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2016年6月12日 (日)

コンスタンティノープル陥落、メフメト2世、オスマン帝国の都

Ookubomasao56Ookubomasao62Ookubomasao57_2大久保正雄『地中海紀行』第20回1
イスタンブール オスマン帝国の都1
コンスタンティノープル陥落、メフメト2世、オスマン帝国の都

奇策、オスマン艦隊の陸越え。
1453年、メフメト2世、コンスタンティノープル陥落。
地中海の覇権を賭けて對決する。
コンスタンティノープルは、3重の城壁と海で囲まれた難攻不落の城塞。
包囲戰の時、オスマン艦隊を、ボスフォラス海峡からガラタ地区の後方の丘を越えて、梃子ところを使って金角灣に陸から送り込む。
メフメト2世、兄弟殺しの法 皇位継承争いの芽を摘む。
メフメト3世、鳥籠制、鳥籠に幽閉された皇子。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

【トルコ民族】
トルコ族の容貌をいかにして識別することができるのか。
原テュルク(Turk)族は、蒙古高原を原郷とする蒙古人種である。しかしユーラシア大陸に広がり民族拡散の末、イラン語派、スラヴ語派、ギリシア語派、ウラル語派、アラブ族、他と混血し、多様な肉体的特徴を形成するに至る。
トルコ語は、アルタイ語族に属する言語であり、モンゴル語、ツングース語と兄弟関係にあり、ウラル語族と親縁関係をもつ。印欧語でなく、セム・ハム語族でもなく、東洋系言語である。トルコ語派には、アゼルバイジャン語、ウイグル語、などが属する。
オスマン時代、支配階級はテュルク族であるが少数であり、多民族、多宗教、多言語の「共存の原理」の上に、オスマン帝國は成立した。

■オスマン帝國
オスマン・トルコ帝國(1299-1922)は、中央アジア、蒙古高原から移住したテュルク族によって建國された。正式名称はアーリ・オスマン(Ali Osman=オスマンの家)。公用語はオスマン・トルコ語。表記はオスマン時代においてはアラビア文字である。アッバース朝、ビザンティン帝國の系統を引く官僚組織による中央集権制、被支配民族の宗教的・社会的自由を容認する柔軟な統治、門閥を許さない能力主義が15、16世紀最盛期における統治システムの特徴をなす。「柔らかい専制」「種族を超える能力主義」が、オスマン帝國統治の特質である。
1354年ビザンティン帝國の内紛に乘じ、バルカン半島に侵略。61年アドリアノポリスを征服、バルカン半島征服への拠り所とし、1389年コソボの戰い、1396年ニコポリスの戰い、1444年バルナの戰いにより、バルカン半島の諸民族を撃破、ブルガリア、北部ギリシア、セルビアを掌中に収める。1453年コンスタンティノープルを陥落、ビザンティン帝國を滅亡させる。15世紀末、ボスニア・ヘルツェゴビナ、アルバニア、ルーマニア、ギリシアを帝國に吸収する。1517年エジプトを征服、アラビア半島のメッカとメディナの2大聖都を支配下に収める。オスマン帝國は、シーア派を除く、全世界のイスラーム教徒の盟主となり、支配者スルタンは同時にカリフとしての属性を獲得する。1521年ベオグラード征服。1526年モハーチの戰いでハンガリーを撃破、領有。1529年、ウィーンを包囲、攻撃。ヨーロッパを震撼させる。だが1571年レパントの海戰で敗れ、ヨーロッパの反撃の前にオスマン帝國の進撃は止まる。
オスマン帝國の統治は中央集権制であるが、中核をなす高級官僚はデウシルメ制を通じて徴用されたギリシア人、セルビア人、ボスニア人、クロアチア人、アルバニア人等、異教徒・異民族出身の宮廷奴隷によって占められた。

■メフメト2世
ムラト2世の王子メフメトは、1451年2月18日、オスマン朝第7代スルタンとして即位。メフメト2世(1432-81.在位1444-1445.1445-1446.1453-1481)となる。メフメト21歳の時である。征服者(ファーティヒ)と呼ばれる。宮廷奴隷とトルコ貴族の派閥抗爭のなか、コンスタンティノープルの陥落を遂行する。以後、スルタン直属の宮廷奴隷出身の大宰相を登用し、専制君主を戴く官僚制國家を作り上げる。
コンスタンティノープル征服後、ザガノス・パシャが大宰相に起用され、以後、異教徒異民族出身、奴隷として宮廷で養育されたスルタンの側近によって占められる。バヤズィット1世が兄弟殺しを始めた頃から、オスマン家一族による支配から、君主個人の意思により支配される専制国家へと変質した。君主一身に専属的に隷属する奴隷たちが重用された。
1465年メフメト2世はトプカプ宮殿建設を開始し、1478年に完成した。
オスマン帝國は、1456年フィレンツェ人が支配していたアテネを征服。1462年ワラキア君候國の暴虐な君候・串刺し候ヴラド・ツェペシュ(ドラクール・オウル)が没落し、同國を支配。バルカン半島を支配下に置く。
メフメト2世は、ペロポネソス半島の大部分を占領、アドリア海の支配権をめぐりヴェネツィアと戰った。
激しい気性、合理的精神に裏づけられた決斷力、學問・藝術に對する深い理解、異質の文明に對する理解において比類ないスルタンである。ヴェネツィアの画家ベッリーニはメフメト2世に招かれ、宮廷で16ヶ月滞在した。(cf.鈴木薫『オスマン帝国』) 
メフメト2世は、遠征の途上、1481年5月3日49歳で没する。一説によれば宿敵ヴェネツィアにより毒殺された。

■コンスタンティノープル陥落 メフメト2世
1452年末、メフメト2世は、エディルネにおいてコンスタンティノープル征服の準備を着々と進めた。コンスタンティノープルの地圖を広げ、街の防衛体制を点検した。攻城の術に秀でた者たちに、大砲と塹壕をどこに配置すべきか、攻城用の梯子をどこにかけるべきか、逐一指示した。攻撃の最大の障害と目されたのは、外敵の攻撃に耐えてきた三重の大城壁であった。城壁の攻撃のために、ハンガリー人ウルバンを巨額の報酬で待遇し、巨砲を作らせた。ウルバンは、ビザンティン帝國に巨砲製作を売り込み、斷られた技術者である。
1453年4月5日、メフメト2世はコンスタンティノープルに到着。4月6日、包囲を始めた。オスマン帝國軍は12万、その主力部隊は7万の騎兵軍であった。
コンスタンティノープルは、3重の城壁と海で囲まれた難攻不落の城塞である。金角湾の入り江は、鎖で鎖されていた。
メフメト2世は、包囲戰續行の時、オスマン艦隊の一部を、ボスフォラス海峡からガラタ地区の後方の丘を越えて、梃子ところを使って金角灣に陸から送り込むという奇策を用いた。有名な「オスマン艦隊の陸越え」である。金角灣西のオスマン艦隊は、陸のオスマン軍の砲撃と呼應して、ビザンツ艦隊を攻撃した。
5月23日オスマン帝國は、ビザンティン皇帝の下に最後の使者を送り、コンスタンティノープルの引渡しを求め、退去の自由を申し入れた。がこの最後の提案も拒否された。  5月26日ハンガリーの使者がオスマン帝國軍に到着し、包囲を中止しなければ攻撃すると申し入れた。5月28日夕刻メフメト2世は最後の攻撃を命じる。5月29日朝、イェニチェリが中心になり西の城壁を突破、市内に突入した。戰利品として異教徒の捕虜は、奴隷として捕獲者の所有に帰した。メフメト2世は、略奪の3日間の後、自ら高官たちを率いて聖ロマノス門から入城した。

■兄弟殺しの法 メフメト2世、皇位継承争いの芽を摘む
メフメト2世は最後の即位に際し、生き殘っていた唯一の弟アフメトを処刑、皇位継承爭いの芽を摘む。メフメトは、イスラーム法學者から「世界の秩序が亂れるより、殺人の方が望ましい」という法學意見書を得た。
「群臣の臣従の誓い」を受けて新たなスルタンが即位すると、その他の兄弟はすべて殺害される。「オスマン王家の兄弟殺し」の慣習は、メフメト2世が創始したのではない。メフメト2世の曽祖父バヤズィット1世の時代に成立した。父の遺産の平等の相続権を持つ兄弟間で、皇位継承爭いが起きるのを防ぐために成立したものである。
メフメト3世即位の時、19人の弟が絹の紐で絞め殺された。その後、皇位継承権をもつ者はスルタン決定後殺されず、ハーレム内の鳥籠(カフエス)に幽閉されるようになる。これを鳥籠制という。22年間鳥籠に幽閉された皇子イブラヒムは、権力の座につくと凶暴な性格を露わし、狂人イブラヒムと呼ばれた。

■共存の原理 ミレット制
イスラームには共存の原理がある。
メフメト2世は、ギリシア正教徒、アルメニア教会派、ユダヤ教徒たちも帝都に集めた。メフメト2世は様々な宗教を共存させた。この3つの異教に對する政策を、後世の歴史家は「ミレット制」と呼ぶ。
オスマン帝國のムスリムと非ムスリムの共存のシステムは、オスマン國家の非ムスリムに対する基本政策による。「コーランか、貢納か、剣か」三つの選択の余地が与えられる、啓典の民に対して保護(ズィンマ)が与えられる「ズィンミー制」が起源である。 (cf.鈴木薫『オスマン帝国』)
15世紀末、イベリア半島におけるスペイン・カトリックの迫害に耐えかねたスフラワルド(ユダヤ人)は、安住の地オスマン・トルコ帝國領内に移住した。かれらはまたギリシア北部テッサロニキに移住した。
多宗教、多民族、多言語社会の基盤は、メフメト2世によって作られ、オスマン帝國の能力主義の前提条件が生み出された。異教徒・異民族出身の宮廷奴隷が、トルコ貴族を斥けて登用され、帝國を動かして行く。これがオスマン帝國の榮光を築き上げる。異質の者、異文化を受け容れる帝國は榮える。
★参考文献
鈴木薫『オスマン帝国』講談社現代新書1992
鈴木薫『食はイスタンブルにあり 君府名物考』NTT出版、気球の本1995
鈴木薫『図説イスタンブル歴史散歩』河出書房新社1993
澁澤幸子、池澤夏樹『イスタンブール歴史散歩』新潮社1994
坂本勉『トルコ民族主義』講談社現代新書1996
陳舜臣『世界の都市の物語イスタンブール』文藝春秋1992
細川直子『トルコ 旅と暮らしと音楽と』晶文社1996
伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘編『東欧を知る事典』平凡社2001
スティーブン・ランシマン護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房1969
日高健一郎、谷水潤『建築巡礼17 イスタンブール』丸善株式会社1990
澁澤幸子『寵妃ロクセラーナ』集英社1998
大久保正雄COPYRIGHT2001.10.31
★スレイマニエ・モスク
★スレイマニエ・モスクと金角灣
★トプカプ宮殿穹窿

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