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2016年7月 5日 (火)

壮麗の都ローマ フォルム・ロマヌム、皇帝広場、コロッセウム

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壮麗の都ローマ フォルム・ロマヌム、皇帝広場、コロッセウム

七つの丘の都、かって深い沼であった広場、皇帝広場。
大地に風が吹き、焔が燃え熾り、
黄金宮殿は、破壊され、彫刻は地に眠った。
大地の上を、情熱と愛と憎しみが吹きすさび、
そして、廃墟が殘った。

黎明の子、明けの明星。堕ちたる支配者よ。
王のなかの王。地中海の覇者。汝は、何故、玉座より落ちたのか。
諸々の国を倒した者よ。汝は切斷され、地に倒れた。

月の輝く美しい夜、クレオパトラは、ナイル河を遡り、
武力によって立つ者は、武力によって滅び、
黄昏の旅人は、時の階を遡る。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■幻の帝国への旅
カプリ島の断崖の上、樹木に包まれ、紺碧の海の上に屹立するヴィラに、隠遁したティベリウス。ネミ湖に船を浮かべ宴に遊蕩したカリギュラ。書斎に閉じ籠もりギリシア語で歴史書を書いたクラウディウス。炎上し灰燼に帰したローマに壮大な黄金宮殿を築いたネロ。皇帝在任中12年間、帝国を遊歴したハドリアヌスは、ヴィラ・アドリアーナに壮麗な離宮を築いた。己の愛好するものに耽溺した変人皇帝たち。戰爭にあけ暮れた賢人皇帝たち。
時の流れのなかで、永遠ならざるものは腐蝕し消えうせ、不変なるもののみが残る。榮華を極めた帝国の面影。林立する皇帝の神殿、輝く都の中央広場フォルム・ロマヌム、皇帝広場、パラティヌスの丘に聳えた皇帝たちの宮殿(ドムス・アウグスターナ)。すべては、瓦礫の堆積に変り、廃墟となり果てた。わずかに殘る列柱、コンクリート工法の崩れた穹窿に帝国の殘り香がただよう。
人の世の姿は、
木々の葉の移り変わりに似ている。
吹く風が地に散らす葉もある。
だが森はふたたび茂り、新たな葉をもたらす。
めぐり来る春の季節。
(『イリアス』)
時の腐蝕の果てに、歴史の風雪に耐えた不朽のものは、アウグストゥス様式の建築ではなく、プルタルコス『英雄伝』、タキトゥス『年代記』、スエトニウス『ローマ皇帝伝』、『ヒストリア・アウグスタ』である。これらの書物は、狂える皇帝たちの緻密な記録であり、退廃を極めたローマ帝国の世界が封じ込められている。欲望の赴くままに行動する皇帝たち、驕慢、虚榮、欺瞞、冷酷、残虐、淫蕩、猜疑。時の腐蝕に耐えて残ったものが腐り果てた精神の記録だというのは皮肉だが、名著の誉れ高いタキトゥス『年代記』を愛読したナポレオンは、これは皇帝の歴史ではなく犯罪の歴史である、と言ったのは核心を衝いている。「我が書は、残酷な命令、終わりなき告発、偽りの友情、高潔な人の破滅、必ず断罪に至る裁判を絶え間なく見せる。」(『年代記』第4巻)だが倒錯した精神をもつ皇帝を見るタキトゥスの眼は高貴であり、死せる書物の中にローマ帝国の血に塗れた空間が生きいきとえがかれていて感動を呼び起こす。プルタルコス『英雄伝』は伝記文学の最高傑作であり、この書にはローマの組織社会の閉塞と欺瞞を超えて、ギリシアの崇高な理想が人類史の彼方に屹立している。
幻のローマ帝国へ旅するためには、シリア砂漠のパルミュラ、スペインの西の果てメリダ、アフリカのレプティス・マグナを歩く時、失われた空間が蘇る。だがネルウァ帝時代の執政官タキトゥス、トラヤヌス帝時代の皇帝秘書官スエトニウス、トラヤヌス帝時代のプルタルコスの書物は、ローマ市街の隘路、皇帝の宴、跳梁跋扈する皇妃、実権を握る皇帝奴隷、暗闘する親衛隊をえがいて、これらの書を読む者の心に、見えざる帝国が蘇る。『皇帝伝』は、時間の階を溯り、幻のローマ帝国に辿りつくただ一つの道である。

■幻のローマ帝国 ヒスパニアからシリア砂漠まで
ローマは「七つの丘の都」と呼ばれる。ローマ中心部の丘と丘の低地に中央広場(フォルム・ロマヌム)があり、聖なる道(ウィア・サクラ)が南東から北西に通っている。「いま広場があるところ、深い沼があった」(オウィディウス『祭暦』6)と詩人が歌ったフォルム・ロマヌム。パラティヌスの丘とカピトリヌスの丘の狭間、この中央広場がローマの中心であり、ここからすべてが始まった。
カピトリヌスの丘の上からウァティカヌスの丘を眺めると、この土地に刻まれた愛と憎しみと怨みが立ち昇り、競争と管理と血に塗れた歴史の追憶が呼び覚まされる。『ローマ皇帝伝』の暗澹たる世界を思い出す。
ローマには、アテナイのパルテノン神殿のように古代から屹立する大理石の白亞の神殿の雄姿は一つも存在しない。フォルム・ロマヌム(ローマ広場)、フォーリ・インペリアーリ(皇帝広場)は、廃墟であり、古代の神殿、列柱回廊は何処にもない。  
ローマ帝国は、2世紀、トラヤヌス帝時代、最大の版図に達し、西の涯てヒスパニアから東の涯てシリア砂漠のパルミュラ、ティグリス河まで、北はブリタニアから南はエジプトまで、夷荻蛮族を征服し地中海帝国を築いた。帝国の隅々まで道路網を築き、すべての道はローマに通じた。ヒスパニアからシリア砂漠まで、地中海世界に、華麗なヘレニズム様式の建築に彩られたローマ都市を築いた。
沙漠や荒野を越えて、帝国の都市に辿りつくと、完結した都市の小宇宙がある。水が溢れ、広場がある。ローマ人は、ギリシア文化から周柱式神殿、広場、劇場、図書館、列柱回廊、彫刻、絵画、悲劇、哲學を継承し、エトルリア文化から戦車競技、剣闘士闘技、半円アーチ、鳥占、肝臓占、丘の上に都市を建設する技術を受け継いだ。ローマ人が独自に築き上げたのは、道路網、水道橋、噴水、浴場、分割統治のシステムである。ローマ人は、いのちを刻む彫刻、哲學を作りだすことは、遂にできず、それらはすべてギリシアから略奪したものである。15世紀フィレンツェにルネサンスが起って古代藝術が蘇り、1499年ローマでミケランジェロがピエタを作り、1506年ネロの黄金宮殿の廃墟から、ロドス島の彫刻家たちによって刻まれたラオコーンが闇の中から掘り起こされた時、封じ込められた時がよみがえった。

■廃墟の都ローマ
16世紀末、1580年11月30日夕方、モンテーニュはローマに着き、1581年4月19日まで滞在した。モンテーニュが、ローマを旅した時、古代都市ローマは廃墟であり、旅人は古代中世から重層する建築の瓦礫の上を歩いた。かつての榮光のローマの面影はそこになかった。モンテーニュは、二年間旅して『イタリア旅日記』を書いた。モンテーニュは、プルタルコス『英雄伝』『モラリア』、プラトンの対話編、ディオゲネス・ラエルティオス、ヘロドトスなど古典を読み、『エセー』を書いた。『エセー』は、古典の引用で埋められ、古代の崇高な生きかたを考え、人間のあるべき姿を探求する思考の試み(エセー)の書である。プルタルコスの引用が最も多くを占め数百箇所に及んでいる。
 14世紀、ペトラルカは、古代ローマの詩人たちが生きたローマに憧れ、ローマを訪れることを夢みた。1337年、夢が実現した時、ローマは昔日の面影はなく、帝国の首都は悲哀に満ちた幻影であり、瓦礫の都であった。1341年再びローマに旅して、カピトリヌスの丘で桂冠を受け桂冠詩人となった時、パリは学問の中心だが、ローマは廃墟であった。バロックの時代、ローマは灰燼の上に、激情の都が築かれた。

■コロッセウムが滅びる時
コロッセウムは、72年ウェスパシアヌス帝(69-79)が建築を開始し、その子ティトゥス帝(79-81)が完成した。フラウィウス朝によって建てられたのでフラウィウスの円形闘技場(アンピテアトロ)と呼ばれた。1階列柱はドーリア式、2階列柱はイオニア式、3階4階列柱はコロントス式、地上部分は四層構造である。2階3階エクセドラのアーチの下には彫刻が置かれていた。5万人を収容、76カ所の入口、160の通路があり、番号により観客は迷うことなく入場し、天候によりスタンドには天幕が張られ、昇降機で剣闘士や野獣が登場した。野獣は地下空間の檻に入れられていた。血を吸うアレーナ(砂場)の前の1階には貴賓席(ポディウム)テラスに皇帝席、そして元老院議員席があり、2階から3層の大理石の階段席があり、2階は騎士階級席、3階には一般市民、奴隷席があり、4階木製の桟敷席は女性席、下層民席があった。剣闘士(グラディアートル)の試合や野獣との格闘が、最盛期マルクス・アウレリウス帝時代には1年間に135日行われた。剣闘士試合(グラディアトゥーラ)は5世紀(404年)に廃止された。8世紀、修道僧ベーダは「コロッセウムが存在する限り、ローマが存在する。コロッセウムが倒れる時、ローマが滅びる。ローマが滅びる時、世界が滅びる。」と歌った。コロッセウムは、破壊され傷つきながら二千年に亙って聳えつづけるローマの象徴である。
コロッセウムは、ローマ社会の縮図である。古代ローマは、階級社会であり、上層の名譽ある者たち、下層の卑しい者たち、二つの階層からなる。出身家門、先代の職業、身分によって、それぞれの階級に属した。共和政時代は、元老院と民会によって意思決定がなされた。ローマの主権は「ローマの元老院と市民」(Senatus Populus Que Romanus)にあるとされた。だが共和政末期、元老院は元老院議員(セナートル)のうち特権階級たるオプティマーテス(最善なる者たち)と呼ばれる、祖先が高位高官についた人々によって支配された。一部の有力家系に支配される寡頭政治(オリガルキア、少数の者の支配)である。ローマのケントゥリア民会では貧富の差によって一票の価値に格差があった。名譽ある者たちは、皇帝、元老院議員階級、騎士階級、都市参事会員身分、皇帝の奴隷からなる。皇帝の奴隷、解放奴隷、裕福な奴隷は、一般市民より経済的地位は上であった。卑しい者たちは、都市市民、農民、奴隷からなる。上層の「名譽ある者たち」は、5000万人のローマ帝国の総人口の1%に満たなかった。共和政、帝政時代を通じて、少数の者による少数の者のための支配が行われた。
パンとサーカス
ローマ市民は、穀物(小麦)の無償配給と競技場で催される剣闘士闘技を国家によって提供された。また劇場で演劇が上演され、専門の俳優が存在した。カエサル、アウグストゥス時代には、ラテン語、ギリシア語はじめ各国語で上演された。これが民衆を籠絡するために権力者が用いた「パンとサーカス」である。剣闘士闘技は、カエサル、アウグストゥス時代にはすでに盛んに催されていた。剣闘士闘技の起源は、エトルリア人の王タルクィニウス・プリスクス(BC 616-579)が、大競技場(キルクス・マクシムス)を建設し、エトルリアから剣闘士と馬を連れてきたことに始まる。皇帝アウグストゥスは、「穀物の無償配給の制度を永久に廃止したい衝動を覚えた。しかしこの衝動を持続できなかった。民衆の好意を得るために復活されることは間違いないと確信したからである。」(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』第2巻)
2世紀初、風刺詩人ユウェナリスはローマ人の堕落を悲嘆する。「かつて命令権、裁判権、軍団指揮権、すべての権力を与えていた者たちが、今は自らを自制し、ただ二つのことのみを憂い求めている。パンとサーカスを。」(cf.ユウェナリス『風刺詩』)しかし、「穀物の無償配給」は、市民の命を守る最低限のセイフティーネット(安全網)であり、市民の反乱を防止するための装置である。紀元前62年、カトーは貧民階級が革命を起こすのを恐れて、食糧を分配するように元老院を説得し、毎年750万ドラクメーが支出された。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)ローマは、帝国領内、エジプト、シチリアから穀物を輸入した。エジプトは、地中海世界最大の穀物産地であり、ローマ帝国の食糧庫であった。飢えたる人々の反乱を防ぐために、エジプトからの穀物輸入を確保することが、ローマ帝国の支配体制が腐心する至上命題であった。
虐げられた人々の支配体制への反逆の意志は、貧富の格差が隔絶する程、強くなる。平和の鍵を握るのは、貧しき者である。眠れるローマの平和の時代においても、ローマ人は、反逆の意志をもっている。コロッセウムが倒れる時、それは市民を幻惑する幻覚剤、麻藥としての闘争競技が消える時ではなく、セイフティーネットである食糧の無料配給がなくなる時である。
貧しき人々、弱き人々への救済がなくなる時、世界は滅びる。
★黄昏のコロッセウム
★ウェスタ神殿(ヘラクレス・ウィクトル神殿)と真実の口広場
★参考文献 次ページ参照。
大久保正雄Copyright2003.02.05

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