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2016年6月の記事

2016年6月30日 (木)

アテネ 黄昏の帝国 メロス島攻撃、シケリア遠征

Ookubomasao107Ookubomasao105大久保正雄『地中海紀行』第36回アテネ 黄昏の帝国1
アテネ 黄昏の帝国 メロス島侵攻、シケリア遠征

アルキビアデスが策謀にあけくれ策に溺れ、
エウリピデスは陰謀劇を書いた。
メロス島侵攻、シケリア島遠征。
海が血に染まる時、苦悩と痛みが大地に染み、
流された血は、復讐を呼ぶ。

蜜のように甘く、毒のように劇しく、
藝術の花咲き乱れ、爛熟する、黄昏の帝国。
驕れる強者に、復讐せよ。
英雄の苦難と自己犠牲は、復讐の遂行によって輝く。

人は、愛しき人のために戰い、復讐する。
国は滅び、愛する者は死に、愛のみが藝術となって残り、
烈しい光が降り、空は深く、エーゲ海は輝く。
愛する人の面影のように。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■アルキビアデス 蜜のように甘く、毒のように劇しく
陰謀、裏切り、誣告、暗殺。何でもありのポリス。血は血を招き、眞実は闇に覆われる。国家利益を考慮せず、私利私欲を貪り、虚偽によって人を陥れる、アテナイ人の虚妄の正義。藝術が花開き、爛熟する、昏迷の帝国アテナイ。権力をもつ者は力に溺れ、弱者を虐げる。倨傲に至り、栄光は迷妄に変わり果てる。
惡は権威の裝いをもって現れ、善は貧しい衣裳をまとい地位低い者に存在する。優れた能力と惡巧み、欺瞞と眞実、美と醜、善意と惡意、相反するあらゆるものが共存する、魂の闇。心という名の混沌、深い淵。権力者が高い地位と美しい衣裳を身に纏い、惡虐な行爲を行い、正しき人を陥れる時、大地に血は染み、勇者の血は復讐を招く。大地が吸った血は、消えず、凝固し、復讐を呼ぶ。虐げられた勇者の復讐がはじまる。
権謀術策、陰謀のための欺瞞、権力欲。国家利益を犠牲にして私利私欲を貪り、正義の名の下に不正がなされる、帝国の黄昏時。藝術は花開き、善美なる人は滅びる。美貌の將軍アルキビアデスが策謀にあけくれ策に溺れ、エウリピデスは陰謀劇を書いた。

■美しい精神と美しい肉体
眞に美しいものは、美しい姿で現れるとは限らない。醜惡な人間が高い地位と美しい衣裳を身に纏って現れ、心が美しい人が容貌美しからず低い地位と貧しい衣裳で現れるということがある。人は権力と地位と富を持つと醜惡な魂を持つようになる。時に、美しい肉体に醜い精神が住み、美しからぬ肉体に美しい精神が住む。見かけの美しさは、内容の美しさと一致しない。美しい魂と美しい容姿は時に対立する。
アルキビアデスは、美しい肉体を纏い、醜い魂をもつ。ソクラテスは、美しからざる肉体を纏い、美しい魂をもつ。美しい者は醜く、醜い者は美しい。美しい容貌と邪惡な魂。顔貌は美しからず貧しいが純粋で美しい魂。
魂の美しさを見るのは、肉体の美しさを見るほど容易ではない。魂は見えない。魂は、魂から生まれた行動と言葉によってのみ見ることができる。だが、邪惡な魂も、美しい肉体や家柄や富で覆われて、人間の眼を欺いている。魂は見ることができない。だから邪惡な人間が人を欺くことができる。惡が善を駆逐し、善が惡に虐げられる世界。正義が実現するためには、復讐が為されねばならない。

■黄昏の帝国 アテナイ敗北
アケメネス朝ペルシア帝国と戦ったアテナイ。アテナイは、自ら権力を誇示し、エーゲ海に君臨する帝国となる。権力に抵抗する勇者から、権力に溺れる覇者となる。驕れる強国は、久しからず。権力に溺れ、弱者を虐げる者は、復讐の女神(エリニュエス)の復讐を受ける。
 同盟国に対する彈圧がナクソス島攻撃から始まる。アテナイは、エーゲ海の島々を彈圧する。紀元前468~7年、ナクソス島が、同盟から離叛したため、アテナイは攻撃し、属国とした。(cf.トゥキュディデス『戰史』第1巻98) デロス同盟から離叛した国に対する最初の攻撃である。アテナイの帝国化はこのとき始まる。アテナイは、国々に民主制を強要、アテナイの度量衡、通貨使用を強制した。紀元前463~2年、タソス島反亂軍が降伏する。紀元前467~6年、アイギナ島、降伏。紀元前466年、エウボイア島反亂軍、降伏。
 紀元前427年、レスボス島、ミュティレネの反亂軍が降伏する。アテナイの民会(エクレシア)は、全市民を処刑、婦女子を奴隷として売却することを決定、その夜、処刑令状を携える三段橈船が出帆する。しかし翌日、反乱者に対する処罰が過酷であることを後悔し激しい議論の末、撤回を決定、赦免を伝える三段橈船が出発する(cf.『戰史』第3巻36-49)。
 紀元前425年8月、交戰派の煽動家クレオンがスパクテリア島を陥落(cf.『戰史』第4巻26-41)。冬、クレオンは枯渇した国庫に軍資金を満たすため、デロス同盟の納賦金を1460タラントンに引き上げた(「年賦金増額碑文」Tod,Nr.66,BC425)。喜劇詩人アリストパネスは『バビュロニア人』『アカルナイの人々』『騎士』を書いてデロス同盟を批判した(426-424)。
 紀元前416年、アテナイ軍はメロス島に侵攻、冬、婦女子を奴隷として売却、全市民を虐殺する。紀元前415年、アテナイはシケリア島に遠征軍を派遣する。紀元前413年9月アテナイ海軍がシケリア島シュラクサイで全滅する。捕虜となったアテナイ兵士7000人が、餓えと渇きと病気のため折重なって死ぬ。紀元前412年、エーゲ海の島々、キオス、レスボス、ミレトス、ロドス、アテナイから離反する。ラケダイモン側につく。エーゲ海の軍事拠点はサモス島のみとなる。紀元前411年、サモス島のアテナイ海軍がロドスを海上から攻撃する(cf.『戰史』第8巻55)。シケリア島遠征以降、アテナイの滅亡が始まる。紀元前405年秋、アテナイ艦隊はアイゴスポタモイの海戰で撃破され、陸海を封鎖され食糧補給路を絶たれ、餓死する者が溢れ、紀元前404年アテナイは無条件降伏する。アテナイ人は自らが行ったように虐殺され復讐されることを恐れた。権力者の私利私欲の追求が、国家を滅亡させたのである。
★【参考文献】次ページ参照
★アンティキュテラの青年 Lysippos BC350-320 アテネ考古学博物館
★黄昏のロドス島
★カリアティデス(女人柱) アクロポリスの丘
大久保正雄Copyright2002.07.31

2016年6月29日 (水)

ペロポネソス戦争 落日の帝国 アクロポリスの建築家たち

Partenon_0120130420大久保正雄『地中海紀行』第35回
蜜のように甘く、毒のように劇しく2
ペロポネソス戰爭 落日の帝国アテナイ アクロポリスの建築家たち

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

ペロポネソス戰爭 落日のアテナイ
■ペロポネソス戰爭 落日の帝国アテナイ
アテナイは、デロス同盟結成により、エーゲ海の島々、イオニア都市を配下に置き、エーゲ海に君臨する帝国となった。帝国主義政策の下、急激に覇権を誇るアテナイとペロポネソス同盟の強国スパルタとの間の軋轢がたかまる。商業都市コリントスはアテナイに圧迫され、アテナイに敵意をいだき、スパルタに開戰を決議させる。紀元前431年3月、テーバイ軍がアテナイの同盟国プラタイアを攻撃。ペロポネソス戦争(BC431-404年)が始まる。紀元前431年5月、スパルタが陸軍を派遣し、ペロポネソス同盟軍がアッティカに侵入、アテナイの農地を蹂躙する。(トゥキュディデス『戰史』第2巻47)
これに対しアテナイは、ペリクレスの指揮の下、周辺の村々から住民を集め、城壁の内に立て籠もり、海上で敵を攻撃するという作戰を取る。紀元前431/430年冬、ペリクレスは葬礼演説を行う。紀元前430年6月、アテナイで疫病が流行。ペリクレスの籠城作戦が裏目に出る。人口が密集した城壁の内に伝染病が蔓延する。城壁内は死屍累々、死體は腐臭を放ち、悲惨を極める状況が現出した。死者は死者を招き、累積する死體がさらなる犠牲者を招いた。全人口の3分の1、約10万人が死亡した。紀元前429年、ペリクレスも疫病で死ぬ。だがペリクレスの作戰は成功し、紀元前425年スパルタは講和条約を提案するが、クレオンは強硬策を主張し拒否する。
紀元前423年、歴史家トゥキュディデスが陶片追放される。スパルタの名將ブラシダスがアンフィポリスを攻略し、和平への機運が高まりクレオンとブラシダスの死後、紀元前421年ニキアスの和約が成立する。だがアルキビアデスがスパルタに対抗する活動を展開、アルキビアデスの提案によりシチリア遠征(紀元前415-413年)を遂行する。シチリア遠征は失敗し、アテナイ海軍は全滅する。紀元前413年以降、スパルタがアッティカの交通の要衝にあるデケレイアを占領、食糧を外国に依存するアテナイは、食糧の輸入が困難になり困窮する。デロス同盟の同盟都市は離反する。ペルシアはスパルタに海軍の軍資金を提供しアテナイを圧迫する。これに対してアテナイは海軍を再建、エーゲ海東海域で戰い、將軍アルキビアデスが活躍し、勝利を重ねる。スパルタのリュサンドロスは、ペルシアから得た軍資金により海軍を装備するが、紀元前406年アテナイはアルギヌウサイの海戰で勝利する。スパルタは講和条約を提案するが、アテナイは再び拒否。だが、紀元前405年アテナイ艦隊はアイゴスポタモイの海戰で撃破される。海上封鎖され食糧補給路を絶たれ、飢餓に陥り、翌年、アテナイは降伏。デロス同盟は解散。12隻を殘して、艦隊はすべてスパルタに没収され、ペイライエウスの城壁は破壊される。この戰爭以後、アテナイは衰亡する。だが、アテナイのみならず、全ギリシアは衰退の一途を辿る。

■アクロポリスの建築家たち
アクロポリスの丘の建築は、紀元前448年パルテノン神殿の起工から、ペロポネソス戰爭の最中も継続され、407年エレクテイオン神殿の完成まで、40年に亙って行われた。  パルテノン神殿は、彫刻家フェイディアスの総監督のもとに紀元前448年に起工、建築家イクティノスが設計し、建築家カリクラテスが施工した。破風彫刻が432年に完成され、パルテノン神殿が完成した。
プロピュライア(前門)は、ムネシクレスが設計し、紀元前438年起工、431年に未完ながら竣工された。アテナ・ニケ神殿は、紀元前448年建築家カリクラテスが設計、完成したのは421年である。カリクラテスは、ニケ神殿とよく似たイオニア式神殿をイリソスのほとりに建てた。
■カリアティデス(6体の女人柱) BC407 
エレクテイオン神殿は、紀元前421年に起工し、407年完成した。
建築家イクティノスは、バッサイのアポロン・エピクリオス神殿(紀元前440-420年)を設計、エレウシスの聖域にテレステリオン(秘儀堂)を設計した。アテナイと外港ペイライエウスを結ぶ長壁は、ペリクレスによって提案され、カリクラテスによって建設された。さらにペリクレスは、オデイオン(音樂堂)の建設を推進した。
フェイディアスは、ペリクレスとの友情により、パルテノン神殿の監督を行い、黄金の女神像を作ったが、これが人々の嫉妬と惡意を招いた。このため、フェイディアスは、牢獄に投じられ病気のため死んだ。或いはペリクレスに非難を浴びせるために敵の一派が毒藥を盛った。(cf.プルタルコス「ペリクレス伝」31)
五賢帝時代、プルタルコスは、パルテノン神殿は「美しさに於いては古風、鮮やかさに於いては今に到るまで生々しく出來たて、新しさが輝き、時間の手に汚されない、作品が、常に放つ香氣と、老いぬ魂を持つ」(cf.プルタルコス「ペリクレス伝」13) と書いた。
世にも類い稀な美しい建築を生みだした藝術家フェイディアスは、人間の嫉妬心によって命を絶たれた。黄金時代のアテナイを動かしていたのは、蜜のように甘く、毒のように劇しい、死すべき人間の有限なる精神であった。

★Parthenon アクロポリスの丘 パルテノン神殿 
★Cariatides Erecteion, カリアティデス(6体の女人柱) BC470
★【参考文献】
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻、岩波文庫1952-1956
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
トゥキュディデス久保正彰訳『戰史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-72
アリストテレス村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』「アリストテレス全集」第15巻1973
プルタルコス『対比列伝』「ペリクレス伝」「アルキビアデス伝」「ディオン伝」
大久保正雄Copyrigh2002.07.03

2016年6月28日 (火)

ペリクレス 蜜のように甘く、毒のように劇しく

Acropolis_cariatides_0大久保正雄『地中海紀行』第34回蜜のように甘く、毒のように劇しく1
ペリクレス、輝ける精神 蜜のように甘く、毒のように劇しく

破壊されたアクロポリス、
死の灰の中から蘇る、美しいポリス。
自由のために戰い、いのちを生贄にしたアテナイ人。
彫刻に溢れた都。
黄金時代、血と涙と苦悩の中から、
生まれる、不朽の藝術。
輝ける精神の結晶、パルテノン。

燦めく星のごとく、輝く魂が生まれた、
輝ける都、アテナイ。
蜜のように甘美に、毒のように劇しく、
偉大な都は、頽廃を極める。
血と苦悩の中から、眞の智慧が生まれ、
智慧の梟は、黄昏に飛び立つ。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■蜜のように甘く、毒のように劇しく
アテナイは、人類史上類まれな優れた人々を生み出したが、また邪惡なる人々を生みだした。ペリクレス、ソクラテス、プラトンを生み出したのは、アテナイであるが、またシケリアのシュラクサイの独裁制と闘ったディオンを裏切り殺害したのはアテナイ人であった。「アテナイの土地が最も甘い蜜とともに最も劇しい毒人參を生ずるように、アテナイの町は最も徳性の優れた人々とともに最も邪惡の甚だしい人を生ずる」(プルタルコス)
 美しい容貌に邪惡な魂がすむ。そして容貌は美しからず貧しい者が純粋で美しい魂をもつということがある。ソクラテスを生みだしたアテナイは、またアルキビアデスを生みだした。人間の内には、善と惡が絡み合い、善惡いずれとも判断しがたい。だが、能力は優秀であるが、意志が邪惡である時、それは惡というべきである。能力の優秀さは、時として、根源的な惡と結びつくことがある。惡と戰う時、眞実が現われる。
イタリアは、ルネサンス、バロック時代、優れた藝術家を生みだした。レオナルド、ミケランジェロ、ベルニーニ。藝術家たちは、神技の如き、作品を生み出したが、彼らが優れているのは、優秀な技術をもち、人にまさる作品を生み出したからではない。藝術家たちが偉大であるのは、苦悩の果てに、美を生み出したからである。藝術は、たとえ束の間の美であっても、苦悩する人の心を癒す。
紀元前5世紀、アテナイは、ルネサンス時代のフィレンツェのように、バロック時代のローマのように、彫刻に溢れた都であった。藝術に溢れ、美に溢れた都であった。トゥキュディデスは、アテナイは彫刻に溢れた都であると書いた。美に溢れた都は、また邪惡な人間の魂によって動かされた国家であった。藝術が尊く価値をもつのは、苦悩する人の心にやすらぎを齎すからである。眞理は、偽りと戰い、苦痛に喘ぐものを救う時にのみ、価値がある。苦しみ惱む者に、救いの手を差し伸べることが、人間の根拠である。地中海のほとりには、人間の尊厳を追求し、美を愛する、精神の空間がある。

■アクロポリスの黄昏
昏刻、パルテノン神殿は、夕日を浴びる。殘照に照らされた丘は、最も深い陰翳 を湛える。アテナイの偉大と悲惨を思い出し、瞑想するように、佇むパルテノン。パ ルテノン神殿、西正面は、夕暮時に燃え上がる。
偉大な建築は、世界の何処にあろうとも、薔薇色の曙から黄金の日没にいたるまで、太陽の光の変化が最大の影響を生みだすように、建築家によって計算されている。
ペルシア帝国により破壊されたアクロポリス。死の灰の中から蘇るように、パルテノン神殿は建築された。パルテノン神殿の純粋な美しさと高貴は、ギリシア精神の結晶である。

■ペリクレス 輝ける精神 
『地中海人列伝』15
ペリクレス(紀元前495-429)は、アテナイの貴族の生まれである。父は民主派の政治家クサンティッポス、母はクレイステネスの姪アガリステである。母はアルクマイオニダイ家の血を引いている。民主派である。
音樂をダモーン、論駁術をエレアのゼノン、自然学をクラゾメナイのアナクサゴラスから學んだ。ペリクレスの性格の品位を高めたのは、アナクサゴラスの哲学である。
ペリクレスは、広い額、大きな瞳、口もとに、深い知性を湛えた美しい容貌をもつことが、紀元前五世紀のクレシラスの彫刻によって、伝えられている。頭が長すぎて玉葱(スキノス)頭と喜劇詩人によって呼ばれた頭は、かぶとによって隠されている。(cf.ペリクレス像 ヴァティカン博物館)
ペリクレスの雄弁術は完璧であった。高貴な態度、流れる瀧のように淀みない流麗な話しかた、崇高なことばの配置、毅然たる姿勢、一糸乱れぬ衣服の着こなし、すべてに亙って聴くものを魅了せずにはおかなかった。演説は、アナクサゴラスの思想に根拠づけられていた。
紀元前462年、エフィアルテスと協力して、アレイオスパゴスの審議会から決議権を奪った。キモーンを民衆の敵として紀元前461年陶片追放したが、紀元前457年スパルタがタナグラ地方に侵入し、紀元前456年アテナイ人がアッティカ国境で敗北し、キモーンに対する愛慕の念が民衆に起きたので民衆の意を迎えて呼び戻した。
紀元前461年、民主派の領袖エフィアルテスが暗殺される。ペリクレスは、民主派の指導者になる。ペリクレスは、紀元前429年、病死するまで、三十二年の長い期間に亙ってアテナイの政治に第一人者として君臨することになる。紀元前457年、全騎士級(ヒッペウス)がアルコン職、他役職に就任できるようになる。紀元前450年、貴族派の指導者キモンが、キュプロス島で急死。民主派を率いるペリクレスは、アテナイの指導者の地歩を固めた。紀元前449年、アテナイ艦隊は、キプロス島のサラミスでペルシア軍を破る。カリアスの和約が結ばれ、ペルシアは、イオニア諸都市の独立を承認する。ペルシア戰爭、最終的に終結する。紀元前447年ペリクレスは、民会の議決を経て、パルテノン神殿起工を指揮する。
紀元前443年、ペリクレス一派は、將軍トゥキュディデスを陶片追放する。ペリクレスが將軍となる。以後、死まで毎年、將軍となる。ペリクレス時代が始まる。紀元前440 年サモス島遠征の時、ペリクレスはソフォクレスとともに將軍として赴いた。438年、パルテノン神殿の黄金象牙のアテナ像が完成。432年、パルテノン神殿浮彫が完成、パルテノン神殿は完成する。432年フェイディアスは獄中で死ぬ。紀元前437年アンフィポリスをトラキアに建設。アテナイは、海上支配権を確立する。
ペリクレスは、將軍として、アテナイ軍を率い優れた指揮官であった。ペロポンネソス周航(紀元前453)、デルフォイの聖域をめぐるフォキオンとスパルタの神聖戰爭(紀元前448)、ケルソネソス遠征(紀元前447)、サモス島遠征(紀元前440)、ポントス(_海)遠征(紀元前436)。数々の戰いで戰い、アテナイ軍を勝利に導いた。
紀元前431年スパルタが陸軍を派遣し、アッティカに侵入。ペロポネソス戰爭(BC431-404年)が始まる。ペロポネソスとボイオティアの重裝歩兵6万人が、第1回侵攻を行ったが、これに対して戰うことを止めさせた。「樹木は伐り倒されてもすぐに生えて來るが、人間は殺されると再び得ることは容易でない」と言った。ペリクレスはアテナイの町を固く閉ざしあらゆる所に番兵を置いた。人命を尊重し、陸上での戰闘を回避したのである。ペリクレスは、百隻のアテナイ艦隊を派遣しペロポンネソスを周航した。
紀元前430年6月、疫病が蔓延する。憤激したアテナイの人々は、スパルタとの陸上での衝突を避けたペリクレスを非難した。ペリクレスに反対する票を投じ、絶対多数を獲得、軍隊の指揮権を剥奪し罰金を課した。疫病が蔓延するなか、紀元前429年春ソフォクレス『オイディプス王』が上演される。
だが、紀元前429年、アテナイ人たちはペリクレスに匹敵する統帥官がいないことがわかったので、民衆はペリクレスに対する忘恩を謝し、再び將軍に選んだ。だがペリクレス自身、疫病に罹り、死に臨んだ。
紀元前429年冬ペリクレスは、戰爭のさなか疫病で、志なかばで死ぬ。パルテノン神殿の完成と時を同じくして、フェイディアスは死に、翌年ペロポネソス戰爭が起き、その2年後ペリクレスは死ぬ。ペリクレスが將軍として敵を破り、アテナイのために建てた勝利の標柱は9つあった。
歴史家トゥキュディデスは、「ペリクレスは、優れた見識を備え、金銭の潔白さは疑いなかった。民衆を自由に制御し、民衆に引き擦られるよりも、彼らを導いた。」(トゥキュディデス『戰史』第2巻65)という。戰いにおいて人命を尊重した決断、優れた思想と高潔な人柄は、ギリシア史に燦然と輝いている。
 (cf.プルタルコス『対比列伝』「ペリクレス伝」)

■ペリクレス演説
ペリクレスは、431/430年冬、ペロポネソス戰爭の最初の戰没者に対する国葬が行われ、有名な追悼演説を行った。
「われわれの政体は他国の政体を追随するものではない。他の人の理想を追うのではなく、ひとをしてわれわれの模範を習わしめるのである。少数者の独占を排除し、多数者の公平を守ることを旨として、その名は民主政(デーモクラティア)と呼ばれる。わがポリスにおいては、個人の間に紛爭が生じれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。」「われわれはまた、いかなる苦しみをも癒す安らぎの場に心を浸すことができる。一年の四季を通じて我々は競技や祭典を催し、市民の家々の美しい佇まいは、日々歓びを新たにし、苦しみを解きほぐすのだ。」(cf.トゥキュディデス『戰史』第2巻35-46)
 ペリクレスは、アテナイの民主政が歴史上、比類ないものであることを自覚していた。
★Acropolis,Cariatides
★乙女のテラス エレクテイオン神殿
★Pericles ,British museum
★ペリクレス
★参考文献 次ページ参照。
大久保正雄Copyrigh2002.07.03
Periclesmuseobritnico

2016年6月27日 (月)

至高の戦略家、テミストクレス ギリシア人の知恵

Ookubomasao110Ookubomasao101大久保正雄『地中海紀行』第33回
ギリシアの偉大と退廃2 策謀の極致
至高の戦略家、テミストクレス ギリシア人の知恵

苦悩する魂のみが、眞の叡智に到達する。
最後まで希望をすてぬ者が、眞の勇者であり智者である。
テミストクレス、アテナイ人をトロイゼンに疎開を決議。海に浮かべるアクロポリス。
テミストクレス決議碑文に刻まれた、ギリシア人の知恵の結晶。
風が吹くとき、地中海のほとりに、旅立とう。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
★ヴォロマンドラのクーロス

至高の戦略家、テミストクレス
『地中海人列伝』14
テミストクレス(BC524-459?)は、リュコメデス家の出身である。テミストクレスは、紀元前493/2年、筆頭アルコンにつく。この年、テミストクレスの政策により、アテナイはペイライエウス港建設工事を始める。ペイライエウスは477年に完成し、エーゲ海貿易の中心として榮える。アテナイの黄金時代の経済的基盤を築く。
紀元前487年、民主的な改革が実現され、陶片追放が実行され、アルコンの任命が籤引になる。紀元前487年の改革は、テミストクレス時代になされた。
紀元前483/2年、ラウレイオン銀山で新鉱脈が発見される。市民1人当り10ドラクマずつ分配する案があった。テミストクレスは民会において軍船を建造することを提案し決定。二百隻の三段橈船(トリエレス)を建造させることに成功した。アイギナ海軍と戰うという名目で民会を説得した。
アテナイ海軍はアイギナ軍と海戰していた(紀元前506-481)。アイギナはギリシア随一の艦隊を誇っていた。後にペリクレスは「アイギナ島はペイライエウス(アテナイの港)の目脂だから、拭き取ってしまえ。」と言った。
「ラウレイオン銀山から上がる収益は、アテナイの市民たちの間で分配する習慣であったが、民会に出かけて行き、孤立無援ながら大胆不敵にも、分配は差し控えてそれを資金にアイギナ人に対する戰爭に備えて三段橈船を建造すべきであるという動議を出した。アイギナ島の人たちは船の多数を頼んで海上を制していた。アイギナ人に対するアテナイ市民の怒りと敵愾心を利用したのだ。百隻の三段橈船が建造されたのであるが、クセルクセスに海戰を挑んだのはこの艦船によったのだ。」(cf.プルタルコス「テミストクレス伝」)ペルシア戰爭におけるギリシア人の救済が海戰から起り、灰燼に帰したアテナイ人の町を再興させたのは三段橈船であった。
アテナイ海軍の軍船は七十隻から二百隻に増える。三段橈船(トリエレス)一隻に必要な乗員は2百名であり、4万人の要員を必要とした。
テミストクレスは、スパルタとの同盟を締結、トロイゼンへの疎開、全市民のアテナイ都市撤退を立案し、指揮する。テッサリアのテンペ、アルテミシオンで、アテナイ部隊を率いる。
紀元前480年、第2次ペルシア戰爭が起きる。テルモピュライの戦いでレオニダス王率いるギリシア軍が敗北し殲滅された。
テミストクレスが作戰を立案し、海軍と陸軍を投入する戰略を提案する。アルテミシオンの戰い、サラミスの海戰の戰略を構築。ギリシア軍は、サラミスの海戰において、ペルシア軍を敗る。この時、テミストクレスの提案*により、婦女子をトロイゼンに疎開*させ、アテナイを敵の攻撃にさらした。アクロポリスは、ペルシア軍により破壊され炎上した。
*cf.「テミストクレス決議碑文」
1959年トロイゼンで発見された大理石板に刻まれた碑文、現在アテネの碑文博物館所蔵。前480年サラミスの海戦の前にテミストクレスの発議で評議会と民会で決議された、対ペルシア軍作戦計画を内容とする。
*「すべてのアテナイ人、アテナイに住まい. する[外国]人は[女子供]らを国土開祖の[・・・20・・・]. トロイゼン[に]疎開させるべし。[老人と]資産はサラミスに. 疎開[させるべきこと]。[財務官と]神官はアクロポリス[に留. まり]神々の[(資産を)守るべきこと]。」
150年後、紀元前331年、アレクサンドロス軍がペルシア王宮を陥落した時、武将プトレマイオスの愛妾タイスは、ペルシス(ペルセポリス)において、アテナイ焼討ちの仇を討ちクセルクセスの王宮を焼き討ちすることを唆し、実行された。
紀元前479年、プラタイアの戰いでギリシア軍が勝利する。ペルシア戰爭が終結。  プラタイアイの戰いの後、テミストクレスは、アテナイの町の再建と城壁の構築に着手した。テミストクレスが、城壁再建に反対するスパルタに赴き言辞を弄し眩惑、時間稼ぎをしてスパルタを欺き、その間にアテナイは城壁を再構築する。これが「テミストクレスの城壁」と呼ばれる。またペイライエウス防壁構築を強く主張、長城を建設した。天然の良港であることに着目し、アテナイをペイライエウスに結びつけた。
だが紀元前470年、テミストクレスは、陶片追放される。ペルシアとの講和条約を画策した疑いである。アテナイは、その後、テミストクレスに、売国の罪で死刑宣告。テミストクレスは、ギリシアを放浪した後、エーゲ海を彷徨う。紀元前467年、將軍キモン麾下、ナクソス島を包囲したアテナイ軍に逮捕される寸前、間一髪で難を逃れる。
紀元前465年、敵国ペルシアに赴く。アルタクセルクセス1世(マクロケイル腕長王)に謁見し、ペルシア帝国の治下、マグネシア長官(サトラペス)に任じられる。紀元前462年、エジプトがアテナイ軍の支援を得てペルシア帝国に離反、ギリシアの三段橈船がキュプロスの海域に達し、キモンが海上を制する事態になり、ペルシア帝国はギリシアに反撃することになり、テミストクレスにもギリシアに攻撃するよう命令が下された。
テミストクレスは「自分の生涯にそれにふさわしい最後をもたらすことこそ最上である」と考えた。神々に犠牲を捧げ、友人たちを集めて握手を交わしてから、毒を仰いだ。テミストクレスは、マグネシアの地で波瀾に満ちた生涯を終える。
(cf.プルタルコス『対比列伝』「テミストクレス伝」「ペリクレス伝」、ヘロドトス『歴史』第7巻、第8巻、トゥキュディデス『戦史』第1巻)

■アテナイ帝国 デロス同盟
アテナイは、紀元前477年、デロス同盟を結成、アテナイの帝国主義時代がはじまる。デロス島に、アポロン神殿が起工され、デロス同盟の金庫がアポロン神殿に置かれる。対ペルシア、海上攻守のための軍事同盟である。加盟国は、艦船を派遣するか、資金提供の義務があった。清廉無比のアリステイデスがヘラス財務官として監督に赴く。紀元前454年、デロス同盟の金庫がアテナイに移される。アテナイは財源を掌握する。
紀元前468/7年、ナクソス島が、同盟から離叛したため、アテナイは攻撃し、隷属国とした。同盟から離叛した国に対する最初の攻撃である。アテナイ帝国の暴虐はこのとき始まる。アテナイは、国々に民主制を強制し属国とした。自ら政治形態を選択し、通貨発行、度量衡制定する権利を奪った。反亂するポリスを降伏させ制圧する。タソス島、アイギナ島、エウボイア、レスボス島、メロス島。メロス島の虐殺は悲惨を極めた。
最盛期、加盟国はエーゲ海のほとり200カ国に達する。紀元前449年ペルシアとカリアスの和約を結ぶが、その後もアテナイは年賦金を要求、反亂する国に艦隊を派遣して武力で制圧。アテナイは、殘虐な帝国と化し、反亂する同盟国を隷属させ、エーゲ海の制海権を維持する。だがアテナイの帝国主義を恐れたスパルタが宣戰。紀元前404年ペロポネソス戰爭の敗北により、デロス同盟は解体する。 (cf.トゥキュディデス『戦史』第1巻、第3巻、第5巻)

■アテナイの黄金時代
アテナイをして、ギリシアの榮光と退廃の中心たらしめたのは二つの戦爭、ペルシア戦爭とペロポネソス戦爭である。
二つの戦争の狭間、紀元前480年から431年まで、50年間がアテナイの黄金時代である。ヘロドトスはペルシア戦爭を『歴史』に記録し、トゥキュディデスはペロポネソス戰爭を『戰史』に記録した。だがこの二つの戰爭の狭間を記録した書物は存在せず、黄金の50年間は謎が多い。
この50年間に、三大悲劇詩人が活躍し、パルテノン神殿が建設され、彫刻家フェイディアスが作品を作り、ペリクレスが勝利の標柱を9度立てた。
アイスキュロスはペルシア戰爭の七年後『ペルシア人』を書き、ペロポネソス戰爭開始二年後、疫病の死屍累々たるアテナイにおいて、ソフォクレス『オイディプス王』が上演された。エウリピデスはペロポネソス戰爭開戰の春『メデイア』を上演、ペロポネソス戰爭終了の二年前『バッカイ』を書いてマケドニアで死んだ。悲劇詩人の時代はこの二つの戰爭の間であった。
★【参考文献】
馬場恵二『サラミスの海戦』人物往来社1968
馬場恵二『ギリシア・ローマの榮光』講談社1985
桜井万里子・本村凌二『ギリシアとローマ』中央公論社1997
ダイアナ・バウダー編『古代ギリシア人名事典』原書房1994
トゥキュディデス久保正彰訳『戦史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-72
アリストテレス村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』「アリストテレス全集」第15巻、岩波書店1973
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻、岩波文庫1952-1956
馬場恵二訳プルタルコス「テミストクレス伝」
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
プルタルコス『対比列伝』「テミストクレス伝」「ペリクレス伝」「アルキビアデス伝」「デモステネス伝」
★ヴォロマンドラのクーロスKouros of Volomandra
★エギナ島
★デルフォイ アテナ・プロナイアの聖域 トロス
大久保正雄Copyright2002.05.22
Ookubomasao108

2016年6月26日 (日)

テミストクレスとペルシア帝国の戦争 ギリシアの偉大と退廃

Ookubomasao97_2Ookubomasao99大久保正雄『地中海紀行』第32回ギリシアの偉大と退廃1
テミストクレスとペルシア帝国の戦争 ギリシアの偉大と退廃
イオニアの華、ミレトス イオニアの反乱

紺碧のエーゲ海が、輝く時、
オデュッセウスのように、
知恵と戦略に優れた、卓越した指揮官、テミストクレス。
ギリシアの自由を賭けて、帝国ペルシアに対決、
アテナイ人は国土を犠牲にして、サラミスの海に決戰する。
スパルタの裏切りを越えて。
汝、命を賭けて守るべきものはあるか。

大地と光があるかぎり、
生と死の岐路に立ち、己の意志によって、選択する、
人間の偉大と悲惨。
いのちの価値を超えて、光芒を放つ。
悠久の時のながれを超えて。
破壊されたアクロポリス、
死の灰の中から蘇る、不屈の精神。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■ギリシアの偉大と退廃
テミストクレスは、潮時を予見し、卓越した戰略を構築した。奇策縦横、世にも類い稀なる天才的戰略家である。ペルシアの襲來を予見、200隻の艦隊を建造、宿敵スパルタと同盟を組む。全市民を退去、国土放棄、シキンノスの計略、多彩な戰術を駆使して、テミストクレスは、サラミスの海戰を指揮、ギリシアの不滅の榮光を築いた。
美しい藝術、不朽の建築パルテノンを生みだした彫刻家フェイディアス。魂の内なる聲を聞き、善と美を探求した、ソクラテス。燦めく星のように、優れた魂、美しい魂を生みだしたアテナイ。
だが、テミストクレスは、追放され、遠い異郷の地で、自害し、波瀾にみちた生涯を終える。フェイディアスは、追放され、或いは獄中で、非業の死を遂げる。ソクラテスは、ソクラテス裁判に敗れ、居合わせた弟子たちに、魂の不死不滅を説きながら、毒人参の盃を仰いで死んだ。
偉大な魂を生みだしたアテナイは、またこれらの魂を追放し、死に至らしめた。民衆の自由のなかから衆に優れた、偉大な魂が生まれた。そして、民衆の嫉妬心から、優れた人、心美しい人が命を失った。
ペリクレスのような高貴な精神が生まれたが、また美しい容貌と邪惡な精神をもつアルキビアデスが生まれた。黄金時代のアテナイは、偉大と退廃の都である。
美しい魂が、美しきがゆえに、非業の死を遂げる時、これを悲劇と呼ぶ。黄金時代のギリシアは、悲劇的な時代である。

■海洋都市
ギリシアのポリスは海洋都市である。地中海都市の美しさの根拠は、海洋都市の自由な空間にあり、地に束縛されない者、旅する自由をもつ者、心に翼をもつ者の空間である。海はギリシア人の自由の源であった。海は民主政の母である。
独裁僭主は、農民を地に縛りつけ、己の支配体制を固めた。テミストクレスは、二百隻の三段橈船(トリエレス)を擁するアテナイ艦隊を築き、下層階層の自由人の地位を向上させた。マラトンの戰いを勝利に導いたのは槍と盾で武装する重装歩兵(ホプリテス)であったが、サラミスの海戰で櫂を漕いだ兵士は、第四の階層であった。専制国家ペルシアとの戰いを通して、ギリシア人は自己を見いだす。ペルシア戰爭は、自由のための戰いであった。
テミストクレスは、アテナイの町の再建と城壁の構築とペイライエウス港建設を行い、アテナイを海に結びつけた。貴族に対する民衆の力を増大させた。「海上支配は民主政の母胎であるが、これに対し農民は寡頭政支配に服従する。」(cf.プルタルコス「テミストクレス伝」)  さすらう者のごとく、旅と自由を愛する人よ。美しきものを求めて、旅に出よう。海は異境へと開かれている。美と智慧を探す旅に出よう。旅と自由は、人間的に生きるために不可欠のものである。丘を越えて、海のほとりをさすらい、都市から都市へ、海から海へ、藝術作品のように美しい地中海都市、空間に刻まれた智慧を求めて、流離の旅に出よう。

■イオニアの華、ミレトス
イオニア地方には、イオニア系ギリシア人が住み、ミレトス、エフェソス、エーゲ海の島々、サモス島、レスボス島、他、ギリシア都市が繁榮した。紀元前6世紀、イオニア地方は、ギリシア本土に先駆けて文化の華が咲き誇った。
ミレトスは、イオニアの華と呼ばれ、三人の哲人、タレス、アナクシメネス、アナクシマンドロスが生まれ、建築家ヒッポダモスが生まれた。ヒッポダモスは、滅ぼされたミレトスに人工的都市を設計した。幾何学的な都市が構築された。
イオニアの地は、紺碧の海が輝き、海を見下ろす丘の上に、白亞の神殿の列柱が輝いている。イオニアの地は、時がゆるやかに流れ、薊の棘がするどく、紅い花が咲き、列柱に蔦が絡まり、緑の野に花が咲き亂れている。イオニアの大地と光の中で、學問の花が開いた。

■イオニアの反乱
エーゲ海の沿岸、イオニア地方のギリシア都市は、ペルシア帝国の支配下に下り、僭主独裁政を強制される。紀元前499年、ペルシア帝国に対して、ミレトスを中心に反亂する。
ミレトスの僭主アリスタゴラスは、ナクソス島包囲に失敗して困窮している時、スサに勾留されているヒスティアイオスから頭に刺青をした奴隷が派遣されて来た。頭髪を剃ると、大王に対する謀叛を指令する言葉が出てきた。アリスタゴラスは、ダレイオス王に対抗する策略を回らし、ペルシア帝国に対して、叛旗を翻した。ミレトスの独裁制を廃し、民主制を敷き、イオニア諸都市の独裁者を捕え追放し独裁制を廃止、民衆の蜂起を促し、將軍を任命した。
 アリスタゴラスは、スパルタに赴きクレオメネス王に会い、「イオニアの同胞が自由を奪われ、隷従の状態にあることは、われわれイオニア人にとって、この上ない恥辱であり苦痛であるのみならず、ギリシア人にとっても同様である。同胞たるイオニア人を隷属の桎梏から救って欲しい」と言ったが、スパルタの協力を得られず、スパルタを追われた。アリスタゴラスは、アテナイに行き、民会に出席して「ミレトスはアテナイの植民都市である。強大なアテナイがミレトスを保護するのは当然である」と説き、アテナイ人を説得することに成功した。アリスタゴラスがスパルタ王クレオメネス一人を騙すことができなかったのに、三万人のアテナイ人を相手に成功したことを思うと、一人を欺くよりも多数の人間を騙すほうが容易である。と、ヘロドトスは書いている。
 反亂は紀元前494年、ペルシア帝国によって制圧される。この時、アテナイとエレトリアが反亂を支援したことが、ダレイオス1世の逆鱗に触れる。これが、ペルシア戰爭を引き起こす原因となる。(cf.ヘロドトス『歴史』第5巻、第6巻)

【戦いの絵巻】
■ペルシア戦争 アテナイの光輝
イオニア地方のギリシア都市は、紀元前6世紀半ば、ペルシア帝国の支配下に下り、貿易活動を抑止され、民主制を禁じられ、僭主独裁政を強制される。紀元前499年、ペルシア帝国に對して、ミレトスを中心に反亂、アテナイ艦隊とエレトリアの艦船がエペソスに上陸、サルディスの町を攻略した。しかし紀元前494年、反亂は制圧される。この時、アテナイとエレトリアが反亂を支援したことが、ダレイオス1世の逆鱗に触れた。ダレイオス1世は、ギリシア遠征軍をはるかペルシアから派遣する。
紀元前492年、ペルシアの第1次ギリシア侵攻が起きる。ダレイオスの婿マルドニオス指揮するペルシア軍がトラキア海岸を制圧するが、ペルシア海軍がアトス岬で暴風に遭い帰国する。
紀元前490年、第1次ペルシア戰爭が起きる。ダレイオス王は、アテナイとエレトリア討伐の名目で遠征軍を派遣する。ナクソス島、デロス島を征服、エウボイア島に上陸エレトリアを破壊。ペルシア軍は、マラトンに上陸するが、マラトンの戰いでミルティアデス率いるアテナイの重層歩兵長槍密集隊により撃退される。海上からアテナイを攻撃することを企てるが、ミルティアデスが迎撃するため守備していたので断念する。ダレイオス王は、ギリシア遠征を期して、戰いを前に王位後継者を指名しクセルクセスに決定した。しかし遠征準備中に果たせず死ぬ。ギリシア攻撃は、クセルクセスに継承される。
ペルシアは、ギリシアに水と土を献じて恭順の意を表すように使節を派遣するが、アテナイとスパルタは使節を殺害する。
紀元前481年夏、ペルシア王クセルクセスがスーサを発ちサルディスに向かったという知らせがギリシアに届く。初秋、ギリシア国家相互間の戰爭の即時停止、対ペルシア連合の結成が成し遂げられた。
アテナイを率いたテミストクレスは、婦女子をトロイゼン、サラミスに退避させ、市民を艦隊に乗せ、全市民をアテナイから撤退させた。
紀元前480年夏、ペルシア帝国軍がギリシアに侵攻、第2次ペルシア戰爭始まる。テルモピュライの戦いで、スパルタのレオニダス王率いるギリシア軍は、ペルシア軍により挟撃され、矢を雨のように浴び、玉砕。全員討ち死にした。ギリシア軍は、陸の防衛線が破られたため、アルテミシオンの海の防衛線を撤収、サラミスに戻る。紀元前480年秋、クセルクセス王が指揮するペルシア軍は、アテナイを襲撃、蹂躙した。アレスの丘に布陣、城攻めを行った。アクロポリスを包囲、陥落。守りについていた財務官、神官、巫女は抵抗したが、アクロポリスの神殿は炎上、破壊された。
テミストクレスがギリシア軍の作戰を立案、狭い海域にペルシア艦隊を追いつめ、サラミスの海戰でギリシア連合軍を勝利に導いた。ギリシア艦隊は380隻、そのうち200隻がアテナイ艦隊であった。丘の上から戦況を見ていたクセルクセス王は撤退を決意する。マルドニオス指揮するペルシアの不死隊(アタナトイ)はテッサリアで越冬する。
紀元前479年、ペルシアの第4次侵攻が起きる。マルドニオス指揮するペルシア陸軍がアッティカに侵攻、再度アテナイを占領するがアテナイ人の姿はなかった。ボイオティアに侵入するが、プラタイアの戰いで、ペルシア軍は敗北、退却する。この頃、時を同じくしてペルシア軍はイオニアのミュカレ岬の戰いで滅ぼされ、イオニア諸都市は独立を回復する。かくしてペルシア戰爭は一たび、終結する。他方、西方シケリアで展開しているギリシア軍は、僭主ゲロンの下で、カルタゴ軍を撃破する。
戰いの後、アテナイは、反対するスパルタを欺き、テミストクレスの城壁を、構築する。テミストクレスは、ペイライエウス湾建設工事を始める。
だが、テミストクレスは、陶片追放される。紀元前449年、アテナイ艦隊は、キプロス島のサラミスでペルシア軍を撃破。カリアスの和約が成り、ペルシアは、イオニア諸都市の独立を承認する。ペルシア戰爭は、最終的に終結する。以後、ペルシアの脅威は止む。
(cf.ヘロドトス『歴史』第7巻、第8巻、第9巻、プルタルコス『対比列伝』「テミストクレス伝」)

■デルポイの神託 サラミスの海戰
ペルシア軍侵攻の前、アテナイの託宣使たちは、デルポイ(デルフォイ)に行き神託を求めたが、「聳え立つ頂きも捨てて、地の果てに逃れよ。アテナイは滅亡する。心ゆくまで悲嘆にくれよ。」という神託を受けた。衝撃を受けた託宣使たちは、再度、嘆願者のオリーヴの小枝を持って、巫女に尋ねると「木の砦は滅びざるべし」という神託を受けた。この神託をめぐって、二つに分かれ、議論が沸騰した。木の砦は、アクロポリスを意味すると考える人々と、船を意味すると考える人々があった。
テミストクレスは、木の砦は船を意味するとして、民会を制して、決議案を提出して、「国土はアテナイを守護するアテナ女神に委ね、壮年の者は全員三段橈船に乗り組み、各人は妻子と奴隷の安全を計るべきである」とした。この決議案が承認され、アテナイ市民は婦女子をトロイゼンに疎開させた。トロイゼンの人々は疎開民を国費によって扶養することを決議した。
スパルタの指揮官エウリュビアデスは、サラミスで決戦することを避け、イストモスに退避しようとした。この時、テミストクレスは、反対を唱えた。ある者が、「国土のない者が祖国のある者たちにそれを見捨てて立ち去れというのは筋が通らない」と言ったので、テミストクレスは、「われわれは家屋や城壁を置き去りにしてきた。だがそれは、そのような魂のないもののために奴隷となるのを潔しとしなかったからだ。われわれにはギリシア中で最も偉大なポリスがある。2百隻の三段橈船である。君たちの援軍たらんとして待機している。だがわれわれを再度裏切って立ち去るならば、アテナイは放棄したものに劣らない自由な町と国土を獲得することになるだろう。」エウリュビアデスは、アテナイ人は自分たちを置き去りにして去ってしまうのではないかと、不安を覚えた。(cf.プルタルコス)
サラミスの海戰において、輝かしい海原の偉業が達成され、その名が天下に轟き渡る勝利を獲得し得たのは、「テミストクレスの判断と絶妙の手腕によるのだ。」(cf.プルタルコス)(cf.ヘロドトス『歴史』第7巻、プルタルコス『対比列伝』「テミストクレス伝」)
★アルテミシオンのゼウスBC460 雷霆を投げるゼウス ポセイドン(アテネ考古学博物館)
★デルフォイ アポロンの聖域
★アクロポリスの丘 ムーセイオンの丘から
★【参考文献表】次ページ参照
大久保正雄Copyright2002.05.22
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2016年6月25日 (土)

ペイシストラトス家とアルクマイオニダイ家の戦い アクロポリスの戦い

Ookubomasao94Ookubomasao96大久保正雄『地中海紀行』第31回アクロポリスをめぐる戦い2
ペイシストラトス家とアルクマイオニダイ家の戦い アクロポリスの戦い
アクロポリスをめぐる攻防 アテネ史
ヴォロマンドラのクーロス 死者に献げる供物

怒りを歌え、女神よ。
美しく高貴なる魂。傲慢なる強者に追われたる者、
旅路の果ての地に、たどり着き、
復讐を遂げる。彷徨える高貴なる魂。
大地と闇の娘たちよ。
怒りもて、彷徨える魂に、復讐を為さしめよ。
アクロポリスの丘を包囲して、傲慢なる独裁者を滅ぼすべし。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■アクロポリスをめぐる攻防 アテネ史
紀元前632年、アテナイで、キュロンの反亂が起こる。キュロンが僭主になろうとしてアクロポリスを占拠、アテナイ人たちはアクロポリスを包囲、反亂を鎮圧した。記録されているアテナイ最古の歴史的事件である。
紀元前561年、ペイシストラトスは、アクロポリスを占領して、アテナイの僭主となる。二度追放されたが、死ぬまで独裁僭主であった。
紀元前510年、アテナイは、ペイシストラトス家に対して、アルクマイオン家を中心とする反対勢力が、スパルタのクレオメネス1世の援助を得て、アクロポリスを包囲、僭主政を打倒する。僭主ヒッピアスは、ペルシア帝国ダレイオス1世のもとに逃亡した。マラトンの戰いの時、ヒッピアスは、ペルシア帝国軍を先導した。
僭主政治が倒れて、その後、寡頭派のイサゴラスとクレイステネスが対立、クレイステネスは亡命した。紀元前508年、スパルタ王クレオメネスとイサゴラスの仲間が、アクロポリスに逃げ込み、民衆はこれに対峙して二日間包囲を続けた。三日目に条約を結び、クレオメネスの仲間を撤退させ、クレイステネスを呼び戻した。
紀元前527年ペイシストラトスは病死し、死後、子のヒッピアスとヒッパルコスが父の後を継いだ。ヒッピアスは、紀元前514年ヒッパルコスが暗殺された後、猜疑心が強くなり、圧制的暴君となった。
(cf.アリストテレス『アテナイ人の国制』、ヘロドトス『歴史』第5巻、プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」「ペリクレス伝」)
■クレイステネス 民主的改革 紀元前508/7年
クレイステネス(BC565-500)は、アルクマイオニダイ家の頭首である。父はメガクレス、母はシキュオンの僭主クレイステネスの娘アガリステ。ペイシストラトス家の僭主時代、亡命していたアルクマイオン家は、長い間、僭主政打倒に努力していた。
クレイステネスは、何度も僭主政打倒に失敗した後、デルフォイのピュティア(巫女)を買収して、スパルタにアテナイを解放するよう神託を下し、僭主支配を打倒する。
紀元前510年、アテナイは、ペイシストラトス家に対して、アルクマイオン家を中心とする反対勢力が、スパルタのクレオメネス1世の援助を得て、アクロポリスを包囲、僭主政打倒に成功する。僭主ヒッピアスは、ペルシア帝国ダレイオス1世のもとに逃亡した。マラトンの戰いの時、ヒッピアスは、ペルシア帝国軍を先導した。
その後、寡頭派のイサゴラスとクレイステネスが政権を爭い対立、アルクマイオニダイ家の血の穢れを理由に、クレイステネスは追放される。
紀元前508/7年、民衆がイサゴラスに反対して立ち、スパルタ王クレオメネスとイサゴラスの仲間がアクロポリスに逃げ込み、民衆はこれに対峙して二日間包囲を続けた。三日目に条約を結び、クレオメネスの仲間を撤退させ、クレイステネスを呼び戻した。
紀元前508/7年、クレイステネスが政権を握る。クレイステネスは、民主的改革を行ない、アテナイの民主政が成立する。クレイステネスの改革によって、10部族制と五百人評議会が設置され、陶片追放が制定された。(cf.アリストテレス『アテナイ人の国制』、ヘロドトス『歴史』第5巻)

■アテナイオン神殿、ヘカトンペドン(アテナ古神殿)
ペイシストラトスは、武力によって僭主(独裁者)の地位を獲得したが、藝術の保護に努め、神殿を建てた。アテナイは祝祭都市となり、悲劇が誕生した。
紀元前6世紀、ペイシストラトスの時代、アテナイオン神殿ヘカトンペドン(アテナ古神殿)が、アクロポリスの丘、アテナの聖域に、創建された。
アテナイオン神殿は、アルカイックの微笑みを湛えた彫刻、仔牛を荷う人(モスコフォロス)、アクロポリスのコレー(少女)が神殿に奉納され、アテナ女神像が破風彫刻に置かれた。アルカイック様式の微笑みに満ちた神殿であった。
ペイシストラトスの時代には、紀元前566年に創始されたパンアテナイア祭が国の祭儀として体育や音樂の競技会が行なわれるようになった。また、紀元前534年大ディオニュシア祭が国の祭儀として導入され、ディオニュソス劇場がアゴラに木で作られ、悲劇が誕生した。

■アルクマイオニダイ家
アルクマイオニダイ(アルクマイオン)家は、アテナイの有力な貴族である。紀元前632年、キュロンの反亂が起り、キュロンが僭主になろうとしてアクロポリスを占拠、アテナイ人たちはアクロポリスを包囲、反亂を鎮圧。メガクレスたちは、女神の祭壇に逃れた僭主一味を殺害。アテナイ人たちは、神に対する冒_の罪を犯したとしてメガクレスたちを追放した。以後、アルクマイオニダイ家には血の穢れがあるといわれた。
紀元前6世紀、アルクマイオンは、第1次神聖戰爭(BC590)でアテナイ軍を指揮、リュディア王から与えられた黄金で財源を築いた。アルクマイオンの子メガクレスは、海岸派(パラリオイ)を指揮、ペイシストラトスを追放したが、ペイシストラトス家の僭主支配時代に亡命した。
紀元前530年、アルクマイオニダイ一族は、デルフォイに紀元前548年に焼失したアポロン神殿(BC530-20)を再建し奉献する。アポロン神殿は、石灰岩で建造されたが、東前面にパロス産大理石を用いて作られ、神室内に託宣所(アデュトン)が組み込まれた。
メガクレスの子クレイステネスは、デルフォイのピュティア(巫女)の協力で、スパルタを引き入れ、僭主支配を打倒する。アルクマイオニダイ家は、改革者クレイステネスを生みだした。ペリクレスの母は、クレイステネスの姪である。
アルクマイオニダイ家の使命、至上命題は、独裁支配の打倒であり、紀元前632年以降、百年以上にわたって、僭主独裁と戰いながら、亡命の痛みに耐えた。(cf.アリストテレス『アテナイ人の国制』、ヘロドトス『歴史』第1巻.第5巻.第6巻)

■陶片追放、独裁制阻止
陶片追放(オストラキスモス)は、紀元前508/7年以降、クレイステネスの時代に成立した。陶片追放は、秘密投票による追放制度であり、独裁僭主が出現することを防止するために創設された。クレイステネスは、僭主ペイシストラトス家によって、数十年にわたって亡命を余儀なくされたため、独裁者の専制を阻止したのである。
市民は、アゴラで国家を害する恐れがあり追放の必要があると判断された人の名を、陶片(オストラコン)に刻み投票、アルコンは書記官立会いの下に集計し、6千票を超えた者は国外に追放された。10年間国外追放、市民権は剥奪されず、財産の没収は行なわれず、10年後帰国することが出来た。ポリスが必要とする時、追放された有為の人材が呼び戻された。例えば、アリステイデスはサラミスの海戦の時、テミストクレスによって召還された。
紀元前487年、アテナイで初めて陶片追放が実行され、ヒッパルコスが追放された。また、この年、アルコン(執政官)の選出が抽籤となる。
アテナイ最盛期には、民衆の嫉妬をあびた者は、陶片追放されることが多かった。このため優れた人々が追放された。テミストクレス、アリステイデス、キモン、クサンティッポス(ペリクレスの父)も、追放された。(cf.アリストテレス『アテナイ人の国制』22)政治的抗争の道具に用いられることが多くなり、廃止される。

■死者に献げる供物 クーロスと墓碑
ヴォロマンドラのクーロス 死者に献げる供物
アルカイク期の彫刻は微笑みを湛えている。ヴォロマンドラのクーロス(BC560-550)は、パロス島産の大理石で作られた、裸体の青年像である。アッティカ地方、ヴォロマンドラの墓地で発見された。理想的な形に形作られ肉体と容貌をもち、アルカイクの微笑みを湛え輝いている。
アルカイク期の彫刻、若き青年のクーロスは、若くして死せるわが子を悼み墓地に建てた、墓標であり、副葬品である。愛する者を失い、再び会うことができない、愛惜の念。夭折した死者に對する悲しみが愛する者の彫刻を作らせた。死者に献げる供物として、愛する者の像を刻ませたのだ。
古典期アッティカの墓碑浮彫り
古典期アッティカの墓碑浮彫りには、「死せる者と別れを惜しみ生ける者が握手する場面」「死者を見つめる生者」が、刻まれている。
愛する者は死に、その死を悲しむ者も死に、悲しみを癒すために作られた彫刻のみが、二千年の時を超えて残った。愛する者は死に、死を悲しむ生者も死に、悲しみのみが残った。

■自由のための戦い
独裁者を倒すことから、アテナイの榮光の歴史が始まった。アテナイの歴史は、強者に対する弱者の戰いの歴史である。権力者の傲慢、富める者の傲慢と戰うアテナイ人。
「かくてアテナイは強大となったが、自由平等(イセゴリア)が、一つの点のみならずあらゆる点において、いかに重要なものであるかということを実証した。アテナイが独裁下にあったときは、近隣のどの国も戰力で凌ぐことができなかったが、独裁者から解放されるや、断然他を圧して最強国となった。」(ヘロドトス『歴史』第5巻)
独裁政を倒してから、アテナイのエーゲ海の覇者たる歴史が始まる。強者の横暴と戰い、復讐を遂げたとき、アテナイの榮光が始まる。優れた人が、善を目ざして、一部の者の利益のためでなく全ての人の利益のために、支配を行うとき、眞に優れた統治が成立する。あらゆる技術、研究、あらゆる実践、選択は、善を目ざさねばならない。人を支配する技術、政治學は、善を究極目的としなければならない。善を目的としない支配は滅亡する。
独裁者と戰い、自由のために戰ったアテナイは、イオニアの反乱を支援し、ペルシア戰爭に向かい、エーゲ海の王者となる。
★ヴォロマンドラのクーロスBC560 アテネ考古学博物館
ヴォロマンドラのクーロス,Kouros of Volomandra
★仔牛を荷う人(モスコフォロス)BC560 アクロポリス博物館
Moskophoros
★アクロポリスの丘 ムーセイオンの丘から
★【参考文献】
馬場恵二『サラミスの海戦』人物往来社1968
馬場恵二『ギリシア・ローマの榮光』講談社1985
桜井万里子・本村凌二『ギリシアとローマ』中央公論社1997
ダイアナ・バウダー編『古代ギリシア人名事典』原書房1994
トゥキュディデス 久保正彰訳『戰史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-72
クセノポン佐々木理訳『ソクラテスの思い出』1-18岩波文庫1953
アリストテレス村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』「アリストテレス全集」第15巻、岩波書店1973
村田數之亮『ギリシア美術』新潮社1974
*澤柳大五郎『アッティカの墓碑』グラフ社1989年
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻、岩波文庫1952-1956
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」「テミストクレス伝」「ペリクレス伝」「アルキビアデス伝」「ディオン伝」「アレクサンドロス伝」
大久保正雄COPYRIGHT 2002.04.24
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2016年6月24日 (金)

アクロポリスをめぐる戦い 賢者ソロン、弱者のために戦う

Ookubomasao98大久保正雄『地中海紀行』第30回
アクロポリスをめぐる戦い 賢者ソロン、弱者のために戦う

エーゲ海のように美しい、紺碧の瞳。
イオニアの少女は、エーゲ海の島で生まれた、
大理石の彫刻となり、永遠に微笑む。
永遠に刻まれた、死せる少女の美しい微笑み。

藝術に溢れた都、
夜空に燦めく星のごとく、優れた魂、
高貴な魂が、生まれた都、
輝く都市、アテナイ。
アクロポリスの丘に、独裁者と対峙、
自由のために戰ったアテナイ人。
戰う高貴な魂のみが、眞の叡知に到達する。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■ギリシアの時間
八重櫻、牡丹櫻が咲き亂れ、木蓮の花薫る日、花吹雪が舞い、夕暮になると、様々な花の香りが漂う。春の黄昏刻、紫の光が闇を覆い、樹木の香りが風に融け、心が風に溶けるとき、ギリシアの渇いた空気、輝ける海、時空から解き放たれた、ギリシアの優美な時間の燦めきを思い出す。
風に花びらが舞うように、友人から手紙が届いた。『アクロポリスの光と影』を読んだ友は、「ギリシアのたゆたうようなゆっくりとした時間を思い出し、叙情性が流れている時間を感じる」と書いた。枝を広げた樹陰で木の実を拾い、葡萄の樹木の葉陰でクレタ島のラキを飲む昼下がり、ギリシアの時間が流れる。木洩れ日の下で、生きる樂しみを愛でる古代人の輝く瞳を思い出す。終焉と始原が一致する、永遠に回帰するギリシアの時間。死が生に還帰する。円環的時間が時の岸辺に打ち寄せる。エーゲ海の潮のように、波のように。

■偉大な人間の時代 
ソロン、クレイステネス、テミストクレス
アテナイには、夜空に燦めく星のごとく、眞に偉大な人間、優れた人物が、現れた。貧しい人のために、尽力したソロン。ソロンは、貧しい人を救済するために、法を作り、詩を作った。不屈の精神を以って、独裁僭主と戦ったクレイステネス。智謀と機略に優れ、未來を予見し、ギリシアを危機から救ったテミストクレス。戰略に優れ、高貴な人柄を有したペリクレス。この世に美しきものを殘した藝術家フェイディアス。マラトンの戰いで戰い、美しい復讐劇を書いたアイスキュロス。眞実を探求する魂、内なる霊の聲を聞いたソクラテス。人類史に殘る、美しい対話編を書いたプラトン。貴族が高貴な義務を果たした時代。夜空に輝く星のごとく、優れた魂、美しい魂が、生まれた都、アテネ。
 地上には惡しき国が存在する。私利私欲を追求する者が支配階層を占める国。私利私欲のためにのみ行動する人物、名譽欲を追求する者が、社会の枢要を占める国。偉大な人間を一人も持たない国は悲惨を極める。私利私欲のために行動する者が支配する国は、必ず滅亡する。

■将軍(ストラテゴス)の義務
貴族が高貴な義務を果たした時代。ヨーロッパには、貴族の義務(noblesse oblige)の思想があった。貴族は、身分が高いがゆえに戰いの時には、己の命を賭けて戰う義務がある。
ギリシアにおいて、將軍(ストラテゴス)は、国家を守るために、軍を率いて兵士の命を死の危険に曝すため、戰爭に対して責任を負う義務がある。指揮官が率いた作戰に失敗があったときは、ストラテゴスはその結果に対して責任を負った。
紀元前487年の改革によってアテナイにおいてアルコン(執政官)の選出は抽籤となったが、將軍の選出は選挙によった。戰爭で軍を率いる將軍の責務は重いからである。
紀元前406年レスボス島の南、アルギヌーサイの海戰において、アテナイ海軍は敗れ、艦隊を編成し救援に向かった。スパルタ海軍を打ち破り、スパルタは難船したが、嵐のため、アテナイ艦隊の兵も海に溺れた。アテナイ軍はこのアテナイ人を救う事が出来なかったため、アテナイ市民は怒った。帰還した七人の將軍は一人を除き、弾劾され、人民会議で審議し、財産没収の上、死刑を要求した。6人の將軍は処刑された。そのなかにペリクレスの子ペリクレスがいた。この時、人民会議議長はソクラテスであった。通常の裁判の手続きによらず違法であり、ソクラテスはこの一括審議に断乎反対したが、民会の決議は、採決を要求、処刑は執行された。(cf.クセノポン『ソクラテスの思い出』)
また、紀元前489年、將軍ミルティアデスは、パロス島遠征に失敗し、巨額の罰金を科され、この年没する。
指揮官が指揮した責任をとらず、部下に責任を転嫁し、兵士を犠牲にして、自らは富と安寧を貪る国。惡が榮え、高慢な富者が支配する国は、必ず滅びる。

■ソロン 貧しい人のために力を尽くした賢者
ソロン(BC640-559)は、アテナイの立法者、アテナイ最古の詩人。ギリシア七賢人の一人である。ソロンは法律を詩で作ろうとした。
アッティカは、凶作に襲われた。アテナイは貧富の差が拡大、富者と貧者の不均衡は頂点に達した。負債のために所有地を失い奴隷に売られるものが多かった。多くの人々が少数の者に隷属していた。貧者は、6分の1の地代を納めるので6分の1(ヘクテモリオイ)と呼ばれた。富める者は貪欲かつ傲慢で不正を恣にした。富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しく、貧富の差は、激しくなるばかりであった。富者と貧者の抗爭が激化した。民衆は貴族に対して、反抗し決起した。
ソロンは詩を作った。「惡人が富み榮え、善人で貧しい者が多い。」(プルタルコス『対比列伝』)ソロンは、富める者の貪欲と傲慢から抗争が生まれた、と考えた。ソロンは市民によって、富者と貧者の抗爭の調停者として選ばれた。
紀元前594-3年、ソロンは、アテナイのアルコンになる。危機克服のために、改革を行う。個人の債務帳消し(セイサクテイア=重荷下し)を行い、身体を抵当とする金貸しを禁じた。かくしてアテナイ市民が奴隷に零落するのを防いだ。
市民を財産評価(土地所有)により、5百メディムノス(ペンタコシオメディムノス)級、騎士(ヒッペウス)級、農民(ゼウギテス)、労働者(テテス)、の4階級に区分した。官職につきうるのは上位3階級とし、最下級のテテスには、民会(エクレシア)と法廷(ディカステーリア)に参与する権利を与えた。官職には、9人のアルコン、財務官、契約官、11人、コラクレタイがあった。アレイオスパゴス会議をそのまま、存続させたが、旧来の4部族制に基づく400人評議会を新設した。殺人に関する法を除いて、ドラコン法を廃止、新しい法を立てた。ソロンの法は、以後、アテナイ法の基礎をなす。ソロンの改革には富者も貧者も不満だったので、10年間、法を変更しないことを誓わせて、エジプト、キュプロス、イオニア地方を旅した。
帰国後、抗爭が激しく、紀元前561年、ペイシストラトスが僭主(テュランノス)となる。ソロンは、僭主政を弾劾しアゴラで演説したが耳を傾ける者はなく、終始反対して没した。
アリストテレスはソロンを、「ソロンは、他人を抑えて国家の独裁者になることも出来たが、独裁者にならず、双方の側から憎まれても、自己の利益よりも美徳と国家の安全を重んじたほどに節制であり、公平であった。」と、評価する。(cf.プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」、アリストテレス『アテナイ人の国制』)

■法律は蜘蛛の網である
ソロンは、スキタイ人の賢者アナカルシスがソロンの家に滞在した時、国政に携り、法律を編纂していた。アナカルシスは、ソロンの仕事を知ってそれを嘲笑った。「ソロンが市民たちの不正と貪欲を抑止しようと考えているのは蜘蛛の網のようなものである。蜘蛛の網のように架かった者のうち非力で弱い者は捉えておけるが、力ある者や富者によって破られる。ギリシア人の間では演説するのは賢人たちだが、決定するのが無知な人々なので驚いた。」(プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」)
ソロンは反論したが、賢者アナカルシスの言葉は不朽の眞実である。法は強者に仕える。法律を作り、施行するのは強者だからである。ソロンのように、貧者のために行動する賢者が支配者となるとは限らない。不正は、非合法になされるとは限らない。合法的に不正がなされる国がある。例えば、強者たる官僚による、官僚のための、官僚独裁の国。官僚が惡を行なう時、法律を作りながら例外を作り、これを裁くのは、官僚自身である。盗人に、給料を与え、裁判官に任じるようなものである。法律は人間の幸福のために作られた道具にすぎず、法律のために人間が仕えるのは愚かである。
★アクロポリスの丘 ムーセイオンの丘から
★アクロポリスの丘 プロピュライア
★ヴォロマンドラのクーロス(アテネ考古学博物館)
大久保正雄COPYRIGHT 2002.04.24

2016年6月23日 (木)

パルテノン神殿 彫刻家フェイディアス アクロポリスのコレー

Ookubomasao91Ookubomasa93大久保正雄『地中海紀行』第29回
パルテノン神殿 彫刻家フェイディアス アクロポリスのコレー

アクロポリスのコレー 二千年の時を超えて蘇る少女

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

パルテノン 調和的比例と曲線美
ギリシア建築の美しさは、柱の美しさである。ギリシア建築は、柱の建築である。列柱の回廊は、限りなく美しい。列柱の回廊(ペリスタシス)の間を歩く時、大樹の樹林を歩く感覺を感じる。エンタシスの膨らみは、樹木の幹の膨らみである。神殿が木で作られた時代の記憶である。宮殿や神殿は糸杉や松で作られていた。例えば、クノッソス宮殿は糸杉(キパリッソス)で作られていた。
ギリシア人は、美を数的比例(シュンメトリア)に還元して考える。パルテノンは、柱の基部直径と柱間の比が4対9であり、この比例が建築の各部にくり返されている。
パルテノンには、眞の水平線、垂直線はない、曲線によって構成された建築である。床面(ステュロバテス)は水平面ではなく中央で隆起している。周囲の柱(ペリステュロス)は対角線の内側に傾いている。美的な目的のため規則性が破られ、また視覚補正のため曲線が用いられた。いきいきとした美しさを実現するという意図から生まれた。パルテノン神殿は、「歌う建築」と呼ばれ、曲線美によって構成された建築のリズムと生命、個性は、高度な技術と優れた叡智が生みだした。パルテノンは、調和的比例と規則性を超えた曲線美に溢れている。

■アクロポリスのコレー 二千年の時を超えて蘇る少女
アクロポリスのコレー(少女)は、彩色された衣で肉体を包む少女である。純粋な微笑みと豊麗な美しさは譬えようもない。

アクロポリスのコレー、ドーリア式とイオニア式 
アクロポリスのコレーは、ぺプロフォロス、ペプロスのコレーと呼ばれ、ぺプロス、ドーリア式上衣を纏った少女である。ぺプロスの下にはドーリア式キトンを身に纏っている。口もとにはアルカイク・スマイルを湛え、永遠に輝いている。(cf.アクロポリスのコレーNo.679)
イオニア式コレーは、イオニア式ヒュマティオン(ショール)にイオニア式キトンを身に纏っている。イオニア地方で作られた彫刻であると思われる。誇り高く成熟した美しさを身につけている。
アクロポリスのコレーは、アテナ古神殿に奉納されていた。紀元前480年ペルシア軍によってアクロポリスが攻撃され破壊された時、土中に埋もれ、二千四百年の歳月が流れ、1886年、発掘され再び蘇った。二千四百年の時の流れを超えて、蘇ったアクロポリスのコレー。蘇った古代の微笑み。アテナ古神殿は、アルカイク・スマイルを湛えた神殿であった。これに対し、パルテノン神殿は、洗練を極め、古典的な美を湛えた、完璧の美學であった。
アルカイク・スマイル
飛鳥白鳳彫刻、ガンダーラ彫刻、クメール彫刻、レオナルドの洗礼者ヨハネの微笑み。これらの像はアルカイク・スマイルを湛えている。アルカイク・スマイルは、文明が爛熟する前夜に現れる純粋な輝きである。アルカイク・スマイルは、死の微笑である。苦悩する人間を生と死の彼方に誘う。

■彫刻家フェイディアス
フェイディアス(BC490-432.432年没)は、第85オリュンピアード(448-5)に最盛期であった。アテナイのカルミデスの子。画家から出発して彫刻家になった。ペリクレスが紀元前448年にアクロポリス再建に着手すると、親友であるフェイディアスは、総監督(パントン・エピスコポス)に任命される。パルテノン神殿は、437年にフェイディアス作の黄金象牙(クリュセレファンティノス)のアテナ・パルテノス像が完成して、パンアテナイア祭に落慶式が行なわれた。フェイディアスとその弟子の手により432年パルテノン浮彫が完成され、パルテノンが完成するが、この時フェイディアスは獄中か他国にいて、完成を目にすることはなかった。
黄金象牙のアテナ・パルテノスは、フェイディアスの代表作で、自ら製作、高さ11mであった。ドーリア式ペプロスにアイギス(胸当て)、装飾された冑、右手を差し出して勝利の女神ニケを載せたコリントス様式円柱を持ち、左手で楯と槍を支えて立つ、武装したアテナ像である。楯の表面にはアマゾン族との戰いの浮彫が彫られ、楯の傍らに蛇が首を擡げとぐろを巻いていた。紀元後429年キリスト教徒によりコンスタンティノープルに持ち去られこの世から姿を消した。ハドリアヌス時代の模刻ヴァルヴァキオンのアテナが殘っている。
フェイディアスは、430年代に始められたペリクレスとその一派に対する攻撃の最初の標的となった。楯に彫られたアマゾン族との戰いの浮彫の二人のギリシア人がペリクレスとフェイディアスであるとされ、アテナ・パルテノス像に使用される黄金を横領したと告発された。しかしペリクレスの勧めによって、黄金を予め重さを量っておき記録していたので、裁判に勝つことができた。この後、アテナイから追放、或いは逃亡してオリュンピアに行き、その地で工房を作り、黄金象牙のゼウス坐像を制作した。紀元前432年、横領罪或いは他の罪状により、無実の罪で、アテナイ或いはオリュンピアの牢獄で処刑され、或いは毒藥を盛られ、非業の死を遂げる。(cf.プルタルコス『対比列伝』「ペリクレス伝」)
フェイディアスは、アテナイに有名な二人の弟子、アゴラクリトスとアルカメネスを殘した。アゴラクリトスとアルカメネスは好敵手となった。古代ギリシアで最も有名な彫刻家であるが、彫像作品は一つも殘っていない。だが幻のパルテノンは滅びない。
美しく善き人は死に、藝術家は死ぬ。だが、藝術家の魂は滅びない。

■アゴラ 幻影のポリス
アクロポリスの丘の麓に、古代アゴラがある。古代の人々が、集まり、物を買い、議論し、ポリスを動かした場所である。ここからアクロポリスの丘、パルテノン神殿が見える。アテナ・パルテノスに見守られながら、古代人は国家意志を決定し、民族の運命を決定する行動を選択し、正邪を裁いた。
アッタロス2世のストア(柱廊)があり、ヘファイステイオン神殿がある。かつて、ここに、ブーレウテリオン(評議会場)、トロス(円堂)、アグリッパのオデイオン(音樂堂)、ヘリアイアの裁判所、アレイオスパゴスの丘の裁判所があった。古代人がポリスを動かしたアゴラは、今は幻である。幻影のアゴラは、ポリスを動かす心臓であり、国家は見える形であった。この広場で人々が、言葉を交わし合い、樂しみ、議論し、会議場で最高意思を決定した。
アッタロスのストアは、紀元前2世紀ペルガモン王によって作られた柱廊であるが、20世紀に復元された。かつて、アゴラにはストア・ポイキレー(彩色柱廊)があった。列柱の回廊には、ポリュグノトスの彩色された壁画があり、紀元前3世紀、哲人ゼノンがここで往きつ戻りつしながら議論していた。ゼノンとその弟子はストア派と呼ばれた。(cf.ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』)

■劇場国家アテナイ 雄弁家が誘導し、煽動家が民衆の心を操る
紀元前508年クレイステネスの改革から、前322年クランノンの戰いでマケドニア軍に敗北しアテナイの民主政が終焉するまで、アテナイの民主主義は史上稀にみる進化を遂げ、186年間榮えた。
雄弁家が民会を誘導し、煽動家(デーマゴーゴス)が民衆の心を右往左往させる。煽動家が眞実を見ることができない民衆の心を操る。民衆は、嫉妬心を掻き立てられ、優れた人物も、陶片追放によって、国外へ追放された。アテナイもまた、不条理の国である。
第二次ペルシア戰爭の作戰を指揮した、勲功あるテミストクレスは、紀元前470年、不当に陶片追放され、ギリシアを放浪した後、敵国ペルシアに辿りつく。アルタクセルクセス王に謁見し、ペルシア帝国の治下、マグネシア長官(サトラペス)に任じられ、マグネシアの地で波瀾に満ちた生涯を終える。
民衆は、雄弁家、煽動家の弁舌に翻弄され、また頻発する民衆法廷への告訴によって、多くの優れた人々が、命を落とし、追放された。
国家は劇場と化し、観衆の目にさらされ、演戯する者の舞台となる。劇場において、名譽心ある者の言論と、打算的な煽動と、民衆の心にひそむ嫉妬心に火がつけられ、国家意思は右往左往する。黄金時代のアテナイにおいて、国家意思は、正義と嫉妬と虚偽と眞実の間をさまよう。紀元前399年に処刑されたソクラテスも、不当な判決を受けた者の一人である。

■ペリクレス時代
ペリクレス時代は、美術史上パルテノン時代であり、アテナイの黄金時代である。
紀元前450年、貴族派の指導者キモンが、キュプロス島で急死。民主派を率いるペリクレスが、アテナイの指導者となる。カリアスの和約が成り、ペルシアは、イオニア諸都市の独立を承認する。紀元前447年ペリクレスは、民会の議決を得て、パルテノン神殿起工を指揮する。
紀元前443年、將軍トゥキュディデスが陶片追放され、ペリクレスが將軍となる。ペリクレス時代が始まる。438年、パルテノン神殿、黄金象牙のアテナ像が完成。432年、パルテノン神殿浮彫が完成、パルテノン神殿は完成する。432年フェイディアスは獄中で死ぬ。
紀元前431年スパルタが陸軍を派遣し、アッティカに侵入。ペロポネソス戰爭が始まる。430年からアテナイで疫病が蔓延。紀元前429年ペリクレスは、戰爭のさなか疫病で、志なかばで死ぬ。
パルテノン神殿の完成と時を同じくして、フェイディアスは死に、翌年ペロポネソス戰爭が起き、その2年後ペリクレスは死ぬ。ペロポネソス戰爭はアテナイが没落する原因となる。藝術家は死に、国家は滅亡する。しかし、ギリシアの美は不滅である。
★【参考文献】
プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」「テミストクレス伝」「アリステイデス伝」「ペリクレス伝」「アルキビアデス伝」「ディオン伝」「デモステネス伝」「アレクサンドロス伝」
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻岩波文庫1952-1956
トゥキュディデス久保正彰訳『戦史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-1972
桜井万里子、本村凌二『ギリシアとローマ』世界の歴史5 中央公論社 1997
ダイアナ・バウダー編『古代ギリシア人名事典』原書房1994
マキシム・コリニョン冨永惣一訳『パルテノン』岩波書店1978
中尾是正『図説 パルテノン』グラフ社1980
リース・カーペンター松島道也訳『パルテノンの建築家たち』鹿島出版会1977
澤柳大五郎『アクロポリス』里文出版1996
磯崎新、篠山紀信『透明な秩序―アクロポリス』六耀社1984
ナイジェル・スパイヴィ福部信敏訳『ギリシア美術』岩波書店2000
村田潔編『ギリシア美術 体系世界の美術5』学研1980
澤柳大五郎『ギリシアの美術』岩波新書1964
村田數之亮『ギリシア美術』新潮社1974
★エレクテイオン神殿 乙女のテラス
★アクロポリスのコレー679 アクロポリス博物館
★イオニア式コレー アクロポリス博物館
大久保正雄COPYRIGHT 2002.03.27
Photo

2016年6月22日 (水)

アクロポリスの光と影 パルテノン神殿

Ookubomasao89Ookubomasao90大久保正雄『地中海紀行』第28回
アクロポリスの光と影 パルテノン神殿

アクロポリスの丘の彼方に、
輝く海が見える。光る海に島影が浮かぶ。
大理石の列柱に、眞昼の日差しが烈しく降り注ぎ、
時が織り成す光と影、時が止まる。優美な瞬間。
眩暈するほど美しい、眞昼の丘の上。

光と影の烈しい対比、
光は影ゆえに美しく、影は光ゆえに深い。
苦悩する精神のみが、眞の叡知に到達する。
破壊され傷つき、時の試練に耐えて佇む、崇高な姿、
飛翔するような、優雅な美を湛える、パルテノン。
大理石に結晶したイデア。
石に刻まれた不滅の言葉、不屈の精神。
美徳のうちに死ぬ者は、不滅の精神のなかに生きる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■黄昏の海
黄昏時、ロドス島を飛び立ち、アテネに向かう。雲海の下に、曖靆たる雲の間から、黄金色に輝くエーゲ海、無数の島影が見える。落日の光をあびながら、夕暮のエーゲ海を眺めていると、死の誘惑に駆られる。
何が人に旅すること命ずるのであろうか。旅の本質とは一体、何か。
黄金色に輝く海、エーゲ海を、皇帝ハドリアヌス、哲人皇帝マルクス・アウレリウスが旅した。プラトンが地中海を航海し、ピュタゴラスがイタリアに航海した。
旅を生みだす情熱は、餓えであり、哀しみである。皇帝ハドリアヌス、プラトン、ピュタゴラス、アレクサンドロス。懊悩に至るほど烈しい、智慧の餓え、癒しがたい深い哀しみが、英雄と哲人を、旅に駆り立てたのだ。人を、旅に駆り立てる情熱は、魂の餓えであり、智慧の渇き、哀しみである。
飛行機はアテネに着陸する。紫の黄昏が忍び寄り、沙漠のように荒れ果てたギリシアの大地に、闇が覆い始める。偉大と退廃の都、アテネ。

■空間の旅と時間の旅
何故、人は旅するのか。人が、海の彼方の国に憧れ、遠く異国を旅し、異国の町を彷徨い、その地に愛するものを探すということは、いかなることなのか。偉大な都には、時の腐蝕のなかで結晶した時間が重なり、その地に生きた者の生きかたが刻まれている。空間は流れ去った時間の思い出を刻んでいる。若くして亡くなった、乙女の美しい姿を愛惜する生者の悲しみが、刻まれた大理石に凝結している。破壊された神殿の廃墟に佇む時、ただ礎石のみが殘されているのだが、失われた時の流れを超えて、死者の魂を悼むように、見えざる建築が幻のように、魂の眼をもつ者にのみ現れる。
 不可視のものを見るものにとって、空間を旅することは時間を旅することである。心の眼を開くとき、空間の旅は時間の旅である。旅人よ、聞こえざる聲を聞き、見えざる形象をみよ。魂の眼を開け、その時、美は見えざる空間から姿を現す。美は、陶酔であり、魅せられたる魂である。美は、目を瞑っていても見える形象、耳を塞いでいても聞こえる聲である。愛は、瀕死の魂を救うことである。瀕死の魂に手をさし伸べずにはいられない心である。眞に美しい魂を愛するものに、見えざる空間は美しい心を見せる。
 エーゲ海の光輝く海岸の町を歩く時、迷路のような町に佇み、隠された扉を開けると、古代の神殿がある。丘の上に列柱が立ち、イオニア様式の列柱には、花が咲いている。幻を見るものは、時の迷路に迷い込む。神殿の礎石の上に、詩人は蘇り、古代の詩歌が聲となる。空間の旅は、時の迷路をさまよう、時間の旅である。

■アクロポリス
アクロポリスの丘に上ると、オリーヴの木立が疎らに立つ。南麓にヘロドス・アッティコスの音樂堂、ディオニュソス劇場がある。松林を抜け、ローマ人が作ったブーレーの門に辿りつき、ローマ人が築いた石段を上ると、アクロポリスの聖域唯一の入口、プロピュライア(前門)がある。プロピュライアは、ドーリア様式の壮大な楼門建築であり、南側のテラスにアテナ・ニケ神殿がある。プロピュライアの階段を昇ると、パルテノン神殿が見える。アクロポリスの丘の中央に、アテナ古神殿跡があり、北側にエレクテイオン神殿がある。アテナ古神殿は、アルカイク・スマイルを湛えた純粋な人間の美しさに満ちた神殿であった。アテナ古神殿は紀元前6世紀に建てられたが、紀元前480年クセルクセス王麾下のペルシア帝国軍によって破壊された。
 アテナイ(アテネ)の守護神は、女神アテナである。アテナはメティス(知恵)を母としゼウスの頭から、完全武装した姿で生まれた。知性の女神であり、戰いの女神である。  

■エレクテイオン神殿
エレクテイオン神殿は、イオニア式柱頭を戴き、優美な佇まいである。エレクテイオン神殿には南面柱廊に、6体の女人柱(カリアティデス)が屋根を支える、乙女のテラスがある。柱廊のカリアティデス、柱となった6人の女人が限りなく優美である。エレクテイオンの一角に聖なるオリーヴの木の跡がある。
 大理石の白亞の列柱に、眞昼の日差しが烈しく降り注ぎ、光と影が烈しい対比を織り成し、眞昼の丘は、溜め息が出るほど美しい。

■二つの戦争の間に
アテナイ(アテネ)をして、ギリシアの榮光と退廃の中心たらしめたのは二つの戰爭、ペルシア戰爭とペロポネソス戰爭である。
 紀元前480年ペルシア帝国軍が侵攻、第2次ペルシア戰爭が始まる。テミストクレスは、婦女子をトロイゼンに退避させ、市民を艦隊に乗せ、全市民をアテナイから撤退させ、海で決戰する奇策を指揮した。秋、ペルシア軍はアテナイを蹂躙し、アクロポリスを包囲、神殿に火を放った。町を破壊し尽くした。テミストクレスは、ギリシア連合軍の作戰を立案、サラミスの海戰でギリシア連合軍を勝利に導いた。アテナイはギリシア全土を救った。(cf.ヘロドトス『歴史』第8巻)
 紀元前479年冬、アテナイ人たちが町に戻った時、アテナイは瓦礫の山、廃墟と化していた。アテナイは、国土を犠牲にして、サラミスの海戰で勝ったのである。破壊されたアクロポリスに神殿を建築したのがペリクレスである。

■パルテノン神殿
アクロポリスの丘に建つパルテノン神殿は、アテナ・パルテノス(處女神アテナ)を祀る神殿である。ペリクレスは、紀元前448年、政權を掌握すると、ペルシア帝国軍によって破壊されたアクロポリスの再建を企てる。
パルテノン神殿は、総監督フェイディアス、建築家イクティノスが設計し、建築家カリクラテスが施工した。紀元前448年に起工、437年にアテナ・パルテノス像が完成、パンアテナイア祭に落慶式が行なわれた。破風彫刻は432年に完成され、パルテノン神殿が完成した。
パルテノン神殿は、二重列柱の周柱(ペリステュロス)が回廊(ペリスタシス)を囲み、内部は、プロナオス(前室)、ナオス(内室)、パルテノン(處女の間)、オピストドモス(後室)、四室からなる。パルテノンの間は、ヘカトンペドン(百足)の間と呼ばれた。パルテノン神殿は、床から屋根まですべて、ペンテリコン山から切り出された大理石で作られた。パルテノン以前の神殿は、木造あるいは石灰岩で作られ、すべて大理石で作られた神殿はギリシアで最初であった。
2世紀、五賢帝時代、プルタルコスは、パルテノン神殿を、「美しさにおいては、完成した時からすでに古風、鮮やかさにおいては今に到るまで生気に溢れ出來たてのようであり、新しさが輝き、常に放つ香気があり、時間の手に汚されない、作品が永遠に若い生命の息吹きがあり、不老の魂を持つかのようである。」(cf.プルタルコス『対比列伝』「ペリクレス伝」) と形容した。
 ローマ帝国時代、パルテノンは無傷に殘ったが、ビザンティン時代(426-1458)ハギア・ソフィア寺院となり、オスマン帝国時代(1458-1833)イスラーム寺院に改変された。オスマン時代1687年ヴェネツィアの砲撃を受け破壊され致命的な傷を受けた。最後に1821から1833年オスマンとギリシアの間で独立戰爭が戰われ、戰火の中で被弾した。
 パルテノン神殿の傷だらけの崇高な美しさ。痛みの中でギリシアの理想を失わない悲壮な美。二千年を超える時の試練の流れのなかで、たび重なる改変と破壊に耐え、傷つきながら血を流し、崇高にして優雅、壮麗にして繊細、雄渾にして洗練を極めた美しさは、比類なく美しい。ムーセイオンの丘から眺める時、ヴェネツィアの砲撃を受け傷ついたその姿は、美を愛する者に感動を与えずにはおかない。
★【参考文献】
プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」「テミストクレス伝」「アリステイデス伝」「ペリクレス伝」「アルキビアデス伝」「ディオン伝」「デモステネス伝」「アレクサンドロス伝」
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻岩波文庫1952-1956
トゥキュディデス久保正彰訳『戦史』岩波文庫1966-67
ヘロドトス松平千秋訳『歴史』岩波文庫1971-1972
桜井万里子、本村凌二『ギリシアとローマ』世界の歴史5 中央公論社 1997
ダイアナ・バウダー編『古代ギリシア人名事典』原書房1994
マキシム・コリニョン冨永惣一訳『パルテノン』岩波書店1978
中尾是正『図説 パルテノン』グラフ社1980
リース・カーペンター松島道也訳『パルテノンの建築家たち』鹿島出版会1977
澤柳大五郎『アクロポリス』里文出版1996澤柳大五郎『ギリシアの美術』岩波新書1964
磯崎新、篠山紀信『透明な秩序―アクロポリス』六耀社1984
ナイジェル・スパイヴィ福部信敏訳『ギリシア美術』岩波書店2000
村田潔編『ギリシア美術 体系世界の美術5』学研1980
村田數之亮『ギリシア美術』新潮社1974
大久保正雄COPYRIGHT 2002.03.27
★アクロポリスの丘 エレクテイオン神殿
★アクロポリスの丘 パルテノン神殿
   

2016年6月21日 (火)

ロドス島 古代都市リンドス イアリュソスの丘 聖ヨハネ騎士団

Ookubomasao73Ookubomasao86_2Ookubomasao87_3大久保正雄『地中海紀行』第27回
古代都市リンドス イアリュソスの丘 聖ヨハネ騎士団
ラオコーン群像 三人の彫刻家ハゲサンドロス、ポリュドロス、アタノドロス

勝利の女神ニケが舞い降りる 古代都市リンドス。
ラオコーン群像、ミケランジェロが湛えた傑作。
リンドスの三人の彫刻家、ハゲサンドロス、ポリュドロス、アタノドロス
聖ヨハネ騎士団、オスマン帝国との攻防。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■聖ヨハネ騎士団
1103年聖ヨハネ病院騎士団はイエルサレムに創設されたが、1291年アッコン陥落の時、キュプロス島に移住し、1308年8月15日、聖ヨハネ騎士団はビザンティン帝國軍と戰い、ロドス島を征服、1310年根拠地にする。聖ヨハネ騎士団は、ロドスに城塞都市を築き、16世紀、ヴェネツィア人築城建築家バジリオ・デッラ・スコラによって胸間城壁をそなえた強固な城砦を築いた。
1522年8月1日、オスマン帝國第10代スルタン、スレイマン1世(1494-1566)は、聖ヨハネ騎士団が占拠するロドス島を包囲、5か月間攻撃を續行。スルタン率いるオスマン帝國軍20万。對する、聖ヨハネ騎士団騎士500人、傭兵1500人、戰闘可能な市民3000人。スレイマン1世は、イスラーム法に基づき「抗戰するか退却するか」選択を提示。武装解除せずに退去させることを約束する。12月19日、聖ヨハネ騎士団は、撤退を決意、1月1日この要塞都市を船で去る。ロドス島は、黒海、イスタンブール、地中海を結ぶ海上交易路、また地中海戰略上の拠点である。1530年、聖ヨハネ騎士団は、ヨーロッパを彷徨った末、マルタ島に移住。1798年、ナポレオンの包囲を受け、要塞都市ヴァレッタを放棄。ロシアに移る。現在、ローマ、コンドッティ通りにある。

■古代都市リンドス
リンドスの折重なる白い町の迷路から、石畳の坂を昇ると、糸杉に囲まれた中世の 城砦の城壁に辿りつく。丘の上、糸杉の樹林の間からリンドスの入り江が見える。城 砦の門から中に入ると、細い階段がある。入り江を臨むテラスの岩壁に、三段櫂船 (トリエレス)の浮彫りがある。紀元前3-2世紀の彫刻家ピュトクリトスの浮彫であ る。ピュトクリトスは、サモトラケのニケを作った彫刻家である。階段を上り、ビザ ンティン総督の館、聖ヨハネ礼拝堂を抜けると、ドーリア式列柱柱廊の前門に至る。 そして階段を上ると、リンドスのアクロポリス頂上に辿りつく。東のはしにアテナ・ リュンディア神殿が建つ。斷崖の上から、輝く紺碧の海が見える。

■リンドス 賢者と藝術家のポリス
リンドスに、紀元前7世紀、七賢人の一人、僭主クレオブゥロスが生まれた。クレオブゥロスは、「節度が最善である。幸運に恵まれても傲慢であってはならない。逆境に陥っても卑屈になってはならない。」と言った。ギリシア七賢人とは、ミレトスの人タレス、ミュティレネの人ピッタコス、プリエネの人ビアス、アテナイ人ソロン、リンドスの人クレオブゥロス、ケナイの人ミュソン、スパルタの人キロンである。(cf.プラトン『プロタゴラス』)
彫刻家ピュトクリトスが、紀元前3-2世紀、リンドスの工房で創作活動をした。紀元前190年ロドス島の人々は、セレウコス朝アンティオコス3世に対する勝利を祝して、サモトラケ島に、空から舟の舳先に降り立った勝利の女神、翼を持ったニケの像を建てた。このニケはピュトクリトスの作品である。

■ラオコーン群像
リンドスの三人の彫刻家ハゲサンドロス、ポリュドロス、アタノドロス
ヴァティカン宮殿ベルヴェデーレの中庭に置かれている、ラオコーン群像は、紀元前3-2世紀リンドスの三人の彫刻家ハゲサンドロス、ポリュドロス、アタノドロスによってリンドスの工房で作られた。ティトゥス帝(79-81)の宮殿に置かれていた。ペルガモン王國のために作られ、ローマ人によってローマに運ばれた、ヘレニズム彫刻の傑作である。ラオコーン像は、ルネサンス時代1506年1月14日、エスクィリーノの丘から発見された。ミケランジェロはこの作品を見て霊感を受けた。

■イアリュソスの丘
トリアンダの村から、フィレリモス山に上ると、大きなくぬぎの木が枝を広げ木陰をつくる広場がある。糸杉の並木道で囲まれた石段の坂を上ると、頂上に、イアリュソスのアクロポリスがある。紀元前三世紀のアテナ神殿礎石があり、パナギア・フィレリモス教会、ブーゲンビリアの花に覆われた回廊、聖ヨハネ騎士団の修道院がある。付近にミュケナイ時代の円形墳墓がある。紀元前1200年、ミュケナイ王國崩壊、王宮が炎上した時、ロドスのイアリュソスに移住した、ミュケナイ人の足跡である。
 重層する時間を湛えながら、時は止まる。糸杉の木立に囲まれた回廊は、時が止まった美しい空間である。生きてこの地を歩くことは、至上の歓びである。
 イアリュソスの丘の上、ヨハネ騎士団修道院からフィレリモス山頂きに向かう、美しい並木道がある。木々の幹がきらきらと輝き、松脂が光っている。燦々とひかる樹木の香りに身が包まれる。松の樹液の香りが漂う丘の上の並木道を歩くと、この世にこれほど美しい場所があるのか、夢の中を歩いているように思われる。あるいは前世の記憶が蘇り、前世でこの道を歩いたことを思い出すような氣がする。

■ロドスをめぐる攻防
紀元前323年、アレクサンドロス大王はバビロニアのバビロンで死ぬ。アレクサンドロスは遺書を殘さなかったので、大王死後、広大な帝國の支配權をめぐり、アレクサンドロス帝國の武將たちが抗爭を繰り広げた。だが、或る伝説によれば、大王の遺書はロドスに委託された(cf.シチリアのディオドロス『歴史』)。プトレマイオス、セレウコス、アンティゴノスが、後継者爭いを繰り広げる。ロドスの人々は、ヘレニズム時代、プトレマイオスと同盟を結び、東地中海貿易で榮える。ロドスは、ヘレニズム期、黄金時代を築く。
紀元前305年、アンティゴノス朝マケドニアのアンティゴノス1世(隻眼王モノプタルモス)は、王子デメトリオス攻城王(ポリオルケテス337-283)を派遣して、ロドスの人々と戰爭することを命じた。デメトリオスは、容貌の美しさが優れていたので、彫刻家や画家は作品を完成することができなかった。顔には愛らしさと品位と威厳と甘美が具わり、若さと氣力に加え、英雄的な輝きと王に相応しい重みがあった。だが戰爭以外の時、性格は放縦で獰猛であった。美しい容貌と優れた才能、そして醜い性格を持つ人間の生きた一例である。デメトリオスは、兵器の製作に特異な才能を発揮し、十六層艪船や巨大な攻城具(ヘレポリス)などの機械を製作していた。デメトリオスが製作した機械は巨大かつ巧緻であるのみならず美しかった。このため敵さえもこれを眺めるために時を費やした。デメトリオスは、ロドスの城壁に攻城具をすえつけ包囲。プトレマイオスとの同盟の破棄を迫る。ロドスの人々は勇敢に抗戰。紀元前304年、ロドスの人々は頑強に戰いを継續する。デメトリオスはロドス包囲を斷念、アテナイからの使節の調停により、ロドスの人々と講和条約を結ぶ。(cf.プルタルコス『對比列伝』「デメトリオス伝」)
紀元前302年、第4次ディアドコイ戰爭が起きる。リュシマコス、カッサンドロス、プトレマイオス、セレウコス、對アンティゴノス1世・デメトリオス同盟を締結する。紀元前301年8月イプソスの戰いにおいて、アンティゴノス1世、デメトリオス父子は破れ、アンティゴノス1世は敗死。セレウコス・リュシマコス連合軍が勝利する。リュシマコス、カッサンドロス、プトレマイオス、セレウコスの四王國成立。アレクサンドロス帝國の分割が行なわれる。
このようにして、ロドスは、プトレマイオス朝エジプトの庇護の下、紀元前168年までエーゲ海に君臨する。ロドスの黄金時代である。
★参考文献
Herrman Diels,Walter “Kranz Die Fragmente der Vorsokratiker” 3 Bande,Berlin, 1953
内山勝利編『ソクラテス以前哲学者断片集』全6巻、岩波書店1996-1998
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』岩波文庫
プルタルコス『プルタルコス英雄伝』「デメトリオス伝」「カエサル伝」「キケロ伝」「ブルートゥス伝」「ポンペイウス伝」
W.W.ターン角田有智子・中井義明訳『ヘレニズム文明』思索社1987
橋口倫介『十字軍騎士団』講談社学術文庫1994 pp.125-126
周藤芳幸・村田奈々子『ギリシアを知る事典』東京堂出版2000
 11.ロドスとヘレニズム時代の東地中海 pp.204-223
塩野七生『ロードス島攻防記』新潮社1985
ロレンス・ダレル土井亨訳『海のヴィーナスの思い出 ロドス・太陽神の島1945-1947』新評論1999
トゥキュディデス 久保正彰訳『戰史』岩波文庫1966-67
★ロドス島 イアリュソスの丘
★ラオコーン像 騎士団長の館
★ロドス島 イアリュソスの丘
★聖ヨハネ騎士団 騎士団長の館
大久保正雄COPYRIGHT 2002.2.27
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2016年6月20日 (月)

エーゲ海の薔薇、ロドス島 皇帝ティベリウス、ロドスのアンドロニコス

Ookubomasao72Ookubomasao71Ookubomasao85大久保正雄『地中海紀行』第26回
エーゲ海の薔薇、ロドス島 皇帝ティベリウス、ロドスのアンドロニコス

空と海と光が溶けあう、海のほとり、
光と薔薇の島、ロドス。
糸杉にかこまれた時間の回廊。
エーゲ海の微風が吹く、咲き亂れる花の島。

32歳で夭折した、アレクサンドロスが遺言を殘した島。
プトレマイオス1世が、攻城王デメトリオスから守った島。
カエサルが弁論術を学ぶためにローマから航海した島。
皇帝ティベリウスが隠遁。ロドスのアンドロニコス『アリストテレス全集』編集。
さまよえるヨハネ騎士団とともに、漂い流れ着いた、
洗礼者ヨハネの右手。失われた肉體。

英霊は、エーゲ海を漂い、精神のみが生きる。
肉體は精神の死を生き、精神は肉體の死を生きる。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■エーゲ海の薔薇 ロドス島
咲き亂れる花にみちた島ロドス。エーゲ海の樂園。ロドス島は、イオニア地方沿岸に浮かぶドデカニソス諸島のなかで最大の島であり、南に位置する。ロドスからイオニアの海岸が見える。ロドスの名の語源は不明であるが、ヘレニズム時代にロドスが発行した硬貨の表には太陽神ヘリオスが、裏には薔薇が刻まれ、ロドス人自身によって薔薇の島と考えられていた。薔薇はロドスのトレードマークである。ロドス陶器に薔薇が刻印され地中海の港に輸出された。太陽神ヘリオスはロドスの守護神である。ロドス島は、黒海、ビュザンティオン、地中海を結ぶ海上交易路、また地中海戰略上の拠点である。ロドス海商法が、エジプト、エーゲ海の島々、地中海の港にあまねく支配し、ロドス人の船が地中海世界に融通無礙に航海した榮光の時代が追憶される。
紀元前5世紀、サモス島のアテナイ海軍がリンドスとカミロスを海上から攻撃、紀元前3世紀、アンティゴノス朝マケドニアがロドスを包囲、16世紀、オスマン帝國がロドスを包囲、攻撃した島。古代のポリスと中世の城砦が空間を織り成す島である。

■地中海都市とゴシック都市
地中海都市
ギリシアの海、エーゲ海。地中海都市の舞台装置は、アクロポリスと列柱とアゴラ、回廊と中庭である。そして陽光が降りそそぐテラスである。アクロポリスの丘から、海が見える。光が降りそそぎ、大理石の白い神殿が輝く時、人間の尊厳が輝く。個の魂の存在の尊さ、精神の美しさが光り輝く。列柱に眞昼の影が深くなる時、有限なる人間の榮光が刻まれる。アゴラに人が集まり、人が語り合い、テラスで光をあびながら、食べる、言い爭う、愛する、競技することを樂しむ。
地中海都市は、無限に向かって開かれた都市である。海は自由への扉である。世界に向かって開かれた窓。一つのポリスから他のポリスへ、独裁政から民主政へ、この世に絶對的な國家はない。この世に絶對的な法律はない。法律は人間のために作られた束の間の約束に過ぎない。エーゲ海を旅するギリシア人は、ポリスは相對的なものに過ぎないことを知っている。冬、大地を耕す者は、夏、海を航海する。海を航海する者は、權力に抗し、自ら支配者たり得る。ギリシア人は「いかなる者の奴隷でもなく臣下でもない」(アイスキュロス)。地中海都市は精神の樂園である。
ゴシック都市
ゴシック都市の舞台装置は、尖塔とゴシック・アーチとヴォールトからなる。天を目ざして高く聳える塔は神の絶對的権威の象徴であり、僧侶は祈り、騎士は戰い、農夫は耕す。王は獨裁者として僧侶と官僚を用いて君臨する。ゴシック都市は、閉ざされた都市。王は、階層社会の頂に君臨し法律に従わず、神の権威の下に民衆を土地に釘づけにする。神が天上界に君臨するごとく、王は地上に統治する。
獨裁者の下に赴く者は、自由人であっても奴隷となる。ゴシック都市は監獄都市である。脱出不能の牢獄である。囚われた人間は、生きながら死ぬのである。ゴシック都市において、僧侶は権威を身に纏い、騎士は権力に従属し、民衆は隷属する。僧侶は、権威を身に纏い、名譽欲が強く執念深く學識はあるが、愛はない。有限な知識の庭を歩き回る禽獣である。創造はない閉ざされた権威の王國。いかに多くの知識を身に纏い、地位が高く名譽を身に受けても、愛と創造がなければ生きる価値はない。ゴシック都市は奴隷制の王國であり、ゴシック都市の城壁は奴隷を閉じ込める檻である。
だがロドスの城塞都市は海に開かれた都市である。

■ロドス 古代と中世が重なる街
ロドスの都市は美観を誇る。首都ロドスは、島の北端にあり新市街と旧市街からなる。マンドラキ港の波止場には三基の風車があり、港の入口には雌雄の鹿の石柱が立っている。此処にはかつてロドス島の守護神、太陽神ヘリオスの巨像が建っていたが、紀元前228年、大地震がロドスを襲い崩壊した。ロドスは、かつて蛇が多かったが、これを退治するため鹿を飼った。今も鹿の図案が陶器に用いられる。
旧市街は、堅牢な城壁で囲まれ、城門がある。北側に騎士の館の群があり、南側に市民の居住区域がある。聖ヨハネ騎士団が築いた海側の城門を入ると、騎士の館が建ちならぶ狭隘な騎士の通りがある。アフロディーテ神殿遺跡が残る。石畳の坂道を昇ると、オーヴェルニュ語族の館、イタリア語族の館、聖マリア教会、イギリス語族の館、ロドス考古学博物館となっているヨハネ騎士団病院、七ヶ国語族の館、がある。そして坂の頂上に14世紀に建てられた騎士団長の館が、アポロン神殿跡にある。
騎士団病院は、15世紀にローマ遺跡の上に建てられ、今、ロドス考古学博物館として用いられている。二階建回廊が中庭をめぐり、二階から緑の中庭が見下ろせる。ここには「ロドスのヴィーナス」がある。
旧市街、ソクラテス通りの頂上にスレイマニエ・モスクがあり、縦横に袋小路が走る。城塞都市は、迷路のように小路が張りめぐらされている。旅人は、空間をさまよい歩きながら、時の迷路に迷い込むのである。時計塔の上から旧市街全域が眺められる。旧市街は、城壁が囲み、騎士の館の群と市民の居住区域すべてを守る城塞都市であることがわかる。城壁の彼方には、青く美しい海が見える。地中海クルーズ、エーゲ海クルーズの巨大な客船が何隻も停泊している。木の下にはパラソルが広げられ、カフェテラスがある。広場で、犬が昼寝をしている。
ロドス市街の南西、丘の上にロドス・アクロポリスがあり、アポロン・ピュティオス神殿遺跡(紀元前5世紀)がある。その下に競技場がある。

■皇帝ティベリウス
紀元前75年、ユリウス・カエサル、モロンの息子弁論術教師アポロドロスに学ぶためにロドスに航海する。アポロドロスはキケロを教えたことがある。ブルートゥスも弁論術を學ぶために來た。紀元前6年、ティベリウス(第2代皇帝)はロドスに隠棲し哲學を學ぶために來た。また將軍ポンペイウスもロドスに來た。紀元57年リンドスの入江に、パウロが來島し、キリスト教を伝えた。

■ペリパトス派、ロドスのアンドロニコス『アリストテレス全集』
紀元前1世紀、ロドスのアンドロニコスは、アテナイのリュケイオンにて、「アリストテレス全集」を編纂する。ペリパトス派最後の学頭。ペリパトス派は、ロドス人が多い。紀元前321年アリストテレスの死以後、ロドスのエウデモスは、ロドスのパシクレスが書いた『形而上學』第一巻講義録を編集した。
ローマ時代以後、ロドスは歴史の舞台から姿を消す。1千年の時が流れ、1308年から1523年まで二百年間ヨハネ騎士団がロドス島を本拠地とし城塞都市を築いた。ロドスは、古代の神殿の上に中世の城塞都市と市街の迷路が融け込む、時の迷路である。
★参考文献
Herrman Diels,Walter “Kranz Die Fragmente der Vorsokratiker” 3 Bande,Berlin, 1953
内山勝利編『ソクラテス以前哲学者断片集』全6巻、岩波書店1996-1998
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』岩波文庫
プルタルコス『プルタルコス英雄伝』「デメトリオス伝」「カエサル伝」「キケロ伝」「ブルートゥス伝」「ポンペイウス伝」
W.W.ターン角田有智子・中井義明訳『ヘレニズム文明』思索社1987
橋口倫介『十字軍騎士団』講談社学術文庫1994 pp.125-126
周藤芳幸・村田奈々子『ギリシアを知る事典』東京堂出版2000
 11.ロドスとヘレニズム時代の東地中海 pp.204-223
塩野七生『ロードス島攻防記』新潮社1985
ロレンス・ダレル土井亨訳『海のヴィーナスの思い出 ロドス・太陽神の島1945-1947』新評論1999
トゥキュディデス 久保正彰訳『戰史』岩波文庫1966-67
大久保正雄COPYRIGHT 2002.2.27
★リンドス、アクロポリス 光る海
★リンドス、アクロポリス アテナ神域
★リンドス、アクロポリス 

2016年6月19日 (日)

旅する哲学者 ピタゴラスの旅 プラトンの旅

Ookubomasao75Ookubomasao76_2大久保正雄『地中海紀行』第25回
旅する哲学者 ピタゴラスの旅 プラトンの旅

旅する哲学者、ピタゴラス、プラトン。
エーゲ海を旅する者は、光り輝く。
烈しい光が射して來る。
夢のように過ぎた美しい日々。愛は過ぎ去りし日の眞夏の輝き。
黄金の黄昏が忍びよる。あなたと歩いた黄昏の海。
星が輝く夜、エーゲ海の思い出。
神々に祈り、カスタリアの泉を飲む者は、再びギリシアに歸ってくる。
エーゲ海の魂に觸れた者は、再びエーゲ海に帰ってくる。

哲學者の言葉から、愛の香が立ちのぼる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■ピュタゴラスと地中海
ピュタゴラスは紀元前6世紀イオニアのミレトスの對岸にあるサモス島に生まれた。僭主ポリュクラテスが書状によってエジプト王アマシスに紹介し、ピュタゴラスはエジプトに旅した。エジプト、バビロニア、ペルシア、クレタ島に滞在した。エジプトでは神殿内陣奥深い處で秘儀を學んだ。ピュタゴラスは、エジプト人から「魂は不死不滅であり、輪廻転生する」という思想を學んだと伝えられる。
 人間の魂は本来不死なるものであり、神的なるものである。肉体は死んでも魂は滅びることなく、他の動物や人間の別の肉体に移り宿り、本来の神性を回復するまで、輪廻転生を繰り返す。そして再び生まれてくる人間のうちに入ってくる。この魂の循行は三千年を要する。(cf.ヘロドトス『歴史』第2巻)
 祖國サモス島に戻ったが、ポリュクラテスが僭主獨裁制を敷いていたのでこれを嫌悪して、イタリアのクロトンに移住し、イタリア人のために法律を制定した。その地で宗教的學問的教団を組織した。弟子は300人に達した。國制は美しくアリストクラティア(優れた者の支配)を確立した。ピュタゴラスが組織した教団は、禁欲的、學究的なピュタゴラス的生活を追求した。クロトンの住民がピュタゴラスの僭主獨裁制の樹立を警戒してピュタゴラスの家に火を放った。ピュタゴラスは、メタポンティオンのムーサたちの神殿に逃げ40日間食を絶った後、死んだ。ピュタゴラスは、90歳まで生きた。(cf.ディオゲネス・ラエルティオス『哲學者列伝』8-1.3,39,40,44)
 ピュタゴラスは、口伝(アクロアティカ)、祕伝(エポプティカ)を弟子に伝え、魂の不死不滅、魂の輪廻転生の思想にもとづいて、宗教的祕儀、學問的修行を行なった。後に、ソクラテスおよびアカデメイア派に深い影響を与える。

■プラトンと地中海
紀元前399年、プラトンが28歳の時、ソクラテスが処刑されて死ぬ。ソクラテスは、毒蕁麻の毒の觴を飲みほし、肉體が冷えきって、死ぬまでの最期の時間、問答がおこなわれる。ソクラテスは、死の時間に居あわせた弟子たちに、人間は死に肉體は滅びるが、魂は不死不滅である、と説いて死んだ。
プラトンは、これ以後、12年間、地中海のほとりを彷徨する。メガラ、エジプト、エフェソス、イタリア、アフリカのキュレネ、フェニキアへ旅した。
プラトンは、ソクラテス死後、28歳の時、メガラのエウクレイデスの許へ赴いた。またキュレネに数学者テオドロスを訪ねる。イオニア地方、エペソスのヘラクレイトスの弟子クラテュロスに學ぶ。(cf.アリストテレス『形而上學』1-6.987a29)またプラトンは、アイギュプトス(エジプト)の豫言者のところに行った。この時、悲劇詩人エウリピデスが同行した。エウリピデスは、エジプトで病気に罹ったとき、祭司たちに海水による治療を受けて病気から救われた。(cf.ディオゲネス・ラエルティオス『哲學者列伝』3-1-6)
387年遍歴時代末期、イタリアに航海する。ピュタゴラス派の哲学者ピロラオス、エウリュトスに会うためにイタリアに赴く。イタリアのタラスにてピュタゴラス派のアルキュタスと親交を結ぶ。
387年シケリアに渡航する(第1回渡航)。プラトンは、青年貴族ディオンと出会い、ディオンはプラトンの思想の共感者となり愛弟子となる。シケリアにおいてディオニュシオス1世治下の強大なシュラクサイ王國宮廷において僭主獨裁制の現實を身を以って體驗する。獨裁者ディオニュシオス1世は、反對者を捕え牢獄「ディオニュシオスの耳」に監禁し、盗聴していた。プラトンは、ディオンを介して、ディオニュシオス1世と会見する。「獨裁者はすべての人よりも勇気がない。正義の人々の生活は幸福であるが、不正な人々の生活は不幸である」と説くと、獨裁者は自分が非難されているような氣がして、論旨を聞かず不愉快に感じ、獨裁者の怒りは収まらず、ディオニュシオス1世はスパルタ人提督ポルリスに航海中プラトンを殺すか、奴隷に売るように依頼し、実行に移された。プラトンはアイギナ島で危うく救出された。当時アイギナはアテナイの敵國であった。(cf.プルタルコス『對比列伝』「ディオン伝」、ディオゲネス・ラエルティオス『哲學者列伝』3-1-19,20、プラトン『第七書簡』)
387年歸國、プラトン四十歳。アカデモスの聖域アカデメイアの地に學園を設立する。  プラトンは、自らの叡知を、二つの源泉から、ソクラテスとピュタゴラス派、或いはエジプトの知恵から、得た。ピュタゴラス派、エジプトから「魂は不死不滅であり、輪廻転生する」という思想を學んだ。347年八十歳の時、宴の後、書物を執筆しながら死ぬ。

■ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ
紀元前7世紀、イオニアの都市が爛熟し、頽廃した時に、哲學者たちが現れ豫言したように。紀元前5世紀、アテナイの國家が傲慢ゆえに戰爭に明け暮れ、敗れ、人々は零落した。ポリスが荒廃し破綻した時に、惡徳と腐敗のなかから、ソクラテスが現れた。だが邪惡な人々のゆえに、ソクラテスは殺された。
文明が、芽生え、蕾を芽ぐみ、花開き、咲き誇る花が死の匂いを漂わせるとき、哲學が生まれる。文明の黄金時代、秘儀と藝術と悲劇の花が開く。花が枯れ果て、死の匂いが漂う時、哲學が現れる。しかし文明は死の灰燼のなかから再びいのちを蘇らせることはない。
エーゲ海の哲學者、魂の墓標。
哲學者の言葉から、
愛の香が立ちのぼる。
哲學者の死から二千年たって、
私はその香をかぐ。
★参考文献
Herrman Diels,Walter Kranz “Die Fragmente der Vorsokratiker” 3Bande,Berlin, 1953
G.S.Kirk, J.E.Raven and M.Schofield “The Presocratic Philosophers” 1st.ed.1957, 2nd.ed.1983, Cambridge University Press
John Burnet(ed.), Platonis Opera, 5vols, Oxford Classical Text, Oxford U.P.1903
William David Ross, Aristotelis Metaphysica, Oxford U.P.
田中美知太郎、藤沢令夫訳『ギリシア思想家集』世界文學体系63 筑摩書房 1965
内山勝利編『ソクラテス以前哲学者断片集』全6巻、岩波書店1996-1998
斎藤忍隋『知者たちの言葉』岩波新書1976
ディオゲネス・ラエルティオス加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝』岩波文庫1984-1994
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻岩波文庫1952-1983
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
大久保正雄COPYRIGHT 2002.01.30
★ロドス島 マンドラキ港 城壁
★ロドス島 エーゲ海のホテルにて

2016年6月18日 (土)

旅する哲学者、エーゲ海の瞑想 ヘラクレイトスの言葉

Ookubomasao79Ookubomasao78大久保正雄『地中海紀行』第24回
旅する哲学者、エーゲ海の瞑想 ヘラクレイトスの言葉

糸杉の香りと静寂が立ち籠める、
アクロポリスの丘、きらめくエーゲ海。
エーゲ海の風に吹かれて、海岸を歩くとき、
書かれざる智慧がよみがえり、守護霊の聲が囁く。

光るエーゲ海、烈しい光が身を包み、
ダイモーンが目覺める。
光のなかで、感覺がめざめ、魂が翼をひろげ、
ヌースが光のなかを羽ばたく。
不滅の精神が、死の灰の中から蘇る。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■エーゲ海の瞑想
光輝くエーゲ海。波がない、沈黙が支配する海。
エーゲ海の海岸を歩くと、すべての感覺がよみがえり、心が蘇る。生きるとは何か、愛するとは何か、あるべき生きかたとは何か。
眞昼のクノッソス宮殿、中庭に遊ぶ孔雀のように、目的もなく、美しい時間がながれ、時が経つのを忘れる。不滅の精神(ヌース)が蘇る。文明に侵される以前の存在の姿。生の根源にある愛と存在と本質。人が何を所有するか、人が何如に見えるかではなく、人の存在の美しさが、烈しい光のなかで見える。人間の美しさは、存在の美しさ、魂の美しさによるのである。
ギリシア人の地は、貧しいが、優美であり、光あふれ、乾燥している。沙漠のように、荒寥として、美しい。イオニア地方、エーゲ海の島々、饒舌なイオニア人から哲學が生まれた。
音もなく匂いもない、ただ光零る海。潮騒が響かない、静かなる海、エーゲ海。微風が吹く。風に吹かれて歩くと、思いが融ける。
糸杉の香りと静寂が立ち籠める丘。海が見える丘を歩くと、魂が翼をひろげる。私は、動かない海を眺めて、歩きながら考える。アクロポリスの丘から、國家の形が見える。プラトンが、見えざる魂を見える形において見ようと考えたポリス。
緑陰を歩くと、緑なす思いに身が包まれる。糸杉の香りが漂う丘を歩くと、糸杉の香りに身も心も包まれ、香りは思惟となる。光溢れるエーゲ海を歩くと、光の思想が心にあふれる。エーゲ海の哲學者の魂がよみがえる。

■エーゲ海のカフェテラス 
金色に輝く光る海が、静かに移ろっていくのを眺めながら、何もしない時間、無為の逸樂。樹木の枝の下に、パラソルを広げるカフェテラス。ギリシアのカフェ、タベルナは陽光が降りそそぐテラスにある。
言葉を交わすこと樂しむギリシア人。昼下がり、木陰でタブリをさすギリシア人。陽光の下に、時が経つのを樂しみ、生きる時間を樂しむ。
カフェテラスは、大きな木の下にある。枝をひろげる木の下に、パラソルをひろげ、その下にテーブルと椅子があり、人が料理と果実を食べ、葡萄酒を飲み、そしてテーブルの下には、犬と猫がいる。犬と猫は人間から食べものをもらうために待ち受けている。
 エーゲ海のカフェテラスは、太陽と樹木と人間と動物が共に生きる空間である。人間は宇宙の生命の一部である。人間を含めて生きものが、太陽の光を樂しみ生きる歓びを味わう空間。地中海的生活様式の優雅な舞台装置である。
 エーゲ海の島々の海岸、アテネ、タッサロニキ、ギリシアの至る所にカフェテラスの文化が生きている。クレタ島イラクリオンのレストランで葡萄の蔦が空を蓋う木洩れ日の下に、テーブルをならべている。デルフォイで、斷崖の上に葡萄の枝がのびるテラスのレストランがあり、その名はタベルナ・ディオニュソスであった。デルフォイの斷崖のレストランからの眺めは、コート・ダジュール(紺碧海岸)のようである。眼下にコリントス灣が見える。
ギリシアは、變身物語の古代から、太陽と樹木と人間と動物が、空間の中に融け合って生きてきた。此処には、生きとし生けるものの心が共感する世界がある。

■哲學者の魂を求めて
生きるか死ぬか、命を賭けて、革命期の志士のごとく、熾烈な精神を以って生きなければ、哲學者ではない。かつて、理想のために戰い、己の思想に殉じた哲學者が存在した。かつて、名譽のためでなく地位のためでもなく、知恵を愛するがゆえに、哲學者(philosophos)と呼ばれた人が存在した。美しい魂にのみ、智慧への愛が生まれる。哲學者が滅びて、すでに長い歳月が流れた。
 思想は、変革を意図するところに生まれる。変革者は必ず思想家でなければならない。そして行動する者でなければならない。  地上に美と善を実現するために、命を賭けて、革命期の革命家のごとく燃えるような精神を以って生きなければ、哲學者の名に値しない。生きるか死ぬか、命を賭けて言葉を刻み、美しく生きなければ詩人の名に値しないように。美と善は、己の命を賭けて、己の命と引きかえに、手にいれるものである。人生は一度しかない。心から愛することに命を使うべきである。人は、美しい人生を、探求しなければならない。「人生は美しい」メLa vita e bella.モと考えるイタリア人のように。  私は、哲學者の魂を探す旅に出た。地上に刻まれた美しい魂の影を求めて。かつて地上に生きた哲學者の魂を求めて、私はさすらう。愛と復讐の大地ギリシアには、哲學者の魂が刻まれている。エーゲ海の輝く海原に、アクロポリスの丘に、いのちを賭けて生きた哲學者の魂が漂う。

■ヘラクレイトスの言葉
朽ち果てた書物
書庫の暗闇の中から『ソクラテス以前の哲學者たち』を見つける。若き日、胸時めかせて、讀んだ書物。十数年ぶりに頁を開く。光陰は矢のように流れ、思い出が蘇る。かつて純白の色が目に眩しい表紙は枯葉色に変り果て、私は時の流れを知る。美しい書物が心のなかでのみ蘇る。歳月が流れ、書物は朽ち果て、書物を讀む者は、苦難に襲われ血に塗れ死に瀕したが、エーゲ海の哲學者の言葉は輝きを放ち續ける。失われた夢のように。光り燦めくエーゲ海のように。  燦めくエーゲ海の海原を見る時、時が経つのを忘れ、永遠の今が蘇る。眞實の言葉が、魂を救う。紺碧のエーゲ海。イオニアの海岸。イタリアのギリシア都市。
ピュタゴラス、ヘラクレイトス、愛鍾した言葉の輝き。地中海を旅したピュタゴラス。
孤高な哲人ヘラクレイトス。わが眷戀の地、エーゲ海。エーゲ海の岸辺を歩くと、ヘラクレイトスの言葉を思い出す。永劫に回歸する円環的な時間。果てしなき魂の境界。多識は叡智を妨げる。知識によっては到達できない精神。輝ける魂。
ヘラクレイトスは、エペソスで生まれた。王族あるいは、エペソスの貴族階級に属した。
ヘラクレイトスの言葉
「火は土の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる。」 (Fr.76.cf.Fr.36)
「あらゆる道を辿っても、行きて、魂の果てを見出すことはできない。それほどに深いロゴスを魂は有するのだ。」(Fr.45)
「多識(polymathie)は精神(ヌース)を有することを教えない。」(Fr.40)
「乾いた光輝、この上なく知的にしてまた最も優れた魂。乾いた魂は、この上なく知的でまた最も優れている。」(Fr.118)
★参考文献
Herrman Diels,Walter Kranz “Die Fragmente der Vorsokratiker” 3Bande,Berlin, 1953
ディールス=クランツ『ソクラテス以前の哲学者断片集』1951
G.S.Kirk, J.E.Raven and M.Schofield “The Presocratic Philosophers” 1st.ed.1957, 2nd.ed.1983, Cambridge University Press
John Burnet(ed.), Platonis Opera, 5vols, Oxford Classical Text, Oxford U.P.1903
William David Ross, Aristotelis Metaphysica, Oxford U.P.
田中美知太郎、藤沢令夫訳『ギリシア思想家集』世界文學体系63 筑摩書房 1965
内山勝利編『ソクラテス以前哲学者断片集』全6巻、岩波書店1996-1998
斎藤忍隋『知者たちの言葉』岩波新書1976
ディオゲネス・ラエルティオス加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝』岩波文庫1984-1994
プルタルコス河野與一訳『プルタルコス英雄伝』全12巻岩波文庫1952-1983
村川堅太郎編『プルタルコス』世界古典文学全集23筑摩書房1966
★ロドス島 リンドス城壁とエーゲ海
★リンドス アクロポリス
大久保正雄COPYRIGHT 2002.01.30

2016年6月17日 (金)

エーゲ海年代記 文明の十字路、エーゲ海

Ookubomasao71Ookubomasao72大久保正雄『地中海紀行』第23回
エーゲ海年代記 文明の十字路、エーゲ海

窓を開けると、エーゲ海が見える。
烈しい光が射してくる。
夢のように過ぎた美しい日々。愛は過ぎ去りし日の眞夏の輝き。
黄金の黄昏が忍びよる。あなたと歩いた黄昏の海。
星が輝く夜、エーゲ海の思い出。
神々に祈り、カスタリアの泉を飲む者は、再びギリシアに歸って來る。
エーゲ海の魂に觸れた者は、再びエーゲ海に歸って來る。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■文明の十字路 エーゲ海
エーゲ海は、アイガイアの海であり、多島海(arkhipelagos)と呼ばれ、400餘りの島々が浮かぶ。キュクラデス諸島、ドデカニサ諸島、ロドス島、クレタ島などの島々からなる。エジプト文明とアナトリア文明とギリシア文明を結ぶ、海上の十字路である。
ティレニア海はイタリアの海であり、エーゲ海はギリシアの海である。
エーゲ海文明は、ヨーロッパ最古の文明であり、ギリシア文明の濫觴である。

■エーゲ海年代記
紀元前3000年、エーゲ海に、青銅器時代が始まる。
クレタ島における初期クレタ(ミノア)文化が始まる。初期キュクラデス文化榮える。  紀元前2300年、東ヨーロッパより北方民族がギリシア(原ギリシア人)に侵入、初期ヘラディック(ギリシア)文化を生む。
紀元前1900年、中期クレタ文化、旧宮殿時代、始まる。ファイストス宮殿の円盤、作られる。
紀元前1700年、クレタ旧宮殿崩壊する。クノッソス、ファイストス、マリア、旧宮殿崩壊。後期クレタ文化、新宮殿時代、始まる。クノッソス宮殿フレスコ画、蛇女神像、牡牛のリュトン、線文字A、作られる。
紀元前1600年、ミュケナイ(アカイア人)擡頭する。ミュケナイ文明ペロポンネソス半島に起こる。ミュケナイ圓形墳墓A、黄金のマスク、作られる。
紀元前1450年、クレタ新宮殿崩壊する。クノッソス、ファイストス、マリア、新宮殿崩壊。ミュケナイ人(アカイア人)、クレタ島に進出する。
紀元前1380年、クノッソス宮殿(ミュケナイ支配下)、最終的に崩壊する。クノッソスに線文字B(ギリシア文字)文書あらわれる。  紀元前14世紀、ミュケナイ王朝、最盛期に達する。
紀元前1200年以降、ミュケナイ王宮崩壊する。ドーリス人が北方より侵入する。ミュケナイ文明滅びる。ギリシア、暗黒時代に入る。
地中海東地域、文明が崩壊する。エジプト新王國、ヒッタイト帝國滅びる。原因は未解明である。
紀元前1100年、ギリシア、鉄器時代始まる。
紀元前1000年-900年頃、アイオリス人、イオニア人、ドーリス人が小アジア、エーゲ海の島々に植民活動を行う。イオニア人、デロス島にアポロンの母レトの祭儀を齎す。  
紀元前900年、この頃暗黒時代終わる。ギリシア史の曙はじまる。
 ポリス社会成立、貴族政時代はじまる。幾何学様式陶器、作られる。
紀元前9世紀、ドーリス人、ロドス島に植民。リンドス、イアリュソス、カミロスに3大都市を築く。
紀元前776年、第1回オリュンピア祭競技會はじまる。オリュンピア、ゼウス祭礼。  
紀元前750年、この頃ホメロスの詩編『イリアス』成立。その半世紀後『オデュッセイア』成立。ギリシア人が地中海、黒海沿岸に植民都市を作り始める。大規模な植民活動を開始する。
紀元前700年、この頃ヘシオドス叙事詩『神統記』『仕事と日々』が作られる。  
紀元前667年、メガラ人(ドーリス人)、ボスポラス海峡の岬にビュザンティオンを建設する。
紀元前546年、イオニア地方ミレトス、自然哲學者タレス、アナクシマンドロス死ぬ。  
紀元前499年、イオニア諸都市ミレトスを中心に獨立を圖り、ペルシア帝國に反亂する。
紀元前494年、ペルシア帝國ダレイオス1世が、ミレトスを陥落、破壊する。ダレイオス1世、イオニア諸都市を征服。キオス、レスボス、テネドスを占領。
紀元前5世紀、ミレトスにミレトス人建築家ヒッポダモスが幾何学的形態の都市を建設。アテナイの港町ペイライエウス、トゥリオイに都市を設計。「ヒッポダモス、都市の幾何学的形態の創始者」(cf.アリストテレス『政治学』第2巻第8章)
紀元前408年、ロドス人、人工都市ロドスを建設する。三都市(リンドス、イアリュソス、カミロス)から、集住(シュノイキスモス)する。

■時を溯る旅
或る晩秋、私はイタリアを旅した。そして、フィレンツェ、イスタンブール、アテネへ、時を溯る旅を續けた。愛と復讐の大地ギリシア。地中海の光景ほど苦悩する魂を鎭める地はない。
2001年秋、私はギリシアを旅し、エーゲ海の島々へと飛行した。エーゲ海文明の源泉へ、ギリシア文化の濫觴へと溯る旅に出た。時の迷宮を溯る旅、知恵を愛する思想家の生きかたが生まれたエーゲ海への旅。
我が魂のオデュッセイアは、エーゲ海紀行へと旅立つ。
御手紙を頂いた人、励ましのことばを頂いた人、愛讀者のみなさま、有難うございました。心から感謝をささげます。
★参考文献
カール・ケレーニイ高橋英夫訳『ギリシアの神話 神々の時代』中央公論社1974
ヘシオドス廣河洋一訳『神統記』岩波文庫1984
中村善也、中務哲郎『ギリシア神話』岩波書店1981
ディオゲネス・ラエルティオス加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝』3巻、岩波文庫1984-1994
ジャン・シァルボノー岡谷公二訳『ギリシア・アルカイク美術』人類の美術1新潮社1972
ジャン・シァルボノー村田数之介訳『ギリシア・クラシック美術 前480-330』人類の美術3新潮社1973
周藤芳幸『図説ギリシア エーゲ海文明の歴史を訪ねて』河出書房新社1997
ジル・ラプージュ巌谷國士訳『ユートピアと文明 輝く都市・虚無の都市』紀伊国屋書店1988
大久保正雄『魂の美學 プラトンの対話編における美の探究』「上智大学哲学論集」第22号、上智大学1993
★リンドス、アクロポリス アテナ神域
★リンドス、アクロポリス 光る海
★エーゲ海の微笑み エーゲ海航空スチュワーデス
大久保正雄COPYRIGHT2001.12.26

2016年6月16日 (木)

黄昏の旅人、黄昏のギリシア エーゲ海の飛行

Ookubomasao68Ookubomasao70_2大久保正雄『地中海紀行』第22回
黄昏の旅人、黄昏のギリシア エーゲ海の飛行

地上に殘された美しい魂の香り。愛して止まぬ、死せる人の魂。

地の果て、光の海、エーゲ海へ、
この世のあらゆる美しいものを見るために、私は旅立つ。
地上に刻まれた、美しい魂の影を求めて、
失われた哲學者の魂を探して、時のきざはしを溯る。

美は一瞬の輝き、時が止まる黄金の瞬間。
精神と美が刻まれる空間。魂のアクロポリス。
苦惱する者は美しく、美しい魂には美しい香りがある。

夢のように過ぎた美しい日々。愛は過ぎ去りし日の眞夏の輝き。
黄金の黄昏が忍びよる。星が輝く夜、月光のエーゲ海。
黄昏のエーゲ海が燃えあがる時、
夜空に輝く星のように、輝ける魂をもて。
人の心を虜にする、愛の呪縛は、
容貌の美しさではなく、魂の美しさである。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■黄昏の飛行
黄昏時、クレタ島からロドス島へ、飛び立つ。エーゲ海の空を、飛行する。
雲海の下に、黄金色に輝くエーゲ海、無数の島影が、見える。この世のものとは思えない美しさである。
飛行機が旋回すると、黄昏の光芒が光の条となって、窓から、機内に射して來る。
海は金色に光り輝く。ギリシア人の面影のように美しい。この世のものとは思われぬ至上の瞬間である。地上の絶望、怒り、歓喜、悲しみが、光の奔流となって、融け合う。
エーゲ海航空(Aegean Airlines)のスチュワーデスは、古代の彫刻のように、微笑む。時は止まり、美しい。

■エーゲ海
波のない海、沈黙(しじま)が支配する海、光盈ちる海。
エーゲ海は、傷ついた魂に、優しく微笑む。
海と空と光が満ちる處、エーゲ海。海は光る。光る海を眺めると、地上のあらゆる苦痛、怒り、悔恨、悲しみが、融けていく。
光あふれるエーゲ海の光景ほど、魂の苦惱を鎭める地は他にない。エーゲ海は、なにゆえに、傷ついた魂にかくも優しいのか。

■生きる樂しみを探求する地中海人
地中海人は、人生の樂しみを探求する生活樣式を愛好する。地中海的生活樣式には、偽りない心を大切にし、個の尊厳を尊ぶ思想が根底にある。生の根源にある愛、根源的な生が、ギリシアにある。
人は、いかなる知識、いかなる學識を所有しても、愛がなければ、不幸である。地位と名譽があっても、その人の本質、存在が美しくなければ、生きるに価いしない。美と善は、己のいのちを生贄にして、手にいれるものである。命は限りあるものであるゆえに、人はいのちの眞の樂しみを大切にしなければならない。ギリシア人の生活樣式の根底には、生きることを愛する思想がある。
知る者は好む者に及ばず、好む者は樂しむ者に及ばない。善と美を、樂しむ者が最も優れている。
思想とは生きかたであり、暮らしであり、生活樣式である。美しい思想が美しい生きかたを生むように、美しい思想が美しい生活樣式を生みだす。

■愛の国ギリシア
エーゲ海の海辺、糸杉の林を歩きながら、私はこう考えた。
イタリアはアモーレの國であり、ギリシアはエロスの国である。
エロースは愛の神である。
「天地開闢のはじめに、カオス(混沌)が生じ、ガイア(大地)と、地底のタルタロス、そして、エロースが生じた。エロースは、不死なる神々のなかでも最も美しい、神々にも人間にも、理性と思慮を失わせる強力な力をもつ。」(cf.ヘシオドス『神統記』116-122)  ギリシア語には愛を意味する言葉が3つある。エロース、フィリア、アガペーである。多くの書物は、エロースは愛欲を意味すると書くが、根本的な誤りである。エロースは、戀愛のみならず、學問や藝術や智慧、美徳に對する愛、を意味することは言うまでもない。
糸杉の香りが漂う森のなかで、私はこう考えた。
人が、心から愛するものにいのちを賭けて生きることが、眞に生きることである。眞に心から愛するものにいのちを捧げて生きることが、美しく生きることである。人は、心から好きなことに没頭して生きなければ、生きる価値はない。人は、心から愛することに人生をささげて生きなければ、人生は生きるに価しない。
美と善は、己のいのちと引きかえに、手にいれるものである。名譽と榮光のためでなく、美と善のために、人は生きねばならない。
地中海人は、人生の眞の樂しみを探求する。それは古代人から受け継いだ叡知である。アモーレの國イタリア、エロースの國ギリシア。愛は、個のいのちの尊厳に對する敬意から生まれる。

■地中海人は、形の美を愛する
地中海人は、形象の美を愛する。イタリア人、ギリシア人は、視覺的な美しさを愛好する。イタリア人、ルネサンス人は、美に耽溺し、愛に溺れる。ヴァザーリ『藝術家列伝』には、耽美的な奇人が溢れている。フィレンツェ人は、美に對する偏奇な愛を持っている。アリストテレスは、人間はあらゆる感覺のなかで視覺を最も愛するという。ギリシア人は、形象の美を愛する。ギリシア人の洗練された美意識は、アクロポリスのコレー、ラオコーン、巨人族と神々の戰いのレリーフ、を見れば明らかである。
この世に永遠なものは一つもない。この世のあらゆるものはすべて滅びる。美しいものもすべて滅びる。地上の美は、イデアの影である。いのちは限りあるものであることを知るがゆえに、ギリシア人、イタリア人は美を追求する。

■ヘラクレイトス 
地中海人は、精神の美を愛する
人は肉體の衣を通して、存在を感じ、魂を感じることができる。エーゲ海には、肉體の衣を通して、精神の形を見る目をもつ人たちがいる。この時、ギリシア人は、見える肉體の衣を通して、見えざる魂の美を見るのである。
 ヘラクレイトスは、ペルシア帝國ダレイオス王の招きを斷って、こう言った。「この地上にあらゆるすべての人間は眞理と正義から遠ざかり、悲惨な愚かさゆえに、飽くことを知らぬ貪欲と名聲への渇望に心を向けているのだ。だが私はいかなる邪惡をも退け、嫉妬と深く結びつくあらゆる欲求の満足を避け、榮耀を遠ざけている。ゆえにペルシアへと赴くことはできない。」(cf.ディオゲネス・ラエルティオス『哲學者列伝』9巻1-14)
 ギリシア人は、見える肉體の衣を通して、見えざる魂の醜さを見る目をもつ。ギリシア人にとって、美は善であり、善は美である。何故ならば、魂の醜さが肉體の形を透過して、見えるからである。精神の美しさなくして、肉體の美しさはありえない。

■魂の深さ
愛の深さは、魂の深さである。魂の愛のみが眞の愛である。地位や名譽、職業や財産のゆえに愛する人々。偽りの愛。眞の愛はない世界。人間が美しいのは、存在そのものが美しいときである。
魂の愛、魂が互いに愛し合う愛。魂が魂を愛する愛のみが、眞の愛である。美しい魂を愛する愛のみが、眞の愛である。行きて愛せ、この地上になに一つ汝を助けるものがなくとも。その地に愛するに値するものがある限り。ギリシア神話とギリシア悲劇には、愛と復讐のドラマがみち溢れている。愛と復讐は、生きる原形である。ギリシア人は魂の美しさを愛した。名譽と榮光のためでなく、ギリシア人は、魂の美しさゆえに、魂を愛した。

■光の海、エーゲ海
アクロポリスの丘の上。光る海を見ながら、私はこう考えた。
太陽の光が海に降り注ぎ、エーゲ海人に、光と知恵と命をもたらした。
光溢れる空間が、輝ける精神と輝ける肉體と、そして美しい魂を磨きあげる。愛が人間の魂に美を生みだす。
黄金の海、エーゲ海。静かなる海に、黄昏の光が零る時、愛は霊となり、不滅の魂に智慧と勇気を与える。エーゲ海の烈しく眩い光は、ギリシア人に、眞實を見る知性を与えた。
エーゲ海を見る時、私はプラトンの言葉を思い出す。
太陽は、光をもたらし、感覺される世界において、見えるものを見えるものたらしめ、生成させる原因であるように。善は、思惟される世界において、眞理と存在を、知られるようにするのみならず、存在するものたらしめる根拠である。
★夕暮のエーゲ海 ロドス島
★リンドス アクロポリス
★雲海の下にみえる、黄昏のエーゲ海
★リンドス、アクロポリス アテナ神域
★リンドス、アクロポリス 光る海
大久保正雄COPYRIGHT2001.12.26

2016年6月15日 (水)

神々の黄昏 皇帝テオドシウス、ユスティニアヌス ローマ帝国滅亡

Forum_romanum_00Arch_of_constantine_01大久保正雄『地中海紀行』第21回2
神々の黄昏 皇帝テオドシウス、ユスティニアヌス ローマ帝国滅亡

ローマ帝国は、皇帝アウグストゥスから、皇帝ロムルス・アウグストゥルスまで80人。
476年、西ローマ帝国滅亡。1453年、東ローマ帝国滅亡。

神々の黄昏
テオドシウス1世、392年異教祭儀を禁止。
529年、皇帝ユスティニアヌス1世、アテナイのアカデメイア閉鎖を命令。

テオドシウス1世は、395年死ぬ前に、帝國を二つに分割。2人の息子に継がせた。自らの息子、互いに反目しあう二つの宮廷に殘した。アルカディウスとホノリウス。ローマ帝國は東西に分裂した。

コンスタンティノポリスを帝都とする東ローマ帝國を統治したのはアルカディウス帝(在位395-408)である。その子テオドシウス2世はコンスタンティヌスの城壁の外側に城壁「テオドシウスの城壁」を築き、ビュザンティオンは、難攻不落の城塞都市へと変貌を遂げる。
コンスタンティノポリスは、ローマ帝國分裂後、ビザンティン帝國の帝都、地中海世界の中心として榮える。

皇帝テオドシウス 神々の黄昏
■【テオドシウス1世】『地中海人列伝』12
テオドシウス1世(346*-395.ローマ皇帝379-395)は、スペインで生まれ、軍人として活躍する。378年ヴァレンス帝が死ぬと、グラティアヌス帝(在位375-383)に召還され379年1月19日帝の要請により東方正帝(Augustus)に就く。辺境のゴート族討伐を試みるが失敗、382年10月協定を結ぶ。グラティアヌス帝が殺害された後、反亂した親族マクシムスを殺し、394年エウゲニウスを殺害、帝國を再統一する。東方皇帝につくや否や正統派キリスト教の洗礼を受け、キリスト教を國教とし、異教を彈圧する。381年コンスタンティノポリスで公会議を召集、ニカイア信条に基づき三位一体論を確認する。390年テオドシウスは、ギリシア・マケドニア地方、テッサロニケの反亂を圧殺、市民7000人の虐殺を命じる。これを責められ、大司教アンブロシウスに破門される。391年メディオラヌム(ミラノ)でアンブロシウスに示唆され、392年異教祭儀を禁止する。395年1月17日メディオラヌムで死ぬ。正統キリスト教信仰の信者であり、少数派及び異教を迫害したがゆえに大帝と呼ばれる。
テオドシウスは、死ぬ前に、帝國を二つに分割し、自らの息子、互いに反目しあう二つの宮廷に殘された。アルカディウス(395-408)とホノリウス(395-423)である。永遠に、ローマ帝國は分裂した。

【テオドシウスのオベリスク】
今、イスタンブール、ヒッポドローム広場にはテオドシウスのオベリスクがある。390年テオドシウスはコンスタンティノポリスにトトメス3世のオベリスクを運ばせ、ヒッポドローム(競馬場)に建てさせた。このオベリスクは、コンスタンティヌス1世が、アレクサンドリアに運ばせ、ユリアヌス帝(331-363在位360-363)が船に乘せて出航したが、地中海において嵐に遭い、アテナイ近郊に漂流し、此処に放置したものである。
このオベリスクは、エジプト新王國第18王朝第5代、トトメス3世(BC.1504-1450)が、カルナックのアメン神殿正面塔門、聖なる通路に一對、建立したものである。オベリスクは、古代エジプト、ヘリオポリスの太陽神崇拝の象徴である。

【神々の滅亡】テオドシウス1世
392年テオドシウス1世は、異教禁止令を発布、異教の供犠と祭式を彈圧する。426年テオドシウス2世(401-450.在位408-450)は、異教神殿破壊令を発布する。これ以後、偉大な古代ギリシアの聖域は、破壊され砂塵の中に埋もれ、19世紀まで1500年の眠りを眠ることになる。
例えば、394年オリュンピア祭典は禁止され393年の祭典が最後となり、デルポイの神託は4世紀以後行なわれなくなる。古代ギリシアの密儀、デイオニュソス、エレウシス、オルフェウスの秘儀がこの地上から姿を消し、再び蘇ることはなかった。

■皇帝ユスティニアヌス1世、アテナイのアカデメイア閉鎖
529年、皇帝ユスティニアヌス1世(483-565)は、アテナイのアカデメイア閉鎖を命令。プラトンがBC387年に開いて以來、アカデメイア9百年の歴史が息の根を止められる。
かつて4世紀までローマ帝國の下で迫害されたキリスト教は、4世紀以後、異教を彈圧、迫害する。キリスト教による迫害によって、多彩なギリシア文化やオリエントの宗教が歴史の舞臺から姿を消す。偉大なギリシアの文化遺産とギリシアの生ける知の体系が滅ぼされたことは、人類史にとって悲劇であると言わねばならない。
大久保正雄COPYRIGHT2001.11.28
★Folum Romanum
★Triumphal arch of Constantine

2016年6月14日 (火)

イスタンブール 時を超える旅 3つの帝国の都

Ookubomasao66Ookubomasao62大久保正雄『地中海紀行』第21回1
イスタンブール 時を超える旅 3つの帝国の都

ローマ帝国、ビザンティン帝国、オスマン帝国の都。イスタンブール

オリエントの香り高い、妖艶な舞い。
美しい眸、細い腰、綺羅びやかな薄絹を翻す、
艶麗な美女、黄金の膚。
宮廷の美しい奴隷、エジプト王宮の舞姫、砂漠の舞い。
禁斷の後宮、幽閉された美しい姫。
失われた時の輝き。

失われた古代の圖書館。燃え上がり灰燼に帰した万巻の書物。
アレクサンドリア、ペルガモン、エフェソス、アテナイ。
燃え尽き、二度と歸らぬ時間。
大理石の礎石すら残らぬ、アレクサンドリア圖書館。

生贄を獻げる、至聖所、足を踏み入れてはならぬ地。
生まれ變り、いのちを賭けて、燃えあがる、
不滅の愛。地の果て、至上の時。
糸杉に囲まれた至高の地、
海を見下ろすアクロポリスの丘。砂塵舞う大地の彼方、
光る海の彼方、時の彼方。

旅立とう、幻の都を求めて、
時を超える旅に。
愛する人の面影を探して、時を超えて、生と死を超えて、
愛は蘇る。幻の聖域。アクロポリスの丘。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

イスタンブール史
『地中海都市 時を超える旅』
地中海と黒海を結ぶ、ボスポラス海峡に突き出た岬の丘の上。アクロポリスの丘にギリシア人が築いたポリス。海に囲まれ、古代ギリシアの城砦に囲まれたビュザンティオン。
ビュザンティオンは、歴史の運命の波間に翻弄され、浮沈し、また權力をもつ者の運命を操った。4つの時代を生きた都市イスタンブールは、二千年の歴史の激流を生きた、比類なき都である。
【古代ギリシア時代】
黎明期、紀元前7世紀(BC.667.660.657)、ギリシア人が築いた都市ビュザンティオンは、メガラの植民都市であった。メガラ人はデルフォイの神託に「最もよい植民地はどこか」と尋ねた。神託は「盲者の都市の對岸に都市を建てよ」と應答した。探索の末、メガラ人は、この地を選び丘の上に城砦を築いた。古代ギリシア人は、美しい地を選んで、丘の上に、神殿と劇場とポリスを建てた。ギリシア人の選択能力が高いことは、タオルミナ、セジェスタ、シュラクサイ、多くの例によって立証される。(cf. N.M.ペンザー『トプカプ宮殿の光と影』)
この都は、戰略上の拠点、東西南北、海陸の交通の要衝にあり、後に「黄金の角」(豊饒の角Golden Horn)と呼ばれる港をもち、豊かな地にあった。このため、絶えず侵略者の心を惹きつけた。
紀元前6世紀アケメネス朝ペルシア、ダレイオス1世(BC.521-486)治下総督オタネスが征服、支配した。紀元前479年プラタイアイの戰いの後、紀元前478年スパルタ王パウサニアスは、ペルシアから奪還する。紀元前408年アテナイ、ビュザンティオンを奪回。紀元前5世紀ビュザンティオンは動揺期に入る。アテナイとスパルタが天然の良港をもつこの地の領有をめぐり爭い、またロドスが支配した。アテナイ、スパルタ、ロドス、ギリシア都市の權力の狭間で翻弄される。
紀元前340年マケドニア王フィリッポス2世は、ビュザンティオンを海上から包囲する。しかしアテナイ軍がマケドニアに宣戦布告、救援に來る。339年フィリッポスは、アテナイとビュザンティオンで戰い破れ、攻囲を解く。紀元前334年マケドニアから東方遠征の旅に出た、アレクサンドロス3世(BC.356-323.在位BC.336-323)は、22歳の時ヘレスポントス海峡(ダーダネルス海峡)を渡り、その4年後、ダレイオス3世と戰いアケメネス朝ペルシア帝國を滅亡させる。紀元前333年ビュザンティオンは、アレクサンドロス帝國の支配下に入る。アレクサンドロス死後、帝國のディアドコイ(後継者)戰爭を經て、紀元前4世紀以後、スキタイ人、ガリア人、ロドス人、ビテュニア人が侵寇、破壊を蒙る。

【ローマ帝國時代】
ローマ帝國時代、帝國の支配下に置かれた後、ビュザンティオンは獨立する。だが、ローマ皇帝セプティミウス・セヴェルス(193-211)とスペケンニウス・ニゲルとの戰いで、ビュザンティオンは皇帝の敵を支援する。193年皇帝セヴェルスに抵抗、皇帝が包囲を開始する。196年ビュザンティオンは3年間籠城した末、セヴェルス軍により占領され、徹底的に破壊される。セヴェルスは、この地に宮殿、劇場、浴場、競馬場(ヒッポドローム)を建て、セヴェルスの城壁を築く。
322-3年、コンスタンティヌス帝はリキニウス帝との戰いの時、この地を軍事拠点にした。324年11月4日コンスタンティヌス帝は、ビュザンティオンをコンスタンティノポリス(コンスタンティヌスの都)と名づけ、ローマ帝國の首都とする。330年5月11日、コンスタンティヌス帝は、街を聖母マリアに捧げ、献都式を擧行する。ローマからこの地に帝都を遷す。コンスタンティヌス帝は、セヴェルス帝の城壁の外側に大城壁を築き、宮殿、広場(forum)、元老院、神殿を建てた。378年ヴァレンス帝(在位364-378)は水道橋を築く。390年テオドシウス1世は、凱旋門「黄金の門」を建てる。競馬場(ヒッポドローム)の中央分離帯にエジプトから運ばれたオベリスクが置かれた。テオドシウスのオベリスクは、エジプト最大の版圖を築いたトトメス3世がカルナック、アメン神殿に建てたものである。
395年テオドシウス1世は、帝國を2分して2人の息子に継がせた。ローマ帝國は東西に分裂した。コンスタンティノポリスを帝都とする東ローマ帝國を統治したのはアルカディウス帝(在位395-408)である。その子テオドシウス2世はコンスタンティヌスの城壁の外側に城壁「テオドシウスの城壁」を築き、ビュザンティオンは、難攻不落の城塞都市へと変貌を遂げる。コンスタンティノポリスは、ローマ帝國分裂後、ビザンティン帝國の帝都、地中海世界の中心として榮える。

【ビザンティン帝國時代】
ビザンティン帝國とは、後世の歴史家による名称である。中世ギリシア人による、ローマ帝國を継承する國家であり、キリスト教を奉じた。自らをローマ人(Rum,Romeioi)と名のり、正式國名をローマ帝國と呼んだ。最盛期は、ローマ皇帝ユスティニアヌスの時代である。
ビザンティン帝國の始まりをいつとするか、諸説がある。一、330年5月11日、コンスタンティヌス帝がコンスタンティノポリスを帝都とした時。二、395年1月17日テオドシウス1世の死によりローマ帝國東西に分裂した時。三、476年9月4日西ローマ帝國が滅亡した時。四、ローマ皇帝ユスティニアヌス(483-565在位527-565)死後、ギリシア語が公用語とされた7世紀。
7世紀以後ギリシア語が公用語とされ、支配階級はギリシア人でギリシア語を話したが、支配階級は僅かであり、ビザンティン帝國は多民族、多言語國家である。
教皇インノケンティウス3世が第4回十字軍(1202-04)派遣を勅命し、ヴェネツィア総督ダンドロは、艦隊を率いてコンスタンティノポリスを占領、ラテン帝國(1204-61)を建國した。リュシッポス作の青銅の馬は、ヴェネツィアに持ち去られ、今もなおサンマルコ聖堂玄関にある。ミカエル8世パライオロゴスがコンスタンティノポリスを奪還するまで、57年の歳月を要した。だが帝國の榮光は再び蘇ることはなかった。
最後の皇帝コンスタンティノス11世パライオロゴスは、コンスタンティノポリス陥落の時、戰亂の中、消息を絶った。

【オスマン帝國時代】
1453年5月29日、オスマン・トルコ帝國のスルタン、メフメト2世がコンスタンティノポリスを征服。この地はイスタンブールと呼ばれる。1922年トルコ共和國が誕生するまで、この地をオスマン・トルコ帝國が支配する。スレイマン1世(1494-1566)の時、オスマン帝國史の頂点に到達する。16世紀ヨーロッパは、オスマン帝國とハプスブルク帝國の對決の時代である。16世紀、地中海はスレイマンの海と呼ばれる。
スレイマン1世の寵愛する妃ロクセラーナはハーレムに移住し、以後メフメト4世の母タルハンが死ぬまで150年間、ハーレムが帝國を支配する。晩年のスレイマン1世、セリム2世、ムラト3世(1574-95)、メフメト4世は、寵妃に翻弄される。ムラト3世(1574-95)の第一皇妃、ベネツィア人の美女サフィーは、美貌と知性で、ムラトの心を奪い一人の女性もスルタンの寝室に近づけさせなかった。1595年、策を講じてメフメト3世の弟19人を殺させて、人々を震撼させた。彼女は太后の地位を手中にした。帝國の統治はサフィーの掌中に委ねられた。或る日、サフィーは寝台の上で首を締められて死んだ。ハーレムは帝國を操る女たちの策謀と嫉妬が渦巻く。
トプカプ宮殿、王子の幽閉所(鳥籠)で育った、異常なスルタンたちが生まれた。イブラヒム1世は二歳から幽閉され、オスマン3世(在位1754-57)は50年間、スレイマン2世(在位1687-91)は39年間幽閉された。例えば、イブラヒム1世(1640-48)は帝國の統治者であるにもかかわらず、邪悪、我儘、殘忍、貪欲にして、臆病な人間であり、殘虐行為を行うに至り、帝國は袋小路に迷いこむ。

【海峡をめぐる戰い】
斜陽のオスマン帝國は、1853年クリミア戰爭、1876年露土戰爭で、ロシアと戰いこれを破る。ダーダネルス海峡、ボスポラス海峡の支配をめぐる戰いである。海峡は、黒海と地中海を結ぶ通商路として海上の要衝であるためロシアが狙ったのである。1912年第1次バルカン戰爭でトルコはバルカンと戰って敗れ、イスタンブールを除くヨーロッパ領とクレタ島を失う。
1914年10月29日トルコ第1次世界大戰に参戰。1915年3月18日英仏連合艦隊、イスタンブール占領を目ざしダーダネルス海峡に侵入。1916年1月英仏連合艦隊、ダーダネルス海峡を撤退。この海峡防衛の戰いを指揮したのがケマル・パシャである。ケマルは「首都の救い主」と呼ばれ英雄となる。だが1916年6月アラビアのロレンス率いる砂漠の反亂が始まる。1918年10月30日トルコ降伏。1922年オスマン・トルコ帝國滅亡。民族の危機を救ったケマルはトルコ共和國を建國する。「第一次世界大戦の敗北はトルコ帝國の永遠の日没だと世界の人々は思った。だがそれはトルコの新たな夜明けであった。」(cf.大島直政『トルコ歴史紀行 文明の十字路4000年のドラマ』)
ギリシアは1821年オスマン・トルコ帝國に對して獨立戰爭を開始、11年にわたり戰い、1832年獨立。ギリシアにおけるオスマン帝國支配四百年の暗黒時代の終焉である。1913年クレタ島がギリシアに復歸する。ドデカニサ諸島、ロドス島が、イタリア支配を經て、ギリシアに歸属するのは、1948年である。
イスタンブールは、ヨーロッパとアジアの十字路にあり、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡を支配する要衝であるゆえに、榮華を極め、そして權力をもつ者を惑わせ續けるであろう。

【ビザンティン帝國時代】
ビザンティン帝國とは、後世の歴史家による名称である。中世ギリシア人による、ローマ帝國を継承する國家であり、キリスト教を奉じた。自らをローマ人(Rum,Romeioi)と名のり、正式國名をローマ帝國と呼んだ。最盛期は、ローマ皇帝ユスティニアヌスの時代である。
ビザンティン帝國の始まりをいつとするか、諸説がある。一、330年5月11日、コンスタンティヌス帝がコンスタンティノポリスを帝都とした時。二、395年1月17日テオドシウス1世の死によりローマ帝國東西に分裂した時。三、476年9月4日西ローマ帝國が滅亡した時。四、ローマ皇帝ユスティニアヌス(483-565在位527-565)死後、ギリシア語が公用語とされた7世紀。
7世紀以後ギリシア語が公用語とされ、支配階級はギリシア人でギリシア語を話したが、支配階級は僅かであり、ビザンティン帝國は多民族、多言語國家である。
教皇インノケンティウス3世が第4回十字軍(1202-04)派遣を勅命し、ヴェネツィア総督ダンドロは、艦隊を率いてコンスタンティノポリスを占領、ラテン帝國(1204-61)を建國した。リュシッポス作の青銅の馬は、ヴェネツィアに持ち去られ、今もなおサンマルコ聖堂玄関にある。ミカエル8世パライオロゴスがコンスタンティノポリスを奪還するまで、57年の歳月を要した。だが帝國の榮光は再び蘇ることはなかった。
最後の皇帝コンスタンティノス11世パライオロゴスは、コンスタンティノポリス陥落の時、戰亂の中、消息を絶った。
★参考文献
渡辺金一『コンスタンティノープル千年 革命劇場』岩波新書1985
井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書1990
鈴木薫『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書1992
鈴木薫『図説イスタンブル歴史散歩』河出書房新社1993
澁澤幸子、池澤夏樹『イスタンブール歴史散歩』新潮社1994
坂本勉『トルコ民族主義』講談社現代新書1996
陳舜臣『世界の都市の物語イスタンブール』文藝春秋1992
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
日高健一郎、谷水潤『建築巡礼17 イスタンブール』丸善株式会社1990
大島直政『トルコ歴史紀行 文明の十字路4000年のドラマ』自由国民社1986
N.M.ペンザー岩永博訳『トプカプ宮殿の光と影』法政大学出版局1992
クリス・スカー著、青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社1998
C.M.ウッドハウス西村六郎訳『近代ギリシア史』みすず書房1997
鈴木八司『王と神とナイル 沈黙の世界史2』新潮社1970
大久保正雄COPYRIGHT2001.11.28
★カッパドキア
★Suleymaniye Mosque

2016年6月13日 (月)

地中海はスレイマンの海 スレイマン1世、皇妃ヒュッレム

Ookubomasao61_2Ookubomasao58大久保正雄『地中海紀行』第20回2
地中海はスレイマンの海 スレイマン1世、皇妃ヒュッレム

詩を作り美術を愛したスレイマン、繊細な王
晩年、猜疑心の虜となり、皇妃ヒュッレムに翻弄され、2人の皇子を失う。
地中海の覇権を賭けて対決する、
オスマン帝國とハプスブルク帝國。海を舞台に繰り広げられる戰い。
スレイマンとフランソワ1世は共闘
スレイマン1世とカール5世は、東の果てと西の果てに對峙、
抗爭、地中海はスレイマンの海となる。
詩を作り、藝術を愛し、花を愛でる、光輝ある王スレイマン。
爛熟は頽廃に至り、榮光はその頂点において腐敗する。
絢爛たる美女たち、
黒髪の乙女、金髪の乙女、亜麻色の髪の乙女。
研を競い、ハーレムに花咲く皇妃たち。
宮廷に渦巻く、美しい妃の陰謀。
美しさは皮膚の深さにすぎず、心は醜いのか。
愛は愛を生み、憎悪は憎悪を生み、死は死を招き
帝國は滅亡への道を歩み始める。
魚は頭から腐り、権力は頂点から腐る。
だが、文明は爛熟し腐敗する時が最も美味である。
腐りかけた美しい果實のように。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

スレイマン1世 地中海はスレイマンの海
【地中海人列伝-11】
スレイマン1世(1494-1566在位1520-1566)は、セリム1世の皇子。征服王メフメト2世の曾孫。第10代スルタン。セリム1世死後、イスタンブールに到着、群臣の臣従の誓いを受けて、26歳にしてスルタンとなる。1521年シリアの反亂を鎮圧した後、自ら第1回遠征軍を起し、ベオグラードに侵攻する。1523年聖ヨハネ騎士団が占拠するロードス島を攻略。イスラーム法に基づき「抗戰するか退却するか」選択を提示、聖ヨハネ騎士団を退去させる。ロードス島は、黒海、イスタンブール、地中海を結ぶ海上交易路、また地中海戰略上の拠点である。1529年第1次ウィーン包囲、攻撃を遂行する。
スレイマンは、神聖ローマ皇帝カール5世と對決。16世紀ヨーロッパは、オスマン帝國とハプスブルク帝國の對決の時代である。スレイマンは、フランス國王フランソワ1世と手を組み、カール5世に對峙し、ヨーロッパの政局を操る。
最高司令官バルバロスが指揮する不敗のオスマン艦隊は、1534年チュニス占領。1538年プレヴェザでキリスト教連合艦隊を撃破。1543年神聖ローマ皇帝に与するニースを攻略。1546年バルバロス・ハイレッティンは没した。1565年ヨハネ騎士団攻撃のためマルタ島に遠征したが、攻略に失敗した。スレイマン大帝は、地中海の制海権を掌握。地中海は「スレイマンの海」となる。46年間の治世の間、西欧とアジアに、自身で遠征する。1566年ハンガリー遠征の途上、72歳の時、陣中で死去する。スレイマン大帝は、オスマン帝國史の頂点を築き上げた。
詩を作り美術を愛したスレイマンは、繊細な人柄であったが、晩年、猜疑心の虜となり、寵愛する皇妃ヒュッレムに翻弄され、2人の皇子を失う。スレイマン大帝は、立法者、壮麗王と呼ばれ、オスマン帝國史630年の頂点を築く。(cf.鈴木薫『オスマン帝国』)

■寵妃ヒュッレム 2人の寵妃 暗闘する後宮
セリム1世以後、異教徒、異民族出身の女奴隷のみが後宮に採用された。スレイマン1世の母ハフサ・ハフンはその例である。
スレイマン1世には、2人の寵妃がいた。一人はマヒデヴラン(ギュルバハル)、スレイマンの長男ムスタファの母である。しかしヒュッレム(ロクセラーナ=ロシア女)が後宮に入ると、二人はスレイマンの寵愛を激しく爭った。1534年マヒデヴランは後宮を追われた。寵妃ヒュッレムは、自らの子をスルタンの後継者にしようと陰謀が渦巻く。
スレイマンに寵愛された皇妃ヒュッレムは、マヒデヴランの子・王子ムスタファを陥れて処刑させ、我が子バヤズィットを後継者にすべく苦闘するが、1558年に没する。二人の子バヤズィットとセリムの間に對立が生じ、優秀なバヤズィットが敗れ処刑され、母さえ皇位継承を望まなかったセリムが生き殘った。

■アフメト3世 チューリップ時代
アフメト3世(在位1703-1730)は、耽美的な人で、花鳥、歌舞、美酒、美女を愛した。アフメト3世の治世は、チューリップを愛したのでチューリップ時代と呼ばれる。フランス趣味に傾倒、チューリップの庭園で園遊会が開かれた。オスマン・トルコ帝國屈指の詩人アフメト・ネディムはこの時代の人である。
上層階級の爛熟と贅澤三昧は、下層階級の苦しみにより成り立っていた。1730年9月28日イエニチェリ副將軍パトロナ・ハリルが反亂を起こし、大宰相の処刑を要求。アフメトは退位した。

■魚は頭から腐る
戰場に自ら赴くことを忘れた最高権力者、地位に溺れる高級官僚、世襲化された貴族により、優秀な人材が活躍する場を閉ざされた時、組織は衰退の道を辿り始める。
「魚は頭から腐る」というトルコの諺がある。組織の帝國を誇るオスマン帝國は、官僚制の肥大、権力者の怯懦と高官の腐敗により滅亡の道を辿る。
★参考文献
鈴木薫『オスマン帝国』講談社現代新書1992
鈴木薫『食はイスタンブルにあり 君府名物考』NTT出版、気球の本1995
鈴木薫『図説イスタンブル歴史散歩』河出書房新社1993
澁澤幸子、池澤夏樹『イスタンブール歴史散歩』新潮社1994
坂本勉『トルコ民族主義』講談社現代新書1996
陳舜臣『世界の都市の物語イスタンブール』文藝春秋1992
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
日高健一郎、谷水潤『建築巡礼17 イスタンブール』丸善株式会社1990
澁澤幸子『寵妃ロクセラーナ』集英社1998
細川直子『トルコ 旅と暮らしと音楽と』晶文社1996
大久保正雄COPYRIGHT2001.10.31
★ベリー・ダンス イスタンブールにて
★トプカプ宮殿 ハーレム

2016年6月12日 (日)

コンスタンティノープル陥落、メフメト2世、オスマン帝国の都

Ookubomasao56Ookubomasao62Ookubomasao57_2大久保正雄『地中海紀行』第20回1
イスタンブール オスマン帝国の都1
コンスタンティノープル陥落、メフメト2世、オスマン帝国の都

奇策、オスマン艦隊の陸越え。
1453年、メフメト2世、コンスタンティノープル陥落。
地中海の覇権を賭けて對決する。
コンスタンティノープルは、3重の城壁と海で囲まれた難攻不落の城塞。
包囲戰の時、オスマン艦隊を、ボスフォラス海峡からガラタ地区の後方の丘を越えて、梃子ところを使って金角灣に陸から送り込む。
メフメト2世、兄弟殺しの法 皇位継承争いの芽を摘む。
メフメト3世、鳥籠制、鳥籠に幽閉された皇子。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【トルコ民族】
トルコ族の容貌をいかにして識別することができるのか。
原テュルク(Turk)族は、蒙古高原を原郷とする蒙古人種である。しかしユーラシア大陸に広がり民族拡散の末、イラン語派、スラヴ語派、ギリシア語派、ウラル語派、アラブ族、他と混血し、多様な肉体的特徴を形成するに至る。
トルコ語は、アルタイ語族に属する言語であり、モンゴル語、ツングース語と兄弟関係にあり、ウラル語族と親縁関係をもつ。印欧語でなく、セム・ハム語族でもなく、東洋系言語である。トルコ語派には、アゼルバイジャン語、ウイグル語、などが属する。
オスマン時代、支配階級はテュルク族であるが少数であり、多民族、多宗教、多言語の「共存の原理」の上に、オスマン帝國は成立した。

■オスマン帝國
オスマン・トルコ帝國(1299-1922)は、中央アジア、蒙古高原から移住したテュルク族によって建國された。正式名称はアーリ・オスマン(Ali Osman=オスマンの家)。公用語はオスマン・トルコ語。表記はオスマン時代においてはアラビア文字である。アッバース朝、ビザンティン帝國の系統を引く官僚組織による中央集権制、被支配民族の宗教的・社会的自由を容認する柔軟な統治、門閥を許さない能力主義が15、16世紀最盛期における統治システムの特徴をなす。「柔らかい専制」「種族を超える能力主義」が、オスマン帝國統治の特質である。
1354年ビザンティン帝國の内紛に乘じ、バルカン半島に侵略。61年アドリアノポリスを征服、バルカン半島征服への拠り所とし、1389年コソボの戰い、1396年ニコポリスの戰い、1444年バルナの戰いにより、バルカン半島の諸民族を撃破、ブルガリア、北部ギリシア、セルビアを掌中に収める。1453年コンスタンティノープルを陥落、ビザンティン帝國を滅亡させる。15世紀末、ボスニア・ヘルツェゴビナ、アルバニア、ルーマニア、ギリシアを帝國に吸収する。1517年エジプトを征服、アラビア半島のメッカとメディナの2大聖都を支配下に収める。オスマン帝國は、シーア派を除く、全世界のイスラーム教徒の盟主となり、支配者スルタンは同時にカリフとしての属性を獲得する。1521年ベオグラード征服。1526年モハーチの戰いでハンガリーを撃破、領有。1529年、ウィーンを包囲、攻撃。ヨーロッパを震撼させる。だが1571年レパントの海戰で敗れ、ヨーロッパの反撃の前にオスマン帝國の進撃は止まる。
オスマン帝國の統治は中央集権制であるが、中核をなす高級官僚はデウシルメ制を通じて徴用されたギリシア人、セルビア人、ボスニア人、クロアチア人、アルバニア人等、異教徒・異民族出身の宮廷奴隷によって占められた。

■メフメト2世
ムラト2世の王子メフメトは、1451年2月18日、オスマン朝第7代スルタンとして即位。メフメト2世(1432-81.在位1444-1445.1445-1446.1453-1481)となる。メフメト21歳の時である。征服者(ファーティヒ)と呼ばれる。宮廷奴隷とトルコ貴族の派閥抗爭のなか、コンスタンティノープルの陥落を遂行する。以後、スルタン直属の宮廷奴隷出身の大宰相を登用し、専制君主を戴く官僚制國家を作り上げる。
コンスタンティノープル征服後、ザガノス・パシャが大宰相に起用され、以後、異教徒異民族出身、奴隷として宮廷で養育されたスルタンの側近によって占められる。バヤズィット1世が兄弟殺しを始めた頃から、オスマン家一族による支配から、君主個人の意思により支配される専制国家へと変質した。君主一身に専属的に隷属する奴隷たちが重用された。
1465年メフメト2世はトプカプ宮殿建設を開始し、1478年に完成した。
オスマン帝國は、1456年フィレンツェ人が支配していたアテネを征服。1462年ワラキア君候國の暴虐な君候・串刺し候ヴラド・ツェペシュ(ドラクール・オウル)が没落し、同國を支配。バルカン半島を支配下に置く。
メフメト2世は、ペロポネソス半島の大部分を占領、アドリア海の支配権をめぐりヴェネツィアと戰った。
激しい気性、合理的精神に裏づけられた決斷力、學問・藝術に對する深い理解、異質の文明に對する理解において比類ないスルタンである。ヴェネツィアの画家ベッリーニはメフメト2世に招かれ、宮廷で16ヶ月滞在した。(cf.鈴木薫『オスマン帝国』) 
メフメト2世は、遠征の途上、1481年5月3日49歳で没する。一説によれば宿敵ヴェネツィアにより毒殺された。

■コンスタンティノープル陥落 メフメト2世
1452年末、メフメト2世は、エディルネにおいてコンスタンティノープル征服の準備を着々と進めた。コンスタンティノープルの地圖を広げ、街の防衛体制を点検した。攻城の術に秀でた者たちに、大砲と塹壕をどこに配置すべきか、攻城用の梯子をどこにかけるべきか、逐一指示した。攻撃の最大の障害と目されたのは、外敵の攻撃に耐えてきた三重の大城壁であった。城壁の攻撃のために、ハンガリー人ウルバンを巨額の報酬で待遇し、巨砲を作らせた。ウルバンは、ビザンティン帝國に巨砲製作を売り込み、斷られた技術者である。
1453年4月5日、メフメト2世はコンスタンティノープルに到着。4月6日、包囲を始めた。オスマン帝國軍は12万、その主力部隊は7万の騎兵軍であった。
コンスタンティノープルは、3重の城壁と海で囲まれた難攻不落の城塞である。金角湾の入り江は、鎖で鎖されていた。
メフメト2世は、包囲戰續行の時、オスマン艦隊の一部を、ボスフォラス海峡からガラタ地区の後方の丘を越えて、梃子ところを使って金角灣に陸から送り込むという奇策を用いた。有名な「オスマン艦隊の陸越え」である。金角灣西のオスマン艦隊は、陸のオスマン軍の砲撃と呼應して、ビザンツ艦隊を攻撃した。
5月23日オスマン帝國は、ビザンティン皇帝の下に最後の使者を送り、コンスタンティノープルの引渡しを求め、退去の自由を申し入れた。がこの最後の提案も拒否された。  5月26日ハンガリーの使者がオスマン帝國軍に到着し、包囲を中止しなければ攻撃すると申し入れた。5月28日夕刻メフメト2世は最後の攻撃を命じる。5月29日朝、イェニチェリが中心になり西の城壁を突破、市内に突入した。戰利品として異教徒の捕虜は、奴隷として捕獲者の所有に帰した。メフメト2世は、略奪の3日間の後、自ら高官たちを率いて聖ロマノス門から入城した。

■兄弟殺しの法 メフメト2世、皇位継承争いの芽を摘む
メフメト2世は最後の即位に際し、生き殘っていた唯一の弟アフメトを処刑、皇位継承爭いの芽を摘む。メフメトは、イスラーム法學者から「世界の秩序が亂れるより、殺人の方が望ましい」という法學意見書を得た。
「群臣の臣従の誓い」を受けて新たなスルタンが即位すると、その他の兄弟はすべて殺害される。「オスマン王家の兄弟殺し」の慣習は、メフメト2世が創始したのではない。メフメト2世の曽祖父バヤズィット1世の時代に成立した。父の遺産の平等の相続権を持つ兄弟間で、皇位継承爭いが起きるのを防ぐために成立したものである。
メフメト3世即位の時、19人の弟が絹の紐で絞め殺された。その後、皇位継承権をもつ者はスルタン決定後殺されず、ハーレム内の鳥籠(カフエス)に幽閉されるようになる。これを鳥籠制という。22年間鳥籠に幽閉された皇子イブラヒムは、権力の座につくと凶暴な性格を露わし、狂人イブラヒムと呼ばれた。

■共存の原理 ミレット制
イスラームには共存の原理がある。
メフメト2世は、ギリシア正教徒、アルメニア教会派、ユダヤ教徒たちも帝都に集めた。メフメト2世は様々な宗教を共存させた。この3つの異教に對する政策を、後世の歴史家は「ミレット制」と呼ぶ。
オスマン帝國のムスリムと非ムスリムの共存のシステムは、オスマン國家の非ムスリムに対する基本政策による。「コーランか、貢納か、剣か」三つの選択の余地が与えられる、啓典の民に対して保護(ズィンマ)が与えられる「ズィンミー制」が起源である。 (cf.鈴木薫『オスマン帝国』)
15世紀末、イベリア半島におけるスペイン・カトリックの迫害に耐えかねたスフラワルド(ユダヤ人)は、安住の地オスマン・トルコ帝國領内に移住した。かれらはまたギリシア北部テッサロニキに移住した。
多宗教、多民族、多言語社会の基盤は、メフメト2世によって作られ、オスマン帝國の能力主義の前提条件が生み出された。異教徒・異民族出身の宮廷奴隷が、トルコ貴族を斥けて登用され、帝國を動かして行く。これがオスマン帝國の榮光を築き上げる。異質の者、異文化を受け容れる帝國は榮える。
★参考文献
鈴木薫『オスマン帝国』講談社現代新書1992
鈴木薫『食はイスタンブルにあり 君府名物考』NTT出版、気球の本1995
鈴木薫『図説イスタンブル歴史散歩』河出書房新社1993
澁澤幸子、池澤夏樹『イスタンブール歴史散歩』新潮社1994
坂本勉『トルコ民族主義』講談社現代新書1996
陳舜臣『世界の都市の物語イスタンブール』文藝春秋1992
細川直子『トルコ 旅と暮らしと音楽と』晶文社1996
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
日高健一郎、谷水潤『建築巡礼17 イスタンブール』丸善株式会社1990
澁澤幸子『寵妃ロクセラーナ』集英社1998
大久保正雄COPYRIGHT2001.10.31
★スレイマニエ・モスク
★スレイマニエ・モスクと金角灣
★トプカプ宮殿穹窿

2016年6月11日 (土)

旅する哲学者、黄昏の地中海

Ookubomasao54Ookubomasao55大久保正雄『地中海紀行』第19回
旅する哲学者、黄昏の地中海

美への旅、知恵の旅、時空の果てへの旅、魂への旅。
旅する哲学者は、至高の美へ旅する。美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。
夕暮れの丘、夕暮れ散歩。美しい魂に、美しい天使が舞い降りる。

天と地の狭間を旅する旅人
地中海都市を歩く時、時めきを感じる舞台装置。
藝術作品としての国家。
私は、苦しみを秘めて、ヨーロッパに旅立った。
黄昏の橋をわたり、夕暮の寺院の伽藍を彷徨い、夕闇の街を歩く。
丘の上から眺める、藝術のような都市の殘照。この世のものとは思えない美しい光景。時を忘れて立ち尽くす。荒野の果てに生きる美しい人。
闇が深ければ深いほど、星は輝きを増す。
夕暮れの丘、糸杉の樹林を歩くと、木の香りが立ち込める。
美しい天使が舞い降りる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【われらが海、地中海】
■樹林を歩く時、生死の根源への旅
斑鳩、法隆寺の回廊を歩くとき、ギリシアの列柱回廊を思い出す。古代人の優美な歩み、輝けるまなざし、悲しみと調和を湛えた瞳の奥に、生ける者の苦悩と悲しみが蘇る。夢殿の夢違い観音は、自らの苦惱のさ中に、ひとの苦痛を救う、救済の意志の現われである。
大理石の列柱の影が深くなる眞夏の午後、時は止まる。アクロポリスの丘、アッタロスのストア。この地で、問答が積み重ねられ、難問が突きつけられ、生きる意味が問われた。ギリシアの神殿の列柱は森の木々から生まれた。森と海からギリシア文明は生まれた。
金剛峰寺、奥の院、空海の即身成仏の空間。鬱蒼と聳える杉の巨樹の森を歩くとき、ルクソール、カルナック神殿、列柱の間を想い起こす。
死と再生を祈る、ナイル河のほとり。葦が茂りロータスの花咲く水辺。人は、樹林の間を歩く時、列柱の間を歩く時、遠い日の記憶が蘇る。いのちが燦き、精神が輝き、藝術作品のような都市が築かれた黄金時代。森と水はいのちを生み出す源郷である。

■榮光のローマ帝国
スペインの果て、メリダ。古代から現代に架かるローマ橋、二千年の時の流れを湛える悠久の河。聳え立つ水道橋、劇場。ヨーロッパの西の果て、ローマ帝國が築いた都市。流れ去った一千年の歳月。時の流れは夢、幻のごとく。いま、陽光の下に、河は流れる。
ローマ人は、イベリア半島の果てから、アフリカ、アラビアの砂漠に到るまで、ローマ都市を築いた。ローマ人はローマ都市を到るところに築き、地中海は、ローマ人の「われらが海」(mare nostrum)となった。ローマ人は、地中海世界の至る所に、広場、神殿、戰車競技場(アレーナ)、水道橋、円形劇場、競技場、浴場、圖書館を築き、ローマ都市は、地中海都市の原型となる。ギボンはローマ帝國、五賢帝時代紀元2世紀を「人類の最も幸福な時代」と呼ぶ。(ギボン『ローマ帝國衰亡史』)

■藝術作品としての国家
海が見える丘の上に、アクロポリスがある。地中海の紺碧の海。エメラルドの輝き。ギリシアにはじめて學問を築いたイオニアの大地と海。
丘の上から、フィレンツェの町を眺める時、そこには、藝術作品としての國家がある。國家は、見える都市の形に現れる。アクロポリスの丘が聳えるアテナイ、アンダルシアの都コルドバ、荒野に聳えるトレド。美しい國家は、美しい都市としてこの世に存在する。  地中海的生活様式の樣々な樣式は、不滅の輝きをもっている。地中海人の生きかたは、三千年の時の流れを超えて、時の風雪に耐えた人類の智慧の結晶である。地中海人は、地上の輝かしい空間、藝術作品としての國家を築いた。
人間がいきいきと生きる環境を生み出すことが、統治者の義務であり、人間がいきいきと生きる空間を構築することが建築家の使命である。地中海のほとりには美しい都市がある。

■地中海都市の樣式
地中海都市を歩く時、いのちの時めきを感じる装置に満ちみちている。バール(カフェ、カフェニオン、チャイハネ)、迷路、中庭、バロックの階段、例えば、スペイン階段。地中海都市は、劇場都市である。
地中海都市は、美しい樣式をもつ。それは人類の不滅の遺産であり、普遍的な価値をもつ。地中海都市の劇的空間は、人生を美しく生きるための装置に満ちている。地中海都市の劇場的空間は、樣々な舞臺装置からなる。広場、円形劇場、音樂堂、糸杉の丘、神殿、列柱回廊、アクロポリス(城砦)、泉水、至高聖所、秘儀伝授の場、田園。
人生は舞台である。生きることは劇的である。地中海都市の樣式のなかに、不朽の「藝術作品としての都市國家」のイデアがある。

【人間の尊厳】
地中海人の生活樣式。自由と個性を尊重する生きかた。美を愛する生活樣式。人生を樂しむ生きかた。個を尊重する生きかた。地中海人の生きかたは、尊敬に値する。その根底には、人間の尊厳を重んじる生き方がある。
人が存在していること自體が、価値がある。生きているということが、かけがえのないものである。そして人間の尊厳の本質は、魂の善さにある。知恵を愛する者(philosophos)の魂のみが、魂の翼をもつ。

■ソクラテスの死
ソクラテスは、裁判に敗れ、紀元前399年処刑されて死んだ。ソクラテスの生と死を貫くものは、知恵を愛すること。ソクラテスは、裁判の中で奢れるアテナイ人たちに語る。
ただ金銭を、できる限り多く自分のものにしたいということに気を遣っていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮と眞理には気を遣わず、魂をできるだけ優れたものにするように、心を用いることをしない。
魂ができる限り善きものになるように配慮しなければならない。それより先にもしくは同程度にでも、肉体や金銭のことを気にしてはならない、と私は説くのだ。金銭から魂のよさ(徳)が生まれてくるのではない。金銭その他のものが、人間にとって善きものとなるのは、公私いずれにおいても、すべては魂のよさによるのだ。自己自身に気づかい、できる限り善きものとなり、思慮ある者となるように努め、自己にとってはただ付属物にすぎないものを、決して自己自身に優先して気づかってはならない。(cf.プラトン『ソクラテスの弁明』)と、ソクラテスは説いた。
ソクラテスは、毒人参の毒が體にまわり息が止まるまでの時間、自らの死を前にして、弟子たちに、魂の不死不滅を説き、自らの思想に殉じて死んだ。

■黄昏の旅人
或る秋、私は、苦惱を胸に秘めて、ヨーロッパに旅立った。
黄昏の橋をわたり、夕暮の寺院の伽藍を彷徨い、夕闇の街を歩いた。丘の上から、藝術のような都市の殘照を眺めた。この世界のものとは思えない美しい光景に、時を忘れて立ち尽くした。荒野の果てに生きる美しい人を見た。闇が深ければ深いほど、星は輝きを増す。
私は、失意と絶望の果てに、ヨーロッパに旅立った。この世の美しいものを見るために。この世のあらゆる美しいものを見るために。
私は、ミラノの朝焼けの空に、獅子座流星群が降るのを見た。ミラノの夜明け、紅と緑の西洋梨を剥いて食べたのを思い出す。あれから月日が流れた。
そして、私は地中海のほとりを旅した。美と智慧を求めて。私は旅を續ける。私は、黄昏の旅人である。
旅立とう、あなたとともに。美と智慧を求めて。
★参考文献
ギボン中野好夫訳『ローマ帝國衰亡史』ちくま学芸文庫、筑摩書房1995
J.ブルクハルト柴田治三郎訳『イタリア・ルネサンスの文化』中央公論社1966
F.ブローデル浜名優美訳『地中海』1-5巻、藤原書店1991-1995
F.ブローデル神沢榮三訳『地中海世界・』みすず書房1990
大久保正雄『理性の微笑み ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社1993
大久保正雄「魂の美学 プラトンの対話編に於ける美の探究」「上智大学哲学論集」第22号、1993
大久保正雄「理念のかたち かたちとかたちを超えるもの」『理想』659号、理想社1994
陣内秀信『都市の地中海 光と海のトポスを訪ねて』NTT出版1995
プラトン『ソクラテスの弁明』『パイドン』
John Burnet(ed.), Platonis Opera, 5vols, Oxford Classical Text, Oxford U.P.,1903
★著者、大久保正雄 ヴィーナスの誕生 ウフィッツィ美術館
★著者、大久保正雄 フィレンツェにて
★黄昏のポンテ・ヴェッキオ
大久保正雄Copyright 2001.9.26
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2016年6月10日 (金)

地中海、魅惑の海のほとりにて

Ookubomasao51Ookubomasao52大久保正雄『地中海紀行』第18回
地中海、魅惑の海のほとりにて

紺碧の海が、夕映えに染まる時、
あらゆる苦しみ、悲しみ、歓びが、一つに融け、
黄昏の海に、夕暮の諧調が響く。

旅する皇帝、ハドリアヌスが航海した海、
女王クレオパトラ7世が歩いたエフェソスの丘、
アレクサンドロス3世が渡った海峡。
荒ぶる魂、心の波立ちが、人を行動に駆り立てる。

夢のように過ぎた美しい日々、愛は過ぎ去りし日の星影。
紫色の黄昏が忍びよる。
星が輝く夜、あなたと歩いた月光の庭。

地中海の微風が吹く、
パルテノンの丘に、フィレンツェの丘に。
地中海のほとり、瞑想する、黄昏の旅人。
知恵を愛する魂のみが、魂の翼をもつ。
行け、輝ける精神。魂の翼よ、はばたけ。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【地中海】
地中海は一つの海ではない。地中海は海の複合体である。
エーゲ海、イオニア海、アドリア海、黒海、マルマラ海、ティレニア海(イタリアの海)、エトルリアの海。西の涯て、南スペインとアフリカの間にある海、そしてジブラルタル海峡。(cf.F.Blaudel『地中海』1、16-18.173-174)
 文明の十字路に広がる地中海。多様な文化が、対峙し戰い、そして融け合う地中海世界。多民族が異質のものとの出会い、對決と抗爭の果てに、華麗な文化の花が咲き亂れた。
 地中海に花開いた、比類なく美しい藝術。藝術作品としての國家は、多樣な文化の出会いの中から生まれた。地中海のほとり、叡智が生まれた。

■地中海のほとり、人類の叡智が生まれた。
人類の叡智は、地中海のほとりで生まれた。ギリシア人が生みだした哲學と藝術。エジプト人が築いた建築と農業技術。ローマ人が構築した都市。ソクラテスが生と死を貫いた生きかた。ソクラテスの問答と吟味と論駁。プラトンが書いた対話編は、人類史に普遍的な価値をもつ。

■地中海都市彷徨
アドリア海の紺碧の海原。カナル・グランデを疾走する舟の上から、私は、水面に漂う陽炎のような都を見たとき、幻を見た。海の都ヴェネツィア。金色に輝く寺院、円蓋の燦めき。
ヴェネツィア、サンマルコ寺院の伽藍。海の都コンスタンティノポリスの殘影を曳くその姿は、滅亡した帝國よりも美しい。「海の都」「水上の迷宮都市」「アドリア海の花嫁」「水面に漂う虹の都」と呼ばれるヴェネツィア。15世紀、地中海いたるところ、港に拠点を築き、地中海の制海権を掌握した。
 地中海は、海洋都市のネット・ワークと對立抗爭によって、結ばれていた。アレクサンドリア、カルタゴ、コンスタンティノポリス、ヴェネツィア、ジェノバ、ピサ、アマルフィ、クレタ島カンディア、アテナイの港ペイライエウス。例えば、アレクサンドリアは、ローマ帝國最大の商業都市であり、エジプトの豊饒な穀物が港からローマへと運ばれ、榮光のローマ帝國の食糧源であった。
 地中海の岸辺、海洋都市によって様々な言語、藝術、宗教、思想、學問がもたらされ、人々は己と異質のものと出会った。異國と出会う処に、新たな文化が生まれる。

■生きる楽しみに耽溺する地中海人
イタリア人は「人生は美しい」(La vita e bella.)と考える。愛に溺れ、藝術に溺れ、美食の樂しみを追求するイタリア人。陽の光の下で生き、月の光の下で愛する。トルコ人は「人はこの世に一度だけやって来る」と言う。この現世の生は一度限りである。たとえ不滅の魂が、輪廻転生して生まれ變っても、この現身の生は一度かぎりである。個のいのちは尊い。眞に美しい人生を生きる。一瞬一瞬、眞に、美しく生きること。これが人生の目的である。人は、一度しかない限りあるこの命を、美しく生きねばならない。現身のこの生は貴く美しいものである。いまここに生きているということはかけがえのない、尊いことである。それゆえ眞に愛すべきものを愛し生きねばならない。愛の重さは存在の重さである。ロレンツォ・デ・メディチは歌った。
「青春は麗し、されど逃れ行く、樂しみなさい、明日は定めなき故に」ロレンツォ・デ・メディチ『謝肉祭の歌』

■天と地の狭間を旅する旅人
地中海の海原を旅する時、スペインの荒涼とした大地を旅する時、天と地の狭間を旅する時、ひとは自己が何を所有するかではなく、自己が何であるかを考える。自己が所有するもの、地位や名譽や財産ではなく、自己がいかに見えるかではなく、自己の存在が何であるか。自己自身が何であるかを探求することができる。人をして眞に人たらしめるものは何か。
スペイン、サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼の旅に出た俳人黛まどかは、旅することには三つの意味があると言う。少ない物で生きることができる。少ない言葉で生きることができる。人を信じることができる。そして、自己の内面を旅することができる。
この世の果てまで旅して、人は魂の果てを探求する。大地の果てにたどり着くことはできるが、人は魂の果てを探求しても、魂の涯に辿り着くことはできない。魂の地平には、限界がないからである。
★参考文献
ギボン中野好夫訳『ローマ帝國衰亡史』ちくま学芸文庫、筑摩書房1995
J.ブルクハルト柴田治三郎訳『イタリア・ルネサンスの文化』中央公論社1966
F.ブローデル浜名優美訳『地中海』1-5巻、藤原書店1991-1995
F.ブローデル神沢榮三訳『地中海世界・』みすず書房1990
大久保正雄『理性の微笑み ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社1993
大久保正雄「魂の美学 プラトンの対話編に於ける美の探究」「上智大学哲学論集」第22号、1993
大久保正雄「理念のかたち かたちとかたちを超えるもの」『理想』659号、理想社1994
陣内秀信『都市の地中海 光と海のトポスを訪ねて』NTT出版1995
プラトン『ソクラテスの弁明』『パイドン』
John Burnet(ed.), Platonis Opera, 5vols, Oxford Classical Text, Oxford U.P.,1903
★花の聖母教会 フィレンツェ
★花の聖母教会とジョットの鐘楼
大久保正雄COPYRIGHT 2001.9.26

2016年6月 9日 (木)

ビザンティン帝国の皇帝たち 哲学を愛した皇帝、ユリアヌス

Ravenna_san_vitalejpgByzantine_empire_emperor_justinianHagia_sophia大久保正雄『地中海紀行』第17回
ビザンティン帝国の皇帝たち 哲学を愛した皇帝、ユリアヌス

コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトス
コンスタンティノス11世パライオロゴス
皇帝一族の兄弟殺し
パライオロゴス朝ルネサンス

生きながら死せる者、死にながら生きる者。
死臭を放ち、腐敗したまま生き殘る、ビザンツ人の帝國。
虚榮の都、コンスタンティノポリス。
ユスティニアヌス帝によって、多神教は封殺された。
哲学者の古典の死體を解剖し、一字一句、穿鑿、一語を巡り、
論爭にあけくれ、眞理よりも、善よりも、自己の名譽が最も尊い人々。
生ける屍のごとき御用學者のみ存在する。
崇高な理想は死に絶え、人間の尊厳は尊ばれない。
理想なき国にはソクラテスは生まれず、プラトンは蘇らず。
哲学を愛した皇帝、ユリアヌス。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■パライオロゴス朝ルネサンス
マケドニア朝ルネサンス
7世紀以後、ビザンティン帝國はギリシア化してギリシア語が公用語とされた。しかしホメロス、プラトンなどの古典を讀みうる者は稀有であった。ホメロスの書は朽ち果て、文章は単語に区切られず書写された寫本は闇に埋もれていた。
10世紀ビザンティン帝國において、ギリシア古典文化の復興が行なわれる。皇帝コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスによって古典の収集と編纂が行なわれ、マケドニア朝ルネサンスと呼ばれる。だが、榮えた學問は、訓詁注釈、原典校訂、宮廷儀礼研究など個性を殺した學であり、創造的な學問の名に値しない。イコンをかいた繪師の名前は知られず、個の尊厳は黙殺された。人間の尊厳は尊ばれず、創造的な學問は生まれない。

■コンスタンティノス7世 ポルフュロゲネトス、緋色の室に生まれた皇帝
コンスタンティノス7世(906在位913-959)は、ポルフュロゲネトス(緋色の室に生まれた)と呼ばれ、宮殿内、緋色の大理石で作られた皇后の産室で産声を上げた。マケドニア朝第3代の皇子であるが、6歳の時、父レオン6世が死に、叔父アレクサンドロス帝が統治1年で死んだため、913年7歳の時、ビザンツ帝國の正帝の地位につく。母ゾエを中心とした摂政府が設けられ、33年間政務に携わらず、長い休暇の間、自らの趣味でもある研究に没頭、『帝國の統治について』『宮廷儀式の書』を著した。

■皇帝一族の兄弟殺し
宮廷において、王族、皇帝の一族の間で、兄弟殺しが行なわれることは、古來、枚擧にいとまがない。権力の分散を阻止し、王土の分割を避けるためである。
権力を手に握る者は、力の集中を圖り、目的の達成をめざす。だが権力の維持のために権力の集中を目ざす、権力のための権力である時、それは暴虐な王者の私利私欲の追求に過ぎない。ビザンティン帝國皇帝一族、オスマン帝國スルタンにおいても同じである。
皇帝ヘラクレイオス(在位610-641)は、コンスタンティノス3世とヘラクロナスに帝位を継承すると遺言した。ヘラクロナスとその母マルティナは、舌を切られ、鼻を削がれて宮殿を追われた。コンスタンティノス3世の子コンスタンス2世は、弟テオドシオスを殺害。我が子コンスタンティノス4世に帝位継承権を確保するためである。さらにコンスタンティノス4世は、共同皇帝である2人の弟の鼻を削いだ。我が子の帝位継承権を獲得するためである。身体に損傷がある者は皇帝になれないと考えられたからである。

■ラテン帝国
ヴェネツィアが率いる第4回十字軍は、制海権を掌握するためコンスタンティノポリスを占領、ラテン帝國(1204-61)を樹立した。海洋國家ヴェネツィアが地中海貿易を独占することが目的である。
アギア・ソフィア寺院の『祈り図』(deisis)は、「聖母と洗礼者ヨハネがキリストに人類の救済を要請する」構圖である。1261年ミハイル8世パライオロゴス(在位1259-1282)が、ラテン帝國の支配からコンスタンティノポリスを奪還した。これを記念して制作したと推定される。

【虚榮の都 コンスタンティノポリス】
コンスタンティノス11世パライオロゴス
官僚主義の帝國。腐臭を放つ官僚制國家、ビザンティン帝國。権力者に媚び諂い、自ら「皇帝の奴隷」と呼ぶ官僚。強者に阿諛追従し、弱者に強圧的に振る舞う、面従腹背の奴隷道徳が支配する。繁文縟礼、儀式に明け暮れる日々。ハプスブルク帝國の帝都、美しき屍 (schone Leiche) ウィーンのごとき瑣末主義、権力の奴隷。だが傲慢な奴隷である。
 官僚の行動様式は、次のような特色がある。権威に盲従し、弱者に圧制を敷く。前例を崇拝し、上意を下達する。己の利益のみ考慮して、國益をかえりみず。血脈とコネと賄賂を重んじる。亡國の官僚。20世紀日本の官僚制と酷似するのは偶然ではない。すべて官僚制はがん細胞のように自己増殖する。邪悪なる者が蔓延するように。そして永續する権力は必ず腐敗する。ビザンティン帝國は滅びるべくして滅んだ國である。だがビザンティン帝國でさえ市民は反乱した。
皇帝の人格、能力如何に関わらず、官僚組織が存續する限り、帝國は存在し續ける。『宮廷儀式の書』『官職表』『宮廷席次表』に従い、ローマ法典に則り、組織に隷属する。創造性を欠如した所に、千年の帝國は存在した。ビザンツ人は、あらゆる独創性の敵、生ける精神の敵である。千年の歳月を生み出した官僚制と軍隊は、帝國を蝕み、滅亡させた。
1453年メフメト2世はオスマン帝國の艦隊をペラ地区に陸越えさせて、5月28日、攻撃、29日コンスタンティノポリスを征服した。最後の皇帝コンスタンティノス11世パライオロゴスは戦乱の炎の中に消えた。

■ユリアヌス帝 哲学を愛した皇帝
32歳にして死す
【地中海人列伝10】
ユリアヌス(331-363在位360-363)は、首都コンスタンティノポリスで生まれる。生後、母と死別。皇帝コンスタンティヌスの異母兄弟ユリウス・コンスタンティウスの息子である。ユリアヌスは短命で、数奇な悲劇的生涯を送った。著作、演説11、書簡80余が殘存する。
337年5月22日コンスタンティヌス大帝が死ぬ。9月9日、殘された3人の子、コンスタンティヌス2世、コンスタンス、コンスタンティウス2世は正帝(Augustus)に即位。帝國は3人の子に3分割される。
338年従兄コンスタンティウス2世は宮廷革命を起し、ユリアヌスは父と一族を失う。異母兄ガルスとユリアヌスだけが助命される。孤獨不遇な青少年期に、古典的教養を身につけ、新プラトン主義に傾倒。ミトラス教の密儀を學び、エペソスの祕儀に魅せられた。
340年春コンスタンティヌス2世はコンスタンス帝に己の権力を思い知らせようと邪心を抱きイタリアを侵略したが、アクィレイアにて敗死する。だが350年コンスタンス帝は宮廷内の陰謀により殺害され、軍人マグネンティウスがその地位を奪う、が353年コンスタンティウス2世はリヨンの戰いでこれを討つ。コンスタンティウス2世は「虚榮心の強い愚者である」と歴史書に書かれた。
354年コンスタンティウス2世は猜疑心が強く副帝ガルスを謀反の疑いで処刑する。この時、ユリアヌスは疑われるが、アテナイに留學する。
コンスタンティウス2世は單獨統治の欠陥に気づき、政権を共有する相手を捜す。又従弟フラウヴィウス・クラウディウス・ユリアヌスである。355年ユリアヌスをアテネ留學からミラノに召還。副帝に任命、ガリア、ライン河國境の警備に任じる。ユリアヌスは軍事のみならず税制改革、減税に才能を発揮し、軍隊と市民に絶大な人気を博した。このためコンスタンティウス2世は脅威を感じて警戒心を起し、降格させる。だが軍隊は360年2月ルテティア・パリシオールム(パリ)において、ユリアヌスを對立皇帝(Augustus)に擁立、推戴する。コンスタンティウス2世は討伐に立ち上がるが、途上、361年11月死亡。ユリアヌスは361年12月首都コンスタンティノポリスに無血入城する。
時流に逆らい、キリスト教ではなく、ローマの伝統宗教の復活を試み、古代の學藝を愛した。行政改革、減税に取り組み、優れた統治を行なった。後世、背教者(Apostata)ユリアヌスと呼ばれるのは誤解による。
ユリアヌスの最期は、362年アンティオキアに行き、翌年3月ペルシア征伐に赴き、メソポタミアに遠征。遠征軍がペルシア人を冬の都クテシフォン城外で戰勝したが占領せず、後續部隊と合流するため退却した。363年6月27日、旅の途中、戰闘で致命傷を負い、深夜、死去する。ユリアヌス帝は「ヘリオス(太陽神)よ。汝は我を見捨て給うた」と言い殘して、32歳にして死ぬ。
ユリアヌス帝の死がコンスタンティヌス朝の終焉である。ユリアヌス帝死後、コンスタンティノポリスにおいて帝國の文官と武官は秘密会議を開き、パンノニア人の指揮官ヴァレンティニアヌス1世を皇帝に指名。364年3月弟ヴァレンスを共治帝に任命した。しかしヴァレンティニアヌス家は次々と非業の死を遂げ、392年5月ヴァレンティニアヌス2世の死によって斷絶する。
*フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(Flavius Claudius Julianus フラーウィウス・クラウディウス・ユーリアーヌス、331/332年 - 363年6月26日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:361年11月3日 - 363年6月26日)。コンスタンティヌス朝の皇帝の一人、コンスタンティヌス1世(大帝)の甥。最後の「異教徒皇帝」として知られる。多神教復興を掲げキリスト教への優遇を改め、「背教者(Apostata)」とも呼ばれる。
★参考文献
井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書1990
井上浩一『ビザンツ帝国』岩波書店1982
井上浩一『ビザンツ皇妃列伝』筑摩書房1996
井上浩一・栗生沢猛夫『ビザンツとスラブ 世界の歴史11』中央公論社1998
渡辺金一『コンスタンティノープル千年 革命劇場』岩波新書1985
渡辺金一『中世ローマ帝国 世界史を見直す』岩波新書1980
クリス・スカー著 青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社
和田廣『ビザンツ帝国 東ローマ1千年の歴史』教育社1981
ベック渡辺金一編訳『ビザンツ世界の思考構造』岩波書店
鈴木薫『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書1992
益田朋幸・赤松章『ビザンティン美術への旅』平凡社1995
陳舜臣『世界の都市の物語イスタンブール』文藝春秋1992
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
ゲオルク・オストロゴルスキー和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社2001
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
★サン・ヴィターレ教会、ラヴェンナRavenna San Vitake
★ユスティニアス帝Byzantine Emperor Justinian
★アヤ・ソフィア寺院Aya Sophia
大久保正雄COPYRIGHT 2001.8.29

2016年6月 8日 (水)

幻影の帝国ビザンティン 地位崇拝の階級主義

Ookubomasao46Ookubomasao49Ookubomasao50大久保正雄『地中海紀行』第16回
幻影の帝国ビザンティン 地位崇拝の階級主義

星の瞬く夜。地中海に到る、
ボスポリオンの港に波が打ち寄せる。
三重の城壁に囲まれた丘の上。
哲學を愛した皇帝、ユリアヌスが生まれた地。
幻影の都、コンスタンティノポリス。

宮殿の奥深く聳える、皇帝の眞珠宮殿。
神の聖なる智慧に献げられた寺院。戰車競技場に決起、
對立皇帝を立て、コンスタンティノポリス市民は反亂する。
皇帝を生み出したものは、皇帝を死に至らしめる。
千年の歳月を生み出した官僚制は、帝國を蝕み滅亡させる。
眠れるごとき一千年の歳月。
帝國は滅び、いま幻影のみが蘇る。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【幻影の帝國】
糸杉の丘の向こうに、海が見える。
この海は地中海に至る海である。海峡の彼方にペラ地区が見える。かつてジェノヴァの商館が立ち並んだ坂の町。金角湾(Golden Horn)の入り江に、林立する船影が見える。
アクロポリスの丘を歩くと、幻影の帝國、ビザンティンの面影が蘇る。緋色の帝衣を翻して、皇帝が歩く。幻の眞珠宮殿、戰車競技場、回廊と列柱、皇帝の墓所。すべては灰となり、この世から消えた。ギリシアとローマとキリスト教が融合した不思議の國。幻影の帝國、ビザンティン。
セヴェルス、コンスタンティヌス、テオドシウス2世、三人の皇帝によって、強固な城壁が築かれた。コンスタンティノポリスは、三重の城壁と海で囲まれた難攻不落の城塞である。眠れるごとき千年の歳月。帝國の都は地上から消え、大地が残った。
何故、ビザンティン帝國は、一千年の月日を生き残ることができたのか。

【ビザンティン 一千年の帝國】
ビザンティン帝國(395-1453)は、テオドシウス帝の子アルカディウス帝(395-408)に始まる。コンスタンティノポリスを首都とする。正式名称はローマ帝國、臣民はロメイオイ(ローマ人) と自ら呼ぶ。ローマ皇帝の後継者を任じる皇帝によって統治されたギリシア人のキリスト教國家である。ギリシア人を中心とする多民族國家。ローマ帝國の後継國家として、東ローマ帝國、中世ローマ帝國と呼ばれる。

■皇帝専制国家
ビザンティン帝國は、皇帝の下に富と権力を集中させた皇帝専制國家、官僚制と軍隊の帝國である。歴史の主要舞台は、開かれた空間、戰車競走場から、宮殿の奥の閉ざされた闇へと移る。宮殿の奥深く繰り広げられる儀式。「皇帝は神の代理人」、皇帝が教会を支配下に置き、聖俗両界を掌握する。高級官僚は「皇帝の奴隷」である。官僚と軍隊は税金を食い潰す魔物である。
皇帝を頂点とするビザンティン帝國の社会は、三つの階層に分かれ、頂点に立つ少数の上層階層と多数の底辺の下層階層からなる。上層階層(皇帝、貴族、高級官僚)、中層階層(商人、職人)、下層階層(農奴、奴隷、貧困層)である。自らの労働に基づかず、他人を搾取することによって成立する支配階層の繁榮が退廃を生む。

■官僚制の帝国
ビザンティン帝國は、官僚制の帝國である。皇帝を生み出した者は、皇帝を死に至らしめる。89代の皇帝の43人が反亂と陰謀で倒れた。例えば、7世紀、軍と元老院と市民は自らの監視の下にフォカス帝(602-10)を退位させた。だが、皇帝個人の人格、能力如何に関わりなく、絶え間なく行政に携わる官僚組織が存續する限り、帝國は存在し續ける。
 皇帝は神の代理人。高級官僚は皇帝の奴隷。官僚は、國家の富を食い潰す魔物である。面従腹背の官僚は不滅である。コネと賄賂を重んじる。皇帝役人によって統治される、官僚制の帝國、組織の帝國、ビザンティン。それは惡の帝國である。皇帝は死に、反亂する市民は虐殺され、元老院が破壊され、勇敢な武士が戰場に倒れ、國が滅びても、官僚制は生き殘る。ビザンティン帝國一千年の歴史を作り上げた要因は、官僚支配の体制である。

■ビザンツ人
中世ギリシア人、ビザンツ人の特質は、1、利己主義の亡者。2、権威・権力に阿る、卑屈な精神。批判精神の欠如。「皇帝の奴隷」である。3、瑣末なことに拘泥し、崇高な究極目的を無視する。
近代ヨーロッパ語においてByzantineという言葉は、「阿諛追従する、曲學阿世の徒」「複雑で分りにくい」「瑣末なことを重んじる」「地位崇拝の権威主義」を意味する。ビザンティン帝國の官僚機構から生まれた言葉である。
ビザンティン帝國の官僚は、指導的階層であるが、自ら皇帝の奴隷と卑下する。だが皇帝を裏切ることはやぶさかでなく、つねに新たな権力者に媚び諂う。自己の地位を守るためである。腐敗し、創造性を失った「組織の帝國」の構造は、20世紀日本と酷似している。
★参考文献
井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書1990
井上浩一『ビザンツ帝国』岩波書店1982
井上浩一『ビザンツ皇妃列伝』筑摩書房1996
井上浩一・栗生沢猛夫『ビザンツとスラブ 世界の歴史11』中央公論社1998
渡辺金一『コンスタンティノープル千年 革命劇場』岩波新書1985
渡辺金一『中世ローマ帝国 世界史を見直す』岩波新書1980
和田廣『ビザンツ帝国 東ローマ1千年の歴史』教育社1981
ベック渡辺金一編訳『ビザンツ世界の思考構造』岩波書店
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
ゲオルク・オストロゴルスキー和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社2001
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
クリス・スカー著 青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社
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★ブルー・モスク
★ジャンニ・ヴェルサーチのデザイン によるホテル Inter-continental Istanbul
★ジャンニ・ヴェルサーチのデザイン によるホテル Inter-continental Istanbul
大久保正雄COPYRIGHT 2001.8.29

2016年6月 7日 (火)

ビザンティン帝国の都 コンスタンティヌス帝、ユスティニアヌス帝

Ookubomasao42Ookubomasao44ビザンティン帝国の都 コンスタンティヌス帝、ユスティニアヌス帝
大久保正雄『地中海紀行』第15回

ビザンティン帝国の都 コンスタンティノープル
地中海と黒海を結ぶ、ボスポラス海峡に、春風が吹き渡る。
コンスタンティヌスのポリス。ヨーロッパの東の果て、
文明の十字路。ヨーロッパとアジアが出会う海峡。
コンスタンティヌスはこの要塞を鎧のように駆使、
帝国の礎を不朽にした。

オスマン艦隊が陸を越えた奇襲の地。
英雄の幻影、英霊たちの聲が、霧深い春の海峡に谺する。
窓から、ボスポラス海峡が見える。夜霧に煙る海峡。
海の向こうに、輝ける時が燦く。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■コンスタンティヌス帝 戰略の名人
【地中海人列伝8】
コンスタンティヌス帝(274-337在位312-337)。305年ディオクレティアヌス退位後、帝國は権力闘爭が始まる。306年セヴェルス(306-7)が西方正帝(Augustus)に、コンスタンティヌスは副帝(Caesar)になる。307年コンスタンティヌスは、皇帝マクシミアヌスの娘ファウスタと結婚。312年マクセンティウス帝と對決、ローマを流れるティベル河のミルヴィウス橋を挾んで對峙する。この時、勝利を祈り夕空に十字架の幻を見る(cf.『コンスタンティヌス伝』)。敵を虐殺、ローマを占領、帝國西方を制覇、正帝に即位する。313年コンスタンティヌス帝は、リキニウス帝とミラノでキリスト教を公認。「ミラノ勅令」発布の眞の意圖は、對抗勢力がキリスト教迫害を行なっていたため、帝國の覇権を確立するためにキリスト教徒を保護するという戰略にある。後にコンスタンティヌスと對立するリキニウスはキリスト教徒を彈圧する。324年コンスタンティヌス帝はリキニウス帝とハドリアノポリスで對決、リキニウスを破りテッサロニキにて謀殺する。326年我が子副帝クリスプスと皇后ファウスタを不義密通の罪で死刑に処す。冤罪であることは言うまでもない。
 330年5月11日、コンスタンティヌス帝は、ビュザンティオンの街を聖母マリアに捧げ、献都式を擧行。自ら神の代理人となる。この地はローマ帝國の都となりコンスタンティノポリス、コンスタンティヌスの都と名づけられる。たび重なる迫害でも屈服しないキリスト教徒を敵に回すことの不利を知り、キリスト教を帝國支配の道具・イデオロギーとして用いた。コンスタンティヌス帝は、セプティミウス・セヴェルス帝(193-211)の城壁の外側に大城壁を築く。ディオクレティアヌス帝の専制体制を完成、官僚制を基盤とする階級社会を構築、皇帝直属の官僚によって獨裁制を確立する。332年「コロヌスの土地緊縛令」発布。身分と職業を固定化する。ディオクレティアヌス帝以降、帝政は「選ばれた第一人者制(principatus)」から「専制君主制(dominatus)」へと移行する。官僚主義と宮廷儀礼が蔓延するビザンティン帝國の原形が生まれる。
337年コンスタンティヌス1世は、ペルシア遠征の途上ニコメディアで病死する。殘された帝國は3人の子に3分割される。
コンスタンティヌス1世は、地中海世界を駆けめぐり、権力を手に入れるためには手段を選ばず、冷徹で計算高い策士、戰闘と謀略に明け暮れた武人。名君の名に値しない暴力皇帝である。

ユスティニアヌス帝 「われらが海、地中海」、アカデメイアを閉鎖
【地中海人列伝9】
ビザンティン皇帝ユスティニアヌス(483-565 在位527-565)は、失われた旧ローマ帝國領を回復するため533-555年まで21年間、遠征軍を派遣する。534年將軍ベルサリオスは、地中海に闘いを繰り広げる。カルタゴのヴァンダル王國を滅ぼし、北アフリカに領土を拡大。マルタ島を占領。535年ゴート戰爭を開始。552年東ゴート王國を征服し滅亡させ、イタリアを回復する。554年イベリア半島の西ゴート王國を征服。帝國領とする。地中海は、ふたたびローマ帝國の「われらが海」(mare nostrum)となる。
529年、異端の牙城とされたアテナイのアカデメイアを閉鎖。プラトン以來、九百年の歴史が終焉する。首都コンスタンティノポリスで第5回公會議を開き、東方3派を彈圧する。
ユスティニアヌス帝は、遠征軍派遣のための莫大な戰費を得るため、緻密かつ厳格にして過酷な税制を施行した。重税にあえぐ民衆の不満は皇帝に對する反亂に発展、ニカ(勝利)の亂である。亂が頂点に達した時、退位を迫られた皇帝は亡命することを心に決め港に船が用意された。しかし皇妃テオドラは「皇帝の緋色の衣は最も美しい棺である」と皇帝に諫言する。皇帝は將軍ベルサリオスを競技場に派遣し、反亂する市民3万人を虐殺、亂は終結した。以後、安定政権を維持し、ビザンティン文藝史の黄金時代を築く。偽ディオニュシオス文書、他、歴史的な書物が書かれる。
ユスティニアヌス帝は、法學者トリボリアヌスに編纂を命じ、534年『ローマ法大全』を集大成する(534『勅法集』533『學説集』『法學概論』)。532年ニカの亂によって焼失したアギア・ソフィア再建に着手、537年12月27日アギア・ソフィア寺院を建立する。アギア・ソフィアは、「聖なる神の叡智」(Agia Sophia)にささげられた聖堂である。ユスティニアヌスは、「皇帝が、自身を法に縛られたものとして認めることは、支配者としての尊厳にふさわしい。」(『勅法集』1-14-4.429)と宣言、「法に縛られるものとしての皇帝」を確立する。(cf.渡辺金一『中世ローマ帝國』)
ユスティニアヌスは、財政破綻を再建、増収するため534年シルクロード經由で蚕卵を入手、絹織物生産を開始する。
ユスティニアヌス1世は、帝國の最大の版圖を掌中に収め、全盛期を迎えるが長期の戰爭のため財政は破綻する。宿敵ペルシアとの爭いは一進一退、和平条約を二度結ぶ(532.562)。死後、西方領土を失い、帝國は極微な世界に閉じ籠められて行く。

【ローマ帝国の落日】西ローマ帝國滅亡
395年1月17日テオドシウス1世は、ミラノで病死。帝國は2分され2人の息子に継承される。ローマ帝國は東西に分裂する。ローマを帝都とする西ローマ帝國を統治したのはホノリウス帝(在位395-423)であり、コンスタンティノポリスを帝都とする東ローマ帝國(ビザンティン帝國)を統治したのはアルカディウス帝(在位395-408)である。
西ローマ帝國は、476年9月4日ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが反亂、皇帝ロムルス・アウグストゥルス(在位475-476)を廃位。ビザンティン皇帝ゼノンは、オドアケルをパトリキウスとして承認。西ローマ帝國は滅亡する。ローマ帝國分裂後、ビザンティン帝國の帝都コンスタンティノポリスは、千年に亙り、地中海世界の中心として榮える。
★参考文献
鈴木薫『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書1992
益田朋幸・赤松章『ビザンティン美術への旅』平凡社1995
井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書1990
井上浩一『ビザンツ帝国』岩波書店1982
井上浩一『ビザンツ皇妃列伝』筑摩書房1996
井上浩一・栗生沢猛夫『ビザンツとスラブ 世界の歴史11』中央公論社1998
クリス・スカー著 青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社1998
アリアノス大牟田章訳『アレクサンドロス大王東征伝 付インド誌』上下、岩波文庫2001
渡辺金一『コンスタンティノープル千年 革命劇場』岩波新書1985
渡辺金一『中世ローマ帝国 世界史を見直す』岩波新書1980
和田廣『ビザンツ帝国 東ローマ1千年の歴史』教育社1981
ベック渡辺金一編訳『ビザンツ世界の思考構造』岩波書店
桜井万里子・本村凌二『ギリシアとローマ 世界の歴史5』中央公論社1997
鈴木薫『食はイスタンブルにあり 君府名物考』NTT出版1995
鈴木薫『図説イスタンブル歴史散歩』河出書房新社1993
坂本勉『トルコ民族主義』講談社現代新書1996
陳舜臣『世界の都市の物語イスタンブール』文藝春秋1992
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
ユネスコ世界遺産センター編『ユネスコ世界遺産3 西アジア』講談社1998
ゲオルク・オストロゴルスキー和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社2001
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
★ブルー・モスク
★ジャンニ・ヴェルサーチのデザイン によるホテル Inter-continental Istanbul
★ジャンニ・ヴェルサーチのデザイン によるホテル Inter-continental Istanbul
COPYRIGHT大久保正雄 2001.7.25

2016年6月 6日 (月)

イスタンブール 二千年の都

Ookubomasao42Ookubomasao43大久保正雄『地中海紀行』第14回
イスタンブール 二千年の都

岬の上、糸杉に囲まれたアクロポリスの丘。
海に囲まれ、ギリシアの城砦に囲まれた、
難攻不落の城塞都市。
この丘の上に、皇帝コンスタンティヌスが宮殿を建て、
メフメト2世がトプカプ宮殿を建てた。

剣のように鋭い、三日月が輝く、紺青の空。
イスラーム寺院の尖塔が聳える丘の上。
砂漠より來たる者に水を与え、海原より來たる者に眠りを与える。
苦惱する者に愛を蘇らせ、英雄の偉大なる死を刻む都。
英雄の香りを漂わせる都の埃。海の都、ビュザンティオン。
アレクサンドロスの父フィリッポスが包囲した海。
日が沈む、靄のなか、黄昏の海に。
ここより飛び立つ者に、帰還の翼を与えよ。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【香水の匂い】
眼下に、黄昏の海が見える。春の夕暮刻、トルコ航空機は、イスタンブール空港に着陸する。靄のなかに海は夕焼けで紅く染まっていた。夕焼けのマルマラ海。イスタンブールは金色の太陽が沈む春の靄のなかである。
トルコ航空は、スチュワーデスが身につける香水が強烈な匂いを放つ。オリエンタル・ノートの甘く濃艶な香り。麝香、霊猫香、龍涎香。動物的な濃厚な匂い。強い殘香。そのなかに混じり合う熱帯の密林の樹木の香りが闇を縫って漂う。オリエントの艶麗な匂いがする。イスラーム寺院に立ち籠める神秘的な薫香の匂いである。香水の匂いのなかにイスラーム神秘主義とトルコの官能が妖しく立ち昇る。スレイマン大帝の寵妃ヒュッレムの膚に纏う香水も麝香の香りである。妖艶な香りの中にオリエントの舞い、生と死の秘密を探求するイスラーム哲學の匂いがする。古都コンヤにおけるメヴラーナの旋舞のように、陶酔と忘我の匂いのなかに、死と再生の秘儀がある。

【二千年の都 イスタンブール】
■アポロン・アクロポリスの丘
紀元前7世紀、地中海のほとりから来た、ギリシア人が築いた植民都市ビュザンティオン。この地は、330年コンスタンティヌス帝によってローマ帝國の帝都となりコンスタンティノポリスと名づけられ、ビザンティン帝國の都として榮華と頽廃を極める。1453年メフメト2世のオスマン・トルコ帝國がこの地を征服した後、イスタンブールと呼ばれる。
 イスタンブールは、ローマと同じく、七つの丘からなる。坂道が多い迷路のような町である。三方を海に囲まれ、三重の城壁に囲まれた、難攻不落の城塞都市である。

■すべての道はコンスタンティノープルに通じる
イスタンブールとは、イス・ティン・ポリン(is tin polin)が語源であり、中世ギリシア語で「あの町へ」を意味する。すべての道はコンスタンティノープルに通じる。
 この地は、古代から海上交通路の要衝、東西文明の狭間、シルクロードの西の果てアンティオキアにつながる、東洋と西洋が出会う所である。地中海、エジプト、西欧、中國から豊饒な富が集積された。

■三つの帝國の都
ローマ帝國、ビザンティン帝國、オスマン帝國、三つの帝國の帝都であり續けた歴史上比類ない都市である。ビザンティン帝國は、「キリスト教化された、ギリシア人による、ローマ帝國」であり、中世ギリシア人の帝國である。帝國を構成する文化の3要素は、キリスト教、ギリシアの古典文化、ローマ帝國である。(cf.井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』)
支配する民族が変わり、支配階級の言語が変わり、国家の形が変わり、変貌を遂げるが、都であることは変わらない。ビュザンティオン千年、コンスタンティノポリス千年、イスタンブール五百年。二千五百年の都である。
 永遠の都、ローマは、ルネサンス時代には荒廃し昔日の都の面影はなかったが、バロックの時代、灰燼の中から蘇った。コンスタンティノポリスは、オスマン帝國の攻撃により1453年、滅亡する。それは虚榮の都コンスタンティノポリスに下された天の配剤であるのかも知れない。滅亡すべくして滅亡した官僚制の帝國、ビザンティン帝國。
 イタリアでルネサンスの花が咲き誇る15世紀、16世紀。この世紀は、オスマン・トルコ帝國の最盛期である。その時代、イスタンブールはオスマン帝國の下、帝都であり續けた。

■文明の絨毯
歴史が重く堆積する都。ローマとならぶ永遠の都。第二のローマ、イスタンブール。
 古代ギリシア人、ローマ人、中世ギリシア人、トルコ人、アラブ人、多様な文化が堆積する。イスタンブールは文明が重層する多重文化空間である。
 ビザンティン帝國、オスマン・トルコ帝國は多民族、多文化、多宗教、多言語空間であり、このような地は、スペインのアンダルシア地方、シチリア島、マルタ島がある。
 重々しい歴史の絨毯の上に、アクロポリスを築いたギリシア人と、ローマ皇帝と、スルタンと、東西の旅人が行き交った。多くの藝術家、作家がこの地に魅せられ幾たびも旅し訪れた。だが心ある者はこの地に永く止まることはない。
 志ある者は、旅人としてこの永遠の都を通り過ぎよ。この地は文明の橋である。決してこの地に止まってはならない。この地は、東西文明の十字路。虚榮の都に榮華を極め留まる者の魂は腐敗する。「富める者が神の國に入るよりは、駱駝が針の穴を通るほうが、はるかにたやすい。」醜い魂には醜い魂の香りがあり、美しい魂には美しい魂の香りがある。旅人の心を深く魅了し、此処から旅立つことを決意させる地、イスタンブール。
★参考文献
鈴木薫『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書1992
益田朋幸・赤松章『ビザンティン美術への旅』平凡社1995
井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書1990
井上浩一『ビザンツ帝国』岩波書店1982
井上浩一『ビザンツ皇妃列伝』筑摩書房1996
★ブルー・モスク
★祈り図(Deisis) 1261 アギア・ソフィア寺院
COPYRIGHT大久保正雄 2001.7.25

2016年6月 5日 (日)

スペイン・ハプスブルグ家、太陽の沈まぬ帝国、黄金の世紀

Las_meninas_by_diego_velzquez1656Las_meninas_by_diego_velzquezMargarita_teresa_de_espaa_01_2スペイン・ハプスブルグ家、太陽の沈まぬ帝国、黄金の世紀
大久保正雄『地中海紀行』第13回

天と地の間に、絶對の沈黙がある。
風が吹き静寂が支配する丘。荒涼たるスペインの大地。
輝く蒼空が果てしなくつづく、乾いた大地(La Mancha)に
対峙する、カスティーリアの荒野。
碧空にトレドの雲が咆哮する。愛と復讐の大地、カスティーリア。
荒野を旅する者は、方向を見失わず、生きる意志を持ちつづける精神力が必要である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より

【スペイン・ハプスブルグ家】
フィリップ美公フェリペ1世(カスティーリャ王、フアナと共同統治:1504年 - 1506年)
カルロス1世(=カール5世)(1516年 - 1556年)神聖ローマ皇帝(1519年 - 1556年)
フェリペ2世(1556年 - 1598年)ポルトガル王(1580年 - 1598年)
フェリペ3世(1598年 - 1621年)ポルトガル王
フェリペ4世(1621年 - 1665年)ポルトガル王(1621年 - 1640年)
カルロス2世(1665年 - 1700年)
*ゲオルク・シュタットミュラー『ハプスブルク帝国史』P22

太陽の沈まぬ帝国
マクシミリアン1世が1508年にローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始める。その後、婚姻関係からハプスブルク家は、ブルゴーニュ領ネーデルラント、ブルゴーニュ自由伯領(フランシュ=コンテ)、スペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを継承、皇帝カール5世(=カルロス1世)の下でヨーロッパの一大帝国を現出させた。1547年、カール5世の領土は「日の沈まぬ」大帝国となる。

狂女フアナ
フアナ(1479-1555)は、カトリック両王の三女である。1496年ブルゴーニュのフィリップ美公と結婚するためアントワープに赴く。フアナは、人生を謳歌し生きている瞬間を樂しむ享樂的なフランドルで、遊びに明け暮れ贅沢三昧の日々を送る、フィリップ美公の虜となったが、フィリップは妃が煩わしくなる。獨占欲が強いフアナは、夫の浮気に嫉妬し理性を失い狂気に陥り始めた。フアナは、長女エレオノーレ、ついで1500年に長男カルロスを生む。さらに次男フェルナンドをはじめ、6人の子を次々と出産する。
1504年カスティーリア女王イサベルが53歳で死去、三女の王女フアナにカスティーリアの王権が移る。王位継承者の一族が次々と死に、フアナだけが生き殘ったためである。フィリップはフアナを伴いスペインに渡るが、1506年9月ブルゴーニュ公は28歳でブルゴスにおいて不慮の死を遂げる。宮廷はフィリップの遺體を埋葬しようとするが、フアナは柩を渡すことを拒んだ。夜になると棺桶の蓋を開け、冷たい遺骸に話しかける。彼女はフィリップの遺體が入った棺を馬車に積み、スペインの町から町へ、山を越え谿を越え、カスティーリアの野をあてどなく彷徨い歩いた。
 フアナは26歳にして狂気に囚われ、父アラゴン王フェルナンド2世によって1509年以後トルデシーリャス城に幽閉され、城の中で死ぬ。だが1555年に75歳で息絶えるまで、城に閉じ籠められたまま46年間、カスティーリア・アラゴン女王として君臨し続けた。

カルロス1世(=カール5世) 太陽の沈まぬ帝國
 カルロス(1500-1558)は、ハプスブルク家のブルゴーニュ公フィリップと王女フアナの子としてフランドルの古都ガンで生まれ、ブルゴーニュの優雅な宮廷文化の中で育まれた。父が夭折し、母が発狂したため、カルロスは1516年16歳の時ブリュッセルでカスティーリア・アラゴン王に即位。1517年カルロス1世としてスペインに旅立つ。
 1519年、祖父の皇帝マクシミリアン1世の死後行なわれた皇帝選擧で、カルロスはフッガー家の資金援助の下、對立候補のフランス王フランソワ1世を破って皇帝に選ばれ、神聖ローマ皇帝カール5世となる。この時代、ドイツではルターの宗教改革運動が展開、カトリックの皇帝理念から激しい異端彈圧を圖る。パヴィアの戰い、イタリア戰爭、シュマルカンデン戰爭、ザクセンの反亂、戰いに明け戰いに暮れ、經済的破綻を遺す。戰爭と外交交渉のために、広大な支配領域を「旅する皇帝」であった。
 カルロス1世の時代、ハプスブルクは最大の領土を支配、ハプスブルク・スペイン帝國を築き上げる。カルロスは自らの國を「太陽の没することなき帝國」と呼んだ。
下顎前突症(Prognathism)
両親の血を引いて生まれつきアゴの筋力が弱く、下顎前突症*であり、また幼少期の病気により鼻腔が閉塞気味であった。多くの肖像画でも見られる通り、一見して非常に下あごが突出してる。
*ゲオルク・シュタットミュラー『ハプスブルク帝国史』P18

フェリペ2世 黄金の世紀 Felipe II de España
フェリペ2世(1527-98)は、神聖ローマ帝國皇帝をかねた父王カルロス1世から、スペイン、インディアス、ナポリ、シチリア、サルデーニァ、ミラノ、フランドルを継承。1581年母がポルトガル王家であることからポルトガルを継承、未曾有の領土を領有するに到る。
 スペインを中心とするハプスブルク帝國に反發するフランス、西地中海を脅かすオスマン・トルコ帝國、宗教改革による西欧の分裂。カルロス1世が遺した紛爭はフェリーペの時代に深刻の度を深め、また異端彈圧は暴虐を極める。カスティーリア王國の犠牲とインディアスから齎される銀を支えにフェリーペは帝國主義的な外交政策を展開する。スペイン絶對主義に對するネーデルランドの反亂に始まる80年戰爭(1568-1648)を戰い、レパントの海戰(Batalla naval de Lepanto)で不敗のオスマン・トルコ艦隊を破り、1588年無敵艦隊(Armada Invencible)によるイギリス侵攻を決意するがドーバー海峡の戰いで予期せぬ敗北を味わう。多彩な對外政策は多重債務を生む。
アメリカ大陸から齎された莫大な黄金と銀は、カディスの港で陸揚げされず、他の船に載せかえられて、そのままヨーロッパ各地に転送された。負債返済のためである。
フェリーペ2世はスペイン帝國の黄金世紀の頂点に立つ。だがその經済的基盤は初期からすでに破綻していた。即位の翌年から3度にわたり破産宣言を行ない、債務支払いを停止。1557年第1回破産宣言、1575年第2回破産宣言、1596年第3回破産宣言。父王から引き継いだ借財の5倍の負債を息子フェリーペ3世に殘す。  カルロス1世、フェリーペ2世の帝國政策とその負債は、カスティーリアの經済基盤を破壊し貧困を招き、殘忍な異端彈圧の果て、民衆の怨嗟の聲は国中に溢れた。
★参考文献
ゲオルク・シュタットミュラー『ハプスブルク帝国史』刀水書房1989
江村洋『ハプスブルク家』講談社現代新書1990
江村洋『ハプスブルク家の女たち』講談社現代新書1993
ユネスコ世界遺産センター編『ユネスコ世界遺産10 南ヨーロッパ』講談社1996
地中海学会編『地中海歴史散歩1スペイン』河出書房新社1997
川成洋『図説スペインの歴史』河出書房新社1993
池上岑夫・牛島信明・神吉敬三監修『スペイン・ポルトガルを知る事典』平凡社1992
★Diego Velazquez「Las Meninas」1656
★Diego Velazquez「Margalita Teresa」1656Wien
★「彷徨う狂女フアナ」1877、フランシスコ・プラディーリャ作、プラド美術館
★「フェリペ2世」ティツィアーノ
COPYRIGHT大久保正雄 2001.06.27
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2016年6月 4日 (土)

エル・グレコ 終焉の地トレド、輝ける闇

Ookubomasao36Ookubomasao38大久保正雄『地中海紀行』第12回
エル・グレコ 終焉の地トレド、輝ける闇

夜空を眺めるたびに思い出す。
輝ける闇。トレドの夜空。
紺碧のエーゲ海のように深く、地中海の空のように青い、
エル・グレコの空。城砦と塔が聳える丘の上。
月光は、糸杉の樹林の上に、
エーゲ海の夕暮れと同じように、
ヴェネツィアの夕暮れと同じように、
紺碧の海のように深く、射してくる。
木の葉をわたる風を聴く。悲しみもなく、憂いもなく、
打ち寄せる波もなく、林立する帆船の影もなく。ただ獨り。
大地の香りに包まれながら、見はるかす月光の國を、
純粋な魂となり、涯しなく漂う。

城砦と塔が聳える丘、家々の紅い瓦屋根が見える。ベランダから眺める星空が美しい。
美の判斷基準は、優美(grazia)であり、遠近法による美ではない。より高次な美、見える形として現わされた「精神の美」。内なる魂の美が、炎のように揺らめき燃え上がる。闇のなかに光がある。魂は闇のなかの光。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より

【時が凍りついた都】
 ローマは七つの時代を生きた都であるが、フィレンツェはルネサンスの都であると言われる。フィレンツェはルネサンスで時間が止まった都、15世紀で時間が凍りついた都である。この意味でトレドはフィレンツェに似ている。トレドは16世紀で時間が止まった都である。16世紀、エル・グレコの時代である。
 トレドの迷路を、かつて王と騎士と藝術家が歩いた。アルフォンソ6世とエル・シード。アルフォンソ10世とトレド翻訳學派。神聖ローマ皇帝カルロス5世。この地で1580年フェリーペ2世はエル・エスコリアル離宮のためにエル・グレコに『聖マウリツィウスの殉教』製作を依頼した。天正遣欧使節も歩いた。19世紀、リルケが歩いた。リルケは、迷路の坂道を上り石組が醸しだす精神的な雰囲気に魅了され、詩的霊感を受けた。
 トレドの頂上、アルカサールが見えるホテルで、鷓鴣(perdiz)と玉葱のシチューを食べる。硬い鷓鴣肉と木の實からメセタの自然の香りが立ち昇り、グレコの繪の痩身のカスティーリア貴族を思い起こす。荒涼たる高地(Meseta)の料理。スペイン帝國の榮光と悲惨の時代、痩身の貴族たちもこの料理を食べた。荒涼たる高原、丘の上の城塞都市トレド。

【黄昏の地中海】
 春の午後、マドリードからバルセロナに飛び立つと、飛行機の下にスペインの荒れた大地が見える。果てしなく広がる荒野。スペインの寂寥。乾いた大地、岩肌に、地衣類のように樹木がへばりついている。飛行機の下に灼熱の山脈が見える。イベリア半島は、灼けた赤い大地の上に、孤島のように都市が浮かぶ。人間について、大地が万巻の書より多くを語る。飛行機は地中海の洋上を、夕日を浴びて飛び、バルセロナに向かって旋回する。翼の下に、黄昏の地中海が眩しく輝いている。

地中海の旅人、エル・グレコ
孤独な誇りを以って、花の都を通り過ぎた藝術家エル・グレコ。クレタ島から、地中海を航海してアドリア海の都ヴェネツィアに到り、色彩と線の繪画技法を學び、永遠の都ローマに到達する。ファルネーゼ宮で光に背を向け闇を愛し、人間の涙と苦惱を見詰め、繪に封じ込める。ミケランジェロの壁画を侮蔑したため、ローマ人の誇りを傷つけ、ローマから追われるように、地中海を渡り、スペインに漂白する。神秘の雲が渦巻くトレドに、流れ着く。
宮廷繪師ではなく、スペイン人ではなく、宮廷人でもなく、貴族でもなく、異郷の旅人として漂う雲のように、隔絶された奇人は、工房で繪を生産した。
天と地の隔絶された狭間に屹立する都市、トレドのように。荒野に浮かぶ絶海の孤島トレドで、エル・グレコは、ギリシア語とイタリア語を操り、哲學者のように瞑想した。研ぎ澄まされたエル・グレコの眼。闇の中に燃える炎のような、エル・グレコの繪。永い歳月、忘れられた画家、エル・グレコ。19世紀ロマン主義の藝術家が、忘却の深い淵からエル・グレコを蘇らせた。
トレドの雲は、死せるエル・グレコが今も絵筆をもって天上界から描いている。

『エル・グレコ 同一と変容』マドリード1999
薄暮のマドリード。プラド通りを、獨りで歩いていると、『エル・グレコ』の幟が立ち、旗が林立する。ティッセン・ボルネミサ美術館である。その日は月曜日、休館のはずだが、何故か開いている。『エル・グレコ展』は、地階である。ニューヨーク、ローマ、ブダペスト、プラハ、グラスゴー、ブカレスト、世界中の美術館から、グレコの名作89点が此処に再会している。「クレタ、イタリア、スペイン、三つの時代におけるグレコの同一と変容」が主題である。人生はめぐり合いだが、此処でグレコに邂逅するのは僥倖である。
目に涙を流して痛みを耐えている『十字架を担うキリスト』。天を見上げ目に涙を流す聖者『ペテロ』。涙が溢れ出る『改悛するマグダラのマリア』。感情の激しい流露、悲愴な青い空間のなかで、咽び泣く激情。苦痛と忍耐と血と涙。グレコ繪画の特質である、闇のなかに光を放つ構圖。私はエル・グレコの血と涙を感じる。
『聖家族』のコバルト・ブルーの空。『トレド景観図』の群青の空。獨特のブルーが美しい。トレドの夜空は、大理石の亀裂のような雲が漂う。輝ける闇である。『毛皮の婦人』『聖家族』のマリア。生きているように美しい女性像。心を魅きつけられる美しさである。『毛皮の婦人』この繪のモデルは、エル・グレコの愛人ヘロニマ・デ・ラス・クエバスであると推定される。陽光を浴びる南欧の魅惑的な目の美しい女性である。今は雲が低く垂れ込めたイギリスのグラスゴー美術館が所有している。
『エル・グレコ展』回廊、女性館員が二人でお喋りに熱中している。話しかけると「English No」と答える。撮影許可を求めると、蠱惑的な瞳で「私たちを撮影するの」とほほえむ。カタログを尋ねると、魅惑的な眼差しで「私たちに何か用なの」とまた微笑み返す。情熱の國スペインである。
20世紀最後の『エル・グレコ展』である。20世紀マドリード、『エル・グレコ展』は3回開催された(*1902.1982.1999)。

エル・グレコ 【地中海人列伝7】
1453年ビザンティン帝國が崩壊して、百年の時が流れた。クレタ島の首都カンディア(イラクリオン)は、オスマン・トルコ帝國の征服を免れ、ヴェネツィア共和國の支配下にあった。
スペインで後にエル・グレコ(El Greco. 1541-1614)と呼ばれる、ドメニコス・テオトコプーロスは、クレタ島カンディアで生まれた。父ヨルギはヴェネツィア共和國の税務官であった。ドメニコスは、エーゲ海を航海し1568年27歳の時ヴェネツィアに渡る。2年間ヴェネツィア派の繪画技法を學ぶ。1570年ローマに到着。1576年ローマから地中海を渡りスペインに行く。トリエント公会議(1563)後、對抗宗教改革の時代である。マドリードに滞在。1577年トレドに行く。この頃ヘロニマに出会う。1578年愛人ヘロニマとの間にホルヘ・マヌエールが生まれる。1614年トレドにて死す。

■トレド 1577年
フェリーペ2世率いるスペイン、ヴェネツィア共和國、ローマ教皇の連合艦隊がオスマン・トルコ艦隊を撃破した、レパントの海戰(1571)から六年後、ドメニコスはトレドに來た。繪を描くためである。トレド・カテドラルの『聖衣剥奪』製作の契約を結び、『聖母被昇天』を描く。

■訴訟 1579年
『聖衣剥奪』制作費の報酬をめぐり、トレド・カテドラルに對して訴訟を起こす。以後、繪画制作の報酬をめぐり訴訟を起こすことがドメニコスの日常となる。
いつの頃からか、スペイン人にエル・グレコ、即ちギリシア人と呼ばれるようになる。
エル・グレコは、自ら恃むところすこぶる篤く、裾傲、不遜な知識人である。ミケランジェロを批判しローマから追われるようにスペインに漂着したと言われるが、眞相は謎である。繪画、彫刻、建築に優れトレドにて建築論3巻を書く。孤獨な誇りをもち続け、讀書に耽り、工房で繪を制作する以外は、裁判所で制作費をめぐる多くの訴訟に明け暮れる。

■画家の部屋
仄暗い部屋、外光を遮りカーテンから洩れる、窓の一条の光の下、想いをめぐらす。
エル・グレコは、ヴァザーリ『藝術家列伝』第二版を讀みながら、呟く。
「コンパスを手にして測定するのではなく、視覺によって測ることが大切である。手は働くが、判斷するのは目である。」(ヴァザーリ『藝術家列伝』ミケランジェロ伝)これは正しい。だが、ミケランジェロの色彩は優美さがない。ミケランジェロのヴェネツィア訪問は意味がなかった。フィレンツェ人は盲目だ。だから優れた作品とゴミ屑の区別がつかないのだ。ヴァザーリがどう評価しようとシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」を繪と呼ぶことだけは、できない。あれは絵と呼べるものではない。
美の判斷基準は、優美(grazia)であり、遠近法による美ではない。より高次な美、見える形として現わされた「精神の美」が重要である。内なる魂の美が、炎のように揺らめき燃え上がるのだ。闇のなかに光がある。魂は闇のなかの光である。
藝術家の精神には、神から降って来た燦めき、内なる形があるのだ。藝術には、直感と、見えざる美の閃きが大切である。藝術には神秘の顕現がなければならない。魂の焔は、天に向かって上昇する。火のように、苦痛に満ちた地上の暗闇から光降る空に向かって。
城砦と塔が聳える丘、家々の紅い瓦屋根が見える。ベランダから眺める星空が美しい。

■命果てる時 1614年4月
 アーモンドの花が満開の丘。春の花が咲き亂れる。
 繪の製作を依頼する教会も少なくなり、この丘の上の家を訪れる者も少なくなった。
 我が子ホルヘ・マヌエールは36歳。愛するヘロニマはすでにこの世にいない。我が心をこの地に引き止めるものは最早何もない。
 懐かしいオリーブの丘、夕日に燦めくエーゲ海。紫紺の潮が寄せては返す波打ち際。白い波頭、泡のように溢れる海。眩しい太陽の日差し。みずみずしい果實と豊饒な魚貝類。紺碧の海。
 心は、遥か地中海の彼方、思い出のヴェネツィアを越え、アドリア海を越え、エーゲ海へと誘われる。海の彼方へ。輝く空。光を反射する海へ。ヴェネツィア城砦が見える。潮騒がとどろき、波寄せる碧い海辺、カンディアの町。魂は漂って行く。
 エル・グレコの魂は、大地を超え、海原を越え。エーゲ海のほとり、クレタへと帰る。
 1614年4月7日エル・グレコはこの世を去った。
★参考文献
神吉敬三『プラドで見た夢』小沢書店1980
神吉敬三『巨匠たちのスペイン』毎日新聞社1996
 「エル・グレコと環境 スペインとトレドを中心に」pp.120-141
神吉敬三『カンヴァス世界の大画家12エル・グレコ』中央公論社1982
 神吉敬三「トレドの宗教画家 変転するエル・グレコ像」pp.68-94
M.ドヴォルジャック中山茂夫訳『精神史としての美術史』岩崎美術社1982
Landscapes of Toledo painted by El Greco.1596–1600, oil on canvas, 47.75 × 42.75 cm, Metropolitan Museum of Art, New York)
* El Greco. 4 Feb. to 16 May 1999. Museo Thyssen-Bornemisza.
★糸杉の丘から眺めるトレドの丘
★夕闇のトレド 輝ける闇
★El Greco, Catalogue 1999
★El Greco. 4 Feb. to 16 May 1999. Museo Thyssen-Bornemisza.
★タホ河とサン・マルティン橋
COPYRIGHT大久保正雄 2001.06.27
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2016年6月 3日 (金)

トレド、時が歩みを止めた町

Ookubomasao30Ookubomasao31Ookubomasao32大久保正雄『地中海紀行』第11回
トレド、時が歩みを止めた町

渺茫たる大地、
荒野に聳えるアルカサール、
白銀の輝きカテドラル。
乾いた大地に屹立する城塞都市、トレド。
荒れ果てた大地に孤立する孤島のごとく、
覇権を競う、覇者の榮耀は儚く、
タホ河の濁流に、悠久の時は流れ、
雲は叫び、大地は沈黙する。
赤い瓦屋根が重なり、
アラブの迷路が縦横にめぐる、16世紀の町。
寺院の伽藍の下に、
時は止まる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より

【時が歩みを止めた町】
天と地の間に、絶對の沈黙がある。
風が吹き静寂が支配する丘。荒涼たるスペインの大地。
輝く蒼空が果てしなくつづく、乾いた大地(La Mancha)に対峙する、カスティーリアの荒野。碧空にトレドの雲が咆哮する。愛と復讐の大地、カスティーリア。
地中海文明が流れついた最果ての地。ローマ人が築いた難攻不落の城塞都市トレド。クレタ島から地中海を渡りやって來た内なる炎の画家、エル・グレコ終焉の地。黄金世紀の都。時が歩みを止めた町、トレド。
夕暮の輝ける闇。エル・グレコの輝ける闇。悲愴な美しさを秘めた空に、スペインの悲しみと高貴がある。カスティーリア王國、スペイン帝國の束の間の都。
荒れ果てた大地と絶對王制の下、スペインの貧困がある。飢餓と枯渇の中で、夢見ることなくして、人は生きてゆくことはできない。あらゆる希望が死に絶えた絶望の極み、人は夢見ることなしには、生きて行くことはできない。渺茫たる乾いた大地を、旅する者の寂寥。茫漠たる飢渇した広原の上を流れる、片雲を見つめながら流離う旅人。
太陽の門(Puerta del Sol)をくぐり坂道を上ると、旅人は、四百年前の世界に迷い込む。城門の中には、中世の迷路が張り巡らされている。
4百年の時の流れが止まった町、トレド。

【荒野を旅する者】
荒野を旅する者は、方向を見失わず、生きる意志を持ちつづける精神力が必要である。たとえ幻であっても、崇高な目的を達成するために、自己を信じて生きなければならない。逆境に苦しみ、貧困に喘ぎながらも、崇高な仕事を成し遂げる者は偉大な者であり、眞に英雄の名に値する。弱肉強食の競争社会の砂漠、管理社会の密林のなかで私利私欲を貪る猛獣、官僚主義の狐の餌食となることなく生き抜き、崇高な目的を達成するためには、強靭な意志が必要である。偉大であるためには、あらゆる自分の運を余す所なく利用する術を知らねばならない。
エル・シードは、カスティーリア貴族の嫉妬により、讒言され陥れられ、王の私怨を受け、二度追放刑に処され、故國を追われた。鎧に身を包み、60騎の騎士を率いて荒野を疾駆し、バレンシア・モーロ王國と戰い占領、富と名聲を獲得。宮廷貴族に復讐を遂げた。
緑が萌え出る春、咲き誇るアーモンドの木の下に立ち、思い出す。夢に満ちた時代。今、人生の道半ばにして立ち止まり、静寂のなかで思う。運命に翻弄され苦難に耐え、死の中から蘇る不屈の精神。愛は死よりも強い。

【暁の夢】
春の暁、目覺めると、黎明の空に鳥の囀りが聞こえる。窓から紅い瓦屋根が見える。トレドの頂上、斷崖の上に立つホテル。窓から目の前にアル・カサールが見え、南に糸杉が生える丘が見える。暁の夢の中で私は、イタリアの丘陵にいた。
目覺めたばかりの意識は、記憶の迷路に彷徨う。折り重なる紅い瓦屋根が見える。此処は、中國の古都か、アラブの町か、東洋か西洋か、心は眩惑する。昧爽の空気の中で、記憶の果てに光芒が燦めく。魂の涯てに、思い出す。遠い旅路の記憶。
時は、中世か、20世紀か。魂は、時の迷路を彷徨う。魂は、生と死の秘密を知るために、輪廻転生して探求をつづける。生と死を超えた、果てしない魂の旅。不滅の魂は、生まれ変わり、不屈の意志を成し遂げる。

【トレド史】
紀元前190年、ケルト・イベロ族を征服したローマ人は丘の上に都市を建設し、トレトゥム(Toletum)と名づけた。ローマ帝國以降、16世紀、黄金世紀(Siglo de Oro)に至るまでイベリア半島における多民族が抗爭する舞台となった。
トレドが歴史の舞台に浮上するのは、ローマ帝國末期。397年に第3回司教会議(397-400)が、此処で開催された時からである。トレド教会会議は、西ゴート族支配下のスペインの首都トレドで702年まで18回開かれる。507年イベリア半島の支配権が、ローマからゲルマン人の西ゴート族に移る。西ゴート王アタナヒルド(在位554-567)は560年に宮廷をトレドに定めた。トレドは、711年、西ゴート王國崩壊まで、150年間イベリア全土の政治的中心地となり、聖俗両界に跨って君臨する。
711年、西ゴート王國崩壊。トレドは1031年まで後ウマイヤ朝(756-1031)アル・アンダルスに属する。1085年アルフォンソ6世は、トレド・モーロ王國を包囲して占領。トレドは11世紀末以後、カスティーリア王國領となる。
中世末期から近代初期、トレドはブルゴス、アビラ、セゴビアと並びカスティーリアを代表する都市であった。定まった首都をもたず放浪するカスティーリア王國の宮廷の一時的な滞在地となった。1561年フェリペ2世(1527-98)はそれまでトレドにあった宮廷をマドリッドに移し、二度と戻って來なかった。「16世紀で歩みを止めた町」トレド。
「太陽の沈むことなき帝國」ハプスブルグ・スペイン帝國、ヨーロッパ最強の國の首都となったマドリッドは急速な繁榮を遂げ、トレドは凋落した。フェリペ2世はマドリッドに王宮を建て、マドリッド郊外にエル・エスコリアル離宮、アランフェス離宮を建設、富と権力を誇示した。
1577年、画家エル・グレコがこの都市に住みついた。クレタ島生まれのギリシア人エル・グレコの神秘主義は、荒野に榮える城塞都市トレドで、炎のごとき傑作を殘した。

【傾國の美女】フロリンダ・ラ・カバ
イベリア半島における西ゴート王國は、507年に誕生し711年に滅亡するまで26人の國王が即位した。西ゴート王國滅亡の原因となる傾國の美女の物語がある。
フロリンダ・ラ・カバは、トレドで最も美しい女性であると詩人に歌われていたが、近づくことは至難の技であった。彼女は北アフリカのセウタ総督、ロドリーゴ王の腹心の友フリアン伯爵の娘で、トレドの宮庭に出仕していた。王は好意を抱き、愛人にしたいと申し出ていたが拒否されていた。
ロドリーゴ王(Rodrigo.?-711.在位710-711)は狩の歸り、八月の月の輝く夜、タホ河で若い女性たちが水浴びしているのを見た。そのなかに一人の美しい娘がいた。フロリンダであった。月光の下、フロリンダはタホ河の水で凝脂を洗い、白い膚、綺麗な眸、しなやかな細い腰、閉月羞花、ヴィーナスのような姿は、魂を奪うほど美しかった。
余りにも美しすぎるため、王は、多くの愛人がいるにも拘らず情欲に負け、剣で一撃を加え、娘を気絶させ誘拐した。辱めを受けたフロリンダは腹心の小間使いをセウタに派遣し、父に事件の經緯を知らせた。  フリアン伯爵は、娘の名譽回復を要求し王妃にするよう迫るが、王に嘲笑される。激怒したフリアンは、セウタに戻りイスラーム軍の司令官ターリク・ブン・ジャードと共謀、セウタ城の城門を開き、イスラーム軍がたやすくジブラルタル海峡を渡れるように布石した。このようにしてフリアン伯爵はロドリーゴ王に對する復讐を果たした。
西ゴート王國最後の王ロドリーゴは、711年7月、グアダレーテ河の戦いで味方に裏切られ、最期を遂げる。これが西ゴート王國の滅亡である。

【英雄エル・シード】
カスティーリア王國は、1037年フェルナンド1世(1016-65)の時、レオン王國を継承して一大王國となった。しかし王の死後、遺言によって領土は三人の王子に分割された。サンチョ皇子はカスティーリア國を、アルフォンソ王子はレオン國を、ガルシア王子は、ガリーシア伯領を相續した。が、その結果、兄弟間に領土爭奪をめぐる骨肉の爭いが生じた。
名將エル・シード(El Cid.1043-99)指揮する屈強なカスティーリア軍は、レオン軍を撃破。アルフォンソ6世(1040-1109)は、トレド・モーロ王國へ逃走した。しかし城塞都市サモーラを包囲、攻撃中、サンチョ2世王は謀殺され、カスティーリアは、レオン王アルフォンソ6世を國王として迎えざるを得なくなる。アルフォンソ王は、ガリーシア伯領をも奪い、父フェルナンド1世の遺した領土を再び統一した。1109年まで生涯、カスティーリア・レオン王として君臨し續ける。
エル・シードは、サンチョ王から寵愛を受け、王が弟アルフォンソ王と戰った時には、司令官として見事に勝利した。サンチョ王が謀殺されると、亡き王の寵臣として、アルフォンソ王をカスティーリア國王として受け入れる条件として、王に身の潔白を神の前で宣誓させた。エル・シードは三度潔白を問い、アルフォンソは三度蒼白になった。王は、エル・シードを知恵と勇気に優れた騎士として用いながら、心中深く怨恨をいだく。
1081年、エル・シードは、嫉妬するガルシア・オルドーニュス伯に讒言され、激怒した王はエル・シードを國外追放刑に処した。アルフォンソ王はエル・シードを一度許したが、1089年、激怒した王は再び追放刑に処した。
1094年バレンシア攻略後、エル・シードはアルフォンソ6世に戰利品を献上、王はエル・シードの刑罰を赦す。エル・シードはタホ河に臨む都トレドで王と對面、正式に罪を赦された。
王は、カリオン伯爵公子兄弟の懇願によりエル・シードの娘たちとの結婚の媒酌を申し入れ、二人の娘と公子兄弟の婚礼が擧行される。
だが、バレンシアで、娘婿たちは檻から出た獅子を見て逃げ隠れ、怯懦な性格を見抜かれる。兄弟は深い恨みをいだき、意趣晴らしを企てる。エル・シードの財産を目当てに結婚した彼らは目的を達し、歸國の途につく。コルペスの森の中でカリオンの兄弟は、エル・シードの娘たちを虐待して、私怨を晴らす。二人の肌着は破れ、柔らかな肌が切り裂かれ、絹の薄衣の上にまで、鮮血が滲み出た。姉と妹は胸の中が張り裂け、血潮の吹き出る苦しみに喘いだ。樫の木の森に、瀕死の姿で置き去りにされた息も絶え絶えの姉妹は、薄絹の肌着だけを身につけて、猛禽や野獣の餌食になるのを待つばかりであった。
エル・シードがカリオン兄弟に對して報復する。エル・シードは王に公開裁判を提訴、アルフォンソ臨席の宮廷会議がトレドで召集され、決闘裁判で決着することが決定される。カリオンの沃野、決闘裁判において、三人の騎士たちはカリオンの三兄弟を相手に戰い打ち倒し、エル・シードは名譽を回復した。離婚が成立した二人の娘たちは、アラゴンとナバラの王子たちと再婚。悲運の英雄エル・シードの血は、スペイン王家に流れる。
★参考文献
W・モンゴメリー・ワット黒田壽郎・柏木英彦訳『イスラーム・スペイン史』岩波書店1976
フアン・カンポス・パヨ『魅力の街 トレド』アルテス・グラフィカス・トレド1982
神吉敬三『プラドで見た夢』小沢書店1980
神吉敬三『巨匠たちのスペイン』毎日新聞社1996
長南実『エル・シードの歌』岩波文庫1998
セルバンテス牛島信明訳『ドン・キホーテ』岩波文庫2001
ユネスコ世界遺産センター編『ユネスコ世界遺産10 南ヨーロッパ』講談社1996
地中海学会編『地中海歴史散歩1スペイン』河出書房新社1997
川成洋『図説スペインの歴史』河出書房新社1993
池上岑夫・牛島信明・神吉敬三監修『スペイン・ポルトガルを知る事典』平凡社1992
★夕暮のトレド
★トレド パノラマ
★糸杉の丘から見るアルカサール
★タホ河とサンファン・デ・ロス・レイエス教会
★ラ・マンチャの夕暮
★コンスエグラの丘
COPYRIGHT大久保正雄 2001.05.30
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2016年6月 2日 (木)

塔の中の王女たち、『アルハンブラ物語』

Ookubomasao27Ookubomasao28Ookubomasao26塔の中の王女たち、『アルハンブラ物語』
大久保正雄『地中海紀行』第10回

塔の中の三人の王女たち
ヴェールがほどけ、光り輝く美貌が、
すべての人の眼にあらわになる。
スペイン人の捕虜の騎士たちと三人の王女は恋に陥る。
騎士たちはベルメーハスの塔(朱色の塔)の牢獄に連行、
三人の王女は、ラス・インファンタスの塔の中に囚われる。
恋は越え難い障害と戦う情熱が生み出す歓びの炎。
縄梯子の端をバルコニーに結び、下の花園に吊り下ろし、
二人の王女は胸を高鳴らせて降りる。
一刻を争う時、ソラハイダ姫は、思い惑い、躊躇い、立ち竦み、
ソラハイダ姫は、激しい恋の思いを胸に秘めたまま、若くして死に、
インファンタスの塔の地下室に埋葬。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【ワシントン・アーヴィング『アルハンブラ物語』】
 1829年、作家ワシントン・アーヴィング(1783-1859)は、グラナダを旅した。5月10日から7月29日までアルハンブラ宮殿に滞在した。梟が鳴き、蝙蝠が飛び交い、蜘蛛の巣が張る、荒れ果てたアルハンブラ宮殿、グラナダ総督の部屋に住み6月12日から「果實の間(salla de frutus)」に滞在した。昼夜、アルハンブラの部屋から部屋をさまよい歩き、塔に昇り、庭園を眺め、執筆に耽った。月下の宮殿に魅惑され、失われた時と現在の狭間を往き來し、幻想と現實の間を彷徨い歩いた。アーヴィングは1832年『アルハンブラ物語』を出版、世界中の讀者を魅了する(第2版1851)。夢の魅惑が人々の心を捉えた。『アルハンブラ物語』は、自己を見失ったアーヴィングが過ぎ去った世界に彷徨うことにより、失われた自己の愛を探す心の旅である。この書物は、孤獨な旅人による「失われた時への旅」である。

【塔の中の美しい王女たち】
 ムハンマド9世(在位1419-27,30-31,32-45,47-53)は、左利きのため、またすることなすこと思いどおりに行かない、悲運に見舞われ續けた。それ故「左利き王」と呼ばれた。左利き王は、三度グラナダ王の王位から追放され、三度復位した。逆境から知恵を學ぶことが下手で、左手の武力に物を言わせようとし直情径行、強引な性格であった。
 左利き王は、捕虜として囚えられた敵將の娘であるスペインの貴婦人に心魅かれ、后にした。このスペイン人の貴婦人との間に、三つ子の娘が生まれ、サイーダ、ソライダ、ソラハイダと名づけられた。王は、占星術師を招いた。占星術師たちは「三人の王女は危険な星の下に生まれた。妙齢期には監視を怠りなく手許から放さぬように。」と予言した。
 王は、地中海を眼下に見わたす丘の頂きに築かれた堅牢無比の砦、サロブレーニャ城に、王女たちを閉じ籠めた。紺碧の空の下、地中海の海原を見わたす斷崖の上の離宮で、三人の王女は、息を呑むほど美しい乙女に成長した。ある日、王女たちが白い波が打ち寄せる砂浜を見下ろす望楼の窓から海を眺めていると、キリスト教徒の捕虜が引き立てられ、降り立った。捕虜の中に、立派な身なりのスペイン人騎士が三人いた。鉄鎖に繋がれていたが、花のように誇り高く、優雅で気品のある顔立ち、高貴な気性が全身に溢れ出ていた。三人の王女の胸が熱く高鳴った。娘たちに危険が迫ったことを知らされた王は、三人の王女をアルハンブラの塔に住まわせるために、自ら護衛隊を率いてサロブレーニャ離宮から、グラナダへの歸還の途上、捕虜を連行する部隊に出会った。左利き王は怒り狂い、新月刀を引き抜き、立ち尽くしている三人の騎士に一撃を加えようとした。この時、三人の王女のヴェールがほどけて、光り輝く美貌が、すべての人の眼にあらわになった。三人の王女の美貌が魔力を発揮するに十分な時間であった。騎馬隊は捕虜の騎士たちをベルメーハスの塔(朱色の塔)の牢獄に連行し、三人の王女たちはラス・インファンタスの塔の中に匿まわれた。
 スペイン人の捕虜の騎士たちと三人の王女は恋に陥った。「恋は越え難い障害と戦う情熱が生み出す歓びの炎である。恋は、最も枯渇した大地に、最も根づよく生い茂る。」
 ある眞夜中、縄梯子の端をバルコニーに結び、下の花園に吊り下ろし、二人の王女は胸を高鳴らせて降りたが、一刻を爭う時に、ソラハイダ姫は、思い惑い、躊躇い、立ち竦み、降りることはできなかった。二人の王女は、コルドバに辿り着き、騎士たちと結婚した。ソラハイダ姫は、恋の思いを遂げず、踏み止まったことを悔やんだ。嘆きの調べを奏でる恨みのリュートの音が、いつまでも塔から聞こえた。
 ソラハイダ姫は、恋しい思いを胸に秘めたまま、若くして死に、インファンタスの塔の地下室に埋葬された。今も塔の下にはソラハイダ姫の死體が埋まっている。(cf.『アルハンブラ物語』28)

【塔の中の王妃】
 ムレイ・アブール・ハッサン王(在位1464-82,82-85)は、「王妃アイシァが王を追放して、息子を王位に就けようと陰謀を企てている」という讒言を耳に吹き込まれた。王は激怒して、王妃アイシァとその子 (ボアブディル=ムハンマド11世)をコマレスの塔に閉じ込め、「ボアブディルを生かしておかぬ」と口走り罵った。深夜、王妃アイシァは、自分と侍女たちのスカーフをつなぎ、塔のバルコニーから王子を吊り下ろした。王妃に忠誠を誓う騎士たちが、駿馬を用意して待ち受け、王子を救出しラス・アルプハラス山中に連れ去った。
 ムレイ・アブール・ハッサン王はこれを知り、アベンセラーヘ家の36人の騎士たちを、アルハンブラの広間に召喚し、獅子の中庭で斬首し虐殺した。大理石の噴泉から流れる水が鮮血で紅く染まりつづけた。アベンセラーヘ家の悲劇である。(cf.『アルハンブラ物語』15)
 1491年カスティーリア・アラゴン連合王國はグラナダを包囲。ムハンマド11世は1492年1月2日降伏する。最後の王は、涙の丘から失われたアルハンブラを返りみて涙を流した。
★参考文献
W・モンゴメリー・ワット黒田壽郎・柏木英彦訳『イスラーム・スペイン史』岩波書店1976
イブン・ハズム黒田壽郎訳『鳩の頸飾り―愛と愛する人々に関する論攷』(イスラーム古典叢書)1978
ワシントン・アーヴィング平沼孝之訳『アルハンブラ物語』上・下 岩波文庫1997
神吉敬三『巨匠たちのスペイン』毎日新聞社1996
 「スペイン的空間感情の特質」pp.68-90「アルハンブラ」pp.91-118
安引宏・佐伯泰英『新アルハンブラ物語』新潮社1991
陣内秀信『都市の地中海 光と海のトポスを訪ねて』NTT出版1995
堀田善衛「グラナダにて」『すばる』1989年1月号 集英社
ユネスコ世界遺産センター編『ユネスコ世界遺産10 南ヨーロッパ』講談社1996
地中海学会編『地中海歴史散歩1スペイン』河出書房新社1997
川成洋『図説スペインの歴史』河出書房新社1993
池上岑夫・牛島信明・神吉敬三監修『スペイン・ポルトガルを知る事典』平凡社1992
★ヘネラリーフェ離宮 アセキアの中庭
★天人花の中庭
★天人花の中庭 採光窓
COPYRIGHT大久保正雄 2001.04.25

2016年6月 1日 (水)

グラナダ アルハンブラの残照

Ookubomasao25Ookubomasao26大久保正雄『地中海紀行』第9回

早春の黄昏はアルハンブラを思い出す
糸杉が聳え立つ丘の上の城砦、アルハンブラの紅い塔群
シエラ・ネバダの白銀の嶺々から流れる清冽な水
獅子の中庭に、黄昏の光が満ちる時

微風に香る、昧爽の天人花の中庭
糸杉薫る離宮、ヘネラリーフェの中庭
花盛りの森から、花の香りが溶けあい立ち昇る

憂いにみちたグラナダのアラブ王は、美的洗練を極める
絶望の果てに生まれた、美の王國、アルハンブラ
闇が深ければ深いほど、星は輝きを増す。
苦惱と忍耐の歳月が、輝ける復讐の時を美しくする。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【地上の樂園】
 闇が深ければ深いほど、星は輝きを増す。苦惱と忍耐の歳月が、輝ける復讐の時を美しくする。強國の武力に屈し、忍従と屈従的軍務に服する風雪の歳月。イベリア半島に孤立する王國グラナダ。斷崖の上に立つ城砦アルハンブラに、閉ざされた宮殿。征服の野心はすでに遠い過去の夢となり、庭園の花の香りに包まれて、王は詩の王國に君臨する。
 苦難を耐え忍び、屈辱に塗れ、憂いのはてに死を思いながら、希望を持ち續けるためには、人は内なる樂園を作らねばならない。例えばそれは、復讐の夢、異國の安住の地、涯てしない旅、地中海の隠者の島、旅路の果てに愛する人と再会することである。

【花吹雪】
 花吹雪吹き、花びらが舞い、沈丁花、石楠花、牡丹櫻、木蓮の花の香りが溶けあい、風にただよい流れて來る。孤塔に閉じ籠もり花吹雪を眺めながら、日が昏れるまで、書物を讀み執筆していると、黄昏刻、斷崖の下に花の香りが立ち罩め、私は早春のグラナダ、花ざかりの森を思い出す。
 あらゆる努力を盡くし、最善を盡くしても、努力が稔らぬ時、魂は絶望に襲われる。絶望は癒し難い心の傷であり、絶望の淵に沈む時、人は死の淵に佇んでいる。絶望、それは死に至る病である。死の淵から立ち上がり、蘇るためには、人は聖なる地に赴き生贄をささげねばならない。そして、呪われた地に行き、死闘を繰り広げねばならない。
 しかし復讐を遂行することができぬ時、薫香漂う樹林の午後、暁闇のパティオの花園を逍遥する逸樂の日々がある。優雅な生活が最高の復讐である。
 ユースフ1世は、庭園の人であった。外界から閉ざされた空間、書庫の暗闇、詩の王國、そして美しい庭園の中に生きた。ユースフ1世とその子ムハンマド5世は、アルハンブラの美的洗練を極めた。
 この現身の人生は一度しかない。生きる樂しみを追求しなければ生きる価値がない。自己が眞に愛するものを追求することが眞實の樂しみであることをグラナダのアラブ王たちは知っていた。勝利と名譽と榮光を追求することは、虚榮の快樂である。
 生きる歓びが溢れるほど、生の限界である死を深く意識する。死を意識すればするほど、生きる歓びは深くなる。限りあるいのちをもって、限りない世界を探求することは不可能である。しかし限りあるいのちであるからこそ、美しいもの、自己が眞に愛するものを探求する樂しみに、人は命を燃やして止まない。
 地中海人はこのことを深く知っている。地中海をのぞむ、ギリシアのカフェ、トルコのチャイハネ、シチリア島のバールで、一日中、海を眺めながら、何もせず無為の逸樂を樂しみ、語り合っている地中海人たち。アンダルシアの木蔭で午睡(siesta)にまどろむアンダルシア人。そこには、庭園を散歩するグラナダの王のような人生の樂しみがある。

【グラナダ 落日の王國】
 グラナダ(Granada)は、アラビア語で「柘榴の實」を意味する。ローマ帝國時代、丘の上に城砦を築き、城塞都市として誕生した。1236年コルドバがカスティーリア軍に攻撃され陥落。以後、ナスル朝(1230-1492)グラナダ王國の首都として榮華を極める。イベリア半島におけるイスラーム最後の牙城である。
 グラナダ王國は、その成立の初期から薄氷を踏む勢力均衡の力學の上に成り立つ。グラナダの王と妃たちは、終末の宴を樂しむように、滅亡の予感を感じながら、閉ざされた樂園のなかで逸樂の日々を過ごした。ムハンマド1世朱髭王(1195-1272)は、カスティーリア王國と屈辱的な条約を結ぶことにより、グラナダを危機から救ったが、朝貢と軍事的協力を強いられ、イスラーム國であるセビリア包囲戰に參戰し、凱旋の時の歓呼に応え、血を吐く一言を殘す。「神のみが勝利者である」。以後この語句はアルハンブラの壁に刻まれる。かくて、惱める王國グラナダの苦惱を深めることになる。
 ユースフ1世(在位1333-1354)による、美的趣味の飽くことなき探求の果て、アルハンブラに優雅な裝飾藝術の極致が生みだされた。詩人イブン・ザムラクの詩句が獅子の中庭に刻まれている。「この比類ない美しさに匹敵するものを見いだすことはアッラーでも難しいだろう」
 ユースフ1世は、「コマレス宮」「裁きの門」「囚われの貴婦人の塔」を建て、その子ムハンマド5世(在位1354-1359,1362-1391)は、「獅子宮」「獅子の中庭」「祝福の間」「コマレス宮ファサード」を建てた。
 美的洗練を極めた宮殿、洗練された夢幻の空間の彼方、城壁の彼方には、敵對するキリスト教國の猛禽のごとき眼差しがある。

【アルハンブラ宮殿】
 紅い丘の上に立つ城砦。斷崖の上にアルハンブラ宮殿がある。アルハンブラ(Alhambra)は、紅い岩山に築かれたので、この名(al-Hamra.赤きもの)がある。
 城壁に囲まれたアルハンブラ(Alhambra)には七つの宮殿があった。今、殘るのはコマレス宮、獅子宮、パルタル宮、ヘネラリーフェ離宮のみである。宮殿の中に8つのパティオがある。獅子の中庭、天人花の中庭、リンダラハの中庭、マチューカの中庭、マドラシャの中庭、無花果の中庭、アセキアの中庭、王妃の糸杉の中庭。東の外れに、夏の離宮ヘネラリーフェがある。
 丘の上に立つアルハンブラは、15の塔をもつ。朱色の塔、七層の塔、王女たちの塔、囚われの貴婦人の塔、パルタル宮貴婦人の塔、コマレスの塔、忠誠の誓いの塔、貴紳の塔、武人の塔、王妃の塔、夜警の塔、盾の塔、罅割れた塔、見晴しの塔、見張りの塔。聳えたつ塔に立ちシエラネバダの微風に吹かれながらヴェガ(沃野)を見下ろすと、花盛りの森がある。
 アルハンブラは、華麗なアラベスク模様の裝飾が至るところに施され、多くの部屋が迷路のように、配置されている。
 脆く儚い王朝の礎の上に、滅びゆく束の間の時を愛惜するように、華麗な藝術の花を咲き誇るアルハンブラ。王は、詩を作り、學問に惑溺し、美的趣味の極致、洗練された藝術的美、裝飾的樣式美を、その極限まで追求した。中庭に咲く花々、立ち昇る薫香の香、リュートを奏でる美しい王女。透かし彫りの窓を通して空間に蔭る光。微光の中で繰り広げられる逸樂の日々。閉ざされた地上の樂園アルハンブラ。その繊細華麗な美しさは、憂いが漂う殘照の美しさである。

【獅子の中庭】
 獅子の中庭は、124本の大理石の細い列柱が立ちならぶ回廊に囲まれている。中庭には12頭のライオンが雪花石膏(alabaster)の水盤を支え、静寂の中に、シエラネバダの嶺から流れる水を湛える噴水が、微かな音を立てながら湧き流れる。
 「獅子のパティオ」を中心として、椰子の樹に喩えられる列柱、その周囲に「諸王の間」「モカラベの間」「二姉妹の間」「アベンセラーヘの間」が配置され、「天人花のパティオ」を中心として「コマレス宮」「祝福の間」「玉座の間」が配置されている。建築家は、沈鬱なアラブ王の心を慰めるために、眼を愉しませる庭園を築いた。
 「建築と自然の調和」を課題として取り組んだイスラーム建築は、光が降る中庭とそれをかこむ建築から成り立つ。水が湧き流れ、樹蔭が織り成す光と影。パティオには、柘榴、石楠花、糸杉、天人花、オレンジ、花と香りと、地上のいのちが満ち溢れる。アルハンブラは「水と光の宮殿」「閉ざされた樂園」と呼ばれる。洗練を極める「光と影の空間」である。
 薫香燻ゆる広間、絹の絨毯、リュートを奏でる美しい王女。透かし彫りの扉と採光窓から射し込む微光。旅人は、時の迷路に迷い込み、幻想と現實との境に時を忘れる。時が織りなす光と影の狭間から、苦惱と絶望にみちたアラブ王の溜息が聞こえる。
 現身の王國は敵對する異教の國々の中で孤立し、屈辱的な条約の締結を余儀なくされ、合従連衡に明け暮れる日常。存亡を賭けて戰いつづけた戰士たち。對應に苦慮する王は、學藝に没頭し、美の王國に耽溺する。
★アルハンブラ宮殿 諸王の間
★獅子の中庭
★天人花の中庭
COPYRIGHT大久保正雄 2001.04.25

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