2025年11月
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2025年11月 7日 (金)

アールデコとモード・・・1925年パリ万博、『グレート・ギャツビー』1925,クライスラービル1930、ルネ・ラリック香水瓶

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第410回
アール・ヌーボー1925年パリ万博
2025年は、パリで開催された幾何学的装飾芸術の博覧会、通称アール・デコ博覧会から100年目にあたります。この記念の年に、京都服飾文化研究財団(KCI)が誇る世界的な服飾コレクションから、この時代を表す選りすぐりのドレスや資料類約200点を紹介。加えて国内外に所蔵される同時代の絵画、版画、工芸品などを展示し、合計約310点で、現代にも影響を与え続ける100年前の「モード」を紐解く。
【アール・デコ(art deco)】1925、パリ万国展覧会の名称の、Arts Décoratifsから名付けられたのが、装飾様式の「アール・デコ(art deco)」。すっきりとしたライン、大胆な幾何学的な形状、そして鮮やかな色使いを特徴とするこの様式は、当時、野心的な前衛芸術であると評価された。同展覧会には20カ国から出展者が集まった。
【アール・デコ(art deco)】1925、パリ万国展覧会の名称、Arts Décoratifsから名付けられた、幾何学的装飾様式。ガブリエル・シャネル(1883-1971)。多様な香水瓶のデザインをルネ・ラリック(1860-1945)。クライスラー・ビル1930年竣工。イヴ・サン=ローラン(1936-2008)のミニ・ドレス
【アールヌーボー1900とアールデコ1925】どうちがうのか。【アールヌーボー】1900パリ万博、アルフォンス・ミュシャ、ミュシャ様式、エミール・ガレ。世紀末美術、象徴派、植物の装飾様式。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【クライスラービルChryslerBuilding 1930】
クライスラー・ビルディングは高さ世界一の超高層ビルを目指して1928年9月19日に着工。1930年5月20日に38メートルの尖塔を追加して319メートルとなり、クライスラー・ビルディングは完成した。5月27日にこのビルは一般に開業した。こうしてウォールタワーを上回り、世界一高いビルの座につくことができた。しかし、翌年の1931年にエンパイア・ステート・ビルディングの完成により、世界一の座を明け渡すことになる。それでもアメリカの1920年代の繁栄の歴史を物語るニューヨークの摩天楼の中の傑作である。
【ルネ・ラリック】Rene Lalique(1860-1945)
ルネ・ラリック(1860-1945)は、19世紀末から20世紀半ばにかけて、アール・ヌーヴォーのジュエリー制作者、アール・デコのガラス工芸家として、二つの創作分野で頂点をきわめた人物として知られています。1900年のパリ万国博覧会、1925年のアール・デコ博覧会で国際的な脚光を浴びたラリックの作品は、工芸の価値を、絵画や彫刻などの純粋美術と同じレベルにまで高めるとともに、生活に新たな美意識をもたらすものとして異例の評価をうけました。21世紀を迎えた現在、そうした見解は改めて確証され、ラリックへの賞賛は日を追って高まりつつあります。
『グレート・ギャツビー』1925年
F・スコット・フィッツジェラルドの1925年の小説『グレート・ギャツビー』。The Great Gatsby 1922年、狂騒の20年代アメリカ。語り手のニック・キャラウェイ、ある晩、彼はイエール大学時代の友人トム・ブキャナンと、彼の妻デイジーの家に招かれる。隣の大邸宅に住むジェイ・ギャツビーなる人物は、毎夜豪華なパーティーを開いていた。ある日ニックはそのパーティーに招かれる。ニックはギャツビーと親交を深めていく中で、彼が5年の間胸に秘めていたある想いを知る。ギャツビーとデイジーはニックのおかげで再び出会い、二人の恋愛は再熱した。
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【デューセンバーグ】1910年代から1937年にかけて存在したアメリカの高級車メーカー。アメリカンドリームの象徴として、多くの人が憧れる存在でした。
特に、1928年に発表された「モデルJ」は、最高級のボディと、当時レーシングカーにしか採用されていなかったDOHCエンジンを兼ね備え、排気量7リッター、265馬力で、3トンもある車体を最高時速192kmまで走らせることが出来るという最高級かつ最高性能の豪華なクルマ。このモデルJの登場により、一躍デューセンバーグの名声は世間に広まることとなりました。
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【タマラ・ド・レンピッカTamara de Lempicka(1898―1980)】
ワルシャワの良家に生まれ、思春期をロシアとスイスで過ごす。18歳で弁護士レンピッキ伯爵と結婚する。翌年ロシア革命でパリへ亡命。働かない夫を尻目に画業で身を立てる決心。時代に翻弄されながらも女性の自由な生き方を実践し、狂乱の時代とも呼ばれた1920年代のパリで独特の作風により、画家として一躍注目された。やがて第二次世界大戦の脅威の中、アメリカに亡命。その後、時代とともに次第に忘れさられていった。そして70年代に再評価され、1980年に82歳でその劇的な人生を終えた。
ロングドレスを着たタマラ「ロングドレスを着たタマラ」
1929年頃/ドラ撮影
© 2010 Tamara Art Heritage Licensed by MMI Photo A. Blondel / D’Ora
《緑の服の女》Jeune fille en vert
1930年/油彩・合板/ポンピドゥーセンター蔵
© 2010 Tamara Art Heritage Licensed by MMI
ADAGP & SPDA
モデルはレンピッカの娘、キゼットである。この作品においてキゼットは初めて官能的で、意気揚々とした姿で描かれている。緑のドレスは背後ではためき、身体をぴったりと包み、乳房とへその形をあらわにしている。優雅な帽子と手袋をつけた彼女は、究極の女性らしさを体現している。レンピッカは自分自身の若い頃を思い出し、過去の自分を投影し描いたに違いない。つまり、この作品は自画像でもあるのだ。なお、この作品は彼女の最高傑作の一枚として世界の美術館で展示されている。(E・B)
《タデウシュ・ド・レンピッキの肖像》
Portrait de Tadeusz de Lempicki
《タデウシュ・ド・レンピッキの肖像》
1928年/油彩・キャンヴァス/1930年代美術館蔵
© 2010 Tamara Art Heritage Licensed by MMI
男は黒く大きなコートを着て、手にシルクハットを持っている。外出しようとしているのだが、あたかも妻であるレンピッカに別れを告げているかのようである。レンピッカは結婚指輪をはめた夫の左手を、未完のままで残すことにした。実際、タデウシュはこの絵のためにポーズをとった時に、タマラと離婚の瀬戸際にいたのだ。レンピッカが描く男たちは大体において暗いトーンで描かれており、そこにはノスタルジーと不安が込められているかのようだ。(E・B)
https://www.ntv.co.jp/lempicka/about/index.html

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【アールヌーボーとアールデコ】
【アールヌーボー】1900パリ万博、アルフォンス・ミュシャ、ミュシャ様式、エミール・ガレ
【ミュシャ様式、アール・ヌーヴォー】
1895年元旦、アルフォンス・ミュシャ『ジスモンダ』のポスターでパリのアート・シーンの注目を集め始める。アール・ヌーヴォー様式の発信源の一つとなるジークフリード・ビングの画廊、メゾン・ド・ラール・ヌーヴォーがオープン。
ミュシャのデザインは「ミュシャ様式」というニックネームで大衆に親しまれ、「アール・ヌーヴォー」と同義語になる。優美な女性と、繊細な線、大胆な構図、曲線と円形、花の装飾。
1898年、ウィーン分離派展に参加。フリーメイソン、パリ支部の会員。
1900年、アール・ヌーヴォー、終息。ミュシャ様式、忘れ去られる。
【エミール・ガレ】(1846-1904)アール・ヌーヴォー
エミール・ガレ(1846–1904)はフランス北東部ロレーヌ地方の古都ナンシーで、父が営む高級ガラス・陶磁器の製造卸販売業を引き継ぎ、ガラス、陶器、家具において独自の世界観を展開し、輝かしい成功を収めました。
ナンシーの名士として知られる一方、ガレ・ブランドの名を世に知らしめ、彼を国際的な成功へと導いたのは、芸術性に溢れ、豊かな顧客が集う首都パリでした。父の代からその製造は故郷ナンシーを中心に行われましたが、ガレ社の製品はパリのショールームに展示され、受託代理人等を通して富裕層に販売されたのです。1878年、1889年、1900年には国際的な大舞台となるパリ万国博覧会で新作を発表し、特に1889年の万博以降は社交界とも繋がりを深めました。しかし、その成功によってもたらされた社会的ジレンマや重圧は想像を絶するものだったと言い、1900年の万博のわずか4年後、ガレは白血病によってこの世を去ります。
ガレの没後120年を記念する本展覧会では、ガレの地位を築いたパリとの関係に焦点を当て、彼の創造性の展開を顧みます。フランスのパリ装飾美術館から万博出品作をはじめとした伝来の明らかな優品が多数出品されるほか、近年サントリー美術館に収蔵されたパリでガレの代理店を営んだデグペルス家伝来資料を初公開します。ガレとパリとの関係性を雄弁に物語る、ガラス、陶器、家具、そしてガレ自筆文書などの資料類、計110件を通じて、青年期から最晩年に至るまでのガレの豊かな芸術世界をお楽しみください。
■参考文献
アールデコとモード・・・1925年パリ万博、『グレート・ギャツビー』1925,クライスラービル1930、ルネ・ラリック香水
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/11/post-ddf546.html
「みんなのミュシャ展」Bunkamuraザ・ミュージアム、2019
「みんなのミュシャ展」Bunkamuraザ・ミュージアム・・・ミュシャ様式、線の魔術、運命の扉、波うつ長い髪の女
https://bit.ly/2SsUxTb

シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女・・・デ・キリコ、ダリ、ポール・デルヴォー
https://bit.ly/2vikIlL

クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
https://bit.ly/2uUs3pu

ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道、国立新美術館・・・装飾に覆われた運命の女、黄金様式と象徴派
https://bit.ly/2QbsUwT

「ミュシャ展 パリの夢、モラヴィアの祈り」2013
http://www.ntv.co.jp/mucha/

「ミュシャ展 『スラヴ叙事詩』」国立新美術館2017
アール・デコとモード 京都服飾文化研究財団(KCI)コレクションを中心に、三菱一号館美術館、2025年10月11日(土)~2026年1月25日(日)

2025年10月 7日 (火)

円山応挙 革新者から巨匠へ、・・・雪の中の老松と若松、瀧を昇る鯉、牡丹と孔雀、竹林の抵抗派竹林七賢

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第409回
円山応挙は、二つの要素の対比の空間、森羅万象を描く。雪の中に陽光に輝く老松と若松、青楓と瀑布、瀧を昇る鯉、牡丹と孔雀、竹林に集う抵抗派竹林七賢。「雪松図」「青楓瀑布図」「龍門図」「牡丹孔雀図」「竹林七賢図襖」「梅鯉図屏風」。
伊藤若冲「竹鶏図屏風」1790円山応挙「梅鯉図屏風」(1787)は、竹林と鶏、梅と水と鯉。
羅万象を描く円山応挙
伊藤若冲、曽我蕭白、長澤蘆雪ら「奇想の画家」たちに席巻された18世紀江戸絵画だが、
しかし、応挙こそが、18世紀京都画壇の革新者でした。写生に基づく応挙の絵は、超写実主義のように眼前に迫ってきた。応挙の画風は瞬く間に京都画壇を席巻し、当代随一の人気画家となりました。そして、多くの弟子たちが応挙を慕い、巨匠として円山四条派を形成する。
9月25日、山下裕二先生のギャラリー説明会を聞く。監修者・山下裕二教授からのメッセージ。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
【円山応挙1733~1795】最も魅力的な作品、得意分野は何か。「孔雀図」国宝「雪松図」「美人画」「山水画」「水墨画」「竹林七賢図屛風」「聖賢図」「仔犬図」「釈迦図」、幽霊図「返魂香之図」。円山応挙. 1733~1795(享保18~寛政7) 写実主義を確立。弟子、長澤蘆雪。
円山応挙 革新者から巨匠へ、・・・雪の中の老松と若松、瀧を昇る鯉、牡丹と孔雀、竹林の抵抗派竹林七賢
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-13cd31.html
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若冲、応挙 初の合作新発見 伊藤若冲「竹鶏図屏風」円山応挙「梅鯉図屏風」
円山応挙(1733~1795)と伊藤若冲)(1716-1800)、江戸時代、京画壇のランキングはナンバー1が応挙、ナンバー2が若冲であることが当時の京都の人名録「平安人物志」に記されている。お互い四条通り付近に住むご近所同士だったのに二人の接点を示す史料はこれまでありませんでした。
唯一、応挙が若冲を訪ねたとの記録が残っていますが、おそらく対面は叶わなかったのでしょう。応挙はその前年にすでにこの「梅鯉図屏風」を仕上げていたので、その時若冲を訪ねてもう一隻の進捗状況を尋ねたかったのかもしれません。
二人がじつは合作していたという、この奇跡的に発見された作品は本展が初公開!2024年
【円山応挙の謎】円山応挙は、なぜ、階級社会の中で、亀岡の農民の子から一級の絵師になることができたのか。円山応挙は、なぜ、死の年、一門十三人を率いて、大乗寺襖絵を描いたのか。 応挙の運命の扉を開いたのはだれか。応挙は、京都で、大乗寺、密蔵上人に出会った。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【農家の子から尾張屋】亀岡の農家に生まれた応挙は、京都に丁稚奉公に出て暮らす。15歳の時に玩具屋の尾張屋勘兵衛の世話になる。ビードロや覗き眼鏡を扱っていた尾張屋の元で、応挙は覗き眼鏡に使われる遠近が効いた眼鏡絵を描いた。
【狩野派から円山派】円山応挙は、狩野派の石田幽汀に学んだ、一方、西洋由来の遠近法の眼鏡絵、中国絵画の影響も受け、後に綿密な写生と伝統的な装飾性をあわせた独自の様式を確立した。応挙の元では息子の応瑞や山口素絢、長沢芦雪ら多くの絵師が育った。虎の絵を得意とする岸派、竹内栖鳳、上村松園に受け継がれていく。応挙の画風に南画の情趣を融合させて四条派を確立した呉春。円山・四条派の全容に迫る展覧会。
「円山応挙から近代京都画壇へ」・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺
若冲は35歳の時、相国寺にて、僧、大典顕常(1719年—1801年)に出会う。売茶翁(1675年—1763年)とも出会う。若冲という名を得て、若冲『動植綵絵』を10年の歳月をかけて完成する(宝暦7年頃1757年から明和3年1766年)。人知れず隠れて、寺院の秘密の部屋で超絶技巧を磨き貫き、技を駆使して、革新的技法、創造的芸術を探求した。裏彩色、色彩の魔術師。8万6千の方眼の中に描かれている極彩色の屏風、『鳥獣花木図屏風』。枡目描きは、西陣織物商、金田忠兵衛がいた。
若冲の超絶技巧の超細密画、微細な生きものの神秘な世界。マクロコスモスとミクロコスモスの調和、宇宙と小宇宙の融一を観照する。寺院の秘密の部屋。
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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永遠を旅する哲学者は、千年後に具眼の士が現われるのを待つ。旅する哲学者は、瞬間の永遠、永遠の今のなかに、美と真理を探求する。美は真であり、真は美である。詩人の魂は、怨みにある。李白の美の源泉は、恨みである。
若冲が『動植綵絵』で追求したものは何か。作品を評価してくれる人が現れるまで千年待つ。天上の宇宙と心の中の宇宙。天上の宇宙と心の中の宇宙。若冲は、生きものの神秘と美に魅入られたのか。若冲の絵画『動植綵絵』の方法とは何か。「内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である」「いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、わが天上の星の輝きと我が心の内なる道徳律」。内なる宇宙は、何を志向したのか。
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』より
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【伊藤若冲、謎の生涯】
伊藤源右衛門(若冲)(1716-1800)、京都の富裕な青物問屋に生まれ23歳で家業を継ぎながら、40歳で次弟に家督を譲り、異常に緻密な細密画に生涯没頭したのはなぜか。84歳まで、絵画を追求した若冲。相国寺、大典に出会い、人生が一変する。師なき領域で独創的藝術を探求した。
南蘋派の絵師、鶴亭に影響を受けて1000点に及ぶ中国絵画の臨写(模写)をするが、模写を止め独創性を追求する。「旭日鳳凰図」(1755)から始まる創造的藝術の探求。「動植綵絵」20「群鶏図」に溢れる鶏への愛はなにゆえか。
若冲は10年の歳月をかけて『動植綵絵』『釈迦三尊像』『釈迦三尊像』を描き、京都、相国寺に寄進した。
*『動植綵絵』「群鶏図」「老松孔雀図」「老松鳳凰図」「牡丹小禽図」「雪中錦鶏図」「芍薬群蝶図」、鳥、植物、微細な生きものの輝く宇宙。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
生誕300年、若冲展、東京都美術館・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
■主な展示作品
三井家が援助したこんぴらさんの襖絵、特別出品
重要文化財「遊虎図襖(16面の内)」円山応挙筆 天明7年(1787) 香川・金刀比羅宮/虎の毛皮を見て描いた応挙、モフモフ感に注目!
新発見の若冲、応挙初の合作、東京初公開!
左:「竹鶏図屏風」 伊藤若冲筆 寛政2年(1790)以前 個人蔵/右:「梅鯉図屏風」 円山応挙筆 天明7年(1787) 個人蔵/若冲の鶏、応挙の鯉、それぞれの得意な画題で競い合う!
応挙の傑作、国宝「雪松図屏風」と重要文化財「藤花図屏風」が登場!
国宝「雪松図屏風」 円山応挙筆 江戸時代・18世紀 三井記念美術館 【展示期間:9月26日~ 10月26日、11月11日~24日】/陽光にきらめく新春の雪景色に注目!
重要文化財「藤花図屏風」円山応挙筆 安永5年(1776) 根津美術館 【展示期間:10月28日~11月10日】/水墨と着色のコントラストが見事!
多彩な人物表現
「大石良雄図」 円山応挙筆 明和4年(1767) 一般財団法人武井報效会 百耕資料館 【展示期間:10月28日~11月24日】/忠臣蔵の主人公を等身大で描いている
「元旦図」 円山応挙筆 江戸時代・18世紀 個人蔵/初日の出を拝む応挙の後ろ姿!?
生き物に向けられる温かなまなざし
「雪柳狗子図」 円山応挙筆 安永7年(1778) 個人蔵/仔犬のキャラクターが大人気
「木賊兎図」 円山応挙筆 天明6年(1786) 静岡県立美術館 【展示期間:10月28日~11月24日】/触れたくなるような、ふわっふわの毛並み
山形県指定文化財 「鼬図」 円山応挙筆 江戸時代・18世紀 本間美術館 【展示期間:9月26日~10月26日】/下から横から正面から、応挙の観察眼が光る
「虎皮写生図屏風」 円山応挙筆 江戸時代・18世紀 本間美術館/リアルに描かれた虎柄のヒミツ
「青楓瀑布図」 円山応挙筆・皆川淇園賛 天明7年(1787) サントリー美術館 【展示期間:9月26日~10月26日】/清涼感あふれる 夏の滝
「華洛四季遊戯図巻」(下巻) 円山応挙筆 江戸時代・18世紀 徳川美術館 © 徳川美術館イメージアーカイブ/DNPartcom/洛中のにぎわいを写す尾張徳川家ゆかりの絵巻
応挙の傑作、国宝「雪松図屏風」は、三井記念美術館が所蔵する作品のなかでもっとも有名な作品の一つとして知られていますが、今年度は、秋に開催される開館20周年記念特別展のなかで公開されます。本展の監修を手掛けるのは、美術ファンから厚い支持を集める山下裕二教授。大阪中之島美術館で先行して公開され、伊藤若冲とのコラボ作品(合作屏風)として話題となっている「梅鯉図屏風」も東京で初公開となります。応挙の傑作が一堂に会し、華やかな展示内容となる本展。
近年、同時代を生きた伊藤若冲、曽我蕭白ら“奇想の画家”たちの人気に押され気味の円山応挙。応挙こそが、18世紀京都画壇の革新者。写生に基づく応挙の絵は、当時の鑑賞者にとって、それまで見たこともない眼前に迫ってきたのです。その画風は瞬く間に京都画壇を席巻、多くの弟子が応挙を慕い、巨匠として円山四条派を形成しました。本展では、応挙が「革新者」から「巨匠」になっていくさまを、重要な作品を通して知ることができます。
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円山応挙 革新者から巨匠へ、三井記念美術館、
監修者・山下裕二教授からのメッセージ
円山応挙は、従来より江戸時代を代表する画家として、確固たる地位を占めて高く評価されてきました。しかし近年、伊藤若冲をはじめとする「奇想の画家」たちの評価が高まるにつれて、いくぶんその注目度が低くなっていることは否めません。
しかし、応挙こそが、18世紀京都画壇の革新者でした。写生に基づく応挙の絵は、当時の鑑賞者にとって、それまで見たこともないヴァーチャル・リアリティーのように、眼前に迫ってきたのです。そして、そんな応挙の画風は瞬く間に京都画壇を席巻し、当代随一の人気画家となりました。
そして、多くの弟子たちが応挙を慕い、巨匠として円山四条派を形成することとなりました。応挙の絵は、21世紀の私たちから見れば、「ふつうの絵」のように見えるかもしれません。しかし、18世紀の人たちにとっては、それまで見たこともない「視覚を再現してくれる絵」
として受けとめられたのです。この展覧会では、そんな応挙が「革新者」から「巨匠」になっていくことを、重要な作品を提示しながらみなさんに見ていただきたいと思います。
開館20周年特別展 円山応挙―革新者から巨匠へ
会場:三井記念美術館(東京都中央区日本橋室町2-1-1 三井本館7階)
会期:2025年9月26日(金)~11月24日(月・振休)

2025年10月 1日 (水)

「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第408回
ゴッホは、絶望を超えて立ち上がる。孤独で不屈な藝術家。彼の遺志を継ぐ人々。100年の物語
「音楽のように人を慰める何かを僕は絵画で伝えたい」「100年後を生きる人々にも自分の絵を観てもらいたい」ゴッホは1880年、27歳で画家になる決意をした。フィンセントは美術商ビーグル商会に16歳で働き、弟テオは15歳で働く。1888年35歳でアルルに住む。
【ゴッホ1853-1890、37歳で死す】弟テオ(1857-1891)、画商としてフィンセントを経済支援。ゴッホ死後4ヶ月テオ病死。テオの妻ヨー、ゴッホ作品を200点保管、展示。ゴッホのテオ宛手紙を出版。【テオとヨーの息子フィンセント・ウィレム】(1890年1月31日 - 1978年1月28日)、1966年ゴッホ財団設立、1973年ゴッホ美術館設立。
【ゴッホと宮澤賢治】宮澤賢治は、ゴッホ『糸杉』1989を愛好した。『春と修羅』1924自費出版。妹トシ、弟清六2001、賢治を理解し支援。友人の及川四郎『注文の多い料理店』の出版を熱望。ゴッホは、人間関係を構築できず苦悩。画商の弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム1978だけが理解支援した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【ゴッホの人と藝術】1853-1890
【ゴッホ、絶望の旅立ち】フィンセント・ヴァン・ゴッホは、1853年3月30日、フロート・ズンデルト村に生まれた。祖父と父は牧師。男3人、女3人の6人兄弟の事実上の長男。1869年(16歳)美術商グーピル商会に就職するが解雇。1876年(23歳)新聞広告で知った英国の小学校教師の職を得て、仏語、独語を教える。ロンドン近郊の貧民街の様子に衝撃を受ける。1878年(25歳)ブリュッセルの伝道師養成学校に入る。79年、半年間の期限付き、伝道師になるが解任。1885年(32歳)3月、父が脳卒中で急死。父子は最後まで理解し合えず。父は死んだ。
1880年から1890年まで。ゴッホ、画家活動10年、27歳から37歳、
【ゴッホ、ハーグ派、灰色派】ハーグ時代、ハーグ派、灰色派、第二のレンブラント、ヨゼフ・イスラエルス「貧しい人々の暮らし」、バルビゾン派、ミレイ「種をまく人」(1850)を尊敬、影響を受ける。ゴッホの師、アントン・マウフェ「雪の中の羊飼いと羊の群れ」。ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」1885。
【パリ】1886年、パリに行く。パリ以後、「自画像」を40枚描く。「パリの屋根」1886。印象派の父、カミーユ・ピサロに会う。浮世絵の国日本に憧れアルルへ旅立つ。
【ゴッホ、アルルへ】1888(35歳)、ゴッホ、35歳でアルルに移住する。10月、「黄色い家」でのゴーガンとの共同生活が始まる。1888年12月、(35歳)「耳切り事件」、ゴーガンは2か月でアルルを去る。ゴッホ「麦畑」アルル1888。「種をまく人」(1888)3枚(クレラー・ミュラー、ファン・ゴッホ美術館、「日没を背に種をまく人」ビュールレ・コレクション)。「ひまわり」(1888)7枚。描く。「ローヌ川の星月夜」1888。「アルルの跳ね橋」1988。
【ゴッホ、サン・レミ時代】独自の境地に到達する。ゴッホ《星月夜》(1889 MoMA)サン・レミ1889年6月《糸杉のある麦畑》(1889 MET)。ゴッホ「薔薇」サン・レミ。
【オーベール時代】ゴッホ最後の2か月。ゴッホ「カラスの群れ飛ぶ麦畑」オーベール・シュル・オワーズ1890。ゴッホオーベール・シュル・オワーズ。
【ゴッホ、最後の境地】ゴッホ「薔薇」サン・レミ。オーベール・シュル・オワーズ時代、ゴッホ最後の2か月。ゴッホ「カラスの群れ飛ぶ麦畑」オーベール・シュル・オワーズ1890。「糸杉と星のある道」1890、オーベール・シュル・オワーズ。ピストル事件、フィンセントは7月29日に死亡した。
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
【ゴッホ、孤独な人生】
ゴッホは、人間関係を構築できない、孤立を極めた。家族と社会との軋轢に苦悩した。友人も愛もない。画商の弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、だけが理解した。
1870、27歳、画家になる決意をするが作品は売れず、弟テオだけが彼を援助した。売れた絵は生涯1枚だけ。1888、ゴッホは、ゴーガンに剃刀をもって襲いかかる。アルルにて耳切り事件、1989サンレミにて、病院入院。糸杉を描く。1890オーベール・シュル・オワーズにて拳銃事件、2日後37歳で死す。油絵約850点を残す。4か月後、弟テオ、死す。
【画家生活10年】ゴッホは、10年間で、2000枚のデッサン、850枚の絵画を描いた。ゴッホが描かなかった絵画がある、それは何故か。
【ゴッホの謎】何故、ゴッホは、画廊勤務、伝道師を辞めたのか。何故、ゴッホは、ゴーガンに剃刀をもって襲いかかり、アルルにて耳切り事件、拳銃自殺したのか。
【藝術家、思想家と運命との戦い】思想と藝術を生みだすのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、魔術である。敵との闘争における武器である。思想家は人生の戦いにどう挑み、逆襲するのか。美のイデアのための戦いである。思想と藝術は悩める人の魂を癒す音楽である。醜悪な敵との正義の戦い。思想は悲しみと苦しみから生まれる。
【レオナルドが描いて、ゴッホが描かなかったテーマ】ゴッホが描かなかったテーマは何か。レオナルド、ボッティチェリ、ラファエロ、ティツィアーノ、ジョルジョーネ、ミケランジェロ、ブロンズィーノ、巨匠はヴィーナスを描いた。ルノワールは、こればかり描いた。
【印象派画家たち、絶望的人生】印象派の画家は、ほとんどゴッホのように絶望的人生を生きた。画家として成功した富豪画家がいる。
【魂の叫び】美しい心は美しい言葉となる。心は言葉になり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は性格となり、性格は運命となる。運命に歯向かい、逆境と戦う、美麗な王妃は、残虐王に幽閉され、美を探求する王子は、残虐な王に虐待される。
【運命との戦い、美の女神】藝術家、思想家は、運命と戦う。邪知暴虐と戦い、この世の闇の彼方に美を求める。虚無の神殿にて、美の女神へ供物を捧げる。美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。美しい夕暮れ。美しい魂に、美の女神が舞い降りる。美しい守護霊が救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなす。
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
【テオとヨーの息子フィンセント・ウィレム】(Vincent Willem van Gogh, 1890年1月31日 - 1978年1月28日)、1966年ゴッホ財団設立、1973年ゴッホ美術館設立。1925年、母ヨーが亡くなり、フィンセントの絵、素描、手紙などを相続した。ヨーはフィンセントの絵画作品だけでなく、その手紙を世に広めることを志し、1914年にテオ宛の書簡集を発行していたが、フィンセント・ウィレムはその使命も引き継いだ。1932年、テオからゴッホに宛てた手紙をまとめた書簡集を出版。テオ宛の書簡だけでなく、エミール・ベルナール、アントン・ファン・ラッパルトなどその他の人物との手紙のやり取りもまとめた完全版書簡集の出版を計画し、ゴッホ生誕100年に合わせて、1952年から1954年までの間に、オランダで全4巻の書簡集を出版した。
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1891年1月25日、1歳の誕生日を迎えるわずか6日前に父テオが病死。母ヨーは、幼いフィンセント・ウィレムと義兄の遺作約200点を抱えてオランダに移り、その年の春からアムステルダム近郊の村バッセムに住み始めた。1901年、ヨーが画家ヨハン・コーヘン・ホッスハルクと再婚し、一家は1903年にアムステルダムに移った。
1907年、デルフト工科大学に入学して機械工学を学び、1914年、卒業した。その後、フランス、アメリカ合衆国、日本などでエンジニアとして働いた。1920年初頭、オランダに戻り、学生時代からの友人Ernest Hijmansとともに、オランダで初めての経営コンサルタント会社を設立。名前が同じ画家ゴッホとの混同を避けるため、甥であるフィンセント・ウィレムのことを「エンジニア(技師)」と呼んで区別する。
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■「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」展示作品の一部
「画家としての自画像」(1988〜87年)
「種まく人」(1888年)
「羊毛を刈る人」(1889年)
「アブサンが置かれたカフェテーブル」(1887年)
「夕暮れの農家」1985
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【ゴッホ、1853-1890】最も魅力的な作品は何か。
「ジャガイモを食べる人々」「夕暮れの農家」(1885)、「種まく人」「夜のカフェテラス」「アルルの跳ね橋」「日没を背に種まく人」1888年、《糸杉のある麦畑》(1889 MET)渦巻く夜空と大きくそびえる糸杉を描いた《星月夜》(1889 MoMA)、「烏の飛ぶ麦畑」(1889)
ゴッホ家が受け継いできたファミリーコレクションに焦点を当て、ファン・ゴッホ美術館の作品を中心に、ゴッホ作品30点超とその他の巨匠たちの作品を紹介します。ヨーが生前の印象とそっくりだと語った「家宝」の自画像。
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【宮澤賢治1896-1933】100年の物語
宮澤賢治、37歳で死す。弟、宮澤清六(1904年~2001年)97歳まで生きる。宮澤賢治の遺稿を出版。妹トシ(1898~1922年)24歳で死す。『永訣の朝』『無声慟哭』【詩集『春と修羅』1924】
【宮澤賢治1896-1933】妹トシの手紙「兄上様の天職と一家の方針とが一致する事が何よりも望まれ候」妹トシ(1898~1922年)、日本女子大卒論と将来について兄に相談。大正7年11月24日付。父政次郎との確執を妹トシは認識。
【弟、宮澤清六(1904年~2001年)】賢治の遺稿を託される。岩手県立盛岡中学校(現在の岩手県立盛岡第一高等学校)卒業、家業を手伝う。1926年、花巻で宮澤商会を開業。金物・建材・電導材・自動車部品を扱い、1942年まで営業。光原社の設立は、賢治の盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)時代の同級生が契機である。同級であった及川四郎(1886年~1974年)が、賢治の『注文の多い料理店』の原稿を読み、その出版を熱望した。「光原社」という社名自体も、宮沢賢治自身が命名した。
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参考文献
ゴッホ・・・ハーグ派、灰色派から印象派、糸杉への道
https://bit.ly/3hySZ7S
「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」東京都美術館
http://bit.ly/2zluV3g
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
ルノワール『イレーヌ』・・・非情な運命が襲いかかる、波瀾に立ち向かう
https://bit.ly/2ZlgdIp
印象派を超えて―点描の画家たち ゴッホ、スーラからモンドリアンまで・・・枯葉舞う秋の夕暮れ
https://bit.ly/2Mwg63Z
孤高の思想家と藝術家の苦悩、孫崎享×大久保正雄『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84
「没後120年 ゴッホ展 こうして私はゴッホになった」国立新美術館2010
https://bit.ly/3Cf9rCk
「ゴッホ展 孤高の画家の原風景」東京国立近代美術館2005年3月23日~5月22日
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
https://bit.ly/2W3o6RF
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語
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ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢
東京都美術館(東京都台東区上野公園8-36)
2025年9月12日(金)~12月21日(日)
愛知県美術館 2026年1月3日(土)~3月23日(月)

2025年9月28日 (日)

「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」2・・・無著、世親、唯識派の思想、唯識派と中観派の矛盾

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第407回
無我説と輪廻転生説は矛盾する。アートマンは存在しない、輪廻転生する識体は存在する。この矛盾をどのように解決するのか。中観派、龍樹は「あらゆる存在(一切法)は、縁起によって成立しており「独立した不変の実体」(=自性)はもたない(無自性空)とする」。唯識派、世親は「輪廻転生の主体は第8識、阿頼耶識である」。
密教学者、宮坂宥勝「『暁の寺』には輪廻転生の思想が散りばめられている。唯識哲学によって輪廻転生の主体が阿頼耶識であると結論づけている。前5識(眼識、耳識鼻識、舌識、身識)、の奥に第6識意識、第7識末那識があり、さらにその奥に阿頼耶識がある
『唯識三十頌』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【興福寺】710年の平城遷都の際、誕生。藤原不比等(ふじわらのふひと)の追善のために721年に建立される。法相宗、思想は唯識思想の寺院。
【「弥勒如来」】現在兜率天に住まい、釈迦入滅後の56億7千万年後にこの世に下生する、未来の救世主である。弥勒は2〜3世紀頃のガンダーラ地域において既に信仰され、その後バーミヤンを含む中央アジア、中国・朝鮮半島へと広がり。弥勒信仰の源流とアジアへの広がりとは何か
【印相】【広隆寺『弥勒菩薩、半跏思惟像』622。右手中指と親指の印相は何を表すのか。中宮寺『弥勒菩薩、半跏思惟像』。「興福寺北円堂、弥勒如来坐像」1212、右手は来迎印を表す。アヤソフィア寺院『デイシス(請願図)』(1260年頃)右手と親指印相、レオナルド『サルヴァトーレ・ムンディ』1500右手薬指と親指の印相は、何を表すのか。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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唯識派の思想
【識體の転変、第八識】識は転変する(転識得智)。前五識は、五感(眼、耳、鼻、舌、身)による感覚作用であり、成所作智、不空成就如来の智恵になる。第8識、阿頼耶識(大円鏡智)【種子薫習】阿頼耶識に薫じられて迷界を顕現する種子は3つある。名言種子、我執種子、有支種子
【瑜伽行唯識学派、世親】「唯識三十頌」「唯識二十論」。「唯識三十頌」では八識説を唱え、種子は前五識から6識・意識、7識・末那識を通過して、8識・阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識である種子生現行。阿頼耶識縁起
【唯識という学派名】は、一切は心から現れるもの(識)のみであるという主張による。すでに最古の経典にその萌芽を見いだすことができる。『ダンマパダ』は「ものごとみな 心を先とし 心を主とし 心より成る」(藤田宏達訳)という句で始まる。
【唯識派の特徴は、心とは何かを問い、その構造を追究した点】にある。この派は、瞑想(瑜伽すなわちヨーガ)を重んじ、その中で心の本質を追究した。そのため瑜伽行派ともいわれる。
【アビダルマ哲学】によれば、われわれの存在は刹那毎に生滅をくりかえす心の連続(心相続)である。唯識派は心相続の背後にはたらくアラヤ識(阿頼耶識)を立てた。)服部正明・上山春平『認識と超越<唯識>』(「仏教の思想」第 4巻、角川書店、1970年)
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■薫習、種子薫習
阿頼耶識に薫ぜられて迷界を顕現する種子について三種の薫習が説かれている。*無着『摂大乗論』。第一、名言種子。第二、我執種子。第三、有支種子。
「薫習の義とは、衣服に香なし、もし人、香をもって熏習するに、すなわち香気あるが如し」*『大乗起信論』
仏教の根本問題は、無我説と輪廻転生の矛盾である。無我説と輪廻転生の矛盾をいかに解決するのか。輪廻生死の主体は、阿頼耶識である。
空海【五智如来】大日如来を中心に、阿閦・宝生・無量寿(阿弥陀)・不空成就(釈迦)が東西南北囲む配。大日如来:法界体性智(大日如来の絶対的な知恵)阿摩羅識=第9識。阿閦如来:大円鏡智:阿頼耶識=第8識。宝生如来:平等性智:末那識=第7識。
■参考文献
無我説と輪廻転生、仏教の根本的矛盾・・・識體の転変、種子薫習。名言種子、我執種子、有支種子
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、仏陀への旅
転識得智、種子薫習
空海『即身成仏義』、大日如来の知恵 五智如来の知恵
空海の旅 旅する思想家、美への旅
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
【質疑応答】島薗進×大久保正雄『死生学』
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【空(śūnya)、龍樹、中観派】龍樹はあらゆる存在(一切法)は、縁起によって成立しており「独立した不変の実体」(=自性)はもたない(無自性空)とする見方に立つ。すべてのダルマは存在するとする説一切有部と普遍の存在を主張するヴァイシェーシカ派を批判。
【説一切有部】上座部より分かれた。部派の祖はカタヤーヤニプトラ。自我は非実在、構成諸要素(諸法)は実在と見て、全宇宙を五つの範疇と75の構成要素(五位七十五法)に分ける整然たる体系をつくり上げた。《大毘婆沙論》《発智論》などが代表的著作、《倶舎論》が概説書
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運慶(生年不詳 1150- 貞応2年12月11日(1224年1月3日)73歳)「無著、世親」「四天王」1212に至る軌跡。運慶作は31点、山本勉氏。
【「無著、世親」1212】運慶の晩年に制作された興福寺北円堂諸像の中の二体。運慶の指導の下、無著は六男の運助、世親は五男の運賀が担当した。無著像は老人の顔で右下を見、世親像は壮年の顔で左を向き遠くを見る。天平彫刻の写実、弘仁彫刻の繊細が融合。運慶『無着像』は西行がモデル。
【運慶による東寺講堂仏像の修復1192-97】1192年(建久3年)に後白河法皇が崩御すると、頼朝は法皇の追善のために、文覚に東寺再興を継続させた。そして、文覚の依頼を受けた運慶が諸像の修復に着手。1197年(建久8年)までには、講堂の仏像が整えられ、鎮守八幡宮が再建された。南大門の金剛力士像は運慶作だった。源頼朝の死後は文覚も失脚し、修造は中断されたが、【1233年(天福元年)、運慶の子康勝】によって弘法大師坐像が制作される(御影堂に安置)。
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参考文献
「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」1・・・弥勒如来、無著、世親、唯識思想の寺院
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/09/post-3e4680.html
「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」2・・・無著、世親、唯識派の思想、唯識派と中観派の矛盾
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/09/post-11ad71.html

2025年9月25日 (木)

「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」1・・・弥勒如来、無著、世親、唯識思想の寺院

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第406回
運慶(生年不詳 1150- 貞応2年12月11日(1224年1月3日)73歳)運慶はどこで、雄渾な弘仁彫刻のモデルを学んだのか。
円城寺《大日如来坐像》、運慶作、平安時代・安元2年(1176)、円成寺蔵、光得寺《大日如来坐像》、鎌倉時代 建久4(1193)年から、「無著、世親」「四天王」1212に至る軌跡。
唯識派、世親「唯識三十頌」では八識説を唱える。
【識體の転変、第八識】識は転変する(転識得智)。前五識は、五感(眼、耳、鼻、舌、身)による感覚作用であり、成所作智、不空成就如来の智恵になる。第8識、阿頼耶識(大円鏡智)【種子薫習】阿頼耶識に薫じられて迷界を顕現する種子は3つある。名言種子、我執種子、有支種子。
【運慶の作品、最も美しいのは何か】
円城寺《大日如来坐像》、運慶作、平安時代・安元2年(1176)、円成寺蔵
光得寺《大日如来坐像》、鎌倉時代 建久4(1193)年か 
興福寺、国宝、弥勒如来、無著、世親、四天王像、持国天、増長天、広目天、多聞天、興福寺、北円堂。建暦2年(1212)頃、興福寺蔵
重要文化財 仏頭、運慶作、鎌倉時代・文治2年(1186)、興福寺蔵
国宝 運慶願経(法華経巻第八)、平安時代・寿永2年(1183)
国宝 毘沙門天立像、運慶作、鎌倉時代・文治2年(1186)、静岡・願成就院蔵
国宝 八大童子立像のうち恵光童子・制多伽童子、運慶作、鎌倉時代・建久8年(1197)頃、和歌山・金剛峯寺蔵
重要文化財 阿弥陀如来坐像および両脇侍立像、重要文化財 不動明王立像、重要文化財 毘沙門天立像、運慶作、鎌倉時代・文治5年(1189)、神奈川・浄楽寺蔵
国宝 無著菩薩立像・世親菩薩立像、運慶作、鎌倉時代・建暦2年(1212)頃、興福寺蔵
重要文化財 聖観音菩薩立像、運慶・湛慶作、鎌倉時代・正治3年(1201)頃、愛知・瀧山寺蔵
重要文化財 十二神将立像、京都・浄瑠璃寺伝来、鎌倉時代・13世紀
「運慶」 ・・・魂の深淵
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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運慶(生年不詳 1150- 貞応2年12月11日(1224年1月3日)73歳)「無著、世親」「四天王」1212に至る軌跡。運慶作は31点、山本勉氏。
【「無著、世親」1212】運慶の晩年に制作された興福寺北円堂諸像の中の二体。運慶の指導の下、無著は六男の運助、世親は五男の運賀が担当した。無著像は老人の顔で右下を見、世親像は壮年の顔で左を向き遠くを見る。天平彫刻の写実、弘仁彫刻の繊細が融合。運慶『無着像』は西行がモデル。
【運慶による東寺講堂仏像の修復1192-97】1192年(建久3年)に後白河法皇が崩御すると、頼朝は法皇の追善のために、文覚に東寺再興を継続させた。そして、文覚の依頼を受けた運慶が諸像の修復に着手。1197年(建久8年)までには、講堂の仏像が整えられ、鎮守八幡宮が再建された。南大門の金剛力士像は運慶作だった。源頼朝の死後は文覚も失脚し、修造は中断されたが、【1233年(天福元年)、運慶の子康勝】によって弘法大師坐像が制作される(御影堂に安置)。
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【院派、円派、慶派】平安後期、平等院鳳凰堂の国宝「阿弥陀如来坐像」仏師・定朝が活躍する。定朝の優雅で穏やかな様式は平安の貴族たちに愛され、「定朝様」と呼ばれる一大流派が形成。定朝様の流派は京都の「院派」「円派」、奈良・興福寺を拠点とする「慶派」にわかれる。貴族との結びつきが深い京都の仏師に比べると、奈良の慶派は劣勢。慶派の仏師たちは主に仏像の修理など地味な仕事を請け負った。
経験は慶派にとって大きな財産となる。院派・円派が貴族の好みに合わせ像ばかりをつくっていた頃、慶派の仏師たちは仏像の修理を通して、定朝以前に作られた
【天平初期】東寺仏像がもつ写実的で力強い作風に触れ、研究する。慶派から天才の名を欲しい儘にするひとりの仏師が登場する。運慶は世の中にあふれていた優美な仏像ではなく、肉感的で躍動感のある仏像を制作。現在も各地に運慶作と伝わる仏像が残されているが、真作と認められている作品は31点。山本勉氏。
資料や銘記などから運慶作と確実視されているものでは、奈良・円成寺「大日如来坐像(国宝)」、奈良・東大寺南大門「金剛力士立像(国宝)」、そして奈良・興福寺「北円堂諸仏(国宝)」が知られている。
――
【興福寺の北円堂】鎌倉時代を代表する仏師・運慶の仏像が安置される空間をそのまま伝える貴重な例。本尊の弥勒如来坐像、両脇に控える無著(むじゃく) ・世親(せしん)菩薩立像は、運慶晩年の傑作として広く知られている。弥勒如来坐像、無著・世親菩薩立像と、かつて北円堂に安置されていたとされる四天王立像の合計7軀の国宝仏を一堂に展示し、鎌倉復興当時の北円堂内陣の再現の試み。
開催趣旨について
【興福寺】710年の平城遷都の際、現在の地に誕生、1300年の時を重ねています。境内の北西に位置する北円堂は、創建者である 藤原不比等(ふじわらのふひと)の追善のために721年に建立されるも、1049年の火災、1180年の平氏による南都焼き討ちで二度にわたって焼失してしまいます。復興には長い年月が費やされ、1210年頃に堂が完成、造像は氏長者 近衛家実(このえいえざね)の命により運慶一門が手がけ、1212年頃には北円堂諸仏が再興された。
左から、世親菩薩立像、弥勒如来坐像、無著菩薩立像 すべて国宝 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212)頃 奈良・興福寺蔵
【堂内に安置する仏像】創建時にならい、弥勒如来をはじめとする9軀とされました。弥勒三尊像の両脇には、北インドで活躍し、法相宗の根幹となる唯識思想を確立した無著・世親兄弟の像が控える。今に伝わる弥勒如来像、無著・世親像の3軀は、力強さや写実性を持ち合わせつつ、静かな落ち着きに包まれており、ここに運慶が晩年に到達した境地を見ることができる。
――
展示作品の一部
国宝 世親菩薩立像(部分) 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212)頃 奈良・興福寺蔵
国宝 無著菩薩立像(部分) 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212)頃 奈良・興福寺蔵
国宝 弥勒如来坐像(部分) 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212)頃 奈良・興福寺
このときの北円堂の四天王像は長い間失われたものとされてきましたが、現在中金堂に安置されている四天王像がこれにあたるという説が近年支持を集めている。賑やかな装飾、激しい表情の四天王像は、弥勒如来像、無著・世親 像とは雰囲気を異にするが、天平彫刻を基調としたその優れた造形から運慶一門の作と考えられている。
【国宝 四天王像(中金堂)】鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺蔵、左上:広目天、右上:増長天、左下:持国天、右下:多聞天
【興福寺北円堂について】
藤原不比等の一周忌にあたる721年8月に元明・元正天皇が、長屋王に命じて建てさせた。興福寺伽藍の中では西隅に位置しているが、ここは平城京を一望の下に見渡すことのできる一等地で、平城京造営の推進者であった不比等の霊を慰める最良の場所である。1180年の被災後、1210年頃に再建された。現存する興福寺の堂宇の中で最古の建物で、国宝に指定されている。
【国宝 興福寺北円堂 外観】八角形の円堂で、内陣には同じ八角形の須弥壇があり、本尊・弥勒如来坐像をはじめとする9軀の仏像が安置されている。奈良時代の建築の特徴を残した和様建築の傑作として知られており、日本に現存する八角円堂で最も優美な建築と賞賛される 。
国宝 興福寺北円堂 堂内
興福寺北円堂は通常非公開だが、弥勒如来坐像の修理完成を記念し、約60年ぶりの寺外公開となった。
※すべての掲載画像について、撮影:佐々木香輔
――
参考文献
「運慶」 東京国立博物館・・・魂の深淵
http://bit.ly/2xK3Hlr
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」・・・空海、理念と象徴
https://bit.ly/3fyOaYF
「密教彫刻の世界」東京国立博物館・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
https://bit.ly/2WNIoNt
帝釈天騎象像、七頭の獅子に坐る大日如来・・・守護精霊は降臨する
https://bit.ly/34JOIb2 
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-d241f1.html
「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」1・・・弥勒如来、無著、世親、唯識思想の寺院
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/09/post-3e4680.html
運慶の旅、金剛界、大日如来・・・東寺講堂、円城寺、光得寺、彼方へ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-f2daa5.html
――
東京国立博物館 本館特別5室(東京都台東区上野公園13-9)
2025年9月9日~11月30日
開館時間:9時30分~17時(入館は閉館30分前まで)
休館日:9月29日、10月6日、14日、20日、27日、11月4日、10日、17日、25日
観覧料:一般1,700(1,500)円/大学生900(700)円/高校生600(400)円 
東京国立博物館公式サイト
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2706

2025年8月27日 (水)

「没後50年 髙島野十郎展」・・・空海の密教思想への傾倒

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第404回

高島野十郎、田中一村、孤高の人は何を求めたのか。
水産学を究めることを嘱望されたが辞退。独学で念願の絵の道に入り、孤高の人生を歩き、85歳で、千葉にて死す。写実を追求した画家の謎。
【高島野十郎(1890-1975)】最も美しい作品は何か。
《蝋燭》大正期、福岡県立美術館蔵、《絡子をかけたる自画像》大正9(1920)年、福岡県立美術館蔵、《からすうり》昭和10(1935)年、福岡県立美術館蔵、《すいれんの池》昭和24(1949)年以降、福岡県立美術館蔵、《満月》昭和38(1963)年頃、東京大学医科学研究所蔵、《月》昭和37(1962)年、福岡県立美術館蔵
【高島野十郎】1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年)9月17日)本名は彌壽、字は光雄。東京帝国大学水産学科を首席卒業、恩賜の銀時計拝受を辞退。水産学を究めることを嘱望されたが辞退。独学で念願の絵の道に入り、画壇との付き合いを避け、独身を貫く。透徹した精神性でひたすら写実を追求、隠者のような孤高の人生を送った。貧困と孤独を極め、85歳で死す。生前はほぼ無名、1986年に福岡県立美術館が初の回顧展が開かれた。『傷を負った自画像』1916。
学生時代から親交がある川崎狭『過激なる隠遁 高島野十郎評伝』は「画家は本来の人生を生きるために人生を捨てたのである」と言う。自身の天職と生活の方法とが矛盾することは、公輝ある者の運命か。
参考文献
「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」・・・孤高の画家、人生の光芒、彼岸への旅

http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/09/post-236a16.html
「没後50年 髙島野十郎展」・・・空海の密教思想への傾倒
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-fc2837.html
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より

大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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青年時代からの空海の密教思想への傾倒を読み解き
髙島野十郎と密教思想を読み解いた人はいない。
空海の密教思想を読み解くためには、『秘密曼荼羅十住心論』(830)、『即身成仏義』819-820、【五智如来】を解明しなければならない。
【空海『聾瞽指帰』(797)】兎角公の屋敷で兎角公の甥蛭牙公子・放蕩青年を翻意、亀毛先生は儒教学問を学び立身出世することを教え、虚亡隠子は道教の不老長寿を教え、空海の化身である仮名乞児は仏教の諸行無常と慈悲を教える。空海が大学寮明経科退学、官僚の立身出世を諦めた理由。
【空海『秘密曼荼羅十住心論』(830) 】
淳和天皇の詔勅(天長6)による。日本には諸宗派があり、各の宗派がどのように違い、どのように優れているのか、論じるようにという詔勅である。空海は『大日経』の住心品を中心にして『十住心論』を書いた。
第九住心 極無自性心
 「水は自性なし、風に遇うてすなわち波たつ。法界は極にあらず、警を蒙って忽ちに進む。」華厳宗では四種法界を説く。その四種の一つが事法界、普通の物事がそのままあり。それが平等だというのが理法界。事と理が一緒になったのが事理無礙法界で、最後は事事無礙法界。
事法界、理法界、両者を止揚した、無自性・空界と現象が共存する理事無礙法界、事物が融通無碍に共存する事々無礙法界に到達する。毘盧遮那仏と一体になる融通無碍の境地。
『華厳経』の蓮華蔵世界である。
第十住心 秘密荘厳心
 「顕薬塵を払い、真言、庫を開く。秘宝忽ちに陳じて、万徳すなわち証す。」顕薬は塵を払うが、真言は秘密の宝の庫を開く。大日如来、真言密教の境地。秘密荘厳心では、智法身と理法身、知性(ノエーシス)と思惟対象(ノエーマ)、金剛界と胎藏界が一体融合して、
【空海『即身成仏義』819-820】六大無碍にして常に瑜伽なり(体)四種曼荼各離れず(相)三密加持すれば速疾に顕はる(用)重重帝網なるを即身と名づく(瑜伽)法然に薩般若を具足して、心数・心王、刹塵に過ぎたり、各五智・無際智を具す、円鏡力の故に実覚智なり(成仏)
【空海『秘蔵宝鑰』序830】
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に、死んで死の終わりに冥し」
悠々たり悠々たり太(はなは)だ悠々たり、内外の縑緗(けんしょう) 千万(せんまん)の軸(じく)あり。杳杳たり杳杳たり 甚だ杳杳たり。
空海【五智如来】
大日如来を中心に、阿閦・宝生・無量寿(阿弥陀)・不空成就(釈迦)が東西南北囲む配。大日如来:法界体性智(大日如来の絶対的な知恵)阿摩羅識=第9識。阿閦如来:大円鏡智:阿頼耶識=第8識。宝生如来:平等性智:末那識=第7識。
空海【五智如来】大日如来を中心に、阿閦・宝生・無量寿(阿弥陀)・不空成就(釈迦)が東西南北囲む配。大日如来:法界体性智(大日如来の絶対的な知恵)阿摩羅識=第9識。阿閦如来:大円鏡智:阿頼耶識=第8識。宝生如来:平等性智:末那識=第7識。無量寿如来:妙観察智(よく観察して見極める知恵)意識 第6識。不空成就如来:成所作智(すべきことを成就させる知恵)前5識(眼識、耳識鼻識、舌識、身識)、五感(眼、耳、鼻、舌、身)による感覚作用。
【瑜伽行唯識学派、世親】「唯識三十頌」「唯識二十論」。「唯識三十頌」では八識説を唱え、種子は前五識から6識・意識、7識・末那識を通過して、8識・阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識である種子生現行。阿頼耶識縁起
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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心に火を灯すロウソク。浄土へと導く月明かり。無名のまま世を去り、近年、人気が高まる #髙島野十郎 。「写実の極致は慈悲」謎めいた言葉を残し、唯一無二の写実を追求した画家の生涯に迫る。
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千葉県立美術館、没後50年 髙島野十郎展 プレスリリースより
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/exhibition/events/event-7689/
髙島野十郎(1890-1975)は、福岡県久留米市出身で主に東京で活動し、晩年千葉県柏市に移り住んだ洋画家で、「蝋燭(ろうそく) 」や「月」などの主題を、細部までこだわった筆致で描きました。没後50年の節目を機に開催する本展は、これまでに開催されてきた髙 島野十郎展を超える最大規模の回顧展です。代表作はもちろんのこと、 彼の芸術が形成されたルーツを遡り、生涯にわたって自身のよりどころとしてきた仏教的思想を読み解きつつ、青年期や滞欧期の作品など、従来の展覧会では大きく取り上げられることがなかった部分にもスポットを当てます。さらに、野十郎や関係者による書簡や日記、メモ等の資料をもとに、彼がひとりの人間としてどのように生き、 周囲とどのような関係を築いて絵かきとしての歩みを進めたかという部分にも注目し、野十郎の人間像にも改めて迫ります。野十郎は、71歳の時に当時まだ田畑が広がる静かな田園地帯であった柏市増尾に移り住み、晴耕雨読ならぬ晴耕雨描の生活を送りました。彼は訪ねてきた姪に「ここは俺のパラダイスだ」と語ったといいます。千葉の海もまた、絵の題材として彼の心を掴みました。野十郎終焉の地であり、月や海など彼を魅了した豊かな自然のある千葉 で、野十郎の絵画世界に思う存分浸っていただけるまたとない機会です。
千葉県立美術館、
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/exhibition/events/event-7689/
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没後50年 髙島野十郎展
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展示作品の一部
《空》昭和23(1948)年以降、個人蔵
《満月》昭和38(1963)年頃、東京大学医科学研究所蔵
みどころ①過去最大規模、初公開作品も含めた約150点を公開!
代表作の多くを含む過去最大規模で、初公開作品も含めた約150点を展示します。没後50年の節目に開催する本展は、過去に幾度となく開催されてきた髙島野十郎展を超える過去最大規模の回顧展です。野十郎の作品のほか、青木繁や坂本繁二郎など同時代の野十郎と関係深い作家の作品も展示します。
《ティーポットのある静物》昭和23(1948)年以降、福岡県立美術館蔵
みどころ②作品における仏教的思想や、青年期・滞欧期などの画業初期に注目
野十郎の芸術を象徴し、多くの方に人気を博している「蝋燭」や「月」の作品はもちろんのこと、彼の芸術が形成されたルーツを遡り、野十郎が生涯、自身のよりどころとしてきた空海の密教思想を読み解きつつ、青年期や滞欧期の作品など、従来の展覧会ではそれほど大きく取り上げられることがなかった部分にもスポットを当てます。
《からすうり》昭和10(1935)年、福岡県立美術館蔵
《月》昭和37(1962)年、福岡県立美術館蔵
みどころ③「孤高の画家」像を解体し、野十郎の素朴な人間像に迫る
福岡県立美術館が所蔵している書簡や日記、メモ等の関連資料を読み解き、関係者の証言を集めることで、彼がひとりの人間としてどのように生き、周囲とどのような関係を築き、絵かきとしての歩みを進めたかという部分にも注目し、野十郎の人間像にも改めて迫ります。
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展示構成
プロローグ 野十郎とは誰か
髙島野十郎の画業が世に初めて知られたのは、彼の死後約10年を経た昭和61(1986)年でした。以来、いくつかの展覧会や書籍で紹介されたとはいえ、多くの人の目に触れてきたわけではありません。そこでこの章では、髙島野十郎の人と作品についての全体像を概観します。
《絡子をかけたる自画像》大正9(1920)年、福岡県立美術館蔵
《ノートルダムとモンターニュ通Ⅱ》昭和7(1932)年頃、福岡県立美術館蔵
《蝋燭》大正期、福岡県立美術館蔵
第1章 時代とともに
青木繁や坂本繁二郎、古賀春江など、交流のあった作家や同時代の画風を共有した作家の作品も紹介しながら、野十郎が写実の画風を確立させていく道程を同時代の美術の中で捉え、従来の「孤高の画家」像を解体します。
第2章 人とともに
野十郎と、東京帝国大学からの友人や画家仲間、文化人、著名人との関係やエピソードを作品や資料で紹介し、彼の人間関係や人となり、人生観に迫ります。
《筑後川遠望》昭和24 (1949)年頃、福岡県立美術館蔵
第3章 風とともに
ヨーロッパ留学中の風景画や日本全国を旅して描いた四季の風景画を展示し、制作や構図の一貫性を提示するとともに、最新の調査結果を紹介します。
第4章 仏の心とともに
野十郎が生涯よりどころとしていた仏教に注目し、寺社仏閣をダイレクトに描いたもののほか、青年時代からの空海の密教思想への傾倒を読み解き、霊場巡りへの関心のなかで訪れた場所を描いた風景画、さらには一見すると普通の静物画や風景画に込められた仏教的な考え方を紹介します。
《割れた皿》昭和23(1948)年以降、福岡県立美術館蔵
エピローグ 野十郎とともに
本展全体を振り返りながら、もう一度野十郎の作品と世界観に浸っていただく章とします。展覧会を通して揺らぎ、あるいは膨らんだ野十郎像を、ふたたび見つめなおし、身近に野十郎を体感してみてはいかがでしょうか。
《秋陽》昭和42(1967)年、福岡県立美術館蔵
その他の主要な展示作品
《すいれんの池》昭和24(1949)年以降、福岡県立美術館蔵
《睡蓮》昭和50(1975)年、福岡県立美術館蔵
《こぶしとリンゴ》昭和41(1966)年頃、福岡県立美術館蔵
《さくらんぼ》昭和31(1956)年頃、福岡県立美術館蔵
《犬吠埼》昭和10年代、福岡県立美術館蔵
本展は、没後50周年を記念した過去最大規模の記念碑的な回顧展。初公開となる作品を含めて、約150点が披露されます。さらに書簡や日記、メモ等の関連資料を読み解き、特にこれまであまり焦点が当たってこなかった青年期や滞欧期など画業初期の活動もクローズアップ。従来の「孤高の画家」というイメージだけでは捉えきれない、画家の知られざる一面に光をあてた意欲的な展示内容。
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没後50年 髙島野十郎展
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/exhibition/events/event-7689/
千葉県立美術館 第1・2・3・8展示室(千葉市中央区中央港1-10-1)
2025年7月18日(金)~9月28日(日)
アクセス:JR京葉線または千葉都市モノレール「千葉みなと」駅から徒歩約10分

2025年8月20日 (水)

ツタンカーメンの生涯と謎・・・秘められた古代エジプトの宗教的意味

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第404回
ツタンカーメンの生涯と謎に、秘められた古代エジプトの宗教的意味を考える。
ツタンカーメンの生涯と謎
ネフェルティティの生涯と謎
アクエンアテン王の生涯と謎
ツタンカーメンの生涯は謎に満ちている。ツタンカーメンの心臓が発見されないのは何故か。大神官アイに暗殺されたのか。ネフェルティティの墓はどこにあるのか。アクエンアテン王の異形の容貌は、長頭族か、アマルナ革命はなぜ行ったのか。アテン神とは何か。
ネ第18王朝の王たちの苦難に満ちた人生は、自身の天職と運命とが矛盾する人間に知恵と神秘と力を与える。真言陀羅尼、呪文を唱え、運命を拓く。
ツタンカーメン(在位:紀元前1332〜1323年頃)は、8〜9歳で即位した若きファラオ。19歳で死す。彼の父であるアクエンアテン(アメンホテプⅣ世)は、唯一神アテン(太陽神)を崇拝する急進的な宗教改革を行い、従来の多神教信仰を廃止するという劇的な政策転換を行った。
しかしこの改革は民衆に受け入れられず、アクエンアテンの死後、幼いツタンカーメンは即位とともに伝統的な多神教を復活させた。彼は自身の名前は本来の「ツタンカーテン(アテンに生ける像)」から「ツタンカーメン(アメンに生ける像)」へと改め、かつての国家神アモン(アメン)をはじめとする神々の崇拝を復興させた。宗教的功績こそが、短い治世におけるツタンカーメンの最大の業績。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、ツタンカーメンの生涯と謎
【ツタンカーメン】Tutankhamen, King Tut, 紀元前1335 ? - 紀元前1327年頃)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(在位: 紀元前1336年頃 - 紀元前1327年頃。
【ツタンカーメンの墓の謎】
ツタンカーメンの墓は、ネフェルティティの墓がツタンカーメンの墓に転用された。彼が急死したため。【ツタンカーメンの死因】大神官アイ(宰相)による暗殺。戦車からの転落による骨折。諸説あり。
【ツタンカーメンの秘宝】5000点。黄金のマスク。黄金の三重の棺。アンケセナーメンとの休憩の図像の椅子。アヌビス神憎。黄金の厨子。アラバスター製カノポス容器。黄金の胸飾り。隕石の短剣。黄金の短剣。
【ツタンカーメンの心臓が発見されない】
カノポス容器に心臓が含まれていないのは重要な点である。古代エジプト人は心臓を魂の宿る場所と信じていたため、心臓だけは遺体の中に残された。ツタンカーメンの心臓は遺体の中からも発見されず。後述する「心臓の秤量」の審判で必要となるためでもあり。
カノポス・チェストを納めた精巧なカノポス・シュライン(厨子)。金箔で覆われた木製の廟堂の形をしており、台座にはスレッジ(橇)が付いています。屋根部分にはコブラと太陽円盤の装飾が施され、柱にはツタンカーメンの名前と称号を記す聖刻文字が刻まれています。
写真の手前に見える女神像はセルケトで、頭に持つサソリが女神の象徴です。セルケトをはじめとする4女神が四方でこの厨子を囲み、王の内臓が納められた石膏の箱を魔除けの力で守護していた。 他の副葬品も宗教的意味に満ちている。墓から発見されたシャブティ(ウシャブティ)像と呼ばれる小さな人形たちは、死後の王に代わって農作業などの労役を行う従者として作られました。ツタンカーメンの墓には100体以上のシャブティが納められており、彼らを魔法で“働かせる”ための呪文(「シャブティの呪文」)も用意されていました。
『エジプト死者の書』の第6章に相当するその呪文は、葬儀の際に唱えられるかミイラと共に埋葬され、冥界で像に命を吹き込むと信じられていたのです。その他、棺を守護する黒いジャッカルの姿をしたアヌビス神の像、魔除けや再生を象徴するスカラベ(聖甲虫)の護符、永遠の生命を表すアンク(生命の鍵)形の装飾品、日常生活に必要な家具・衣服・楽器・玩具までもが副葬品として納められていました。これらすべてが「現世同様の生活を来世でも送れるように」との願いと、数々の神々の加護を得てツタンカーメンが安らかに冥界を旅できるようにとの祈りを反映している。
【埋葬品に込められた象徴 — 副葬品とカノポス容器】
ツタンカーメンの墓からは5,000点を超える副葬品が出土した。それら一つ一つが、古代エジプト人の死後の世界への備えと信仰を物語っています。注目すべきは、ミイラと共に埋葬されたカノポス容器と呼ばれる内臓収納用の壺や箱です。ツタンカーメンの場合、石膏で装飾された大きな木製の厨子(カノポス・シュライン)の内部に、美しい石膏(アラバスター)製の四角い棺桶状の箱(カノポス・チェスト)が収められていた。
箱の中は四つの区画に仕切られ、それぞれに少年王の顔をかたどった小さな金の棺(ミニチュアのカノプス棺)が納められており、肝臓・肺・胃・腸の四つの内臓が保管されていた。
箱の蓋の上部にはコブラ(ウラエウス)の飾りがずらりと並び、箱の四隅と側面には女神イシス、ネフティス、ネイト、セルケトの4柱の女神像が腕を広げて立っている。彼女らはそれぞれ四方を守護し、内部の王の臓器を守る役割を担っている。
【黄金のマスク】ツタンカーメンの顔そのものを理想化して表現黄金製の覆面です。マスクにはネメス頭巾、その額にはコブラ(下エジプト女神ワジェト)とハゲワシ(上エジプト女神ネクベト)。王が上下二つの国を統べる存在であることと同時に、二柱の女神に守られている。
【黄金の中棺の蓋部分】木製棺に金箔やガラスが細工され、ファラオの顔が精巧に再現されている。瞳は黒曜石と水晶で象られ、生きているかのような表情。額には守護神であるコブラ(ウラエウス)とハゲワシの飾りあり、上下エジプトの統一王であることを示しています。胸元には青い石(ラピスラズリ)などで彩られた首飾りが描かれ、手に握る曲がり杖とムチが王の権威とオシリス神の再生力を表しています。黄金のマスクもこの中棺と同様の意匠で作られており、まるで生前の王が神々しい姿で眠っているかのような印象を与えます。
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2、ネフェルティティの生涯と謎
【ネフェルティティ】紀元前1370年-紀元前1330年BC1371-1331。15歳で、アメンホテプⅣ世と結婚。6人の娘を生む。2人は王妃となる。男子は生まず。彼女はツタンカーメンの義母となる
【ネフェルティティの謎】ネフェルティティの両親が誰かは不明。2つの説があり、1つは、後にファラオとなる大神官アイと、その妻テイ(Tey)のあいだの娘とする説、もう1つは、ミタンニ王女タドゥキパ(Tadukhipa)を彼女に比定する説。ネフェルティティの墓はどこにあるのか。
【ネフェルティティの記録の消失】在位12年(紀元前1338年)と推定される碑文が、彼女の娘メケトアテンについて言及する最後の記録である。この日付の後、少ししてメケタトンは死去した。アマルナの王家の谷にあるアクエンアテンの墓の浮き彫りは、彼女の葬儀の様を表している。アクエンアテンの在位14年(紀元前1336年)、ネフェルティティ自身に関する歴史的記述が一切消える。アクエンアテン王の死後、3年間統治する。女王にはならず、圧倒的影響力もつ。ネフェルティティ像、ベルリン博物館。アマルナ移転前。
紀元前1331年、40歳で死す。ネフェルティティの死はミステリー。名前、消され、墓、消滅。【ネフェルティティがネフェルネフェルウアテン(Neferneferuaten)の名で女性ファラオとなった】と主張「エイダン・ドドソン」だが3年で退位らしい。
【ネフェルティティ、子女】メリトアテン( ネフェルティティの長女)。スメンクカーラーの妃。メケトアテン(ネフェルティティの次女)。アンケセンパーテン (三女)。のちのアンケセナーメン、 ネフェルネフェルウアテン・タシェリト、 メリトアテン、 ネフェルネフェルウラー、 セテプエンラー、 メケトアテン【アンケセナーメン】ツタンカーメン王妃
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3、アクエンアテン王の生涯と謎
父はアメンホテプ3世、母は正妃ティイ。
【アクエンアテン王の謎】異形の容貌は、長頭族か、アマルナ様式の孤蝶表現か。アマルナ革命はなぜ行ったのか。アテン神とは何か。アメン神=ラーとはどう違うのか。
【アクエンアテン王のミイラと棺】王家の谷のKV55 、2010年、ザヒ・ハワスらの調査により、DNA鑑定でツタンカーメンのミイラと比較した結果、このミイラはほぼ間違いなくアクエンアテンであることが発表された。それと共に、母ティイとツタンカーメンの母のミイラ(共にアメンホテプ2世王墓(KV35)で発見)も身元が特定され、ツタンカーメンの母はアクエンアテンの同父同母の姉妹であることが明らかになった
【アメンホテプⅣ世=アクエンアテン王】紀元前1362年? - 紀元前1333年、29歳
【アマルナ革命】
治世5年目(前1367年ごろ)アテン神を崇敬。アク・エン・アテン(「アテン神に有益なる者」)に改名した。アマルナ(テル・エル・アマルナ)として知られる新都アケトアテン(「アテンの地平」の意)の建設開始。アマルナ様式。
在位7年(紀元前1343年)、王国の首都はテーベより、アケトアテンへと遷都された。新都の建設はなお進行中であり、更に2年を要して紀元前1341年頃に都市としての体裁を整えたと考えられる。
【アマルナ革命、失敗】
在位中はアメン神とその妻ムト女神の名前を神殿から削り取る、神像を破壊する等して迫害。他の神にも及んだ。アテン神に傾倒するあまり国民の支持を失い、またトトメス3世より維持してきたアジア植民地に注意を払わず、治世末期にはエジプトは大きく領土を減らした。アクエンアテン自身も後継者と定めたスメンクカーラーの死去後数年で亡くなり、
【アメン神への信仰復興】次王ツタンカーメン(トゥトアンクアメン)の治世ではアテン神信仰からアメン神への信仰復興が行われた
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参考文献
ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王
https://bit.ly/3usmqyp
ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」・・・絶世の美女ネフェルティティ王妃とアマルナ美術の謎
https://bit.ly/39mttQ1
ツタンカーメン、黄金の秘宝と少年王の真実・・・少年王の愛と苦悩
https://bit.ly/2zLyazA
クレオパトラとエジプトの王妃展・・・生と死の秘密、時の迷宮への旅
https://bit.ly/2Uve73e
石浦章一「ツタンカーメンの謎に新説!正体不明のミイラが彼の母親だった!?、「王家のDNA」解析からわかったこと
ラムセス大王・・・カデシュの戦い、平和条約。王妃ネフェルタリ、94歳で死す
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/07/post-fae6b5.html
ツタンカーメンの生涯と謎・・・秘められた古代エジプトの宗教的意味
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-207710.html

2025年8月11日 (月)

相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第403回
「老子」第45章。梅荘顕常、伊藤若冲、織田信長。
 若冲の才能をいち早く見出し、絵の世界へ導き若冲の名を与えたのが相国寺第113世住持の梅荘顕常である。梅荘顕常は若冲という号を与えた。
「大盈(大きく盈ちる)は冲(むな)しきが若く」大成は欠くるが若く、其の用は敝きず。大盈は冲(むな)しきが若く、其の用は窮(きわ)まらず。大直は屈するが若く、大巧は拙なきが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。燥は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静は天下の正たり。「老子」第45章。
大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章。
織田信長が、天正の元号を命名したのは、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章。
梅荘は若冲に中国絵画を模写する機会を与え、さらに「若冲」という画号を授けた。近世の相国寺の文化に殷賑を極める、独特の絵画表現を完成する。
「千年、具眼の士を待つ」「理解する士が現れるまで 千年のときを待つ」と言った伊藤若冲)。若冲と親交深く画家としての活動を支えたのが、詩僧として名を馳せた相国寺の僧、梅荘顕常、梅荘の弟子であった維名周奎(いめいしゅうけい)は若冲に画を学び、画僧として活躍した。若冲作品と同時に、その魅力を開花させた背景は何か。
伊藤若冲「乗興舟」「動植綵絵」を完成させた直後の明和4年(1767)春、親友である相国寺の禅僧・大典と共に京の伏見から大坂の天満橋まで川下りをした時の風景を描写した 長大な画巻。拓版画と呼ばれる、ネガフィルムのように白と黒が反転した技法。漆黒の空に記される白抜きの詩文と巻末の跋文は、大典の筆跡。若冲は下絵を制作した後、そこに記す文を大典に依頼した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、伊藤若冲「旭日鳳凰図」(1755)
「旭日鳳凰図」(1755)、原型はどこにあるのか。
伊藤若冲の鳥の目と顔は不気味。その原型はどこにあるのか。「旭日鳳凰図」(1755)から始まる鳥の探求。『動植綵絵』30幅 宝暦7年(1757年)頃?明和3年(1766年)頃、若冲41歳から、50歳に、不気味な鳥の目が描かれている。
『鳳凰石竹図』林良筆に原型がある。
『鳳凰石竹図』林良筆、明時代、16世紀
林良(りんりょう、15-16世紀、生没年不詳)は、精彩な着色の花鳥画を得意とし、鳥や樹石の水墨画では、力強く素早い筆致が「草書の如き」と評された。水墨による《鳳凰石竹図》では、鳳凰の尾羽や土坡にその草書的筆致が見られ、素早い筆致ながら精緻さをも保つ。羽を逆立てた首の表情は、まるで樹木の葉のようでもあり、その首自体の細さも相まって、異様な造形を成している。雪舟をはじめその後の日本画家に影響を与えた筆致や特異な造形表現には、伊藤若冲が描いた奇想の原点をみる。
『百鳥図』伝辺文進筆 中国・明時代 15世紀 鹿苑寺
壮大な吉祥図。中央に描かれている鳳凰は百鳥の王とされ、鳳凰が飛べば群鳥たち皆これに従うと言われてきた。金閣寺の屋根から相国寺文化圏の隆盛を長らく見守ってきたのも鳳凰である。花鳥画には、吉祥の意味が込められている。鳳凰は、中国の伝説上の鳥で百鳥の中の王とされ、その表情は愛らしく、手塚治虫の「火の鳥」を連想させる。
伊藤若冲「乗興舟」楽しかった大坂への旅「動植綵絵」を完成させた直後の明和4年(1767)春、親友である相国寺の禅僧・大典と共に京の伏見から大坂の天満橋まで川下りをした時の風景を描写した 長大な画巻。拓版画と呼ばれる、ネガフィルムのように白と黒が反転した技法。漆黒の空に記される白抜きの詩文と巻末の跋文は、大典の筆跡。若冲は下絵を制作した後、そこに記す文を大典に依頼した。
【伊藤若冲『動植綵絵』30幅 宝暦7年(1757年)頃∸明和3年(1766年)頃】
若冲41歳から、50歳まで10年間描く。
生誕300年、若冲展、東京都美術館・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
2、円山応挙『牡丹孔雀図』1771
円山応挙は、なぜ、『牡丹孔雀図』を描いたのか。
円山応挙『牡丹孔雀図』1771。牡丹は花の王、仏法を守る孔雀。孔雀明王神咒経、孔雀は毒を食う。三毒、貪瞋痴、むさぼること、いかること、愚痴、愚かなこと、毒を喰う、仏法を守る孔雀。【孔雀明王、快慶】金剛峰寺、正治二年(1200年)。
【孔雀明王像、快慶、正治二年(1200) 金剛峯寺】後鳥羽法皇の御願で1200年に造立。孔雀の背に乗る絵画的な姿を表現。孔雀明王は人間の天敵・コブラを食べその害から守ってくれるところから無病息災の信仰を集め明王ながら菩薩の尊顔で表現される。
【伊藤若冲と円山応挙は、同時代人】自身の天職と一家の方針とが矛盾する。
若冲と応挙の合作、『竹鶏・梅鯉図屛風』18世紀、個人蔵が、2024年発見された。
【伊藤若冲と円山応挙】江戸時代、階級社会の厳格な世で、封建制度の身分を捨て、絵師の道を選ぶことができたのは、なぜか。
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3、空海、宮沢賢治 自身の天職と一家の方針とが矛盾する
【空海の苦悩】父は佐伯直田公、母は阿刀家の阿古屋【大学寮入学】延暦10年(791)18歳で大学寮明経科に入学【大学寮中退】延暦11年(792)空海19歳。官僚の出世を諦め山林修行【19歳から31歳まで謎の12年】私度僧から遣唐使へ(797)二十四歳『聾瞽指帰』
【空海と阿刀大足】母方の阿刀[あと]氏は帰化系民族で、外舅[がいきゅう]の【阿刀大足】は桓武天皇の皇子、伊予親王の侍講として従五位にあたる。空海は十二歳から十五歳まで国学(大学の一種)大足に論語、孝経、史伝、文学などを学ぶ。
【最澄と空海】延暦23年(804)第16次遣唐使。遣唐使船の第二船に、38歳の還学生・最澄、第一船に、31歳の留学生20年の長期留学生の空海が乗船。最澄はエリート官僚、桓武天皇の官度僧、還学僧。雲泥の差、私度僧。空海、なぜ、留学僧に選ばれたか不明〈伯父の阿刀大足
【空海と不空】不空は、空海(774~835)の師、恵果の師、不空金剛(705~774)『理趣釈経』の著者。空海は不空金剛の生まれ変わりという伝説がある。不空訳『理趣釈』を最澄が借覧を願い出たが、空海は借覧拒否。「叡山ノ澄法師理趣釈経ヲ求ムルニ答スル書」814
【宮澤賢治、妹トシの苦悩】日本女子大卒業論文と一生の仕事について、妹トシ(21歳)は賢治(22歳)に相談した「理想を申し上ぐるならば兄上様ご自身の天職と一家の方針とが一致する事が何よりも望まれ候」『妹トシの手紙、大正7年11月24日』大正11年1922、11月27日午後8時半、肺結核で死去。宮澤賢治、昭和8年死去。
「妹トシから宮沢賢治への手紙は1通だけ存在する』『年表 作家読本 宮沢賢治』山内修、1989
1924(大正13)年『心象スケッチ 春と修羅』序より「春と修羅」、「無声同国」
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参考文献
相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』
生誕300年、若冲展・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
https://bit.ly/2FWbP7L
「円山応挙から近代京都画壇へ」・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺
https://bit.ly/2KEGwyj
禅-心とかたち、東京国立博物館・・・不立文字
https://bit.ly/3IVCj7B
「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人
https://bit.ly/2OAhnsz
妙心寺展・・・禅の空間 、近世障屏画の輝き
https://bit.ly/2OACxXq
相国寺展―金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・無の宗教と雪舟、若冲、円山応挙
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/04/post-57cb8d.html
相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-b12f39.html

2025年7月18日 (金)

ラムセス大王・・・カデシュの戦い、平和条約。王妃ネフェルタリ、94歳で死す

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第404回
ラムセス大王は、ツタンカーメン王の50年後、ラムセス大王の120年後はクレオパトラ。ラムセス2世は、27歳で王になり、67年間、君臨。100人から130人の子を産む。建築王、ラムセス2世のアブシンベル神殿には4体のラムセス2世像が刻まれている。
ヒッタイト王国と戦い、ミタンニ王国と交流し、67年間統治した、ラムセス2世の知恵と戦略はだれから学んだのか。
3300年の眠りから目覚める。封印を解かれしラムセス大王降臨 大王の息吹かな
【ラムセス2世】生涯に8人の正妃、及び多くの側室を娶り、100人以上の子をもうけた。67年間王位につく。第19王朝。ネフェルタリ、ラムセス2世の第一王妃、8人の妃の中で最も美貌、若くして死す。在位、前1279-1213年。治世62年目、92歳薨去。絶対権力者が手に入れられない4つの秘宝がある。ラムセス2世の第一王妃、8人の妃の中で最も美貌、若くして死す。
18歳出なくなったツタンカーメン王、29歳で亡くなったアクエンアテン王と比べても、ラムセス2世は幸福だっただろう。壮絶な人生を生きた小林一茶、修羅の人生、宮沢賢治は言うまでもない。
【エジプト大博物館GEM】Jaicaによる日本の支援は842億円である。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【ネフェルタリ、ラムセス2世王妃】
ラムセス2世【カデシュの戦い】紀元前1286年頃、エジプト新王国ラムセス2世と、ヒッタイト王ムワタリとの間で戦われた戦争。シリア・パレスチナの領有権をめぐり、オロンテス川近くにある交易の要衝で戦った。ヒッタイトは鉄製武器を用いることによって、世界史上に頭角を現した軍事国家。紀元前1275年頃、ラムセス2世はカデシュに軍を進め、シリア・パレスティナ覇権を争う。
ラムセス2世【人類最初の平和条約】ラムセス2世の治世第21年に、ヒッタイト王ハットゥシリ3世との間で、シリア・パレスティナとそこを通る交易ルートの支配権を分割保有することに同意する公式の平和条約が締結された。ラムセス2世の武勲とともにカルナック神殿、ラムセス2世の葬祭殿(ラムセウム)にヒエログリフで刻まれている。
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【エジプト文明史】先王国ナールメル、紀元前3000年クフ王、古王国(前2700~前2200年頃)第3ー8王朝メンフィス。第4王朝のファラオ(王)、クフ(在位紀元前2551~28年、中王国(前2100~前1700年頃)第11-12王朝テーベ。
新王国(前1600~前1100年頃)第18-20王朝、アメンホテプ4世29歳、ネフェルティティ40歳、ツタンカーメン王18歳、カデシュの戦い前1274年。ネフェルタリ死去前1255年、ラムセス2世92歳前1213年。
【偉大なる大王の死】アレクサンドロス3世、33歳。ダレイオス1世66歳。ダレイオス3世60歳。ラムセス2世92歳、子供100人。ハトシャプスト女王49歳。アクエンアテン王29歳。ネフェルティティ40歳。ツタンカーメン18歳。絶対権力者が手に入れられない4つの秘宝がある。
【太陽の船】クフ王「第1の船」。古王国時代第4王朝のファラオ(王)、クフ(在位紀元前2551~28年、石室があり、中には解体した状態の木造船が収蔵されていた。クフ王の跡を継いだとされるラージェデフ王のカルトゥーシュが石室内壁から発見、クフ王の葬送に関わる
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展示作品
レバノン杉製の「ラムセス2世の棺」、
ツタンカーメンからラムセス2世まで、ウラエウスが移動された。ネメス頭巾の額に、南北の女神の象徴、コブラとハゲワシがあったと推定される。
レバノン杉は、オシリス神話においてビブロスでオシリスの遺体を守った水とされる。王の肉体を冥界の王オシリスに変える不思議な力をもつ。腹部にラムセス2世を表すヒエログリフ。
【ファラオは死後、オシリス神になる】
オシリスとして描かれた王、両腕を胸の上で交差して組み、2本の王笏、左手に王笏(ネヘカ)支配者の象徴、右手に穀竿 (ネカカ)農耕の象徴、ネメス頭巾の額にコブラ、顎下に髭を蓄え、シュラウド(死装束)は足元まで伸びる。オシリス神、冥界の支配者であることを表している。ファラオの魂は、1年に1度黄金のマスクに、戻ってくる。ミタンニ王国から、黄金、宝石、隕石を輸入した。錆びない腐らない金と美。
棺の蓋に「ラムセス、アメンから愛されし者」「ラーのマアトは力強い。ラーに選ばれた者」というカルトゥーシュ(王名枠)が書かれている。ラムセス2世の遺体が3度、移送されたことが詳細に書かれている。ラムセス2世のミイラは、第20王朝末期、父セティ1世の墓に移され、第21王朝には司祭によってイアフヘテプ1世の墓へ、最終的にディル・エル・バハリに移された。
■展示作品の一部
【レバノン杉製の「ラムセス2世の棺」】エジプト博物館蔵
アメンエムオペの棺から出土した金箔が施された木製のマスク 第3中間期、第21王朝 エジプト博物館蔵
イタ王女の短剣 エジプト博物館蔵 画像、有村元春
雄羊の頭を配した器を捧げるスフィンクスとしてのラムセス2世像》新王国時代 第19王朝
シェションク2世の棺とカノポス棺、銀の棺(エジプト博物館)
シェションク2世のブレスレット 第22王朝 エジプト博物館蔵
シトハトホルイウネト王女の髪飾り、
ラムセス大王の指輪
プスセンネス1世の襟飾り 第21王朝、5千個の金の環 8㎏
ネフェルウフタハ王女の襟飾り
イアフメス1世の碑文が刻まれた水差し
エンジェバエンデドの黄金のマスク。
第12王朝の蓋つき化粧ポット
シトハトホルイウネト王女の鏡
「ラムセス大王展、プレスリリース」より
――
【オシリス・イシスの神話】
オシリス(冥界の王)イシス(豊穣の女神)セト(戦いの神)ネフティス(葬祭の女神)の四柱の長兄。オシリス・イシスと結婚しホルスを生む。
王としてこの世に君臨したオシリスは、世界で一番初めにミイラにされ、あの世(冥界)で死者の王となる。
【弟はなぜ、兄に反抗、殺害するのか】【オシリスが冥界の王になるまで】オシリスは、弟のセトが兄の支配に対し反発し、生きたまま棺に入れ、ナイル川に流す。妻のイシスが死体を探し出す。セトに奪われ更にバラバラにされて、エジプト全土に捨てられる。イシスとネフティス(妹でありセトの妻)の二人がかかりで探す。アヌビスも協力しミイラとして復活を果たす。復活後、イシスとの間にホルスが生まれる。地上はホルスに任せ、オシリスは冥界(アアル)の王となる。冥界において死者を裁くものとして君臨する。
【ホルス】太陽・天空の神・王の守護神、ハヤブサないし、ハヤブサの頭を持つ人間の姿で表される。妻はハトホル。父親を殺した叔父のセトと争いの末、上下エジプトの王となります。
ファラオはホルスの化身と考えられ、必ず〈生けるホルス〉の称号を持っています。
神話には大ホルスと小ホルスが存在するが、次第に小ホルスが大ホスルの役割を兼ねて優勢となりました。
大ホルス:太陽神ラーとハトホルの息子。太陽神ホルス 鷹神
小ホルス:オシリスとイシスの息子
【ハトホル】愛と美、幸福の女神、国王の保護者。世界を生み出した天の牝牛、妊婦を守る女神などたくさんの役割があります。牝牛ないし、牝牛の頭を持つ人間の姿で表されます。
人間で表される場合、角の間に太陽円盤を乗せ牝牛の耳を持っています。太陽神ラーを父に持ち、配偶神は父であるラー、アヌビス、小ホルスなど
ハトホルの「ホル」はホルスのことを意味しています。セトとホルスが戦った際に、ホルスの傷を癒したことから治癒の神でもあります。また、死者を冥界に導く役割も担っています。
【アヌビス】1)ミイラ作りの神 2)墓の守り神 3)オシリス以前の冥界を支配していた。犬やジャッカルの頭を持つ人間で表される。オシリスとネフティス(セトの妻)の子
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参考文献
ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王
ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」・・・絶世の美女ネフェルティティ王妃とアマルナ美術の謎
ツタンカーメン、黄金の秘宝と少年王の真実・・・少年王の愛と苦悩
クレオパトラとエジプトの王妃展・・・生と死の秘密、時の迷宮への旅
石浦章一「ツタンカーメンの謎に新説!正体不明のミイラが彼の母親だった!?、「王家のDNA」解析からわかったこと
ラムセス大王・・・カデシュの戦い、平和条約。王妃ネフェルタリ、94歳で死す
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/07/post-fae6b5.html
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ACN ラムセス大王展 ファラオたちの黄金
2025年3月8日(土)~9月7日(日)
会場:「ラムセス・ミュージアムat CREVIA BASE Tokyo」(東京都江東区豊洲6-4-25)
アクセス:ゆりかもめ「市場前」駅徒歩3分
エジプト政府公認の過去最大級のエジプト展2021年から世界巡回中の「ラムセス大王展」アジア初上陸。ラムセス2世は、ヒッタイトとのカデシュの戦い、王妃ネフェルタリ、アブ・シンベル神殿の建造で知られる「古代エジプト史上最も偉大な王」(ザヒ氏)
180点の目玉、半世紀ぶりにエジプト国外で公開される日本初公開、レバノン杉製の「ラムセス2世の棺」は必見である。

2025年6月20日 (金)

「江戸の名プロデューサー 蔦屋重三郎と浮世絵のキセキ」・・・浮世絵師の偉大と退廃

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第403回
【開館30周年】千葉市美術館は故今中宏氏の渓斎英泉コレクションを千葉市が購入したことをきっかけに1995年設立。開館後も浮世絵の祖・菱川師宣が房州出身ということを踏まえて、浮世絵の収集に重点が置かれてきた。開館30周年の記念展。国内有数といわれる浮世絵コレクションから選りすぐりの名品が150点並ぶ。「日本美術とあゆむ―若冲、蕭白から新版画まで」160点。
大河ドラマ、江戸の浮世絵を語るうえで欠かせない存在となった蔦重の仕事を、浮世絵史をたどりつつ千葉市美術館の珠玉の浮世絵コレクションから紹介する。
浮世絵の始祖菱川師宣から、多色摺錦絵を創始した鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、渓斎英泉、歌川広重などなど、浮世絵の教科書、近年発見された喜多川歌麿の肉筆画《祭りのあと》(個人蔵、アンリ・ヴェヴェール旧蔵)の特別公開。天明期に制作されたと考えられる初期の希少な肉筆画、墨一色でありながら情感あふれる描写に、名を馳せる歌麿の画力を感じる。
――
1、
【蔦屋重三郎が売り出した歌麿と写楽】
蔦重は安永(1772-81)から寛政(1789-1801)にかけて、多色摺の錦絵が大きな発展を遂げた時期に活躍した版元。喜多川歌麿を人気絵師へと育て上げ、東洲斎写楽を発掘した。
歌麿は女性の顔をクローズアップした【美人大首絵】で名をあげた絵師、吉原遊女だけでなく、太夫、街娼、貴婦人、茶屋の看板娘、家庭の婦女など、多彩な女性をモデルにした。
《当時三美人 富本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ》は、浅草随身門脇の水茶屋難波屋おきた、江戸両国薬研米沢町二丁目の煎餅屋高島長兵衛の娘高島おひさ、吉原玉村屋抱えの芸者で富本節の名取であった富本豊雛という、評判の美人3人を描いた作品。艶やかであり気品を感じさせる。
写楽は大首絵の技法を使った役者絵。彼は長い間、正体不明の【謎の絵師】と呼ばれてきたが、「写楽の正体は能役者の斎藤十郎兵衛」とする説がある。蔦重は写楽のデビューにあたって、新人としては異例の「28図を同時に刊行」大売出しを図った。第1期《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》など代表作が含まれる。第1期から第4期まで145点出版されたが、急速に人気を失う。10か月で消える。
【鳥居清長、天明のヴィーナス】大河べらぼうで歌麿が画風を真似して描いたのが絵師鳥居清長。代々芝居小屋の絵看板を手掛けた鳥居家の門人。この後「天明のヴィーナス」と称される、八頭身の伸びやかで健康的な女性像で美人画界をリード。
――
【蔦屋重三郎】この世の地獄、吉原花魁、女郎は、12歳で女郎禿に売られ、20歳で死亡、生きてこの世に戻れない地獄。吉原花魁を食い物にする「徳を失った」忘八、蔦屋重三郎は、吉原細見で版元に進出。雛形若菜、西村屋与平と共同出版するが、版権奪われる。俄芝居絵に、葛飾北斎を多用するが、売れず。西村屋与八や鶴屋喜右衛門など老舗の版元が犇めくなか、蔦屋は新興の版元として出版界に彗星のように現れる。
美人画で人気を博した喜多川歌麿(〜1806)を当代一の絵師として育て上げ、東洲斎写楽(生没年不詳)を発掘した。
【蔦屋重三郎、47歳で死す】蔦屋重三郎、寛政31791年、財産半分没収、42歳。寛政4、1792年、歌麿美人大首絵、43歳。1796年、脚気・心停止死。死因飲酒。
【喜多川歌麿、入牢、死亡1806年齢不詳】寛政の改革が死因。文化元年(1804)、出版関係者が相次いで処罰、歌麿も、入牢3日、手鎖五十日の受刑、歌麿の死因は受刑が原因。文化三年(1806)死す。年齢不詳。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
2、
【多色摺錦絵、発展期】
蔦屋重三郎。初めて出版を手がけた安永3年(1774)から、蔦屋が版元として活動したのは、安永(1772〜81)から寛政(1789〜1801)期、複数の色を重ねて摺る【多色摺の錦絵】が発展を遂げた時期と重なる。
【浮世絵の黄金期】安永の後の天明(1781〜89)から寛政(89〜1801)、「浮世絵の黄金期」。浮世絵の祖、房州(安房郡鋸南町保田)出身の菱川師宣(〜1694)に始まり、鈴木春信(〜1770)、喜多川歌麿(〜1806)、東洲斎写楽(生没年不詳)、葛飾北斎(1760-1849)、歌川広重(1797〜1858)、渓斎英泉(1791-1848)、鳥文斎英之(1756-1829)、歌川国芳(1798-1861)。寛政の改革、天保の改革で弾圧。
――
3、
【歌川広重(1797〜1858)と円山応挙】広重は火消同心、安藤家に生まれる。13歳で両親を亡くし広重は家計を助けるため、浮世絵師を志し歌川豊広に弟子入り、16歳で広重の画号。歌川派は美人画や役者絵を得意としたにもかかわらず、広重は円山応挙の影響を受けて写生を追求。独自に腕を磨く。広重が自信を持って世に出した風景画『東都名所』。評判は今一つ冴えず。原因は、同年、北斎『冨嶽三十六景』が発表されたからである。
【北斎と広重の対決、72歳と37歳】北斎『冨嶽三十六景』。72歳の老人北斎が描いた富士山は、35歳の広重から見ても斬新で革新的、衝撃を受ける。2年後、有名版元「保永堂」に依頼を受けて世に送り出す『東海道五拾三次』シリーズ。
【北斎と広重の対決、72歳と37歳】東海道の53宿場を取材し写生して描き上げた広重の風景画が大ウケ。『東海道五拾三次』に対して、北斎は『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』『富嶽百景』を発表して対抗する。花鳥画でも競合、北斎はテクニックを駆使し、広重は抒情的、感傷的な画風を追求。
【広重、安政の大地震】広重は、60歳になる前に隠居を決心したが、安政の大地震に遭う。江戸市中は火の海となる、7000人を超える死者を出した大災害。生家が火消同心の広重は落胆、江戸の町の無残な景色に心を痛める。還暦を機に髪を剃る。江戸の風景を絵に残すことを決意する。
【不朽の名作『名所江戸百景』、61歳で死す】広重は名所を鮮烈に表現するため、アイコンを大きく目前に配置する大胆な構図の手法を用い。中国、南宋の画法に学んだ手法。歌川広重「名所江戸百景 浅草金龍山」大判錦絵 安政3(1856)、歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」大判錦絵 安政4(1857)年、「名所江戸百景 亀戸梅屋鋪」安政4年(1857)年木版多色刷 大判錦絵、36.8×25.0cm。1858年、この作品の翌年、没す。61歳。
――
★★★★★★★★★★★★★★★★
4、
【葛飾北斎、美人画】北斎は、19歳で絵師となる。勝川春章の弟子、春朗、蔦屋重三郎の美人画を描くが売れず。寛政6年(1794年)、16年間に亘って所属した勝川派から離脱。寛政7年(1795年)から文化元年(1804年)頃までのおよそ9年間は宗理時代。琳派絵師となり宗理型美人を描く。『酔余美人図』氏家コレクション、1807北斎48歳。宗理型美人からバロック化。亀毛型美人。『合わせ鏡美人図』『立ち美人図』、縮緬のように痙攣する50代北斎美人画。葛飾北斎は、70歳代『富嶽三十六景』が大ヒット、『富嶽百景』
【葛飾北斎、苦節五十年】北斎は、勝川春章の弟子、春朗、19歳で絵師となるが売れず、苦節50年、72歳『富岳三十六景』『神奈川沖浪裏』(1831)まで苦境。北斎は、九十歳で死ぬまで絵を描きつづける。
【不屈の画狂老人卍】74歳にして画狂老人卍『鳳凰図屏風』(1835)、88歳『弘法大師修法図』、89歳『八方睨み鳳凰図』(1848)、90歳『富士越龍図』(1849)。90歳にして「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」「画工北斎は畸人なり。年九十にして居を移すこと九十三所。」飯島虚心『葛飾北斎伝』。
――
葛飾北斎(1760-1849)
【「酔余美人図」(1807)氏家コレクション】北斎、48歳の作品。古典主義はバロック化する。「酔余美人図」は、古典主義的な宗理型美人を超えてバロック的女性美。河野元昭饒舌館長の御説、画狂老人卍期、「鳳凰図屛風」ボストン美術館、以後は天衣無縫、暴走期である。
「「亀毛蛇足」印を用い始めるころから、新しい美人型の創出に挑戦するようになる。「亀毛蛇足」印使用時代の北斎美人図を、宗理型美人にならって亀毛型美人と呼んでみたい。この亀毛型美人は、宗理型美人が湛えていた古典主義的、あるいは浪漫主義的女性美を惜しげもなく捨て去って、19世女性美を誇示するようになる。バロック的女性美」河野元昭先生饒舌館長
【葛飾北斎、美人画】『酔余美人図』氏家コレクション、1807北斎48歳。宗理美人からバロック化、亀毛型美人(河野元昭先生饒舌館長)。『合わせ鏡美人図』『立ち美人図』縮緬のように痙攣する50代の北斎美人、個人蔵、筆魂展2021、葛飾北斎『夏の朝』江戸時代『傾城図』江戸時代後期19世紀前半、岡田美術館蔵。
――
展示作品の一部
喜多川歌麿《当時三美人富本豊ひな難波屋きた高しまひさ》寛政5年(1793)千葉市美術館蔵
喜多川歌麿『画本虫撰』天明8年(1788)千葉市美術館蔵
喜多川歌麿『潮干のつと』寛政元年(1789)頃千葉市美術館蔵
鈴木春信《(三十六歌仙)藤原仲文》明和4-5年(1767-68)頃(6/22まで展示)千葉市美術館蔵
葛飾北斎《冨嶽三十六景神奈川沖浪裏》天保2-4年(1831-33)頃千葉市美術館蔵
葛飾北斎『千絵の海 総州銚子』1833、千葉市美術館
北尾政演『吉原傾城新美人合自筆鏡』1784千葉市美術館
歌川広重《名所江戸百景亀戸天神境内》安政3年(1856)千葉市美術館蔵
曾我蕭白《獅子虎図屏風》宝暦(1751-64)頃千葉市美術館蔵
喜多川歌麿《朝顔を持つ美人画》《納涼美人図》、鳥文斎栄之《朝顔美人図》の3点が並ぶ展示

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参考文献
「江戸の名プロデューサー 蔦屋重三郎と浮世絵のキセキ」・・・浮世絵師の偉大と退廃
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/06/post-72fdeb.html
「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
「新・北斎展」森アーツセンターギャラリー・・・悪霊調伏する空海、『弘法大師修法図』
「The UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクション」・・・浮き世の遊宴と享楽と美女
「筆魂 線の引力・色の魔力─又兵衛から北斎・国芳まで─」・・・画狂老人卍『鳳凰図屏風』の思い出
「冨嶽三十六景への挑戦 北斎と広重」・・・冨嶽三十六景46図と広重「名所江戸百景」
「五大浮世絵師展 ―歌麿 写楽 北斎 広重 国芳―」・・・文化文政の浮世絵師、寛政の改革に死す
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/06/post-b61734.html
北斎年譜 ―永田生慈「葛飾北斎年譜」より
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【美術展情報】
『開館30周年記念江戸の名プロデューサー蔦屋重三郎と浮世絵のキセキ』千葉市美術館
開催期間:2025年5月30日(金)〜7月21日(月・祝)
所在地:千葉県千葉市中央区中央3-10-8
アクセス:JR線千葉駅東口から徒歩約15分。京成バス(バスのりば7)から大学病院行または南矢作行にて中央3丁目または大和橋下車徒歩約3分。千葉都市モノレール葭川(よしかわ)公園駅より徒歩5分
開館時間:10:00〜18:00 ※金・土曜日は20:00まで
※本展チケットで7階「日本美術とあゆむ―若冲、蕭白から新版画まで」、5階常設展示室「千葉市美術館コレクション選」も観覧可
『開館30周年記念江戸の名プロデューサー蔦屋重三郎と浮世絵のキセキ』千葉市美術館

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