大久保正雄「地中海紀行」第1回、魅惑の地中海
大久保正雄「地中海紀行」第1回、魅惑の地中海
紫の潮を湛える海。輝く紺碧の空。
空と海のあいだに満ちてくる光。
海を渡ってくる風。
丘の上に立つ糸杉の烈しく美しい香り。
何故、地中海は人を魅了しつづけて止まないのか。
黄昏の光が、地中海の岸辺に満ちて來るとき、
ひとは苦悩と忍耐と憂愁に満ちたこの世の闇を
受け容れることができる。
黄昏のコスタ・デル・ソル。眞夏の碧緑の地中海。
夕日に輝くエーゲ海。
地中海の生みだした知的遺産に思いを馳せる時、
人間の尊厳を貴ぶ地中海人の生きかたが
歴史を超え彼方から蘇ってくる。
地中海は、知的遺産の宝庫である。地中海文明の魅力の源泉は、
その生の様式、知の様式、都市の様式にある。
■生きることを愛する地中海人
地中海人が生みだした豊饒な美の遺産はいかにして生みだされたのか。
ロレンツォ・デ・メディチは歌った。
……青春は麗し。
されど逃げて行く。
樂しみなさい。
明日は定めなき故に……
スタンダールは、「生きた。愛した。書いた。」と自らの墓碑に刻み、
亡き母が地中海人でありイタリア人の血を持つことを誇りとしていた。
地中海人は、生きることを愛する。愛すること、好きなことに生涯を賭けることに、 人生の至上の価値がある。
愛するものに命をかけることによって、地中海人は最高の藝術様式に到達した。
生きいきと人間が生きる劇場都市。
生きいきと人間的に生きることが創造性の源泉であり、
命令されることから創造的なものは生まれない。
世界最高の藝術を作り出す感性と創造性は、魂の根源から湧く愛、
眞に美を愛することからのみ生まれる。
■血と知恵
地中海人は、美しく生きること、幸せに生きることを探究する。生ける屍のようにただ生きることに意味はない。ギリシア人は「いかなる者の奴隷でもなく、臣下でもない者」2)であり、命令を受けず自由人として生きることを誇りとした。地中海には、地位と名誉を愛するよりも、美しい死を選んだ人間たちがいる。地中海人は、利害を超越して人間の尊厳という価値にもとづいて、行動する。ソクラテスは「ただ生きるのではなく、善く生きること、美しく生きることが大切である」3)と言い、毒盃を仰いで死んだ。
人生の究極の樂しみを探求する生活様式が、地中海に満ちあふれている。見る、言葉を語る、知る、愛する、生きる、その究極は何か。見る、知る、学ぶ、生きることの源泉、その究極に学問を築き上げたギリシア人。哲学(フィロソフィア)はギリシア人が創始した学問であり、知恵を愛することの探求である。
偉大な精神文化は、人間の苦しみと悲しみから生まれる。死すべき人間は、血と涙によってのみ、眞の知恵に到達できる。復讐が復讐を生む血に呪われたアトレウス王家の歴史からアイスキュロスの悲劇『オレステイア』三部作が生まれ、己の理想に殉じたソクラテスの死がプラトンの哲学を生んだ。血と涙によって魂に刻まれたことばのみが不滅のいのちを持つ。五千年前から多彩な文明を生みだし続ける地中海。地中海の重層的文化空間には人間の叡智が堆積している。
■大地の狭間の海
地中海は、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、3つのテラ(大地)の狭間の海である。
夏、人々は穏やかな海を自由に航海できた。様々な土地に旅することができた。
「葡萄酒色の海」4)と呼ばれる地中海を、フェニキア人、ギリシア人、ローマ人は、融通無碍に航海した。地中海人は東のレヴァントから西のジブラルタルまで縦横に航海した。そしてさらにギリシア人は大西洋を航行した。ギリシア・ローマの都市国家は、地中海の岸辺にある。アテネ、コリントス、ビザンティウム、シシリア島のシュラクサイ、エフェソス、ローマ、アレクサンドリアは、すべて地中海の岸辺、或いは海から遠からぬ所にある。
ローヌ、ポー、アルノ、テヴェレ、ナイルなど主なる河は、地中海に流れ込む。
さらに地中海からジブラルタル海峡を経て北上し、
グアダルキヴィル河を遡ると、セビリア、コルドバに到る。
アルノ河はルネサンスの都フィレンツェに流れ、
テヴェレ河は永遠の都ローマに、
ナイル河は世界の結び目アレクサンドリアに、
グアダルキヴィル河は西方の眞珠コルドバに流れる。
地中海につながるこれらの都市が不滅の文化空間を築き上げたことは言うまでもない。
地中海世界の都市には美意識があふれ、都市それ自身が藝術作品である。
すべての道はローマに通ず。また、すべての河は地中海に流れる。
地中海文明の濫觴は、古代オリエント・エジプト文明から始まる。
ギリシア、ローマ(ラテン)、イスラム、三つの文明領域から成り立つ。 5)
地中海は、重層する文化空間に、文明の経糸と緯糸で織り成された知恵の絨毯である。
■失われた時への旅
地中海文明の地を歩み、集積された人類の叡智、地中海様式の不朽の文化遺産、比類なく美しい地中海都市の秘密、これらの源を探究し続ける。
大地に刻まれた襞に降り立ち、黄昏の丘に立ち、アラブの迷路を歩き、海峡を渡り、人間の尊厳の美しさを見に行こう。「人間について、大地が、万巻の書より多くを教える」6)。
或る秋、ヨーロッパに旅立った。そして月日が流れ、いく度か地中海文明の地へ旅に出た。黄昏の海に潮騒がとどろく時、愛憎と怨恨は一つに融け、精神は至上の時に到る。精神とは記憶であり、精神が刻まれた場所が都市である。地中海世界には【藝術としての國家】がある。私は思い出す。花の都フィレンツェ、エル・グレコが愛したトレド、夕暮のグラナダ、三日月が輝く海の都イスタンブール。
地中海の都市國家は、目に見える美しい空間である。美しすぎる場所。地中海には不滅の國がある。美しい時は一瞬であり、瞬間の中に永遠がある。しかし、美しい時は、永遠に記憶の中に残る。
旅立とう、きみと共に。失われた時への旅に。未来に連なる旅に。
注
1) 『謝肉祭の歌』
2) アイスキュロス『ペルシア人』
3)プラトン『クリトン』
4) ヘシオドス『仕事と日々』
5)cf.F.ブローデル『地中海』
6) サンテグジュペリ『人間の土地』
★エーゲ海の黎明
★トラヤヌス神殿(ペルガモン)
★サンタマリア・デル・フィオーレ(フィレンツェ)
COPYRIGHT大久保正雄 2000.9.26
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