カエサルとクレオパトラ 「ルビコンを渡る」
大久保正雄『地中海紀行』第42回幻のローマ帝国2
カエサルとクレオパトラ 「ルビコンを渡る」
カエサルは、軍事的天才、豪放磊落な性格は人の心を捕えて放さなかった。將兵は、カエサルに心酔した。
絨毯の中から薄絹を身に纏ったクレオパトラが現れた。クレオパトラはこの時21歳、蠱惑的な眼差しで、匂い立つような魅力を放っていた。
カエサルは、クレオパトラの術策に陥り、魅力的な応接の虜となった。
カエサルの言葉 「賽は投げられた。ルビコンを渡る」BC49年
「来た、見た、勝った」BC47年8月2日「ブルータス、お前もか」BC44年3月15日
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
■カエサルの死
23箇所、剣で刺され、56歳で死す。
『地中海人列伝19』
ユリウス・カエサルは、紀元前44年3月14日時刻は午前11時、元老院を召集した。場所はポンペイウス劇場裏の回廊。かつて自分が死に追いつめた者を記念する劇場の回廊である。カエサル派の執政官アントニウスは、強靭な腕力をもつため、足止めされている。
クニドス生れのギリシア人アルテミドロスが陰謀計画の概要を知り、密告しようと思って、書面に記してカエサルのもとに持って来た。カエサルはそれを読もうとしたが、面会者が多いため妨げられて、この書状を持ったまま会議場に行った。カエサル暗殺の共謀者は60名を越えた。首謀者はガイウス・カッシウス、マルクス・ブルートゥスである。
共謀者たちは、黄金の椅子に坐っているカエサルを取りまいて立つ。魁のキンベル・ティリウスが請願することを裝い、カエサルに近寄った。カエサルがこれを制止した瞬間、両肩をトガ(上衣)の上から抑えた。「余に暴力をふるうのか。」
一人がカエサルの喉下を切る。カエサルがペン先を突き刺す。
カエサルはトガで頭を覆い、下半身をも包み込む。かくして二十三箇所を剣で刺され、ただ一度だけ呻いた。襲撃したブルートゥスに「お前もか。我が子よ。」と聲を出し、息絶えた。カエサルは、56歳で死んだ。
カエサルの遺言状が、パラティヌスの丘のアントニウス邸で開封され朗読された。姉の孫ガイウス・オクタウィウスが4分の3の遺産相続人に指名され、カエサル家の養子として名前も継がせた。(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』)
ガイウス・ユリウス・カエサルは、紀元前100年、内乱の時代、革命の時代と呼ばれる時代に生れた。門閥派(オプティマーテス)と民衆派(ポプラーレス)とが激しく抗爭する時代である。カエサルは、ユリウス家出身の貴族であるが、16歳の時、民衆派の首魁マリウスの寡婦ユリアの仲介によって民衆派の領袖キンナの娘コルネリアと結婚した。ユリアは叔母であった。キンナは執政官の地位にあった。東方から帰還した門閥派のスッラはキンナを殺害、ローマを制圧し、民衆派を徹底的に弾圧した。カエサルは、財産を没収され、放浪の身となり追われたが、スッラに許しを請い、赦免を得ることに成功する。スッラは紀元前78年に死去した。紀元前71年、クラッススが南イタリアの奴隷反乱(スパルタクスの乱)を粉砕し、スッラの部下ポンペイウスが鎮圧、ローマにおける権力を掌握した。
紀元前61年カエサルは、法務官の任期を終えると、ヒスパニア属州総督として赴任しようとするが、債権者が非難したので、クラッススに縋りつき、クラッススが債権者を引き受け830タラントンの保証をした。紀元前60年カエサルは対立していた將軍ポンペイウスと富豪クラッススを和解させ、密約を交わし、二人はカエサルを支援して59年執政官に当選させた。カエサルは、娘ユリアをポンペイウスに結婚させ、ポンペイウスは元老院を説得してカエサルに全ガリアを統治する権限を与えた。紀元前59年ガリア総督となり、赴任する。50年まで九年間ガリア戦争を指揮し、数々の戰いで勝利を収め武勲を立てる。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)
紀元前50年カエサルのガリア総督任期満了に伴い、執政官立候補をめぐる問題がローマで激化する。元老院は、ガリア総督の職を辞して軍裝を解いてローマに帰還するように要求する。カエサルは、武装解除してローマに帰還すると、在任中の不正を告発され処刑される恐れがあるため、軍団指揮権を持ったままローマに帰還することを要求する。
紀元前49年1月10日カエサルは、元老院の警告を無視して、武装したまま、「賽は投げられた。」と言って、ルビコン河を渡河して、ガリアとイタリアの境界を越えた。ローマに進撃、元老院及びローマに対して反乱する。二人の執政官と將軍ポンペイウス、貴族たちは、ローマを棄て東方に逃走する。12月、カエサルは独裁官に就任する。
カエサルとクレオパトラ
紀元前48年8月9日カエサルは、ファルサロスの戰いでポンペイウス軍を破る。ポンペイウスは、アレクサンドリアに逃れるが、アレクサンドリアの海辺で王の宦官ポテイノスに欺かれ暗殺される。9月カエサルは、アレクサンドリアに上陸する。テオドトスがポンペイウスの首と指環を持って来たが、涙を流して指環を受け取った。エジプト宮廷は、弟王プトレマイオス13世と姉クレオパトラが対立し、宦官ポテイノスはクレオパトラを追放していた。ポテイノスはカエサルに対して陰謀を企み、侮辱的な態度で振舞い、カエサルは自らの身を護るため酒宴を催し、眠らず警戒した。亡き王プトレマイオス12世がカエサルから1千万ドラクメーを借金していたが、この負債の返却を求めると、宦官ポテイノスは「後日返済する。この場はこの地から去るように」と言った。カエサルは、ひそかに追放されていた地方からクレオパトラを呼び寄せるように、部下に命じた。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)
クレオパトラは、腹心の側近シチリア人のアポロドロス一人を伴って小舟に乗り、夕暮時、暗くなったころ、王宮に舟をつけた。人目を避ける手段がなかったので、絨毯に身を包み身体を長くのばして、アポロドロスが革紐で縛り、扉からカエサルのもとに運び入れた。カエサルが紐をとくと、絨毯の中から薄絹を身に纏ったクレオパトラが現れた。クレオパトラはこの時21歳、蠱惑的な眼差しで、匂い立つような魅力を放っていた。
カエサルは、クレオパトラの術策に陥り、魅力的な応接の虜となった。クレオパトラと弟の王とを和解させ共同統治させた。だが祝宴の饗宴を催して、カエサルの奴隷が聞き耳を立て穿鑿していると、將軍アラキスと宦官ポテイノスがカエサルに対して陰謀をめぐらしていることを耳に挟んだ。カエサルは、証拠を突き止め、宴会場に護衛兵を配置して、ポテイノスを殺害した。エジプトの將軍アラキスは、陣営に逃れ、王宮を包囲して攻撃した。カエサルは、少数の兵力によって防戦したが、水路を断たれ、窮地に立たされた。ローマ艦隊との連絡を断たれるに至ったので止むを得ず火を放つと、火が造船所からアレクサンドリア図書館に燃え移り図書館は灰燼に帰した。パロス島沖の戦闘でカエサルは突堤から小舟に乗り移り味方を助けに行こうとしたが、エジプト軍の船に集中攻撃を受け、海に飛込んで危機を逃れた。王が敵に走ったので、これを攻撃して勝利を収めたが、王は行方不明となった。紀元前47年3月27日アレクサンドリア戦爭は終結した。カエサルは、クレオパトラをエジプトの女王の地位につけた。カエサルは、クレオパトラとともに、ナイル河を溯り、エティオピアに巡歴する。6月エジプトを去りシリアに軍を進める。クレオパトラとの間にカエサリオンが生れる。ミトリダテス王の子ファルナケスは部将ドミティウスを敗り、ポントス、ビテュニア、カッパドキアを掌中に収めたという報告を受けて、
「来た、見た、勝った」
カエサルは、シリアから、三個師団を率いてファルナケスを攻撃し、8月2日、ゼラの町で激戦を展開し、ポントスから潰走させ、殲滅した。ローマの友人マティウスに手紙を書き「来た、見た、勝った」の三語を書き送った。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)
カエサルの死
死の前年、カエサルは、第4回コンスルに就任、暦法を改正してユリウス暦を採用、セルウィウスの城壁を壊し市域を広げた。紀元前44年、第5回コンスルに就任。1月26日、終身独裁官に就任。2月15日公式に終身独裁官の称号を用い、アントニウスはカエサルに王冠を呈した。3月14日カエサルは、暗殺される。(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』)
プルタルコスは記した。「全生涯を通じて、数多くの危険を冒して求めつづけ、ようやく成し遂げた覇権と支配だが、それによって手に入れたのは、ただ空しき名と、市民の嫉妬を招くことになった榮譽だけであった。」
カエサルは、軍事的天才であり、豪放磊落な性格は人の心を捕えて放さなかった。カエサル軍に従軍した將兵は、カエサルに心酔した。民衆を法廷弁論、剣闘士競技や、経済的支援によって救援したが、独裁権力を構築する基盤であった。財力、武力、知力を駆使して、民衆、元老院議員を買収、ヒスパニア、ガリアでの属州支配を通じて、財力、武力を蓄積して、ローマを支配する元老院勢力、ポンペイウスに反旗を翻し、反対勢力をイタリアから駆逐して、独裁権力を確立した。ポンペイウス、その殘党を殺害して、内乱の時代を終息させた。独裁者による支配を嫌うローマ人は、カエサルを殺害したが、カエサル派のアントニウス、カエサルの甥オクタウィアヌスは、反カエサル派を攻撃、殺害した。
■雄弁術の時代
カエサルは、紀元前75年、モロンの子アポロニオスの下で雄弁術を学ぶために、エーゲ海の美しい島、ロドス島に航海した。執政官級の人ドラベラを告発したが、敗訴したためその復讐を逃れるためであった。アポロニオスは、キケロもその講義を聞いたことがある優れた雄弁術(レートリケー)の師匠で、人柄も立派だという評判の人物であった。カエサルは、政治的演説に優れた才能をもち、その才能に磨きをかけ、雄弁家として文句なく第2位を占めた。
共和制末期ローマで最も雄弁術に優れたのはキケロである。キケロは、カエサルの政治的企み、政策の下に、独裁者たろうとする意図を見ぬき、笑みを湛える海の面のような政策、優しい外見のうちに隠されている独裁者の性格を読み取った。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)
カエサル、キケロたちは、雄弁術を駆使して、元老院議会、裁判の場で、議論を戦わせ、元老院議員の意思、大衆の心を捉え、動かした。
ギリシア人は民会(エクレシア)において、雄弁術を駆使し、民衆の心を動かし、国家の意思決定を左右した。テミストクレス、ペリクレス、など優れた將軍は、華麗な雄弁術を駆使して、優れた国家意思決定に導いた。デモステネスは『フィリッポス弾劾』はじめ反マケドニアの言論を生涯にわたって展開した。雄弁術の時代は、国家の意思が、一人の優れた人間の言論によって動かされる時代であり、国家が容易に一個人によって、導かれる世界である。アウグストゥス以後の官僚組織化された国家は、制度と法による拘束が強くなるが、共和制末期のローマは、内乱期であり、言論と財力、金による買収と武力による脅迫によって、民衆を動かすことが可能な時代であった。
■ハドリアヌス時代、100万人 ペリクレス時代、30万人
ローマの人口は、アウグストゥス時代、ハドリアヌス時代、100万人、コンスタンティヌス時代、80万人と推定される。アテナイの人口はペリクレス時代、30万人、フィレンツェの人口はロレンツォ・デ・メディチ時代、30万人と推定される。
人間的な空間が顕現するのは、都市空間の規模がコンパクトな世界においてである。
プルタルコスの『英雄伝』の世界は、人間が雄弁術を駆使して国家を動かすことができる世界。それは或る意味で無政府状態(アナルキア)の社会である。人間が言論によって人と国家を動かすことができるのは、このように組織が硬直化する以前の社会である。
雄弁術の時代は、知恵と武力、個人の力が威力を発揮することができる人間的な社会である。人が生きいきと生きることができる空間は、人が個の能力によって生きられる空間であり、言論によって正義を実現することができる国家である。
★Cleopatra and Caesar by Jean-Leon-Gerome 1866
クレオパトラとシーザー、ジェロ-ム
★ローマ水道橋(メリダ、スペイン)
★ローマ橋(メリダ、スペイン)
★【参考文献】
プルタルコス河野與一訳『英雄伝』12巻、岩波文庫1956
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
タキトゥス國原吉之助訳『年代記』岩波文庫1981
國原吉之助編『タキトゥス』世界古典文学全集22、筑摩書房1965
タキトゥス國原吉之助訳『同時代史』筑摩書房1996
スエトニウス國原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上下、岩波文庫1986
カエサル國原吉之助訳『ガリア戦記』講談社学術文庫1994
カエサル國原吉之助訳『内乱記』講談社学術文庫1996
クリストファー・ヒッバート『ローマ ある都市の伝記』朝日新聞社、朝日選書 1991
クリス・スカー矢羽野薫訳『ローマ帝国 地図で読む世界の歴史』河出書房新社199
クリス・スカー月村澄枝訳『ローマ皇帝歴代誌』大阪創元社1998
青柳正規『古代都市ローマ』中央公論美術出版1990
青柳正規『皇帝たちの都ローマ』中公新書1992
島田誠『コロッセウムから見たローマ帝国』講談社1999
新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』講談社2000
南川高志『ローマ五賢帝―「輝ける世紀」の虚像と実像』講談社現代新書1998
J.J.クールトン伊藤重剛訳『古代ギリシアの建築家 設計と構造の技術』中央公論美術出版1991
樺山紘一『ローマは一日にしてならず』岩波ジュニア新書1985
大久保正雄Copyright2003.02.05
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