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2016年5月の記事

2016年5月31日 (火)

スペインの光と影 アンダルシアの哲学者

Ookubomasao19Ookubomasao20Ookubomasao21Ookubomasao22Ookubomasao23大久保正雄「地中海紀行」第8回

アンダルシアの光と影

燃え上がるように美しい、アンダルシアの夕暮。
愛のように甘く、死のように美しい黄昏時。
地中海に夕日が沈む時、黄昏の光が満ち、
永遠の旅人は憂いを忘れる。
風薫る光のなかに魂は融け、夕暮の諧調が聞こえる。

地中海の見える処、
黄昏の時刻ならば何処でもよい、
地中海の潮騒の響きを聞きながら、瞑想する。
不滅の魂のことばを刻む、至上の時。

コスタ・デル・ソルの黄金の夕映え、
美しい貴婦人の眼差しのように、
地上の美しきものはすべて滅びる。
彷徨える魂に瞑想の地を。
魅せられたる魂の地、アンダルシア。
わが魂をアンダルシアの聖地に埋めよ。
―――――

イブン・ハズム『鳩の頸飾り』

大樹林の伽藍、荘重な闇に足を踏み入れる時、
魂は時の迷宮に迷う。
イブン・ハズムの波瀾に満ちた生涯のように、
波瀾にみちた書物の運命。
探し求めるイスラム學者、
書庫の闇に埋もれた八百年の星霜。
幻の美しい哲学書、
失われた幻の書『鳩の頸飾り』の原本。
滅亡するアル・アンダルスが放つ光芒のように、
永遠に美しい謎。

【アンダルシアの光と影】
 アンダルシア、その甘美にして妖艶な殘香、黄昏の殘光の比類ない美しさは、なにゆえであろうか。
 避けられぬ苦難に死力を盡くす、運命に抗し苦闘を繰り広げることこそ、死すべき人間の使命であり、人間の尊厳がある。あらゆる苦闘の果てに、傷ついた魂を受け容れる最果ての地。聖者たちの地、アンダルシア。哲學者たちの都コルドバ。イスラーム教、キリスト教、ユダヤ教が共存する多宗教空間に、絶對者と眞理を探究する多彩な思想家が現れた。激しく愛し、美しく生きて死せる者は殉教者である。
 アラブ人は、イベリア半島の南の地方をアル・アンダルスと呼んだ。アル・アンダルスは「気候はシリアのごとく温和、地はヤマンのごとく豊饒、花と香料はインドのごとく満ち、宝石と貴金属は中國のごとく満ち溢れ、そして海岸はアデンのごとく船の停泊に有利である」と歌われた。アンダルシアは地上の樂園である、とアラブ人は言う。アンダルシアは、澄みわたる空、魚貝に満ちた美しい海、熟れた果實、可憐な女性たちに恵まれた美しい地である。(cf.前嶋信次「地上の樂園アンダルス」)
 アンダルシアの木蔭より来る芳しい香りは、アンダルシアの詩人が詠った、美しい黄昏、グアダルキヴィル河のさざなみ、睡蓮の花、ジャスミンの花弁、そして爛熟した學問、咲き亂れる藝術の花々から立ち昇る。

■アル・アンダルス
 アル・アンダルス(al-Andalus)には、8世紀はじめから15世紀末に至る8百年間、多くのイスーラム王朝が興亡した。アル・アンダルスは、イスラームによるイベリア半島の呼称であり、イスラーム・スペインの支配領域を指す。南スペイン・アンダルシア地方はこの名に由來する。
 語源は「ヴァンダル人の國」を意味する。しかしヴァンダル族は、イベリア半島を追われ、5世紀、地中海の對岸アフリカのカルタゴにヴァンダル王國(429-534)を築いた。先進的な先住民を抑圧、統治に失敗、再びその地を追われ地中海を渡り北上する。
 アンダルスの領域は時代によって変貌した。最大の領域は後ウマイヤ朝の宰相アル・マンスール(al-Mansur.?-1002)の時代である。北部を除くイベリア半島の大部分を領した。
 アル・アンダルスはシチリア島、ヴェネツィアとともに、東西文化交流史の重要な経路であり、この地を經由して中世イスラーム、古代ギリシアの樣々な技術、學問、思想、藝術がピレネーの山嶺を越えて、中世ヨーロッパ世界に波状的に影響を与え續けた。アル・アンダルスは、西方イスラーム世界において独自の洗練された文化樣式を創造した。

■アンダルシア文化史
 イスラーム・スペイン史、即ち、後ウマイヤ朝(756年5月)からグラナダ王國ナスル朝(1492年1月2日)の終焉まで、八百年間、榮華を誇るアンダルシア文化史は、詩人、偉大な哲學者が百花繚亂、夜空に瞬く星のごとく、出現した。
 統治階級はアラブ人とベルベル人であったが、人口の大半はユダヤ人を含む先住のスペイン人であり、彼らがムスリムとなり或いはモサラベとなり文化活動に参加、イスラーム文化がイベリア化し、豊饒なアンダルス文化の花が咲き亂れた。アブド・アッラフマーン3世、アル・ハカム2世に代表される後ウマイヤ朝、分裂諸王朝時代の學問・文化保護政策は、アンダルシア人の好學心、探究心を政治的に庇護した。
 アンダルスの學問・藝術は、ピレネー山脈を越えて、中世ヨーロッパに持續的に流入した。伝播に大きな役割を果たしたのはトレド翻訳學派である。賢王アルフォンソ10世(1221-84)の時に頂点に達し、膨大なアラビア語文献がヨーロッパ語に翻訳された。

■アンダルシアの哲學者たち
 洗練された文化を咲き誇ったアンダルシアの花影は、レコンキスタの戰いの嵐とともに枯れ果てた。荒野に殘されたアンダルシア文化の花の一部は、12・13世紀トレド翻訳學派によって滅亡の危機から救われ、ピレネー山脈の白き嶺を越えて西欧に齎された。しかしレコンキスタの嵐の中で、夥しい書物がこの世から消えた。
 アンダルシア人は、學問と藝術、理性と感性の類い稀なる調和の感覺をもつ。地中海人は、美と眞理のこの世に類い稀なる融合を生み出した。アンダルシア人は、ギリシア人、ローマ人と同じく、美と眞理に對する優れた感覺をもつ。
 洗練されたアンダルシア文化の花は、また偉大な哲學者たちを生みだした。亂世に咲く花のように、ウマイヤ朝末期、各地の都市が群雄割拠する分裂諸王時代、優れた哲學者たちが、アンダルシアに生まれ、形而上學、認識論、神秘主義、樣々な思想の花が咲き亂れた。
 亂世を生きた孤高の哲學者イブン・ハズム。アリストテレス注釈の巨匠イブン・ルシュド(Ibn Rushd=Averroes.1126-98)。タルムード學の権威マイモニデス(Maimonides. 1135-1204)。イスラーム神秘主義の偉大な巨匠イブン・アルアラビー(Ibn al-Arabi. 1165-1240)。哲學者たちが、アンダルシアに生まれ、彷徨し、旅と瞑想に生きた。
 哲學の歴史はプラトン哲學とアリストテレス哲學の對決・抗爭の歴史である。イスラーム哲學史、アンダルシアの哲學においても、プラトン主義、新プラトン主義とアリストテレス主義が入り亂れ、對立・抗爭を繰り広げた。

【地中海人列伝6】
イブン・ハズム 『鳩の頸飾り』の著者
 イブン・ハズム(Ibn Hazm.994-1064)。コルドバの名家に生まれ、あらゆる學藝を身につけた博學の士であり、彼の中には詩人、思想家、法學者、哲學者、歴史家が共存する。プラトン主義者、比較宗教史家。名門の子として生まれ、稀有の才能に恵まれながら、転々として流離の生活を送った。若くして戰亂に巻き込まれ、各地を流浪しながら膨大な著作を著した。主著『諸分派についての書』『鳩の頸飾り』(cf.アンリ・コルバン『イスラーム哲学史』)
 1002年アル・マンスールが死に、その子アブドル・マリクが死に、サンチェロが地位につくと、1009年2月15日ムハンマド・アル・マフディーがクーデターを起こし、カリフの地位についた。イブン・ハズム一族は、ザーヒラの家を立ち退き、バラート・ムギースの屋敷に移った。かくして一つの才能が命をとりとめ、苦難に満ちた生涯を續けることになった。1012年6月父アフマド・イブン・ハズムは、失意のうちにこの世を去る。1013年ベルベル人傭兵がコルドバを襲撃、コルドバは戦亂に燃え、イブン・ハズム一族の屋敷も破壊された。イブン・ハズムは、7月13日地中海を臨む港町アルメリアに逃れる。1016年アルメリア領主により数ヶ月投獄された後、追放される。1016年アブド・アッラフマーン4世がコルドバを奪還するため擧兵、イブン・ハズムはこれに加わり宰相となるが、グラナダの戦いで敗北、捕えられて投獄される。しかし餘命をつなぎ、1018年2月、5年ぶりにハンムード家の支配下にある故郷コルドバに歸る。
 1023年12月ウマイヤ家が政権を奪還し、アブド・アッラフマーン5世(1002-1024)がカリフの地位につき、29歳のイブン・ハズムはまた宰相の地位についた。しかし7週間後、新カリフは暗殺され、イブン・ハズムは三度目の投獄を經驗する。イブン・ハズムは、二たび宰相の地位に上り、三たび獄中の苦しみを味わう。1027年イブン・ハズムはハーティバに難を逃れ、ハーティバの地で『鳩の頸飾り』を書く。
 主著『諸分派についての書』は、ザーヒリーヤ派法學に依拠する比較宗教史の書である。體制に阿諛するマーリク派法學隆盛の時代に、ザーヒリーヤ派法學を信念として體系を構築し、あらゆる処で論爭を巻き起こした。マヨルカ島に難を逃れたが論爭を起こし放逐された。クルアーン原典に厳密に依拠するザーヒリーヤ派は、非密教的法學であるが、密教的神秘主義と矛盾しない。「天啓の書」は、神に至る扉である。
 1064年8月、イブン・ハズムは七十歳でマンタ・リーシャムで生涯を閉じるまでに、運命に翻弄され苦難を甘受しながら、約4百篇の著作を著した。著作の大部分はセビリアで焚書され灰燼に歸した。イブン・ハズムは、思想上の理由から、至るところで激しい迫害を受けた。

■『鳩の頸飾り』
 イブン・ハズムの死後600年後、17世紀、オランダ政府からオスマン・トルコ宮廷に派遣された大使ヴァルナーは、22年間イスタンブールに在任し、古書の蒐集に没頭、その後、膨大な稀覯本はライデン大學に寄贈され、200年の間、圖書館の闇の中に埋もれていた。『鳩の頸飾り』は、19世紀、アンダルシアを専門とするイスラム學者によって発見され、ドズィー『スペイン・イスラーム史』1861に第27章が翻訳された。これはこの世に現存する『鳩の頸飾り』唯一の寫本であるが、完本ではなく抄録である。幻の原本『鳩の頸飾り』は今も行く方が知れない。
 第24章「別離」には荒廃したコルドバに對する愛惜の情が立ち籠め、第27章「忘却」にはコルドバにおける失われた恋の思い出が流麗な文體で時間の狭間にとどめられている。
 『鳩の頸飾り』はイスラム恋愛論の白眉であり、プラトン『饗宴』『パイドロス』の影響を受けている。「現世において切り離された魂の、魂本来の高貴な要素における結合である。」「魂の合一にのみ原因をもつ渇望に根ざす愛」「眞の愛は魂の結合である。」「魂はそれ自體美しいため、あらゆる美を好む。」 (cf.第1章「愛の本質」)
 イブン・ハズム。不遇な天才。不幸な時代に生まれ、あらゆる學藝に通暁する傑出した思想家、彷徨える哲學者である。
 苦難に満ちた生涯が魂を淨化し、淨化された魂が洗練された學問を生み出す。苦悩によって洗練された、高貴な魂のみが生みだす洗練された學問。洗練された美しい書物。
 波瀾に満ちた生涯のように、数奇な運命を辿る著書。八百年の眠りから蘇る不滅の魂。血によって書かれた書物のみが不滅の価値をもつ。
★参考文献
イブン・ハズム黒田壽郎訳『鳩の頸飾り』イスラム古典叢書 岩波書店1975
W・モンゴメリー・ワット黒田壽郎・柏木英彦訳『イスラーム・スペイン史』岩波書店1976
アンリ・コルバン黒田壽郎・柏木英彦訳『イスラーム哲学史』岩波書店1974
 第8章アンダルシアの哲学 PP.262-299
サイード・フセイン・ナスル黒田壽郎・柏木英彦訳『イスラームの哲学者たち』岩波書店1975
 第3章イブン・アラビーとスーフィーたち PP.135-206
井筒俊彦『イスラーム思想史』岩波書店1975
井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書1980
井筒俊彦『イスラーム生誕』人文書院1979
前嶋信次『イスラム世界』河出書房新社1968
前嶋信次『イスラムの蔭に』河出書房新社1975 河出文庫1991
池上岑夫・牛島信明・神吉敬三監修『スペイン・ポルトガルを知る事典』平凡社1992
伊東俊太郎『12世紀ルネサンス 西欧文明へのアラビア文明の影響』岩波書店1993
 12世紀ルネサンスのルートと担い手pp.48-54, pp.160-171
★コルドバの黄昏
★アルカサール
★アルカサール アラブ式庭園
★アンダルシアの白い町
★コルドバ レストランのパティオ
COPYRIGHT大久保正雄 2001.03.28

2016年5月30日 (月)

狂人皇帝たちの宴 ローマ帝国 

Forum_romanumForumromanumFederico_fellini_satyricon_2大久保正雄「地中海紀行」第6回—2
狂人皇帝たちの宴 ローマ帝国 

狂帝、愚帝、無能皇帝、凡庸なる者たちの支配する国、狂人皇帝たちの宴。
最低な人間が最高の地位につく。無能な人間が地位につき、知性ある人が下の地位に立つ。ローマ皇帝カリギュラ、クラウディウス、ネロ、いつの時代でも、古今東西、枚擧に遑がない。邪悪な支配階級に対する反乱は為されるべし。
いかさま師が皇帝になる。天の怒り、天誅、下るべし。
美し魂は、美のために戦う。哲学は、哲学者のいのちによって、現成しなければならない。
魂に刻まれたことばのみが、不滅の生命をもつ。大久保正雄
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
http://t.co/Pxwev5SMbW
*大久保正雄『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社
http://t.co/XGI0R3tqFX

■ローマ帝国、狂人皇帝たちの宴
狂帝カリギュラ
 三十歳の時、セネカはエジプトからローマに歸り、財務官の地位を得て元老院に入り、元老院及び法廷で卓越した弁論術によって名聲を獲得した。しかし紀元37年、ガイウス帝(狂帝カリギュラAD12-41)が即位すると、名聲が身の危険を招いた。卓越した弁論の勲功が、皇帝カリギュラの嫉妬を招き、逆鱗に觸れ、処刑寸前、皇帝の愛人の取り成しによって、危うく死を免れた。この時期37-41年に書かれた書物に『道徳論集』と「初期対話編」がある。「皇帝カリギュラは、傲慢と殘忍に勝るとも劣らぬ嫉妬心と悪意で、あらゆる時代の人を攻撃した。」(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』第4巻)
愚昧帝クラウディウス
 41年、カリギュラは、暗殺者の剣によって突き刺され29歳で死んだ。クラウディウス帝(BC10-54)が即位した。クラウディウス即位の年、セネカはカリギュラの妹ユゥリア・リヴィラとの姦通罪の罪に問われ、判決を受け、コルシカ島に追放された。これはクラウディウス帝の皇后メッサリナと共犯者との陰謀によるものであり、セネカは冤罪の犠牲であった。この時、流刑地コルシカ島で母ヘルヴィアのために『慰めについて』を執筆した。クラウディウス帝は、母親が「人間の姿をした怪物」と呼び憎むほど、肉體も精神も虚弱で、笑うと下品になり怒ると口から泡を飛ばし鼻水を垂らした。生まれつき殘忍で血を好んだ。しかし學問を好み、ギリシア語で歴史書『エトルリア史』20巻、『カルタゴ史』8巻を書いた。(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』第5巻)
狂帝ネロ
 48年皇后メッサリナが不義密通によって処刑され、アグリッピナがクラウディウス帝の新しい后になる。49年アグリッピナは流刑8年のセネカをコルシカ島から呼び戻し、息子ネロ(12歳)の教育を委ねた。54年クラウディウス帝死す。アグリッピナが、我が子ネロ(37-68)を帝位に就かせようと企み、皇帝の好物の茸に毒を盛り毒殺したのである。(cf.スエトニウス『ローマ皇帝伝』第5巻)56年セネカは執政官補佐官となった。その後、アグリッピナはクラウディウスの子ゲルマニクスを帝位に就けようとしたという陰謀の嫌疑を受けたが、ゲルマニクスが毒殺され難を逃れた。ネロは次第に凶暴性を露わにして來た。59年ネロは、母アグリッピナを溺死に偽裝して殺そうとしたが、殺害に失敗。アグリッピナは一人の海軍士官によって殺害された。62年ネロは美貌の貴婦人ポッパエアと結婚するため、妻オクタヴィアに冤罪を着せ幽閉し殺害。しかし65年夏、ネロは妊娠中のポッパエアを蹴り殺す。62年セネカの盟友ブルス親衛隊長が自殺して死ぬと、元老院議員の嫉妬により攻撃の的となっていたセネカは孤立した。セネカは隠退を願い出て、莫大な財産を皇帝に譲渡することを申し出た。願い出は拒否されたが、隠退は暗黙の内に了解された。セネカは公的生活を退き、殘りの歳月を哲學の研究と友との親交とのうちに暮らす。 62-65年、最晩年の隠遁期、『道徳書簡』20巻を執筆した。

【地中海人列伝5 セネカ】コルドバ生まれの哲学者、ローマで死ぬ
哲学は、哲学者の戦いによって、贖われなければならない。
血によって、魂に刻まれたことばのみが、不滅の生命をもつ。大久保正雄
 紀元1-2世紀ローマ帝國時代、多彩なストア派哲學者が生まれた。エピクテトス、ヒエロクレス、セネカ、マルクス・アウレリウスである。ストア派の哲學は「理性に従って生きる」こと、普遍的な宇宙のロゴスの存在を教える。ストア派の哲學がローマ法の精神となって結実、ローマ帝國は地球上の基準(global standard)を構築した。
 セネカ(BC4-AD65)は、コルドバに生まれ、幼年期、父とともにローマに來て、修辞學と哲學を學んだ。

■セネカの死
 「最低の人間が最高の地位に就く」という現実は、カリギュラ、クラウディウス、ネロ、いつの時代でも古今東西、枚擧に遑がない。邪悪な皇帝に対する反乱は為されるべきである。65年ガイウス・ピソがネロに対する反逆の陰謀を企て、失敗した。ネロによる血の粛清が始まり、19人を死刑、13人を流刑に処した。セネカは反亂に荷担した疑いを受ける。ネロは自殺を命じ、百人隊を送った。ローマ郊外の別荘で、セネカは自殺を遂げる。セネカの死の場面は、タキトゥス『年代記』第15巻に次のように書かれている。
 「セネカは妻パウリーナに死を思い止まるように言ったが、パウリーナはこれに對して「私も死ぬ覚悟でいます。」と誓って、血管を切る執刀医の手を請うた。セネカは妻の凛々しい覺悟に不賛成ではない。のみならず、愛する妻をただ一人殘して危険な目に遭わすには彼の愛情は余りにも強かった。
「お前は生きるよりも、名譽ある死を選んだ。立派な手本を示そうとするお前の決心を妨げる気はない。二人とも同じように毅然たる最期を遂げるなら、お前の終焉はいっそう照り映えるだろう。」
 それから二人は同時に、短刀で腕の血管を切り開いて、血を流した。セネカは相当老いており、痩せてもいたので血の出方が悪かった。そこでさらに足首と膝の血管も切る。 激しい苦痛に、精魂も次第に盡き果てる。セネカは自分が悶え苦しむので、妻の意志が次第に挫けるのではないかと恐れ、一方自分も妻の喘ぐさまを見て、今にも自制心を失いそうになり、妻を説得して別室に引き取らせた。最後の瞬間に臨んでも、語りたい思想が滾滾と湧いてくる。ネロは、パウリーナに個人的な恨みを少しも持っていなかった。そして皇帝の残虐を呪う聲が広がるのを恐れ、彼女の死を阻むよう命じた。派遣された兵は、奴隷をせきたてて、彼女の腕を縛り血を止めさせた。彼女はそれから数年生き永らえたが、夫の遺影に對する貞節は賞賛に値する。セネカは死が手間取ってなかなか訪れないのを知ると、予て依頼してあった毒藥を与えてくれるように頼んだ。ソクラテスが飲み乾した毒人参である。すでに毒もきかないほど手足は冷え切って、五體の感覺が失われていた。彼は最後に熱湯の風呂に入り、発汗室に運ばれて、その熱気によって息を絶った。(cf.タキトゥス『年代記』第15巻63-64)
 スペインの情熱は、受難の劇から生まれる。藝術と學問は受難の華である。苦難のなかで、自己の哲學と生き方を追求したセネカの人生は、ヒスパニア人の名に値する。
 セネカは「人間の人間たる根拠は理性である」「魂は神の息であり、魂は不滅である」と書いた。血によって書かれた哲學のみが、哲學の名に値する。
★参考文献
(1)タキトゥス国原吉之助訳『年代記』世界古典文学全集22筑摩書房1965
(2)スエトニウス国原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上・下 岩波書店1986
(3)セネカ 茂手木元蔵訳『人生の短さについて』岩波文庫1980
(4)クリス・スカー著 青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社1998
★Foro Romano
★Fellini ,Satyricon
COPYRIGHT大久保正雄 2001.2.28
2016年5月30日

2016年5月29日 (日)

アンダルシアの光と影 コルドバ 列柱の森メスキータ

Ookubomasao15Ookubomasao16Ookubomasao17Ookubomasao18大久保正雄「地中海紀行」第6回—1 

地中海のほとり、アフリカをさすらい、
ジブラルタル海峡を渉り、戦いに命を賭けた日々。
はるか時を超えて、聞こえて來る。
あなたの憂い、孤独な聲。
地中海の彼方、ダマスカスの薔薇を思い出す。
棗椰子の樹に、降り注ぐ悲しみの涙。
あなたの囁き、西の果てアンダルシアに、
はるか時を超えて、
彷徨う、英雄の孤独な魂が、
寺院の伽藍に結晶する。グアダルキヴィル河のほとり。
アラブの王アブド・アッラフマーン。孤独と意志の結晶。
英雄の死の上に、壮麗な寺院は立つ。

【地中海人列伝-5】アブド・アッラフマーン1世
 アブド・アッラフマーン(Abd al-Rahman・731-788)は、ダマスカス郊外で生まれる。ウマイヤ朝第10代カリフ・ヒシャームの孫である。
 シリアのダマスカスから、地中海、アフリカを経て、アンダルシアに來り、756年ウマイヤ朝を再興、コルドバを首都にする。
 750年アッバース朝がイラク全土を制圧し、ウマイヤ朝が滅亡した。この時、二十歳の若者であったアブド・アッラフマーンは、ウマイヤ一族が虐殺されるなか、身を潜めて死を免れた。「長身で、眉目秀麗、決断力と教養を有し、誇り高く不屈の気性の持ち主」である。五年間、地中海のほとり、ベルベル人の間をさまよい歩く。崩壊したウマイヤ王朝を何処かの地で再興するという使命が、苦難に満ちた逃避行のなかで、魂を根底から支えていた。アッバース家の黒旗の追撃を逃れ、ユーフラテス河を泳いで對岸に渡った。パレスティナで庇護者を見つけ、アッバース家の威令のいまだ届かぬ北アフリカに逃れ、755年モロッコに辿り着く。756年ジブラルタル海峡を渡って、グラナダに到着した。当時、アル・アンダルスは指導者を欠き混沌とした状態にあった。
 アブド・アッラフマーンはムスリムを糾合、緑の旗を立ててコルドバへと進撃して、756年五月、アミール・ユースフの抵抗を撃退し、首都コルドバに入城、後ウマイヤ朝を創始した。ベルベル人の反亂やアッバース朝が糸を引く反亂を鎭めて王朝の礎を築く。シャルルマーニュ(=カール大帝742-814)がイベリア半島のサラゴサに進撃して来るとこれを迎撃、ピレネー山脈の狭隘な隘路を追撃し、フランク軍に打撃を与えた。サラゴサの領有をめぐるシャルルマーニュとの戦いは、武勲詩『ロランの歌』に歌われている。
 アブド・アッラフマーン1世の生涯は、戦いに明け戦いに暮れた人生である。755年五月アミール(総督)軍とコルドバで戦い、763年アッバース朝遠征軍と戦い、778年サラゴサ攻略をめざすシャルルマーニュ軍と戦う。32年間の戦いの果てに、周囲から恐れられ、孤独な老境に入る。
 歴戦の英雄、「クライシュ族の鷹」と謳われたアブド・アッラフマーンは、放浪と戦いの人生の果てに、望郷の念に駆られ、故郷ダマスカスの棗椰子の樹を離宮の庭に植えさせた。離宮の名はアル・ルサーファ(al Ruzafa)とよび、ウマイヤ家の夏の離宮があった思い出の地の名である。勝利と榮光の果てに、聡明なアブド・アッラフマーンは、深い孤独を感じた。アンダルシアの涯てから、はるか地中海の彼方、アラビア半島、故郷ダマスカス、ウマイヤ・モスクを回想した。785年、孤独なアラブ王は異郷の地で望郷の想いを癒すために、グアダルキヴィル河河畔に、メスキータの建設を始めた。
 英雄の死の上に、壮麗な寺院は立つ。
【大理石の列柱の森】メスキータ
 メスキータ(Mezquita)は、闇の中に広がる列柱の森。世界で最も壮麗な内部空間。闇のなかの列柱の森に、空から光が降る。林立する列柱の間に、木洩れ日のように、微光が降り注ぐ。世界で最も美しい闇である。人は、この空間に足を踏み入れると、迷宮のような854本の柱の森に迷い込み、魂は宇宙の根源に歸り、融けこむ。
 メスキータは、イスラーム・スペイン建築の最高傑作である。アンダルシアの地に後ウマイヤ王朝を創始したアブド・アッラフマーン1世(731-788)が、785年、望郷の念に駆られ、故郷ダマスカスのウマイヤ・モスクを回想して起工した。アブド・アッラフマーン1世は着工後2年にしてこの世を去る。死後1年、789年ヒシャーム1世(788-796)によって完成された。第1次建築は、オレンジの中庭とアラブ様式の多柱式礼拝堂からなる長方形プラン(平面圖)の石造建築である。その後、アブド・アッラフマーン2世(822-852)、アル・ハッカム2世(961-976)、アル・マンスール(978-1002)によって、987年まで4次に亙り増築工事が重ねられた。現在の規模に至るまで、200年の歳月を要した。
 免罪の門に入り、オレンジの中庭を抜けると棕櫚の門がある。棕櫚の門を通り多柱室を経て南にミフラブがある。棕櫚の門とミフラブを結ぶ軸線はメッカの方角を指し示す。
 大屋根を支えるためコリントス樣式円柱にピアを重ね、その上に白い石と赤煉瓦による縞模様の二層アーチ(馬蹄形アーチ、半円形アーチ、多弁形アーチ)を載せる。二層アーチの発想は、ローマの水道橋による。モザイク、漆喰細工によって華麗に装飾されたミフラブ(壁龕)が八角形プランの小房に設けられる。
 馬蹄形アーチは、西ゴート美術起源の伝統を継承する樣式であり、東方起源の動物文樣、植物文樣、イスラーム美術特有の執拗にして陶酔的なアラベスク模樣の反覆リズム、幾何学模樣が摂取・合一されている。西ゴート樣式とアラブ樣式が融合した樣式はモサラベ樣式と呼ばれる。
 ローマ、ヘレニズム、西ゴート、ビザンティン、アラブ、ペルシア、樣々な美術樣式が、一つの建築に融合されている。地中海に興亡した二千年の文明史が、此処に融け合い寺院の形象として現れる。
 1236年カスティーリア王フェルナンド3世のレコンキスタ(再征服)によってキリスト教の大聖堂(カテドラル)に転用された。1523年キリスト教徒によってゴシック樣式の教会への改築が行なわれ1750年に完成した。破壊的改築が行なわれ、無慚な姿を曝している。レコンキスタの愚擧である。1400本あった美しい大理石の柱は、現在854本を残すのみである。
 メスキータ列柱の間は、ギリシア、エジプト、ペルシア、地中海地域における多柱室(ヒュポステュロスhypostylos)の構造である。例えば、パルテノン神殿の周柱式(ペリステュロスperistylos)神殿の理念的構築と根本的に異なる。ルクソールのカルナック神殿、アブシンベル神殿大列柱室、ペルセポリス・百柱の間、林立する列柱の間は、神的精神が漂う神聖な空間である。1525年神聖ローマ皇帝カール5世はメスキータを「この世界の何処を訪ねても、他にはないもの」と言った。外観の建築ではない内部空間の建築である。多柱空間は、構築的であることを否定し、非構築的な無限の反復、美しい迷宮のなかに現身の魂を包みこみ、魂は生命の源に歸り蘇る。
 壮麗な寺院の誕生は、英雄の死によって贖われる。

参考文献
(1)タキトゥス国原吉之助訳『年代記』世界古典文学全集22筑摩書房1965
(2)スエトニウス国原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上・下 岩波書店1986
(3)セネカ 茂手木元蔵訳『人生の短さについて』岩波文庫1980
(4)クリス・スカー著 青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社1998
(5)前嶋信次『イスラム世界』河出書房新社1968
(6)前嶋信次『イスラムの蔭に』河出書房新社1975 河出文庫1991
(7)安引宏・佐伯泰英『新アルハンブラ物語』新潮社1991
(8)佐藤輝夫訳『ローランの歌』ちくま文庫1994
(9)隈研吾『新・建築入門 思想と歴史』ちくま新書1994
(10)川成洋『図説スペインの歴史』河出書房新社1993
(11)池上岑夫・牛島信明・神吉敬三監修『スペイン・ポルトガルを知る事典』平凡社1992
★アルミナールの塔
★ローマ橋とコルドバの町
★メスキータ 列柱の間
★メスキータ
★メスキータ
COPYRIGHT大久保正雄 2001.2.28

2016年5月28日 (土)

哀愁の大地スペイン 西方の真珠コルドバ

Ookubomasao11Ookubomasao12Ookubomasao13Ookubomasao14大久保正雄「地中海紀行」第5回

黄昏のアンダルシア。
眞珠の輝き、コルドバ。
輝き亙る蒼穹の下に、
輝きの都は眠る。いにしえの愁いを忘れて。
アル・アンダルスの殘照を曳き、
黄昏の光が満ちて來る。
ローマ橋に佇み、光と風のなかを、歩む。
私は黄昏の旅人である。
夕日を浴びるコルドバの丘の上、
ローマ帝國の末裔、美しい乙女は、
美しい瞳で、異國の旅人に微笑む。
光満ちる時、黄昏のアンダルシア。
月の輝く美しい夜。王妃の面影に似た美しい宮殿は幻。
瞬く星のように、暗闇の中に燦めく眞珠の輝き、コルドバ。
魂を魅了する地、アンダルシア。

【夜間飛行】
 ヴェガ・シシリア・ウニコ(Vega Sicilia Unico)*の盃を傾けると、スペインの哀愁が瞼に蘇る。地中海の三位一体を生む、オリーブ林、小麦畑、葡萄畑の彼方に、荒れ果てた大地が目に浮かぶ。この世界の片隅で不遇に甘んじて生きる詩人と、この葡萄酒を飲む時、スペインの憂いが紫の雫となって滴り、心のなかで木霊する。歸りたい。しかし、何処へか。
 春の宵、雪降るチューリッヒから、スイス航空でリスボンに向かって飛び立った。飛行機の中で、スチュワーデスが持って来たカヴァを飲むと、グラスの泡立ちのなかで、地上の苦悩が泡のように融けて行く。夜空の下に広がるスペインの大地。スペインの都市が、絶海の孤島のように、漆黒の闇の中に、煌き輝く。スペインの空を飛行したサンテグジュペリを思い出す。地中海の空に消えたサンテグジュペリ(1900-1944)。その孤独な魂が、イベリア半島を超えてモロッコへ飛行したのはトゥールーズ・ダカール路線。1926年から1929年である。飛行機がリスボンに着いたのは眞夜中である。そこはすでに春であった。ポルトガルの古城には可憐な花が咲き乱れている。
 東の果てから來た旅人の心に、イベリア半島が、強いノスタルジアを懐かせるのは何故か。地中海文明は、ヨーロッパの大地に広がり、瀧のように流れ落ちる。東の果てはロシア、西の果てはスペイン。地の果てには、哀愁の地がある。戦いの果てに流された夥しい血。英雄の遺恨と詩人の怨念が、乾いた大地(La Mancha)に染み込み、零り積もる。
 イベリア半島では、地中海の三位一体は、オレンジの樹林、アーモンドの木々、葡萄畑から成る。早春のスペインは、街路樹のオレンジが実り、アーモンドの花が桜のように咲き乱れる。
*[cf.ヴェガ・シシリア・ウニコ(Vega Sicilia Unico. Gran Reserva)は、ドゥエロ河流域リベラ・デル・ドゥエロ(Ribera del Duero)の銘酒である]

【哀愁の大地、スペイン】
 地中海、アフリカ、ピレネー山脈の東から、イベリア半島には、樣々な種族が、往き來した。イベロ族、原バスク人、ケルト人、ギリシア人、フェニキア人、ローマ人、イベロ・ローマ人、ゲルマン人(スエヴィ族、アラン族、ヴァンダル族)、西ゴート族、ベルベル人、アラブ人。多種多樣の民族が越境、渡來、移住、荒野で死闘を繰り広げ、先住民族を征服し、また征服された。征服者(conquistador)の勝利と榮光の影に、征服された者の血と涙がある。
 711年7月、グアダレーテ河の戦いで戦死した、
 西ゴート王國、最後の王ロドリーゴの無念の血涙。
 1492年1月2日、グラナダ王國、ナスル朝最後の王ボアブディルが、
 愛するアルハムブラから離れ去る時、流す惜別の涙。
 アルフォンソ6世の逆恨みによりカスティーリア王國を追われ、
 生涯、亡命者として生き、1099年、異郷バレンシアで果てた、
 英雄エル・シドの流す遺恨の涙。
 1936年フランコ派により銃殺され、38年の余りにも短い生涯を終える、
 アンダルシアを愛した詩人ガルシア・ロルカ。
 いま此処に在る國家の滅亡を心から願う。死せる英雄の魂。
 地の底から、恨みの血が迸る。
 大地が吸った血は、消滅せず。凝結して、復讐を呼ぶ。
 劫罰が下るまで、罪を負う者は、罪責の疼きに、堪えねばならぬ。
 流血は流血を呼び、復讐は復讐を招く。
 だが、恨みの血は、土に埋もれて、千年の後、玉髄となる。
 知恵は傷の裂け目から花開き、美は生命を生贄にしてのみ生まれる。

【コルドバ 西方の眞珠】
 いつまでもそこに佇み、いつまでも眺めていたい風景がある。
 グアダルキヴィル河の對岸から、ローマ橋の彼方にメスキータを眺める、黄昏時。アンダルシア地方で、最も美しい都コルドバ。
 ローマ橋に佇むと、ローマ帝國時代、榮光のコルドバが蘇る。ヒスパニアは、五賢帝時代、二人の皇帝、トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝を生みだした。また哲人皇帝マルクス・アウレリウスの祖父マルクス・アンニウス・ウェルスは、コルドバ郊外出身の貴族である。
 コルドバは、イスラーム・スペイン王朝、後ウマイヤ朝アル・アンダルスの時代(756-1031)に黄金期に達する。
 コルドバには、ローマ帝國、西ゴート王國、後ウマイヤ朝アル・アンダルス、カスティーリア王國、数々の國家が君臨し、そして滅亡した。
 コルドバは多くの哲學者、文人を生み出した都市である。ローマ時代には、セネカ(BC4-AD65)がこの地で生まれ、ネロの家庭教師となり、執政官補佐官、皇帝ネロの後見人となった。その千年後、この地に、イスラーム哲學史に不朽の名をとどめる哲學者たちが生まれた。11世紀、イヴン・ハズム(994-1064)は名著『鳩の頸飾り』を殘し、12世紀、イブン・ルシュド (アヴェロエス1126-98)は、膨大なアリストテレス注釈書と『哲學と宗教の調和』を殘した。
 イスラーム哲學史第一期の頂点は、イブン・スィーナー(アヴィセンナ980-1037)とイブン・ルシュドである。イブン・ルシュドは、アリストテレス主義の立場から、イブン・スィーナーにおける新プラトン主義を批判した。そしてイブン・ルシュドは、若きイブン・アルアラビー(1165-1240)とコルドバの家で出会い、決別した。二人の對決の根底には思弁哲學と神秘哲學の對立があった。
 コルドバの魂の結晶はメスキータである。メスキータは林立する八百五十本の列柱を蔵する。古代ローマ時代にはこの場所に神殿が建っていた。古代ギリシアから運ばれてきたコリントス樣式の列柱の上に、785年、後ウマイヤ朝時代にイスラムの赤白二色の二重アーチが組み立てられイスラム寺院となる。メスキータとは、モスクの意であり、跪く所=広間を意味する。イスラム寺院は広間と光塔(ミナレット)があれば成立する。さらに13世紀、レコンキスタ(再征服)の後、1236年キリスト教のカテドラルが作られた。メスキータの建築を見るとき、人はヨーロッパの時の流れを見るのである。メスキータの内部は、大理石の列柱の森であり、空から微光が舞い降りる、荘厳で神秘的な空間である。大理石の列柱の間は椰子の枝が交差する暗闇のオアシスである。世界で最も壮麗な内部空間。移ろう二千年の時の流れを超えて、偉大な精神の結晶が此処にある。
 いつまでもそこに佇み、いつまでも眺めていたい風景がある。

【スペイン史 多民族の邂逅と死闘の舞台】
 イベリア半島の歴史は、前期石器時代に始まる。有史以後、紀元前900年頃、印欧語族の諸民族がピレネー山脈を越えてイベリア半島に侵入。カザフ・キルギス起源のケルト民族が平原より侵入、イベロ族と混血し、ケルト・イベロ族を形成した。スペインには、ローマ帝國、西ゴート王國、後ウマイヤ王朝、ナスル王朝、カスティーリア王國、樣々な國家が榮華を極め、滅亡した。
 イベリア半島は、その後1479年フェルナンド2世が即位、カスティーリア王國・アラゴン王國、共同統治開始。1492年グラナダ王國陥落、ナスル王朝滅亡。イスラーム・スペイン八百年の歴史が終焉する。1516年、狂える王女ファナの皇子カルロス1世が即位、ハプスブルク王朝が始まる。1700年カルロス2世没。ブルボン王朝によるスペイン支配開始。1808-1814年スペイン獨立戦爭。1873年第1共和制成立。1876年再びブルボン王朝がスペインを支配。1931年第2共和制成立。1936年7月17日、夕方スペイン領モロッコでスペイン内乱が勃発、スペイン全土に拡大し、39年4月1日終結。1940年フランコ獨裁政権が成立。1976年ファン・カルロス1世が民主政を樹立する。
 数々の王朝が榮え、滅亡したスペイン。荒野に花咲く夢と絶望。哀愁の大地スペイン。愛と憎しみのアンダルシア。だがスペインの苦悩と涙は、人類史に不朽の藝術を殘した。  アンダルシアの魂の結晶は、見える形においては、メスキータとアルハムブラにある。  美は価値を測る尺度の一つである。だが美そのものは見えない。地上に於ける美しいものはすべて滅びる。アンダルシアの建築は、滅びるものの美しさ、存在するものの悲しみを湛えている。
 アラブの迷路を歩き、パティオに現れた地上の樂園に佇む時、歴史が織りなす光と影の間から、滅びるものの美しさが、私の心を魅惑する。

参考文献
(1)W・モンゴメリー・ワット 黒田壽郎・柏木英彦訳『イスラーム・スペイン史』岩波書店1976
(2)アンリ・コルバン 黒田壽郎・柏木英彦訳『イスラーム哲学史』岩波書店1974
(3)サイード・フセイン・ナスル 黒田壽郎・柏木英彦訳『イスラームの哲学者たち』岩波書店1975
(4)井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書 岩波書店1980
(5)井筒俊彦『イスラーム思想史』岩波書店1975
(6)イブン・ハズム 黒田壽郎訳『鳩の頸飾り』イスラム古典叢書 岩波書店1975
(7)ワシントン・アーヴィング 平沼孝之訳『アルハンブラ物語』上下 岩波文庫1997
(8)長南実訳『エル・シードの歌』岩波文庫1998
(9)ガルシア・ロルカ 牛島信明訳『血の婚礼』岩波文庫1992
(10)南川高志『ローマ五賢帝「輝ける世紀」の虚像と実像』講談社現代新書1998
(11)池上岑夫・牛島信明・神吉敬三監修『スペイン・ポルトガルを知る事典』平凡社1992
(12)川成洋『図説スペインの歴史』河出書房新社1993
★黄昏のコルドバとグアダルキヴィル河
★黄昏のコルドバ
★ローマ橋とメスキータ
★オレンジの中庭
COPYRIGHT大久保正雄 2001.1.31

2016年5月27日 (金)

ルネサンスの奇人変人、フィリッポ・リッピ、カトリーヌ・ド・メディシス

Ookubomasao06Ookubomasao07Ookubomasao08Ookubomasao09Ookubomasao10大久保正雄「地中海紀行」第4回
ルネサンスの奇人変人、フィリッポ・リッピ、カトリーヌ・ド・メディシス

フィレンツェ発祥の地、
フィエーゾレの丘。
丘の上の糸杉、黄金色に輝く大地。
美しいものもいつかすべて滅びる。
すべて死に屈服する他ない。
一茎の百合ほどの力もない美が、
いかにして時間の侵蝕に抵抗できようか。
夏の香り高い微風が、
時の流れの腐蝕に耐え得ようか。
美しく高貴な魂、亡き人の美しき精神に、
花束を捧げよ。

【地中海人列伝2 フィリッポ・リッピ】
フィリッポ・リッピ(1406*-1469)は、純粋無比、清純可憐な美しい聖母子像を数多く描いた画家として有名で、『聖母子と天使たち』『聖ステファヌスと洗礼者ヨハネの生涯』他、数々の傑作を残した。しかしまた欲望の赴くままに生きる放蕩無頼の破戒僧であった。ヴァザーリ『藝術家列伝』には、フィリッポ・リッピの愛すべき個性的な生涯が書かれている。
フィリッポ・リッピはフィレンツェに生まれるが、生まれた時に母が、二歳の時に父が死に、誰も育てる者がいないため八歳の時サンタ・マリア・デル・カルミネ教会修道院に預けられた。フィリッポはカルミネ教会ブランカッチ礼拝堂で『聖ペテロ伝』壁画制作(1425-27)を行っていたマザッチョ(1401-28)に影響を受けたと推定される。画家マザッチョは余りにも若くして二十六歳で亡くなったので、彼の才能を妬む者によって毒殺されたと言われる。フィリッポは、「マザッチョの手法を体得したので、マザッチョの霊がフィリッポの体内に憑り移ったという噂が立った。」
フィリッポは、大変な女好きで自分の好みの女を見つけると、その女を掌中に収めるために自分の所有物すべてを与えるような人であった。あらゆる手段を駆使して女を手に入れることができない時は、女の肖像を繪に描いた。それは繪を描くことによって己の恋の焔を消すためであった。1456年サンタ・マルゲリータ修道院礼拝堂付司祭として、修道院の祭壇画の制作に取りかかった。この時、19歳の優雅で美しい修道女ルクレツィア・ブーティを見出した。聖母のモデルとする許可を求め裁可されたが、制作中、ルクレツィアと恋に落ちた。彼女を唆して、二人で駆落ちするに到った。教会から破門されるが、画才を高く評価されたため、許され処罰を免れた。1456年、フィリッポ・リッピ50歳の時である。
フィリッポは、色欲に溺れること甚だしい男であり、「コジモ・デ・メディチはフィリッポに自分の屋敷で仕事をさせようと思い、外に出て時間を潰すことがないように、室内に閉じ込めた。フィリッポは、欲情に駆られて我慢できず、或る夕方、鋏でシーツを細く切り裂き、窓から伝って下に降り、何日間も放蕩に耽った。コジモがいつも口癖のように言う言葉に<類稀な傑出した天才は天上のものであり、車引きの驢馬とは違う>という定型句がある。」
フィリッポは、自分の仕事によって名誉ある悠々とした生活を送り、情事に膨大な出費を重ねた。生きている間は女性問題が絶えず、死ぬまで恋愛を樂しんだ。フィリッポが死んだ時、女に余りに執拗に言い寄ったため、彼は女の親族の手で毒殺されたという噂が立った、と記録されている。
フィリッポ・リッピは、美しい女性像で有名であり、美人画の系統が此処にある。フィリッポの弟子がボッティチェリであり、そしてボッティチェリの弟子がフィリッポの子フィリッピーノ・リッピである。フィリッピーノは尼僧ルクレツィアとフィリッポとの間に生まれた子である。ボッティチェリは1456年から67年までフィリッポ・リッピの助手を務め、線描と色彩の技法を継承した。ボッティチェリは古代神話の主題を画面に構築、流麗な描線によって女性美の頂点を極め、耽美的世界の極致に到る。フィレンツェの優美かつ装飾的な様式を深化、ルネサンス様式の一つの頂点に到達した。ボッティチェリは未知の才能を見いだす優れた能力をもつメディチ一族によって見出され庇護された。ボッティチェリ『春』(1478)『ヴィーナスの誕生』(1482)には、死の憂愁と死せる人への哀愁が湛えられている。フィリッピーノの最高傑作『聖ベルナルドゥスの幻視』(1486)には師ボッティチェリの面影がある。フィレンツェの優美・艶麗な装飾的様式には、恋の炎に身を焦がしたルネサンス人の愛と憂愁が漂っている。
恋に溺れ、女性の美に耽溺、滅びゆく女性の美を画布の上に永久に留めたフィリッポ・リッピ。青春時代、地中海を航海中、難破して海賊船に捕らえられ、画才を認められて解放された経験がある。フィリッポは、典型的なルネサンス人であり、地中海人である。

【地中海人列伝3 カトリーヌ・ド・メディシス】
美貌と権力によって悪逆非道の限りを尽くした女性、或いは、愛欲と悪徳によって身を滅ぼした女性は、悪女と呼ばれる。カトリーヌ・ド・メディシス(カタリーナ・デ・メディチ)は、世に名高い悪女の一人である。カトリーヌは、「毒を盛る女」「蛇太后」呼ばれた。
カトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589)は、フランス王家ヴァロワ朝に嫁ぎ、イタリアから随行し扈従する針子と料理人により、フィレンツェ伝來の洗練された衣裳とイタリア料理をフランスにもたらし、メディチ家で磨かれた教養と感性で學藝を庇護したことで有名である。しかしまた1572年8月23日-24日未明パリで起きた「聖バルテルミーの虐殺」の陰の首謀者と言われる。ユグノー派ナヴァール王アンリとカトリーヌの三女マルグリット(マルゴ王妃)の結婚式に集まったユグノー派貴族三千人を、カトリック派が殺害した惨劇である。
フィレンツェ貴族の冷酷な権謀術数に明け暮れた血に塗れた歴史の記憶がカトリーヌの血のなかに流れている。マキャベッリ『君主論』はカトリーヌの亡き父ウルビーノ公ロレンツォに捧げられた書である。
カトリーヌ・ド・メディシスは、ロレンツォ・イル・マニフィーコの孫ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチとフランソア1世の従妹マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドゥーヴェルニュの子として生まれる。誕生直後、両親を相次いで失い、唯一人、メディチ家兄系(コジモ・デ・メディチ=コジモ・イル・ヴェッキオの血統)の正当の血を受け継ぐ孤児となる。カトリーヌは、枢機卿ジュリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)の保護下に、フィレンツェで育つ。1529-1530年、フィレンツェ包囲戦の時、ムラーテ修道院に幽閉される。1530年11歳のカトリーヌはローマに移り、後見人教皇クレメンス7世の下に、五人の王侯貴族の求婚を受ける。この時、カトリーヌは枢機卿イッポリトと恋愛関係にあったが引き裂かれ、フィレンツェに戻り、叔母マリア・サルヴィアーティの保護下に置かれる。
1533年10月、クレメンス7世とフランソア1世の交渉が纏り、カトリーヌは14歳にして、フランス国王フランソア1世の第二子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロアに嫁ぐ。  1547年アンリは国王に即位、アンリ2世となり、カトリーヌはフランス王妃となる。1559年、アンリ2世は馬上槍試合の事故で急死。跡を継いだ長男フランソア2世は1年後に夭折、次男シャルル9世が十歳で国王に即位。王太后カトリーヌは摂政となり、以後30年に亙ってフランスに君臨する。
14歳にして、フランス王家に嫁いだカトリーヌは、フィレンツェ商人の娘と冷笑され、夫オルレアン公アンリ・ド・ヴァロアは十八歳年上の寵姫ディアーヌ・ド・ポワチエ(ヴァランチノワ公)を熱愛していて、アンリが王となり死ぬまで、二人の関係は33年間続いた。ディアーヌは絶世の美女であったと言われる。
2万冊の蔵書を駆使して著作に耽溺した澁澤龍彦が書いた『世界悪女物語』にカトリーヌが現れる。澁澤龍彦によると、カトリーヌは毒藥、魔術、占星術、霊藥に凝り、護符を膚身離さず持っていた。ノストラダムスら予言者、魔術師、妖術師が宮廷に蟲のごとく蝟集した。カトリーヌは「醜い女で、鼻が大きく、唇が薄く船酔いにかかった人のような締りのない口元をしていた」と言われ、明らかに美貌の持主ではなく、「醜い容貌をもち鼻が長く垂れ下がった唇」という特徴はコジモ・デ・メディチの血を引く者の証しであるが、「旺盛な好奇心と古典と藝術の教養をもち明晰な頭脳と魅力的な会話」もまた父祖から受け継いだものである。
カトリーヌはフィレンツェで育まれた毒藥の知識と陰謀の技術を駆使して、王太后の君臨は30年に及んだ。カトリーヌの周りには不慮の事故死を遂げたアンリ2世、早世したフランソア2世、他、非業の死を遂げたものが多い。死の影にはカトリーヌの深謀遠慮が働いていたことは言うまでもない。権力の頂点を極めたカトリーヌが、愛と欲望の果てに見出したものは何か。
カトリーヌが毒藥を手に入れたメディチ家御用達のフィレンツェの藥局(Officina profumo-farmaceutica di S.Maria Novella)は1221年創業、今もサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の裏手にある。

【フィエーゾレの丘】
フィレンツェ発祥の地は、フィエーゾレの山頂である。マキャベッリ『フィレンツェ史』第2巻によれば、フィレンツェはフィエーゾレ山頂の都市の市場として栄えた。フィエーゾレはアルノ渓谷の丘の上にある。紀元前7世紀創建のフィエーゾレは、エトルリア都市として生まれた。エトルリア人は、防衛、洪水、渓谷の低湿地から発生するマラリアを避けるために、丘の上に都市を建設した。フィエーゾレの丘も戦略的要衝である。エトルリア人は、トスカナ地方に12の都市国家を作った。イタリアに先行文化を築きあげたエトルリア人は都市建設の方法をローマ人に教え、ローマ建設を指導した。エトルリア人からローマ人に伝えられた遺産には、剣闘士競技、肝臓占い、鳥占い、半円アーチ、ヴォールト(穹隆)がある。エトルリアの微笑みは我々を魅惑して止まない。

【漂う魂】
地上の最も美しい場所を求めて、私は旅立った。夕暮の寺院。糸杉の林に埋もれる聖なる土地。森に囲まれた月光の庭。荒野に聳える黄昏の都。私の魂のオデュッセイアはこれからも続く。この世の果てまで。この世の最も美しいものを見るために。
オデュッセウスのように、遥かなる旅から故郷に帰還する時、復讐を成し遂げるのか。孤独な旅路の果てに眞の愛を見出すことができるのか。
2000年が昏れようとしている今、私のメッセージを愛読して頂いた読者のみなさまに、心から感謝をささげます。有難うございました。またこのページを訪れてください。
2001年早春『地中海紀行』は、哀愁の大地スペイン、アンダルシア地方に旅立つ予定です。愛をこめて。大久保正雄
                                                  
★参考文献
(1)ジョルジォ・ヴァザーリ平川祐弘・小谷年司・田中英道訳『ルネサンス画人伝』白水社1982
(2)アンドレ・シャステル高階秀爾訳『イタリア・ルネサンス1460-1500』(「人類の美術」)新潮社1968
(3)アンドレ・シャステル辻茂訳『イタリア・ルネサンスの大工房1460-1500』(「人類の美術」)新潮社1969
(4)森田義之『メディチ家』講談社現代新書1999
(5)澁澤龍彦『世界悪女物語』桃源社1964
(6)オルソラ・ネーミ、ヘンリー・ファースト千種堅訳『カトリーヌ・ド・メディシス』中央公論社1982
(7)ジャン・オリユー田中梓訳『カトリーヌ・ド・メディシス』上・下、河出書房新社1990
(8)マキャベェッリ『フィレンツェ史』「マキャベッリ全集」3筑摩書房1999
(9)D.P.ウォーカー田口清一訳『ルネサンスの魔術思想』平凡社1996
(10)若桑みどり『世界の都市の物語 フィレンツェ』文藝春秋1994
(11)塩野七生『ローマ人への20の質問』文春新書2000
★黄昏のフィレンツェ
★ポンテ・ヴェッキオ
★サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
★黄昏のフィレンツェとフィエーゾレの丘
★フィレンツェの街角
COPYRIGHT大久保正雄 2000.12.27

2016年5月26日 (木)

ルネサンスの奇人変人、メディチ家 コジモとロレンツォ

Ookubomasao03Ookubomasao04Ookubomasao05大久保正雄「地中海紀行」第3回
ルネサンスの奇人変人、メディチ家 コジモとロレンツォ
 
黄葉を見ると、トスカナ地方の黄金の秋を思い出す
愛のように甘く、死のように美しい黄昏刻
死せる人の面影が蘇る
魂の翼をもつ香りたかい精神が目覺める
美しい魂には、美しい魂の香りがある

【ルネサンス人】
人間は、地位と名譽と金銭と利益を追求して、行動する。いかに美しく装い、巧妙に人を欺いても、醜い魂の本質は変わらない。すべて人は利益のために生きる。人は、利害を超越して、眞理と美のためにのみ行動する時、奇人変人と呼ばれる。
ルネサンス人は、普遍人(uomo univerasale)と呼ばれる。例えば、レオナルドのように、ミケランジェロのように、多面的な才能を有する万能人であり、國境を越え時代を超えて、藝術と學問のみを自らの根拠として、天衣無縫、自由に生きた。ルネサンス人は、眞理と美のために生きた。名譽と私利私欲を求め組織に隷属し、体制の奴隷である者は眞の知識人ではない。隷属する者は、奴隷と呼ばれるべきである。
學者は、その所有する知識の量によって優劣が測られるのではなく、読破した書物の量によっても、頭のよさによっても価値を量ることはできない。藝術家の価値は、その作品の量と価格によって、優劣を測るべきではないことは言うまでもない。だが藝術と學問と人間性の価値を眞に決めるものは何か。人は、何を愛し、いかに戦い、いかに死ぬかによって、魂の美しさが現れる。現身の魂にとって、美は己の命と引きかえに手に入れるものである。そして眞理は己の命を生贄にして到達することができる。
「体の痛みに寝返りを打ち続ける町」(ダンテ)フィレンツェは、多様な政治形態を経験し変貌し続けた。ルネサンス人は、血に塗れた抗争に喘ぎながら、眞理と美のために行動した。

【ルネサンスの奇人変人】
『ルネサンス奇人変人列伝』という書物が存在するならば、多くのフィレンツェ人の奇行が書物の空間を埋め尽くして溢れ出ることになるだろう。コジモ・デ・メディチ、ロレンツォ・デ・メディチ、カトリーヌ・ド・メディシス、フィリッポ・リッピ、いずれ劣らぬ奇人揃いである。権力を巡ってメディチ家に敵対した貴族。トスカーナ地方の都市からフィレンツェに來た多彩な才人たち。才能を嫉妬し毒藥で藝術家を殺す藝術家。色欲に耽溺し美食を探求、権謀術数を駆使する貴族。生きながらにして腐臭を放つ官僚。偏奇と華美を嗜好するフィレンツェ人。獨立不羈の精神をもって彷徨する知識人。自己の美意識を守ることに対して最も執念深い者たち。「獅子のごとく獰猛に、狐のごとく狡猾に」生きるルネサンス人。愛するものに命を賭け、すべてを犠牲にして愛と藝術と己の美意識に殉じた、愛すべきルネサンス人たちの生きかたの形がある。
此処に書き始める『地中海人列伝』にもルネサンスの奇人変人が溢れることになる。我々は、マキャベッリ『フィレンツェ史』(*1520-1524頃執筆)ジョルジオ・ヴァザーリ『イタリアの至高なる画家、彫刻家、建築家の生涯』(初版1550、2版1568)を紐解くと、イタリア・ルネサンスの魅惑的な奇人たちに出逢うことができる。
古代地中海の魅力的な人々に出会うためには、プルタルコス『英雄列伝』を読むのが最善の方法であり、ギリシアの哲學者、知的英雄、奇人に出會うためにはディオゲネス・ラエルティオス『哲學者列伝』を紐解くべきである。人は、夕暮の闇の中で、古代の書物を開く時、深い沈黙のなかから、美しい魂の香りが立ち昇る。遺恨と怨念の果てに、扉を開くと、そこに地中海がある。

【地中海人列伝 ―黄金時代のメディチ家―】
■メディチ家の容貌
ウフィッツィ美術館(3階第1回廊18室)にヴァザーリ『ロレンツォ・デ・メディチ肖像』がある。これを見るとロレンツォの異様な容貌を知ることができる。ロレンツォの容貌は、祖父コジモの血統を受け継ぐもので、黄金時代のメディチ家の容貌は、佐久間象山のように容貌魁偉、また鼻が長かった。
メディチ銀行の創設は、1397年10月1日、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360-1429)によってである。ジョヴァンニ・ディ・ビッチの容貌は15世紀のブロンズィーノ作の肖像によれば、異様な容貌で意志的である。容貌の醜さは、子のコジモ・デ・メディチ(1389-1464)から曾孫ロレンツォ・イル・マニフィーコ(1449-1492) に受け継がれる家系の特質である。しかし妻ナンニーナ(ピッカルダ・ブエーリ)は「すべての女性の中で最も美しかった」と伝えられる。コジモ・デ・メディチには、ポントルモ及びヴァザーリが描いた肖像画があり、ロレンツォ・デ・メディチにはヴァザーリが描いた肖像画(ウフィッツィ美術館所蔵)がある。
ロレンツォ・デ・メディチは、長く高く拉げた鼻と大きな顎と異様に突出した分厚い下唇を持ち黒いオリーブ色の膚をした顔を持っている。黄金時代のメディチ家の人々は異様な容貌をもつが、深い教養をもち優れた知性と魅力的な人柄で人を魅きつけて放さなかった。

■コジモ・デ・メディチ
コジモは、1435年以降、メディチ銀行の絶頂期を築き上げた。コジモは、ラテン語に精通し、ロンドンからアヴィニョンに至るメディチ銀行の支店網を通じて稀覯本を探索、ギリシア・ローマの古典の冩本を蒐集した。コジモは、ニッコロ・ニッコリの蔵書を基礎として、1444年サン・マルコ圖書館を創設。またフィエーゾレのバディアに圖書館を創設した。コジモは常に皮肉と機知に溢れた警句を言い放っていたことは有名でヴァザーリ『藝術家列伝』にも記されている。コジモは祖国の父(pater patriae)と呼ばれ、フィレンツェの政治的頂点を築いた。
マキャヴェッリは『フィレンツェ史』に次のように書き録している。
「コジモは中背で、顔はオリーヴ色がかった褐色で長老的風格があった。博學ではなかったが、極めて雄弁で、自然に滲み出る賢明さに溢れ、従って友人に対しては礼儀正しく、貧しい人たちにも思いやりがあり、会話は的確であり、忠告は慎重で、実行は俊敏にして、彼の言葉と返答は機知に富み、かつ重々しかった。」

■ロレンツォ・デ・メディチ
ロレンツォは、あらゆる學藝に通暁する多藝多才な知識人であり、自ら藝術家であり、詩人であった。人文主義的教育を受け、文學、藝術、哲學に亙る多面的な教養を身につけ、ギリシア語、ラテン語に通じていた。
ロレンツォはコジモによって始められた冩本収集を拡大し、蔵書をさらに拡充した。コジモ同様に、メディチ銀行の支店網を駆使して情報を収集、探索、メディチ家蔵書を1千冊に増やした。また彩飾冩本を購入、サン・ロレンツォ教会付属ラウレンツィアーナ圖書館の基礎を築いた。サン・ロレンツォ教会に付属するメディチ家礼拝堂新聖具室とラウレンツィアーナ圖書館の工事を継続、完成させたのは、コジモ1世(1519-74)である。
ボッティチェッリは、ローマのシスティーナ礼拝堂壁画制作から帰郷後、三大神話画『プリマヴェラ』『ヴィーナスの誕生』『パラスとケンタウロス』を製作した。『プリマヴェラ』は、ロレンツォの注文により、パラッツォ・メディチの装飾のために製作されたものである。ボッティチェッリは、コジモが創設し、ロレンツォが継承した「アカデミア・プラトニカ」においてギリシア的教養を身につけ、艶麗な憂愁に満ちた古代の美を構築するに到った。
メディチ家黄金時代の學藝保護は、三代にわたって継承された。コジモ・デ・メディチは、フラ・アンジェリコとフィリッポ・リッピを支援し、仕事を紹介、庇護した。ピエロ・イル・ゴットーゾは、ゴッツォーリにパラッツォ・メディチを飾る繪画の製作を注文し、『東方三博士の行列』(1459-61)が製作された。ロレンツォ・イル・マニフィーコは、サンドロ・ボッティチェリ、フィリッピーノ・リッピに仕事を与え紹介し、生活を庇護した。
マキャヴェッリは『フィレンツェ史』の中で次のように書いている。
「ロレンツォは建築も音楽も詩も、驚くほどに愛した。彼自身詩作を行なったのみならず、自ら注解を加えて公表した。」
「ピサの町に學園を開設し、最高に優れた人々が招聘された。」
「ロレンツォは運命と神によって、この上なく愛された。彼の企画したことはすべて優れた成果を達成し、彼の敵はみな悲惨な最期を遂げた。」
「ロレンツォは、物事を論じる時には雄弁で才気に満ち、解決に際しては賢明で、実行においては迅速で勇敢であった。ロレンツォの場合、無数の美徳を汚す悪徳を挙げることは不可能である。だが彼は色事には驚くほど精通しており、冗談好きで毒舌の仲間と交わり、立派な大人に相応しくない程子供っぽい遊びに夢中になり過ぎた。」
「ロレンツォの場合、その快楽的な生活と重厚厳格な生活を見ると、彼の中では二つの異なる人格がほとんどありえない結びつき方で結びついているように見える。」
「その晩年には、信じ難いほどに彼を苦しめた病気が齎した苦痛に悩まされた。絶え間ない胃痛に悩まされた。苦痛の余り1492年、44歳で死去した。フィレンツェのみならず、イタリア全土においても、これほど思慮深いという名聲を得て、その死が祖國を悲しませた人はいなかった。」
オリーヴ色の膚は、コジモ、ピエロ、ロレンツォが共有する皮膚の色だが、これは美食家のメディチゆえ痛風によるものであると考えられる。コジモの子ピエロは、ピエロ・イル・ゴットーゾ(痛風病みのピエロ)と呼ばれる。また、ロレンツォは父親から相続して苦しめられた痛風のみならず烈しい胃痛に襲われた。
オリーヴ色の膚は、メディチ家始祖アヴェラルドの血統の中にアラブ系或いはアフリカ系の血が流れているとも考えられる。またロレンツォの高く長い鼻は生まれつき嗅覚を欠如していたと言われる。醜い容貌はコジモの血をひく最後の直系カトリーヌ・ド・メディシスにまで引き継がれる。
様々な記録から明らかなように、コジモ、ロレンツォは、容貌が醜いことが知られるが、魅力的な人格を有し、フィレンツェの人々の心を深く魅了していた。精神の美しさが、容貌の醜さを圧倒していたのである。精神の美は、肉体の美よりも美しい。

★参考文献
(1)cf.ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』第2章「人格の完成」柴田治三郎訳、中央公論社1966
(2)cf.清水純一『ルネサンスの偉大と頽廃』岩波新書1972
(3)cf.ジョルジォ・ヴァザーリ平川祐弘・小谷年司・田中英道訳『ルネサンス画人伝』白水社1982
(4)cf.高階秀爾「メディチ家の金脈と人脈」『ルネサンス夜話』平凡社1979
(5)cf.森田義之『メディチ家』講談社1999
(6)cf.マキャヴェッリ『フィレンツェ史』「マキャベッリ全集」3筑摩書房1999
(7)cf.若桑みどり『世界の都市の物語 フィレンツェ』文藝春秋1994
(8)cf.E.H.ゴンブリッチ 鈴木杜機子・大原まゆみ・遠山公一訳『シンボリック・イメージ』平凡社1991
★パラッツォ・メディチ中庭
★ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ(ミケランジェロ)
★ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ(ミケランジェロ)
★メディチ・ラウレンツィアーナ図書館入口
COPYRIGHT大久保正雄 2000.11.29 

2016年5月25日 (水)

メディチ家とプラトン・アカデミー 黄昏のフィレンツェ

Ookubomasao01Ookubomasao02大久保正雄「地中海紀行」第2回
メディチ家とプラトン・アカデミー 黄昏のフィレンツェ

炎上する都コンスタンティノープル。
海ゆかば帝國の兵士のみづく屍。
ビザンティン帝國から多島海と呼ばれる紫紺のエーゲ海を経て、
地中海を漂い航海する學者。彷徨える者。
哲學者の魂ただよえど沈まず。
アドリア海の岸辺、ヴェネツィアに辿りつき、さらに流離する。
旅路の果て、アルノ河のほとり、黄昏の町に流れつく。
帝國の都コンスタンティノープルの幻。
この河はビザンティオンにつながる。
ルネサンスの残照をあびる地。黄昏のフィレンツェ。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■黄昏のフィレンツェ
フィレンツェは遠い日の思い出が蘇る黄昏の町である。ロレンツォ豪華王と夭折した弟ジュリアーノが眠るメディチ家礼拝堂。パラッツォ・メディチの中庭。夕暮のポンテ・ヴェッキオ。トルナブオーニ通りを風に吹かれながら緋色の天鵞絨(びろうど)を翻してレオナルドが歩いて來る。
イタリアは深いノスタルジアを呼び覺ます不思議な國である。イタリアの地は異國であるにもかかわらず街を歩くと、懐かしいという感情が湧き起こる。イタリアの町はつねに懐かしい。イタリアはノスタルジアの國である。何故イタリアの町がノスタルジアの感情を呼び覚ますのか。心理學者の友人は「子供の時の記憶が蘇るのではなく、あなたは生まれる以前、前世でイタリアに住んでいたのではないか」と言う。イタリアの街を歩くと、前世の記憶と現身の意識とが溶け合い、夢の中を歩いているような感覺にとらわれる。ポンテ・ヴェッキオの橋の上を歩くと、霧の彼方から遠い過去の記憶が蘇り、何百年か前に愛した人が会いに來るような気がする。イタリアは遠い愛の記憶がよみがえる場所、前世と現世の境の地である。魂は輪廻転生の果てに、この地に旅に來たのかも知れない。
黄昏の光が満ちるとき、私は自らに問う。苦悩と絶望の果てに、彷徨える魂を救済するのは、何か。神か。藝術か。愛か。

■美を創造する不屈の意志
夕暮れ時、花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)ファサードの前に辿り着く。このドゥオモは西向きに建っている。黄昏が迫ると、ファサードは夕日をあびて燃え上がる。言うまでもなく祭壇はイエスが死んだ地イエルサレムを向いて、東の角にある。
フィレンツェ共和國は1296年から140年の歳月を経て、様々な困難を乗り越えてこの教会を建築した。ギベルティはサン・ジョヴァンニ洗礼堂の二枚の扉を製作するのに48年の歳月を要した。一枚はミケランジェロが『天國の門』と呼ぶ扉(東門扉)である。特に円蓋の建設は技術上の困難を極め、ブルネレスキによって16年の歳月をかけ1436年8月30日に完成した。15世紀において世界最大の教会である。この教会を作るためには世界最大の財力を必要としたが、それだけではこの美しい建築は完成しなかった。花の聖母教会は、フィレンツェ人百四十年の意志の形象である。此処に、美を創造する不屈の意志がある。
美しいファサードは、19世紀後半エミリオ・デ・ファブリスによって設計され1887年に完成された。ネオ・ゴシック様式のファサードに対する評価は賛否両極端に分かれるが、その精緻な美は藝術品の名に値する。バルセロナのサクラ・ダ・ファミリア(聖家族教会)は1892年着工され93年アントニオ・ガウディが聖堂建築家に就任してから約百年の時が流れたが、サンタ・マリア・デル・フィオーレの建築すべてが完成に到るまでには六百年の歳月が流れた。六百年の時の流れを超える不屈の意志である。
イタリア人は藝術性において世界最高の技術を持つ。一級品を作るものは一級の感性であり創造性である。創造性の源泉はエロティシズムである。人生には終わりがあり、死は避けられないことを知るがゆえに、人生を樂しむことに耽溺するイタリア人。五百年の時の流れを超えて、イタリア人は世界最高の一級品を作り續ける。イタリアは今も昔もアモーレ(愛)の國である。
夕暮れ時、迷路のような街の影が深くなり、彼方から落日の光が射す時、花の聖母教会のファサードは燃え上がる。
いつまでもそこに佇み、じっと眺めていたい風景がある。

■ポンテ・ヴェッキオの夕暮
夕闇迫るウフィッツィの窓から、黄昏のポンテ・ヴェッキオを眺めるとき、時は止まる。時は止まり、永遠に美しい。宝石店が建ちならぶ橋の上に秘密の通路、ヴァザーリの回廊(1565)がある。ウフィッツィ美術館三階、第十室-十四室、此処にはボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』『春』ほか、傑作が充ち満ちている。三階西側の窓からアルノ河に架かる数々の橋が見える。夕暮刻になると、西に沈む夕日を受けて、橋がシルエットとなって浮かび上がり、まるで影絵のようである。この世のものとは思えない美しい夢のような光景。フィレンツェの最も美しい瞬間。何百年もフィレンツェ人はこの風景を眺め、愛してきたのである。
いつまでもそこに佇み、じっと眺めていたい風景がある。

■藝術の都
フィレンツェは町自体が藝術品である。イタリア・ルネサンスの都市は「藝術作品としての國家」であり、傭兵隊長が率いたルネサンス期イタリア都市國家間に繰り広げられた戦争は「藝術作品としての戦争」である。1)生きる歓びを日々味わうことができる生活様式は美しい空間においてのみ可能である。文化とは、生きる形であり、生活様式であり、暮らしであり、生き方である。だが様式の根底には、思想があることを忘れてはならない。理想のために、戦う知識人の行動原理となり、矛盾に満ちた現世の苦しみと対峙する愛と知性がある時にのみ、學問は価値がある。人が、何を愛し、何と戦い、いかに生きるか、その形に人間の高貴さが現れる。
イタリアは、街全体が一つの劇場であり、空間が沈黙の交響樂を奏でている。2)狭い隘路の迷宮を歩いて行くと、突如視界がひらけ、壮麗な建築が姿をあらわす。黄昏の黄金の輝きが空間に満ちてくるとき、零りつもる時間の重層の上に深い憂愁が漂う。
美しい都市は、美のイデアの地上における顕現である。美のイデアは神々の愛でる都に降臨する。フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィア、グラナダ、コルドバ、トレド、イスタンブール、アテナイ。私は果てしない「美をめぐる旅」に出る。私は黄昏の旅人である。
1)cf.ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』第1章
2)cf. 飯田義國『彫刻家』岩波新書1991)

■メディチ家とプラトン・アカデミー
蘇るアカデミア・プラトニカ
1453年メフメット2世率いるオスマン・トルコ軍は、コンスタンティノープルを陥落、ビザンティン帝國(東ローマ帝國)は滅亡した。これによって、古代ギリシア文化を理解するギリシア人古典學者が多数亡命、イタリアに難を逃れた。エーゲ海、地中海を航海して、アドリア海の潟ヴェネツィアに到達したが、その地では受け容れられず、古典學者は各地を放浪、フィレンツェにやって來てギリシア文化を伝えた。
コンスタンティノープル陥落に先立つ、1439年7月6日フィレンツェ公会議が開かれ、ギリシア・ローマ両協会の統一が宣言された。この時コンスタンティノープルから、プラトン學者ベッサリオン、ゲミストス・プレトンが來訪、コジモはプレトンの示唆により「アカデミア・プラトニカ」(プラトン・アカデミー)を構想した。1462年コジモ・デ・メディチは、マルシリオ・フィチーノ(1433 - 1499)にプラトンの原典とカレッジの別荘を与え、プラトン全集の翻訳を命じ、コジモは1464年に死ぬが、フィチーノは1477年に完成した。
最晩年1464年コジモは、フィレンツェ郊外ヴィッラ・カレッジで、死の予感の中で、哲學的な隠遁の生活に浸り、蘇った哲學の古典に読み耽る。コジモはフィチーノにオルペウスの竪琴とラテン語訳プラトン『ピレボス』を持って來るように手紙を書いて命じた。1)フィチーノは、1475年『プラトン饗宴注解-愛について』、1482年『プラトン神學-魂の不滅について』、1484年『プラトン全集』ラテン語訳を出版、イタリアの地にプラトン哲學が蘇る。
1)cf.アンドレ・シャステル桂芳樹訳『ルネサンス精神の深層 フィチーノと藝術』平凡社1989

■古代アカデメイアの終焉
アカデミア・プラトニカは、古代のアカデメイアを復興することを夢想する。プラトンは、紀元前387年四十歳の時、アカデメイアの地に學園を設立した。プラトンの死後、アカデメイアは、古期アカデメイア派、中期アカデメイア派、新アカデメイア派を経て懐疑主義的傾向を深め、前1世紀ローマ帝國時代には折衷主義になりキケロ(BC106 - 43)を生み、時の流れの中で思想を変容しながら存在し続けた。プラトンの思想自身は中期プラトン派、新プラトン派へと継承された。中期プラトン派のプルタルコス(AD46 - 120以後)は『英雄列伝』を書き、新プラトン派が生み出した哲學者プロティノス(AD204 - 270)は『エネアデス』54編を書いた。529年東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、アテナイの新プラトン派のアカデメイアを閉鎖、財産を没収。アカデメイア916年の歴史が終焉した。ギリシアから追われた學者シンプリキオス、ダマスキオス、プリスキアノスは、ササン朝ペルシア冬の離宮の都ジュンディー・シャープールに漂着した。1)以後、プラトンの書物は歴史の波間に翻弄されて漂い、ビザンティン帝國の都コンスタンティノープルに保存される。我々は歴史を横切るだけだが、プラトン全集は歴史そのものである。 九百年の歳月を経て、プラトン哲學はイタリアの地に蘇った。プラトンの魂の深淵から生まれた対話編、美のイデアの哲學が、美に執念をもち耽溺するフィレンツェ人の不撓不屈の努力によってよみがえった。
1)cf.伊藤俊太郎『12世紀ルネサンス』岩波書店1993
★★★URL★★★
イタリア文化会館
http://www02.so-net.ne.jp/~italcult/
イタリアを知れ
http://www.async.co.jp/italia/link/01.html
イタリア・フィレンツェから愛をこめて
http://www.page.sannet.ne.jp/h-yamashita/

★黄昏のポンテ・ヴェッキオ
★サンタ・マリア・デル・フィオーレ
★花の聖母教会ファサード
★ジョットの鐘楼
★トルナブォーニ通り
★サルヴァトーレ・フェラガモ本社
COPYRIGHT大久保正雄 2000.10.25 

2016年5月24日 (火)

大久保正雄「地中海紀行」第1回、魅惑の地中海

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紫の潮を湛える海。輝く紺碧の空。
空と海のあいだに満ちてくる光。
海を渡ってくる風。
丘の上に立つ糸杉の烈しく美しい香り。

何故、地中海は人を魅了しつづけて止まないのか。
黄昏の光が、地中海の岸辺に満ちて來るとき、
ひとは苦悩と忍耐と憂愁に満ちたこの世の闇を
受け容れることができる。
黄昏のコスタ・デル・ソル。眞夏の碧緑の地中海。
夕日に輝くエーゲ海。

地中海の生みだした知的遺産に思いを馳せる時、
人間の尊厳を貴ぶ地中海人の生きかたが
歴史を超え彼方から蘇ってくる。
地中海は、知的遺産の宝庫である。地中海文明の魅力の源泉は、
その生の様式、知の様式、都市の様式にある。

■生きることを愛する地中海人
地中海人が生みだした豊饒な美の遺産はいかにして生みだされたのか。
ロレンツォ・デ・メディチは歌った。
  ……青春は麗し。
  されど逃げて行く。
  樂しみなさい。
  明日は定めなき故に……

スタンダールは、「生きた。愛した。書いた。」と自らの墓碑に刻み、
亡き母が地中海人でありイタリア人の血を持つことを誇りとしていた。
地中海人は、生きることを愛する。愛すること、好きなことに生涯を賭けることに、 人生の至上の価値がある。
愛するものに命をかけることによって、地中海人は最高の藝術様式に到達した。
生きいきと人間が生きる劇場都市。
生きいきと人間的に生きることが創造性の源泉であり、
命令されることから創造的なものは生まれない。
世界最高の藝術を作り出す感性と創造性は、魂の根源から湧く愛、
眞に美を愛することからのみ生まれる。

■血と知恵
地中海人は、美しく生きること、幸せに生きることを探究する。生ける屍のようにただ生きることに意味はない。ギリシア人は「いかなる者の奴隷でもなく、臣下でもない者」2)であり、命令を受けず自由人として生きることを誇りとした。地中海には、地位と名誉を愛するよりも、美しい死を選んだ人間たちがいる。地中海人は、利害を超越して人間の尊厳という価値にもとづいて、行動する。ソクラテスは「ただ生きるのではなく、善く生きること、美しく生きることが大切である」3)と言い、毒盃を仰いで死んだ。
人生の究極の樂しみを探求する生活様式が、地中海に満ちあふれている。見る、言葉を語る、知る、愛する、生きる、その究極は何か。見る、知る、学ぶ、生きることの源泉、その究極に学問を築き上げたギリシア人。哲学(フィロソフィア)はギリシア人が創始した学問であり、知恵を愛することの探求である。
偉大な精神文化は、人間の苦しみと悲しみから生まれる。死すべき人間は、血と涙によってのみ、眞の知恵に到達できる。復讐が復讐を生む血に呪われたアトレウス王家の歴史からアイスキュロスの悲劇『オレステイア』三部作が生まれ、己の理想に殉じたソクラテスの死がプラトンの哲学を生んだ。血と涙によって魂に刻まれたことばのみが不滅のいのちを持つ。五千年前から多彩な文明を生みだし続ける地中海。地中海の重層的文化空間には人間の叡智が堆積している。

■大地の狭間の海
地中海は、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、3つのテラ(大地)の狭間の海である。
夏、人々は穏やかな海を自由に航海できた。様々な土地に旅することができた。
「葡萄酒色の海」4)と呼ばれる地中海を、フェニキア人、ギリシア人、ローマ人は、融通無碍に航海した。地中海人は東のレヴァントから西のジブラルタルまで縦横に航海した。そしてさらにギリシア人は大西洋を航行した。ギリシア・ローマの都市国家は、地中海の岸辺にある。アテネ、コリントス、ビザンティウム、シシリア島のシュラクサイ、エフェソス、ローマ、アレクサンドリアは、すべて地中海の岸辺、或いは海から遠からぬ所にある。
ローヌ、ポー、アルノ、テヴェレ、ナイルなど主なる河は、地中海に流れ込む。
さらに地中海からジブラルタル海峡を経て北上し、
グアダルキヴィル河を遡ると、セビリア、コルドバに到る。
アルノ河はルネサンスの都フィレンツェに流れ、
テヴェレ河は永遠の都ローマに、
ナイル河は世界の結び目アレクサンドリアに、
グアダルキヴィル河は西方の眞珠コルドバに流れる。
地中海につながるこれらの都市が不滅の文化空間を築き上げたことは言うまでもない。
地中海世界の都市には美意識があふれ、都市それ自身が藝術作品である。
すべての道はローマに通ず。また、すべての河は地中海に流れる。
地中海文明の濫觴は、古代オリエント・エジプト文明から始まる。
ギリシア、ローマ(ラテン)、イスラム、三つの文明領域から成り立つ。 5) 
地中海は、重層する文化空間に、文明の経糸と緯糸で織り成された知恵の絨毯である。

■失われた時への旅
地中海文明の地を歩み、集積された人類の叡智、地中海様式の不朽の文化遺産、比類なく美しい地中海都市の秘密、これらの源を探究し続ける。
大地に刻まれた襞に降り立ち、黄昏の丘に立ち、アラブの迷路を歩き、海峡を渡り、人間の尊厳の美しさを見に行こう。「人間について、大地が、万巻の書より多くを教える」6)。
或る秋、ヨーロッパに旅立った。そして月日が流れ、いく度か地中海文明の地へ旅に出た。黄昏の海に潮騒がとどろく時、愛憎と怨恨は一つに融け、精神は至上の時に到る。精神とは記憶であり、精神が刻まれた場所が都市である。地中海世界には【藝術としての國家】がある。私は思い出す。花の都フィレンツェ、エル・グレコが愛したトレド、夕暮のグラナダ、三日月が輝く海の都イスタンブール。
地中海の都市國家は、目に見える美しい空間である。美しすぎる場所。地中海には不滅の國がある。美しい時は一瞬であり、瞬間の中に永遠がある。しかし、美しい時は、永遠に記憶の中に残る。
旅立とう、きみと共に。失われた時への旅に。未来に連なる旅に。


1) 『謝肉祭の歌』
2) アイスキュロス『ペルシア人』
3)プラトン『クリトン』
4) ヘシオドス『仕事と日々』
5)cf.F.ブローデル『地中海』
6) サンテグジュペリ『人間の土地』
★エーゲ海の黎明
★トラヤヌス神殿(ペルガモン)
★サンタマリア・デル・フィオーレ(フィレンツェ)
COPYRIGHT大久保正雄 2000.9.26 

2016年5月23日 (月)

北斎への旅 『旅する哲学者 魂への旅』より

PhotoBoston_2006_12_2Phoenix北斎への旅 大久保正雄『旅する哲学者 魂への旅』より
不死鳥の画家、北斎
北斎、93回引越、30回画号を変える。73歳で代表作「神奈川沖浪裏」『富嶽三十六景』を生みだす。北斎は、67歳で脳卒中に襲われ、自分で治す。柚子を磨り潰して日本酒に溶かして飲む自家療法で治した。
北斎が追い求めていたのは唯一つ。画業を極めること。75歳で傑作『鳳凰図屏風』を画く。北斎 88歳ごろ『富士越龍図』(1849年)を画く。90歳、画狂老人卍として死ぬ。
*大久保正雄『不死鳥の画家、北斎 北斎は天翔ける。美の天に向かって』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
北斎『富嶽三十六景』1831年(天保2年)頃から1835年(同4年)71歳から75歳
北斎『鳳凰図屏風』1835 75歳
北斎「富士越龍図」1849年 88歳

2016年5月22日 (日)

大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』

Sandro_botticelli_birth_of_venus_14Ookubomasao_2016030403旅する哲学者 美への旅
地中海の旅は、美への旅、知恵の旅、時空の果てへの旅、魂への旅。
旅する哲学者は、魂の美へ旅する。美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。
旅する哲学者、理想を追求する人は、創造的研究、創造的学問を探求する。
建築家、梵寿綱師から或る日教えられた「創造的学問を追求しなさい。高度に普遍的な学問は存在する価値はない」。
旅する哲学者は、天の調べを聴き、天の調べに従う。
風薫る、春爛漫。すみれの花咲くころ、はじめて君を知りぬ。
理想を探求する人は、天に徳を積む仕事をなす。
理想を追求するひとに、美の女神が舞い降りる。
創造性を追求する人に、幸運の女神が舞い降りる。
花に嵐。魅力があふれ、黄昏の丘に降りそそぐ。
美しい魂に、美しい天使が舞い下りる。
花薫る春、愛を生む藝術をつくる魂は美しい。魂が香る。
美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

2016年5月21日 (土)

大久保正雄『地中海紀行 哲学の迷宮』、目次

Sandro_botticelli_birth_of_venus_14大久保正雄『地中海紀行 哲学の迷宮』、目次
第1回 魅惑の地中海
第2回 黄昏のフィレンツェ
第3回 「黄昏のフィレンツェ」…ルネッサンスの奇人変人
第4回 「黄昏のフィレンツェ」…ルネッサンスの奇人変人-2
第5回 「西方の眞珠・コルドバ」
第6回 「アンダルシアの光と影」…西方の眞珠・コルドバ
第7回 「アンダルシアの光と影-2」…アンダルシアの哲學者
第8回 「グラナダ アルハンブラの殘照」
第9回 「トレド 時が歩みを止めた町」
第10回 「トレド エル・グレコ終焉の地」
第11回 「イスタンブール 二千年の都」
第12回 「イスタンブール 幻影の帝國ビザンティン」
第13回 「地中海 魅惑の海のほとりにて」
第14回 「イスタンブール オスマン帝國の都」
第15回 「イスタンブール 時を超える旅」
第16回 「黄昏のエーゲ海」
第17回 「エーゲ海の瞑想」
第18回 「エーゲ海の薔薇 ロドス島」
第19回 「アテネ アクロポリスの光と影」
第20回 「アテネ アクロポリスをめぐる戰い」
第21回 「アテネ ギリシアの偉大と退廃」
第22回 「アテネ 蜜のように甘く、毒のように劇しく」
第23回 「アテネ 黄昏の帝国」
第24回 「ギリシア 哲學者の魂」
第25回 「デルフィ アポロンの聖域」
第26回 「地中海のほとり 美と知恵を求めて」
第27回 「ギリシア 愛と復讐の大地」
第28回 「アレクサンドロス大王 世界の果てへの旅」
第29回 「ローマ 幻の帝国」
第30回 「変人皇帝たちの宴 ローマ」
第31回 「クレオパトラの死」
2000年9月から2003年3月まで『3rd Avenue Cliub』に連載。Copyright大久保正雄
大久保正雄 著作目録 2 地中海編
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/2-244e.html

2016年5月20日 (金)

著者:大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』

Ookubomasao_2016030404Magosakiookubo_01Ookubomasao_1998Ookubomasao_00著者:大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』
地中海の旅は、美への旅、知恵の旅、時空の果てへの旅、魂への旅。旅する哲学者は、至高の美へ旅する。美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。

著者、大久保正雄
上智大学大学院修了、北海道大学大学院博士課程単位修得。哲学、美学、美術史、古代ギリシア哲学専攻。講師を経て、著作活動。イタリア・スペイン・ギリシア・トルコ、地中海・エーゲ海、ヨーロッパの写真撮影および執筆活動を行う。
著書『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』「魂の美学」、論文他、約80篇。
著作
大久保正雄『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社
http://t.co/XGI0R3tqFX
大久保正雄「美の奥義 プラトン哲学におけるエロス(愛)とタナトス(死)」
大久保正雄「プラトン哲学と空海の密教 書かれざる教説」
大久保正雄「ギリシア悲劇とプラトン哲学の迷宮 ―ことばの迷宮―」
大久保正雄「魂の美学 プラトン対話篇における美の探求」
大久保正雄「不死鳥の画家、北斎 北斎は天翔ける。美の天に向かって」
大久保正雄「愛と美の迷宮 イギリスロマン派からラファエロ前派」
大久保正雄「幻の花の都、京都 美の洗練、破壊と創造」
大久保正雄「花盛りの京都、幻の都へ」
大久保正雄「旅する哲学者 黄昏の海」
大久保正雄「斷崖の美學 美をめぐる戦い 新古今和歌集の美學」
大久保正雄「闇の中にただよう香り 新古今和歌集の美學」
*大久保正雄「著作目録」より
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/
大久保正雄『地中海紀行 旅する哲学者 美への旅』
https://t.co/QW223JtFl1

大久保正雄『地中海のほとりにて』
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/
大久保正雄『地中海紀行 哲学の迷宮』2000
http://homepage3.nifty.com/odyssey/00c8c001.html
大久保正雄 著作目録 1 哲学
http://t.co/v1qcHwNT
大久保正雄 著作目録 6 美学・美術史
http://t.co/2zAiTXTFUr

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