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2016年7月 1日 (金)

アルキビアデス 波瀾の生涯 美しい容貌と邪惡な精神

Gabin_hamilton_rouvreAthena_thinking大久保正雄『地中海紀行』37回アテネ 黄昏の帝国2
アルキビアデス 波瀾の生涯 美しい容貌と邪惡な精神

アルキビアデスは、天性、様々な激しい感情を持っていた。
そのなかで競爭心と優越心が最も強かった。
若い頃、アルキビアデスはソクラテスの弟子となり傾倒した。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

アルキビアデス 美しい肉体と邪惡な精神
『地中海人列伝』16
■類い稀なる美貌と才能
アルキビアデス(紀元前450-404)は、アテナイの富裕な貴族エウモルポス家の出身である。軍人、政治家としてペロポネス戰爭末期に活躍した。父クレイニアスは、アルキビアデスの息子、BC480年アルテミシオンの戰いで武勲を立てた。(cf.ヘロドトス『歴史』第7巻17) 母はアルクマイオン家の一族、メガクレスの娘ディノマケーから生まれている。
 父クレイニアスがBC447~6年コロネイアの戰いでボイオティア軍と戰って死に、早世したため、クサンティッポスの子ペリクレスを後見人として成長した。アルキビアデスはペリクレスの甥である。
アルキビアデスは、類い稀なる美貌と才能にめぐまれた。プルタルコスは『対比列伝』に書いた。「アルキビアデスの肉体の美しさについては言うまでもない。肉体の美しさが、少年、青年、壮年あらゆる時期を通じて、人の心に快感をもたらし愛慕の心を起させた。エウリピデスのいうように、すべて美しきものは、その晩秋も美しい、とは限らないが、アルキビアデスや僅かな人たちについてだけ、この言葉は当て嵌る。」(プルタルコス)アルキビアデスは、天性、様々な激しい感情を持っていた。そのなかで競爭心と優越心が最も強かった。
若い頃、アルキビアデスはソクラテスの弟子となり傾倒した。ソクラテスは、アルキビアデスのなかに、容貌の美しさならぬ、精神の美質を見出していた。だが、多くの人々がアルキビアデスの輝く美しさに賛嘆し機嫌をとり、アルキビアデスの精神の美質は滅びつつあった。ソクラテスはアルキビアデスが虚栄に耽っているのを見つけ、目覚めさせた。プラトンの対話編『饗宴』、美をめぐる対話の宴のなかで、アルキビアデスは、ソクラテスの魂の美を醜いシレノス像の中に隠された純金の像に喩える(『饗宴』216d-e)。美貌のアルキビアデスが、貧しく醜いソクラテスの魂の美を賛えるのである。アルキビアデスは、ポテイダイア攻略(BC432-431年)に進撃し、ソクラテスと同じ陣営に宿り戦闘したが傷ついて倒れたので、ソクラテスが救った。またデーリオンの戰爭が行われアテナイ軍が敗走した時、アルキビアデスは騎馬で敵を殺し、徒歩で退却するソクラテスを守った。
 ペロポネソス戰爭の最中に政界に入る。甘美な弁舌によって、多くの民衆煽動家を圧倒した。弁舌の力を持っていることは喜劇詩人も認めた。紀元前421年ニキアスの尽力によって、アテナイとスパルタの間に和約が成立した。ニキアスの和約と呼ばれたのを忌々しく思い、嫉妬心から講和条約を破ろうと図った。反戰派のニキアスに対立する。アルキビアデスは、アルゴスの人々がスパルタに対する憎悪と恐怖から離反しようとしていることを知って、アテナイと同盟を結ぶよう吹き込む。ペロポネソス同盟の分裂を画策する。
 紀元前420年アルキビアデスは、スパルタの和平交渉の使節を追い返し、將軍に任命される。スパルタと敵対関係にある都市、アルゴス、エリス、マンティネイアとアテナイの同盟を結ばせることに成功する。再び戰爭を起こすように策略した。紀元前418年、マンティネイアの周囲に多数の盾を並べてスパルタに対抗させ、アルゴスの民主派が勝利を占めたところで、アルキビアデスが到着して民主派の勝利を確保し、城壁を築いて町と海を結び、アテナイ勢力に依存させた。アルキビアデスは、政策と弁論と計画と優れた手腕を顕示した。だが、宴会と愛欲に耽り、アゴラでは赤い衣裳を引き摺り、贅沢な浪費を恣にした。アルキビアデスは、祖先の名声、弁舌の冴え、艶麗な容姿、肉体の気力、戰爭の経験と武勲、などすべてがアテナイの人々を寛容にさせ、様々な欠点に目を瞑らせた。
 紀元前417年、ヒュペルボロスが廃止されていた陶片追放を導入することによりアルキビアデスを排除しようとしたが、逆にアルキビアデスは政敵と共謀してヒュペルボロスを陶片追放した。紀元前416年、オリュンピア競技に7台の戦車を参加させ、1、2、4位を獲得した。悲劇詩人エウリピデスは、アルキビアデスに詩を作って贈った。
 紀元前416年、アテナイは、メロス島討伐軍を派遣した。メロス島はアルキダモス戰爭中(BC431-421年)スパルタを援助したため、アテナイの指弾を受けた。アルキビアデスはメロスの壯年の男たちを虐殺し、婦女子を奴隷にしたことで非難をあび裁判にかけられた。
 紀元前416年、アルキビアデスは、セリヌスに敵対するセゲスタを援助するためアテナイのシチリア遠征軍を派遣することを唱え、シケリア島(シチリア島)に大艦隊を編成して航海し、シュラクサイを攻撃して屈服させるように説いた。ソクラテスはこの遠征がアテナイのためにならぬと考えた。いつものダイモーンが現れて警告を発したのである。ニキアスは反対したがこれを抑え、紀元前415年遠征を決議させる。アルキビアデスは、ニキアス、ラマコスとともに、シケリア遠征軍の將軍として選ばれた。
 しかし、民衆煽動家アンドロクレスが煽動し、キモーンの子テッサロスが、アルキビアデスをエレウシスの女神に対する冒涜の罪で告発した。アルキビアデスは、誹謗者たちをそのままにして航海できないといったが、人々は出航を命じた。140隻の三段橈船と5100人の重裝歩兵、1300人の弓兵、投石兵、軽裝歩兵、が武裝して出発した。
 アルキビアデスは、美貌、雄弁、戦略、あらゆる才能にめぐまれ、名門の誉れと富をもち、唯一の欠点は快楽に溺れる性格にあった。だが、アルキビアデスは破綻なき人生を生きていた。アルキビアデスの人生が狂い始めるのは、シケリア遠征からである。この時からアテナイの運命も狂い始める。

■アルキビアデス 波瀾の生涯
シケリア到着するや否や、ヘルメス像破壊(ヘルモコピダイ)、涜神行為の告発で召還される。これは反対派の策謀であり、冤罪であった。アルキビアデスは出航するとすぐに、紀元前415年9月メッセネーの町を奪い、イタリアのトゥリオイで本国に送還されるアテナイ船から脱出し身を隠した。欠席裁判の結果、有罪と決し、アッティカの財産は没収された。アルキビアデスは、判決が行われている時アルゴスに滞在していた。政敵により殺されることを恐れ、スパルタに使者を送り、敵国スパルタに亡命する。スパルタ人に指揮官ギュリッポスをシチリアに派遣しアテナイ軍を粉砕すること、アッティカの城砦デケレイアを占領すること、という策を授ける。アルキビアデスは、変わり身が早く、スパルタではスパルタ風の生活を身につけ世人を欺いた。人心収攬術を身につけ、習慣、生活に同調する心得があり、カメレオンよりも鋭敏に変貌した。
アルキビアデスは、スパルタ王アギスが戰爭に出た留守に、妃を誘惑して自分の子を宿させたが、妃は男子を産み、密かに子供の名をアルキビアデスと呼ぶほど、熱い愛慕が妃の心を支配していた。アルキビアデスは、自分の子をスパルタ王にするために王妃の子を作ったといったが、多くの人々がアギスに言い付けた。紀元前413年スパルタ王アギスはデケレイアを占領。アテナイは、ラウレイオン銀山を閉鎖せざるをえなくなり、重要財源を失い、没落の路を辿り始める。
紀元前414年アテナイは、シュラクサイを攻撃するが陥落せず。スパルタから救援軍がアテナイの包囲を破ってシュラクサイに到着する。紀元前413年7月アテナイ軍は敗北。8月27日夜、月蝕が起り、ニキアスは退却を1か月延期する。シュラクサイ軍は報復を開始する。アテナイ軍はシケリア島を這って退却を重ねる。名將デモステネスが救援に駆けつける。アテナイは餓えと渇きに悩まされシュラクサイで降伏する。指揮官ニキアスとデモステネスは死刑。捕虜となったアテナイ兵士7000人は、石切場に閉じ込められ、餓えと渇きと病いのため折重なって死ぬ。17世紀にカラヴァッジオが天国の石切場と呼んだ地である。
紀元前413年9月、アテナイ艦隊はシチリア島で全滅する。アテナイの威信は失墜した。スパルタには、キオス、レスボス、キュディコスからアテナイに離反し、スパルタ側につく使節が到着した。紀元前412年、アルキビアデスは、ラケダイモン艦隊を率いて、イオニアに渡り、イオニアのアテナイ同盟都市をほとんど離反させる。しかしスパルタ王アギス2世は、妃との事でアルキビアデスに敵意を持っていたが、さらに彼の名声に嫉妬心を抱いた。スパルタ人の最有力な最も名譽欲の強い人々が嫉妬からアルキビアデスを憎んでいた。アルキビアデスは、スパルタ人によって、死刑判決を受け、殺されそうになり、ペルシアの総督ティッサフェルネスの下に逃れ身の安全を図った。
 アテナイ艦隊はすべてサモス島に集結していた。アルキビアデスは、サモス島の寡頭政主義の將軍たちに使いを送り、アテナイを寡頭派によって占拠するならばペルシア総督ティッサフェルネスの支援を取りつけると言いくるめ煽動した。アテナイが寡頭派によって占拠されたならば、民主政を回復するため自らアテナイに進撃することを策謀した。サモスの寡頭派はペイサンドロスをアテナイに遣わし、5千人の市民が勢力を占め、紀元前411年6月寡頭派400人党が政権を手に入れた。アテナイで400人党に反抗した者は殺害された。だが同年9月アルキビアデスの仲間が、民主政のために協力し、400人党を潰滅させた。アルキビアデスは、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)のアビュドスでスパルタ艦隊とアテナイ艦隊が海戦を繰り広げている所へ、18隻の三段橈船で到着した。アルキビアデスは、敵兵を300人捕え、味方を救い勝利の標柱を立てた。
 紀元前411年アルキビアデスは、サモス島のアテナイ艦隊の指揮官に任じられ、秋、キュディコスでミンダロス麾下のスパルタ軍を壊滅、アテナイ軍は勝利する。(cf.トゥキュディデス『戰史』第8巻107) 紀元前409-408年冬、アルキビアデスは離反したビュザンティオンに向かい、この町を包囲した。激しい戦闘の後、アテナイ軍は勝利した。
紀元前408/407年初夏アルキビアデスは、アテナイに帰還した。8年に及ぶ放浪の末の帰国である。召還の決議は、紀元前411年秋通過した。カルライスクロスの子クリティアスが提案した。民衆が議会に集まってからアルキビアデスは姿を現し、様々な苦難を嘆き悲しみ、すべてを自分の不幸な運命と邪悪な守護靈の責任に帰し、市民を激励し、黄金の冠を授けられ、陸海両軍の総指揮官に選ばれた。
 紀元前407年春、スパルタの提督リュサンドロスは、ペルシア王アルタクセルクセス2世の弟キュロスから資金援助を受け、エーゲ海の制海権を掌握する。紀元前407/6年アテナイ艦隊の副官アンティオコスが、アルキビアデスの命令に従わずノティオンの海戰でスパルタと戰い敗北した。トラシュブーロスは、民会で民衆を煽動しアルキビアデスを告発、宴と快楽に溺れ指揮しなかったと誣告した。アルキビアデスは、責任を転嫁され將軍職を解かれ、アテナイ軍を去り、トラキアに逃れる。
 紀元前405年秋、アテナイ艦隊はアイゴスポタモイの海戰で撃破される。アテナイは、陸と海を封鎖され食糧補給路を絶たれ、飢餓に陥り、餓死する人々が現れる。紀元前404年、アテナイは無条件降伏する。8月アテナイに三十人僭主、独裁政権が成立する。アテナイの人々は、最も有力にして最も戰爭に優れた將軍アルキビアデスを追放したことを羞ずかしいことだと考えた。
独裁政権のクリティアスは、民主派のアルキビアデスが政権を奪還することを恐れ、スパルタの將軍リュサンドロスに、アルキビアデスを殺害するように忠告する。スパルタのリュサンドロスは、ファルナバゾスに遣いを送り、殺害を依頼した。アルキビアデスは、プリュギアのファルナバゾスの下に逃れるが、ファルナバゾスの手の者に暗殺される。ペルシア人たちに家の周囲を包囲され、遠くから槍と矢を放たれ、アルキビアデスは斃れた。
美貌の將軍アルキビアデスは、陰謀の名人で、策士、戦略の天才であったが、唯一の欠点は官能と快楽に溺れる点にあった。国家への忠誠はなく、敵国スパルタに戦略を指南し、蜥蜴のごとく変身をとげる。シケリア遠征とペロポネソス戰爭末期、二度にわたって、陰謀によって陥れられた。名聲を嫉妬し、私利私欲のために、陰謀を企む者の策謀である。名將アルキビアデスを欠いたことがアテナイの滅亡を招いた。その天才を発揮させることなく、敵国にアルキビアデスの才能は用いられた。爛熟と腐敗と内部分裂、煽動家による陰謀が、国家を滅ぼした。だが、アルキビアデスは、官僚制国家の官僚のように国民を犠牲にして私利私欲を追求するのではなく、残虐な独裁者のように暴力に溺れ猜疑心に駆られ暗殺に明け暮れることはなかった。才能に溺れ美に溺れた、ギリシア的な才人、英雄である。皇帝ハドリアヌスは、アテナイにアルキビアデスの彫像を立て英雄の死を刻んだ。
(cf.プルタルコス『対比列伝』「アルキビアデス伝」、トゥキュディデス『戰史』、プラトン『饗宴』)

悲劇の時代 メロス島の虐殺
■メロス島の虐殺
メロス島は、アテナイ人によって虐殺が行なわれた地である。ルーヴル美術館にあるミロのヴィーナス(メロス島のアプロディーテ)が発見されたのはこの島である。
紀元前416年夏、アテナイは「強者が弱者を支配するのは当然である」といい、ペロポネソス戰爭に中立を守るメロス島に支配下に入るように要求、メロス島はこれを拒否した。アテナイは、艦隊を派遣して包囲、アテナイの重裝歩兵はメロスの港から上陸して、攻撃、メロス人を攻めて追い詰め、大量虐殺を行なった。「成年男子すべてを殺戮し、婦女子を奴隷とする。」(cf.トゥキュディデス『戰史』第5巻84-116)メロス島虐殺事件は、將軍アルキビアデスが関与したとされ、アテナイで告発され裁判にかけられた。(cf.プルタルコス『対比列伝』「アルキビアデス伝」)
紀元前415年春、エウリピデス『トロイアの女たち』が上演された。『トロイアの女たち』は、トロイ戰爭後、敗北したトロイアの女たち、プリアモスの王妃ヘカベ、王女カッサンドラ、ヘクトルの妃アンドロマケの悲惨な末路を描く。ヘクトルの妃アンドロマケは、我が子を城壁から突き落とされ、婢女とされ、敵將の妻として、敵国ギリシアに連れて行かれる。トロイアの女たちは、絶望に打ちひしがれ悲嘆に暮れる。怨恨は果てしなく、怨嗟の聲は、劇中に響き、心を痛ましめる。この悲劇は、前年に起きたメロス島虐殺事件を想定して書かれたと思われる。殘虐を極めた、メロス島虐殺事件に対する詩人の悲憤のあらわれである。
■悲劇の時代
アイスキュロス『ペルシア人』(BC472)からソフォクレス『コロノスのオイディプス』(BC401)まで、現存する悲劇作品の時代は71年間である。ペルシア戰爭からペロポネソス戰爭終結まで、88年間に、アテナイの文化の黄金時代が築かれた。この時代にトゥキュディデスが生き、ソクラテスが生きた。
権謀術策、欺瞞、陰謀が渦巻く乱世。乱世に咲く花のように、英雄の死を刻む悲劇、エウリピデスの陰謀劇が生まれた。蜜のように甘く、毒のように劇しく、美貌の將軍アルキビアデスは、黄昏の国を生き、エーゲ海の波間に波瀾の人生を終えた。
★【参考文献】 プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻、岩波文庫1952-1956
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
トゥキュディデス久保正彰訳『戰史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-72
クセノポン根本英世訳『ギリシア史』1-2京都大学学術出版会1998、1999
村田数之亮、衣笠茂『ギリシア』世界の歴史第4巻 河出書房1968
大久保正雄『魂の美學 プラトンの対話編における美の探究』「上智大学哲学論集」第22号、上智大学1993
プラトン『饗宴』
プルタルコス『対比列伝』「アルキビアデス伝」
Alcibiades https://en.wikipedia.org/wiki/Alcibiades
★Gavin Hamilton,Vénus présentant Hélène à Pâris, 1777-80,Louvre
★Athena thinking mourning, acropolis museum
★沈思のアテナBC470 アクロポリス博物館
大久保正雄Copyright2002.07.31

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