ルネサンスの奇人変人、フィリッポ・リッピ、カトリーヌ・ド・メディシス
大久保正雄「地中海紀行」第4回
ルネサンスの奇人変人、フィリッポ・リッピ、カトリーヌ・ド・メディシス
フィレンツェ発祥の地、
フィエーゾレの丘。
丘の上の糸杉、黄金色に輝く大地。
美しいものもいつかすべて滅びる。
すべて死に屈服する他ない。
一茎の百合ほどの力もない美が、
いかにして時間の侵蝕に抵抗できようか。
夏の香り高い微風が、
時の流れの腐蝕に耐え得ようか。
美しく高貴な魂、亡き人の美しき精神に、
花束を捧げよ。
【地中海人列伝2 フィリッポ・リッピ】
フィリッポ・リッピ(1406*-1469)は、純粋無比、清純可憐な美しい聖母子像を数多く描いた画家として有名で、『聖母子と天使たち』『聖ステファヌスと洗礼者ヨハネの生涯』他、数々の傑作を残した。しかしまた欲望の赴くままに生きる放蕩無頼の破戒僧であった。ヴァザーリ『藝術家列伝』には、フィリッポ・リッピの愛すべき個性的な生涯が書かれている。
フィリッポ・リッピはフィレンツェに生まれるが、生まれた時に母が、二歳の時に父が死に、誰も育てる者がいないため八歳の時サンタ・マリア・デル・カルミネ教会修道院に預けられた。フィリッポはカルミネ教会ブランカッチ礼拝堂で『聖ペテロ伝』壁画制作(1425-27)を行っていたマザッチョ(1401-28)に影響を受けたと推定される。画家マザッチョは余りにも若くして二十六歳で亡くなったので、彼の才能を妬む者によって毒殺されたと言われる。フィリッポは、「マザッチョの手法を体得したので、マザッチョの霊がフィリッポの体内に憑り移ったという噂が立った。」
フィリッポは、大変な女好きで自分の好みの女を見つけると、その女を掌中に収めるために自分の所有物すべてを与えるような人であった。あらゆる手段を駆使して女を手に入れることができない時は、女の肖像を繪に描いた。それは繪を描くことによって己の恋の焔を消すためであった。1456年サンタ・マルゲリータ修道院礼拝堂付司祭として、修道院の祭壇画の制作に取りかかった。この時、19歳の優雅で美しい修道女ルクレツィア・ブーティを見出した。聖母のモデルとする許可を求め裁可されたが、制作中、ルクレツィアと恋に落ちた。彼女を唆して、二人で駆落ちするに到った。教会から破門されるが、画才を高く評価されたため、許され処罰を免れた。1456年、フィリッポ・リッピ50歳の時である。
フィリッポは、色欲に溺れること甚だしい男であり、「コジモ・デ・メディチはフィリッポに自分の屋敷で仕事をさせようと思い、外に出て時間を潰すことがないように、室内に閉じ込めた。フィリッポは、欲情に駆られて我慢できず、或る夕方、鋏でシーツを細く切り裂き、窓から伝って下に降り、何日間も放蕩に耽った。コジモがいつも口癖のように言う言葉に<類稀な傑出した天才は天上のものであり、車引きの驢馬とは違う>という定型句がある。」
フィリッポは、自分の仕事によって名誉ある悠々とした生活を送り、情事に膨大な出費を重ねた。生きている間は女性問題が絶えず、死ぬまで恋愛を樂しんだ。フィリッポが死んだ時、女に余りに執拗に言い寄ったため、彼は女の親族の手で毒殺されたという噂が立った、と記録されている。
フィリッポ・リッピは、美しい女性像で有名であり、美人画の系統が此処にある。フィリッポの弟子がボッティチェリであり、そしてボッティチェリの弟子がフィリッポの子フィリッピーノ・リッピである。フィリッピーノは尼僧ルクレツィアとフィリッポとの間に生まれた子である。ボッティチェリは1456年から67年までフィリッポ・リッピの助手を務め、線描と色彩の技法を継承した。ボッティチェリは古代神話の主題を画面に構築、流麗な描線によって女性美の頂点を極め、耽美的世界の極致に到る。フィレンツェの優美かつ装飾的な様式を深化、ルネサンス様式の一つの頂点に到達した。ボッティチェリは未知の才能を見いだす優れた能力をもつメディチ一族によって見出され庇護された。ボッティチェリ『春』(1478)『ヴィーナスの誕生』(1482)には、死の憂愁と死せる人への哀愁が湛えられている。フィリッピーノの最高傑作『聖ベルナルドゥスの幻視』(1486)には師ボッティチェリの面影がある。フィレンツェの優美・艶麗な装飾的様式には、恋の炎に身を焦がしたルネサンス人の愛と憂愁が漂っている。
恋に溺れ、女性の美に耽溺、滅びゆく女性の美を画布の上に永久に留めたフィリッポ・リッピ。青春時代、地中海を航海中、難破して海賊船に捕らえられ、画才を認められて解放された経験がある。フィリッポは、典型的なルネサンス人であり、地中海人である。
【地中海人列伝3 カトリーヌ・ド・メディシス】
美貌と権力によって悪逆非道の限りを尽くした女性、或いは、愛欲と悪徳によって身を滅ぼした女性は、悪女と呼ばれる。カトリーヌ・ド・メディシス(カタリーナ・デ・メディチ)は、世に名高い悪女の一人である。カトリーヌは、「毒を盛る女」「蛇太后」呼ばれた。
カトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589)は、フランス王家ヴァロワ朝に嫁ぎ、イタリアから随行し扈従する針子と料理人により、フィレンツェ伝來の洗練された衣裳とイタリア料理をフランスにもたらし、メディチ家で磨かれた教養と感性で學藝を庇護したことで有名である。しかしまた1572年8月23日-24日未明パリで起きた「聖バルテルミーの虐殺」の陰の首謀者と言われる。ユグノー派ナヴァール王アンリとカトリーヌの三女マルグリット(マルゴ王妃)の結婚式に集まったユグノー派貴族三千人を、カトリック派が殺害した惨劇である。
フィレンツェ貴族の冷酷な権謀術数に明け暮れた血に塗れた歴史の記憶がカトリーヌの血のなかに流れている。マキャベッリ『君主論』はカトリーヌの亡き父ウルビーノ公ロレンツォに捧げられた書である。
カトリーヌ・ド・メディシスは、ロレンツォ・イル・マニフィーコの孫ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチとフランソア1世の従妹マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドゥーヴェルニュの子として生まれる。誕生直後、両親を相次いで失い、唯一人、メディチ家兄系(コジモ・デ・メディチ=コジモ・イル・ヴェッキオの血統)の正当の血を受け継ぐ孤児となる。カトリーヌは、枢機卿ジュリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)の保護下に、フィレンツェで育つ。1529-1530年、フィレンツェ包囲戦の時、ムラーテ修道院に幽閉される。1530年11歳のカトリーヌはローマに移り、後見人教皇クレメンス7世の下に、五人の王侯貴族の求婚を受ける。この時、カトリーヌは枢機卿イッポリトと恋愛関係にあったが引き裂かれ、フィレンツェに戻り、叔母マリア・サルヴィアーティの保護下に置かれる。
1533年10月、クレメンス7世とフランソア1世の交渉が纏り、カトリーヌは14歳にして、フランス国王フランソア1世の第二子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロアに嫁ぐ。 1547年アンリは国王に即位、アンリ2世となり、カトリーヌはフランス王妃となる。1559年、アンリ2世は馬上槍試合の事故で急死。跡を継いだ長男フランソア2世は1年後に夭折、次男シャルル9世が十歳で国王に即位。王太后カトリーヌは摂政となり、以後30年に亙ってフランスに君臨する。
14歳にして、フランス王家に嫁いだカトリーヌは、フィレンツェ商人の娘と冷笑され、夫オルレアン公アンリ・ド・ヴァロアは十八歳年上の寵姫ディアーヌ・ド・ポワチエ(ヴァランチノワ公)を熱愛していて、アンリが王となり死ぬまで、二人の関係は33年間続いた。ディアーヌは絶世の美女であったと言われる。
2万冊の蔵書を駆使して著作に耽溺した澁澤龍彦が書いた『世界悪女物語』にカトリーヌが現れる。澁澤龍彦によると、カトリーヌは毒藥、魔術、占星術、霊藥に凝り、護符を膚身離さず持っていた。ノストラダムスら予言者、魔術師、妖術師が宮廷に蟲のごとく蝟集した。カトリーヌは「醜い女で、鼻が大きく、唇が薄く船酔いにかかった人のような締りのない口元をしていた」と言われ、明らかに美貌の持主ではなく、「醜い容貌をもち鼻が長く垂れ下がった唇」という特徴はコジモ・デ・メディチの血を引く者の証しであるが、「旺盛な好奇心と古典と藝術の教養をもち明晰な頭脳と魅力的な会話」もまた父祖から受け継いだものである。
カトリーヌはフィレンツェで育まれた毒藥の知識と陰謀の技術を駆使して、王太后の君臨は30年に及んだ。カトリーヌの周りには不慮の事故死を遂げたアンリ2世、早世したフランソア2世、他、非業の死を遂げたものが多い。死の影にはカトリーヌの深謀遠慮が働いていたことは言うまでもない。権力の頂点を極めたカトリーヌが、愛と欲望の果てに見出したものは何か。
カトリーヌが毒藥を手に入れたメディチ家御用達のフィレンツェの藥局(Officina profumo-farmaceutica di S.Maria Novella)は1221年創業、今もサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の裏手にある。
【フィエーゾレの丘】
フィレンツェ発祥の地は、フィエーゾレの山頂である。マキャベッリ『フィレンツェ史』第2巻によれば、フィレンツェはフィエーゾレ山頂の都市の市場として栄えた。フィエーゾレはアルノ渓谷の丘の上にある。紀元前7世紀創建のフィエーゾレは、エトルリア都市として生まれた。エトルリア人は、防衛、洪水、渓谷の低湿地から発生するマラリアを避けるために、丘の上に都市を建設した。フィエーゾレの丘も戦略的要衝である。エトルリア人は、トスカナ地方に12の都市国家を作った。イタリアに先行文化を築きあげたエトルリア人は都市建設の方法をローマ人に教え、ローマ建設を指導した。エトルリア人からローマ人に伝えられた遺産には、剣闘士競技、肝臓占い、鳥占い、半円アーチ、ヴォールト(穹隆)がある。エトルリアの微笑みは我々を魅惑して止まない。
【漂う魂】
地上の最も美しい場所を求めて、私は旅立った。夕暮の寺院。糸杉の林に埋もれる聖なる土地。森に囲まれた月光の庭。荒野に聳える黄昏の都。私の魂のオデュッセイアはこれからも続く。この世の果てまで。この世の最も美しいものを見るために。
オデュッセウスのように、遥かなる旅から故郷に帰還する時、復讐を成し遂げるのか。孤独な旅路の果てに眞の愛を見出すことができるのか。
2000年が昏れようとしている今、私のメッセージを愛読して頂いた読者のみなさまに、心から感謝をささげます。有難うございました。またこのページを訪れてください。
2001年早春『地中海紀行』は、哀愁の大地スペイン、アンダルシア地方に旅立つ予定です。愛をこめて。大久保正雄
★参考文献
(1)ジョルジォ・ヴァザーリ平川祐弘・小谷年司・田中英道訳『ルネサンス画人伝』白水社1982
(2)アンドレ・シャステル高階秀爾訳『イタリア・ルネサンス1460-1500』(「人類の美術」)新潮社1968
(3)アンドレ・シャステル辻茂訳『イタリア・ルネサンスの大工房1460-1500』(「人類の美術」)新潮社1969
(4)森田義之『メディチ家』講談社現代新書1999
(5)澁澤龍彦『世界悪女物語』桃源社1964
(6)オルソラ・ネーミ、ヘンリー・ファースト千種堅訳『カトリーヌ・ド・メディシス』中央公論社1982
(7)ジャン・オリユー田中梓訳『カトリーヌ・ド・メディシス』上・下、河出書房新社1990
(8)マキャベェッリ『フィレンツェ史』「マキャベッリ全集」3筑摩書房1999
(9)D.P.ウォーカー田口清一訳『ルネサンスの魔術思想』平凡社1996
(10)若桑みどり『世界の都市の物語 フィレンツェ』文藝春秋1994
(11)塩野七生『ローマ人への20の質問』文春新書2000
★黄昏のフィレンツェ
★ポンテ・ヴェッキオ
★サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
★黄昏のフィレンツェとフィエーゾレの丘
★フィレンツェの街角
COPYRIGHT大久保正雄 2000.12.27
« ルネサンスの奇人変人、メディチ家 コジモとロレンツォ | トップページ | 哀愁の大地スペイン 西方の真珠コルドバ »
「イタリア」カテゴリの記事
- ルネサンスの奇人変人、フィリッポ・リッピ、カトリーヌ・ド・メディシス(2016.05.27)
- ルネサンスの奇人変人、メディチ家 コジモとロレンツォ(2016.05.26)
- メディチ家とプラトン・アカデミー 黄昏のフィレンツェ(2016.05.25)
« ルネサンスの奇人変人、メディチ家 コジモとロレンツォ | トップページ | 哀愁の大地スペイン 西方の真珠コルドバ »
コメント