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2016年7月の記事

2016年7月31日 (日)

ルネサンス年代記 ボッティチェリ ルネサンスの理念

Botticellinascitaveneresimonettaves大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第67回ボッティチェリ
ルネサンス年代記 ボッティチェリ ルネサンスの理念

ルネサンスの思想は、美術によって書かれた。プラトン・アカデミーの理念を現わしたのは、ボッティチェリと、ミケランジェロである。
15世紀、ルネサンスは、イタリアの戦国時代である。陰謀うずまくルネサンス。謀略、諜報、情報操作、暗殺、毒殺、包囲網。
フィレンツェは、包囲網を敷かれ、孤立しつつあった。包囲網を解いたのが、ロレンツォ・メディチである。
人生は冒険である。美しい魂に、美しい女神が舞い降りる。美しい女神が見守る。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

★【暗殺、毒殺、陰謀うずまくルネサンス】
【プラトン・アカデミーの死、ルネサンスの死】
プラトン・アカデミーのメディチ家の人々は、1478年から1494年までに死ぬ。
プラトン・アカデミーの詩人、思想家は、1499年までに死ぬ。
ジュリアーノ・デ・メディチ(1453-1478)*暗殺事件。ロレンツォ・デ・メディチ殺人未遂事件(パッツィ家の陰謀)。
1492年ロレンツォが42歳で死ぬ。
1494年詩人アンジェロ・ポリツィアーノ(Angelo Poliziano 1454年7月14日 - 1494年9月24日)暗殺事件。ピコ・デラ・ミランドラ(Pico della Mirandola 1463-94)暗殺事件。
1494年メディチ家追放。1499年マルシリオ・フィチーノ66歳で死ぬ。
【メディチ家、旧権力と戦う】
ロレンツォ・デ・メディチは、シクストゥス4世に「フィレンツェ包囲」される。フィレンツェ包囲の原因は、ルネサンスの創造と革新である。「対教皇庁戦争」1474年-1480年、1478年、パッツィ家の陰謀。1492年ロレンツォの死。1494年、メディチ家追放。
メディチ家は、卓越した美的趣味、知性、感覚をもち理想主義(Idealism)を探求した。
メディチ家、美の探求によって、運命の扉を開いた。メディチ家、旧権力と戦う。メディチ家、Idealismを追求した。
【ルネサンス】
ルネサンス藝術は、古典文化の復興であり、理想主義の追求、中世的世界観への挑戦、革新である。
ルネサンスは、コジモ・デ・メディチが、ゲミストス・プレトンから、プラトン哲学の奥義を受けた時(1439) *に始まる。コジモ・デ・メディチは、カレッジ別荘に、プラトン・アカデミーを作り、構想を実現した。(1459)。
メディチ家は運命の扉を開いた。ルネサンス藝術は、美の世界に衝撃を与えた。美を解する人だけが創造的世界を作る。偽物は世界を腐敗させる。15世紀、ルネサンス藝術によって、ヨーロッパは歓喜に戦いた。
ロレンツォは、カレッジのヴィラの庭園を散歩するのを好んだ。祖父コジモの古代彫刻コレクション、ヴィーナス、アポロン、などがあった。ロレンツォは、プラトンの愛読者であり、『パイドロス』『ティマイオス』『饗宴』などの影響を受けた。(ブノワ・メシャン『庭園の世界史』)
プラトン・アカデミーの詩人ポリツィアーノが書いたLa Giostra「ラ・ジォストゥラ」のなかに「ヴィーナスの王国」という詩がある。この詩は、1475年にサンタ・クローチェ広場で挙行されたメディチ家主宰のイベント「馬上槍試合(ジォストラ)」の主人公ジュリアーノ・デ・メディチとその美貌の恋人シモネッタ・ヴェスプッチに捧げられている。
【ルネサンスの理念を現わす藝術】
ルネサンスの思想は、美術によって書かれた。メディチ家のプラトン・アカデミーの理念を現わしたのは、ボッティチェリと、ミケランジェロである。
ルネサンス主題の藝術は、極めて少ない。10点である。ルネサンス絵画は、ボッティチェリ「春」「ヴィーナスの誕生」「パラスとケンタウロス」「ヴィーナスとマルス」4枚、レオナルドの「レダ」、ラファエロの1枚「アテナイの学堂」、合計、6枚である。彫刻、ミケランジェロ「ケンタウロス」「レダ」「クピド」「バッカス」。
【バロック】16世紀、カラヴァッジョは、ルネサンス藝術が見ない、醜悪な現実を直視、現実主義(Realism)を探求した。
大久保正雄『ルネサンス 愛と美の迷宮』より★
―――
【ボッティチェリ】Botticelli, 1444-1510
Alessandro Mariano Filipepi
1459金細工師の修業に入る。
1461年【フィリッポ・リッピ】の下で、画業を学ぶ。1467まで。
Fra Filippo Lippi (1406-69)
フィリッポ・リッピ『聖母子と二天使』1456

★【春】1476~78年、青年のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(1463-1503)の委嘱で制作された。ヴァザーリによって『春』と名づけられた。

1482『春』Primavera,1482 春の花の女神フローラのモデルは、ジュリアーノの恋人、シモネッタ・ヴェスプッチ。メリクリウスのモデルはジュリアーノ・デ・メディチ。
1485『ヴィーナスの誕生』Nascita Venere, Birth of Venus,1485。ジュリアーノ・デ・メディチの愛人シモネッタ・ヴェスプッチに対する愛の祝福を意味する。
*【シモネッタ・ヴェスプッチ】Simonetta Vespucci,1453-1476 23歳で死ぬ。
1482ボッティチェリ「パラスとケンタウロス」
1483ボッティチェリ「ヴィーナスとマルス」
1475ボッティチェリ「東方三博士の礼拝」
1480—81ボッティチェリ「書物の聖母」
1480—81ボッティチェリ「マニフィカートの聖母」
1485ボッティチェリ「柘榴の聖母」

詩人【アンジェロ・ポリツィアーノ】Angelo Poliziano から詩を学ぶ。
ポリツィアーノ(1454年7月14日 - 1494年9月24日)は、プラトン・アカデミーの中心人物の一人。パッツィ家の陰謀の時、ロレンツォを逃して命を救った。
『春』『ヴィーナスの誕生』の構想に影響を与える。『馬上槍試合』La Giostra

★【メディチ家】『馬上槍試合』La Giostra
1475 馬上槍試合、サンタ・クローチェ教会広場。ジュリアーノ・デ・メディチ、優勝。シモネッタ・ヴェスプッチ、恋人役。
*【シモネッタ・ヴェスプッチ】Simonetta Vespucci,1453-1476 23歳で死ぬ。
★【メディチ家】パッツィ家の陰謀 ロレンツォ暗殺計画 
1478年4月26日、ロレンツォの弟、ジュリアーノ・デ・メディチ、1478年4月26日に暗殺される。25歳。教皇シクストゥス4世(SixtusⅣ。1471-1484)の陰謀による。

1492【ロレンツォ死去】ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici, 1449年1月1日 - 1492年4月8日)
1494【イタリア戦争】シャルル8世、フィレンツェ入城。
   1494-1559
1494【サヴォナローラ神権政治】
1494【メディチ家、追放】
1495ボッティチェリ「アペレスの誹謗」
1497、サヴォナローラ、虚飾の焚刑。
1498、サヴォナローラ、火刑。
ボッティチェリ、サヴォナローラの影響をうけ、衝撃を受ける。キリスト教化する。
1500ボッティチェリ「神秘の降誕」
―――
メディチ家年代記 メディチ家礼拝堂の幽明境
https://t.co/jfr10GQn6W
ルネサンス年代記 レオナルド最後の旅、フランソワ1世
https://t.co/UMusFWGFOz
ルネサンス年代記 ミケランジェロ、孤独な魂
https://t.co/ejOdghjAJM
★Botticelli, Nascita Venere, 1485
★Botticelli, Primavera,1482
★参考文献 上記ページ参照。
大久保正雄2016年7月30日

2016年7月30日 (土)

戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹

Kano_eitoku_1565_4Nobunaga大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第66回 織田信長と藝術
戦国時代年代記 織田信長と芸術

陰謀うずまく戦国時代。謀略、諜報、情報操作、暗殺、毒殺、包囲網、政略結婚、人質、奇襲作戦、裏切り。
うつけ者を装った織田信長、明晰透徹、冷徹な合理主義者とイタリア人によばれた。
織田信長は、旧制度と対決、創造と革新の生涯を生きる。藝術と城を作り出し、時間に散った。
ルネサンスは、15世紀、イタリアの戦国時代である。陰謀うずまくルネサンス。謀略、諜報、情報操作、暗殺、毒殺、包囲網、政略結婚、人質、奇襲作戦、裏技。殺戮にあけ暮れる法王、貴族、銀行家、傭兵隊長。
フィレンツェは、包囲網を敷かれ、孤立しつつあった。包囲網を解いたのが、ロレンツォ・メディチ。フィレンツェ包囲の原因は、ルネサンスの創造と革新である。
人生は冒険である。美しい魂に、美しい天使が舞い降りる。見守る美しい天使。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【戦国武将、死亡率80%】
戦国武将、死亡率80%。凡庸な者が生き残る。才能ある者は旗印となり死亡。
戦国時代、優秀な者は旗印となり死亡。桓武天皇は、優秀な皇族を陰謀、左遷で潰し、殺戮。弟早良親王は、自害。怨霊となり、御霊神社となる。御霊は六柱。
大学院博士課程、死亡率95%、愚昧な者が生き残る時代。優秀な者はつぶされる。
織田信長。織田一族、殺さなければ殺される。十二人兄弟のうち生き残ったのは二人。死亡率83%。【織田有楽斎】1547-1621。【戦国武将】激しい殺し合い。死亡率80%。凡庸ゆえ生き残った者たち。【競争社会】凡庸な者が出世する国、非凡なものは嫉妬され殺される。博士課程、死亡率95%。

★明晰透徹な織田信長
【織田信長】非凡をみぬく器量。13歳の少年の非凡を見ぬき厚遇。才能を発掘、生かす天才。深謀遠慮。
【織田信長、非凡をみぬく器量】才能を発掘、生かす天才。現代階級社会は、凡庸が出世する時代。

【織田信長】明晰透徹、俊敏奔放、英邁果断、勇猛強忍、剛毅果断『イエズス会日本通信』
【明晰透徹】明晰透徹、アイディアの奔流が溢れる。部下、戦々兢々。
【切腹より撤退】藤吉郎釜ヶ崎の退き口。元亀元年(1570)4月20日
見栄と外聞を捨てて生き残りを図る。信長、正親町天皇の綸旨による勅命講和。

★【信長包囲網】戦国時代末期より安土桃山時代にかけて発生した反織田信長連合。
信長包囲網、第一次-第三次包囲網。
1570元亀元年(1570年)4月、浅井氏、三好三人衆、荒木氏、一向衆の叛旗。
1571元亀2年(1571年)織田信長と足利義昭の対立。織田信長と足利義昭の対立。武田信玄の死と包囲網瓦解
1576天正4年、毛利氏、上杉氏の本格介入と松永久秀の謀叛。
【信長包囲網第1次】元亀元年、生涯最大の窮地、志賀の陣、正親町天皇の綸旨による勅命講和。
【信長包囲網第2次】天正元年足利義昭との戦い。天皇による勅命講和。
【信長包囲網第3次】天正8年石山本願寺との戦い。天皇による勅命講和。

★織田信長、藝術と創造と革新
【織田信長】1534-1582
【狩野永徳】1543-1590
★1574【織田信長】狩野永徳『洛中洛外図屏風』(1565)
将軍足利義輝が日本最高の絵師、狩野永徳に描かせ、永禄8年(1565)に完成。義輝没後に織田信長が入手して、上杉謙信へ贈った。1574年
★1579【安土城の謎】天正七1579年竣工、織田信長、安土城天主、七層建て五階六階の塔。仏教、儒教、道教の世界観の絵画。

1567【天下布武】沢彦宗恩が、伝授。臨済宗妙心寺派の僧が、教示。
「天下布武」、公家と寺家、天皇官僚制と旧制度を破壊することを目指した。

★織田信長が、恐れた武将は、二人だけである。
【武田信玄】1521-1573 【上杉謙信】1530-1578
1553-64【戦国史上最大の戦い】武田信玄、上杉謙信。川中島の戦い、5回、12年余りに及ぶ。
1560【桶狭間の戦い】織田信長、3千の兵で、5万の今川義元を破る。
1571【比叡山】元亀二1571年、比叡山延暦寺、根本中堂、焼き討ちは無かった。小和田哲男
1580【南蛮寺】天正八1580年、織田信長、安土城下、南蛮寺建設許可。【ルイス・フロイス】永禄十二1569年、織田信長、ルイス・フロイスに京都居住、キリスト教布教を許可。
【楽市楽座】織田信長。楽市楽座、公家、寺院を追いつめる。
【堺を支配】直轄地。足利義昭に要求。堺、大津、草津に代官設置。

【織田信長をめぐる美女】
【生駒吉乃】織田信長、最愛の女、生駒吉乃は超美人。情報収集に優れる豪商の娘。【美人薄命】織田信長、最愛の女、生駒吉乃は奇妙丸を産み、三九歳で死ぬ。
【絶世の美女、織田信長、妹お市】美貌と悲劇的な生涯。絶世の美女と謳われながら、二十一歳までどこにも嫁がずにいた。
浅井長政 の元にお市が嫁ぎ、婚姻関係となった浅井家と織田家は同盟を結ぶ。六角家を浅井家と共同で攻撃して、滅亡させる。浅井長政は、義を重んじて 「朝倉家」 に付くことを決意。「金ヶ崎」で 朝倉家 と対陣中だった織田軍を攻撃する準備を進める。
信長の妹「お市」は、「陣中見舞い」 と称して袋の両端を紐で結んだ小豆を信長に送った。 信長はこれを見て、「織田軍が前も後ろも塞がれている」ことを悟り、浅井家が寝返った事を察した。
長 は浅井家攻撃の準備を進め、そして再び近江に出陣、浅井軍は朝倉家に救援を求め、浅井・朝倉連合軍 として 織田家 と対峙する。
この戦いは「姉川の合戦」と言われ、織田信長 の生涯の中でも1つのポイントになった戦い。「姉川の合戦」で、兵力に勝る織田軍は合計 13 段の陣を構えた。多重の陣で浅井家の突撃を抑える作戦。
【髑髏盃】織田信長。天正二年一月一日、織田信長が義景、浅井久政長政父子のどくろの杯で酒宴を楽しむ。三つの首。親衛隊馬廻衆に酒宴。しかし、信長は酒を飲まなかった。

【織田信長 茶会】千利休は51歳の1573年、1575年(53歳)に、織田信長主催の京都の茶会に参加。茶会は宴会。利休は、信長と48歳、1570年、出会う。
羽柴秀吉、柴田勝家、池田恒興、丹羽長秀などの織田家臣、茶の湯に励む。
1582年6月1日【織田信長 最期の茶会】天正十年、本能寺にて信長が茶会。
利休60歳。信長48歳。1582年6月1日、本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催される。この夜、信長は明智光秀の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散った。
【本能寺の変】天正十年、6月1日夜。明智光秀、謀反の原因。怨恨説、野心説、黒幕説。
怨恨あり得ない。小和田哲男、谷口克広『集中講義』P.166

【当世一の美女、信長の妹】お市、弘治三年(一五五七)から信長と一緒に清洲城で暮らす。二十一歳まで嫁がず。
【悲劇の美人三姉妹】信長の姪、浅井三姉妹、武将浅井長政と正室市との間に生まれた3人の娘、茶々、初、江。各々、豊臣秀吉・京極高次・徳川秀忠の妻(正室・側室)となった。織田信長の姪という血筋に生まれ、悲劇の美人三姉妹。

【織田信長の趣味】
「夢幻のごとくなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」桶狭間の合戦出陣の際に舞う。幸若舞「敦盛」の一節「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」、螺ふけ、具足をよこせ。
桶狭間の合戦、今川義元の率いる二万五千の軍に対し、四千名の手勢で急襲、出陣の際に舞った。
1574【蘭奢待】東大寺蘭奢待を切らせる。
1575【茶会】天正三年、茶会に利休を招く。
1576【安土城】天正四年、築城開始、狩野永徳を安土城天主閣障壁画に起用。
天正七年、天主閣完成。7階5層。天正十年、炎上。
―――
★狩野永徳「洛中洛外図屏風」1565年
★織田信長
★【織田信長】参考文献
小和田哲男『集中講義 織田信長』新潮社
小和田哲男『戦国合戦事典』PHP 文庫
小和田哲男『名城と合戦の日本史』新潮社
小和田哲男監修『芸術・美術・建築からわかる日本史』
小和田哲男「洛中洛外図 日付から読み取れた信長の恐るべき外交術」2002
小和田哲男『日本国宝物語』ベスト新書
泉秀樹『戦国なるほど人物事典』PHP文庫2003
泉秀樹『織田信長と戦国武将天下取りの極意』講談社+α文庫 2007
泉秀樹『戦国武将伝 織田信長』PHP2004
谷口克弘『織田信長合戦全録』中公新書
『図解 戦国史』成美堂出版
堺屋太一他『信長 天下一統の前に悪などなし』プレジデント社2007
黒田日出男『謎解き洛中洛外図』岩波新書1996
黒田日出男「狩野永徳《上杉本洛中洛外図屏風》金雲に輝く名画の謎を読む」
http://artscape.jp/study/art-achive/1207045_1982.html
大久保正雄2016年7月30日

2016年7月29日 (金)

ルネサンス年代記 ミケランジェロ、孤独な魂

MichelangeloMichelangelo_david_1504大久保正雄「地中海紀行」第65回ミケランジェロ、ピエタ、メディチ家礼拝堂
ルネサンス年代記 ミケランジェロ、孤独な魂

ミケランジェロ、さまよえる孤独な魂。
ミケランジェロ、14歳、メディチ家庭園で彫刻修行。ロレンツォ・イル・マニフィコに才能を認められる。ロレンツォの家で養育される。
23歳で、最高傑作「ピエタ」制作。
60歳で、「法王庁、主任建築士、彫刻士、絵画士」に任命される。
卓越した藝術、見出された才能。ミケランジェロ、さまよえる孤独な魂。
けれどもほんとうのさいわいとは一体何か。
皇帝ハドリアヌスの最後の詩「さまよえる孤独な魂」を思い出す。
美しい魂に、美しい女神が舞い降りる。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【ミケランジェロ】Michelangelo 1475-1564
1475年、カプレーゼに生まれる。
1488年、ギルランダイオの工房に弟子入り。
★1489年、14歳。メディチ家庭園で彫刻修行。ロレンツォ・イル・マニフィコに才能を認められる。
★『階段の聖母』(1490-92)、15歳で制作する。天才ドナテッロを上回る。
『ケンタウロスの戦い』(1491-92年)はポリツィアーノがミケランジェロに語ったギリシア神話のエピソードをもとに制作された。
★1490年-1492年【ミケランジェロ】ロレンツォの家で養育される。
1490年-1492年、メディチ家ロレンツォの4人の姫の一人と秘恋をする。
1495年「クピド」制作。1497年「バッカス」制作。
1492年、ロレンツォ、死す。

【ミケランジェロ】Michelangelo, Pieta, 1498
★「ピエタ」1498、23歳の時の作品。イエスが十字架から下ろされ母マリアの腕に抱かれた姿。余りにも若いマリア。
聖母の胸の帯に刻まれた文字「フィレンツェ人ミケランジェロ・ブオナローティが作る」。
★【ダビデ像】Michelangelo, Davide, 1504
1501年造営局は26歳の若きミケランジェロに委託することを決定した。
1434年、フィレンツェ花の聖母教会円蓋、ブルネレスキ、14年の歳月をかけて完成。
1504年、レオナルドは『モナリザ』と『レダと白鳥』を描いていた。工房を訪れたラファエロは『レダ』を模写した。
【レオナルドとミケランジェロ】
1504年、レオナルドとミケランジェロ、ヴェッキオ宮殿壁画、競作。
ダビデ像、市庁舎広場に設置。

【ミケランジェロとローヴェレ家教皇ユリウス2世の抗争】
1505年-1512年。ユリウス2世墓廟の制作。システィーナ礼拝堂天井画。
【チェーザレ・ボルジアとユリウス2世の抗争】【ボルジア家とローヴェレ家の抗争】
★1512年【システィーナ礼拝堂天井画】完成。
Michelangelo, Cappella Sistina, 1512
1545年、ユリウス2世墓廟完成。

【ミケランジェロとメディチ家】
★【メディチ家礼拝堂】制作。1516年—1530年。
Michelangelo, Cappella di Medici, 1530
1525年-1526年。メディチ家「黄昏」「黎明」完成。
1530年「アポロ」制作。
★14年かけて作り上げたメディチ家霊廟。1516-30
1516年、ロレンツォの次男レオ10世がフィレンツェに侵攻し、再びメディチ家がフィレンツェの支配者となる。礼拝堂の制作を命じる。メディチ家の若き公爵、ウルビーノ公ロレンツォとヌムール公ジュリアーノが眠っている。
足元の棺の上には、「時を示す4体の寓意像」が横たわっている。若く美しい女の「黎明」像は、一日の始まりを憂いている。老いた男「黄昏」の像は目を伏せ、人生の終焉をみている。向かいに、筋肉が躍動する若い男「昼」の像、虚空を見つめる。女性の像が「夜」。足は眠りを意味する罌粟の上に伸びている。夢みるように眠る。*シャルル・ド・トルナイ『ミケランジェロ』★

【メディチ家の二人の教皇】
レオ10世 Pope,Leo10, 1513-1521
クレメンス7世 Pope,Clemens7, 1523-1534

【ミケランジェロとヴィットリア・コロンナ】Vittoria Colonna, 1490-1547
1535年、貴婦人ヴィットリオ・コロンナと出会う。ミケランジェロ、60歳。
ミケランジェロ、300篇のソネットを、ヴィットリオ・コロンナに書く。
★貴婦人ヴィットリオ・コロンナと悲恋。1538年-47年。
★1535年、ミケランジェロ【法王庁、主任建築士、彫刻士、絵画士】に任命される。60歳。
1547年【サン・ピエトロ大聖堂】建築主任。
1541年、「ロンダニーニのピエタ」、着手。Michelangelo, Pieta Rondanini,

【ミケランジェロ、死す】
1564年、ミケランジェロ、死す。89歳。シェイクスピア、生まれる。
「ロンダニーニのピエタ」制作。
*
アカデミア・プラトニカは「美しい精神をもつ人々の自由な集まり、プラトンに捧げられた集まり」(アンドレ・シャステル『ルネサンス精神の深層-フィチーノと芸術-』)
メディチ家年代記 メディチ家礼拝堂の幽明境
https://t.co/jfr10GQn6W
ルネサンス年代記 レオナルド最後の旅、フランソワ1世
https://t.co/UMusFWGFOz
―――
★Michelangelo, Pieta, 1498
★Michelangelo, Davide, 1504
★参考文献
ロマン・ロラン『ミケランジェロ』岩波文庫
中嶋 浩郎『図説 メディチ家―古都フィレンツェと栄光の「王朝」』河出書房新社2000
シャルル・ド・トルナイ『ミケランジェロ』岩波書店
アンドレ・シャステル『ルネサンス精神の深層-フィチーノと芸術-』
アンドレ・シャステル『イタリア・ルネッサンスの大工房』『人類の美術』新潮社1968
副島隆彦『隠されたヨーロッパの血の歴史 ミケランジェロとメディチ家の裏側』2012
大久保正雄Copyright2016年7月29日

2016年7月28日 (木)

ルネサンス年代記 レオナルド最後の旅、フランソワ1世

Da_vinci_madonna_with_the_yarnwindeLedaandtheswan大久保正雄「地中海紀行」第64回ルネサンス、ヴァロワ朝
ルネサンス年代記 レオナルド最後の旅、フランソワ1世

星の王子さまが降る夜。群青の空に、精霊が降る。いまは亡き美しい友を思い出す。丘の上の森、迷宮図書館に行く。星降る神殿に女神が舞い降りる。
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝らの知る一切であり、知るべきすべてである。
美しき者よ、汝、死の灰の中から、蘇れ。
生から死が生まれ、死から生が生まれる。宇宙は回帰し、循環する。火は土から生まれ、土は水から生まれる。水は空気から生まれ、空気は火から生まれる。
「火は土の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる。ヘラクレイトス断片76」
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より

レオナルド最後の旅
レオナルドが生涯、藝術によって探求したものは何か。
レオナルドは、1519年、アンボワーズ城に、三枚の絵画、『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者ヨハネ』を残す。
その他、三枚の絵画がフランスに残された。『岩窟の聖母』『レダ』『糸巻の聖母』
フランソワ1世は、レオナルドを招き、カトリーヌを王子の嫁にし、ロッソ・フィオレンティーノを呼び、フォンテーヌブロー城に、ルネサンスの様式を残した。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【レオナルド】
Leonardo da vinci (1452—1519)
シモネッタ・ヴェスプッチ,Simonetta Vespucci, 1453—1476。23歳で死す。
ボッティチェリ(Botticelli, 1445年生まれ)レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年生まれ)
1475年La Giostra「馬上槍試合」フィレンツェがナポリ、ミラノと三国同盟を結んだ記念、開催される。1475年の大会で優勝したのが、ロレンツォの弟で「美しき貴公子」と呼ばれたジュリアーノ・ディ・メディチ(シモネッタと同じ1453年生まれ)。騎士が帰依する「美の女王」に選ばれ、勝者ジュリアーノに勝利の冠を授けたシモネッタ。1年後に死す。
1478年、ジュリアーノ死す。
ピエロ・ディ・コジモ「シモネッタ・ヴェスプッチの肖像」1480代 コンデ美術館蔵
レオナルド・ダ・ヴィンチ「シモネッタ・ヴェスプッチ素描」ウフィッツィ、1470-76
Leonardo, Simonetta Vespucci, 1470-76
『受胎告知』Leonardo,Annunziata1472-75
レオナルド・ダ・ヴィンチ。レオナルド20代の作。98×217.5㎝ 板。
フィレンツェ近郊、モンテ・オリヴェト修道院にあった。
天使ガブリエルは『ルカ福音書』による主の言葉 「あなたは男の子を身ごもるでしょう。その子をイエスと名付けなさい」

【フランソワ1世】
François Ier、(1494年9月12日 - 1547年3月31日)
2代前のフランス王シャルル8世が始めたイタリア戦争を継続し、1515年にミラノ公国を占領しスフォルツァ家を追放した。スフォルツァ家に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチは、1516年フランスへ移り、ルネサンス文化を伝える。
フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)
現在の建築を作ったのはフランソワ1世で、建築家の「ブルターニュのジル」が南門「Porte Dorée(黄金の門)」を含む「Cour Ovale(楕円宮廷)」の建物の殆どを建築した。王は建築家のセバスティアーノ・セルリオとレオナルド・ダ・ヴィンチをもフランスに招いている。フランソワ1世のギャラリーのフレスコはロッソ・フィオレンティーノによるスタッコ(化粧漆喰)で仕上げられ、1522年から1540年に作られ、フランスで最初の大きな装飾ギャラリーとなった。
1516年、フォンテーヌブロー派、始まる。
フランソワ1世の城
アンボワーズ城、ブロワ城、シャンボール城、フォンテーヌブロー宮殿、シュノンソー城。

【イタリア戦争】1494-1559
イタリア支配をめぐる、神聖ローマ皇帝とフランス王の戦い。1494年、フランス王シャルル8世のフィレンツェ侵攻から始まる。

【レオナルド 最後の旅】
イタリア戦争の最中に王位についたフランソワ1世は、イタリア・ルネサンスの美に魅了され、1515年にミラノを占領してスフォルツァ(Sforza)家を追放すると、スフォルツァ家に仕えたレオナルドをフランスに呼び寄せた。
愛弟子のフランチェスコ・メルツィ(Francesco Melzi/1493‐1570)とともにフランスを訪れた。レオナルドは、700エキュの年金を受け取りながらクロ・リュセに暮らし、未完の絵画に手を入れる。
1516年にフランソワ1世に招かれ、3年間暮らす。1519年、アンボワーズ城クルーの館(クロ・リュセ)で死去。
1519年、レオナルド、アンボワーズ城に、3枚の絵画、『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者ヨハネ』を残す。
その他、フランスに残された絵画。
レオナルド『レダ』17世紀1694年まで、フォンテーヌブロー宮殿所蔵品目録に存在した記録ある。
レオナルド『糸巻きの聖母子』1499以降
レオナルド『岩窟の聖母』1483-1486年 ★フランソワ1世コレクション INV. 777
Leonardo, Virgin of the Rocks, 1483-1486
Leonardo, Leda, 1505-10
Leonardo, Madonna of yarnwinder, 1499

【カトリーヌ・ド・メディシス】
Catherine de Médicis, (1519年4月13日 - 1589年1月5日)
1533年、カトリーヌ・ド・メディシスはアンリ2世と結婚する。
【アンリ2世】
Henri II de France, (1519年 - 1559年)
馬上試合で重傷を負い死す。
【ディアーヌ・ド・ポワチエ】
Diane de Poitiers, (1499年9月3日 - 1566年4月25日)
アンリ2世の愛妾
19歳年下の国王の愛を20年間独占し続けた美女の秘密。絶世の美貌と輝く肌。
1559年、アンリが馬上試合で重傷を負うと、王妃カトリーヌ・ド・メディシスが支配権を握り、カトリーヌは王がディアーヌに贈ったもののリストを作っており、王の死後直ちにディアーヌにその全ての返還を迫った。カトリーヌはディアーヌをシュノンソー城から追放してショーモン城に移した。

【フォンテーヌブロー派】(École de Fontainebleau)
【謎の絵画】『ガブリエル・デストレとその妹』Gabriel d‘Estre 1594
二人の美女が裸でバスタブの中にいる。妹がガブリエルの乳首をつまむ。ガブリエル・デストレが指輪をつまむ。結婚を待ち望む乙女心。
アンリ4世は、妻のマルゴがいたにもかかわらず、ガブリエル・デストレに一目惚れ。
ガブリエル・デストレは結婚の3日前に、4人目の子供を身ごもりながら謎の死を遂げる。
アンリ4世はフランス国内のカトリックとプロテスタントの宗教戦争の対立を終結させた。その陰の立役者がガブリエル。アンリ4世は、ガブリエルとの間に3人の子供を授かった。
【ヴァロワ朝】dynastie des Valois 1328年から1589年まで
カトリーヌ・ド・メディシス、ヴァロワ朝を滅亡させる。
―――
レオナルド・ダ・ヴィンチ『糸巻きの聖母』・・・レオナルド最後の旅
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-d5c9.html
レオナルド派『レダ』・・・絶世の美女
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-4497.html
メディチ家とプラトンアカデミー 黄昏のフィレンツェ
https://t.co/QQtspVQ4FD
ルネサンスの奇人変人、メディチ家 コジモとロレンツォ
https://t.co/1ycQTUMP05
ルネサンスの奇人変人、フィリッポ・リッピ、カトリーヌ・ド・メディシス
https://t.co/5Szv6nxGVY
メディチ家年代記 メディチ家礼拝堂の幽明境
https://t.co/jfr10GQn6W
―――
★Leonardo, Madonna of yarnwinder, 1499
★Leonardo, Isleworth Monalisa, 1504
★Leonardo, Leda, 1505-10

★参考文献
ヴァザーリ『藝術家列伝』
アンドレ・シャステル『イタリア・ルネサンスの大工房』人類の美術、新潮社
アレッサンドロ・ヴェッツォシ『レオナルド・ダ・ヴィンチ』知の再発見双書
ケネス・クラーク『レオナルド・ダ・ヴィンチ』
ケネス・クラーク『芸術と文明』
池上英洋『レオナルド・ダ・ヴィンチ』小学館
大久保正雄Copyright2016年7月27日

2016年7月27日 (水)

エウリピデス『王女メデイア』 アルゴ号の航海、金毛羊皮を求めて

MedeaCappadocia_2016大久保正雄「地中海紀行」第63回
エウリピデス『王女メデイア』 アルゴ号の航海、金毛羊皮を求めて

黄昏の丘、黄昏の森を歩いて、迷宮の図書館に行く。夕暮れの神殿。
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝らの知る一切であり、知るべきすべてである。
美しき者よ、汝、死の灰の中から、蘇れ。地上に、汝の精神を刻印せよ。
汝を、美しい女神が舞い降りて救う。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

エウリピデスの悲劇は、マケドニア人、マケドニア王室に愛された。
『王女メデイア』の詩は、「クレオパトラの結婚式」で、フィリッポス2世暗殺に、アレクサンドロスによって、用いられた。
ヘレニズム時代、アレクサンドロスによって、地中海に広められた。

★エウリピデス『王女メデイア』上演BC431 年
初期の傑作『王女メデイア』は、コルキスの王女メデイアの物語である。魔術に通暁したメデイアは、愛するイアーソンのために国宝「黄金の羊皮」を盗み出して、実弟を惨殺し、イオルコスにイアーソンとともに行く。だがペリアスは王位返還に応じない。王位を簒奪したイアーソンの伯父ペリアスを殺し、復讐者に追われた彼らはコリントスに亡命する。コリントス王クレオンの求めに応じて、イアーソンはコリントス王女グラウケと結婚するため妻を棄てようとした。メデイアはイアーソンに怨みを晴らすため、毒薬を施した衣を贈りコロントス王女を焼き殺しその父親もろとも殺害、イアーソンとの間に生れた我が子をも殺し、復讐を遂げる。
メデイアは、我が子を殺した後、太陽神(ゼウス)*から贈られた有翼の龍車にのり、アテナイに逃亡、その地でパンディーオーンの子アイゲウスの妻となる。

■【アルゴ号の遠征】王位奪還
金毛羊皮を求めて旅に出る。
【航海の目的】
王位奪還
イアーソンは、故国イオルコスに戻って、叔父ペリアスに王位の返還を求めた。ペリアスは王位を返還する条件として、コルキスにある金毛羊皮(黄金の羊の毛皮)を取ってくるよう命じる。
【王位を奪われた父王アイソン】イアーソンの叔父ペリアスは、海神ポセイドンの息子、イアーソンの父王アイソンとは胎違いの兄弟。ペリアスによって父王アイソンは幽閉され王位を奪われた。幼いイアーソンは息子の身を案じた両親によってケイロンに預けられた。(ケイロン=半人半馬で音楽、弓術、医術に秀でる怪物)
【金毛羊皮】
金羊とは、海神ポセイドンとトラキアの王女テオパネとの間に生まれた金の羊。金羊は、コルキスの王女の代わりにゼウスの生贄にされた。毛皮は、コルキスの王によって、龍が番人を務める樫の木に吊るされた。
【女神ヘラ】
女神ヘラは、イアーソンの仲間として50人の屈強な若者を集めた。英雄ヘラクレス、テセウス、船大工アルゴス、アテナから航海術を伝授されたティピュス、竪琴の名人オルペウス。【アルゴ号の建造】船大工アルゴス、アテナの航海術によって、巨大な船を作った。
【コルキス王アイエテス】
イアーソンは、コルキス王に、金毛羊皮を譲ってくれるよう頼む。コルキス王は、イアーソンに条件を出す。
「1、青銅の足をもち、口から火を吐く牝牛で軍神アレスの聖地を耕すこと。2、竜の歯を撒き、土から出てくる戦士をすべて退治すること。」
イアーソンは、途方に暮れる。
女神ヘラは、アプロディーテーに頼んで、エロースに、コルキス王の娘メデイアが、イアーソンに恋するよう「金の矢」を射掛けさせた。
イアーソンに一目惚れしたメデイアは、イアーソンに魔法の薬草を渡し、この薬草を塗って不死身の体にした。メデイアは、金毛羊皮の番人の竜を眠らせて、イアーソンは金毛羊皮を奪った。イアーソンのアルゴ号は、船出した。コルキス王の軍隊が追ってきて、捉えようとした。メデイアは、コルキスの王子アプシュルトス=弟を殺害した。分断した遺体を海に撒いた。
メデイアは、イアーソンと航海の途中、島で結婚する。
【イオルコス王ペリアス】
金毛羊皮を持ち帰ったイアーソンだが、イオルコス王ペリアスは、金毛羊皮を受け取って、王位を返還しない。
メデイアは、イオルコス王の娘たちに「若返りの薬」があると言って近づく。イオルコス王ペリアスを切り刻んで大釜に入れ、「若返りの薬」を入れず、ペリアスは若返らず、命を落とす。
【コリントス王】
イアーソンは、イオルコスに居られなくなり、コリントスに行く。コリントス王から、娘グラウケの婿になってくれとの申し出を受け入れる。
【裏切られた王女メデイア】
裏切られた王女メデイアは、イアーソンとの間に生まれた子たちを殺害し、復讐を果たす。これは、エウリピデスの創案による。
メデイアは、ゼウスによって救われる。

エウリピデスの悲劇は、マケドニア人、マケドニア王室に愛された。『王女メデイア』の詩は、フィリッポス2世暗殺に、アレクサンドロスによって、用いられた。

★アレクサンドロスの妹クレオパトラの結婚式
側近護衛官パウサニアスに暗殺される
紀元前336年、夏、旧都アイガイで、アレクサンドロスの妹クレオパトラとエペイロス王アレクサンドロスが結婚式を挙げる。この結婚は、エペイロス王国とマケドニア王国の関係を修復するために、フィリッポス2世が画策したものである。クレオパトラはオリュンピアスの娘で、アレクサンドロスはオリュンピアスの弟であるから、2人は叔父と姪の関係であり、互いに幼なじみであった。クレオパトラは19歳、アレクサンドロスは25歳であった。政略結婚であるが良縁であった。結婚の祝宴で、フィリッポス2世が、貴族パウサニアスに劇場で、暗殺される。側近護衛官パウサニアスは、アッタロスに侮辱されたことに怨恨を抱き、それを罰しないフィリッポス殺害を実行した。
★フィリッポス暗殺事件
フィリッポス暗殺事件は、王妃オリュンピアスとその子アレクサンドロスが蔭で糸を引いた暗殺である。アレクサンドロスは、パウサニアスに、エウリピデスの悲劇の詩を引用して、「聞けば、汝、嫁の親と婿と嫁とを、脅しているという」(『メデイア』)と言って殺害を使嗾(しそう)した。アッタロスとフィリッポスとクレオパトラが、クレオンとイアソンとグラウケに対応するのであり、フィリッポスを殺すべしと指示したのである。メデイアが復讐したように、オリュンピアスは復讐を果たしたのである。フィリッポスは、47歳で死んだ。かくして、アレクサンドロスがマケドニアの王に即位した。★
★Pasolini, Medea 1969 ★Maria Callas
★ Cappadocia
★【参考文献】
文献目録、下記ページ参照。
トロイア戦争の始まり 失われた『叙事詩の円環』
https://t.co/JjeYXXOypq
旅する詩人、エウリピデス ギリシア悲劇の極致
https://t.co/BIXeFsq7GS
マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した戦略家
https://t.co/xcCI2H0le5
大久保正雄Copyright2016年7月27日

2016年7月26日 (火)

旅する哲学者 美への旅 ギリシア、エーゲ海

SantoriniCariatides_erecteion_0Pallas_athena大久保正雄「地中海紀行」第62回
旅する哲学者 美への旅 ギリシア、エーゲ海

美は真であり、真は美である。
黄昏の丘を越えて、黄昏の海に行く。
美は真であり、真は美である。汝が、生涯知るべきことはそれがすべてである。

地中海、エーゲ海を歩きまわり、10年間旅をする。美への旅、根源への旅、古代への旅。黄昏の丘を歩き、迷宮の図書館に行く。
夕映えの光に満ちてくる森、図書館の扉を開けると、夕暮れの海の神殿に出る。
ミロのヴィーナスは、ヘレニズム時代の憂いを含む優美がある。ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』は、憂鬱な美を秘めている。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

ローマ皇帝アウグストゥスの容貌は狡猾で、人を欺いた経験が刻まれている。学者皇帝クラウディウスの顔貌は陰湿で、殺戮を好む性格が現れている。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『いかさま師』の顔貌は狡猾で、一瞬も人の意思を見逃さない精密機械である。近代人は、金と権力と地位の奴隷である。
ヴォロマンドラのクーロスは、死者の墓に建てられた墓標である。アクロポリスのコレーは、今は失われたアテナ古神殿の神域にささげられた。
アルカイック・スマイル、古代の微笑み、輝かしい精神への旅。
―――
★大久保正雄「地中海紀行」【哲学編】より
哲学者の魂 ソクラテスの死
https://t.co/K1EiSrdg79
ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り 
https://t.co/gW05rsb44i
旅する哲学者 ピタゴラスの旅 プラトンの旅
https://t.co/1QDmeBNsBY
★大久保正雄「地中海紀行」ギリシア編より
アクロポリスの光と影 パルテノン神殿
https://t.co/nmDmRi4sGN
パルテノン神殿 彫刻家フェイディアス アクロポリスのコレー
★アクロポリスのコレー 時を超えて蘇る少女
https://t.co/H9JyoTOReE
ペイシストラトス家とアルクマイオニダイ家の戦い アクロポリスの戦い
★ヴォロマンドラのクーロス 死者に献げる供物 子牛を担う人 BC560年
https://t.co/aO3Ia9hN2F
★テミストクレスの決議文
テミストクレスとペルシア帝国の戦争 ギリシアの偉大と退廃
https://t.co/I5UyvXOH2A
★テミストクレスの決議文
至高の戦略家、テミストクレス ギリシア人の知恵
https://t.co/T9feAYy0rz
★テミストクレスの決議文
★ヴォロマンドラのクーロス
★ギリシア文明年代記 蘇るアクロポリスの少女
https://t.co/FkPE97ItOd
ペリクレス 蜜のように甘く、毒のように劇しく
https://t.co/cKAgD5twew
ペロポネソス戰爭 落日の帝国 アクロポリスの建築家たち
https://t.co/izBaPk6g8r
アテネ 黄昏の帝国 メロス島攻撃、シケリア島遠征
アンティキュテラの青年Lysippos BC350-320アテネ考古学博物館
https://t.co/yuMGmjiAlf
アルキビアデス 波瀾の生涯 美貌と邪惡な精神
沈思のアテナBC470アクロポリス博物館
https://t.co/mCiQNlSho0
愛と復讐 アイスキュロス『オレステイア』三部作
https://t.co/httDdX6Bvr
旅する詩人、エウリピデス ギリシア悲劇の極致
https://t.co/BIXeFsq7GS
★大久保正雄「地中海紀行」エーゲ海編より
エーゲ海の薔薇、ロドス島 皇帝ティベリウス、ロドスのアンドロニコス
https://t.co/e0GL13xWMv
★ラオコーン像の3人の彫刻家
ロドス島 古代都市リンドス イアリュソスの丘 聖ヨハネ騎士団
https://t.co/a1pSiZyvJc
★デルヴェニのクラテル
美しい謎「ディオニュソスとアリアドネの結婚」
https://t.co/RG3nUL2FV6
運命の美人姉妹、クリュタイムネストラ、ヘレネー
トロイア戦争の始まり 失われた『叙事詩の円環』
https://t.co/JjeYXXOypq
デルフィ、光り輝く(ポイボス)アポロン アポロンの悲恋
https://t.co/gQ7mPYqr7A
デルフィ、オイディプス王の悲劇
https://t.co/9WqVXF2spg
★アレクサンドロ大王
アレクサンドロ大王 世界の果てへの旅
https://t.co/RCwJNrJirZ
マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した戦略家
https://t.co/xcCI2H0le5
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎
https://t.co/GqhV2l84wK

―――
★Santorini, Aegean sea
★Acropolis Cariatides,Erecteion
★Pallas Athena
大久保正雄Copyright 2016年7月24日

2016年7月25日 (月)

トロイア戦争の始まり 失われた『叙事詩の円環』

TroyTroy_ver13大久保正雄『地中海紀行』第61回トロイア戦争 パリスの審判
トロイア戦争の始まり 失われた『叙事詩の円環』

地中海の旅は、美への旅、知恵の旅、時空の果てへの旅、魂への旅。
旅する哲学者は、魂の美へ旅する。美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。

『叙事詩の円環』は失われた書物。断片から立ち昇る。
運命の美人姉妹、クリュタイムネストラ、ヘレネー。
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より

ゼウスは、人類の傲慢に立腹して人類滅亡を思い立ち、戦争を企画する。
女神の美をめぐる争い。神は嫉妬する。アプロディーテー、アテナ、ヘラ、三女神の美をめぐる争い。争いの林檎。神々の結婚式、神々の饗宴、パリスの審判。ヘレネ略奪。
アカイア軍、アウリスに集結。トロイア攻撃、トロイの木馬の詭計。
オデュッセウスとペーネロペーの出会い、弓の引き競べ、求婚者誅殺。
アトレウス王家の呪い。オレステスの復讐。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

ギリシア悲劇の源泉は、『叙事詩の円環』 (Kyklos Epikou) epic cycle 8編77巻であるが、今は失われて存在しない。
■『叙事詩の円環』は、『キュプリア』『イリアス』『アイティオピス』『小イリアス』『イリオス落城』『オデュッセイア』『ノストイ』『テレゴニア』。
トロイ戦争の歴史を語る8篇の書物。
アガメムノンを総大将とするアカイア軍は、ボイオティアのアウリスに集結した。総勢10万、1168隻の大艦隊である。
【アルテミスの怒り】
アガメムノンは、狩りの腕前を自慢し、アルテミスの怒りを招き、凪で船出ができなくなる。自分の娘【イピゲネイア】を生け贄として捧げる。
アカイア人の遠征軍はトロイア近郊の浜に上陸し、アキレウスの活躍により、待ち構えるトロイア軍を撃退、浜部に陣を敷いた。トロイア軍は強固な城壁を持つ市街に籠城し、両軍は海と街の中間に流れるスカマンドロス河を挟んで対峙した。『イリアス』の物語は、双方に犠牲を出しながら9年が経過、戦争が10年目に始まる。

■『キュプリア』【ゼウスの画策】トロイア戦争の起因。ゼウスは、増え過ぎた人口を調節するためにテミス(秩序の女神)と試案を重ね、遂に大戦を起こして人類の大半を死に至らしめる決意を固める。【テティスの結婚】オリンポスでは人間の子ペーレウスとティーターン族の娘テティスの婚儀が行われた。【神々の饗宴】しかし、エリス(争いの女神)のみはこの饗宴に招待されず、【黄金の林檎】怒った彼女は、最も美しい女神へ捧げると叫んで、ヘスペリデス(不死の庭園)の黄金の林檎を神々の座へ投げ入れる。【女神の争い】この供物をめぐって、殊にヘーラー、アテーナー、アプロディーテーの三女神による激しい対立が起り、ゼウスはこの林檎が誰にふさわしいかをトロイアの王子パリスにゆだねた。【パリスの審判】三女神はそれぞれが最も美しい装いを凝らしてパリスの前に立ったが、3つの贈り物を約束する。ヘーラーは世界を支配する力を、アテーナーはいかなる戦争にも勝利を得る力を、アプロディーテーは最も美しい美女を、それぞれ与える約束を行った。パリスはその若さによって富と権力を捨てて愛欲を選び、【ヘレネー誘拐】アプロディーテーの導きによってスパルタ王メネラーオスの妃ヘレネーを奪い去る。パリスは、アフロディーテの美を選択する。

■『イリアス』アキレウスの怒りに始まる。トロイアの勇将ヘクトールとアカイアの英雄アキレウスの死。
【アキレウスとアガメムノンの対立】が、ギリシア軍の苦境を招く。
戦利品、2人の美女、プリセイスとクリュセイス、は分配される。クリュセイスの父、アガメムノンに返還を要求。拒否された父、アポロンに復讐を依頼。【アポロン】ギリシア軍に疫病を起こす。「怒りを歌え、女神よ。」
第一歌  悪疫、アキレウスの怒り。
第二歌  夢、アガメムノーン軍の士気を試す、ボイオーティアまたは「軍船表」。
第三歌  休戦の誓い。城壁からの物見。パリスとメネラオスの一騎討ち。
第四歌  契約破棄。アガメムノンの閲兵。
第五歌  ディオメーデス奮戦す。
第六歌  ヘクトールとアンドロマケーの語らい。
第七歌  ヘクトールとアイアースの一騎討ち。死体収容。
第八歌  尻切れ合戦
第九歌  使節行。和解の嘆願。
第十歌  ドローンの巻
第十一歌  アガメムノーン奮戦する。
第十二歌  防壁をめぐる戦い。
第十三歌  船陣脇の戦い
第十四歌  ゼウス騙し
第十五歌  船陣からの反撃
第十六歌 パトロクロスの巻
第十七歌 メネラーオス奮戦す
第十八歌  武具作りの巻
第十九歌 アキレウス、怒りを収める
第二十歌 神々の戦い
第二十一歌 河畔の戦い
第二十二歌 ヘクトールの死
第二十三歌 パトロクロスの葬送競技
第二十四歌 ヘクトールの遺体引き取り
■『アイティオピス』トロイアの勇将ヘクトールとアカイアの英雄アキレウスの没後、戦争は膠着状態に陥る。
【オデュッセウス】予言者ヘレノスから予言を得る。4つの条件を満たせば、トロイアは滅亡する。【1、ペロプスの骨を埋葬地から持参する。2、アキレウスの息子ネオプトレモスが参戦する。3、置き去りにした英雄ピロクテテスを迎える。4、トロイアの守護神、アテナの古い像を盗み出す。】
■『小イリアス』【トロイアの木馬】アカイア方の知将オデュッセウスは、巨大な木馬を造り、その内部に兵を潜ませるという作戦を考案し(『小イーリアス』では女神アテーナーが考案)、これを実行に移した。【ラーオコオーン】【トロイアの木馬】の計は、アポローンの神官ラーオコオーンと王女カッサンドラーに見抜かれたが、ラーオコオーンは海蛇に絞め殺され、カッサンドラーの予言は誰も信じることができない運命であった。トロイアはこの策略にかかり、一夜で陥落。
■『イリオス落城』トロイアのイリオン城の落城。夜半、戦勝の祝宴によって【トロイア人が酔い潰れた】頃を見計らって【木馬から抜けだしたオデュッセウス】らは、松明で合図を出し、待機する味方を呼び寄せる。イーリオンへ侵攻したアカイア軍は市内で暴れまわり、一方的に虐殺と略奪を繰り広げる。

■『オデュッセイア』オデュッセウスの故郷への帰還の旅。オデュッセウスとペーネロペーの出会い。弓の引き競べ。求婚者誅殺。
第一歌 神々の会議。女神アテーナー、テーレマコスを激励する
第二歌 イタケー人の集会、テーレマコスの旅立ち
第三歌 ピュロスにて
第四歌 ラケダイモーンにて
第五歌 カリュプソーの洞窟。オデュッセウスの筏作り
第六歌 オデュッセウス、パイアケース人の国に着く
第七歌 オデュッセウス、アルキノオスに対面する
第八歌 オデュッセウスとパイアケース人との交歓
第九歌 アルキノオス邸でオデュッセウスの語る漂流談
第十歌 風神アイオロス、ライストリューゴーン族及びキルケーの物語
第十一歌 冥府行
第十二歌 セイレーンの誘惑。スキュラとカリュブディス、陽の神ヘーリオスの牛
第十三歌 オデュッセウス、パイエケース人の国を発ち、イタケに帰還
第十四歌 オデュッセウス、豚飼いのエウマイオスに会う
第十五歌 テーレマコス、エウマイオスを訪ねる
第十六歌 テーレマコス、乞食(オデュッセウス)の正体を知る
第十七歌 テーレマコスの帰館
第十八歌 オデュッセウス、イーロスと格闘す
第十九歌 オデュッセウスとペーネロペーの出会い、足洗いの場
第二十歌 求婚者誅殺前夜のこと
第二十一歌 弓の引き競べ
第二十二歌 求婚者誅殺
第二十三歌 ペーネロペー、乞食(オデュッセウス)の正体を知る
第二十四歌 再び冥府の物語。和解
『ノストイ』
『テレゴニア』
★【参考文献】
Cf.岡道男『ホメロスと叙事詩の環』京都大学文学部研究紀要16、1976、P55-338
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/72993/1/KJ00000077629.pdf
岡道男『ホメロスにおける伝統の継承と創造』創文社1988
★ Wolfgang Petersen, Troy, 2004
★【参考文献】
松平千秋、久保正彰、岡道男編『ギリシア悲劇全集』全14巻、岩波書店1990-1992
高津春繁編『アイスキュロス、ソフォクレス』「世界古典文学全集8」筑摩書房1964
松平千秋編『エウリピデス』「世界古典文学全集9」筑摩書房1965
松平千秋「エウリピデスについて」『ギリシア悲劇全集』別巻、岩波書店1992
岡道男『ホメロスにおける伝統の継承と創造』創文社1988
中村善也『ギリシア悲劇入門』岩波新書1974
エウリピデス中務哲郎訳『オレステス』『ギリシア悲劇全集』
アポロドーロス高津春繁訳『ギリシア神話』岩波文庫1953
久保正彰『オデュッセイア―伝説と叙事詩』1983
久保正彰『ギリシァ思想の素地―ヘシオドスと叙事詩』1973
ホメロス呉茂一訳『イリアス』岩波文庫1953
ホメロス呉茂一訳『オデュッセイア』岩波文庫
オウィディウス中村善也訳『変身物語』上・下、岩波文庫1981-1984
呉茂一『ギリシア神話』新潮社1970
久保正彰『西洋古典学―叙事詩から演劇詩へ』1990
クイントゥス松田治訳『トロイア戦記 講談社学術文庫』
トロイア戦争の伝説 https://t.co/jknEXCQHMi
桜井万里子「オルフェウスの秘儀と古典期のアテナイ : デルヴェニ・パピルス文書を手掛かりに」西洋古典学研究2010
高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』岩波書店1960
高津春繁『古代ギリシア文学史』岩波書店
大久保正雄2002.11.27 2016年7月24日

2016年7月24日 (日)

ギリシア文明年代記 蘇るアクロポリスの少女

Ookubomasao110Acropolis_kore大久保正雄『地中海紀行』60回
ギリシア文明年代記 蘇るアクロポリスの少女

美は真であり、真は美である。
黄昏の丘を越えて、黄昏の海に行く。
美は真であり、真は美である。汝が生涯知るべきことはそれがすべてである。
ギリシア精神の歴史は、蘇りの歴史である。
二千年の時をへて、蘇る少女。恨血結千年、土中の碧。千年後、具眼の士をまつ。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

蘇る少女
2400年の時を超える。アクロポリスのコレー(少女)
アクロポリスの丘に立つパルテノン神殿、エレクテイオン神殿の神域に、「アクロポリスのコレー」が埋もれていた。アテナ古神殿、ヘカトンペドンに存在したとされる。*
ペルシア戦争(BC492-480)、テミストクレスの決議*によって、アテネのポリスは、トロイゼン他の都市へ避難した。古い神殿が破壊される前、アクロポリスに祀られていた乙女像が、埋められていた。20世紀に、調査隊によって、見出された。*
*テミストクレスの決議碑文 ヘレニズム時代の複製が、アテネ碑文博物館にある。
*アテナ古神殿、ヘカトンペドン
前406年のヘカトンペドン炎上の際に、多少損害を蒙ったが、前395年に修理した。神殿は前と変らず「古神殿」あるいは「古い神像を蔵めた神殿」、「アテナ・ポリアス神殿」と呼ばれていた。(cf.『アリストパネス』高津春繁・呉茂一訳)
カリアティデス
アクロポリスの丘の北側に立つエレクテイオン神殿、美しい柱がある。屋根を支える女人柱、6体のコレー(乙女)像。 カリアティデスと呼ばれる。
エレクテイオン神殿は、イオニア式柱頭を戴き、優美な佇まいである。エレクテイオン神殿には南面柱廊に、6体の女人柱(カリアティデス)が屋根を支える、乙女のテラスがある。柱廊のカリアティデス、柱となった6人の女人が限りなく優美である。エレクテイオンの一角に聖なるオリーヴの木の跡がある。大理石の白亞の列柱に、眞昼の日差しが烈しく降り注ぎ、光と影が烈しい対比を織り成し、眞昼の丘は、溜め息が出るほど美しい。
エレクテイオン神殿、カリアティデス(女人柱)
大久保正雄「アクロポリスの光と影 パルテノン神殿」
https://t.co/nmDmRi4sGN

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
―――――――
★ギリシア文明史 年代記
第1期 古代ギリシャ世界のはじまり(BC 6800年紀~BC 1100年頃)
   キュクラデス文明(BC 2800~BC 2300年)
   キュクラデス期(BC 2800~BC 2300年)
第2期 ミノス文明(BC 3200年頃~BC 1100年頃)
      The snake goddess (BC 1600) in Heraklion Archaeological Museum
第3期 ミュケナイ文明(BC1600年頃~BC 1100年頃)
   トロイア戦争 BC 1200年
   ミュケナイ文明崩壊後、
暗黒時代(BC1200年頃~BC 800年頃)に陥るエーゲ海
   紀元前1000年紀に入るとギリシャ世界は長い眠りから目覚め始める。
第4期 幾何学様式~アルカイック時代(BC900年頃~BC480年)
   ヴォロマンドラのクーロスBC560 Kouros Volomandra 子牛を担う人 BC560
   アクロポリスのコレーBC530 Acropolis kore
   デルフィ、スフィンクスSphinx of Naxos Delphi BC560
   スフィンクスMarble Sphinx, 540 BC, Acropolis Museum, Athens
第5期 クラシック時代(BC480年~BC323年)
   ペルシア戦争BC492-480
   ペリクレス時代BC443-429
   ペリポネソス戦争BC431-404
   パルテノン神殿建設BC438
   カリアティデス(6体の女人柱) BC470、エレクテイオン神殿BC470
   沈思のアテナBC470アクロポリス博物館
   アルテミシオンのゼウス(BC 460~450年)
   デルフィの御者Charioteer of Delphi BC478
   フェイディアス、アテナ・プロマコス、アテナ・レムニア、BC490-430
   アテナ・パルテノス立像、オリンピアのゼウス座像
ミュロン、クレシラス、ポリュクレイトス プリニウスが美術を参考にした
紀元前4世紀のクセノクラテスが書いたとされるカタログ(Xenocratic catalogue)
ではフェイディアスとミュロンの間にランクづけされている『博物誌』
リュシッポス、スコパス、プラクシテレス、ギリシアの古典期後期の三大彫刻家
ヘレニズム時代への移行をもたらした。
★プラクシテレス「クニドスのアフロディーテ」Aphrodite of Cnidus、Venus Pudica 
(恥じらいのヴィーナス)(胸を手で隠すなどのポーズをしている)として、メディチ家のヴィーナス (Venus de' Medici) やカピトリーノのヴィーナス
(Capitoline Venus)、「トカゲを殺すアポロン」
★リュシッポス、アンティキュテラの青年 Lysippos BC350-320 アレクサンドロス
レオカレス「アポロン」BC350、ベルヴェデーレの中庭、ピオ・クレメンティーノ
美術館(Apollo Belvedere)の原作、「アルテミスと雌鹿」
     ★古代オリンピックBC776-AD393

第6期 マケドニア王国
紀元前7世紀頃、ドリス系のギリシア人により建国された。マケドニアは都市国家を形成せず、王政で一夫多妻制を取る、古代ギリシアの他の地域とは違う制度

     フィリッポス2世BC359-336 
     アレクサンドロス3世(BC356-323年)フィリッポス2世暗殺。20歳で即位。
     ★デルヴェニのクラテル、ディオニュソスとアリアドネBC4C

第7期 ヘレニズムとローマ帝国(BC323年~)
   アレクサンドロス大王(-BC 323年)東方遠征開始BC334
   ★ラオコーン群像(Group of Laocoon ) (BC160年からBC120年まで)
   ピオ・クレメンティーノ美術館
―――――――
注★テミストクレスの決議文
1959年ギリシアのトロイゼンで発見された大理石板に刻まれた碑文、現在アテネの碑文博物館所蔵。60年アメリカのジェームソンM.H.Jamesonによって本文校訂と注釈が公にされた。この碑文が刻まれたのはBC4世紀の反マケドニア運動が盛んになった時と推定される。BC480年サラミスの海戦の前にテミストクレスの発議で評議会と民会で決議された,対ペルシア軍作戦計画を内容とする、原形に近いと推定される。

kouros Volomandra, Attica, 560BC, Athens archeological museum
ヴォロマンドラのクーロス,Kouros of Volomandra
★acropolis kore, acropolis museum
アクロポリスのコレー
参考文献
大久保正雄「至高の戦略家、テミストクレス ギリシア人の知恵」
https://t.co/T9feAYy0rz
大久保正雄「テミストクレスとペルシア帝国の戦争 ギリシアの偉大と退廃」
https://t.co/I5UyvXOH2A
大久保正雄 Copyright 2016年7月21日

2016年7月23日 (土)

メディチ家年代記 メディチ家礼拝堂の幽明境

Cappella_di_medici_2Botticellinascitaveneresimonettaves大久保正雄『地中海紀行』59回
メディチ家年代記 メディチ家礼拝堂の幽明境

メディチ家礼拝堂、幽明境にて、ロレンツォの夢を想う。
メディチ家は、美しい精神の集まりを追求した。美しい精神をもつ人々の自由な集まり、プラトン哲学の精神に捧げられた集まり。*
ハプスブルク家は、金と権力を追求した。腐った魂が集まる権力の城。
金と地位と権力では手に入れられない至高の価値とは何か。肉体を失っても、価値を失わないものとは何か。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

愛を語る昼の宴 美しい人と、地中海の旅を夢みる。ヨルダンのペトラ遺跡、パルミラ、ペルセポリス、ナイル河クルーズ。
地中海のアクロポリスの神殿、砂漠に埋もれた図書館、山岳の修道院で見出されたプラトン対話編写本。
美しい人とふたたび行く、地中海。魂の癒しの海。癒しの神アポロンの島。哲学者は、理想の美を追求する。哲学は、理念と現実の一致を探求する魂のオデュッセイア。理念と現実の矛盾は、藝術において、解決される。理念と現実の一致、調和が実現される。プラトンの精神の復活がルネサンスである。
ルネサンスの都、美しい人と行く。夕暮れの町、夕暮れ散歩。地中海の彫刻。
メディチ家霊廟、礼拝堂にて、ジュリアーノ、ロレンツォの夢を想う。
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』より

【メディチ家300年】
ジョヴァンニ・ディ・ビッチからアンナ・マリア・ルイーザまで。
ハプスブルク家650年。ドイツ王ルドルフ1世から、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世まで。
メディチ家300年。15世紀、メディチ家、ローマ教皇史2000年に戦いを挑む。
18世紀、アンナ・マリア・ルイーザ、ハプスブルク家の攻撃から美術品を守る。

【メディチ家の戦い】
ルネサンスはイタリアの戦国時代。15世紀、メディチ家とローマ法王の殺し合い。
ルネサンス。メディチ家のプラトンアカデミー、1499年まで。
【ルネサンスとバロック】
メディチ家は、卓越した美的趣味、知性、感覚をもち理想主義(Idealism)を探求した。
美の探求によって、運命の扉を開いた。
カラヴァッジョは、ルネサンス藝術が黙視した、醜悪な現実を直視、現実主義(Realism)を探求した。

★メディチ家系図
【ジョバンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ】Giovanni di Bicci de' Medici 1360-1429
対立教皇ヨハネス23世を擁立。
1397年、メディチ銀行創設。
★兄脈
【コジモ・デ・メディチ】Cosimo de' Medici 1389-1464
【ピエロ・イル・ゴットーゾ・デ・メディチ】1416-1469
【ロレンツォ・イル・マニフィコ・デ・メディチ】Lorenzo de' Medici 1449-1492
【ジュリアーノ・デ・メディチ】1453-1478
【愚昧なピエロ・イル・フォルトゥオ・デ・メディチ】1472-1503
【ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ】1479-1516
【ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ】1482-1519
【カトリーヌ・ド・メディシス】Caterina de' Medici 1519-1589
★弟脈
【ロレンツォ・イル・ヴェッキオ・デ・メディチ】1395-1440
【コジモ1世】1519-1574
【アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ】Anna Maria Luisa de' Medici 1667-1773
【メディチ家の理想】
【フィレンツェ・プラトン主義】
【ルネサンスの魂】プラトン・アカデミー
コジモ・デ・メディチ、1439年ゲミストス・プレトンからプラトン哲学の奥義を学ぶ。1459年、コジモ、カレッジ別荘とプラトン写本をフィチーノに託し、プラトン・アカデミー設立。コジモ、1464年、カレッジ別荘にて、74歳で死去。

【ロレンツォとシクストゥス4世の抗争】
★【稀代の謀略家】
稀代の謀略家、教皇シクストゥス4世(SixtusⅣ,1471-1484)の陰謀
★【メディチ家】パッツィ家の陰謀 ロレンツォ暗殺計画 
1478年4月26日、ロレンツォの弟、ジュリアーノ・デ・メディチ、1478年4月26日に暗殺される。25歳。教皇シクストゥス4世(SixtusⅣ。1471-1484)の陰謀
★【フィレンツェ包囲網】1478。教皇シクストゥス4世(SixtusⅣ。1471-1484)の陰謀。
【対教皇庁戦争】1474-80
1492【ロレンツォ死去】
1494【イタリア戦争】シャルル8世、フィレンツェ入城。
   1494-1559
1494【サヴォナローラ神権政治】1498、サヴォナローラ、火刑。
1494【メディチ家、追放】

【フィリッポ・リッピ】Fra Filippo Lippi (1406-69)
修道女ルクレツィア・ブーティをモデルに聖母子像を描き、彼女は妊娠。ルクレツィア19歳。リッピ50歳。1452年
プラート滞在中、1452年、ルクレツィア・ブーティとの恋愛事件を起こす。
【フィリッポ・リッピ】
修道女5人、愛人の元に逃亡。「夜間犯罪および修道院取締局」に告発される。
【フィリッポ・リッピ】を救い出したのはコジモ・デ・メディチ。教皇に願い出て、2人を解放させ、結婚させた。
[フィリッポ・リッピ]は自分の労働で栄誉あるゆったりとした生活を送り、女のことで途方もない出費を重ねた。彼は生きていた間は女性関係が絶えず、死ぬまで情事を楽しんでいた。ヴァザーリ『芸術家列伝』
『聖母子と二天使』1456
フィリッポ・リッピ『聖母子と二天使』は真珠のような宝石類を付け、透き通るようなベールに包まれる。

【ボッティチェリ】Botticelli 1444-1510
【春】ヴァザーリによって『春』と名づけられた。
1476~78年、青年のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(1463-1503)の委嘱で制作された。
『春』Primavera,1482 春の花の女神フローラのモデルは、ジュリアーノの恋人、シモネッタ・ヴェスプッチ。メリクリウスのモデルはジュリアーノ・デ・メディチ。
『ヴィーナスの誕生』Birth of Venus,1485。ジュリアーノ・デ・メディチの愛人シモネッタ・ヴェスプッチに対する愛の祝福を意味する。
*【シモネッタ・ヴェスプッチ】1453-1476 23歳で死ぬ。
【レオナルド】Leonardo da vinci 1452-1519
*Leonardo da vinci,Simonetta Vespucci

【ミケランジェロ】Michelangelo 1475-1564
『階段の聖母』(1490-92)、15歳で制作する。天才ドナテッロを上回る。
『ケンタウロスの戦い』(1491-92年)はポリツィアーノがミケランジェロに語ったギリシア神話のエピソードをもとに制作された。
【ミケランジェロ】Michelangelo, Pieta, 1498
1490年-1492年【ミケランジェロ】ロレンツォに養育される。
1490年-1492年、メディチ家ロレンツォの4人の姫の一人と秘恋をする。
【ミケランジェロ】貴婦人ヴィットリオ・コロンナと悲恋。1538年-47年。
「ピエタ」1498、23歳の時の作品。イエスが十字架から下ろされ母マリアの腕に抱かれた姿。余りにも若いマリア。
聖母の胸の帯に刻まれた文字「フィレンツェ人ミケランジェロ・ブオナローティが作る」。
【ダビデ像】Michelangelo, Davide, 1504
1501年造営局は26歳の若きミケランジェロに委託することを決定した。
1434年、フィレンツェ花の聖母教会円蓋、ブルネレスキ、14年の歳月をかけて完成。
1504年、レオナルドは『モナリザ』と『レダと白鳥』を描いていた。工房を訪れたラファエロは『レダ』を模写した。
【レオナルドとミケランジェロ】
1504年、レオナルドとミケランジェロ、ヴェッキオ宮殿壁画、競作。

【ルネサンスの死】
詩人、思想家たちが、つぎつぎに、死ぬ。プラトン・アカデミーの思想家たち、死す。
1492年 4月8日、ロレンツォ、カレッジ別荘にて、42歳で死す。
旧友フィチーノをカレッジに呼び寄せ、魂の不死不滅を反芻する。*
潅仏会(花祭り、仏生会、浴仏会)。
ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici, 1449年1月1日 - 1492年4月8日)
http://en.wikipedia.org/wiki/Lorenzo_de'_Medici 
1494年、アンジェロ・ポリツィアーノ、ピコ・デラ・ミランドラ、暗殺される。毒殺。
1498年、クリストフォロ・ランディーノ、暗殺される。
1499年、マルシリオ・フィチーノ、死ぬ。
1600年、ジョルダーノ・ブルーノ、処刑される。

【ラファエロ】Rafaello 1483-1520
1504年、[ラファエッロがフィレンツェに赴いたのは]レオナルドが描いた馬の素晴しい集団の下絵――それは後に政庁の大広間に描かれることになっていた――と、それと競って描いたミケランジェロの手による、レオナルドを凌駕すると思われる幾人かの裸体の図を、何人かの画工が絶賛するのを聞いたからだった。ヴァザーリ『芸術家列伝』

【ミケランジェロとローヴェレ家教皇ユリウス2世の抗争】
ユリウス2世墓廟の制作。システィーナ礼拝堂天井画。1505年-1512年。
【チェーザレ・ボルジアとユリウス2世の抗争】【ボルジア家とローヴェレ家の抗争】
*
アカデミア・プラトニカは「美しい精神をもつ人々の自由な集まり、プラトンに捧げられた集まり」(アンドレ・シャステル『ルネサンス精神の深層-フィチーノと芸術-』)

★Cappella di Medici, Michelangelo,1526
★Cappella di Medici, Michelangelo,1524-26
★Medici Riccardi,
★Botticelli, Nascita Venere 1485, Primavera 1482 Uffizi
★Michelangelo, Pieta, 1498
★Michelangelo, Davide, 1504
★参考文献
アンドレ・シャステル『ルネサンス精神の深層-フィチーノと芸術-』平凡社
クリストファー・ヒッバート『メディチ家 その勃興と没落』リブロポート1984
イヴァン・クルーラス『ロレンツォ豪華王』河出書房新社
イヴァン・クルーラス『ボルジア家』河出書房新社
ロマン・ロラン『ミケランジェロ』岩波文庫
中嶋 浩郎『図説 メディチ家―古都フィレンツェと栄光の「王朝」』河出書房新社(ふくろうの本)2000
清水純一「フィレンツェ・プラトン主義」1977
清水純一「ルネサンスの哲学」1977
清水純一『ルネサンスの偉大と頽廃』1972
清水純一『ルネサンス 人と思想』平凡社1994
清水純一『ジョルダーノ・ブルーノ研究』創文社1972
森田義之『メディチ家』 (講談社現代新書1442)
オルソラ・ネーミ『カトリーヌ・ド・メディチ』中公文庫
ヴァザーリ『芸術家列伝』白水社
ケネス・クラーク『レオナルド・ダ・ヴィンチ』
ケネス・クラーク『芸術と文明』
シャルル・ド・トルナイ『ミケランジェロ』岩波書店
アンドレ・シャステル(Andre Chastel)『イタリア・ルネッサンス1』『人類の美術』新潮社1968
アンドレ・シャステル『イタリア・ルネッサンスの大工房』『人類の美術』新潮社1968
ルートヴィヒ・ハインリヒ・ハイデンライヒ(Ludwig Heinrich Heydenreich)『イタリア・ルネッサンス2』『人類の美術』新潮社1975
フランチェスコ・シオヴァロ『ローマ教皇 キリストの代理者二千年の系譜』創元社1997
『藝術崇拝の思想』国家と資本が生み出す宗教。
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011071703579.html
大久保正雄Copyright 2016年7月21日

2016年7月22日 (金)

ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花

Margarita_teresa_de_espaa_01Las_meninas_by_diego_velzquezVelzquez_venus大久保正雄『地中海紀行』58回ハプスブルク帝国
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花

太陽の沈まぬ帝国、ハプスブルクは、富と権力で、ヨーロッパ最強の王国を構築した。
だが、この世で最も美しいものは、金と地位と権力で手に入れることはできない。
金と権力で手に入れることはできないものとは何か。
この世で至高の価値とは何か。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

王女マルガリータ・テレサは、15歳で結婚し、22歳で死んだ。
ほんとうの幸いとはなにか。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より

灼熱の夏、ハプスブルク帝国の夢の跡を旅した。ハプスブルク帝国の3つの都。ウィーン、ブダペスト、プラハ。ベルリン、ポツダム、ドレスデン、ザルツカンマーグート。
早春のイベリア半島、スペイン、ハプスブルク家の夢の廃墟を辿る旅に出た。
ドイツ王ルドルフ1世ルドルフ・フォン・ハプスブルク(1218~1291)から、オーストリア皇帝カール1世(1916-18)まで、650年間、ヨーロッパ最強の一族。
マクシミリアン1世は、ヨーロッパ最強の富と権力を、結婚政策で構築する。
一族内の血族政策により、ハプスブルクの醜い容貌、病的資質、ハプスブルク一族に濃縮化する。
ハプスブルク家は、富と権力、領土と地位を、最優先し、権力の集中を図る。ヨーロッパ最強の権力の一つを構築した。

■戦いは他のものに任せよ、汝幸いなるオーストリアよ、結婚せよ。
マールスが他[のものに与えし国]は、ウェヌスによりて授けられん。
Bella gerant alii, tu felix Austria nube.
Nam quae Mars aliis, dat tibi diva Venus

■【ハプスブルク家発祥の地】
スイス、ハビヒツブルク(Habichtsburg 鷹の城)に古城が現存する。
【ルドルフ・フォン・ハプスブルク(1218~1291、在位73-81)】辺境伯。
ドイツ王ルドルフ1世(在位73-81)。ハプスブルク辺境伯ルドルフ1世、痩せた長身、大きな「鷲鼻」と突き出た顎と下唇。
【ハプスブルク家の醜悪な容貌】
顎が突出する異様な容貌。下顎前突症(mandibular prognathism、Prognathism)。
【神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(在位1493~1519)】の結婚政策により、領土拡大。ヨーロッパ最強の富と権力を、結婚政策で構築する。

■ハプスブルク帝国年代記
【スペイン・ハプスブルク家】
マクシミリアン1世の子フィリップ美公(1478-1506)、カスティーリア・アラゴン王女ファナ(1479-1555没)と結婚。
【カール5世=カルロス1世】
カール5世=カルロス1世(1500-88)、太陽の沈むことなき帝国
カール5世=カルロス1世。スペイン、シチリア、ネーデルランド、新大陸を領有。
カルロス1世、フェリペ2世(1506-98) にスペイン、弟フェルディナント1世(1503-64)にオーストリアを継承。
【フェリペ2世】
太陽の沈むことなき帝国
フェリペ2世、スペイン絶対王政の最盛期を築く。
1571年、レパントの海戦で勝利、ポルトガル併合。
カトリック政策で、オランダ独立を招く。
1588年、無敵艦隊がイギリスに敗れる。国力衰退。
フェリペ2世、絵画コレクション始める。ボッシュを蒐集。
イギリス女王メアリと結婚、支配を狙う。
★フェリペ2世、絵画コレクション。ボッシュ「快楽の園」1510「愚者の治療 いかさま師」1490「7つの大罪」1480「乾草の車」1500。スペインのフェリペ2世はボスの絵画の熱烈な愛好者であり、マドリードに傑作の多くがある(現在10点がプラド美術館蔵)。
★「地獄と怪奇生物の画家」ボッシュは、スペイン・ハプスブルク家のお気に入りだった。フィリップ美公、マルガレーテ女公(フィリップ美公の妹) 、フェリペ2世が多くの作品を所有する。
ボッシュは「地獄と怪物の画家」と形容される。彼の画風は独立して確立されたもので、いわゆる師匠に相当する人物を見つけることは出来ない。ハプスブルク家に見出され、ネーデルラント総督フィリップ美公、スペイン王フェリペ2世はボッシュの絵を好んだ。
『最後の審判』はネーデルラント総督フィリップ美公に、『聖アントニウスの試練』はネーデルラント総督マルガレーテ(マルグリット)女公(フィリップ美公の妹)が所有していた。スペイン王フェリペ2世が多くの作品を所有する。ボッシュ「聖アントニウスの誘惑」は、リスボンにある。

【フェリペ4世】フェリペ4世(1621-65)、太陽の沈むことなき帝国を没落させる。
フェリペ4世、ベラスケス(1599-1660)を宮廷画家に登用。
1623年、ヴェラスケス、24歳の若さで国王フェリペ4世の王直属の画家。
1648年から1651年まで、ヴェラスケス(1599-1660)、2度目のイタリア旅行。ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼを購入。
1648年から1651年、ヴェラスケス、「ヴィラ・メディチの庭園」「ヴィーナスの化粧」(「鏡のヴィーナス」) 「教皇インノケンティウス10世」を制作。
ヴェラスケス、イタリアの愛人をモデルに「ヴィーナスの化粧」(1648~1651年)を描く。
1656年『ラス・メニーナス』ヴェラスケス作。5歳の王女マルガリータ。
1660年、ヴェラスケス、61歳で急死。
フェリペ4世の娘、王女マルガリータ、レオポルト1世と結婚。
王女マルガリータ、14歳で結婚、21歳の若さで亡くなる。
*マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ(Margarita Teresa de España,1651年7月12日、マドリード - 1673年3月12日、ウィーン)
フェリペ4世妃マリアナの子、カルロス2世(1665-1700)、生まれた時から死に瀕する。38歳で死す。
1700【スペイン・ハプスブルク家滅亡】カルロス2世、38歳で死す。
1701年—1713年、スペイン継承戦争

【オーストリア・ハプスブルク家】
1740年、カール6世、死去。男子がいないため相続問題が発生。
1740年—1748年、オーストリア継承戦争。
【マリア・テレジア】
マリア・テレジア(1741-1780)、帝国を相続。
マリア・テレジア(1741-1780)は、黄金時代のハプスブルク帝国を指揮した。
16人の子を産み、政略結婚を展開した。
末娘のマリー・アントワネットは、フランス王ルイ16世に嫁がせた。
マリア・テレジアの子、ヨーゼフ2世は、ヴォルテールを尊敬していた。
18世紀、黄金時代のハプスブルク帝国はバロック文化が栄えた。
1762年秋、モーツアルトは、ウィーンに行き、マリア・テレジアに、シェーンブルン宮殿に招かれた。モーツアルトは、マリー・アントワネットに「僕のお嫁さんにしてあげる」と言った。
*神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同)、ベーメン女王(在位1743年 - 1780年)。
【マリー・アントワネット】1755-1793
1770年、マリー・アントワネット、フランス王太子(ルイ16世)と、結婚。
1789年、フランス革命、勃発。
1793年、マリー・アントワネット処刑。
【エリザベート】1837-1898
バイエルン貴族エリザベート、皇帝に一目惚れされる。
1854年、フランツ・ヨーゼフ1世と、エリザベート、結婚。
1889年、フランツ・ヨーゼフの嫡男、ルドルフ、心中による死。
1898年、エリザベート、暗殺されて死す。
1916年、フランツ・ヨーゼフ1世、死去。
【ルートヴィヒ2世】バイエルン王
ルートヴィヒ2世(Ludwig II, 1845年8月25日 - 1886年6月13日)
第4代バイエルン国王。ノイシュバンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)、リンダーホフ城、夢の城を次々と建築する。41歳の時、シュタルンベルク湖で、謎の溺死を遂げた。
オーストリア皇后エリーザベトとバイエルン王ルートヴィッヒ2世は、夢みる二人であった。
バイエルン王ルートヴィッヒ2世は、ワグナーの音楽『ローエングリン』と建築を好む藝術家王であった。
1918年、オーストリア皇帝カール1世、死す。ハプスブルク帝国、滅亡。
★Velasquez, Margarita白衣の王女マルガリータ
★Velasquez, Las Meninas
★Velasquez, Venus
★【参考文献】
ゲオルク・シュタット・ミュラー丹後杏一訳『ハプスブルク帝国史』1989
矢田俊隆『ハプスブルク帝国史研究―中欧多民族国家の解体過程――』岩波書店1977
カトリーヌ・クレマン『皇妃エリザベート ハプスブルクの美神』知の再発見65創元社1997
江村洋『ハプスブルク家の女たち』講談社現代新書
木村泰司『美女たちの西洋美術史 肖像画は語る』光文社新書2010年
ホセ・アントニオ・ウルビノ『プラド美術館』みすず書房、Scala1990
『ウィーン美術史美術館』みすず書房、Scala 
菊池良生『ハプスブルク家』
菊池良生『傭兵の二千年史』講談社
加藤雅彦『ハプスブルク帝国』河出書房新社
中丸明『ハプスブルク一千年』新潮社
桐生操『ハプスブルク家の悲劇』1995
国立新美術館『Theハプスブルク展図録』2009
中野京子『ハプスブルク家12の物語』2009
倉田稔『ハプスブルク歴史物語』日本放送出版協会1994
倉田稔『ハプスブルク文化紀行』日本放送出版協会2006
ヴィスコンティ『ルートヴィヒ 神々の黄昏』1972
Luchino Visconti, Ludwig 1972
大久保正雄Copyright 2016年7月21日

2016年7月21日 (木)

アモールとプシューケー エロースと絶世の美女プシューケー

Amor_et_psychefrancoise_pascal_simoSleeping_hermaphroditus_louvre大久保正雄『地中海紀行』第57回
アモールとプシューケー エロースと絶世の美女プシューケー

冥界の女王ペルセポネーから、美の函を地獄から持ち帰る。
函を開けて、プシューケーは深い眠りにつく。
翼もてるエロースは、プシューケーの目を覚ます。
四つの難問を解決、苦難を超えて、プシューケーは、愛に到達する。
エロースとプシューケーの愛は、魂の愛。
(François Gérard, Amor et Psyche , 1798)

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

ディオティマ「では、要するに、愛(エロス)とは善きものの永久の所有へ向けられたものということになりますね」プラトン『饗宴』
精神の目が鋭く見始めるのは、肉眼の力が鋭さを失おうとする時である。
*大久保正雄『美の奥義 プラトン哲学におけるエロスとタナトス』

■エロース
エロースは、愛の神。「大地とともに、カオス(混沌)から生まれた原初の力」(ヘシオドス『神統記』)。原初の卵が割れて、エロースが生まれ、卵の一部は天と地になった。
翼もてるエロース。(プラトン『パイドロス』)
アプロディーテーは、愛と美と豊饒の女神。キプロス島の海の泡から生まれた。「クロノスによって切断され海に投げ込まれた、ウラノスの男根から出た精液の泡」(ヘシオドス『神統記』)。ヘルマフロディトスは、アプロディーテーとヘルメスの間に生まれた子。

■エロースの二本の矢 金の矢と鉛の矢
エロースは、有翼の青年神。二本の矢、金の矢と鉛の矢をもつ。エロースは二本の矢で人間の心を操る。エロースの金の矢で射られた者は、最初に会うものに恋し、鉛の矢鉛の矢で射られた者は、嫌悪する。
アプロディーテーの嫉妬
アプロディーテーは、絶世の美女プシューケーをみて嫉妬し、エロースに彼女に不幸を与えるように命じた。エロースは、プシューケーに見惚れて、金の矢で、自らを傷つけ、一目惚れする。(François Gérard, Amor et Psyche (1798))
アポロンとダプネ
エロースは、アポロンに馬鹿にされ、復讐を思い立つ。アポロンに金の矢を放ち、ダプネに鉛の矢を放ち、アポロンの恋が成就しないように画策した。アポロンに捕まえられる瞬間、自らの身を月桂樹に変える。(オヴィディウス『変身物語』)
イアソンとメデイア
アプロディーテーは、メデイアがイアソンに恋するようにエロースに頼む。『アルゴス号の航海』をメデイアの援助で成功させるが、イアソンはメデイアを裏切り、他の女に走る。(エウリピデス『王女メデイア』)
ゼウスとエウロペ
ゼウスは、地上を眺めている時、エロースの金の矢に射られれる。ゼウスは白い牡牛に化けてエウロペを誘惑し、クレタ島に連れ去る。

■アプレイウス『アモールとプシューケー』*
アプロディーテーは、絶世の美女プシューケーをみて嫉妬し、エロースに彼女に不幸を与えるように命じた。エロースは、プシューケーに見惚れて、金の矢で、自らを傷つけ、一目惚れする。
■絶世の美女プシューケー
プシューケーは、ある国の王の娘で、三人姉妹である。二人の姉があった。三人とも美しかったが、プシューケーは絶世の美女だった。他の二人が結婚したが、プシューケーはあまりに美しいため結婚する相手がいなかった。
両親は心配し、神託をうかがった所「彼女に花嫁の衣装を着せ、怪物の人身御供にすべし」との答えをえた。両親は驚き悲しんだが神託に従い、プシューケーに花嫁衣装を着せ、山頂の岩の上に残して去った。
■美しい庭園に囲まれた宮殿
しかし、彼女は突風に持ち上げられ、深い谷間の奥へと運ばれて行った。深い眠りから目を覚ますと、彼女の前には、美しい庭園に囲まれた宮殿がある。プシューケーが中に入ると、扉が開き、彼女を中に招き入れました。中には姿は見えず声だけがある不思議な召使い達がいて、すべての用は彼女の思いのままに果たされた。夜、宮殿の主の怪物があらわれ、優しく彼女に近づき、二人は夫婦となる。彼は夫婦となってもプシューケーに自分の姿を決して見せなかったが、彼女は幸せに暮らした。
しばらくするとプシューケーは両親に会いたくなり、彼に里帰りを望む。彼は反対したが、妻の願いについに折れ、風とともに彼女を両親の元に運んで行く。
■姉の嫉妬
両親の元に帰った彼女を家族は喜んで迎えたが、プシューケーが幸せに暮らしていることを知ると、二人の姉は嫉妬に駆られ、プシューケーに燈火で夫の姿を見るよう勧める。風は再びプシューケーを宮殿に連れ帰る。
■眠るエロース(アモール)
プシューケーは、夜、自分の傍らに眠っている夫に、姉の言葉を思い出した。そして燈火で夫を照らした。そこには美しい青年エロース(アモール)が横たわっていた。その時、プシューケーの持つ燈火の一滴が彼の上に落ち、エロースは驚いて目を覚ますと、そのまま空へと飛び去って行き、プシューケーは一人地上へ取り残される。
■エロースを探すプシューケー
後悔したプシューケーは、夫を捜して世界中を探しまわる。しかし、エロース(アモール)は、燈火の一滴に焼かれ、母アプロディーテーの元で、動くことも出来ない。女神たちはプシューケーを激しく憎んだ。それを知らないプシューケーは、神々から願いを撥ねつけられ、アプロディーテーに捉えられる。
■四つの難題
そしてアフロディーテに、四つの難題をなすよう命じられる。
【一つ目の難題は、色々な種類の穀物混ざった山を、夜までに選り分けること。】
プシューケーは途方に暮れたが、蟻が同情して、代わりにやってくれた。
【二つ目の難題は、「輝く黄金の羊」の毛を一房、集めて来ること。】
しかし黄金に輝く羊は、真昼の太陽に焼かれ、荒ぶっていて、近づく事さえ出来ない。
プシューケーが戸惑っていると、葦が靡き「太陽の沈むまで近づかないよう」警告される。日が沈むと、黄金に輝く羊はおとなしくなり、プシューケーはその毛を集めることが出きた。
【三つ目の難題は、地下の冥府の川と黄泉の沼に注ぐ泉の水を水晶の器に汲んで来ること。】
しかしその流れは、巨大な山から降りそそぎ、常に蛇が見張り、水の流れまでも声を上げてプシューケーを寄せ付けない。しかしそこにゼウスの化身の鷹があらわれ、プシューケーの持つ水晶の器を持って水を汲んで来てくれた。ゼウスは何度もエロース(アモール)の力を借りていたので、プシューケーを助けた。
【最後の難題は、冥界の女王ペルセポネーから、美の函を地獄から持ち帰ること。】
プシューケーはほとんど地上まで持ち帰るが、好奇心に勝てず、開けてしまう。しかしその函には、美のかわりに深い眠りが入っていて、プシューケーは深い眠りにつく。
他方、傷が癒えたエロース(アモール)は、プシューケーを捜していた。
■エロースとプシューケーの結婚
眠っているプシューケーを見つけ、その矢でついて目覚めさせ、再び抱きしめ、ゼウスのもとへ飛んで行き、妻に迎える許可を得る。アプロディーテーはプシューケーと和解した。
その後、一人の女神を生む。
★François Gérard, Amor et Psyche (1798)  François Gérard,Cupid and Psyche
Psyche and Amor, also known as Psyche Receiving Cupid's First Kiss (1798),
★Sleeping Hermaphroditus,
★参考文献
プラトン『饗宴』『パイドロス』「プラトン全集」岩波書店
エーリッヒ・ノイマン『アモールとプシュケ』紀伊国屋書店1973
アプレイウス『黄金の驢馬』岩波文庫
ヘシオドス『神統記』岩波文庫
オヴィディウス『変身物語』岩波文庫
アポロドロス『ビブリオテーケー』岩波文庫
松平千秋、久保正彰、岡道男編『ギリシア悲劇全集』全14巻、岩波書店1990-1992
高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』岩波書店1960
高津春繁『古代ギリシア文学史』岩波書店
アポロドロス『ビブリオテーケー』岩波文庫
松平千秋、久保正彰、岡道男編『ギリシア悲劇全集』全14巻、岩波書店1990-1992
高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』岩波書店1960
高津春繁『古代ギリシア文学史』岩波書店
大久保正雄『美の奥義 プラトン哲学におけるエロスとタナトス』
大久保正雄Copyright 2016年7月21日

2016年7月20日 (水)

美しい謎 「ディオニュソスとアリアドネの結婚」

Museum_thessalonikiThe_derveni_krater_late_4th_century大久保正雄『地中海紀行』第56回世界の果てでみつけた美しい謎
デルヴェニのクラテル 「ディオニュソスとアリアドネの結婚」

旅したギリシア、旅路の果てで、時の止まった町、
美しい不思議な器をみつけた。
ギリシアを旅して、デルフィ、メテオラを経て、テッサロニキに行き、マケドニアパレス・ホテルに宿泊した。入り江に臨む海がみえるホテルで、アレクサンドロス大王の夢を想う。夕暮れ時、ホテルの窓から、夕映えの海がみえる。
「ディオニュソスとアリアドネの結婚」が刻まれていて、この世のものとは思われぬ美しさである。世界の果ての美術館でみつけた美しい謎である。
ナクソス島で、ディオニュソスは、アリアドネに恋し、結婚した。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■デルヴェニのクラテル「ディオニュソスとアリアドネの結婚」
911事件直後、旅したギリシア、旅路の果てで、時の止まった町で美しい不思議な器をみつけ驚愕した。
テッサロニキ考古学博物館で、古代マケドニアの黄金の遺物、アレクサンドロス大王像が展示されている。デルヴェニの遺跡、墓から発見された美しい酒器に心を奪われた。
「デルヴェニのクラテル、ディオニュソスとアリアドネ」(テッサロニキ考古学博物館) 。
The Derveni krater, late 4th century B.C, Dionysus and Ariadne, Archaeological Museum, Thessaloniki, Greece
「フィリッポス2世(在位BC359-336)の墓」とされる大墳墓の発見により、ヴェルギナ(Vergina)がマケドニアの旧都アイガイ(Aigai)であることが実証された。デルヴェニ(Derveni)の墓群は前4世紀末と推定されている。古代都市レテの遺跡である。

■ディオニュソスとアリアドネの結婚
アリアドネは、テセウスを迷宮から救った。ナクソス島に、ディオニュソスがやってきて、アリアドネに恋し、結婚した。
■ミノス王の迷宮
クレタ王ミノスは、ポセイドンとの約束を破り、ポセイドンはミノス王に呪いをかけた。
「ミノス王妃パシパエが牡牛に欲情する」。彼女は、牡牛に恋しダイダロスの援助で牝牛に化け、交わった。その結果、牛頭人身の怪獣ミノタウロスが生まれた。ミノタウロスは、迷宮ラビュリントスに閉じ込められ、生贄を食べていた。
■アテナイ王子テセウスのミノタウロス退治
ミノス王は、子のアンドロゲオスの死の復讐として、アテナイを攻めた。アテナイは、疫病のため、ミノス王との戦いに降伏。9年ごとに7人の少年と7人の少女をミノタウロスの生贄に捧げることを約束した。アテナイ王子テセウスがミノタウロス退治を志願した。テセウスは生贄の一人としてクレタへ向かった。
アリアドネは、テセウスの美しさに一目惚れした。ミノタウロスの首を絞めて殺害したテセウスに、アリアドネは、ラビュリントスの作者名工ダイダロスから聞き出した迷宮からの脱出方法を教えた。糸玉を入口に結びつけ糸を辿って脱出する。しかし、アリアドネは、迷宮から救ったテセウスに、ナクソス島に置き去りにされた。
■ディオニュソス
Διόνυσος
ディオニュソスは、ゼウスとテーバイ王女セメレの子である。セメレはディオニュソスを身籠っている時、ヘラの嫉妬をうけ命を落とす。ゼウスは、ディオニュソスを救い出し、自らの太腿に縫い込んで誕生させる。ヘラの嫉妬を避けるため、ニュサのニンフに預けて養育させた。成長したディオニュソスは、葡萄の栽培と葡萄から酒を醸造する技術を発見し広める。
ディオニュソス(バッコス)は、葡萄の房の髪とワインの盃、足下にサテュロスを従える図像で表現される。ディオニュソスは、茴香の杖をもち、豹の毛皮を身につけ、豹を抱いている図像もある。ディオニュソスは、若い女性信者たちを引き連れて、祭儀を行う。マイナデス(女性信者)は腰を蛇で巻く。(エウリピデス『バッカイ』)
ディオニュソスの秘儀に、マケドニア王子フィリッポス2世とオリュンピアスが参加して、恋して結ばれた。(cf.プルタルコス『英雄伝』「アレクサンドロス伝」)
ニーチェ『悲劇の誕生』で、ディオニュソスは酒神、劇場の神、陶酔的激情的藝術。アポロンは、知性の神として対比されるが、その解釈は正確ではない。
★The Derveni krater, late 4th century B.C., side A, Dionysus and Ariadne, Archaeological Museum, Thessaloniki, Greece
★ミケランジェロ「バッコス」
★参考文献
エウリピデス『バッカイ』『ギリシア悲劇全集』岩波書店
プルタルコス『英雄伝』「アレクサンドロス伝」岩波文庫、『世界古典文学全集』筑摩書房
ヘシオドス『神統記』岩波文庫
オウィディウス『変身物語』岩波文庫
アポロドロス『ビブリオテーケー』岩波文庫
松平千秋、久保正彰、岡道男編『ギリシア悲劇全集』全14巻、岩波書店1990-1992
高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』岩波書店1960
高津春繁『古代ギリシア文学史』岩波書店
桜井万里子「オルフェウスの秘儀と古典期のアテナイ : デルヴェニ・パピルス文書を手掛かりに」西洋古典学研究2010
松尾登史子「ヴェルギナにおける墳墓の埋葬形態に関する考察」2013
大久保正雄Copyright 2016年7月19日

2016年7月19日 (火)

王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎

Olympias_mother_of_alexanderOlympias_mother_of_alexander_1大久保正雄『地中海紀行』55回アレクサンドロス大王3
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎

サモトラケ島で、紀元前360年、オリュンピアスは、ディオニュソスの密儀で、マケドニアの王子フィリッポス2世と出会った。
妹クレオパトラの結婚式で側近貴族がフィリッポス暗殺。王妃オリュンピアスとその子アレクサンドロスが蔭で糸を引いて、殺害を使嗾。エウリピデス『メデイア』の詩を引用。
アレクサンドロス帝国の謎。アレクサンドロスの遺体は、何処にあるのか。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■王妃オリュンピアス
Ὀλυμπιάς, c. 375–316 BC
アレクサンドロスの母、ポリュクセナは、ミュルタレ、オリュンピアス、ストラストニケ、と呼ばれた。(cf.プルタルコス『アレクサンドロス伝』)
オリュンピアスは、エペイロス人の一部族、モロッソイ王国の王族ネオプトレモスの娘である。モロッソイ王家は、英雄アキレウスとトロイア王家の血を受け継いでいると、伝承されている。モロッシアの地は、トロイア王家のアンドロマケがトロイア滅亡後、ネオプトレモスに伴われて流離した地である。ネオプトレモスはアキレウスの子である。(cf.エウリピデス『アンドロマケ』)オリュンピアスの父ネオプトレモス王が亡くなり、叔父アリュッバスが単独で王となり、オリュンピアスの後見人となる。
■サモトラケ島、ディオニュソスの秘儀
エーゲ海に浮かぶ、サモトラケ島で、紀元前360年、オリュンピアスは、ディオニュソスの密儀に入信し、ここで、マケドニアの王子フィリッポス2世と出会った。オリュンピアス十五歳である。フィリッポスは、恋してすぐ婚約した。エペイロス地方の女たちは、昔からオルペウス教とディオニュソスの密儀に入信しており、トラキアの女たちと同じ密儀を行なっていた。オリュンピアスは、他の女たちより一層烈しく神懸りになり、一層烈しく霊感に取り憑かれ、祭りをしている人々の間に、大きな蛇を何匹も取り出し、蔦や密儀の籠から這い出して女たちの杖や花環に巻きついた。ある夜、フィリッポスは、王妃オリュンピアスが寝室で寝ている傍らに大きな蛇が長くなっているのを見た。以後フィリッポスは、オリュンピアスの傍に行くことはなかった。
アレクサンドロス出生の秘密
フィリッポスは、神が蛇の形になって、王妃と添い寝しているのを窺い見た。オリュンピアスは、アレクサンドロスを遠征に送り出す時に、彼にのみその出生の秘密を明かし、生れにふさわしい心を持つように命じた。だが二人は再び生きてまみえることはなかった。(cf.プルタルコス『アレクサンドロス伝』)

★アレクサンドロスの妹クレオパトラの結婚式
側近護衛官パウサニアスに暗殺される
紀元前336年、夏、旧都アイガイで、アレクサンドロスの妹クレオパトラとエペイロス王アレクサンドロスが結婚式を挙げる。この結婚は、エペイロス王国とマケドニア王国の関係を修復するために、フィリッポス2世が画策したものである。クレオパトラはオリュンピアスの娘で、アレクサンドロスはオリュンピアスの弟であるから、2人は叔父と姪の関係であり、互いに幼なじみであった。クレオパトラは19歳、アレクサンドロスは25歳であった。政略結婚であるが良縁であった。結婚の祝宴で、フィリッポス2世が、貴族パウサニアスに劇場で、暗殺される。側近護衛官パウサニアスは、アッタロスに侮辱されたことに怨恨を抱き、それを罰しないフィリッポス殺害を実行した。
★フィリッポス暗殺事件
フィリッポス暗殺事件は、王妃オリュンピアスとその子アレクサンドロスが蔭で糸を引いた暗殺である。アレクサンドロスは、パウサニアスに、エウリピデスの悲劇の詩を引用して、「聞けば、汝、嫁の親と婿と嫁とを、脅しているという」(『メデイア』)と言って殺害を使嗾(しそう)した。アッタロスとフィリッポスとクレオパトラが、クレオンとイアソンとグラウケに対応するのであり、フィリッポスを殺すべしと指示したのである。メデイアが復讐したように、オリュンピアスは復讐を果たしたのである。フィリッポスは、47歳で死んだ。かくして、アレクサンドロスがマケドニアの王に即位した。★

■アレクサンドロス帝国の謎 黄金の指輪
αλεξανδροσ
ペルディッカスが、死の床のアレクサンドロスから受けた黄金の指輪は、ナイル河渡河作戦で失敗し殺害された時、何処に消えたのか。古代の書物に「アレクサンドロスの遺産は、アレクサンドロスが最も愛した美しいエーゲ海のロドス島に隠された」と書かれたが、アレクサンドロスの遺産はどうなったのか。プトレマイオスが奪還し、エジプトのアレクサンドリアに葬られた、アレクサンドロスの遺体は、何処にあるのか。アレクサンドロスの霊廟は、どうなったのか。アレクサンドロス帝国は謎を残した。(cf.プルタルコス『アレクサンドロス伝』)
偉大な国家を建設するためには、旧制度の破壊と征服が為されねばならない。革命家の後に、偉大な統治者が現れる時、偉大な国家が生れる。そして、軍人が現れ、組織を構築する者が現れ、管理する者が現れ、官僚が統治する時、国家は死に絶える。アレクサンドロスにおいては、王国も軍隊も、彼自身の不滅の榮光を達成するための道具であり、手段に過ぎなかった。自己を中心に、ただ己自身の目的をめざして、他のすべてを顧みない、強烈な自我の光芒が、アレクサンドロスの行動の軌跡であった。王国の統治は、生涯アレクサンドロスの真剣な考慮の対象とならなかった。アレクサンドロスは、征服者であり探検家であった。アレクサンドロス帝国は、統治者のいない王国である。アレクサンドロスは、治者ではなかった。統治行為という日常を無視し、非日常を探求する者。世界の涯を旅する者である。たとえ未完に終ろうとも、その戦いの軌跡だけが、人間がこの世に生きた証しである。アレクサンドロスは、永遠に旅を続ける。
■地中海の美と知恵を求めて
『地中海紀行』は、崇高な理想を追求する人間の美しさを求めて、旅を続けて行きます。御愛読ありがとうございます。
『地中海紀行』がツアーになりました。『地中海紀行』の旅は、「英雄と芸術家の夢」「地中海の美と知恵」を探求する旅です。第1回イタリア13日間「ルネサンス都市とトスカーナの丘」は、例えば、ヴォルテッラに彫刻「夕日の影」を見に行く、ユニークな旅です。
「ギリシアの美とエーゲ海」、「地中海の樂園 シチリアとマルタ」、「エジプト・ファラオ紀行 地中海と神秘の国」、「スペイン・アンダルシアと地中海 パラドールの旅」他、独創的な旅を企画しています。著者による企画、主催旅行会社は、阪神電鉄(株)航空営業部です。☆詳細はここをクリックして下さい
【ルネサンス都市とトスカーナの丘】━13日間━
http://homepage3.nifty.com/odyssey/27c8c003.html
★Olympias mother of Alexander
★Oliver Stone' Alexander (2004)
★テッサロニキ考古学博物館カタログ
Thessaloniki, Archaeological Museum Catalogue
★アレクサンドロス ギリシア共和国ドラクマ硬貨
★【参考文献】
プルタルコス河野与一訳『プルタルコス英雄伝』岩波文庫1956★
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
アッリアノス『アレクサンドロス大王東征伝』『インド誌』岩波文庫2001★
大牟田章『アレクサンドロス大王』清水書院1976★
森谷公俊『アレクサンドロス大王 世界征服者の虚像と実像』講談社選書メチエ2000
森谷公俊『王妃オリュンピアス アレクサンドロス大王の母』筑摩書房1998★
森谷公俊『王宮炎上 アレクサンドロス大王とペルセポリス』吉川弘文館2000
ポンペイウス・トログス/クイントゥス・ユスティヌス合阪學訳『地中海世界史』京都大学学術出版会1998
森谷公俊『興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話』講談社2007
本村凌二『興亡の世界史 地中海世界とローマ帝国』講談社2007★
知の再発見双書ピエール・ブリアン桜井万里子監修『アレクサンダー大王』創元社1991★
知の再発見双書エディット・フラマリオン『クレオパトラ』創元社★
大久保正雄Copyright 2002.12.25

2016年7月18日 (月)

マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した戦略家

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大久保正雄『地中海紀行』54回アレクサンドロス大王2
マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した外交戦略家

独眼竜、フィリッポス2世、優れた武将、卓越した外交戦略家、
テーバイで騎馬隊戦術を学ぶ。
サモトラケ島で、紀元前360年、オリュンピアスは、ディオニュソスの密儀で、マケドニアの王子フィリッポス2世と出会った。
妹クレオパトラの結婚式で側近貴族がフィリッポス暗殺。王妃オリュンピアスとその子アレクサンドロスが裏で糸を引いて、殺害を使嗾。エウリピデス『メデイア』の詩を引用。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■フィリッポス2世
優れた武将、卓越した外交戦略家、教養人、テーバイで騎馬隊戦術を学ぶ。
フィリッポス2世は、優れた武将であるとともに、卓越した外交戦略家、ギリシア文化の知識を身につけた教養人であった。フィリッポスのように傑出した人物は、地中海世界において、空前であった。
■テーバイで、騎馬隊戦術、外交戦略
フィリッポスは、テーバイに人質として、15歳から18歳まで3年間滞在した。紀元前371年テーバイのエパメイノンダスらが、レウクトラの決戰で、スパルタを打倒した3年後、フィリッポスは、テーバイに行った。エパメイノンダスの下で、騎馬隊戦術、外交戦略、ギリシア文化、など、多くのことを学んだ。
■ピュタゴラス派のリュシス
ピュタゴラス派のリュシスが、イタリアのクロトンから僭主独裁政を逃れて、テーバイで子弟を教えていた。フィリッポスは、テーバイで騎兵戦術を学んだ。フィリッポスの兄ペルディッカスは、哲学者プラトンと相談した結果、エウフライオスを招聘した。その勧告に従って、ペルディッカスは、フィリッポスに所領を与えた。
■王位継承をめぐる争い 七人の妻
フィリッポス2世は、七人の妻を娶った。マケドニアは一夫多妻制であり、王位継承をめぐる争いが起った。兄弟間の抗爭があり、「兄弟殺しの法」があるオスマン・トルコ帝国のように、王位を継承した者は対抗者を殺害しなければならない。紀元前337年、フィリッポス2世は、恋して、クレオパトラと結婚する。フィリッポス7回目の結婚である。結婚の席で、アレクサンドロスは、クレオパトラの叔父アッタロスに侮辱を受け、盃を投げつける。フィリッポス2世、アレクサンドロスに対して剣を抜く。アレクサンドロス、母とともに、国外退去。母はエペイロスに、アレクサンドロス、イリュリアに行く。
■アレクサンドロスの妹クレオパトラの結婚式
側近護衛官パウサニアスに暗殺される
紀元前336年、夏、旧都アイガイで、アレクサンドロスの妹クレオパトラとエペイロス王アレクサンドロスが結婚式を挙げる。この結婚は、エペイロス王国とマケドニア王国の関係を修復するために、フィリッポス2世が画策したものである。クレオパトラはオリュンピアスの娘で、アレクサンドロスはオリュンピアスの弟であるから、2人は叔父と姪の関係であり、互いに幼なじみであった。クレオパトラは19歳、アレクサンドロスは25歳であった。政略結婚であるが良縁であった。結婚の祝宴で、フィリッポス2世が、貴族パウサニアスに劇場で、暗殺される。側近護衛官パウサニアスは、アッタロスに侮辱されたことに怨恨を抱き、それを罰しないフィリッポス殺害を実行した。
■フィリッポス暗殺事件
フィリッポス暗殺事件は、王妃オリュンピアスとその子アレクサンドロスが蔭で糸を引いた暗殺である。アレクサンドロスは、パウサニアスに、エウリピデスの悲劇の詩を引用して、「聞けば、汝、嫁の親と婿と嫁とを、脅しているという」(『メデイア』)と言って殺害を使嗾(しそう)した。アッタロスとフィリッポスとクレオパトラが、クレオンとイアソンとグラウケに対応するのであり、フィリッポスを殺すべしと指示したのである。メデイアが復讐したように、オリュンピアスは復讐を果たしたのである。フィリッポスは、47歳で死んだ。かくして、アレクサンドロスがマケドニアの王に即位した。
■アレクサンドロス誕生
アレクサンドロス3世
アレクサンドロスは、マケドニア暦ローオス月、アッティカ暦ヘカトンバイオン月6日、マケドニアの首都ペラの王宮で生れた。ポテイダイアを占領していたフィリッポスのもとに、同日、三つの報告が到着した。イリュリア軍が將軍パルメニオンにより激戦の末、敗れたこと。オリュンピア祭典の競馬で優勝したこと。アレクサンドロスの誕生である。アレクサンドロスが生れた時、フィリッポスは、予言者に「生れた子は不敗の將軍になる」と言われた。
アレクサンドロスは、小さい時から、節制の徳が現れ、肉体的な快楽には容易に動かされず、名譽心のために彼の精神は年齢に比べて重厚で気位が高かった。快楽も富も欲せず、勇気と名譽を求めていた。アレクサンドロスは、皮膚からよい匂いが出ていて、その芳香が口ばかりでなく全身を包んでいたために、香りが着衣に染みていた、とアリストクセノスの『回想録』に書かれた。アレクサンドロスの姿を最もよく表わした彫像は彫刻家リュシッポスの作品であり、アレクサンドロスはリュシッポスにだけ彫刻を作らせるのがよいと考えた。頸を軽く左に傾ける癖と目に潤いがあるという特徴があり、藝術家リュシッポスがこれを正確に捉えていた。首が左傾していたのは帝王切開により生れたのが原因である。アレクサンドロスの宮廷彫刻家リュシッポスは、この時代最高の青銅彫刻家であり、生けるがごとき写実的作風により有名で肖像彫刻に秀でた。アレクサンドロスの宮廷画家アペレスは、『アプロディーテ・アナディオメネ』『誹謗』で有名である。1800年の歳月を経て、ルネサンス時代、ボッティチェリは『海から上がるヴィーナス』を描く。
フィリッポスは、アレクサンドロスの天性が動かされ難く、強制には反抗し、理には服して、為すべきことに向かうのを見て、命令よりは説得することを試みた。
■哲学者アリストテレスを招き、緑深いミエザのニュンフの聖域
哲学者アリストテレスを招き、立派な報酬を払った。学問所として、緑深いミエザのニュンフの聖域を指定した。アレクサンドロスは、倫理学、政治学のみならず、哲学者たちが口伝(アクロアティカ)、秘伝(エポプティカ)と呼ぶ秘密の深奥の教えも受けた。アレクサンドロスはアリストテレスから医学、自然学を最も多く学んだ。天性、學問、読書を好んでいた。ナルテコス(茴香) の小筺の『イリアス』と呼ばれるアリストテレスの校訂本を携えて、つねに短剣と一緒に枕の下に置いていた。(cf.プルタルコス『アレクサンドロス伝』)
アレクサンドロスは、遠征中、ペルシア帝国では手に入らない、エウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスの悲劇、哲学書、ディオニュソス讃歌の詩を、マケドニアから贈らせた。アリストテレスをはじめは讃嘆していたが、後に疑いを抱き、敵意を感じるに至った。アリストテレスの哲学は、自然界を、四つの原因、形相、質料、始動、目的によって分析したが、人間の行為を自然界の現象と同じように分析するアリストテレスの學問からは、事実の解明しか生れず、事実には何の価値もないと、考えるに至った。アレクサンドロスの知恵の渇望を、アリストテレスの学問は、満たすことはできなかった。(cf.プルタルコス『アレクサンドロス伝』)
★PhilipposⅡ、Macedinia,フィリッポス2世 テッサロニキにて
★参考文献、次ページ参照。
大久保正雄Copyright 2002.12.25

2016年7月17日 (日)

アレクサンドロ大王 世界の果てへの旅

Alexander_the_great_mosaic_0大久保正雄『地中海紀行』第53回アレクサンドロ大王1
アレクサンドロ大王 世界の果てへの旅

砂塵きらめく果て、世界の果てを旅する。マケドニアの若き獅子、アレクサンドロス。
海峡をわたり、荒野を疾駆し、沙漠を歩み、ペルシア帝国の五つの都を占領する。
残された最後の計画。最後の航海。アラビア周航、西の涯、黄昏の国を目ざして、
アレクサンドロスは、夢のなかで、永遠に旅を続ける。
彗星のごとくあらわれ、疾風のごとく、大地を駆けぬけた、アレクサンドロスの光芒。
波光きらめく果て、地中海の岸辺、海鳴りがなる王宮の塔の中で、
プトレマイオスは、思い出す。輝ける日々。

アレクサンドロスは、皮膚からよい匂いが出ていて、その芳香が全身を包んでいた。
アレクサンドロスの宮廷彫刻家リュシッポスは、この最高の青銅彫刻家で生けるがごとき肖像彫刻に秀でた。アレクサンドロスの宮廷画家アペレスは、『アプロディーテ・アナディオメネ』『誹謗』で有名である。
アレクサンドロス大王の軍が遠征した時は、彫刻家リュシッポス、画家アペレス、歴史家、遊女、音樂家、料理人、將軍の友人たち、家族も同行し、国が移動するようであった。(プルタルコス『アントニウス伝』)

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■アレクサンドロス大王の旅 世界の果てへの旅
20歳で王位につき、32歳で死す。
紀元前334年春、アレクサンドロス3世は、三万五千人の兵を率いて、東方遠征に旅立った。それから11年後、エジプト、ペルシア、インドに至る広大な領域を征服し、再びマケドニアに還ることなく、バビロンで死んだ。
ヘレスポントス海峡をわたり、グラニコス河の戦い、イッソスの戦いに勝利して、諸々の都市は無血で開城した。エジプトにアレクサンドリアを築き、ガウガメラの戰いで、勝利する。ペルシア帝国の五つの都、バビロン、スサ、ペルセポリス、パサルガダイ、エクバタナ、を征服した。ダレイオス大王を誅殺した側近ベッソスを追撃して、白銀のヒンドゥークシュ山脈を越え、バクトリアの灼熱の砂漠を進撃し、ベッソスを処刑した。ヤクサルテス河で進軍を止め、最果てのアレクサンドリアを築く。インダス河を下り、パサルガダイ、ペルセポリスに帰還する。
アレクサンドロスは、マケドニア艦隊艦長ネアルコスとともに、最後の計画を構想する。アラビア半島探検航海、西地中海の航海、ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)、ヘスペリス(黄昏の国)への航海を計画して出帆を待っている間に、倒れ、死んだ。バビロンの宮殿の、黄金の天蓋に包まれた、死の床で、世界の果てへの旅を夢想し、生死の境をさまよい、32歳で他界した。英雄の見果てぬ夢は、バビロンの王宮で眠ったまま残された。
【登場人物】
フィリッポス2世:マケドニア王 傑出した戰略家 アレクサンドロスの父
オリュンピアス:フィリッポス2世の妃 アレクサンドロスの母
エペイロス王アレクサンドロス:オリュンピアスの弟 クレオパトラと結婚
クレオパトラ:エペイロス王の妻 オリュンピアスの娘、アレクサンドロスの妹
クレオパトラ:フィリッポス2世の7番目の妻 將軍アッタロスの姪
プトレマイオス:アレクサンドロスの幼少時代からの友、側近護衛官、プトレマイオス朝エジプト王国を創始
アンティパトロス:東方遠征後マケドニアを代理統治、皇太后オリュンピアスと敵対
カッサンドロス:アンティパトロスの子、アレクサンドロスと対立

■プトレマイオスの回想
プトレマイオスは、きらめく地中海を眺めながら、塔に閉じ籠もり、アレクサンドロスの思い出を書く。地中海のほとり、列柱回廊と緑の庭園の都、海鳴りが聞こえる王宮の部屋で、波瀾の人生を思い出す。紺碧の海、列柱の影が長い午後、時間は止まる。
マケドニアからペルシア、ヒンドゥークシュ山脈を越え、バビロンに帰還した長い旅。若き日々、アレクサンドロスの美しい容姿。
プトレマイオスは、ミエザの森蔭で、エウリピデスを愛読しホメロスを暗誦した日々を思い出す。あの若葉のように萌え出る季節、薔薇が咲き乱れ、緑陰緑想に耽った美しい日々。
アレクサンドロスは、フィリッポスとクレオパトラとの結婚の宴で、アッタロスが酒に酔ってマケドニア人たちに「この王国の正統な後嗣が生れるように神々に祈れ」と言ったのを聞き、激怒して「貴様は余が庶出だと言うのか」と言い、アッタロスに盃を投げつけ、フィリッポスは剣を抜いた。アレクサンドロスとオリュンピアスは国外に退去した。この時、フィリッポスとアレクサンドロスの関係は致命的になったのだ。この後、我々は、フィリッポスに追放され、アレクサンドロスとともに、イリュリアの地に赴いたのだ。
アテナイには、一度しか行ったことがない。あの時も、アレクサンドロスと一緒だった。カイロネイアの戰いの後、アレクサンドロスが、アンティパトロスとともに、使節としてアテナイに降伏条件を伝えに行った時である。エウリピデスを読んで憧れたあの都。「知恵と光輝、調和と學藝、馨しき風の息吹。甘く香る薔薇、愛が導く知恵と徳の都」アテナイ。エウリピデス『メデイア』に書かれた美しい都。わが青春のすべての記憶は、アレクサンドロスと一緒だった。
アレクサンドロスは、夢告げによって、詩を聞き、美しい入り江を選び、この地にアレクサンドリアを建設した。
「波が絶えずとどろく海原のなかに、一つの島がナイル河の河口の前にあり、人々はパロスと呼ぶ」(『オデュッセイア』第4巻)

■ペルシアに対する報復
コリントス地峡にギリシア人が集まり、会議でペルシアに対する報復のためギリシア・マケドニア同盟軍が派遣されることが決定され、アレクサンドロスが全軍の最高指揮官(ストラテゴス・アウトラクトル)になった。東方遠征は、150年前、第2次ペルシア戦争で、アテナイのアクロポリスが破壊されたことに対する報復が目的である。遠征軍の目的であるペルシア報復が、ペルセポリス征服、ダレイオス王暗殺によって達成されると、マケドニア軍に、大王暗殺の陰謀が起きた。ペルシア帝国征服後、東方融合政策をめぐり、アレクサンドロスとマケドニア人との間で対立が起り、將軍たちとマケドニア人の処刑が行われた。フィロタス、パルメニオン、クレイトス、カッリステネスらが、陰謀を使嗾した容疑で、宮廷儀礼に異議を差し挟み、跪拝礼を拒否したために、アレクサンドロスの命で処刑された。
■ペルセポリス炎上
ペルセポリスは、ダレイオス1世によって築かれたペルシア帝国最大の都であり、壮麗な美しい都であった。百五十年前から壮大な宮殿が築かれていた。正面大階段、ペルシア門(万国の門)、謁見宮殿(アパダナ)、会議の間、百柱の間、ダレイオスの宮殿、クセルクセスの宮殿、中央宮殿、クセルクセスの後宮、宝蔵庫九十九柱の間、宝蔵庫小百柱の間、宝蔵庫、玉座の間、未完の大門、三十二柱の間、兵舎、があった。
アレクサンドロスの軍は、冬、紀元前330年1月、ペルセポリスを無抵抗で征服、略奪し、占領した。黄金12万タラントン(3000トン)を、驢馬2万頭、駱駝5千頭で、スサに運んだ。アレクサンドロスは、昴の星が日没と同時に地平線に沈む頃、千人の騎兵と軽裝部隊を率いて、パサルガダイに侵攻した。遠征隊が帰還したのは30日後であった。
晩春五月、花の宵、ペルセポリスの都でアレクサンドロスの友人たちの酒宴と遊樂があり、恋人たちも来ていた。プトレマイオスの愛妾、舞姫タイスは、アテナイの生れであったが、宴が酣になった時、アテナイ風の弁舌を以って、言った。「アテナイを焼き払ったクセルクセスの王宮を、宴の後に焼き、大王の前で、私が火を放ち、ペルシア人に復讐を果たしたと、後世に語り伝えられるならば、一層、嬉しい。」これと同時に拍手と喝采が起り、炬火を手にして、歌い騒ぎ、王宮を取り巻き、マケドニア人たちも駆け集まった。かくて王宮に火が放たれた。アレクサンドロスはすぐに後悔し「消せ」と命じた。

■バビロンのアレクサンドロス
アレクサンドロスは、バビロンの予言者ピュタゴラスに犠牲の結果を聞くと「犠牲の肝臓に胚葉がなく、凶兆が現れている」といった。アレクサンドロスは、友人たちに疑念を懐き、とくにアンティパトロスとその息子たちを恐れた。その一人イオラスは酌童長であり、カッサンドロスはアンティパトロスに対する誹謗を弁解するために、マケドニアからやって来た。
宮廷日誌によると、マケドニア暦ダイシオス月18日、アレクサンドロスは、発熱した。病に倒れ、熱が高く、まどろみ、十一日間、生死の境を彷徨った。
アレクサンドロスの死の床に、友人である、多くの側近、武将たちが集まり、アレクサンドロスに尋ねた。
 「大王の後継者は、誰か。」
 アレクサンドロスは答えた。「最も優れた者に。私を讃美する葬儀の儀式は、友人たちの血によって塗れるであろう。」と予言し、その通りになった。
叙事詩『キュプリア』に書かれた、神々の饗宴のなかで、爭いの女神エリスによって「最も美しい人に」と書かれた黄金の林檎が、投げ込まれ、女神たちによって果てしない爭いが繰り広げられたように、アレクサンドロスは、後継者の指名を行なわなかったため、大王の友人である將軍たちによって、後継者(ディアドコイ)戦争が起った。
 マケドニア暦ダイシオス月28日(紀元前323年ユリウス暦6月10日)、夕刻、アレクサンドロス大王はバビロンで死ぬ。
■アレクサンドロスの死
アレクサンドロス大王毒殺の疑いは、死後すぐには誰も懐かなかったが、6年後(紀元前317年)、密告があって発覚した。だが、我々側近護衛官は、アレクサンドロスの死の直後、犯人を知っていた。七人の側近の一人が、報復するため海を渡った。かくて、アリストテレスに毒が盛られた。
アンティパトロスは、10年に及ぶ、アレクサンドロスの母オリュンピアスとマケドニア統治をめぐる対立のため、解任されるべく、バビロンに召喚を命じられた。これを不服として、アンティパトロスの子カッサンドロスがマケドニアからやって来て、アレクサンドロスに、「父に対する誹謗中傷を行なう者は、証拠から遠く離れた所まで来るということが偽りの誹謗の兆候だ。」というと、アレクサンドロスは「それはアリストテレスの徒が使う両刀論法の詭弁だ。」といって、カッサンドロスの髪の毛を掴み、頭を壁に打ちつけた。カッサンドロスは恐怖に震え、以後アレクサンドロスに極度に恐れを抱くようになった。
將軍アンティパトロスの依頼を受けて、哲學者アリストテレスが毒藥を取り計らったのである。アンティパトロスは「ディオニュソスの魔女、オリュンピアスの言動は、我らがマケドニアにとって禍である。」といい、これに対し、
アリストテレスは、「私はアレクサンドロスに書簡をおくり、ギリシア人には友人として振舞い、異国人には敵として振舞い、家畜や獣のように扱うよう教えたのだが、それに従わなかった。アレクサンドロスは、ペルシアの宮廷儀礼に染まり、独裁者となり果てた。強大な帝国は、人の心を腐敗させる。跪拝礼(プロスキュネシス)を強要し、我が甥カッリステネスを殺害した。もはや、ギリシア人ではない。殺害しなければならぬ。」と言って、毒藥を、リュケイオンで調合させた。アンティパトロスの使者は、アリストテレスが用意した毒藥を携えて、アテナイから航海し、バビロンに向かった。アンティパトロス解任が実行される前にアレクサンドロスは死んだ。マケドニア担当將軍を解任され、バビロンに召喚され、処刑されることを恐れ、大王に先制攻撃をかけたのである。
アンティパトロスの子イオラスは、宴会担当官で、大王の宮廷で、機会を窺い、一年の間、好機を狙った。大王の側近護衛官七人の目を眩まし、宴の席で、葡萄酒に混ぜ、大王の觴(さかずき)に毒を盛った。近衛隊指揮官ヘファイステイオン殺害の時に行なったように。
 我々、七人の側近は警戒していたのだが、警戒の目をくぐり、毒が盛られたのだ。  かくして、この世の常としてあることだが、「偉大な魂は、偉大でない魂によって、殺された」のである。
■帝国の分割
アレクサンドロス大王の死後、バビロンの王宮、大王の黄金の棺の前で、部将たちが集まり、帝国の支配権(ヘゲモニア)をめぐって、会議が開かれた。
アレクサンドロスの死の時、バビロンにいた將軍たちは、第2代千人隊長(キリアルコス)ペルディッカス、側近プトレマイオス、レオンナトス、リュシマコス、精鋭近衛隊指揮官セレウコス、カッサンドロス、アンティゴノス・モノプタルモスであった。
ペルディッカスが、アレクサンドロスの死の床で、印璽の黄金の指輪を受け、後継者として、將軍たちの会議を主宰した。
王位継承者、推戴をめぐって、マケドニア軍が分裂した。騎兵部隊と側近指揮官は王妃ロクサネが妊娠してまだ生れざる子を推戴し、歩兵部隊は大王の異母弟アッリダイオスを王位に就けることを要求して対立した。ペルディッカスは「王妃ロクサネが産む子が男子ならば、王位を継ぐべきである」と提案する。王妃ロクサネは、妊娠8か月であった。歩兵部隊の反乱を恐れて、ロクサネの子アレクサンドロス4世と亡き王の異母弟アッリダイオス(フィリッポス3世)が王位に並立されることになり、ペルディッカスが摂政になった。
武將たちは、帝国を分割、統治することを決定する。アンティパトロスはマケドニア、プトレマイオスはエジプト、セレウコスはシリア、リュシマコスはトラキアを、管轄することに決した。かくて、アレクサンドロス帝国の武將たちによって、後継者(ディアドコイ)戦争が起きる。
■アレクサンドロスの遺体
バビロンの王宮で、將軍たちが、王国の継承をめぐって、議論している間、アレクサンドロス大王の遺体は放置されていた。あらゆる死者への義務である埋葬の礼すら行なわれなかった。アレクサンドロスの葬儀について誰も考えぬまま、30日間が過ぎた。予言者アリスタンドロスが、「生ける時も死せる後も、王のなかで最も幸福であったのはアレクサンドロスである。その魂の宿っていた肉体を、受け入れる土地は幸福であり、決して敵に滅ぼされることはない」と予言した。
プトレマイオスは、アレクサンドロス大王の遺体を、祖国マケドニアに埋葬しようとするペルディッカスと爭った。プトレマイオスは、「リビア砂漠のオアシスにあるシウァの神殿に埋葬すべきである」と主張したのである。アレクサンドロスの遺体は、ペルディッカスによって、古都アイガイに運ぶべく送られたが、途中、プトレマイオスが奪還し、秘密の道を通って、エジプトのアレクサンドリアに運ばれ、葬られた。プトレマイオスは、アレクサンドリアに、アレクサンドロスの遺体を埋める霊廟を作った。霊廟はソーマ(肉体)と名づけられた。
■アレクサンドロス3世
アレクサンドロスは、マケドニア暦ローオス月、アッティカ暦ヘカトンバイオン月6日、マケドニアの首都ペラの王宮で生れた。ポテイダイアを占領していたフィリッポスのもとに、同日、三つの報告が到着した。イリュリア軍が將軍パルメニオンにより激戦の末、敗れたこと。オリュンピア祭典の競馬で優勝したこと。アレクサンドロスの誕生である。アレクサンドロスが生れた時、フィリッポスは、予言者に「生れた子は不敗の將軍になる」と言われた。
アレクサンドロスは、小さい時から、節制の徳が現れ、肉体的な快楽には容易に動かされず、名譽心のために彼の精神は年齢に比べて重厚で気位が高かった。快樂も富みも欲せず、勇気と名譽を求めていた。アレクサンドロスは、皮膚からよい匂いが出ていて、その芳香が口ばかりでなく全身を包んでいたために、香りが着衣に染みていた、とアリストクセノスの『回想録』に書かれた。アレクサンドロスの姿を最もよく表わした彫像は彫刻家リュシッポスの作品であり、アレクサンドロスはリュシッポスにだけ彫刻を作らせるのがよいと考えた。頸を軽く左に傾ける癖と目に潤いがあるという特徴があり、藝術家リュシッポスがこれを正確に捉えていた。首が左傾していたのは帝王切開により生れたのが原因である。アレクサンドロスの宮廷彫刻家リュシッポスは、この時代最高の青銅彫刻家であり、生けるがごとき写実的作風により有名で肖像彫刻に秀でた。アレクサンドロスの宮廷画家アペレスは、『アプロディーテ・アナディオメネ』『誹謗』で有名である。1800年の歳月を経て、ルネサンス時代、ボッティチェリは『海から上がるヴィーナス』を描く。
フィリッポスは、アレクサンドロスの天性が動かされ難く、強制には反抗し、理には服して、爲すべきことに向かうのを見て、命令よりは説得することを試みた。哲学者アリストテレスを招き、立派な報酬を払った。学問所として、緑深いミエザのニュンフの聖域を指定した。アレクサンドロスは、倫理学、政治学のみならず、哲学者たちが口伝(アクロアティカ)、秘伝(エポプティカ)と呼ぶ秘密の深奥の教えも受けた。アレクサンドロスはアリストテレスから医学、自然学を最も多く学んだ。天性、學問、読書を好んでいた。ナルテコス(茴香) の小筺の『イリアス』と呼ばれるアリストテレスの校訂本を携えて、つねに短剣と一緒に枕の下に置いていた。
アレクサンドロスは、遠征中、ペルシア帝国では手に入らない、エウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスの悲劇、哲学書、ディオニュソス讃歌の詩を、マケドニアから贈らせた。アリストテレスをはじめは讃嘆していたが、後に疑いを抱き、敵意を感じるに至った。アリストテレスの哲学は、自然界を、四つの原因、形相、質料、始動、目的によって分析したが、人間の行為を自然界の現象と同じように分析するアリストテレスの學問からは、事実の解明しか生れず、事実には何の価値もないと、考えるに至った。アレクサンドロスの知恵の渇望を、アリストテレスの学問は、満たすことはできなかった。
この世の果ての知恵の泉、生命の泉
この世の果てに眠る、知恵の泉、生命の泉。その泉を飲む者は、真の愛を見いだすことができる。そして、不滅の魂が目覚め、真の智慧に到達する、という書かれざる秘儀の教えがある。生命と智慧と愛がこの世の至上の価値である。アレクサンドロスは、知恵の泉、生命の泉を求めて、果てしない旅に出た。
★Alexander Mosaique
★アレクサンドロス(テッサロニキ考古学博物館) Alexander The Great,Thessalonike
★アレクサンドロス (テッサロニキ考古学博物館)
★参考文献、次ページ参照。
大久保正雄Copyright 2002.12.25

2016年7月16日 (土)

デルフィ、オイディプス王の悲劇

Ingres_odipus_and_sphinx大久保正雄『地中海紀行』52回デルフィ、アポロンの聖域 2
デルフィ、アポロンの聖域 オイディプス王の悲劇

運命の三叉路、スフィンクスの謎を解くオイディプス、コリントスから来た使者、羊飼い。
王妃イオカステは、真相を覚り、宮殿で自ら命を絶つ。
オイディプスは、王妃の黄金のブローチで目を突き、盲目となり、放浪の旅に出る。
若い日にみた、パゾリーニ『アポロンの地獄』。古代の扉を開いた。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■オイディプス王 
Οἰδίπoυς τύραννoς
オイディプス王の伝説は、デルポイの神託から始まる。
テーバイ王ライオスは「自らの子によって殺される」という神託を受ける。我が子が誕生すると、ライオスは羊飼いに命じてみどり児をキタイロン山中に棄てさせる。しかし不憫に感じた羊飼いは人手に渡し、その子はコリントス王家で育てられ、王子オイディプスとして成長を遂げる。コリントス王妃ペリボイアに子がいなかったからである。
三叉路
成長したオイディプスは、コリントス王ポリュボスは実の父ではないという噂を聞き、眞偽を確かめるためにデルポイに赴く。アポロンの神託は彼の問いには応えず、「オイディプスは父を殺し、母と交わる」という預言を受ける。神託の成就を恐れたオイディプスは、コリントスには帰らぬと心に決め、パルナッソス山の麓の道を辿り、運命に導かれて自らは知らぬ生まれ故郷テーバイへと向かう。テーバイからデルフォイに神託を受けに行く途上にあるライオスと運命の三叉路で出会い、道争いの諍いが起き、その旅人を父とは知らず殺害する。
スピンクスの謎
ライオスはプラタイアイの王ダマシストラトスによって葬られ、王国はクレオンが継いだ。ヘラがスピンクスを送った。スピンクスは、女の面をし、鳥の翼をもつ獅子である。ムーサから謎を教わり、ピキオン山上に坐し、テーバイに謎をかけた。「一つの声をもち、四足、二足、三足になるものは何か。」スピンクスは、謎を解けぬ者たちを攫い食べた。クレオンは、「この謎を解いた者に王国とライオスの妻を与える」と布告した。
オイディプスは、スピンクスの謎を解いて、スピンクスは山から身を投じ、テーバイの国を困難から解放する。王なきテーバイの救済者なったオイディプスは新たな王となり、知らずに母イオカステを妻とする。歳月が流れ、テーバイを疫病が襲う。オイディプスに、嘆願の小枝を身につけた、老いた神官が、国を襲っている疫病からの救済を嘆願する場面から、ソポクレス『オイディプス王』は始まる。『オイディプス王』の悲劇は、以下のような物語である。
ライオス殺害の真相を追究
デルフォイの神託によって、「惡疫の原因は先王ライオス殺害の血の穢れにある」と知らされたオイディプスは、ライオス殺害の真相を追究する。老いた盲目の予言者テイレシアスを問いつめ「王が殺害者だ」と聞き、さらにテイレシアスを侮辱して「オイディプスが先王ライオスの子であり、父を殺して、父の妃を妻としている」という予言を聞くにいたる。
コリントスの使者
コリントスから来た使者が到着して、コリントス王ポリュボスの死を告げるが、オイディプスがポリュボスの実の子ではない、ライオス王に仕える羊飼いから譲り受けたことを、明らかにする。この時、王妃イオカステは、真相を覚り、宮殿で自ら命を絶つ。
呼ばれた羊飼いは、コリントスから来た使者に問いつめられて、真相を語り、自分がライオス王の子をコリントスの使者に渡したということを、認める。オイディプスは、王妃の黄金のブローチで目を突き、盲目となり、放浪の旅に出る。
■ペロプスの呪い
テーバイ伝説、ソポクレス『オイディプス王』は、テーバイ王ライオスが受けたデルポイの神託を前提として始まる。神託の内容は「妃と交わり子を成すなかれ、もし子をなすならば自らの子によって殺される」であり、生まれた子は、王によって踝に孔を開けられ両足を縛られ、キタイロンの山峡に捨てられた。ライオスの子は、牧人に拾われコリントス王ポリュボスの家で育てられる。王妃ペリボイアに子がいなかったためである。「腫れた足」を意味するオイディプスは、やがてデルポイの神託を成就することになる。
だが、それに遡り、ライオスがデルポイの神託を受ける原因は、ペロプスの呪いである。テーバイ王ライオスは、若い時、ペロプス王の宮廷に亡命していた。ペロプスの美しい王子クリュシッポスに、戦車を駆る術を教えている時に、恋し思いを遂げたため、王子は悩み自殺した。ペロプスは王子の死を悲しみ、ライオスを恨みライオスに呪いをかけた。ペロプスの呪いがテーバイ王家の惨劇の原因である。復讐の成就、呪いの実現により、悲劇が生まれる。
(cf.ソポクレス『オイディプス王』『コロノスのオイディプス』『アンティゴネ』、アポロドーロス『ビブリオテーケー』3-5-5,7,8)
■旅路の果て
ペロプスの呪いが、テーバイ王ライオスを呪縛し死に至らしめ、オイディプス王を苦しめ、王妃イオカステは自害、縊死する。オイディプス王は、王妃の黄金のブローチで目を突き、盲目となり、放浪の旅に出る。旅路の果てに、老いたるオイディプスは、娘アンティゴネに手を引かれてコロノスに辿り着き、エリニュエス(復讐の女神たち)の聖所で終焉を迎えようとする。オイディプスは、我が子、エテオクレスとポリュネイケスを呪って死ぬ。テーバイの王権をめぐって、エテオクレスとポリュネイケスとが争い、ポリュネイケスと七人の将軍たちはテーバイを攻撃し、兄弟は死ぬ。
呪いは愛する者の復讐から生まれる。復讐は正義を実現する方法であり、ギリシア悲劇は愛と復讐のドラマである。自らの身に覚えのない呪縛を受けた身でありながら、運命を見つめ、運命と対峙し、耐えて生きたオイディプス。旅路の果てに、オイディプスが見たものは何か。
「人間にとってはこの世に生まれないことが幸せである。生まれたら早く去ったほうが幸せである。」(ソポクレス『コロノスのオイディプス』)という言葉は有名である。だがそれにもかかわらず、苦しみの深さに耐え、死の時まで、美と正義と善を追求して生きる人間の精神の中に、死すべき人間の尊厳がある。
★Jean-Auguste Ingres,Oedipus,1808,Louvre スフィンクスの謎を解くオイディプス
★デルフィの町
★デルフィ考古学博物館の糸杉
★【参考文献】
トゥキュディデス久保正彰訳『戦史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-72
ヘシオドス廣河洋一訳『神統記』岩波文庫1984
カール・ケレーニイ高橋英夫訳『ギリシアの神話 神々の時代』中央公論社1974
カール・ケレーニイ高橋英夫・植田兼義訳『ギリシアの神話 英雄の時代』中央公論社1974
アポロドーロス高津春繁訳『ギリシア神話』岩波文庫1953
ホメロス沓掛良彦訳『ホメーロスの諸神讃歌』平凡社1990
松平千秋、久保正彰、岡道男編『ギリシア悲劇全集』13巻、岩波書店1990-1992
高津春繁編『アイスキュロス、ソフォクレス』「世界古典文学全集8」筑摩書房1964
松平千秋編『エウリピデス』「世界古典文学全集9」筑摩書房1965
村田潔編『ギリシア美術』体系世界の美術5、学研1980
村田数之助『ギリシア美術』新潮社1974
ウェルギリウス泉井久之助訳『アエネイス』岩波文庫1976
アイスキュロス『エウメニデス』
ソポクレス『オイディプス王』『コロノスのオイディプス』『アンティゴネ』
エウリピデス『ポイニッサイ』『イオーン』
大久保正雄Copyright 2002.10.02

2016年7月15日 (金)

デルフィ、光り輝く(ポイボス)アポロン アポロンの悲恋

Delphi_charioteer_0Ookubomasao115大久保正雄『地中海紀行』第51回デルフィ、アポロンの聖域1
デルフィ、光り輝く(ポイボス)アポロン アポロンの悲恋

カスタリアの泉を飲む者は、ギリシアに帰ってくる。光り輝くアポロンの神域。
いのちの海の波間に漂う、生と死。
知恵の泉に辿りつき、不死の泉に到る。
高貴な精神のなすところは、すべて麗しい。
斷崖の下に、海が見える。糸杉に囲まれた、パルナッソス山の麓、
死すべき人間の運命を予言する、大地の源。デルフィ
瀧は崖をくだり、不死の泉が流れる。
光り輝くアポロン、癒しのアポロン、苦悩する人を救う神。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■デルフィ アポロンの聖域
デルポイは、パルナッソス山の麓、糸杉に覆われた、森嚴な幽邃の地、アポロンの神域である。デルフィは、古名デルポイ(デルフォイ)である。デルポイは、子宮を意味する。
パルナッソス山の南斜面に、デルポイ、アポロンの神域がある。深い谷が見える。斷崖の下にコリントス湾が見える。
糸杉に囲まれたデルポイの東南の斜面を上ると、シフノス人の宝庫跡、スパルタ人の宝庫跡、アテナイ人の宝庫がある。アテナイ人の宝庫はマラトンの戰いの後、勝利を記念して建てられた。パルテノン神殿を思い起こさせるドーリア式の柱が美しい。聖なる道を上って行くと、その上に、大祭壇があり、アポロン神殿がある。アルカイック期の建築であり、礎石の上に6本の柱のみが殘っている。アポロン神殿遺跡の上に円形劇場があり、さらにその上にローマ時代の競技場(スタディオン)がある。糸杉に囲まれ森閑とした聖域である。
デルポイの地に立つと、古代の神秘、聖なる息吹を感じる。デルポイは、紀元5世紀、テオドシウス2世の命令で、ローマ帝国によって破壊され、19世紀にフランス隊によって発掘されるまで土の中に埋もれ、千四百年の眠りから目覚めた聖域である。
■デルポイ、世界の中心 オンパロス(臍)
デルポイはギリシア人が世界の中心と考えた土地である。ギリシアのみならず、地中海のほとり各地から、オリエントからもアポロンの神託を求めて、地中海を航海し、古代の港キラに辿り着き、この地に旅して来た。コリントス湾の入江をはるかに見下ろす、デルポイは異国人たちが集まる場であり、地中海世界の情報が流れ着く地であった。有名な大地の臍(オンパロス)が、アポロンの神域にあった。アイスキュロス『エウメニデス』に「大地の中心をしめすオンパロス(臍)」と記されている。
ディオニュソスの秘儀の中心地
デルポイとは、デルポス(子宮)の複数形である。デルポイの古名はピュートーと呼ばれ、アポロンが退治した蛇の名であり、蛇の聖域であった。アリストテレス『哲学について』は、デルポイをピュートーと呼んでいる。また、ピユティアとも呼ばれる。またこの地は、トラキア・マケドニアから伝来したディオニュソスの秘儀の中心地の一つであった。
■神聖戦争
デルポイの富と聖域の支配権をめぐり、聖域が占拠され、神聖戦争が行われ、争奪の的となった。デルポイのアポロン神殿と聖域を守る隣保同盟(アンピクテュオネス)が、アポロン神殿領域を侵す者と戦った戦争が、神聖戰爭である。紀元前6世紀、紀元前5世紀、紀元前4世紀、3次に及んで、神聖戰爭が起きた。
紀元前586年、デルポイで、第1回ピュティア祭競技会がはじまった。全ギリシアから人々が集まり、アポロンの祭礼、競技会、音樂競技が行われた。紀元2世紀、『英雄伝』の著者プルタルコスは、デルポイの神官を勤めた。4世紀テオドシウス1世は、異教禁止令を布告、異教の供犠と祭式を彈圧、テオドシウス2世は、異教神殿破壊令を公布する。デルポイの神託は4世紀以後行なわれなくなり、千年以上に亙って行われたアポロンの神託は滅びた。
■デルフィ考古学博物館
デルフィ考古学博物館には、古代ギリシア美術の傑作がある。アルカイック期の作品には、「クレオビスとビトンの像」、「ナクソス人のスピンクス」、2体の女人柱(カリアティデス)が正面を支える優雅なイオニア式の「シフノス人の宝庫」がある。厳格様式時代の作品には、「デルポイの御者」がある。「デルポイの御者」は、シケリア島ゲラのポリュザイロスがデルポイに奉献したもの、静から動に移る瞬間の静寂を刻む。厳格様式の傑作である。ローマ時代の作品には、「プルタルコス像」がある。デルフィ考古学博物館にある「オンパロス」は、紀元前3世紀の複製であり、アポロンの神域にあるオンパロスは、ローマ時代の複製である。
■アポロン神殿
アポロン神殿遺跡は第5神殿であり、現在6本の柱のみが残る。紀元前548年、アポロン神殿が炎上した。紀元前530年、アテナイの貴族クレイステネスはデルフォイにアポロン神殿を奉献した。アポロン神殿は、東前面はパロス産大理石を用いて作られたが、他の部分は石灰岩を用いて作られた。神室内に託宣所(アデュトン)が組み込まれた。地下に大地の子宮のような地下神殿があった。アテナイ人の宝庫(テサウロス)は、マラトンの戦いの勝利を記念して建てられた。ドーリア式の柱が美しい。
■「汝自身を知れ」ソロンの言葉
アポロン神殿には「汝自身を知れ」という言葉が刻まれていた。ソクラテスは問答によくこの言葉を用いた。自己自身を探求する哲学の使命を表わす古代からの箴言である。 (cf.アリストテレス『アテナイ人の国制』19、ヘロドトス『歴史』第2巻180、第5巻62)
■アポロンの神託
デルポイは、オイディプスの父ライオス王に神託を下し、オイディプスに神託を下し、アトレウス家のオレステスに復讐を遂げることを命じて庇護し、ペルシア戰爭の時アテナイ人がこの地で神託を受けサラミスの海戰の暗示を受けて勝利、ソクラテスの友カイレポンに「ソクラテスより知恵ある者はいない」と神託を下した地である。
ピュティア(巫女)は、香り高い没藥の煙立つ神殿で、鼎の台座に坐り、アポロンの託宣を、自らの口を通して伝える。アポロンの神託を伺う者は、神殿の前で供物を捧げ、祭壇に近付き、生贄の羊を捧げ、生贄の羊の喉を切り裂き、祭壇に血を濯ぎ、内陣に入る。デルポイのアポロン神殿に仕えるピュティア(巫女)は、カスタリアの泉で身を清めて、神託伝授の役を勤めた。カスタリアの泉は、古代より清めの力が信じられている。(cf.ソフォクレス『アンティゴネ』,エウリピデス『ポイニッサイ』,エウリピデス『イオーン』)
人間は、人知を尽くして、理智的な判断を組み立て、行動する。だが人が考えた通りにすべてが運ぶとは限らない。人は、成功しない時、自分の判断、思考が誤っていたと考える。だがギリシア人は知っていた。「成功、不成功を決めるのは、必ずしも能力と努力ではなく、運が決める」。成否を決めるのは、偶然なのだということを知った時、人は運命を占うことしかできない。ソクラテスは言った。「右に行くべきか左に行くべきか、考えれば判断できる時に、神託に尋ねる必要はない。だがあらゆる事を考慮してなお結論を導くことができない時、あらゆる努力を尽くした時、運命に委ねるしかない。」*クセノフォン『ソクラテスの思い出』

★アポロンの神話
■遠矢射るアポロン、ポイボス(光り輝く) アポロン、パイアーン(癒しの神) アポロン
アポロンは、予言と音樂、學藝の神である。遠矢射るアポロンと呼ばれ、弓と竪琴を持っている。ゼウスとレトの子である。アポロンは、ポイボス(光り輝く)、パイアーン(癒しの神)と呼ばれる。アポロンの聖地は、デロス島とデルポイである。アポロンは、「ポイボスは、デロス島から、アテナ女神の支配する入り江に着き、パルナッソスの山間に来た。」(アイスキュロス『エウメニデス』)
ゼウスと交わったレトは、ヘラの嫉妬を受け迫害された。ゼウスと交わったレトはヘラによって大地のあらゆる場所に追われ、デロス島でアルテミスを生み、アポロンを生んだ。アルテミスは狩猟を司り、処女として身を守り、アポロンはパンから予言の術を学び、デルポイに来た。テミスの神託を守護していた蛇のピュトンが大地の裂け目に近づくのを遮り、退治し、神託を司った。
■アポロンの悲恋 ダプネ、カッサンドラ
アポロンの恋は常に悲劇的である。アポロンは、ダプネに恋したが、ダプネはアポロンの愛を拒んだ。アポロンがダプネを追うと、ダプネは、月桂樹に変身し、拒否した。  
アポロンは、またトロイのカッサンドラに恋し、予言の術を教えたが、カッサンドラはアポロンの愛を拒んだ。アポロンは、このため、カッサンドラの予言が誰にも信じないようにさせた。トロイ人たちは木馬を城内に入れてはならないとするカッサンドラの予言を聞かず、トロイの城はギリシア人に攻撃され、カッサンドラは不幸になった。
■ベルニーニ『アポロンとダプネ』
ローマのボルゲーゼ美術館に、ベルニーニ『アポロンとダプネ』がある。この彫刻の美しさは、言葉では語りえぬほどであり、ベルニーニの技量は神業である。『アポロンとダプネ』は、美の極致であり、我々の魂を、この世の暗闇から、瞬時、美の世界へ奪うのである。アポロンとアポロンの愛を逃れようとして樹木に変身するダプネの宿命と、渦まく情念のほとばしりが、上昇するうねりの中に形象化され比類なく美しい。
ギリシア人がトロイア人に木馬を送った時、カッサンドラと予言者ラオコーンは、木馬の中に武装した兵が隠れていると、言ったが、トロイア人たちは神への供物として、生贄の儀式を準備し、宴を張ろうとした。アポロンは、アポロン神殿で愛に耽ったラオコーンに復讐するため、蛇を送った。二匹の蛇が海を渡り、ラオコーンの2人の息子を喰い、ラオコーンを殺した。
■ヘレニズム彫刻の傑作『ラオコーン』
ロドス島の3人の彫刻家によって作られたヘレニズム彫刻の傑作『ラオコーン』がある。紀元前3-2世紀リンドスの三人の彫刻家ハゲサンドロス、ポリュドロス、アタノドロスによってリンドスの工房で作られた。この彫刻は、1506年1月14日、エスクィリヌスの丘、ネロの黄金宮殿(ドムス・アウレア)跡から発見された。
ラオコーン群像は、現在、ヴァティカン宮殿ベルヴェデーレの中庭に置かれている。プリニウス『博物誌』によれば、ティトゥス帝(AD79-81)の宮殿に置かれていた。ペルガモン王国のために作られ、ローマ人によってローマに運ばれた、ヘレニズム彫刻の傑作である。一匹の蛇が我が子を殺し、一匹の蛇がラオコーンの脇腹を噛み、ラオコーンの身体中に激痛が走る瞬間を、凍れる大理石の中に刻み、激情は時の流れを超えて止められた。ミケランジェロはこの作品を見て霊感を受けた。激情を湛えるラオコーン群像は、古代のバロックである。ヘレニズムのバロックが千八百年の時の流れを超えて蘇り、16世紀ルネサンス、バロックの藝術家とまみえることになったのは、運命という他はない。
*「ベルヴェデーレのアポロン」レオカレス原作 バチカン博物館
*「蠍を殺すアポロン」
★Delfi Charioteer デルポイの御者 デルフィ考古学博物館
★デルフィ アテナ・プロナイア神域
★アポロン神殿
★パルナッソス山 ファイドリアデスの岩壁
★デルフィ 円形劇場
★参考文献、次ページ参照。
大久保正雄Copyright 2002.10.02

2016年7月14日 (木)

変人皇帝たちの宴 狂帝カリギュラ 殺戮を好む学者皇帝

Foro_romano_2016_2大久保正雄『地中海紀行』第50回変人皇帝たちの宴2
変人皇帝たちの宴 狂帝カリギュラ 殺戮を好む学者皇帝クラウディウス

エレウシスの秘儀においては「精神の清淨潔白を自ら感じざる者はこの神聖な領域に入ってはならぬ」。至聖所 (アバトーン)である。
皇帝宮殿、元老院は「精神の淨らかなる者」は立ち入ることはできない。
傲慢と残忍にまさるとも劣らぬ嫉妬心と惡意で、あらゆる人を攻撃するカリギュラ。
カリギュラは、妻や愛人の首に口づけしながら、「この美しい首も、私の命令一つですぐに飛ぶのだ」。殺戮を好む陰鬱な学者皇帝クラウディウスは、今も存在する。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■狂帝カリギュラ 29歳で親衛隊により暗殺
陰鬱で殘忍なティベリウス帝の死後、民衆は狂喜して、若いカリギュラを迎えた。
紀元37年3月18日、ガイウス帝(狂帝カリギュラ)が即位した。24歳である。即位した年の10月カリギュラは病に倒れ、死に瀕した。猜疑心に駆られた皇帝は、親衛隊長官マクロ夫妻に自殺を命じた。以後、残虐な皇帝に豹変した。
カリギュラは、ゲルマニクスとアグリッピナの子である。父ゲルマニクスはアントニアの子であり、アグリッピナはアグリッパの子である。カリギュラは、自分の母アグリッピナと兄弟を祖父ティベリウスに殺された。カリギュラの父ゲルマニクスは、ティベリウスが奸策を弄し、シリア総督グナエウス・ピソの手で殺された。(cf.スエトニウス『カリギュラ』2)ゲルマニクスは、心身両面であらゆる美点をもち、端正な容貌と、優れた勇気、ギリシア語とラテン語の雄弁と学識の卓越した才能、他人への比類ない温かさを持っていた。ゲルマニクスは、身内の者から眞価を認められ、深く愛された。そして、民衆からも心を寄せられた。ゲルマニクスは、マルクス・アグリッパとユリアの娘アグリッピナを娶った。
カリギュラは、祖母アントニアの家で育てられていた時、妹たちすべてと肉体関係をもった。ユリア・アグリッピナ、ユリア・ドルシラ、ユリア・リウィラである。なかでもドルシラを最も愛したが、38年ドルシラは21歳で亡くなった。カリギュラは、レピドゥスの裁判で、二人の妹を反逆罪で追放刑に処した。
カリギュラは、四度結婚した。20歳の時、ユニア・クラウディアと結婚したが産褥で母子ともに死亡。即位した37年に出席した結婚披露宴で新婦リウィア・オレスティラを見初め離婚させ、自分の妻にするが、新妻を数日で離婚。三度目は人妻ロリア・パウリナを祖母が絶世の美女であることを聞いて属州から呼び寄せ結婚したが、再び離婚。二度と男と寝てはならぬと命じた。四度目は三児の母ミロニア・カエソニアである。カエソニアは、とくに極立った美貌でもなく青春の盛りを過ぎ、贅沢と放蕩で退廃していたが、最後まで愛し、皇帝は友人には裸にして見せたほどである。彼女との間に生れた娘をユリア・ドルシラと名づけた。最愛の妹の名である。カリギュラは、妻や愛人の首に口づけしながら、そのたびにこう言った。「この美しい首も、私の命令一つですぐに飛ぶのだ」
■売上税、大逆罪、財産没収
皇帝カリギュラは、ティベリウスの残した27億セステルティウスの莫大な遺産を、一年経たぬうちに使い果たし、皇帝金庫を空にした。蕩尽して金がなくなったカリギュラは、不正な告発、競売、間接税、手の込んだ様々な方法を考案した。あらゆるものに税をかけた。あらゆる売上に税をかけ、無実の富裕な者を告訴し有罪判決を下し財産を没収した。剣闘士競技、贅を尽くした宴会に蕩尽した。告発屋の告発が頻発し、大逆罪による裁判、有罪判決による財産没収が行われ、富裕な貴族、元老院議員は恐怖に陥れられた。皇帝カリギュラは、「傲慢と残忍に勝るとも劣らぬ嫉妬心と惡意で、あらゆる時代の人を攻撃した。」元老院議会は、皇帝に媚びへつらい、誰も食い止める者がいなかったので、殺害するしかなかった。
41年1月24日、カリギュラは、パラティヌスの丘で、親衛隊副官カッシウス・カエレアの剣によって突き刺されて死んだ。29歳。統治3年2か月であった。カリギュラが暗殺された時、ミロニアとの間に生れた娘ユリア・ドルシラは、宮殿の壁に投げつけられて殺害された。妻ミロニアも百人隊長により処刑された。
カリギュラはラミア庭園に埋められた。後日、カリギュラに追放された妹たち、アグリッピナ、リウィラが、追放地から帰ってきて、遺骸を掘り起こし葬った。
(cf.スエトニウス『皇帝伝』第3巻、タキトゥス『年代記』2巻,6巻)

■愚昧帝クラウディウス 
皇妃アグリッピナ、皇帝の好物の茸に毒を盛る。羽毛で毒殺
クラウディウスは、殺戮を好んだ陰鬱な学者皇帝。
カリギュラが、親衛隊副長官によって殺害された時、ヘルメスの館と呼ばれる離れに籠り、テラスに出て、カーテンの影に身を隠していたクラウディウスは、親衛隊兵士によって親衛隊兵舎に連れて行かれた。クラウディウスは、インペラートルの歓呼を受け、忠誠の誓いを受け、兵士に一人一人に1万セステルティウスの賜金を約束した。元老院による承認を受け、41年1月24日、クラウディウス帝は即位した。50歳である。
歴代の皇帝の中で、軍隊の忠誠を手に入れるために賄賂を使ったのはクラウディウスが最初である。クラウディウスは、紀元前10年8月1日、リグドゥヌム(リヨン)で生れた。父はアウグストゥスの妻リウィアの連れ子ドルスス(ティベリウスの弟)、母はアントニア、アントニウスの娘(妹)である。
■学者皇帝クラウディウス
クラウディウス帝は、母アントニアが「人間の姿をした怪物」と呼び憎むほど、肉体も精神も虚弱で、笑うと下品になり怒ると口から泡を飛ばし鼻水を垂らした。生まれつき残忍で血を好んだ。知能は優れていたが家族にはそう思われず、世の中の目から隠された。しかし学問を好み、歴史家リウィウスを師として、ギリシア語で歴史書『エトルリア史』20巻、『カルタゴ史』8巻を書いた。ギリシア語図書館ラテン語図書館を建築し、アレクサンドリアの図書館を改築した。クラウディウスは、アントニアにまったく愛情を注がれず、醜い容貌と愚昧さのため皇位継承者の候補から外されていた。クラウディウスは、飲酒と、賭け事、女遊びに慰めを見出した。
■クラウディウス銅板
クラウディウスは、イタリア人のみに限られていた元老院議員職を、元老院議員たちの抵抗を斥けて、属州にも解放した。(cf.タキトゥス『年代記』第11巻23-25) 48年の元老院におけるクラウディウス演説が「クラウディウス銅板」としてリヨンに殘っている。この結果、トラヤヌス帝時代、ハドリアヌス帝時代、ヒスパニア系人脈が皇帝、執政官を占め、セヴェルス朝時代は、アフリカ系人脈、シリア系人脈が皇帝に即位することになる。  
■皇妃メッサリナ
クラウディウスは、生涯に4人の妻を娶った。プラウティア・ウルグラニア、アエリア・パエティナ、ウアレリア・メッサリナ、ユリア・アグリッピナである。ウルグラニアは情欲と殺人の嫌疑で離婚した。皇后メッサリナは惡女として有名で、皇帝が寝静まると売春宿に向かい、淫欲を燃やした。のみならずメッサリナは若き貴族ガイウス・シリウスと結婚式を挙げた。48年皇后メッサリナは不義密通によって死刑に処された。
■皇妃アグリッピナ
メッサリナの死によって皇帝官房の解放奴隷のたちは、皇妃の選択をめぐって争った。女たちは、自分の高貴と美貌と財産を張り合い、誇った。魅力的なアグリッピナは、接吻する権利と誑かす機会を利用して、クラウディウスを愛の虜にした。叔父と姪の結婚は近親相姦であるとみなされていたが、48年姪のアグリッピナと結婚する。アグリッピナがクラウディウス帝の新しい后になる。49年アグリッピナは流刑8年のセネカをコルシカ島から呼び戻し、12歳の息子ネロの教育を委ねた。
クラウディウスは、極度に、陰謀を警戒し、皇帝に対する反逆罪で、35人の元老院議員と三百人の騎士を処刑した。
54年10月13日、クラウディウス帝は死ぬ。アグリッピナが、我が子ネロを帝位に就かせようと企み、皇帝の好物の茸に毒を盛った。だが吐瀉したので、侍医クセノポンを呼び、毒を塗った嘔吐用の羽毛を突っ込んで毒殺した。
(cf.スエトニウス『皇帝伝』第4巻、タキトゥス『年代記』11巻12巻)
■競争の果てに、悪が繁栄
内乱の時代を制したアウグストゥスは、私利私欲を追求して、権力闘争を繰り広げ、最高権力を手に入れた。アウグストゥスは、軍隊を金で、民衆を穀物の無償配給で、世界を平和の甘美によって、籠絡すると、着々と地位を高め、皇帝の地位を掌握した。大胆不敵な貴族は、戰死したり、公敵宣言を受けて倒れた。生きのびた者たちは、屈従を示そうとする熱意に応じて、富と名譽によって、優遇された。
競爭が激化すると、競爭の結果、生き殘る者は優れた者ではなく、最惡の者が生き殘る。何故なら優秀な人物は、真先に嫉妬によって抹殺されるからである。最も激しい競爭の結果、最低の人間が生き殘る。
「この時代は、道徳的に退廃し、阿諛と追従で汚れていた。指導的な地位にある市民は、自分の名声を保つため、屈従する以外に方法を知らなかった。嘔吐を催すような法案を可決していた。ティベリウス帝は元老院議場から退席する時、いつもギリシア語でこう呟いていた。『いつでも奴隷になり下がろうとしている人々よ。』国家の自由を欲しなかったティベリウスといえども、平身低頭する議員の奴隷根性を嫌惡していた。」(cf.タキトゥス『年代記』3巻65)

皇帝は、破綻した国庫、皇帝金庫を建て直すため、冤罪で富裕な者たちを処刑し、財産を没収した。元老院議員は、私利私欲のために、友人を反逆罪で告発した。殘酷な命令、終わりなき告発、偽りの友情、高潔な人の破滅、必ず断罪に至る裁判が絶え間なく行われた。帝都ローマは初代皇帝の時代から腐敗の都であった。エレウシスの秘儀においては「精神の清淨潔白を自ら感じざる者はこの神聖な領域に入ってはならぬ」と禁じられていたが、皇帝宮殿、元老院は「精神の淨らかなる者」は立ち入ることはできなかった。
殘虐な皇帝たちは、反逆罪による告発、死刑、財産没収によって、暴虐の限りを尽くした。ネロが、皇帝一族、支配階級の虐殺を行ったため、ユリウス・クラウディウス家の血は絶え、支配階層の政権交代が起った。だが皇帝たちによって殺されたのは、上層階級、特権階級であり、民衆は彼らの死を悲しみ、暗殺者の死を要求した。カリギュラ、ネロの墓には、花束が絶えなかった。
★皇帝アウグストゥス
★パラティーノの丘からみるフォロ・ロマーノ
★参考文献
スエトニウス國原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上下、岩波文庫1986
タキトゥス國原吉之助訳『年代記』岩波文庫1981
タキトゥス國原吉之助訳『同時代史』筑摩書房1996
國原吉之助訳『タキトゥス』世界古典文学全集22、筑摩書房1965
ペトロニウス國原吉之助訳『サテュリコン』岩波文庫1991
E・ギボン中野好夫訳『ローマ帝国衰亡史』全10巻 ちくま学芸文庫 1995
南川高志『ローマ皇帝とその時代 元首政期ローマ帝国政治史の研究』創文社1995
南川高志『ローマ五賢帝 輝ける世紀の虚像と実像』講談社現代新書
南川高志『新ローマ帝国衰亡史』岩波新書2013
南川高志『ユリアヌス 逸脱のローマ皇帝』2015
青柳正規『古代都市ローマ』中央公論美術出版1990
青柳正規『皇帝たちの都ローマ』中公新書1992
新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』講談社2000
クリス・スカー月村澄枝訳『ローマ皇帝歴代誌』大阪創元社1998
アントナン・アルトー『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』(1934)
ステュワート・ペローン『ローマ皇帝ハドリアヌス』河出書房新社2001
藤原道郎『物語イタリアの歴史 II 皇帝ハドリアヌスから画家カラヴァッジョまで』中公新書2004
マルグリット・ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』多田智満子訳、白水社
鶴間和幸『人間・始皇帝』岩波新書2015
エウジェニア・リコッティ武谷なおみ訳『古代ローマの饗宴』平凡社1991
大久保正雄Copyright 2003.02.26 2016年7月12日

2016年7月13日 (水)

変人皇帝たちの宴 陰鬱帝ティベリウス

Ookubomasao128大久保正雄『地中海紀行』第49回変人皇帝たちの宴1
変人皇帝たちの宴 陰鬱帝ティベリウス

地位と財産は人を狂わせる。嫉妬により処刑命令を下す者たち。
初代皇帝アウグストゥス、妃リウィアに無花果に毒を盛られて死ぬ。復讐である。*1
紺碧の海、カプリ島の断崖に屹立するヴィラ、叙事詩の研究に没頭しながら、処刑命令を下す、ティベリウス。富裕層の阿諛追従を嫌悪。*2
愛欲に溺れ、貴婦人たちを弄ぶ、カリギュラ。*3
丘の上、宮殿に閉じ籠もる、クラウディウス、殺戮を意好む学者皇帝。妃に殺害される。*4
黄金宮殿を築き、ギリシア彫刻にかこまれ、詩を書いた詩人皇帝ネロ。*5
地中海を旅する皇帝ハドリアヌス。第14代皇帝。思い出を封じ込める、ヴィラ・アドリアーナ。*
薔薇の饗宴。孔雀の舌、駱駝の踵、雉の頭。第23代、皇帝ヘリオガバルスの宴。*
嫉妬により処刑命令を下す皇帝たち。愛に耽溺した、変人皇帝たち。
愛する人の面影は、時の彼方に、虹のごとく、愛は血を流して、死に絶える。
ギリシアを愛した皇帝たち。秘められた愛。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■変人皇帝たちの宴
ローマ皇帝たちは偏奇な才人に満ちあふれている。陰鬱帝ティベリウス、狂帝カリギュラ、愚昧帝クラウディウス、詩人皇帝ネロ。欲望の赴くままに、愛欲を追求し、美に溺れた変人皇帝たち。己の意志を妨げる者は虐殺する、最高権力者の止まることを知らぬ欲望。
フィレンツェ人、ルネサンス人は、偏奇と華美を探求したが、その飽くことなき美の追求の精神の根底には、変人皇帝たちの宴が生きている。美酒と美食と美女を愛する、イタリア人の精神の源泉は、惡虐な皇帝たちの生活様式にある。
皇帝たちは、宴にあけ暮れ、美酒と美食を飽きるまで貪り、美女たちを弄び、猟色をくりひろげた。美食を追求し、飽食すると、医師に命じて鳥の羽で嘔吐して「食べるために吐き、吐くために食べる」。建築に狂い、皇帝財庫、国庫を蕩尽し、破綻した財政を再建するため、富める者たち、貴族たちを、国家反逆罪で告発し、有罪判決を下して処刑、財産を没収するのが常套手段であった。元老院議員たちは自らの地位を守るため、皇帝に阿諛追従した。
皇帝アウグストゥス 皇妃リウィアに無花果に毒を盛られて死ぬ。リウィアの復讐である。
皇帝アウグストゥスは、「十二神の饗宴」と呼ばれる宴会を催し、アポロンの如く着飾ったと、アントニウスは書き嘲笑した。アウグストゥスは青いいちじくを好んで食べた。アウグストゥスは、皇妃リウィアに無花果に毒を盛られて死んだ。皇妃リウィアは、ティベリウスに皇位を継がせるために毒を盛った。
狂帝カリギュラ
剣闘士競技と戰車競技と雄弁術を磨き、饗宴に溺れた皇帝カリギュラ。カリギュラは眞珠を酢に溶かして飲み、賓客に黄金のパンと菜食を供した。カリギュラが手を出さなかった上流の貴婦人は一人もいなかった。貴婦人を晩餐に招き、自分の足先を通る女を眺め、奴隷商人のごとく品定めした。美人を別室に呼びつけ再び食卓に戻ると、女の体と閨房の振舞いの美点と欠点を一つ一つあげ、譽めたり貶したりした。近親相姦、人妻との情事、同性愛、皇帝は、あらゆる愛欲の追求を行った。
愚昧帝クラウディウス
クラウディウスは茸(きのこ)を好み、皇妃アグリッピナに好物の茸に毒を盛られたが、嘔吐したので、皇妃は鳥の羽に毒を塗らせ、喉を衝いて死に至らしめた。
詩人皇帝ネロ
戦車競技と竪琴に溺れた詩人皇帝ネロ。ネロは、弟ブリタニクス、母アグリッピナを殺し、妃オクタウィアを殺した。オトの妻、美貌の貴婦人ポッパエアと結婚したが、妊娠中に踵で蹴り殺した。ポッパエア死後、クラウディウスの娘アントニアは、ネロとの結婚を拒否すると、国家反逆罪で、殺害される。夫を執政官在任中に殺害して、スタティリア・メッサリナと結婚する稀代の建築狂であり、広大な黄金宮殿を建て、ネロポリス建設を夢みて、国庫を蕩尽する。破綻した国庫を、富裕な貴族を国家反逆罪で有罪にして死刑に処し、財産を没収した。皇帝一族のうちネロの犯行で破滅しなかった者は一人もいない。
皇帝ヘリオガバルス
シリア人皇帝ヘリオガバルス(エラガバルス)は、孔雀の舌、鶯の舌、駱駝の踵、雉の頭を食卓に用意させた。Cf.アントナン・アルトー『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』。
皇帝ティベリウス 貴族たちの阿諛追従を嫌惡
ティベリウスは、カプリ島に閉じ籠ったが、権謀術数うずまくローマから逃避するためであった。ティベリウスは、貴族たちの阿諛追従を嫌惡し、皇太后リウィアの支配を厭い、十年間ナポリ湾にのぞむカプリ島の別荘に籠り、淫靡な遊びに耽りながら、処刑命令を下した。
(cf.スエトニウス『皇帝伝』第1-5巻『アウグストゥス伝』『ティベリウス伝』『カリギュラ伝』『クラウディウス伝』『ネロ伝』)

■パラティヌスの丘 皇帝宮殿
内乱の時代、紀元前1世紀、カエサル、ポンペイウスは、パラティヌスの丘に住み、館を建てた。ポンペイウスの死後、アントニウスは、ポンペイウスの家を購入した。カエサルの家は、アウグストゥスが相続し、以後、皇帝家に受け継がれる。アントニウスの家は二人の姉妹アントニアに受け継がれ、アントニアの孫カリギュラは、父ゲルマニクスが死んだ後、三人の妹たちとこの丘に住んだ。アントニアの家に、エジプト人や、ユダヤ王ヘロデス・アグリッパスが訪れた。ティベリウス帝は、この丘にドムス・ティベリアーナ(ティベリウス宮殿)を建てたが、カプリ島の別荘に隠遁し、死ぬまで島に留まる。
ネロ帝は、首都が炎上した後、エスクィリアエの丘に広大な黄金宮殿(ドムス・アウレア)を建て、巨大な池を作った。残虐な皇帝ドミティアヌスは、この丘に、皇帝宮殿(ドムス・アウグスターナ)を建て、セプテミウス・セヴェルス帝は、パラティヌスの丘の下に、三層の列柱廊と巨大な壁龕からなるセプティヅォニウムを建て、ヘリオガバルス帝は、神殿エラガバリウムを建てる。かくして、パラティヌスの丘は、広大な皇帝宮殿の複合建築を構成した。
トラヤヌス帝時代、ローマには11の水道橋があり、1300の噴水があふれていた。コンスタンティヌス帝時代、コンスタンティノポリス遷都後、ローマは、世界の首都ではなくなったが、テヴェレ川に8つの橋がかかり、19の水道橋が城壁の彼方の田園につらなり、無限の水路が重層するアーチの上を流れていた。
異民族の侵入により水道橋が破壊され丘の上に水が供給されなくなり、パラティヌスの丘の皇帝宮殿は廃墟となり、再び蘇ることはなかった。

■皇妃リウィア 仮面の美貌
皇妃リウィア、皇帝アウグストゥスに無花果に毒を盛って殺害。
皇帝アウグストゥス
オクタウィアヌスは、紀元前38年1月リウィア・ドルシラを、ティベリウス・クラウディウス・ネロの妻であったが、リウィアが2人目の子を身籠っていたにもかかわらず、屋敷に連れ込み、結婚した。略奪婚であった。リウィアは気に染まなかった。
リウィア・ドルシラは、淫蕩なオクタウィアヌス(アウグストゥス)の多情多淫に寛大で、広い心の持主といわれた。だが彼女は暗い影に彩られ、殺人と陰謀の疑惑がある。我が子ティベリウスを帝位につけるため、マルケルス、ガイウス・カエサル、ルキウス・カエサルを死に至らしめたと囁かれた。アウグストゥスの孫ガイウスとルキウスが夭折したため、ユリウス家の血は絶えた。皇后リウィアは、夫アウグストゥス帝が極秘に最後の孫アグリッパ・ポストゥムスをプラナシア諸島に訪問した時、アグリッパ・ポストゥムスが帝位を継承するのを恐れた。アウグストゥス帝は無花果を好み、樹の枝からとって食べるのを知っていたので、リウィアは、無花果に毒を塗って毒殺した。リウィアは、皇帝に復讐を遂げたのである。
ティベリウスとリウィアは、二人とも怨んでいたアグリッパ・ポストゥムスを急遽、暗殺した。百人隊長が、「命令どおり実行しました」と報告すると、ティベリウスは、「予は命じた覚えはない」と応えた。リウィアは、アウグストゥス帝死後、15年生き、紀元29年、86歳で死んだ。

■陰鬱帝ティベリウス 後継者争いを避け、ロドス島とカプリ島に隠遁
「死すべき者は、すべて儚い。人間は地位が高くなるほど、足元が滑りやすくなる」ティベリウス
ティベリウスは、パラティウムの丘に、ティベリウス・クラウディウス・ネロとリウィア・ドルシラとの間に生れた。4歳の時、リウィア・ドルシラはオクタウィアヌスと結婚する。
ティベリウスは、ウィプサニア・アグリッピナと結婚し心から愛していたが、アウグストゥスに娘ユリアと結婚することを強要され、泣きながら離婚した。紀元前6年、36歳の時、ユリアに倦み、後継者争いの暗闘を避け、ロドス島に隠遁した。皇帝の娘ユリアは淫乱で、常に愛欲を貪っていた。ティベリウスは、隠遁してから8年目、紀元2年帰国した。エスクィリアエの丘のマエケナスの庭園に移り、閑雅な暮らしに没頭した。アウグストゥスは、ティベリウスを皇位継承者に指名するが、ティベリウスが残忍な性格であることを知っていた。自らの名声が後世に高まるように、残忍なティベリウスを皇位継承者にした。
ティベリウスは、紀元14年即位した。国父(パテル・パトリアエ)という称号を民衆から何度も歓呼されたが、これを拒絶した。「死すべき者は、すべて儚い。人間は地位が高くなるほど、足元が滑りやすくなる」だがティベリウスは、市民の心からの信頼を得られなかった。なぜなら反逆罪(lex majestatis)を復活させたからである。
カエサルとアウグストゥスは、都市ローマを再建するために建設事業に国庫を浪費したため、ティベリウスが皇帝位についた時、国家財政は破綻していたが、ティベリウスは、それを知らなかった。
19年、將軍ゲルマニクスは東方遠征中、急死する。ゲルマニクスの死は、シリア総督グナエウス・ピソを通じてティベリウスが仕掛けた殺害である。ゲルマニクスの名聲にティベリウスが嫉妬したためである。
23年ティベリウスの子、ドルススが死ぬ。ウィプサニアとの間に生れた愛しき子である。27年ティベリウスは、カプリ島に隠遁する。阿諛迎合する貴族たちを嫌い、母リウィアの支配を嫌ったためである。隠遁するとティベリウスは人目を欺いてきた悪徳を開花させた。28年、親衛隊長官セイヤヌスの奸策により、アグリッピナ(ゲルマニクスの妻)とその子ネロを追放する。翌年、ゲルマニクスの子ドルススをパラティウムの最奥の部屋に幽閉、死に至らしめる。29年ティベリウスの母、皇太后リウィアが死ぬ。31年ティベリウスは、アントニアの手紙によって、セイヤヌスの反逆を知り、セイヤヌスを処刑する。セイヤヌスの妻アピタカの遺書によって、皇帝の子ドルススの死が、親衛隊長官セイヤヌスとドルススの妻による毒殺であることが発覚した。セイヤヌスの友人たちを虐殺、粛清した。ティベリウスは猜疑心に取り憑かれ、皇帝に対する反逆を大逆罪として、告発された人々を処刑、財産を没収する。財産没収に熱意を燃やし、ティベリウスを遺産相続人にするよう強要し、富豪たちは裁判で有罪に処された。大逆罪裁判が頻発、告発屋(デラートル)が跳梁跋扈する。ローマは恐怖政治に戰慄する。
ティベリウスは、ギリシアとローマの教養を熱心に身につけ、研鑚を積み、ギリシア語を流暢に話し、ギリシア語で詩を作った。ティベリウスの文体は、彫心鏤骨、晦渋に陥った。神話学の知識を誇り、文献学者に質問して学識を試した。「ヘカベの母は誰か」「アキレウスは乙女たちとともに暮らしていた時は何という名か」など難問を問うた。ティベリウスは、愛玩用の蛇を一匹飼って樂しんでいた。餌を与えようとしていた時、蟻が蛇を食い尽くしたのを見つけ、大衆の力を警戒することを覚った。
カリギュラは、拘禁され、ティベリウスの隠棲地カプリ島で、奴隷のような忍従の日々を送り、己を殺して生きていたが、親衛隊長マクロの援助で、ティベリウスを毒殺する。あるいは枕で息ができぬように命じた。老帝ティベリウスは、カリギュラが、自分を殺し、世界を破滅させることを予知していた。
ティベリウスは、カプリ島に隠遁し10年間島に閉じ籠もり、島の別荘イオから処刑命令を下した。晩年、虐殺者と化した陰鬱な隠遁者ティベリウスは、37年3月16日、ナポリ湾のルクルスの別荘で死ぬ。78歳である。ローマ市民は、陰鬱な老帝の死を歓喜し、「ティベリウスをティベリス河に投げ棄てろ」と叫んだ。
(cf.スエトニウス『皇帝伝』第2巻、タキトゥス『年代記』第1巻-第6巻)
★パラティーノの丘からみるフォロ・ロマーノ
★Caesar Augustus 皇帝アウグストゥス
★参考文献、次ページ参照。
大久保正雄Copyright 2003.02.26
Augustus_2

2016年7月12日 (火)

旅する詩人、エウリピデス ギリシア悲劇の極致

Apollo_belvedere_vatican大久保正雄『地中海紀行』第48回ギリシア、愛と復讐の大地2
旅する詩人、エウリピデス ギリシア悲劇の極致

マケドニア王家は、エウリピデスの悲劇を愛した。
エウリピデスは、マケドニアに行き、75歳でその地で死す。波瀾の生涯。
アレクサンドロスは、エウリピデスの悲劇を愛し、
地中海都市、アレクサンドリアに、劇場を作り、悲劇を上演した。
エウリピデス劇は、不朽となった。
アポロンの神が、絶望する人を救う。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■エウリピデス『オレステス』 ギリシア悲劇の極致
死の窮地に立たされたオレステスに救いの手を差し伸べる友ピュラデス。追いつめられた者が企てる陰謀。逆境に立つ友に、痛みをともに受け、救い出そうとする友情の美しさが、利己心に覆われた世界に光をもたらす。エウリピデスが、マケドニアに死の旅に旅立つ前、BC408年、アテナイで最後に書いた傑作である。
オレステスは、父アガメムノンを殺された復讐に、情夫アイギストス、母クリュタイムネストラを殺害した。母親殺しをし、復讐をなし遂げたオレステスは、苦悩し狂気に陥り、病に臥してしまう。娘を殺されたテュンダレオスがオレステスを告発し、アルゴス人たちは、民衆裁判にかけようとする。その時、メネラオスが漂白の旅から帰郷して、ヘレネを館に送り届け、夜が明けてから帰館した。オレステスは、叔父メネラオスに救いを求めたが、メネラオスはテュンダレオスに従い、協力しない。「小さな力で大きなものに立ち向かう見込みはない」と言う。ヘレネ奪還のためトロイ戰爭の総大将であった亡き義兄アガメムノンの仇討ちをしたオレステスを見殺しにするのである。この時、オレステスの友ピュラデスが現れ、民会に弁明するためにオレステスを抱き抱えて行く。民衆の間で議論が湧き起こり、エレクトラとオレステスの姉弟を石打により死刑に処するという結論が出された。しかしオレステスは、自ら命を絶つことを申し出る。民会から帰ったオレステス、ピュラデスとエレクトラの三人の間で、追いつめられた人間たちの謀議が為される。
ピュラデスは、「どうせ死なねばならぬなら、いっそのこと、メネラオスを道連れにしよう。」「ヘレネを殺し、メネラオスに罰を下そう」と提案する。オレステスは、「どうせ命を吐き出す身。敵に一泡ふかせてから死にたい。裏切者どもを逆に討ち果たしたい。」と言う。エレクトラは、「ヘレネが殺されて、もしメネラオスがオレステスやピュラデスや私に、何かしようとしたら、ヘルミオネを殺すと言ってやればよい。剣を抜いて、娘の喉元に突きつけておくのです。」「お前を殺そうとするなら、お前も娘の喉を切り裂いてやればよい。」二人はヘレネを殺害しようとするが、神慮によって消えてしまう。そこに現れたヘルミオネをエレクトラが館の中に入れ、二人は彼女を殺害しようとする。そこにメネラオスが現れ、三人から娘を助けようとする。オレステスはメネラオスに「アルゴス人たちに、死刑を止めるように説得せよ。」という。だがオレステスはピュラデスに館に火を放つようにいう。メネラオスは、アルゴス人たちに武器を執り助けに来るように求める。
■アポロンの神が、絶望する人を救う。
すべては窮地に陥り、行き詰まる。ここでアポロンがヘレネを従えて天空から現れる。クレーンで宙吊りになり籠に乗って現れる、機械仕掛けの神(デウス・エクス・マーキナー)である。アポロンは、オレステスにはアテナイで裁判を受け、ヘルミオネと結婚すると予言する。そしてピュラデスにエレクトラを娶るように命じる。アポロンは「二人のこれからの人生は幸せが続く」と予言する。
エウリピデス『オレステス』は、ギリシア悲劇の極限であり、到達点である。『オレステス』は悲劇であるが、苦悩するオレステスは、苦難の後、アポロンによって救済され、幸福の予感のうちに、劇は終わる。エウリピデス劇は、波瀾にみちた複雑な展開、激情的な人物、窮地に陥った人々を、神が現れて救う機械仕掛けの神(デウス・エクス・マーキナー)が用いられる、メロドラマ的大衆性を帯びている。
『オレステス』は、エウリピデスがマケドニアに旅立つ前、紀元前408年、アテナイで最後に書いた悲劇である。エウリピデスは2年後に異郷の地で死に、再びアテナイに帰ることはなかった。

エウリピデスの生涯 75歳で異郷マケドニアの地で死す
『地中海人列伝』17
葛藤する激情のドラマ、陰謀劇を書いたエウリピデス。エウリピデスの名聲は、シケリアからマケドニアまで響きわたり、死後、地中海世界にとどろき渡った。
エウリピデス(BC480-406)は、第75オリュンピア紀、サラミスの海戰の年、サラミス島で生まれた。父ムネサルキデスは商人、母クレイトーは野菜売り女であった。
ムネシコロスの娘コイリレを娶ったが、結婚した妻が不貞を働いたため、女の情欲を曝露する劇『ヒッポリュトス』を書き、淫蕩な女であったため離婚した。再婚したが、前の妻以上に淫乱な女であったため、さらに熱心に女の悪口を書くようになった。
エウリピデス劇の女は、報われぬ愛に生きる女の悲劇でもあった。『ヒッポリュトス』は、ミノス王の娘アリアドネの妹、王妃パイドラーが先妻の子ヒッポリュトスに恋し、思いを遂げられぬため、自ら死を遂げ、遺書を残してヒッポリュトスを疑惑に陥れ死に至らしめ、復讐を遂げるという物語である。
初期の傑作『王女メデイア』は、コルキスの王女メデイアの物語である。魔術に通暁したメデイアは、愛するイアソンのために国宝「黄金の羊皮」を盗み出して、実弟を惨殺し、イオルコスにイアソンとともに行く。だがペリアスは王位返還に応じない。王位を簒奪したイアソンの伯父ペリアスを殺し、復讐者に追われた彼らはコリントスに亡命する。コリントス王クレオンの求めに応じて、イアソンはコリントス王女グラウケと結婚するため妻を棄てようとした。メデイアはイアソンに怨みを晴らすため、毒薬を施した衣を贈りコロントス王女を焼き殺しその父親もろとも殺害、イアソンとの間に生れた我が子をも殺し、復讐を遂げる。メデイアは、我が子を殺した後、太陽の神から贈られた有翼の龍車にのり、アテナイに逃亡、その地でパンディーオーンの子アイゲウスの妻となる。
エウリピデスは、世の中から隠遁して、サラミス島の海に臨む洞窟に閉じ籠もって海を眺めながら、執筆活動に耽った。洞窟で俗衆を避けて日々を送った。エウリピデスの作品に海の比喩が多い。理由はこのためである。
エウリピデスは、紀元前408年、『オレステス』上演後、アテナイを去って、マケドニア王国の首都アイガイに行き、アルケラオス王の宮廷に客となり、『アウリスのイピゲネイア』『コリントスのアルクマイオン』『バッカイ』を書き、紀元前406年、75歳の時、異郷マケドニアの地で、客死した。
『メデイア』からマケドニアで執筆した『バッカイ』『アウリスのイピゲネイア』まで、25年間創作活動に携り、生涯に92篇の悲劇を書いたが、優勝したのは5回であった。1回は死後甥のエウリピデスによって上演された。ギリシア悲劇全盛期、優勝することは少なかったが、彼の死後、ヘレニズム時代エウリピデス作品は圧倒的な支持を受け、最も多くの作品が残った。彼の人柄は狷介であったが、作品は民衆の人気を博した。  
ローマ帝国時代、地中海各地に建築された、大理石の劇場で、エウリピデスの悲劇は、最も愛された。苦悩する魂に、絢爛と燦めく狂言綺語の言語空間を構築し、藝術によって愛をもたらすエウリピデス劇は、二千年の星霜に耐えて、今も、比類なく美しい。
★Apollo Belvedere ベルヴェデーレのアポロン レオカレス原作
★ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」ウフィッツィ美術館
★Didyma Apollon Temple
★【参考文献】
『ギリシア悲劇全集』全14巻、松平千秋、久保正彰、岡道男編岩波書店1990-1992
高津春繁編『アイスキュロス、ソフォクレス』「世界古典文学全集8」筑摩書房1964
松平千秋編『エウリピデス』「世界古典文学全集9」筑摩書房1965
松平千秋「エウリピデスについて」『ギリシア悲劇全集』別巻、岩波書店1992
岡道男『ホメロスにおける伝統の継承と創造』創文社1988
中村善也『ギリシア悲劇入門』岩波新書1974
エウリピデス中務哲郎訳『オレステス』『ギリシア悲劇全集』
アポロドーロス高津春繁訳『ギリシア神話』岩波文庫1953
ホメロス呉茂一訳『イリアス』岩波文庫1953
オウィディウス中村善也訳『変身物語』上・下、岩波文庫1981-1984
松村一男『ギリシア神話』2012
呉茂一『ギリシア神話』新潮社1970
高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』岩波書店1960
大久保正雄2002.11.27

2016年7月11日 (月)

愛と復讐 アイスキュロス『オレステイア』三部作

Ookubomasao11020460231_leonardo_da_vinchi_leda_i_大久保正雄『地中海紀行』第47回ギリシア、愛と復讐の大地1
愛と復讐 アイスキュロス『オレステイア』三部作

トロイア戰爭の始まり 美の爭い
失われた「叙事詩の円環」

美しい海、エーゲ海、
燦めく海。風の息吹、大地と光がある限り、
苦難を受けし魂に、幸いをあたえよ。
苦しみに涙が頬つたう時、伶人が奏でる、玲瓏の楽の音。
オルペウスの竪琴のごとく、すべての生けるもの、樹霊に至るまで、
心震わせる、悲しみの調べ。
燦めく眼の美しい乙女は、愛を囁き、翼ある言葉を放つ。

絶望の果てに、微かな光が見えるならば、
今ある苦しみを耐えることができる。
美しい魂よ、死の淵より、蘇れ。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■ギリシア悲劇 愛と復讐のドラマ
ギリシア悲劇の人間たちは、運命に対峙しながら、理想と信念を貫きとおし、理想に殉じるがゆえに、滅びてゆく。滅びを覺悟しながら自己の理想に殉じる、精神において、高貴な人間である。高貴な魂が、純粋であるがゆえに、苦難に遭い死を遂げる時、悲劇が生れる。
愛するもののために戦い、復讐する高貴な魂。愛の情熱は絶望の焔をあげて燃え上る。ギリシア悲劇は、果たせぬ思い、見果てぬ夢、報われぬ愛、晴らせぬ怨み、人間の苦しみに、光をあてる。生きることの本質は苦しみであると考えた、ギリシアの悲劇詩人たちは、人間の苦しみを直視する。悲劇詩人は、苦しむ人、泣く人、怒る人、復讐を企てる人に、限りない愛を注ぐ。運命の力がいかに強くとも、自己の運命を切り開くことができる。たとえ敗北に終わっても、戰いの軌跡は、人がこの世に生きた証しである。
 生命は死を孕んでいる。だからこそ、生は尊く、一瞬の燦めきを放ち、美しい。ほんとうに生きるためには、一度死んで再び蘇らねばならない。死と再生の秘儀をへて、眞に優れた生きかたが始まる。枯れた死の大地から、春が蘇るように。受難の苦しみを経て、蘇る魂こそ、眞の精神である。知恵は、苦悩から生れる。悲劇は死と再生の秘儀である。新しく生れるためには、死から蘇らねばならない。死からの蘇りがなければ、生はない。ディオニュソスの秘儀から悲劇は生まれた。ディオニュソスが二度生まれた神であるように、死の苦しみ、苦難の果てに、美しい精神が生まれることが悲劇の主題である。一粒の麦、地に落ちて死なずば、もとのままにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし。
 アイスキュロスが書いた最晩年の悲劇『オレステイア』三部作は、ギリシアのみならず人類史に殘る傑作であり、アルゴスの王家3代にわたる復讐のドラマである。死を以って死に報い、血で血を洗う、呪われたアトレウス王家の復讐劇。アポロンの神託によって、復讐を遂げクリュタイメストラを殺害し、正義を実現したオレステスが、復讐の女神たち(エリニュエス)によって追求される。「復讐によって正義は実現される」復讐劇を構築した。ソポクレスは、運命と対峙し生きる人間の悲劇を書いた。オイディプスは、善き意志と不屈の意志によって、謎を解き、不条理な運命を知り、運命に突きつけられた自己を受けいれる。運命劇である。エウリピデスは、復讐の連鎖と運命の呪縛に、陰謀によって対決し克服する不屈の魂を陰謀劇によって書いた。苦しむ人、救いなき人に、神々は救いをもたらす。有限なる精神は、藝術においてのみ、運命と和解し、宇宙の調和に到達することができる。

■三人の悲劇詩人 アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス
ギリシア悲劇は、紀元前5世紀、最盛期を迎えた。早春、花萌える季節、ディオニュシア祭で、予選を勝ち抜いた三人の悲劇詩人の新作が上演された。3本の悲劇と1本のサテュロス劇を披露して優勝を競った。作品が現存するのは3人だけである。3大悲劇詩人、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスである。
アイスキュロスは、聖域エレウシスで生れた神官の家系である。海を臨む岬の上、壮麗な神域の地である。ペルシア戦争で自ら剣をとって戦い、榮光のアテナイの歴史を生きた貴族である。シケリア島のゲラで、榮光のうちに、69歳で死んだ。
ソフォクレスは、アテナイ郊外コロノス・ヒッピオスの地、裕福な騎士階級に生まれた。ソフォクレスは、人柄、才能、家系、容貌、財産、すべてに恵まれ、將軍として活躍した。アテナイ隆盛期の頂点から、ギリシア内乱による没落を自らの目で見た。エウリピデスの死を悼み黒衣をまとい、その年、92歳で死んだ。破綻なき人生は、流麗なドラマ展開をもつ作品に現れている。
エウリピデスは、サラミス海戰の年、サラミスで生れた。孤独を愛する異端児である。サラミスの洞窟に閉じ籠もって海を眺めながら、悲劇を書いた。作品は、最も刺激的で戦慄にみちた展開をもつ。波瀾にみちた複雑な展開の果て、窮地に陥った人々を、神々が現れて救う。マケドニアのアルケラオス王の宮廷で75歳で死んだ。

■アイスキュロス『オレステイア』三部作 アトレウス王家の悲劇
アイスキュロスは、晩年、悲劇『オレステイア』三部作(BC458)を書いた。この傑作を書いた後、シケリア島ゲラに旅立ち、その地で死んだ。
第1部『アガメムノン』
トロイアの落城後、アルゴス王宮で、帰国したアガメムノンが、留守中、彼の従兄弟アイギストスと情を通じた妻クリュタイメストラによって、殺害される。
 アガメムノン殺害は、二つの復讐を意味していた。
 アガメムノンの父アトレウス王は、テュエステスを王位をめぐる争いによって、国と家から追放した。テュエステスは、救いを求める嘆願者として、国に戻って來たのだが、神を恐れぬアトレウス王は、宴を張り実の子供たちの肉を食べさせた。アトレウスに対する復讐魔(エリニュエス)が、死せるアガメムノンの妻の姿を借りて、死者に償いをさせたのだ。
 ヘレネを奪ったパリスに対する報復を遂行するために、トロイア遠征に向かうギリシア軍は、女神アルテミスが起こした嵐によって、アウリスの港で、船出を止められた。アガメムノンは、嵐を鎭めるために、自らの娘イピゲネイアを生贄として、ヘレネ奪還を祈って、捧げた。アガメムノン夫妻の娘イピゲネイアを、アガメムノンが犠牲にしたことに対する恨みが、報いを受けたのである。「爲したる者は受けるべし」という復讐の原理が主導する。
第2部『供養する女たち』
 アガメムノン殺害の復讐をするために、国外に亡命していたオレステスが帰国し、アイギストスと母クリュタイメストラの下で忍従の暮らしを強いられていた姉エレクトラと再會し、姉の助けによって母とアイギストスを討つ。殺害者に対する殺害、復讐に対する復讐のドラマである。「大地が吸った血は消えず、凝結して復讐を呼ぶ。」復讐はさらなる復讐を呼ぶ。殺害されたアイギストスとクリュタイメストラの二人の血は、償いを求める。
第3部『慈みの女神たち』
 オレステスは、母親の殺害を促していたアポロン神のデルポイにある神殿に逃れ、神の加護を求める。復讐の女神たち(エリニュエス)がオレステスを追って来る。
 アポロンは、オレステスに、復讐の女神の追及を逃れアテナイに辿り着き、アテナ女神の加護を願うように説く。オレステスは、アテナイのアクロポリス、アテナ女神神殿に現れる。オレステスの祈りに応え、アテナ女神が現れ、オレステスと復讐の女神の言い分を聞き、アテナイ市民の裁きに委ねる。オレステスが被告で、復讐の女神が原告である。アポロンみずから弁護人になる。12人のアテナイ市民の投票が行なわれ、双方同数であった。裁判長アテナ女神が、オレステス無罪に一票を投じ、オレステスは救われる。復讐の女神は、怒り狂うが、アテナ女神は彼女らを宥め「慈みの女神」(エウメニデス)に変身させる。
■タンタロス家の惨劇
アイスキュロス『オレステイア』三部作は、アガメムノンの父アトレウス王家の呪いから始まる。だが、アトレウス王家の呪いは、それを遡るタンタロス家の呪縛に原因がある。
 タンタロスは、美貌ゆえに、神々に寵愛されて、神々の宴に列することを許されたが、宴の秘密を人間たちに漏らし、或いは神々の飲料ネクタルと神餐アムブロシアを人間に与えたため、或いは我が子ペロプスを殺して神々に供したため、地獄(タルタロス)で責め苦を受ける。エウリピデス『オレステス』では、宙に吊るされて罰を受ける。
 神々の力によって美しく蘇ったペロプスは、ポセイドンに愛されて有翼の戰車を得て、ピサの王オイノマオスの下にヒッポダメイアの求婚に赴く。オイノマオスは、娘の求婚者たちに戰車競技に勝てば結婚を負ければ殺すという条件で競走し、求婚者の首を刎ねていたのだが、ヒッポダメイアはペロプスを一目見て恋に陥る。王の御者であるヘルメスの子ミュルティロスが、王女に秘かに恋い慕い、ペロプスに王国の半分を与えると約束されて、オイノマオスの戰車の車軸の釘を抜いたため、オイノマオスは戦車に引き摺られて死ぬ。この時、オイノマオスはペロプスとミュルティロスに呪いをかけながら死ぬ。ミュルティロスがヒッポダメイアを犯そうとしたため、ペロプスは、ミュルティロスを岬から突き落として殺すが、ミュルティロスはペロプスの子孫に呪いをかけて死ぬ。
■アトレウスとテュエステスの争い
ペロプスとヒッポダメイアの間に生まれた子が、アトレウスとテュエステスである。アトレウスとテュエステス兄弟がミュケナイの王位をめぐって爭い、黄金の羊の所有者に王権を委ねることにした。この羊はヘルメスが我が子の怨みを晴らすために送りこんだものである。アトレウスが秘蔵していたがアトレウスの妻アエロペがテュエステスと情を通じ羊を与えたのでテュエステスが王となった。ゼウスは、太陽が西から昇り東に沈んだらアトレウスが王になるという、約束が二人の間に結ばれ、アトレウスが王になりテュエステスを追放する。
■アトレウス王家の呪い
アトレウスは妻アエロペの姦通を知り、テュエステスをおびき寄せ、その子供たちを殺して料理して父親に食わせる。テュエステスは神託により自らの娘ペロペイアと交わり、アイギストスを生み、復讐をこの子に託す。アイギストスはアトレウスを殺し、クリュタイメストラと情を通じアガメムノンを謀殺する。
アガメムノンは、ミュケナイ人を支配して、テュンダレオスの娘クリュタイムネストラを、その前の夫テュエステスの子タンタロスをその子もろとも殺害して、妻とし、王子オレステス、娘たちクリュソテミス、エレクトラ、イピゲネイアが生まれた。メネラオスは、ヘレネを娶り、テュンダレオスが彼に王国を与え、スパルタに君臨した。(cf.アポロドーロス『エピトメー』)
■レダと白鳥
絶世の美女レダは、双子の美女クリュタイムネストラとヘレネを生んだ。
テュンダレオスは、テスティオスの娘レダを娶った。レダが余りにも美しかったため、ゼウスは、白鳥の姿となってレダと交わり、2つの卵から2組の双子が生まれた。カストールとポリュデウケースの兄弟とクリュタイムネストラとヘレネの姉妹である。カストールは戰爭の術に通暁し、ポリュデウケースは拳闘の技に熟達、ディオスクーロイ(ゼウスの子)と呼ばれた。姉妹は、スパルタの兄弟と結婚した。ヘレネは、スパルタ王メネラオスと結婚し、クリュタイムネストラは、メネラオスの兄ミュケナイ王アガメムノンと結婚した。(cf.アポロドーロス『ビブリオテーケー』)アガメムノンとメネラオスは、ともにアトレウスの子である。アガメムノンとクリュタイムネストラの間に生まれた子が、エレクトラ、オレステス、イピゲネイアである。2人の美女は運命の子である。クリュタイムネストラは夫である王アガメムノンを殺害し、ヘレネはトロイ戰爭の原因となった。絶世の美女は不幸の原因であった。クリュタイムネストラとヘレネは、美貌ゆえに、人を惑わし破滅させた。美しい容貌の下に、醜い心が隠れている。

■失われた叙事詩の円環
今は失われた『叙事詩の円環』8編77巻のなかに、トロイア戰爭の原因と結末、戰爭後のギリシア人たちの帰国、運命が書かれていた。ギリシアを旅立ってから20年におよぶ壮大な戰いと放浪の叙事詩、その一部にアルゴス王家の伝説が書かれていた。『叙事詩の円環』は、『キュプリア』『イリアス』『アイティオピス』『小イリアス』『イリオス落城』『オデュッセイア』『ノストイ』『テレゴニア』である。
■トロイア戰爭の始まり 美の爭い
神々の饗宴
ゼウスは、美しい海の女神テティスと交わろうとしたが、生れてくる子は父より優れた者であるという予言のため、断念し、ペレウスが交わるように手配した。アイギナ島の英雄ペレウスは、海の女神テティスを捕まえ格闘し、テティスを妻にすることにした。ペレウスとテティスの間に生まれた子がアキレウスである。(オウィディウス『変身物語』)ペレウスと女神テティスの婚礼に、神々の宴会が開かれ、オリュンポスの神々が集まった。爭いの女神(エリス)は、この宴に招かれなかった。エリスはこれを恨み、「最も美しい女に」と書かれた黄金の林檎を、投げ込んだ。エリスは西の涯ヘスペリデスの園から黄金の林檎を持ってきたのである。女神たちはこの林檎を奪い合った。最後まで、ヘラ、アテナ、アプロディテの三人の女神が、爭い合った。トロイア戰爭の原因はこの三人の女神の爭いであった。(cf.『キュプリア』)
三人の女神、美の爭い
 ゼウスは、冥界の道案内人ヘルメスに、三人の女神をイデ山の羊飼いパリス(アレクサンドロス)の所に導くように命じた。女神たちは、自分を選んでくれた時には、パリスに見返りとして贈物を与える約束をした。ヘラは全人類の王となることを、アテナは戰いにおける勝利を、アプロディテは絶世の美女ヘレネを、与えることを約束した。女神たちは、権力と武力(名誉)と恋愛とを、パリスの前に提示して、選択をせまったのである。パリスは、美女を選び、アプロディテに黄金の林檎をわたした。これがパリスの「美の審判」である。
 美女ヘレネはすでに結婚していてスパルタ王メネラオスの妻であった。パリスは、スパルタへと出帆した。九日間メネラオスの宮殿で歓待され、十日目にメネラオスが母の父の葬儀のためクレタ島に旅立ったとき、美の女神アプロディテはヘレネがパリスを熱愛するように魔力をかけた。ヘレネは、九歳の娘ヘルミオネを後に残し、財宝を船に積み込み、海に出た。だがヘラは暴風を起こし、地中海の東の涯、シドンの港に辿りついた。(cf.アポロドーロス『エピトメー』)
トロイア戰爭の始まり
 メネラオスは、妻ヘレネを奪われて怒り、ミュケナイの兄アガメムノンの所に行き、全ギリシアから英雄を集め、トロイアに遠征することに決めた。
ゼウスがトロイア戦爭を起こした目的は人類を滅亡すろことにあった。「神々はヘレネの美を道具にして、ギリシア人とプリュギア人を互いに戦わせ、満ち溢れる人間の暴虐を、大地から一掃するために、屍の山を築いただけである。」(エウリピデス『オレステス』)「ヘレネの淫らな血の一滴と引き換えにギリシア人の生命が枯れ、その汚染された腐肉一グラムと引き換えに一人のトロイア人が殺された。」(シェイクスピア『トロイラスとクリセダ』) ヘレネは、ギリシア人にとってもトロイア人にとっても多くの死者をもたらした不幸の原因であり、忌まわしき女であった。(cf.アポロドーロス『エピトメー』)
★ヴォロマンドラのクーロス アテネ考古学博物館
Kouros of Volomandra
★レオナルド派「レダと白鳥」ウフィッツィ美術館、ボルゲーゼ美術館、ウィルトンハウス Leonardo, Leda, 1505-10 Francesco Melzi
★アプロディーテとパンとエロース アテネ考古学博物館
 Aphrodite, Pan, and Eros
参考文献、次ページ参照。
大久保正雄Copyright 2002.11.27

2016年7月10日 (日)

アントニウスとクレオパトラ 愛と死

Claude_lorrain_cleopatra_at_tarsus_大久保正雄『地中海紀行』第46回クレオパトラの死2
アントニウスとクレオパトラ 愛と死

クレオパトラは、キュノドス河を遡り航行する。黄金の艫の船に乗り、紫の帆を張り、立ち昇る薫香の妙なる香りが、河の岸辺に満ちて漂った。

アレクサンドロス大王の軍が遠征した時は、彫刻家リュシッポス、画家アペレス、歴史家、遊女、音樂家、料理人、將軍の友人たち、家族も同行し、国が移動するようであった。(プルタルコス)

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■アントニウスとクレオパトラ
アントニウスは、戰場では狂えるごとく武勇を発揮したが、平時は宴と美女に耽溺した。生涯の重要事件は宴会の舞台で起っている。出遊する時、凱旋行進のように、黄金の盃を持ち歩き、贅沢な食事に濫費を蕩尽した。寵愛する美女をつれて歩き、臥輿(ふこし)に乗せていた。アントニウスは、恋愛か戰爭か睡眠の時以外は、宴会から宴会へ渡り歩いていた。アントニウスが率いる軍隊は、料理人、遊女、音樂家など、扈従する人々が多く、町が移動するようであった。アレクサンドロス大王の軍が遠征した時は、彫刻家リュシッポス、画家アペレス、歴史家、遊女、音樂家、料理人、將軍の友人たち、家族も同行し、国が移動するようであった。
アントニウスにとって決定的にわざわいとなったのはクレオパトラとの恋である。クレオパトラ7世はプトレマイオス12世アウレテース(笛吹き王)の次女である。アントニウスは、紀元前41年パルティア戰爭に着手した時、クレオパトラに使節デルリウスを送り、「カッシウスに多額の軍資金を与えた」という非難に対する弁明を求めて、キリキアのタルソスで会見するために招いた。アントニウスと面会する時、クレオパトラは28歳、女の美しさが最も花々しく咲き誇り、才知輝く年齢になっていた。アントニウスは、この時42歳であった。クレオパトラは、華やかに着飾って、アレクサンドリアから地中海を航海した。
「クレオパトラは、アントニウスと友人から招きの手紙を澤山貰い、軽蔑し嘲笑した。
クレオパトラは、キリキア地方のキュノドス河を遡り航行する。黄金の艫の船に乗り、紫の帆を張り、操舵手は、笙と竪琴(キタラ)と笛(アウロス)の音に合わせて、銀の櫂を漕ぎ、クレオパトラは、黄金の刺繍を施した天蓋の下に、絵の中のアプロディーテーのように着飾って坐り、エロースの神のような子供たちが扇を煽ぎ、美しい侍女が海の精ネーレイスや美の女神カリスの衣裳を身にまとい、舵の所に立ち帆柱に立った。立ち昇る薫香の妙なる香りが、キュノドス河の岸辺に満ちて漂った。
人々は河岸からこれに随って町から眺めにやって来た。アゴラの群集も散り去り、壇上に坐っていたアントニウスだけが独り取り残された。アプロディーテーがアシアの幸福のためにディオニュソスの処へ饗宴をするためにきた、という噂が四方に広まった。
アントニウスは、クレオパトラを食事に招く招待状を使いにもたせると、相手は「そちらから出向いて頂きたい」と申し出てきた。アントニウスは、好意的な態度を示そうと思って、請われるままに出掛けた。言語を絶する用意を目にしたが、驚嘆したのは無数の光の渦であった。膨大な数の燈火が設けられてあらゆる方向から輝き光り瞬き、四角や円を象作って、一つ一つが美しく巧妙に配置されていた。」(cf.プルタルコス『アントニウス伝』)
クレオパトラの美しさは、容貌の美しさではなく、言語の巧みさ、知性の魅力で圧倒した。美貌と聡明さにおいては、オクタウィアの方が優れていたと言われる。
「クレオパトラの美しさはそれだけでは比較を絶するものではなく、見る者を驚かす程のものではなかったが、応対に相手を逃さない魅力があり、容姿が会話の説得力と、その場の人々に、誘惑するような性格を兼備し、刺激的に心を魅了した。口を開くと、聲音に歓樂が漂い、多弦の樂器のように弁舌を、話題に合わせて揮い、非ギリシア人にも通訳を介さずに、エティオピア人、ヘブライ人、アラビア人、シリア人、ペルシア人、パルティア人にも自ら応答した。クレオパトラ以前の王たちはエジプト語すら習得せず、マケドニア語を忘れた者もいた。」(cf.プルタルコス『アントニウス伝』)
アントニウスはクレオパトラに心を魅了され、ローマのフルウィアの武裝蜂起、メソポタミアの変事を忘れた。アントニウスはクレオパトラの言うままにアレクサンドレイアに行き、催しや遊戯に耽って「最も贅沢な浪費、時」(アンティポン断片77)を空しく快樂に使った。二人で「眞似のできない生活(アミーメートビオイ)の会」を作り、毎日、互いに饗宴を催して信じ難いほど過度な浪費を行なった。
クレオパトラは、阿諛を、プラトンが『ゴルギアス』(464c)で言うように四通りでなく、幾通りにも分けて用い、アントニウスが眞剣な時も戯れている時も、絶えず新しい歓樂と媚態を演じて、昼も夜もアントニウスを離さず、意のままに思うままに操った。アントニウスが平民の家で話をして嘲る時、クレオパトラは召使の着物を着て一緒に歩き回った。
 アレクサンドレイアで宴に酔いしれているアントニウスのもとに、妻フルウィアがオクタウィアヌスに兵を率いて蜂起したという知らせと、パルティア軍が侵略したという知らせが届いた。フルウィアが悲痛な手紙を送ってきたので、アントニウスは200隻の船を率いてイタリアに向かった。フルウィアがギリシアのシキュオンで死んだので、オクタウィアヌス・カエサルと和解が可能になった。フルウィアの死後、アントニウスは、オクタウィアヌスと会見し、支配権を分割、イオニア海を境界として、東はアントニウス、西はオクタウィアヌス、レピドゥスにはアフリカを委ねる取決めを行った。
 ローマ人たちは、アントニウスとオクタウィアヌスの姉オクタウィアとが結婚すれば、2人があらゆる事柄に協力一致するという希望をいだいた。2人は、ローマに行き、アントニウスとオクタウィアとの結婚式を擧げた。
 アントニウスはオクタウィアを連れて、ギリシアに行き、アテナイで冬を過ごし、ギリシア人たちと饗宴を行い、ギュムナシアルコスに就き競技会を開いた。アントニウス軍の將軍ソシウス、將軍カニディウスは、武勲を立てアントニウスの名声を高めた。
 アントニウスは、オクタウィアヌスの誹謗中傷に怒り、300隻の艦隊を率いてイタリアに航行し、ブルンディシウムに行き、タレントゥムの港に入った。オクタウィアの願いを聞き入れ、弟の所に遣った。タレントゥムの和約を結んだ。
 アントニウスは、突如アンティオキアに赴く。プルタルコスは、プラトン『パイドロス』の比喩を用い「善惡二頭の馬に曳かれた御者が惡の馬に従う」と説明する。シリアの地に足を踏み入れた瞬間、忘れえぬ魅力の虜となる。アントニウスは、アンティオキアにクレオパトラを呼び寄せた。クレオパトラに対する恋が燃え上がった。二人は、目の眩む祝祭と饗宴を、繰り返した。
 アントニウスは、クレオパトラに、シリア、キュプロス、キリキア、アラビアのナバタイオイ族の領土を与えた。これがローマのオクタウィアヌスに攻撃の口実を与えた。アントニウスは、オクタウィアと離婚し、オクタウィアヌスは、クレオパトラに宣戦布告する。アントニウスは、クレオパトラを連れて、エフェソスに行き、サモス島に行き、宴を開き、歓樂に耽り、ディオニュソスの犠牲式を行った。さらにアントニウスとクレオパトラはアテナイに航行した。重大な決定は女の気まぐれに左右された。アントニウスは、クレオパトラのために20万巻のペルガモン図書館の蔵書をアレクサンドリアに移させた。  アクティウムの海戰で、アントニウスとクレオパトラの連合軍は敗れた。アントニウスとクレオパトラ、二人の恋人は、「眞似のできない暮らしをする人々の会」を解散し、「死をともにする人々(シュンアポタヌーメノイ)の会」を結成した。二人のみならず、友人たちは、時が來たら一緒に死ぬことを約束した。だが、その時までは、宴を催し、美味なる料理に舌鼓を打ち、樂しく時を過ごした。
クレオパトラは、致命的な毒薬を集めて、その一つ一つを苦痛がないことを試すために、死刑囚に飲ませて試みた。アスピスという毒蛇が噛んだ時は、痙攣も呻吟を起こさず、眠くなり感覚が容易に麻痺して熟睡している人のように呼び起こして目覚めさせることができないことを発見した。 (cf.プルタルコス『アントニウス伝』9-71)

■アクティウムの海戦
オクタウィアヌス軍は、歩兵7万、騎兵1万2千、名將アグリッパが4百隻の艦隊を指揮した。アントニウス軍は、歩兵10万、騎兵1万2千、5百隻の艦隊を率いた。貨物船300隻が物資を輸送した。クレオパトラは、アントニア号に乗り、60隻の艦隊を指揮した。ギリシアのアンブラキア湾に、両艦隊は集結した。
アントニウスがアクティウムに陣を張ると、オクタウィアヌスは対岸に陣を張った。両者は、睨みあい、冬が過ぎた。オクタウィアヌス軍はメトネを襲撃し、エジプトからの補給路を断った。春になると、島々を占領し、アンブラキア湾を包囲した。味方からは、トラキア王らが離反した。陸上戰に持ち込んでも、勝ち目はなかった。生き残る道は一つ、敵の包囲網を突破して、脱出することであった。アントニウスは、軍船を焼き払い、クレオパトラの船に軍資金を移した。アントニウスは、「帆を持って行くように」と命じた。戰時には陸に置いて行く帆をもって行くのは、脱出するためであった。
 4日間、嵐で海が波立って戰いを妨げた後、5日目、紀元前31年9月2日、風が止み、海は凪いだ。両軍は、出撃し、アントニウス軍は、停泊地を離れた。敵の包囲網を突破するためである。アグリッパが左翼を展開したので、プブリコラはこれに対抗するために追撃した。両軍、入り乱れ海戰は伯仲した。突然、クレオパトラの艦隊60隻が敵の包囲網を破り、沖に脱出した。アントニウスは五段櫂船に移り、他の艦隊があとに続いた。100隻の船が脱出した。プルタルコスは、「アントニウスは、自分のために戰っている人々を裏切り、置き去りにした。自分を破滅させ、その破滅を甚だしいものにした女を追いかけた」と書く。が、敵の包囲網を突破するためには唯一の方法であった。アントニウスは、敵の裏をかき、窮地を脱して、捕虜にならず、財宝を持ち帰り、生きのびて、再起を期した。
 アントニウスは、リビュアに到着し、クレオパトラをエジプトに送り、人との交渉を絶って、二人の友人と逍遥を樂しんだ。ギリシアの弁論家アリストクラテス、ローマ人ルキリウスである。ルキリウスは、フィリッピの戰いでブルートゥスを逃がすために自分がブルートゥスであると言って敵に降伏したが、アントニウスに助けられて、アントニウス最期の時まで、忠誠を尽くした。リビュアのアントニウス軍の將軍も離反したので、アントニウスは、生涯を終えようとした。二人の友人が妨げて、アレクサンドリアに連れて行った。アレクサンドリアに行き、パロスの海岸に住いを作り、人々から離れて亡命者として住んだ。忘恩に傷つけられ、あらゆる人間が信用できなくなり、嫌悪を感じていた。  アントニウスとクレオパトラの二人は、アシアにいるオクタウィアヌスに使者を送り「クレオパトラはエジプトの統治権を要求し、アントニウスはエジプトかアテナイで隠遁して暮らしたい」と申し出た。オクタウィアヌスは使者テュルソスを遣わし、クレオパトラに「アントニウスを殺せば、報酬を出す」と言ったが、クレオパトラは拒否した。
 紀元前30年8月1日、アレクサンドリアで、最後の戰いが行われ、アントニウスの艦隊が、敵に寝返ったため、敗北した。 (cf.プルタルコス『アントニウス伝』64-76)

■アプロディーテーとディオニュソス
プルタルコス『アントニウス伝』によると、アントニウスはディオニュソスに自らを喩え、クレオパトラは自らをアプロディーテー(ウェヌス)であると考えていた。これに対し、オクタウィアヌスは自らをアポロに喩え、パラティーノの丘にアポロ神殿を建てた。(cf.スエトニウス『アウグストゥス伝』) アントニウス対オクタウィアヌスの対決は、ディオニュソス対アポロンの対決として、オクタウィアヌスは、宣伝戰を展開した。
紀元前46年夏、クレオパトラは、カエサルの「4つの勝利を祝う凱旋式」に出席するため、カエサリオンをつれて、ローマに行き、テヴェレ河の向こう岸、ヤニクルムの丘にあるカエサルの別荘に住んだ。
カエサルは、紀元前46年9月26日、フォルム・ロマヌム、カエサル広場に、ウェヌス・ゲネトリクス神殿を建てた。ウェヌス神殿は、カエサル一族の神殿として、凱旋式の時に建立された。ウェヌスは、カエサル氏族の守護神であった。クレオパトラは、ウェヌスであると考えられていた。カエサルは、カエサル一族のウェヌス神殿、ウェヌス女神彫像の傍らに、クレオパトラの黄金像を納めさせた。ウェヌス・ゲネトリクス女神像は、透き通った衣を纏う像で、ギリシア人彫刻家アルケシラオスの作品である。この年、カエサルはアレクサンドリア暦を導入した。ユリウス暦は、クレオパトラに随行して来ていた天文学者ソシゲネスの計算によるものである。紀元前44年、カエサルの死後、クレオパトラは、テヴェレ河を降り、オスティアから出帆して、エジプトに帰った。
今、カピトリーノ博物館に「カピトリーノのヴィーナス」がある。
カピトリーノのヴィーナスは、エーゲ海のパロス島産の大理石で作られている。古典時代後期、プラクシテレス「クニドスのアプロディーテー」の模刻である。恥らいのウェヌス、「アプロディーテー・アナデュオメーネ」を表現している。ローマにはまた、エスクィリーノのヴィーナスがあり、清純な美しさを湛えている。

■アントニウスの末裔 皇帝の血
アントニウスは、3人の妻との間に六人の子が生れた。フルウィアとの間には、男子アンテュルスが生れ、オクタウィアとの間には、2人の姉妹、アントニアが生れた。
 アントニウスとクレオパトラの間には、3人の子が生れた。双子、アレクサンドロス・ヘリオス(太陽)、クレオパトラ・セレネ(月)である。そしてプトレマイオス・フィラデルフォスである。紀元前30年、アレクサンドロス、プトレマイオス・フィラデルフォスは、行方不明になる。この時、アンテュルスは、殺された。クレオパトラは、カエサルの子、プトレマイオス15世カエサリオンを生んでいた。オクタウィアヌスは、カエサリオンを、クレオパトラの死後、沙漠で殺した。オクタウィアヌスは「カエサルが何人もいるのはよくない」といった。
生き残ったアントニウスの遺児、2人の姉妹アントニア、クレオパトラ・セレネはオクタウィアによって、育てられた。オクタウィアは、亡き夫アントニウスの思い出に忠節を尽した。
姉アントニアは、ドミティウス・アエノバルブスと結婚した。妹アントニアは、皇妃リウィアの子ドルススと結婚した。妹アントニアからクラウディウスとゲルマニクスが生まれ、ゲルマニクスからガイウス(カリギュラ)が生まれた。ティベリウスの死後、カリギュラは第3代皇帝となり、クラウディウスは第4代皇帝となった。
姉アントニアの子、ドミティウス・アエノバルブスは、ユリア・アグリッピーナと結婚した。アグリッピーナから、ネロが生まれ、第5代皇帝となった。
アントニウスは、エジプトで非業の死を遂げたが、その末裔は、皇帝となり、ギリシア文化を愛し、比類なき生を繰りひろげた。
■愛と死の果てに
権力の頂点を極めたが、恋に耽溺したアントニウスは、美に溺れ、ギリシアとエジプトを愛した。ギリシアとエジプトの退廃を愛する魂は、地上の名譽より、逸樂を求めた。アントニウスとクレオパトラは、死に追いつめられ、アレクサンドリアで果てる。戰いに破れ没落したアントニウスは、地中海の落日を眺め、海辺に佇んだ。
アントニウスは、ギリシア、エジプトに隠遁することを夢見たが、宿敵によって、それは許されなかった。アントニウスとクレオパトラの物語は、愛と死の秘密を語る。美はいのちを犠牲にして手に入れるものであり、知恵は地上における価値を超える。愛の極みは死である。愛の存在は死によって立証される。人生の光の路は、生と死の彼方に辿りつく。
Claude Lorrain, Cleopatra at Tarsos, 1643
★Alexandria
★参考文献
プルタルコス河野與一訳『英雄伝』12巻、岩波文庫1956
プルタルコス河野與一訳『アントニウス伝』『カエサル伝』
スエトニウス國原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上下、岩波文庫1986
エディット・フラマリオン『クレオパトラ 古代エジプト最後の女王』創元社1998
シェイクスピア小田島雄志訳『アントニーとクレオパトラ』
小田島雄志『小田島雄志のシェイクスピア遊学』白水社1982
小田島雄志『シェイクスピアの人間学』2007
エウジェニア・リコッティ武谷なおみ訳『古代ローマの饗宴』平凡社1991
青柳正規『皇帝たちの都ローマ』中公新書1992
プリニウス中野定雄・中野里美訳『プリニウスの博物誌』雄山閣1986
大久保正雄Copyright2003.03.26

2016年7月 9日 (土)

クレオパトラの死 プトレマイオス王朝最後の華

Cleopatra_alexandriaKarnak大久保正雄『地中海紀行』第45回クレオパトラの死1
クレオパトラの死 プトレマイオス王朝最後の華

海と湖に囲まれた都、アレクサンドリア、
地中海のほとり、海鳴りのする宮殿。
運命を呼びよせる、アントニウスとクレオパトラの愛。
ローマの將軍と滅びゆく王朝の女王が、繰りひろげる宴、
比類なく美しい人生を追求する、地中海のほとり。
愛に溺れ、愛に死せる者。地中海の輝きは残り、
美と夢と壮麗は、ナイルの流れに消え失せ、
死せる英雄の魂は、皇帝たちの血のなかに蘇る。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■アレクサンドリア
アレクサンドリアは、海と湖に囲まれた都市である。ナイル河の三角州にあり、地中海に面し、南はマレオティス湖に囲まれている。
地中海に、パロス島が浮かび、ロキアス岬には王宮、イシス神殿、王室専用の港がある。アンティロドス島に島離宮があった。クレオパトラは、ロキアス岬のイシス神殿に自身の霊廟を作った。
パロス島は、ヘプタスタディオンと名づけられた防波堤によって陸とつながり、有名な燈台があった。東に太陽門、西に月宮の門があり、東西にロゼッタ通り、南北にソーマ通りが走っている。都には、ブルケイオン地区、ラゴティス地区、ネアポリス地区、エレウシス地区がある。ブルケイオン地区に有名なアレクサンドリア図書館(ムーセイオン)、王宮、劇場があった。王宮のソーマ(肉体)と呼ばれる場所には、アレクサンドロス大王の墓がある。図書館は二つありもう一つはセラピス神殿にあった。
この地を紀元前332年アレクサンドロス大王が占領し、アレクサンドロスのポリスを建設し始めた。紀元前323年アレクサンドロスは死に、將軍プトレマイオスがこの地の太守になり、王として君臨した。プトレマイオス1世ソーテールは、王朝を創始し、王宮、図書館を建て、美しい都を建設した。アテナイからアリストテレスの弟子ファレロンのデメトリオスを招きムーセイオンを作るように命じた。ムーセイオンは五十万巻の書物、120巻の図書目録を誇った。プトレマイオス2世フィラデルフォス、プトレマイオス3世エウエルゲテスの時、最盛期を迎えた。プトレマイオス王朝は、紀元前30年、エジプト最後の女王、プトレマイオス12世アウレテスの娘、クレオパトラ7世が死ぬまで、三百年間榮えた。
美しい都市アレクサンドリアは、幻となり消え去った。クレオパトラの針と呼ばれた2本のオベリスクは此処にはない。美しいヘレニズム都市アレクサンドリアは、4世紀、地震で海底に沈んだ。823年ヴェネツィア商人はサン・マルコの遺体をアレクサンドリアから盗み運び去り、今サン・マルコ寺院にある。パロス島の燈台跡には、今、カイトベイの要塞がある。セラピス神殿には、ポンペイウスの柱が残るのみである。だが、紺碧の地中海の輝きは変わらず、葦が生茂るナイル河のほとりには、古代から伝わる帆船が航跡を曳いて走っている。

■アントニウスとクレオパトラの愛と死
アントニウスは、紀元前55年ペルーシオン攻略によりエジプト王を復位させ、武勲を立てた。カエサルの副官となり、カエサルが独裁官の時、執政官に就任した。紀元前42年フィリッピの戰いで、カッシウス、ブルートゥスを破り、ローマの権力の頂点に立った。アントニウスはギリシア、エジプトを愛し、アテナイに4度訪問した。弁論術を学びに行き、フィリッピの戰いの後訪れ、オクタウィアを連れて行き宴に明け暮れ、海戰の前にクレオパトラと共に行った。
アントニウスは、宿敵オクタウィアヌスと対立し、14年間対峙した。唇薄く青白い打算的で冷酷なオクタウィアヌスは、他人の力を利用して、権力を手に入れた(cf.プルタルコス『アントニウス伝』)。名將アグリッパの戦術により権力基盤を固めた。東方文化を愛し、宴に明け暮れるアントニウスは、オクタウィアヌスと対照的な性格であった。アントニウスは、勝負を決すべき敵であり、宿敵オクタウィアヌスを、打倒すべき運命の星にあった。
だが、アントニウスは、タルソスで、クレオパトラと出会い、運命を変える危険な恋に陥った。クレオパトラとの恋に溺れ、死に至った。死に至る愛が、運命を狂わせた。
アントニウスはエジプトの富を必要とし、クレオパトラはローマの軍事力を必要とした。ローマの軍事力とエジプトの富が、最高の権力を作り出す予定であった。アントニウスは、ギリシア、エジプトを愛し、イタリアに帰還することなくエジプトで果てた。
アントニウスとクレオパトラは、アレクサンドレイアで宴に現を忘れ、「眞似のできない生活の会」を作り、毎日、贅を尽した饗宴を催した。クレオパトラは、眞珠を酢に溶かして飲んだ(cf.プリニウス『博物誌』)。運命の出遭いから、10年の歳月が流れた。アントニウスとクレオパトラは、アクティウムの海戰で敗北すると、「眞似のできない暮らしをする人々の会」を解散し、「死をともにする人々の会」を結成し、饗宴に耽溺し、贅沢な日々に死を忘れた。

■クレオパトラの死
アクティウムの海戰に破れた後、クレオパトラは、イシス神殿の傍らに、美と壮麗を極めた霊廟と記念碑を作らせ、王家の寶物、金、銀、エメラルド、眞珠、黒檀、象牙、肉桂を集め、その上に多量の炬火と麻屑を載せた。
紀元前30年8月1日、夜が明けると、アントニウスの艦隊が出撃したが、オクタウィアヌス軍の前に、オールを上に向け、裏切り、舳先を向けてアレクサンドリアの町に攻寄せた。クレオパトラは、墓に逃げ込み、アントニウスに使いを遣って死んだと告げさせた。アントニウスは、「運命は我が命を惜しむための、唯一の理由を奪った」と言い、自分の部屋に入った。鎧を脱ぎながら「クレオパトラよ、汝を失ったことを悲しみはしない。すぐに貴女の下に行くのだから。」アントニウスの召使いにエロースという名の奴隷がいた。アントニウスは、彼に予め以前から時がきたら自分を殺すように命じていたが、その約束を果たすように言った。エロースは、剣を抜いてアントニウスを斬るように振上げたが、顔を背け剣で胸を突き自殺した。エロースは足元に倒れた。
アントニウスは、「エロース。汝は約束を果たさなかったが、為すべきことを私に教えてくれた」と言い、腹を剣で突き、寝台に倒れた。だが傷は致命傷ではなかった。身を横たえ、血があふれ出すのが止まってから、我に帰り、扈従たちに自分を殺すよう言いつけた。叫びながら身悶えているアントニウスを置いたまま、人々は部屋から立ち去った。クレオパトラの秘書ディオメデスが来て、アントニウスを墓所の中にいるクレオパトラの所に連れてくるように命令を伝えた。(cf.76) クレオパトラが生きていると知って、召使いたちに「私を起こせ。クレオパトラの下に運べ」と命じ、墓所の入口に運ばれた。クレオパトラは、閂を開けず、窓から顔を見せ、綱を下ろした。アントニウスを縛ると、クレオパトラと二人の女は上から吊り上げた。アントニウスは全身血に塗れ、宙に吊り上げられた。目撃者によるとこの上なく悲惨な光景であった。クレオパトラは着衣を脱がせ、顔の血を拭い寝かせながら、「我が主人よ、夫よ、インペラートルよ」と言ってアントニウスの不幸を嘆いた。アントニウス「クレオパトラよ、嘆くな。葡萄酒が飲みたい」といって、葡萄酒の盃を飲みほすと「屈辱ではないのだ。これまでの榮光を思い出すのだ。予は、最も有名な最高のローマ人になり、ローマ人に征服されたのだ。クレオパトラ。悲しまずに、生きるのだ」といい、クレオパトラの腕の中で、息絶えた。  衛兵の一人がアントニウスの血のついた短剣を、オクタウィアヌスの下に持って行き、アントニウスの死を伝えた。オクタウィアヌスは、プロクレイウスを使いに出し、「クレオパトラを生きたまま、捕えて来るように」と命じた。オクタウゥアヌスは、王家の財宝を燃やされることを心配し、凱旋式に女王を引き回すと己の名譽になると考えたからである。
アントニウスの死の数日後、オクタウィアヌス自身が、クレオパトラに会いに来て、慰めた。クレオパトラは、衣裝を一枚、肌にまとったままで、精神も容貌も乱れ、聲は震え、目は泣き腫らし、胸中の悩みが激しく面に現れ、身体も心も傷ついていたが、魅惑と美貌は消え失せず、内奥から輝き出ていた。財宝目録をオクタウィアヌスに提出すると、執事セレウコスが「隠しているものがある」と言うと、クレオパトラは髪の毛を捉えて、殴った。クレオパトラはオクタウィアヌスに「オクタウィアとリウィアに、宝飾を差し上げて、許しを受けるように取って置いたのだ」と弁解して、生命に執着があるように裝った。オクタウィアヌスは、「クレオパトラの希望どおりに取り計らう」といい、相手を欺いた気であったが、逆に欺かれた。
クレオパトラは、オクタウィアヌスに、「アントニウスの墓に灌典の儀式を行いたい」と許可を求めた。クレオパトラは、アントニウスの墓に行き、酒を灌ぐ儀式を行なった。  「懐かしいアントニウス。あなたを葬った時は自由の身でしたが、今は囚われの身です。奴隷の身で、ローマの凱旋式に引かれていく運命です。これが、クレオパトラがあなたに捧げる最後の儀式です。あなたは、あなたの妻を生かしたままにして置かず、あなたと一緒に埋めて下さい。あなたと離れて、生きたこの短い時間ほど、不幸な時はありません」
 こう言って嘆き、王冠を戴き、灰の壺を抱き、沐浴の準備を命じた。
 沐浴して、食卓に向かい、身を横たえ、華麗な食事を取った。
 地方から、無花果の籠を持った男が着いた。衛兵が「何を持ってきたのだ」と聞くと、男は、籠を開いて、覆っている木の葉を取り、無花果を見せた。「何と大きな見事な無花果の実だ」というと、男は微笑み「一つ取れ」と勧めたが、衛兵は中に入れた。  
クレオパトラは、予め書いて、封をした書板を、オクタウィアヌスに送り、二人の女以外は立ち去らせ、扉を閉めた。

■クレオパトラは、毒蛇に胸を噛ませて、三十九歳で死す。
クレオパトラは、無花果の籠から、蛇をとり出し、「体に巻きつくようにしておくように」と命じた。クレオパトラは、毒蛇に胸を噛ませて、死んだ。
オクタウィアヌス・カエサルが、書板の封を切ると「私を、アントニウスと一緒に葬って欲しい」と書かれていた。
クレオパトラは、女王の衣裝を身に纏い、黄金の寝台に横たわって、死んでいた。二人の女奴隷たち、エイラスは女王の足許で死に、カルミオンは女王の王冠を整え、寝台の傍らに倒れた。
毒蛇の這った跡が、宮殿の窓に面した海岸の砂浜で発見された。クレオパトラは、その遺言に従って、遺骸をアントニウスと一緒に、王族に相応しく裝いを凝らして、葬られた。
紀元前30年8月29日、クレオパトラは三十九歳で死んだ。22年間、王位にあり、アントニウスと一緒に11年間暮らした。アントニウスは53歳であった。 (cf.プルタルコス『アントニウス伝』74-86)
★Cleopatra, Dendera, Com ombo
★Karnak Temple, Luxor, カルナック神殿、大列柱室
★フォロ・ロマーノ ウェスパシアヌス神殿、サトゥルヌス神殿
★【参考文献】次ページ参照。
大久保正雄Copyright2003.03.26

2016年7月 8日 (金)

旅する哲学者、ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り

Ookubomasao89David_1787La_tour_le_tricheur_louvre1636大久保正雄『地中海紀行』第44回哲学者の魂、ソクラテスの死2
旅する哲学者、ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り

ソクラテスの祈りは、限りなく美しい。不朽不滅の言葉は魂に刻まれる。
「この私を内なる心において美しいものにしてくださいますように。
知恵ある人をこそ富めるものと考える人間になりますように。」プラトン『パイドロス』*

ペリクレスは「我らは、美を愛して純眞さを失わず、知を愛して軟弱に陥らない。」と言った(トゥキュディデス『戦史』2巻40)。
だが、正義は地に堕ちた。(エウリピデス『アンドロマケ』)
「正義か否かが問題となるのは、力が対等の者の間だけである。」(『戦史』第5巻89)
正義の名の下に、不正が行われ、眞実の名の下に、虚偽が語られる。生きることは闘争の連続である(エウリピデス『ヒケティデス』)
紀元前406年、アルギヌーサイの海戦において、帰還した6人の將軍は処刑された。ペリクレスの子ペリクレスがいた。ソクラテスは最後まで反対した。

ソクラテスが対決したのは、権威を装い、正義を装ういかさま師である。
ソフィストたち(プロタゴラス、ゴルギアス、ヒッピアス)といわれるが、
いつの世にも、「いかさま師」(La Tricheur)は存在し跳梁跋扈する。ヒエロニムス・ボッシュ、カラバッジョ、ラ・トゥールの絵画(1636)に瞭然である。*
ソクラテスは、論理の達人に止まらず、夢と瞑想と守護霊(Daimon)の声を聴く人である。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

夢と瞑想とダイモーン
ソクラテスは、人間の経路、師弟の経路を通して哲学を学んだのではなく、自己のダイモーン(守護霊)との交わりにより、直観的に理解し、霊感によって真実を直観した。瞑想に浸り、魂の秘密を叡知的直観によって、理解した。ソクラテスは、晩年、ピュタゴラス派の人々と交わり、魂の不死不滅を信じた。
ソクラテスは、ダイモーン(守護霊)の聲を聞き、夢の告げを受け、瞑想に耽った。ダイモーンは常に抑止するもの禁止するものとして現れた。ソクラテスは、ダイモーンの聲を聞き、戦場においてはポテイダイアの野に立ち盡くして一日中、瞑想に耽った。ソクラテスは、独りだけ離れて、何処でも立ち止まり、考え込む。
紀元前416年、ソクラテスは、友人アガトンの家に祝宴に行く途中、考え込み、一晩立ち尽くして、翌日、ギムナジオンに行った。 (『饗宴』) *
ソクラテスは、人々の知恵を吟味し論駁した探究者である。地位や名誉や富を追求するよりも、智慧を愛することを説いた。徳の定義を問い、弟子たちを問い詰めた。何ごとも疑うことにより独断を吟味するように勧め、弟子たちに自らの目で眞実を直視し、自己の判断に基づいて生きるように説いた。「吟味なき生は生きるに価しない」と言い、権威的な人々と対峙し、吟味を展開した。
ソクラテスは、論理の達人、吟味(エレンコス) の達人、哲学的問答法の名人であるのみならず、夢と瞑想とダイモーン(守護霊)の声を聴く人である。★

■ソクラテスの祈り
プラトン『パイドロス』最後の場面で、ソクラテスが祈る言葉。『パイドロス』279B
「親愛なるパンよ、ならびに、この土地にすみたもうかぎりのほかの神々よ。この私を内なる心において美しいものにしてくださいますように。そして、私が持っているすべての外面的なものが、この内なるものと調和いたしますように。『パイドロス』279B
私が、知恵ある人をこそ富めるものと考える人間になりますように。また、私が持つお金の高は、ただ思慮ある者のみが、にない運びうるものでありますように」
ὦ φίλε Πάν τε καὶ ἄλλοι ὅσοι τῇδε θεοί, δοίητέ μοι καλῷ γενέσθαι τἄνδοθεν: ἔξωθεν δὲ ὅσα ἔχω, τοῖς ἐντὸς εἶναί μοι φίλια.
Platonis Opera, ed. John Burnet. Oxford University Press. 1903.
ソクラテス まだ何かほかに、お願いすることがあるかね。パイドロス。ぼくにはもう、これで充分にお祈りをすませたのが。
パイドロス 私のためにも、いまのことを一緒にお祈りしてください。「友のものは共有」なのですから。(『パイドロス』279B「プラトン全集」岩波書店「岩波文庫」p178)

ソクラテスの哲学の精髄(エッセンス)がソクラテスの祈りにある。
内面の美しさ、知恵ある人をこそ富めるものと考える人になるべきことをソクラテスは祈った。哲学者は美への旅に出る。ソクラテスは魂の美を祈り、プラトンは美の迷宮を旅する。*大久保正雄「美の奥義 プラトン哲学におけるエロス(愛)とタナトス(死)」2013

■ソクラテスの知恵を愛し求めること
ソクラテスは書物を一冊も書き残さなかった。ソクラテスはソクラテスの弟子たちにとってすでに謎であった。プラトンの初期対話篇のなかに、ソクラテスの思想が伝えられている。ソクラテスの智慧を愛し求める生きかた、そして死は、自己の思想にもとづいている。ソクラテスの思想、「問答」「無知の自覺」「知恵を愛し求める」「魂の気遣い」「美しく善く生きる」について、以下に論じる。大久保正雄『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』
1、問答
ソクラテスは、アテナイの人々とアゴラで問答した。例えば、「美とは何か」「勇気とは何か」「知恵とは何か」「徳とは何か」について、問答した。ソクラテスが、吟味したのは、徳や価値などの概念に関する問題に限局されていた。ソクラテスは、これらのあらゆる問題に対して論駁(エレンコス)の技術を駆使した。問答、吟味、論駁の果てに、すべての主張を否定的結論に導いた。問答相手を窮地に陥れ、そして自分自身と問答相手の無知を明らかにする。ソクラテスは、「吟味されざる生は生きるに値しない」(『ソクラテスの弁明』)という。
論駁の技術の展開は、5つの段階からなる。1、問答、2、吟味、3、論駁、4、窮地に陥れる、5、無知(agnoia)の宣言、である。例えば「美とは何か。」と問い、それに対して、「何であるか」を答えられなければ、すなわち、「説明すること」ができなければ「知っている」ということはできない。ソクラテスは、問答することによって、人が「知っている」か否か、自他を吟味する。例えば、「美とは何か」について、知っているか否か、吟味する。「美しいものは何か」ではなく、「美とは何か」を探求しなければならない。(『ヒッピアス大』)美しいものと、美そのものとは、ことなる。問答の果てに、自らも問答する相手も、何も知らないことが明らかになる。ソクラテスの探求は、否定的結末になるのが常であった。ソクラテスと問答相手は、問答と吟味の果てに、自らの無知を、見いだした。
*さらに、ソクラテスは、統合的な問い「徳とは何か」を問い、「徳とは教えられるものか」「徳とは教えられないものか」を問うた。(『メノン』)この問いに対する答えは、その人自身の存在の在りかたを問うものである。*
2、無知の自覚
ソクラテスは、政治家と詩人と職人を訪れ、知恵の吟味を行って、知恵をもっているか否か、調べた(『ソクラテスの弁明』)。「この人も私も、恐らく善美の事柄は、何も知らないらしいが、この人は知らないのに何か知っているように思っているが、私は知らないから又その通りに知らないと思っている。だからつまりこの微細なことで、私のほうが知恵があることになるらしい。即ち、私は知らないことを知らないと思う、ただこの点で優れているらしい。」(『ソクラテスの弁明』)
知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとする、無知の自覚を説いた。ソクラテスの「知恵の吟味」の結果、ソクラテスは、「知らないということを知っている」が、吟味された人は、自らが知らないということを知らない。二重の無知に陥っている。ことが明らかとなった。ソクラテスは、知恵を持っていないことを自ら自覚する(『ソクラテスの弁明』21b)がゆえに、知恵を愛し求める(philosophein)のである。ソクラテスは、人間は、知恵をもたないがゆえに、知恵を愛し求めなければならない、と言う。
3、知恵を愛し求める
ソクラテスは、『ソクラテスの弁明』において言う。「私の息の続く限り、私にそれができるかぎり、決して知恵を愛し求めることを止めないだろう。」知恵を愛し求めることは、魂の気遣いをすることであり、魂の卓越性(徳)に気づかうことである。人は、地位や名譽や富を追求するのではなく、「魂ができる限り善きものになるように配慮しなければならない。」(『ソクラテスの弁明』29d-e)知恵を愛し求めることは、ソクラテスにおいて、根源的な生きかたの形、生きかたの選択であった。人間の前には、生きかたの選択、愛の岐路がある。人は、何を愛するかによって、生きかたの形が現れる。人は、何を愛し、いかに生き、いかに死ぬかによって、精神の美が現れる。哲学者は、美への旅に出る。プラトンは、美の階梯を昇る。*大久保正雄「美の奥義 プラトン哲学におけるエロス(愛)とタナトス(死)」2013
人は、知恵を愛し求め、美しく善い生きかたをしなければならない。「ただ生きるのではなく、善く生きること、美しく生きること、正しく生きることが、人間にとって大切である。」(『クリトン』48b)「自らが不正を為すよりも、ひとに不正を働かれる方がはるかに善い。」ソクラテスの生と死を貫き、行動を支えた信念がある。例えば、「魂は不死不滅である。」「善き人には、生きているときも、死せる後も、悪しきことは何も存在しない。」(『ソクラテスの弁明』)この思想は、経験的な知による立証の領域を超えている。ソクラテスは、問答法を駆使したが、論証と吟味、論理の探求にあけくれ言葉の檻を徘徊する人間ではなく、魂の奥底の聲を聞く人であった。
■プラトン対話編の迷宮、魂のドラマ
ソクラテスの残した知的遺産
ソクラテスは、否定的結論に導くことが多かったが、以下のような思想を教えた。
 知識と知恵の区別を忘れてはならない。
 自己自身と自己に所属するものの区別を忘れてはならない。名譽、富、金銭、肉体は、自己に所属するものである。自己自身とは魂である。
 魂自身ができる限り善きものになるように配慮しなければならない。
 自己自身と他を吟味して生きなければならない。
 地位や名譽や富を追求するよりも、知恵を愛さなければならない。
いのちある限り、知恵を愛し求めて、生きなければならない。知恵(ソフィア)を愛することが哲學(フィロソフィア)である。プラトン『ソクラテスの弁明』
人類の叡智の歴史にソクラテスの思想が刻み込まれた。ソクラテスの行動を生きた思想から、プラトンの対話編、魂のドラマ、哲学の迷宮、が生まれる。
★アクロポリス、エレクテイオン神殿
★ソクラテスの死、
Jack Louis David, Death of Socrates, 1787, The Metropolitan Museum of Art. New York
★「いかさま師」 La Tour, La Tricheur,1636, Louvre
★【参考文献】
John Burnet(ed.), Platonis Opera, 5vols, Oxford U.P. 1903
Herrman Diels-Walter Kranz, :Die Fragmente der Vorsokratiker1-3, Berlin, 1953
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻、岩波文庫1952-1956
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
トゥキュディデス 久保正彰訳『戰史』岩波文庫1966-67
クセノポン佐々木理訳『ソクラテスの思い出』1-18岩波文庫1953,pp.25-26,237-239
クセノポン根本英世訳『ギリシア史』1-2京都大学学術出版会1998、1999
内山勝利編『ソクラテス以前哲学者断片集』全5巻、別巻1岩波書店1996-1998
ディオゲネス・ラエルティオス加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝』上中下、岩波文庫1984-1994
大久保正雄「美の奥義 プラトン哲学におけるエロス(愛)とタナトス(死)」2013
大久保正雄「プラトン哲学と空海の密教 ―書かれざる教説(agrapha dogmata)と詩のことば」2011
大久保正雄「ギリシア悲劇とプラトン哲学の迷宮 ―ことばの迷宮―」2010
大久保正雄「プラトンと詩と哲学 ―詩的直観と哲学的直観―」2009
大久保正雄「魂の美学 プラトン対話篇における美の探求」1993
大久保正雄「知と愛(Plato“Apologia Socratis”28d10-30c1)」1990
大久保正雄『ことばによる戦いの歴史としての哲學史 理性の微笑み』巌書房1993
斉藤忍髄『幾度もソクラテスの名を2』1986『プラトン 人類の知的遺産』講談社『知者たちの言葉』
藤沢令夫『実在と価値』『イデアと世界』『プラトンの哲学』
プラトン『ソクラテスの弁明』『クリトン』『饗宴』『パイドン』『パイドロス』『ヒッピアス』
プルタルコス『対比列伝』「アルキビアデス伝」
太田秀通『生活の世界歴史 ポリスの市民生活』河出書房1991
大久保正雄 Copyright2002.08.28 2016年7月6日改定

2016年7月 7日 (木)

哲学者の魂 ソクラテスの死

Davidthe_death_of_socrates_1787Ookubomasao103_2大久保正雄『地中海紀行』第43回哲学者の魂 ソクラテスの死1
哲学者の魂 ソクラテスの死

ソクラテスは、論理の達人に止まらず、夢と瞑想とダイモーン(守護霊)の声を聴く人である。ソクラテスの祈りは、限りなく美しい。魂に刻まれて不朽不滅である。*

太陽が沈む時、ソクラテスは、毒盃を仰いで死ぬ。
逆境の中で、正義を貫き、真実を愛した魂。
イリソス川のほとり、ソクラテスがささげた祈りのように、美しく善き、至高の魂。

吹き荒ぶ、不正と偽りと暴力の嵐。血に塗れた、虚榮の都。不正は正義の仮面で偽裝する。
不正と戦い、智慧を探求したソクラテス。
死にゆくソクラテスは言葉を残した。魂は不死不滅である。

滅亡するアテナイの黄昏。苦悩と血の中から、智慧の梟は、飛び立つ。
知恵を愛する魂のみが、魂の翼をもつ。時を超えて蘇る、不屈の精神。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■黄昏の地中海
秋の夕暮刻、アテネからローマへ向かって、飛行機は飛び立った。優しさに満ちたギリシア人たちの思い出が蘇る。悲劇が刻む、愛と復讐の大地、ギリシア。乾いた大地。エーゲ海が光る。エーゲ海のほとり、光が知恵を磨き、藝術を生み出した。
大地の狭間に、コリントス湾が青い海を湛えている。雲海の下に、ペロポネソス半島が、海にかこまれた島のように見える。バルカン半島の険峻な山脈が、流れる雲の切れ目から、輝いている。黄昏の地中海は、雲一つない。眼下に見える、地中海の青い海原。船が白い航跡を曳いて走っている。ギリシアからイタリアへ、プラトンが航海した海、地中海。ピュタゴラスが、独裁者の国を逃れ、航海した海。
イタリアの大地が、夕日に照らされ、紅く染まっている。ローマに着陸する寸前、夕陽が海に反射して輝いている。哲学の都から劇場都市へ。私は時間の旅に旅立つ。

■哲学が生まれた地
哲学が生まれた地は、イオニアとイタリアである。ミレトスにおける自然学の探求から哲学が生まれた。イオニア派とイタリア派が最古の学派である。ピュタゴラスは、イオニア地方のサモス島で生まれ、ミレトスの自然学を学んだ。地中海を旅して智慧を学び、独裁者を逃れ地中海を航海し、イタリアのタラスで弟子たちに学問と口伝を教え、タラスからメタポンティオンに移り、この地で90歳で死んだ。イタリア学派の祖と呼ばれる。ピュタゴラス派からソクラテスへ、そしてプラトンへと、ピュタゴラス派の思想は伝えられた。
ピュタゴラス
「奴隷的根性の人たちは名誉と利得を追い求める」*
「知恵を愛し求める人(哲学者)たちは、真理を追求する」*
哲学者(フィロソフォス)という言葉を歴史上初めて使ったのは、古代の伝承によれば、ピュタゴラスである。「ソシクラテスの『哲学者の系譜』によると、ピュタゴラスはプレイウスの僭主レオンから「あなたは何者か」と問われた時、「哲学者だ」と答えた。そして彼は人生をオリュンピアの祭典に喩えた。祭典には、ある人々は、競技のために來る。またある人々は商売のために来る。しかし、最も優れた人々は観客としてやって来来る。同じように人生においても、奴隷的根性の人たちは名誉と利得を追い求める者であるが、これに対して、知恵を愛し求める人(哲学者)たちは、眞理を追求する者なのだ、と彼は言った。」(cf.Diogenes Laertius.8-1-8)

■惡徳が栄える時、美徳は滅びる
ペリクレスは「我らは、美を愛して純眞さを失わず、知を愛して軟弱に陥らない。」と言った(cf.トゥキュディデス『戰史』2巻40)。黄金時代のアテナイは藝術が溢れた都であった。黄金時代のギリシア美術は、輝ける精神の形である。美術は、形によって精神と思想を表現するものである。
だが、ギリシアの国の正義は地に堕ちた(エウリピデス『アンドロマケ』)。弱肉強食の論理が支配し、自己の身を守ることのみ考え、復讐に対する復讐がなされた。「原因は、物欲と名譽欲に促された権力欲であり、欲に憑かれた者たちの、盲目的な派閥心であった。」(cf.トゥキュディデス『戰史』第3巻82)弱者の正義は、強者の惡徳によって圧殺される。「正義か否かが問題となるのは、力が対等の者の間だけである。」(『戰史』第5巻89)正義の名の下に、不正が行われ、眞実の名の下に、虚偽が語られる。生きることは闘争の連続である(エウリピデス『ヒケティデス』)。利益至上、競争主義の世界で、弱者は強者の肉となり、弱者には死あるのみ。人は、憎悪と悪意と陰謀によって陥れられる。

■血に塗れたアテナイ
ペロポネソス戦争のさなか、僭主派が権力を握ると抵抗する民主派が殺戮され、民主派が政権を握ると僭主派が報復され殺害された。
BC404年ペロポネソス戦争が終結し、アテナイはスパルタに敗北する。8月アテナイにスパルタの支援により三十人僭主独裁政権が成立すると、クリティアスらは、抵抗する人たちを彈圧、殺戮、恐怖政治が行われ、民主派は亡命した。BC403年、テーバイに亡命していた民主派は武装し、ペイライエウスで戦闘が繰り広げられ、クリティアスは戦死、三十人政権は崩壊する。血に塗れたアテナイ。内乱、内部抗争が繰り広げられる。

■智慧の梟は、黄昏に飛び立つ
圧殺された弱者の正義は、復讐の血を招く。爛熟し腐敗した国家。正義が崩壊した世界から、理念の探求が生まれ、哲學が生まれる。不幸の中にこそ優れた人の友情が最も美しく輝き出るように、退廃と苦悩の中から、智慧の愛(philosophia)が生まれる。
国家が崩壊し、黄昏のなかに沈むとき、智慧の愛が生まれる。智慧の梟は、黄昏に飛び立つ。人は、何を愛し、いかに生き、いかに死ぬかによって、精神の美が現れる。

■ソクラテスの死
ソクラテスは、問答法を駆使して、吟味、論駁、人々を窮地に陥れた。死ぬまで、知恵を愛し求めることを説いて止まなかった。ソクラテスは、権力に抗して、正義を貫いた。だが、6人の將軍、1人の市民のいのちを救うことはできなかった。哲人が、一人で三万人の民衆を相手に戰うようなものである。
紀元前399年、告発され、処刑された。ソクラテスの弟子であったアルキビアデス、クリティアスによって流された血の償いとして、ソクラテスの生命が、犠牲とされたのである。
日が沈む時、処刑が行われ、ソクラテスは毒人参の盃を飲みほした。ソクラテスは、居合わせる弟子たちに、毒が体にまわり、死に至るまでの時間、「魂は不死不滅である」ことを説いて死んだ。

■夢と瞑想とダイモーン
ソクラテスは、人間の経路、師弟の経路を通して哲学を学んだのではなく、自己のダイモーン(守護霊)との交わりにより、直観的に理解し、霊感によって真実を直知した。瞑想に浸り、魂の秘密を叡知的直観によって、理解した。ソクラテスは、晩年、ピュタゴラス派の人々と交わり、魂の不死不滅を信じた。
ソクラテスは、ダイモーン(守護霊)の聲を聞き、夢の告げを受け、瞑想に耽った。ダイモーンは常に抑止するもの禁止するものとして現れた。ソクラテスは、ダイモーンの聲を聞き、戦場においてはポテイダイアの野に立ち盡くして一日中、瞑想に耽った。ソクラテスは、独りだけ離れて、何処でも立ち止まり、考え込む。
ソクラテスは、人々の知恵を吟味し論駁した探究者である。地位や名譽や富を追求するよりも、智慧を愛することを説いた。徳の定義を問い、弟子たちを問い詰めた。何ごとも疑うことにより独断を吟味するように勧め、弟子たちに自らの目で眞実を直視し、自己の判断に基づいて生きるように説いた。「吟味なき生は生きるに価しない」と言い、権威的な人々と対峙し、吟味を展開した。
ソクラテスは、論理の達人、吟味(エレンコス) の達人、哲学的問答法(ディアレクティケー)の名人であるのみならず、夢と瞑想とダイモーンの人である。

★ダヴィッド『毒盃を仰ぐソクラテス』
(Jack Louis David, Death of Socrates, The Metropolitan Museum of Art. New York)

■ソクラテスの生と死
紀元前469年、ソクラテス(BC469-399)は、アテナイのアロペケ区で生まれる。父ソプロニスコスは石工、母パイナレテは産婆であった。
紀元前461年、イオニア地方クラゾメナイのアナクサゴラスが、アテナイに來る。30年間アテナイに滞在する。ソクラテスは、アナクサゴラスの自然学を學んだが、ヌース(知性)が万物を支配する仕組みを解明していないことに失望した。
紀元前432-431年、ソクラテスは、アテナイ軍のポテイダイア包囲(BC432-431年)に進撃し、アルキビアデスと同じ陣営に止宿し戦闘したが、傷ついて倒れたので、ソクラテスが救った。ソクラテスは自らが立てた武勲をアルキビアデスに帰した。ポテイダイア戰爭の時、ソクラテスは、一昼夜、立ち盡くして瞑想し考えつづけ、暁に我に帰り立ち去った。
年代不詳、カイレポンが、デルポイの神託「ソクラテスより賢い者はいない」を受けて来る。この神託の謎を解くために、ソクラテスは、様々な人々と対話する。BC430年、ソフィストのプロタゴラス死す。
紀元前428/7年、「プラトンが、第88オリュンピア紀、第1年、タルゲリオン月7日、アテナイで生まれる。」(cf.アポロドーロス『年代記』)
シケリア島レオンティノイのゴルギアス、外交使節としてアテナイに來訪する。レオンティノイはシュラクサイから攻撃されアテナイに支援を依頼するためにアテナイに來た。ゴルギアス、30年間アテナイで活躍する。この時代、ソフィスト活躍する。
紀元前424年、ソクラテスは、ボイオティア地方デーリオン占領作戰(BC424/423年)に重裝歩兵として従軍する。デーリオンの戰爭で、アテナイ軍が敗走した時、アルキビアデスは騎馬で敵を殺し、徒歩で退却する重裝歩兵のソクラテスを守った。ソクラテスはアテナイ軍の最後尾で撤退し、沈着冷静の勇気を示した。
紀元前423年、喜劇詩人アリストパネス『雲』が上演される。ソクラテスが天上地下を探求する自然探求の徒として、嘲笑されている。アナクサゴラスの自然学を學ぶソクラテスが揶揄されている。またエウリピデスの悲劇が嘲笑されている。
紀元前422年、ソクラテスは、バルカン北部アンピポリス奪還のため、従軍した。
紀元前419年、ソクラテス50歳。ソクラテスは、クサンティッペと結婚したらしい。
紀元前416年、悲劇詩人アガトンの作品が、レーナイア祭で優勝。プラトン『饗宴』の問答が設定された時は、アガトン家の祝勝の宴である。ソクラテスとアルキビアデスが宴に出席する。ソクラテスはアガトンの家に行く途中、立ち止まって瞑想に耽った。
紀元前415年、アテナイはシケリア島に遠征軍を派遣する。アルキビアデスは、神に対する冒とくの罪により告発を受け遠征地から召還され、敵国スパルタに亡命する。ソクラテスは、シケリア島遠征に反対、ダイモーンが制止したからである。
紀元前407年、プラトン20歳の時、悲劇競演に参加しようとしている時、ソクラテスと初めて会い、自作の悲劇作品を火中に投じた。
紀元前406年、ソクラテスは、政務審議会(ブーレー)委員となる。レスボス島の南、アルギヌーサイの海戦において、アテナイ海軍は危く敗れそうになり、艦隊を編成し救援に向かった。アテナイは、スパルタ海軍を打ち破り、スパルタは難船したが、嵐のため、アテナイ艦隊の兵も海に溺れた。アテナイ軍はこのアテナイ人たちを救う事が出来なかったため、アテナイ市民は怒った。帰還した七人の將軍は一人を除き、弾劾され、審議会で審議し、財産没収の上、死刑を要求した。6人の將軍は処刑された。そのなかにペリクレスの子ペリクレスがいた。この時、ソクラテスは審議会委員(各部族代表50名)であった。通常の裁判の手続きによらず違法であり、ソクラテスのみはこの一括審議に反対したが、審議会の決議は、採決を要求、処刑は執行された。この時、ソクラテスは最後まで反対した。
紀元前405年秋、アテナイ艦隊はアイゴスポタモイの海戰で撃破される。陸海を封鎖され食糧補給路を絶たれ、餓死する者が溢れ、紀元前404年、アテナイは無条件降伏する。アテナイ人はメロス島人たちを虐殺したように自分たちも報復されるのではないかと危惧した。亡命していたクリティアスが帰国、三十人委員会が結成される。クリティアスはスパルタの支援を受けて、寡頭政独裁政権を作る。三十人独裁政権は、反対派を殺害する。民主派に対する血の粛清が行われる。ソクラテスの友人カイレポン、アニュトスら追放され亡命する。ソクラテスは、三十人独裁政権から、サラミスのレオンを逮捕するように命じられるが、これを拒否する。レオンは刑死した。
紀元前403年、アニュトス、カイレポンたち、亡命した民主派は、テーバイで、トラシュブーロスの指導のもとに、武装集団を組織、ペイライエウスに侵攻、クリティアスの軍と対峙、対戰し破る。クリティアスは戦死する。三十人政権崩壊。民主政回復。
■紀元前399年
紀元前399年、ソクラテスは、民主派の領袖アニュトス、弁論家リュコンを後ろ盾とするメレトスによって、告発される。「ソクラテスは、国の認める神々を認めず、別の新たなダイモーンの祭を導入するという罪を侵し、青年たちに害毒を与えるという罪を侵している。」という訴状がバシレウスに提出された。裁判で、500人の陪審員が、原告・被告双方の弁論を聞き、票決された。第1回票決は280票対220票の差で有罪となった。第2回票決は量刑であり、本人の希望により、死刑となった。360票対140票であった。無実の人を、冤罪で理由なく、告発する時、涜神罪、反逆罪を用いるのが常套手段であった。アルキビアデス、アリストテレスが、この罪で告発され、アテナイから逃亡したことは有名である。
裁判の1か月後、デロス島への祭礼使節が帰還した後、ソクラテスの処刑が行われる。死刑執行は日没時と定められていた。裁判は1-2月であった。
死の場面は、プラトン『パイドン』に描かれている。親しい人、友人たちは朝から集まった。アテナイ人、アポロドーロス、クリトブーロス、クリトン、ヘルモゲネス、アイスキネス、アンティステネス、クテシッポス、メネクセノスらがいた。プラトンは病気だった。テーバイ人、シミアス、ケベス、パイドンデス。メガラ人、エウクレイデス、テルプシオンがいた。シミアス、ケベスはピュタゴラス派のピロラオスの弟子である。
日没時、処刑が行われ、ソクラテスは毒人参の盃を飲みほす。ソクラテスは、弟子たちに、死に至るまでの時間、「魂は不死不滅である」ことを説いて死んだ。70歳であった。
(cf.プラトン『ソクラテスの弁明』『饗宴』『パイドン』『ラケス』、ディオゲネス・ラエルティオス『哲學者列伝』第2巻第5章、第3巻、クセノポン『ソクラテスの思い出』1-18、『ヘレニカ』第1巻7.1-35, 第1巻6.24-38第2巻1.20-29,第2巻2.2-23, 第2巻3.11-4.24, 第2巻3.39,第2巻4.19.24-43, 4.42.44、プルタルコス『アルキビアデス伝』)
★【参考文献】次ページ参照。
★ダヴィッド『毒盃を仰ぐソクラテス』
Jack Louis David, Death of Socrates, The Metropolitan Museum of Art. New York
★アクロポリスの丘 パルテノン神殿
★デルフィ パルナッソス山とアポロンの聖域
大久保正雄 Copyright2002.08.28

2016年7月 6日 (水)

カエサルとクレオパトラ 「ルビコンを渡る」

Cleopatra_and_caesar_jeanleongerome大久保正雄『地中海紀行』第42回幻のローマ帝国2
カエサルとクレオパトラ 「ルビコンを渡る」

カエサルは、軍事的天才、豪放磊落な性格は人の心を捕えて放さなかった。將兵は、カエサルに心酔した。
絨毯の中から薄絹を身に纏ったクレオパトラが現れた。クレオパトラはこの時21歳、蠱惑的な眼差しで、匂い立つような魅力を放っていた。
カエサルは、クレオパトラの術策に陥り、魅力的な応接の虜となった。

カエサルの言葉 「賽は投げられた。ルビコンを渡る」BC49年
「来た、見た、勝った」BC47年8月2日「ブルータス、お前もか」BC44年3月15日
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■カエサルの死
23箇所、剣で刺され、56歳で死す。
『地中海人列伝19』
ユリウス・カエサルは、紀元前44年3月14日時刻は午前11時、元老院を召集した。場所はポンペイウス劇場裏の回廊。かつて自分が死に追いつめた者を記念する劇場の回廊である。カエサル派の執政官アントニウスは、強靭な腕力をもつため、足止めされている。
クニドス生れのギリシア人アルテミドロスが陰謀計画の概要を知り、密告しようと思って、書面に記してカエサルのもとに持って来た。カエサルはそれを読もうとしたが、面会者が多いため妨げられて、この書状を持ったまま会議場に行った。カエサル暗殺の共謀者は60名を越えた。首謀者はガイウス・カッシウス、マルクス・ブルートゥスである。
共謀者たちは、黄金の椅子に坐っているカエサルを取りまいて立つ。魁のキンベル・ティリウスが請願することを裝い、カエサルに近寄った。カエサルがこれを制止した瞬間、両肩をトガ(上衣)の上から抑えた。「余に暴力をふるうのか。」
一人がカエサルの喉下を切る。カエサルがペン先を突き刺す。
カエサルはトガで頭を覆い、下半身をも包み込む。かくして二十三箇所を剣で刺され、ただ一度だけ呻いた。襲撃したブルートゥスに「お前もか。我が子よ。」と聲を出し、息絶えた。カエサルは、56歳で死んだ。
カエサルの遺言状が、パラティヌスの丘のアントニウス邸で開封され朗読された。姉の孫ガイウス・オクタウィウスが4分の3の遺産相続人に指名され、カエサル家の養子として名前も継がせた。(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』)
ガイウス・ユリウス・カエサルは、紀元前100年、内乱の時代、革命の時代と呼ばれる時代に生れた。門閥派(オプティマーテス)と民衆派(ポプラーレス)とが激しく抗爭する時代である。カエサルは、ユリウス家出身の貴族であるが、16歳の時、民衆派の首魁マリウスの寡婦ユリアの仲介によって民衆派の領袖キンナの娘コルネリアと結婚した。ユリアは叔母であった。キンナは執政官の地位にあった。東方から帰還した門閥派のスッラはキンナを殺害、ローマを制圧し、民衆派を徹底的に弾圧した。カエサルは、財産を没収され、放浪の身となり追われたが、スッラに許しを請い、赦免を得ることに成功する。スッラは紀元前78年に死去した。紀元前71年、クラッススが南イタリアの奴隷反乱(スパルタクスの乱)を粉砕し、スッラの部下ポンペイウスが鎮圧、ローマにおける権力を掌握した。
紀元前61年カエサルは、法務官の任期を終えると、ヒスパニア属州総督として赴任しようとするが、債権者が非難したので、クラッススに縋りつき、クラッススが債権者を引き受け830タラントンの保証をした。紀元前60年カエサルは対立していた將軍ポンペイウスと富豪クラッススを和解させ、密約を交わし、二人はカエサルを支援して59年執政官に当選させた。カエサルは、娘ユリアをポンペイウスに結婚させ、ポンペイウスは元老院を説得してカエサルに全ガリアを統治する権限を与えた。紀元前59年ガリア総督となり、赴任する。50年まで九年間ガリア戦争を指揮し、数々の戰いで勝利を収め武勲を立てる。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)
 紀元前50年カエサルのガリア総督任期満了に伴い、執政官立候補をめぐる問題がローマで激化する。元老院は、ガリア総督の職を辞して軍裝を解いてローマに帰還するように要求する。カエサルは、武装解除してローマに帰還すると、在任中の不正を告発され処刑される恐れがあるため、軍団指揮権を持ったままローマに帰還することを要求する。
 紀元前49年1月10日カエサルは、元老院の警告を無視して、武装したまま、「賽は投げられた。」と言って、ルビコン河を渡河して、ガリアとイタリアの境界を越えた。ローマに進撃、元老院及びローマに対して反乱する。二人の執政官と將軍ポンペイウス、貴族たちは、ローマを棄て東方に逃走する。12月、カエサルは独裁官に就任する。

カエサルとクレオパトラ
紀元前48年8月9日カエサルは、ファルサロスの戰いでポンペイウス軍を破る。ポンペイウスは、アレクサンドリアに逃れるが、アレクサンドリアの海辺で王の宦官ポテイノスに欺かれ暗殺される。9月カエサルは、アレクサンドリアに上陸する。テオドトスがポンペイウスの首と指環を持って来たが、涙を流して指環を受け取った。エジプト宮廷は、弟王プトレマイオス13世と姉クレオパトラが対立し、宦官ポテイノスはクレオパトラを追放していた。ポテイノスはカエサルに対して陰謀を企み、侮辱的な態度で振舞い、カエサルは自らの身を護るため酒宴を催し、眠らず警戒した。亡き王プトレマイオス12世がカエサルから1千万ドラクメーを借金していたが、この負債の返却を求めると、宦官ポテイノスは「後日返済する。この場はこの地から去るように」と言った。カエサルは、ひそかに追放されていた地方からクレオパトラを呼び寄せるように、部下に命じた。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)
クレオパトラは、腹心の側近シチリア人のアポロドロス一人を伴って小舟に乗り、夕暮時、暗くなったころ、王宮に舟をつけた。人目を避ける手段がなかったので、絨毯に身を包み身体を長くのばして、アポロドロスが革紐で縛り、扉からカエサルのもとに運び入れた。カエサルが紐をとくと、絨毯の中から薄絹を身に纏ったクレオパトラが現れた。クレオパトラはこの時21歳、蠱惑的な眼差しで、匂い立つような魅力を放っていた。
カエサルは、クレオパトラの術策に陥り、魅力的な応接の虜となった。クレオパトラと弟の王とを和解させ共同統治させた。だが祝宴の饗宴を催して、カエサルの奴隷が聞き耳を立て穿鑿していると、將軍アラキスと宦官ポテイノスがカエサルに対して陰謀をめぐらしていることを耳に挟んだ。カエサルは、証拠を突き止め、宴会場に護衛兵を配置して、ポテイノスを殺害した。エジプトの將軍アラキスは、陣営に逃れ、王宮を包囲して攻撃した。カエサルは、少数の兵力によって防戦したが、水路を断たれ、窮地に立たされた。ローマ艦隊との連絡を断たれるに至ったので止むを得ず火を放つと、火が造船所からアレクサンドリア図書館に燃え移り図書館は灰燼に帰した。パロス島沖の戦闘でカエサルは突堤から小舟に乗り移り味方を助けに行こうとしたが、エジプト軍の船に集中攻撃を受け、海に飛込んで危機を逃れた。王が敵に走ったので、これを攻撃して勝利を収めたが、王は行方不明となった。紀元前47年3月27日アレクサンドリア戦爭は終結した。カエサルは、クレオパトラをエジプトの女王の地位につけた。カエサルは、クレオパトラとともに、ナイル河を溯り、エティオピアに巡歴する。6月エジプトを去りシリアに軍を進める。クレオパトラとの間にカエサリオンが生れる。ミトリダテス王の子ファルナケスは部将ドミティウスを敗り、ポントス、ビテュニア、カッパドキアを掌中に収めたという報告を受けて、
「来た、見た、勝った」
カエサルは、シリアから、三個師団を率いてファルナケスを攻撃し、8月2日、ゼラの町で激戦を展開し、ポントスから潰走させ、殲滅した。ローマの友人マティウスに手紙を書き「来た、見た、勝った」の三語を書き送った。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)
カエサルの死
死の前年、カエサルは、第4回コンスルに就任、暦法を改正してユリウス暦を採用、セルウィウスの城壁を壊し市域を広げた。紀元前44年、第5回コンスルに就任。1月26日、終身独裁官に就任。2月15日公式に終身独裁官の称号を用い、アントニウスはカエサルに王冠を呈した。3月14日カエサルは、暗殺される。(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』)
プルタルコスは記した。「全生涯を通じて、数多くの危険を冒して求めつづけ、ようやく成し遂げた覇権と支配だが、それによって手に入れたのは、ただ空しき名と、市民の嫉妬を招くことになった榮譽だけであった。」
カエサルは、軍事的天才であり、豪放磊落な性格は人の心を捕えて放さなかった。カエサル軍に従軍した將兵は、カエサルに心酔した。民衆を法廷弁論、剣闘士競技や、経済的支援によって救援したが、独裁権力を構築する基盤であった。財力、武力、知力を駆使して、民衆、元老院議員を買収、ヒスパニア、ガリアでの属州支配を通じて、財力、武力を蓄積して、ローマを支配する元老院勢力、ポンペイウスに反旗を翻し、反対勢力をイタリアから駆逐して、独裁権力を確立した。ポンペイウス、その殘党を殺害して、内乱の時代を終息させた。独裁者による支配を嫌うローマ人は、カエサルを殺害したが、カエサル派のアントニウス、カエサルの甥オクタウィアヌスは、反カエサル派を攻撃、殺害した。
■雄弁術の時代
カエサルは、紀元前75年、モロンの子アポロニオスの下で雄弁術を学ぶために、エーゲ海の美しい島、ロドス島に航海した。執政官級の人ドラベラを告発したが、敗訴したためその復讐を逃れるためであった。アポロニオスは、キケロもその講義を聞いたことがある優れた雄弁術(レートリケー)の師匠で、人柄も立派だという評判の人物であった。カエサルは、政治的演説に優れた才能をもち、その才能に磨きをかけ、雄弁家として文句なく第2位を占めた。
共和制末期ローマで最も雄弁術に優れたのはキケロである。キケロは、カエサルの政治的企み、政策の下に、独裁者たろうとする意図を見ぬき、笑みを湛える海の面のような政策、優しい外見のうちに隠されている独裁者の性格を読み取った。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)
カエサル、キケロたちは、雄弁術を駆使して、元老院議会、裁判の場で、議論を戦わせ、元老院議員の意思、大衆の心を捉え、動かした。
ギリシア人は民会(エクレシア)において、雄弁術を駆使し、民衆の心を動かし、国家の意思決定を左右した。テミストクレス、ペリクレス、など優れた將軍は、華麗な雄弁術を駆使して、優れた国家意思決定に導いた。デモステネスは『フィリッポス弾劾』はじめ反マケドニアの言論を生涯にわたって展開した。雄弁術の時代は、国家の意思が、一人の優れた人間の言論によって動かされる時代であり、国家が容易に一個人によって、導かれる世界である。アウグストゥス以後の官僚組織化された国家は、制度と法による拘束が強くなるが、共和制末期のローマは、内乱期であり、言論と財力、金による買収と武力による脅迫によって、民衆を動かすことが可能な時代であった。
■ハドリアヌス時代、100万人 ペリクレス時代、30万人
ローマの人口は、アウグストゥス時代、ハドリアヌス時代、100万人、コンスタンティヌス時代、80万人と推定される。アテナイの人口はペリクレス時代、30万人、フィレンツェの人口はロレンツォ・デ・メディチ時代、30万人と推定される。
人間的な空間が顕現するのは、都市空間の規模がコンパクトな世界においてである。
プルタルコスの『英雄伝』の世界は、人間が雄弁術を駆使して国家を動かすことができる世界。それは或る意味で無政府状態(アナルキア)の社会である。人間が言論によって人と国家を動かすことができるのは、このように組織が硬直化する以前の社会である。
雄弁術の時代は、知恵と武力、個人の力が威力を発揮することができる人間的な社会である。人が生きいきと生きることができる空間は、人が個の能力によって生きられる空間であり、言論によって正義を実現することができる国家である。
★Cleopatra and Caesar by Jean-Leon-Gerome 1866
クレオパトラとシーザー、ジェロ-ム
★ローマ水道橋(メリダ、スペイン)
★ローマ橋(メリダ、スペイン)
★【参考文献】
プルタルコス河野與一訳『英雄伝』12巻、岩波文庫1956
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
タキトゥス國原吉之助訳『年代記』岩波文庫1981
國原吉之助編『タキトゥス』世界古典文学全集22、筑摩書房1965
タキトゥス國原吉之助訳『同時代史』筑摩書房1996
スエトニウス國原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上下、岩波文庫1986
カエサル國原吉之助訳『ガリア戦記』講談社学術文庫1994
カエサル國原吉之助訳『内乱記』講談社学術文庫1996
クリストファー・ヒッバート『ローマ ある都市の伝記』朝日新聞社、朝日選書 1991
クリス・スカー矢羽野薫訳『ローマ帝国 地図で読む世界の歴史』河出書房新社199
クリス・スカー月村澄枝訳『ローマ皇帝歴代誌』大阪創元社1998
青柳正規『古代都市ローマ』中央公論美術出版1990
青柳正規『皇帝たちの都ローマ』中公新書1992
島田誠『コロッセウムから見たローマ帝国』講談社1999
新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』講談社2000
南川高志『ローマ五賢帝―「輝ける世紀」の虚像と実像』講談社現代新書1998
J.J.クールトン伊藤重剛訳『古代ギリシアの建築家 設計と構造の技術』中央公論美術出版1991 
樺山紘一『ローマは一日にしてならず』岩波ジュニア新書1985
大久保正雄Copyright2003.02.05

2016年7月 5日 (火)

壮麗の都ローマ フォルム・ロマヌム、皇帝広場、コロッセウム

Ookubomasao124Ookubomasao125大久保正雄『地中海紀行』41回幻のローマ帝国1
壮麗の都ローマ フォルム・ロマヌム、皇帝広場、コロッセウム

七つの丘の都、かって深い沼であった広場、皇帝広場。
大地に風が吹き、焔が燃え熾り、
黄金宮殿は、破壊され、彫刻は地に眠った。
大地の上を、情熱と愛と憎しみが吹きすさび、
そして、廃墟が殘った。

黎明の子、明けの明星。堕ちたる支配者よ。
王のなかの王。地中海の覇者。汝は、何故、玉座より落ちたのか。
諸々の国を倒した者よ。汝は切斷され、地に倒れた。

月の輝く美しい夜、クレオパトラは、ナイル河を遡り、
武力によって立つ者は、武力によって滅び、
黄昏の旅人は、時の階を遡る。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■幻の帝国への旅
カプリ島の断崖の上、樹木に包まれ、紺碧の海の上に屹立するヴィラに、隠遁したティベリウス。ネミ湖に船を浮かべ宴に遊蕩したカリギュラ。書斎に閉じ籠もりギリシア語で歴史書を書いたクラウディウス。炎上し灰燼に帰したローマに壮大な黄金宮殿を築いたネロ。皇帝在任中12年間、帝国を遊歴したハドリアヌスは、ヴィラ・アドリアーナに壮麗な離宮を築いた。己の愛好するものに耽溺した変人皇帝たち。戰爭にあけ暮れた賢人皇帝たち。
時の流れのなかで、永遠ならざるものは腐蝕し消えうせ、不変なるもののみが残る。榮華を極めた帝国の面影。林立する皇帝の神殿、輝く都の中央広場フォルム・ロマヌム、皇帝広場、パラティヌスの丘に聳えた皇帝たちの宮殿(ドムス・アウグスターナ)。すべては、瓦礫の堆積に変り、廃墟となり果てた。わずかに殘る列柱、コンクリート工法の崩れた穹窿に帝国の殘り香がただよう。
人の世の姿は、
木々の葉の移り変わりに似ている。
吹く風が地に散らす葉もある。
だが森はふたたび茂り、新たな葉をもたらす。
めぐり来る春の季節。
(『イリアス』)
時の腐蝕の果てに、歴史の風雪に耐えた不朽のものは、アウグストゥス様式の建築ではなく、プルタルコス『英雄伝』、タキトゥス『年代記』、スエトニウス『ローマ皇帝伝』、『ヒストリア・アウグスタ』である。これらの書物は、狂える皇帝たちの緻密な記録であり、退廃を極めたローマ帝国の世界が封じ込められている。欲望の赴くままに行動する皇帝たち、驕慢、虚榮、欺瞞、冷酷、残虐、淫蕩、猜疑。時の腐蝕に耐えて残ったものが腐り果てた精神の記録だというのは皮肉だが、名著の誉れ高いタキトゥス『年代記』を愛読したナポレオンは、これは皇帝の歴史ではなく犯罪の歴史である、と言ったのは核心を衝いている。「我が書は、残酷な命令、終わりなき告発、偽りの友情、高潔な人の破滅、必ず断罪に至る裁判を絶え間なく見せる。」(『年代記』第4巻)だが倒錯した精神をもつ皇帝を見るタキトゥスの眼は高貴であり、死せる書物の中にローマ帝国の血に塗れた空間が生きいきとえがかれていて感動を呼び起こす。プルタルコス『英雄伝』は伝記文学の最高傑作であり、この書にはローマの組織社会の閉塞と欺瞞を超えて、ギリシアの崇高な理想が人類史の彼方に屹立している。
幻のローマ帝国へ旅するためには、シリア砂漠のパルミュラ、スペインの西の果てメリダ、アフリカのレプティス・マグナを歩く時、失われた空間が蘇る。だがネルウァ帝時代の執政官タキトゥス、トラヤヌス帝時代の皇帝秘書官スエトニウス、トラヤヌス帝時代のプルタルコスの書物は、ローマ市街の隘路、皇帝の宴、跳梁跋扈する皇妃、実権を握る皇帝奴隷、暗闘する親衛隊をえがいて、これらの書を読む者の心に、見えざる帝国が蘇る。『皇帝伝』は、時間の階を溯り、幻のローマ帝国に辿りつくただ一つの道である。

■幻のローマ帝国 ヒスパニアからシリア砂漠まで
ローマは「七つの丘の都」と呼ばれる。ローマ中心部の丘と丘の低地に中央広場(フォルム・ロマヌム)があり、聖なる道(ウィア・サクラ)が南東から北西に通っている。「いま広場があるところ、深い沼があった」(オウィディウス『祭暦』6)と詩人が歌ったフォルム・ロマヌム。パラティヌスの丘とカピトリヌスの丘の狭間、この中央広場がローマの中心であり、ここからすべてが始まった。
カピトリヌスの丘の上からウァティカヌスの丘を眺めると、この土地に刻まれた愛と憎しみと怨みが立ち昇り、競争と管理と血に塗れた歴史の追憶が呼び覚まされる。『ローマ皇帝伝』の暗澹たる世界を思い出す。
ローマには、アテナイのパルテノン神殿のように古代から屹立する大理石の白亞の神殿の雄姿は一つも存在しない。フォルム・ロマヌム(ローマ広場)、フォーリ・インペリアーリ(皇帝広場)は、廃墟であり、古代の神殿、列柱回廊は何処にもない。  
ローマ帝国は、2世紀、トラヤヌス帝時代、最大の版図に達し、西の涯てヒスパニアから東の涯てシリア砂漠のパルミュラ、ティグリス河まで、北はブリタニアから南はエジプトまで、夷荻蛮族を征服し地中海帝国を築いた。帝国の隅々まで道路網を築き、すべての道はローマに通じた。ヒスパニアからシリア砂漠まで、地中海世界に、華麗なヘレニズム様式の建築に彩られたローマ都市を築いた。
沙漠や荒野を越えて、帝国の都市に辿りつくと、完結した都市の小宇宙がある。水が溢れ、広場がある。ローマ人は、ギリシア文化から周柱式神殿、広場、劇場、図書館、列柱回廊、彫刻、絵画、悲劇、哲學を継承し、エトルリア文化から戦車競技、剣闘士闘技、半円アーチ、鳥占、肝臓占、丘の上に都市を建設する技術を受け継いだ。ローマ人が独自に築き上げたのは、道路網、水道橋、噴水、浴場、分割統治のシステムである。ローマ人は、いのちを刻む彫刻、哲學を作りだすことは、遂にできず、それらはすべてギリシアから略奪したものである。15世紀フィレンツェにルネサンスが起って古代藝術が蘇り、1499年ローマでミケランジェロがピエタを作り、1506年ネロの黄金宮殿の廃墟から、ロドス島の彫刻家たちによって刻まれたラオコーンが闇の中から掘り起こされた時、封じ込められた時がよみがえった。

■廃墟の都ローマ
16世紀末、1580年11月30日夕方、モンテーニュはローマに着き、1581年4月19日まで滞在した。モンテーニュが、ローマを旅した時、古代都市ローマは廃墟であり、旅人は古代中世から重層する建築の瓦礫の上を歩いた。かつての榮光のローマの面影はそこになかった。モンテーニュは、二年間旅して『イタリア旅日記』を書いた。モンテーニュは、プルタルコス『英雄伝』『モラリア』、プラトンの対話編、ディオゲネス・ラエルティオス、ヘロドトスなど古典を読み、『エセー』を書いた。『エセー』は、古典の引用で埋められ、古代の崇高な生きかたを考え、人間のあるべき姿を探求する思考の試み(エセー)の書である。プルタルコスの引用が最も多くを占め数百箇所に及んでいる。
 14世紀、ペトラルカは、古代ローマの詩人たちが生きたローマに憧れ、ローマを訪れることを夢みた。1337年、夢が実現した時、ローマは昔日の面影はなく、帝国の首都は悲哀に満ちた幻影であり、瓦礫の都であった。1341年再びローマに旅して、カピトリヌスの丘で桂冠を受け桂冠詩人となった時、パリは学問の中心だが、ローマは廃墟であった。バロックの時代、ローマは灰燼の上に、激情の都が築かれた。

■コロッセウムが滅びる時
コロッセウムは、72年ウェスパシアヌス帝(69-79)が建築を開始し、その子ティトゥス帝(79-81)が完成した。フラウィウス朝によって建てられたのでフラウィウスの円形闘技場(アンピテアトロ)と呼ばれた。1階列柱はドーリア式、2階列柱はイオニア式、3階4階列柱はコロントス式、地上部分は四層構造である。2階3階エクセドラのアーチの下には彫刻が置かれていた。5万人を収容、76カ所の入口、160の通路があり、番号により観客は迷うことなく入場し、天候によりスタンドには天幕が張られ、昇降機で剣闘士や野獣が登場した。野獣は地下空間の檻に入れられていた。血を吸うアレーナ(砂場)の前の1階には貴賓席(ポディウム)テラスに皇帝席、そして元老院議員席があり、2階から3層の大理石の階段席があり、2階は騎士階級席、3階には一般市民、奴隷席があり、4階木製の桟敷席は女性席、下層民席があった。剣闘士(グラディアートル)の試合や野獣との格闘が、最盛期マルクス・アウレリウス帝時代には1年間に135日行われた。剣闘士試合(グラディアトゥーラ)は5世紀(404年)に廃止された。8世紀、修道僧ベーダは「コロッセウムが存在する限り、ローマが存在する。コロッセウムが倒れる時、ローマが滅びる。ローマが滅びる時、世界が滅びる。」と歌った。コロッセウムは、破壊され傷つきながら二千年に亙って聳えつづけるローマの象徴である。
コロッセウムは、ローマ社会の縮図である。古代ローマは、階級社会であり、上層の名譽ある者たち、下層の卑しい者たち、二つの階層からなる。出身家門、先代の職業、身分によって、それぞれの階級に属した。共和政時代は、元老院と民会によって意思決定がなされた。ローマの主権は「ローマの元老院と市民」(Senatus Populus Que Romanus)にあるとされた。だが共和政末期、元老院は元老院議員(セナートル)のうち特権階級たるオプティマーテス(最善なる者たち)と呼ばれる、祖先が高位高官についた人々によって支配された。一部の有力家系に支配される寡頭政治(オリガルキア、少数の者の支配)である。ローマのケントゥリア民会では貧富の差によって一票の価値に格差があった。名譽ある者たちは、皇帝、元老院議員階級、騎士階級、都市参事会員身分、皇帝の奴隷からなる。皇帝の奴隷、解放奴隷、裕福な奴隷は、一般市民より経済的地位は上であった。卑しい者たちは、都市市民、農民、奴隷からなる。上層の「名譽ある者たち」は、5000万人のローマ帝国の総人口の1%に満たなかった。共和政、帝政時代を通じて、少数の者による少数の者のための支配が行われた。
パンとサーカス
ローマ市民は、穀物(小麦)の無償配給と競技場で催される剣闘士闘技を国家によって提供された。また劇場で演劇が上演され、専門の俳優が存在した。カエサル、アウグストゥス時代には、ラテン語、ギリシア語はじめ各国語で上演された。これが民衆を籠絡するために権力者が用いた「パンとサーカス」である。剣闘士闘技は、カエサル、アウグストゥス時代にはすでに盛んに催されていた。剣闘士闘技の起源は、エトルリア人の王タルクィニウス・プリスクス(BC 616-579)が、大競技場(キルクス・マクシムス)を建設し、エトルリアから剣闘士と馬を連れてきたことに始まる。皇帝アウグストゥスは、「穀物の無償配給の制度を永久に廃止したい衝動を覚えた。しかしこの衝動を持続できなかった。民衆の好意を得るために復活されることは間違いないと確信したからである。」(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』第2巻)
2世紀初、風刺詩人ユウェナリスはローマ人の堕落を悲嘆する。「かつて命令権、裁判権、軍団指揮権、すべての権力を与えていた者たちが、今は自らを自制し、ただ二つのことのみを憂い求めている。パンとサーカスを。」(cf.ユウェナリス『風刺詩』)しかし、「穀物の無償配給」は、市民の命を守る最低限のセイフティーネット(安全網)であり、市民の反乱を防止するための装置である。紀元前62年、カトーは貧民階級が革命を起こすのを恐れて、食糧を分配するように元老院を説得し、毎年750万ドラクメーが支出された。(cf.プルタルコス『カエサル伝』)ローマは、帝国領内、エジプト、シチリアから穀物を輸入した。エジプトは、地中海世界最大の穀物産地であり、ローマ帝国の食糧庫であった。飢えたる人々の反乱を防ぐために、エジプトからの穀物輸入を確保することが、ローマ帝国の支配体制が腐心する至上命題であった。
虐げられた人々の支配体制への反逆の意志は、貧富の格差が隔絶する程、強くなる。平和の鍵を握るのは、貧しき者である。眠れるローマの平和の時代においても、ローマ人は、反逆の意志をもっている。コロッセウムが倒れる時、それは市民を幻惑する幻覚剤、麻藥としての闘争競技が消える時ではなく、セイフティーネットである食糧の無料配給がなくなる時である。
貧しき人々、弱き人々への救済がなくなる時、世界は滅びる。
★黄昏のコロッセウム
★ウェスタ神殿(ヘラクレス・ウィクトル神殿)と真実の口広場
★参考文献 次ページ参照。
大久保正雄Copyright2003.02.05

2016年7月 4日 (月)

旅する皇帝、ギリシアを愛した皇帝たち ネロ、ハドリアヌス

Hadrians_villa_the_maritime_theatrePiazzadispagna大久保正雄『地中海紀行』第40回地中海のほとり 美と知恵を求めて3
旅する皇帝、ギリシアを愛した皇帝たち ネロ、ハドリアヌス

ハドリアヌスは、ギリシアを愛し、生涯にアテナイに4度滞在した。ハドリアヌスは、21年間の皇帝在任中、12年間、視察旅行に出た。ヴィッラ・アドリアーナの庭園にギリシア、エジプトの旅の思い出を鏤めた。
ネロは都が燃え盛っているさなか館の舞台に立ち炎上するのをまのあたりに見て竪琴を弾きながら「トロイア陥落」の歌を吟じた
劇場都市ローマの華麗な舞台装置、トレヴィの泉、スペイン階段、ナヴォーナ広場。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■ギリシアを愛した皇帝たち ネロ、ハドリアヌス
ローマ皇帝ネロ、ハドリアヌスは、ギリシア文化を愛した。
ネロ
ネロは、クラウディウス帝が毒殺された後、17歳で第5代皇帝に即位した。ネロはギリシア文化を愛好し、竪琴、詩、競技に熱中した。66年ギリシアに旅し、第211回オリュンピア競技会に自ら戰車競技に優勝した。64年ローマが大火で燃えローマの二分の一が灰燼に帰した。この時、ネロは都が燃え盛っているさなか館の舞台に立ち炎上するのをまのあたりに見て竪琴を弾きながら「トロイア陥落」の歌を吟じた。パラティヌスの丘からマエナケスの庭園までに及ぶ、ネロの壮大な宮殿「ドムス・トランシトリア」は燃え、廃墟の跡に黄金宮殿(ドムス・アウレア)を建設した。(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』、タキトゥス『年代記』)
ハドリアヌス
ハドリアヌスは、トラヤヌス帝の皇后プロティナの寵愛を受け、皇帝の死後、41歳の時アンティオキアで即位する。ギリシアを愛し、生涯にアテナイに4度滞在した。ハドリアヌスは、21年間の皇帝在任中、12年間、視察旅行に出た。戰爭目的の旅ではなかった。ハドリアヌスは旅する皇帝であった。ハドリアヌスはギリシア文化を愛し、詩人であり、また優れた建築家であった。ハドリアヌス時代はローマ建築史の絶頂期であり、皇帝廟、パンテオン、ヴィッラ・アドリアーナが建設された。ヴィッラ・アドリアーナの庭園にギリシア、エジプトの旅の思い出を鏤めた。ヴィッラ・アドリアーナ図書館には、ラテン語図書館、ギリシア語図書館があった。
ハドリアヌスのアテネ
ハドリアヌスは、スッラの軍隊によって破壊されたアテナイを灰のなかから蘇らせ、百柱の図書館を建て、ゼウス・オリュンピエイオス神殿壁面を完成させた。ゼウス・オリュンピエイオス神殿は、紀元前6世紀、僭主ヒッピアスの時代、基壇(ステュロバテス)のみが作られ、紀元前2世紀、セレウコス朝アンティオコス4世によって築かれた104本のコリントス式列柱が立つ未完の神殿であったが、650年の歳月を経てハドリアヌスによって完成された。現在、8本の列柱が殘るのみである。
ローマ皇帝とギリシアの弁論術
ローマ人の支配階層は弁論術の奥義をギリシア人に師事して身につけた。アウグストゥスは、ギリシア語の弁論術教師ペルガモンのアポロドロスに師事して、弁論術の領域においても秀でた。ユリウス・カエサルは、ロドス島に航海し弁論術を学び卓越した雄弁を発揮し帝国を築き、またティベリウスは権力抗爭を避けてロドス島に隠退し弁論術を学んだ。
ローマ藝術は、ギリシア藝術の複製であり、独創性を築き得なかった。例えば、ローマ彫刻のほとんどは、ギリシア彫刻の複製であり、皇帝像とハドリアヌスの愛した青年アンティノウス像以外は、すべてギリシア彫刻の複製である。アンティノウス像はローマ人が作った唯一の個性的彫刻であるといわれる。またローマ人はギリシアの命の籠った彩色壁画に到達することもできなかった。ローマが誇る技術は建築でありコンクリート工法により巨大建築を作り壮大な都市を築いたが、これに対しギリシア建築はまぐさ工法であり、切石を組み立てて大理石の周柱式神殿を作った。ギリシア建築は柱の建築であり、ローマ建築は壁面の建築である。イタリア人が生命漲る彫刻と絵画を作るには15世紀フィレンツェにおけるルネサンスを待たねばならなかった。ルネサンスは古代藝術の蘇りであることはいうまでもない。

■バロックの劇場都市 スペイン階段
ローマはバロックの劇場空間である。この町を歩くとき、人生の舞台を歩く激情を感じる劇場都市である。そこに生きる人が、観客でありかつ舞台の主役である舞台装置が満ち溢れている。トレヴィの泉、スペイン階段、ナヴォーナ広場は、劇場都市ローマの華麗な舞台装置である。
狭隘な迷路のような路地をたどると、トレヴィの泉広場がある。ここに至る道は5つあるがどの道を辿っても狭い道から急に視界が開ける。
トレヴィの泉
トレヴィの泉は、18世紀のバロック藝術の傑作である。1762年、建築家ニコラ・サルディが、紀元前19年アグリッパが作らせた乙女の泉(Aqua Vergine)の跡に復興した泉である。乙女の泉の記憶が、バロック空間の根底に息づいている。パラッツォ・ポーリの壁面に、勝利のアーチ、ネプテューヌス、左右に二頭の馬と操る御者トリトーネの彫刻が劇的に組み立てられて、建築と彫刻と水が劇的に調和している。
スペイン階段
スペイン階段は、1723年から建築家フランチェスコ・デ・サンクティスによって作られた。トリニタ・デイ・モンティ階段とも呼ばれ、丘の上のトリニタ・デイ・モンティ教会広場とコンドッティ通りをつなげるために作られた。かつて丘は、断崖の上にあり昇ることができなかった。トリニタ・デイ・モンティ教会(丘の三位一体教会)は、1502年にルイ12世の命によって建設が始められ100年後ボッロミーニの師、カルロ・マデルノによって建築された。 階段のバルコニーからコンドッティ通りとローマの町を眺めると、重層する時の流れが見える。スペイン広場のバルカッチャ(破船)の噴水は、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの父ピエトロによって設計された。
ナヴォーナ広場
ナヴォーナ広場は、ドミティアヌスの円形競馬場(ヒッポドロムス)の遺跡にある。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニのデザインにより、四大河の噴水、ムーア人の噴水、が作られ、19世紀、ネプテューヌスの噴水の彫刻が作られた。ベルニーニは、四大河の噴水で教皇インノケンティウス10世によって、認められ以後贔屓される。ナヴォーナ広場中央にあるサンタニェゼ・イン・アゴーネ教会は1652年インノケンティウス10世が発案し、ボッロミーニによって設計された。四大河の噴水のオベリスクは皇帝マクセンティウスの競技場から運ばれたものである。
ベルニーニ、ボッロミーニ
ナヴォーナ広場は、バロック藝術の盛期に活躍したベルニーニ、ボッロミーニによって構築された空間の傑作であり、トレヴィの泉、スペイン階段は、バロック藝術の終焉期を飾る傑作である。バロックの画家カラヴァッジオは、劇的な絵画をえがき、自ら劇的な数奇な生涯を生き、38歳で死んだ。自らの絵のような劇的な生涯である。バロック藝術の巨匠たちによって作られた空間は、この広場を歩く人を、人生の舞台の主人公にする。美しい町に生きる時、人生は美しい劇場である。地中海ほとり、いつまでもそこに佇み、眺めていたい風景がある。
■酔生夢死
酔うように生き、夢のように死んでいく人生。地位と名譽と富のためでなく、愛することに没頭して、夢を追求して、夢中に生きる人生。地中海的生活様式は眞の幸いを追求する。貧困層のために法律を詩で書いた賢者ソロン。名譽と榮光のためでなく、美と愛に耽溺する人生を生きた藝術家、フィリッポ・リッピ。止まることなき知的好奇心に駆られ多岐にわたる知的荒野を彷徨い、知的探求のみを求め、イタリアを彷徨い、終焉の地アンボワーズに辿り着いたレオナルド。美に溺れ愛に溺れたラファエロ。激情に溺れ破滅したカラヴァッジオ。地中海には、奇人変人がみち溢れる。地中海のほとり、人は美を追求する。美しい生が、地中海のほとりにある。
地中海的生活様式の根源に、己の理想に殉じて命をささげたソクラテスの生きかたが生きている。「ただ生きるのではなく、善く生きること、美しく生きること、正しく生きることが、人間にとって大切である。」プラトン『ソクラテスの弁明』魂は不死不滅であり、輪廻転生する。人は魂を大切にしなければならない。人は、知恵を愛し求め、美しく善い生きかたをしなければならない。人のゆくてには、生きかたの選択、愛の岐路がある。人は、何を愛するかによって、生きかたの形が現れる。人は、何を愛し、いかに生き、いかに死ぬかによって、精神の美が現れる。何故ならば、魂は不滅だからである。
★Villa Adriana,
Hadrian's Villa - The Maritime Theatre
★スペイン広場 Scalinata di Piazza di Spagna
★ 【参考文献】
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』岩波文庫1956
スエトニウス國原吉之助訳『ローマ皇帝伝』岩波文庫1986
タキトゥス國原吉之助訳『年代記』岩波文庫
國原吉之助訳『タキトゥス』世界古典文学全集22、筑摩書房1965
ディオゲネス・ラエルティオス加来彰俊訳『哲学者列伝』岩波文庫1984-1994
塚本虎二訳『新約聖書福音書』岩波文庫1963
南川高志『ローマ五賢帝―「輝ける世紀」の虚像と実像』講談社現代新書1998
青柳正規『古代都市ローマ』中央公論美術出版1990
青柳正規『皇帝たちの都ローマ』中公新書1992
森谷公俊『アレクサンドロスとオリュンピアス―大王の母、光輝と波乱の生涯』ちくま学芸文庫) 2012
プラトン『クリトン』
ソポクレス『コロノスのオイディプス』『ピロクテーテース』
エウリピデス『アンドロマケ』『オレステス』
大久保正雄Copyright 2002.10.30

2016年7月 3日 (日)

地中海都市の美と壮麗 ペルシア帝国、フィリッポス2世の夢

IranpersepolisIran_gold_rhython大久保正雄『地中海紀行』第39回地中海のほとり 美と知恵を求めて2
地中海都市の美と壮麗 ペルシア帝国、フィリッポス2世の夢

地中海都市は、美と壮麗を極め、人間の偉大と退廃を時空の彼方に刻む。
ペルシア帝国とギリシアの復讐のドラマ、
有翼日輪の翼に立つ雄姿。ディオニュソスの秘儀。
壮麗な都は、砂漠に佇む。

キュロス2世、メディアを滅ぼしアケメネス朝ペルシア建国。BC550
カンビュセス2世、エジプトを征服。BC525
ダレイオス1世即位。BC522ダレイオスの子クセルクセス王、ギリシア遠征。BC492
フィリッポス2世、即位。BC359王妃オリュンピアス、王子アレクサンドロス。
フィリッポス2世、王妃オリュンピアス、ディオニュソスの秘儀を受け、結婚。
マケドニア王アレクサンドロス、ペルシア方遠征開始。BC334
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■地中海都市の美と壮麗
最高司令官ペリクレス
最高司令官ペリクレスは、アクロポリスの丘の上に、アテナイの黄金時代、彫刻家フェイディアスを総監督として、パルテノン神殿を建設した。彫刻があふれる都、藝術の香る海洋都市を築いた。アゴラで問答が行われ、アクロポリスの麓、ディオニュソス劇場で壮麗な悲劇が演じられる祝祭の都であった。
ローマ皇帝アウグストゥス
初代ローマ皇帝アウグストゥスは、フォルム・ロマヌムを再建し、アウグストゥス広場を作り、壮麗な都を築いた。「煉瓦の都を受け継ぎ、大理石の都を残した」アウグストゥス。アウグストゥス様式と呼ばれる建築は、優美なヘレニズム様式に基づいている。広場とカピトリヌスの丘と円形競技場(キルクス・マクシムス)がローマの都市の舞台装置であった。飢えたる民衆の反乱を防ぐため、安全網として「パンとサーカス」が用意された。
ペルシア帝国、ダレイオス王
ペルシア帝国の最盛期を築いたダレイオス王は、ペルシア発祥の地パサルガダイを離れ、ペルセポリスを創建した。ペルシア王カンビュセス2世は、紀元前525年エジプトを制圧し第26王朝を滅ぼしペルシア系の第27王朝を樹立したが、ダレイオス王は、エジプト遠征の時、テーベのカルナック神殿を見て、アメン神殿、大列柱室から学び、ペルセポリスを構想し、大階段、ペルシア門、謁見宮殿(アバダナ)、百柱の宮殿、中央宮殿を築いた。
エジプト新王国ラメセス2世
ナイル河は、ヴィクトリア湖から降り多くの河口に分かれて、地中海に流れる。百門の都と謳われたテーベのアメン神殿は、エジプト新王国第18王朝、第19王朝が築いたが、大列柱室は第19王朝ラメセス1世の時、起工され、セティ1世を経て、ラメセス2世の時、完成された。大列柱室の林立する柱は、ナイル河のほとりに生い茂るパピュルス、池に咲くロータスの花の形象である。
クセルクセス王
ペルシア帝国のダレイオスの子クセルクセス王は、アテナイを襲撃、破壊したが、147年後、アレクサンドロスは、ペルシア帝国に対する報復を目的として、遠征軍を率いペルセポリスを破壊、ギリシアからインドに至る広大な帝国を築き、美しい地中海都市アレクサンドリアを構築した。地中海都市は、美と壮麗を極め、人間の偉大と退廃を時空の彼方に刻んだ。

■マケドニアの復讐 ディオニュソスの秘儀
マケドニア王フィリッポス2世と王妃オリュンピアス
地中海は多様な文明が対決し、テミストクレス、クセルクセス、ハンニバル、カエサル、多くの優れた英雄たちが現れたが、地中海世界最大の英雄はアレクサンドロスである。
マケドニア王フィリッポス2世とオリュンピアスは、エーゲ海に浮かぶサモス島でディオニュソス神の秘儀を受けたとき、出会い恋に落ち結婚した。ある夜、王妃オリュンピアスが寝室で大きな蛇とともに寝ているのを扉の陰から見たフィリッポス2世は、扉に目をぶつけ隻眼になった。以後フィリッポスは、オリュンピアスと交わることを避けた。王妃オリュンピアスはディオニュソスの秘儀に深く傾倒していた。オリュンピアスから生まれた王子がアレクサンドロスである。
王子アレクサンドロス
アレクサンドロスは、ミエザの深い森の蔭で、友人たちと、哲學者アリストテレスを家庭教師として、薫陶を受けた。アリストテレスは、プラトンの死後、エーゲ海の海辺アッソス、レスボス島で哲學を教えていたがフィリッポスに呼ばれてマケドニアにやって来たのである。アレクサンドロスは、アリストテレスの教えは生物学、医学の知識以外は受け入れなかったが、アリストテレスから贈られたホメロス『イリアス』を黄金の櫃にいれ、常に枕もとに置き、『イリアス』の主人公アキレウスを崇敬していた。そしてエウリピデスの悲劇を愛読し吟唱していた。BC338年フィリッポス2世はカイロネイアの戰いでギリシア軍を破りギリシアを制覇する。2年後フィリッポス2世が暗殺され、アレクサンドロスは即位する。BC334年アレクサンドロスは対ペルシア報復戰爭を目的としてペルシア遠征を開始した。マケドニア騎馬隊と長槍密集隊を以ってペルシア帝国軍と戦い、グラニコス河畔の戦いで勝利する。翌年アレクサンドロスは、イッソスの戦いで、ダレイオス3世のペルシア帝国軍を破る。シリア・フェニキア・エジプト攻略し、エジプトにアレクサンドリアを建設する。331年アルベラ、ガウガメラの戰いで勝利し、ペルセポリスを焼きアケメネス朝を滅ぼした。さらにインドに向かい、10年間ギリシア・マケドニア連合軍を率いた。323年アレクサンドロス大王は、志を抱いたまま没する。享年32歳である。ギリシア、マケドニアからエジプト、インドに及ぶアレクサンドロスの帝国は、マケドニアの將軍たちに殘された。
★参考文献 次ページ参照。
★『ペルシャ文明展 図録』2006
★Persepolis Iran
★Gold rhython of winged lion, 5th century BC. Achaemenid Empire
大久保正雄2002.10.30

2016年7月 2日 (土)

地中海の知恵 剣をとる者は剣にて滅ぶ 美と知恵を求めて 

Jerusalem_dome_of_the_rock大久保正雄『地中海紀行』第38回地中海のほとり 美と知恵を求めて1
美と知恵を求めて 地中海の知恵 剣をとる者は剣にて滅ぶ

月の輝く夜、黄昏の光が満ち、エーゲ海は紅く染まる。
私は美と知恵を求めて旅する。愛する人よ。絶望することなく、神々の試練に耐えよ。

「富める者が天国に入るのは、駱駝が針の穴を通るより難しい。」(『マルコ伝』『マタイ伝』『ルカ伝』)   *1
「たとえ全世界を手に入れても、己の魂を失うならば、何の利益があろうか。」(『マルコ伝』『マタイ伝』) *2
「剣によって立つ者は、剣によって滅びる。」(『マタイ』26:47~54)  *3
「幸いなるかな、汝ら貧しき人々、神の国は汝らのものである。幸いなるかな、汝ら飢えたる人々、満ち足りるようになるからである。幸いなるかな、汝ら泣ける人々、笑むようになるからである。」(『ルカ伝』)  *4
「死後、責め苦を負う金持ちの比喩」『ルカ伝』第12章16節~21節 *5
「蔵を建て替えた愚かな金持ちの比喩」『ルカ伝』第16章19節~21節 *6
『新約聖書』より。虐げられた者、貧しき者、侮蔑された者への愛がある。
地中海のほとり、美と知恵を求めて旅する。思想家と皇帝と藝術家たち。
愛に生き、美に耽溺する、地中海人。酔うように生き、夢のように死ぬ人生。
烈しい太陽の光が降り注ぎ、地中海は智慧をもたらす。人は、光を求める旅人である。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■美と知恵を求めて 地中海のほとり
輝く風が吹き渡り、枝を広げる葡萄の木の下で、古代から受け継がれた舞踊を踊り、食卓の下で動物たちが食べ物を待っている。地中海の午後、彫刻は古代の微笑みを湛え、列柱は光と影を生み、丘の上にアクロポリスがある。降り注ぐ光は、人間に智慧をもたらす。
夕暮には、薔薇とブーゲンビリアとジャスミンの香りがたち籠め、紺青の闇、満天の星の下、潮風が吹き、人は葡萄酒を飲みほす。生きることは饗宴のごとく、酔生夢死の人生がある。
光あふれる地中海は、死すべき人間に光の思想を教え、生きる知恵を教える。人は、みずからの光を求めて旅する、旅人である。地中海には、輝く智慧があり、人間愛の精神、意志を尊重する心、人間の弱さを受け入れる心の広さがある。
ギリシア人、フェニキア人、エトルリア人、ローマ人、ゲルマン人、アラブ人。ヨーロッパ文化は、多様な文化が出会い対決し融け合った、重層的な文化空間である。ヨーロッパの重層的文化空間の根源には地中海の文化がある。地中海文化を理解することがヨーロッパ文化を知る鍵である。
『地中海紀行』は、地中海都市の魅力を求めて、地中海のほとりを旅する、美と智慧の探求である。藝術作品のように美しい都市。光り輝く紺碧のエーゲ海。ルネサンス都市の美しい迷宮。人生の美を極めるイタリア。優美にして荒寥たるギリシアの大地。スペインの哀愁にみちた中庭。神秘の国エジプト。人類の叡智は、地中海のほとりで生まれた。不朽の芸術、不滅の思想。地中海人の美しい人生の記憶。地中海のほとりを彷徨い、美と知恵の秘密を探究する旅である。
地中海を旅することは、地中海の古典の世界を旅することである。ホメロス、プラトン、アリストテレス、エウリピデス、プルタルコス『英雄伝』、スエトニウス『ローマ皇帝伝』、タキトゥス『年代記』、ヴァザーリ『イタリアの至高なる藝術家列伝』。古典の世界を旅して、地中海人の人生のかたち、地中海的生活様式の美を探求することは、魂の扉を開くことである。そして、眞に豊かな人生とは何か、あるべき人間の生きかたとは何かを、問うことがこの書のテーマである。
地中海は、美を生みだす豊饒の海である。ギリシア人は、美の様式を生みだした。アルカイック様式、古典様式、厳格様式、崇高な様式、艶麗な様式、ヘレニズム様式の激情。比類なく美しい丘の上の列柱。ローマ人は、エトルリア人から円形アーチを受け継ぎ、ヘレニズム様式を展開して、都市空間の美の様式を生みだした。広場(フォルム)、劇場、円形競技場、図書館。ルネサンス人は、古代に完成された理想美を再生させ、古代のドラマの主題の中に、人間の葛藤のドラマを構築した。バロック藝術は、ヘレニズム様式の時空を隔てた蘇りである。
地中海には智慧の書が満ち溢れている。地中海の古典は、人類のあらゆる智慧が蓄積された不朽の泉である。叙事詩、抒情詩、ギリシア悲劇、哲學者の書物から、『新約聖書』、『哲學者列伝』、『皇帝伝』に至るまで、あらゆる生きかたが刻まれ、あらゆる思想が書かれ、あらゆる邪惡な人間が記録され、あらゆる美しい言葉が記憶された。血によって書かれた言葉のみが不滅であり、血によって学ばれた知恵のみがいのちを持つ。
■黄昏の旅人
黄昏の海を眺めていると、憧れ、恨み、愛、悩み、歓びが一つに融け合い、黄昏のハーモニーが聞こえる。地中海に沈む夕日を眺めながら、葡萄酒の盃を傾けると、生きる瞬間が黄金のように光る。肉体は精神の死を生き、精神は肉体の死を生きる。肉眼が眠る時、魂が目覚める。
黄昏刻になると、癒されることのない苦痛、孤独、楽しみ、怒り、憎しみ、絶望、歓び、すべての情念が一つに融け合って、魂の音樂になって、心の底から湧きあがり、すべて流れ去った時間を許すことができる。黄昏に殘照を浴びながら、海に沈む夕日を眺め、地中海の町を歩くと、潮騒のとどろきのかなたに、心の中の樂の音が聴こえる。天のハルモニアと地のハルモニアが照応する、宇宙の調和の音樂が、沈黙に木霊する。ピュタゴラス派の伝えによれば、宇宙の奏でる音樂を聞く者は、智慧に到達する。

■ギリシア悲劇 極限の智慧
ギリシア悲劇は限界状況に置かれた人間のあらゆる苦しみをえがき尽くす。悲劇詩人たちは、極限における人間の苦痛を直視する。アイスキュロス『オレステイア三部作』は文学史上、最も悲惨を極める悲劇であるといわれる。エウリピデス『オレステス』は、ギリシア悲劇の極限であり、復讐と運命の果てに、自己の運命に抗して謀を企てる人間の尊厳に到達した陰謀劇である。エウリピデス『オレステス』は、ギリシア悲劇の到達点である。  老いて異郷を彷徨うオイディプスの苦悩。敵国で憎む者の下で耐えながら生きるアンドロマケ。蛇に噛まれ、孤島に殘され不治の病に苦しむ英雄。(cf.ソポクレス『コロノスのオイディプス』『ピロクテーテース』エウリピデス『アンドロマケ』)
生きることの苦しみ、老いることの苦しみ、病めることの苦しみ、死ぬ苦しみ。愛する者を失う苦しみ、憎む者と出会う苦しみ、求めても得られぬ苦しみ、知覚する生きものである人間の苦しみ。ギリシア悲劇はあらゆる苦しみをえがき尽くす。生老病死、癒し難い苦しみから、人間の魂を救済するのは、何か。神々の恩寵か、英雄の行動か、智慧か。天から降ってくる霊感か。

■沙漠の星 虐げられた者、貧しき者、侮蔑された者の救い
星の輝きに導かれた人々
星が降る時、地中海の東の涯、ベツレヘムで生まれたイエス。ベツレヘムの星を探して東方の博士は沙漠を歩いた。イエスは、最下層の打ちひしがれた人々、軛につながれた人々に、自由と解放の思想を伝えた。地中海の智慧は、貧しき人、飢えたる人、泣ける人、弱き人を救う思想を持つ。
「たとえ全世界を手に入れても、己の魂を失うならば、何の利益があろうか。」(『マルコ伝』『マタイ伝』)
「富める者が天国に入るのは、駱駝が針の穴を通るより難しい。」(『マルコ伝』『マタイ伝』『ルカ伝』)
「剣によって立つ者は、剣によって滅びる。」『マタイ伝』
「幸いなるかな、汝ら貧しき人々、神の国は汝らのものである。幸いなるかな、汝ら飢えたる人々、満ち足りるようになるからである。幸いなるかな、汝ら泣ける人々、笑むようになるからである。」(『ルカ伝』)
人は戰いに敗れ傷ついた時、競爭の舞台から去って行かなければならない。だが人生の舞台は、その時に終わるのではない。敗北した後も果てしなく長い時間が続く。地中海には、傷つく魂を受け容れる智慧がある。挫折した者、傷ついた者、弱き者に対する愛と優しさがある。ナザレのイエスは、地上の榮光よりも天上の幸福が価値あることを説き、富や名譽より尊いものがあることを示した。そして學者や権力者の権威に抗し、地上の幸福よりも尊いものがあることを示した。世間から虐げられた者、貧しき者、富める者から侮蔑された者の方が、神の恩恵に価する者であることを訴えた。
競爭の勝者は、競爭によって滅びる。競爭に破れた者、人生に挫折した人に、優しい手を差し伸べることに、人間の尊厳がある。人の苦しみに共感し、救いの手を差し伸べることができない者の魂は、腐敗している。イエスの思想は、虐げられた者、最貧層、沙漠に生きる者の星であった。
★Jerusalem, Dome of Rock
★聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre
参考文献 次ページ参照。
大久保正雄2002.10.30

2016年7月 1日 (金)

アルキビアデス 波瀾の生涯 美しい容貌と邪惡な精神

Gabin_hamilton_rouvreAthena_thinking大久保正雄『地中海紀行』37回アテネ 黄昏の帝国2
アルキビアデス 波瀾の生涯 美しい容貌と邪惡な精神

アルキビアデスは、天性、様々な激しい感情を持っていた。
そのなかで競爭心と優越心が最も強かった。
若い頃、アルキビアデスはソクラテスの弟子となり傾倒した。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

アルキビアデス 美しい肉体と邪惡な精神
『地中海人列伝』16
■類い稀なる美貌と才能
アルキビアデス(紀元前450-404)は、アテナイの富裕な貴族エウモルポス家の出身である。軍人、政治家としてペロポネス戰爭末期に活躍した。父クレイニアスは、アルキビアデスの息子、BC480年アルテミシオンの戰いで武勲を立てた。(cf.ヘロドトス『歴史』第7巻17) 母はアルクマイオン家の一族、メガクレスの娘ディノマケーから生まれている。
 父クレイニアスがBC447~6年コロネイアの戰いでボイオティア軍と戰って死に、早世したため、クサンティッポスの子ペリクレスを後見人として成長した。アルキビアデスはペリクレスの甥である。
アルキビアデスは、類い稀なる美貌と才能にめぐまれた。プルタルコスは『対比列伝』に書いた。「アルキビアデスの肉体の美しさについては言うまでもない。肉体の美しさが、少年、青年、壮年あらゆる時期を通じて、人の心に快感をもたらし愛慕の心を起させた。エウリピデスのいうように、すべて美しきものは、その晩秋も美しい、とは限らないが、アルキビアデスや僅かな人たちについてだけ、この言葉は当て嵌る。」(プルタルコス)アルキビアデスは、天性、様々な激しい感情を持っていた。そのなかで競爭心と優越心が最も強かった。
若い頃、アルキビアデスはソクラテスの弟子となり傾倒した。ソクラテスは、アルキビアデスのなかに、容貌の美しさならぬ、精神の美質を見出していた。だが、多くの人々がアルキビアデスの輝く美しさに賛嘆し機嫌をとり、アルキビアデスの精神の美質は滅びつつあった。ソクラテスはアルキビアデスが虚栄に耽っているのを見つけ、目覚めさせた。プラトンの対話編『饗宴』、美をめぐる対話の宴のなかで、アルキビアデスは、ソクラテスの魂の美を醜いシレノス像の中に隠された純金の像に喩える(『饗宴』216d-e)。美貌のアルキビアデスが、貧しく醜いソクラテスの魂の美を賛えるのである。アルキビアデスは、ポテイダイア攻略(BC432-431年)に進撃し、ソクラテスと同じ陣営に宿り戦闘したが傷ついて倒れたので、ソクラテスが救った。またデーリオンの戰爭が行われアテナイ軍が敗走した時、アルキビアデスは騎馬で敵を殺し、徒歩で退却するソクラテスを守った。
 ペロポネソス戰爭の最中に政界に入る。甘美な弁舌によって、多くの民衆煽動家を圧倒した。弁舌の力を持っていることは喜劇詩人も認めた。紀元前421年ニキアスの尽力によって、アテナイとスパルタの間に和約が成立した。ニキアスの和約と呼ばれたのを忌々しく思い、嫉妬心から講和条約を破ろうと図った。反戰派のニキアスに対立する。アルキビアデスは、アルゴスの人々がスパルタに対する憎悪と恐怖から離反しようとしていることを知って、アテナイと同盟を結ぶよう吹き込む。ペロポネソス同盟の分裂を画策する。
 紀元前420年アルキビアデスは、スパルタの和平交渉の使節を追い返し、將軍に任命される。スパルタと敵対関係にある都市、アルゴス、エリス、マンティネイアとアテナイの同盟を結ばせることに成功する。再び戰爭を起こすように策略した。紀元前418年、マンティネイアの周囲に多数の盾を並べてスパルタに対抗させ、アルゴスの民主派が勝利を占めたところで、アルキビアデスが到着して民主派の勝利を確保し、城壁を築いて町と海を結び、アテナイ勢力に依存させた。アルキビアデスは、政策と弁論と計画と優れた手腕を顕示した。だが、宴会と愛欲に耽り、アゴラでは赤い衣裳を引き摺り、贅沢な浪費を恣にした。アルキビアデスは、祖先の名声、弁舌の冴え、艶麗な容姿、肉体の気力、戰爭の経験と武勲、などすべてがアテナイの人々を寛容にさせ、様々な欠点に目を瞑らせた。
 紀元前417年、ヒュペルボロスが廃止されていた陶片追放を導入することによりアルキビアデスを排除しようとしたが、逆にアルキビアデスは政敵と共謀してヒュペルボロスを陶片追放した。紀元前416年、オリュンピア競技に7台の戦車を参加させ、1、2、4位を獲得した。悲劇詩人エウリピデスは、アルキビアデスに詩を作って贈った。
 紀元前416年、アテナイは、メロス島討伐軍を派遣した。メロス島はアルキダモス戰爭中(BC431-421年)スパルタを援助したため、アテナイの指弾を受けた。アルキビアデスはメロスの壯年の男たちを虐殺し、婦女子を奴隷にしたことで非難をあび裁判にかけられた。
 紀元前416年、アルキビアデスは、セリヌスに敵対するセゲスタを援助するためアテナイのシチリア遠征軍を派遣することを唱え、シケリア島(シチリア島)に大艦隊を編成して航海し、シュラクサイを攻撃して屈服させるように説いた。ソクラテスはこの遠征がアテナイのためにならぬと考えた。いつものダイモーンが現れて警告を発したのである。ニキアスは反対したがこれを抑え、紀元前415年遠征を決議させる。アルキビアデスは、ニキアス、ラマコスとともに、シケリア遠征軍の將軍として選ばれた。
 しかし、民衆煽動家アンドロクレスが煽動し、キモーンの子テッサロスが、アルキビアデスをエレウシスの女神に対する冒涜の罪で告発した。アルキビアデスは、誹謗者たちをそのままにして航海できないといったが、人々は出航を命じた。140隻の三段橈船と5100人の重裝歩兵、1300人の弓兵、投石兵、軽裝歩兵、が武裝して出発した。
 アルキビアデスは、美貌、雄弁、戦略、あらゆる才能にめぐまれ、名門の誉れと富をもち、唯一の欠点は快楽に溺れる性格にあった。だが、アルキビアデスは破綻なき人生を生きていた。アルキビアデスの人生が狂い始めるのは、シケリア遠征からである。この時からアテナイの運命も狂い始める。

■アルキビアデス 波瀾の生涯
シケリア到着するや否や、ヘルメス像破壊(ヘルモコピダイ)、涜神行為の告発で召還される。これは反対派の策謀であり、冤罪であった。アルキビアデスは出航するとすぐに、紀元前415年9月メッセネーの町を奪い、イタリアのトゥリオイで本国に送還されるアテナイ船から脱出し身を隠した。欠席裁判の結果、有罪と決し、アッティカの財産は没収された。アルキビアデスは、判決が行われている時アルゴスに滞在していた。政敵により殺されることを恐れ、スパルタに使者を送り、敵国スパルタに亡命する。スパルタ人に指揮官ギュリッポスをシチリアに派遣しアテナイ軍を粉砕すること、アッティカの城砦デケレイアを占領すること、という策を授ける。アルキビアデスは、変わり身が早く、スパルタではスパルタ風の生活を身につけ世人を欺いた。人心収攬術を身につけ、習慣、生活に同調する心得があり、カメレオンよりも鋭敏に変貌した。
アルキビアデスは、スパルタ王アギスが戰爭に出た留守に、妃を誘惑して自分の子を宿させたが、妃は男子を産み、密かに子供の名をアルキビアデスと呼ぶほど、熱い愛慕が妃の心を支配していた。アルキビアデスは、自分の子をスパルタ王にするために王妃の子を作ったといったが、多くの人々がアギスに言い付けた。紀元前413年スパルタ王アギスはデケレイアを占領。アテナイは、ラウレイオン銀山を閉鎖せざるをえなくなり、重要財源を失い、没落の路を辿り始める。
紀元前414年アテナイは、シュラクサイを攻撃するが陥落せず。スパルタから救援軍がアテナイの包囲を破ってシュラクサイに到着する。紀元前413年7月アテナイ軍は敗北。8月27日夜、月蝕が起り、ニキアスは退却を1か月延期する。シュラクサイ軍は報復を開始する。アテナイ軍はシケリア島を這って退却を重ねる。名將デモステネスが救援に駆けつける。アテナイは餓えと渇きに悩まされシュラクサイで降伏する。指揮官ニキアスとデモステネスは死刑。捕虜となったアテナイ兵士7000人は、石切場に閉じ込められ、餓えと渇きと病いのため折重なって死ぬ。17世紀にカラヴァッジオが天国の石切場と呼んだ地である。
紀元前413年9月、アテナイ艦隊はシチリア島で全滅する。アテナイの威信は失墜した。スパルタには、キオス、レスボス、キュディコスからアテナイに離反し、スパルタ側につく使節が到着した。紀元前412年、アルキビアデスは、ラケダイモン艦隊を率いて、イオニアに渡り、イオニアのアテナイ同盟都市をほとんど離反させる。しかしスパルタ王アギス2世は、妃との事でアルキビアデスに敵意を持っていたが、さらに彼の名声に嫉妬心を抱いた。スパルタ人の最有力な最も名譽欲の強い人々が嫉妬からアルキビアデスを憎んでいた。アルキビアデスは、スパルタ人によって、死刑判決を受け、殺されそうになり、ペルシアの総督ティッサフェルネスの下に逃れ身の安全を図った。
 アテナイ艦隊はすべてサモス島に集結していた。アルキビアデスは、サモス島の寡頭政主義の將軍たちに使いを送り、アテナイを寡頭派によって占拠するならばペルシア総督ティッサフェルネスの支援を取りつけると言いくるめ煽動した。アテナイが寡頭派によって占拠されたならば、民主政を回復するため自らアテナイに進撃することを策謀した。サモスの寡頭派はペイサンドロスをアテナイに遣わし、5千人の市民が勢力を占め、紀元前411年6月寡頭派400人党が政権を手に入れた。アテナイで400人党に反抗した者は殺害された。だが同年9月アルキビアデスの仲間が、民主政のために協力し、400人党を潰滅させた。アルキビアデスは、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)のアビュドスでスパルタ艦隊とアテナイ艦隊が海戦を繰り広げている所へ、18隻の三段橈船で到着した。アルキビアデスは、敵兵を300人捕え、味方を救い勝利の標柱を立てた。
 紀元前411年アルキビアデスは、サモス島のアテナイ艦隊の指揮官に任じられ、秋、キュディコスでミンダロス麾下のスパルタ軍を壊滅、アテナイ軍は勝利する。(cf.トゥキュディデス『戰史』第8巻107) 紀元前409-408年冬、アルキビアデスは離反したビュザンティオンに向かい、この町を包囲した。激しい戦闘の後、アテナイ軍は勝利した。
紀元前408/407年初夏アルキビアデスは、アテナイに帰還した。8年に及ぶ放浪の末の帰国である。召還の決議は、紀元前411年秋通過した。カルライスクロスの子クリティアスが提案した。民衆が議会に集まってからアルキビアデスは姿を現し、様々な苦難を嘆き悲しみ、すべてを自分の不幸な運命と邪悪な守護靈の責任に帰し、市民を激励し、黄金の冠を授けられ、陸海両軍の総指揮官に選ばれた。
 紀元前407年春、スパルタの提督リュサンドロスは、ペルシア王アルタクセルクセス2世の弟キュロスから資金援助を受け、エーゲ海の制海権を掌握する。紀元前407/6年アテナイ艦隊の副官アンティオコスが、アルキビアデスの命令に従わずノティオンの海戰でスパルタと戰い敗北した。トラシュブーロスは、民会で民衆を煽動しアルキビアデスを告発、宴と快楽に溺れ指揮しなかったと誣告した。アルキビアデスは、責任を転嫁され將軍職を解かれ、アテナイ軍を去り、トラキアに逃れる。
 紀元前405年秋、アテナイ艦隊はアイゴスポタモイの海戰で撃破される。アテナイは、陸と海を封鎖され食糧補給路を絶たれ、飢餓に陥り、餓死する人々が現れる。紀元前404年、アテナイは無条件降伏する。8月アテナイに三十人僭主、独裁政権が成立する。アテナイの人々は、最も有力にして最も戰爭に優れた將軍アルキビアデスを追放したことを羞ずかしいことだと考えた。
独裁政権のクリティアスは、民主派のアルキビアデスが政権を奪還することを恐れ、スパルタの將軍リュサンドロスに、アルキビアデスを殺害するように忠告する。スパルタのリュサンドロスは、ファルナバゾスに遣いを送り、殺害を依頼した。アルキビアデスは、プリュギアのファルナバゾスの下に逃れるが、ファルナバゾスの手の者に暗殺される。ペルシア人たちに家の周囲を包囲され、遠くから槍と矢を放たれ、アルキビアデスは斃れた。
美貌の將軍アルキビアデスは、陰謀の名人で、策士、戦略の天才であったが、唯一の欠点は官能と快楽に溺れる点にあった。国家への忠誠はなく、敵国スパルタに戦略を指南し、蜥蜴のごとく変身をとげる。シケリア遠征とペロポネソス戰爭末期、二度にわたって、陰謀によって陥れられた。名聲を嫉妬し、私利私欲のために、陰謀を企む者の策謀である。名將アルキビアデスを欠いたことがアテナイの滅亡を招いた。その天才を発揮させることなく、敵国にアルキビアデスの才能は用いられた。爛熟と腐敗と内部分裂、煽動家による陰謀が、国家を滅ぼした。だが、アルキビアデスは、官僚制国家の官僚のように国民を犠牲にして私利私欲を追求するのではなく、残虐な独裁者のように暴力に溺れ猜疑心に駆られ暗殺に明け暮れることはなかった。才能に溺れ美に溺れた、ギリシア的な才人、英雄である。皇帝ハドリアヌスは、アテナイにアルキビアデスの彫像を立て英雄の死を刻んだ。
(cf.プルタルコス『対比列伝』「アルキビアデス伝」、トゥキュディデス『戰史』、プラトン『饗宴』)

悲劇の時代 メロス島の虐殺
■メロス島の虐殺
メロス島は、アテナイ人によって虐殺が行なわれた地である。ルーヴル美術館にあるミロのヴィーナス(メロス島のアプロディーテ)が発見されたのはこの島である。
紀元前416年夏、アテナイは「強者が弱者を支配するのは当然である」といい、ペロポネソス戰爭に中立を守るメロス島に支配下に入るように要求、メロス島はこれを拒否した。アテナイは、艦隊を派遣して包囲、アテナイの重裝歩兵はメロスの港から上陸して、攻撃、メロス人を攻めて追い詰め、大量虐殺を行なった。「成年男子すべてを殺戮し、婦女子を奴隷とする。」(cf.トゥキュディデス『戰史』第5巻84-116)メロス島虐殺事件は、將軍アルキビアデスが関与したとされ、アテナイで告発され裁判にかけられた。(cf.プルタルコス『対比列伝』「アルキビアデス伝」)
紀元前415年春、エウリピデス『トロイアの女たち』が上演された。『トロイアの女たち』は、トロイ戰爭後、敗北したトロイアの女たち、プリアモスの王妃ヘカベ、王女カッサンドラ、ヘクトルの妃アンドロマケの悲惨な末路を描く。ヘクトルの妃アンドロマケは、我が子を城壁から突き落とされ、婢女とされ、敵將の妻として、敵国ギリシアに連れて行かれる。トロイアの女たちは、絶望に打ちひしがれ悲嘆に暮れる。怨恨は果てしなく、怨嗟の聲は、劇中に響き、心を痛ましめる。この悲劇は、前年に起きたメロス島虐殺事件を想定して書かれたと思われる。殘虐を極めた、メロス島虐殺事件に対する詩人の悲憤のあらわれである。
■悲劇の時代
アイスキュロス『ペルシア人』(BC472)からソフォクレス『コロノスのオイディプス』(BC401)まで、現存する悲劇作品の時代は71年間である。ペルシア戰爭からペロポネソス戰爭終結まで、88年間に、アテナイの文化の黄金時代が築かれた。この時代にトゥキュディデスが生き、ソクラテスが生きた。
権謀術策、欺瞞、陰謀が渦巻く乱世。乱世に咲く花のように、英雄の死を刻む悲劇、エウリピデスの陰謀劇が生まれた。蜜のように甘く、毒のように劇しく、美貌の將軍アルキビアデスは、黄昏の国を生き、エーゲ海の波間に波瀾の人生を終えた。
★【参考文献】 プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻、岩波文庫1952-1956
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
トゥキュディデス久保正彰訳『戰史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-72
クセノポン根本英世訳『ギリシア史』1-2京都大学学術出版会1998、1999
村田数之亮、衣笠茂『ギリシア』世界の歴史第4巻 河出書房1968
大久保正雄『魂の美學 プラトンの対話編における美の探究』「上智大学哲学論集」第22号、上智大学1993
プラトン『饗宴』
プルタルコス『対比列伝』「アルキビアデス伝」
Alcibiades https://en.wikipedia.org/wiki/Alcibiades
★Gavin Hamilton,Vénus présentant Hélène à Pâris, 1777-80,Louvre
★Athena thinking mourning, acropolis museum
★沈思のアテナBC470 アクロポリス博物館
大久保正雄Copyright2002.07.31

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