グラナダ アルハンブラの残照
早春の黄昏はアルハンブラを思い出す
糸杉が聳え立つ丘の上の城砦、アルハンブラの紅い塔群
シエラ・ネバダの白銀の嶺々から流れる清冽な水
獅子の中庭に、黄昏の光が満ちる時
微風に香る、昧爽の天人花の中庭
糸杉薫る離宮、ヘネラリーフェの中庭
花盛りの森から、花の香りが溶けあい立ち昇る
憂いにみちたグラナダのアラブ王は、美的洗練を極める
絶望の果てに生まれた、美の王國、アルハンブラ
闇が深ければ深いほど、星は輝きを増す。
苦惱と忍耐の歳月が、輝ける復讐の時を美しくする。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
【地上の樂園】
闇が深ければ深いほど、星は輝きを増す。苦惱と忍耐の歳月が、輝ける復讐の時を美しくする。強國の武力に屈し、忍従と屈従的軍務に服する風雪の歳月。イベリア半島に孤立する王國グラナダ。斷崖の上に立つ城砦アルハンブラに、閉ざされた宮殿。征服の野心はすでに遠い過去の夢となり、庭園の花の香りに包まれて、王は詩の王國に君臨する。
苦難を耐え忍び、屈辱に塗れ、憂いのはてに死を思いながら、希望を持ち續けるためには、人は内なる樂園を作らねばならない。例えばそれは、復讐の夢、異國の安住の地、涯てしない旅、地中海の隠者の島、旅路の果てに愛する人と再会することである。
【花吹雪】
花吹雪吹き、花びらが舞い、沈丁花、石楠花、牡丹櫻、木蓮の花の香りが溶けあい、風にただよい流れて來る。孤塔に閉じ籠もり花吹雪を眺めながら、日が昏れるまで、書物を讀み執筆していると、黄昏刻、斷崖の下に花の香りが立ち罩め、私は早春のグラナダ、花ざかりの森を思い出す。
あらゆる努力を盡くし、最善を盡くしても、努力が稔らぬ時、魂は絶望に襲われる。絶望は癒し難い心の傷であり、絶望の淵に沈む時、人は死の淵に佇んでいる。絶望、それは死に至る病である。死の淵から立ち上がり、蘇るためには、人は聖なる地に赴き生贄をささげねばならない。そして、呪われた地に行き、死闘を繰り広げねばならない。
しかし復讐を遂行することができぬ時、薫香漂う樹林の午後、暁闇のパティオの花園を逍遥する逸樂の日々がある。優雅な生活が最高の復讐である。
ユースフ1世は、庭園の人であった。外界から閉ざされた空間、書庫の暗闇、詩の王國、そして美しい庭園の中に生きた。ユースフ1世とその子ムハンマド5世は、アルハンブラの美的洗練を極めた。
この現身の人生は一度しかない。生きる樂しみを追求しなければ生きる価値がない。自己が眞に愛するものを追求することが眞實の樂しみであることをグラナダのアラブ王たちは知っていた。勝利と名譽と榮光を追求することは、虚榮の快樂である。
生きる歓びが溢れるほど、生の限界である死を深く意識する。死を意識すればするほど、生きる歓びは深くなる。限りあるいのちをもって、限りない世界を探求することは不可能である。しかし限りあるいのちであるからこそ、美しいもの、自己が眞に愛するものを探求する樂しみに、人は命を燃やして止まない。
地中海人はこのことを深く知っている。地中海をのぞむ、ギリシアのカフェ、トルコのチャイハネ、シチリア島のバールで、一日中、海を眺めながら、何もせず無為の逸樂を樂しみ、語り合っている地中海人たち。アンダルシアの木蔭で午睡(siesta)にまどろむアンダルシア人。そこには、庭園を散歩するグラナダの王のような人生の樂しみがある。
【グラナダ 落日の王國】
グラナダ(Granada)は、アラビア語で「柘榴の實」を意味する。ローマ帝國時代、丘の上に城砦を築き、城塞都市として誕生した。1236年コルドバがカスティーリア軍に攻撃され陥落。以後、ナスル朝(1230-1492)グラナダ王國の首都として榮華を極める。イベリア半島におけるイスラーム最後の牙城である。
グラナダ王國は、その成立の初期から薄氷を踏む勢力均衡の力學の上に成り立つ。グラナダの王と妃たちは、終末の宴を樂しむように、滅亡の予感を感じながら、閉ざされた樂園のなかで逸樂の日々を過ごした。ムハンマド1世朱髭王(1195-1272)は、カスティーリア王國と屈辱的な条約を結ぶことにより、グラナダを危機から救ったが、朝貢と軍事的協力を強いられ、イスラーム國であるセビリア包囲戰に參戰し、凱旋の時の歓呼に応え、血を吐く一言を殘す。「神のみが勝利者である」。以後この語句はアルハンブラの壁に刻まれる。かくて、惱める王國グラナダの苦惱を深めることになる。
ユースフ1世(在位1333-1354)による、美的趣味の飽くことなき探求の果て、アルハンブラに優雅な裝飾藝術の極致が生みだされた。詩人イブン・ザムラクの詩句が獅子の中庭に刻まれている。「この比類ない美しさに匹敵するものを見いだすことはアッラーでも難しいだろう」
ユースフ1世は、「コマレス宮」「裁きの門」「囚われの貴婦人の塔」を建て、その子ムハンマド5世(在位1354-1359,1362-1391)は、「獅子宮」「獅子の中庭」「祝福の間」「コマレス宮ファサード」を建てた。
美的洗練を極めた宮殿、洗練された夢幻の空間の彼方、城壁の彼方には、敵對するキリスト教國の猛禽のごとき眼差しがある。
【アルハンブラ宮殿】
紅い丘の上に立つ城砦。斷崖の上にアルハンブラ宮殿がある。アルハンブラ(Alhambra)は、紅い岩山に築かれたので、この名(al-Hamra.赤きもの)がある。
城壁に囲まれたアルハンブラ(Alhambra)には七つの宮殿があった。今、殘るのはコマレス宮、獅子宮、パルタル宮、ヘネラリーフェ離宮のみである。宮殿の中に8つのパティオがある。獅子の中庭、天人花の中庭、リンダラハの中庭、マチューカの中庭、マドラシャの中庭、無花果の中庭、アセキアの中庭、王妃の糸杉の中庭。東の外れに、夏の離宮ヘネラリーフェがある。
丘の上に立つアルハンブラは、15の塔をもつ。朱色の塔、七層の塔、王女たちの塔、囚われの貴婦人の塔、パルタル宮貴婦人の塔、コマレスの塔、忠誠の誓いの塔、貴紳の塔、武人の塔、王妃の塔、夜警の塔、盾の塔、罅割れた塔、見晴しの塔、見張りの塔。聳えたつ塔に立ちシエラネバダの微風に吹かれながらヴェガ(沃野)を見下ろすと、花盛りの森がある。
アルハンブラは、華麗なアラベスク模様の裝飾が至るところに施され、多くの部屋が迷路のように、配置されている。
脆く儚い王朝の礎の上に、滅びゆく束の間の時を愛惜するように、華麗な藝術の花を咲き誇るアルハンブラ。王は、詩を作り、學問に惑溺し、美的趣味の極致、洗練された藝術的美、裝飾的樣式美を、その極限まで追求した。中庭に咲く花々、立ち昇る薫香の香、リュートを奏でる美しい王女。透かし彫りの窓を通して空間に蔭る光。微光の中で繰り広げられる逸樂の日々。閉ざされた地上の樂園アルハンブラ。その繊細華麗な美しさは、憂いが漂う殘照の美しさである。
【獅子の中庭】
獅子の中庭は、124本の大理石の細い列柱が立ちならぶ回廊に囲まれている。中庭には12頭のライオンが雪花石膏(alabaster)の水盤を支え、静寂の中に、シエラネバダの嶺から流れる水を湛える噴水が、微かな音を立てながら湧き流れる。
「獅子のパティオ」を中心として、椰子の樹に喩えられる列柱、その周囲に「諸王の間」「モカラベの間」「二姉妹の間」「アベンセラーヘの間」が配置され、「天人花のパティオ」を中心として「コマレス宮」「祝福の間」「玉座の間」が配置されている。建築家は、沈鬱なアラブ王の心を慰めるために、眼を愉しませる庭園を築いた。
「建築と自然の調和」を課題として取り組んだイスラーム建築は、光が降る中庭とそれをかこむ建築から成り立つ。水が湧き流れ、樹蔭が織り成す光と影。パティオには、柘榴、石楠花、糸杉、天人花、オレンジ、花と香りと、地上のいのちが満ち溢れる。アルハンブラは「水と光の宮殿」「閉ざされた樂園」と呼ばれる。洗練を極める「光と影の空間」である。
薫香燻ゆる広間、絹の絨毯、リュートを奏でる美しい王女。透かし彫りの扉と採光窓から射し込む微光。旅人は、時の迷路に迷い込み、幻想と現實との境に時を忘れる。時が織りなす光と影の狭間から、苦惱と絶望にみちたアラブ王の溜息が聞こえる。
現身の王國は敵對する異教の國々の中で孤立し、屈辱的な条約の締結を余儀なくされ、合従連衡に明け暮れる日常。存亡を賭けて戰いつづけた戰士たち。對應に苦慮する王は、學藝に没頭し、美の王國に耽溺する。
★アルハンブラ宮殿 諸王の間
★獅子の中庭
★天人花の中庭
COPYRIGHT大久保正雄 2001.04.25
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