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2016年7月18日 (月)

マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した戦略家

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大久保正雄『地中海紀行』54回アレクサンドロス大王2
マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した外交戦略家

独眼竜、フィリッポス2世、優れた武将、卓越した外交戦略家、
テーバイで騎馬隊戦術を学ぶ。
サモトラケ島で、紀元前360年、オリュンピアスは、ディオニュソスの密儀で、マケドニアの王子フィリッポス2世と出会った。
妹クレオパトラの結婚式で側近貴族がフィリッポス暗殺。王妃オリュンピアスとその子アレクサンドロスが裏で糸を引いて、殺害を使嗾。エウリピデス『メデイア』の詩を引用。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■フィリッポス2世
優れた武将、卓越した外交戦略家、教養人、テーバイで騎馬隊戦術を学ぶ。
フィリッポス2世は、優れた武将であるとともに、卓越した外交戦略家、ギリシア文化の知識を身につけた教養人であった。フィリッポスのように傑出した人物は、地中海世界において、空前であった。
■テーバイで、騎馬隊戦術、外交戦略
フィリッポスは、テーバイに人質として、15歳から18歳まで3年間滞在した。紀元前371年テーバイのエパメイノンダスらが、レウクトラの決戰で、スパルタを打倒した3年後、フィリッポスは、テーバイに行った。エパメイノンダスの下で、騎馬隊戦術、外交戦略、ギリシア文化、など、多くのことを学んだ。
■ピュタゴラス派のリュシス
ピュタゴラス派のリュシスが、イタリアのクロトンから僭主独裁政を逃れて、テーバイで子弟を教えていた。フィリッポスは、テーバイで騎兵戦術を学んだ。フィリッポスの兄ペルディッカスは、哲学者プラトンと相談した結果、エウフライオスを招聘した。その勧告に従って、ペルディッカスは、フィリッポスに所領を与えた。
■王位継承をめぐる争い 七人の妻
フィリッポス2世は、七人の妻を娶った。マケドニアは一夫多妻制であり、王位継承をめぐる争いが起った。兄弟間の抗爭があり、「兄弟殺しの法」があるオスマン・トルコ帝国のように、王位を継承した者は対抗者を殺害しなければならない。紀元前337年、フィリッポス2世は、恋して、クレオパトラと結婚する。フィリッポス7回目の結婚である。結婚の席で、アレクサンドロスは、クレオパトラの叔父アッタロスに侮辱を受け、盃を投げつける。フィリッポス2世、アレクサンドロスに対して剣を抜く。アレクサンドロス、母とともに、国外退去。母はエペイロスに、アレクサンドロス、イリュリアに行く。
■アレクサンドロスの妹クレオパトラの結婚式
側近護衛官パウサニアスに暗殺される
紀元前336年、夏、旧都アイガイで、アレクサンドロスの妹クレオパトラとエペイロス王アレクサンドロスが結婚式を挙げる。この結婚は、エペイロス王国とマケドニア王国の関係を修復するために、フィリッポス2世が画策したものである。クレオパトラはオリュンピアスの娘で、アレクサンドロスはオリュンピアスの弟であるから、2人は叔父と姪の関係であり、互いに幼なじみであった。クレオパトラは19歳、アレクサンドロスは25歳であった。政略結婚であるが良縁であった。結婚の祝宴で、フィリッポス2世が、貴族パウサニアスに劇場で、暗殺される。側近護衛官パウサニアスは、アッタロスに侮辱されたことに怨恨を抱き、それを罰しないフィリッポス殺害を実行した。
■フィリッポス暗殺事件
フィリッポス暗殺事件は、王妃オリュンピアスとその子アレクサンドロスが蔭で糸を引いた暗殺である。アレクサンドロスは、パウサニアスに、エウリピデスの悲劇の詩を引用して、「聞けば、汝、嫁の親と婿と嫁とを、脅しているという」(『メデイア』)と言って殺害を使嗾(しそう)した。アッタロスとフィリッポスとクレオパトラが、クレオンとイアソンとグラウケに対応するのであり、フィリッポスを殺すべしと指示したのである。メデイアが復讐したように、オリュンピアスは復讐を果たしたのである。フィリッポスは、47歳で死んだ。かくして、アレクサンドロスがマケドニアの王に即位した。
■アレクサンドロス誕生
アレクサンドロス3世
アレクサンドロスは、マケドニア暦ローオス月、アッティカ暦ヘカトンバイオン月6日、マケドニアの首都ペラの王宮で生れた。ポテイダイアを占領していたフィリッポスのもとに、同日、三つの報告が到着した。イリュリア軍が將軍パルメニオンにより激戦の末、敗れたこと。オリュンピア祭典の競馬で優勝したこと。アレクサンドロスの誕生である。アレクサンドロスが生れた時、フィリッポスは、予言者に「生れた子は不敗の將軍になる」と言われた。
アレクサンドロスは、小さい時から、節制の徳が現れ、肉体的な快楽には容易に動かされず、名譽心のために彼の精神は年齢に比べて重厚で気位が高かった。快楽も富も欲せず、勇気と名譽を求めていた。アレクサンドロスは、皮膚からよい匂いが出ていて、その芳香が口ばかりでなく全身を包んでいたために、香りが着衣に染みていた、とアリストクセノスの『回想録』に書かれた。アレクサンドロスの姿を最もよく表わした彫像は彫刻家リュシッポスの作品であり、アレクサンドロスはリュシッポスにだけ彫刻を作らせるのがよいと考えた。頸を軽く左に傾ける癖と目に潤いがあるという特徴があり、藝術家リュシッポスがこれを正確に捉えていた。首が左傾していたのは帝王切開により生れたのが原因である。アレクサンドロスの宮廷彫刻家リュシッポスは、この時代最高の青銅彫刻家であり、生けるがごとき写実的作風により有名で肖像彫刻に秀でた。アレクサンドロスの宮廷画家アペレスは、『アプロディーテ・アナディオメネ』『誹謗』で有名である。1800年の歳月を経て、ルネサンス時代、ボッティチェリは『海から上がるヴィーナス』を描く。
フィリッポスは、アレクサンドロスの天性が動かされ難く、強制には反抗し、理には服して、為すべきことに向かうのを見て、命令よりは説得することを試みた。
■哲学者アリストテレスを招き、緑深いミエザのニュンフの聖域
哲学者アリストテレスを招き、立派な報酬を払った。学問所として、緑深いミエザのニュンフの聖域を指定した。アレクサンドロスは、倫理学、政治学のみならず、哲学者たちが口伝(アクロアティカ)、秘伝(エポプティカ)と呼ぶ秘密の深奥の教えも受けた。アレクサンドロスはアリストテレスから医学、自然学を最も多く学んだ。天性、學問、読書を好んでいた。ナルテコス(茴香) の小筺の『イリアス』と呼ばれるアリストテレスの校訂本を携えて、つねに短剣と一緒に枕の下に置いていた。(cf.プルタルコス『アレクサンドロス伝』)
アレクサンドロスは、遠征中、ペルシア帝国では手に入らない、エウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスの悲劇、哲学書、ディオニュソス讃歌の詩を、マケドニアから贈らせた。アリストテレスをはじめは讃嘆していたが、後に疑いを抱き、敵意を感じるに至った。アリストテレスの哲学は、自然界を、四つの原因、形相、質料、始動、目的によって分析したが、人間の行為を自然界の現象と同じように分析するアリストテレスの學問からは、事実の解明しか生れず、事実には何の価値もないと、考えるに至った。アレクサンドロスの知恵の渇望を、アリストテレスの学問は、満たすことはできなかった。(cf.プルタルコス『アレクサンドロス伝』)
★PhilipposⅡ、Macedinia,フィリッポス2世 テッサロニキにて
★参考文献、次ページ参照。
大久保正雄Copyright 2002.12.25

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