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2016年5月30日 (月)

狂人皇帝たちの宴 ローマ帝国 

Forum_romanumForumromanumFederico_fellini_satyricon_2大久保正雄「地中海紀行」第6回—2
狂人皇帝たちの宴 ローマ帝国 

狂帝、愚帝、無能皇帝、凡庸なる者たちの支配する国、狂人皇帝たちの宴。
最低な人間が最高の地位につく。無能な人間が地位につき、知性ある人が下の地位に立つ。ローマ皇帝カリギュラ、クラウディウス、ネロ、いつの時代でも、古今東西、枚擧に遑がない。邪悪な支配階級に対する反乱は為されるべし。
いかさま師が皇帝になる。天の怒り、天誅、下るべし。
美し魂は、美のために戦う。哲学は、哲学者のいのちによって、現成しなければならない。
魂に刻まれたことばのみが、不滅の生命をもつ。大久保正雄
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
http://t.co/Pxwev5SMbW
*大久保正雄『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社
http://t.co/XGI0R3tqFX

■ローマ帝国、狂人皇帝たちの宴
狂帝カリギュラ
 三十歳の時、セネカはエジプトからローマに歸り、財務官の地位を得て元老院に入り、元老院及び法廷で卓越した弁論術によって名聲を獲得した。しかし紀元37年、ガイウス帝(狂帝カリギュラAD12-41)が即位すると、名聲が身の危険を招いた。卓越した弁論の勲功が、皇帝カリギュラの嫉妬を招き、逆鱗に觸れ、処刑寸前、皇帝の愛人の取り成しによって、危うく死を免れた。この時期37-41年に書かれた書物に『道徳論集』と「初期対話編」がある。「皇帝カリギュラは、傲慢と殘忍に勝るとも劣らぬ嫉妬心と悪意で、あらゆる時代の人を攻撃した。」(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』第4巻)
愚昧帝クラウディウス
 41年、カリギュラは、暗殺者の剣によって突き刺され29歳で死んだ。クラウディウス帝(BC10-54)が即位した。クラウディウス即位の年、セネカはカリギュラの妹ユゥリア・リヴィラとの姦通罪の罪に問われ、判決を受け、コルシカ島に追放された。これはクラウディウス帝の皇后メッサリナと共犯者との陰謀によるものであり、セネカは冤罪の犠牲であった。この時、流刑地コルシカ島で母ヘルヴィアのために『慰めについて』を執筆した。クラウディウス帝は、母親が「人間の姿をした怪物」と呼び憎むほど、肉體も精神も虚弱で、笑うと下品になり怒ると口から泡を飛ばし鼻水を垂らした。生まれつき殘忍で血を好んだ。しかし學問を好み、ギリシア語で歴史書『エトルリア史』20巻、『カルタゴ史』8巻を書いた。(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』第5巻)
狂帝ネロ
 48年皇后メッサリナが不義密通によって処刑され、アグリッピナがクラウディウス帝の新しい后になる。49年アグリッピナは流刑8年のセネカをコルシカ島から呼び戻し、息子ネロ(12歳)の教育を委ねた。54年クラウディウス帝死す。アグリッピナが、我が子ネロ(37-68)を帝位に就かせようと企み、皇帝の好物の茸に毒を盛り毒殺したのである。(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』第5巻)56年セネカは執政官補佐官となった。その後、アグリッピナはクラウディウスの子ゲルマニクスを帝位に就けようとしたという陰謀の嫌疑を受けたが、ゲルマニクスが毒殺され難を逃れた。ネロは次第に凶暴性を露わにして來た。59年ネロは、母アグリッピナを溺死に偽裝して殺そうとしたが、殺害に失敗。アグリッピナは一人の海軍士官によって殺害された。62年ネロは美貌の貴婦人ポッパエアと結婚するため、妻オクタヴィアに冤罪を着せ幽閉し殺害。しかし65年夏、ネロは妊娠中のポッパエアを蹴り殺す。62年セネカの盟友ブルス親衛隊長が自殺して死ぬと、元老院議員の嫉妬により攻撃の的となっていたセネカは孤立した。セネカは隠退を願い出て、莫大な財産を皇帝に譲渡することを申し出た。願い出は拒否されたが、隠退は暗黙の内に了解された。セネカは公的生活を退き、殘りの歳月を哲學の研究と友との親交とのうちに暮らす。 62-65年、最晩年の隠遁期、『道徳書簡』20巻を執筆した。

【地中海人列伝5 セネカ】コルドバ生まれの哲学者、ローマで死ぬ
哲学は、哲学者の戦いによって、贖われなければならない。
血によって、魂に刻まれたことばのみが、不滅の生命をもつ。大久保正雄
 紀元1-2世紀ローマ帝國時代、多彩なストア派哲學者が生まれた。エピクテトス、ヒエロクレス、セネカ、マルクス・アウレリウスである。ストア派の哲學は「理性に従って生きる」こと、普遍的な宇宙のロゴスの存在を教える。ストア派の哲學がローマ法の精神となって結実、ローマ帝國は地球上の基準(global standard)を構築した。
 セネカ(BC4-AD65)は、コルドバに生まれ、幼年期、父とともにローマに來て、修辞學と哲學を學んだ。

■セネカの死
 「最低の人間が最高の地位に就く」という現実は、カリギュラ、クラウディウス、ネロ、いつの時代でも古今東西、枚擧に遑がない。邪悪な皇帝に対する反乱は為されるべきである。65年ガイウス・ピソがネロに対する反逆の陰謀を企て、失敗した。ネロによる血の粛清が始まり、19人を死刑、13人を流刑に処した。セネカは反亂に荷担した疑いを受ける。ネロは自殺を命じ、百人隊を送った。ローマ郊外の別荘で、セネカは自殺を遂げる。セネカの死の場面は、タキトゥス『年代記』第15巻に次のように書かれている。
 「セネカは妻パウリーナに死を思い止まるように言ったが、パウリーナはこれに對して「私も死ぬ覚悟でいます。」と誓って、血管を切る執刀医の手を請うた。セネカは妻の凛々しい覺悟に不賛成ではない。のみならず、愛する妻をただ一人殘して危険な目に遭わすには彼の愛情は余りにも強かった。
「お前は生きるよりも、名譽ある死を選んだ。立派な手本を示そうとするお前の決心を妨げる気はない。二人とも同じように毅然たる最期を遂げるなら、お前の終焉はいっそう照り映えるだろう。」
 それから二人は同時に、短刀で腕の血管を切り開いて、血を流した。セネカは相当老いており、痩せてもいたので血の出方が悪かった。そこでさらに足首と膝の血管も切る。 激しい苦痛に、精魂も次第に盡き果てる。セネカは自分が悶え苦しむので、妻の意志が次第に挫けるのではないかと恐れ、一方自分も妻の喘ぐさまを見て、今にも自制心を失いそうになり、妻を説得して別室に引き取らせた。最後の瞬間に臨んでも、語りたい思想が滾滾と湧いてくる。ネロは、パウリーナに個人的な恨みを少しも持っていなかった。そして皇帝の残虐を呪う聲が広がるのを恐れ、彼女の死を阻むよう命じた。派遣された兵は、奴隷をせきたてて、彼女の腕を縛り血を止めさせた。彼女はそれから数年生き永らえたが、夫の遺影に對する貞節は賞賛に値する。セネカは死が手間取ってなかなか訪れないのを知ると、予て依頼してあった毒藥を与えてくれるように頼んだ。ソクラテスが飲み乾した毒人参である。すでに毒もきかないほど手足は冷え切って、五體の感覺が失われていた。彼は最後に熱湯の風呂に入り、発汗室に運ばれて、その熱気によって息を絶った。(cf.タキトゥス『年代記』第15巻63-64)
 スペインの情熱は、受難の劇から生まれる。藝術と學問は受難の華である。苦難のなかで、自己の哲學と生き方を追求したセネカの人生は、ヒスパニア人の名に値する。
 セネカは「人間の人間たる根拠は理性である」「魂は神の息であり、魂は不滅である」と書いた。血によって書かれた哲學のみが、哲學の名に値する。
★参考文献
(1)タキトゥス国原吉之助訳『年代記』世界古典文学全集22筑摩書房1965
(2)スエトニウス国原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上・下 岩波書店1986
(3)セネカ 茂手木元蔵訳『人生の短さについて』岩波文庫1980
(4)クリス・スカー著 青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社1998
★Foro Romano
★Fellini ,Satyricon
COPYRIGHT大久保正雄 2001.2.28
2016年5月30日

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