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2022年12月 3日 (土)

ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王

Egypt-tutankamen-2022-1
Tutankhamun-mystery-2018
Tutankhamun-2022
Skhenaten-2021
【ツタンカーメンの謎】3300年の眠りから醒めたファラオツタンカーメン(Tut・ankh・amun)tut・ankh・amen, King Tut, 紀元前1341年頃 - 紀元前1323年頃)は、古代エジプト第18王朝の 9歳で即位し、19歳で亡くなった悲劇の少年王。ツタンカーメンの死因は何か。ツタンカーメンの黄金の短剣、隕石鉄の短剣はミタンニ王国から来たのか。アクエンアテン王のアマルナ改革は何故か。
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』300回
――
1 ツタンカーメン
【ツタンカーメン発掘100年】1922年11月26日、王家の谷(Valley of the Kings)にあるツタンカーメン(Tut・ankh・amun)の墓を小さな穴から覗き込んだ英国人考古学者ハワード・カーターは、黄金のマスクや夥しい数の財宝に息をのんだ。
古学者ハワード・カーターは、ツタンカーメン王墓発掘を夢み、カーナボン卿は資金提供。2人は妄想狂と呼ばれた。
【ツタンカーメン黄金のマスク】「輝かしい、壮麗なともいえるほどの、磨きあげられた黄金のマスク、あるいは王の肖像が、頭と肩を覆っており(中略)打ち出しの黄金のマスクは、古代における美しい、ユニークな肖像の傑作で、若くして死に奪い去られた青春をしのばせる、悲しい、しかし、しずかな表情をたたえている」ハワード・カーター『ツタンカーメン発掘記』(ちくま学芸文庫)
【ツタンカーメンの謎、黄金の短剣、隕石鉄の短剣】9歳で即位、19歳で死す。死因は謎である。暗殺、落馬事故、病死。アマルナ文書によれば、アメンホテプ3世の正妃ティイは、黄金の短剣、隕石鉄の短剣を持っていた。ツタンカーメンの母は、アメンホテプ3世の孫、ミタンニ系。アメンホテプ3世の正妃ティイ(Tiy)は妹で、兄妹ともにミタンニにルーツを持つ。ツタンカーメンの副葬品
【アンケセナーメン(Ankhesenamen)】ネフェルティティの娘、ツタンカーメンと婚姻。*ファラオ・アクエンアテンと正妃ネフェルティティの三女であり、ファラオ・ツタンカーメンの妻。ツタンカーメンの母はだれか。アメンホテプ3世の正妃ティイの娘。
ツタンカーメンとアンケセナーメン
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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2 アメンホテプ3世の正妃ティイ(Tiy)
ツタンカーメンの祖母【ティイ(Tiy)紀元前14世紀中葉)】は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオであったアメンホテプ3世の正妃である。アメンホテプ4世の母であり、王太后である。
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3 アクエンアテン=アメンホテプ4世、ツタンカーメンの父
【アクエンアテン=アメンホテプ4世(Akhenaten/ Amenhotep IV)】紀元前1362年? - 紀元前1333年?)、
【アメンホテプ4世(アクエンアテン)、ネフェルティティ、ツタンカーメン】王名表から削除された。
アテン宗教改革に関わった時代の王たちは存在そのものを消される。古代エジプト時代聖地とされたアビドスの神殿にある歴代の王の名「王名表」にツタンカーメンの名は無い。ツタンカーメンの名は彼の父らと共に歴史上から抹殺された。
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【アメンヘテプ3世の王妃ティイ】王の死後、息子のアメンヘテプ4世とともにアマルナ王宮に移り住み。「アメンヘテプ3世の記念スカラベ(王妃ティイとの結婚)」によると、ティイの父親はイウヤ、母親はチュウヤ。太陽神アテンを唯一神とする宗教改革を断行したアメンヘテプ4世は、アメンヘテプ3世と王妃ティイの息子。ツタンカーメンは、ティイの孫。(新王国・第18王朝時代、アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)) ティイの毛髪がツタンカーメン墓から発見。
【アテン神信仰の始まり】アメンヘテプ3世が、人造湖の完成式典で「輝くアテン」という名の船に乗り、自らの王宮を「ネブマアトラーはアテンの輝き」と呼ぶ、アテン神を意識することで、アメン神官団を牽制している。アテン神は空に輝く日輪の神で、地上に降り注ぐ光はアテン神の手として描かれた。アメンヘテプ4世は、父王アメンヘテプ3世の治世30年を祝う祭礼に際して、カルナクにアテン神殿を建設。
【アマルナへ遷都】アメンヘテプ3世の跡を継いで即位したアメンヘテプ4世は、アクエンアテンと改名し、アテン神を唯一神とする宗教改革に乗り出した。治世5年頃には、宗教的な伝統やしがらみと決別するために、アマルナの地に新しい王都を建設。【アマルナ文書】アマルナの王宮址で発掘され「アマルナ文書」と呼ばれる文書。アマルナ文書の大部分は、アメンヘテプ3世の治世後半からアクエンアテン王の治世に、エジプトが諸外国と交わした外交文書。ミタンニ王は3代続けてエジプトの王室と婚姻関係を結んでおり、両国は親密な関係にありました。「トゥシュラッタ王の手紙」は、王の母としてアマルナで暮らしていた王妃ティイに宛てたもの。
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4 ネフェルティティ=アメンヘテプ4世(アクエンアテンと改名)の王妃
【ネフェルティティ】アメンヘテプ4世(アクエンアテンと改名)の王妃ネフェルトイティ(ネフェルティティ)。アメンヘテプ4世はアテン神を唯一神とする宗教改革を行い、アマルナに新都を建設した。名前もアメンヘテプ(アメン神は満足する)から、アクエンアテン(アテン神に有益な者)と改名。新王国・第18王朝時代アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
――
5 ツタンカーメン王即位
【ツタンカーメン】ツタンカーメンは8歳から9歳の時に、「神の父(it netjer)」の称号を持つ宰相アイと将軍ホルエムヘブの下で王位に就いてファラオとなった。幼い王はその幼さゆえに、両者の圧力に強く影響された、治世3年か4年の時、両者の助言によってアメン信仰の再興に踏み切った。テーベの守護神であるアメン の伝統的な信仰を復活させ、「トゥトアンクア・メ・ン・」(「アメン神の生ける似姿」の意)と改名した。
古き信仰への回帰
ツタンカーメンは、アクエンアテンの時代には、唯一神アテン信仰が説かれていたため「トゥトアンクア・テ・ン・」と名乗っていたが、テーベの守護神であるアメン の伝統的な信仰を復活させ、「トゥトアンクア・メ・ン・」(「アメン神の生ける似姿」の意)と改名した。王妃アンクエスエンパーアテンもまた同様に「アンクエスエンアメン(アンケセナーメン)」へと改名した。さらに、首都をアケトアテン(テル・エル・アマルナ)からメンフィスに移した。彼は主神をアテンからアメンに変え、一神教から多神教に戻した。
彼のファラオとしての最初の行動は、アクエンアテンをアマルナから王家の谷に再埋葬することだった。エジプトでは葬儀を主催する者が次の統治者であるとい
う慣習があるため、この行動によりツタンカーメンの王権は強化された。また、最高の金属や石を使って神々の新しい像を作り、最高級のレバノンスギを使って新しい行列用の車を作り、金や銀で装飾した。神官とそれに付き添う踊り子、歌い手、侍者たちはその地位を回復し、将来を保証するために王室による保護令が出されたとされる。
ツタンカーメンの下で行われた政策を示している実証は、後にホルエムヘブに奪われ、カルナックで発見された「復古の碑(Stele of restoration)」
★★★
6 ハトシェプスト女王
【古代エジプトの王妃】【ハトシェプスト女王(トトメス2世王妃)】ハトシェプスト女王葬祭殿
7 ラムセス2世 ネフェルタリ
【ラムセス2世】生涯に8人の正妃、及び多くの側室を娶り、100人以上の子をもうけた。67年間王位につく。第19王朝。ネフェルタリ、ラムセス2世の第一王妃、8人の妃の中で最も美貌、若くして死す。在位、前1279-1213年。治世62年目、92歳薨去。絶対権力者が手に入れられない4つの秘宝がある。ラムセス2世の第一王妃、8人の妃の中で最も美貌、若くして死す。
【ネフェルタリ、ラムセス2世王妃】
ラムセス2世【カデシュの戦い】紀元前1286年頃、エジプト新王国ラムセス2世と、ヒッタイト王ムワタリとの間で戦われた戦争。シリア・パレスチナの領有権をめぐり、オロンテス川近くにある交易の要衝で戦った。ヒッタイトは鉄製武器を用いることによって、世界史上に頭角を現した軍事国家。紀元前1275年頃、ラムセス2世はカデシュに軍を進め、シリア・パレスティナ覇権を争う。
ラムセス2世【人類最初の平和条約】ラムセス2世の治世第21年に、ヒッタイト王ハットゥシリ2世との間で、シリア・パレスティナとそこを通る交易ルートの支配権を分割保有することに同意する公式の平和条約が締結された。ラムセス2世の武勲とともにカルナック神殿、ラムセス2世の葬祭殿(ラムセウム)にヒエログリフで刻まれている。
――
7 アテン神
【アテン神】アテン、アトン(Aten)は、エジプ トの太陽神の一つ。
起源
第12王朝時代に書かれた「シヌへの物語」、亡くなった王は天に上げられて神(日輪)と一体となった、と説明されている。シヌへの物語にあるように、日輪を神格化した神でテーベで祀られていた。中王国時代においてアテンは太陽神ラーの1つの側面として考えられていた。第18王朝の頃に太陽神に対する信仰が盛んになり、アメンホテプⅢ世の頃にはラーのように鷹の頭を持つ神された。アメンホテプⅣ世が唱えたアテン神の公式名は「アテンとして帰って来た父ラーの名によって、地平線で歓喜する地平線の支配者ラー」と、アマルナの境界線を示す多数の碑文に刻まれている
宗教改革の開始
第11王朝のテーベの支配者たちは、ハヤブサの頭を持つ戦いの神、メンチュウを国家神とした。第12王朝時代、アメンが台頭し広く信仰されるようになった。アメン信仰はアメンホテプ4世の治世中に全盛期を迎え、アメンを讃えていたエジプトの神官たち(アメン神団)はファラオをも凌ぐ権勢を誇った。
アメンホテプⅣ世は、即位から5年までの間に、アテン信仰の導入を始めた。伝統的な神々への崇拝を禁止しなかった。
即位5年目、自分の名前をアクエンアテンに改名、アメンの文字を削った。
即位7年目、首都をテーベからアマルナへ遷都。この新都には、「アテンの地平」を意味するアケト・アテンという名を与えた。
アテン神の変貌
先端が手の形状を取る太陽光線を何本も放ち、 光線の一つに生命の象徴アンクを握った太陽円盤の形で表現された。アマルナ改革によりアンクを持った手は、アクエンアテンに手渡されている。
アマルナ美術
太陽光線を崇める。美術においてもリアルな表現が行われ、アマルナ時代の美術様式は「アマルナ様式 」と呼ばれる。
宗教改革の失敗
この宗教改革は、急激だったために、アメン神団の抵抗が激しく失敗に終わった。アメンホテプ4世アクエンアテンは失意のうちに亡くなった。その息子であるツタンカーメン王の時代にエジプトはアメン信仰に戻った。アテン信仰は消滅した。
唯一神起源説
フロイトは、アクエンアテンの治世年と出エジプトの年と推定される年代がほぼ同じである事を根拠に、アテン神が同じ唯一神教であるユダヤ教の神ヤーウェの原形とする説を唱えた。
――
参考文献
近藤二郎「エジプト美術、世界一周 芸術新潮2009年9」
近藤二郎監修「国立ベルリン・エジプト博物館 古代エジプト展 天地創造の神話」図録2020
「クレオパトラとエジプトの王妃展」図録2015
A.J.スペンサー編(近藤二郎監訳・ 小林朋則訳)『大英博物館図説古代エジプト史』原書房、2009年
ジョージ・ハート著 (近藤二郎監訳・鈴木八司訳)『エジプトの神々』(大英博物館双書 古代の神と王の小事典) 學藝書林、2011年
近藤二郎『ヒエログリフを愉しむ 古代エジプト聖刻文字の世界』2004集英社新書
『古代オリエント集』 筑摩書房. (1999)
ジークムント・フロイト『モーセと一神教』ISBN 978-4480087935「唯一神教アマルナ起源説」。
イアン・ショー(近藤二郎・河合望共訳)『古代エジプト』岩波書店、2007年
河合望『ツタンカーメン 少年王の謎』 (集英社新書)
河合望『古代エジプト全史』雄山閣2021
ツタンカーメン、黄金の秘宝と少年王の真実・・・少年王
の愛と苦悩
クレオパトラとエジプトの王妃展・・・生と死の秘密、時の迷宮への旅
石浦章一「ツタンカーメンの謎に新説!正体不明のミイラが彼の母親だった!?、「王家のDNA」解析からわかったこと
ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」・・・絶世の美女ネフェルティティ王妃とアマルナ美術の謎
https://bit.ly/39mttQ1
ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王
https://bit.ly/3usmqyp


2022年11月30日 (水)

京都・智積院の名宝・・・密教美術と長谷川等伯『楓図』久蔵『桜図』

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』299回
空海『聾瞽指帰』『秘密曼荼羅十住心論』から1200年、空海の思想が蘇る。時を超えて、聖なる知恵は邪知暴虐と戦い、天人の敵を滅ぼす。
8世紀末、空海と嵯峨天皇の時代から、京都は学問と藝術の都であり続け、足利義満、義政、16世紀、織田信長、狩野永徳、長谷川等伯、俵屋宗達、本阿弥光悦、18世紀、尾形光琳、伊藤若冲、円山応挙の時代まで、1000年間、文化の中心だった。
【桜開花の京都、庭園めぐり】桜開花の密教寺院に宿泊し、桜開花の京都、京都の庭園めぐりした日々を思い出す。龍安寺、銀閣寺、金閣寺、大徳寺、龍光院、仁和寺、醍醐寺、東寺、妙心寺、智積院、東福寺。醍醐寺三宝院の庭に佇むと、安土桃山時代の桜吹雪が蘇る。
【『理趣経』第三段】「金剛手よ、もしこの理趣を聞きて受持し読誦することあらば、たとひ三界の一切の有情を害すも悪趣に堕せず」
空海【聖なる者は悪を滅ぼす】【『理趣経』「第三段」】の教説に関して不空訳『理趣釈』において三界の衆生とは三毒の煩悩と注釈されているが、当該注釈の方向性は空海にも継承され、空海は三界の衆生を害することとは三界の無明を断じることに他ならないとしている。*三毒。貪欲・瞋恚・愚痴。貪瞋痴。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【狩野永徳の死、鶴松の死、久蔵の死】天正18年9月14日永徳の急死によって、等伯に突然の好機が訪れる。秀吉の3歳で亡くなった愛児、鶴松の菩提寺を飾る絵の注文が舞い込む。完成させた絵「楓図」。この傑作により等伯は秀吉に認められる。【長谷川久蔵の死】久蔵が26才で急死。久蔵の死の悲しみが『松林図屏風』を作らせる。久蔵(1568~1593)は「櫻図屏風」を描いて93年26才で死に、『松林図屏風』(1594,95?)完成。
【狩野永徳の死】長谷川等伯の長男久蔵が工作員を雇い、狩野派の首領、四十八才の狩野永徳を毒殺させた。1590年、狩野永徳の急死により、等伯に好機が回ってくる。秀吉の子、鶴松が3歳にして亡くなり菩提寺・祥雲寺(智積院)を建立。襖絵制作の大仕事が回ってくる。等伯『楓図』久蔵『桜図』。
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■長谷川等伯・・・苦難の生涯、72歳で死す
安土桃山時代の絵師、長谷川等伯(1539~1610)。等伯は能登の国七尾で生まれ、仏絵師となる。元亀2年(1571年)頃、養父母の死を契機に息子久蔵を連れて上洛。18年間、雌伏の歳月を生きる。天正17年(1589)51才で、大徳寺三玄院襖絵「山水図」(現圓徳院蔵)、大徳寺三門楼上の壁画制作。妻妙清を迎える。狩野派の妨害工作に遭う。最大のライヴァル狩野永徳(1543~90)は1590年48才で過労で急死、支援者・千利休(1522~1591)は91年に死に、息子久蔵(1568~1593)は「櫻図襖」を描いて93年26才で死に、秀吉(1536/37~1598)は98年に死ぬ。等伯は1610年に徳川家康に招かれ江戸に着いて2日後72才で死ぬ。かくて狩野派は御用絵師として江戸末期まで隆盛し、長谷川派は町絵師として生きることになる。
人生は苦難の連続で残酷だが、乗り越える。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「没後400年、長谷川等伯」図録、東京国立博物館、2010
長谷川等伯展・・・荒寥たる自然と生命の美
東寺『金剛界曼荼羅』『胎蔵界曼荼羅』西院本・・・知恵と無明の戦い、生命の根源
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」東京国立博物館・・・空海、理念と象徴
「密教彫刻の世界」東京国立博物館・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
密教経典『理趣経』・・・空海と金剛界曼荼羅
京都・智積院の名宝・・・密教美術と長谷川等伯『楓図』久蔵『桜図』
https://bit.ly/3VzQ54h
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展示作品の一部
長谷川等伯、国宝「楓図」六面のうち四面 桃山時代 16世紀 智積院
長谷川久蔵、「桜図」五面のうち四面 桃山時代 16世紀 智積院
国宝 張即之「金剛経」(部分) 一帖 南宋時代 1253年(宝祐元年) 智積院
重要文化財「瀑布図(滝図)」一幅 宋時代 13世紀 智積院
重要文化財「孔雀明王像」鎌倉時代 14世紀
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京都・東山に建つ智積院は、弘法大師空海(774~835)から始まる真言宗智山派の総本山で、全国に末寺約3,000を擁します。高野山中興の祖といわれる興教大師覚鑁(かくばん)(1095~1143)の法統を受け継ぎ、後に隆盛を極めた紀伊国根来寺(ねごろじ)山内で室町時代中期に創建されました。
天正年間には豊臣秀吉政権の下で一旦衰退しますが、その後、徳川家康の寄進を受け、江戸時代初期には現在の地に再興を遂げました。この地には元々、秀吉の夭折した息子・鶴松(棄丸)の菩提を弔うために建てられた祥雲寺があり、長谷川等伯(1539~1610)と息子・久蔵(1568~93)が描いた名高い金碧障壁画群も、智積院による手厚い保護を受けて今日まで大切に守り伝えられてきました。
本展は、国宝「楓図」「桜図」など、誰もが知る障壁画群を初めて寺外で同時公開し、桃山時代の絢爛豪華な抒情美にふれる貴重な機会となります。また、国宝「金剛経」や重要文化財「孔雀明王像」の他、仏堂を荘厳(しょうごん)する仏教美術の貴重な優品や、近代京都画壇を代表する堂本印象(1891~1975)による「婦女喫茶図」に至るまで、智積院が秘蔵する多彩な名宝を一堂に公開します。
――
第一章:空海から智積院へ
真言宗の宗祖である弘法大師空海は、平安時代9世紀初めに紀伊国(現在の和歌山県)で真言密教の根本道場となる高野山を開創しました。その後、高野山に入山した興教大師覚鑁は、鳥羽上皇(1103~56)の帰依を受けて、荒廃していた高野山を復興し、大治5年(1130)に上皇の勅願寺として大伝法院を開きます。この大伝法院は、のちに同所で研鑽を積んだ頼瑜僧正(1226~1304)によって、覚鑁が高野山麓に開いた円明寺・神宮寺(後の根来寺)へ移され、その法統が智積院にも受け継がれていきました。
本章では、空海や覚鑁の優れた肖像や、智積院中興の祖師たちにまつわる貴重な品々によって、智積院の歴史を概観します。また、「智積院靈寶并袈裟世具目録」(宝永2年(1705)作成 以下、「目録」)などの重要資料を寺外初公開することで、「智積院の名宝」が形成されてきた背景をご紹介します。
第一章:空海から智積院へ
真言宗の宗祖である弘法大師空海は、平安時代9世紀初めに紀伊国(現在の和歌山県)で真言密教の根本道場となる高野山を開創しました。その後、高野山に入山した興教大師覚鑁は、鳥羽上皇(1103~56)の帰依を受けて、荒廃していた高野山を復興し、大治5年(1130)に上皇の勅願寺として大伝法院を開きます。この大伝法院は、のちに同所で研鑽を積んだ頼瑜僧正(1226~1304)によって、覚鑁が高野山麓に開いた円明寺・神宮寺(後の根来寺)へ移され、その法統が智積院にも受け継がれていきました。
本章では、空海や覚鑁の優れた肖像や、智積院中興の祖師たちにまつわる貴重な品々によって、智積院の歴史を概観します。また、「智積院靈寶并袈裟世具目録」(宝永2年(1705)作成 以下、「目録」)などの重要資料を寺外初公開することで、「智積院の名宝」が形成されてきた背景をご紹介します。
――
弘法大師、空海ご誕生1250年、
京都・智積院の名宝、サントリー美術館
開催期間:2022年11月30日(水)〜2023年1月22日(日)

2022年11月27日 (日)

『国際政治、覇権争い、ウクライナ戦争』【質疑応答】孫崎享×大久保正雄、ソフィア文化芸術ネットワーク

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『国際政治、覇権争い、ウクライナ戦争』【質疑応答】孫崎享×大久保正雄
上智大学ソフィア文化芸術ネットワーク、2022年5月29日、上智大学1号館402教室
――
【質疑応答】孫崎享×大久保正雄
大久保正雄
1【日本政府、自民党は、なぜ、改憲するのか】
したがっているのか。なぜ、改憲して、戦争に導こうとするのか。米国の共和党政権は軍需産業、民主党は平和主義と思っている愚か者がいる。自民党政権が、改憲、緊急事態条項を要求するのは何故か。

孫崎享
【憲法9条、改憲を求めるのは米国】
米国は「2プラス2閣僚会議」で、日本に政治的な要求をする。何でも、日米合同委員会で決定するわけではない。
【米国は、民主党政権、共和党政権、ともに軍産複合体に支配されている】トランプ大統領は、軍産複合体を排除しようとしたが、イヴァンカ娘婿ジャレド・クシュナーはユダヤ人で軍産複合体。オバマ政権は軍需産業が支配、イスラム国ISISはオバマ政権=民主党が作りだした、作られたテロリズムである。

大久保正雄
2、【ウクライナ戦争の仕掛け、原因は何か】
戦争は金持ちが起こして、死ぬのは貧乏人である。戦争は武器産業の利益のために起こされる。
ウクライナ戦争、戦闘するのはロシア兵とウクライナ兵、米国は武器提供するだけ。台湾有事、戦争するのは中国と周辺国、米国は武器提供するだけ。米国は有事を起こす。米国は、中国と周辺国を戦争するよう、仕掛けているのか。

孫崎享
【米国、民主党政権と軍産複合体】
ロッキード・マーチン社の利益は、過去最高の利益。アメリカは火種を撒いてウクライナ戦争を煽り軍事産業に儲けさせたが、国内総生産GDPは落ち込み物価暴騰、昨年6000万円で買われた家が今は8000万円出さないと買えない。バイデンの支持率は35%に急落、今年11月の中間選挙を見据え、巻き返しを画策。
バイデンの支持率がどうなるかが、ウクライナ戦争の行方を左右する。

大久保正雄
3、米国は戦わず武器提供する。この構図を台湾有事に用いられるのか
ウクライナで、ロシア人とウクライナ人が戦い、米国は戦わず武器提供する。今後、台湾有事で、中国人と台湾人と日本人が戦い、米国は戦わず、武器提供する。
戦争を煽り、焔を炎上させる米国。共和党政権、民主党政権、両方とも、軍産複合体と金融資本の奴隷。民主党政権がリベラルと思うのは、いかさま際政治学者。「軍産複合体の利益が目的」。JFK暗殺事件は軍需産業が計画しCIAが指揮した。ヤヌコビッチ政権は市民の民主化革命で打倒されたと報道されるが、アメリカによるクーデター計画がある。ゼレンスキー政権は独裁政権である。ウクライナ戦争によって、世界的規模の資源危機、食糧危機、物価高騰、影響は測り知れない。プーチン大統領は独裁政権であるが、ゼレンスキー政権は独裁政権化している。停戦に向けて努力すべきである。

孫崎享
【ウクライナ戦争と台湾有事】
米国は、今後、ウクライナ戦争を起こした構図を、台湾有事に用いる可能性はある。自民党政権は戦争を起こしたがっており、そのために、1、軍事費、防衛予算倍増計画、2、緊急事態条項、国会議員の任期延期、3、自民党政権の改憲案は、軍事政権の計画である。米国、民主党政権も、共和党政権も、軍需産業に支配されており、自民党政権は、米国の要望に応じて行くだろう。真の平和を守るためには、「戦争の罠」「台湾有事の罠」を拒否しなければならない。
ウクライナ戦争は、ウクライナが停戦の条件を受け入れれば、すぐ止めることができる。

4、『トゥキュディデスの罠』覇権国と新興国の覇権争い
大久保正雄
ハーバード大学教授、グレアム・アリソンは、フランスとハプスブルク家の戦いを分析して、覇権国は新興国に負けると結論した(グレアム・アリソン『トゥキュディデスの罠』)。今後、国際政治はどう展開するのか。戦争で利益を得るのは誰か。

孫崎享
【アメリカのパクス・ロマーナは終わった】
ハーバード大学教授、グレアム・アリソンは、台湾有事で、米国と中国が衝突すると、米国が中国に敗北する、と分析している。未来の国際政治は、中国とインドが世界の指導的立場に立つ。米国は経済においても、政治においても、衰退していく。米国のパクス・ロマーナは終わった。
――
孫崎享【講演会、論旨】
外交官の経験に基づく、他の追随を許さない国際関係の緻密な分析、ウクライナ問題の解決方法。快刀乱麻を断つ戦術分析、一刀両断の戦略分析、西側マスコミに迎合しない情報分析。観客の反応は好評であった。大久保正雄 2022年11月27日
――
【ウクライナ問題の解決】「1、NATOをウクライナに拡大しない。2、ウクライナ東部の自治を認める」。キッシンジャーは2014年これを提言した。
洋画家松本俊介は1941年戦争に反対した。なぜ、戦争に加担するのか。日本はウクライナには関係ないのに何故経済制裁に加担するのか?
【平和の為に外交する】日本は軍事力増強するより平和の為に外交する事が生きる道である。日本の報道はプーチン悪で各社一致しているが、ウクライナ侵攻の前2014年から8年の内戦を解説していない。ウクライナ問題は攻め込んだプーチンが悪いがNATOも悪い。
【アメリカ、武器提供】アメリカはウクライナでやった様に武器だけ与えて戦争には直接参加しない。これを東アジアで応用すれば日本が最前線に自衛隊が参戦してアメリカは参戦しない。自民党は憲法改憲して戦争の出来る国にするがアメリカの圧力で憲法改憲したら大変な事態になる。バイデン政権を支持するのは金融資本と軍需産業だが、金融資本が離れる時、バイデンがウクライナ介入を辞める時。東アジアで中国と周辺国の危機が作られる恐れがある。
【覇権争い、その行方】米国とロシアの覇権争いは米国が制するが、米国と中国の覇権争いは中国が制する。
【米国と中国が衝突、その行方】ハーバード大学教授、グレアム・アリソンは、台湾有事で、米国と中国が衝突すると、米国が中国に敗北する、と分析している。未来の国際政治は、中国とインドが世界の指導的立場に立つ。米国は経済においても、政治においても、衰退していく。米国のパクスロマーナは終わった。
【文化人でも戦争に賛同する人、御用学者、御用芸人】
文化人でもウクライナ戦争に賛同する人がいる。第2次大戦前、文化人でも戦争に賛同する人がいた。無駄な外国の戦争に巻き込まれる必要はない、と言った芸術家はまれである。

注、松本竣介は「みずゑ」1941昭和16年4月号において『生きてゐる画家』という一文を発表。その中で画家は「一切の芸
術家としての表現行為は、その作者の腹の底まで染みこんだ、肉体化したもののみに限り、それ以外は表現不可能といふ、厳然とした事実を度外視することはできないのである」昭和20年10月の「芸術家の良心」で、戦争画を描いていた画家たちの、戦後の変容に対して、彼は痛烈な言葉を投げかけている。「僕なんかは、日本の芸術家はカメレオンの変種なのではないかと思われることが、なによりもさびしい。(云々)」
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』298回
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ファシズム14の兆候、孫崎享×大久保正雄『国家権力の謎』第11回
検察は権力の奴隷、マスコミは追及せず。独裁政権、止めるシステムなし。
孫崎享×大久保正雄『国家権力の謎』第10回
ミサイルは、迎撃できない。孫崎享×大久保正雄『国際政治の舞台裏 核の傘は存在するのか』ソフィア文化芸術ネットワーク
『国際政治、覇権争い、ウクライナ戦争』【質疑応答】孫崎享×大久保正雄、ソフィア文化芸術ネットワーク

2022年11月24日 (木)

「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」・・・秦始皇帝の謎

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』297回
【秦の謎、兵馬俑の謎】なぜ550年続いた春秋戦国の群雄割拠の世を、秦の嬴政が統一できたのか。始皇帝となりえたのか。なぜ始皇帝陵の等身大の兵馬俑を作ったのか。なぜ西方の秦が、東の関を守り抜き、東方の六国に勝利しえたのか。戦国時代、西の果ての秦は弱小国で、馬の飼育に長け、西方文化と接触した。
【アレクサンドロス大王、帝国の謎、前334年から前323年】マケドニアの騎馬隊と重装歩兵長槍密集隊を思い出す。
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【秦、始皇帝】嬴政・・・権力の頂点に立つ者の猜疑と残虐
始皇帝(紀元前259年 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)、諱は政(せい)。父が、敵国趙の人質であったため、趙で苦労した。13歳で秦王となって、わずか9年にして、統一をなし遂げる。22歳で始皇帝となり、51歳で死にまで君臨した。秦は十数後滅亡。紀元前202年、漢の劉邦が西楚の項羽を破って再び中国を統一。
死後なお地下帝国に君臨しようとした秦始皇帝の凄絶な欲望。権力に憑かれた人間の妄執。几帳面で、細部を一一記憶し、偏執狂的な性格。末梢にこだわる。一度の誤りも許さず、何年も記憶する。
権力の頂点に立つ皇帝の猜疑心と暴虐と妄執。周到な猜疑の目、苛烈、残忍な暴君。権力に盲従する取りまき、扈従の群れ。この世の悪霊。悪霊は、天によって滅ぼされる。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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【始皇帝、嬴政、政治と文化】
嬴政(えいせい)に仕えた兵法家尉繚によると、「目は切れ長で、鼻は非常に高く、鳩胸。」「声は山犬のよう」「他人を食い物とし、必要とあらばどんな人間にもへりくだる。」「王が中華統一をすれば、みな奴隷となる。」将軍、王翦は「大王は粗暴で、誰も信用しない。」「一度疑ったら死ぬまで疑い続ける」。
戦国の七勇のなかで、わずか9年にして、統一をなし遂げる。情報収集力にたけ、敵国に何人も間者を送った。中国史上最強の暴君として名を留める。
【暴君】「敵を殲滅する力と、維持をする力は別である。」「万里の長城建設など、人々の苦しみを理解しない。」
【法治主義 韓非子】秦の将軍蒙恬(もうてん)が匈奴を討伐した宴の席。(紀元前215年~214年)「古い王朝の在り方を見習うべき」という意見があった。嬴政は、丞相の李斯に相談する。「時代に合わせて変化しない法など、無意味である。」嬴政は、「韓非子」に基づいて判断した。
【焚書坑儒】「学者は古い書物を持ち出し、喚きあうだけ。」「現実を見ようとせず、机上の空論を正しいものとし邪魔をする。」紀元前213年。丞相の李斯は「国庫にある古い本以外、全て捨てるべき。」と進言。嬴政もこれに同意し、許可する。
【坑儒】学者廬生は「処刑を楽しんでばかりで中華は震え上がり、うわべの忠誠を尽くす。」「天下を我が物とする独裁者なり」と進言した。
嬴政は、460人近い学者を集め、質問攻めにする。しかしどの学派の学者に聞いても、誰かの悪口を言うのみで、正しい情報が得られない。その場の全員を捕え、紀元前212年、捕えた全員を生き埋めにする。
【戦国時代の学術、諸子百家】春秋末期から戦国中期、諸子百家があらわれた。古今の人を、上上聖人、上中仁人、上下智人、中上、中中、中下、下上、下中、下下愚人。九種類に分類する。(王充『論衡』)道家は上人以上を語り、法家は中人以下を管理する。諸子百家は、共存しうる。
【兵馬俑の謎】なぜ始皇帝は等身大の兵馬俑を作ったのか。殉葬を避けるため、兵馬俑を作った。空前絶後の等身大の兵馬俑。孔子は、俑について「人間の魂を吹き込んだような俑を作ったから殉葬の風習が生まれた」と批判した。
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【アレクサンドロス大王、東方遠征の謎、前334年から前323年】マケドニア王フィリッポス2世は、テーバイに人質となり、重装歩兵密集隊戦術を学んだ。祖国に帰り権力を統一し、騎馬隊の組織化、重装歩兵、長槍密集隊などの戦法を採用、ペロポネソス戦争後のギリシアの混乱に乗じてギリシア本土に侵攻した。哲学を学んだ。前338年、カイロネイアの戦いでアテネ、テーベなどのポリス連合軍を破り、ギリシア本土の都市国家を屈服。【フィリッポス2世暗殺事件】前336年春、フィリッポスは娘クレオパトラ(アレクサンドロスの妹)と隣国モロッソイの王子との結婚式。初夏の古都アイガイで、護衛官パウサニアスが王を刺殺。フィリッポス2世、46歳。暗殺事件の背後にフィリッポス2世の妻オリュンピアスとその子アレクサンドロスがいた。20歳でアレクサンドロス3世、マケドニア王即位。前334年から前323年まで、アレクサンドロス大王はアケメネス朝ペルシア帝国からインドに及ぶ帝国建設。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
アレクサンドロス帝国の遺産はどこに残されたのか
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎
マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した戦略家
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展示作品の一部
鹿紋瓦当、戦国秦
青銅長剣、兵馬俑1号抗から出土、秦始皇帝陵博物院
鎏金青銅馬、前漢、前3世紀、漢の武帝、1981年、陝西省興平県出土、陝西省茂陵博物館蔵
里耶秦簡、秦、前3世紀、里耶博物館
金印「王精」、前漢、前3世紀、里耶博物館、秦始皇帝陵博物院
戦車馬、 統一秦 秦始皇帝陵博物院蔵 一級文物
2号銅車馬[複製]、原品=秦時代・前3世紀 西安市臨潼区秦始皇帝陵銅車馬坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
 始皇帝の陵墓の西、銅車馬坑から見つかった2両のうちの1両。こちらの2号は、御者が立ち姿で操縦する1号の立車に対し、御者が正座で操縦しており、安車と呼ばれる。始皇帝が乗った馬車。実物を2分の1サイズで復元《2号銅車馬》(複製品)、6000件の部品がつなぎ合わされ復元。御者の手綱や部品が精巧に再現されている。
高さ106・2センチ、長さ317センチ、幅176センチの青銅製の銅車馬が作られたのは、始皇帝が生前に巡行した威容を残しておくため。4頭だての牽引(けんいん)力は、中2頭と外2頭で異なる。中2頭の首には軛が覆い被さり、横木で連結されている。その横木と車体中央から伸びた轅(ながえ)が十文字に結ばれ、車体を牽引する。両脇の2頭にも牽引用の綱はあるが、補助的な役割。
1号銅車馬(写真左)、2号銅車馬(写真右) [複製]、原品=秦時代・前3世紀 西安市臨潼区秦始皇帝陵銅車馬坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
戦服将軍俑、高さ196cm秦時代・前3世紀、西安市臨潼区秦始皇帝陵1号兵馬俑坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
立射俑、高さ178cm、秦時代・前3世紀、西安市臨潼区秦始皇帝陵2号兵馬俑坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
軍吏
俑、秦時代・前3世紀、西安市臨潼区秦始皇帝陵1号兵馬俑坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
跪射俑、秦時代・前3世紀、西安市臨潼区秦始皇帝陵2号兵馬俑坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
跪座俑、 統一秦 高さ64cm 秦時代・前3世紀、秦始皇帝陵博物院蔵 一級文物
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★参考文献
鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』講談社2004
鶴間和幸『人間・始皇帝』岩波新書2015
平勢隆郎『都市国家から中華へ 殷周 春秋戦国』講談社2005
吉川忠夫『秦の始皇帝』講談社学術文庫
「始皇帝と大兵馬俑」・・・皇帝の猜疑心と残虐
「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」2022
始皇帝を守る最強地下軍隊「兵馬俑」に会いに行こう-AraChina中国旅行:
「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」・・・秦始皇帝の謎
https://bit.ly/3EBrm8O
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★展覧会概要
古代中国の知られざる秘密が明かされる
紀元前770年、周王朝は洛陽に遷都したが、次第にその権威は失われ、各地で有力な諸侯が独立していく時代に入った。約550年続いたこの群雄割拠の世が、後に言う春秋戦国時代である。
紀元前221年、秦の始皇帝がついにこの戦乱を終結させ、史上初めて中国大陸に強大な統一王朝を打ち立てた。わずか十数年のうちに秦は滅亡した、始皇帝の墓に眠る兵馬俑、万里の長城の遺物は、当時の絶大な国力を現代に伝える。
紀元前202年、漢の劉邦が西楚の項羽を破って再び中国を統一する。秦の国家制度を引き継いだ漢王朝は、古代中国における一つの黄金時代。この二国の治世は、中国の基礎を確立した時代。
本展では、秦漢両王朝の中心地域であった陝西省の出土品を中心に、日本初公開となる貴重な文物を多数展覧。それらが語る歴史を紐解いていく。戦国時代の極小の騎馬俑が、なぜ始皇帝陵の等身大の兵馬俑となり、漢代では再び小さくなったのか?なぜ西方の秦が、東の関を守り抜き、東方の六国に勝利しえたのか?日中国交正常化から50周年を数える2022年、古代中国の知られざる秘密が明かされる。
秦の始皇帝
趙の都邯鄲で生まれた秦王嬴政。約550年続いた群雄割拠の春秋戦国時代を終結させ、紀元前221年に史上初めて中国大陸に統一王朝を打ち立てた。1974年、秦始皇帝陵付近で、偶然、地中に埋まった素焼きの像が発見され、地下5メートルの巨大な地下空間に、おびただしい数の兵士や馬の素焼きの像が埋まっていることが発見された。
兵馬俑とは
兵士や馬をかたどった像で、陵墓に収められた。始皇帝陵に埋蔵が推定される約8,000体は、顔、体、服装のひとつひとつが異なる。
みどころ
過去最大級のスケール。兵馬俑36体が来日決定!
1974年、西安郊外の秦始皇帝陵墓付近で歴史的な発見がありました。そこには、一体一体違う顔をした等身大の人間の像が、おびただしく埋められていたのです。本展では、この世界的に有名な始皇帝の遺物をはじめ、戦国、漢時代を含めた総計36体の兵馬俑が一堂に会します。日中国交正常化50周年だからこそ実現した、破格のスケールの展示をお楽しみください。
ここに注目! 兵士や馬の俑、その数およそ8000体の埋蔵が推定される始皇帝陵の兵馬俑坑。中でも、かつて11体しか確認されていない希少な将軍俑から、日本初公開となる1体を展示。
日本初公開&国宝級を多数含む、約200点の文物が集結!
現在に至る中国の礎を確立した、秦・漢両王朝の中心地域・関中(現在の陝西省)。今回は中国の陝西省文物局の全面的な協力のもと、同地の出土品を中心とする約200点 ( 兵馬俑36体含む ) を展覧します。中国国家一級文物(国宝級を指す中国国内の区分)から、最新の発掘調査による出土品まで、日本初公開を多数含む貴重な文物をお見逃しなく。
ここに注目! 古代の青銅器から、選り抜きの名品が揃う。さらに、漢の武帝が作らせたと伝わる秘宝・鎏金青銅馬も36年ぶりに本邦で公開。
1,000年に渡る、歴史のドラマを追体験!
紀元前770年の周王朝の遷都から、220年の漢王朝の崩壊まで、およそ1,000年に渡る時代の歴史資料を紹介。群雄割拠の春秋戦国時代、わずか十数年の間に絶大な国力を示した秦時代、そして古代中国の黄金時代の1つを築いた漢時代。
ここに注目! 戦国時代に生まれた小さな副葬品は、始皇帝の意によって等身大の人の姿になった。古城の古井戸から発見された木簡には、何が記されているのか。
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★「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」上野の森美術館、2022年11月22日(火)〜2023年2月5日(日)

2022年11月16日 (水)

パリ・オペラ座−響き合う芸術の殿堂・・・シャガール「夢の花束 」

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』296回
オペラ座の建築は、19世紀半ば、皇帝ナポレオン3世により計画された。 匿名によるコンペが開催され、1661年パリ高等芸術学校出身の若きシャルル・ガルニエが設計した。王立音楽アカデミー1669年の建築。彼の名前でオペラ・ ガルニエと呼ばれる。19世紀、ロマンティック・バレエ、グランド・オペラ、華の総合藝術の舞台となる。1960年アンドレ・マルローの依頼で、シャガールは77歳で天井画「夢の花束 」(1964年)を描き、97才で死ぬまで絵を描き続けた。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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シャガール「夢の花束 」
アンドレ・マルローとシャガールとの友情
1960年2月17日。シャルル・ド・ゴール大統領と文化大臣アンドレ・マルローは、ペルーの代表団とともにオペラ座にいた。演目はモーリス・ラヴェルのバレエ《ダフニスとクロエ》。マルローは休憩時間中、舞台美術監督を任命されていたシャガールに新しい天井画を描いてみないかと打診した。 シャガールとマルローは30年来の友人。1962年に公表されメディアは批判した。1964年9月23 日、新しい天井画は公開され、2000人が特別コンサートに招待された。メディアは、作品を痛切に批判した。
古今の大作曲家14人 オペラ座、凱旋門、エッフェル塔
シャガールの天井画は、オペラ座の公演レパートリーとして 1964年当時 200年以上前から貢献してきたラモーを含む 古今の大作曲家14人と、彼らの歴史的演目を絵画の世界に織り込み、凱旋門やエッフェル塔、オペラ座など観光名所の建物を鏤めた大作、巨匠の集大成的作品。1、ラヴェル:バレエ「ダフニスとクロエ」2、ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」3、ラモー:「花々のバレエ」(「優雅なインドの国々」から)4、ベルリオーズ:劇的交響曲「ロメオとジュリエット」5、ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」6、モーツァルト:歌劇「魔笛」7、ムソルグスキー:歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」8、アダン:バレエ「ジゼル」9、チャイコフスキー:バレエ「白鳥の湖」10、ストラヴィンスキー:バレエ「火の鳥」、中央の円環に11、ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」12、ヴェルディ:歌劇「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」13、ビゼー:歌劇「カルメン」14、グルック:歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」
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Marc Chagall「夢の花束 」(1964年)、シャガール77歳の作品。
黄色い天使に花束をささげられたオペラ・ガルニエ。左下、 青い背景は、2ドビュッシー《ペレアスとメリザンド》。もたれかかって髪をとかしているメリザンドと、窓から顔をのぞかせるペレアス。2人を見下ろすのは、王冠をかぶった老王アルケル。
赤い背景は、1ラヴェル《ダフニスとクロエ》。羊が放牧されているニンフの神殿の下に、海賊に襲撃された群衆。上部には、 守り神のバン神が海賊の首領ブリュアクシスを連れ去り、 再会して愛し合うダフニスとクロエは半身がつながつている。
パリの象徴、エッフェル塔。その右隣にバレットを片手にしたシャガールの自画像。右上、中央部分の青と緑の背景に11ベートーヴェン《フィデリオ》。剣をもった青い騎士にレオノーレが立ち向かう。
10ストラヴィンスキー《火の鳥》。体がチェロになった音楽の天使。その横の魔法の木には、火の鳥。
鮮やかな黄色を背景に描かれる、9チャイコフスキー《白鳥の湖》。湖のほとりにいる悪魔ロットバルトによって姿を白鳥に変えられたオデット姫。
後ろのダンサーは、 8アダム《ジゼル》の村娘たちと混じり合う。 濃紺の背景に描かれる、 7ムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》。顔が鳥になった天使が空を飛び、隣に緑で描かれたモスクワの街。
14グルック《オルフェオとエウリディーチェ》。エウリディーチェがオルフェオの竪琴を奏で、 天使が花を贈る。
天使が花輪に飾られたモーツァルトの肖像画を指し示す。鳥が笛を吹いている、 モーツァルト《魔笛》。
緑の背景、赤く照らされた凱旋門の左下、横たわり抱き合う2人、5ワーグナー《トリスタンとイゾルデ》。
抱き合うカップル、4ベルリオーズ《ロメオとジュリエット》。
赤と黄色の背景に、13ピゼー《カルメン》。雄牛の奏でるギターに合わせて、カルメンが踊る。
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マルク・シャガール(Marc Chagall1887-1985)
ロシア帝国ヴィテブスクにユダヤ人として生まれ、1908年21才で美術学校に入学。1911年、モンパルナスの集合アトリエ「ラ・リュッシュ」(蜂の巣)に住み、多くの藝術家たちと出会う。28才でベラと結婚。1917年ロシア革命、1918年ヴィテブスクに美術学校設立。1944年、愛妻ベラ急逝。1952年65才で二度目の結婚。南仏ヴァンスの鷲ノ巣村で晩年を暮らす。77歳1964年パリ・オペラ座の天井画を制作。97才で死ぬまで絵を描き続ける。
故郷ヴィテブスクと結婚のイメージを融合した幻想的な絵画が印象的である。青春を過ごしたパリの風景が織り込まれ、モンパルナスの蜂の巣で出会った藝術家の息吹がある。初期作品はロシア・ネオ・プリミティヴィスムの画家からの影響が濃厚である。
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展示作品の一部
シャルル・ガルニエ「オペラ座ファサード立面図」1861、フランス国立図書館
エドガー・ドガ「バレエの授業」1873-76、アーティゾン美術館
エドガー・ドガ「バレエの授業」1873-76、オルセー美術館
エドゥアール・マネ「オペラ座の仮面舞踏会」1873、アーティゾン美術館
アレクサンドル・カバネル「クレオパトラ」1883
ガストン・ルルー「オペラ座の怪人」原稿、1909、フランス国立図書館
マルク・シャガール「オペラ座の人々」1968-1971ポーラ美術館
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参考文献
「パリ・オペラ座−響き合う芸術の殿堂」図録、2022
シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い
https://bit.ly/3DXyUDY
パリ・オペラ座−響き合う芸術の殿堂・・・シャガール「夢の花束 」
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プレスリリース
パリ・オペラ座は、バレエやオペラの輝かしい殿堂としてよく知られた劇場です。ルイ14世によって1669年に設立されたパリ・オペラ座は、その歴史を通して台本作家や作曲家、美術家に、芸術的な進展や技術的な革新を可能にする表現を常に注文してきました。この展覧会では、パリ・オペラ座の歴史を17世紀から現在までたどりつつ、さまざまな芸術分野との関連性を示すことで、その魅力を「総合芸術」的な観点から浮き彫りにします。特に対象とする時期は、19世紀から20世紀初頭。これはロマンティック・バレエ、グランド・オペラ、バレエ・リュスの時代にあたります。フランス国立図書館をはじめとする国内外の約250点の作品により、芸術的、文化的、社会的な視野からパリ・オペラ座の多面的な魅力を紹介し、その歴史的な意
味を明らかにします。パリ・オペラ座と諸芸術との多様なつながりをテーマとする、これまでにない新たな試みです。
パリ・オペラ座とは?
フランスを代表する歌劇場。パリ9区の絢爛な建築は、19世紀後半パリの近代化の一環として計画され1875年に完成、設計者の名に由来しガルニエ宮(オペラ・ガルニエ)とも呼ばれます。ルイ14世によって1669年に設立された王立音楽アカデミーを前身とし、350年以上の間、台本作家や作曲家、美術家に、芸術的な進展や技術的な革新を可能にする表現を常に注文してきました。1989年にバスティーユ歌劇場(オペラ・バスティーユ)が完成し、現在二つの劇場でバレエ、オペラの古典から現代作品までを上演しています。
章構成
序曲:ガルニエ宮の誕生
第Ⅰ幕:17世紀と18世紀
(1)「偉大なる世紀」の仕掛けと夢幻劇(2)音楽つきの「雅宴画」(フェート・ギャラント)
(3)新古典主義の美的変革
第 II 幕:19世紀[1]
(1)ル・ペルティエ劇場(2)グランド・オペラ(3)ロマンティック・バレエ
(4)装飾職人と衣装画家 *パリの観劇をめぐって
第 III 幕:19世紀[2]
(1)グランド・オペラの刷新(2)ドガとオペラ座(3)劇場を描く画家たち
(4)ヴァーグナーの美学 *作家とオペラ座 *ジャポニスムとオペラ座
第 IV 幕:20世紀と21世紀
(1)バレエ・リュス(2)近代芸術とオペラ座(3)画家・デザイナーと舞台美術
(4)演出家と振付師のオペラ *映画とミュージカル
エピローグ:オペラ・バスティーユ
【公式サイト】アーティゾン美術館|展覧会詳細ページ
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★「パリ・オペラ座−響き合う芸術の殿堂」、アーティゾン美術館
2022年11月5日[土] - 2023年2月5日[日]

2022年11月13日 (日)

板谷波山の陶芸、その麗しき作品と生涯・・・葆光釉磁の輝き

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』295回
板谷波山(1872年~1963年)  貧困の果てに 前人未到の境地
1889年、東京美術学校彫刻科に入学。1898年、石川県工業学校に奉職。19世紀末1900年アール・ヌーヴォーの意匠を研究。1903年、石川県工業学校を辞職し、31歳、陶芸家として歩み始めた波山は、高火度焼成の窯を田端に構える。陶芸家として華々しいデビュー、しかし貧困との果てしない戦いが始まる。磁器焼成に挑み釉薬や顔料の調合も吟味した。完全主義で、作品を厳選し、膨大な作品を気に入らず破棄した。大正4(1915)年頃、43歳、マグネサイトを使った「葆光釉」に到達。70歳代まで貧困に苦しんだが、前人未到の境地に到達した。
「私は家を建て、翌年窯を作ると、一厘の余裕もなく、貧乏であった」板谷波山1931年
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至高の美を求めて 葆光彩磁の輝き
波山は、理想の作品づくりのために一切の妥協を許さず、端正で格調高い作品を追求した。大正4(1915)年頃、43歳、「葆光釉」に到達。
「葆光」とは『荘子』「斉物論篇」、荘子は「葆光」を「無尽蔵な天の庫」に喩え幽遠な美の境地である。
荒川正明氏の記者発表会を聞く。「波山は東洋と西洋の美を融合、器の形はギリシアのアンフォラ、波山は新古典主義様式の最後の騎士である」
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
《彩磁金魚文花瓶》1911(明治44)年頃 筑西市(神林コレクション)蔵
重要文化財《葆光彩磁珍果文花瓶》1917(大正6)年 泉屋博古館東京蔵
《彩磁草花文花瓶》大正後期 廣澤美術館蔵
《天目茶碗》1944(昭和19)年 筑西市(神林コレクション)蔵
《葆光彩磁珍果文花瓶》(重文)など約130点の名品を展示。陶芸を芸術の域に広げた板谷波山(1872年~1963年)の美の世界
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参考文献
『生誕150年 板谷波山の陶芸』展覧会図録、2022
『生誕150年 板谷波山の陶芸』プレスリリース
(荒川正明「板谷波山の陶芸―すべては美しく、やきものを生むために―」『没後50年 板谷波山展』展覧会図録、毎日新聞社、2013年)
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展覧会概要
近代陶芸の巨匠 板谷波山(本名・板谷嘉七)は、令和4(2022)年3月3日、生誕150年を迎えました。明治5(1872)年、茨城県下館町(現・筑西市)に生まれた波山は、明治22年東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科に入学、岡倉天心や高村光雲に師事しました。明治36年には東京・田端の地に移り、陶芸家「波山」として数々の名作を生みだします。昭和9(1934)年、帝室技芸員に任命され、昭和28年には陶芸家初の文化勲章を受章しました。
波山は、理想の作品づくりのためには一切の妥協を許さず、端正で格調高い作品を数多く手がけました。代表作の一つ、重要文化財 《葆光彩磁珍果文花瓶(ほこうさいじちんかもんかびん)》は、大正6(1917)年、波山芸術を愛した住友春翠によって購入され、泉屋博古館東京に継承されています。
この記念すべき年に、選りすぐりの名作と共に、波山が愛した故郷への思いや人となりを示す貴重な資料、試行錯誤の末に破却された陶片の数々を通して、「陶聖」波山の様々な姿を紹介いたします。波山の作品に表現された美と祈りの世界に癒され、彼の優しさとユーモアにあふれた人生に触れるひと時をお楽しみください。
展示構成
序章:ようこそ、波山芸術の世界へ
板谷波山が東京美術学校時代に薫陶を受けた恩師・岡倉天心は、自身が創刊した雑誌『国華』創刊の辞の一節に、「夫レ美ハ國ノ精華ナリ」と記しています。その意は、美しいものを愛おしみ、それを育んでいく精神にこそ、その国家の真髄があるということでしょう。
その恩師の言葉を糧に、波山は全身全霊で陶芸の世界に対峙した人物でした。波山の陶芸は、東洋の古陶磁がもつ鋭く洗練された造形を骨格として、そこに19世紀末の欧米のアール・ヌーヴォースタイル、つまり優雅で官能的な装飾性を加えた、いわば東西の工芸様式を見事に融合させたところに特徴があります。序章では、波山の代表作をご覧ください。

第Ⅰ章 「波山」へのみちのり
郷里・茨城県下館の街は、全国有数の木綿の産地であり、江戸時代後期には商都として町人文化が栄えていました。生家は下館藩の御用商人も務める富裕町人で、父・増太郎は文人趣味、茶道の嗜みもありました。この父親の美を愛する心は波山にも受け継がれ、生来の器用さもあり、幼い頃、すでにやきものへの関心も抱いていたと想像されます。
明治22年、開校して間もない東京美術学校に入学、古典の学習、写生や模写、工芸技術など一連の研鑽を経て、芸術家としての基礎を築きました。その後、工芸の街・金沢の石川県工業学校(県工)へ奉職、本格的に陶芸の世界に接近していき、デザインや窯業材料の研究、ロクロ成形や窯焼成など、土にまみれる7年間を過ごしました。
波山はこのように、岡倉天心のもと東京美術学校で芸術家としての魂を注入される一方、県工の同僚である北村弥一郎(ワグネルに連なる東工大窯業科系の俊英)などから、最新の窯業化学をも直に学びます。つまり、近代日本の「美術」と「工業」の両分野の最高峰に連なる環境で鍛えられ、次世代陶芸界の牽引者としての歩を進めていくこととなります。
Ⅰ-1 故郷・下館 —文人文化の街
Ⅰ-2 芸術家を志して —東京美術学校と石川県工業学校
第Ⅱ章 ジャパニーズ・アール・ヌーヴォー
19世紀後期、ジャポニスムブームに陰りが見え、日本の陶磁器輸出は斜陽期に突入します。素地を移入し「上絵付け」主体の東京や横浜の輸出業者は、次々と倒産に追い込まれていきました。この逆境の下、果敢に陶芸家として歩み始めた波山は、大きな賭けに出ます。それまでの陶工の常識を破り、個人で本格的な高火度焼成の窯(平野耕輔設計:三方焚口倒焔式レンガ丸窯、当時の日本では最新型)を東京・田端に構え、磁器焼成に挑みました。絵付けだけではなく、素地も自らつくり、釉薬や顔料の調合も吟味しました。
この頃、波山が熱心に取り組んだ課題は、西欧で流行したアール・ヌーヴォースタイルの意匠研究と、西欧渡来の釉や顔料の実用化です。日本陶芸界のアヴァンギャルドとして、造形や意匠の革新者として、波山は次第に注目を集める存在となっていきます。しかし、薪窯による焼成のリスクは大きく、製品の歩留りも悪い状況でした。陶芸家としての華々しいデビュー、しかしそこには貧困との果てしない戦いが待っていました。
Ⅱ-1 陶芸革新 —アヴァンギャルド波山
Ⅱ-2 アール・ヌーヴォー―いのちの輝き
第Ⅲ章 至高の美を求めて
天性のカラリストといっても過言ではないほど、鋭敏な感性の持ち主であった波山。彼の色彩の世界は、釉の下に絵付けする「釉下彩」(下絵)で表現されています。波山はこの「彩磁」から、さらに「葆光彩」へと表現の幅を広げていきました。「葆光彩」は今や波山の代名詞となっていますが、薄絹を被せたようマット釉は、作品に侵しがたい気品を加えることとなります。
「葆光」とは中国・春秋時代の思想家・荘子による『荘子』「斉物論篇」に記されており、荘子は「葆光」を「無尽蔵な天の庫」にたとえています。波山が老荘思想に興味をもった背景は明らかではありませんが、恩師・岡倉天心からの示唆があった可能性も。ともかく、波山の「葆光彩」の完成は、日本の磁器表現に広がりと深み、そして幽遠な美の境地をもたらしました。
Ⅲ-1 葆光彩磁の輝き
Ⅲ-2 色彩の妙、陶技の極み
Ⅲ-3 侘びの味わい —茶の湯のうつわ
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板谷波山の陶芸、その麗しき作品と生涯・・・葆光釉磁の輝き
https://bit.ly/3GbpXs1
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「板谷波山の陶芸―近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯」泉屋博古館東京
2022年11月3日(木・祝)〜12月18日(日)

2022年10月19日 (水)

ピカソとその時代・・・藝術の探検家、7人の恋人、7つの時代

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』294回
青春の日、スペインの灼熱の大地の旅を思い出す。ソフィア王妃芸術センターで「ゲルニカ」1937、プラド美術館でヒエロニムス・ボス『快楽の園』、ベラスケス「ラス・メニーナス」、ティッセンボルネミサ美術館でエル・グレコ展、トレドで「オルガス伯の埋葬」。
パプロ・ピカソ、1881年 - 1973年)92歳で死す。7人の恋人、7つの時代。類稀な才能を開花、4万5千点の作品を残す。藝術の探検隊である。才能によってこの世に成功することは極めて困難であるが、ピカソは才能によって成功を遂げた稀有な例である。
【トマ・ピケティ『21世紀の資本』】「資本主義の富の不均衡は放置しておいても解決できず、格差は広がる。格差の解消のために、なんらかの干渉を必要とする」。その根拠が「r>g」という不等式。「r」は資本収益率を示し「g」は経済成長率を示す。富の蓄積は労働成果より大きい。
【人生の舞台、探検隊】16の性格、外交官グループ、提唱者、仲介者、主唱者、広報運動家。番人グループ、管理者、擁護者、幹部、領事官。探検隊グループ、巨匠、冒険家、起業家、エンターテイナー。分析家グループ、建築家、論理学者、指揮官、討論者。人生という舞台、自分の必殺技をどう披露するか。特性、強み弱み、どう発揮するか。織田信長は、明晰透徹な指揮官、武の七徳を探求する。
【無能が支配する国、腐敗の帝国】組織における地位は能力を表さない。何も生み出さない、知恵もない、ただの番人が管理階級、搾取階級として君臨する。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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■ピカソ、生涯と藝術、7人の女。7つの時代
(Pablo Ruiz Picasso, 1881年10月25日 - 1973年4月8日)92歳で死す。
スペイン・マラガで生まれた。
1881年 ピカソ誕生。ピカソの母は言う「言葉を覚えるより先に絵を描いていた」。「石膏トルソの習作」(1892)
1900年、19歳のピカソはパリへ 向かう
 しかし芸術の都は甘くなく、思うように絵は売れなかった。ある日、ともにパリにきた友人が自殺。絶望の淵で、それでも筆を握り続けたピカソは苦難の果てにあの色にたどり着く。「自画像」(1901)
ばら色の時代
絵画の革新者の誕生。描く対象をバラバラに分解し、その存在感が引き立つように組み合わせた。「キュビスム」の時代。「アヴィニョンの娘たち」(1907)
新古典主義の時代。40代ギリシア彫刻などに出会い、伸びやかな命があふれる作風が開花する。
第1次世界対戦後 束の間の平穏な時代を反映するかのような光景
同じ画家とは思えないほど極端なまでに変貌を遂げるピカソ
「私は一枚の絵を描く。それからそれを破壊する。一枚の絵は破壊の集積である しかし何も失われはしないんだ」
1937年 ゲルニカへの無差別爆撃。スペイン北部の町ゲルニカをナチスドイツが無差別爆撃。ナチスと手を結んだフランコがドイツ軍に要請した。
1,【 青の時代 】 (1901-1904年)ジャウメ・サバルテスの肖像 (1904)
2,【 ばら色の時代 】(1904-1906年) 座る道化師 (1905)
3,【 アフリカ彫刻の時代 】 (1907-1909年)裸婦 ≪アヴィニョンの娘たち≫の習作 (1907)ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907)
4,【 キュビスムの時代 】 (1909-1912年)ピアノの上の静物 (1911-12)
5,【 新古典主義の時代 】 1917年2月-1925年、ピカソはイタリアを初めて旅行。足を拭く座る裸婦 (1921)
6,【 シュルレアリスムの時代 】1925〜1937年、 黄色いセーター (1939)
1925年にアンドレ・ブルトンは、シュルレアリスム機関誌『シュルレアリスム革命』においてピカソをシュルレアリストとする記事を書き、また《アヴィニョンの娘たち》がヨーロッパで初めて同じ号に掲載された。
【《ゲルニカ》】「ゲルニカ」(1937)第5の恋人ドラ・マールと「泣く女」(1937)
ピカソ【第6の恋人、フランソワーズ・ジロ】1944年、パリが解放されたときピカソは63歳で、若い女子美大生フランソワーズ・ジローと恋愛関係に入る。彼女はピカソよりも40歳年下。パロマを出産後、体調を壊したフランソワーズに対してピカソは「女は子供を産むと魅力を増すものなのに、なんたるざまだ」「怒るか泣くかしてみろ」「私に発見された恩を返せ」「私のような男を捨てる女はいない」ピカソは、激怒した。
7,【ピカソの晩年、ヴォヴナルグ城】1958-1973
【最晩年】1953年、ピカソの虐待に耐え切れなくなったジロは子どもを連れてパリに帰り、画家として自立への道を歩み始める。2年後、彼女が画家のリュック・シモンと結婚。
1953年から【第7の恋人、ジャクリーヌ・ロック】
【ピカソの死】パブロ・ピカソは1973年4月8日、フランスのムージャンで死去。92歳。エクス・アン・プロヴァンス近郊のヴォヴナルグ城に埋葬された。
ヴォヴナルグ城は1958にピカソが購入して、59年からジャクリーヌ・ロックと一時的に住んでいた城。ピカソの膨大な作品がここに保管された。何百のピカソ作品と蔵書などがこの城に移され、城はさながらピカソの個人美術館のようなていをなした。
ジャクリーヌ・ロックはピカソの子どものクロードやパロマの葬儀への出席を断った。ピカソの死後、ジャクリーヌ・ロックは、精神的な荒廃と孤独に蝕まれ、1986年に59歳のとき銃で自殺した。
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展示作品の一部
パブロ・ピカソ≪アヴィニョンの娘たち≫の習作 (1907)
パブロ・ピカソ 《緑色のマニキュアをつけたドラ・マール》、1936 年 油彩、カンヴァス 65 x 54 cm、ベルリン国立ベルクグリューン美術館
パブロ・ピカソ《座るアルルカン》日本初公開1905年 水彩・黒インク、厚紙 57.2 x 41.2cmベルリン国立ベルクグリューン美術館
パブロ・ピカソ《窓辺の静物、サン=ラファエル》日本初公開1919 年 グアッシュ・鉛筆、紙 35.5 x 25cmベルリン国立ベルクグリューン美術館
パブロ・ピカソ《丘の上の集落(オルタ・デ・エブロ)》1909年 油彩、カンヴァス 65.1 x 81.3cm
パウル・クレー《中国の磁器》日本初公開1923年 水彩・グアッシュ・ペン・インク、石膏ボード、合板の額 28.6 x 36.8cm ベルリン国立ベルクグリューン美術館
アンリ・マティス《雑誌『ヴェルヴ』第4巻13号の表紙図案》日本初公開、1943年 切り紙、カンヴァスに貼り付け 38.1 x 56.8cm ベルリン国立ベルクグリューン美術館、ベルクグリューン家より寄託
アルベルト・ジャコメッティ《広場Ⅱ》日本初公開1948-49年 ブロンズ 23 x 63.5 x 43.5cm ベルリン国立ベルクグリューン美術館
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■ピカソが愛した7人の女、作品に与え続けた影響
現代美術の大きな柱であるピカソは女性からインスピレーションを得たせいか、彼の作品数は4万5000点、絵画1885点、彫刻1228点、陶器2280点、スケッチ4659点と 3万点に及ぶ版画作品などを手がけた。
第1の恋
人、フェルナンドゥオリヴィエ Fernande Olivier
第2の恋人、エヴァ・グエルEva Gouel
第3の恋人、オルガ・クルロバOlga Kokhlov
第4の恋人、マリー・テレーズ・ヴァルターMarie Therese Walter
第5の恋人、ドラ・マールDora Maar
 1936年(55歳)ピカソが「ファシズムの狂気との戦いの時代」 彼女はピカソの「ゲルニカ」の時代を一緒にしており、この作品の制作過程全体を写真で記録した。 憂鬱な2次世界大戦の時期を一緒にした乾燥したピカソの作品で主に「泣く女」に登場する。
第6の恋人、フランソワーズ・ジロFrançoiseGilot
 第二次世界大戦中に出会った彼女は非常に若くて美しい女流画家である。ピカソが六十三歳の時、1945年から一緒に暮らすが、このとき、彼女は二十歳。完璧主義者であり、独占浴が強かったフランソワーズは、息子クロードと娘パロマを生む。ピカソは自分の子供を素材にして魅惑的で躍動感あふれる肖像画を残した。
第7の恋人、1953年、72歳で出会ったジャクリーヌ・ロックJacqueline Roque
 ピカソの末期の作品は、外在的にも暗黙的に性愛が目立つ。このときピカソが陶芸と「古典的な作家の再解釈」に傾倒した時期。ピカソが作品に専念できるように内助してくれた最後の女性ジャクリーヌ・ロックは、ピカソが72歳になった年に会った女性。彼女は前の夫との間に娘がいる離婚女性、ピカソと8年間同棲した後、結婚した。
これまで無私なピカソの複雑な財産の問題を処理した。1986年10月15日ピカソの生誕105年を十日前に彼女はピカソの墓の前で自ら命を絶った。
参考文献*
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★参考文献
「ピカソ展−からだとエロス 変貌の時代 1925〜1937年」東京都現代美術館、2004
新古典主義に続く1925年から第二次世界大戦前夜の1937年までの作品160点で構成。シュルレアリストと交流した時代の様々な身体表現を、パリ・国立ピカソ美術館が所蔵する作品を中心に紹介。数多くの女性を愛したピカソの、奔放で力強い作品の数々を十二分に堪能できるまたとない機会といえます。
「巨匠ピカソ 魂のポートレート」展、サントリー美術館、2008
「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」展、国立新美術館、2008
「ルートヴィヒ美術館展」ドイツ表現主義からロシア・アヴァンギャルド、抽象絵画まで。国立新美術館2022
「イスラエル博物館所蔵ピカソ ― ひらめきの原点 ―」パナソニック汐留美術館、2022
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女・・・デ・キリコ、ダリ、ポール・デルヴォー
ピカソとその時代・・・藝術の探検家、7人の恋人、7つの時代
https://bit.ly/3D8mYir
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パブロ・ピカソが愛した7人の女性、作品に与え続けた大きな影響
ピカソが最も恐れた画家「ジョルジョ・デ・キリコ」の不思議な絵
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ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン・コレクション美術館展、国立西洋美術館、10月8日(土)~2023年1月22日(日)

2022年10月13日 (木)

没後80年記念「竹内栖鳳」・・・竹内栖鳳「班猫」村上華岳「裸婦図」

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』293回

八百屋の猫を見て竹内栖鳳は「徽宗皇帝の猫だ」と言った。華岳の師の一人、竹内栖鳳が、沼津の八百屋のおかみの飼い猫に一目惚れし、京都に連れ帰って描き上げた。竹内栖鳳「班猫」1924山種美術館
菱田春草(1874~1911)「白き猫」(1901飯田市美術博物館所蔵)、「黒き猫」(1910年永青文庫)と竹内栖鳳(1864~1942)「班猫」(1924年 山種美術館)があり、ともに徽宗の猫を古典として意識している。
北宋第八代皇帝、徽宗(1082~1135) 「猫図」
北宋第八代皇帝、徽宗(1082~1135在位1100~1125)、は藝術や奢侈遊興にうつつを抜かし道楽に耽った浪子、政治に無関心で軽佻な亡国皇帝。徽宗には画猫の伝称作品が複数あり、水戸徳川家伝来の伝徽宗筆「猫図」は精細な描写が群を抜く。斑猫一匹。猫の体躯は白色の短い細線による体毛によって覆われている。
村上華岳「裸婦図」1920年
村上華岳「裸婦図」は、表面的な美ではなく、精神の美を表現している。「霊と肉体が一致した美」であると思う。
観世音菩薩のようでアジャンタ石窟群、仏教美術の雰囲気が濃厚であるが、ルネサンス美術の匂いもする。日本画家、上村淳之が、京都市立藝術大で保管されていた下図を見て鳥の存在を見つけ、ギリシア神話「レダと白鳥」を意識したのではないかと指摘した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
竹内栖鳳「班猫」1924 山種美術館 (重要文化財)
八百屋の猫を見て栖鳳は「徽宗皇帝の猫だ」と言った。華岳の師の一人、竹内栖鳳が、沼津の八百屋のおかみの飼い猫に一目ぼれし、京都に連れ帰って描き上げた傑作。
村上華岳「裸婦図」1920年 山種美術館 重要文化財
上村 松篁 1902-2001 「白孔雀 」1973(昭和 48)年
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村上華岳は「久遠の女性」だといい、以下のように述べている。
私はその目に観音や観自在菩薩の清浄さを表そうと努めると同時に、その乳房のふくらみにも同じ清浄さをもたせたいと願ったのである。それは肉であると同時に霊でもあるものの美しさ、髪にも口にも、将た腕にも足にも、あらゆる諸徳を具えた調和の美しさを描こうとした。それが私の意味する「久遠の女性」である。
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「村上華岳-京都画壇の画家たち」山種美術館図録2015には、以下のようにある。
村上華岳(1888-1939)は、生涯を通じて求道的精神で制作に専念し、芸術と信仰がひとつとなる境地を目指して歩みを続けて画家でした。1903(明治38)年、15歳で京都市立美術学校(美校)へ入学、竹内栖鳳ら京都画壇の重鎮を師として画家への第一歩を踏み出します。在学中の1908年には「驢馬に夏草」が第2回文展に入選、20歳という若さで画壇デビューを果たしています。翌年、京都市立絵画専門学校(絵専)に入学、同期の土田麦僊や小野竹喬らと、ともに切磋琢磨しながら意欲的な作品を制作し、画壇の注目を集めます。
ところが、1917(大正6)年、文展での審査基準に疑問を抱いた竹喬や麦僊、華岳ら絵専同期の若手画家たちは文展を離れ、その翌年に「純真なる芸術を創作し公表する」場として「国画創作協会」を結成し、ここで華岳も「裸婦図」など話題作を発表しています。しかし、1921年以降は持病の喘息の悪化と画壇活動による束縛が華岳を苦しめるようになり、1926年の第5回国画創作協会展を最後に華岳は画壇を離れ、翌年に頭・花隈の養家に隠棲して以降は、急進的な創作と施策に沈潜していきました。
「村上華岳―京都画壇の画家たち」
2014年に山種美術館が所蔵する《裸婦図》が、村上華岳の作品としては2件目の重要文化財に指定されたことを記念し、その画業を振り返る特別展「村上華岳 ―京都画壇の画家たち」を開催いたします。
1888(明治21)年、大阪に生まれた華岳は、神戸で少年時代を過ごした後、京都市立美術工芸学校(美工)、京都市立絵画専門学校(絵専)に学びます。在学中に文展への入選を果たしたものの、やがてその審査の評価基準に疑問を抱くようになった華岳は、1918 (大正7)年には文展を離脱、絵専の同期でもあった土田麦僊、小野竹喬らと新団体「国画創作協会」を結成します。ここで華岳は新鋭の画家たちと切磋琢磨しながら意欲的な作品を発表し、官能性と崇高さが融合した独自の世界を確立していきました。一方、1921(大正10)年頃より持病の喘息が悪化し、同年に予定していた国画創作協会の仲間との渡欧を断念した華岳は、やがて画壇から距離を置くようになっていきます。晩年は制作と思索にふける隠棲の日々を送りながら、ひたすら求道的かつ孤高の制作活動へと向かいます。
本展では、華岳が画家として頭角を現した初期の試みから、理想とした「久遠の女性」を描いた《裸婦図》の完成、そして自己と向き合いながら孤高の境地を追求し続けるまでの作品を通して、その画業をたどります。中でも、盛んに作品を発表し続けた20代から30代半ばは、同時代の関西の画家たちが画壇に新風を吹き込もうと格闘し、優れた作品が生み出された時代でもありました。本展では、《裸婦図》を一つの到達点として華岳の画業の歩みをたどるとともに、美工・絵専時代の師である竹内栖鳳や、同窓生の麦僊や竹喬、国画創作協会でともに活動した岡本神草や甲斐庄楠音らの作品にも注目し、同時代の京都画壇の歩みをふり返ります。「山種美術館」ホームページ
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参考文献
竹内栖鳳展 近代日本画の巨人・・・哀愁のイタリア、『ベニスの月』
https://bit.ly/394zM7A
「村上華岳-京都画壇の画家たち」山種美術館図録2015
板倉聖哲「画猫の系譜 ―徽宗・春草・栖鳳― | 「淡青」37号より
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00010.html
上村松園と美人画の世界・・・肉体の美と叡智
https://bit.ly/2GXmVru
「竹内栖鳳《班猫》とアニマルパラダイス」・・・生きとし生けるもの、一切衆生悉有仏性
https://bit.ly/2G8mPkd
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動物を描けばその体臭までも表す
近代京都画壇の中心的存在として活躍した竹内栖鳳 (1864-1942)。栖鳳は、円山・四条派の伝統を引き継ぎながらも、さまざまな古典を学びました。1900(明治33)年にパリ万 博視察のため渡欧、現地の美術に大きな刺激を受けた栖鳳は、帰国後、西洋絵画の技法も取り入れ、水墨画など東洋画の伝統も加味して独自の画風を確立し、近代日本画に革新をもたらしました。栖鳳の弟子・橋本関雪(かんせつ)によれば、動物を描けばその体臭まで描けると栖鳳自身が語ったというその描写力は、高く評価され、今なお新鮮な魅力を放っています。また優れた教育者でもあった栖鳳は、多くの逸材を育て、近代日本画の発展に尽くしました。
没後80年を記念し、山種美術館では10年ぶりに竹内栖鳳の特別展を開催します。本展では、動物画の傑作にして栖鳳の代表作《班猫》【重要文化財】をはじめ、東京国立博物館所蔵の《松虎》(前期展示)、個人蔵の初公開作品を含む優品の数々とともに、その画業をたどります。さらに、京都画壇の先人たち、同時代に活躍した都路華香(つじかこう)や山元春挙(やまもとしゅんきょ)のほか、栖鳳の門下である西村五雲(ごうん)、土田麦僊(ばくせん)、小野竹喬(ちっきょう)らの作品もあわせて紹介します。また弟子の一人、村上華岳(かがく)による《裸婦図》【重要文化財】を特別に公開します。
近代日本画の最高峰といえる栖鳳の傑作の数々、そして京都画壇を代表する名だたる画家たちの名品をご堪能ください。
https://www.yamatane-museum.jp/exh/2022/takeuchiseiho2022.html
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没後80年記念「竹内栖鳳」、山種美術館、10月6日(木)~12月4日(日)

2022年10月10日 (月)

宗教の謎、国家と宗教の戦い、第2巻、アカデメイア、ルネサンス、織田信長

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  大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』292回

国家と宗教の戦い、第2巻。プラトンの学園アカデメイア閉鎖、メディチ家の戦いとプラトン・アカデミー、ルネサンスとローマ教皇庁の戦い、織田信長と比叡山、石山本願寺戦争
【理念を追求する精神】理念を探求する人は、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』291回
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1.【神々の滅亡】テオドシウス1世
392年テオドシウス1世は、異教禁止令を発布、異教の供犠と祭式を彈圧する。426年テオドシウス2世(401-450.在位408-450)は、異教神殿破壊令を発布する。これ以後、偉大な古代ギリシアの聖域は、破壊され砂塵の中に埋もれ、19世紀まで1500年の眠りを眠ることになる。
例えば、394年オリュンピア祭典は禁止され393年の祭典が最後となり、デルポイの神託は4世紀以後行なわれなくなる。古代ギリシアの密儀、デイオニュソス、エレウシス、オルフェウスの秘儀がこの地上から姿を消し、再び蘇ることはなかった。
【皇帝ユスティニアヌス1世、アテナイのアカデメイア閉鎖】
529年、皇帝ユスティニアヌス1世(483-565)は、アテナイのアカデメイア閉鎖を命令。プラトンがBC387年に開いて以來、アカデメイア9百年の歴史が息の根を止められる。
かつて4世紀までローマ帝國の下で迫害されたキリスト教は、4世紀以後、異教を彈圧、迫害する。キリスト教による迫害によって、多彩なギリシア文化やオリエントの宗教が歴史の舞臺から姿を消す。偉大なギリシアの文化遺産とギリシアの生ける知の体系が滅ぼされたことは、人類史にとって悲劇であると言わねばならない。
参考文献
神々の黄昏 皇帝テオドシウス 多神教祭儀を禁止。ローマ帝国滅亡。皇帝ユスティニアヌス1世、プラトンのアカデメイア閉鎖。529年*
https://t.co/OSyk6Kzoq3
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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2,神々の復活、ルネサンス メディチ家の戦い、メディチ家とプラトン・アカデミー
【ルネサンス】フィレンツェで1439年から60年間繰り広げられた新プラトン主義の人文主義者たちの思想運動。メディチ家はシクストゥス4世と戦い、ジュリアーノはパッツィ家の陰謀で暗殺、ロレンツォは1492年死に、詩人ポリツィアーノは94年毒殺、ピコ・デラ・ミランドラも94年毒殺、フィチーノは1499年死ぬ。
【メディチ銀行創設】ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(1360-1429)、父は羊毛商のアヴェラルド・ディ・メディチ(1383年没)。一族の銀行家ヴィエーリ・ディ・カンビオ(1323年⁻1395年)のもとで修業。1397年、ローマから移転、メディチ銀行をフィレンツェに創設。枢機卿バルダッサーレ・コッサ(を支援し、対立教皇ヨハネス23世として即位させた。1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にする。フィレンツェの「正義の旗手」、外交大使なども歴任。建築家フィリッポ・ブルネレスキを支援。
1、ルネサンス、包囲されたフィレンツェ ロレンツォ暗殺の陰謀、フィレンツェ包囲網、対教皇庁戦争(1474-1480)。イタリアの戦国時代。ロレンツォ(1449-1492 1469から当主)は、稀代の戦略家であり教養人である。イタリアの天秤の針。1479ナポリ王フェランテを説得、和平交渉する。
パッツィ家の陰謀(1478)。真の犯人は、フィレンツェに敵対する、戦争好き陰謀家の法王。陰謀家シクストゥス4世(在位1471-1484)の陰謀。銀行家パッツィに命じる。
2、メディチ家とプラトン・アカデミー
15世紀に蘇った哲学はプラトン哲学である。1439年7月6日フィレンツェ公会議で、コジモ・デ・メディチはギリシア人哲学者プレトンの講義をきき、プラトン哲学の奥義に感銘をうけ、「アカデミア・プラトニカ」(プラトン・アカデミー)を構想した。コジモは、1462年マルシリオ・フィチーノにプラトンの原典とカレッジの別荘を与え、プラトン全集の翻訳を依頼した。コジモは1464年に死ぬ。しかしフィチーノは1477年に完成した。ロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492)は1492年死に、プラトン・アカデミーの思想家たちは、1498年までに次々と死ぬ。だが、フィレンツェから始まったルネサンスはヨーロッパ文化史に深い影響を与えた。*
アカデミア・プラトニカは「美しい精神をもつ人々の自由な集まり、プラトンに捧げられた集まり」である。*フィレンツェ・プラトン主義の愛と美の哲学はミケランジェロたちルネサンスの藝術家に影響を与えた。「魂の美は、肉体における美より美しい」「魂の眼は肉眼が老いる時やっと輝き始める」*
3、プラトン哲学の奥義
プラトン・アカデミーの思想家が学んだプラトン哲学の奥義は、魂の哲学と美の哲学である。「魂は不死不滅である」。「本質は眼で見ることができない」「本質は心の眼によってのみ見ることができる」。「魂の美が存在する」「魂の美は、肉体における美より美しい」。魂と本質の哲学である。プラトン哲学の影響は、フィチーノ『プラトン神学』『饗宴注解』に顕著である。*
4、ルネサンスの終焉、メディチ家追放、サヴォナローラの死
ロレンツォがピコの助言により招いたサヴォナローラに欺かれ裏切られる。サヴォナローラは、間諜=工作員(死間『孫子』用間編)である。シャルル8世のフィレンツェ侵攻(1494年)を予言。1494年、メディチ家、フィレンツェから追放される。「虚飾の焼却」1498年、ルネサンスの藝術、焼かれる。サヴォナローラ、法王アレクサンデル6世を批判、怒り受け破門。1498年5月23日、シニョーリア広場にて処刑される。16世紀、ミケランジェロのマニエリスムの時代、17世紀、カラヴァッジョのバロックの時代が始まる。マニエリスムの藝術家は、フィグーラ・セルペンティナータ(蛇状曲線)を駆使する。*
孤高の藝術家、ミケランジェロ・・・メディチ家の戦いと美の探求、プラトンアカデミー
https://bit.ly/3aX26KN
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3,理念を探求 五徳、麒麟、天下布武 織田信長と比叡山、石山本願寺との戦い
【本能寺の変と三職推任問題】【明智光秀、計略と策謀の達人】
【比叡山焼討事件】1435年、6代将軍、足利義教が行った比叡山攻撃とその後、根本中堂自焼。延暦寺の有力な僧たちを招き、その席で捕縛し斬首する。1499年、室町幕府の管領(将軍の補佐役)細川政元によって焼討。1571年、織田信長、延暦寺根本中堂焼かず。
【織田信長、石山戦争】元亀元(1570)~天正8(1580)年まで11年間にわたり、織田信長と浄土真宗本願寺勢力とが戦った戦い。「宗教弾圧する権力者・信長」と「権力者に抵抗する本願寺勢力」という構図ではない。本願寺は幕府の勅願寺、幕府からは加賀守護に準ずる地位。百姓の持ちたる国。石山本願寺は、三好三人衆、浅井朝倉、毛利、幕府と政治的関係により、時に信長に敵対する。
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【山科本願寺、細川晴元の戦い】石山本願寺は、元々京都市山科区にあった浄土真宗の寺院「山科本願寺」が細川晴元らによって火を放たれた後、当時大坂にいた浄土真宗の僧侶・証如が、現在の「大坂城二の丸」あたりに山科本願寺にあった仏像などを鎮座したのが始まり。
石山本願寺と細川晴元らの戦いは続き、石山本願寺は、寺領を拡大するとともに城郭建築の技術者を集め城を築く。
【織田信長、石山戦争】本願寺が信長に反旗を翻したのは、権力者への抵抗、信仰上の理由ではなく、畿内を中心とする諸大名との関係のため、突き詰めれば政治的理由による蜂起。信長が義昭を奉じて上洛する際の関係、『顕如上人文案』永禄10(1567)年11月7日「いよいよ上洛されるのはまことにめでたいこと」と挨拶、本願寺法主である顕如は義昭と信長の政権を歓迎。
【伊勢国長島一向一揆(1571,73,74年)】無差別殺戮でおよそ2万人が虐殺され、【越前一向一揆(1580)】1万人以上が討ち取られて壊滅。信長と一向宗との戦い、容赦ない残忍な戦い、それはよくある軍事的作戦であって、一般の民衆は容赦するように命じて指導者のみを処断した。
参考文献
神田千里『信長と石山合戦 中世の信仰と一揆』(吉川弘文館、2008年)
神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社、2010年)
神田千里『織田信長』(筑摩書房、2014年)
神田千里『戦国と宗教』(岩波書店、2016年)
【本能寺の変と三職推任問題】天正10年(1582年)4月25日、5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)。 4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。「御すいにん候て然るべく候よし申され候」。5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答した、返答の内容は不明である。6月2日、早暁、明智光秀の本能寺の変が起こる。
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
参考文献
今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』、小和田哲男『明智光秀』、ルイス・フロイス『回想の織田信長、ルイス・フロイス「日本史」より』
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参考文献
アカデメイア閉鎖
大久保正雄『地中海紀行』第21回1 P27
神々の黄昏 皇帝テオドシウス 多神教祭儀を禁止。ローマ帝国滅亡。皇帝ユスティニアヌス1世、プラトンのアカデメイア閉鎖。529年*
プラトンは、紀元前387年四十歳の時、アカデメイアの地に學園を設立した。アカデメイア916年の歴史を終焉。
https://t.co/OSyk6Kzoq3
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ルネサンス、メディチ家の戦い
孤高の藝術家、ミケランジェロ・・・メディチ家の戦いと美の探求、プラトンアカデミー
https://bit.ly/3aX26KN
大久保正雄「メディチ家とプラトン・アカデミー イタリア・ルネサンスの美と世界遺産」
https://t.co/yxlgRpwirV
メディチ家の容貌、ルネサンスの美貌 理念を追求する一族
http://bit.ly/2kSINKR
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
https://bit.ly/3C2fXNP
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織田信長、理念のための戦い
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
https://bit.ly/3ryn9gI
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
絶世の美女、徳姫、織田信長と徳川家康・・・「美と復讐」第4巻
https://bit.ly/3HjY9zO
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変
https://bit.ly/3UYWOpe
「桃山―天下人の100年」、東京国立博物館、
「桃山―天下人の100年」東京国立博物館・・・室町幕府崩壊、戦国武将、愛と復讐の壮大なドラマ
https://bit.ly/3lDIoIq
「桃山―天下人の100年」2・・・金碧障壁画、織田信長と狩野永徳、秀吉と長谷川等伯
https://bit.ly/31DlCc0
「桃山―天下人の100年」3・・・茶の湯、足利義政、織田信長、今井宗久、千宗易、豊臣秀吉、楽長次郎
https://bit.ly/35ZPK2F
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宗教の謎、国家と宗教の戦い、第1巻、ギリシアの神々、ローマ帝国、秦の始皇帝、漢の武帝、飛鳥、天平、最澄と空海
https://bit.ly/3xYWHQvv
宗教の謎、国家と宗教の戦い、第2巻、アカデメイア、ルネサンス、織田信長
https://bit.ly/3Tcilcj
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2022年10月 4日 (火)

「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変

Seikado-marunouchi-2022
Seikado-tawaraya-genji-20-1631-u-2022
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』291回

曜変天目は、織田信長の見果てぬ夢の残像。幻の曜変天目、もう一つあった。それはだれが所持したか。天王寺屋、津田宗及を経て曜変天目が、大徳寺龍光院に伝った。足利義政、東山殿御物は信長公へ伝へ、焼亡せしより。世に残らず。
織田信長【本能寺の変と三職推任問題】天正10年(1582年)4月25日、5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)。 4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。
【織田信長、三職推任問題】勧修寺晴豊『天正十年夏記』に記載、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」。5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた。正親町天皇の皇子誠仁親王、信長の返答の内容は不明である。織田信長は、階級社会の地位に拘泥せず。これが悲劇を招いた。
6月1日、本能寺の茶会。6月2日、払暁、明智光秀の本能寺の変が起こる。
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
参考文献*今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』1992小和田哲男『明智光秀』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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岩崎彌太郎《一行書「猛虎一声山月高」》と書いたが、どのような青雲の志を抱いたのか。三菱創業の初代岩崎彌太郎、岩崎小彌太は、優れた美術コレクターである。
国宝《曜変天目 (稲葉天目)》。完全な形で日本に現存するのは3点のみとされる。こちらは徳川将軍家より3代将軍家光の乳母・春日局の手を経て、淀藩主稲葉家に伝来した。家光が春日局に、服薬のために献じた。大小の斑文の周りを青色や虹色に輝く光彩が囲み、宇宙の星を覗き込むような心になる美しい茶碗。河野元昭(静嘉堂文庫美術館館長)は、「曜変天目 の美は言葉では語れない」と述べる。
華麗な光源氏の一行と船中の明石君とのすれ違う恋を描いた俵屋宗達の国宝《源氏物語関屋澪標図屏風》「澪標図」。
国宝《太刀 銘 泡永》、太刀の妖しいほどの輝き。
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★展示作品の一部
国宝《曜変天目 (稲葉天目)》建窯、南宋12-13世紀
重要文化財《油滴天目》建窯、南宋12-13世紀
国宝《太刀 銘 泡永》
唐物茄子茶入《付藻茄子》《松本(紹鷗)茄子》は、信長・秀吉・家康に伝来した大名物。これらは1615年大坂夏の陣で大破したが、その破片を集めて、塗師の名工である藤重藤元(ふじしげ とうげん)・藤巌(とうがん)父子によって漆繕いされて復元された。
国宝 伝 馬遠《風雨山水図》南宋時代・13世紀 静嘉堂文庫美術館蔵
[前期(10月1日(土)~11月6日(日))展示]
(国宝)《風雨山水図》馬遠筆の伝承を持つ
(重要文化財)画僧・牧谿の《羅漢図》
(重要文化財)酒井抱一《波図屏風》江戸時代・1815年(文化12)頃 静嘉堂文庫美術館蔵
[後期(11月10日(木)~12月18日(日))展示]
国宝 俵屋宗達《源氏物語関屋澪標図屏風》、17世紀
尾形光琳《住之江蒔絵硯箱》(重要文化財)、18世紀、酒井抱一《波図屏風》、
鈴木其一《雪月花三美人図》、19世紀
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【織田信長、中世的権力との戦い】「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。幸若舞」『敦盛 』、麒麟、岐阜城、天下布武、武の七徳、第六天魔王、天正、明晰透徹、安土城天主七層五階、安土宗論。千宗易、狩野永徳、本因坊算砂、天下一の達人を求める。五徳、仁義礼智信。
【曜変天目、建窯、南宋12-13世紀】稲葉天目、大徳寺龍光院、藤田美術館。天下に3碗あるとされるが、もう一つあった。幻の曜変天目。それはだれが所持したか。天王寺屋、津田宗及を経て曜変天目が、大徳寺龍光院に伝った。
【曜変天目、稲葉天目、建窯、南宋12-12世紀、3代将軍家光の乳母春日局旧蔵】曜變、稲葉丹州公にあり、東山殿御物は信長公へ伝へ、焼亡せしより、比類品世に屈指数無之なり、茶碗四寸五分位、高臺ちひさし、土味黒く、薬たち黒く、粒々と銀虫喰塗の如くなるうちに、四五分位丸みにて鼈甲紋有之、めぐりはかな気にて見事なり、星の輝くが如し。(名物目利聞書)
【織田信長と耀変天目茶碗】永禄11(1568)年、織田信長が上洛。天王寺屋、津田宗及の屋敷で、会合衆の集会。永禄12年(1569)百人余りが終日宴を張った。本能寺の茶会、天正10(1582)年6月2日、信長は足利義政所伝の耀変天目茶碗を所持していたが本能寺の変で焼失した。
【織田信長、本能寺の変、天正10年6月2日】
信長は、天正10年(1582)5月29日、僅かの供を連れただけで安土を出発、その日の内に京都の本能寺に入った。信長が京都における宿所としてよく使っていたのが本能寺と、法華宗寺院の妙覚寺で、この時、信長は本能寺を宿所とした。本能寺は、堀と土塁に囲まれ、城郭寺院。本能寺は自ら京都に城を持たなかった信長の定宿であった。
太田牛一『信長公記』によると、5月29日の信長一行は、「御小姓衆二、三十人召列れられ、御上洛」とある。御小姓衆が20~30人で、その他に警固の武士もいるので、少なくとも100人はいた。『当代記』には「百五十騎」とある。
【備中高松城水攻め、羽柴秀吉】信長は安土と京都を往き来している。このときの上洛の目的は何だったのか。ひとつは、備中への出陣のためである。備中高松城を水攻めしている羽柴秀吉からの要請を受け、明智光秀をその応援に向わせ、首尾を見届けるための形式的な出陣。
【三職推任】主目的と思われる朝廷からの「太政大臣か関白か征夷大将軍か、お好きな官に任命しよう」という、“三職推任”に対する返答をするためだった。
【天下三肩衝】信長のねらいは、信長が安土城から名物茶器として名高い九十九茄子・珠光小茄子・紹鷗白天目・小玉澗の絵・牧谿のくわいの絵など天下の逸品38種を運ばせていた。本能寺で大茶会を開くのが目的だった。茶会には、博多の豪商島井宗室のほか、近衛前久ら公家たちが招かれている。茶会の後酒宴になり、信長は本因坊算砂の囲碁の対局をみて床についた。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★参考文献
三菱の至宝展・・・幻の曜変天目
https://bit.ly/3yzJMSK
「桃山―天下人の100年」3・・・茶の湯、足利義政、織田信長、今井宗久、千宗易、豊臣秀吉、楽長次郎
https://bit.ly/35ZPK2F
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変
https://bit.ly/3UYWOpe
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★静嘉堂創設130周年・新美術館開館記念展I「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」
静嘉堂文庫美術館、2022年10月1日(土)から12月18日(日)まで
(静嘉堂@丸の内)住所:東京都千代田区丸の内2-1-1 明治生命館 1階
明治生命館(昭和9年〈1934〉竣工)
https://www.seikado.or.jp/

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