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2016年5月29日 (日)

アンダルシアの光と影 コルドバ 列柱の森メスキータ

Ookubomasao15Ookubomasao16Ookubomasao17Ookubomasao18大久保正雄「地中海紀行」第6回—1 

地中海のほとり、アフリカをさすらい、
ジブラルタル海峡を渉り、戦いに命を賭けた日々。
はるか時を超えて、聞こえて來る。
あなたの憂い、孤独な聲。
地中海の彼方、ダマスカスの薔薇を思い出す。
棗椰子の樹に、降り注ぐ悲しみの涙。
あなたの囁き、西の果てアンダルシアに、
はるか時を超えて、
彷徨う、英雄の孤独な魂が、
寺院の伽藍に結晶する。グアダルキヴィル河のほとり。
アラブの王アブド・アッラフマーン。孤独と意志の結晶。
英雄の死の上に、壮麗な寺院は立つ。

【地中海人列伝-5】アブド・アッラフマーン1世
 アブド・アッラフマーン(Abd al-Rahman・731-788)は、ダマスカス郊外で生まれる。ウマイヤ朝第10代カリフ・ヒシャームの孫である。
 シリアのダマスカスから、地中海、アフリカを経て、アンダルシアに來り、756年ウマイヤ朝を再興、コルドバを首都にする。
 750年アッバース朝がイラク全土を制圧し、ウマイヤ朝が滅亡した。この時、二十歳の若者であったアブド・アッラフマーンは、ウマイヤ一族が虐殺されるなか、身を潜めて死を免れた。「長身で、眉目秀麗、決断力と教養を有し、誇り高く不屈の気性の持ち主」である。五年間、地中海のほとり、ベルベル人の間をさまよい歩く。崩壊したウマイヤ王朝を何処かの地で再興するという使命が、苦難に満ちた逃避行のなかで、魂を根底から支えていた。アッバース家の黒旗の追撃を逃れ、ユーフラテス河を泳いで對岸に渡った。パレスティナで庇護者を見つけ、アッバース家の威令のいまだ届かぬ北アフリカに逃れ、755年モロッコに辿り着く。756年ジブラルタル海峡を渡って、グラナダに到着した。当時、アル・アンダルスは指導者を欠き混沌とした状態にあった。
 アブド・アッラフマーンはムスリムを糾合、緑の旗を立ててコルドバへと進撃して、756年五月、アミール・ユースフの抵抗を撃退し、首都コルドバに入城、後ウマイヤ朝を創始した。ベルベル人の反亂やアッバース朝が糸を引く反亂を鎭めて王朝の礎を築く。シャルルマーニュ(=カール大帝742-814)がイベリア半島のサラゴサに進撃して来るとこれを迎撃、ピレネー山脈の狭隘な隘路を追撃し、フランク軍に打撃を与えた。サラゴサの領有をめぐるシャルルマーニュとの戦いは、武勲詩『ロランの歌』に歌われている。
 アブド・アッラフマーン1世の生涯は、戦いに明け戦いに暮れた人生である。755年五月アミール(総督)軍とコルドバで戦い、763年アッバース朝遠征軍と戦い、778年サラゴサ攻略をめざすシャルルマーニュ軍と戦う。32年間の戦いの果てに、周囲から恐れられ、孤独な老境に入る。
 歴戦の英雄、「クライシュ族の鷹」と謳われたアブド・アッラフマーンは、放浪と戦いの人生の果てに、望郷の念に駆られ、故郷ダマスカスの棗椰子の樹を離宮の庭に植えさせた。離宮の名はアル・ルサーファ(al Ruzafa)とよび、ウマイヤ家の夏の離宮があった思い出の地の名である。勝利と榮光の果てに、聡明なアブド・アッラフマーンは、深い孤独を感じた。アンダルシアの涯てから、はるか地中海の彼方、アラビア半島、故郷ダマスカス、ウマイヤ・モスクを回想した。785年、孤独なアラブ王は異郷の地で望郷の想いを癒すために、グアダルキヴィル河河畔に、メスキータの建設を始めた。
 英雄の死の上に、壮麗な寺院は立つ。
【大理石の列柱の森】メスキータ
 メスキータ(Mezquita)は、闇の中に広がる列柱の森。世界で最も壮麗な内部空間。闇のなかの列柱の森に、空から光が降る。林立する列柱の間に、木洩れ日のように、微光が降り注ぐ。世界で最も美しい闇である。人は、この空間に足を踏み入れると、迷宮のような854本の柱の森に迷い込み、魂は宇宙の根源に歸り、融けこむ。
 メスキータは、イスラーム・スペイン建築の最高傑作である。アンダルシアの地に後ウマイヤ王朝を創始したアブド・アッラフマーン1世(731-788)が、785年、望郷の念に駆られ、故郷ダマスカスのウマイヤ・モスクを回想して起工した。アブド・アッラフマーン1世は着工後2年にしてこの世を去る。死後1年、789年ヒシャーム1世(788-796)によって完成された。第1次建築は、オレンジの中庭とアラブ様式の多柱式礼拝堂からなる長方形プラン(平面圖)の石造建築である。その後、アブド・アッラフマーン2世(822-852)、アル・ハッカム2世(961-976)、アル・マンスール(978-1002)によって、987年まで4次に亙り増築工事が重ねられた。現在の規模に至るまで、200年の歳月を要した。
 免罪の門に入り、オレンジの中庭を抜けると棕櫚の門がある。棕櫚の門を通り多柱室を経て南にミフラブがある。棕櫚の門とミフラブを結ぶ軸線はメッカの方角を指し示す。
 大屋根を支えるためコリントス樣式円柱にピアを重ね、その上に白い石と赤煉瓦による縞模様の二層アーチ(馬蹄形アーチ、半円形アーチ、多弁形アーチ)を載せる。二層アーチの発想は、ローマの水道橋による。モザイク、漆喰細工によって華麗に装飾されたミフラブ(壁龕)が八角形プランの小房に設けられる。
 馬蹄形アーチは、西ゴート美術起源の伝統を継承する樣式であり、東方起源の動物文樣、植物文樣、イスラーム美術特有の執拗にして陶酔的なアラベスク模樣の反覆リズム、幾何学模樣が摂取・合一されている。西ゴート樣式とアラブ樣式が融合した樣式はモサラベ樣式と呼ばれる。
 ローマ、ヘレニズム、西ゴート、ビザンティン、アラブ、ペルシア、樣々な美術樣式が、一つの建築に融合されている。地中海に興亡した二千年の文明史が、此処に融け合い寺院の形象として現れる。
 1236年カスティーリア王フェルナンド3世のレコンキスタ(再征服)によってキリスト教の大聖堂(カテドラル)に転用された。1523年キリスト教徒によってゴシック樣式の教会への改築が行なわれ1750年に完成した。破壊的改築が行なわれ、無慚な姿を曝している。レコンキスタの愚擧である。1400本あった美しい大理石の柱は、現在854本を残すのみである。
 メスキータ列柱の間は、ギリシア、エジプト、ペルシア、地中海地域における多柱室(ヒュポステュロスhypostylos)の構造である。例えば、パルテノン神殿の周柱式(ペリステュロスperistylos)神殿の理念的構築と根本的に異なる。ルクソールのカルナック神殿、アブシンベル神殿大列柱室、ペルセポリス・百柱の間、林立する列柱の間は、神的精神が漂う神聖な空間である。1525年神聖ローマ皇帝カール5世はメスキータを「この世界の何処を訪ねても、他にはないもの」と言った。外観の建築ではない内部空間の建築である。多柱空間は、構築的であることを否定し、非構築的な無限の反復、美しい迷宮のなかに現身の魂を包みこみ、魂は生命の源に歸り蘇る。
 壮麗な寺院の誕生は、英雄の死によって贖われる。

参考文献
(1)タキトゥス国原吉之助訳『年代記』世界古典文学全集22筑摩書房1965
(2)スエトニウス国原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上・下 岩波書店1986
(3)セネカ 茂手木元蔵訳『人生の短さについて』岩波文庫1980
(4)クリス・スカー著 青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社1998
(5)前嶋信次『イスラム世界』河出書房新社1968
(6)前嶋信次『イスラムの蔭に』河出書房新社1975 河出文庫1991
(7)安引宏・佐伯泰英『新アルハンブラ物語』新潮社1991
(8)佐藤輝夫訳『ローランの歌』ちくま文庫1994
(9)隈研吾『新・建築入門 思想と歴史』ちくま新書1994
(10)川成洋『図説スペインの歴史』河出書房新社1993
(11)池上岑夫・牛島信明・神吉敬三監修『スペイン・ポルトガルを知る事典』平凡社1992
★アルミナールの塔
★ローマ橋とコルドバの町
★メスキータ 列柱の間
★メスキータ
★メスキータ
COPYRIGHT大久保正雄 2001.2.28

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