哀愁の大地スペイン 西方の真珠コルドバ
黄昏のアンダルシア。
眞珠の輝き、コルドバ。
輝き亙る蒼穹の下に、
輝きの都は眠る。いにしえの愁いを忘れて。
アル・アンダルスの殘照を曳き、
黄昏の光が満ちて來る。
ローマ橋に佇み、光と風のなかを、歩む。
私は黄昏の旅人である。
夕日を浴びるコルドバの丘の上、
ローマ帝國の末裔、美しい乙女は、
美しい瞳で、異國の旅人に微笑む。
光満ちる時、黄昏のアンダルシア。
月の輝く美しい夜。王妃の面影に似た美しい宮殿は幻。
瞬く星のように、暗闇の中に燦めく眞珠の輝き、コルドバ。
魂を魅了する地、アンダルシア。
【夜間飛行】
ヴェガ・シシリア・ウニコ(Vega Sicilia Unico)*の盃を傾けると、スペインの哀愁が瞼に蘇る。地中海の三位一体を生む、オリーブ林、小麦畑、葡萄畑の彼方に、荒れ果てた大地が目に浮かぶ。この世界の片隅で不遇に甘んじて生きる詩人と、この葡萄酒を飲む時、スペインの憂いが紫の雫となって滴り、心のなかで木霊する。歸りたい。しかし、何処へか。
春の宵、雪降るチューリッヒから、スイス航空でリスボンに向かって飛び立った。飛行機の中で、スチュワーデスが持って来たカヴァを飲むと、グラスの泡立ちのなかで、地上の苦悩が泡のように融けて行く。夜空の下に広がるスペインの大地。スペインの都市が、絶海の孤島のように、漆黒の闇の中に、煌き輝く。スペインの空を飛行したサンテグジュペリを思い出す。地中海の空に消えたサンテグジュペリ(1900-1944)。その孤独な魂が、イベリア半島を超えてモロッコへ飛行したのはトゥールーズ・ダカール路線。1926年から1929年である。飛行機がリスボンに着いたのは眞夜中である。そこはすでに春であった。ポルトガルの古城には可憐な花が咲き乱れている。
東の果てから來た旅人の心に、イベリア半島が、強いノスタルジアを懐かせるのは何故か。地中海文明は、ヨーロッパの大地に広がり、瀧のように流れ落ちる。東の果てはロシア、西の果てはスペイン。地の果てには、哀愁の地がある。戦いの果てに流された夥しい血。英雄の遺恨と詩人の怨念が、乾いた大地(La Mancha)に染み込み、零り積もる。
イベリア半島では、地中海の三位一体は、オレンジの樹林、アーモンドの木々、葡萄畑から成る。早春のスペインは、街路樹のオレンジが実り、アーモンドの花が桜のように咲き乱れる。
*[cf.ヴェガ・シシリア・ウニコ(Vega Sicilia Unico. Gran Reserva)は、ドゥエロ河流域リベラ・デル・ドゥエロ(Ribera del Duero)の銘酒である]
【哀愁の大地、スペイン】
地中海、アフリカ、ピレネー山脈の東から、イベリア半島には、樣々な種族が、往き來した。イベロ族、原バスク人、ケルト人、ギリシア人、フェニキア人、ローマ人、イベロ・ローマ人、ゲルマン人(スエヴィ族、アラン族、ヴァンダル族)、西ゴート族、ベルベル人、アラブ人。多種多樣の民族が越境、渡來、移住、荒野で死闘を繰り広げ、先住民族を征服し、また征服された。征服者(conquistador)の勝利と榮光の影に、征服された者の血と涙がある。
711年7月、グアダレーテ河の戦いで戦死した、
西ゴート王國、最後の王ロドリーゴの無念の血涙。
1492年1月2日、グラナダ王國、ナスル朝最後の王ボアブディルが、
愛するアルハムブラから離れ去る時、流す惜別の涙。
アルフォンソ6世の逆恨みによりカスティーリア王國を追われ、
生涯、亡命者として生き、1099年、異郷バレンシアで果てた、
英雄エル・シドの流す遺恨の涙。
1936年フランコ派により銃殺され、38年の余りにも短い生涯を終える、
アンダルシアを愛した詩人ガルシア・ロルカ。
いま此処に在る國家の滅亡を心から願う。死せる英雄の魂。
地の底から、恨みの血が迸る。
大地が吸った血は、消滅せず。凝結して、復讐を呼ぶ。
劫罰が下るまで、罪を負う者は、罪責の疼きに、堪えねばならぬ。
流血は流血を呼び、復讐は復讐を招く。
だが、恨みの血は、土に埋もれて、千年の後、玉髄となる。
知恵は傷の裂け目から花開き、美は生命を生贄にしてのみ生まれる。
【コルドバ 西方の眞珠】
いつまでもそこに佇み、いつまでも眺めていたい風景がある。
グアダルキヴィル河の對岸から、ローマ橋の彼方にメスキータを眺める、黄昏時。アンダルシア地方で、最も美しい都コルドバ。
ローマ橋に佇むと、ローマ帝國時代、榮光のコルドバが蘇る。ヒスパニアは、五賢帝時代、二人の皇帝、トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝を生みだした。また哲人皇帝マルクス・アウレリウスの祖父マルクス・アンニウス・ウェルスは、コルドバ郊外出身の貴族である。
コルドバは、イスラーム・スペイン王朝、後ウマイヤ朝アル・アンダルスの時代(756-1031)に黄金期に達する。
コルドバには、ローマ帝國、西ゴート王國、後ウマイヤ朝アル・アンダルス、カスティーリア王國、数々の國家が君臨し、そして滅亡した。
コルドバは多くの哲學者、文人を生み出した都市である。ローマ時代には、セネカ(BC4-AD65)がこの地で生まれ、ネロの家庭教師となり、執政官補佐官、皇帝ネロの後見人となった。その千年後、この地に、イスラーム哲學史に不朽の名をとどめる哲學者たちが生まれた。11世紀、イヴン・ハズム(994-1064)は名著『鳩の頸飾り』を殘し、12世紀、イブン・ルシュド (アヴェロエス1126-98)は、膨大なアリストテレス注釈書と『哲學と宗教の調和』を殘した。
イスラーム哲學史第一期の頂点は、イブン・スィーナー(アヴィセンナ980-1037)とイブン・ルシュドである。イブン・ルシュドは、アリストテレス主義の立場から、イブン・スィーナーにおける新プラトン主義を批判した。そしてイブン・ルシュドは、若きイブン・アルアラビー(1165-1240)とコルドバの家で出会い、決別した。二人の對決の根底には思弁哲學と神秘哲學の對立があった。
コルドバの魂の結晶はメスキータである。メスキータは林立する八百五十本の列柱を蔵する。古代ローマ時代にはこの場所に神殿が建っていた。古代ギリシアから運ばれてきたコリントス樣式の列柱の上に、785年、後ウマイヤ朝時代にイスラムの赤白二色の二重アーチが組み立てられイスラム寺院となる。メスキータとは、モスクの意であり、跪く所=広間を意味する。イスラム寺院は広間と光塔(ミナレット)があれば成立する。さらに13世紀、レコンキスタ(再征服)の後、1236年キリスト教のカテドラルが作られた。メスキータの建築を見るとき、人はヨーロッパの時の流れを見るのである。メスキータの内部は、大理石の列柱の森であり、空から微光が舞い降りる、荘厳で神秘的な空間である。大理石の列柱の間は椰子の枝が交差する暗闇のオアシスである。世界で最も壮麗な内部空間。移ろう二千年の時の流れを超えて、偉大な精神の結晶が此処にある。
いつまでもそこに佇み、いつまでも眺めていたい風景がある。
【スペイン史 多民族の邂逅と死闘の舞台】
イベリア半島の歴史は、前期石器時代に始まる。有史以後、紀元前900年頃、印欧語族の諸民族がピレネー山脈を越えてイベリア半島に侵入。カザフ・キルギス起源のケルト民族が平原より侵入、イベロ族と混血し、ケルト・イベロ族を形成した。スペインには、ローマ帝國、西ゴート王國、後ウマイヤ王朝、ナスル王朝、カスティーリア王國、樣々な國家が榮華を極め、滅亡した。
イベリア半島は、その後1479年フェルナンド2世が即位、カスティーリア王國・アラゴン王國、共同統治開始。1492年グラナダ王國陥落、ナスル王朝滅亡。イスラーム・スペイン八百年の歴史が終焉する。1516年、狂える王女ファナの皇子カルロス1世が即位、ハプスブルク王朝が始まる。1700年カルロス2世没。ブルボン王朝によるスペイン支配開始。1808-1814年スペイン獨立戦爭。1873年第1共和制成立。1876年再びブルボン王朝がスペインを支配。1931年第2共和制成立。1936年7月17日、夕方スペイン領モロッコでスペイン内乱が勃発、スペイン全土に拡大し、39年4月1日終結。1940年フランコ獨裁政権が成立。1976年ファン・カルロス1世が民主政を樹立する。
数々の王朝が榮え、滅亡したスペイン。荒野に花咲く夢と絶望。哀愁の大地スペイン。愛と憎しみのアンダルシア。だがスペインの苦悩と涙は、人類史に不朽の藝術を殘した。 アンダルシアの魂の結晶は、見える形においては、メスキータとアルハムブラにある。 美は価値を測る尺度の一つである。だが美そのものは見えない。地上に於ける美しいものはすべて滅びる。アンダルシアの建築は、滅びるものの美しさ、存在するものの悲しみを湛えている。
アラブの迷路を歩き、パティオに現れた地上の樂園に佇む時、歴史が織りなす光と影の間から、滅びるものの美しさが、私の心を魅惑する。
参考文献
(1)W・モンゴメリー・ワット 黒田壽郎・柏木英彦訳『イスラーム・スペイン史』岩波書店1976
(2)アンリ・コルバン 黒田壽郎・柏木英彦訳『イスラーム哲学史』岩波書店1974
(3)サイード・フセイン・ナスル 黒田壽郎・柏木英彦訳『イスラームの哲学者たち』岩波書店1975
(4)井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書 岩波書店1980
(5)井筒俊彦『イスラーム思想史』岩波書店1975
(6)イブン・ハズム 黒田壽郎訳『鳩の頸飾り』イスラム古典叢書 岩波書店1975
(7)ワシントン・アーヴィング 平沼孝之訳『アルハンブラ物語』上下 岩波文庫1997
(8)長南実訳『エル・シードの歌』岩波文庫1998
(9)ガルシア・ロルカ 牛島信明訳『血の婚礼』岩波文庫1992
(10)南川高志『ローマ五賢帝「輝ける世紀」の虚像と実像』講談社現代新書1998
(11)池上岑夫・牛島信明・神吉敬三監修『スペイン・ポルトガルを知る事典』平凡社1992
(12)川成洋『図説スペインの歴史』河出書房新社1993
★黄昏のコルドバとグアダルキヴィル河
★黄昏のコルドバ
★ローマ橋とメスキータ
★オレンジの中庭
COPYRIGHT大久保正雄 2001.1.31
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