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2016年6月14日 (火)

イスタンブール 時を超える旅 3つの帝国の都

Ookubomasao66Ookubomasao62大久保正雄『地中海紀行』第21回1
イスタンブール 時を超える旅 3つの帝国の都

ローマ帝国、ビザンティン帝国、オスマン帝国の都。イスタンブール

オリエントの香り高い、妖艶な舞い。
美しい眸、細い腰、綺羅びやかな薄絹を翻す、
艶麗な美女、黄金の膚。
宮廷の美しい奴隷、エジプト王宮の舞姫、砂漠の舞い。
禁斷の後宮、幽閉された美しい姫。
失われた時の輝き。

失われた古代の圖書館。燃え上がり灰燼に帰した万巻の書物。
アレクサンドリア、ペルガモン、エフェソス、アテナイ。
燃え尽き、二度と歸らぬ時間。
大理石の礎石すら残らぬ、アレクサンドリア圖書館。

生贄を獻げる、至聖所、足を踏み入れてはならぬ地。
生まれ變り、いのちを賭けて、燃えあがる、
不滅の愛。地の果て、至上の時。
糸杉に囲まれた至高の地、
海を見下ろすアクロポリスの丘。砂塵舞う大地の彼方、
光る海の彼方、時の彼方。

旅立とう、幻の都を求めて、
時を超える旅に。
愛する人の面影を探して、時を超えて、生と死を超えて、
愛は蘇る。幻の聖域。アクロポリスの丘。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

イスタンブール史
『地中海都市 時を超える旅』
地中海と黒海を結ぶ、ボスポラス海峡に突き出た岬の丘の上。アクロポリスの丘にギリシア人が築いたポリス。海に囲まれ、古代ギリシアの城砦に囲まれたビュザンティオン。
ビュザンティオンは、歴史の運命の波間に翻弄され、浮沈し、また權力をもつ者の運命を操った。4つの時代を生きた都市イスタンブールは、二千年の歴史の激流を生きた、比類なき都である。
【古代ギリシア時代】
黎明期、紀元前7世紀(BC.667.660.657)、ギリシア人が築いた都市ビュザンティオンは、メガラの植民都市であった。メガラ人はデルフォイの神託に「最もよい植民地はどこか」と尋ねた。神託は「盲者の都市の對岸に都市を建てよ」と應答した。探索の末、メガラ人は、この地を選び丘の上に城砦を築いた。古代ギリシア人は、美しい地を選んで、丘の上に、神殿と劇場とポリスを建てた。ギリシア人の選択能力が高いことは、タオルミナ、セジェスタ、シュラクサイ、多くの例によって立証される。(cf. N.M.ペンザー『トプカプ宮殿の光と影』)
この都は、戰略上の拠点、東西南北、海陸の交通の要衝にあり、後に「黄金の角」(豊饒の角Golden Horn)と呼ばれる港をもち、豊かな地にあった。このため、絶えず侵略者の心を惹きつけた。
紀元前6世紀アケメネス朝ペルシア、ダレイオス1世(BC.521-486)治下総督オタネスが征服、支配した。紀元前479年プラタイアイの戰いの後、紀元前478年スパルタ王パウサニアスは、ペルシアから奪還する。紀元前408年アテナイ、ビュザンティオンを奪回。紀元前5世紀ビュザンティオンは動揺期に入る。アテナイとスパルタが天然の良港をもつこの地の領有をめぐり爭い、またロドスが支配した。アテナイ、スパルタ、ロドス、ギリシア都市の權力の狭間で翻弄される。
紀元前340年マケドニア王フィリッポス2世は、ビュザンティオンを海上から包囲する。しかしアテナイ軍がマケドニアに宣戦布告、救援に來る。339年フィリッポスは、アテナイとビュザンティオンで戰い破れ、攻囲を解く。紀元前334年マケドニアから東方遠征の旅に出た、アレクサンドロス3世(BC.356-323.在位BC.336-323)は、22歳の時ヘレスポントス海峡(ダーダネルス海峡)を渡り、その4年後、ダレイオス3世と戰いアケメネス朝ペルシア帝國を滅亡させる。紀元前333年ビュザンティオンは、アレクサンドロス帝國の支配下に入る。アレクサンドロス死後、帝國のディアドコイ(後継者)戰爭を經て、紀元前4世紀以後、スキタイ人、ガリア人、ロドス人、ビテュニア人が侵寇、破壊を蒙る。

【ローマ帝國時代】
ローマ帝國時代、帝國の支配下に置かれた後、ビュザンティオンは獨立する。だが、ローマ皇帝セプティミウス・セヴェルス(193-211)とスペケンニウス・ニゲルとの戰いで、ビュザンティオンは皇帝の敵を支援する。193年皇帝セヴェルスに抵抗、皇帝が包囲を開始する。196年ビュザンティオンは3年間籠城した末、セヴェルス軍により占領され、徹底的に破壊される。セヴェルスは、この地に宮殿、劇場、浴場、競馬場(ヒッポドローム)を建て、セヴェルスの城壁を築く。
322-3年、コンスタンティヌス帝はリキニウス帝との戰いの時、この地を軍事拠点にした。324年11月4日コンスタンティヌス帝は、ビュザンティオンをコンスタンティノポリス(コンスタンティヌスの都)と名づけ、ローマ帝國の首都とする。330年5月11日、コンスタンティヌス帝は、街を聖母マリアに捧げ、献都式を擧行する。ローマからこの地に帝都を遷す。コンスタンティヌス帝は、セヴェルス帝の城壁の外側に大城壁を築き、宮殿、広場(forum)、元老院、神殿を建てた。378年ヴァレンス帝(在位364-378)は水道橋を築く。390年テオドシウス1世は、凱旋門「黄金の門」を建てる。競馬場(ヒッポドローム)の中央分離帯にエジプトから運ばれたオベリスクが置かれた。テオドシウスのオベリスクは、エジプト最大の版圖を築いたトトメス3世がカルナック、アメン神殿に建てたものである。
395年テオドシウス1世は、帝國を2分して2人の息子に継がせた。ローマ帝國は東西に分裂した。コンスタンティノポリスを帝都とする東ローマ帝國を統治したのはアルカディウス帝(在位395-408)である。その子テオドシウス2世はコンスタンティヌスの城壁の外側に城壁「テオドシウスの城壁」を築き、ビュザンティオンは、難攻不落の城塞都市へと変貌を遂げる。コンスタンティノポリスは、ローマ帝國分裂後、ビザンティン帝國の帝都、地中海世界の中心として榮える。

【ビザンティン帝國時代】
ビザンティン帝國とは、後世の歴史家による名称である。中世ギリシア人による、ローマ帝國を継承する國家であり、キリスト教を奉じた。自らをローマ人(Rum,Romeioi)と名のり、正式國名をローマ帝國と呼んだ。最盛期は、ローマ皇帝ユスティニアヌスの時代である。
ビザンティン帝國の始まりをいつとするか、諸説がある。一、330年5月11日、コンスタンティヌス帝がコンスタンティノポリスを帝都とした時。二、395年1月17日テオドシウス1世の死によりローマ帝國東西に分裂した時。三、476年9月4日西ローマ帝國が滅亡した時。四、ローマ皇帝ユスティニアヌス(483-565在位527-565)死後、ギリシア語が公用語とされた7世紀。
7世紀以後ギリシア語が公用語とされ、支配階級はギリシア人でギリシア語を話したが、支配階級は僅かであり、ビザンティン帝國は多民族、多言語國家である。
教皇インノケンティウス3世が第4回十字軍(1202-04)派遣を勅命し、ヴェネツィア総督ダンドロは、艦隊を率いてコンスタンティノポリスを占領、ラテン帝國(1204-61)を建國した。リュシッポス作の青銅の馬は、ヴェネツィアに持ち去られ、今もなおサンマルコ聖堂玄関にある。ミカエル8世パライオロゴスがコンスタンティノポリスを奪還するまで、57年の歳月を要した。だが帝國の榮光は再び蘇ることはなかった。
最後の皇帝コンスタンティノス11世パライオロゴスは、コンスタンティノポリス陥落の時、戰亂の中、消息を絶った。

【オスマン帝國時代】
1453年5月29日、オスマン・トルコ帝國のスルタン、メフメト2世がコンスタンティノポリスを征服。この地はイスタンブールと呼ばれる。1922年トルコ共和國が誕生するまで、この地をオスマン・トルコ帝國が支配する。スレイマン1世(1494-1566)の時、オスマン帝國史の頂点に到達する。16世紀ヨーロッパは、オスマン帝國とハプスブルク帝國の對決の時代である。16世紀、地中海はスレイマンの海と呼ばれる。
スレイマン1世の寵愛する妃ロクセラーナはハーレムに移住し、以後メフメト4世の母タルハンが死ぬまで150年間、ハーレムが帝國を支配する。晩年のスレイマン1世、セリム2世、ムラト3世(1574-95)、メフメト4世は、寵妃に翻弄される。ムラト3世(1574-95)の第一皇妃、ベネツィア人の美女サフィーは、美貌と知性で、ムラトの心を奪い一人の女性もスルタンの寝室に近づけさせなかった。1595年、策を講じてメフメト3世の弟19人を殺させて、人々を震撼させた。彼女は太后の地位を手中にした。帝國の統治はサフィーの掌中に委ねられた。或る日、サフィーは寝台の上で首を締められて死んだ。ハーレムは帝國を操る女たちの策謀と嫉妬が渦巻く。
トプカプ宮殿、王子の幽閉所(鳥籠)で育った、異常なスルタンたちが生まれた。イブラヒム1世は二歳から幽閉され、オスマン3世(在位1754-57)は50年間、スレイマン2世(在位1687-91)は39年間幽閉された。例えば、イブラヒム1世(1640-48)は帝國の統治者であるにもかかわらず、邪悪、我儘、殘忍、貪欲にして、臆病な人間であり、殘虐行為を行うに至り、帝國は袋小路に迷いこむ。

【海峡をめぐる戰い】
斜陽のオスマン帝國は、1853年クリミア戰爭、1876年露土戰爭で、ロシアと戰いこれを破る。ダーダネルス海峡、ボスポラス海峡の支配をめぐる戰いである。海峡は、黒海と地中海を結ぶ通商路として海上の要衝であるためロシアが狙ったのである。1912年第1次バルカン戰爭でトルコはバルカンと戰って敗れ、イスタンブールを除くヨーロッパ領とクレタ島を失う。
1914年10月29日トルコ第1次世界大戰に参戰。1915年3月18日英仏連合艦隊、イスタンブール占領を目ざしダーダネルス海峡に侵入。1916年1月英仏連合艦隊、ダーダネルス海峡を撤退。この海峡防衛の戰いを指揮したのがケマル・パシャである。ケマルは「首都の救い主」と呼ばれ英雄となる。だが1916年6月アラビアのロレンス率いる砂漠の反亂が始まる。1918年10月30日トルコ降伏。1922年オスマン・トルコ帝國滅亡。民族の危機を救ったケマルはトルコ共和國を建國する。「第一次世界大戦の敗北はトルコ帝國の永遠の日没だと世界の人々は思った。だがそれはトルコの新たな夜明けであった。」(cf.大島直政『トルコ歴史紀行 文明の十字路4000年のドラマ』)
ギリシアは1821年オスマン・トルコ帝國に對して獨立戰爭を開始、11年にわたり戰い、1832年獨立。ギリシアにおけるオスマン帝國支配四百年の暗黒時代の終焉である。1913年クレタ島がギリシアに復歸する。ドデカニサ諸島、ロドス島が、イタリア支配を經て、ギリシアに歸属するのは、1948年である。
イスタンブールは、ヨーロッパとアジアの十字路にあり、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡を支配する要衝であるゆえに、榮華を極め、そして權力をもつ者を惑わせ續けるであろう。

【ビザンティン帝國時代】
ビザンティン帝國とは、後世の歴史家による名称である。中世ギリシア人による、ローマ帝國を継承する國家であり、キリスト教を奉じた。自らをローマ人(Rum,Romeioi)と名のり、正式國名をローマ帝國と呼んだ。最盛期は、ローマ皇帝ユスティニアヌスの時代である。
ビザンティン帝國の始まりをいつとするか、諸説がある。一、330年5月11日、コンスタンティヌス帝がコンスタンティノポリスを帝都とした時。二、395年1月17日テオドシウス1世の死によりローマ帝國東西に分裂した時。三、476年9月4日西ローマ帝國が滅亡した時。四、ローマ皇帝ユスティニアヌス(483-565在位527-565)死後、ギリシア語が公用語とされた7世紀。
7世紀以後ギリシア語が公用語とされ、支配階級はギリシア人でギリシア語を話したが、支配階級は僅かであり、ビザンティン帝國は多民族、多言語國家である。
教皇インノケンティウス3世が第4回十字軍(1202-04)派遣を勅命し、ヴェネツィア総督ダンドロは、艦隊を率いてコンスタンティノポリスを占領、ラテン帝國(1204-61)を建國した。リュシッポス作の青銅の馬は、ヴェネツィアに持ち去られ、今もなおサンマルコ聖堂玄関にある。ミカエル8世パライオロゴスがコンスタンティノポリスを奪還するまで、57年の歳月を要した。だが帝國の榮光は再び蘇ることはなかった。
最後の皇帝コンスタンティノス11世パライオロゴスは、コンスタンティノポリス陥落の時、戰亂の中、消息を絶った。
★参考文献
渡辺金一『コンスタンティノープル千年 革命劇場』岩波新書1985
井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書1990
鈴木薫『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書1992
鈴木薫『図説イスタンブル歴史散歩』河出書房新社1993
澁澤幸子、池澤夏樹『イスタンブール歴史散歩』新潮社1994
坂本勉『トルコ民族主義』講談社現代新書1996
陳舜臣『世界の都市の物語イスタンブール』文藝春秋1992
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
日高健一郎、谷水潤『建築巡礼17 イスタンブール』丸善株式会社1990
大島直政『トルコ歴史紀行 文明の十字路4000年のドラマ』自由国民社1986
N.M.ペンザー岩永博訳『トプカプ宮殿の光と影』法政大学出版局1992
クリス・スカー著、青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社1998
C.M.ウッドハウス西村六郎訳『近代ギリシア史』みすず書房1997
鈴木八司『王と神とナイル 沈黙の世界史2』新潮社1970
大久保正雄COPYRIGHT2001.11.28
★カッパドキア
★Suleymaniye Mosque

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