2023年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

2023年5月10日 (水)

大阪の日本画・・・北野恒富、妖艶、退廃的、悪魔派、白耀社

Oosaka-pict-tsg-2023
Oosaka-kitano-tsunetomi-1931-2023
Oosaka-hirai-chokusui-1904-2023
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第328回
北野恒富《宝恵籠》、島成園《祭りのよそおい》、生田花朝《天神祭》、大坂の画家たちの美的感覚は、鏑木清方、上野公園、横山大観、下村観山、速水御舟とどこが違うのか。
大坂の富裕層は、カネを数える実業屋、酒に溺れる飲んだくれ、自慢に溺れる自惚れ屋の印象である。*だが、大坂の富裕層は、東京、京都の権力主義、階級主義、権威主義に対して、富によって、自由主義を謳歌しようとしたのかもしれない。大坂の富裕層の美的判断の基準はどこにあるのか。藝術は、西方浄土、阿弥陀如来の本願か。
――
平安京の王侯貴族、学問僧、嵯峨天皇、沙門空海の美的判断の基準は、無位無号にして山水に逍遥することにあった。
【嵯峨天皇の遺詔】余昔し不徳を以て久しく帝位を忝うす。夙夜兢兢として黎庶を済はんことを思ふ。然れども天下なる者は聖人の大宝なり。あに但に愚憃微身の有のみならんや。故に万機の務を以て、賢明に委ぬ。一林の風、素より心の愛する所。無位無号にして山水に詣りて逍遥し、無事無為にして琴書を翫び以て澹泊ならんと思欲す。「続日後本紀」承和九年条
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【星の王子さま6つの星めぐり】命令する王様、探検家の報告を利用するだけの地理学者、カネを数える実業屋、酒に溺れる飲んだくれ、自慢に溺れる自惚れ屋、日常業務に従事する点燈夫。偏奇な星の主たち。
――
展示作品の一部
北野恒富《宝恵籠》1931年頃、大阪府立中之島図書館
北野恒富《五月雨》1938年、大阪中之島美術館[展示期間:5/16~6/11]
河邊青蘭《武陵桃源図》1908年、大阪中之島美術館
菅楯彦《阪都四つ橋》1946年、鳥取県立博物館
矢野橋村《不動窟》1951年、矢野一郎氏(愛媛県美術館寄託)[展示期間:5/16~6/11]
中村貞以《朝》1932年、京都国立近代美術館[展示期間:4/15~5/14]
中村貞以《失題》1921年、大阪中之島美術館
生田花朝《天神祭》1935年頃、大阪府立中之島図書館
平井直水《梅花孔雀図》1904年、大阪中之島美術館
島成園《祭りのよそおい》1913年、大阪中之島美術館
――
1、ひとを描く―北野恒富とその門下
大阪の「人物画」は、明治時代後半から昭和初期、北野恒富とその弟子、樋口富麻呂や中村貞以、女性画家の島成園や木谷千種らの活躍によって花開いた。当時「悪魔派」と揶揄された、妖艶かつ頽廃的な雰囲気をもつ恒富の人物表現など、多彩な人物画表現が大阪で生み出された。
2、文化を描く―菅楯彦、生田花朝
古き良き大阪庶民の生活を温かく表現した「浪速風俗画」を確立した菅楯彦は、四条派と文人画を融合させたスタイルは、江戸時代より続く大阪人独特の洗練された感性に響くものとして広く愛されました。
弟子の生田花朝は楯彦の作風を受け継ぎながら、同時代の風俗を積極的に描きました。活気に満ちた浜辺をパノラマで色彩豊かに表現した「泉州脇の浜」など、軽やかでユーモラスな作品を多く残しました。
3、新たなる山水を描く―矢野橋村と新南画
日本の風土に基づく日本南画をつくることを目指した矢野橋村は、江戸時代より続く伝統的な文人画に近代的感覚を取り入れた革新的な「新南画」を積極的に推し進めます。
4、文人画―街に息づく中国趣味
江戸時代、京都への玄関口の大阪では、煎茶をはじめとする中国趣味が栄え、文人画が流行した。大阪では漢詩や漢文の教養を身に付けた市民が多かった、文人画人気は明治以降も続き、各地から文人画家が集まり、優れた作品が生まれた。
5、船場派―商家の床の間を飾る画
大阪で広く市民に受け入れられた、四条派の流れをくむ絵画「船場派」。セントルイス万国博覧会に出品、銀メダルを獲得した平井直水の「梅花孔雀図」、京都生まれの「四条派」を淡麗に描くのが大阪「船場派」の作風である。
6、新しい表現の探究と女性画家の飛躍
明治時代以降、新聞社や出版社が集積した大阪には、挿絵画家などとして全国から多くの画家が集まった。大阪では江戸時代から女性画家が活躍。加えて、富裕層を中心に教養として子女に絵画を習わせた、上村松園、池田蕉園とともに「三園」と称された島成園、島成園に学び、のち中村貞以に師事した吉岡美枝など優れた女性画家たちが大阪で登場した。大阪に集まった人々や女性画家たちの新しい感性は、魅力的な表現を生み出した。
――
大坂本願寺 大坂の始まり
【妖怪、本願寺蓮如、5度婚姻、27人の子を生じた精力家。85歳】妻の死別を4回に渡り経験、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人。1488年蓮綱(三男)・蓮誓(四男)・蓮悟(七男)率いる【加賀一向一揆】は国人衆と共に守護富樫政親を討ち滅ぼして加賀一国を制圧、以後90年続く「百姓の持ちたる国」を現出。浄土真宗大谷派、1496年晩年、大坂本願寺、建設。3月25日(1499年)、山科本願寺において85歳で没【曾孫顕如の代に摂津・加賀の戦国大名へ繁栄、顕如、織田信長に降伏】
【石山本願寺戦争 本願寺顕如、摂津・加賀の戦国大名、織田信長に降伏】本願寺証如 と顕能尼の子。諱は光佐。天文23(1554)年12歳で継職。本願寺11世、教団を経営。1570年(元亀1)9月、浅井朝倉と呼応して織田信長と対立、諸国の門徒に挙兵を促し、以来、1580年(天正8)まで信長と戦う(石山戦争)。天正8年4月9日、正親町天皇の勅命によって講和し石山本願寺を退出。豊臣秀吉から天正19(1591)年3月京都西六条の地を寄進され、同年8月顕如・教如父子はこれに移る。現在の西本願寺の地である。文禄1 (1592)年50歳で没す。
【親鸞、2人の妻、7人の子。親鸞王朝の始まり】『日野一流系図』に記される九条兼実の娘である玉日姫、『恵信尼文書』で知られる三善為教の娘である恵信尼、六角堂の夢告で親鸞が恵信尼を観音菩薩の化身と考え『恵信尼文書』『日野家一流系図』。
――
参考文献
東西美人画の名作《序の舞》への系譜・・・夢みる若い女、樹下美人
「没後50年 鏑木清方展」 ・・・春園遥かに望めば、佳人あり
上村松園と美人画の世界・・・肉体の美と叡智
東洋陶磁、安宅コレクション名品選101・・・狂気と礼節のコレクター、美的な価値の基準はどこにあるのか
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ
大阪の日本画・・・北野恒富、妖艶、退廃的、悪魔派、白耀社
https://bit.ly/3NYlPzD
――
大阪の日本画、東京ステーションギャラリー
2023年4月15日(土)~2023年6月11日(日)

2023年5月 7日 (日)

親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ

Shinran-850-knm-2023
Shinran-tannisho-15c-2023
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第327回
春爛漫、躑躅、咲く。桜満開の京都を思い出す。「法然と親鸞」(東京国立博物館2011年)。
親鸞の最も著名なことばである。「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(唯円『歎異抄』第三条)、悪人正機。悪人とは、法律、道徳を基準による悪人ではなく、仏教を基準にした悪人。仏教は、智慧と慈悲の獲得を目ざし実践する教えである。浄土仏教は、智慧を身につけさとるより、阿弥陀如来の慈悲による救いを他力本願すること。私を救わずにおかない阿弥陀如来の願いのままに、阿弥陀如来の智慧と慈悲に導かれて生きる生き方が他力本願。専修念仏を親鸞は説く。「親鸞は弟子一人ももたず候」(唯円『歎異抄』第六条)
【承元の法難】1204年、比叡山の衆徒から法然教団に対して専修念仏を禁止すべきという声が上がる。1205年、興福寺から朝廷に法然教団には9ヶ条の過失「興福寺奏上」提出。1206年、建永元年、後鳥羽上皇の女官が法然教団の法会に参加、外泊。承元元年1207年、後鳥羽上皇と興福寺とが一致して専修念仏を弾圧。専修念仏を禁止。法然は土佐国、親鸞は越後国、流罪。法然は75歳、親鸞は35歳。
親鸞「南無阿弥陀仏と念仏すれば、往生浄土、西方浄土に往生できる」と布教、多くの信徒を獲得、強大な浄土真宗教団を作る。九条兼実の娘と三善為教の娘と結婚、7人の子をなした。
【蓮如】本願寺派第8世宗主・蓮如(1415-1499)は、「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(『歎異抄』)、「自らの力で迷いを離れることができない人。煩悩具足の凡夫にこそ阿弥陀仏の救いは向けられる」悪人正機、布教し、教団を再興。5度婚姻、27人の子を生じた精力家。
【石山戦争】本願寺派第11世宗主・顕如(1543-1592)は、摂津加賀の戦国大名と化した石山本願寺、教団を率いて、10年間、元亀元年~天正8年(1570~80)、織田信長と戦い、敗北、正親町天皇の勅命講和により、石山本願寺より退去。
「飢えた子どもは餓鬼となる。飢えた人は悪をなす。念仏で飢えた人を救うことができるのか。飢えた人の飢えを満たすのは親子丼、天丼、かつ丼である」「本願寺教団は軍事組織となり、百姓の国は飢餓を救うことができたのか。教団は新たな搾取階級となり、本願寺教祖階級は、どこまでも続くのか。」
【親鸞、2人の妻、7人の子。親鸞教団、王朝の始まり】親鸞(1173~1262)。『日野一流系図』に記される九条兼実の娘である玉日姫、『恵信尼文書』で知られる三善為教の娘である恵信尼、六角堂の夢告で親鸞が恵信尼を観音菩薩の化身と考え『恵信尼文書』において恵信尼も親鸞を観音菩薩の化身と考えていたと書かれる。互いを阿弥陀如来の慈悲のあらわれと思った。長男は玉日姫との間に生まれたとされる範意、第二子以降は恵信尼との間に生まれる小黒女房、慈信房善鸞、信蓮房明信、益方大夫人道有房、高野禅尼、覚信尼の計7人である『日野家一流系図』。
親鸞(1173~1262)、蓮如(1415-1499)、顕如(1543-1592)、親鸞の教団は、民衆を救ったのか。専修念仏、南無阿弥陀仏、他力本願の浄土仏教は、阿弥陀如来の浄土へ往生浄土させることができるのか。
民衆に極楽往生の門を開いた法然。悪人女人救済の仏道を説いた親鸞。踊り念仏・遊行を勧めた一遍。念仏を唱えれば阿弥陀浄土に往生すると布教する浄土仏教、真実は何か。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
2023年は浄土真宗を開いた親鸞聖人(1173~1262)の生誕850年にあたります。1173年、親鸞は京都に生まれ、9歳で出家して比叡山で修行に励みますが、29歳で山を下り、法然上人の弟子となります。そこですべての人が平等に救われるという阿弥陀仏の本願念仏の教えに出遇うも、法然教団は弾圧を受け、親鸞も罪人として還俗させられ越後に流罪となります。その後、罪が赦された親鸞は、関東へ赴き長く布教に励み、やがて京都へと戻り、晩年まで主著『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)や「和讃」など多くの著作の執筆や推敲を重ねました。1262年没す。その90年の生涯と教えは、今も多くの人を魅了して止みません。京都国立博物館
――
「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(『歎異抄』第三条)
「親鸞、唯円『歎異抄』の思想を通じて近代の知識人は、宗教を考えてきた。西田幾多郎、司馬遼太郎、丹羽文雄、遠藤周作、五木寛之、吉本隆明、梅原猛、子安宣邦。「人は、生まれながら罪を背負っているという「原罪」の思想が浸透している。」釈徹宗
――
蓮如(1415-1499)、顕如(1543-1592)
大坂本願寺 大坂の始まり
【妖怪、本願寺蓮如、5度婚姻、27人の子を生じた精力家。85歳】妻の死別を4回に渡り経験、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人。1488年蓮綱(三男)・蓮誓(四男)・蓮悟(七男)率いる【加賀一向一揆】は国人衆と共に守護富樫政親を討ち滅ぼして加賀一国を制圧、以後90年続く「百姓の持ちたる国」を現出。浄土真宗大谷派、1496年晩年、大坂本願寺、建設。3月25日(1499年)、山科本願寺において85歳で没【曾孫顕如の代に摂津・加賀の戦国大名へ繁栄、顕如、織田信長に降伏】
【石山本願寺戦争 本願寺顕如、摂津・加賀の戦国大名、織田信長に降伏】本願寺証如 と顕能尼の子。諱は光佐。天文23(1554)年12歳で継職。本願寺11世、教団を経営。1570年(元亀1)9月、浅井朝倉と呼応して織田信長と対立、諸国の門徒に挙兵を促し、以来、1580年(天正8)まで信長と戦う(石山戦争)。天正8年4月9日、正親町天皇の勅命によって講和し石山本願寺を退出。豊臣秀吉から天正19(1591)年3月京都西六条の地を寄進され、同年8月顕如・教如父子はこれに移る。現在の西本願寺の地である。文禄1 (1592)年50歳で没す。
――
親鸞の思想
1、他力本願
阿弥陀仏がすべての人を救う。自らの力でさとりをひらくことができないものが歩む仏道。阿弥陀仏がすべての人を救う願いの力。『仏説無量寿経』浄土に往生するためには信心と念仏が必要。と親鸞は説いた。
2、悪人正機
悪人とは、法律、道徳を基準による悪人ではなく、仏教を基準にした悪人。自力本願できない、自らの力で迷いを離れることができない人。煩悩具足の凡夫にこそ阿弥陀如来の救いはある。「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」『歎異抄』第三条。
3、往生浄土と南無阿弥陀仏
往生とは、阿弥陀仏の浄土に往き生まれること。浄土仏教において、仏の世界に往き生まれること。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏を敬いよりどころとする称名念仏。
4、法然の教え 親鸞の師「専修念仏」『選択本願念仏集』
長承2(1133)年4月7日 美作-建暦2(1212) 年1月25日 京都、没。79歳。
法然(1133-1212)浄土宗の開祖。諱は源空で,法然房と号した。幼名は勢至丸。9歳で父を失い,叔父の観覚に従って剃髪。15歳で比叡山に登り源光,皇円に師事。18歳黒谷の叡空に学び,24歳京都,奈良で各宗の奥義を研究,のち黒谷に帰って大蔵経を閲読。承安5 (1175) 年3月善導著『観無量寿経疏』の「散善義」を読んで浄土教に帰し洛東吉水に庵居して念仏を称えた。文治2 (86) 年勝林院で浄土の法義を談論 (大原問答 ) 。建永2 (1207) 年、帰依する者がふえると既成仏教教団の反感をまねき、念仏は禁止。諸宗の嫉視により土佐に配流。のち許されて建暦1 (11) 年吉水の禅房に帰り,翌年没す。80歳。
――
展示作品の一部
国宝 三十六人家集 西本願寺 12世紀
国宝 親鸞聖人影像(安城御影副本)(賛・裏書)蓮如筆 室町時代(15世紀)京都 西本願寺 奈良国立博物館(3月25日~4月2日展示)
刺繡阿弥陀如来像 室町時代(15世紀)福井 誠照寺(3月25日~4月23日展示)
国宝 観無量寿経註 親鸞筆 鎌倉時代(13世紀)京都 西本願寺(3月25日~4月30日展示〈巻替あり〉)
重要文化財 本願寺聖人伝絵(康永本)上巻 本(詞書)覚如筆 (絵)康楽寺円寂筆 南北朝時代 康永2年(1343)京都 東本願寺(5月2日~5月21日展示)
重要文化財 歎異抄 巻下 蓮如筆 室町時代(15世紀)京都 西本願寺(3月25日~4月9日展示)
重要文化財 善鸞義絶状(部分)顕智筆 鎌倉時代 嘉元3年(1305)三重 専修寺
覚信尼絵像 室町~桃山時代(16世紀)新潟 福因寺
重要文化財 顕智坐像 鎌倉時代 延慶3年(1310)栃木 専修寺
重要文化財「恵信尼書状類」のうち(第3通)(部分) 恵信尼筆 鎌倉時代(13世紀)京都 西本願寺(5月2日~5月21日展示)
――
参考文献
釈徹宗『仏にわが身をゆだねよ』NHK出版
釈徹宗、佐々木隆晃「『歎異抄』に出会う」2023
梅原猛『地獄の思想』
末木文美土『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』新潮社1992
末木文美土『仏典を読む 死から始まる仏教史』新潮社2009
「法然と親鸞 ゆかりの名宝」東京国立博物館・・・宗教は麻薬
「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ
――
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝、京都国立博物館、3月25日(土)~5月21日(日)

2023年5月 1日 (月)

どうする家康・・・織田信長、運命の美女、信長の葬儀、天を追求する一族

Ieyasu-mitsui-2023
Sengoku-saneiketsu-2022
Oihi-kouyasan-toujiin
Akechi-mitsuhide-1613
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第326回
運命の美女、織田家の天下一の美女たち。
織田信長、生駒吉乃、五徳、お市の方、浅井三姉妹、信雄、信忠、華麗なる一族。江と秀忠の娘・千姫。
小谷城陥落、北ノ庄城陥落、安土城炎上、大坂城陥落
【運命の美女、信長の妹、お市の方】天正元年(1573年)小谷城陥落、浅井長政が小谷城で自らの命を絶つ、お市とその娘たち(茶々、初、江)の行方、尾張国守山城主信長の叔父織田信次、天正2年、岐阜城に預けられる【北ノ庄城】天正11年4月24日、柴田勝家、秀吉によって北ノ庄城を包囲、お市の方とともに自害。市の3人の女子、城を出る。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』「この世は舞台、人はみな役者だ」『お気に召すまま』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【武田信玄の死、死を秘匿、勝頼の死、武田氏滅亡】元亀3年(1572)武田信玄は大軍を率いて西上の途につき、三方ヶ原の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍を撃破。これにより窮地。信玄、度々喀血を呈する。ところが、翌年4月12日、信玄は信濃伊那郡駒場(下伊那郡阿智村)で病没。享年53。第1次信長包囲網瓦解。遺言、死を三年秘匿。天正3年(1575年)4月12日、信玄三周忌『甲陽軍鑑』菩提寺は恵林寺。
天正10年(1582)3月、勝頼は織田信忠によって滅ぼされる。
【信長の小袖】『甲陽軍鑑』によると、信長から小袖が贈られた際、梱包に漆箱が使われていた。ふと思い立った信玄が箱を割るなどして調べると、それは漆が何度も重ね塗りされた最高級であった。信玄は信長の、梱包にすら高価な漆箱を用いるその丁寧さから「これは織田家の誠意の表れであり、武田家に対する気持ちが本物だ」と周囲に語ったという。
【第六天魔王、信長】比叡山焼き討ちにより甲斐国に亡命してきた「天台座主の覚恕法親王の沙門(保護者)武田信玄」に対して、信長は「第六天魔王、信長」と返した。フロイス1573年4月20日(元亀4年)付け書簡(『日本耶蘇会年報』所収)。
――
【織田信長、正親町天皇、勅命講和】
【本能寺の変と三職推任問題】天正10年(1582年)4月25日、5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)。 4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。
【織田信長、三職推任問題】勧修寺晴豊『天正十年夏記』(1582年)4月25日、5月4日に記載、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずる。 5月、朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた。正親町天皇の皇子誠仁親王、信長の返答の内容は不明である。織田信長は、階級社会の地位に拘泥せず。これが悲劇を招いた。
6月1日、本能寺の茶会。6月2日、払暁、明智光秀の本能寺の変が起こる。
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
参考文献 今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』1992小和田哲男『明智光秀』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
織田信長の葬儀
【織田信長の法名「天徳院殿」】『言経卿記』の同年9月2日条から見える、外部の者にも知られた法名。同月11日の柴田勝家の妻お市による百日忌、それより前、8月18日の信長乳母(養徳院)による法事の時の記録によると、信長の法名全体は「天徳院殿二品前右相府龍巌雲公大居士」。阿弥陀寺の信長の墓に「百日弔」にあたって正親町天皇・誠仁親王、山科言経ら知識人の公家たちもお参り
【織田信長の法名、総見院殿贈大相国一品泰巌大居士】10月15日、秀吉が喪主になり、京都大徳寺において信長の葬儀を大々的に行ってみせた。遺骸はないので、棺の中には沈香を用いた信長の像が納められていた。この後の信長の法名は、「相国」は太政大臣、「一品」は一位。「巌」は織田弾正忠家の法名の通字
【お市の方、36歳で死す】天文16年(1547年)の生まれ、信長が天文3年(1534年)生まれ、実は13歳も歳の離れた兄妹。天正10年6月2日、本能寺の変、清洲会議(6月27日)承諾を得て、柴田勝家と再婚。9月、妙心寺で、織田信長の百日忌。喪主。天正11(1583年)年4月24日、柴田勝家、秀吉によって北ノ庄城落城、お市の方、自害。
――
織田信長、明晰透徹、信長の人間性 『回想の織田信長』ルイス・フロイス『日本史』
【織田信長、戦を好み、名誉心に富み、正義において厳格】「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。
織田信長【貪欲でなく、決断を秘め、戦術に極めて老練】彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同から極めて畏敬されていた。
【酒を飲まず、食を節し、王侯を軽蔑し】酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。
【善き理性と明晰な判断力】彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者
――
【富は、苦労してかいた汗からではなく、深い思考から生まれる】人生に最も重要なのは俯瞰と設計。人生の方向性を考えること。設計図を持たない人、人生を飛躍させるためには、些細な事に時間を浪費してはいけない【壮大な計画を考えよ。人生の究極目的は魂を磨くことである】
【利益重視の女はどんなにきれいでも嫁にしてはいけない。カマキリの雌は交尾後、雄を食べる。ハリガネムシとなって寄生する】アル中の向上心のない男と結婚する女はクズ。騙そうとする人は心地よい、体に悪いものは美味い、酒は万病の元。ガン、脳梗塞、痴呆症の原因は飲酒癖
秘密を風に教えてはいけない、森全体に伝わる。お金には敏感になれ、一気に与えると腐る、棘がある良い人になれ。騙そうとする人は心地よい、体に悪いものは美味い、酒は毒薬。見栄張りの人の心は小さい、真相バラされると憎しみ付きまとう。不公平は当たり前。行きたくない会合は、喜んで行くか、断れ。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
参考文献
本多隆成『徳川家康の決断』2023
本多隆成『定本 徳川家康』2010
太田牛一、中川太古訳『信長公記』新人物文庫
ルイス・フロイス『回想の織田信長』ルイス・フロイス『日本史』12巻
今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』講談社現代新書2022
今谷明『日本史の論点』中公新書
岡田正人『織田信長総合辞典』雄山閣出版、1999
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』中公新書、2018
和田裕弘『織田信忠―天下人の嫡男』中公新書2019
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中公新書
ルイス・フロイス『回想の織田信長、日本史』中公文庫
『NHK大河ドラマ どうする家康』図録、三井記念美術館2023
【織田信長、麒麟、小牧山城、足利義輝あて書状】麒麟の「麟」の字を用いたと言われる織田信長の花押。この花押の文字、どうも同時代から何の文字が書かれているのか全く不明で、おそらく麒麟の「麟」だろうと比定されたのは、戦後の事
織田信長【西狩獲麟】孔子は、衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかと失望から、自分が整理を続けてきた魯の歴史書の最後にこの記事を書いて打ち切った。『春秋』「哀公十有四年春、西に狩して麟を獲たり」
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変、三職推任
どうする家康、三井記念美術館・・・孤独な少年、竹千代、家康10の決断
どうする家康・・・織田信長、運命の美女、信長の葬儀、天を追求する一族
https://bit.ly/3njDXJm
――
特別展、どうする家康、三井記念美術館、4月15日~6月11日
【岡崎展】2023年7月1日(土)~8月20日(日)
会場:岡崎市美術博物館
主催:岡崎市美術博物館、NHK名古屋放送局、NHKエンタープライズ中部
【静岡展】2023年11月3日(金・祝)~12月13日(水)
会場:静岡市美術館

2023年4月25日 (火)

どうする家康、三井記念美術館・・・孤独な少年、竹千代、家康10の決断

Ieyasu-mitsu-mm-2023
Ieyasu-nagashino-mitsui-2023
Ieyasu-komaki-nagakude-mitsui-2023
Ieyasu-sekigahara-mitsui-2023
Ieyasu-sekigahara-tsugaru-mitsui-2023
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第325回
孤独な少年、竹千代、元信・元康・家康10の決断。
孤独な少年、松平元康は、今川家の人質として、ひっそりと生涯を終えると思っていた。家康をいかに情けなく描くか、それが勝負。
織田信長像、明智光秀像、豊臣秀吉像、徳川家康像、24歳で亡くなった祖父、松平清康像、於大の方像、金陀美具足、家康の武具、長篠の戦い、小牧長久手の戦い、石川数正出奔、関ヶ原の戦い、大坂の陣の合戦図屏風。
戦国時代、安土桃山、江戸時代、歴史の物的証拠の展覧会。
江戸城にあった徳川家康の遺品は、久能山東照宮に保存され、徳川美術館に所蔵された。
虚飾を剥ぎ取った、家康像は何か。情けない家康公、徳川四天王、三河家臣団の活躍、幸運の生涯
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【家康の選択、戦乱に満ちた生涯、75年】今川家の人質、桶狭間の戦い、三河一向一揆弾圧、金ヶ崎の窮地、三方原の戦い、長篠の戦い、信康事件、本能寺の変・伊賀越え、小牧長久手の戦い、関ケ原の戦い、大坂の冬の陣、夏の陣。
徳川家康【運を掴む者、掴まぬ者】【本多忠勝、酒井忠次、三河家臣団に恵まれる】【清洲同盟21年】【伊賀越え、知恩院で自刃すると家臣を脅す】【碌を与える者には権を与えず。権を与える者には碌を与えず】【17歳から74歳まで戦争】【経済と政治の分離】【厭離穢土欣求浄土】口先営業の宗教弾圧
【桶狭間の戦い、大高城を包囲する4砦、織田信長】永禄三(1560)年五月、大高城は今川義元をおびき寄せる罠、18日、松平元康は大高城に兵糧入れ。大高城を包囲する信長方の鷲津砦(北東)、丸根砦(東)、正光寺砦(南)、氷上山砦(西)の付城。19日、義元、桶狭間にて討たれる。
【織田信長、松平元康、清洲同盟(永禄5(1562)年1月)】家康18歳、織田信長27歳、瀬名20歳前後、お市12歳前後、秀吉23歳、柴田勝家40歳、酒井忠次35歳、石川数正29歳、本多忠勝13歳、鳥居元忠23歳、鳥居忠吉72歳、水野信元40歳、今川氏真24歳。
【織田信長、正親町天皇、勅命講和】信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現。元亀元年(1570年)朝倉義景・浅井長政との戦い、天正元年(1573年)足利義昭との戦い、天正8年(1580年)石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである。今谷明 『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』1992年
【織田信長の葬儀】天正10年9月11日、妙心寺で勝家やお市が主催し百日忌。この時の法名は「天徳院殿二品前右相府龍巌雲公大居士」清玉上人が命名した天徳院殿。12日、秀吉は養子としていた信長の四男・秀勝を立て大徳寺で百日忌、法名「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」
松平元康から家康、徳川家康、カネで買った系図
【作られた系図、徳川家康、金300貫と馬で従五位下三河守に叙任、清和源氏の末裔として『徳川』を名乗る】関与したのは関白近衛前久。正親町天皇。
【ルネサンスと戦国時代】ミケランジェロ(1475-1564)、シェイクスピア(1564-1616)、織田信長(1534-1582)、豊臣秀吉(1537-1598)、徳川家康(1543-1616)、フェリペ2世(1527-1598)、フランソワ1世(1494-1547)、カルロス1世(カール5世)(1500-1558)、ルイス・フロイス(1532-1597)、明智光秀(1516-1582)、細川藤孝(1534-1610)、カラバッジョ(1571-1610)
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』「この世は舞台、人はみな役者だ」『お気に召すまま』
――
【家康、人生の3分の1を過ごした駿府、今川の人質、竹千代、松平元信、臨済寺、太原雪斎】小和田哲男。家康は今川義元と織田信長のハイブリッド。国づくりは義元に学び、外交関係は織田信長から学んだ。小和田哲男
今川義元の軍師、臨済寺の太原雪斎から教え「戦いを好む者は、必ず滅ぶ」「天下は一人の天下に非ず。天下は天下の天下なり」
【駿府、幼少期、壮年期、晩年】天文18年(1548)、今川義元の人質となる。永禄3年(1560)桶狭間の戦い、今川義元の戦死。19歳の家康は岡崎城に帰還。29歳から45歳、浜松城。【5か国、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃、領有時代】駿府に戻ってくる。慶長10年(1605)、将軍職を秀忠に譲り大御所となる。慶長12年(1607)、駿府城を築く。大阪城の豊臣秀頼に対抗するため、大手門を西に向ける。朱印船貿易。駿府10万人、江戸に15万人。
――
【学問僧は、庭園の糸杉に呪文を呟き、密教真言を唱える、敵は滅びる。愛犬が守護精霊となって蘇ってくる、学問僧を守る。守護霊が敵を滅ぼす。如意輪観音、愛染明王は、学問僧を救う】
【利益重視の女はどんなにきれいでも嫁にしてはいけない。カマキリの雌は交尾後、雄を食べる。ハリガネムシとなって寄生する】アル中の向上心のない男と結婚する女はクズ。騙そうとする人は心地よい、体に悪いものは美味い、酒は万病の元。ガン、脳梗塞、痴呆症の原因は飲酒癖。
秘密を風に教えてはいけない、森全体に伝わる。お金には敏感になれ、一気に与えると腐る、棘がある良い人になれ。騙そうとする人は心地よい、体に悪いものは美味い、酒は毒薬。見栄張りの人の心は小さい、真相バラされると憎しみ付きまとう。不公平は当たり前。行きたくない会合は、喜んで行くか、断れ。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
★展示作品の一部
<展示構成>
第1章 家康誕生-今川からの独立と三河平定
第2章 戦国乱世の選択-今川・武田との抗争
第3章 豊臣大名徳川氏-豊臣政権下の家康
第4章 天下人への道-関ヶ原から江戸開府
第5章 大御所時代-駿府の生活と大坂の陣
第6章 東照大権現-家康、神となる
■家康の生涯をたどる
徳川家康は、今川氏真、武田信玄・勝頼、豊臣秀吉、石田三成など、強敵たちと時に手を組み、戦い、天下人へと登りつめた。死後、「東照大権現」として神となった。
★大日本五道中図屏風(駿府・久能山の部分) 8曲2双 江戸時代(19世紀) 三井記念美術館蔵 通期展示
江戸から長崎までの街道を描いた鳥瞰図的な絵図。家康の没後30年頃の景観が描かれており、岡崎城、浜松城、駿府城、名古屋城、関ヶ原の戦いの布陣、久能山東照宮など家康の一生をビジュアルにたどることができる。
■若き日の凜々しき武装
★重要文化財 金陀美具足  桃山時代(16世紀) 久能山東照宮博物館蔵 通期展示
大河ドラマ「どうする家康」では若き日の松平元康が桶狭間の戦い以来、ずっと着用して奮戦しているのが印象的な金色の甲冑。そのモデルがこの「金陀美具足」きんだみぐそく。
家康及び徳川十六将図 伝狩野探信守政筆 江戸時代(17~18世紀) 久能山東照宮博物館蔵 前期(4/15~5/14)展示
徳川家康とそれを支えた16人の武将たち。多くは三河時代からの譜代の家臣たち。
■今川・武田との抗争
家康は一時、武田信玄と同盟を結び、今川氏が支配する遠江へ侵攻する。今川氏を倒した家康の前には、次に信玄が立ちふさがる。家康は元亀3年(1572)信玄と遠江の三方ヶ原で戦い、大敗北を喫する。しかし、信玄はまもなく病死、息子の武田勝頼との激しい攻防が始まる。
★長篠合戦図屏風 6曲1隻 江戸時代(17世紀) 名古屋市博物館蔵 4/15~5/7展示
天正3年(1575)、家康と織田信長の連合軍が三河の地で勝頼と戦い、大勝利する。それが長篠の戦い。天正10年(1582)、信長と家康は勝頼を自害に追い込み、武田氏は滅亡。その直後、信長は明智光秀の本能寺の変により自刃。
■秀吉と家康
★小牧長久手合戦図屏風 6曲1隻 江戸時代、名古屋市博物館蔵 4/15~5/7展示
本能寺の変のあと、家康は信長の息子織田信雄と手を結び、秀吉に対抗する。小牧・長久手の戦い、家康は長久手の合戦で勝利したが、最終的に信雄が秀吉と和睦。家康もその後、秀吉の妹を娶り、秀吉の臣下となって豊臣大名として政権を支える。天正18年(1590)、家康は秀吉の小田原攻めに参陣、小田原の北条氏は滅亡。その後、家康は関東への領地替えを命じられ、江戸を本拠とする。
■天下分け目の関ヶ原の戦い
★重要文化財 関ヶ原合戦図屏風(津軽屏風)8曲1双 左隻 桃山~江戸時代(17世紀) 大阪歴史博物館蔵 前期(4/15~5/14)展示
慶長3年(1598)に豊臣秀吉が死ぬと、家康の天下人への歩みが始まる。
慶長5年(1600)、石田三成を中心とする西軍と、家康と組んだ東軍とが雌雄を決する関ヶ原の戦いが起きる。この天下分け目の戦いに勝利した家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く。
■三井記念美術館の国宝刀剣
★国宝 短刀 無銘 正宗(名物 日向正宗) 鎌倉時代(14世紀)三井記念美術館蔵 前期(4/15~5/14)展示
石田三成が所持したことのある名刀で、関ヶ原の合戦で水野日向守勝成が手に入れたことから日向正宗と呼ばれる三井記念美術館が所蔵する国宝刀剣を展示。後期(5月16日~6月11日)、同館所蔵の国宝刀剣で、秀吉や家康が所持した「短刀 無銘 貞宗」(名物 徳善院貞宗)を展示。
■天下人が愛したもの
家康は秀忠に将軍職をゆずり、大御所として慶長12年(1607)から元和2年(1616)亡くなるまで、駿府城(静岡市)で過ごした。愛刀ソハヤノツルキ、ゼンマイ式時打ち時計として国内現存最古の洋時計など、家康が駿府城で身近に使っていた遺愛品は他界後に、久能山東照宮に納められた。
★要文化財 太刀 無銘 光世 切付銘 妙純伝持 ソハヤノツルキ ウツスナリ
★鎌倉時代(13~14世紀) 久能山東照宮博物館蔵 前期(4/15~5/14)展示
★重要文化財 洋時計 1573年 久能山東照宮博物館蔵 前期(4/15〜5/14)展示
この洋時計は慶長16年(1611)に家康がスペイン国王から贈られたもの。スペイン属領のフィリピン総督らが航海中に房総沖で遭難し、家康が救助したことの謝礼。
家康、神「東照大権現」となる
最後で最大級の「どうする家康」、2度にわたる大坂の陣、冬の陣、夏の陣(1614、1615年)。
豊臣氏を滅亡させた家康は、戦国の世に幕を下ろし、徳川幕府による太平の世を実現させた。
大坂夏の陣の翌年、元和2年(1616)に家康は駿河で鷹狩り中に発病。死期を悟った家康は「久能山に遺骸を納め、葬礼を増上寺で行い、三河の大樹寺に位牌を置き、一周忌以後に、日光山に小さき堂を建て、関八州の鎮守となりた」という遺言を残して駿府城で他界した。75歳。死後に、家康の神号が検討され、「東照大権現」と決まり、家康は神となった。
★東照大権現像 天海僧正賛写 江戸時代(17~18世紀) 久能山東照宮博物館蔵 通期展示
――
★参考文献
本多隆成『徳川家康の決断』2023
本多隆成『定本 徳川家康』2010
太田牛一『信長公記』新人物文庫
和田裕弘『織田信忠 天下人の嫡男』2019
織田信長【西狩獲麟】孔子は、衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかと失望から、自分が整理を続けてきた魯の歴史書の最後にこの記事を書いて打ち切った。『春秋』「哀公十有四年春、西に狩して麟を獲たり」
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
【無能な管理職に復讐する方法】無能が支配する管理社会。なぜ日本組織は未だに大日本帝国、上意下達、忖度官僚だらけ。カネで魂を売る大衆は烏合の衆【織田信長、正親町天皇による勅命講和】1570生涯最大の窮地、志賀の陣、金が埼の退き口、秀吉、家康、光秀、結集
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人。人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」
細川家の至宝、珠玉の永青文庫コレクション・・・織田信長「天下布武」と菱田春草「黒き猫」
どうする家康、三井記念美術館・・・孤独な少年、竹千代、家康10の決断
https://bit.ly/3oBk8NX
――
特別展、どうする家康、三井記念美術館
――
特別展、どうする家康、三井記念美術館、4月15日~6月11日
【東京展】2023年4月15日(土)~6月11日(日)
会場:三井記念美術館
【岡崎展】2023年7月1日(土)~8月20日(日)
会場:岡崎市美術博物館
主催:岡崎市美術博物館、NHK名古屋放送局、NHKエンタープライズ中部
【静岡展】2023年11月3日(金・祝)~12月13日(水)
会場:静岡市美術館

2023年4月22日 (土)

東洋陶磁、安宅コレクション名品選101・・・狂気と礼節のコレクター、美的な価値の基準はどこにあるか

Ataka-collection-101-2023
Ataka-collection-senoku-2023
Ataka-collection-ch-2023
Ataka-collection-seijikokuka-botan-karak

大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第324回
飛青磁、油滴天目、木葉天目の美しさは卓越している。速水御舟の絵画コレクション、中国韓国陶磁コレクション、気品と静謐と峻烈を誇る美術は必見の価値がある。安宅英一(1901-1994)は、王侯貴族でもなく、現代において、なぜ、贅沢なコレクションを蒐集できたのか。美的な価値の選択基準はどこにあるのか。
王侯貴族の美術蒐集家としては、唐の太宗皇帝李成民、コジモ・デ・メディチ、ロレンツォ・デ・メディチ、フェリペⅡ世、フランソワ1世を思い出す。王侯貴族の楽しみは、至高の藝術コレクションである。王侯貴族は、美的な価値の選択基準を持っていた。
織田信長は、天下一の藝術家、知識人を見い出した。狩野永徳、千利休、津田宗及、本因坊算砂、ルイス・フロイス、信長の近臣、沢彦宗恩、牛田牛一、武井夕庵。
【ルネサンス、フランソワ1世】フランソワ1世(1494-1547)、1515年20歳でフランス王に即位。レオナルドを招く。1516年秋、メルツィとサライを連れてアンボワーズ城に来る。フランソワ1世は、『聖アンナと聖母子』の下絵に彩色させるために、レオナルドをフランスに呼んだ。「主席画家、技師、並びに建築家」の称号をアンボワーズの宮廷で与えられる。レオナルド64歳。
1517年10月10日、レオナルドは、訪問した枢機卿ルイジ・アラゴーナに3枚の絵を見せる。『ジュリアーノ・メディチ(1453-1478)*のために描かれたあるフィレンツェの婦人の肖像』(モナリザ1503-1505)*『洗礼者聖ヨハネ』(Leonardo,San Giovanni,1514)『聖アンナと聖母子』(1510)。レオナルドは、シャンボール城を設計する。レオナルド(1452-1519)67歳で死す。
フランス革命直後、1793年、新しい市民社会の獲得と共に、歴代の王室コレクションが一般公開されたのがルーヴル美術館の誕生である。現在は35万点以上を所蔵する。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
展示作品の一部
《加彩 婦女俑》(かさい ふじょよう)
中国 唐時代 8世紀
大阪市立東洋陶磁美術館(住友グループ寄贈/安宅コレクション)
写真:六田知弘
国宝《油滴天目 茶碗》
中国 南宋時代 12-13世紀
大阪市立東洋陶磁美術館(住友グループ寄贈/安宅コレクション)
写真:六田知弘
重要文化財《木葉天目 茶碗》
中国 南宋時代 12-13世紀
大阪市立東洋陶磁美術館(住友グループ寄贈/安宅コレクション)
写真:六田知弘
国宝《飛青磁 花生》(とびせいじ はないけ)
中国 元時代 14世紀
大阪市立東洋陶磁美術館(住友グループ寄贈/安宅コレクション)
写真:六田知弘
青磁刻花 牡丹唐草文様 瓶
中国 北宋時代 11-12世紀
《粉青鉄絵 蓮池鳥魚文 俵壺》
朝鮮時代 15世紀-16世紀
《青磁鳳凰耳花生》
中国 南宋時代 12-13世紀
――
参考文献
『大阪市立東洋陶磁美術館、安宅コレクション名品選101』青幻社2023
不変/普遍の造形—中国青銅器名品選・・・饕餮文、鴟鴞文、殷周の謎の文様
https://bit.ly/3HmqojF
「桃山―天下人の100年」3・・・茶の湯、足利義政、織田信長、津田宗及、千宗易、豊臣秀吉、楽長次郎
https://bit.ly/35ZPK2F
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変
https://bit.ly/3UYWOpe
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/3gqTr5n
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
東洋陶磁、安宅コレクション名品選101・・・狂気と礼節のコレクター
https://bit.ly/40u9Bl4
――
展覧会概要
世界有数の東洋陶磁の名品を所蔵する大阪市立東洋陶磁美術館。その中核をなすのが、安宅産業株式会社の会長であった安宅英一氏(あたか・えいいち 1901-1994)の美意識によって収集された961件におよぶ東洋陶磁からなる「安宅コレクション」です。従来の伝統的な価値観や枠組みにとらわれることなく、安宅英一という一人の芸術家的な眼をもった収集家によって築かれたコレクションで、国宝《飛青磁 花生》《油滴天目 茶碗》に代表される優れた中国陶磁143件、高麗・朝鮮時代を代表する作品を数多く含む韓国陶磁791件を中心に構成されます。
安宅英一は父の安宅弥吉の安宅商会に入社後、26歳でロンドン支店長となり、帰国後30代半ばから音楽や美術に関する支援活動を始めました。戦後日本のクラシック音楽のパトロン、近代の日本画家・速水御舟のコレクターとしても知られる彼は、昭和26年(1951)安宅産業の事業の一環として美術品購入が認められると、本格的な東洋陶磁の収集を開始し、それは経営が行き詰まる昭和51年まで続きました。その後、散逸の危機に直面した「安宅コレクション」を大阪市に寄贈し、美術館建設に寄与したのが、大阪を基盤とする住友グループでした。本展では、安宅コレクションから国宝2件、重文11件を含む名品101件を選び、珠玉の東洋陶磁を紹介します。
また、こうした住友グループの文化貢献の基盤には、住友家十五代当主であった住友春翠(すみとも・しゅんすい 1864-1926)が育んだ近代的な社会貢献活動(図書館や美術館などの文化施設建設、内国勧業博覧会開催支援など)がありました。大阪市立東洋陶磁美術館設立への支援は、近代住友の社会貢献精神を受け継いだ戦後の住友グループの文化貢献事業を象徴する大きな事業のひとつといえます。リニューアルオープンした新しい展示室 で、中国陶磁、韓国陶磁の名品、さらに住友コレクションの中国絵画の国宝《秋野牧牛図》や高麗仏画の重要文化財《水月観音像》(展示替えあり)とのコラボレーションをご覧頂きます。
展示構成(予定)
*掲載作品の所蔵はすべて大阪市立東洋陶磁美術館(住友グループ寄贈/安宅コレクション)
1.珠玉の名品室 
安宅コレクションを代表する珠玉の名品をご紹介します。茶の湯的な美意識や近代以降の新たな鑑賞陶磁や民芸的な美意識を超えて、安宅英一が見出した「美」の神髄をご堪能ください。
2.韓国陶磁室 
安宅コレクションの中でも質、量ともに世界有数のコレクションである韓国陶磁。その柔らかな美しさは早くから日本人の心を魅了しました。長く立ち上がる頸が優美な高麗時代の《青磁陽刻 牡丹蓮花文 鶴首瓶》、比類ない朝鮮時代の逸品《粉青鉄絵 蓮池鳥魚文 俵壺》など、各時代を代表する名品を紹介します。
3.中国陶磁室
宋・元・明時代を中心とする中国陶磁は、昭和40年代に入手した鴻池家伝来の国宝《飛青磁 花生》、酒井家伝来の国宝《油滴天目 茶碗》、加賀前田家伝来の重要文化財《木葉天目 茶碗》という伝世の茶の湯の名品に代表されます。また、「雨過天晴」とも形容される北宋時代の宮廷用の汝窯青磁や各名窯の優品など見どころ満載です。
4.住友コレクションとの競演
陶磁器の器形には、中国古代青銅祭器から継承されたものが多くみられます。特徴的な形に注目し、住友コレクションとの競演をお楽しみ頂きます。
https://www.artpr.jp/senoku-tokyo/atakacollection101
――
大阪市立東洋陶磁美術館、安宅コレクション名品選101、泉屋博古館東京、3月18日(土)~5月21日(日)

2023年4月12日 (水)

中野晃一講演会『強者の支配か自由な共存か』5月28日、上智大学、1号館402教室

Rafaello-scuola-di-aene-a-150910
中野晃一講演会『強者の支配か自由な共存か』5月28日、上智大学、1号館402教室
中野晃一、上智大学国際教養学部教授。政治学、政治哲学。『右傾化する日本政治』岩波新書『私物化される国家 支配と服従の日本政治』角川新書 質疑応答、大久保正雄『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社
2023年5月28日、上智大学1号館402、午後2時~4時、上智大生は学生証提示で無料。一般1000円(資料代含)  問い合わせ 上智大学ソフィア会 03-3238-3041
――
古今東西、理念に基づいて行動し政治を実現する人は希少である。理想的な政治家はどこにいるのか。私利私欲によって行動し泥棒政治を実行する政治家。「人間はポリス的動物である」『政治学』「すべての人は善を求める」『ニコマコス倫理学』。民衆は最善を選ぶことができるか。世界の趨勢は民主制が減少している。独裁国家、富裕層が支配する国が71%。制度は民主政であるが、実態は独裁国家、寡頭制国家である。プラトン、アリストテレス、マキャベリへと継承された「政治形態論」から何を学ぶべきか。堕落した国家の諸形態、独裁政、寡頭制、衆愚政。王政、貴族政、民主政。昏迷の国、日本の闇に打ち克つ方法は何か。
――
戦争は作られる。孫崎享『国際政治、覇権争い、ウクライナ戦争』【質疑応答】孫崎享×大久保正雄、ソフィア文化芸術ネットワーク
https://bit.ly/3GOXmJm
中野晃一講演会『強者の支配か自由な共存か』5月28日、上智大学、402教室
https://bit.ly/43qH56n

2023年4月 6日 (木)

ルーヴル美術館展、愛を描く・・・2、キリスト教の愛、オランダ黄金時代、画中画の秘密

Louvre-giovanni-battista-salvi-dit-il-sa
Love_louvre-guillaume-odinie-2023
Love_louvre-apollon-et-cypalissos-1821
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第322回
文明は滅びても、愛は滅びない。古代ギリシア文化、古代ローマ文化、キリスト教文化、ルネサンス、オランダ黄金時代の画中画の秘密、18世紀ロココ貴族の愛欲、革命の新古典主義、ロマン主義の反逆、19世紀イタリアの婚姻契約。「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」「この世は舞台、人はみな役者だ」(シェイクスピア)
【ルネサンス、メディチ家のプラトン・アカデミーの夢】1462年コジモは、フィチーノにプラトンの原典とカレッジの別荘を与えた。ロレンツォは1492年43歳で死に、詩人ポリツィアーノは毒殺、ピコも毒殺、フィチーノは1499年死ぬ。ルネサンスの夢は、マニエリスム、バロック、ロココ、新古典主義、ロマン主義の藝術家によって蘇る。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
キリスト教の愛・・・神の意思により降誕した神の子イエス
4、サッソフェラート(本名 ジョヴァンニ・バティスタ・サルヴィ)《眠る幼子イエス》(1640-85頃)
聖母マリアの腕の中で眠る幼子イエスがあどけない表情を浮かべ、聖母マリアは慈しむように我が子を抱きながら視線を子へ向けている。父なる神の意思により降誕した神の子イエスと、幼子イエスを抱く聖母マリア。十字架にかけられ生け贄の死を遂げる運命を暗示する。
キリスト教の愛・・・イエス、生け贄の死
5、ウスターシュ・ル・シュウール『キリストの十字架降下』1651頃
キリストの十字架降下(The Descent from the Cross)、磔刑に処され死した主イエス。神は我が子キリストに、人類の罪を購うために十字架にかけられ生け贄の死を遂げる運命を与えた。主題「十字架降下」は「ユダヤの王を名乗り、民を惑わせた」とユダヤ教の司祭より処刑を求められ、罪を裁く権限を持つローマ帝国の総督ピラトが手を洗い自らに関わりが無いことを示した。(『マタイによる福音書』27章)ゴルゴダの丘で、2人の盗人と共に磔刑に処された、キリストの受難の中で最も重要な場面。人類の罪を購うために十字架にかけられ生け贄の死を遂げる。
――
19世紀イタリア富裕層市民の婚姻契約の愛
6、ギヨーム・ボディニエ 《イタリアの婚姻契約》1831年
1795年フランス生まれの画家ギヨーム・ボディニエは、27歳の時にイタリアを旅行し、この地に魅了されてイタリアの風景を多く描いた。ローマ近郊アルバーノの裕福な農民一家で、婚姻契約の様子を描いた。結婚する二人、若者が女を見つめ、女は恥ずかし気にうつむく、母は介添え、父親は給仕の若い女に目を向け、公証人は証書を書く。

オランダ黄金時代の画中画に隠されたた愛
5、サミュエル・ファン・ホーホストラーテン《部屋履き》1655-1662年頃
オランダの黄金時代1650年代または1660年代初め、ドルトレヒトにおいて制作した風俗画。3つの部屋が描かれている。一番手前は左手の大きな戸を開いて入った空間。床は赤と黒の菱形模様。次の間とのあいだの壁には、大きな布が掛っており、長い箒が立てかけられている。壁の下部にはデルフトタイルの装飾。光は右手から差してきている。
次の空間の床は赤い長方形。楕円形の藁のマットの上には、サンダルのようなものが乱暴に脱ぎ捨ててある。ここには強い光が右手から射してくる。
奥の部屋の入口の扉は室内に向かって開かれており、鍵束のなかの一本の鍵がこの扉に差したままになっている。床は黒と白の菱形。向こうの壁がやけに明るい。そこには画中画、椅子、鏡。黄色のテーブルクロスをかけたテーブルにはローソクをのせた燭台と本が置かれている。本の向こうの黒いものは何だろうか。
画中画にこの画のテーマが隠されているようである。後ろを向いた女性は銀色のドレスを身に付け、女中が待機している。その向こうには赤い天蓋つきのベッド。天蓋の一部は開いているが、その中の様子は分からない。ベッドの手前には同じ色の椅子があるが、その上には何も載っていない。古瀬顕

新古典主義、蘇るギリシア
6,クロード=マリー・デュビュッフ 《アポロンとキュパリッソス》1821年
アポロンはキュパリッソスを愛した。ケオース島には金色に輝く角を持った雄鹿が、人々に大切にされていた。キュパリッソスはこの鹿と仲が良かった。キュパリッソスはあるとき誤って投槍で鹿を殺してしまった。キュパリッソスは深く悲しみ、神々に永遠に嘆き悲しむことを願った。そこで神々は彼を糸杉(悲しみの象徴)に変えた。出典、オウィディウス 『変身物語』
7、『ニンフとサテュロス』アントワーヌ・ヴァトー 1715-1716年頃 油彩/カンヴァス  103x138cm パリ、ルーヴル美術館
半神半獣のサテュロスはぐっすりと眠るニンフのベールを持ち上げ、裸身に夢中になっている。
8、アリ・シェフェール《ダンテとウェルギリウスの前に現れたフランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マラテスタの亡霊》1855年
ダンテの叙事詩『神曲』「地獄篇」。大胆な構図で描かれるフランチェスカとパオロ。この男女の悲しい恋路、二人は、男の兄の嫉妬により、ナイフで刺され死んでしまう。
――
展示作品の一部
フランソワ・ジェラール『アモルとプシュケ』1798年、油彩/カンヴァス 186x132cm パリ、ルーヴル美術館
フランソワ・ブーシェ《アモルの標的》1758年 油彩/カンヴァス 268x167cm パリ、ルーヴル美術館
ピーテル・ファン・デル・ウェルフ 《善悪の知識の木のそばのアダムとエバ》1712年以降 油彩/板 45x35.5cm パリ、ルーヴル美術館
カヴァリエーレ・ダルビーノ(本名 ジュゼッペ・チェーザリ)《楽園を追われるアダムとエバ》(1597)
アントワーヌ・ヴァトー《ニンフとサテュロス》(1715-16頃)
サッソフェラート(本名 ジョヴァンニ・バティスタ・サルヴィ)《眠る幼子イエス》(1640-85頃)
ウスターシュ・ル・シュウール《キリストの十字架降下》1651頃 カンヴァスに油彩 直径134cm パリ、ルーヴル美術館
ジャン=オノレ・フラゴナール《かんぬき》1777-1778頃 カンヴァスに油彩 74x94cm パリ、ルーヴル美術館 
Photo © RMN-Grand Palais (musée du Louvre) / Michel Urtado / distributed by AMF-DNPartcom
ギヨーム・ボディニエ 《イタリアの婚姻契約》1831年 油彩/カンヴァス100x138cm パリ、ルーヴル美術館 
ハブリエル・メツー《ヴァージナルを弾く女性と歌い手による楽曲の練習》、または《音楽のレッスン》1659-1662年頃 油彩/板 32x24.5cm パリ、ルーヴル美術館
サミュエル・ファン・ホーホストラーテン《部屋履き》1655-1662年頃 油彩/カンヴァス 103x70cm パリ、ルーヴル美術館
ドメニキーノ(本名 ドメニコ・ザンピエーリ)《リナルドとアルミーダ》1617-1621年頃 油彩/カンヴァス121x168cm パリ、ルーヴル美術館
《ニンフとサテュロス》 アントワーヌ・ヴァトー 1715-1716年頃 油彩/カンヴァス  103x138cm パリ、ルーヴル美術館
クロード=マリー・デュビュッフ 《アポロンとキュパリッソス》1821年 油彩/カンヴァス 192x227.5cm アヴィニョン、カルヴェ美術館
Photo © Avignon, musée Calvet
ウジェーヌ・ドラクロワ『アビドスの花嫁』1852〜1853年頃 パリ、ルーヴル美術館 
アリ・シェフェール《ダンテとウェルギリウスの前に現れたフランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マラテスタの亡霊》1855年 パリ、ルーヴル美術館
――
参考文献
『ルーヴル美術館展、愛を描く』図録2023
「ルーヴル美術館展 19世紀フランス絵画 新古典主義からロマン主義へ」2005
「ルーヴル美術館展 18世紀フランス絵画のきらめき」1997
国立新美術館主任学芸員宮島綾子氏の報道内覧会2023における解説。
新古典主義、ダヴィッドと弟子たち・・・「ソクラテスの死」「アモルとプシュケ」
ロマン主義の愛と苦悩・・・ロマン派から象徴派、美は乱調にあり
ルーヴル美術館展 フランス宮廷の美・・・ルイ15世、ロココ様式、フランソワ・ブーシェ、ジャン=オノレ・フラゴナール
――
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
アモールとプシューケー エロースと絶世の美女プシューケー
大久保正雄『地中海紀行』第57回P12
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
新古典主義、ダヴィッドと弟子たち・・・「ソクラテスの死」「アモルとプシュケ」
ルーヴル美術館、愛を描く・・・1、愛の絵画、愛と美の迷宮
ルーヴル美術館展、愛を描く・・・2、キリスト教の愛、オランダ黄金時代、画中画の秘密
https://bit.ly/3Gjenu8
――
ルーヴル美術館展、愛を描く、国立新美術館、3月1日〜6月12日
京都市京セラ美術館、6月27日~9月24日

2023年4月 3日 (月)

ルーヴル美術館、愛を描く・・・1、愛の絵画、愛と美の迷宮

Louvre-nact-2023_20230403193901
Love_louvre-fragonard-2023
Louvre-2023
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第321回
古代ギリシア文化、古代ローマ文化、キリスト教文化、ルネサンス、オランダの黄金時代、18世紀ロココの貴族の退廃、イタリアの婚姻契約。国家は滅びても、愛は滅びない。「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』「この世は舞台、人はみな役者だ」『お気に召すまま』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
■古代ギリシアの哲学者、プラトン哲学の影響の下に、ルネサンス文化は展開した。
【プラトン『饗宴』】ドラマは、アガトンの悲劇優勝記念の宴に集まる(前416年)。4人(パイドロス、パウサニアス、エリュクシマコス、アリストパネス)が「エロスの神とは何か」を議論する、最後にアガトンがエロスの本質を述べ、ソクラテスがディオティマから教えられた「愛の究極の奥義」を披露し、愛の階梯、魂の美、見えざる魂の美は極美である。究極の美は善である、イデア論を展開する。そこにアルキビアデスが酔って乱入、ソクラテスはギュムナシオンに去る、という対話篇である。メディチ家の思想家、マルシリオ・フィチーノ『饗宴注釈』『プラトン神学』(『パイドン』)を著した。
■ルネサンス文化の源泉 ルネサンス時代、フィレンツェのメディチ家は、プラトンから生まれた新プラトン主義の思想に影響を受け、ボッティチェリ、ミケランジェロらがルネサンス美術を生み出した。マニエリスム、バロック、ロココ様式、新古典主義、すべての源泉はルネサンスである。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
1、フランソワ・ジェラール【アモルとプシュケ】
プシュケはあまりの美貌ゆえに求婚するものが現れず、プシュケはある王国の三女であったが神託により人身御供に捧げられた。ヴィーナスが嫉妬により遣わした息子アモルによって天上の宮殿に略奪された。アモルを見ることを禁じられたプシュケは、アモルの姿をある夜、見てしまい、アモルを探し求めて世界中を彷徨う。ヴィーナスに4つの苦難を与えられたプシュケ。
【最後の難題は、冥界の女王ペルセポネから、美の函を地獄から持ち帰ること】プシュケはほとんど地上まで持ち帰るが、好奇心に勝てず、開けてしまう。しかしその函には、美のかわりに深い眠りが入っていて、プシュケは深い眠りにつく。プシュケは第4の苦難を解き、他方、アモルはプシュケを探している。眠っているプシュケを見つけ、その矢でついて目覚めさせる。プシュケは、アモルと天上界で結ばれる。
出典は、アプレイウス『黄金の驢馬』、ラ・フォンテーヌ『プシュケとアモルの恋』の終幕、苦難を経て天上で結ばれるアモルとプシュケの場面である。プラトン『パイドロス』の「人間の魂と神の愛の結合」、ラ・フォンテーヌ「永遠の愛を意味する再会」である。新古典主義における新プラトン主義の思想の表現である。

18世紀、ロココ様式の貴族の愛。
2,『ジャン=オノレ・フラゴナール かんぬき 1777-1778頃』
男が女を抱き寄せ、部屋のかんぬきをかけている場面。女性は恍惚としているのか、抵抗しているのか判然としない。画面の周辺に、男性性器の暗示とされる閂、女性性器や処女喪失の暗示とされる壺と薔薇の花、メタファーが鏤められている。乱れているベッド、人類最初の女性であるイヴが楽園から追放される原因となった林檎、様々な解釈ができる絵画。
フランス革命の約10年前に描かれた作品、当時は人々のモラルが変わり、男女の恋愛模様も大きく変わる時代。以降、本作のように男女の恋愛模様や性愛を彷彿とさせる作品は非難されるようになった。18世紀フランスでは、自由や快楽を肯定することが、キリスト教の権威に対する反発や批判に繋がる風潮が流行していた。解釈できない曖昧さが画面に散りばめれている」
3、フランソワ・ブーシェ『アモルの標的』1758年
フランソワ・ブーシェ、ロココ様式の巨匠、ルイ15世王の首席画家、王立絵画彫刻アカデミー院長、。生涯に千枚以上の絵画、百枚以上の版画、約一万枚の素描を制作、壁画装飾、タピスリーや磁器の下絵制作。
ローマ神話、ヴィーナスの息子である愛の神アモル(クピド)が放った矢がハート形をした的を射抜いた場面、愛が生まれた瞬間を描。よく見ると、的の周辺には無数の穴があり、アモルが何回か射的に失敗した。上空を飛ぶアモルは両手に持つ月桂冠を掲る。下部のアモルたちは、もう必要がなくなった弓矢を燃やしている。
――
参考文献
『ルーヴル美術館展、愛を描く』図録2023
「ルーヴル美術館展 19世紀フランス絵画 新古典主義からロマン主義へ」2005
「ルーヴル美術館展 18世紀フランス絵画のきらめき」1997
国立新美術館主任学芸員宮島綾子氏の報道内覧会2023における解説。
新古典主義、ダヴィッドと弟子たち・・・「ソクラテスの死」「アモルとプシュケ」
ロマン主義の愛と苦悩・・・ロマン派から象徴派、美は乱調にあり
ルーヴル美術館展 フランス宮廷の美・・・ルイ15世、ロココ様式、フランソワ・ブーシェ、ジャン=オノレ・フラゴナール
――
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
アモールとプシューケー エロースと絶世の美女プシューケー
大久保正雄『地中海紀行』第57回P12
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
新古典主義、ダヴィッドと弟子たち・・・「ソクラテスの死」「アモルとプシュケ」
ルーヴル美術館、愛を描く・・・1、愛の絵画、愛と美の迷宮
https://bit.ly/3U0Hpoh
――
ルーヴル美術館展、愛を描く、国立新美術館、3月1日〜6月12日

2023年3月31日 (金)

新古典主義、ダヴィッドとダヴィッドの弟子たち・・・「ソクラテスの死」「アモルとプシュケ」

David-the_death_of_socrates-1787
Amor-et-psyche
Lamour_et_psych_picot1817
Ingres-odipus-and-sphinx-1808
Antoine-gros-le-gnral-bonaparte-au-pont-
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第320回
【ルネサンスと革命とナポレオン】ルネサンスの藝術家、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロは古代ギリシアの藝術に憧憬、古代藝術を再生した。18世紀、新古典主義の藝術家たちは、ルネサンス美術に憧れイタリアを愛し、新古典主義美術を生み出した。メディチ家のプラトン・アカデミーの精華である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David1748−1825)「毒杯を仰ぐソクラテスLa Mort de Socrate」1787、メトロポリタン美術館
【ソクラテスの死】紀元前399年、ソクラテスは、ギリシアの哲学者の最も偉大な思想家の一人、エンペドクレス、プラトンとならび、高邁な有徳の士、高貴な人格。ソクラテスは、その思想で若者たちを堕落させたという罪状で死刑宣告を受ける。死を免れるのは可能だったが、クリトンのすすめを退け、裁判で下された裁定に従って、評決に甘んじて死ぬ道を選ぶ。プラトン『パイドン』は偉大な思想家の死を描く。ソクラテスは魂の不死不滅を論証する。ソクラテスの牢獄の最後の日の対話を指嗾のドラマにする。彼は感情あらわに嘆き悲しむ弟子たちを戒め、毒杯をあおって威厳ある死を遂げた。自己犠牲による死を主題にした。
国家に正義があるか、疑義がある。疑惑の正義を分析するのは『国家』第2巻で展開する正義の分析であり、魂の正義の分析である。見えざる魂を見える国家の形で分析することが『国家』第9巻で展開する堕落した国家の諸形態の分析である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【ダヴィッド、イタリアと革命とナポレオン】ロココ絵画の巨匠フランソワ・ブーシェ(1703-1770*『ヴィーナスの化粧』1751)はダヴィッドの親戚であった。ダヴィッドは画家ジョゼフ=マリー・ヴィアンに師事する。1774年《アンティオコスとストラトニケ》で、若手画家の登竜門ローマ賞受賞。ダヴィッドは1775年から1780年まで約5年間、イタリアで、プッサン、カラヴァッジョ、カラッチ、古典絵画の研究に没頭する。イタリアでの研究を契機に作風は18世紀フランスを一世風靡したロココから、新古典主義的な画風へと変貌する。37歳の時、ルイ16世注文の《ホラティウス兄弟の誓い》(1784年から1785年)、この作品によってサロンで評価される。
1789年、フランス革命勃発、ダヴィッドは、ジャコバン党員として政治にも関与。《球戯場の誓い》を描く他、バスティーユ牢獄襲撃事件に参加、1792年、国民議会議員。1793年、革命家マラーの死を描いた《マラーの死》を制作。1794年、ロベスピエールに協力、最高存在の祭典の演出を担当。
ナポレオンと同じようにローマ愛が強く意気投合する。段々と地位が上がり、最後は芸術長官に任命される。1804年、ナポレオンの首席画家に任命される。6×9メートルの大作《ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠》1806年から1807年に描く。1808年「帝国における騎士ダヴィッド」の爵位を与えられた。ナポレオンの失脚後、ダヴィッドも失脚し、1816年にブリュッセルへ亡命、9年後の1825年に時代に翻弄された77年の生涯を終える。
フランソワ・ジェラール【アモルとプシュケ】プシュケはあまりの美貌ゆえに求婚するものが現れず、ヴィーナスが嫉妬により遣わした息子アモルによって天上の宮殿に略奪された。プシュケはある王国の三女であったが神託により人身御供に捧げられた。アモルを見ることを禁じられたプシュケは、アモルの姿をある夜、見てしまい、アモルを探し求めて世界中を彷徨う。ヴィーナスに4つの苦難を与えられたプシュケ。
【最後の難題は、冥界の女王ペルセポネから、美の函を地獄から持ち帰ること】プシュケはほとんど地上まで持ち帰るが、好奇心に勝てず、開けてしまう。しかしその函には、美のかわりに深い眠りが入っていて、プシュケは深い眠りにつく。プシュケは第4の苦難を解き、他方、アモルはプシュケを探している。眠っているプシュケを見つけ、その矢でついて目覚めさせる。プシュケは、アモルと天上界で結ばれる。
出典は、アプレイウス『黄金の驢馬』、ラ・フォンテーヌ『プシュケとアモルの恋』の終幕、苦難を経て天上で結ばれるアモルとプシュケの場面である。プラトン『パイドロス』の「人間の魂と神の愛の結合」、ラ・フォンテーヌ「永遠の愛を意味する再会」である。新古典主義における新プラトン主義の思想の表現である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
最も優秀な弟子、3人のG
フランソワ・ジェラール(Francois Gerard 1770−1837)「アモルとプシュケ」1798、ルーヴル美術館
ジロデ=トリオソン(Anne-Louis Girodet de Roussy-Trioson 1767−1824)、「エンデュミオン」1792、ルーヴル美術館
ジャン・アントワーヌ・グロ(Antoine-Jean Gros1771−1835)「アルコレ橋上のボナパルト将軍」1796、ルーヴル美術館
ともにダヴィッドの最も優秀な弟子の一人。3人のGと呼ばれる。
――
ダヴィッドの弟子、フランソワ=エドゥアール・ピコ(1786-1868)「アモルとプシュケ」1817、ルーヴル美術館
ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル(1780-1867)「スピンクスの謎を解くオイディプス」1808、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ「プシュケとアモル」(1787-1793)、ルーヴル美術館
――
参考文献
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド 革命の表現者から皇帝の首席画家へ』晶文社1991
ケネス・クラーク(高階秀爾訳)『ロマン主義の反逆 : ダヴィッドからロダンまで13人の芸術家』小学館1988
「ルーヴル美術館展 19世紀フランス絵画 新古典主義からロマン主義へ」2005
「ルーヴル美術館展 18世紀フランス絵画のきらめき」1997
「ルーヴル美術館展 ―地中海 四千年のものがたり」2013
「ルーヴル美術館展、愛を描く」2023
ルーヴル美術館展 ―地中海 四千年のものがたり・・・ギリシア文化の輝き
地中海 四千年のものがたり・・・藝術家たちの地中海への旅
https://bit.ly/2ELRoci
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
アモールとプシューケー エロースと絶世の美女プシューケー
大久保正雄『地中海紀行』第57回P12
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
新古典主義、ダヴィッドとダヴィッドの弟子たち・・・「ソクラテスの死」「アモルとプシュケ」
https://bit.ly/40uIiI2

2023年3月25日 (土)

憧憬の地 ブルターニュ・・・最果ての地と画家たち

Bretagne-nmwa-2023_20230325204101
Bretagne-monet-1886-nmwa-2023
Bretagne-paul-gaugan-2023
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第319回
最果ての地フィニステールと画家たち
最果ての地、ブルターニュ
フランスの北西端、大西洋に突き出た半島ブルターニュ地方は、モン・サン・ミシェル、カンカル、サン・マロ、レンヌ、ブレスト、カンペール、ナント、深緑の海、険しい断崖の海岸線、平原と深い森、内奥部にロクマリアケールの巨石遺跡がある。フランソワ1世の時代、1532年、フランス王国とブルターニュ公国は統一、アンヌ女公の娘クロード王女を王妃とするフランソワ1世は、ブルターニュに、塩税の免除などいくつかの特権を授けた。15世紀から18世紀、ブルターニュは経済的な黄金時代を迎えた。ブルターニュ公国が法的に廃止されたのはフランス革命中の1789年である。
世紀末の旅人たち
クロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926)
クロード・モネは、1886年、ブルターニュのベリール島に降り立った。《嵐のベリール》1886年は、46歳の作品である。妻カミーユを79年に亡くした後、どのような想いでブルターニュに旅立ったのか。
モネは『印象 -日の出(Impression, soleil levant)』1872年。1874年、第1回、印象派展に展示。クロード・モネ『日傘を差す女、 カミーユとジャン・モネ』1875年。1875年7月、カミーユは当時不治の病だった結核にかかり、1879年、32歳の若さで死ぬ。*カミーユ(1847-79旧姓カミーユ・ドンシュー)。
ポール・ゴーガン(Paul Gauguin, 1848-1903)
ゴーガンは、1886年、フェリクス・シュベ・デュバルの勧めで初めてブルターニュ地方を訪れ、ポン・タヴェンに滞在する。1888年1月、ゴーガンはポン・タヴェンを再訪し、秋にゴッホの待つアルルに発つまでここに滞在する。1888年10月、「黄色い家」でのゴッホとゴーガンの共同生活が始まる。1888年12月「耳切り事件」、ゴーガンは2か月でアルルを去る。アルルのゴッホとの共同生活の後、1889年から1890年まで、ブルターニュに制作の地を移す。
1891年4月、ゴーガンは文明社会を逃れるため、パリを離れ、タヒチに向かう。ゴーギャンは、首都パペーテからマタイエアに移り住む。マタイエアで出会う人々と暮らし、鮮烈な色彩で幻想あふれる作品を数多く生みだした。1893年8月、パリに帰国する。1895年9月、再びタヒチに戻る。1901年9月、ヒヴァ・オワ島に移り住み、最晩年の時を過ごす。ポリネシアの黄金の色調に魅了された。ヒヴァ・オワ島にて54歳で死す。
20世紀の旅人
藤田嗣治(1886-1968)
藤田嗣治は、1913年、渡仏、パリのモンパルナスに住む。エコール・ド・パリの画家たちと交友する。シャガール、モディリアーニ、ジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイーズ・キスリング。第一次大戦1914-18。戦時下のパリで、絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖をとる。
【乳白色の肌の裸婦 藝術家の運命】1917年3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚。初めて絵が売れる。7フラン。シェロン画廊で最初の個展。絵も高値で売れるようになる。1918年、第1次大戦終戦。面相筆による線描を生かした技法による、透きとおる画風を、このとき確立。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙される。急速に藤田の名声は高まる。1917年7月、妻フェルナンデスと共に、ブルターニュに滞在する。
岡鹿之助(1889-1973)
岡鹿之助は、1924年、渡仏、渡仏後、藤田嗣治の指導を受ける。1926年6月から3か月、トレガステルに滞在する。同地で描いた《信号台》 1926年、等4点が、1926年サロン・ドートンヌで入選。ブルターニュでの制作は、それまで学んだアカデミックな作風を変え、新しい作風の契機となる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
展示作品の一部
ウィリアム・ターナー《ナント》 1829年 水彩/紙 ブルターニュ大公城、ナント歴史博物館
ポール・シニャック《ポルトリュー、グールヴロGourvelo, Portrieux》1888年、ひろしま美術館、
クロード・モネ 《嵐のベリール》 1886年 油彩/カンヴァス オルセー美術館(パリ)
クロード・モネ《ポール=ドモワの洞窟》1886 年 油彩/カンヴァス、茨城県近代美術館
ポール・ゴーガン、《海辺に立つブルターニュの少女たち》、1889年 油彩/カンヴァス
国立西洋美術館 松方コレクション
ポール・ゴーガン 《ブルターニュの農婦たち》 1894年 油彩/カンヴァス オルセー美術館(パリ)
アルフォンス・ミュシャ 《岸壁のエリカの花》 1902年 カラー・リトグラフ OGATAコレクション
シャルル・コッテ《悲嘆、海の犠牲者》、1908-09年 油彩/カンヴァス、国立西洋美術館 松方コレクション
シャルル・コッテ《行列》、1913年 油彩/カルトン、国立西洋美術館 松方コレクション
モーリス・ドニ 《花飾りの船》 1921年 油彩/カンヴァス 愛知県美術館
ポール・セリュジエ 《ブルターニュのアンヌ女公への礼賛》 1922年 油彩/カンヴァス ヤマザキマザック美術館 [3月18日(土)〜5月7日(日)展示]
黒田清輝《ブレハの少女》、1891 年 油彩/カンヴァス、石橋財団アーティゾン美術館
藤田嗣治《十字架の見える風景》 1920年、岐阜県美術館
岡鹿之助《信号台》 1926年、目黒区美術館
岡鹿之助《ブルターニュ》 1926年、茨城県近代美術館
岡鹿之助《信号台》 1926年、茨城県近代美術館
山本鼎 《ブルトンヌ》 1920年 多色木版 東京国立近代美術館[3月18日(土)〜5月7日(日)展示]
――
参考文献
『憧憬の地 ブルターニュ ―モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷』図録2023
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」・・・光の画家たちの光と影
「没後50年 藤田嗣治展」・・・乳白色の肌、苦難の道を歩いた画家
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
憧憬の地 ブルターニュ・・・最果ての地と画家たち
フランスの最北西端、大西洋に突き出た半島を核とするブルターニュ地方は、芸術家と縁の深い土地です。ケルト人を祖にもち、16世紀前半まで独立国であったこの最果ての地フィニステールは、隣国のイギリスとフランスに翻弄されながらも独自の歴史と文化を紡ぎ、フランスの一部となったのちも固有の言語「ブルトン(ブレイス)語」を守りつづけました。またこの地には断崖の連なる海岸線や岩で覆われた荒野、深い森などの豊かな自然とともに、古代の巨石遺構や中近世の宗教遺物が各地に残されています。人々の篤い信仰心や地域色に富む素朴な生活様式も長らく保たれてきました。このように特徴的な自然と歴史文化を擁するフランスの内なる「異郷」は、19世紀以降、新たな画題を求める画家たちを惹きつけてやみませんでした。
本展では、とりわけ多くの画家や版画家たちがブルターニュを目指した19世紀後半から20世紀はじめに着目し、この地の自然や史跡、風俗、歴史などをモティーフとした作品を展覧することで、それぞれの作家がこの「異郷」に何を求め、見出したのかを探ります。また、明治後期から大正期にかけて渡仏し、この地に足を延ばした日本の画家たちの作品と足跡にも光をあてる、これまでにない試みとなります。
国内およそ30か所の所蔵先と海外2館から集められた約160点の作品にくわえ、関連資料もあわせて展示されるこの機会に、皆さんも画家のまなざしを借りてブルターニュの各地をめぐり、芸術を育むその奥深い風土を体感していただければ幸いです。
――
憧憬の地 ブルターニュ ―モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷、国立西洋美術館、3月18日(土)〜6月11日(日)

«特別展、東福寺・・・円爾、九条道家、吉山明兆、無準師範