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2021年12月 4日 (土)

イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜・・・水辺の風景、光あふれる田園、陽光の効果

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』261回

【水のある風景画の系譜】印象派に先駆ける人々、バルビゾン派のカミーユ・コロー「川沿いの町、ヴィル・ダヴレー」、レアリスム宣言したギュスターヴ・クールベ「海景色」、フランソワ・ドーヴィニー、海景画家ウジェーヌ・ブーダンは、印象派へとへと展開する先駆である。パリ近郊セーヌ川沿岸での生活風景、波の荒いノルマンディーの海岸の断崖、水面の反映、繊細な表情、鋭い観察眼で叙情的に描いた。
カミーユ・ピサロの描く、光あふれる田園、陽光の効果、日没は、黄金色の幸福な世界が垣間見える。ピサロはカリブ海セント・トーマス島に生まれ1903年パリにて73歳で死す。印象派はリアリズムの世界である。
印象派が追求するのは、見える世界である。印象派に対抗したのは、象徴派、幻想派、超現実主義、ギュスターヴ・モロー、オディロン・ルドンである。
第1回印象派展、1874年モネらによって開催された。第8回1886年まで、全回、参加したのはカミーユ・ピサロだけである。ドガは気難しく友人は少なかった。
モネ43歳、ジベルニーに庭を作り、隠棲。睡蓮、等、描き続ける。モネ「睡蓮:水の風景連作、48点」(1903年から1908年)。晩年のモネは、印象派を超えて、アンチリアリズムの世紀へ迷い込んだ。1907年、相対性理論、1913年プルースト「失われた時を求めて」。
画家は悲惨な人生と引き換えに傑作を生みだす。「この世界という広大な劇場は、我々が演じている場面よりもっと悲惨な見世物を見せてくれる」。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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【藝術家と運命との戦い】画家は、普通の幸せを手に入れるのは幻想である。天才たちでも不可能である。画家は悲惨な人生と引き換えに傑作を生みだす。富豪画家は、ルノワールのみであり、アリーヌと結婚後、世界的成功を収めた。リュウーマチの苦痛に苦しみ、薔薇色の女たちを描き、亡き妻の思い出に生きる。78歳で死す。クロード・モネは、1875年7月、カミーユは不治の病結核にかかり、32歳の若さで死ぬ、モネ39歳。カミーユの死後、人物は描かなかった。ジヴェルニーの庭に籠り、晩年の風景画を描く。「睡蓮」連作は生前、評価されず。ジヴェルニーにて86歳で死す。
ゴッホ、ゴーギャンは、破滅型。ゴッホは37歳で拳銃自殺。ゴーギャンは株式仲買人を辞めて画家になりブルターニュに行きアルルでゴッホと破綻、タヒチからブルターニュに帰り再びタヒチに行き54歳で死す。ジョルジュ・スーラは、早熟な天才、点描画法を生み出したが夭折、32歳で死す。秘密主義で死因も不明。マネ、セザンヌ、親が銀行家で金持ち、だが不幸だった。セザンヌは、妻オルタンスを従順なモデルとして肖像画に描き、67歳でプロヴァンスに死す。
「不幸せなのは我々だけではないようだ。この世界という広大な劇場は、我々が演じている場面よりもっと悲惨な見世物を見せてくれる」『お気に召すまま』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【ゴッホとゴーギャン、破局の物語】ゴーギャン「ひまわりを見ると、君を想い出す」タヒチにて。ゴッホ「君のために、椅子を買った」。1887年出会う。1888年アルルでぶつかり合い すれ違う、ゴッホはなぜ「ひまわり」を描いたのか。耳切事件、なぜ耳を切ったのか。ゴッホはハーグ派、バルビゾン派を経て印象派へ。「宗教は廃れ、神は残る」。1990年自殺。ゴーギャンは株式仲買人を辞めバルビゾン派からピサロの影響で印象派へ。ゴーギャンはテオの資金目当てでアルルへ行く、2ヶ月でゴッホと破局。ゴッホの弟テオは、ゴッホの死後、半年で死ぬ。作品は、テオの妻に託される。ヘレーネ・クレラーミュラーはテオの遺族から購入した。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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参考文献
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
https://bit.ly/2W3o6RF
ポーラ美術館コレクション展 甘美なるフランス ・・・印象派からエコール・ド・パリ
https://bit.ly/3B9SF7l
イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜・・・水辺の風景、光あふれる田園、陽光の効果
https://bit.ly/3lBauGS
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展示作品の一部
カミーユ・コロー「川沿いの町、ヴィル・ダヴレー」1856
ギュスターヴ・クールベ「海景色」1869
ウジェーヌ・ブーダン《港に近づくフリゲート艦》1894年
クロード・モネ《睡蓮の池》1907年
カミーユ・ピサロ《エラニーの日没》1890年
カミーユ・ピサロ《朝、陽光の効果、エラニー》1899年
レッサー・ユリィ《冬のベルリン》、《雨のポツダム広場》1920年代半ば
レッサー・ユリィ《風景》 1900年頃 油彩/カンヴァス 101.5 × 71.0 cm
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レッサー・ユリィ《夜のポツダム広場》
1920年代半ば、油彩/カンヴァス、79.6 x 100.0 cm、イスラエル博物館蔵 
Photo コピーライト The Israel Museum, Jerusalem by Avshalom Avital
レッサー・ユリィは旧プロセインのポーゼン(現ポーランドのポズナン)近郊の小さな村に生まれた。早くに父を失い、母と二人の兄弟と一緒にベルリンに出てきたのが11歳の時だった。1879年からデュッセルドルフのアカデミーで絵を学び、1887年にベルリンに戻るまでにブリュッセル、パリ、シュトゥットガルトなどの都市で研鑽を積んだ。パリではボナに師事した。美術史上はドイツ印象派として位置づけられているが、作風は時代によって変遷し、多様だ。
当時のドイツ画壇の巨匠、マックス・リーバーマン(1847~1935)の作品の光の効果は、実はユリィが描いたなどと発言したことで疎遠になり、評価の機会を逸したという。生活に困窮し、気難しい性格で「人間嫌い」と評され、私生活も恵まれなかったという。1922年、60歳になって開催した大規模な展覧会でようやくその名声は揺るぎないもになり、油彩のほか、パステル作品も人気を集めた。
1926年に発表された同作は数年後、ベルリンのユダヤ人団体の美術品コレクションに収蔵された。このコレクションをもとに1933年、ベルリンにユダヤ博物館が設立されるが、同年に成立したナチス・ドイツによる弾圧で、同博物館は1938年に閉鎖の憂き目に遭い、《夜のポツダム広場》も他の作品とともに没収された。そして終戦後の1945年、あのゲッベルスが総裁を務めた旧帝国文化院の地下室で再発見。やがてベルリンのユダヤ人返還継承組織を通じて、エルサレムの美術館に送られた。最終的に1965年に開館したイスラエル博物館に収蔵。@art_ex_japanより
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イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜ーモネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーガン
三菱一号館美術館、2021年10月15日(金)~2022年1月16日(日)
https://mimt.jp/
あべのハルカス美術館、2022年1月28日(金)~ 4月3日(日)

2021年11月30日 (火)

鈴木其一・夏秋渓流図屏風・・・樹林を流れる群青色の渓流、百合の花と蝉、桜の紅葉

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』260回

鈴木其一・夏秋渓流図屏風、群青色の水の流れ金色の線が衝撃的である。百合と紅葉、林と渓流が主役なのか。樹林を流れる群青色の渓流、百合の花と蝉、桜の紅葉、熊笹、樹木に張り付く苔。其一は何を描こうとしたのか。
『夏秋渓流図屏風』の誕生にかかわる先行絵画。円山応挙「保津川図」の渓流の水の流れは強烈である。山本素軒「花木渓流図」は樹林を流れる渓流の構図、渓流の群青は独創的である。鈴木其一は関西旅行して京都の寺院の絵画を研究した。『夏秋渓流図屏風』は40代半ばの最高傑作。師、酒井抱一をこの作で超えたのか。62歳で死す。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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円山応挙(1733年6月12-1795年8月31日)『保津川図屏風』(1795年)62歳で死す。
京都市中にある京友禅の老舗に代々受け継がれてきた絵画。天才絵師・円山応挙の絶筆。八曲一双の屏風絵『保津川図屏風』、高さおよそ1.5m、幅は各隻5mに迫る特大の屏風絵。右隻には水しぶきを浴びそうな迫真の激流、左隻は、ゆったりとした渓谷の風情。この大作を、応挙は亡くなる1カ月前に描き上げた。保津川上流にある丹波国の村の農家に生まれた応挙は、10代前半で京の都へとやって来た応挙は南蛮渡来の眼鏡絵と出会う。眼鏡絵とは西洋の透視図法で描かれた絵をレンズで見る。応挙は、写生を基に絵を描いた最初の絵師、1000人を超える弟子を抱えた。
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展示作品の一部
鈴木其一・夏秋渓流図屏風19世紀
圓山應舉「保津川図」1795、18世紀(千總)
山本素軒「花木渓流図」17-18世紀、生年不詳、没年1706 師匠、山本素程、狩野派。
其一の関西旅行の記録『癸巳西遊日記』(鈴木其一原本、鈴木守一写)19世紀
酒井抱一「夏秋草図」(東京国立博物館)
酒井抱一『青楓朱楓図屏風』
《檜蔭鳴蝉図》谷文晁筆 日本・江戸時代 19世紀 公益財団法人阪急文化財団 逸翁美術館蔵
参考文献
「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」東京都美術館・・・世に背を向け道を探求する、孤高の藝術家
https://bit.ly/2BUy4rl
「円山応挙から近代京都画壇へ」藝大美術館・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺
https://bit.ly/2KEGwyj
鈴木其一・夏秋渓流図屏風・・・樹林を流れる群青色の渓流、百合の花と蝉、桜の紅葉
https://bit.ly/2ZCzN3x
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佐藤 康宏
「鈴木其一・夏秋渓流図」(根津美術館)は、この1双の屛風絵を中心に据えて、現代人も驚かす強烈なイメージが、どのようなイメージの脈絡の上に生まれたのかを探ろうとする特別展です。
 狩野常信をはじめとする檜を描いた先行作例とか、圓山應舉が屛風に渓流を描く「保津川図」(千總)、樹木と渓流を組み合わせる山本素軒の「花木渓流図」、其一の関西旅行の記録である『癸巳西遊日記』などが、動員されます。
 こういうソース探しの試みは本の挿図でやってもいいではないかと思われるかもしれませんが、「名作誕生」(東京国立博物館、2018年)でも実際の作品を並べてみるのは、新たな実感を伴うものではなかったでしょうか。どうぞ体験なさって下さい。
 ほかに其一作品もいろいろ出ています。「秋草・波に月図」の小屛風など、表裏の絵が互いに映り合う洒落た趣向です。少し展示替えがあり、酒井抱一「夏秋草図」(東京国立博物館)は、会期の終盤、12月7日-12月19日の間だけお出ましです。
 「夏秋渓流図」は鈴木其一(1796?-1858)の40代半ばの作と推定されるのですが、やはり彼の最高傑作ですね。その後は概してつまらなくなります。残念だなあと思いますが、自分自身も人様からそんなふうに見られているかもしれませんので、責めるのはやめましょう。11月5日 17:02
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鈴木其一(1796-1858)の筆になる「夏秋渓流図屏風」は、岩場を削る水流のある檜の林を確かな現実感をもって描いた画面に、異様な感覚を抱かせる描写が充満する作品です。
其一は、江戸の地で、一世紀前の京都で活躍した尾形光琳(1658-1716)を顕彰し、「江戸琳派」の祖となった酒井抱一(1761-1828)の高弟ですが、徹底した写実表現やシャープな造形感覚、ときに幻想的なイメージを加え、個性を発揮しました。
そんな其一の画業の中心にあるのが、最大の異色作にして代表作でもある「夏秋渓流図屏風」です。2020年に、其一の作品としては初めて、重要文化財に指定されました。
本展では、抱一の影響や光琳学習はもとより、円山応挙や谷文晁、古い時代の狩野派など琳派以外の画風の摂取、そしてそれらを、自然の実感も踏まえつつ統合する其一の制作態度を検証して、本作品誕生の秘密を探ります。
根津美術館
https://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/
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重要文化財指定記念特別展、鈴木其一・夏秋渓流図屏風
根津美術館、2021年11月3日[水・祝]-12月19日[日]

2021年11月18日 (木)

小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌・・・旅路の果て、戦争の果て、人生の果て

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』259回

秋聲は、旅路の果て、戦争の果て、人生の果てにどこに辿りついたのか。
砂漠の果ての「絲綢之路」、「薫風」は、岡倉天心の日本美術院、下村観山「小倉山」の風格がある、「愷陣」1930年には生きものへの愛が窺われる。「山中鹿之助三日月を排する之図」は秋聲自身の祈りであろうか。
小早川秋聲は、《國之楯》1944年により、従軍画家として再発見された(*)が、88年にわたる生涯で変貌を遂げた。卓越した技術で風景画、歴史画、人物画、多彩な領域に多彩な作品を残した。小早川秋聲は、好奇心旺盛で旅を愛し異国文化に憧れ、中国絵画を研究し中国とインド、エジプト、イタリアに憧れ、旅する画家である。
【戦争絵画の責任】戦争絵画のすべての責任を一人で負って日本を去った藤田嗣治、戦争責任を取らず天皇の地位と引き換えに沖縄を米軍に売った天皇、秋聲は、60歳で引退し下鴨の家で庭を眺めて暮らす。頑固一徹な老人と化した秋聲だが、孫に絵を描くことを教えた。
【人と運命との戦い】絶望と悲惨な人生を生きたアルルの印象派の画家、運命と対峙したルネサンスの画家、苦難の人生を生きた詩人李白、悲劇的人生を生きた思想家孔子、敵に暗殺されたメディチ家のプラトン・アカデミーの思想家たち。悲劇的な藝術家、思想家と比べれば、秋聲は幸福な人生を生きたと言える。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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小早川秋聲は88年の人生で5つの時代を生きた。≪愷陣≫1930年、凱旋した労を労い花に飾られた馬、生きものの苦しみを癒す心に感銘を受ける。天下和順『無量寿経』の教えが彼を導いた。
【鳥取光徳寺、京都時代】
1885年、鳥取県にある光徳寺の長男として生まれた秋聲は、9歳で京都・東本願寺の僧籍に入る。その後16歳で歴史画家の谷口香嶠に師事する。
【人生の選択】1909年、京都市立絵画専門学校に入学、退学
秋聲は、1909年、谷口香嶠が教授を務める京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学)に入学するが、すぐに退学、中国へ行き、約1年半、東洋美術を学ぶ。1915 年、師・香嶠を亡くした秋聲は、次いで写生の山元春挙の門下となり師事する。
【旅する画家】世界を旅する日本画家、憧れのインド、ヨーロッパ文化1920 -26年
1918~20 年に、北海道、山陰、紀州などを旅する。そして、1920 年末、中国に渡り、東洋美術の研究等に約 1 年を費やす。後、東南アジア、インド、エジプトを経て、1922 年春、ヨーロッパへ。イタリア、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、スイス、イギリスなど十数ヵ国を約 1 年かけて遊学。また、1926 年には日本美術を紹介する任を負い、北米大陸を 4 ヵ月間で横断。
【従軍画家】僧である陸軍騎兵少尉1937-44年
1937年10月、東本願寺より従軍慰問使として戦線に向かう。1943年6月秋聲は陸軍によりビルマに派遣される。《國之楯》1944年(1968年改作)を描く。陸軍に受け取り拒否される。60歳の時、終戦。
【下鴨神社、糺の森、自宅アトリエの庭】
秋聲は、従軍画家、藤田嗣治のように、画壇から遠ざかった。下鴨糺の森、自宅アトリエの庭で孫に絵を教えた。1974年2月6日、88歳で死す。
谷口香嶠亡きあとは、巨匠・山元春挙の門下となる。秋聲は、幼いころから絵を描くのが大好きで、おやつの代わりに半紙をもらっていた。元来の才に加え、歴史画の香嶠、写生を重んじる春挙の二人から鍛えられ、初期から高い技術を持つ作品が並びます。
――
同時代を生きた藤田 嗣治(1886年11月27日 - 1968年1月29日)は、従軍画家の時代、秋聲と出会いすれ違う。
藤田嗣治は、「乳白色」の裸婦像で一世風靡したが5人の妻と5つの時代を生きる。そして最晩年の教会へ。「1 とみ 真夏の恋で結ばれた、同い年の才媛、 2フェルナンド フランスへの同化を誘いざなった女性画家、3 ユキ 絶頂期をともにした“トロフィー・ワイフ”、4 マドレーヌ 中南米遊歴の果て、日本に散った薄幸のミューズ、5 君代 花も嵐も踏み越えて添い遂げた、最後の妻」*。
【戦争画家として非難】藤田 嗣治は、戦後、国民を死に煽る戦争画家として責任を追及され、NYへ、パリへ逃れる。藤田嗣治「アッツ島玉砕」1943
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展示作品の一部
「國之楯」1944年(1968年改作)、京都霊山護国神社(日南町美術館寄託)
天覧に供するために陸軍省の依頼で描かれたと伝わるが、完成作は陸軍省に受取を拒まれた。絵の裏にはチョークで「返却」と記されている。
「愷陣」 1930年 個人蔵
凱旋して帰ってきた馬を牡丹の花で飾って、慰める。
「薫風」 1924年 個人蔵
「長崎へ航く」 1931年 個人蔵
「絲綢之路」大正期 鳥取県立美術館
「譽之的」 那須与一、大正期 
「山中鹿之助三日月を排する之図」1902 10代後半の作
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★参考文献
「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」求龍堂2021
「没後50年 藤田嗣治展」東京都美術館・・・乳白色の肌、苦難の道を歩いた画家
https://bit.ly/2vkauRs
画家たちの戦争『芸術新潮』1995年8月号
藤田嗣治と5人の妻おんなたち『芸術新潮』2018年8月号
小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌・・・旅路の果て、戦争の果て、人生の果て
https://bit.ly/3HvP8nu
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小早川秋聲[こばやかわしゅうせい 本名・盈麿(みつまろ)1885-1974]は、大正から昭和にかけて、京都を中心に活躍した日本画家です。鳥取の光徳寺住職の長男として生まれた秋聲は、9歳で京都の東本願寺の衆徒として僧籍に入りました。その後、画家になることを志し、日本画家の谷口香嶠(こうきょう)や山元春挙(しゅんきょ)に師事、文展や帝展を中心に入選を重ね、画技を磨きます。また、旅を好んだ秋聲は、北海道、山陰、紀州など日本各地を絵に描き、国外では複数回の中国渡航に加え、1922年から23年にかけてアジア、インド、エジプトを経てヨーロッパ十数ヵ国へ遊学。1926年には北米大陸を横断し、日本美術の紹介にも努めました。やがて、従軍画家として戦地に何度も赴くようになり、数多く描いた戦争画のなかでも代表作に挙げられる《國之楯(くにのたて)》は深く印象に残る1点です。本展は、初期の歴史画から、初公開の戦争画、晩年の仏画まで、百余点で小早川秋聲の画業を見渡す初めての大規模な回顧展となります。
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202110_kobayakawa.html
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小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌
東京ステーションギャラリー
2021年10月9日(土) - 11月28日(日)
京都文化博物館
2021年8月7日(土)~9月26日(日)
東京都
2021年10月9日(土)~11月28日(日)
東京ステーションギャラリー
鳥取県立博物館
2022年2月11日(金)~3月21日(月)

2021年11月12日 (金)

絶世の美女、徳姫、織田信長と徳川家康、愛と復讐

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』258回

美と復讐の精神史、第4巻
絶世の美女は、運命に翻弄され運命と戦い、波瀾の人生の果てに、何を観るのか。絶世の美女は、知性と美をもって、時間と空間と社会と富と戦い、前人未到の境地に辿りつく。
北方に佳人あり、絶世にして独立。一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の國を傾く。
美しい者は、美しさゆえに、戦いと苦悩がある。智慧ある者、美しい魂をもつ者は、美しいがゆえに、天人の苦悩、天人と鬼畜との戦いがある。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『美と復讐の精神史』
――
1、
【戦国の絶世の美女】織田信長、最愛の妻、生駒吉乃、永 禄9年5月13日(1566年5月31日)39歳で死す。信長の娘、徳姫。信長の妹、お市の方。お市の娘、浅井三姉妹、茶々、初、江。信長、第三の妻、興雲院。斎藤道三の娘、濃姫は、土岐頼純、土岐八郎頼香に嫁ぎ、天文18(1549)年、織田信長と政略結婚、生没年不詳。
――
2、
【織田信長:3人の遺児。絶世の美女、生駒吉乃の子】信忠(1557-82)26歳で非業の死。徳姫(1559-1636)は松平信康に嫁ぐ。76歳で死ぬ。織田信雄(1558-1630)は徳川家康とともに豊臣秀吉と戦う。信雄72歳で死す、信長の血を残す。
【絶世の美女、織田信長の最愛の妻、生駒吉乃。美人薄命39歳で死す】生駒屋敷、生駒家宗の娘、生駒吉乃(1527-1566)。織田信長の子を3人産む。嫡男、奇妙丸(信忠1557-82)、信雄、徳姫。吉乃は1566年、小牧山城にて39歳で死ぬ。信長は号泣した。
――
3、
【絶世の美女、五徳、徳姫、織田信長に十二箇条の手紙】松平信康の正室・徳姫が、実父である織田信長に送った十二箇条の手紙。夫である信康及び姑である築山殿との不仲を訴え、信康の不行状、築山殿が敵の武田家と内通、信康にも武田家への内通を勧誘していると糾弾。
【絶世の美女、徳姫、織田信長の長女】天正4(1576)年、徳姫18歳の時、夫信康との間に長女福子を産んだ。翌年には次女国子が誕生、幸せに暮らしていた。信康の母、築山殿は信康に「そなたの妻は女の子しかいない。早く男子をもうけなければ。そなたは国守になる身、側室をもつことが国のため」武田家臣の16歳の娘を信康に強引にひき合わせた。
【絶世の美女、徳姫、織田信長の長女】織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を、使者として信長の元に赴く重臣・酒井忠次に託した。築山殿は武田勝頼と内通
【絶世の美女、徳姫、信長の長女】信長は家康に信康の切腹を要求した。 家康は信康の処断を決断。8月29日、まず築山殿が二俣城(浜松市天竜区)への護送中に佐鳴湖の畔で、家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。9月15日、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じた。
――
4、
徳姫、織田信長、徳川家康、築山殿、武田勝頼
【絶世の美女、徳姫】「当代記」信長、家康に判断を任せると記載。【岡崎の信康家臣団と、浜松の家康家臣団との対立】が背景にある。築山殿は信長に討たれた今川義元のめい。夫の家康は信長と同盟を結び、今川を裏切る。夫婦仲も冷える。十四歳で家康の元を離れ、母親寄りの信康
5、
武田勝頼、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡。
6、
徳姫の弟、織田信雄(1558-1630)は徳川家康とともに小牧長久手の戦いで豊臣秀吉と戦う。大坂夏の陣で家康側につく。信雄72歳で死す。
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徳姫、関ヶ原の戦い、
【絶世の美女、徳姫、信長の長女】天正10年6月2日、本能寺の変、父信長、自刃。弟、信忠、自刃。独り、徳川家に残された徳姫。1600年、関ヶ原の戦い。1614年、大阪夏の陣。1615年、家康72歳で死す。1636年2月16日(寛永13年1月10日)76歳まで生きる。
8、
【織田信雄、清須会議、大坂夏の陣】
天正10年6月27日の清洲会議の結果、織田家の家督は信雄でも、3男信孝でもなく、長男信忠の遺児三法師(秀信)が継ぐことになり、信雄はその後見役として清洲城と尾張・伊賀・南伊勢100万石を与えられた。その後、豊臣秀吉と組んで信孝を岐阜城に破り、その後切腹に追いこんだ。やがて秀吉と対立、天正12年には,徳川家康と結び、小牧・長久手の戦で秀吉と戦う。このときは単独で秀吉と講和を結び、以後秀吉の越中攻め、小田原攻めに従軍。ところが小田原攻めののち、家康旧領への転封を拒んで、秀吉の怒りを買い、下野烏山に配流され,出家して常真と号した。家康のとりなしで秀吉の御咄衆となったが、一貫して家康サイドで動き、大坂夏の陣後、家康から大和国宇陀,上野国甘楽・多胡・碓氷郡のうちで5万石を与えられる。叔父の有楽斎(長益)に茶の湯を学び茶人として知られる。(小和田哲男)
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【「毒のある木」】私は私の敵に腹を立てた。私は黙っていた。私の怒りはつのった。そして私は それに恐怖の水をかけ 夜も昼も 私の涙をそそいだ。そして私は それを微笑の陽にあて、口あたりのよい欺瞞の肥料で育てた。ウィリアム・ブレイク「毒のある木」寿学文章訳
【毒のある木】その木は 日ごと夜ごと大きくなり ついに きらきら光る 林檎の実を結んだ。そして 私の敵は それが輝くのを見 それが私のだと知り 私の庭へ忍び込んだ 夜が 天空をすっかりおおいつくしたとき ウィリアム・ブレイク『無心の歌、有心の歌』「毒のある木」
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資料遍
【絶世の美女、徳姫、織田信長の長女】徳姫は夫の無謀さに落胆。鬼神のようなその残忍さには城下の農民たちも恐れていた。築山殿は家康に見放され、唐人医師と密通。医師を通じて武田勝頼(信玄の四男)に、自分自身のことや長男信康の先のことを任せる旨の企みを誓紙に取り交わしていた。誓紙のことを知った徳姫は、もろもろの事件を安土城の父信長に、十二カ条の手紙にしたためて伝えた。
手紙を呼んだ信長は、家康の重臣、酒井左衛門尉忠次を呼び寄せて、一条一条自ら読み上げた。「その通りです」と忠次が認めると、信長は即座に信康の切腹を家康に命じた。信康の父、家康は苦しい選択を迫られた。信長との同盟は欠くことができないこと。命令に背く恐さも肝に銘じている。家康は信康の処分を避けられなかった。また、すべての元凶となった築山殿の成敗も自ら決心し、実行した。家康は築山殿を浜松に呼び寄せ、佐鳴湖の湖畔で家臣に刺殺させた。その二週間後、信康は二俣城(浜松市)で自刃。20歳。
【絶世の美女、徳姫、織田信長の長女】
織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされる。 信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めた。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。 家康はやむをえず信康の処断を決断。8月29日、まず築山殿が二俣城(浜松市天竜区)への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。さらに9月15日、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じた。
【信康 なぜ自刃 家康と確執説】
戦国時代、若くして自害した悲劇の武将として知られる徳川家康の長男、信康(一五五九~七九年)。織田信長に謀反を疑われ、家康がやむなく命じたというのが通説だが、最近の研究ではむしろ、家康と信康の父子間対立が原因だったといわれている。
「当代記」には、信康、築山殿を殺害するよう命令があったわけではなく、家康に判断を任せるという異なる書き方になっている。
【岡崎の信康家臣団と、浜松の家康家臣団との対立】が背景にあった。
築山殿は信長に討たれた今川義元のめいに当たる。夫の家康は信長と同盟を結び、今川を裏切る形になり夫婦仲も冷え込んだ。十四歳ほどで家康のもとを離れ、同じ城で暮らし母親寄りとみられる信康が二十歳過ぎころから自立を図ろうとして、家臣団も対立する中、家康はわが子より自身の重臣とのつながりを重視した。https://www.chunichi.co.jp/article/45266
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【本能寺の変1582】織田信長の遺体は、信長とともに育った幻の弟、清玉上人が持ち去った。信長と信忠の遺体を阿弥陀寺にて焼き埋葬。『信長公阿弥陀寺由緒之記録』清玉上人は19歳から阿弥陀寺住職。秀吉は信長の葬儀を大徳寺で行う。清玉上人は変から3年後に亡くなる。
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信長の愛刀【義元左文字】桶狭間合戦(1560)の際に、織田信長が分捕った今川義元の愛刀。初め三好政長(法號宗三)の愛刀であつたが、其後武田信虎に傳はり、信虎より今川義元に譲られ、義元戦死の際織田信長之を得て、其の刀身を磨上げた。本能寺の変の時、流失した。
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★参考文献
絶世の美女、地中海奇譚、戦国奇譚・・・『美と復讐の精神史』第1巻
https://bit.ly/2zvn02e
絶世の美女、中国奇譚、地中海奇譚、運命と戦う美女・・・『美と復讐の精神史』第2巻
https://bit.ly/2VqAJkT
絶世の美女、憂愁の王妃、強欲な魔女、才色兼備の美女・・・ゾフィア・ドロテア、ガラ、クレオパトラ7世
https://bit.ly/3bA0oAw

絶世の美女、徳姫、織田信長と徳川家康、愛と復讐

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★「黄金の羅針盤」Golden Compass 2007
Jan MassysまたはMetsys Flora, 1559
Jan MassysまたはMetsys Venus of Cythera, 1561
Caravaggio Yudith 1599

2021年11月 3日 (水)

絶世の美女、憂愁の王妃、才色兼備の美女、強欲な魔女・・・ゾフィア・ドロテア、ガラ、クレオパトラ7世

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』257回、美と復讐の精神史、第3巻

【運命と戦う美女】絶世の美女は、運命に翻弄され、運命と戦い、知性と美を以って、逆境を超え、波瀾の人生の果てに、どこに到達するのか。絶世の美女は、時間と空間と社会と戦い、命運と戦い、未到の境地に辿りつく。
北方に佳人あり、絶世にして独立。一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の城を傾く。
美しい者は美しいゆえに、戦いと苦悩がある。智慧ある者は、美しい。智慧ある者、美しい魂をもつ者は、美しいゆえに、頂点に立つ者の苦悩がある。
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偉大な王は、何を手に入れたのか。価値ある生とは何か。人生の冒険に破れた詩人。人生の戦いに卓越した哲人、理念を追求する思想家。美しい心をもつ人は、輝く天の仕事をなし遂げる人。絶対権力者が手に入れられない4つの秘宝がある。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
大久保正雄『美と復讐の精神史』
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1
【絶世の美女、ゾフィア・ドロテア、幽閉の王妃】夫ジョージ1世(ハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィッヒ)に32年間、幽閉された。ゾフィア・ドロテアは孤独で無念の死を遂げる。(Sophie Dorothea von Braunschweig-Lüneburg, 1666年9月15日—1726年11月13日)
【絶世の美女、ゾフィア・ドロテア】怨みをもつジョージ1世の母から、虐待される。世継ぎの王子ジョージ2世を産むと、王は醜い愛妾に入り浸る。ゾフィア・ドロテアは、スエーデン貴族ケーニヒスマルク伯爵と愛し合う。伯爵は行方不明。飼い殺しの運命。息子もまた父を憎む。憎み合う父と子。
【イギリス王、ジョージ1世、ハノーヴァー朝開祖】54歳でイギリス王位につく。醜い二人の愛人をつれてドイツから移住。妻ゾフィア・ドロテアを32年間、幽閉。(ハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィッヒ(1660年5月28日—1727年6月11日)
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2
【絶世の美女、ゾフィア・ドロテア、フリードリヒ大王の母】
【フリードリヒ大王、父との確執 母ゾフィア・ドロテア】
フリードリヒ2世は1712年1月24日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィア・ドロテアの子として生まれた。父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は兵隊王とよばれる無骨者で芸術を解さない守銭奴。母ゾフィア・ドロテアは後のイギリス国王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世の娘で洗練された宮廷人。フランス宮廷文化に憧れ、教育方針も正反対の2人は対立。王子フリードリヒに大きな影響を与えた。父王はフリードリヒの教育係に「オペラや喜劇などのくだらぬ愉しみには絶対に近づかせぬこと」と言い渡し一切の芸術を禁じた。
【フリードリッヒ大王】フリードリッヒ2世。18歳で父王に要塞に幽閉された後、忍従の日々、苦節10年。1740年、父王は死に、弱小国を受け継ぐ。28歳。マリア・テレジアとオーストリア継承戦争、7年戦争を戦う。大王と呼ばれる。
【父を憎む子、子を憎む父】【フリードリッヒ大王】父王に殺されかけた王子、フリードリッヒ2世。哲学書を読み、オペラを聴き、フルートを吹く。父に蔵書を奪われ、一切の藝術を禁止され、食事を禁止、しばしば杖で殴られる。
【フリードリッヒ大王】父王に殺されかけた王子、フリードリッヒ2世。暴力、圧政の父に、18歳で政略結婚を強制され、国外逃亡。手引きした少尉は、皇子の身代わりに、王に処刑される。「あなたのためなら喜んで死にます」
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3
【ダリ『ロートレアモンのカマキリの人肉食』1934】交尾後、雌カマキリは雄を食らう。雌蟷螂のように、ガラはダリを裏切る。ダリに城を与えられたガラは、淫蕩の限りを尽くす。ダリ「テトゥアンの大会戦」1962には二人のガラが描かれている。シュルレアリスム(超現実主義)の画家ダリ(1904年5月11日-1989年1月23日)
【ダリとガラ、1934年に結婚】1929年夏、ガラ・エリュアールと出会う。ダリとガラは強く惹かれ合い、1934年に結婚した。ガラはダリを誕生させる。27歳の時、『記憶の固執』1931を描き、生涯の最高傑作となる。『柔らかい時計』『溶ける時計』とも呼ばれる。ガラが食べていたカマンベールチーズが溶けていく状態を見てインスピレーションを得た。だが後年、ガラはダリを裏切る。不実な妻ガラに変貌。ダリに城を与えられたガラは、淫蕩の限りを尽くす。
【ダリ『記憶の固執』】ダリのアトリエからみえるポルト・リガトの海と岩と柔らかい時計がある。27歳のある日の午後、溶けた時計が見えた。「私は二つの柔らかい時計を見た。そのうちひとつはオリーヴの木の枝に嘆かわしい姿でぶらさがっていた。」ダリ『わが秘められた生涯』
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4
【クレオパトラ7世、才色兼備の美女、傾国の美女、ローマ帝国】弟プトレマイオス13世、姉ベレニケ、妹アルシノエを攻略。王宮の官僚と対決。カエサルを誘惑、カエサルの子カエサリオン、プトレマイオス15世を産む。アントニウスと結婚、オクタヴィアヌスとアクティウムの海戦で戦い敗北。39歳で自決。毒蛇に胸を噛ませる
【クレオパトラ7世、才色兼備、エジプト最後の女王】プトレマイオス12世アウレテスの次女。玄宗皇帝の楊貴妃と比肩する傾国の美女。ギリシア系の才色兼備の王女、高い教養、魅力的な会話術、小鳥のような美しい声をもち、ギリシア語しか話さなかった王家で、エジプト語等を話した。プルタルコス『英雄伝』アントニウス伝
【クレオパトラ7世、才色兼備、姉妹の権力抗争】6人兄弟姉妹の権力抗争。クレオパトラ6世(姉)、ベレニケ4世(姉)、アルシノエ4世(妹)、プトレマイオス13世、プトレマイオス14世(弟)。プトレマイオス12世アウレテスの次女、Ptolemaios Auletes(在位前80—前51)紀元前69年—紀元前30年8月12日。アクティウムの海戦で敗れる。
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【マルグリット・ユルスナール『東方奇譚』「老絵師の行方」】老画家汪佛とその弟子玲は、漢の大帝国の路から路へ、さすらいの旅をつづけていた。のんびりした行路であった。汪佛は夜は星を眺めるために、昼は蜻蛉をみつめるために、よく足をとめたものだ。
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参考文献
絶世の美女、地中海奇譚、戦国奇譚・・・『美と復讐の精神史』第1巻
https://bit.ly/2zvn02e
絶世の美女、中国奇譚、地中海奇譚、運命と戦う美女・・・『美と復讐の精神史』第2巻
https://bit.ly/2VqAJkT

絶世の美女、憂愁の王妃、強欲な魔女、才色兼備の美女・・・ゾフィア・ドロテア、ガラ、クレオパトラ7世

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クレオパトラとエジプトの王妃・・・生と死の秘密、時の迷宮への旅
https://bit.ly/2jXjM3l
【偉大な王と憂いの妃】アレクサンドロス、クレオパトラ、王妃オリュンピアス、
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎
https://t.co/GqhV2l84wK
ダリ『記憶の固執』、『記憶の固執の崩壊』・・・スペインの荒涼とした大地、記憶の迷路
https://bit.ly/2PtGnyk
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
https://bit.ly/2vikIlL
生きものと共生する、神々、仏陀、人間・・・守護精霊は降臨する
https://bit.ly/34JOIb2
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大久保正雄 著作目録『旅する哲学者 美への旅』
https://t.co/HO0RinYljg
著作目録:大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』https://bit.ly/3mzI8gV
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★「恋におちたシェイクスピア」Shakespeare in love.1998
★「黄金羅針盤」Golden Compass 2007
★サルバドール・ダリ「聖アントニウス」1946

2021年10月26日 (火)

「最澄と天台宗のすべて」2・・・比叡山、嵯峨天皇、慈円、鎌倉仏教、信長、覚恕、天海

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』256回

比叡山は、平安時代から、権力抗争の舞台である。1200年にわたる歴史の記録、秘宝、秘仏の展示である。最澄と法相宗興福寺との対立の記録。第2代天台座主円仁は814年、唐より帰国した、聖観音菩薩立像、毘沙門天、堂宇を建てて安置した。現存する聖観音菩薩は鎌倉時代12世紀。「六種の観音が六道に迷う衆生を救う」という六観音と六道輪廻の思想は、智顗『摩訶止観』による。
【比叡山焼き討ち、覚恕と織田信長と正親町天皇】元亀2年、天台座主覚恕は、織田信長に抵抗し武田信玄のもとに逃れる。天皇と座主は個人的な敵対関係。覚恕は正親町天皇の異母弟である。信長を後援したのは正親町天皇。信長は正親町天皇を経済的に支援。天皇は綸旨を3度出し信長包囲網を解く。
【天台宗、怪僧たち】天台宗には、怪僧がいる。天狗となる良源(912年-985年)、魑魅魍魎の天台座主、覚恕法親王。天海大僧正は、家康、秀忠、家光を補佐、108歳まで生き天海版一切経4000巻出版、延暦寺に天海の鎧がある。
徳川家康による比叡山復興を担当した天海大僧正の座像。
「嵯峨天皇宸筆 光定戒牒、弘仁14年(823)」「最澄筆 尺牘 久隔帖 弘仁4年(813)」「聖観音菩薩立像 鎌倉時代12世紀 延暦寺、横川中堂蔵」、「慈眼大師(天海)坐像、康音作 寛永17年(1640)輪王寺蔵」。
聖観音菩薩の意味は6世紀「六観音」天台智顗『摩訶止観』に遡る*注。

*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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比叡山延暦寺と権力抗争 室町幕府、織田信長
【慈円と藤原定家と親鸞】慈円(1155-1225)は、関白、九条兼実の弟、4度、天台座主になる。九条家は藤原定家の主家、千載和歌集、新古今和歌集、小倉百人一首に収載、『愚管抄』を著す。『徒然草』に「一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえて可愛がった」。反武家勢力を代表する源通親は九条家の競争者近衛家を擁し、建久7(1196)年、兼実打倒の政変に成功。兼実は48歳で政界を去る。
慈円は、異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方、弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に慈円について得度を受ける。
【鎌倉仏教】比叡山延暦寺から、教祖が生まれた。浄土教の源信『往生要集』、浄土宗の法然、一向宗、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、只管打坐の道元『正法眼蔵』、法華宗の日蓮ら、教祖が生まれた。
【室町幕府、比叡山焼き討ち】1435年、第6代将軍足利義教は、延暦寺の僧たちをおびき寄せ斬首、僧たちは根本中堂に立て籠もり義教を非難。失望した僧たちは根本中堂に火を放ち焼身自殺を遂げる。1499年、室町幕府の管領(将軍の補佐役)細川政元によって焼き討ち。1571年、織田信長、延暦寺根本中堂焼かず。
【銀閣寺】室町幕府8代将軍・足利義政は「天皇になろうとした将軍」義満を祖父にもち「万人恐怖」の義教を父にもつ。義政も同じく専制政治を指向していた。時代はそれを許さなかった。足利政権は、もともと政治・軍事・財政の何れにも欠陥があり、彼の優柔不断な性格が、拍車を掛けた。
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【焼討ちの中心人物、明智光秀】光秀の直筆による元亀2年9月2日付『明智光秀書状』「比叡山麓の仰木のことは、ぜひともなでぎり(皆殺し)仕るべく候」焼き討ちが行われる10日前。比叡山周辺の仰木地域(滋賀県大津市)の人々は織田軍に非協力的であった。「皆殺しだ」と光秀が大号令をかけた。
【比叡山延暦寺焼討、織田信長の真実】明智光秀は延暦寺焼討の特殊部隊。「仰木村、なで斬りすべし」光秀。比叡山の通行料を奪うため宇佐山城を築城、穴太衆の野面積みで石垣を組む。比叡山と京都の通路を断つ。延暦寺、瑠璃堂が残る。瑠璃堂と京都への通路を開放。薬師瑠璃如来。
【信長包囲網】戦国時代末期より安土桃山時代にかけて発生した反織田信長連合。信長包囲網、第一次‐第三次包囲網。1570元亀元年(1570年)4月、浅井氏、三好三人衆、荒木氏、一向衆の叛旗。1571元亀2年(1571年)織田信長と足利義昭の対立。武田信玄の死
【醍醐寺三宝院 元亀四(1573)年】織田信長のために真言密教の祈祷、修法を行う。「織田信長黒印状」醍醐寺三宝院における戦勝祈願の修法への礼状を信長より返信。「天下布武」印。武田信玄、死す(1573)。信長包囲網、瓦解。
【織田信長の戦い】反信長包囲網(1570-1580)。第1次包囲網、浅井朝倉、比叡山。第2次包囲網、足利義昭、挙兵。室町幕府滅亡。第3次包囲網、本願寺光佐(顕如)と和睦
【南都北嶺、二つの寺院権力闘争】南都は興福寺を、北嶺は延暦寺を指す。藤原氏の氏寺である興福寺は摂関政治以降勢力を拡大し、東大寺を除く大寺の別当は興福寺僧が独占した。一方、延暦寺は大乗戒壇設置以降南都との間に確執が生まれ、朝廷への強訴を通じて牽制し合った。
【織田信長、安土城、狩野派】この世から消滅した狩野派絵画、安土城。天主閣、6階は儒教、「孔門十哲」「三皇五帝」、5階は仏教、「釈迦十大弟子」「釈迦説法」、3階は花鳥図、「岩の間」「竹の間」「松の間」。2階は道教、「呂洞賓図」「西王母」。天正七年、安土城、天主閣完成。天正十年6月2日、本能寺の変の後、炎上する。『安土日記』『信長公記』
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徳川家康、天海大僧正
【慈眼南光坊天海】108歳で死す。本徳寺「明智光秀像」僧侶になると記述。慈眼寺、光秀が建設。比叡山延暦寺、慈眼堂に、南光坊天海の墓、天海の甲冑あり。天海、家康と面会。東叡山開山慈眼大師縁起によると、1608年に天海が駿府を訪れ、家康と初めて面会をしたのにもかかわらず、二人は旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合っていた。すでに家康65歳、天海72歳。家康はこの出会いをこう評している。「天海僧正は 、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」。この遅すぎた出会いこそが家康の死後に天海が大きく関わる所以でもある。
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*【六観音、天台智顗『摩訶止観』】
六観音は、六道輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという思想から生まれた。地獄道=聖観音、餓鬼道=千手観音、畜生道=馬頭観音、修羅道=十一面観音、人道=准胝観音、天道=如意輪観音という組み合わせである。
六観音名及び七観音名の根拠 天台大師智顗『摩訶止観』
『観音信仰事典』(速水侑/編 戎光祥出版 2000年刊)34~38頁
「第1章「観音信仰」入門 六観音、七観音」の項
「そもそも、六観音信仰は、六世紀に中国の天台大師智顗が『摩訶止観』で展開した説にはじまります。大師は書中で、大悲・大慈・獅子無畏・大光普照・天人丈夫・大梵深遠の六観音を説きました。<中略>しかし、この六観音信仰に対して、真言宗の小野仁海は「天台宗が『摩訶止観』に説いている六観音は、実は従来より真言密教で説いてきた正・千手・馬頭・十一面・准胝・如意輪の仮の姿、変化身である」と唱えはじめました。<中略>これに対して天台宗では、真言密教に対する天台密教(台密)の立場から、聖・千手・馬頭・十一面・不空羂索・如意輪という新たな六観音を説くようになりました。こうして六観音(天台六観音と真言六観音を合わせれば七観音)が結局、密教の観音ばかりになってしまうと、これら七つの観音は、現世の利益に来世の救済も兼ね備えるようになり数多い観音の中でも、貴族から民衆に至るまで、わが国で広く信仰される観音菩薩としてしだいに定着していった」
薬師寺東院堂聖観音像:東院堂の本尊。衣のひだを通して脚が透けて見える技法には、インドのグプタ様式の影響が伺える。
【天台智顗】智顗。538年~597年。六朝・隋に活躍した僧、中国天台宗の事実上の開祖。開皇 11 (591) 年晋王楊広 (隋の皇帝、煬帝) の懇請により王に菩薩戒を授け、王から智者の号を賜わった。のち荊州に玉泉寺を開創して『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』を講義した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★展示作品の一部
★★★重要文化財 聖観音菩薩立像 平安時代・12世紀 滋賀・延暦寺、横川中堂蔵、円仁の時代、作られた。展示会場:九州、京都
★★★国宝 聖徳太子及天台高僧像 十幅のうち 最澄、平安時代・11世紀 兵庫・一乗寺蔵
★★★国宝 光定戒牒、嵯峨天皇宸筆 平安時代・弘仁14年(823) 滋賀・延暦寺蔵
空海とならび称される三筆の一人、嵯峨天皇の気品に満ち溢れた風格の書。光定は最澄の優れた弟子の一人。戒牒とは戒を受けたことを示す公的な証明書、最澄の悲願、大乗戒壇の設立に尽力した光定が、そこで初めて授戒が行われたときに下付された証明書。
★★★国宝 尺牘(久隔帖) 最澄筆 平安時代・弘仁4年(813) 奈良国立博物館蔵 
展示期間:10月12日(火)~10月31日(日) 展示会場:東京
現存する唯一の最澄自筆の手紙(尺牘は手紙や書状)。書き出しに「久隔清音」とあることから「久隔帖」と呼ばれている。弘仁4年(813年)に、最澄が、空海のもとにいた弟子の泰範に宛てて出したもの。空海との交流を物語る、日本史で最も有名な手紙の一つ。
★★★重要文化財 伝教大師(最澄)坐像 鎌倉時代・貞応3年(1224) 滋賀・観音寺蔵[展示会場:東京、九州]
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【空海の経歴】
774年 讃岐国多度郡屏風浦で生まれる。幼名、佐伯真魚。
792年 18歳で長岡京の大学寮に入る。大学での専攻は明経道、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ。
793年 修行僧になる。山林修行。
797年 24歳、『聾瞽指帰』(『三教指帰』)著作。
804年 遣唐使、入唐。
805年 密教第七祖・恵果より伝授され、密教第八祖になる。
806年 帰国。
809年、平城天皇が譲位し、嵯峨天皇が即位。空海は、和泉国槇尾山寺に滞在し、嵯峨天皇の勅許、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺、高雄山寺に入る。
815年 『弁顕密二教論』著作。
弘仁7年(816年)初頭に最澄と訣別する
818年 嵯峨天皇より賜り、高野山金剛峯寺建立。
819年 『即身成仏義』、『声字実相義』、『吽字義』。
823年 嵯峨天皇より東寺を賜る。嵯峨天皇、上皇となる。淳和天皇、即位。
828年 大僧都就任。日本初の民の大学・綜芸種智院創設。
830年 『秘密曼荼羅十住心』および『秘蔵宝鑰』、淳和天皇に上進。
832年 高野山にて隠棲生活に入る。
835年 61歳で入定。奥の院に眠る。
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参考文献
立川武蔵『最澄と空海』講談社1998
「最澄と天台宗のすべて」図録、東京国立博物館2021
武覚超「「最澄と天台宗の歴史」p8-13
皿井舞「伝教大師最澄の革命」p56
皿井舞「最澄自刻の薬師如来像」p71
皿井舞「慈恵大師良源 救済と調伏の力をもつ高僧」p152
土屋貴裕「魔仏一如――中世の天狗の実像」p288
宇代貴文「根本中堂と不滅の法灯」p292
瓜生翠「天海僧正と一切経」p305
皿井舞「最澄と東国」p314
大久保正雄3「空海と嵯峨天皇、空海と最澄、嵯峨天皇と平城上皇」
大久保正雄4、空海『秘密曼荼羅十住心論』
東寺『金剛界曼荼羅』『胎蔵界曼荼羅』西院本・・・知恵と戦いの叙事詩、生命の根源
https://bit.ly/315UPn8
大久保正雄【空海、理念と象徴、密蔵深玄翰墨難載。更仮図画開示不悟】
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」・・・空海、理念と象徴
https://bit.ly/3fyOaYF
「密教彫刻の世界」東京国立博物館・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
https://bit.ly/2WNIoNt
六観音菩薩「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」東京国立博物館、・・・純粋な美しい魂に舞い降りる
https://bit.ly/2C0ZL2f
「最澄と天台宗のすべて」1・・・比叡山延暦寺、最澄と空海
https://bit.ly/2XDvTGt

「最澄と天台宗のすべて」2・・・比叡山、嵯峨天皇、慈円、鎌倉仏教、織田信長、覚恕、天海

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2021年は、伝教大師最澄の1200年の大遠忌にあたります。最澄は平等思想を説いた『法華経』に心惹かれ、この教えを礎とする天台宗を日本でひろめました。最澄が創建した延暦寺は多くの高僧を輩出し、彼らが説いた多様な教えは日本文化に大きな影響を及ぼしてきました。本展では、延暦寺における日本天台宗の開宗から、東叡山寛永寺を創建して太平の世を支えた江戸時代に至るまでの天台宗の歴史をご紹介します。日本各地で守り伝えられてきた貴重な宝物や、『法華経』の説く万民救済の精神をあらわす文化財を、地域的な特色を示しながらご覧いただきます。秘仏をはじめ、天台の名宝が集う貴重な機会です。
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2096#1
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「最澄と天台宗のすべて」東京国立博物館10月12日~11月21日
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2096#1
九州会場(2022年2月8日~3月21日、九州国立博物館)
京都会場(2022年4月12日~5月22日、京都国立博物館)

2021年10月23日 (土)

「最澄と天台宗のすべて」1・・・比叡山延暦寺、最澄と空海

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』255回

10月猛暑の日、秋の森を歩いて博物館に行く。15年ぶりの「最澄と天台宗」展。比叡山の権力抗争の痕跡を観る。最澄の生涯と思想、比叡山と天台宗の歴史的遺産の1200年。比叡山をめぐる人々の証拠物件の展覧会である。
【覚恕と織田信長】正親町天皇の異母弟、天台座主、覚恕は、織田信長に抵抗し武田信玄のもとに逃れる。信長を後援したのは正親町天皇。信長は正親町天皇を経済的に支援していた。
【元三大師、良源】良源.(912年- 985年(延喜12-永観3 )、滋賀県浅井郡の生れ。叡山護持の執念から死後天狗道に堕して住山し、寺門の降伏を企てた。「巻20第8話 良源僧正成霊来観音院伏余慶僧正語 第八」。975年、良源は横川中堂を改造、聖観音像を安置、不動明王を加え三尊像とする。
【天海】天海僧正は、徳川家光に「長寿の秘密は陀羅尼を唱える事」「飲酒せず熟睡」と教え108歳まで生きる。家康、秀隆、家光に仕え、天海版一切経4000巻を残す。天海僧正(1536?~1643)。
【最澄と円仁】最澄は56歳で死す。円仁は45歳で入唐『入唐求法巡礼行記』を著す、71歳で死す。円珍は40歳で入唐、77歳で死す。
【慈円と藤原定家と親鸞】慈円(1155-1225)は、関白、九条兼実の弟、4度、天台座主になる。九条家は藤原定家の主家、千載和歌集、新古今和歌集、小倉百人一首に収載、『愚管抄』を著す。『徒然草』に「一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえて可愛がった」。反武家勢力を代表する源通親は九条家の競争者近衛家を擁し、建久7(1196)年、兼実打倒の政変に成功。兼実は48歳で政界を去る。
慈円は、異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方、弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に慈円について得度を受ける。
【鎌倉仏教】比叡山延暦寺から、教祖が生まれた。浄土教の源信『往生要集』、浄土宗の法然、一向宗、浄土真宗の親鸞、禅宗の道元、法華宗の日蓮ら、教祖が生まれた。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【最澄の生涯、法相宗興福寺との抗争】
近江出身。俗名は三津広野。通称は叡山大師,根本大師。諡号は伝教大師。父は三津首百枝『叡山大師伝』。神護景雲元(767)年-弘仁13(822)年。56歳で死去。
比叡山開創、比叡入山と一乗止観院
神護景雲元(767)年8月18日生まれ。宝亀11年(780年)11月12日に、広野は近江国分寺にて得度を受け沙弥となり最澄と名付けられる。それ以降、近江国師の行表に師事する。12歳で出家。延暦4(785)年最澄、東大寺で受戒。具足戒を受けて程ない延暦4年(785年)7月中旬に比叡山に籠る。比叡山に登り草庵を結ぶ。延暦7(788)年一乗止観院を創建、自刻の薬師如来を祀って不滅の法灯を掲げる。19歳のときから12年間比叡山で修行する。
21歳で創建した一乗止観院が、後に、根本中堂となる。
入唐と天台宗の開宗
802年9月、先に上奏した入唐求法の請願に対し、入唐請益天台法華宗還学生の桓武天皇の勅許が下り、延暦23年(804)7月に訳語僧義真(ぎしん)を伴い肥前(長崎県)田浦(たのうら)から出帆した。空海らと唐にわたり、天台山に行き、天台・密教・禅・戒をまなぶ。延暦24(805)年、帰国。延暦25(806)年日本天台宗を開く。
徳一との論争
徳一が最澄と論争をしていた弘仁8年(817年)頃から弘仁12年(821年)頃に書かれた最澄の著作には「陸奥の仏性抄」(『照権実鏡』)とあり、最澄との間でやりとりされた三一権実諍論のことである。徳一との論争や『依憑(えひょう)天台義集』(813)などにより南都仏教とくに法相宗、興福寺との対立が生じ争った。
大乗戒壇の独立
晩年徳一との教理論争をおこなう一方、大乗戒壇の設立につくした。弘仁13年6月4日死去。56歳。著作に「山家学生式」818「顕戒論」821「守護国界章」など。
最澄が設置をめざした戒壇(円頓戒壇)のことをいう。奈良時代,出家するためには天下の三戒壇とよばれる奈良東大寺,筑紫観世音寺,下野薬師寺のいずれかの戒壇で受戒しなければならなかった。そこでの戒は小乗戒で,菩薩戒授受のための戒壇はなかった。最澄はその不備をつき,天台宗の僧侶は大乗戒である梵網戒をうけるべきとして比叡山に独立の戒壇を設置する勅許を求めた。822年(弘仁13)最澄死後7日目にこれが認められ,以後比叡山僧侶の身分決定の場となる。
国宝とは何か。道心(悟りを求める心)を持つ人を名付けて国宝という。ゆえに古来の哲人は「径1寸の珠10枚は国宝ではない。世の一隅を照らす人が国宝である」と言う。最澄『天台法華宗年分学生式』821
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【最澄の思想】
桓武天皇の勅許で環学僧として遣唐使で入唐求法。最澄は、法華一乗思想、本覚思想(山川草木悉有仏性、一切衆生悉有仏性)、大乗菩薩戒を主張した。法相宗興福寺と年分度者をめぐって争い、法相宗徳一と教理論争、大乗菩薩戒壇を嵯峨天皇に申請した。死後7日に勅許。『山家学生式』818『顕戒論』821『守護国界章』『願文』。【格言】一隅を照らすもの此れ即ち国宝なり(「山家学生式」)

【天台智顗】智顗。538年~597年。六朝・隋に活躍した僧、中国天台宗の事実上の開祖。開皇 11 (591) 年晋王楊広 (隋の皇帝、煬帝) の懇請により王に菩薩戒を授け、王から智者の号を賜わった。のち荊州に玉泉寺を開創して『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』を講義した。
【最澄と桓武天皇】【第50代桓武天皇】平安京を築いた。天武天皇の血統の称徳天皇(女帝)が子供を産まず、急遽、天智天皇の血統から父親の白壁王子が光仁天皇として即位することになった。これは、その息子、桓武天皇への道をつけるためのものだった。桓武天皇は、天武天皇の血すじの地、奈良から、長岡京、平安京へ遷都する。南都から北嶺へ変革する最澄と軌を一にする。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【最澄、空海との出会いと決別】
【最澄、空海から灌頂を受ける】弘仁3年(812年)10月27日には乙訓寺にいた空海を最澄が訪ねた。この際に空海は最澄に伝法することを決めた。神護寺に残る『灌頂記』によれば、最澄は11月15日に金剛界灌頂を、12月14日に胎蔵界灌頂を空海から受けた。
【空海と最澄、第16次遣唐使】延暦23(804)年、第1船、遣唐大使・藤原葛野麿。空海は第1船に乗船。第2船、副使・石川道益(入唐後に没)乗船。最澄は第2船。最澄は、桓武天皇の勅命により遣唐僧、空海は私度僧。他の2船は遭難、沈没。
【空海、波瀾の遣唐船漂流、謎の生涯】24歳で『聾瞽指帰』を書く。57歳で『秘蔵宝鑰』を書く。大学入学18歳から31歳、遣唐使留学僧、入唐まで、大学中退、山林修行、謎の12年間。宝亀5年(774)6月15日生まれる。承和2年(835) 4月22日入定、62才。
【空海、嵯峨天皇、教王護国寺】空海は、嵯峨天皇の勅許を得て、弘仁14(823)年、東寺、教王護国寺を建立し始めた。言葉では伝え難い密教の教えを、視覚的に表現する二十一尊の仏像で立体曼荼羅を構想。12年後入定
【空海、東寺、立体曼荼羅】密教を視覚的に表現する二十一尊の仏像で立体曼荼羅。東寺講堂、最上位の大日如来を中心に四方に4体の如来を配置した五智如来、その右側に金剛波羅蜜多菩薩を中心にした五大菩薩、左側に不動明王を中心にした五大明王、四方に四天王と梵天、帝釈天
空海「風信帖」空海が最澄に送った手紙。平安時代初期(812. 年頃)風信雲書、天より翔臨(しやうりん)す。之を披(ひら)き之を閲(けみ)するに、雲霧を掲(かか)ぐるが如し。兼ねて止観の妙門を恵まる。頂戴供養し、厝(お)く攸(ところ)を知らず。
【空海、『理趣釈経』借覧拒否】最澄は、弘仁4年(813年)11月23日、『理趣経』の注釈書である不空の『理趣釈経』を借覧しようとしたが、空海は断る。空海『答叡山澄法師求理趣釈経書』(『遍照発揮性霊集』)
空海【聖なる者は悪を滅ぼす】【『理趣経』「第三段」】『理趣経』「第三段」の教説に関して不空訳『理趣釈』において三界の衆生とは三毒の煩悩と注釈されているが、当該注釈の方向性は空海にも継承され、彼は「三界の衆生を害することとは三界の無明を断じることに他ならない」
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★展示作品の一部
★★重要文化財 薬師如来立像、平安時代・11世紀  京都・法界寺蔵
京都市の郊外、平等院のある宇治に近い日野の法界寺で、厨子の奥深くに守られてきた平安の秘仏。延暦寺の総本堂、根本中堂に安置される、最澄作の秘仏本尊の薬師如来像に近い姿と考えられており、数多く造られた模刻像の一つと言えます。像内に最澄自作の薬師像を納めていた最澄にゆかりの深い像です。
★★重要文化財 聖観音菩薩立像 平安時代・12世紀 滋賀・延暦寺蔵
展示会場:九州、京都
★★国宝 聖徳太子及天台高僧像 十幅のうち 最澄、平安時代・11世紀 兵庫・一乗寺蔵
[展示期間 10月12日(火)~11月7日(日)]
国宝「聖徳太子及び天台高僧像」は現存最古の最澄の肖像画を含む、インド・中国・日本の天台ゆかりの人物たちを描いた大変貴重な平安絵画です。
10幅すべてが展示されるのは東京会場のみ、11月2日(火)~11月7日(日)の6日間限定で10幅を同時公開します。
10月12日(火)~11月7日(日)=最澄、円仁、龍樹、善無畏
11月2日(火)~11月21日(日)=智顗ちぎ、慧思えし、湛然たんねん、聖徳太子
★★国宝 光定戒牒、嵯峨天皇宸筆 平安時代・弘仁14年(823) 滋賀・延暦寺蔵
空海とならび称される三筆の一人、嵯峨天皇の気品に満ち溢れた風格の書。光定は最澄の優れた弟子の一人です。戒牒(かいちょう)とは戒(かい)を受けたことを示す公的な証明書のことで、最澄の悲願、大乗戒壇の設立に尽力した光定が、そこで初めて授戒が行われたときに下付された証明書です。
★★国宝 尺牘(久隔帖) 最澄筆 平安時代・弘仁4年(813) 奈良国立博物館蔵 
展示期間:10月12日(火)~10月31日(日) 展示会場:東京
現存する唯一の最澄自筆の手紙(尺牘は手紙や書状)。書き出しに「久隔清音」とあることから「久隔帖」と呼ばれている。弘仁4年(813年)に、最澄が、空海のもとにいた弟子の泰範たいはんに宛てて出したもの。空海との交流を物語る、日本史で最も有名な手紙の一つ。
★★重要文化財 伝教大師(最澄)坐像 鎌倉時代・貞応3年(1224) 滋賀・観音寺蔵[展示会場:東京、九州]

重要文化財 不動明王坐像、平安時代・10世紀 滋賀・伊崎寺蔵

重要文化財 薬師如来坐像、平安時代・12世紀 岐阜・願興寺(蟹薬師)蔵
岐阜県可児郡御嵩町の古刹、願興寺の秘仏本尊。東山道の交通の要所に位置し、厚い信仰を集めてきました。最澄の東国布教の際、この地で自刻の薬師如来像を安置したのが寺の始まりとされています。平安時代後期の優品で、日光・月光菩薩立像、2メートルを超える四天王立像(いずれも本展不出品)もまた、かつての寺勢をうかがわせます。

重要文化財 阿弥陀如来立像、平安時代・10世紀 京都・真正極楽寺(真如堂)蔵
[展示期間 10月19日(火)~11月3日(水・祝)]
紅葉の名所として知られる京都の真正極楽寺(真如堂)の秘仏本尊。年に一度、お十夜という念仏法要が行われる11月5日~11月15日に厨子の扉が開かれます。最澄の高弟、円仁の作という伝承があり、優しい顔立ちをした平安時代中期の名品で、阿弥陀の立像として造られたことが確かなもっとも古い像です。

慈眼大師天海(1536?~1643)
元亀2年(1571)、比叡山は織田信長による焼き討ちにあい壊滅的な被害を受けますが、豊臣秀吉や徳川将軍家によって復興されました。復興に重要な役割を果たしたのが慈眼大師天海(1536?~1643)です。天海は、徳川家康に仕え、没後東照大権現として神となった家康を祀る東照宮や輪王寺を日光山に整備します。一方、江戸には「東の比叡山」東叡山寛永寺を創建し、関東での天台宗発展の基礎を築きました。本章では、江戸文化の一つとして大きな存在感を放つ、徳川将軍家の庇護が生んだ華麗な江戸天台の遺品をご紹介します。
★慈眼大師縁起絵巻、絵=住吉具慶筆・詞書=胤海筆 江戸時代・延宝8年(1680)東京・寛永寺蔵
[中巻展示期間 10月26日(火)~11月7日(日)]
寛永寺を創建した慈眼大師天海(じげんだいしてんかい)の生涯を描いた絵巻物。下巻に詞書を記した弟子の胤海(いんかい)と、絵巻を描いた住吉具慶(すみよしぐけい)による奥書があり、延宝7年(1679)から翌年にかけて制作されたことがわかります。華麗な彩色と愛らしい人物描写に特徴があり、江戸幕府御用絵師を務めた具慶の基準作として重要な作品です。写真は、寛永寺境内を描いた場面です。
★重要文化財 慈眼大師(天海)坐像、康音作 江戸時代・寛永17年(1640)  栃木・輪王寺蔵
慈眼大師天海の生前に造られた肖像(寿像)。天海は、徳川家康、秀忠、家光の絶大な帰依を受け、江戸城の鬼門に東叡山寛永寺を創建し、比叡山延暦寺の復興造営に尽力するなど八面六臂の活躍を見せました。寿像ならではの写実性に富み、老いてもなお威厳をまとった迫力のある姿に、天海の力強い生きざまをうかがわせます。
★岡山県明王寺「聖観音菩薩立像」(平安前期)
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参考文献
立川武蔵『最澄と空海』講談社1998
「最澄と天台宗のすべて」図録、東京国立博物館2021
武覚超「「最澄と天台宗の歴史」p8-13
皿井舞「伝教大師最澄の革命」p56
皿井舞「最澄自刻の薬師如来像」p71
皿井舞「慈恵大師良源 救済と調伏の力をもつ高僧」p152
土屋貴裕「魔仏一如――中世の天狗の実像」p288
宇代貴文「根本中堂と不滅の法灯」p292
瓜生翠「天海僧正と一切経」p305
皿井舞「最澄と東国」p314
大久保正雄3「空海と嵯峨天皇、空海と最澄、嵯峨天皇と平城上皇」
大久保正雄4、空海『秘密曼荼羅十住心論』
東寺『金剛界曼荼羅』『胎蔵界曼荼羅』西院本・・・知恵と戦いの叙事詩、生命の根源
https://bit.ly/315UPn8
大久保正雄【空海、理念と象徴、密蔵深玄翰墨難載。更仮図画開示不悟】
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」・・・空海、理念と象徴
https://bit.ly/3fyOaYF
「密教彫刻の世界」東京国立博物館・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
https://bit.ly/2WNIoNt
「最澄と天台宗のすべて」1・・・比叡山延暦寺、最澄と空海
https://bit.ly/2XDvTGt

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「最澄と天台宗のすべて」東京国立博物館10月12日~11月21日
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2096#1
九州会場(2022年2月8日~3月21日、九州国立博物館)
京都会場(2022年4月12日~5月22日、京都国立博物館)

2021年10月 4日 (月)

ポーラ美術館コレクション展 甘美なるフランス ・・・印象派からエコール・ド・パリ

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』254回

【藝術家と運命との戦い】画家は、普通の幸せを手に入れるのは幻想である。天才たちでも不可能。画家は悲惨な人生と引き換えに傑作を生みだす。富豪画家は、ルノワールのみであり、アリーヌと結婚後、世界的成功を収めた。リュウーマチの苦痛に苦しみ、薔薇色の女たちを描き、亡き妻の思い出に生きる。78歳で死す。クロード・モネは、1875年7月、カミーユは不治の病結核にかかり、32歳の若さで死ぬ。カミーユの死後、女は描かなかった。ジヴェルニーの庭に籠り、晩年の風景画を描く。「睡蓮」連作は生前、評価されず。ジヴェルニーにて86歳で死す。
マネ、セザンヌ、親が銀行家で金持ち、だが不幸だった。ゴッホ、ゴーギャンは、破滅型。ジョルジュ・スーラは、早熟な天才、点描画法を生み出したが夭折。秘密主義で死因も不明。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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19世紀 ロマン主義、印象派からエコール・ド・パリへ
【ロマン主義】19世紀、ヨーロッパ美術は、ロマン主義、詩人ウィリアム・ブレイク、ジョセフ・ターナーから始まる。ターナーはクロード・ロランの影響を受けた風景画で一世を風靡した。風景画は、コンスタブル、ギュスターヴ・クールベの写実主義へと展開した。ロマン主義は、反古典主義である、ラファエロ前派、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ラファエロ前派兄弟団を生み出した。ターナーの曖昧模糊とした風景画は、印象派モネに影響を及ぼす。
【印象派】第1回印象派展、1874年4月15日、パリ、オペラ座にほど近いカピュシーヌ大通り35番地で開催。モネ「印象、日の出」1873、ルノワール、カミーユ・ピサロ、印象派はパリの都市の憂鬱を癒す田園の風景を描いた。1886年パリにやってきたゴッホは1888年、アルルに旅立つ。1890年37歳で死ぬまで、「種まく人」、「糸杉」、「カラスの群れ飛ぶ麦畑」、最後の作品群を描く。
【象徴派】印象派のリアリズムに背を向け、ギュスターヴ・モローは象徴派の藝術を構築する(「出現」(L'Apparition)1876頃)。象徴派のルドンは、49歳で色彩画に到達する(「キュクロープス」1914)。
【シュルレアリスム】パリのピエール画廊において1925年に開催された「第1回シュルレアリスム」展。マックス・エルンスト、ハンス・アルプ、マン・レイ、ジョルジュ・デ・キリコ、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ、パウル・クレー、パブロ・ピカソ、アンドレ・ブルトンによる「シュルレアリスム宣言」(1924)に端を発し、30年代まで続いた芸術運動である。
【エコール・ド・パリ】1928年、パリの画廊で開催された「エコール・ド・パリ展」。パリの異邦人、エコール・ド・パリの画家たちは、藝術思潮ではなく、シャガール、キスリング、モンパルナス(詩人の山)につくられた共同アトリエ「ラ・リューシュ(蜂の巣)」に集った画家たちである。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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【ファムファタール、運命の女】ギュスターヴ・モロー、クリムト、ロセッティ、ラファエロ前派、アルフォンス・ミュシャ、象徴派、幻想の藝術家たち。印象派の時代に反旗を翻した、ロマン主義、象徴派、幻想派の画家たちは運命の女を探求した。
オディロン・ルドンは、20世紀のシュルレアリスムを予言する象徴派である。《神秘的な対話》(1896)は、薔薇色の雲が飛ぶ蒼穹の古代神殿で美女が対話する。魂は果てしなく蒼穹を飛翔する。眼は奇妙な気球のように無限に向かう。ルドンは、ジョルジョ・デ・キリコ、サルヴァドール・ダリ、ポール・デルヴォー、超現実主義の先駆者である。
【アンチリアリズム】19世紀はリアリズムの世紀であり、20世紀はアンチリアリズムの世紀である。(奥泉光『漱石の孤独』)。夏目漱石は1900年、留学。『失われた時を求めて』『フィネガンズヴェイク』の誕生を目撃。『トリストラム・シャンディ』を研究した。リアリズムとアンチリアリズムのその境界に、印象派と幻想派、象徴派の藝術家が活躍した。ロマン主義の苦悶の時代である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【ロマン主義】私は私の敵に腹を立てた 私は黙っていた 私の怒りはつのった そして私は それに恐怖の水をかけ 夜も昼も 私の涙をそそいだそして私は それを微笑の陽にあて 口あたりのよい欺瞞の肥料で育てた。ウィリアム・ブレイク「毒のある木」『経験の歌』
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展示作品の一部
ピエール・オーギュスト・ルノワール《レースの帽子の少女》、1891年、油彩/カンヴァス
アンリ・マティス 《室内:二人の音楽家》 1923年油彩/カンヴァス
ラウル・デュフィ 《パリ》1937年 油彩/カンヴァス
クロード・モネ 《散歩》 1875年 油彩/カンヴァス
クロード・モネ 《サン=ラザール駅の線路》 1877年 油彩/カンヴァス
クロード・モネ《睡蓮》、1907年、油彩/カンヴァス
フィンセント・ファン・ゴッホ《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋 》、1888年、油彩/カンヴァス
ポール・セザンヌ《プロヴァンスの風景》、1879-1882年、油彩/カンヴァス
キスリング《睡蓮》、1929年、
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★参考文献
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
https://bit.ly/2W3o6RF
ルノワール『イレーヌ』・・・非情な運命が襲いかかる、波瀾に立ち向かう
https://bit.ly/2ZlgdIp
「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」・・・夢を集める藝術家、パリの館の神秘家。幻の美女を求めて
https://bit.ly/2v5uxlY
オディロン・ルドン 夢の起源・・・「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」
https://bit.ly/3DlvCr9
藝術と運命との戦い・・・ジョルジュ・スーラ
https://bit.ly/3EyiuQL
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女・・・デ・キリコ、ダリ、ポール・デルヴォー
https://bit.ly/2vikIlL
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
https://bit.ly/3BmmdyZ
ポーラ美術館コレクション展 甘美なるフランス ・・・印象派からエコール・ド・パリ
https://bit.ly/3B9SF7l
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フランス絵画の巨匠28名が一堂集結!
「甘美なるフランス(ラ・ドゥース・フランス)」とは、美しく、穏やかで、稔り豊かなフランスとその文化を賛美するため、古くから親しまれてきた表現です。19世紀後半に出現した印象派の画家たちは、日常生活や余暇の愉しみなど、あるがままのフランスを画題とし、新たな「甘美なるフランス」の世界を描き出しました。その後20世紀のピカソら外国出身の画家についても、作品から伝わってくるのは、彼らの祖国と共にパリのエスプリであり、パリで展開していた芸術活動のまれにみる豊かさです。
本展は「女性像」「パリ」「旅」の3つをキーワードに、ポーラ美術館(箱根・仙石原)のコレクションから印象派~エコール・ド・パリまでの時代にフランスで活躍した、人気画家の絵画74点を厳選して展示。
本展では、ポーラ美術館のコレクションより印象派からエコール・ド・パリの時代にフランスで活躍した人気画家の絵画74点を厳選し、当時のパリジェンヌたちが愛用したアール・ヌーヴォーとアール・デコの化粧道具12件と併せてご紹介します。Bunkamuraザ・ミュージアムでは2006年に開催し大好評を博した『渋谷で出会う ポーラ美術館の印象派コレクション』展より15年ぶり、2回目の開催となります。
時代や様式を超えて受け継がれる「甘美なるフランス」の美意識をぜひご堪能ください。
https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/21_pola
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「ポーラ美術館コレクション展 甘美なるフランス」Bnnkamuraザ・ミュージアム
11月15日(月)~11月23日(火・祝)

2021年9月22日 (水)

ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第253回

金木犀の香り漂い、銀杏の実が降り積もる森、トイプードルを散歩させる婦人が彷徨する森、初秋の森を歩いて、美術館に行く。
【ヘレーネは何故ゴッホの絵画を収集したのか】ヘレーネ・クレラー=ミュラーは、ゴッホの藝術に、精神性、魂の叫びを見出し、共感した。神学校に入り牧師になろうとしたが挫折したゴッホ、ヘレーネはキリスト教に馴染めず、ゴッホの魂の真実に響きあい共鳴、ゴッホ作品、油彩画90点、素描・版画180点、計270点を収集した。ゴッホ作品最大の州主家である。
【破天荒な無頼放浪派】ゴッホは、破天荒な無頼放浪派であり、官僚事務官のベラスケス、職人型フェルメールとは雲泥の差がある。
【不幸な人生】
ゴッホは、人間関係を構築できない、孤立を極めた。家族と社会との軋轢に苦悩した。
フィンセント・ヴァン・ゴッホは、1853年3月30日、フロート・ズンデルト村に生まれた。祖父と父は牧師。男3人、女3人の6人兄弟の事実上の長男。1869年(16歳)美術商グーピル商会に就職するが解雇。1876年(23歳)新聞広告で知った英国の小学校教師の職を得て、仏語、独語を教える。ロンドン近郊の貧民街の様子に衝撃を受ける。1878年(25歳)ブリュッセルの伝道師養成学校に入る。79年、半年間の期限付き、伝道師になるが解任。1885年(32歳)3月、父が脳卒中で急死。父子は最後まで理解し合えず。
27歳、画家になる決意をするが作品は売れず、弟テオだけが彼を援助した。売れた絵は生涯1枚だけ。ゴッホは、ゴーガンに剃刀をもって襲いかかる。アルルにて耳切り事件、オーベール・シュル・オワーズにて拳銃自殺、2日後37歳で死す。油絵約850点を残す。4か月後、弟テオ、死す。宮澤賢治がゴッホ『糸杉』を愛好した『春と修羅』。ゴッホは、人間関係を構築できず苦悩した。
【画家生活10年】ゴッホは、10年間で、2000枚のデッサン、850枚の絵画を描いた。ゴッホが描かなかった絵画がある、それは何故か。
【ゴッホの謎】何故、ゴッホは、画廊勤務、伝道師を辞めたのか。何故、ゴッホは、ゴーガンに剃刀をもって襲いかかり、アルルにて耳切り事件、拳銃自殺したのか。
【藝術家、思想家と運命との戦い】思想と藝術を生みだすのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、魔術である。敵との闘争における武器である。思想家は人生の戦いにどう挑み、逆襲するのか。美のイデアのための戦いである。思想と藝術は悩める人の魂を癒す音楽である。醜悪な敵との正義の戦い。思想は悲しみと苦しみから生まれる。
【レオナルドが描いて、ゴッホが描かなかったテーマ】ゴッホが描かなかったテーマは何か。レオナルド、ボッティチェリ、ラファエロ、ティツィアーノ、ジョルジョーネ、ミケランジェロ、ブロンズィーノ、巨匠はヴィーナスを描いた。ルノワールは、こればかり描いた。
【印象派画家たち、絶望的人生】印象派の画家は、ほとんどゴッホのように絶望的人生を生きた。画家として成功した富豪画家がいる。
【魂の叫び】美しい心は美しい言葉となる。心は言葉になり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は性格となり、性格は運命となる。運命に歯向かい、逆境と戦う、美麗な王妃は、残虐王に幽閉され、美を探求する王子は、残虐な王に虐待される。
【運命との戦い、美の女神】藝術家、思想家は、運命と戦う。邪知暴虐と戦い、この世の闇の彼方に美を求める。虚無の神殿にて、美の女神へ供物を捧げる。美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。美しい夕暮れ。美しい魂に、美の女神が舞い降りる。美しい守護霊が救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなす。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【ゴッホの人と藝術】
ゴッホ、画家活動10年、27歳から37歳、1880年から1890年まで。
【ゴッホ、ハーグ派、灰色派】ハーグ時代、ハーグ派、灰色派、第二のレンブラント、ヨゼフ・イスラエルス「貧しい人々の暮らし」、バルビゾン派、ミレイ「種をまく人」(1850)を尊敬、影響を受ける。ゴッホの師、アントン・マウフェ「雪の中の羊飼いと羊の群れ」。ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」1885。
【パリ】1886年、パリに行く。パリ以後、「自画像」を40枚描く。「パリの屋根」1886。印象派の父、カミーユ・ピサロに会う。浮世絵の国日本に憧れアルルへ旅立つ。
【ゴッホ、アルルへ】1888(35歳)、ゴッホ、35歳でアルルに移住する。10月、「黄色い家」でのゴーガンとの共同生活が始まる。1888年12月、(35歳)「耳切り事件」、ゴーガンは2か月でアルルを去る。ゴッホ「麦畑」アルル1888。「種をまく人」(1888)3枚(クレラー・ミュラー、ファン・ゴッホ美術館、「日没を背に種をまく人」ビュールレ・コレクション)。「ひまわり」(1888)7枚。描く。「ローヌ川の星月夜」1888。「アルルの跳ね橋」1988。
【ゴッホ、サン・レミ時代】独自の境地に到達する、ゴッホ「糸杉」サン・レミ1889年6月(メトロポリタン美術館)。ゴッホ「薔薇」サン・レミ。
【オーベール時代】ゴッホ最後の2か月。ゴッホ「カラスの群れ飛ぶ麦畑」オーベール・シュル・オワーズ1890。ゴッホ「星月夜」オーベール・シュル・オワーズ。
【ゴッホ、最後の境地】ゴッホ「糸杉」サン・レミ1889。ゴッホ「薔薇」サン・レミ。オーベール・シュル・オワーズ時代、ゴッホ最後の2か月。ゴッホ「カラスの群れ飛ぶ麦畑」オーベール・シュル・オワーズ1890。「糸杉と星のある道」1890、ゴッホ「星月夜」オーベール・シュル・オワーズ。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
「種をまく人」(1888)クレラー・ミュラー美術館
「糸杉と星のある道」≪夜のプロヴァンスの田舎道≫オーベール・シュル・オワーズ1890年5月12-15日頃、クレラー・ミュラー美術館
「黄色い家」(1888)ファン・ゴッホ美術館
「ジャガイモを食べる人々」版画1885クレラー・ミュラー美術館
「悲しむ老人」『永遠の門にて』1890クレラー・ミュラー美術館
ジョルジュ・スーラ「ポール・アン・ベッソンの日曜日」1888クレラー・ミュラー美術館
ルドン「キュクロープス」1914。クレラー・ミュラー美術館。象徴派、花と目の画家。謎の人生。謎のドムシー伯爵と交流。ルドンは、なぜ50歳で色彩画を描き始めたのか。
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参考文献
ゴッホ、上野の森美術館・・・ハーグ派、灰色派から印象派、糸杉への道
https://bit.ly/3hySZ7S
「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」東京都美術館
http://bit.ly/2zluV3g
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
印象派を超えて―点描の画家たち ゴッホ、スーラからモンドリアンまで・・・枯葉舞う秋の夕暮れ
https://bit.ly/2Mwg63Z
孤高の思想家と藝術家の苦悩、孫崎享×大久保正雄『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84
「没後120年 ゴッホ展 こうして私はゴッホになった」国立新美術館2010
https://bit.ly/3Cf9rCk
「ゴッホ展 孤高の画家の原風景」東京国立近代美術館2005年3月23日~5月22日
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
https://bit.ly/2W3o6RF
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六道輪廻と観音菩薩「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」東京国立博物館・・・純粋な美しい魂
https://bit.ly/2C0ZL2f
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大久保正雄『藝術家と運命との戦い、運命の女』
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
https://bit.ly/2uUs3pu
藝術と運命との戦い・・・ジョルジュ・スーラ
https://bit.ly/3EyiuQL
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女・・・デ・キリコ、ダリ、ポール・デルヴォー
https://bit.ly/2vikIlL
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フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)の芸術に魅了され、その世界最大の個人収集家となったヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869-1939)。ヘレーネは、画家がまだ評価の途上にあった1908年からおよそ20年で、鉄鉱業と海運業で財をなした夫アントンとともに90点を超える油彩画と約180点の素描・版画を収集しました。ファン・ゴッホの芸術に深い精神性を見出したヘレーネは、その感動を多くの人々と分かち合うべく、生涯にわたり美術館の設立に情熱を注ぎました。
本展では、クレラー=ミュラー美術館からファン・ゴッホの絵画28点と素描・版画20点を展示します。また、ミレー、ルノワール、スーラ、ルドン、モンドリアンらの絵画20点もあわせて展示し、ファン・ゴッホ作品を軸に近代絵画の展開をたどる、ヘレーネの類まれなコレクションをご紹介します。
さらに、ファン・ゴッホ美術館から《黄色い家(通り)》を含む4点を展示し、20世紀初頭からファン・ゴッホの人気と評価が飛躍的に高まっていく背景にも注目します。
1. ヘレーネのファン・ゴッホ・コレクション
ヘレーネのコレクションから、糸杉の傑作《夜のプロヴァンスの田舎道》や《種まく人》をはじめ、選りすぐりのファン・ゴッホの絵画・素描・版画、計48点をご紹介します。
2. ファン・ゴッホの画業を辿る
ヘレーネは早くから美術館の設立を考えたため、質の高い作品を選び、初期から晩年までの画業が辿れるよう体系的に収集しました。本展でも画業の初期の素描から最晩年の絵画までをお楽しみいただけます。
3. 《黄色い家(通り)》
ヘレーネのコレクションに加え、ファン・ゴッホの没後、弟テオ、妻ヨー、そしてその息子フィンセント・ウィレムへと引き継がれたファン・ゴッホ家のコレクションから、《黄色い家(通り)》を含む4点の絵画も特別に出品されます。
https://www.tobikan.jp/exhibition/2021_vangogh.html
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ゴッホ展――響きあう魂 ヘレーネとフィンセント
東京都美術館、2021年9/18~12/12
福岡市美術館、2021年12月23日(木)から2022年2月13日(日)まで
名古屋市美術館、2022年2月23日(水)から4月10日(日)まで

2021年8月24日 (火)

古代の偉大な思想家、エンペドクレス・・・古代ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、はなぜ失われたのか

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第252回

【理念を追求する精神】理念を探求する人は、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。
古代ギリシアの理想はなぜ失われたのか。古代ギリシアの徳、知恵、勇気、節制、正義はなぜ失われたのか。
【古代の偉大な思想家、エンペドクレス】古代の哲学者、医者、詩人、政治家。アクラガス出身。ピタゴラス学派に学びパルメニデスの教えを受けた。自由精神を重んじ、権力に屈しなかった。金冠を頭に戴き、紫色の衣に金のベルトを巻いて、デルポイの花冠を携えて諸都市を巡り歩いた。紀元前430年死す。
エンペドクレスは、パルメニデスの存在論とヘラクレイトスの生成消滅論を融合した。万物の四つの根(リゾーマタ)、4つの元素、火、水、空気、土、4つの根の愛と憎による離合集散から宇宙は生成消滅する。愛の伸長期、消滅期、憎の伸長期、消滅期によって生成消滅する。宇宙円環と魂の円環が調和する。詩篇「自然について」と「カタルモイ」を書いた。地上に堕落したダイモーンが、神々のアイテールに帰還するドラマである。
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【理念を追求する精神】理念を探求する人、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
理念を探求する精神は、邪知暴虐と対峙し、悪鬼と戦う。価値あることを為すには、犠牲と苦労と忍耐が必要である。
【理念を追求する精神】空海は理念を探求して旅した。空海の24歳の苦悩は『聾瞽指帰』に刻まれている。空海、ロレンツォ・デ・メディチ、プラトン、玄奘三蔵、李白、王羲之、嵯峨天皇、ソクラテス、理念に向かって、旅した人。理念を追求する人は、この世の闇の彼方に美を求める。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【アグリジェント、神殿の谷】コンコルディア神殿が聳える。最も完璧な神殿。古代ギリシアの詩人ピンダロスが「人の造りし最も美しき都市」と謳った都市。神殿の谷は、稜線に20の神殿が聳える。丘に神殿遺跡がそこここに残る古代都市遺産群を廻る、広大な地。憧れの古代都市。哲学者エンペドクレスが、生まれた地。
アクラガスは、ギリシア人の植民都市、前 580年頃ゲラの市民によって建設され、前6~5世紀僭主ファラリスやテロンのもとに繁栄した、アクロポリスの丘の上のアルカイック期神殿群の遺跡はこの時期に属し、180年栄えた。紀元前406年、カルタゴに滅ぼされた。カルタゴ軍が、シケリア西部のカルタゴ殖民都市に対する攻撃の報復として、【アクラガス包囲】ドーリア人都市であるアクラガス(アグリジェント)を包囲した。
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【時間論】3つの世界観の時間論。時間には、回帰的時間と終末観的時間と進化的時間がある。(渡辺慧『時』第3章、時間の起源と機能)(回帰的時間は、エンペドクレス、ニーチェ『ツァラトゥストラ』。終末観的時間はキリスト教。進化的時間は、ベルクソン『創造的進化』)1974、初刊1948年。*エンペドクレスの宇宙円環(Cosmic Cycle)、ヘラクレイトスの回帰的宇宙、ニーチェの永劫回帰(Ewig Wiederkehren)、ピュタゴラスの輪廻転生。
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【トロイ戦争】『キュプリア』によれば,ガイアは、増えすぎた人間の重みに耐えかね、しかも人間には神 を畏敬する心がまったくなかったため, ゼウスにこの重荷.を軽減してくれるようにと願い出た。ゼウスは同情してまずテーバイ戦争を起こし多数の人間を滅ぼした。
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【哲人王、国家の姿】魂の徳を探求しなければならない。知恵、勇気、節制、正義。魂の3部分の調和。魂の徳を備える人間。知恵を探求する者、善のイデアを観るもののみが王にならねばならない。『国家』
【古代ギリシアの理想はなぜ失われたのか】古代ギリシアの徳、知恵、勇気、節制、正義はなぜ失われたのか。
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★参考文献
鈴木幹也『エンペドクレス研究』1985
フリードリヒ・ニーチェ『プラトン対話編研究序説』
旅する思想家、孔子、王羲之、空海・・・『戦う知識人の精神史』 
https://bit.ly/3mlXeXR
「旅する哲学者 美への旅」第69回 空海の旅 旅する思想家
空海の旅 旅する思想家、美への旅
https://t.co/HPPpp3e5iL
大久保正雄『地中海紀行』第44回哲学者の魂、ソクラテスの死2
旅する哲学者、ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り
https://bit.ly/386Vbyl
大久保正雄『地中海紀行』第43回哲学者の魂 ソクラテスの死1
哲学者の魂 ソクラテスの死
https://bit.ly/3j2A3jc
大久保正雄『地中海紀行』第25回
旅する哲学者 ピタゴラスの旅 プラトンの旅
https://t.co/1QDmeBNsBY
大久保正雄『地中海紀行』第24回
旅する哲学者、エーゲ海の瞑想 ヘラクレイトスの言葉
https://t.co/T1Ec9npIoJ
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無我説と輪廻転生、仏教の根本的矛盾・・・識體の転変、種子薫習。名言種子、我執種子、有支種子
https://bit.ly/2U9rO6s
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、転識得智、仏陀への旅
https://t.co/MIXigqe3xH
空海『即身成仏義』、大日如来の知恵 五智如来の知恵
https://bit.ly/2O8YtbU
「密教彫刻の世界」東京国立博物館・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
https://bit.ly/2WNIoNt
古代の偉大な思想家、エンペドクレス・・・古代ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、はなぜ失われたのか
https://bit.ly/3sIf3RW
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★★
神殿の谷、コンコルディア神殿
Dolce&Gabbana Alta Moda, Valley of the Temples, July 2019
https://www.youtube.com/watch?v=FW0DSGxs8WA

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