとクレオパトラの間には、3人の子が生れた。双子、アレクサンドロス・ヘリオス(太陽)、クレオパトラ・セレネ(月)である。そしてプトレマイオス・フィラデルフォスである。紀元前30年、アレクサンドロス、プトレマイオス・フィラデルフォスは、行方不明になる。この時、アンテュルスは、殺された。クレオパトラは、カエサルの子、プトレマイオス15世カエサリオンを生んでいた。オクタウィアヌスは、カエサリオンを、クレオパトラの死後、沙漠で殺した。オクタウィアヌスは「カエサルが何人もいるのはよくない」といった。
生き残ったアントニウスの遺児、2人の姉妹アントニア、クレオパトラ・セレネはオクタウィアによって、育てられた。オクタウィアは、亡き夫アントニウスの思い出に忠節を尽した。
姉アントニアは、ドミティウス・アエノバルブスと結婚した。妹アントニアは、皇妃リウィアの子ドルススと結婚した。妹アントニアからクラウディウスとゲルマニクスが生まれ、ゲルマニクスからガイウス(カリギュラ)が生まれた。ティベリウスの死後、カリギュラは第3代皇帝となり、クラウディウスは第4代皇帝となった。
姉アントニアの子、ドミティウス・アエノバルブスは、ユリア・アグリッピーナと結婚した。アグリッピーナから、ネロが生まれ、第5代皇帝となった。
アントニウスは、エジプトで非業の死を遂げたが、その末裔は、皇帝となり、ギリシア文化を愛し、比類なき生を繰りひろげた。
■愛と死の果てに
権力の頂点を極めたが、恋に耽溺したアントニウスは、美に溺れ、ギリシアとエジプトを愛した。ギリシアとエジプトの退廃を愛する魂は、地上の名譽より、逸樂を求めた。アントニウスとクレオパトラは、死に追いつめられ、アレクサンドリアで果てる。戰いに破れ没落したアントニウスは、地中海の落日を眺め、海辺に佇んだ。
アントニウスは、ギリシア、エジプトに隠遁することを夢見たが、宿敵によって、それは許されなかった。アントニウスとクレオパトラの物語は、愛と死の秘密を語る。美はいのちを犠牲にして手に入れるものであり、知恵は地上における価値を超える。愛の極みは死である。愛の存在は死によって立証される。人生の光の路は、生と死の彼方に辿りつく。
Claude Lorrain, Cleopatra at Tarsos, 1643
★Alexandria
★参考文献
プルタルコス河野與一訳『英雄伝』12巻、岩波文庫1956
プルタルコス河野與一訳『アントニウス伝』『カエサル伝』
スエトニウス國原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上下、岩波文庫1986
エディット・フラマリオン『クレオパトラ 古代エジプト最後の女王』創元社1998
シェイクスピア小田島雄志訳『アントニーとクレオパトラ』
小田島雄志『小田島雄志のシェイクスピア遊学』白水社1982
小田島雄志『シェイクスピアの人間学』2007
エウジェニア・リコッティ武谷なおみ訳『古代ローマの饗宴』平凡社1991
青柳正規『皇帝たちの都ローマ』中公新書1992
プリニウス中野定雄・中野里美訳『プリニウスの博物誌』雄山閣1986
大久保正雄Copyright2003.03.26

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