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2016年5月25日 (水)

メディチ家とプラトン・アカデミー 黄昏のフィレンツェ

Ookubomasao01Ookubomasao02大久保正雄「地中海紀行」第2回
メディチ家とプラトン・アカデミー 黄昏のフィレンツェ

炎上する都コンスタンティノープル。
海ゆかば帝國の兵士のみづく屍。
ビザンティン帝國から多島海と呼ばれる紫紺のエーゲ海を経て、
地中海を漂い航海する學者。彷徨える者。
哲學者の魂ただよえど沈まず。
アドリア海の岸辺、ヴェネツィアに辿りつき、さらに流離する。
旅路の果て、アルノ河のほとり、黄昏の町に流れつく。
帝國の都コンスタンティノープルの幻。
この河はビザンティオンにつながる。
ルネサンスの残照をあびる地。黄昏のフィレンツェ。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

■黄昏のフィレンツェ
フィレンツェは遠い日の思い出が蘇る黄昏の町である。ロレンツォ豪華王と夭折した弟ジュリアーノが眠るメディチ家礼拝堂。パラッツォ・メディチの中庭。夕暮のポンテ・ヴェッキオ。トルナブオーニ通りを風に吹かれながら緋色の天鵞絨(びろうど)を翻してレオナルドが歩いて來る。
イタリアは深いノスタルジアを呼び覺ます不思議な國である。イタリアの地は異國であるにもかかわらず街を歩くと、懐かしいという感情が湧き起こる。イタリアの町はつねに懐かしい。イタリアはノスタルジアの國である。何故イタリアの町がノスタルジアの感情を呼び覚ますのか。心理學者の友人は「子供の時の記憶が蘇るのではなく、あなたは生まれる以前、前世でイタリアに住んでいたのではないか」と言う。イタリアの街を歩くと、前世の記憶と現身の意識とが溶け合い、夢の中を歩いているような感覺にとらわれる。ポンテ・ヴェッキオの橋の上を歩くと、霧の彼方から遠い過去の記憶が蘇り、何百年か前に愛した人が会いに來るような気がする。イタリアは遠い愛の記憶がよみがえる場所、前世と現世の境の地である。魂は輪廻転生の果てに、この地に旅に來たのかも知れない。
黄昏の光が満ちるとき、私は自らに問う。苦悩と絶望の果てに、彷徨える魂を救済するのは、何か。神か。藝術か。愛か。

■美を創造する不屈の意志
夕暮れ時、花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)ファサードの前に辿り着く。このドゥオモは西向きに建っている。黄昏が迫ると、ファサードは夕日をあびて燃え上がる。言うまでもなく祭壇はイエスが死んだ地イエルサレムを向いて、東の角にある。
フィレンツェ共和國は1296年から140年の歳月を経て、様々な困難を乗り越えてこの教会を建築した。ギベルティはサン・ジョヴァンニ洗礼堂の二枚の扉を製作するのに48年の歳月を要した。一枚はミケランジェロが『天國の門』と呼ぶ扉(東門扉)である。特に円蓋の建設は技術上の困難を極め、ブルネレスキによって16年の歳月をかけ1436年8月30日に完成した。15世紀において世界最大の教会である。この教会を作るためには世界最大の財力を必要としたが、それだけではこの美しい建築は完成しなかった。花の聖母教会は、フィレンツェ人百四十年の意志の形象である。此処に、美を創造する不屈の意志がある。
美しいファサードは、19世紀後半エミリオ・デ・ファブリスによって設計され1887年に完成された。ネオ・ゴシック様式のファサードに対する評価は賛否両極端に分かれるが、その精緻な美は藝術品の名に値する。バルセロナのサクラ・ダ・ファミリア(聖家族教会)は1892年着工され93年アントニオ・ガウディが聖堂建築家に就任してから約百年の時が流れたが、サンタ・マリア・デル・フィオーレの建築すべてが完成に到るまでには六百年の歳月が流れた。六百年の時の流れを超える不屈の意志である。
イタリア人は藝術性において世界最高の技術を持つ。一級品を作るものは一級の感性であり創造性である。創造性の源泉はエロティシズムである。人生には終わりがあり、死は避けられないことを知るがゆえに、人生を樂しむことに耽溺するイタリア人。五百年の時の流れを超えて、イタリア人は世界最高の一級品を作り續ける。イタリアは今も昔もアモーレ(愛)の國である。
夕暮れ時、迷路のような街の影が深くなり、彼方から落日の光が射す時、花の聖母教会のファサードは燃え上がる。
いつまでもそこに佇み、じっと眺めていたい風景がある。

■ポンテ・ヴェッキオの夕暮
夕闇迫るウフィッツィの窓から、黄昏のポンテ・ヴェッキオを眺めるとき、時は止まる。時は止まり、永遠に美しい。宝石店が建ちならぶ橋の上に秘密の通路、ヴァザーリの回廊(1565)がある。ウフィッツィ美術館三階、第十室-十四室、此処にはボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』『春』ほか、傑作が充ち満ちている。三階西側の窓からアルノ河に架かる数々の橋が見える。夕暮刻になると、西に沈む夕日を受けて、橋がシルエットとなって浮かび上がり、まるで影絵のようである。この世のものとは思えない美しい夢のような光景。フィレンツェの最も美しい瞬間。何百年もフィレンツェ人はこの風景を眺め、愛してきたのである。
いつまでもそこに佇み、じっと眺めていたい風景がある。

■藝術の都
フィレンツェは町自体が藝術品である。イタリア・ルネサンスの都市は「藝術作品としての國家」であり、傭兵隊長が率いたルネサンス期イタリア都市國家間に繰り広げられた戦争は「藝術作品としての戦争」である。1)生きる歓びを日々味わうことができる生活様式は美しい空間においてのみ可能である。文化とは、生きる形であり、生活様式であり、暮らしであり、生き方である。だが様式の根底には、思想があることを忘れてはならない。理想のために、戦う知識人の行動原理となり、矛盾に満ちた現世の苦しみと対峙する愛と知性がある時にのみ、學問は価値がある。人が、何を愛し、何と戦い、いかに生きるか、その形に人間の高貴さが現れる。
イタリアは、街全体が一つの劇場であり、空間が沈黙の交響樂を奏でている。2)狭い隘路の迷宮を歩いて行くと、突如視界がひらけ、壮麗な建築が姿をあらわす。黄昏の黄金の輝きが空間に満ちてくるとき、零りつもる時間の重層の上に深い憂愁が漂う。
美しい都市は、美のイデアの地上における顕現である。美のイデアは神々の愛でる都に降臨する。フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィア、グラナダ、コルドバ、トレド、イスタンブール、アテナイ。私は果てしない「美をめぐる旅」に出る。私は黄昏の旅人である。
1)cf.ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』第1章
2)cf. 飯田義國『彫刻家』岩波新書1991)

■メディチ家とプラトン・アカデミー
蘇るアカデミア・プラトニカ
1453年メフメット2世率いるオスマン・トルコ軍は、コンスタンティノープルを陥落、ビザンティン帝國(東ローマ帝國)は滅亡した。これによって、古代ギリシア文化を理解するギリシア人古典學者が多数亡命、イタリアに難を逃れた。エーゲ海、地中海を航海して、アドリア海の潟ヴェネツィアに到達したが、その地では受け容れられず、古典學者は各地を放浪、フィレンツェにやって來てギリシア文化を伝えた。
コンスタンティノープル陥落に先立つ、1439年7月6日フィレンツェ公会議が開かれ、ギリシア・ローマ両協会の統一が宣言された。この時コンスタンティノープルから、プラトン學者ベッサリオン、ゲミストス・プレトンが來訪、コジモはプレトンの示唆により「アカデミア・プラトニカ」(プラトン・アカデミー)を構想した。1462年コジモ・デ・メディチは、マルシリオ・フィチーノ(1433 - 1499)にプラトンの原典とカレッジの別荘を与え、プラトン全集の翻訳を命じ、コジモは1464年に死ぬが、フィチーノは1477年に完成した。
最晩年1464年コジモは、フィレンツェ郊外ヴィッラ・カレッジで、死の予感の中で、哲學的な隠遁の生活に浸り、蘇った哲學の古典に読み耽る。コジモはフィチーノにオルペウスの竪琴とラテン語訳プラトン『ピレボス』を持って來るように手紙を書いて命じた。1)フィチーノは、1475年『プラトン饗宴注解-愛について』、1482年『プラトン神學-魂の不滅について』、1484年『プラトン全集』ラテン語訳を出版、イタリアの地にプラトン哲學が蘇る。
1)cf.アンドレ・シャステル桂芳樹訳『ルネサンス精神の深層 フィチーノと藝術』平凡社1989

■古代アカデメイアの終焉
アカデミア・プラトニカは、古代のアカデメイアを復興することを夢想する。プラトンは、紀元前387年四十歳の時、アカデメイアの地に學園を設立した。プラトンの死後、アカデメイアは、古期アカデメイア派、中期アカデメイア派、新アカデメイア派を経て懐疑主義的傾向を深め、前1世紀ローマ帝國時代には折衷主義になりキケロ(BC106 - 43)を生み、時の流れの中で思想を変容しながら存在し続けた。プラトンの思想自身は中期プラトン派、新プラトン派へと継承された。中期プラトン派のプルタルコス(AD46 - 120以後)は『英雄列伝』を書き、新プラトン派が生み出した哲學者プロティノス(AD204 - 270)は『エネアデス』54編を書いた。529年東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、アテナイの新プラトン派のアカデメイアを閉鎖、財産を没収。アカデメイア916年の歴史が終焉した。ギリシアから追われた學者シンプリキオス、ダマスキオス、プリスキアノスは、ササン朝ペルシア冬の離宮の都ジュンディー・シャープールに漂着した。1)以後、プラトンの書物は歴史の波間に翻弄されて漂い、ビザンティン帝國の都コンスタンティノープルに保存される。我々は歴史を横切るだけだが、プラトン全集は歴史そのものである。 九百年の歳月を経て、プラトン哲學はイタリアの地に蘇った。プラトンの魂の深淵から生まれた対話編、美のイデアの哲學が、美に執念をもち耽溺するフィレンツェ人の不撓不屈の努力によってよみがえった。
1)cf.伊藤俊太郎『12世紀ルネサンス』岩波書店1993
★★★URL★★★
イタリア文化会館
http://www02.so-net.ne.jp/~italcult/
イタリアを知れ
http://www.async.co.jp/italia/link/01.html
イタリア・フィレンツェから愛をこめて
http://www.page.sannet.ne.jp/h-yamashita/

★黄昏のポンテ・ヴェッキオ
★サンタ・マリア・デル・フィオーレ
★花の聖母教会ファサード
★ジョットの鐘楼
★トルナブォーニ通り
★サルヴァトーレ・フェラガモ本社
COPYRIGHT大久保正雄 2000.10.25 

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